Coolier - 新生・東方創想話

其来(それから) ~ 小さなスイートポイズンの場合

2010/04/11 22:12:04
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 小さなスイートポイズンの、幸運の素兎に出会った後のお話。




◇◇◇◇◇◇




 かたり、と小さな音が鳴った。

 春風の漂う小さな小さな丘の上に、動物はまるで居なかった。白く愛らしい鈴のような花が波打ち、誰かを呼ぶように揺らめいた。
 鈴蘭が群生するその丘は、無名の丘と呼ばれた。そこはかつて、名も無き幼子が棄てられる場所として使われていたという。
 かつての幻想郷では、お天道様の気紛れひとつで里の人間が甚大な被害を被ることが、ままあった。時に田畑は干涸び、人間は飢えに苦しんだ。時に家屋が押し流され、人間は一切を失った。だから里の人間の、口減らしのための行為も、日常的にあったという。

 今は昔の話だ。今日の幻想郷の人里では、色々な形で食物を保存する方法が編み出され、様々な方法で安住できる住処を作り出し、昔ほど大きな被害を受けることも無くなった。人間の暮らす里はより豊かに、より過ごし易くなるよう、日進月歩で変化していた。
 だけれど、そこが無名の丘である事実に変わりはなかった。里の記録では昔のことと伝えられてはいる。けれど、いずれ薄弱な人間の行なうこと、大きな変化など望むべくもない。数の大小はともあれ、その理由がどうあれ。歴史は繰り返される、などと大層な語録を引き合いに出さずとも、ここは今なお、名も無き幼子が土に還る場所に違いはなかった。

 かたり、とまた小さな音が鳴った。

 玻璃(はり)のつぶらな瞳を大きく開けて、メディスン・メランコリーは春空を眺めた。視界には青い空と白い雲、そしてなお白い鈴蘭の花が視界を囲うように揺れていた。けれども彼女の瞳には、そのことごとくが薄く青みがかって映っていた。
 少しの青みは、鈴蘭の毒気が彩る色だ。といっても、鈴蘭に毒をまく特性などはない。だからそれは、人間や妖怪の心を冒す毒気なのだった。無名の丘は、人々の心を汚して感情を蝕む毒気で満たされていた。鈴蘭畑は、妖怪共の理に響いて存在を蝕む毒気で満たされていた。

 彼女はそのことをよく知っていた。その毒は彼女にとって母のようなものだった。かつて彼女は人間と共に在り、人間に棄てられ、永い時をこの丘で眠った。そうして彼女の内にはいつしか鈴蘭の毒気が凝り固まり、彼女は彼女自身を意識した。人間や妖怪の心を冒す毒気は、すなわち心を操作する毒気でもあった。彼女は鈴蘭の毒気から生まれた。
 同時に彼女は人形でもあった。彼女の自我は鈴蘭の毒気から生まれたので、彼女は本来鈴蘭の毒気の妖怪のはずなのだけれど、人形を身体として過ごした永い時が彼女と人形の身体を癒着せしめたので、彼女は自分が人形なのか鈴蘭の毒気の妖怪なのか判らなくなった。

 そこで彼女は、自分の見るものを信じることにした。しなやかで小さな自分の手指を見れば、そこには人形の手指が見えた。雨上がりの水溜りに自分の姿を映せば、そこには人形の姿が見えた。そうして自分が人形なのだと信じるに至った。
 だから彼女は、かつて自分は人形だったし、今でも自分はまず人形なのだと思っている。

 きりり、と音を立て、彼女はその場に上体を起こした。器用に体だけを起こしたその様は、成程彼女が人形なのだという印象を大いに与えた。
 少しはだけた左肩は、ひび割れて欠けていた。彼女が右手でそれを揉みしだくと、傷は無くなり綺麗な球体の関節を見せた。ところがそのまま勢い肩を回すと、砂で石を研ぐような音がしたので、彼女は厭になり左肩を回すのを止した。

 彼女が起きる前と比べて、辺りは静かになっていた。一面の鈴蘭が白と緑の肢体を晒し、春の陽気を一身に浴びようと努めていた。
 この場所は、あまり日当たりの良い場所ではない。だからなのか、鈴蘭の咲き乱れるそのさまは、春の陽気とはうらはらに、常に伏し目がちで沈んだ面持ちの印象を与えた。けれど彼女にとっては、それこそが母の見せる顔なのだった。
 母の顔は、常のごとく憂いをたたえた顔をしていた。そこはもう何者も居ない、いつもの無名の丘なのだと語りかけていたので、彼女は先程の兎がもう何処かへ行ってしまったことを知った。

 彼女はこれまで、無名の丘を出たことがなかった。けれども決して、物知らずというわけではなかった。彼女の知識は、鈴蘭とその毒気が教えてくれたので、あまり不自由な思いをすることはなかった。
 何故鈴蘭やその毒気が知識を持っているのかは判らない。それは風がもたらす人間の声や、闇がもたらす妖怪の声を聞いたためか。それともこの場に骨を埋めた幼子の、栄養と共に知識や遺伝を取り込んだためか。本当のところはどうあれ、彼女は様々な知識を与えてくれる鈴蘭とその毒気を母と慕い、捨子への供物として打ち遣られた子供向けの絵本や玩具で、母と一緒に遊びながら知識を深めた。

 だから、本物の兎というものを彼女はその時初めて見た。白くてふわふわした耳が生えていて、大きく見開いた目は朱くて、しきりに飛び跳ねていたので、これが本当の兎なのだと感心した。
 だけれど彼女には、絵本や玩具に描かれたような、彼女の想像し得る生き物とは何だか別のもののようにも思えた。彼女の持つ知識のうえでは、兎なるものはもっと小さくて、全身が白くて、ふわふわな生き物だった。だからきっと可愛くて、優しくて、お友達になれそうだ、と彼女は意識していた。

 その兎は自分と同じような手足が生えていて、肌はつるつるのもちもちで、艶やかな黒髪が生えていた。天鵞絨(びろうど)の洋服を着て、人参の首飾りをしていたので、彼女にはそれが何だか人間のようにも思えた。
 何よりそれが違って見えた理由は、その兎の心の内が、耳や身体の白とは対照的に、黒くもやもやしているように彼女が感じたからだ。いくら経験の乏しい彼女でも、その兎が自分を騙そうとしていることは直感した。お友達になろうものなら、良いように扱われて棄てられてしまうのではないかとさえ思わせた。それは人形としての彼女が最も忌むべき行為と嫌うところなので、彼女はその兎を全く可愛くないものと認識した。

 案の定、その兎は何だか判らない理由を付けて彼女と勝負し、何だか判らないうちに鈴蘭畑の一角を自分のものにして帰って行った。彼女も健闘はしたのだけれど、その兎は相手を騙しすかすことにおいて、全くの上手だった。だからその時の彼女には、その兎に鈴蘭の毒気を、厭という程浴びせるより他に、仕返しすることができなかった。
 それでも、この無名の丘の鈴蘭の毒気は、生き物にはすこぶる能く効く。今頃はどこかの道端でへたっているだろうと考えると、彼女は少しだけ気分が清々とした。


 スーさん。今日は、変なのが来たねえ。あれが兎なんだね。私、兎が厭になったわ。あんなに小狡いものだとは思わなかったもの。

 ねえスーさん、負けてしまって御免ね。折角綺麗に咲いたスーさんなのに、少しだってあの兎にやってしまうのは、私も厭だわ。だからね、今度あいつが来た時には、動かなくなるまで毒で満たしてやろうと思うの。そうすればあの兎だって、大人しくって可愛いと思うのよ。それにここには沢山の人間の子供達がいるもの、寂しくもないわ。あの兎も、きっと気に入るんじゃないかしら。

 その時は、また私を助けてね、スーさん。今年のスーさんはとっても強いんだもの、そのまま人間の里に下りたって良いわ。人間は身勝手で厭なものだけれど、あの兎ほど小狡くはないから、きっと今年こそは懲らしめてやれるわ。そうしたら、スーさんももっともっと、沢山綺麗に咲くことができると思うの。楽しみね、スーさん。


 彼女は、笑顔をしていた。あるいは彼女が人形だから、自然とそうさせるものかも知れない。わざと表情を作る必要もないほどに、彼女は自然な笑顔をしていた。
 美しく整ったその顔は、まるで善悪を知らない、純真無垢な赤児のそれに似ていた。汚れも混じりも無いような、あどけない顔をしていた。




◇◇◇◇◇◇




 明くる日も、また明くる日もあの兎はやって来ないので、メディスン・メランコリーは機嫌良く過ごしていた。
 全く不敵な態度で鈴蘭畑の一角をせしめた兎は、彼女の心配をよそに一向現れる気配を見せなかった。ことによると、鈴蘭の毒気に冒されたままで居るのかも知れない。けれども、なにぶん可愛くない兎のことなので、どうでも良いことのように彼女は思っていた。

 彼女は時折笛のような甲高い声で唄を歌いながら、鈴蘭の花飾りを作っていた。
 指の運びはとても怪しく、紡がれる花飾りも、そのところどころから歪にむしられた茎が覗いていた。けれども彼女は、一生懸命に指を動かしていた。指を曲げる度に、ころころとかすかな音が鳴った。
 時折思い出したように、彼女は花飾りを日に透かしてじっと眺め、歌うのを止して黙々と編みもした。また思い立ったように腰を上げ、花飾りを無造作に放って、歌いながら鈴蘭の花を摘み取りもした。そうしてまた歌いながら編み始め、また思い出しては日に透かして、まるでからくり仕掛けみたく花飾りを編むのだった。
 春風のそよぐように、ゆっくりと時間が流れた。

 日が傾き始めた頃に、彼女はようやく花飾りを一つ編み上げた。小さな鈴を一杯ぶら下げたそれは、くたびれた楕円形をして、そこかしこに鈴蘭の茎が荊(いばら)みたく跳ねていた。
 幼子の作った蓮華や白詰草の花飾りなら、拙いけれど可愛らしいと賞するものだろう。けれど、とろとろと青白い毒気が垂れる鈴蘭の花飾りは、見るも無惨な拷問具のようでもあった。
 彼女はその花飾りを、か弱い赤児を優しく抱くようにして、かたかたと鈴蘭畑を駆けて行った。そうして丘の中程にある楠の木の下へ辿り着いた彼女は、まるで大切な友達に出会ったみたく、紅潮した笑顔をしていた。


 ねえ、今日はスーさんにお願いして、お花飾りを作ってみたの。貴女はとっても白いから、少しくらいの薄緑や、薄黄金色が似合うと思うのよ。ね、これあげるわね。スーさんは、ぶきっちょうだって言うんだけれど、そんな事ないわよねえ。

 ねえ、この前私、兎に会ったの。あんまり可愛くなかったわ。絵本や玩具に描かれている兎は、何だってあんなに可愛いのかしら。あんなの嘘よ。だって私の会った兎は、とっても黒いんだもの。
 それにね、私からスーさんを奪おうとしたの。もっと凄い毒にしてあげる、なんて言っていたけれど、きっと嘘。だってそんなに毒のことに詳しいのなら、スーさんの毒気をあれだけ体に浴びて、澄まし顔なんてしていられやしないわ。ね、そうでしょう。スーさんの毒気はそんなに甘くはないもの。

 ねえ、今度私ね、人間の里へ行ってみようと思うの。ほら、今年のスーさんは凄く頼りになるでしょう。だからね、今年こそは人間にひと泡噴かせてやれると思うの。
 そうして、私は人形を人間から放してあげるの。スーさんも、この丘よりもっともっと広い場所に行けば、もっともっと綺麗に咲くことができると思うのよ。ね、良い考えでしょう。


 色褪せた楠の木の根本に彼女は屈んで、しきりに何言かを語りかけていた。その言葉に、返すものは何も居なかった。ただ、彼女は笑顔のまま、時に身振りを加えて、さも一番の親友と語らうように、全身で楽しんでいた。

 彼女のかたわらには、丸く白い石がひとつ転がっていた。彼女はそこに、先程完成したばかりの花飾りを被せていた。石の周りには、小さな欠片のような白い石と、細長い棒きれのような白い石も沢山転がっていた。それらは皆、表面が乾燥してかさつき、芯まで固くできてはいないように見えた。少しばかり黄ばみが残り、他は砂のように崩れたものもあった。
 丸く白い石には、二つほど穴が空いていた。中はがらんどうで、まだ芽を出して間も無い鈴蘭の葉が見えた。それは、空を見ていた。丸く白い石は、なお白い白い雲を、羨ましそうに見上げていた。

 彼女はその石を、自分と共に生まれたように思っていた。彼女に自我が芽生え、自分は今ここに居るのだという気付きを起こした時、そのかたわらには丸く白い石が転がっていた。彼女は雨風に晒されて、薄汚れた衣服をまとった姿で、その石と一緒に転がされていた。
 彼女が目を開き、その丘で初めて見たものは、その石の哀しそうに見つめる二つの窪みだった。冷たい雨の降りしきるなか、石を伝う雨垂れがまるで涙みたく流れた。
 まだその時の彼女は、自分が何であるかさえはっきりと意識していなかったのだけれど、その眼差しを受けた時に、棄てられてしまったのだ、と悟った。棄てられるという言葉の意味すら理解していなかったのに、その時の彼女は、まさにそれとしか表せない感情を胸の内に覚えた。

 彼女はまだ慣れない身体をようよう起こして、辺りに散らばる白い石を拾い集めた。彼女にはそれがたまらなく愛おしく感じて、冷たい雨に濡れるのがたまらなく狂おしく映った。
 目に留まる白い石を拾い集めると、彼女は雨風に晒されない場所を求めて丘の中程にある楠の木の下へ辿り着き、それをそこに置いてようやく、ほっとした。

 それから彼女はよくここに来て、その石に友達のように語りかけた。新しく覚えたことや珍しいものに出会えたときなどは、必ずそれに報告をした。
 彼女が屈んで見下ろすと、丁度その石の二つの窪みが彼女と視線を合わせた。彼女は時折そうしてから、満面の笑顔で、それでね、と話を続けるのが常だった。

 一際強く吹く風が、彼女の金髪を揺らした。

 風の吹く方を見ると、鈴蘭畑の向こうに、赤だの黄だのの賑やかな花が、野原を豪勢に飾っていた。そのまま遥か子(ね)の方には、色とりどりの花とは対照に、くすんだ色の人里が小さく縮こまっていた。
 それを見た彼女は、何だかその風がこの爽やかな春の丘まで、わざわざ人里の矮小でごみごみしたものを彼女の元へ運んできたように感じて、すぐに目を背けた。

 彼女は人間を嫌っていた。人間は身勝手で、厭なものだと思っていた。彼女は自分が人形なので、人形の自由を取り戻すために、いつかそんな人間を懲らしめなければならない、という使命感に囚われていた。
 そうした思いやそうした考えをするのには、彼女なりの理由があった。ただ一つはっきりと言えることが、彼女の過去にはあった。それはこのかたわらにある丸く白い石も、同じく思うところだろうと彼女は考えていた。

 彼女が物心着いてより、鈴蘭とその毒気から知識を与えられながら、人形の身体で過ごしたことで、いつしか自分は人形であり、人形は人間が慰みのためにこしらえたものであることを知った。
 そうして改めて当時の事に思いを巡らせると、果たして自分は人間の身勝手で棄てられたのだ、と自覚するに至った。彼女はその結論を得て、えも言われぬ哀しみに打ちひしがれ、自分を置き去りにした人間を恨めしく思った。

 だから彼女はこの無名の丘で、鈴蘭畑に囲まれて、毒気を浴びて過ごした。彼女自身をして、より使い出のある毒や毒気を作り出してきた。そうして何者か訪れれば、必ずその毒気を浴びせて追い返した。
 時にそれは妖怪や小動物であったけれど、彼女にしてみれば同じことだった。それが何であれ、彼女の毒気に耐えられないものは、皆憎むべき対象のようにも思えた。それは本来命を持たない彼女の、命ある者へのささやかな復讐なのかも知れなかった。

 凪ぐ春風と共に、彼女は落ち着いた心地を取り戻した。
 彼女の作った花飾りは、突風に負けて、その房から小さな花を二つ三つ落とした。彼女はそのうちの一つを摘み、香りを楽しむように、しばし面の突起へ当てていた。そうして、また来るね、と言い残し鈴蘭畑へと戻った。

 また幾度か日光と月光が立ち替わり無名の丘を照らした後、彼女は卯(う)の方にある竹林から、何者かがやって来るのを見た。影は二つあり、うち一つは彼女の見知った影だった。白い肌に白い耳をぶらぶらさせたそれは、内から滲み出るような黒い影をしているように彼女は見た。それは間違いなく、先日訪れた兎だった。
 彼女は少し難しい顔をしたけれど、傍目からはやはり美しく整った顔なので、近付いてくる二つの影が彼女の感情に気付くことはなかった。彼女は始めこそそうした気持ちで接したものの、その兎との契約は覚えていたので、それから後は特に厭な素振りも見せず、鈴蘭畑へ迎え入れた。

 思えば彼女がこの場所へ他者を迎え入れたのは、この時が初めてだった。契約上仕方の無いことと思いながら、それにしては彼女も、自分自身が素直にそれに従い他者を迎え入れたことに、少なからず戸惑いを覚えていた。そしてそれがあまり悪い気分でない事にも、全くの不可思議を感じた。
 そしてまたもう一つの影に対しても、彼女は同様の不可思議を感じた。それは日向に居なくとも、元から影のある女のように彼女は見た。
 兎からの紹介では、その女は知り合いの薬の達人で、幻想郷きっての薬師なのだそうだ。彼女が影のある女と見たのは意外にも的を射ていたのかも知れない。薬師というのは薬も作るが、同様に毒も作るので、そうした影があるものかと彼女は思った。そしてまた、彼女は自分も毒や毒気を操るので、何とはなしに、その薬師に仲間意識を感じた。

 その影は薄幸そうな笑みをたたえて、彼女を可愛いと言った。すると途端に彼女は、まるで褒められて気を良くした子供のように振舞い、兎と薬師に鈴蘭の毒を分け与えた。
 彼女は確かに人間を嫌っていたのだけれど、それ以前に彼女はまだ生まれて間も無い幼子のようなもので、経験も浅かった。だから彼女はこの時、彼女のそうした信条すらも、暖かな春日のごとき薬師の言葉にうかうかとさせて、満面の笑みでまた来てね、と見送りまでしてしまった。そうして後から思い返して、恥ずかしいやら悔しいやら判らない表情を浮かべ、楠の木の下でぶちぶちと愚痴るのだった。

 そんなやりとりが、十日に一、二度の割合で行なわれた。彼女は毎度のごとくうかうかとして、後で顔から火の出るような思いに転げ回る日々を過ごした。けれども、幾度となく顔を合わせるうちには、彼女はその二人に、鈴蘭やその毒気、楠の木の下の丸く白い石に対するものと同じ感情を抱くようになった。

 幾度か繰り返された訪問は、彼女から鈴蘭の毒を分け与えるばかりではなかった。時には兎と追い駆けっこをして遊んだり、薬師から珍しい毒を貰ったり、鈴蘭畑の外の面白い話を聞く事もあった。
 いつしか彼女は、二人を迎え入れる時には難しい顔から楽しい顔に変わっていき、二人を見送った後には屈辱的な顔から浮かれはしゃいだ顔に変わっていった。
 そうして独り無名の丘に佇む時には、いつも通りに鈴蘭やその毒気、楠の木の下の丸く白い石を愛おしく思い、人間やその他の命ある者を憎々しく思い、そうして心なし物足りなく、寂しいような思いをした。

 春はまだ続いた。無名の丘の鈴蘭畑は昨日よりも今日、今日よりも明日といったように、よりいっそう咲き乱れた。けれども、少し子の方角に広がる野原の花は、ぽつりぽつりとその彩りを失い始めていた。

 その日も同じように竹林から二人が訪れ、いくらかの毒を採取していた。ややあって小休憩の折、薬師から距離を追いて、兎が彼女に語りかけてきた。

「ねえ貴女、貴女もこんな処で独りで居ないで、もっともっと妖怪らしく、面白おかしく過ごしたくはないかしら。そうね、例えば私達と一緒に暮らしてみるとか。もし貴女に鈴蘭の毒気が必要なのなら、私がお師匠様に頼んであげようか。そうすればきっと、貴女は鈴蘭の毒気なしでも自由に動けるようになるわ。
いや、いっそのこと、生身の妖怪になりたくはないかしら。私達と一緒に暮らさなくても、貴女の世界はもっともっと広がるはずよ」

 かたり、と小さな音を慣らして振り向き、彼女は兎の笑顔を見つめた。




◇◇◇◇◇◇




 春の盛りとはいえ、夜ともなると風は冷たく吹いた。神社のある小高い山に邪魔されて、常よりあまり日当たりのよくない無名の丘は、そのくせ風除けとなるようなものが無いので、生き物には住み心地のよくない場所だった。
 広く生い茂る鈴蘭に隠れてあまり知られてはいないけれど、少し巽(たつみ)の方へ行けば、細くあえかな小川もあり、慎ましく果敢無げな池もある。けれどもその水は冷たく注ぐ鈴蘭の毒水で、やはり生き物には耐え難い場所だった。
 ぽっかりと浮かぶ月の下、鈴蘭畑は気の狂れそうな静寂に包まれていた。風に揺らめく鈴蘭の花や、髪を揺らす人形の姿が、この場所から僅かな温もりさえも奪うように映った。

 メディスン・メランコリーには、昼も夜もなければ、寒も暖もなかった。ただ彼女は無名の丘に居て、鈴蘭畑に佇むばかりの日々を過ごしてきた。
 だから彼女の玻璃の瞳には、春風凍える夜の丘も、よく知る景色の一つとしてしか映らなかった。ただ今宵の彼女は、自分を含めたその景色に対する幾許かの疑問を以て、深く思案していた。
 春も、夏も、秋も、冬も関係なく、ただ静かで冷たいこの場所に、何故彼女はこうして居るのかを考えていた。

 道理的には、彼女も理解をしていた。彼女の身体は棄てられた人形で、彼女の精神は鈴蘭の毒気だ。幼子が棄てられる場所なら、彼女のような人形が棄てられることもあるだろうし、命ある者の神経を毒が回ることで活動するというのなら、彼女のように毒気が妖怪になることだってあるだろう。だから彼女がここに居るのだということならば、成程道理に違いない。
 けれども、それと彼女の思案するところとは、少し違っていた。彼女は自身がここに居ることに疑問を抱いたのではなく、自身がこうして居ることに疑問を抱いていた。つまり彼女は、自分というものの在り方に疑問を抱いているのに他ならなかった。

 その考えが浮かび上がったのは、やはりあの可愛くない兎の言葉が契機だったのに違いない。けれども彼女は、深く思案したなかで、それが契機に過ぎないことを自覚しつつあった。
 なぜなら彼女は、鈴蘭とその毒気に知識を与えられた折、自我の芽生えるなか、どうして自分は在るのだろう、という疑問をきっと抱いていた。楠の木の下で歓談する折、親友に語りかけるなか、どうしてそれが親友なのだろう、という疑問をきっと抱いていた。竹林の二人とひと時を過ごした折、新鮮な喜びを覚えるなか、どうしてそんな気持ちになったのだろう、という疑問をきっと抱いていた。
 彼女のこれまでの生活のなかにも、そうした数多の疑問は、そこかしこに必ず転がっていて、ただ黙ってじっと彼女を見据えていた。それでも彼女は、自身にとって居心地の良いこの鈴蘭畑に籠もり、彼女だけの小さな世界に居ることで満足していたので、淡い疑問は疑問のまま抱きながら、その鈍く刺さる視線を物憂げにしか感じていなかったのだろう。
 だから兎の言葉は契機に過ぎなくて、彼女は自身の在り方について内面から反省する術を持っていたのが、今回ようやく自発されたに過ぎなかった。

 彼女は深く思案した。あまりに深く思案して、彼女はたびたび思考の渦に呑まれることに悩んだ。
 彼女はこの充足した小さな世界より他に知るものもなかったので、その疑問は全く彼女の知識の埒外にあり、まるで彼女にとって現実味を帯びない蜃気楼だった。それでも彼女は初めて自発された疑問を手放そうとせず、なるべく思考の波に乗るように、逃げ水を追うようにして深く思考し続けた。

 彼女の在り方は、そう単純に、こうと呼べるようなものではなかった。道理の元に生まれたとはいえ、彼女の一切は、様々な奇縁で絡まるように結ばれた道理で成り立っていた。
 それは彼女が人形であり、鈴蘭の毒気であり、妖怪であることを示した。また器物の怪異となれば付喪神とも呼べるかも知れないし、本来の器を持たずに人形を憑坐(よりまし)とする行為は、幽霊とも呼べるかも知れない。どのような待遇であれ人情を一身に受けたのなら、精神において人間とも呼べるかも知れないし、住処なき丘に、昼も夜も関係なくのさばるさまは、獣とも呼べるかも知れない。
 そのうちのどれでも、彼女を呼ぶには相応しいように聞こえるし、そのうちのどれもが、彼女を指すにはあまりにはっきりと立場を主張し過ぎているようにも見えた。

 よりはっきりと区別するにしても、命があるのか無いのかさえ、彼女は朦朧としていた。例えば彼女のここでの生活で、楠の木の下の命無き石を愛おしがるのは、彼女自身の命無き者が故かも知れない。けれど彼女は同時に、命ある鈴蘭を慕い生きてもきた。そうすると彼女は、命ある者なのだとも思われた。あるいは真逆に、命無き彼女が命ある鈴蘭を憧れ慕うのかも知れなかったけれど、それは彼女が命ある者として、楠の木の下の命無き石に虚しい愛情を注ぐ事実も突き付けた。
 それは傍から見れば、彼女が半端者以外の何者でもないことを示す以外に、他の示唆の赦されない在り方なのだった。

 思案のうちに導かれたその事実に彼女ははっとして、その容易に受け入れ難いことに途方に暮れた。複雑な奇縁の賜物である彼女は、単純に半端な在り方をしていたことに、彼女は耐え難い嫌悪感を抱いた。
 彼女は、自身が人形だとはっきりと認めて、こうして居るのだとばかり思っていた。けれども、それは彼女の我侭な主張に過ぎず、他の誰かに認められた在り方ではない事を悟り、全身の木肌が泡立つような思いに駆られた。

 ならば彼女は一体どう在れば良いのか。人形の身体は人形のまま、毒気の精神は鈴蘭の毒気のまま、何を思うことなく、何を感じることなく、ゆるゆると朽ちるのを待つべきだったのか。彼女は彼女として、斯く在ることを望むべきではなく、また何者にも望まれてはいなかったのか。ならば何故、彼女は今、こうして居るのか。
 いくら思考を重ねても、嘲笑(あざわら)って突き崩す地獄の鬼のような残酷な問いの前に、彼女は放心してくずおれ、為す術無く膝を抱えた。

 冷たく吹く風が鈴蘭を揺らし、葉がすれの音が川のせせらぎを幻聴させた。河原敷のように広がる鈴蘭の、こと、ことと、房なりの花がぶつかるさまは陰鬱で、そこかしこにきっと幼子の髑髏(されこうべ)が居て彼女をあざけているのだと錯覚させた。そこには独り少女の姿があって、身も心も虚ろのまま、涙の枯れ果てたような顔をして、ただ膝を抱えて座っていた。

 やがて明けた夜の冷たさに代わる、春日の暖かな陽光さえ、彼女に何の光明ももたらすことはなかった。彼女は決して逢える筈の無い母を待つ幼子のように、ほんの僅かな期待を諦観の黒で塗り潰したような瞳の色をして、その場から離れなかった。
 春日は無情の人のごとく、彼女を見下しながら過ぎて行った。その日の無名の丘には、笛のような歌声もなければ、親愛に満ちた話し声もなかった。かたり、という小さな音さえ鳴らなかった。

 彼女が黙考を始めて、二度目の月夜が彼女の世界を包み込んだ。常人であれば、そのまま呑まれて心をすくませてしまいそうな月の下、彼女は確かに彼女を助ける一筋の光を見たように、ある考えを繰り返し巡らせていた。
 今の彼女には随分と魅力的なもののように思えるそれは、あの可愛くない兎の言葉がもたらしていた。彼女は確かに、自身も認めるように半端者なのだろう。それなら、半端者でない自分ならば、こうして居ることを認めてもらえるのだろうか。もし彼女が、誰もが妖怪と認めるなら。もし生身の身体を持つ妖怪なのなら──自分は、こうして居ても良いのだろうか。


 スーさん。私、どうしたら良いんだろう。私はつくづく、今の自分が厭になってしまったわ。だって、こんなの私らしくないもの。……ううん、違うわ。私が私じゃないようだもの。
 ねえスーさん。私はどこに居るのかしら。ここにこうして居るのは私なのかしら。あすこに見える、みすぼらしい人里で、人間の良いように遊ばれていたのが、私かしら。それとも、向こうに見える、竹林の兎と一緒に楽しく暮らすのが……

 スーさん。私、こんな半端な気持ちは厭だわ。どれだけ一生懸命になって考えても、そうすればそうしただけ、私が人形じゃなくなっていくのが厭だわ。
 じゃあ私はやっぱり、スーさんの毒気なのかしら。でも、こうしてお月様に手を透かしてみても、ちっとも透けやしないの。手をこうして握ったり、開いたりすると、ころ、ころと音がするの。スーさんはこんな音しないわ。じゃあ私はやっぱり、スーさんの毒気じゃないのかしら。
 じゃあ、私はもしかして、妖怪なのかしら。でも、私はそんなに力持ちじゃ無いわ。私の作る毒だって、スーさんのが元だもの。私は、私だけで何かをしたことが無いのね。じゃあ私、やっぱり妖怪じゃないのかも知れないわ。

 スーさん。スーさんは何も、答えてはくれないのね。いつもは色んな事を教えてくれるのに、こんな時ばっかり狡いわ。ねえ、私、どうしたら良いんだろう。答えてよ。あの兎は、可愛くないけれど、それでも私に答えをくれたわ。
 スーさん、私のスーさん。スーさんが答えてくれなければ、私……


 鈴蘭の花は、たださやさやと、夜風に身を揺らすだけだった。
 鈴蘭は知識を持っている。鈴蘭から生じた毒や毒気も、この地の何事かを吸い上げて、知識を蓄えている。けれど、鈴蘭にもその毒気にも、知識の他に何もなかった。彼女に語りかけたのは、そこに何の情緒も感慨も含まない、知識だけだったのだろう。だから彼女は、いつまでも幼いまま、今でも幼いまま居たものかも知れない。彼女はその事を、多分知らないでいた。

 ほうと一息、面に穿たれた穴から嘆息して、彼女は久し振りに身を起こした。丸一日同じ形に固まっていたせいか、彼女の身体のそこかしこから、ぎぎ、と耳に残る厭な音がした。




◇◇◇◇◇◇




 メディスン・メランコリーはいつものように楠の木の下まで来ると、腰を下ろして月を見上げた。その月は先程、彼女が鈴蘭の毒気ではない事を証明してみせたものだったので、彼女は忌々しげに見上げていた。
 月には兎が居るという。月の兎は二本の足で立って、よく餅を突いて月に捧げるのだという。何かの絵本で読んだのを彼女は思い出し、そうして見れば月には確かに餅を突く兎が見えた。彼女の内ではその兎と、彼女に賽の河原の積み石をさせるような苦しみを与えた、竹林の兎とが重なって見えたような気がした。
 だからやはり彼女は、その月を忌々しげに見上げた。月は決まりが悪いものか、ゆるゆると流れる暗雲にその身を隠した。

 彼女の内では、大方が彼女の妖怪に生まれ変わるのを望んでいた。いつまでもこうして、どっちつかずで居るくらいなら、いっその事生身の身体を持つ妖怪になってしまうが好かろうと、彼女の内に居る何かが叫んでいた。
 けれど、彼女の内にはただ一つだけ、それを拒むような何かも居た。それは今となってはとても弱々しく、まるで頼り無いのだけれど、彼女にとってそれをかなぐり捨てるのはいささか惜しく、またそれは、本当に後へ戻ることのできない致命的なもののように彼女へ訴えかけた。

 だから彼女は先程、意を決して鈴蘭畑に語りかけ、答えを求めた。けれども鈴蘭とその毒気は、何も答えてはくれなかった。
 そうして彼女の内に居る弱々しいものは、より一層弱々しく、頼り無くなってしまった。それは逆に、彼女が本当の妖怪への第一歩を踏み出す為の、背中を押す意思にも受け取れた。

 彼女はいつものように楠の木の下へ来た。そして多分、このままの思いで居るならば、彼女がここへ来るのは今晩が最後になる。


 ねえ、私もうここには来られないわ。私ね、妖怪になるの。そうして、ここから出ていくの。私ね、ここが好きだわ。けれど、ここに居ると、私は私が何だか判らなくなるの。
 どうしたら良いのか判らないから、スーさんとお話したわ。でも駄目ね、スーさんには呆れられちゃったみたい。喧嘩しちゃった。だからきっと、私がそうしたら、ここには来られないわ。

 ねえ、貴女は私の代わりに、ずっとここに居てくれるのかしら。スーさんはああ見えて、寂しがりなんだもの。呆れられた私が居なくなっても、貴女が居るから心配ないわよね。
 御免ね、きっと私、我侭なんだわ。ずっとこうして居て良いんだって思っていたけれど、それじゃ駄目みたいなんだもの。ずっと私は人形なんだって思っていたけれど、誰もそうだって言ってくれないんだもの。スーさんも、きっとそんな私を我侭だって思って、何も言ってくれなかったんだわ。

 ……ねえ、あのね。私、私は、どうしたら……ううん、何でもない。忘れて。そうだ、今日はお月様のお話してあげるわね。昨日は来られなかったもの、今日はいっぱいお話してあげる。


 寂しさをたたえた顔で、彼女は丸く白い石に微笑みかけた。

 その時、ゆらゆらと過ぎ去る暗雲からゆっくりと、月が眩しい顔を見せた。竹林の彼方から石火のごとく、さあと月光が走って無名の丘を照らした。
 静謐(せいひつ)とした無名の丘が、闇から一転、彼女にはまばゆく見えた。かすかな毒気が霞のように漂うのが、青紫の雲海に見えた。ひときわ白く浮き立つ、その丸く白い石に、彼女は人の影を見た。

 棄てられた人形は極楽浄土の夢を見るか。彼女の目の前には、一人の名も無い、けれど彼女はよく見知ったに違いない、柔和な顔立ちの少女の影が映った。少女は両手を広げて、彼女を迎え入れるようにして微笑んでいた。
 彼女はその情景に、言葉を呑んだ。けれど、不思議と驚いたような思いはなかった。同時に、はたしてこれは何如にといった、考える頭も持ち得なかった。ただ彼女は、その少女の求めるまま、吸い寄せられるようにして彼女の膝へ倒れ込んだ。

 かたり、と小さな音が鳴った。

 彼女は仰向けにされて、少女の膝上へ抱き寄せられた。そうして少女は、彼女の金髪を優しく、愛おしく梳(す)き撫でた。その表情はいたって平穏で、静かに笑っていた。綺麗な唄を歌いそうな嬉しそうな顔で、それでも静かに、ただ彼女の髪を撫でていた。

 このとき彼女の内は、自分がどうして居るのかとか、自分が何であるかとか、竹林の兎や薬師のことをすっかりどこかへ置いてきてしまったように、まったくさっぱりとなってしまった。その虚ろな彼女の内は、少女が髪を梳く度に、柔らかく暖かい気持ちがかき集めらるように満たされていった。

 少女は、多分人間だった。そして少女に抱かれた彼女は、人形だった。抱き寄せられた時こそ思わず縮こまってしまったけれど、それでもその少女の髪を撫でる仕草に、少しくすぐったい思いをしながら、心から安心したように抱かれていた。
 少女は彼女を大切にした。これまでも大切に、いつまでも大切に、彼女の髪を撫でた。

 人形は確かに、人間が慰みでこしらえたものだ。そうして人形は、あるいは人間の身勝手で棄てられてしまいもする。
 けれどもまた、人形は人間の生あるうちに、あふれてもまだ足りないほどの慈しみを受けもするだろう。彼女はその少女が、きっと後者なのだろうということを、その撫でる手指に感じられた。
 人間に憎しみを抱いていたはずの彼女は、けれどもその少女を嫌いになることはできなかった。成ろう事なら、彼女はその少女と、いつまでも一緒に居たいとさえ思った。彼女は彼女が、今はその少女の人形であることに、幸せさえ感じていた。

 少女の表情は、優しさで満ちていた。その優しさは、明らかに彼女に向けられていた。彼女が口元を不器用に吊り上げれば、少女は目を細めて笑いかけた。
 そうしているうちに、彼女はふと、先程の楠の木の下でのことが頭をよぎった。その少女は、彼女がこの場を去ってしまったら、どう思うだろうか。彼女が生身の妖怪となってしまったら、どう思うだろうか。また彼女は、ここにこうして居ても良いのだろうか。彼女が人形として居るのを、認めてくれるだろうか。
 そうした問いかけに、その少女は多分全て答えてくれるように、彼女は思った。けれどもまた、そうした問いかけに、その少女は眉をひそめ、耐え難い苦渋の顔をしてしまうのではないかという不安も覚えたので、彼女はついに問いかけるのを止すことにした。
 そもそもこうして優しくしてくれる以上に、彼女にとっての答えは要らないようにも思えたので、彼女はただ少女の撫でるがままに身を委ねて、ふわふわとした心地良さに沈んでいった。

 彼女が見上げた少女の頭には、鈴蘭の花飾りがしてあるように見えた。そうして彼女は、人間の子供が眠るように、うとうとと目を閉じた。


 彼女が目覚めると、鈴蘭畑には朝日の柔らかな日射しが差し込んでいた。
 彼女は昨晩楠の木の下に来てから、丸く白い石を抱くようにして眠ってしまったようだった。けれど彼女には、眠るという行為が初めてのことだったので、きっと慣れない思案に耽ったがための失神だったろうと考えた。
 そういえば身体は人形なので火照るはずもないけれど、精神は思いの他火照っているようにも感じて、これが知恵熱かと感心した。悪い気はしなかったので、彼女はにやにやする感じに身をよじりながら、不思議な気持ちで身体を起こした。

 鈴蘭畑を見渡すと、竹林に近い外れの方で、何やら鈴蘭の花とは違う、白いふわふわしたものが揺れていた。気になってゆっくり近付くと、一生懸命になって大きな穴を掘る兎が居た。
 彼女が声をかけると、その兎は珍妙な声を上げて円匙(ショベル)を放り投げ、腰を抜かしてお尻を付いたまま彼女を見上げた。毒を摂りに来たのかと問うと、そうではないのだと大慌てで否定した。そうしてしどろもどろに挨拶をして、無理矢理別の話題を持ち上げるように、あれから妖怪になることを考えてくれたかしらんと問い返してきた。

 そう言われて彼女は、自分がそうした疑問に惑わされて、二日もの間ぐるぐるとした思案を余儀無くされていた事を思い出した。それはこの可愛くない兎がもたらした話が契機だったことをよく覚えていた。二日を要して、それには結局明確な答えを得られないままで居たはずだった。
 けれども、今は兎をからかう事ができるまでに、不思議と気持ちが軽く、清々しささえ覚えていた。確かに彼女は底無し沼のような沈思に悩まされていたのに、今のこうした穏やかな気持ちに至った理由が、どうしても思い出せなかった。
 そうしてそれが何故なのかを考えると、決まって楠の木の下の丸く白い石が思考に浮かび、何となしに気恥ずかしく、また嬉しいような気持ちになった。

 彼女はその兎の提案には辞退しよう、という気になった。それは彼女にとって良いことか悪いことか、はたまたそれにはそうした判断など下せないものなのかも知れない。ただ、彼女の内では、今はここでこうして居たいのだ、という気持ちのほうが強かった。
 彼女は結局、自分が何者で、何故こうして居るのかの結論は得られなかった。けれども、それが生身の妖怪になることで決着するかというと、それも違うと感じられた。彼女は彼女だ、というとまるで説明になっていないけれど、今はここでこうして居ることのほうが、彼女には何より嬉しく、大切なことのように響くのだった。

 拙いながら、彼女はそうしたことを兎に答えた。兎は聞いているのかいないのか判らない表情で、さてこれは不味い問いかけをしてしまった、とでも言いたげな苦い顔をしていたけれど、彼女がその申し出を辞退することを耳にするや否や、まるで救済された亡者のごとくの明るい顔をして、彼女の両腕をしっかと握り上下に激しく揺らせた。

「あっ……そ、そうなの、それは助かっ……いや、残念ね、本当。生身の妖怪になって、この鈴蘭畑よりももっと広い世界を見て欲しいなあ、と思っていたけれど、そうね、貴女にはここにこうして居る理由があるのね、きっと。いやあ残念だわ。本当よ。
ええっと、じゃあそういう訳で、私はそろそろお師匠様のところに戻らなきゃいけないからね、また二人で来るからね、あは」

 捲し立てるようにそう言うと、兎は竹林へと全速力で戻って行った。少し挙動不審な点もあるけれど、なかなか良い兎だな、と彼女は素直に感じた。ただ、掘った穴は埋めてから帰って欲しいな、とも彼女は思った。

 彼女がここにこうして居る理由。兎は、彼女にはそれがある、と言った。彼女には残念ながら、それが何であるのか本当のところはまだ判らない。けれども彼女はその一言に、少なくとも彼女は他者に認めてもらえたのだ、という実感を得た。今はそれだけで十分なのかも知れない。
 彼女がここにこうして居る理由は、きっといつか見付かるだろう。それまで彼女はこの無名の丘で、この鈴蘭畑で、鈴蘭とその毒気と、楠の木の下の丸く白い石と共に、ゆっくりと色々な事を学ぼうと思った。

 暖かな春風が鈴蘭畑をゆらゆらと揺らした。彼女は鈴蘭に、こっちへおいで、と呼ばれた気がした。
いつもは他の投稿サイト様で活動させて頂いているのですが、今回は初出作限定という東方創造話様の方針に則り、まずこちらへ投稿させて頂きました。
恥ずかしながら筆者の文体の癖の為、多くルビを振らなければ読めないということもあり、数日後に改めて修正したものを件の投稿サイト様(二重投稿可)へ掲載する予定でおります。
なお、件の投稿サイト様にも、既に二、三の拙作を掲載しております。内容も物足りず世界観も希薄なものでは御座いますが、もしご興味を抱かれたなら、そちらもご覧いただければ幸いです。

最後に、拙い文章で読者の皆様には心苦しくありますが、何事か思うところあれば、ご感想など頂けると筆者が喜んでのたのたします。

12/19 内容そのまま、ルビと改行とスペースだけ変更させて頂きました。遅くなって御免なさい。

http://mypage.syosetu.com/68221/
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コメント



0.200簡易評価
3.無評価名前が無い程度の能力削除
一貫して非常に細やかで、
確固として在るひとつの世界を
透徹させるように描き出す手腕には感動さえ覚えました。

単なるキャラクターでなく、はっきりとした人物として描写すべく、
メディスンという人物像と彼女を取り巻くすべてのものの構築へ
真摯に向き合う姿勢と大きな努力が伝わってきました。
ここまで丁寧に造られた物語で、彼女が成長しないはずが無い。

次回作も期待しております。
6.70名前が無い程度の能力削除
一行に目一杯詰め込んだら、読みにくいよ
7.無評価削除
>3 様
おおお恐れ入ります。ご感想有難う御座います。
次回も頑張ります。頑張らせて頂きます。

>6 様
ご意見有難う御座います。筆者も投稿した週末に酒飲んで拙作を読み返したら読み難かったです。
次回は気を付けたいと思います。
8.100ずわいがに削除
凄いです!素晴らしいです!非常に細かく丁寧な描写で、作品からも独特の雰囲気を感じました。

メディスンは単に捨てられたのではなかったんですね。例えはっきりと認識は出来ていなくても、本質的な部分で“白い石”を感じているのでしょう。
ただ在るがままだったことに疑問を持ち、人形という自分の存在について考えていく姿、そしえその成長がとても面白かったです。
9.無評価削除
> ずわいがに様
ご感想有難う御座います。面白く感じて頂けて、とても嬉しいです。
筆者としましては、最終的に、やっぱり在るがままな彼女に落ち着いてしまった感が否めないのが、力不足で申し訳無い限りです。。。成長って、こうと書き表すのは、なかなか難しいものですね。精進したいと思います。
10.80名前が無い程度の能力削除
文字の密度の点で読みづらさは感じましたが、内容はすばらしいものであったと思います。
自身について色々と思い悩む話というのは、人を食った性格の人間や長い年月を生きてのうさんくさい妖怪たちが多い中で新鮮であり、生まれたての妖怪メディスン・メランコリーにはよく親和するものであると思いました。
次回作も期待しております。
11.無評価削除
>10 様
ご感想有難う御座います。すばらしいとのご意見、恐縮に存じます。
読み易さの点、今後改善いたします。散漫な文章も何とかしないと。。。
13.90名前が無い程度の能力削除
遅ればせながら読了致しました。
とても素晴らしい物語でした。上手く言葉に表せそうにないのでとにかく素晴らしかったと。

ただ気になったのが、頻繁に括弧で読みを記している点。そしてその殆どが、敢えて読みを付けるほど難解な言葉には思えなかったことです。
私個人の感覚ですが、つけた方が良いかな、と思ったのは 其来(それから)、小狡(こす)い、精神(こころ)、子(ね)、憑坐(よりまし)くらいのものでしょうか。主に誤読防止の意味で。
少し怪しいようなものなら、わざわざ括弧で読みを付けるよりも平仮名で書いてしまった方が煩わしくなくて良いのではないかと思いました。
14.80名前が無い程度の能力削除
読んでいて雰囲気はいいのだけれどなんだか掴みがたい
あと他の人も言っているけれどやっぱりちょっと読みにくい
15.無評価削除
うひゃ。コメント増えてて吃驚。有難う御座います。

> 13様
初投稿時、ここのシステムに慣れていなくて修正を放置していました。。。というわけで今更ながら修正しました。ご指摘有難う御座います。

> 14様
雰囲気が伝わって嬉しいです。
掴みがたい点、筆者は心情について、察する事はできても捉え所の無いものと考えます。文章化しておいてそこをハッキリさせないのは反則かも知れませんが、雰囲気と合わせることで、何となくでも伝えることができたら。。。なんて気持ちで執筆したのを覚えています。
ではなく書き方の問題であれば誠に申し訳無く(汗
16.100コチドリ削除
瘴気振り撒く鈴蘭の花を母と慕い、幼き骸を姉妹と為す。

物語の冒頭から楠の木の下に安置した白い石に毒人形が笑顔で語りかけるくだりまでに、何度胸を締め付けられた事か。
白い石の少女とメディが邂逅を果たす場面、冗談抜きで鳥肌が立ちましたね、えも言われぬ感情で。
叶うことならこの少女が小さなスイートポイズンの前身たる人形の持ち主であって欲しい。
そうであれば少女が間引かれたのはとてもとても悲しい事だけれど、幼い毒人形が捨てられた存在ではないという証になるから。

幾たびか登場する小狡い兎ですが、彼女の存在がややもすると重苦しくなりがちな物語の雰囲気を和らげてくれたように思います。
結果的ではあるけど、メディスンに大切な事を気付かせるきっかけを与えたのも彼女ですしね。
流石てゐさん、幸運の素兎という異名は伊達じゃないぜ!

作品の文体については最早作者様の味である、という認識ですね、私にとっては。
逆にこれ以上平易な文章になってしまうと違和感を抱いてしまうかも知れません、誠に勝手ながら。
まあ、どのような文体やストーリーを紡ごうとも私が貴方のファンである事は変わりませんが。
気に入らなければ毒を吐くイヤな読者であろうともね。

駄文の書き連ね、失礼致しました。
17.無評価削除
> コチドリ様
ご感想ありがとうございます。
メディスンしかり、小傘(まだ書いた事無いですが)しかり、器物の怪は不思議な魅力があると筆者は感じます。道具を使う事で発展を遂げてきた人間にとって、実は一番身近に感じられる存在って道具なのかな、何て。
けれど道具は命を持ちません。なら命を与えちゃえば良いじゃない!。。。みたいな感じに、器物の怪なんて概念が出来たのかしらん、と妄想したり。道具にも人間みたいなドラマが、きっとある。道具なりの幸せも、あるんじゃないかなと思う次第です。

今も昔もあまり変わらず、誠に拙い文章ながら好んで頂けてとても嬉しいです。忌憚なきご意見も、毎回参考にさせて頂いております。
最近執筆に掛けられる時間が激減しておりますが、今後も筆者なりに小説の面白さを思案しつつ頑張りたいと思います。