「姉さん、夜食の準備が――……」
物音のしない幻月の私室。
ノックの後にも静まり返ったままなのを訝しんだ夢月は、扉を押し開け、光景に閉口した。
「あら夢月。もうそんな時間? やぁねえ没頭しちゃった」
落とされた明度の中に、背翼を畳んだ姿が身動ぎしてみせる。
恥ずかしげに頭を掻いてみせる姿――姉の幻月は、あられもなく衣服をはだけさせ、剥き出した肩先から艶かしい肌色を反射している。彼女が膝立ちになって跨っている下には、ぴくりとも動かない人の形があった。
立ち込める臭気は淫蕩で、どこか甘いようで酸いものも含んでいる。ベッドで繰り広げられるお楽しみの最中はとっくに終わったのだろうに、どこか不吉な臭いは未だ部屋の隅々にまで停滞している。
極力鼻で呼吸しないようにして、それでも一つのため息を吐いた。
「……で。もう、食べに来れるの?」
「そうだね。ちょうどこっちも終わっちゃったし。汚れを落としたらすぐに行くよ」
まるで自分の意思で遂げてないような言い様に、夢月はもう一度、幻月が退いた下にいた――残骸を、見た。
閉じられない口はもうそんな些細な微力も残ってないのか。彫像のように顔の形を変えない表情は、抜け殻と仇名するにも生温い。
室内の少ない光量を体の至る所からぬらつかせて反射しているのは生命の名残か。時たまヒクヒクと蠢くと、栓が壊されてしまったかのごとくまだ外に放出している。
「ちゃんと加減したんだけどねー。まだまだ不勉強みたい」
何気ない声の調子は純粋に後悔しているようで、それでも徹底してある物が抜け落ちている。
それには指摘せず、腕に下げてきたタオルを放って寄越しやった。そんな心遣いに受け取った幻月は嬉しそうに綻んでみせる。きっと、この表情を見ることは、そこの残骸には叶うべくもない。幻月の加減が功を奏して、その末に気に入られるようなことでもあれば、分かち合うことも出来たかもしれないだろうに。
「姉さんは――きっと。そんな手心を込めようなんてことは、無理なのよ」
惨状を前に、夢月の声音もどこか諦念めいて響く。
彼女自身、違うなこう言いたいのではないな、とどこかズレを感じていたものの、結局言い直さずにいた。
「そうかもねぇ。今はこんなだから、もっともなことだわ」
濡れた布が気持ちいいと言うように顔を撫でまわし首を拭いて、幻月は猫目にして吐息している。
「けれどさ、いつかこの行き詰まりを解消して、私にもっと慈しむことが出来るようになったのなら」
その時は。
片腕の肘を抱えて立ち尽くす夢月を視界に収めて、幻月はにこりと微笑む。
「夢月にも、喜んで、祝ってほしいな」
私の成長を、と。
――なんて、恐ろしいほどに無垢なんだろう。
ぶるりと身震いすることを隠して、夢月は、その成長に贖う土台達の数を悼む。
「……姉さんが祝えと言うのなら、祝いましょう」
是非もない。眇められた眼光はそう物語る。
話はついた、と室内に踏み込み、幻月が身を清めに行く間に後始末をしようとする。
「着替えは置いてあるから、そのまま行ってきて」
いい、と言い終えるか否か。空々しい程に冷たい風が息吹き、夢月のうなじを撫でてくすぐる。ベッドへ身を乗り出してめちゃくちゃになった有り様へ付けようとした手が、後ろから伸びてきた手に指を組むようにして阻まれた。
「その子は壊れちゃったよね。仕方ないけれど」
仕方がない。噛み含める言い方に、夢月の緊張が後頭部に募る。
「だけどね、そんなのとは違ってさ、私。ただ一人、どんな扱いをしても壊れない子を、知ってるんだけどなぁ……?」
心臓へじわじわと氷柱を当てて力を込めていくような、言いようのない圧迫感。
これだ。
これに、目の前のどんがらは息をしていた頃に晒されて、人格も肉も根こそぎにされたのだろう。それはそうだ。こんな匂い立つ醜い無邪気さに嬲られて息をしている生物が存在していようものなら、よほど非摂理的だ。――それこそ、悪魔のような、幻月と同等の存在でなければ。
荷重を後ろへ、反った身を正す反動で向き直り、覆いかかる姉の胸を押す。夢月はいとも容易く、絶対的な拘束から距離を開ける。
そうされてもにこにこと指同士を繋いだまま、待ち望むようにちょこんと首を傾げ、幻月は楽しげに体を揺らしている。どんな動きでも。だとしても、だろうが。その全ては掌で愛でる内にしか収まらないと言わんばかり。
つまらなさそうに息を吐き捨て、夢月は一歩を詰めるとかじりつくように、唇を塞いだ。味わうのでも堪能するのでもなく、すぐさま離れて。
「酷い味ね」
袖口で拭う様子に反して、夢月自身もどこか、楽しんでいた。思いついた愉快な口上を述べようとする程には。
「壊れない相手はいるかも知れないけれど。でも、そんなことじゃいつまで経っても――女の子とは、仲良くなれないわよ?」
空間を満たす雰囲気にそぐわない、この上なく平和もいい所な。まるで戯けた文句を言って犬歯を剥き出しに。
爛れたように、嗤う。
幻月はきょとんと、それこそ魂を抜かれたとでも言わん顔をして、やがて、「あは」と口元が崩れ、ついでとろけるように目尻を落とし、決壊しきった哄笑を喉から刻みだした。
「――くっは、ふふふ。あーーもう。そうねぇ、うん。一理ある」
だらしなく垂れた口元の涎を舐めて、ほんの少し熱っぽい吐息をしてみせる。目に見えて、それはもう、昂ったシルシだった。妹の言葉。総身に漲る欲望を燃え上がらせる口説き文句に晒されて。陶然と震える体を片腕で抱いて悦んでいる。
その昂ぶりもひとしきり堪能したのか、しっとり繋がっていた手指を解き、踊るような身振りで体を離した幻月は、戸口の前で見返ってきた。
腰に手を当て、人差し指と小指だけを立てた手つきを肩越しに掲げている。
なんだそのポーズ、と怪訝に夢月は見る。
「お風呂。覗いちゃだめよ?」
……何を悲しくてそんなこと。
よほど言おうか迷った夢月を置き、とことこと小走りな足音を遠のかせ、幻月はあっさり場を残して行ってしまった。
ふぅ、と零された吐息。一仕事終えた感慨が篭っているのは明らかだった。手元にはいつの間にか、渡したはずの濡れタオルが握らされている。
「……ねえ? ほんと。どーしようもない人」
共に置き去りにされたもう一人に向く。
壊れた玩具は玩具のまま、誰も修理してくれやしない。
憐れむように、慈しむような。姉にはできない感情を用いて、淑やかに唇を歪めると。
姉の体液を啜り上げた布に、そっとくちづけた。
物音のしない幻月の私室。
ノックの後にも静まり返ったままなのを訝しんだ夢月は、扉を押し開け、光景に閉口した。
「あら夢月。もうそんな時間? やぁねえ没頭しちゃった」
落とされた明度の中に、背翼を畳んだ姿が身動ぎしてみせる。
恥ずかしげに頭を掻いてみせる姿――姉の幻月は、あられもなく衣服をはだけさせ、剥き出した肩先から艶かしい肌色を反射している。彼女が膝立ちになって跨っている下には、ぴくりとも動かない人の形があった。
立ち込める臭気は淫蕩で、どこか甘いようで酸いものも含んでいる。ベッドで繰り広げられるお楽しみの最中はとっくに終わったのだろうに、どこか不吉な臭いは未だ部屋の隅々にまで停滞している。
極力鼻で呼吸しないようにして、それでも一つのため息を吐いた。
「……で。もう、食べに来れるの?」
「そうだね。ちょうどこっちも終わっちゃったし。汚れを落としたらすぐに行くよ」
まるで自分の意思で遂げてないような言い様に、夢月はもう一度、幻月が退いた下にいた――残骸を、見た。
閉じられない口はもうそんな些細な微力も残ってないのか。彫像のように顔の形を変えない表情は、抜け殻と仇名するにも生温い。
室内の少ない光量を体の至る所からぬらつかせて反射しているのは生命の名残か。時たまヒクヒクと蠢くと、栓が壊されてしまったかのごとくまだ外に放出している。
「ちゃんと加減したんだけどねー。まだまだ不勉強みたい」
何気ない声の調子は純粋に後悔しているようで、それでも徹底してある物が抜け落ちている。
それには指摘せず、腕に下げてきたタオルを放って寄越しやった。そんな心遣いに受け取った幻月は嬉しそうに綻んでみせる。きっと、この表情を見ることは、そこの残骸には叶うべくもない。幻月の加減が功を奏して、その末に気に入られるようなことでもあれば、分かち合うことも出来たかもしれないだろうに。
「姉さんは――きっと。そんな手心を込めようなんてことは、無理なのよ」
惨状を前に、夢月の声音もどこか諦念めいて響く。
彼女自身、違うなこう言いたいのではないな、とどこかズレを感じていたものの、結局言い直さずにいた。
「そうかもねぇ。今はこんなだから、もっともなことだわ」
濡れた布が気持ちいいと言うように顔を撫でまわし首を拭いて、幻月は猫目にして吐息している。
「けれどさ、いつかこの行き詰まりを解消して、私にもっと慈しむことが出来るようになったのなら」
その時は。
片腕の肘を抱えて立ち尽くす夢月を視界に収めて、幻月はにこりと微笑む。
「夢月にも、喜んで、祝ってほしいな」
私の成長を、と。
――なんて、恐ろしいほどに無垢なんだろう。
ぶるりと身震いすることを隠して、夢月は、その成長に贖う土台達の数を悼む。
「……姉さんが祝えと言うのなら、祝いましょう」
是非もない。眇められた眼光はそう物語る。
話はついた、と室内に踏み込み、幻月が身を清めに行く間に後始末をしようとする。
「着替えは置いてあるから、そのまま行ってきて」
いい、と言い終えるか否か。空々しい程に冷たい風が息吹き、夢月のうなじを撫でてくすぐる。ベッドへ身を乗り出してめちゃくちゃになった有り様へ付けようとした手が、後ろから伸びてきた手に指を組むようにして阻まれた。
「その子は壊れちゃったよね。仕方ないけれど」
仕方がない。噛み含める言い方に、夢月の緊張が後頭部に募る。
「だけどね、そんなのとは違ってさ、私。ただ一人、どんな扱いをしても壊れない子を、知ってるんだけどなぁ……?」
心臓へじわじわと氷柱を当てて力を込めていくような、言いようのない圧迫感。
これだ。
これに、目の前のどんがらは息をしていた頃に晒されて、人格も肉も根こそぎにされたのだろう。それはそうだ。こんな匂い立つ醜い無邪気さに嬲られて息をしている生物が存在していようものなら、よほど非摂理的だ。――それこそ、悪魔のような、幻月と同等の存在でなければ。
荷重を後ろへ、反った身を正す反動で向き直り、覆いかかる姉の胸を押す。夢月はいとも容易く、絶対的な拘束から距離を開ける。
そうされてもにこにこと指同士を繋いだまま、待ち望むようにちょこんと首を傾げ、幻月は楽しげに体を揺らしている。どんな動きでも。だとしても、だろうが。その全ては掌で愛でる内にしか収まらないと言わんばかり。
つまらなさそうに息を吐き捨て、夢月は一歩を詰めるとかじりつくように、唇を塞いだ。味わうのでも堪能するのでもなく、すぐさま離れて。
「酷い味ね」
袖口で拭う様子に反して、夢月自身もどこか、楽しんでいた。思いついた愉快な口上を述べようとする程には。
「壊れない相手はいるかも知れないけれど。でも、そんなことじゃいつまで経っても――女の子とは、仲良くなれないわよ?」
空間を満たす雰囲気にそぐわない、この上なく平和もいい所な。まるで戯けた文句を言って犬歯を剥き出しに。
爛れたように、嗤う。
幻月はきょとんと、それこそ魂を抜かれたとでも言わん顔をして、やがて、「あは」と口元が崩れ、ついでとろけるように目尻を落とし、決壊しきった哄笑を喉から刻みだした。
「――くっは、ふふふ。あーーもう。そうねぇ、うん。一理ある」
だらしなく垂れた口元の涎を舐めて、ほんの少し熱っぽい吐息をしてみせる。目に見えて、それはもう、昂ったシルシだった。妹の言葉。総身に漲る欲望を燃え上がらせる口説き文句に晒されて。陶然と震える体を片腕で抱いて悦んでいる。
その昂ぶりもひとしきり堪能したのか、しっとり繋がっていた手指を解き、踊るような身振りで体を離した幻月は、戸口の前で見返ってきた。
腰に手を当て、人差し指と小指だけを立てた手つきを肩越しに掲げている。
なんだそのポーズ、と怪訝に夢月は見る。
「お風呂。覗いちゃだめよ?」
……何を悲しくてそんなこと。
よほど言おうか迷った夢月を置き、とことこと小走りな足音を遠のかせ、幻月はあっさり場を残して行ってしまった。
ふぅ、と零された吐息。一仕事終えた感慨が篭っているのは明らかだった。手元にはいつの間にか、渡したはずの濡れタオルが握らされている。
「……ねえ? ほんと。どーしようもない人」
共に置き去りにされたもう一人に向く。
壊れた玩具は玩具のまま、誰も修理してくれやしない。
憐れむように、慈しむような。姉にはできない感情を用いて、淑やかに唇を歪めると。
姉の体液を啜り上げた布に、そっとくちづけた。
゛ある物゛
゛どんがら゛
恐らく括弧のつもりで使われているのだと思いますが、たとえどんな使い方をしようとも濁点は濁点以外の何物でもありません
読む上で大変見苦しく感じられるので直された方がよろしいかと……
知名度が低い分、色々な創作の可能性があるということでもあると思いますし……
↑の方の補足:
゛(濁点) ではなく ”(ダブルクオーテーション)を使うのが良いと思いますよ。