Coolier - 新生・東方創想話

さあ、お茶にしましょう? 改訂版

2010/01/15 22:03:24
最終更新
サイズ
165.11KB
ページ数
1
閲覧数
3233
評価数
16/56
POINT
3400
Rate
12.02

分類タグ






 フランドール・スカーレットは気がふれている。







 誰が言っただろうか。
 あるいは誰も言わなかったかもしれない。
 だが、この言葉は私の心から500年間、消えることはなかった。

 私――レミリア・スカーレットは机の引き出しから出した小さなカレンダーを眺めていた。連続したいくつかの四角に、それぞれ一つずつ赤い丸が書き込まれている。一連の赤い丸は明日の日付から始まっていた。
 私がこのカレンダーを引き出しに隠してあるのは、他の誰かに見られたくなかったからだ。
 さらに言えば特定の一人からは絶対に見られたくなかった。その『誰か』がもし、この日付表を見てしまったら、どんな顔をするだろう。そう考えるだけで、私は胸が苦しくなる気分だった。
 私はぬるくなった紅茶にかすかに口を付ける。そして、少し臆病な自分に、やれやれとため息をついた。
 
 私の妹――フランドール・スカーレットは気がふれているのだろうか。

 私室で一人、紅茶を飲みながら思う。
 血のように紅いお茶の水面を見ながら、私は自嘲する。何度この議論を頭の中で繰り返してきたことだろうか。何百年と私はこの課題に向き続けていたではないか。
 そして、いつも答えは一つしか出なかった。
 たった一つ、同じ答えだけが延々と繰り返されていた。

 『気がふれている』。
 それは『情緒不安定』とも言う。あるいは、『狂っている』とも。
 それらの言葉が正確に何を指しているかはわからない。そして、たとえ、それらの定義が明確になろうとも、私の望んでいる解答が得られるわけではない――いや、むしろ、私の欲している答えと真逆の真実を私は手にしてしまうかもしれなかった。
 外の世界の医学では、『情緒不安定』は『情緒障害』やら『全般性不安障害』などと難しい名前に言い換えられているらしい。まあ、どう名前が変わろうとも、それは自分で喜怒哀楽をコントロールできなくなる病気には変わりないという。
 それはフランも同じだった。
 フランの狂気の正体がその『情緒なんたら』や『全般性不安かんたら』と同じであるかはともかく、フランもまた自分で自分の感情がコントロールできないときがあった。最近はだいぶ軽くなってきているようだが、ときとしてその狂気が思い出したように暴れ始めるときがある。そのときは感情だけでなく、思考もまた彼女の本心に反して暴れ狂うように見えた。
 フランはそんな姿を必死で隠していた。
 心の優しいフランは自分の惨めな姿を隠しながら、じっと不安に耐えていた。
 そして、私はいつも、重くなっていく暗い運命を小さな肩に抱えているフランの姿を幻視していた。
 そのフランの姿は私を十分に不安にさせるものだった。
 でも、それは必然なのだろう。
 それは気のふれたフランドールという概念にとって正しい姿なのかもしれない。
 世界にとってフランとはそういうものであり、フランにとって運命というものは、今のあるがままに変わりようがないのだ。だから、それは必然でしかないのだろう。



 けれども、と私は思う。

 私はそれでも、『けれども』と思う。

 私は、その『けれども』に希望をかけたいと思う。



 私は紅茶にまた一つ口をつける。砂糖をたくさん入れた紅茶。だが、ぬるくなってしまったお茶は淹れたてと比べて苦味が強くなっているように感じられた。

 

 私は無力なのだろうか。
 具体的に私がフランに何をしてやれるかというと、それがなかなか思い浮かばない。フランの狂気に対して私は少しの治療を施すこともできないし、それを軽減させることもできないかもしれない。そして、今回もまた、妹の狂気の発作は、その優しく繊細な魂を苦しめるのだろう。私はフランのその苦しみを肩代わりしてやることもできないのかもしれない。
 


 でも、と考える。

 私はそれでも『でも』と考えるのをやめない。

 『けれども』に希望を託す私は、『でも』に戦機を見出す。

 私がフランにしてやれることが一つだけあると思った。



 いや、これ以外に私がフランにしてやれることなど何もないのかもしれないし、他にはわからないのだけれど。

 しかし、それは勝算のある方法だった。

 少なくともゼロではなかった。

 それが私にとって拾うことのできる希望だった。



 カップが空になったところで、私はカレンダーを引き出しに仕舞った。そして、忠実な従者を呼び出すために軽く息を吸う。
 「――咲夜、いるかしら?」
 私の声に、メイド長の十六夜咲夜が現れる。咲夜は頭を垂れて、私の傍らに立っていた。私は咲夜に話しかける。
 「お願いしたいことがあるんだけど――」
 私は咲夜にお願いごとを話した。咲夜は一瞬だけ何かを考えるような目つきをしたが、すぐにそれを消した。そして、話が終わるまで、少しだけ真面目な顔で私の言葉を聞いてくれた。咲夜は私の心のなかを理解してくれているように思えた。一通り話し終えると、咲夜は「わかりました」と短く答え、深く一礼をして去っていった。

 ――今回は、どうサイコロが転ぶのかしら?

 まあ、複雑なことは考えるべきじゃない。考えたところでどうなることでもないから。いい目が出ればそれは御の字だし、悪い目が出ても私は逃げるつもりはないし、むしろそれを好機とすればいい。いつもと何ら変わることはなかった。全て、私にとってはいつもどおりなのだった。

 空間から掻き消えるように退室するメイド長を見送った後、机のほうを振り返ると、空だったはずのカップが湯気を立てていた。瀟洒なメイド長が去り際に新しい紅茶を置いてくれていったようだった。
 私は淹れ立てのその紅茶をすすった。私は甘党で、いつも甘いお茶ばかり飲んでいるのだが、あえて砂糖を入れずに飲んでみた。
 一口飲んで、さすがは咲夜の淹れたお茶だと思う。お湯の温度は、紅茶の葉が一番香りよく開くように計算されていた。おそらくこの一杯は、紅魔館で一番、完璧な一杯なのだろう。
 だが、やはり苦い。
 私の口にはやはりストレートの紅茶はあまり合わないようだった。
 今のままでも十分に美味いのだが、砂糖を入れて甘くしたほうが私の好みだった。
 まあ、そもそも紅茶は苦いものであり、その苦さがあるからこその紅茶であるともいえるのだけれど。
 でも、私の飲む紅茶は私の好きにしようと思う。私が飲む紅茶なのだから、私が美味しいと感じなければ仕方がない。
 だから、私は自分の紅茶にたくさん砂糖を入れて飲む。
 私と同じように甘いものが好きなフランも、その考えに賛成してくれるだろう。
そして、誰かといっしょに飲んだほうが、紅茶はもっと美味しくなるに違いない。
 私はそんなことを思いながら、三つの角砂糖を入れて、再びカップを傾ける。静かな私の部屋には、自分が紅茶をすする音と時計の針が時を刻む音だけが響いていた。

 
 
 私はいつものように、いつもどおりの決心をしていた。
   


















 不幸せとは何でしょうか? 

 幸せとは何でしょうか? 
 


 私――フランドール・スカーレットはベッドの上で不幸の意味と同時に幸福の意味を考えていた。
 起き抜けのために薄がかった意識は、まず前者よりも先に後者について思考することを選択した。さて、幸せの意味とは何だろうか、と私は上手く働かない頭で、やけに哲学的なことを考えようとしていた。
 初めに思ったのは、今の私には幸せという言葉を理解することはできないのかもしれないということだった。私がもっているのは、495年間におよぶ地下室暮らしと、その退屈な時間を潰すためにした読書、そして、地下室から出ることを許され、紅魔館の中で暮らしたこの数年間だけだ。厳密に言えば地下室に入る前、生まれてからの数年も地上で生活していたが、もうあまり覚えてないからそんな記憶はないようなものだった。
 だから、私の人生経験は長いようで短く、太いようで細い。
 たとえ、500年以上生きていても、私は数年しか生きてないのと同じなのだった。
 その経験の中から、私は果たして幸福という言葉の意味を引き出すことができるのだろうか。
 できるといえばできるのかもしれないし、できないといえばできないのかもしれない。
 私は、私の人生をそこそこ幸せだったと思っている。
 このことを否定する人もいるかもしれない。
 だけど、私は意地を張るからではなく、本心からそう思っている。
 きっと、私は幸せでいたし、幸せでいられるのだろう。
 いくら、無知で無経験の私といえど、人の幸せは人それぞれだ、ということを知っている。
 他人の境遇に憧れようとも、それを得ることができるわけではない。そして、たとえ憧れても、その裏には想像もしなかった不幸が隠されていることすらある。
 逆に言えば、客観的に不幸にしか見えない私の生にもまた、隠れている幸福があるというわけだ。
 だから、私には私の幸せがあるのだろう。
 そして、たぶん、幸せになれるはずなのだ。
 
 そう――たぶん、きっと。

 たぶん、フランドール・スカーレットも幸せになれるんだと思う。

 きっと、たぶん――幸せになれる可能性はあるはずなのだ。

 ――同時に、不幸もまた人それぞれだということだろう。
 私は私の不幸を受け入れなければならなかった。
 それもまた仕方のないことなのだろう。  

 ――そんなこと考えている余裕なんてないのに。

 と、もう一人の自分が呟いた気がした。そうだね、その通りだね、と私は心の中で返答する。確かにその声の言う通りだった。今の私にはそんな夢想をしている暇――というか隙はないのだった。ベッドの上で布団を被ったまま、私はガンガンと痛む頭を振った。そして、時計で時刻を確認し、枕元に隠しておいたカレンダーを見て、今日の日付を確認する。
 
 いくつも連続した赤い丸の初日。
 
 それが今日だった。
 
 私は不愉快さと理不尽さを感じながら、まるで誕生日か何かを示すように赤丸がつけられたカレンダーを睨んでいた。
 
 覚悟していたことだったが、予測どおりの上に、まさかその初日にやってくるとはね。
 喜ぶべきか嘆くべきか。
 いや、どう考えても、私にとっては嘆くの一つの選択肢しかないんだけれど。
 
 寝起きは最悪だった。
 体調――というより、心の調子が酷かった。
 平衡感覚はしっかりしているのに、感情がぐるぐる回る感じ。視界は安定しているのに、何か嫌なものに意識を揺さぶられているような気がした。覚醒剤中毒の末期患者は、芋虫の大群が部屋を這う幻覚が見えるそうだけれど、私にはむしろ目に映らない芋虫の大群が、世界をびっしりと覆い尽くしているような感じだった。慣れていない人だったら、わけもわからず大声を上げて暴れだしているだろう。私はこんな精神状態になることは、両手両足の指だけじゃ数え切れないくらいあって慣れていたから、それほど慌てることもなかった。
 もっとも、こんな世界に慣れたいものじゃない。
 誰がこんな酷い心の風景に慣れたいもんか。
 こんな自分でも気が狂っていると自覚できるような精神は御免だ。
 とにかく、私は頭痛さえする頭で、今日に『発作』がやってきたのを理解していた。
 昨晩もそれを確認しながら、床についたということを今頃になって思い出す。けれどもそのときの心の準備は、今の苦しみに対して何の役にも立ちそうもなかった。

 『発作』とは、私――このフランドール・スカーレットの狂気の発作だった。

 私の抱えている狂気は数ヶ月に一度『発作』を起こした。どうしてそうなるのか、何が原因なのかはわからない。その発作を抑える方法も弱くする方法もわからなかった。わかっているのは、その発作のとき、私は非常に『機嫌が悪く』なるということと、数ヶ月単位で、その発作はやってくるということだった。
 もう一度、頭を振って調子を確認する。揺れていない視界が、ぐらりとずれたような感じがした。はあ、とため息をつく。そのことで私は自分が今、苛立っていることが自覚できた。目を瞑ってみると、暗くなった視界のなかで、ぐるぐると悪いものが渦巻いているように思えた。

 ――これは、相当重症だなあ。

 私はまたため息をついた。まだ二度目だが、今日はもうこれ以上カウントするのはやめようと思った。この後いちいち数えていてもどうせ覚えきれないくらいの数になるのだろうから。
 どうやら今回の発作は相当に激しいようだった。ここ一、二年は軽くなってきたのにどうして、と思う。そう思うだけで、まだ狂っていない、私の本来の心の部分まで不機嫌になるのを感じていた。
 私の狂気の発作はここのところだいぶ弱くなっていたのだった。地下室に出たときと比べると、数年経った今はかなり良くなっていた。発作の強さも弱くなってきているし、周期もだんだんと長くなってきている。地下室から出たばかりのときは、月に一回はあった発作も、この一、二年は三ケ月に一度程度の頻度でしか現れなくなった。実は最初のときは周期もばらばらだったのだが、それが規則性をもって起こるようになったのも、最近の一、二年だ。今回発作があらかじめ起こると予測できたのも、これまでの発作の周期から逆算したからだった。
 そして、今回もそれほど強い発作は来るとは思っていなかった。
 むしろ、より弱い発作だろうと期待していた。
 昨日の夜もそう思って、眠ったのだった。

 ――とんだ期待はずれだなあ。

 私は思わずため息をつく。
 それから、私はベッドの上から身体を起こして、右手を動かす。
 一瞬、やはりやめようかとも思ったけど、勇気を出して私は自分の右手を目の前にかざした。
 


 ――『目』はない。



 その事実に私はふう、と安堵の息をはく。私の右手には何の『目』も握られていなかった。よかった。どうやら、今日の私の心はまだ破壊の能力を無意識的に使ってしまうほどには、狂っていないようだった。
 けれど、と私は開いた右手を凝視しながら思う。

 いつ、この右手に誰かの『目』が乗るかわからない。

 今日、私が無意識的に誰かの『目』を握りつぶしてしまうことが十分に考えられるのだった。
 
 意図することなく、誰かを壊してしまう可能性があるのだった。

 狂ってしまった私が誰かを殺してしまうかもしれなかった。

 それだけは、と私は思う。

 それだけは――勘弁して欲しい。

 私の狂気で誰かを壊し殺してしまうのだけは、許して欲しかった。

 それをしたら、私は私を許せなくなってしまうに違いなかった。

 ……まあ、今日は大人しくしていよう。

 苛立たしさを感じながら、私は今日の予定を決めた。狂気の発作は一日以上は続かないから(少なくとも経験上、狂気が二日間長引くことはなかった)、明日にはこの不安定な心の状態も元に戻っているだろう。運がよければ今日の夜には収まっていることが期待できた。
 今日一日だけだ、と私は自分に言い聞かせる。早ければ今晩中には終わる、と私は自分に希望をもたせる。今日のうちに狂気がいつか必ず終わってくれるという事実だけが、今の私の支えだった。
 でも、と私のなかで不安がちくちくと胸を突いていた。

 この一日で、果たして誰かを殺さずにいられるのか、と。

 そう思った瞬間、私は奥歯を噛みしめていた。黒い不安がけたけたと笑っているような気がした。
 
 ……大丈夫。

 ……きっと大丈夫。

 私はただそう念じ続ける。何か悪いものの不愉快な笑い声を聞きながら、私は根拠もなく、だが、自分を安心させるために目を瞑り、右手をぎゅっと握って、そう思い続けた。
 
 やがて、こんこんとドアをノックする音が、私を暗い意識の水溜りから、現実の世界へと引き上げた。
 「フランドールお嬢様、咲夜でございます」
 控えめながらもはっきりとしたよく聞こえる声。咲夜が私を起こしにきたのだった。私は返事をしようとして、自分の声帯が錆びたボルトのようになかなか動こうとしないのに気づいた。それを少し忌々しく思いながら、私は口を強く開け、少しだけ声を張り上げてドアの向こうの咲夜に声をかけた。
 「おはよう、咲夜。入っていいよ」
 すると、「失礼します」と咲夜が答えた。静かに、だが、流れるようにドアが開く。そして、いつもどおりの瀟洒な動作で咲夜はドアを閉め、深々と私に頭を下げた。
「おはようございます、フランお嬢様」
頭を上げると、メイド長は爽やかな微笑を口元にたたえていた。その笑顔に少しだけ私の暗い気分が軽くなるような気がした。私も微笑んでもう一度咲夜に「おはよう」と挨拶した。私は一つだけ伸びをして、着替えるためにベッドから降りた。
 「今日は、お早いお目覚めですね」
 咲夜が私の着替えを手伝ってくれながら言った。ときどき私は咲夜が来る前に起きることがあったが、精々一月に一度くらいのものだった――そして、私の『発作』が起こるときは、大抵早く目が冴えてしまうのだ。私は自分の心の不調が声に出ていないか気にしながら、咲夜の言葉に答えた。
「……うん、よくわからないんだけど目が覚めちゃった。たまにこういうことがあるんだよね」
「そうですか。でも、私としては、遅くまでお布団に入っていらっしゃるよりもそちらのほうが助かりますわ」
「レミリアお嬢様にも見習っていただきたいものです」と言って、咲夜が微笑む。私も咲夜の笑顔に釣られて微笑んだ――自分がまだ自然に微笑むことができることに、私は少し安心していた。
「今日のご予定はどうしますか」
咲夜が私のシャツのボタンをとめるために私の前で膝を突いた。
「そうだね。どうしようか」 
私はできるだけ平静を保ちながら、少しだけ考えてから答える。
「今日は静かにしていようかな。自分の部屋で考え事でもしてるよ」
特に考えることなどなかったが、私は部屋に引きこもっている口実として、そんな言葉を言った。
「考え事ですか」
咲夜は微笑みながら、私のシャツのボタンをとめていく。普段から咲夜は瀟洒な微笑を浮かべているけど、今日は特に機嫌がいいみたいだった。
「フランお嬢様はどんなことをお考えになるのですか?」
「いろいろ考えるよ。美鈴の昼寝癖をどうすれば治せるかとか、パチュリーの喘息はどうすれば治療できるかとか、お姉さまが私のドロワーズを被るのをやめさせられるかとか、幻想郷をどうすれば征服できるかとか」
「まあ。二番目と四番目はともかく、最初と三番目はとても無理そうですね」
「うん。そうだね。無理だね」
そう言って、私と咲夜はいっしょにくすくすと笑った。私は今、自分の感情が暴れだそうとしているのを抑えることができていた。ひょっとすると、見立てよりも今日は穏やかに過ごせるんじゃないだろうか。今こうして自分が少しでも前向きになれることが嬉しかった。
 咲夜は私の襟元にいつもの黄色いスカーフをかけながら言った。
「そうですか、では、特に決まったご予定はないというわけですね」
「……うん。まあ、そういうことだけど」
上機嫌な咲夜の言葉に私は不吉なものを感じながらも答える。私は予期しなかった言葉の登場に心のなかがざわついたのがわかった。だが、咲夜は私の気持ちを知るはずもなく、続きを言った。
「では、大丈夫そうですね」
咲夜は私の首に巻いたスカーフをきゅっと締める。

 「レミリアお嬢様がフランお嬢様を、お茶にお誘いになっています」

 一瞬、息をするのを忘れた。

 「今日のお昼前のお茶にフランお嬢様もどうかとおっしゃっていました」

 私は顔を強張らせて、咲夜の言葉を聞いているしかなかった。

 「最近、フランお嬢様の時間とお茶会の時間が合うことが少なかったから、楽しみにしている、とも」
咲夜は明るい声で言うが、私はそれに何も答えられなかった。
「しかも、レミリアお嬢様がご自身で、フランお嬢様にお茶を淹れるのだそうです。楽しみにしていてくださいね」
しかし、私の心のうちを知る由もない咲夜は、楽しそうに続けた。
「お茶請けのクッキーは私が作りますけどね」
咲夜は「さすがにお嬢様に料理は任せられません」と悪戯っぽく笑う。
「腕によりをかけて作りますので、咲夜のクッキーも楽しみにしてくださいね」
そう言って、咲夜は優しい微笑を浮かべたまま、力こぶを作ってみせる仕種をした。
「……フランお嬢様?」
屈んで私の服装の細かい部分を整えていた咲夜が顔を上げる。怪訝そうな咲夜の目が私を見つめていた。数秒経って、私はようやく咲夜が不思議そうな顔をしているのに気づき、慌てて硬くなっていた表情を緩め、返事をした。
「ああ、うん。ちゃんと聞いてるよ」
だが、どうやら、私の様子に気になるところがあったらしく、咲夜は、少しだけど、曲げていた眉の角度をさらに大きくし、私に尋ねた。
「……お嫌なのですか?」
咲夜の質問に私の心臓がきゅんと軋んだ。私はぐっと喉の奥がつまりそうになりながらも答える。
「ううん、そんなことないよ」
だが、私の言葉に咲夜は納得していないようだった。咲夜は心配そうな顔をしながらさらに尋ねた。
「では、どこかお具合でも悪いのですか?」
「うん……いいや、そんなことないよ。心配してくれてありがとう」
私は慌てる心を抑えながら、何とか嘘をついた。そして、できるだけ自然を装って、扉に向かった。私はぎこちなくも作り笑いを浮かべながら、咲夜に言った。
「ねえ、それより咲夜。私、お腹空いちゃった。早く食堂へ行こう?」
私の言葉に、咲夜は「はい、承知しました」と答えながらも、その顔はやはり晴れることはなく、私の表情を気にしていた。けれども、メイドとして主人との一線を弁えている咲夜は私にそれ以上のことを聞くことはできないようだった。咲夜のその表情に胸が少し痛む。

 ごめんね、咲夜。
 
 私は心の中でそう咲夜に謝った。
 咲夜はやがて、暗い表情から、いつもの瀟洒な余裕ある表情に戻り、いつものように私と手を繋ごうと手を伸ばした。
 私も咲夜の手を掴もうと右手を伸ばす。
 
 その瞬間、



 私の手に咲夜の『目』が見えた。



 「――――っ!?」

 私は思わず、右手をひっこめた。そして、戻した右手の掌をじっと睨んでいた。胸がどきどきとうるさかった。
 
 どうして……?
 
 どうして、という言葉しか浮かばなかった。ずきずきと頭の血管も小刻みに振動しているのを感じていた。呼吸も少し荒くなっていた。
 すでに右手には咲夜の『目』はなかった。
 それでも私は右手をじっと睨んでいた。いつもと何も変わらない私の手。だけど、それが皮膚の下では、にやにやと笑っているような気がしていた。

 「……どうしました、フランお嬢様?」

 かかった言葉に、私は顔を上げる。そこには、咲夜の顔があった。咲夜はやはり、私を気遣うように眉をしかめて、私を見ていた。
 「……ああ、ごめん、咲夜。なんでもないよ」
 私はそう言って、咲夜に再び手を差し出す。もう手に『目』が見えることはなかった。私はそのまま咲夜の手をとり、なかば強引に引っ張って、扉へとむかった。
 咲夜はいつものように私の手を引いて、地上へと案内してくれた。やがて、咲夜の表情から険しさは抜けていったが、それでもどこか暗い感じがしていた。その横で、私は自分だけいつもどおりであるように振る舞っていた。
 
 いつもどおりでありますように。
 
 ――いつもどおりでない私はそう祈りながら、いつもどおりを偽って、朝食へ向かった。
 















 私と咲夜は食堂に向かう廊下を歩いていた。
 朝食のメニューは何だろう、なんて呑気なことを考えている余裕はなかった。正直言って、食欲は皆無だった。
 食堂に向かう途中、私はいろいろなことを考えていた。
 心の調子は相変わらずだった。まあ、10分くらいで変わるものではないのはわかっているけど。平衡感覚は狂っていないのに、足元がしっかりしない気持ちだった。だけど、よろけてしまったり、転んだりすることはなかった。私の足はしっかりと廊下を踏んで歩いていた。足首から先が自分のものではないような感じ、と言えばいいのだろうか。身体が自分のものでなくなる感じだった。
 そして、私は一番大切なことを考えていた。
 どうすれば、お姉さまのお茶会の誘いを断れるかということについて。
 本当に惜しいと思う。
 こんな状態でなければ、私は喜んで咲夜の言葉にイエスを返していただろうに。私はお姉さまとお茶を飲むのが大好きだった。正直、こんなぐらついた心でも、まだお姉さまとのお茶会に行きたがっている自分がいた。
 だが、生憎、今の私はお茶会どころじゃなかった。
 相変わらず、安定しているはずの視界がぐらぐらと揺れているのを感じていた。ひょっとしたら、カップをもつことさえできないかもしれない。朝食のときにフォークを落としたりしなければいいのだが。
 そして、今の私には3秒後の自分の行動を制御できる自信はなかった。私はお姉さまとのお茶会を無事に終えられるか――それは私にとって不安以外の何物でもなかった。
 正直に体調が悪いと言うべきだろうか。
 もちろん、発作ということを隠してだけれど――風邪か何か、とにかく調子が悪いから、お姉さまのお茶会には参加できないと咲夜に伝えるべきかもしれない。お姉さまや咲夜たちに要らない心配をかけるのは嫌だったが、それが私が自室に引きこもるのに最高の案に思えた。
 だが、すぐにその案を、冷静な理性が切り捨てた。皮肉にも私の理性はかなり正常に働いていた。むしろ発作の刺激で活性化しているようにさえ思える。そして、感情も今はしっかりとしている(もしかしたら、これから狂うのかもしれないが)ように思えた――では、理性も感情も狂っていないのだとしたら、私の心のどこが狂っているのだというのだろう。
 それはともかく――私は、お姉さまたちが私のお見舞いと称して、地下室にやってくる可能性に思い当たった。それはたぶん最悪の可能性だった。私の地下室は逃げ場がない。もし、そんなところで私の力が暴走したとしたら、きっとお姉さまたちを殺してしまうだろう。それは避けなければならないと思った。
 残念だが、理由については今は保留だった。お茶会までまだだいぶ時間がある。朝食を食べている間に決めればいいだろう。わずかでも時間があることが私にとってかけがえのない余裕のように感じられていた。

 とにかく――
 とにかく、みんなを殺すことは。
 お姉さまを殺すことはあってはならなかった。

 それから、私は自室での暇つぶしについて考えた。
 他愛ないことのように思えるが、意外と重要なことだった。『発作』のときは、心の中に次々と良くない考えが浮かんでくるものだった。そういうときは特に、ぼーとしていて何も考えていないときだ。だから、私は『発作』のときは、本を読んだり、何か考え事をして、頭の中が空っぽにならないようにしているのだった。
 パチュリーの図書館から小説でも借りようか、と私は思った。ひょっとしたら、借りたその本を破壊の力で粉々にしてしまうかもしれないが、魔導書じゃないから、パチュリーも怒らないだろう。私は食堂の帰りにパチュリーの図書館に寄ることに決めた。

 ……我ながら、難儀な心だと思う。
 地下室に引きこもるために、こんなにいろいろなことを考えなければならないなんて。
 私は思わず、ため息をつかざるをえなかった。
 そうして、ため息をつきながら、私はお姉さまのことを思い出していた。
 私を永い間、地下室に閉じ込めてきたお姉さま。
 そして、数年前、私を地下室から出してくれたお姉さま。
 お姉さまのことを思い、私は考え続ける。
 こんな危なっかしい心をもつ私が、破壊の能力という恐ろしい凶器を握っているのだ。
 だから、きっと、お姉さまが私を地下室に閉じ込めたことは正解なんだろう。
 そう――きっと正しかったのだ。
 ……けれども、そのことに苛立ちを覚える自分がいた。
 お姉さまに理不尽ないらいらをもっている自分がいた。
 ……私は新しいため息をつきながら、そのことについて考えるのをやめた。自分がとてつもなく、馬鹿に思えたのだった。

 そうやって、咲夜と会話をすることもなく歩いていると、食堂に着くもう少しのところで、私達は廊下を掃除している妖精メイドに出会った。
 妖精メイドはモップ掛けしていた床から顔を上げ、私達の姿を認めた。
 


 そのとき、妖精メイドの頬が引きつった。


 
 ――けれども、彼女は次の瞬間には咲夜と同じような、メイドとしてあるべき慇懃な表情に戻り、「おはようございます」と深々と私達に頭を下げた。私は「おはよう」とできるだけにこやかに声をかけ、咲夜もまた、「おはよう。しっかりね」と彼女に軽やかな言葉を返した。

 メイド妖精が怯えたような顔をしたのは上司の咲夜を見たからではなく、私を見たからだった。

 彼女だけではない。ほとんどの妖精メイドが私を見ると、恐怖を感じたような顔をする。
 私はそれに少しだけ胸がちくりと痛むのを感じたが、強いて忘れるようにした。いつものことだし、私は妖精メイドたちの態度に完全ではないけど、慣れていた。
 これでもだいぶ良くなったほうだ。
 数年前――私が地下室から出てきたときはもっと酷かった。彼女達は私の姿を見ると、逃げるように元いた場所を去っていった。中には、私が屋敷の見取りを尋ねただけで(当時、私は地上に出たばかりで、紅魔館の中をよく覚えていなかった)、がたがたと身体を震わせ、その場にへたりこんでしまうメイドさえいた。さすがにこのときは、私もそれ以上は何も訊けず、その場を去ることしかできなかった。
 咲夜は妖精メイドたちの私への態度に対して、何度も注意しているらしいが、治らないという。それでも慣れというものがあるのか、ここにきて、ようやく彼女たちは私に対して明からさまな恐怖感を示すことはなくなった。でも、彼女たちは私を怖がることをやめなかった。咲夜が妖精メイドたちに聞いたところ、彼女たちも本意ではなく、どうしても、身体が震えてしまうという。要するに、妖精メイドたちは本能的に私を恐怖しているのだ。
 それも仕方のないことなのだろう。
 誰も爆弾の隣で暮らしたいと思う人間はいない。
 私は爆弾と同じだった。いや、むしろもっと性質の悪いものかもしれない。
 思わず、咲夜に掴んでもらっている右手に目がいった。
 ありとあらゆるものを破壊する能力は、きっと爆弾よりもずっと恐ろしい。
 そして、その持ち主が狂っているとしたら、それはやはり、時限式の爆弾よりもずっと危険なものであるはずだった。実際に、今、私は自分でも自分が恐ろしく感じているのだから。
 だから、妖精メイドたちの態度はごく自然なものだと言えた。
 彼女たちが私から遠ざかるのは当然のことなのだ。
 
 ……でも。
 いつか来るのだろうか。
 
 私はそんなことを考えていた。

 彼女たちがやがて私のことを受け入れてくれる日が。
 私に笑顔で挨拶してくれる日が。
 そんな日が、来るのだろうか。

 私は、爆弾のように危なっかしい心で――危なっかしい心だけれども、そう願った。

 そして、私はふと思うのだった。

 私は愚か者かもしれないな、と。

 どうしてか私は、そんなことを願う自分がどうしようもない愚か者のように思え、
 
 そして、そのことに納得していた。

 ……やめよう。

 ……今はそういうことを考えるのはやめよう。

 私は小さくため息をついた。すると、私は上からの視線を感じた。なんとなく、気になって顔を上げると、咲夜が少しだけ心配そうな顔で私を見下ろしていた。咲夜は私が見返したことに気づくと、逃げるように、目を前へと向けた。

 また咲夜に迷惑をかけちゃったな――

 そんなことを考えながら、私と咲夜は食堂にたどり着いた。

 
 

 
   





 
 


 食堂には私しかいなかった。どうやらお姉さまは私よりも先に食事を終えていたようだった。妖精メイドたちが朝食をとる時間もとうに過ぎていた。

 私の心の調子は悪くなっていた。

 ……まあ、良くなるとは決して思っていなかったけど。

 私は一人で咲夜の作ってくれたご飯を食べていた。とりあえず、カップも持つことができたし、フォークを落とすことはなかった。だが、ご飯は咲夜が作ったものなのに、あまり美味しく感じられなかった。身体の感覚自体はしっかりしていたから、味覚がおかしくなっていることはない。咲夜が調理を失敗したということももちろんなかった。私が食べたハムエッグやポタージュスープ、ポテトサラダは確かにいつもの咲夜の味付けだった。おそらく私の気分の問題なのだろう。身体の調子は悪くないのに、心や気分だけが暗く沈んでいく感覚は、言葉にしがたい不愉快さがあった。きっと、この症状はこれからもっと酷くなると予想できた。今はまだ感覚だけで済んでいるが、今日の発作の強さを考えると、いずれ感情の方まで悪いものがやってくるだろう。正直、勘弁願いたかったけれど、どうにもならないのは、経験からわかっていた。
 コケモモのジャムを塗ったパンをゆっくりとかじりながら、私はどうすればお姉さまのお茶会のお誘いを断るかを考えていた。
 残念ながら、いい案は思いつかなかった。何か用事でもあればいいのだけれど、生憎私には何の当てもなかった(ちなみにお姉さまは普段、何も仕事していないように見えるが、実は重要な案件に関する書類仕事をしている。パチュリーは客人で仕事はないが、魔法の研究に没頭しているし、咲夜たちはもちろんメイドの仕事があった。私だけが紅魔館で特に仕事がないのだった)。早く何か思いつかなきゃ、と思うが、焦りと不安が積もっていくばかりだった。私はだらだらとトーストをかじっていることしかできなかった。
 思わず、はあ、とため息をつく。
 どうして、お姉さまのお茶のお誘いを断る理由をこんなに必死に探さなきゃならないのか。
 目の前の食べかけのハムエッグやスープを見る。本来ならば食欲をかきたててくれるハムエッグのてかてかした表面の油はすでに乾ききっており、スープもいつの間にやら冷めてしまった。咲夜の料理が美味しく思えない。いつもどおりの私なら、お茶会の話も私の朝食をもっと美味しくしてくれるはずだった。
 何でこんなことになってるんだろう。
 本当に、何でこんな思いをしなければならないのか。
 ものすごく理不尽な気分だった。
 私はいらいらしながら、そんなことを考えて、ぱさぱさしたトーストを口に入れた。
 


 「あれ、フランお嬢様じゃないですか? こんな時間に珍しい」



 一人うつむいている私に、明るく穏やかな声がかかった。
 
 顔を上げると、そこには、門番長の紅美鈴がいた。

 美鈴はいつもの向日葵のような笑顔を浮かべていた。

 私は美鈴のその優しい微笑の眩しさに少し呆けてしまった。

 「おはようございます」と美鈴がはきはきした声で私に挨拶した。ぼーとしていた私はなかば反射的に「おはよう」と答えた。そして、美鈴は「隣に座ってもいいですか?」と温かい笑顔で私に尋ねた。私はやはり無意識にうなずく。「ありがとうございます」と礼を言って、美鈴は私の隣の椅子に座った。ようやく私は慌てて、美鈴にかけられた言葉を思い返していた。
 「……確かに、この時間で会うことはあんまりないね、美鈴」
私は美鈴の『こんな時間に珍しい』という言葉を思い出してそう言った。「ですね」と美鈴は微笑んだまま言う。そして、口を手で隠して、「ふわぁあ……」と小さく欠伸をした。「失礼」とそのことを私に謝る美鈴は、少し眠たそうだった。
「美鈴、夜勤だったの?」
私が聞くと、「はい」と美鈴がうなずく。
「夜のシフトが今終わったところで。これからご飯食べて寝ます」
「ご苦労様、美鈴」
「ありがとうございます。と……そういうフラン様は朝食中のようですね」
そこで、美鈴がとん、と何かをテーブルの上に置いた。それは弁当箱だった。美鈴はその箱のふたを取り、中から何かを出すと、口に運んだ。
 ぱりっと心地よい音がした。
 ぼりぼりと美鈴は、そのお菓子を美味しそうに頬張っていた。
 美鈴は、それを飲み込むと、私の視線に気づいたらしく、弁当箱の中から、また一枚取り出し、にっこりと笑って私に見せた。
「煎餅ですけど、要ります?」
私は思わず苦笑してしまった。
「美鈴、これからご飯食べるのにお菓子食べちゃ、お腹に入らなくなるよ?」
「大丈夫です。この煎餅は表面に砂糖がふりかかっています。いわゆる甘味です。昔から、甘い物は女の子にとって別腹というじゃないですか」
「それはご飯食べた後のデザートの話でしょ。ご飯食べる前にデザート食べる人なんて初めて見たよ……」
「あはは。まあ、そもそもさっきまで詰め所にいたときに食べていたんですけどね、これ」
「夜勤ってけっこうお腹空きますから」と言って、美鈴は私に見せたそれを口に入れる。大きな口を開けてそれを食べる美鈴は、実に美味しそうだった。
「人里の煎餅屋で買ってきたものなんですけどね。咲夜さんの焼いてくれる洋菓子には敵いませんが、なかなかに美味しい。こういうものはつい癖になってしまいます」
「ずいぶんたくさん食べてるみたいだね……」
「大丈夫ですよ。咲夜さんの作ってくれたご飯もしっかり食べますから」
にこやかに言い、美鈴は三枚目の煎餅を口に入れた。その流れるような動作に、この門番長は夜勤中数時間に渡り、ずっとこの煎餅をかじっている姿を幻視してしまった。
 美鈴は煎餅をかじりながら、また一枚、袋から取り出して笑顔で私に差し出した。
「よろしかったら、食べます?」
私は苦笑しながらも断った。
「いいよ。私は私のご飯がまだ残ってるから」
「そうですか……ああ、でも、レミリアお嬢様ももってますから、食べたいときはレミリアお嬢様に言えばいいですよ」
「……お姉さまにもあげたの?」
「はい。レミリアお嬢様にもなかなか好評でした」
「美味しいですから、フランお嬢様も召し上がってみてくださいね」と、美鈴はもぐもぐと煎餅を食べていた。
 「それにしても、フランお嬢様、」
と、美鈴が煎餅を飲み込んでから言った。
「あまり、食が進んでいないようですが……」
そう言って、美鈴の翡翠色の目が、私の皿を見ていた。皿の上に乗っているのは、美鈴の食べている煎餅とは違って、時間がたってしまったために萎びてしまったハムエッグと、頭のところだけが削られたように減っているポテトサラダ、二、三口、かじっただけのトーストがあった。食べ始めてからだいぶ時間が経ってしまって、もう食欲はなかった。私は美鈴の言葉に、あいまいにうなずくことしかできなかった。そういえば、食堂に来てからどのくらい時間が経っただろうか。私は、頭を上げて、食堂の壁にかかっている時計を見た。

 ……むむ。
 長居しすぎたようだ。
 どうやら、気づかないうちに、1時間以上も時間を朝食にかけてしまったようだった。
 普段の私が、15分くらいで食べ終わるのを考えると、ずいぶんと時間がかかっていると言える。
 そういえば、美鈴が最初に『こんな時間に珍しい』と言っていた。私もこれまで朝食の場で美鈴と会うことはほとんどなかった。そのことを考えると、美鈴が夜勤のときでも、私は美鈴が食堂にやってくる前に朝食を食べ終わっていたのだろう。要するに、私はずいぶんとゆっくり食堂に長居してしまったわけである。

 そんなことを考えていると、厨房から咲夜が出てきた。咲夜は申し訳なさそうな声で言った。
 「すいません、フランドールお嬢様……そろそろ私は、他の仕事がありますので、そちらに向かわせていただきます。朝食の皿は、そのまま、そこに置いておいてください」
そう言って、咲夜は頭を下げる。私は少し慌てた。ぼんやりと朝食をしていたせいで、私は咲夜の仕事のスケジュールを圧迫してしまったようだった。私は、手を振って言う。
「ああ、ごめん、咲夜。これは私が片付けておくから。咲夜は次の仕事にいって?」
「いえ――フランお嬢様に食事の片づけをしていただくなど、恐れ多いことです。私が片付けますので、そのままにしてください」
私は咲夜に迷惑をかけて申し訳なかったので、片づけをすると言ったのだが、かえって、それは咲夜を慌てさせてしまったようだ。私と咲夜が困っているところで、美鈴が「ああ、私がフランお嬢様の分も片付けておきますから、大丈夫ですよ」と助け舟を出してくれた。すると、咲夜は少しだけ申し訳なさそうに微笑んで、「そう? 悪いけどお願いするわ」と言い、「では、失礼します――」と、私にお辞儀をして、時間の能力で、その場から去っていった。

 ……また迷惑かけちゃったなあ。

 私は気落ちしていた。なんとなく肩の力が抜ける気持ちになっていた。
 私は、美鈴のほうを向いて、「ごめんね、美鈴」と謝った。けれども、美鈴は笑って、「大したことじゃないですから、気にしないでください」と言ってくれた。
 美鈴の前には、どんぶり一杯のラーメンと、皿に大盛りにされたチャーハン、同じく皿にいっぱいに盛られた野菜炒めなど、たくさんの料理があった。どうやら、咲夜が食堂から出ていく前に作っていったらしい。私は美鈴の食事のあまりの量の多さに唖然としてしまった。
「えっと、美鈴……その量をこれから一人で食べるの?」
私が問いかけると、美鈴は「はい。そうですよ」とうなずきながら、箸をとる。美鈴は決して身体は小さいわけではなく、また痩せすぎているわけでもないが、その量は女の子が食べる量にしては多すぎるような気がした。美鈴が健啖家だというのは聞いていたが、まさか、これほどの一度に食べるとは知らなかった。というか、この前に美鈴はたくさん煎餅を食べていたはずである。それでもなお、この量のご飯を食べようというのだろうか。美鈴はそんな私の心のうちを知ることもなく、「いただきます」と食事に向かって手を合わせて、まず、ほかほかと湯気を立てているラーメンにとりかかった。
 美鈴の食事振りはこちらが見ていて気持ちがいいくらいだった。美鈴の食べ方は下品ということもなく、とても自然体で、ご飯の方から美鈴の口に入っていくかのようだった。
 そうやって、私が美鈴の様子をじっと見ていると、美鈴はもっていたラーメンのどんぶりを置いて私に向き直り、少し恥ずかしそうに言った。
「あの、妹様……あんまりじっと見られてると、なんか照れます……」
その言葉に、私も美鈴をぼんやりと見つめていたことに気づいた。私はまた、「ごめん」と美鈴に謝る。今日は朝から謝ってばかりだった。美鈴はちょっとはにかんだまま、黙って私に一つ頭を下げ、ラーメンに視線を戻す。しかし、それはほんの30秒くらいで、美鈴は私なら食べ終わるのに15分もかかってしまいそうなどんぶりのラーメンを、合わせて、たったの3分でたいらげてしまった。この門番長の細い身体の中に、まるでブラックホールに吸い込まれていくようにラーメンが入っていく光景は、ただ圧巻としか表現できなかった。
 美鈴は、今度はチャーハンを目標に定めたようだった。私はやはり、それを美鈴が気にならないように、横目で見ていた。食堂は、美鈴が箸を動かし皿に当たる音が聞こえるだけで、とても静かだった。
 だが、そうして、また3分くらい経った頃だろうか。美鈴がチャーハンを残り3分の1まで食べて終わってしまったころ、美鈴は私の方に顔を向けた。

 「……フランお嬢様、今日はあまり元気がないようですね」

 美鈴の綺麗な緑色の瞳が私を見ていた。美鈴の言葉と目に、私はどきりとしてしまった。私は何とか口を動かして、美鈴の質問に答える。
「……そうかな。そんなことないと思うけど」
「顔色も悪いみたいですし」
「……そう見える?」
「はい。それに、先ほどからフランお嬢様は全然、食事に箸をつけられていないようですが……身体の具合が悪くないのだとしたら、何か気になることでもあるのですか?」
「…………」
美鈴の言うとおり、私はさっきから美鈴を見ているばかりで、自分のご飯を食べようとはしていなかった。私は美鈴の言葉に黙ってしまい、逃げるようにうつむくことしかできなかった。やはりわかってしまうものなのだろうか、と思った。自分はやっぱり元気のない顔をしているのだろうか、と。でも、それを認めるわけにもいかなかった。今の私の精神状態はとても人に話せるようなものじゃなかった。美鈴が食堂に来たときから、少し落ち着き始めてきたのだが、私の心はまだざわついているのだった。自分でも、あまりいい顔色ではないこともなんとなくわかる。でも、それでも私は誤魔化したかった。自分の心が今、酷い状態にあることを他の誰かに知られたくなんかなかった。
 私が黙ってうつむいていると、美鈴は「ふむ……」と小さくうなずき、チャーハンを食べ終えて、言った。
 「……フランお嬢様は遠慮なさる方ですからね」
 その美鈴の声は温かかった。私はその声に顔を上げて、美鈴を見る。美鈴は苦笑気味に、だけど、とても優しかった。美鈴はやれやれというように続けた。
「ときどきフランお嬢様は非常に遠慮なさります。フランお嬢様は本当に悪魔なのかと思ってしまうほど、我慢されますからね」
私は美鈴の言葉に驚いていた。美鈴の声は私の頭を撫でるかのように柔らかかった。美鈴は笑って小さく肩を竦めて見せた。
「姉君を御覧なさい。あの悪ガキお嬢様はいつも我が儘ばかりです。フランお嬢様もレミリアお嬢様のように少し我が儘を言ってくださっていいのですよ? むしろ、そこまで遠慮されると、こちらが心配してしまいます」
その言葉に私はまたうつむいてしまった。でも、今度のはさっきのと違った。
「臣下の仕事は、お嬢様方のお願いごとを聞くことなのですから、そう遠慮なさらないでください。かえって、こちらのほうが心配になってしまいます。私は役に立たないかもしれませんが、それでも愚痴を聞かせていただくことくらいできると考えます。どうそ、遠慮することなく、おっしゃってください」
美鈴の笑顔はとても眩しかった。その眩しさに、私の心が揺れるのを感じた。
 
 ……どうしようか。
 
 私は悩んだ。美鈴の優しい笑顔を見ながら、私は考えていた。
 美鈴はいつも朗らかに笑っていて、昼寝ばかりしている女の子だから、能天気でちょっと鈍そうにも見えるが、本当は心のわずかな動きにも気づくことができるような、繊細さと賢さをもっているのだ。そして、同時に、人の悪い部分もしっかりと受け止められるような強い心があった。

 美鈴はどう思うだろうか。

 私が今、半分狂い出していることを知ったら。

 私は、自分が今、情緒不安定になっていることを誰かに伝えることができれば、少し心の負担が減るような気がしていた。そうすれば、もしかしたら、私の狂気もちょっと楽になるかもしれなかった。
 そして、私は美鈴に今の自分を受け止めてくれることを期待していた。私は、美鈴なら、私のこの不安定な気持ちを理解してくれるんじゃないかと思い始めていた。

 私は美鈴の微笑をずっと見ながら考えていた。美鈴も食事を中断し、私を急かすこともなく、私の返事を待ってくれていた。
 
 ――これなら言えるかもしれない。

 私は美鈴の様子に希望を抱いた。もしかしたら、美鈴は今の私を怖がることなく、聞いてくれるんじゃないか、と。
 それに、美鈴に聞いてもらえば、美鈴からもお姉さまに言ってもらえるんじゃないだろうか、とも考えた。今日は気分が悪いから、申し訳ないけど、明日にして――。美鈴からそう言ってもらえば、きっとお姉さまも納得してくれると思った。

 ――よし、話してみよう。

 私は美鈴に自分の心のことについて打ち明けることに決めた。そう思うだけでも、私の心のざわめきが落ち着いていくような気持ちだった。

 「ねえ、美鈴……」

 私は口を開き、美鈴に話しかける。美鈴は私に身体を向けて、真面目に言葉を聞く姿勢をとってくれていた。

 「ちょっと、私の気分のことなんだけど――」

 



 ――と、どこから話を始めようかと考えながら言いかけたとき、私は右手に違和感を感じた。






 その違和感に、私の心が一気に波立った。突風に吹かれて暗い荒波が捲り上げられるように、私の心はざわざわと蠢き始めていた。
 
 私は嫌な予感を覚えながら、自分の右の掌を見た。



 美鈴の『目』が私を見つめていた。

 黒々とした、恐ろしい『目』が私を睨んでいた。



 「――――ッ!」



 全身が総毛立った。
 私は弾かれたように椅子から立ち上がっていた。その勢いで椅子がガタンと後ろに倒れる。だが、椅子を気にしてる場合じゃない。悲鳴を上げないだけマシだったと思った。私は呆然と自分の右手を見つめていることしかできなかった。
 
 ――何で?

 何で? という言葉しか浮かばなかった。どうして、自分の手の上に美鈴の『目』があるのか理解できなかった。私は破壊の力を使おうとした覚えはなかった。ましてや、美鈴を破壊しようだなんて考えていない。どうして、美鈴の『目』がここにあるのか、不思議以外の何でもなかった。

 だが、答えが出てくるのはすぐだった。

 そして、その答えもまた簡単だった。
 


 ――フランドール・スカーレットは狂っているから。



 頭の片隅で、誰かがそんな正しすぎる答えを呟いていた。



 「……妹様?」

 美鈴の訝しがるような声が聞こえた。美鈴は、椅子から突然乱暴に立ち上がった私を、驚きの目で見ていた。
 私は美鈴の疑問に答えることが出来なかった。つい今の今まで美鈴に自分の狂気を伝えようとしていた私の勇気は、どこかに吹き散らかされてしまっていた。もう、私は美鈴に何も教えることができない。これで何もかもがおしまいになってしまったような感じさえあった。
 
 ――こんなところにいられない。

 私はとっとと食堂を出て行くことにした。もう食べかけの朝食なんてどうでもいい。心のなかに、嫌な感じのものが溢れ出し、ぐるぐると頭のなかを悪いものが回っていた。私は今すぐにでもこの場を去らなければならなかった。
 

 私の狂気が暴れだす前に。
 
 私が誰かを殺してしまわないうちに。
 
 美鈴を破壊してしまわないように。 
 


 私は、目を丸くして私を見ている美鈴に言った。ぐらぐらと揺れている心で、私は何とか美鈴に話しかけた。
「ごめん、美鈴、私はその……ちょっと用があったのを思い出したから、行くね」
「……フランドール様?」
何が起きているのかわからない、という風に、美鈴は私を呼んだ。だが、もう私には余裕などなかった。急いで私はこの場から離れなきゃならなかった。

 「悪いけど、朝食の片付けだけ、お願いするね……じゃあ、私、行くから」
 
 「フランドールお嬢様、何か……」

 再度、美鈴が私を呼ぶ。私の名前を呼ぶ美鈴の声は、私を心配する声音だった。美鈴は私を心配して声をかけてくれたのだった。



 だが、ただそれだけのことで。

 それだけのことなのに。

 むしろ、それは私のためだったのに。

 私は、



 爆ぜてしまった。



 「うるさいなあっ! 私は用があるって言ってるでしょ! 美鈴にはどうでもいいことでしょうがっ! どうでもいいんだから黙っててよ!」


 
 ――気づくと、私は叫んでいた。
 
 一瞬、何をしたのかわからなかった。
 美鈴の呆然とした顔を見て、二、三秒前の自分のやったことを思い返して。
 ようやく、私は自分が何を叫んだのかを理解していた。

 美鈴の綺麗な翡翠色の目に悲しげな陰がかかっていた。ずきりと胸が痛くて仕方がなかった。後悔と罪悪感に心臓が潰されそうだった。
「……フランお嬢様」
また、美鈴が私のことを呼ぶ。まるでため息をつくような、掠れた声だった。美鈴は、どうして私からそのように怒鳴られなきゃいけないのかわからない、という目で、私を見つめていた。
 私はもう耐えられなかった。その呼びかけに答えることなく、私は美鈴に背を向けた。そして、食堂の扉に向かって歩き出した。歩き出した足は、すぐに駆け足に変わった。足をとめることはできなかった。一刻も早く、この場からいなくなってしまいたかった。

 美鈴を残して、私は食堂から逃げ出したのだった。















 何をしているんだろう。

 自分は何をしているんだろう――、私はそう思ってため息をつくことしかできなかった。

 自分の今の状態を振り返りながら、私はお姉さまの親友、パチュリー・ノーレッジの書斎――地下大図書館の本棚の前に立っていた。

 私は本を探しながらも、自分のしたことを思い出さずにはいられなかった。

 咲夜に迷惑をかけて。
 美鈴に自分勝手な怒りをぶつけて。

 自分が最低な奴にしか思えなかった。


 そして――


 咲夜と美鈴の『目』が、私の右手の中にあって――
 

 今、思い出しただけで、腹の底が冷える感じだった。
 私は自分で自分が怖くて仕方がなかった。

 ちょっと間違っただけで、自分の周りの人を壊してしまう――

 そう思うと、自分で自分が許せなかった。

 食堂を飛び出した私は、廊下をそのまま走り抜け、地下室の方角を目指した。だが、大した距離も走っていないのに、私は息を切らしていた。走るのに疲れた私は、やがて駆け足をやめて、足取りも自然と歩きに戻った。
 そのまま地下室にでも帰ってもよかったのだけど、私はパチュリーの図書館に寄っていた。
 理由は、私がこれから地下室にこもるのに、何か暇潰しとなる読み物を探すためだ。今の私は思考を空にしておくのが何より怖かった。小説でも読んで、頭のなかを何かで塞いでおかないと、また悪い考えが湧き上がってくるような気がしてならなかったのだ。あいにく、今の私の部屋には弾幕ごっこの研究をするための魔法の本しか置いていなかった。この重たい思考では、分厚い魔導書は読む気にはなれない。私は何か軽い物語でも読もうと、図書館に寄る事にしたのだ。
 私はパチュリーの図書館の扉を音を立てないようにゆっくりと開けた。そして、扉のすぐ近くにある、パチュリーが普段椅子に座って本を読んでいる書斎机に目を向けた。パチュリーはいない。そして、使い魔の小悪魔の姿も見えなかった。本でも探しに行っているのだろうか。ともかく、それを確認した私はほっと息をついた。開けたときと同じように、静かに扉を閉めて中に入る。まるで泥棒のようだとも思ったが、今の私はまさにその通りなのかもしれなかった。泥棒も私も、この部屋の主に、自分の存在を知られたくないという意味では同じなのだから。こそこそと隠れるように動く自分が少し情けなかったが、今の私にはそんなことを気にしている余裕はなかった。
 そのまま、私は足音を忍ばせて、本棚に向かった。小説の棚の場所はよく知っている。地下室から解放されて以来、私が紅魔館のなかでも多く通った場所は、この小説の本棚だった。外の世界の小説が多かったが、私は十分楽しむことができた。
 目的の棚にまでは、すぐにたどり着いた。私は何か興味を惹くような本はないか、広い本棚を歩きながら探した。
 だが、私は本探しにはあまり集中できなかった。
 頭のなかに咲夜や美鈴のことが浮かんできて、実のところ、とても本を探すような気分ではなかったのだ。

 心のざわつきは収まっていた。起きたときに感じたような、世界全体が揺れているという感覚もない。怪物のような、よくわからない何かの存在もすでになくなっていた。心のなか全体に広がる暗い感じは残っていたが、今の私は、廊下を歩いていたときや食堂にいるときと比べて、だいぶ穏やかになっていた。

 でも、ここからだった。

 私の情緒不安定が危険なのはここからだということを、私は経験で知っていた。

 『違和感』や『ざわつき』を感じているほうが実は私にとってはまだマシな状況なのだ。
 確かに、心が揺さぶられたりする感覚や、悪い何かが心を這いずり回る心地は、不快以外のなんでもなかった。そんなもの感じられないほうが、私が楽なのは明らかなことだった。
 でも、それは『痛み』のようなものだ。
 生物が身を守るために、進化の流れの中で、好ましくない感覚であるはずの痛覚を身に付けたように。
 私の心のなかのセンサーが『違和感』や『ざわめき』を感じているということは、自分の心が今、異常な状況に曝されているということを私に警告してくれているのだ。 

 逆に私の心のセンサーが、もうそのような不快なシグナルを出さなくなったということは――


 私の心が、もうすでに狂気に取り込まれてしまったということなのかもしれない。
 

 これはあくまで、私の推測だから、確実ではないけど――
 でも、これまで正気に戻って、自分が情緒不安定でいるときの記憶を辿っていったとき、私の心が一番おかしくなっているのは、不快感をあまり感じなくなってからだった。
 私は今日で何度目ともわからないため息をついた。
 今、こうしているうちも、正常な思考ができているのか、自信がなかった。いつもの自分ではない自分が何を始めるのかと思うと、とても怖かった。
 
 ……早いうちに本を見つけて、地下室に帰ろう。

 私は気だるい気持ちで、本棚いっぱいに詰まった本の群れに目を走らせていた。
 
 そして、まだ完全に狂気に染まってないうちに、と大切なことを考えていた。私の一番の悩みは、まだ残ったままだった。
 
 つまり、お姉さまのお茶会の誘いをどうやって断ろうかということだ。

 どれだけ考えても、いい案が思い浮かばなかった。仮病を使うにも突然すぎるし、紅魔館にこもりっぱなしの私には急用ができるわけでもない。お姉さまをがっかりさせずに、地下室に引きこもる方法はわからないままだった。
 でも、今日、私は地下室にいなければならないのは決定事項なのだ。
 それだけは譲ることができなかった。
 私は地下室に閉じこもっていなければならない。
 今の私が誰かを殺さないでいるには、地下室にいるしかないのだ。

 ……私はそう考えながらも違和感を覚えていた。

 間違ったことを考えているわけではないのに、何かがおかしいような気がした。

 考えていることが、ちょっとずれているような……
 
 ……まあ、そんな些細なことはどうでもよかった。上手い理由は見つからないが、それでも、私は無理にでも地下室に閉じこもっていればいいのだ。お姉さまたちにその理由を言う必要はない。咲夜やお姉さまが呼びに来ようと、地下室の扉を開けないでいればいい。扉をぶち破ってまでお姉さまたちが入ってくることは――たぶん、ないだろう。そして、明日になって、私が元の精神状態に戻ったときに、昨日はごめんね、と謝るのだ。お姉さまたちは変な風に思うかもしれないが、それでも許してくれると思った。

 もうこれしかないな――

 私はそれで決定することにした。曇っていた心が少し晴れる。私は朝からずっと気になっていたことが解決して、安心する気分だった。完璧な計画ではないが、見通しが立っただけで、心が軽くなる感じだった。後は地下室で暇を潰すための本を探すだけだ。私はさっきよりも落ち着いた気分で本棚の本の背表紙を一つずつ眺めることができた。
 
 でも、どうしてだろう。

 何か――すごく虚しかった。
 
 安心してようやく穏やかになったはずの私の心は、どこかとても空っぽな感じがして。

 さっきの違和感がこれだった。

 理由がわからないのに、私は寂しかった。

 おもしろそうな本がないかと、目を動かしながら、思った。


 私はどうしてお姉さまのお茶会の誘いを断るのに、こんなに必死なんだろう――


 本来、楽しみなはずのお茶会を断るのに、どうしてこんなに一生懸命にならなきゃいけないんだろう――


 そう考えたとき、本棚を巡るために動かしていた私の足は、独りでにとまっていた。本を探すために上げ続けていた顔も自然とうつむいていた。

 ……止そう。

 私は考えるのをやめた。考えても意味のないことだから。その意味が分かったところで、何も変わらないことだったから。だから、私の自分の問いに対して考えるのをやめることにした。

 いや。
 実際は考えるまでもないのだ。
 考える必要もなく、答えは出ている。
 そして、私はその答えをちゃんと知っているのだった。

 ……なんだか疲れたな。

 私は再び、顔を上げて本棚を見上げた。何千冊という本の背表紙が、無機質な顔で私を見下ろしていた。そこにある本の全部が無愛想に私を見ているだけだった。もう私は本を探すことに飽きてしまった。そういえば、どのくらいの時間探していただろう。あんまり意識していなかったが、一時間くらいはかけていた気がする。お姉さまとのお茶会の時間はいつだったか。食堂で確認した時刻を思い出し、お茶会までの時間を計算する。時間はもう一時間もないようだった。

 そろそろ、行こう……

 私は自分の地下室に戻ることにした。このまま図書館にいてもよかったが、もしかしたら、咲夜が探しに来るかもしれない。咲夜に見つかったら、お茶会を無理矢理断る自信がなかった。それなら。地下室に鍵をかけて、顔を合わせないでいるほうがまだ気が楽だと思った。

 来たときと同じように、私は足音をひそめて図書館の廊下を歩いた。パチュリーや小悪魔に会うこともなく、私は図書館の棚の群れから抜け出ることができた。あとは図書館の扉までだ。パチュリーと小悪魔が書斎机のところに戻っていなければ、そのまま誰に見つかることもなく、図書館を出られるはずだった。
 私はパチュリーの不在を確認するために、棚の陰から顔を少しだけ出して、入り口の扉の前に広がる、広間のようになっているスペースを確認した。
 そして、私は少し驚いた。


 咲夜が図書館の扉のところにいたのだ。


 ……どうして、咲夜がここに?

 いや、それがありえないということじゃないけど……

 咲夜が図書館に来るのは珍しいことじゃなかった。パチュリーにもやはりお姉さまから妖精メイドが何人かつけられていたが、やはり妖精メイドだからか、あまり彼女たちは仕事をしないという。パチュリーの使い魔である小悪魔は熱心に仕事をするのだが、おっちょこちょいな性格で、いろいろと失敗も多かった。そこで、咲夜は図書館の雑務の一部を行うために、パチュリーの広い書斎へとやってくるのだ。まあ、その中でも多いのは、お姉さまのパチュリーへの言い付けを伝えに行くことだったと思う。


 お姉さまの言い付け――


 自分の心の声を聞いて、私はひどく嫌な予感がした。

 
 咲夜は瀟洒な落ち着いた動作で図書館の扉を閉めて、出て行った。私はしばらく厳かに閉じている豪奢なつくりの扉をじっと見つめていることしかできなかった。
 どれくらい経っただろうか。咲夜がいたことによる嫌な予感に、私の心臓がどきどきと騒ぎ出していた。
 早く出なきゃ――自分の心臓に急かされ、私は図書館から出て行くためにも改めて書斎机のほうを見た。
 そこにはパチュリーが座っていた。小悪魔も主人である魔女の近くで作業していた。小悪魔がいろいろと楽しそうに主に話しかけ、パチュリーがそれにうなずきながら、本を読みふけっていた。
 
 これはだめか……

 二人に気づかれずに図書館に出られる可能性は絶望的だった。身を隠す魔法はないことはないのだが、小悪魔はともかくパチュリーには気づかれてしまうだろう。いや、魔法を使っている分、逆効果だと言えた。見つかったとき、パチュリーはかえって私を怪しむことになるだろう。
 
 ……誤魔化すしかないか。

 そういうのはあまり得意じゃないのだが、私は二人を誤魔化すことにした。これまでもパチュリーや小悪魔のいないときに図書館で本を読むことはたくさんあった。私が図書館にいておかしいことは何一つない。いない間にお邪魔させてもらったよ――そう軽く挨拶して、何事もなく出て行けばいい。正直、今の私は普段の私よりもさらに演技力に自信がなかったが、それでもやるしかなかった。

 心臓の音がうるさく聞きながら、書斎机のいる二人を見て、私は出て行く決心をした。

 そして、同時にこう思う――


 私は本当に何をやってるんだろう、と。

 本当に間抜けみたいだった。

 こんな下らないことで、よく知っている二人をだますなんて。

 私は自分が間抜けに思えて仕方がなかった。

 私は――狂った間抜けだった。


 ――私は二人に向かって歩き出した。あくまでさりげなく、いつもどおりのように、と自分に言い聞かせながら歩く。すぐに二人は近づいてくる私に気づいた。「あ、フラン様、こんにちは」と小悪魔が笑って挨拶してくれた。私も「こんにちは、小悪魔、パチュリー」と返事をする。微笑んでみせたつもりだったが、上手く笑えてる自信がなかった。

 「こんにちは、妹様」
私達に遅れて、パチュリーが挨拶をしてくれた。パチュリーは読んでいる本から目を離し、私に顔を向けていた。パチュリーたちが怪しんでいないことに、私はほっとする。
「ちょっと留守のところ、お邪魔させてもらったよ」
「いえ、別に構わないわ。私達も本を探してただけだし」
そう言って、パチュリーが本に目を戻した。このまま熟読モードに戻るのだろう。このまま私は図書館から抜け出られると思って、扉の前ほうに身体を向けた。
 
 だが、そのまま、パチュリーの横を通るとき、

 「ねえ、妹様」

 と呼びとめられた。

 その声に、私の身体は固まったみたいに動かなくなった。決して怒っているわけでもなく、不機嫌でもない、パチュリーの静かな声。だが、いつもどおりのパチュリーの声に私は動けなくなってしまったのだった。私はパチュリーに対して、横を向いていたため、視界の隅でパチュリーを見ているだけで、彼女がどんな顔をしているかわからなかった。顔の見えないまま、パチュリーは落ち着いた、だが決して冷たくはない声音で、私に話しかけた。
「今、暇かしら?」
――その言葉に、私は胸が焼けるような感じがした。疲れてもいないのに目の奥がずきずきと痛んだ。
「……暇だけど……でも、どうして、そんなこと聞くの?」
私はかろうじて、そう答えることができた。自分の声は、どこか乾いている、低いものに聞こえた。パチュリーは潤いのある穏やかな声で言った。
「たいした意味じゃないわ。ただ、妹様と話したくなっただけ。最近、実験が忙しかったから、妹様とは久しぶりだしね」
「久しぶりって、3日くらいなものだけど……」
「あら、妹様は『男子三日会わざれば刮目して見よ 』ということわざを知らないのかしら?」
「私もパチュリーも女の子でしょ?」
「些細な問題だわ。いいから座って話をしましょう?」
「小悪魔、コーヒーを軽めに二杯淹れてくれるかしら?」とパチュリーが小悪魔に頼んだ。「はい」と小悪魔がうなずいて、書斎机のすぐ近くにある、図書館付きの小さな厨房に入っていった。どうしようかと頭を動かそうとするが、凍りついた私の頭はちょっとの計算もする力も入らなかった。「こっちよ、妹様」とパチュリーがもっていた本をテーブルに置き、自分の隣の椅子を示す。……もう逃げることはできなかった。私は仕方なくパチュリーの横に腰を下ろした。
 「最近、調子はどう、妹様?」
パチュリーは紫水晶のような綺麗な目を向けていた。正直、今日は最悪だ、と答えたいところだったけど、そう言うわけにもいかない。私は氷のように固まってしまった顔をなんとか動かして、微笑む表情をしてみせた。
「……うん、そこそこかな。パチュリーはどう?」
「私もけっこう調子いいわ。最近は喘息の発作もないし、白黒ネズミが図書館にやってくることもないしね。この前の実験もそこそこ成功したし、最近は気分よく生活できてるわ」
パチュリーは微笑みながら言った。言葉の通り、機嫌がいいらしい。小悪魔がコーヒーを淹れてきてくれた。
 
 そこで、ぼーん、ぼーん、と図書館の時計が鳴った。
 
 10時ちょうどだった。
 
 お姉さまのお茶会の時間まで、あと30分だった。
 
 「……あら、もう10時かしら」
パチュリーは時計を見ながら言う。
「レミィのお茶会までもう少しね」
そして、パチュリーは私のほうを振り返った。パチュリーは小悪魔の作ってくれたコーヒーをブラックのまま、口をつけた。

 ――『レミィのお茶会までもう少しね』。

 その言葉は本当にたくさんの意味を含んでいた。

 今日の10時半にお茶会があるということをパチュリーが知っているということ。
 きっとパチュリーもそのお茶会に誘われているということ。
 
 そして――

 「そういえば、今日のお茶会は妹様も誘われてるんだったわね」

 ――やはり、パチュリーは私がお姉さまにお茶会に誘われているということを知っていたのだった。
 
 私は思わず奥歯をかんだ。もう逃げられない、そう思った。

 それでもパチュリーの問いには答えなければならなかった。急に言葉を失って黙り込んでしまうのは不自然だ。私はいつもどおりを演じ続けるために言った。私は自分が狂ってないように見せるために話を続けた。
「うん、そうだよ。……さっき、咲夜が出て行くところを見たけど、咲夜はそれを伝えに来たのかな?」
「あら、察しがいいわね、妹様。そのとおりよ」
パチュリーは私の問いにうなずく。
「そういえば、私も妹様とお茶を飲むのは久しぶりだったわね」
「楽しみだわ」とパチュリーは私に真っ直ぐと視線を向ける。何もかも見透かすような紫水晶の瞳が私の目を覗き込んでいた。

 その透き通った視線に、私は思った。

 パチュリーはもしかして知ってるんじゃないか、と。

 私が狂い出していることを知っているんじゃないか、と。
 
 おかしくない話だった。
 咲夜に私の姿はどのように見えたのだろうか。あの鋭い咲夜のことだ。咲夜が私がいつもと様子がおかしいことに気づいても何も不思議なことはなかった。

 きっとパチュリーは咲夜からその話を聞いている。

 そして、パチュリーも鈍い人物じゃなかった。パチュリーなら、私との短いやり取りの中で、私がおかしくなっていることに気づいただろう。

 もう、私は狂っているということを知られているのだった。

 みんなが、私は狂っているということを知っているのだった。

 私が狂っているということを。

 私が狂っているということを……


 それは、とても、不愉快で。


 すごく、苛立たしくて。


 ひどく、悲しいことに思えた。


 ……どうしてだろう。
 私はパチュリーが憎くて仕方がなかった。
 理由はない。
 むしろ、理性はパチュリーを擁護していた。パチュリーは私が気がふれているとわかっていても、気をかけてくれた。私とお喋りしようというのは、そういう理由なんだろう。パチュリーは私を心配してくれているのだ。
 だが、私はパチュリーに感謝できなかった。
 むしろ、この気持ちは別のものだ。
 敵愾心というギラギラとした感情をパチュリーに向けていた。
 私の心は、もはや理性の制止では止まらなかった。
 私は理不尽で激しい怒りを感じることしかできなかった。



 パチュリーは私の気持ちを知らずに、楽しそうに話を続ける。
「そうそう。今日のお茶会の葉は特別よ、妹様。なんたって、私が作ったんだからね」
「……パチュリーが作った?」
パチュリーは少し誇らしげに言った。
「ええ。まあ、作ったというか、手を加えた、が正しいかしら。レミィに、紅茶を美味しくする魔法はないのか、って訊かれたことがあってね。で、ついこの前の実験で、ちょっと手が空いたときに茶葉の成分を変える魔法を考えていたの。で、今日はその魔法で改良した茶葉の紅茶を使うらしいわ」
「もっとも、その魔法は何かに応用できるか、と思って始めたんだけど、紅茶にしか使えないみたいで、そこは残念だったんだけどね」とパチュリーは開発した魔法の欠点を付け加える。だが、そう語るパチュリーの顔は満足そうだった。そこで、作業をしていた小悪魔が「魔法に使う茶葉は私が選んだんですよ」と言った。小悪魔の顔も楽しそうにほころんでいた。パチュリーは自分の使い魔の言葉に苦笑しながら、肩をすくめる。
「それだけのことで偉そうにしないの、小悪魔」
七曜の魔女がそう言うと、小悪魔は頬を膨らませて主に反論した。
「別に偉そうにしてません。それにパチュリーさまも魔法に使える良い茶葉が見つからないって、言ってたじゃないですか。私、頑張って探したんですよー」
「はいはい。小悪魔も頑張ったわね。棚から落ちてきた紅茶の箱に潰されそうになってたしね」
「そうです。私も頑張りました」
胸を反らす小悪魔。それを見て優しげに苦笑するパチュリー。二人は楽しそうだった。楽しそうにおしゃべりをしていた。

 楽しそうに。

 とても楽しそうに。

 私はこんなに楽しくないのに。

 みんなだけが楽しそうに。

 私一人だけがつまらなそうにしていて。

 頭のおかしい、
 気のふれた、
 情緒不安定の、
 狂った、
 私だけが、
 楽しくない。

 私一人だけが、楽しくない。

 私は自然と椅子から立ち上がっていた。身体の感覚があるのかないのかわからなかった。心のなかに閉じ込められたまま、ただ景色と感情だけが動く感じ。でも、それを私は理性でおかしいと感じるだけで、感情はそのことを自然に受け入れていた。
 私が立ち上がると、パチュリーが怪訝な顔をした。その表情には焦りも混ざっているような気もしたが、そんなこともはやどうでもよかった。
「どうしたの、妹様?」
パチュリーの声はやはり心配するような声音があった。だが、今の私にはそれから何も心を動かされることはなかった。さて、私はこんな奴だっただろうか。周りの人から心配されても、感謝の気持ちも嬉しさも、何も感じない奴だっただろうか。いつもどおりの私はどんな奴だっただろう。思い出せない。思い出せない。思い出せない。三度思い出そうとしても思い出せなかった。ああ、じゃあ、やっぱり私は最低な奴だったのか。私は自分を気遣ってる人に、こんな酷い感情を向ける奴だったのか。これなら一人なのも納得できる。こんな奴の側に誰もいたいなんて思わないだろうからね。私は一人でいるのがたぶん正解なんだろう。
  
 私は乾いた声で短くパチュリーに伝えた。

 「私、お茶会には行かないから」

 私の言葉にパチュリーが驚いたような顔をした。普段、感情を表に出さないパチュリーにはしては珍しかった。だが、私はそれを理性で理解するだけで、心のなかでは本当に何でもよかった。というか、パチュリー、どうでもいいだろう、私のことなんて? 狂ってる奴は放っておくのが正解だと思うよ? パチュリーは賢いんだから、そんなことくらいわからないと駄目だよ?

 「何を言ってるの、妹様……?」

 パチュリーは信じられないというような目で私を見ていた。私には何が信じられないことなのかわからなかった。小悪魔もびっくりしたような目を私に向けていた。パチュリーがそんな顔をするから、小悪魔も驚いてるじゃないか。……え、違うって? 小悪魔は私について、驚いてるんだって? あはは、そんなことないよそんなことあるはずがない。私はいつもどおりじゃないか。私は元からこんな奴だって、みんな知ってるでしょ? 小悪魔が私に驚くことなんて何一つないだろう。

 「レミィのお茶会に行かない――本気でそう言ってるの?」

 呆然とした声を出すパチュリー。その弱々しい声はパチュリーらしくなかった。いつものパチュリーは静かで、でもどこか芯の通ってる強い声をしているはずだった。どうして、今のパチュリーはこんな声をしてるのだろう。私は胸に染みるような不愉快さを感じながらも、言った。

 「うん。そう聞こえなかった? 私はお姉さまのお茶会には行かない」

 必要なことは伝えた。もう言い残すことはなかった。これでパチュリーはきっとお姉さまに伝えてくれるだろう。そうすれば万事解決のはずだった。そこで、ふと疑問に思う。どうして私はお姉さまのお茶会に行かないと決めたんだろうか。少し考えて思い出す。……そうだ。お姉さまやみんなを傷つけないためだった。私が狂ってるから、みんなを傷つけてしまうんだった。だから、私は地下室にこもらないといけないんだった。確かそうだったはず……。まあ、なんだかどうでもよくなってきたけど、とにかく私が地下室に帰ればいいんだろう。それで解決だ。めでたしめでたしである。

 だが、パチュリーは私を地下室に帰したくないようだった。パチュリーは悲しげな目を向けて私に言った。

 「でも、咲夜の言葉だと、レミィは妹様といっしょにお茶を飲むのを、とても楽しみにしてるみたいよ……?」



 へぇ。
 
 パチュリーのその言葉は私の興味をひきつけた。

 お姉さまはとても楽しみにしてるんだ。

 お姉さまは楽しいのか。
 
 私はこんなに苦しいのに。
 
 苦しくて苦しくて仕方ないのに。

 私は苦しいのに、お姉さまは楽しいんだ。

 じゃあ、私も楽しいよ。

 苦しいけど楽しいということにしておこう。

 思わず、笑いそうになるくらい楽しいということにしよう。

 こんな喜劇、笑わずにいられるほうがおかしいもんね。



 私はパチュリーに伝えた。げらげらと腹を抱えて笑ってる心の隅にあった、冷たく固い心が、使い物にならなくなってしまった心の代わりに答えてくれた。

 「そんなこと知らないよ。とにかく私はお姉さまのお茶会には行かない。ただそれだけだよ」

 言っている自分でも寒くなるような声だった。カチカチでギラギラな刺さりそうな声が鼓膜に刺さって痛い。だが、パチュリーは負けずに、再び私を引きとめようとした。パチュリーはそれでも私を気にかけてくれた。

 「でも、妹様――」



 そして、


 私は、


 また、


 爆ぜた。



 「うるさいよ、パチュリー! どうして、私があいつの言う通りにしないといけないのさ!」


 ――その言葉で私は正気に返った。



 狂気にまどろんでいた私は、自分の声に叩き起こされていた。



 心の中で膨らんでいた、不愉快な声が静かになる。私の心はようやく、正常な状態に戻っていた。本当のいつもどおりだと感じられるところに帰ってきていた。

 だけど。

 もう、心は死んでしまった感じだった。

 ――『あいつ』。

 お姉さまを『あいつ』呼ばわりした事実が、私の心を刺していた。

 お姉さまを『あいつ』と呼んでしまった自分が、信じられなかった。

 今まで、お姉さまを『あいつ』なんて呼んだことはなかった。そんな汚い言い方をしたことはなかった。

 ……私は、本当に、何をしているんだろう?

 どうして、自分の言いたくないことを言ってるのか不思議でたまらなかった。

 じわり、と後悔と罪悪感が、心のなかに広がっていた。

 そして、パチュリーが私を見ていた。紫の綺麗な目が、悲しみと驚きにきらきら光っている。小悪魔は涙目になっていた。どうして、私が急に怒鳴り出したのか、わからないようだ。気の小さい小悪魔はただ目を丸くして、私を怖がるように見ていた。

 二人は傷ついていた。

 私を心配してくれた二人は、明らかに私の言葉で傷ついていた。

 右手も何も関係なく。

 破壊の能力などなくても。

 私は二人を傷つけていたのだった。

 私は何も言えなかった。もう何を言おうにも口は動いてくれるとは思えなかった。弁解することも否定することもできず、私は黙ってるしかなかった。

 「……そうか」

 小さな掠れた声が沈黙を切った。パチュリーだった。疲れてしまったかのようなため息をついて、パチュリーは言った。

 「今の妹様は……もう、そこまでいってしまったのね……」

 パチュリーは私から視線を外した。そして、私と話している中、ずっとテーブルに置いていた本を手にとり、広げる。そこでようやく、私はパチュリーが私と話をするのに真剣になってくれていたことを悟った。パチュリーが本を手放すことなんてそうそうないことだった。鈍い私は今更ながらに、そのことに気づいていた。
 私はそのまま何も言わず、パチュリーに背を向ける。他でもない。地下室に帰るためだった。皮肉にも、狂った私が言うとおり、私には地下室に帰るしかなかった。
 だが、一歩踏み出したところで、「妹様、ちょっと待ちなさい」とパチュリーに呼び止められた。パチュリーは本から目を離すことなく、私に尋ねた。
「そういえば聞いてなかったけど、妹様は何のために図書館に来たの?」
……私はパチュリーの言葉に、さびついた喉を動かして答えた。
「……ちょっと小説でも借りようかと思ってね。今の私は何かやってないと、気がすまないから。でも、あんまりおもしろそうな本がなくてね」
「……そう。小説ね」
「ちょっと待ちなさい」と言いながら、パチュリーは一度本を置いて、引き出しの中を探る。そこから何十枚もの紙を取り出して私に渡した。それは何も書かれていない、真っ白な紙だった。
「妹様の部屋に、ペンはあるわね?」
「……うん、あるけど」 
私は何も訊かず、パチュリーの差し出した紙の束を受け取った。パチュリーは私に紫水晶のようなきらきらした目を向けながら言う。
「頭を動かしていればいいんでしょ、妹様?」
「……うん」
「じゃあ、何か文章でも書きなさい」
「…………」
「本は読むだけじゃないわ。書くことも勉強になる。むしろ、書いてるほうが頭を使うものよ。だから、物語でもなんでもいいから、文章を書いてみたらどうかしら? あんまり読書をしないレミィならともかく、妹様はいろんな本を読んでるから、きっとすぐ書けるようになるわ」
パチュリーは私の目を、澄んだ目で見据えながら言った。
「……悪いけど、今の私にできるのはこれくらいだわ」
そうして、パチュリーは膝の上の本に視線を戻した。
 パチュリーはもう私を見ることはなかった。
 ただ、どこかつらそうに目を細めて、本のページをめくっていた。
 小悪魔ももう私を見てはいなかった。神妙な顔をして、主が本を読んでいる姿を見つめていた。
 
 ――帰ろう。

 私は歩き出した。

 ――地下室に、帰ろう……

 私はパチュリーの本を捲る音だけが響く図書館を後にした。
 
























 ある館に二人の姉妹が住んでいました。
 姉妹は吸血鬼と呼ばれる妖怪でした。
 吸血鬼とは非常に強い力をもつ妖怪で、たくさんの妖怪を従えているものでした。
 そのため吸血鬼は人間、妖怪の両方からとても恐れられていました。
 ですが、館の主であるお姉さんには臣下の妖怪はあまりたくさんいませんでした。
 一人の人間のメイド長、一人の妖怪の門番長、それから、たくさんの妖精メイド。
 お姉さんの家臣たちは普通の吸血鬼に比べれば、とても少ないものでした。
 でも、お姉さんの臣下たちは忠臣ぞろいでした。
 メイド長は人間でしたが、とても有能なメイド長でした。
 料理、洗濯、掃除、会計……何をやらせても一流の、凄腕のメイドでした。
 メイド長はとても優しい人柄で、お姉さんや妹の世話を甲斐甲斐しくしてくれました。彼女は彼女たちのわがままもちゃんと聞いてくれました。
 お姉さんも妹もメイド長の作るお菓子がとても好きでした。
 妹は人間のメイド長が大好きでした。
 門番長は妖怪でしたが、あまり妖怪らしくない妖怪でした。
 昼寝が大好きでメイド長に見つかっては叱られていました。
 ですが、いざというときに門番長はとても頼りになる人物でした。門番隊の隊員も彼女のことを隊長として尊敬していました。
 お姉さんの信頼も厚く、妹も門番長にいろいろなことを教えてもらいました。
 妹は妖怪の門番長が大好きでした。
 館に住んでいるのはお姉さんと妹、その臣下たちだけではありません。
 お姉さんには友達もいます。館の図書館には魔女とその使い魔が住んでいました。
 魔女はとても愛想が悪い人でした。いつも本ばかり読んでいて、それ以外のことにはまったく興味がないように見える人でした。
 でも、魔女は本当はよく他人を観察しているのでした。
 皆のことをちゃんと見ている魔女は、ときどき助言をして周りの人を助けていました。お姉さんも妹も魔女に何度も助けられていました。妹は彼女の本を貸してもらうこともありました。
 妹は魔女のことが大好きでした。
 魔女の使い魔はおっちょこちょいで失敗ばかりしてました。魔女に言いつけられたことができないことがたくさんありました。
 でも、みんなは彼女が一生懸命なのを知っていました。失敗は多いけど、魔女も彼女のことを可愛がっていました。妹もこの使い魔のことを応援していました。
 妹は使い魔が大好きでした。
 妖精メイドたちはあまり働かないメイドでした。仕事をサボるので人間のメイド長を困らせることがしばしばありました。
 けれど、彼女たちはいるだけで場が明るくなるのでした。少し能天気だけど、彼女たちがいるおかげで館は寂しくなることもなく、いつでも賑やかでした。
 妹は妖精メイドたちが大好きでした。
 そして、妹のお姉さんはとても素敵な人でした。
 お姉さんは館の中だけじゃなくて、外にも友達がいます。
 巫女や魔法使いの友達もいますし、他の妖怪とも広く面識がありました。
 お姉さんにはたくさんの友達がいました。
 お姉さんはわがままな性格でしたが、本当はとても優しく、たくさんの人に慕われていました。
 気まぐれな屋敷の妖精メイドたちもお姉さんを主として認めていました。
 お姉さんは人見知りをする妹のことをとてもよく面倒を見てくれました。
 いっしょに本を読んだり、いっしょにご飯を食べたり、いっしょに外を散歩したり、いっしょにお茶を飲んだり。
 お姉さんは妹のことを見捨てようとはしませんでした。
 人付き合いの苦手な妹をお姉さんは引っ張っていきました。
 お姉さんは妹をとても大事にしてくれました。
 妹はお姉さんが大好きでした。
 妹は本当にお姉さんが大好きでした。
 妹はこんな素敵な人たちに囲まれて生きていました。
 そして、妹は、何もかも破壊してしまうような恐ろしい能力をもつこともなく、一人寂しく地下室に閉じ込められることもなく、何より、狂っている、などということはありませんでした。
 妹を狂っていると思う人は誰一人、いませんでした。
 それどころか、素敵な人たちは妹のことが好きでした。
 みんな、妹のことを好きになってくれたのでした。
 だから、妹はとても幸せでした。
 狂っていない妹はお姉さんといっしょに外に出て、友達をつくる努力を一生懸命にしました。
 やがて妹はたくさんの友達をもつことができました。
 妹はお姉さんや立派な家臣たち、大勢の友達に囲まれて、幸せに暮らしましたとさ。

 めでたしめでたし。





 そうなればよかったのにね。

 本当に――そうなればよかったのにね。




 びりっ! ばりっ! ばりりっ!



 馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい馬鹿らしい!!



 私は紙を破り捨てた。自分の書いたでたらめをこれでもかと破り捨てた。千切って千切って、破いた紙を床にばら撒いた。原稿用紙数枚分程度のその文章が憎らしくて仕方がなかった。私は肩で息をしながら、細かくなって地面に投げられた紙切れを見つめていた。

 

 幸せ、何それ? 幸せって本当に何? 幸せって日本語? 聞いたことはあるような気がするんだけど、それが何だか、よくわからないんだ。

 
 誰か教えてくれるだろうか。

 幸せの意味を。

 ……教えてくれないよね。

 誰も私に教えてくれるはずがなかった。

 狂った私に誰かが教えてくれるとは思えなかった。

 いや、そもそもあるのだろうか。

 幸福なんて存在が。

 私にとって、幸福という存在自体、あるんだろうか。

 フランドール・スカーレットが幸福になることはありえるんだろうか。

 わからない。

 わからなかった。

 わからないまま、ただ憎らしかった。
 
 自分が書いたあのでたらめの『妹』が。

 下らなかった。
 理不尽だった。
 馬鹿らしかった。
 つまらなかった。
 腹立たしかった。
 不愉快だった。
 忌々しかった。
 憎らしかった。

 そして、ただ、ただ――



 羨ましかった。



 どうして、彼女は幸せになれたんだろう。
 物語では幸せになれるのに。
 どうして、この私は幸せになれないんだろう。
 その答えもやっぱりわからなかった。
 どこから現実は捻じ曲がっていったのか。

 どこから狂ってしまっていたのだろう。

 どこから私は不幸になったのだろう。

 

 ……いや、わかっている。

 わかっているんだ。

 どこから狂ってしまったかなんて。

 どこから私が不幸だったかなんて。

 そんな答え、私だってとっくの前から知っているんだ。


 でも。


 その答えを否定したかった。


 私は別の真実が欲しかったのだ。

 もっと優しい真実が。

 フランドール・スカーレットにとっての優しい真実が。

 だけれど、見つかることはなかった。

 何を探しても。

 どこを探しても。

 いつでも、いつまでも。

 必死に別の真実を探しても。

 現実はいつも私に一つだけの真実を突きつけてきて。

 そして、結論はいつも同じだった。

 私にとっての優しい結論は手に入れることは出来なかった。

 でも、それでも私はやめられなくて。

 もしかしたら、もっと探せば見つかるんじゃないかと思って。

 生きていればそんな結論があるかもしれないと期待して。

 欲しく欲しくて仕方のない、その答えを。

 頑張って探して。

 見つからなくても、長い間我慢して。

 地下室の中で考えて、考えて。

 そうやって、私は生き続けてきた。

 ……だけど、見つかることはなかった。

 やっぱりないものはないんだ。

 どれだけ探しても存在しないものは存在しないんだ。

 存在しないものは探しても見つからない。

 私にとって優しい真実なんかないんだよ。




 私が、



 幸せになれる可能性なんて、



 どこにも、



 ないんだ。



 そして、私はようやく気づく。

 幸せが何かもわからないのに、幸せがどこかにあるかわかるはずがないんだ、と。

 幸せがそもそもないのに、幸せがどんなものであるかわかるはずがないんだ、と。

 わからないから、探せない。

 探せないから、わからない。

 見事なまでに論理は完成していた。

 ぐるぐる循環する世界は完璧だった。

 出口がない迷路は完全だった。

 それなのに、私は幸せになりたい、なんて思っていたなんて。 

 ……まったく馬鹿だよねえ。

 私って、本当に馬鹿だよねえ。

 自分で呆れて笑ってしまうほど、私は馬鹿な奴だった。

 私はパチュリーの図書館から帰った後、すぐに眠った。ただ私は疲れていた。パチュリーからもらった紙を机の上に置き、ベッドの中に入った。4時間ほど眠ったのだろうか。時計は午後の2時になっていた。起きたとき、もう私は自分の心の調子がおかしいのかおかしくないのか、わからなくなっていた。いや、おかしいのはわかるんだけど、それを問題だと考えなくなっている、といったほうがいいんだろうか。私の心が自分のものでないような感じがするのに、私はもはや不快感さえ感じなくなっていた。
 そして、私はパチュリーの言われたとおりに机の上で、白い紙と向き合った。何を書こうかと考えることもなく、私はペンを動かしていた。そして、一時間くらい後に、あの物語が出来上がっていた。

 傑作になると思って書いてたんだけどなあ。
 私は、地面に散らばった紙くずを見ながらそう思った。
 だが、実際に出来たのは、ただのでたらめだった。
 けれども、でたらめなあの物語の世界が、どうしようもなく眩しかった。
 あの物語の『妹』が羨ましかった。

 ああなりたかった。

 本当にああいう風になりたかったのだ。

 ……本当だよ。

 私はみんなと幸せになりたいんだ。

 みんなと幸せにならないと駄目なんだ。

 誰か――信じて。

 誰か、信じてください。

 お願いだから、信じてください。

 私もみんなに囲まれていたかった。
 みんなといっしょに笑っていたかった。
 本当に私もみんなと幸せになりたかった。

 でも、仕方なかった。

 私は狂ってるから。

 気がふれてる、情緒不安定、狂っている……

 どんな言葉でもいい、どんな言葉でもいいよ。

 それが誰もいっしょにいてくれないということに変わりはないんだから。

 私のそばにいてくれる人は誰もいない。

 どれだけ仲良くしても、狂った私は何もかも台無しにしてしまう。

 だから、結局、私の隣には誰も立ってくれない。

 私のそばには誰もいられない。

 ……正直、苦しかった。

 誰か助けてくれないだろうか。
 それでも狂っている私でも助けてくれる人はいないだろうか。

 私はそんな都合のいいことを考えるが、朝のことを思い出して自嘲した。
 美鈴が私を助けようとしてくれたじゃないか、と。
 美鈴は確かに私に手を差し伸べてくれた。
 だけど、駄目だった。
 私の右手には美鈴の『目』があって。
 私は美鈴を壊しそうになって。
 だから、私は美鈴の手を握れなかった。
 何でも壊してしまう右手では、私は誰の手も握れないのだ。
 そして、私は否定した。
 美鈴の好意を否定してしまった。
 私のことなんてどうでもいいだろうって。
 美鈴だけじゃなくて、咲夜も、パチュリーも、小悪魔も。
 それから、きっとお姉さまも――
 私はみんなの好意を否定していたのだ。

 誰が好きになってくれるだろうか、こんな奴を。
 
 好きだと言っても、誰が信じてくれるだろうか、こんな奴の気持ちを。

 そして、それは全部、私のせいなのだ。

 私が私を駄目にしてしまった。

 ……本当に行き詰まりだった。

 きっと、ここが私の限界なのだ。

 フランドール・スカーレットの限界。

 私はどんなに時間が経っても、紅魔狂でしかないのだろう。

 出口のない迷路はどうしようもなく行き詰まりだった。

 ――口から自嘲の息が漏れる。私は自然に笑い出していた。 
 
 私は狂っていて。
 私は誰でも壊してしまう。
 だから、誰も近寄れないし、誰も助けてくれない。
 私は誰のためになることもない。
 誰かに好きになってもらうこともない。
 誰かを好きになることはあっても、それを伝えようとすることもできない。
 誰も私の気持ちをわかってはくれない。


 ――腹を抱えるほどおかしかった。

 こんな喜劇、笑わないほうがどうかしてる。


 私は自嘲していた。陰気な地下室に苛立たしい笑い声が響いた。自分の声と思えぬその声は、どうしようもなく自分の声だった。どうしようもなく私は終わっていた。終わりすぎていて笑うしかなかった。不愉快な笑い声はやまなかった。やがて、不愉快なのかもわからなくなるのだった。涙が目尻に溜まるくらい、私は笑い続けた。でも、目尻に溜まった涙は流れることはなかった。涙を流さないで、私は笑いに震える身体を椅子の背もたれにだらしなく任せていた。


 ――疲れた。

 私はただそう思った。
 
 疲れて疲れてしょうがなかった。

 もう、何をするにも疲れてしまった。

 私は疲れたまま、惨めに笑うしかなかった。

 



 ――そうやって、私が何もしないでいると、こんこん、とドアがノックされた。

 誰か来たらしい。正直、返事をするのも面倒くさかったが、一応答えることにした。

 「開いてるよ」

 私がそう返事すると、「……失礼します」という声が聞こえた。その控えめながらもはっきりとした声は聞き慣れたものだった。

 入ってきたのは咲夜だった。
 咲夜はすでに顔を暗く、悲しそうにしていた。
 どうして咲夜がそんな顔をするのか、心配する私がいる一方、こんなことがおかしくてたまらないという私がいた。
 ぐちゃぐちゃのミックス状態の心のまま、私はにやにや笑うのをやめずに、咲夜に話しかけた。

 「どうしたの、咲夜? 何か、私に用でもあるのかな?」

 私の声を聞いて、さらに咲夜の顔がゆがむ。咲夜はつらそうに目を細めて私を見ていた。

 「……レミリアお嬢様がフランお嬢様をお茶会に誘っていらっしゃいます」

 へえ、と私は笑うのをやめることなく、呟いた。まだお姉さまは私をお茶に誘うなんて言ってるんだ。気のちがった妹と一度だけじゃなく、二度もお茶を飲もうとするなんて、あのお姉さまも趣味が悪いね。いや、あえて趣味が良いと言ってあげるほうがいいのかな? まあ、何にしろ、私にとっては不愉快なことで愉快なことだった。不愉快愉快、実に重畳だ。

 「あいつがまた私を呼んでるんだ。あいつも懲りないね」

 お姉さまを『あいつ』と呼んだとき、私の胸がずきりと痛たくなるのを感じた。そして、私の顔が笑う以外の動作をするのを感じる。どうして胸が痛み、顔が不思議な動きをするのか、私にはもうその理由を思い出せなくなっていた。そんな私を咲夜はどうしてかとても悲しそうな目で見ていた。やがて、咲夜は目を瞑むって何かを耐えるような顔をしていたが、しばらくして目を開け、真っ直ぐに私を見ながら言った。

 「レミリアお嬢様はフランお嬢様とお茶を飲まれることを本当に楽しみにしております……どうか、レミリアお嬢様の私室にいらっしゃってください」 
「ふーん、そうなんだ。どうしようかな」
もう私にはやることはなかった。パチュリーにもらった紙はまだ余っていたが、もう文章を書く気にはなれなかった。読む本もない。はっきり言って、私は暇だった。
 私はすぐに結論を出して、咲夜に言った。
「わかったよ、咲夜。あいつのお茶会に行くことにするよ」
『あいつ』と言った瞬間、また胸がつまったように苦しくなり、顔が変な動きをした。気持ち悪かったが、そんなことを気にするのも面倒だった。咲夜は私に「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。そして、私をお姉さまの私室に案内するために先へと立った。私も咲夜についていくために、椅子から立ち上がる。

 そのとき、

 『どうして行くんだ!』
 
 という大きな声が聞こえた。どこか聞き慣れたような声だったが、思い出せなかった。私は気にすることもなく、咲夜のあとについていく。

 『お姉さまのお茶会には行かないって、決めたじゃないか!』
  
 また、その声が聞こえた。だが、私は気にならない。そういえばそうだったか、と思うこともあったが、まあ、気が変わったのだ。どうして行くのかと訊かれても、ただ行きたいからとしか答えられない。もう、あれこれ深く考えなくていいじゃないか。

 私が誰のものかわからない声に答えていると、ちょうど、咲夜がドアを開けるところだった。


 私は、ドアを開けようと背中を見せた咲夜に、悪戯心を起こした。



 咲夜を壊してしまうのも、楽しいかもしれない。



 私は咲夜に気づかれないように、咲夜の『目』を右手の上に移動させた。黒々とした『目』は私を魅了するように見つめていた。この『目』を潰せば、私は咲夜を破壊することができる。私のことをいろいろと思いやってくれるこのメイド長を殺すことができるのだ。



 どんな気持ちだろう。

 そんな『大■きな■』を殺す気持ちは。



 粉々になった咲夜の身体。
 咲夜のものであった残骸が、私の部屋を緋色に染める。
 床に転がる、胴体を失った咲夜の頭。
 頭だけになった咲夜は、私に殺されたと知ってどんな顔をするのだろうか。
 メイド長が死んだと聞いて、恐慌する妖精メイドたち。
 今朝見たときより、美鈴はもっと酷い顔をしていた。
 小悪魔が涙をこぼして私のことを怖がっている。
 パチュリーは目を伏せてしまって、もう何も言わない。
 
 そして、お姉さまが――

 そして、お姉さまは――

 お姉さまの顔が映り、咲夜の顔が映り、私の知っている人たちの顔が、頭の中を駆け巡ってゆく。

 ……ああ、どうだろう、それは。

 どうなんだろう、それは。

 ……私が咲夜を殺して、

 殺して、殺したら、殺せば、殺したとき、

 私をみんなが――

 咲夜も、みんなも、お姉さまも――



 「フランドールお嬢様?」



 気づくと咲夜が私のことを見ていた。相変わらず、咲夜は心が痛んだような顔で私のことを見ていた。
 我に返った私はようやく気づいた。
 自分が咲夜にそんなつらそうな顔をさせているのだと。
 思わず、私は咲夜から顔を背けた。
 そのまま私の目は右手を映した。
 もう右手の上には咲夜の『目』はなかった。
 私は破壊の能力で咲夜を殺すことはなかった。
 
 「……何でもないよ」

 私は短く答えて、咲夜の開けてくれたドアをくぐった。

 私の心は空っぽだった。
 






















 私――レミリア・スカーレットは自分の部屋で妹のフランドール・スカーレットが来るのを待っていた。
 私の前のテーブルにはたくさんのものが並んでいた。
 華麗な装飾が施されているティーポットやティーカップ、咲夜の焼いたクッキー、美鈴が人里で買ったという煎餅、そして、パチェとその使い魔が作ったという茶葉を入れた茶筒など。
 
 私は午後のお茶会の準備をして、フランを一人待っていた。

 フランは来てくれるかだろうか。

 そのことが少し心配だった。私の予想ではたぶん来るのだろうけど、来なかったときは別の方策を考えなければならなかったからだ。そして、そのときのほうが今、私が想定している状況よりも少し穏やかで、少し面倒くさいのかもしれなかった。

 「――まあ、どちらにしろ、諦めるつもりはないんだけど」
 
 私はそう一人ごちて、午前中のお茶会での会話を思い出していた。







 午前のお茶会。

 私は自分の私室で、パチェと向かい合ってお茶を飲んでいた。
 お茶はあまり美味しくなかった。
 だが、それはパチェの魔法で作った茶葉を使ったからではない。このお茶会の前に、私はすでにその茶葉を使った紅茶を試していた。それは少し風変わりな味ではあったが、お茶会に使われる紅茶としては合格点以上だった。
 だから、紅茶が不味いのは、パチェのせいではない。

 私は、誰も座っていない椅子と、その前に用意され、だが使われることのなかったカップやスプーンを見た。

 フランは午前のお茶会に来なかった。

 ……よほど今回は運がないようだ。覚悟していたことではあったけど、まさか本当にこんな悪い目が出るとはね。

 空になったパチェのカップに紅茶を注ぐ。親友は膝の上の本を捲りながら、「……ありがとう」といつもよりさらに小さな声で私にお礼を言った。

 私の部屋にいるのは私とパチェだけではなかった。咲夜はメイド長だからここにいても何もおかしくはないが、門番長の美鈴もまたここに集まっていた。パチェと同じく、二人の表情は決して元気なものとは言えなかった。

 私は彼女たちから話を聞いていた。
 
 すなわち、フランが今、狂気に飲まれてしまっている、ということを聞いていた。

 どうやら、今回のフランは今まで経験した中でも、一、二番くらいに酷い発作のなかにいるらしい。私は咲夜たちの言葉と、それを語る彼女らの表情からそのことを知った。
 
 早すぎたのか、それとも遅かったのか。

 今回のお茶会への誘いのタイミングは、最悪だと言えた。
 臆病で、怖がりで――そして、何より心の優しいあの子のことだ。きっと自分の破壊の力で、誰かを傷つけないように、と何とかして私のお茶会を断ろうと考えていたはずだった。それもきっと私を納得させられるような方便で。もし、私がフランをお茶会に誘わなかったら、フランはそんな気遣いをすることもなく、自分の狂気を耐えることに専念できたかもしれなかった。

 でも、ここまで『極端』な事態になるとはね……

 少々の騒ぎは覚悟していたが、私はこのお茶会を平穏に終わらせるつもりだった。フランを苦しめるつもりは全くなかった。だが、今回は、もう手遅れのところに進んでしまっているように思えた。確かに、今の状況でも、『騒ぎ』は一切起こっていない。しかし、それは目に見えるような形になっていないというだけで、すでにフランは十分すぎるほど傷ついているだろう。今日一日のこの狂気が終わったとしても、フランは明日から、暗い気持ちで生活しなければならないのかもしれなかった。
 
 私がフランをお茶会に誘わなければよかったか……

 私はテーブルの上で小さな山のように用意された、お茶会のためのお菓子やポットを見ながら思った。

 そもそも私はフランをお茶会に誘うべきではなかったのかもしれない。
 もし、フランの狂気に耐えられるのがフランだけなら。
 私たちはただ見ていることしかできないはずだった。
 フランだけにしかフランの狂気を背負えないのなら。
 むしろフランを放っておくことこそ、私たちが本当にするべきことなのかもしれなかった。
 
 だけれど――

 それでは同じなのだ。
 
 狂気の前と後で、フランは何一つ変わることがない。
 むしろ、このまま狂気の発作の経験を重ねていくなら、フランは自分から私たちに話しかけることさえなくなってしまうだろう。
 あのお馬鹿さんで、恐ろしく心の優しい妹は、自分が誰かを傷つけることを恐れて。
 自分が誰にも必要とされないと勘違いして。
 たとえ発作が起きていないときでも、フランは一人でいなければならなくなるだろう。



 でも――
 そんな必要はないのだ。
 フランが一人で地下室に閉じこもる必要は、もうないのだ。
 私はちゃんとその答えを知っていた。
 あやふやで、危うくて、脆い解答だけれど。
 運がよかった――ただそれだけなのかもしれないけれど。
 でも、その答えには大切な根拠があった。
 当たり前で、だけど、なかなか目を向けることができない根拠が。
 だから、私は教えてあげなければならなかった。
 フランに、その答えを伝えてあげなければならなかった。
 もうここまで問題は大きくなってしまったのだ。
 生半可な答えではフランは納得してくれまい。
 だから、フランに答えを教えてあげよう。
 私のもてるだけの答えをフランに伝えてあげよう。
 それが私がフランにできる、たった一つのことだった。


 「……で、レミィ、これからどうするの?」


 パチェだった。パチェは本から顔を上げて、私を真っ直ぐに見ていた。
「妹様はあんな状況だけど、どうするの、あなたは?」
パチェの目がどこか私を咎めるように見ていた。

 『これから私はどうするのか?』

 それは、私に何かをしろ、と促す言葉ではない。
 むしろ、私に、絶対に何々するな、という抑止の言葉なのだろう。

 この七曜の魔女とはまだ100年も付き合っていないが、この少女は私のことをよく知っていた。
 パチェはこれから私がしようということをお見通しなのだろう。
 もし、このまま何も言わずにいたら、私はパチェに黙って、自分の思うがままのことをしようとするから。
 だから、私の先を制する意味もこめて、パチェは私に言葉をかけたのだ。
 さすがは私の親友だ、と少し愉快な気分になった。
 嘘をついても仕方あるまい。私は正直に答えることにした。

 「――フランをもう一度、お茶会に招待するつもりだけど?」
 
 私の言葉にパチェは眉を曲げた。ここまで露骨に七曜の魔女が怒りを表すことは珍しかった。

 「……妹様をお茶会に招く、ね。そう言うと思ったわ」
「すごいわね、パチェ。まるでエスパーみたい」
「茶化さないで、レミィ。……あなた、本気でそんなこと考えてるの?」
パチェの声は静かだったが、語勢のところどころに熱い怒りがこもっているのが感じられた。対する私は落ち着いて答える。
「ええ、本気よ。私はフランをもう一度お茶に誘うわ」
私の言葉にパチェは紫の瞳を火のように輝かせて言った。

 「レミィ、あなた、死ぬわよ?」

 パチェは私に矢のような視線を投げかけながら続ける。私が思わず黙ってしまうほど、パチェの眼力は強かった。
「残念だけど、今の妹様は導火線に火のついた爆弾と同じようなものよ。下手に触ろうとすれば爆発に巻き込まれてしまう。ダイナマイト程度なら、死ぬことはないだろうけど、妹様のはそんな生やさしいものじゃないわ。妹様の破壊の能力なら、吸血鬼のあなただって確実に死ぬわよ」
言い終わって、親友は、ふう、と大きく息を吐いた。それから、「それに、」とパチェはつらそうに目を曇らせる。

 「あなたは、妹様の気持ちを無駄にするつもりなの?」

 パチェの言葉は正しかった。今のフランに会おうとすることは、きっとフランの意思に反することなのだろう。フランは自分から地下室へと戻った。それはきっと私達を破壊の能力から遠ざけるためだ。フランは狂ってしまった自分の精神が私達を壊すことを恐れて、地下室に引きこもったのだ。
「妹様は今、自分の狂気と必死になって戦ってる。私もうかつに妹様に話しかけるべきじゃなかったかもしれない。つらいけど、今の妹様はこのままにしておくしかないわ……」
そう言って、パチェは目を伏せるのだった。
 私は反論しなかった。パチェも何も言わなかった。咲夜も美鈴も黙ったままだった。ただでさえ静かだった部屋がさらに静かになった。それは息が詰まるような沈黙だった。
 息をする音と壁にかかっている時計の音だけが聞こえる中、私は考えていた。
 考えて考えて。
 自分の考えが果たして間違っているかどうか考えていた。
 もし、今、フランと会おうとしたら、それは私のエゴなのだろう。
 フランは私に会いたくないのだろうから。
 だから、フランの意思を尊重するなら、今日はもう、フランを放っておくべきなのかもしれなかった。
 それでも。
 私がフランに会おうとするなら。
 その行為にはそれだけの意味があってしかるべき、ということだろう。

 どうだろうか。
 私はフランを苦しめてでも、自分の決めたことを実行することを肯定すべきなのか。
 私は考える。

 そうして、考えて、考えて、考えて――

 私はやるべきことを決めた。

 「咲夜、」
私は傍らに控えているメイド長を呼んだ。咲夜は「はい」とすぐに私の呼びかけに応じた。
「お昼の後、お茶の準備をしてちょうだい」
「…………」
「午前と同じ準備でいいわ。それから、」

 私は咲夜の目を見ながら言う。

 「フランを呼んできてちょうだい」

 咲夜は数秒、何も言えずにいたが、やがて「……かしこまりました」と頭を下げてくれた。

 「レミィ、本気なの……」
パチェは信じられないという風に私のことを見ていた。
「本当に死ぬ気なの? 冗談抜きで、あなた、妹様に殺されるわよ……」
パチェは本気で私を心配する顔だった。こんなパチェの顔、あと50年は拝めないだろう。友達にそんな顔をさせたことを申し訳なく思いながら、私は言う。
「大丈夫よ、パチェ」
私は自分も含めて、みんなに言い聞かすために言った。

 「フランは殺さないわ」

 私はパチェを――世界を相手に言った。

 「フランは私を殺すことはない」

 「少なくとも、『今』のフランは私を殺さないわ」と私は言い切った。

 「……どうしてそんなことが言えるの? その根拠はどこにあるの?」
パチェの声は何かを一生懸命に探るような声だった。私の言葉の根拠を必死に考えているのだろう。
 常識的に考えたら、きっとパチェの考えのほうが正しい、と私も思った。今のフランはパチェの言うとおり、さわらぬ神に祟りなし、の状態なのだ。ここはフランと無理に会話するより、フランを放っておくことがはるかにベターだ。

 だが、ベストではない。

 私は自分の考えがベストである証拠をパチェに――みんなに伝えるために口を開く。

 「フランは495年間、私を殺さなかったわ」
 
 パチェは黙ったままだった。私はパチェの目を真っ直ぐ見つめながら言う。
 「その間にフランと会うことは、それこそ15万回じゃすまないくらいだったけど、私は一回も殺されなかった。まあ、ちょっとは痛い目に遭ったこともあったけどね。でも、フランの暴走で致命傷を負ったことはなかった」
「……それは、今まで運がよかったから、というだけじゃなくて?」
「ええ。そうかもしれないわね。でも、その実績からフランが私を殺す確率を計算すれば、それは限りなく0に近くなるはずよ」
私はそう言って、紅茶を一口飲んだ。パチェは相変わらず、私を強く睨んでいた。七曜の魔女は少しの思考の後に、低い声で言う。
「……詭弁だわ。確かに、これまで妹様がレミィを殺す確率は0%かもしれないけど、今ここで、それが100%になっても何一つおかしいことはないのよ……そもそも、その確率の出し方自体に私は疑問を感じざるを得ないわ」
パチェの言葉は力強かった。だが、私もここで折れるわけにはいかなかった。
「……パチェの言うことは正しいかもしれないわね。でも、これは信頼できる実績だわ。495年は決して短い時間ではない。これほどの永い時間、フランは私を殺さなかった。今日のように、フランの心が荒れた日も何度もあった。でも、フランは私を殺さず、私はこうして生きている。フランの狂気の理由はともかく、フランが私達を殺さない大きな要因が、フランの心のなかにあると考えるべきだわ」
パチェは黙り込んだ。理知的な光を放つ目を泳がせるように動かし、私に対して何と反論すべきか考えているようだった。やがて、七曜の魔女は言うべきことを決めたのか、口を開いた。
「でも、レミィが殺されない確率は100%ではないわ……」
パチェの顔は真剣だった。
「その確率が100%ならともかく、失敗したときのリスクが大きすぎる……。それに、」
パチェは、恐らく今話し合ってることで一番大切なことを私に尋ねた。

 「妹様をお茶会に呼んでどうするの?」

 パチェは必死な顔で言った。

 「レミィが死ぬリスクを犯してまで、妹様をお茶会に呼んで何をするの?」

 パチェが紫水晶の瞳に真剣な色を湛えていた。今まで黙っていた、咲夜と美鈴の視線も感じられた。

 私は真剣にそれに応えた。

 「証明するためよ」

 「何を?」

 「フランが私達を殺さないということを」

 「…………」

 「そして、フランの願いも叶えられるということを」

 パチェはじっと私を見ていた。咲夜も美鈴も私を見ていた。私はみんなに言った。

 「むしろ今やろうとしていることが証明なの。フランは絶対に私達を殺さないということのね」

 私は、これまでのフランの儚げな笑顔を思い出しながら言う。

 「フランが私達を殺したくないということはもう明らかだわ。本来のフランが私達を殺さないということは、考えるまでもなくQEDよ」

 私は、これまでのフランの悲しそうな笑顔を思い出しながら言う。

 「あとは、フランの気のふれている部分だけ。フランの狂気が私達を殺せないことを示してやればいい。『この程度の狂気なんかじゃ、フランは私達を殺すことはできない』、ということを証明すればいい」

 私は、これまでのフランの優しい笑顔を思い出しながら言う。

 「そうすれば、フランは私達を殺す心配なんかしなくていい。これからフランがたとえ狂気に苦しむことがあっても、その心配だけはする必要はない。苦しんでるときでも、私達に気を遣う必要なんかない」

 私は、いつかのフランの幸せそうな笑顔を想像しながら言う。

 「そうすれば、フランは狂気を気にして、一人になる必要はない」
 

 パチェはしばらく黙っていた。深く考えているようだった。私のことも、自分のことも、紅魔館のことも、そして、フランのことも考えながら、逃げることなく、私を見ていた。
 やがて、パチェは口を開いた。
「要するに、『賭け』ってことね?」
パチェは肩をすくめながら言った。
「妹様がレミィを殺す確率はかなり低い――まあ、レミィの主観からだけど。むしろ、このお茶会を無事に終わらせることで、妹様が誰も殺さないことへの証明になるとする。つまり、それこそが、この『賭け』のリターンである。だが、それゆえ、レミィは妹様に殺されるリスクは残っている。レミィが妹様に殺される確率はゼロではない。しかし、この『賭け』は十分に勝算がある『賭け』であり、リターンも非常に意味のあるものである。だから、レミィはこの勝負に乗る――まとめると、こういうことなのね……」
パチェの要約は非常に適切だった。私はうなずきながら言う。
「ええ。まあ、ぶっちゃけると、『フランだし、大丈夫でしょ? なんだかんだで死なないって♪』ってところなんだけどね」
「何が、『大丈夫でしょ?』よ……。まったくため息しか出ないわ。心配するこちらが馬鹿馬鹿しくなるくらいよ……」
パチェは呆れ顔をして、言葉通りため息をついた。もう七曜の魔女は反論しなかった。親友は私の言葉に納得してくれたようだった。
 パチェは今まで手をつけなかった、冷えかかっている紅茶をすすって、つまらなそうな顔をしていた。理性ではもう諦めているが、感情では私のことを心配してくれているのだろう。その上で、私の勝手を許してくれたことが、とてもありがたかった。
 
 それに――

 と、私は思う。

 もう一つ、理由があるのだ。

 私が今のフランに対して強気でいられる理由が。

 私はそれを再確認するためにパチェに尋ねた。

 「ねえ、パチェ、フランは私のことを『あいつ』って呼んだのよね」
「ええ……そうだけど」
「じゃあ、言った後のフランはどんな顔をしてた?」
パチェは首を傾げる。私の質問の意図を読み取ろうとしているのだろう。パチェは考えながらも言った。
「……とてもつらそうな、悲しそうな顔をしていたわ……」
「それは本当に? 私のことを蔑むような、馬鹿にするような感じじゃなくて?」
「……ええ。妹様は確かに……レミィを『あいつ』と呼んだことを後悔――するような顔を、していたわ……」
私の質問に答えているうちにパチェが、私の考えに気づいたようだった。パチェは、まさか、と顔を驚きに歪めていく。私としてはむしろ、この頭の回転の速い友人にしては遅かったな、と思った。まあ、フランのことだから、私が一番先に気づいて当たり前なのだけれど。私はあの子のお姉さまなのだから、このくらいのことはすぐに気づいてあげなければならないだろう。
 こんな些細なことだったが、私には強い勇気を与えてくれるものだった。少なくともこの世界の私にはとても重要なことだった。
 
 私はパチェに言った。

 「なら、今のフランはいつもどおりのフランだわ」

 私は宣言する。

 「今のフランは私達の知ってるフランよ。『あのとき』のような、私達の知らないフランじゃない。まだ、フランはこちら側にいる」

 その事実は私を安心させてくれるものだった。

 「『あのとき』のフランはわからないけど、今のフランは私を殺そうとはしないわ」

 いつもどおりのフランなら、私はいつもどおり、フランを信じることができた。

 「そして、今のフランなら、私達の言葉は届く。私達の声は伝わる」

 そこには勝機があった。
 
 確かに今のフランは不安定かもしれない。でも、基本はいつもどおりのフランなのだ。どうしてかはわからないが、思考が混乱し、感情が放逸しているとしても、今のフランの状態も正気のフランからの延長線上にあるのだ。だから、私達の言葉も、本来のフランの心に届いてくれる可能性は十分にあった。
 
 そして、それは同時に。
 
 苦しんでいるのは、狂っているフランではなく――

 私達のよく知っているフランだということを意味しているのだ。

 普段よく笑い、穏やかで優しいフランが、つらい思いをしている――

 だから、私はなおさら、フランを捨てられなかった。

 フランが苦しんでいるのに、何もできないでいるということが許せなかった。

 私はフランが苦しんでいるということを知っている。

 なら、助ける以外に選択肢はないじゃないか――



 はあ、とパチェがため息をついた。何度目のため息だろう。今日の七曜の魔女はため息をつくことが多かった。
「そのため息の原因の半分が、レミィだってことを気づいて欲しいけどね……」
パチェはそう言いながら、やれやれと首を振る。
「妹様をもう一度、お茶会に誘うのはわかったわ……じゃあ、」
パチェの目が一瞬、光ったような気がした。
「せめて私も同席させてくれるかしら?」
……私は少し考えてから、答えた。
「悪いけど、それは受け入れられないわ。フランとのお茶会をするのは私だけでいい」
「どうして?」
「ちょっとでも何かあったら、パチェはフランを殺す気でいるでしょ?」
その言葉にパチェは目を細める。図星のようだった。
「あなたはきっと私を守るために、フランを殺そうとする。だから、今回は認められないわ」
私がそう言うと、パチェは長い息を一つ吐いてから言った。
「……私はレミィの友達だからね。友達の命を気遣うのは当然でしょ」
「そうね……じゃあ、フランはあなたの友達じゃないの?」
私の言葉に、七曜の魔女は目を細める。普段のパチェだったら答えないだろう質問に、親友はつらそうに目を伏せながら、でも、はっきりとした声で言ってくれた。
「……あの子も私の友達よ。間違いなく、妹様も私の友人――」
その言葉が聞けただけで、私は嬉しかった。
「でも、レミィ、今は……」
「わかってるわ、パチェ。あなたの気持ちはわかってる。だから、それ以上言わないで」
パチェには本当に申し訳ないと思う。だけれど、きっとこれは私が解決すべき問題なのだった。
「でも、今回は私に任せて欲しい。心配かもしれないけど、私だけにやらせてちょうだい」
パチェはしばらく考えていたようだったが、やがて、恨めしげな目で私を見た。
「……ほんと、あなたも嘘つきよね」
パチェは呆れるように肩をすくめる。
「妹様は私達を殺さない、って言っておきながら、あなたは自分が妹様に殺されることを考えている。あなたは自分だけが犠牲になればいい、と思っている。ほんと、嘘つきだわ、レミィ」
私は何も答えなかった。パチェの言うとおりだったから。そして、親友はそれ以上、私に聞かないでくれた。私も本当に友人に迷惑をかける奴だった。

 だが、実を言うと、もう一つ、私は確信があったのだ。私はそれを言うために口を開いた。

 「それに、たぶん、」

 その言葉はパチェに言う言葉でもなく、誰に向けられたものでもなかった。

 「フランは私を殺せば満足するでしょう」

 パチェは何も言わなかった。ただ、私を静かな目で見つめている。咲夜も美鈴も押し黙るようにして、私を見ていた。
「それこそ確信はないけどね。でも、そんな気がする――」
私は可愛い妹の笑顔を思い出しながら言う。
「たぶん、フランは私を殺せば満足するのよ」
それは予感だったが、私の頭のなかに強い考えとして根付いていた。
「それは殺したい、ということじゃない。フランが私のことを殺したい、なんて考えてはいないことはわかってるわ。むしろ、殺したくない、という気持ちを信じてる。でも、そうすることで、フランにとって、ようやく終わるんじゃないかとも思うの」

 フランが私を殺す――
 もしかしたら、そのときに終わるのかもしれない。

 フランの495年が。

 私はそんな気がしてならなかった。
 だから、この賭けはフランにとって――そして、私にとって、悪い賭けではないのだ。
 勝っても負けても、フランは何かを得ることになるのだから。
 フランにとって、損はない。
 ……まあ、負けるつもりも、終わらせてあげるつもりもない。
 それが終わったところで、フランは幸せになれるわけではないだろう。
 フランが幸せになれるんだったら、まあ、死ぬのも考えてあげないことはないけど。
 だけど、それではフランは幸せになれない。
 フランの幸せはきっと別のところに存在するということを私は知っていた。

 ま、『終わり』だとかそんなのは余計な考えだ。

 今は忘れることにしよう。

 きっと今のフランに必要なのは、『終わり』なんかではない。

 私は一応の確認のために口を開く。誰にも向けられていないなんて曖昧な言葉ではなく、私はちゃんとみんなに伝えるための言葉を言った。
「……まあ、私が殺されたあとは、容赦しないでいいわ」
パチェだけじゃなく、美鈴や咲夜を見ながら、私は言う。
「フランが私を殺して、あなたたちも手にかけるつもりだったら、そのときはフランを殺していい。あなたたちにまで、犠牲を強要するつもりはないわ」
「……言われるまでもないわよ」
パチェがふてくされたように言う。もう完全に諦めてしまったようだった。
「レミィは自分が殺されることが想定内にあるんだから、頭がおかしいとしか思えないわ。むしろ、狂ってるのは妹様じゃなくて、レミィなのかもね」
「だから、そんなに心配しないで、パチェ。何だかんだで私は死なないから」
「ほんと、どこからその自信が来るんだか……」
「あら、フランのことを信じてれば、そんなものいくらでも後ろからついてくるわよ? それに、あんな可愛い妹を信じてあげられないほうが、私にはありえないことだわ」
「……シスコンが。本当に付き合いきれない……まったく馬鹿げてるわ」
そう言って、パチェは紅茶のカップを手にとる。七曜の魔女はため息を一つ長く長く吐いて、カップを口に運んだ。
 私は咲夜と美鈴を振り返る。私がパチェと話している間中、ずっと黙ったまま傍で話を聞いてくれていた二人に私は話しかける。まずは咲夜からだ。
「咲夜、今までの話、聞いていたわね?」
「はい」
咲夜は優しく微笑んでいた。私と妹の世話をしてくれるメイド長の笑顔は温かかった。
「何か間違ってることはあるかしら?」
私の質問に咲夜は瀟洒に微笑んで答えた。
「いえ、私が申し上げることはありません。それに、私が何を言ってもお嬢様は自分を曲げられることはないでしょう」
「……そうね」
私は苦笑する。私は友人に対してだけでなく、従者に対してもわがままだった。でも、咲夜は私を安心させるように笑ってくれていた。そして、咲夜は悲しげに目を細めて言う。
「私も妹様の苦しまれている姿を見たくありません。お嬢様と同じく、フランドールお嬢様は私にとっても主人でいらっしゃいます。ですが、私はフランお嬢様にして差し上げることは、これ以上ないでしょう。レミリアお嬢様にお任せするしかありません。そして、それをレミリアお嬢様も望まれているのなら、本当に私は何も言うことはありませんわ。ただ、気をつけてください、とだけ申し上げます」
「お嬢様も妹様もご無事でお茶会を終えられることをお祈りしております」――そう言って、咲夜は頭を静かに下げる。それから顔を上げた咲夜の顔は穏やかだった。咲夜の空色の目は澄んでいて、とても綺麗だった。
 咲夜の信頼が嬉しかった。
 「……じゃあ、午後のお茶の準備をよろしくね」
「かしこまりました」
咲夜は短く答え、気をつけの姿勢に戻った。
 私は今度は紅髪の門番長に訊く。前のメイド長であり、私の教育係でもあった、親友よりも長い付き合いである少女に、私は尋ねた。
「美鈴はどう思う?」
私の言葉に美鈴は苦笑しながら答える。
「ここまで結論出しておきながら、いまさら私に訊かないでくださいよ」
もっともな意見だった。私も美鈴の言葉に釣られて笑ってしまう。美鈴は私に肩をすくめて見せた。
「私も意見はありません。咲夜さんと同じで、ただ、気をつけて、としか言えません。まあ、そんなに心配はしてませんけどね」
そう言って、美鈴は遠くを見るような目をした。そんな美鈴の目は少し寂しげに見えた。やがて、美鈴は落ち着いた声で言った。
「フランお嬢様は495年間苦しんできました。そして、今もつらい目にあっています。もう十分でしょう」
美鈴の翡翠のような強い目が私を見ていた。
「……よろしくお願いしますね、お嬢様」
門番長は深々と頭を下げた。
 美鈴の信頼がありがたかった。
 


 そして、私は最後の質問をする。
 それはたぶん、この戦いで一番大切な真実。
 これだけは私が決めることはできない。
 決めるのは私ではなくて、みんなだからだ。



 私はそのことを尋ねた。

 その質問に、
 
 パチェは「何をいまさら……」と心底呆れたように首を振り、

 咲夜は「もちろんです」と優しく微笑んで答え、

 美鈴は「当たり前でしょう」と力強くうなずいてくれた。


 ――私は彼女たちに感謝するばかりだった。


 
 


 
 ……以上、回想終わり。

 私は改めて、これからのお茶会のために、二人分だけの用意がされているテーブルを眺めた。そういえば、あの子と二人だけでお茶を飲むのも久しぶりだった。たいてい、パチェが同席したり、咲夜が後ろに控えていたりするから、フランと本当に二人だけでお茶を飲むのは、しばらくぶりだ。

 ――どんなお茶会になるやら。

 私はそう思って、一つ深く息を吐いた。緊張していないというと、嘘になるだろう。そして、怖くないかと尋ねられれば、少しは怖いというのが本音だ。私だって、死ぬかも知れない、と考えれば、恐怖くらい感じるのだ。
 けれども、それとは全く別の感情も私は抱いていた。
 
 純粋にフランとのお茶会を楽しみにしている自分がいた。

 自分でも能天気だなあ、と思う。今日のフランがいかに狂っているか、自分の目で見ていないから、そんなことを考えるのだ、とも思う。もし、七曜の魔女がこんなことを聞いたら、きっと青筋を立てて怒り出すだろう。
 けれども、私は本当にフランとお茶を飲むのが好きなのだろう。
 それだからか、私はこれからフランをお茶会に招くことに、そんなに緊張や恐怖といった感情はもたず、気合が入りすぎているというわけでもなかった。
 
 いつもどおりでいいのだろう、と思う。

 私が毎日、フランについて考えているように、いつもどおりでいいのだ。

 私はもう一度、テーブルの上のものを見る。私はそれらを眺めながら、咲夜やパチェ、美鈴のことを考える。彼女たちのことを考えていると、自分の頬は自然に緩んでいた。
 彼女たちについて私は何も心配していなかった。仮に私が死んで、フランを殺すことになってもそれは仕方がないと思う。そして、彼女たちは私がいなくてもこの幻想郷なら、しっかりやっていけるだろうから、心配することはなかった。むしろ、私のわがままを許してくれたことに感謝するばかりだ。

 そして、最後の質問にうなずいてくれたことが、私にとって何よりの励ましだった。
 それはきっとフランにとっても、最高の励ましだろう。
 
 私はそこで、親友の魔女の言葉を思い出していた。私の頬が自然と緩む。パチェは午前のお茶会が終わって、私の部屋を去るとき、こう言い残していった、『……明日のお茶会には誘いなさいよ』と。そして、不機嫌そうに『……妹様には、これからはサボることがないように、と伝えなさい』と付け加えたのだ。私は、そんなふてくされた感じで喋る親友の魔女がおかしくてしかたがなかった。咲夜も美鈴も、素直じゃない私の親友を見て、微笑んでいた。
 
 私はみんなに感謝していた。

 フランの姉として、私は嬉しかった。


 チクタクと針が動く音だけが響く、静かな部屋の中で、私は時計を見る。

 咲夜がもうすぐフランを連れてくる時間だった。

 私は椅子に横座りになり、じっと時計を見ていた。

 別に意味はない。ほかに見るものがなかったいうだけだ。

 私の心も部屋のように、とても静かだった。

 穏やかな心で、私はフランを待った。   
  
 
















 私――フランドール・スカーレットをお茶会に招待した人、つまり私のお姉さま――レミリア・スカーレットは、私がお姉さまの私室に入ったとき、テーブルの前で横を向いて座っていた。

 お姉さま――

 お姉さまの姿を見て、心臓の拍動が強くなるのがわかった。でも、相変わらず、それは私の心のなかの別の出来事のようだった。本来の心臓は普通に動いてるんだけど、もう一つ心臓があって、それが意味もなく激しく脈を打っている感じ。だが、そんな拍動も大人しくなり、やがて、静かに収まっていった。

 「フランドールお嬢様をお連れいたしました――」

 お姉さまが私たちをほうを振り向くと、私より一歩先に出た咲夜が深々と頭を下げた。お姉さまは咲夜の瀟洒なお辞儀を見て、優しそうに微笑んだ。

 「お疲れ様、咲夜」

 そして、お姉さまは咲夜に向けたものよりもさらに綺麗な微笑を私に向け、手招きした。

 「いらっしゃい、フラン。あなたの席はこっちよ」

 お姉さまは自分の目の前の席を私に示した。私はお姉さまに言われるとおりに、その席に着く。お姉さまは私が座ると、咲夜に声をかけた。

 「咲夜、さっき言った通りよ。下がっていいわ」

 お姉さまの言葉に、咲夜は再び瀟洒に一礼する。咲夜は「失礼します」とだけ挨拶をして、お姉さまの部屋のドアを静かに閉めて退場した。



 部屋には、お姉さまと私だけが残った。

 お姉さまはやはり優しく、穏やかに微笑んでいた。

 お姉さまと向き合う私の心は静かだった。



 さっきまで荒れていた感情の波は引いていた。

 私の心は先程のことを考えると、信じられないほど静かだった。

 でも。

 この静かさはどちらなのだろう。

 嵐の前の静けさか。

 それとも、本当の安逸なのか。

 どちらも間違っていて、どちらも正しいような、そんなあやふやな確信をもちながら、私はお姉さまの微笑を見つめていた。


 
 「さっそくお茶を淹れるわね」
そう言って、お姉さまは用意を始めた。テーブルにはもうすでにお茶会の準備は整っていた。テーブルの上には、華やかな彩色が施されたティーポット、流麗な細工がほどこされたスプーンやティーカップ、咲夜が作ってくれた美味しそうなクッキーなど、たくさんのものがのっかっていた――その中には美鈴が朝御飯に勧めてくれた煎餅もあった。
 私は黙って、お姉さまの作業を見ていた。お姉さまがケトル(やかんのこと)から、あらかじめ温められていたティーポットにお湯を入れる。数分、茶葉を蒸らし、お姉さまは私と自分のティーカップに紅茶を注いだ。お姉さまの手つきは手馴れたもので、危なっかしいところは一つもなかった。
「……紅茶、淹れられたんだね」
私がそういうと、お姉さまは少し得意げに頬を緩めた。
「もちろんよ。淑女の嗜みですもの」
「さすがに完璧で瀟洒な従者ほど、上手く淹れることはできないけどね」と、お姉さまは茶目っ気を含んだ微笑を浮かべ、紅茶を注いだカップを私の前に差し出した。
 
 「さあ、どうぞ」

 「……いただきます」

 私はお姉さまに勧められるがままに紅茶を口に運んだ。口の前で息を吹きかけ、少し冷ましてから、小さな一口を飲む。
 その紅茶はいつも飲んでいる紅茶と違う味だった。アジア的というのだろうか、少し変わったクセのある味だった。でも、その紅茶は風変わりな味と香りではあったけど、不思議と飲みやすかった。ただ、やっぱりいつもより少し苦いような気がした。

 そして、私は午前中の図書館での会話を思い出した。

 ――ああ、そういえば、パチュリーと小悪魔が魔法で茶葉を作ったって言ってたっけ。

 じゃあ、これは二人の作った茶葉を使ったのだろうか。

 「変わった味でしょ?」
お姉さまがお茶を飲みながら、悪戯っぽく微笑んでいた。
「この前、実験中のパチェに新しいお茶を作ってみてって言ってみたの。全くの冗談だったんだけど、本当に作っちゃうなんて思ってなかったわ。あの二人が作った茶葉だから飲めるのかどうか、そもそもそこから少し心配だったけど、意外にも美味しいお茶が出来上がったみたいね」
 私がお姉さまの言葉に黙ってうなずいていると、「そういえば、フラン。砂糖は?」と、お姉さまはテーブルの真ん中にあったシュガーポットを示した。
「フランが砂糖なしで飲むには苦すぎないかしら?」
そうだ、私はよく紅茶に砂糖を入れて飲むのだった。私は自分の紅茶の飲み方も忘れていたようだ。お姉さまの言葉がなければ、このまま苦いのを我慢して飲み続けるところだった。
「はい、どうぞ」
お姉さまがシュガーポットを渡してくれた。私は小声で「……ありがとう」とお姉さまからそれを受け取った。私は手元にあったスプーンで3杯、砂糖を入れ、よくかき混ぜてから飲んだ。
 「……けっこう美味しいね」
「でしょう?」
私の言葉を聞いて、お姉さまが笑みを大きくした。紅茶の苦さはほとんどなくなっていた。やはり、苦すぎると感じたのは、砂糖を入れてなかったかららしい。心地よい程度に弱くなった、紅茶独特の苦味が舌の上を広がっていく。そのほのかな苦味が心地よかった。私はカップを傾けながら、パチュリーと小悪魔の発明が成功したことを感じていた。

 「そうそう。この煎餅なんだけど」

 お姉さまは今度は、テーブルの上の小籠を指した。その小籠には見かけたことのある六角形のお菓子があった。
 美鈴が今朝、私に勧めてくれた煎餅だった。
 お姉さまは楽しそうに微笑しながら言う。
「美鈴が人里から買ってきてくれた煎餅なんだけど、なかなかいけるわよ。普通の紅茶にはどうかわからないけど、今、私とフランが飲んでいるお茶には相性がいいみたいだわ。試してみなさい」
 私は無言で、煎餅を一つ手に取った。私の掌よりも少し大きい煎餅。私は美鈴が次から次へとこの煎餅を口に運んでいたのを思い出していた。私は美鈴の大食漢振りを思い浮かべながら、その煎餅をかじった。
 煎餅は不思議な味だった。表面についたザラメが優しい甘みを、そして、煎餅に塗られた醤油が柔らかな塩辛さと香ばしさを醸し出していた。
 煎餅をかじり、パチュリーたちの紅茶を飲むと、また不思議な味が口のなかに広がった。お姉さまの言うとおり、この煎餅はこの紅茶によくあっていた。アジア的な紅茶に、極東のお菓子。その相性がいいのは、ちょっと考えれば当然かもしれなかった。

 それから私たちはお茶を飲み続けた。

 咲夜のクッキーも美味しかった。上品で控えめな甘さで、クッキーに入っているチョコチップもほのかな苦味がアクセントを効かせていて、とても美味しい。いつもよりさらに丁寧な作りだと思った。そうだ、咲夜が今朝起こしに来たとき、腕によりをかけて作る、と言っていた。咲夜のクッキーはその言葉の通りだった。私は何枚も咲夜のクッキーを食べながらお茶を飲んだ。今日の朝ご飯があまり美味しくないように感じられたけど、このクッキーは咲夜の作ってくれた料理らしく、とても美味しかった。今日、初めて、何かを食べているという感じがした。

 私たちは黙ってお茶を飲んでいた。
 本当に私とお姉さまは何も話すことはなかった。
 お姉さまは私のカップが空になると、何も言わずにお代わりを注いでくれた。

 お姉さまはずっと優しく微笑んでいた。

 優しく目を細めて、じっと私を見てくれていた。

 何もお喋りはなかったけど、どうしてかお姉さまはとても楽しそうだった。

 静かなお茶会は、優しくて穏やかな時間だった。

 お姉さまは楽しそうだった。

 では、私はどうなのだろうか。

 私は……。


 いや、私も。


 私も楽しかった。


 私もまた、お姉さまといっしょに、このお茶会を楽しんでいたのだった。

 
 ああ、もしかしたら。


 これを幸せというのかもしれない。


 そんなことを考えてしまうくらい、私の心は穏やかだった。
 


 でも――と私は思う。



 でも、きっとこれは――

 きっとこれは、夢なんだろう――

 夢であって、本当ではないのだ。

 ちょっとの風で吹き散らかされてしまう夢想。

 綺麗だけど、儚くて、すぐに終わってしまう、まぼろし。

 パチュリーと小悪魔の紅茶の味も、

 美鈴が買ってきてくれた煎餅の不思議さも、

 咲夜の作ってくれたクッキーの美味しさも、

 お姉さまの淹れてくれた紅茶の温かさも、

 この穏やかで幸せな時間も、

 すべて、

 夢なのだ――

 

 こんなに私の心は穏やかなのに、

 お姉さまが憎かった。

 静かな心のなかに、優しく微笑んでいるお姉さまに激しい怒りが生まれていた。

 お姉さまが大好きなのに、お姉さまが憎くて仕方がなかった。

 だから、きっとこの穏やかな時間は続かないのだった。



 ははは。

 少しおかしかった。

 幸せなのに、こんなに心が落ち着かないということがおかしかった。

 視界に靄がかかってしまうほどに、

 おかしくて、

 つらかった。

 ああ。

 でも仕方ないんだろうなあ。

 これがきっと、私なんだ。

 私には、この心が必然なんだ。



 落ち着いていた私の心に、またぐるぐるとした狂気が動き出していた。お姉さまとのお茶会が進むにつれて、最初大人しかったはずの私の狂った部分の影は大きくなっていた。お茶会を楽しみ、心が穏やかになるのに反比例して、気のふれた私がぽつりぽつりと湧き上がってくる感じがしていた。心の一部が必死に何かを喚きたてていたが、それは何か言っているということがわかるだけで、実際にその心が何を言っているのかはわからなかった。


 「ねえ、お姉さま」
 
 私は二杯目のお茶を飲み終わったとき、お姉さまに訊いた。
 
 「どうして、お姉さまはそんなに楽しそうなの?」
 
 その質問にお姉さまは一瞬だけきょとんとしたが、すぐにまた優しい笑顔に戻った。そして、穏やかな微笑を浮かべたまま、答えた。
 
 「フランとお茶会をしてるからよ」
 
 お姉さまの言葉に、私は一瞬、言葉を失ってしまった。だが、次の質問はすぐに生まれた。私はそれをお姉さまに訊いた。
 
 「……どうして、私をお茶会に呼ぼうとしたの?」
 
 お姉さまは「そうねぇ……」と静かに微笑んでいた。お姉さまは私のカップにお代わりを注ぎながら言った。
 
 「深い考えはないわ。私はフランとお茶会をしたかったから呼んだ。ただそれだけよ」
 
 私はお姉さまのその答えを嘘だと思った。お姉さまも私が狂っていることを知っている。それでも私をお茶会に呼んだのは何か深い理由があるからだろう。そして、私は理性でそう判断する以上に、感情でお姉さまの言葉を嘘だと考えていたのだった。
 
 私は再度お姉さまに尋ねる。
 
 「お姉さまは、どうして私とお茶会をしたいと思ったの?」
 
 それにもお姉さまは微笑んで答えた。
  
 「それはさっき言ったのと同じ答えね」
 
 お姉さまの紅い瞳が穏やかな光を放っていた。
 
 「私がフランとお茶を飲むのが楽しいからよ」
 
 お姉さまはどこまでも優しかった。私が信じられないくらい、お姉さまは優しかった。
 
 「私は何度も――それこそ、何百回とフランとお茶会をしてきたけど、いつも楽しかったわ。だから、私はフランとお茶会がしたいのよ」
 
 お姉さまは誇らしそうに笑っていた。そうして、お姉さまは柔らかな仕草でお茶に口をつける。
 

 お姉さまの様子は、本当に私とのお茶会を楽しんでいるようだった。


 こんなに狂った私とお茶を飲んでいるのに。

 それでも、お姉さまはとても楽しそうだった。

 私はただそれを見ているばかりだった。得体の知れない不安に胸が締め付けられる。頭のなかで何かががんがんと唸っていた。お姉さまは優しい仕草でカップを口に運び続ける。そんなお姉さまの姿がどうしようもなく私の心をかき乱すのだった。それでも、私は、お姉さまがお茶を飲む姿をただ睨んでいることしかできなかった。

 ……わからない。

 正直、私はわからなかった。

 わからない、という言葉がぐるぐると頭のなかを駆け巡る。私は混乱していた。何がわからないのかわからない。それにも関わらず、私はわからなかった。わからないまま、何とかしなきゃという警報が鳴り響いていた。わからないまま、私はお姉さまに憎悪を向ける。私はお姉さまを傷つけるための憎悪を向ける。その憎悪とそれを行おうとする私という誰かに、私という自分は吐きそうなくらいの嫌な予感と不安を感じるが、すでに止めるには遅すぎたのだった。
 私はお姉さまに憎しみをぶつけるために口を開いた。

 「……そうか、お姉さまは私とお茶を飲むのが楽しいんだ」

 ――私の心のなかのどこかが叫んでいるのが聞こえた。やめろ、それ以上言うな、いやだ、言わないで、それを言ったら私は本当に終わりだ、お姉さまが私から離れていってしまう、それだけはいやだ、私はお姉さまといっしょにいたいんだ、お願いだからそれ以上は言わないで、いやだ、いやだ、怖い、怖いんだ、お姉さまに嫌われるのだけは嫌なんだ、お願いだから私のお願いを奪わないで、と、心の一部が喉が裂けんばかりに大きな小声で叫んでいた。けれども、私はもう制止されることはなかった。

 「でも……私はお姉さまとお茶を飲みたいだなんて思ってないよ」

 私はお姉さまの優しい笑顔を目におさめながら言う。

 「お姉さまは私とお茶会をするのが楽しいって言うけど、私は楽しいだなんてちっとも思ってないよ」

 私はお姉さまを傷つけるための言葉を吐く。

 「残念だけど、私はお姉さまとお茶会なんてしたくない。……悪いけど、これっきりにしてくれないかな」

 ――自分の声に頭と心を強く殴られた気分だった。
 今までうるさかったのに、言い終わった私の心は静まり返っていた。 
 頭がおかしくなって、ついに耳が聞こえなくなってしまったんじゃないかと思うくらいだった。
 だけど、私はわかっていた。

 私は私を壊してしまったことを。

 今の言葉はお姉さまを傷つけるだけの言葉ではないことを。

 今のは、私を壊してしまう言葉だということを。 

  
 「……そう」

 お姉さまが微笑んだ。今までのとは全く種類の違う微笑。お姉さまは寂しそうに笑っていた。小さいはずのお姉さまの声は、鼓膜が破れそうなほど大きく聞こえた。

 「私はフランとお茶を飲むのが楽しかったんだけど……フランは楽しくないのね……」

 お姉さまの笑顔が苦しかった。まるで、首を絞められてるみたいに息苦しい。

 「わかったわ、フランがそう言うなら、今度から考えるようにするわ。……今までごめんなさいね、フラン」

 お姉さまはそう言って、悲しげに目を伏せた。

 ああ――
 心の中で絶息する。
 どうして。
 崩れていく私の心のなかには、どうして、という言葉しかなかった。
 どうして、こうなってしまったんだ?
 どうして、私は望んでいないのにこんなことを言ってしまうんだろう。
 こんな馬鹿げたこと、望んでいないのに。
 本当か、本当に望んでいないのか。
 望んでなかったら、どうして言う?
 望んでなければ、言わないだろうに。
 そうかもしれないそうかもしれないけど、それでも私の願いはこんなことじゃないんだ……
 叶わないとしても、私の願いごとはこんなことじゃないんだ……

 お姉さまの笑顔がちらつく。

 お姉さまの優しい笑顔が見える。

 お姉さまの悲しそうな笑顔が映える。

 お姉さまの声が聞こえる。

 お姉さまの穏やかな声が響く。

 お姉さまの悲しそうな声がうるさい。

 ああ、欲しいものが離れていく。

 私が必死に掴んでいたものが、離れていく。

 頭がおかしくなりそうだった。いや、もうおかしくなってる。これ以上、おかしくなることはないくらいに、私は今、おかしくなっている。だが、それすらも超えて私の頭はおかしくなりそうだった。
 
 悲しかった。

 本当に私は悲しかった。

 誰も信じてくれないかもしれないけど、私は悲しいんだ。

 狂っている私を信じてくれないかもしれないけど、悲しいんだ。

 どうして、この私は、

 悲しいと言うことができないんだろう――

 いや、言いたくても言えなかった。

 怖すぎて、言えない。

 悲しいと呟くことさえ、とても怖かった。

 ――もう、嫌だ。

 ――もう、戻れない。

 でも、もう嫌でも戻れない。

 そう考えると、私は目の前が真っ暗になる気がした。

 暗い。

 ああ、この暗さは地下室の暗さだ。

 私が入れられた、はじめのころの地下室のように暗かった。

 寂しさに震えそうになるほど、世界の全部が暗かった。




 そして。



 真っ暗になった視界に、緋色が見えた。

 どこまでも続く黒を背景に、血のような緋色を見ていた。

 緋色の憎しみが流れ出していた。 

 顔を上げると、お姉さまの顔が緋色に染まっていた――

 にくしみといかりに、世界が全部、血色に、あかかった。

 くろの広大を、あかの一色が塗り潰す世界は、

 単純で、悲しくて、

 わかりやすくて、魅力的だった。



 ――塗り潰そう。

 あかでくろを塗り潰そう。

 くろを忘れられるくらい、あかで塗り潰してしまおう――



 「ねえ、お姉さま」
 
 私はお姉さまに話しかけていた。
 
 誰なのかもわからない私が、お姉さまに話しかけていた。

 「お願いがあるんだけど」

 「……お願い? 何かしら?」

 不思議そうな顔をして尋ねるお姉さま。誰でもなくなってしまった私は、そんなお姉さまがおかしくて仕方なかった。これから起こることをお姉さまに言ったら、お姉さまはさぞ驚いてくれるだろう。どんな顔をするのか楽しみだった。
 
 「私と遊んでくれないかな」

 お姉さまの眉がぴくりと上がる。お姉さまはソーサーの上にもっていたカップを下ろし、右手を顎に当てた。

 「遊んで欲しい? つまり、弾幕ごっこをして欲しいということかしら?」

 私はお姉さまの言葉に笑い声を上げた。楽しくもないのに笑う今の私はどんな顔をしているのだろう。

 「弾幕ごっこじゃないよ。もっとつまらなくて、楽しいことだよ」
 
 私は意味不明に笑いながら、椅子から下りて、立ち上がる。そして、テーブルの上のものを腕で薙ぎ払った。ガチャン、パリン、バリン。ティーポット、ティーカップ、その他もろもろが床に落ちて砕け散る。紅茶が紅いカーペットに暗い染みをつくった。
 お姉さまがようやく私を睨んだ。
 お姉さまに睨まれていることを怖がっている私と、それを何とも思わない私がいた。
 私の心はどうなってしまったんだろう、と思う間に、私が口を開いた。


 「殺し合いをしようよ」


 自分でもぞっとするような声だった。お姉さまの眉が歪む。そして、お姉さまは敵を見るような――私を今までそんな風に見たことがないような目で、私を見ていた。

 見ないで。

 そんな目で見ないで。

 お姉さまの私を睨む目が、怖くて仕方がなかった。本来の私だったら、泣き出してるかもしれない。でも、そんな懇願は私の口から出てくることはなかった。私の顔は醜悪に笑うだけだった。

 そんな私を、お姉さまは睨み続けていた。まるで殺す敵を見るような鋭い視線。お姉さまは私を恐れることなく、椅子に座ったまま私に正対していた。

 やがて、お姉さまが目を閉じて、何かを考えているようにした。だが、すぐに、お姉さまは目を見開いて言った。

 「却下よ。殺し合いなんて下らない。弾幕ごっこならいつでも相手してあげるけど。でも、私はあなたと殺し合いをするつもりはないわ」

 お姉さまの声は冷たくて――でも、力強い声だった。そして、その目には敵愾心や殺意などの汚い感情はなかった。お姉さまは静かな怒りを紅色の目に燃やして、真っ直ぐに私を見ていた。

 そのお姉さまの姿に、私は心がざわめくのを感じた。正体のわからない揺らぎ。まどろっこしさと安心が混ざったような波が、心の水面を覆っていた。そんな心でも、誰なのかわからない私が、お姉さまに不快な笑いを投げかけるのだった。

 「あんたがやりたくなくても私はやりたいんだよ。それとも、一方的に殺されたいのかな?」

 そうして、私はお姉さまに右手を掲げて見せた。

 見ないでもわかる。
 
 私の右手の上に、お姉さまの『目』が存在していた。

 私はお姉さまの命を握っていた。

 私は――


 お姉さまを殺そうとしていた。


 本当に、私はやるんだろうか――

 そう思ったとき、視界が何もかも無くなってしまったようにまた暗くなった。

 それでも、私は言葉を発し続ける。私ではない誰かがお姉さまに向かって挑発するように言った。

 「ほら、どうしたの? 早くしないと、キュッとして、ドカーンだよ」
 
 お姉さまの目が、私の右手を見て、少しだけ細くなる。お姉さまは掲げられた手に自分の『目』があるのをわかっているのだろう。だが、お姉さまはすぐに元の、余裕さえ感じられる表情で、私に強い視線を向ける。


 ――逃げて。


 私は心のなかで願った。私の心はもうほとんど私のものではなくなってしまったけど、私は心のなかでそう念じていた。

 ――お姉さま、どうか逃げて。

 お姉さまに死んでほしくなかった。お姉さまには私を殺してでも生き延びてほしかった。私がお姉さまを殺すのだけは、勘弁してほしかった。だから、私は必死で心のなかで、逃げて、と呪文のように唱え続けた。
 
 けれども、お姉さまは逃げなかった。

 逃げることもなく、

 私を殺すこともなく、

 私でさえ怖いと思ってしまう私に対峙して――

 お姉さまは私の目の前に存在していた。


 お姉さまは椅子から動こうともせず、運命の能力を使う気配もなく、ふっと笑って言った。

 「やってみなさい」

 その言葉に私は黙らざるを得なかった。お姉さまはテーブルに頬杖をつき、私に挑戦的な微笑を向けていた。呆然としている私に、お姉さまは変わらず余裕に溢れた声で言った。

 「私を殺そうというなら、やってみなさい。私は邪魔しないわ。勝手にどうぞ?」

 「……私に殺されたいっていうの?」
 
 私の心に驚きが広がっていた。お姉さまに目を離すことができないまま、私はそう呟くことしかできなかった。
 だが、お姉さまは「何を今更」と笑う。お姉さまはいつもの不敵な笑顔を浮かべていた。不敵な笑顔で、紅い目に強い光をこめ、私を真っ直ぐに見ながら、言い放った。

 「フランは知らないかもしれないけどね、私はフランに殺されてもいいと思ってるのよ」

 その言葉に、私は何も答えられなかった。お姉さまはそんな私を小馬鹿にしたように笑いながら、続けた。

 「あら、あなたは私がどれだけあなたのことを愛してるのか知らないのかしら? まあ、フランはお馬鹿さんだからね。わからないのも無理はないわ。でも、『出来の悪い子ほど可愛い』とは、よく言ったものね。本当にその通りだわ」

 お姉さまは自分の言葉に自分で納得したように、何度もうなずいていた。そして、いつもの意地悪な笑顔を浮かべて、どうでもよさそうに言った。

 「だいたい、ちょっと考えてみなさいな。館の中に破壊の能力をもった狂人を放し飼いにしているのよ。いつ殺されてもいいくらいの覚悟がなきゃできないわ。気のふれている妹の相手は本当に命がけなのよ。そんな簡単なことも考えつかないのかしら? 本当に、馬鹿な妹だわ」
 
 「――狂人、だと」

 私は歯軋りしながら言った。お姉さまの余裕ぶった、強い笑顔を睨んでいた。
 
 ああ、やっぱり知っているんだ。

 私が狂っているということを。

 私が狂ってることを、お姉さまは知ってるんだ――

 私は激しく動揺していた。お姉さまが私が狂っていると知っていることに、そして何より、お姉さまが私を『狂人』と呼んだことに、私の心はぐちゃぐちゃにかき乱されていた。全ての私が、落ち着かなかった。お姉さまを殺そうとする私も、お姉さまを殺したくない私も――みんな、お姉さまの言葉を信じたくなかった。全部の私がお姉さまの言葉を否定したかった。
 私は必死な気持ちで否定した。
 私は懸命な気持ちで頼んだ。

 「……私は狂人じゃない。私は……狂ってなんかいない」

 「いえ、狂人でしょ?」

 けれども、お姉さまは私の言葉をあっさりと否定するのだった。そして、やはりお姉さまは、どうでもよさそうに言う。

 「そんな恐ろしい顔をした女の子はこの世であなただけだわ。そんな怖い顔をした子が狂ってないわけないじゃない」

 ――お姉さまに否定された私はうつむく以外なかった。お姉さまに狂っていると言われたことが耐えられなかった。心のなかが、ぎりぎりと痛む。どうしてお姉さまがそんな酷いことを言うのか理解できない。お姉さまだけには、狂っていると思われるのは嫌なのに、それでもお姉さまは私が狂っていることを否定してくれなかった。私はそのことが苦しくてたまらなかった。
 そして、そんなお姉さまを諦めている自分がいた。自分でも自分のことを狂っていると思っているんだ。他人がそう思っていても何も不思議はない。いや、きっとお姉さまは正しいのだ。お姉さまは私のことを理解しているのだ。
 
 でも。

 それでも。

 私は、否定されたくないことがあった。

 否定されたくない、大切なことがあったのだ。

 私は狂っている。

 それは正しい。

 私は狂っている。

 けれども、それだけじゃないんだ。

 私は狂っている。

 だけど、どうか、気づいて――

 私は狂っている。

 でも――

 

 「でも――」



 お姉さまの声が聞こえた。


 
 「あなたは私を殺せないでしょうね」



 その言葉に私は顔を上げる。

 お姉さまはもう笑っていなかった。

 ただ、強い――純粋に強い目で私を見ていた。


 「あなたは私を殺せない。いいえ、私だけじゃないわ。あなたは誰も傷つけることはできないでしょう――それだけは信じているわ」


 私とお姉さまは睨みあった。私は右手を握ることなく、お姉さまのルビーのように綺麗な、紅い目を見ていた。私の心は血が流れているように、どくどくと落ち着かなかった。視界に緋と黒が交じり合う。一瞬止まっていた私の狂気がぐるぐると動き続けていた。正直、私の身体はもはや誰のものなのか、全くわからなくなっていた。この右手が自分のものであるのか、それとも、自分さえ知らない自分のものであるのか――もう、私には判別不能だった。

 「ねえ、フラン」

 やがて、お姉さまが口を開いた。静かで、どこか寂しさの陰がある声だった。

 「あなたはさっき、私とお茶会をするのを楽しくない、って言ったけど、それは本当?」

 その質問に、また私の心がざわめく。お姉さまの瞳に真剣な光を見ながら、私は何とか言葉を発した。

 「……わからない」

 「『わからない』?」

 「うん……わからない」

 「『わからない』。……そう、そうなの」

 そう言って、お姉さまは優しげに柔らかく微笑んだ。でも、それは先ほどの不敵な笑みと似ていないようで、だが同じ種類の強さを感じさせる微笑だった。
 お姉さまは質問を続ける。

 「じゃあ、私と殺し合いをしたいって言ったけど、本当にそう思っているの?」

 ぞわり、と心が震えた。一つ前の質問よりも、その質問は私の心を刺激するものだった。再び、視界が痛いくらい緋に染まる。世界に憂鬱な黒が点々と滲み出る。私は息を荒げながら答えた。

 「……そんなわけないじゃない」

 私はお姉さまを強く睨む。心の芯から、私はお姉さまに憎しみを叩きつけるつもりで、思いっきり睨みつけた。
 
 「……好きで殺し合いをしたいわけがない。そんなのちっともおもしろくない。壊すことなんて一つもおもしろくない。お姉さまと殺し合いをしても全然楽しくない」

 でも。

 でもさぁ……

 他に方法があるの?

 この私の心の憎しみを取り除く方法が。

 この私の心の苦しみを無くしてくれる方法が。

 思いつかないんだよ。

 お姉さまを殺す以外に。

 お姉さまと殺し合って、お姉さまを殺すか、私が死ぬか――それ以外にわからないんだよ。

 そして、止まらない。

 お姉さまへの憎悪が止まらない。

 お姉さまを殺したい気持ちが止まない。

 自分でもわからないほどにお姉さまが憎かった。

 胸が熱く、苦しいほどにお姉さまが憎かった。

 殺したくないのに、お姉さまを殺したかった。

 どうして?

 どうして、私は大好きなお姉さまを憎むの?

 どうして、私はお姉さまを殺したくないのに殺したいの?


 ――怖かった。
 
 自分で自分が怖かった。

 お姉さまは私を、こんな怖い私から助けてくれるだろうか。


 「ねえ、お姉さま」

 私はお姉さまに問う。

 「お姉さまには他に方法が思いつく?」

 私はお姉さまに頼る。

 「お姉さまに、私の憎しみを消してくれる方法がわかる?」

 私はお姉さまにすがりつく。

 「お姉さまは、私を狂わないようにしてくれるの?」


 ――私の質問に、お姉さまの目の強さが弱まり、紅い瞳に寂しげな陰が映る。

 そのまま、お姉さまは悲しげに目を伏せて、

 何も言うことなく、うつむくだけだった。


 
 やっぱり、


 そうでしょう?


 ははは……と口から笑いがこぼれた。
 ほら、そうじゃないか、と私はおかしくてたまらなかった。


 そして、私は憎くてたまらなかった。
 憎くて憎くて憎くて。
 怒りで。
 憎しみと怒りで嘔吐しそうだった。

 悔しさで泣き出しそうだった。


 私はお姉さまを強く睨みながら、言葉を叩きつける。
 
 「お姉さまは私に何をしてくれるのさ?」
 
 お姉さまに罪はないと知りながらも、私は罪悪感を覚えながらも言った。

 「お姉さまに、何ができるのさ?」

 私は自分でも醜いのがわかるほど、狂った顔でお姉さまを傷つけるために、傷つける言葉を浴びせていた。
 
 「お姉さまは私のために何もできない。お姉さまは私のために何もしてくれない。何をしたって、お姉さまは私を救えない」
 
 私は奥歯がぎゅっと鳴るくらいに強く噛み締めて言った。
 
 「そして、誰も私のために何もしてくれない」 
 
 誰も私のことを助けてくれない。
 
 私はそう言って、うつむいた。
 
 悔しかった。
 悔しくないはずがなかった。
 狂った私も、狂っていない私も――全部の私が、悔しかった。悔しくないはずがないと判断していた。心のなかに悔しさの黒い雲がぐるぐると渦を巻いていた。

 そうだよ、私。

 これが私なんだよ。

 誰も何もすることができない。
 誰も何もしてくれない。
 誰も助けてくれない。

 私しか私の狂気を背負える人はない。
 私しか私の苦しみをわかってくれる人はいない。
 私しか私の苦しみを苦しむ人はいない。

 私は一人で狂っているしかないんだ。
 私は一人でしかないんだ。
 私は一人でいるということだけが、真実なんだ。


 私はみんなとは一緒にいられないんだ。


 相変わらず、真実は一つだけだった。

 必死に他の真実を探しても。

 現実はいつも私に一つだけの真実を突きつけてきて。

 そして、結論はいつもいっしょ。

 優しい解答なんてどこにもない。

 私の欲しいものはどこにもない。

 私が幸せになれる可能性なんて――どこにもない。 


 悔しかった。

 こんなの――悔しいに決まってるじゃないか。


 怒りが震えていた。
 自分のなかのどうしようもない怒りが猛り狂っていた。
 自分のあまりの無力感に、自分を含む何もかもが憎くてしかたがなかった。
 怒りに目が眩む。
 緋と黒の狂い過ぎた二色に、視界が暗く暗く覆われていくのがわかった。


 黒。
 くろ。
 地下室の天井の色。
 どこまでも永く暗い、くろ色。
 いつまでもさびしい孤独の、くろ色。


 緋。
 あか。
 生き物の血の色。
 大好きなお姉さまの血の、あか色。
 誰かを傷つける憎悪の、あか色。


 死ね。


 死んでしまえ。

 こんないらない私なんて死んでしまえ。
 こんな大嫌いなお姉さまなんて殺してしまえ。
 こんな真実しかない世界なんて無くなってしまえ。

 全部全部、何もかも終わってしまえ。


 お願いだから……


 もう、終わらせてほしい――


 惨めだった。

 心のなかで、一人喚き散らす私は、とても惨めだった。

 惨めだと思っていてもやめられない。

 心のなかで、私をいらないと言い続ける世界を呪詛することをやめられない。
 
 そんな私は一層、惨めで――

 無力な私は、うつむくことしかできなかった。

 緋と黒の二色が支配する心のなかで、私は立ち竦むことしかできなかった。


 そう思ったとき、


 「本当にそうかしら?」


 暗い世界に光が差した気がした――
 

 「本当に、私たちはあなたに何もできないかしら?」


 お姉さまだった。
 
 さっきまでうつむいていたお姉さまが、顔を上げて私を見ていた。

 前よりもさらに強い光を、宝石みたいに紅く綺麗な目に映して。

 まるでお月さまみたいに、そこから動くことなく。

 不敵に、強気に、穏やかに微笑んでいて。

 お姉さまは逃げなかった。

 私本人でさえ怖くて仕方がない、狂った私から逃げなかった。

 お姉さまは私と戦おうとしてくれていた。

 お姉さまは、私といっしょにいようとしてくれていた。


 お姉さまは、満月の光のような優しい声で、私に話しかけた。
 「確かに私はあなたのその狂気に何もしてあげられないかもしれない。私はあなたの狂気の苦しみを取り除くことはできないかもしれない。でもね」
 お姉さまはそこで初めて私から視線を外し、床へと落とした。

 でも、それは気まずさや後ろめたさからじゃなく――

 お姉さまは寂しさと悲しみを含んだ目で、床に転がっているものを見た。

 咲夜の焼いてくれたクッキーがカーペットの上で埃まみれになっていて。
 美鈴が私に勧めてくれた煎餅も寂しげに転がって。
 パチュリーと小悪魔の茶葉を入れた茶筒は、蓋が外れて中身が外に零れ出して。
 そして、お姉さまが淹れてくれた紅茶がカーペットに暗い染みを作っていた。 

 それはきっと、みんなが私のためにしてくれたお茶会の準備――

 お姉さまは私が台無しにしてしまった紅茶の用意を見ていた。

 ひどく心が痛む。心臓が罪悪感に揉み潰される音がぎしぎしと鳴っていた。

 やがて、お姉さまが顔を上げて、私を見つめる。もうお姉さまの目には悲しみの色は見えなかった。その代わり、紅茶よりも澄んだ穏やかな瞳が私を映していた。

 そして、お姉さまの唇が、とても眩しい言葉を紡いだ。
 

 「――でも、フランにお茶を淹れることくらいはできるわ」


 ――その言葉に、緋と黒に染まった私の世界が揺らいだ。

 「もちろん、今から淹れてあげてもいいわよ。ちょっと準備し直さないといけないけど。まあ、咲夜に頼めばあっという間にやってくれるでしょう」
 
 ――怒りと憎しみに塗り固められた意識が、ぎしり、と大きな音を立てて震える。
 
 お姉さまは、私が床にぶちまけたお茶会の準備を手で示しながら言った。

 「あなたは気にしてるかもしれないけど、この程度のこと、私たちにとって大したことじゃないのよ? 今のあなたが、テーブルの上のものを床に落とすことくらいじゃ、私たちは驚かないわ」

 「だから、」とお姉さまはとても優しく微笑んだ。

 「あなたが何度、お茶会の準備を駄目にしたとしても、私は――私たちはまた、お茶会の準備をするつもりでいるのよ」

 ――ざわざわとまた私の心が乱れ出した。ざわざわざわざわと心のなかに無数のノイズが生じる。けれども、お姉さまの声はそんな微小な悪意のざわめきを遮って、私の心によく響いているのだった。

 お姉さまは静かで、力強い口調で続ける。

 「代わりのティーポットもティーカップもすぐに咲夜が用意してくれるわ。咲夜は有能なメイド長だからね。お茶請けのクッキーも、私たちがちょっと目を閉じてる間に焼き上がって私たちの前に並んでいるでしょう」

 お姉さまの声は私を安心させるような温かさがあった。

 「あの風変わりな煎餅は、たぶん美鈴がまだ持ってるでしょう。だから、美鈴にお願いすれば、またくれるわ。なかったら……そうねえ、人里に一っ走り、買いに行かせようかしら? 普段、昼寝ばかりしてるからね。そのくらいのおつかい、嫌だとは言わせないわ」

 お姉さまはとても楽しそうに微笑んでいた。

 「パチェと小悪魔のお茶葉も、まだ残りがあるわ。どうやら、あの使い魔のおっちょこちょいで、ドラム缶一杯作ってしまったそうよ。しけってしまわないうちに飲まないといけない、ってパチェがぼやいてたわね。だから、お茶葉はいくらでもあるから、安心しなさい」

 「それから、」と、お姉さまは、私の大好きな優しい笑顔を浮かべて言った。

 「私のお茶でいいなら、いくらでも淹れてあげるわ」

 ――ばきばき、と私の世界が壊れていく音が聞こえていた。緋と黒の世界の欠片が剥がれた向こう側に、明るい光が見えていた。思わず目を塞ぎたくなるほどに眩しい。壊れていく世界のなかで私はお姉さまの声を聞いていた。

 「フランが欲しいと言う限り、私は何度でも、あなたにお茶を淹れてあげるわ」

 お姉さまは不敵な笑顔を浮かべて、私にそう宣言していた。私は呆然とお姉さまの笑顔を見つめることしかできなかった。それでも、諦めの悪い私はすっかり鈍くなった口を開いて、お姉さまに言った。

 「……さっき言ったでしょ」

 私はお姉さまの紅の瞳を見つめながら、何とか言った。

 「……私はお姉さまとお茶を飲みたくないって。だから、お姉さまのお茶はいらない……」

 「あら、そうだったかしら?」
 
 だが、お姉さまはとぼけたようにそう答えるだけだった。そして、お姉さまは悪戯っぽく微笑みながら、こう言うのだった。

 「そういえば、私はさっき、『今度から考えるようにする』って言った気がするけど、それはフランをお茶会に誘うのをやめるわけじゃないわよ?」

 私はお姉さまの言葉に黙らざるをえなかった。お姉さまは人差し指を立てて、得意げに言う。

 「フランが私とお茶会がするのが楽しくないんなら、私とでも楽しくお茶を飲めるようなお茶会を考えるだけだわ」

 お姉さまは眩しい微笑みとともに言う。

 「私はフランとお茶会をするのを諦めないわよ」

 お姉さまは私に向かって、真っ直ぐに言い放った。

 「私は、フランを諦めないわ」

 お姉さまは私から逃げることなく、私に言った。
  
 

 めりめりと心が裂ける音が聞こえた。
 
 ぎりぎりと心が軋む揺れを感じた。
 
 心の片方をお姉さまが憎くてしかたがない気持ちに引っ張られて。
 
 もう一方をお姉さまが眩しくてしかたがない気持ちに引きずられて。
 
 心が引きちぎれそうだった。
 
 意識を保っているのでさえ驚きだった。
 
 魂が壊れていないのが奇跡だった。
 
 いや、心はもう引きちぎれているし、意識も半ば朦朧としていて、魂ももう壊れているのだけれど。
 
 でも、そんな引きちぎれ、保つこともできず、壊れてしまっている私でも。
 
 お姉さまの言葉にどうしようもなく打ちのめされている私がいた。
 
 お姉さまの強さにどうしても勝てない私がいた。
 
 お姉さまの意志にこれ以上なく包まれている私がいた。
 
 もう、わからなかった。

 自分がどうすればいいのか、お姉さまがどうなればいいのか。

 何も、わからない。

 いや――

 わかることがあるような気がした。

 まだ、完全にはわからないけど、今なら理解できそうなことがあった。

 今の私が手を伸ばせば、そこに何かをつかめるような――

 
 だが、まだわからない私は、うつむいたまま、お姉さまに話しかける。

 「……諦めていいよ」

 「……どうして?」

 「……もう、ここで終わらせるから」

 私はそう言って、お姉さまにもう一度、右手を見せる。

 それは、今度こそお姉さまの『目』を潰すという意思表示。

 お姉さまを殺す、と宣言することだった。

 お姉さまは右手を前に突き出す私を見つめていた。

 だが、それでもお姉さまは動かなかった。

 ただ、不敵に微笑んでいるだけだった。

 相変わらず強く微笑みながら、お姉さまは言う。

 「だから、それでは終われないわ」

 お姉さまはテーブルに両肘を突き、組んだ手の上に顎を乗っけて、落ち着いた声で言った。

 「フランは私を殺せない」

 お姉さまは強い確信をもった声で言った。

 「あなたは私を殺すことができない。それどころか、破壊の能力では、誰も傷つけることができない」

 お姉さまは勝利宣言でもするように言う。

 「今からがその証明よ。フランは私を殺すことができない、ということを、今からあなた自身が証明するのよ。フランがフランの狂気に負けないということにQEDを出すの。私もそのQEDを見ていてあげるわ。まあ、もう見えているようなものだけれどね」



 そして、


 お姉さまはふっと優しく微笑んで、


 「それに、安心していなさい」


 と言った。


 お姉さまは穏やかで真剣な声で続けた。


 「フランが私を殺したくない、ということはわかっているから」


 お姉さまの笑顔はまるで満月のように優しくて―― 


 「フランが私たちを殺したくない、傷つけたくないってことはわかってるわ。あなたが私たちのことを気遣っているということはみんなが知ってる」

 
 本当に優しくて――


 「フランが私たちといっしょにいたいなんて、言われるまでもなくわかってる。あなたがどんなに狂ってしまっていても、本当は私たちといっしょにいたいって思っていることくらい、知っているわ」

 
 涙が出そうなくらい、眩しくて――


 「今のあなたがどれだけ私たちを拒絶するようなことを言っても、本当のフランが私たちといっしょにいたい、っていうことはわかっている」


 お姉さまは、素敵な微笑みを浮かべながら言った。

 
 「私もフランといっしょにいたいわ」


 お姉さまの唇が、私にとって限りなく優しい真実を紡ぐ。
  

 「そして、あなたは私たちを殺すことはない。あなたに心配することは何もない。だから、今は――」


 お姉さまは私の全てを許すように言う。


 「――安心して狂っていなさい」


 ――そうして、お姉さまは言葉を切った。

 私の心には、ただ虚ろな狂気だけが残った。

 虚ろな狂気を抱えたまま、私は動き出した。

 私は、お姉さまの微笑を見届けて、右手に魔力をこめてゆく。

 お姉さまを殺すために、右手を徐々に閉じていく。

 何もかも終わらせるために、私は右手を握っていく。







 
 ――憎い、憎い、私を閉じ込めたことが憎い、私を狂人と呼んだことが憎い、私を永い間出してくれなかったことが憎い、私を一人にしたことが憎い、お姉さまだけ外に出られることが憎い、憎い、ただひたすら憎い、壊したくない、憎い、私を地下室に閉じ込め続けたことが憎い、私を狂人と呼んで裏切ったことが憎い、私を可愛がってくれることが憎い、私を殺してくれないことが憎い、憎い、憎い、どうしようもなく憎い、壊したくない、壊したくない、私を放って両親を独占したことが憎い、お姉さまだけが外の世界で遊べることが憎い、私が友達を作れないのにお姉さまはたくさんの友達がいることが憎い、私は狂うのにお姉さまは狂わないのが憎い、壊したくない、壊したくない、壊したくない、お姉さまだけが良い思いをするのが憎い、私は他人を傷つけるのにお姉さまは他人を傷つけないのが憎い、お姉さまは人を楽しませることが出来るのに私は人を楽しめられないのが憎い、お姉さまは誰かといっしょに幸せになれるのに私は誰かといっしょに幸せになれないのが憎い、憎い、憎い、とめられないくらいに憎い、壊したくない、壊したくない、壊したくない、壊したくない、憎い、どうしようもなく憎い、とにかく憎い、壊したくない、壊したくない、壊したくない、壊したくない、壊したくない、憎い、心から憎い、憎いけれど、壊したくない、壊したくない、壊したくない、壊したくない、壊したくない、壊したくない――――!



 




 ――心のなかの何かに強く押されるのを感じた。

 ふっと、意識が離れる。

 右手にこもった魔力が消えていく。右手の上から、お姉さまの『目』が解放されていく。

 視界の緋と黒が、眩しい光に霞んで消えていく。

 心のなかがゼロになった感じ。

 怒りも憎しみも悲しみもつらさも何もかもゼロになって――

 いや。

 一つだけ残ったものがある。

 これは、

 安らぎ、だろうか。

 とても穏やかな気持ち。

 何だか幸せな気持ちだった。

 身体から力が抜ける。

 立つ力さえ、もうない。

 このまま倒れる――そう思ったとき。

 私の身体を支えてくれる誰かがいた。

 お姉さまだった。

 お姉さまはとても優しい顔で私を抱きかかえてくれていた。

 光に包まれていく視界のなか、お姉さまの口が動いたのがわかった。

 かろうじて、その声が聞こえる。

 ――ほら、やっぱり。

 お姉さまは、やっぱりと言って、笑っていた。

 やっぱり。

 やっぱり、私はお姉さまを殺さなかった、ということなのだろうか。

 だが、お姉さまは首を振った。

 ――それもそうだけど、それだけじゃちょっと足りないわ。

 お姉さまはまた私にこの世で一番優しい言葉をかけてくれた。



 ――やっぱり、あなたは私たちといっしょに幸せになれるのよ。



 安らぎのなか、私はお姉さまの声を聞いた。

 ああ、そうか。

 私はお姉さまたちといっしょに、幸せになれるんだ。

 そう思いながら、私の心は穏やかな光のなかに落ちていった。





















 
 ある館に二人の姉妹がいました。
 二人は吸血鬼でした。
 吸血鬼と言えば、たくさんの妖怪を臣下としているものですが、この二人にはあまりたくさんの家臣はいませんでした。
 ですが、家臣たちは忠誠心に溢れ、二人を主君として認めていました。
 二人には友達もいました。お姉さんと特に仲の良い魔女やその使い魔は館にいっしょに住んでいました。
 二人は家臣たちと友達に囲まれて幸せに暮らせるはずでした。
 ですが、妹は気が狂っていたのです。
 妹が普通の吸血鬼だったら特に問題はなかったのでしょうが、不幸なことに妹はなんでも破壊する能力をもっていました。
 そんな能力をもった狂人はどんな猛獣よりも危険でした。
 お姉さんは仕方なく、妹を地下深くに閉じ込めました。
 永劫とも思える時間、妹は地下に閉じ込められたままでした。
 お姉さんは妹が悲しまないようにと一生懸命でした。
 何とかして妹が寂しい思いをしないようにしようといつも考えていました。
 そして、いつの日か妹が外に出られるようにと――
 495年の後、お姉さんの努力は実りました。
 ようやく妹は地下から出ることができました。
 妹はお姉さんと一緒にご飯を食べたり、いつでも好きなときにおしゃべりをしたり、お茶を飲むことができるようになりました。
 ですが、やはり妹は気が狂ったままでした。
 妹の心の病気がときにみんな苦しめました。
 そのことを妹もとても気に病んでいました。
 心の病のために、自分がみんなといっしょにいられない――妹はそう考えるのでした。
 自分は狂っているから、みんなを傷つけてしまう、そう思って、妹は一人になろうとしました。
 妹はみんなの心配をよそに、たった一人不幸になることで、みんなを守ろうとしていました。
 そんな妹はもう、みんなといっしょに生きることを諦めていました。
 ですが、みんなは諦めませんでした。
 お姉さんもみんなも考えました。
 妹が狂っていることは事実でした。
 妹の狂気は誰も癒すことができませんでした。
 妹の狂気は妹以外に背負うことはできませんでした。
 『けれども』。
 けれども、誰が言ったのでしょうか。
 狂っているからといって、妹がみんなといっしょにいられない、などと。
 『でも』。
 でも、誰が決めたのでしょうか。
 妹の狂気が肩代わりできないからといって、妹を幸せにしてやることができない、などと。
 お姉さんは知っていました。
 みんなも知っていました。
 妹が本当はみんなといっしょにいたいということを。
 妹が本当はみんなといっしょに幸せになりたいということを。
 道のりはつらいかも知れないけれど。
 妹もみんなといっしょに幸せになれるのだということを。

 
 そして、それは――


 きっと――その通りだったのでしょう。

 











 ――ねえ、フラン。
 
 あなたもそう思わないかしら?


 私はベッドの上で寝ている妹の髪を手で撫でながら、そう話しかけた。
 自分の狂気との闘いで、全力を使い果たした妹は、すやすやと穏やかな寝息を立てて眠っていた。
 フランは安心したような寝顔をしていた。
 本当に頑張ったと思う。
 きっと、私には想像もできないくらい大変な思いをしたのだろう。
 フランのつらさを思うと、ため息が自然にもれた。
 そして、きっと、フランは起きたとき――正気に戻ったとき、自分を責めるのだろう。
 そのことを思うと、やりきれなかった。
 けれども、私は思い出していた。
 咲夜たちがうなずいてくれたことを。
 これからもフランといっしょに生きてくれると、うなずいてくれたことを、思い出していた。
 だから、どうか自分を責めないで欲しいと思う。
 まあ、でも。
 私は優しい妹を思って、ため息をつかざるをえなかった。
 このお馬鹿さんな妹はそれでも自分を許せないのだろう、と。
 まあ、出来の悪い妹でも正しいことを教えてあげるのが姉の役割だ。
 こんな駄目な姉にでもできることなら、最後まで付き合ってあげるべきなのだろう。
 
 そう思って、私はまたフランの寝顔に目を向けた。

 じっとフランの安らかな寝顔を見つめながら、祈る。

 どうか、フランの心に平穏が訪れますように、と。

 私は、ただそのことを願ってやまなかった。























 私が目を覚ますと隣にはお姉さまが座っていた。お姉さまは私の髪を撫でながら、微笑んでいた。
「おはよう、フラン」
お姉さまは私が起きたのに気づくと、囁くように挨拶した。私も反射的に、お姉さまに「おはよう」と挨拶した。
 起き上がって、私は自分が今、どこにいるのか、寝ぼけ頭ながらに確認する。自分がいるのはベッドの上だった。部屋は見たことがある、というより、見慣れた部屋。私がいるのはお姉さまの部屋のようだった。

 やがて、私は気づく。

 私の心は、いつもどおりの状態に戻っていた。

 今の私は、もう狂っていなかった。
 
 そのことに私はまず安心する。
 
 だが、同時に私は思い出していた。
 
 私は今日一日、狂った自分が何をしてきたのかを全部、思い出していた。

 私は思わず頭を抱えた。そのままベッドに倒れこむ。喉の奥に後悔の苦い味が広がっていた。私は自分のやってきたことをひたすらに悔やんでいた。
 「何てことを……」
私は自然に呻いていた。
「私は本当に、何てことを……」
後悔しても何も戻らない、ということを知っていても、私は後悔をやめられなかった。後悔とともに罪悪感が胸の奥からせり上がってくる。激しい自己嫌悪に私は歯を食いしばることしかできなかった。みんなにどう謝っていいのか、わからなかった。
 同時に、私は自分の狂気が自分を壊してしまったという絶望に、起き上がることができなかった。
 自分を自分で壊したいわけがない。
 私のもっているものはささやかだったけど、それは確かに私にとって大切なものだった。
 でも、私はそんなものさえ壊してしまった。
 もう、私に残っているものを探そうと思ったが、見つかりそうになかった。
 「どうしてだろうなあ……」
私は熱に浮かされたように呻いた。
「どうして、こんなことになってしまったんだろう……」
どうして、という言葉がひたすらリフレインされていた。どうして、どうして、と、私は馬鹿みたいに呟くことしかできなかった。
 
 いや、答えはもうわかっていた。
 狂った心のなかで、私は答えをすでに見つけていたのだ。
 否、狂う前から、私はとっくに気づいていた。
 でも、私はその答えを自分で言うのが、嫌で――
 それを自分で言ってしまったら、何もかも終わってしまうようで――

 けれど、今の私はそれを言わなければならなかった。

 自分に言い聞かせるために、私は言わなければならないのだろう。
 
 「……どうして、私は狂っているんだろう?」
 私はそう呟いて、ごろりと寝返りを打つ。仰向けになって、上を見上げていた。天井がひたすらに高かった。
 私が狂っていなければ、みんなを拒絶することはなかった。

 「……どうして、私は破壊の能力をもっているんだろう?」
 天井の照明が眩しい。私は右腕を目に押し付けながら、そんなことを言う。
 私が破壊の能力をもっていなければ、みんなを殺そうとすることもなかった。

 そして、何より――


 「……どうして、私はフランドール・スカーレットなんだろう?」


 それが本当の答えだった。

 全てを突き詰めて、全部から隈なく探して、最後に現れてくる結論。

 でもさあ……

 これは、あんまりじゃないか?

 こんな答えは、あんまりすぎるんじゃないか?

 私がフランドール・スカーレットでなければ、こんなことにはならなかったのか?

 私がフランドール・スカーレットのせいで、私はみんなを傷つけていたのか?

 私がフランドール・スカーレットだったから――

 ……ため息がもれた。
 空気とともに魂が抜けていく感じ。
 胸に穴が開いてしまったかのように、私の心のなかは空っぽになっていた。

 『私が私だから』なんて、本当に馬鹿らしい答えだと思う。今頃、トートロジーなんて流行らないだろう。けれど、真実なんてこんな陳腐なものなのかもしれない。単純で陳腐だからこそ、どうしようもなく動かしがたいものなのだ。

 この真実は動かせなかった。

 私の力ではどうしようもなかった。

 そして、私は気づく。

 これが運命なのか、と。

 私は、こういう風なキャラクターなのか、と。

 こんな苦しい思いをするのも、私がフランドール・スカーレットというキャラクターだからなのだろうか。

 どうして。

 どうして、私はこんなフランドール・スカーレットとして生まれてきてしまったんだろう。

 こんな脆い心なんていらなかった。

 こんな恐ろしい能力なんて欲しくなかった。 

 どうして、私はもっと幸せになれるように生まれてこなかったんだろう。

 まあ、運命だから、どうしようもできないんだろうけど。

 もっとマシな運命にはありつけなかったのだろうか。


 私は目を覆っていた右腕を、どさっとベッドに投げ出した。ギラギラと明りが眩しかったが、どうでもよかった。疲れ切った私には何もかもがどうでもよく思えた。

 どうすればいいかなあ、と私は天井を見ながら考える。私は私に対して何をすればいいのか。こんな結論が出てしまった今、私は何かできることがあるんだろうか、と私はぼんやりとした頭を動かしていた。
 しばらく考えたけど、やっぱりそれは見つからなかった。
 馬鹿な私には、それを見つけることができなかった。
 
 なら、私は、諦めるしかないんだろう。

 何もできないのだから、私は何もかも諦めるしかなかった。

 私はもう幸せになることを諦めるしかないのだ。

 フランドール・スカーレットは幸せになることを諦めるしかないのだ。

 
 「……死のうかなあ」

 それは自然に口から出てきた言葉だった。何も考えもなしに呟いた言葉だったけれど、それは私にとって、最高の考えに思えた。

 「……死んでしまおうかなあ」

 私は再度、諦観の言葉を呟く。その言葉はやはり私の耳に甘く響いた。


 けれども――


 「馬鹿を言わないで」

 お姉さまだった。

 「死にたい、なんて、勝手なことを言わないで」

 今まで黙ったまま、私の傍にいたお姉さまは、怒った顔をして私を見下ろしていた。その顔に、私はまたやってしまったのか、と思う。また、私はお姉さまを困らせてしまったのか、と。そのことが素直に申し訳なかった。私は本当に罪深い妹だった。 

 「……ねえ、お姉さま、」
 
 私は馬鹿なことだと思いながらも、お姉さまに尋ねた。

 「どうして、私はフランドール・スカーレットなんだろうね?」

 本当に馬鹿なことを私はお姉さまに尋ねていた。お姉さまに訊いてもどうにもならないことだけど、私はお姉さまに訊かずにはいられなかった。

 「私がフランドール・スカーレットじゃなかったら、こんなことにもならなかったのに……」

 私の言葉に、お姉さまが目を閉じる。お姉さまは目を瞑って考え事をしているようだった。そして、目を瞑ったまま、お姉さまは言った。

 「……こんなこと、っていうほど、あなたは大したことをしてないわ」

 「そうかな? きっとそんなことないよ。私はみんなをたくさん傷つけた」

 お姉さまは私の言葉に答えなかった。私はお姉さまから天井へ目を動かして、そのまま懺悔を続けた。

 「私が狂ってるから――私がフランドール・スカーレットだから、みんなの好意を拒絶したし、みんなの気持ちを踏みにじってしまった」

 しゃべっているうちに、私の喉がだんだん嗄れてきたようだった。がらがらと喉がつかえる感じがしていた。

 「それに、私はお姉さまを殺そうとした。お姉さまは知らないだろうけど、咲夜も殺そうとした。私は殺したくない人を二人も殺そうとしてしまった」

 天井がにじんで見える。鼻の奥がつんとする。笑いたくもないのに、頬が引くつく感じがした。私は霞む天井を見上げながら、じくじくと痛む喉を動かして言った。

 「――つらいよ」

 自分でも惨めなくらい弱々しい声だった。

 「……自分が自分であることがつらいよ」

 私は深くため息をついて言った。

 「私なんか、生まれてこなければよかったのに――」

 私は額に手を置く。空っぽの心には、何もする気力がなかった。何もせず、何も変わらず、このまま死んでしまいたかった。

 どうしようか、このまま死んでしまおうかと、とりとめもないことを考えていると、
 
 「ねえ、フラン」

 お姉さまが言った。視界は霞んでいたけど、お姉さまが真剣な表情で私を見つめていることがわかった。お姉さまは静かで、でも強さのこもった声を私に向けていた。

 「あなたは、フランドール・スカーレットとして生まれてきたことを後悔してるの?」

 私はお姉さまの顔を見返して、うなずいた。

 「……うん、正直に言うと、そう……」

 「じゃあ、」とお姉さまが、再度私に尋ねる。


 「あなたは、私の――レミリア・スカーレットの妹として生まれてきたことを後悔してる? レミリア・スカーレットの妹として生きるのは、つらい?」

 
 お姉さまの言葉は、すっと私の心のなかに入ってきた。私は思わず、何も言えなくなってしまった。お姉さまは紅い綺麗な目で私を真っ直ぐに見ながら問い続ける。

 「私だけじゃない。あなたはこの紅魔館で生きていることを後悔している?」

 私はお姉さまの言葉を頭のなかで何度も咀嚼した。

 私は今まで生きてきたことを思い出していた。

 私はお姉さまに返事した。

 「いや、そんなことない。お姉さまの妹として生まれてきたことも、紅魔館で生きていることも、私は後悔してないし、つらいだなんて、一つも思ってない」

 自分でも驚くほどはっきりした声だった。

 私がそう答えると、お姉さまは柔らかに微笑んだ。微笑みながら、お姉さまは私に向かって右手を差し出す。私はお姉さまの手を自然につかんでいた。

 お姉さまの手を握る私の右手には、もう『目』は見えなかった。

 お姉さまは優しく、力強く私の身体を引き起こす。

 そして、そのまま、しなやかな両腕で私を抱き締めてくれた。

 「――フランなら、そう言ってくれると信じていたわ」

 お姉さまはとても嬉しそうに笑っていた。

 空っぽになってしまった心に、穏やかな風を吹き込むような笑顔――

 気づくと、私もお姉さまの背中に腕を回して抱き返していた。

 お姉さまの腕のなかは、安心してしまうほどに温かかった。

 それだけで、がらんどうだった心が穏やかな何かに満たされていくような感じだった。

 お姉さまは、私を抱き締めながら言った。

 「……ごめんなさい、フラン」

 お姉さまは私に謝っていた。どうして、お姉さまが私に謝るのか不思議だった。むしろ謝るべきなのは私のほうなのに。お姉さまは申し訳なさそうに目を細めながら続ける。

 「実は今日、フランが狂気の発作を起こしていたことを知っていたの」

 お姉さまはそう告白した。でも、私は驚かなかった。さっきまで狂っていた私が考えていたように、お姉さまがお茶会の前から今日の私の心の調子について知っていても、何も不思議ではなかった。私はお姉さまの言葉の続きに耳を傾けていた。

 「今日だけじゃないわ。フランがこれまでにも発作を起こしていたことはずっとわかっていた。そして、それにフランがとても苦しんでいるということも、フランが私たちを壊さないようにできるだけ一人になろうとしていたことも、私は知っていた……」

 ああ、そこまで知っていたのか、と私は思ったが、それもさして驚くようなことではなかった。お姉さまのような察しのいい人の前で、何年も隠していられることのほうが難しいだろう。
 お姉さまは悲しげに目を伏せながら言う。

 「私はフランをお茶会に呼んだ。どうしても、私はフランにお茶会に出てもらわなければいけなかった。だけど……私はフランを苦しめてしまった。そのことは、本当にごめんなさい……」

 私はじっとお姉さまのつらそうな顔を見ながら、お姉さまの言葉を聞いていた。
 そして、『フランにお茶会に出てもらわなければならない』という言葉の意味を考える。
 やがて、私はお茶会でお姉さまの言った言葉を思い出していた。





 『証明』。

 お姉さまは、あのとき、『証明』と言っていた。

 私が誰も壊せないことの証明。

 狂った私でも、誰も殺せないということのQED。

 ――そのことに気づいた私は、呆然としてしまっていた。





 お姉さまは微笑んでいた。

 「私はどうしてもそのことを証明したかったの」

 お姉さまは私の髪を撫でながら言う。

 「フランが狂ったとしても誰も壊すことはできない。この程度の狂気じゃ、フランは誰も殺すことはない」

 お姉さまは紅い瞳を私に真っ直ぐ向けて言った。


 「たとえ、フランに狂気の病気があったとしても、フランは私たちといっしょにいられる――」


 お姉さまの笑顔はとても綺麗だった。

 「あなたは私たちといっしょにいられるのよ」

 私はやはり気の抜けたようにお姉さまの優しい微笑を眺めていることしかできなかった。

 「そして、あなたは、ちゃんとそれを証明してくれたわ」

 「よく頑張ったわね、フラン」――そう言って、お姉さまは私の頬を撫でてくれた。

 やがて、私はうつむいてしまった。そのままお姉さまの胸に顔を埋める。自分で自分がどこにいるのかわからないような気分だった。
 自分がこんなに眩しいところにいていいのか、わからなかった。
 自分にはこんな幸せは眩しすぎるような気がした。
 それはとても大きな不安だった。

 私はお姉さまの胸に額を当てたまま尋ねる。

 「……いいのかな?」

 私は大好きな人に訊く。

 「私はみんなといっしょにいていいのかな?」 

 私はみんなを破壊の能力で殺さないのかもしれないけど。

 でも、私はまだ狂っていた。

 「……私はみんなを傷つけてきた。破壊の能力で殺すことはないかもしれないけど、私はみんなに嫌なことをたくさん言ってきた。そして、たぶん、私が狂っている限り――私が生きている限り、みんなを傷つけるようなことをたくさんすると思う」

 狂っている私はみんなを傷つける。

 そして、狂っている私は。

 みんなを傷つけるだけで、みんなのために何もしてあげられない。

 「……私はみんなに何もしてあげられない。みんなにとって、何の役にも立たない」


 私はみんなを幸せにすることができない。


 「そんな私が、みんなといっしょに生きていていいのかな……」


 言い終わると、こつん、頭に何かが当たった。

 顔を上げると、お姉さまが怒ったような、呆れたような顔をしていた。

 頭に当たったのは、お姉さまの軽いげんこつのようだった。

 あっけにとられている私に、お姉さまはやれやれと首を振る。

 「本当にフランはお馬鹿さんね……」

 「いい?」とお姉さまは私の目を覗きこみながら言った。

 「お茶会で、私がフランに何て言ったか覚えてる?」

 お姉さまははっきりとした声で言った。

 
 「私は、フランとお茶会をするのが楽しい、って言ったのよ」

 お姉さまは何でもないことのように言う。

 「ほら、フランは私を幸せにしているじゃない」

 
 私はお姉さまの言葉にまた呆然としてしまっていた。お姉さまは強い口調で続ける。

 「本当に勝手なことを言うのね、フランは。……私たちのすることに対してフランがどう思っているかは知らないし、それを決めるのはフランだけど、フランがしたことに私がどう感じても、それは私たちの決めることで、フランの決めることじゃないわ」

 お姉さまは宣言するように言う。

 「フランは、レミリア・スカーレットを幸せにしている」

 お姉さまは有無を言わせない口調で、断定した。

 「それだけはフランでも否定することは許さないわ」

 
 私はお姉さまの目をじっと見つめることしかできなかった。お姉さまもまた真剣な表情で、私に真っ直ぐに視線を注いでいた。
 やがて、お姉さまがふっと表情を和らげた。お姉さまはまた私の頭を撫でながら、言った。
 
 「それにそう思っているのは、私だけじゃないわ」

 お姉さまの笑顔はとても優しかった。

 「咲夜も、パチェも、美鈴も、それにきっと――小悪魔も、他のメイドたちもそう思っている」

 お姉さまは穏やかな声で私に言葉をかけ続ける。

 「みんな、あなたのことを認めているのよ」

 

 ――だから――


  
 お姉さまが願うような目をした。

 「もう少し、頑張って、フラン」

 お姉さまの私を抱き締める腕に力がこもる。

 「今は苦しいかもしれないけど、諦めないでもうちょっと頑張ってみて」

 こつん、とお姉さまは額を私のそれにぶつけて、悪戯っ子のような微笑みを浮かべた。

 「もっとも、私もまだ諦めるつもりは全然ないけどね」

 お姉さまは強気な口調で続ける。
 
 「フランが諦めても、まだ私は諦めないわよ」

 お姉さまは不敵な微笑を浮かべながら、とても優しい言葉を紡ぎ続ける。

 「だから、フランには、私といっしょに幸せになる努力をしてもらうわ。ちょっとやそっとじゃ、許してもらえるなんて思わないことね」


 ――私の幸福の最低条件は、あなたがそばにいることだからね。


 「フランドール・スカーレットとして生まれてきたことより、レミリア・スカーレットの妹として生まれてきたことを後悔しなさい」 


 お姉さまはそう言って、私の大好きな笑顔を浮かべていらっしゃった。

 私はもう何も言えなくなって、お姉さまの笑顔を見ていた。
 やがて、そのお姉さまの顔がぼやけた。
 視界がぼろっと崩れて、頬を水が伝う。
 涙は次々と湧いてきた。私はもう嗚咽をとめることができなかった。
 お姉さまが私の顔を胸にかき抱いてくれる。
 私はお姉さまの胸で号泣していた。
 声を上げて泣き続ける私を、お姉さまは抱き締めていてくれた。


 「泣き終わったら、お茶を飲みましょう、フラン」

 お姉さまが私の耳元で、優しい声で囁く。

 「咲夜のクッキーと、美鈴の煎餅と、パチェと小悪魔のお茶葉で、お茶を淹れて」

 お姉さまは楽しそうに、泣いている私に話しかけてくれた。

 「そうやって、咲夜たちともいっしょに、みんなでお茶を飲みましょう。みんなも楽しみにしてるわ」

 お姉さまの顔は見えなかったけど、微笑んでいるのが何となくわかった。

 「きっと、フランとお茶を飲むのは、楽しいから」


 ――フランといっしょに生きるのは、楽しいから。

 
 お姉さまはそう言って、私の頭を優しく撫でてくれた。
 
 私はうなずいた。お姉さまの胸のなかで泣きながら何度もうなずいていた。


 
 うなずきながら、私はお茶会のことを思い出していた。

 お姉さまが、私の気持ちをわかっていると言ってくれたこと。

 お姉さまが、狂っていても、私の願いをわかっていると言ってくれたこと。

 お姉さまが、私が幸せになれると肯定してくれたこと。 

 私にとって、全部の優しい真実を思い出していた。

 一つ一つ思い出すたびに、涙が出た。

 私は幸せになれるんだと思うと。

 嘘じゃなくて。

 私は本当の意味で幸せになれるんだと思うと。

 涙が溢れてとまらなかった。



 「さあ、お茶にしましょう?」

 お姉さまが優しい声でおっしゃった。

 「さあ、いっしょに、お茶を飲みましょう」

 ――さあ、いっしょに、生きましょう。

 
 私は顔を上げて、うなずいた。
 お姉さまは涙で濡れた私の顔を見て、微笑んでくださった。



 私もお姉さまの淹れてくれたお茶の味を思い出しながら、微笑むことができた。























■このSSはどうせ東方priojectの二次創作作品に決まっています。
 実在するいかなる個人、団体、事件とも関係がありません。
 ましてや、東方projectの原作と直接的な関係などあるはずもありません。

投稿5作目、改訂版です。
稚拙な文章ですが楽しんでいただければ幸いです。

……おぼえていらっしゃる方はいないと思いますが、ご無沙汰しております、無在です。明けましておめでとうございます。

……えっとですね、公式の新作(13作目)が出るまでSSを書かないでいようと思っていたのですが、去年の冬コミで新作が出なかったので、SSを書くことにいたしました。優柔不断で申し訳ありません。というか、リハビリもなしに半年振りに書くSSじゃなかったですね。昔の自分の方が文書上手いじゃねえかと泣きながら書いておりました。というか、リメイク後がリメイク前の2.5倍の長さってどういうことなの……?

■以降の文章は、特に意味がありません。これまでどおり、無在の書くSSが東方の二次創作でしかないということです。要するに無在の幻想郷での話でしかないということですね。あらゆる意味で、意味がないのかもしれません。まあ、自分に対するけじめのようなものです。

なんにせよ、妹様には幸せになってもらいたいです。お嬢様にも幸せになってもらいたいです。というか、全部のキャラクターが幸せになればなあ、とか夢想しております。現実は非情ですが、心のなかまで非情になってほしくないですね。希望があれば生きていけるのかはわかりませんが、希望があれば生きていたいと思えるのかもしれません。ここまで書いてきて本当に駄文ですね。お目汚し申し訳ないです。

なお、このSSは無在のフランの狂気についてのSSになっております。そのため、その狂気の根本について、大きくふれておりますが、直接的にその根本を描写はしておりません。設定引継ぎ型のSSですので、そのことについて書くのはもう少し後になると思います。ちなみに無在はこれまでのSSでいくつか推理できる要素をばらまいております。よろしかったら探してみてください。
さらにおまけですが、

お嬢様はフランの狂気の根本について95%、正しく理解しております。


以上の駄文をもって筆を置かせていただきます。

1/15 間違って削除してしまいました……。今回はその再投稿です。
     コメント、点数を入れていただいた皆様、本当に申し訳ございません。
     今後はこのようなことがないように気をつけますので、ご容赦願います……

※誤字・脱字、ときには表現を随時修正中です

1/16 再びコメント、点数を入れていただいた方、本当にありがとうございました。
   このような間違いを起こしてしまい、申し訳ありませんでした。
無在
[email protected]
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.1920簡易評価
5.100名前が無い程度の能力削除
前にもコメントしたけどもう一度……いいよな

もう自分の中のレミフラの人と言えば無在さんなのです
無在さんのレミリアとフランもう素敵過ぎる……
作品にここまで感情移入しちゃうのも少ない

次回作以降も期待しています
6.100名前が無い程度の能力削除
なんてコメしたっけと思いつつまた。
圧倒される文章で書かれた紅魔館が姉妹が素晴らしかった。
8.100奇声を発する程度の能力削除
もう涙で目の前がぼやける…
これは百点以外入れられない。
13.80名前が無い程度の能力削除
味があるね。
17.100名前が無い程度の能力削除
何度でもこの作品を読む!そして泣く!
おかげでドライアイも治る勢い!
20.100喉飴削除
えっと、前回書いた感想に近いものを再び。全く同じ感想はさすがに書けないので。
ちょっとスロースターターかなぁと感じましたが、中盤の盛り上がり、後半の畳み掛けはそれを補うのに充分な要素に感じました。
言葉のチョイスや言い回しなども、個人的にお気に入りの部分がいくつかあったり。
うみゅ、面白かったですぜ。
22.100名前が無い程度の能力削除
点数では表せません
100なんて少なすぎます
レミィの優しさと強さ
フランの強さと優しさ
感動の極みです
29.30名前が無い程度の能力削除
おもしろいんだけど削除気をつけてね
33.100名前が無い程度の能力削除
あなたのレミフラが一番すきです
35.100ずわいがに削除
フランドールの“症状”が非常にリアルで驚きました。
俺の母親も情緒不安定気味で精神を落ち着かせる錠剤を常飲しているのですが、躁鬱に波があるんですね。
朝は鬱陶しいぐらい明るかったくせに、夜にはヒステリックな程塞ぎ込むんですよ。
「まわりが支えてあげないといけない」というのは客観的には当たり前のことかもしれませんが、それはあくまで他人事だから簡単に言えるだけです。
実際自分が直接そういう者と関わりながら、それでもその回復に一生懸命になれるのは本当に大変で難しいことです。
故にこの紅魔館からは、家族よりも深い絆、そういったものを感じました。
36.100名前が無い程度の能力削除
削除する前のにも感想を書きましたが
もう一度読んでやっぱり非常に感動したので!

わたしも点数ではとても表せない気持ちです。100が少ない…
あなたのレミフラこそ、わたしの生きる意味!応援しています!
42.90名前が無い程度の能力削除
このお嬢様たちならフランも幸せに生きていける
47.80euclid削除
無在さんのレミフラと聞いてたったの3か月で読破しました><
やはり濃いいですね。
狂気なグルグルが本当にリアルというかきつい。

ほんともう御馳走様でした。
48.100名前が無い程度の能力削除
グッ
ブワッ
50.100名前が無い程度の能力削除
凄く、良かったです。
54.100Yuya削除
今まで読んだ東方SSの中で一番感動したかもしれない。泣いた。とかではなく胸にストンと来る感じで
後書きを見る限り続き物なんですね。この一作で美しく完成されすぎてるので他の作品を読むことが蛇足にならないか心配。続きがあることを知って曇るなんて初めての経験です
後書き読むのは好きな方なんですけど、唐突にレミリアの理解は95%だとか言われると読後感に水をさされる。ちょっと萎えます。設定引き継ぎのSSであることを知っていて前の作品を読んでいたらワクワクに繋がったのかもしれないけど初見の人には余計だった
55.無評価Yuya削除
自分の我儘ですが最初に設定引き継ぎであることを書いて欲しかった