Coolier - 新生・東方創想話

妬みと恋のパラノイア

2011/09/16 21:04:49
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――0――



 私はいつから、このエメラルドに惹かれていたんだろう。

 緑色の弾幕が通り過ぎて、視覚野に訴えかける強烈なブルー。あなたは赤だと言うけれど、そこに青が入っているってことだけはわかる。目隠しをして唇に水滴を垂らし続ければ、ひとは愛に狂えるのだろうか。愛に狂ったひとは、愛を求めることが出来るのだろうか。ねぇ、あなたはどう思う?



 ――なんて問いかけても、私ではあなたの“ことば”を聞くことはできないんだけどね。













   妬みと恋のパラノイア













――1――



 ざわざわ、ざわざわ。くすくす、くすくす。話し声に笑い声に足音に鳴き声に誰かの鼓動が時々交じる。見えなくなった瞳を閉じて笑い出すと、周りの人達が一斉に道を空けた。みんなの無意識と私の無意識の違いなんて、意識の有無でしかないのに自分の意識だと思い込むなんて、変なの。

 橋の欄干に手を当てて指を滑らすと、掌を水滴が伝う。地底に降り積もった雪は白くて、けれど私にはそれが白いとは考えられなかった。雪なんて全部雨が無意識になったものだ。流れることを止めて停滞し続ける雪に、白だとか黒だとか色がついたりはしない。誰にも感じることなんか出来ない透明色こそ、雪の色なんだ。無意識に色を付ければ意識になる。雪に色を付ければなんになるのかな。砂糖と果実のシロップで余すことなく色を付けて、そのまま真っ白なキャンバスに塗りたくる。そうしたら意識が完成するのなら、私も一度塗りたくってみようかな。なんて思っても駄目なのは知っている。だって私の中に雪が積もる場所なんて無いのだから。空で漂っているだけの雪に、色は付けられないんだ。

 欄干を飛び越えて橋の下に回り込む。黒ずんだコールタールのような川は、けれどねばついては居なくて、私はそれが夜の色だと知った。石ばかりで草や木なんてひとつもない河原を進んでいくと、私の目の前に質素な家が顔を出す。常に開け放たれた扉が表すのは歓迎の証なんかじゃなくて、誘われていることへの猜疑心。何者が潜んでいるかわからない木の洞に手でも入れようものなら、瞬く間に“骨抜き”にされてしまう。だから迂闊に入り込んではならないと、あのひとは珍しく強ばった顔でそういったのを、唐突に思い出した。もう引き返せないほど囚われていて、手遅れなのに。

 開け放たれた扉を潜って、鼻孔をくすぐる煙を辿る。見上げた先にぼんやりと浮かんだランタンには、紫煙が雲のように纏わり付いていた。あの雲は雪を降らすのだろうか。降らすとしたら、その雪は何色なんだろう。透明? だったら、彼女は私と同じ色を吐き出しているって事になる。あはは、だったらちょっとだけ、あんな不味いものを吸っていても、許してあげられるかも。私が傍に居られないようにあんなものを吸っているんだったらすごく“意”地悪だ。私に意識してるんだ。彼女の意識はどこにあるんだろう。

 壁に手を当てて歩いていると灰色の汚れが手にこびりつく。ろくに掃除もしていないなんて、相変わらずの不精者だ。やっぱり私が掃除の一つでもしてあげないと、彼女は埃にまみれたことも気にせずに過ごしてしまうのだろう。こんなにも“意識”してあげているんだから、もう少し私を見てくれても良いと思う、いつだって、私の気持ちとは関係ない私ばっかり見ているんだから。

 雨の日の天の川みたいな紫煙を辿って、暗闇の奥の光へ飛び込む。無意識から飛び出そうとはせずに、恋い焦がれる少女が愛しい人の中身を覗き込むように、静かに大胆に踏み込む。ああ、残酷に彼女を愛せたら幸せなのに、彼女は私に残酷さを与えてくれない。いつだって私の存在を意識に収めて、無意識を檻に閉じ込めてしまう。焦がれるから近づきたいのに、焦がれ方を思い出せてくれない。

 黄ばんだ襖を開けて仄暗い空間に身体を踊らせる。窓辺に佇んで煙管を吹かす、くすんだ黄色の髪。彼女の横顔を眺めていれば私の中に芽生える若葉も一層透明度を増すかとも思ったのだけれど、ああ、いいやと首を振った。やっていてもいい。時間もある。けれど結局それは何もかも無駄なことなんだって、私は知っていた。だって彼女の翡翠色の瞳が僅かに青を帯びて、私の瞳を覗き込んだのだから。

「相変わらず上辺以外の色なのね。妬ましいわ」
「その相変わらずがわからないの。ねぇ、教えて?」

 私がどんなに無意識でいても、決して逃さない緑眼の怪物。怪物と言うには余りにも繊細な少女で、少女と言うには余りにも茨の多い美女。誰かの心に棘を突き刺して引き抜く嫉妬心。彼女に妬ましいと言われる度に、私が私を理解できなくなる。理解したことなんて無いけれど、でも理解してみたいだなんて、そんな足掻きをただの一言で粉々にする。どうすれば彼女を私の外に押し出せるのかわからないから、私はただしがみついて冷たさで己の背筋を侵すことしかできないんだ。なんてなんて、楽しい無情なんだろうか。

「ねぇパルスィ。貴女は私のどこか妬ましいの?」
「捨てないところよ。ああ、本当に妬ましいわ」

 何度聞いても、意味がわからない。そもそも彼女は、私に意味だなんてそんなものを教えてくれはしない。心を読めるあのひとだって、彼女の意味だけは読んでくれない。境界の番人と地底の主。雇い主はあのひとなのに、あのひとは恨み辛みに羨みを読んでも、妬ましさだけ読んでくれない。約束事でも、あるのだろうか。そんな約束事なんかに囚われて無意識の囁きに従えないなんて、本当に意識は面倒だ。私がそうパルスィの膝に乗って考え出すと、パルスィはとくに文句を言うことなく煙管で私の頭を叩いて背中を押してきた。

 無意識の私からなら窺える無意識の拒絶。けれど意識は拒絶していないから、私を口で言って咎めようとはしない。眉を寄せて目を合わせてもくれないけれど、斜に構えた表情から覗くことが出来る唇は、青よりもずっと冷たい色の赤だった。吐き出される紫煙すら、燃やし尽くした灰燼のようにすら見える。彼女はほんとうに、素敵なひとだ。意地悪で、綺麗なひとだ。

「何を見てるの? パルスィ」
「雪」
「面白い?」
「ええ、妬ましくて」
「あはは、へんなの」

 窓に雪が張り付くと、それは直ぐに雨水のように溶け出した。降り積もり停滞する雪たちは、けれど熱を浴びて流れを取り戻す。止まることのない無意識の流れはどうしたら色を持って意識となり得るのか。ランタンの光を反射してオレンジに煌めく緑色を首を傾げて覗き込んでみても、彼女の答えは得られない。パルスィなら他の誰よりも私を答えに近づけて応える権利をくれるって思っていたのに、本当に意地悪だ。

 そういえば私は、どうやってこの意地悪なひとに興味を持ち始めたのだったか。首を捻って頭を抱えて第三の眼を撫で回して、試しにパルスィの瞳を覗き込んでみる。緑色だ。でも、緑色だけじゃない。青にも赤にもオレンジにも瞬く色は、自分自身の嫉妬の色らしい。じゃあこれは、私の嫉妬心? いやいや、そう簡単に私の意識を探り出せるのならこんなに時間がかかったりはしないはずだ。そう考えると、ほら、自ずと答えは見えてくる。



 これは私の無意識がプリズムのように反射して出来た、パルスィの色なんだ。
















――2――



 まだまだ地底が荒んでいた頃だった。橋の欄干で煙草を吹かす、くすんだ黄色の髪。黄金とするには色褪せていて、穢いと言うには綺麗すぎる。だからそれは月明かりが歪んでくすんだんだって、私は不真面目に考察していた。本当なら、それでお終い。二度と会うことはないだろうとその場を去って、今日の散歩はそれでお終い。けれど私はふと、彼女の瞳に興味を持った。でも無意識だから、結局それは興味という名の気まぐれでしかないのだろうけれど、それならそれでいっそ運命的ではある。うん、そう考えた方がずっと愉しい。

 近づいてみて覗き込むと、彼女の眼が鮮やかなブルーに瞬いた気がして、思わず仰け反った。薄いベールを被せたように青く輝くなんて、なんて綺麗でずるい瞳なんだろう。でも綺麗だから許す。うんうんと頷いたあと、私は彼女の瞳に手を伸ばした。何と言うことはない。ただあんまりにも綺麗だったから、持って帰ろうって思っただけだった。えぐり取って剥製にしてしまえば、私の掌からこぼれ落ちることはないんだから。

「妬ましいわ」

 けれど私は、彼女の唇から零れた言葉に手を止めた。緑色の眼は私の方を捉えていて、私が後ずさるとの一緒に瞳が動いて初めて、彼女が私自身を見ているのだと知った。無意識下で動く私を、意識で絡め取って見せた。こんなこと、初めてだ。

「お姉さん、私が見えるの?」
「見えないはずがないでしょう。一目見ればわかるわ。そんなに、妬ましいんですもの」
「妬ましい? 羨ましいの? 私の――なにが?」

 ふと、変化の無かったはずの彼女の顔が、皮肉げに歪められた。繊細で儚い雰囲気は露と消え、矮小で、しかし肝の強さを見せる不可思議な笑みを浮かべた。優しさや儚さとはほど遠くて、あのひとが心を読んで浮かべる笑みよりもずぅっと“上手”な笑み。

 煙管の灰を指で叩いて落とすと、欄干の上でオレンジの火花が弾けた。線香花火よりも雑な光が、少しだけ私の無意識を蝕む。昇った紫煙を視線で追うと、爛々と輝き鬱々と沈む彼女の瞳が、私の閉ざされた心を見透かした。でもきっと、見透かした気がしただけで、演出に似た“思い過ごし”だったのだけれど。

「妬んでいるのに、未だ、捨ててない。ほら――妬ましいわ」
「捨ててない? ねぇ、私はなにを捨てていないの」
「教える義理はないわ。聞けば答えが返る環境にいたのね。妬ましいわ」

 そんなことはない。そう声に出して反論しようとして、直ぐに口を噤んだ。確かに誰も彼もが、聞けば応えてくれるひとばかり。そんな風になるまでは、聞かなくともひとは応えてくれた。それが嫌で嫌で嫌で仕方が無くなって瞳を閉じたのに、今となっては何が嫌だったのかすらわからない。そんな私がいったい何を残しているというのだろうか。過去に全部置いてきて、あのひとに全部投げ渡して、今もこうして好き勝手に生きているのに。まだ、私の知らない私が居るのか。

 そう考えると、途端に私は彼女に近づきたくなった。彼女が何を考えて何を思って私の中に何を見たのか。そんなことが、気になって仕方がなかった。

「ねぇお姉さん。貴女のお名前は?」
「教える義理もないわ。古明地こいし」

 また無表情に戻って、煙管を咥えた。紫煙が揺らめき輪を作り、地底の空に昇っていく。興味を持つことすら許されないなんて、なんて底意地が悪いんだろう。ああ、私は何故彼女にこんなにも深い興味を持ってしまったのか。紫煙の向こう側で微かに揺らめく、暗いブルーと鮮やかなオレンジ。きっと私は、その最奥に眠るエメラルドに、どうしようもなく惹かれてしまったんだ。
















――3――



 それから私は、彼女の下へ通うようになった。まずは名前を知り、それから無意識へ踏み込む。そうすれば私の名前を知っている意味や私の知らない私がわかるかと思った。彼女の家は常に薄暗くて、ランタンの炎が揺れる度に影が二重三重に移ろいだ。揺れてぼやけて霞む影の手前で、彼女はいつも落ち着いた体を見せていた。煙管、珈琲、時折お酒。ウィスキーや日本酒と色々嗜むみたいだけれど、あのひとの様にワインだけは呑まなかった。酸味が苦手なんだろうか。甘味だったら、ウィスキーの方が強いし。

「そろそろ、名前を教えてくれても良いんじゃないかなぁ」
「姉に聞けばいいでしょう。古明地さとりに」
「あのひとと知り合いなの? ふぅん」

 彼女の前で古明地さとりを姉と呼びたくない理由は、至極簡単なことだ。私は彼女の名前を聞いていなくて、彼女は私の名前を聞いていない。だったら私が古明地さとりの妹であるという情報を口にするのが、嫌だった。だから心の中で私に“あのひと”としか呼ばれない古明地さとりは、完全なとばっちりなのだ。

 見つめていると、ふと彼女がグラスを手に取った。そこに茶色い液体を流し込むと、私に手渡す。からんと音がしてグラスの中で氷がくるりと回って漸く、彼女がお酒をくれたのだと悟った。今までは私に意識を向けることすら稀だったのに、十三回目にして漸く一歩近づくことに成功した。そう考えるだけで、無意識下に沈めたはずの意識が、ぐらりと揺らめいた。

 ウィスキーを流し込むと、喉の奥に熱が走る。じんわりとした甘味を舌先で舐め取って、やがて身体の芯から温かくなった。二口三口と続けて呑むと、温かさは熱に変わる。浮かされているっていうのは、きっとこんな時に使うんだ。私は今、お酒と彼女に浮かされている。ともすれば、飛んで行ってしまうほどに。

 顔色一つ変えずにウィスキーを呑み続ける彼女を、潤んだ視界で眺める。ランタンの光に照らされた白い肌は、地底の人工太陽なんかよりもずぅっと柔らかな橙色だ。これで僅かにでも頬に朱を差し――そこに含まれている意識がなんであれ――てくれれば、もう少し見ていて楽しみになる可憐なものであったろうに。彼女は、色々と惜しい。

「それ呑んだら、今日はもう帰りなさい」
「今日は帰りたくないの……ダメ、かなぁ?」
「ダメよ。誰に教わったの? その、気持ちの悪い仕草。さとり?」
「あのひとじゃないけれど……そうだってことにして、あのひとの株を下げておこうかなー」

 本当は、ただ街を散歩していたときに聞いただけだ。あのひとは初心ではないけれど上品だ。閻魔様に遠慮しているのか躾けられたのかしらないけれど、誰に対しても常に丁寧で気品を崩そうとしない。個人的には閻魔様に躾けられたという面白い展開が好みだったんだけど、残念ながらそんなことはない。ごてごてのメッキなら無意識で剥がすことが出来るのだけれど、あのひとの気品はそれでは崩れない。ようは、“素”なのだ。

 本当に、詰まらない。彼女とあのひとにどれだけの関わりがあるかなんて知らないし、知りたくもない。聞くのが怖いから、なのだろうか。この辺りの感情を知るには、やっぱり彼女にもっと踏み込む必要がある。

「あのひとと貴女は、どんな関係なの?」

 試しに、ストレートに聞いてみることにした。流されるか鼻で笑われるかあっさり答えて貰えるか。いずれにせよ、その反応によってだいたいの関係は掴めるような気がする。

 さて私にどれほど他人の機微とやらがわかるのかって言う風にも思う。けれど、見て取った印象を私の記憶の中の“他者の行動”に摺り合わせることなんて、さほど難しいことじゃないんだ。

「……関係、ねぇ」

 けれど彼女の返答は、私にとって予想外のものだった。素直に答えてくれそうなのは嬉しいのだけれど、言葉に詰まるとは思わなかった。もしかしたら、私が思っているほど深い関係ではないのかも知れない。ほんの僅かにそう考えているだけで、何故か、胸が軽くなる。

 彼女は顎に手を当てたまま少しの間考え込み、やがて面倒くさそうに息を吐いた。彼女が飲み干したばかりのウィスキーの甘い香りが充満して、雰囲気だけに酔いそうになる。鬼が呑んでいた酒でも持ってきたんじゃないか。そう思い浮かべる程度には、“回りやすい”お酒だったように感じた。彼女の交友関係は、今一わかっていない。ただ、橋で誰かを妬んでいるだけで、それほど誰かと関わりになれるか。いや、うん、私って言う前例もあるから、その辺は強く言えないのだけれど。

「そうね――腐れ縁かしら」

 縁がある。感情の込められていない瞳を天井に向けて、彼女はぼそりとそう零した。吐き出された吐息を追うように視線を下げると溶けた氷の入ったグラスに当たって、戸惑いに満ちた私の顔が映し出される。腐れ縁とそう言うけれど、縁が腐るほどに彼女とあのひとが深い繋がりを持っていたなんて、知らなかった。私の知らないところでどれほどの縁を得てきたのだろうか。そう考えるだけで、少しだけ――胸の内側が、もやもやとした。

 戸惑いに溢れた顔を、グラスに残った氷ごと一気に飲み干す。雪解け水は美味しいのに、ただの氷は溶けたらどうしてこんなに不味いのか。きっとそれは、冷やすだけの目的で作られた氷は雪ほど透明でいられないからだなんて、らしくもなく純粋なことを考えてみる。あのひとは、きっと純粋では居られなかった。

「気になるんだったら、さとりに聞きなさい。聞かれても私は答えないわよ」
「――――……うん、そうする」
「あら、珍しく素直じゃない」

 ランタンの光がためか、それとも酔ったのか。朱の差した頬を歪めながら、彼女はからかうようにそう言った。確かにあのひとに聞くのは負けたような気がして嫌だったけれど、それよりも私は、あのひとのことがもう少し知りたくなった。瞳を閉ざす前は、私はあのひとのことを何でも知っていた。瞳を閉ざした後は、私はあのひとのことに興味が無くなった。そんな風にさえ思っていたのに、もしかしたら違うのかも知れない。

 ウィスキーを飲み干して煙管を取り出し、私の視線に気がついて顔を上げる彼女。胡乱げに私の顔を見て、それから興味を無くしたように煙管を咥えてしまった。



 ああ、そっか、私は――こんな時に、彼女に“どうしたの?”って言って欲しいんだ。
















――4――



 名前が知りたい。単純明快な理由は、いつしかもっと深いところまで潜っていた。私自身そんなことには気がつかず、ただ芽生え始めた興味に促されるままに行動していた。

 私の住む地霊殿は、旧地獄の管理者の住まいという割りには、かなり綺麗だ。美しく整えられた庭木と、暗い雰囲気を際立たせるステンドグラス。赤みがかったツートーンカラーのタイルを踏むと、かつんと小気味の良い音が響いた。

 普段あのひとは、来客を心で感じ取る。だから素早く対応できるというのだけれど、それはただ私にのみ当てはまらない。だからこうして音を鳴らしながら進むしかないのだ。意識の固まりのようなあのひとの無意識は、私にだって操る事が出来ない。結局私たちはいつだって正反対で、私はそれが正しい形だと思っていた。けれどどうにも違うようだと、黒ビードロのように薄くぼやけた天井を眺めてそんなことを考えた。

「こいし? 帰ってきていたのね」

 かつんと、音が重なる。薄く開かれた目は気怠げで、とても地底の管理者には見えない。世界の全てを疎んでいるかのような表情とは裏腹に、あのひと――お姉ちゃんは、慈悲深い。来たる者を受け入れ去る者を赦す。地底から抜け出し地上を目指す勇気ある妖怪たちを、お姉ちゃんは慈悲深く赦してきた。地獄の釜で苦しませ続けるのを良しとせず、きっちりその場で“どうにか”してきたのだ。

 と、ふと、思い出す。もしかしたらその“どうにか”してきたという部分に、彼女とお姉ちゃんの繋がりが見えてくるのではないのだろうか、と。だって彼女は、架け橋の守人なのだから。

「橋の番人って、お姉ちゃんの友達?」
「橋の番人? あぁ、彼女ですか。彼女は……友達と言うには、舌触りが苦すぎる」

 慈悲深い。今し方そう批評したばかりだというのに、お姉ちゃんの表情からは優しさの欠片も見あたらない。眇められた瞳の奥のアメジストが、ただ不気味に色を無くす。ステンドグラスから差し込む光がお姉ちゃんを七色の舞台に放り投げていて、真意を一層解りづらくしていた。嫌われ者の親玉で、嫌われることすら受け入れた者。閉ざした私とは真逆なはずの彼女に、私はただ疑問を覚える。

「悪いことは言わないから、彼女に近づくのは止めておきなさい――」
「そんなの、お姉ちゃんに言われることじゃ」
「――と言いたいところだけれど、止めないでおくわ。良い機会になるかも知れない」

 苦み走った顔から、苦い笑みへと変わる。仕方が無くと言いたげな顔に反して、第三の目を撫でる手は優しげだった。目は口ほどにモノを云うのなら、私たち覚り妖怪の目は何を訴えかけているのだろう。常に意識し常に無意識な私たちの瞳は、どこを向いているんだろう。

 お姉ちゃんは、伏せていた瞳をまた胡乱げなモノに戻す。普段と何一つ変わらない表情。だからこそ、こんな会話の後では気持ち悪さを覚える。お姉ちゃんは何を思い出して、何を見ているんだろう。瞳を開ければわかる事かもしれないけれど、どうしても開ける気にはなれない。

「無意識故に、貴女は薄い感情しか表に出せない」
「えー、そんなことないよ?」
「薄氷と言うには些か厚すぎるそれを、彼女の熱で溶かして貰うと良いわ」

 私の反論なんかまるっと無視して、お姉ちゃんは続ける。彼女の熱とお姉ちゃんは言うけれど、私は彼女にそれほど熱があるようには思えなかった。確かに温かくもあるけれど、それ以上にずっと冷たい。エメラルドの瞳に浮かぶアクアマリン。遠き日に垣間見た暗く青く恐ろしく荘厳なあの海に、良く似た瞳。無慈悲で、慈悲深い目。そこにそれほどの情熱があるとは、どうしても考えられない。

「ねぇ、お姉ちゃんにとって彼女はどんなひと?」

 最後に、これだけは聞いておきたかった。お姉ちゃんは私の問いに目を伏せると、小さな唇を開きかけて噤む。逡巡して、第三の瞳を撫でて、それから小さく息を吐く。肌寒いせいか吐き出された息は白く広がり霧散し、彼女の吐き出す紫煙よりもずぅっと儚く消えていった。私たちは、こんなにも脆い。

「背中を合わせるのは良いけれど、背中を見せたくはないわね」

 お姉ちゃんの返答は、よく解らないものだった。背中を合わせる、背中を任せられるのに背中は見せ無いだなんて、どうにも矛盾した話だ。それともそこには、私には理解することが出来ない激情とやらでも隠れているのだろうか。だったらそれはそれで面白いし、彼女に踏み込む材料にだってなり得る。なーんだ、悪いことなんて何もないや。

 それきり興味を無くして、踵を返す。彼女はまだ家にいてくれているだろうか。橋の上に立っていたら、今度こそ気がつかれないようにその瞳に触れよう。きっと彼女の瞳は、どんな宝石よりも艶やかで滑らかだから。その瞳を持ち帰るのは少し惜しいから、うん、そう――できることなら、彼女ごと。

「ねぇ、こいし。ペットを飼ってみない?」
「は? 脈絡無いよ、お姉ちゃん」

 背中に放たれた声に、仕方が無く振り返る。お姉ちゃんが趣味やらなんやらで飼っているペットたち。お気に入りの猫と鴉は、私ともたまにお喋りする。心を読まれることを不快に思わない動物たちだからこそお姉ちゃんは手元に置いているんだろうけど、瞳を閉ざした私には関係のない話な様にも思えた。

「ちょうど緑の瞳の猫が、生まれたの。どう?」
「……うーん、まぁいいや。ちょうだい」

 あれ? 貰う気なんか無かったはずなのに、気がついたら私はお姉ちゃんの言葉に頷いていた。緑色の瞳ということが、私を動かし出もしたのだろうか。それとも、他に要因があるのか。いずれにしても自分の無意識を探ることほど無駄なことはなく、それほどそのことに興味もなかったので頷いた。でも、貰ってどうするつもりで居たんだろう。貰ったところでふらふらと定住場所すら定めない私が――いや、そうか。なんだ、飼える場所ならあるじゃないか。

「大切になさい」
「ぁ、うん」

 お姉ちゃんから手渡されたのは、灯りの角度によっては黄金にも見える、黄色の体毛の猫だった。なるほどその瞳は、彼女に良く似たエメラルドだ。猫は鳴くモノだってお燐から聞いた事があるけれど、この猫はまったく鳴こうとしない。ただ幼い手で私の服にしがみついて、離れまいと必死にぶら下がっていた。この猫は、どうしてこんなにまでに必死なんだろうか。

「体毛の違いで親猫から捨てられた。たったそれだけの猫よ」
「ふぅん。まぁいいや、ありがと。お姉ちゃん」

 私にしがみついた猫は柔らかくて温かかった。けれど細く小さな身体でしがみつき続けることは出来なくて、迷ったあげく帽子の上に乗せてみる。

 名前は何にしようか。彼女の名前を教えて貰ったら、同じ名前を付けてみようか。それもきっと、面白いように思える。面白いんだと思う。あの緑色の瞳が屈辱に歪むことなんて、あり得るのだろうか。それも彼女の一面であるはずなのに……何故だか、見たいとは思えなかった。
















――幕間――



 ――あの子が故意に出していた足音が消えて、辺りがしんと静まりかえる。無意識のあの子を私では捉えられないから、まだ周囲にいるかも知れない。普通ならそう考えるのかも知れないけれど、私は“興味を他に移した”あの子がいつまでもここに居たりはしないだろうということを、知っていた。

「お燐、いる?」

 近くに居るのはわかっている。だって、彼女の“声”が聞こえているから。だからじっと待っていると、甲高い鳴き声が私の耳に届いた。声をなぞるように首を傾けると、視界の端に映った黒毛の猫が、私の前を横切る。私の周囲をぐるりと回り、螺旋を描くように肩まで駆け上ってきた。

「ご苦労様」

 左肩に乗る猫、お燐を抱き締める。胸の中で彼女の温もりを感じるのは、好きだ。純粋でひたむきな好意を直接感じられるような気がして胸が温かくなるから、彼女を抱き締めるのは好きなのだ。

「近づくな、か」

 お燐を抱いていたせいか、先程までの遣り取りが想起される。お燐の血色の瞳に映り込んだ私の顔は、皮肉げに歪んでいた。なんて滑稽なんだろう。近づかせているのは、踏み込ませているのは私だというのに。あの人嫌いな彼女を、煽っているのは。

 “報告書”によれば、彼女は未だ名前も呼ばせていないらしい。きっと“厄介ごと”を押しつけた嫌がらせのつもりなのだろう。名前くらい、教えてあげればいいのに。ああ、こうやって私が歯がゆく思っているのも、彼女はきっと想定済み。厭らしく笑う姿を思い浮かべて、思わず額を解す。下手に妬みでもしたら、次に会ったときに何を言われるか。

「ああ、ごめんなさいね、お燐。なんでもないの」

 血色の瞳が僅かに揺らぎ、眉を寄せる私の顔が映り込む。ペットに心配されるようでは、私もまだまだ未熟と言うことか。そう、落ち着かせる為に微笑んで、それからお燐に手紙を咥えさせた。要件を忘れてしまいました、では、姉の権威が地に落ちる。

「これを、彼女――パルスィに渡して。私? そうね、上手く行ったら、自分で行くわ」

 まだ、私が行くべきではない。全てが水泡に帰すような事態だけは、避けなくてはならないのだから。お燐は私の答えに満足したのか、瞳を眇めて身体を捻らせた。腕の間から温かさが抜け落ちると、冷たい空気が胸に満ちる。この瞬間は、好きになれない。それを顔に出したりは、しないのだけれど。

 軽快な足音と共に、お燐の心が離れていく。すると途端に、私は広い廊下で一人きりになった。読めないひとの機微がよくわからない私は、問題を解決することも出来ない。だから彼女に頼って、その結末はきっと“これ”なのだろう。

「私は、寂しいのかしら? いいえ、そんなことを感じる“資格”は、きっとない」

 自分の力で乗り越えることを放棄した。時間がなかったからなんて、言い訳にならない。私はこいしを諦めた――だからきっと結末は、これで正しい。ひとりきりの覚り妖怪。そんな未来が、きっと、正しい。

 これは罰。私がこいしを悲しませる――“罰”なのだから。
















――5――



 ――地底に快晴はなく、地底に青空はない。空は無限に広がることはなく、地の底に終わりはない。それでもそれを覆したいのなら、橋を渡って地上へ出ればいい。縦穴を潜り抜けた先にあるのは誰もが望んで止まなかった空であるのだから。けれど、忘れてはならない。縦穴を通るには、“狂うことなく”橋を渡らねばならないのだから――



 不可思議な決まり事だと思う。ただ地底に流布された警告文。誰が言い始めたかも解らないそれを、地底の誰もが信じている。ただ佇んでいるだけの門番を力で破って通り抜けようにも、一言でも言葉を交じらせれば囚われる。嫌われ者たちの地の底で気が狂った者の末路なんて、灼熱地獄跡の薪として、怨霊にすらなれず消え去る以外に道はない。

 童話なんて子供を怯えさせて“わたしたち”に近づかせないようにする為のモノだと思ってた。でも地底の噂は大人だって震え上がらせている。あのひとと何か決まり事でもしたのか鬼達は動かない。だから彼女の瞳が他の何よりも綺麗だってことは、私とあのひとしかしらないんだ。うん、なんかそれも悪くないや。

 弾んだ気持ちで橋を蹴ると、何時もよりも高く身体が舞い上がった。朱塗りの欄干に降り立つと、焼けた葉の匂いが鼻の奥を撫でる。嗅ぎ覚えのある紫煙。見覚えのあるそれを目で追うと、橋の下にくすんだ黄色が垣間見えた。今日は、家でも橋の上でもなく、橋の下にいるんだね。

「おはよう」

 声をかけて、彼女の後ろに降り立つ。こうすると、他の人は私の居場所がわからなくて戸惑うものだ。意識に響く声、無意識に降り立つ私。ほら、そこにはなにも見えない。……はずなんだけど、彼女は躊躇うことなく振り向いて、ブルーを帯びた緑の瞳を私に向けた。向けて、少し上に修正した。

「さとりの癖が移ったのかしら?」

 肩胛骨にかかる程度の髪をポニーテールにした彼女が、気怠げにそう言った。新しい髪型にしたのなら、褒める隙くらいは欲しいと思う。彼女はきっととても女ったらしなんだろうなんて、女同士なのに考えてみた。ジゴロな門番。うん、きっと恋でひとを狂わせるんだね。あのひとをめろめろにしちゃう彼女を思い浮かべて、漸くさっきの言葉が気になった。あのひとに、どんな癖があるんだろう。ぱっと思い浮かばなくて首を捻ると、猫が私の帽子に爪を立てた。むぅ、傷ついたら……どうもしないや。

「あのひとの、癖?」
「寂しさを動物で紛らわせる癖」
「ふぅん。だから家が動物で溢れてるんだ。てっきり、趣味かと思った」

 彼女はそう、どこか面白そうに告げる。……本当は、なんであのひとが沢山の動物を飼っているか、私は知っていた。お燐やお空と話をしていればよくわかる。妖怪にも人間にも嫌われている癖に、動物たちからは好かれるからだ。私も昔は動物たちに好かれていたような気がする。もう昔過ぎて覚えていないし過去の自分に興味もない。けれど今動物に好かれなくなって、少しだけ昔が知りたいと思った。

 あれ? そういえばなんで、この緑眼の猫は私から離れていかないんだろう。あのひとが、なにかしたのかな?

 彼女が指を差し出すと、猫はそれを舐めた。やはり一言も鳴かないけれど、私はそれよりも彼女の表情の方が気になった。緑眼を眇めていっそ妖美なほど艶やかに微笑む彼女。いったい何が琴線に触れたのか私には理解できないけれど、その笑顔が私に向けられてないと思うと、ほんの僅かに胸の奥が薄暗くなった。緑に帯びる優しげなオレンジで、私を照らしさえしてくれれば、こんな気持ちを味わうことなんて無いのに。

 そう今までにほとんど感じたことの無い思いが胸を過ぎると、思わず目を伏せてしまう。彼女のこの辺りでは見かけない民族衣装、その黒い靴に目を遣り徐々に視線を上げていくと、真っ白な足が私の網膜に灼きついた。死人のように白い足。どうしてそれが、綺麗だなんて思ってしまったんだろう。途端に恥ずかしくなって勢いよく顔を上げると――今度こそ、オレンジを帯びたエメラルドが、私の瞳を射抜いた。息を呑むほどに、綺麗な微笑みだった。

「――妬ましい?――」

 妬ましい。妬ましい? 何が妬ましいんだろう。彼女の問いかけに、何故だか足下がぐらついた。


 ――崩れ落ちそうな崖の上で足を踏み出すことを強要されているような覚束なさに思わず飛び込んでしまえば楽になるなんて魅惑的な囁きを耳にしてさぁ飛び込もうと踏み出そうとすれば全てを置き去りにしなければならないと後ろ指を指されるのに飛び込むことは間違いだと求め求め求め求め求め……胸の奥で緑眼の怪物がその顎を開いて鋭い牙を突き立てようと――


『にゃぁ』

 弱々しい声が、私を橋の下に引き戻した。私に笑いかけていたはずの彼女はとっくに自分の家に向かって歩き出していて、私だけぽつんと置いていかれるところだった。

 今し方起こった白昼夢はなんだったんだろうと、無意識に語りかけてみる。でもその頃にはひどく、なにもかもどうでも良くなっていた。なんだったかなんて知らない。知りたくもない。私が求めているのは、くるしいだとかつらいだとか、そんな煩わしいものじゃないんだから。

 またフラットに戻ったメンタルで、笑顔を浮かべてみる。うん、なんだ、何も変わらない、いつもの私だ。そう考えただけで途端に身体は軽くなって、私は弾んだ心で彼女を追いかけた。むぅ、ポニーテール、ほどいちゃうんだ。まだ私ってば“綺麗だよ”とすら言ってないのに。

「待って、もう、速いよっ」
「あら? けっこう早く立ち直ったのね。詰まらないわね」
「貴女って、意地悪だよね」

 彼女は私を一瞥して、そのまま家に入ってしまう。慌てて隣りに立っても、あの笑顔どころかこちらに瞳を向けてさえくれなかった。彼女の瞳は今、常と変わらないエメラルドグリーン。時折ブルーやオレンジを帯びているように見えるのは、私の気のせいなのだろうか。うーん、もういっそあのひとに聞いた方が早いかも。いやいや、それじゃあ色々と良くない。主に私の精神衛生上の理由で。

 彼女がいつものように窓辺で煙管を咥え始めると、私は途端に手持ちぶさたになってしまった。仕方がないから帽子の上の猫を膝に乗せて、その感触を楽しんでみることにした。楽しめたら、それに越したことはないし。

「あれ? ううんと、あれ?」

 けれど、どうにもしっくりこない。されるがままの猫を持ち上げたりひっくり返してみたりするけれど、あのひとの膝の上に眠るお燐のようにいかない。上手く行かないとこれがどうにもやる気が出なくて、さっさと諦めることにした。楽しむ楽しめない以前の問題になるなんて考えもしなかったなぁ。

 そんな風に手をだらんと投げ出していたら、彼女が近づいて来て猫を抱き上げた。背中に手を回してくるりと一回転。何の問題もなく膝に乗せる。そこに笑顔でも浮かぶのかと見ていたら、煙管こそ置いて見せたけれど口元を緩ませることも眼を細めることも触れることすらもなかった。ただ、膝に乗せるだけ。それがひどく――あれ? なにを、考えていたんだろう? むぅ。

「この子は、貴女には荷が重いわね。相変わらずあの覚り妖怪は、読めない者の機微に弱い」

 彼女が何を言っているかはよくわからなかった。けれど私ではその猫を育てられないと言われたことだけは、なんとなくだけどわかった。猫は彼女の膝で丸くなっていて、動こうとしない。すっかり彼女が飼い主だと思っているのか、それとも動き回りたくないだけなのか。いずれにしても、あのひとの様に出不精な性格だと言うことだけはわかった。厄介な引き籠もりだなぁ、なんて頬を膨らませてみせる。私の何処が気に入らないんだーって。

「ねぇ、その子、ここで飼わせて」
「貴女がそれで良いなら、いいわよ。私は一切、世話しないけれど」
「いーよ。場所だけ借りるから」

 放置されたら困るってことかな。でも、私が困るって言いたげだ。まぁ、私が飽きて来なくなったら、死んでしまうだけ。そうしたら怨霊になって、未練のままに右往左往。魑魅魍魎となり果てた動物は、一生その立場から逃れることなんてできないことだろう。低俗な下級の怨霊が形を持つなんて、そんな幸運は滅多にないと、前にあのひとが教えてくれた。

 そうやって猫を見ていると、猫の頭上で忙しなく動くものを見つけた。それが彼女の腕で、なにやら手紙を書いているのだとわかるまでさほど時間はかからなかった。

「なに書いてるの?」
「お仕事の報告書。鬱陶しいから近づかないでちょうだい」
「はーい」

 言われて、仕方が無く引き下がる。このまま迫っても、適当に鬱陶しがられてお終いだろう。それじゃあちょっと、つまらない。下がって彼女の足の上の猫を見る。よく眠る猫だ。ほとんどの時間を寝て過ごしているんじゃないのだろうか。この猫は。

 しばらくそうして見ていても良かったのだけれど、なんだか直ぐに飽きてしまった。今日は一日飽きてばかりだ。もっと、面白いことはないのかなぁ。彼女を見てもなにも答えてくれないで手紙とやらを書き続けているから、私に構ってくれないんだ。あの手紙を燃やしてしまったら……手間が増えるだけか。それなら、別にいいや。

「今日はもう帰るね」
「そう」
「ばいばい」

 手を振って、振り返らない。明日また来て、今度こそ猫を懐かせてみよう。私にだって出来ることはある。それを証明してやろう。そうすれば――そうすれば、何がどうなるのかなんてわからないけれど。それでも、もしかしたら何か解るかも知れないし。

 そう――私が知らない私の姿が、なにか。
















――6――



 何かを育てるって、どういうことなんだろう。親が子を育てるのは私の要素を私の外で繰り返すため。いつまでも自分の要素が残り続けたら、それはきっと不老不死に違いない。だから親は子を大事にするんだろう。愛していると意識して、無意識下で育ちゆく子供の姿に歓喜する。自分が嫌いな親は新しい自分の姿を子に見いだすか、若しくは殺してしまい別のやり直しを求める。血の繋がらない子供だって、無意識に語りかければいずれ自分になるのだから。

 それなら、じゃあ、別の生き物を育てるとはどんな意味を持つんだろう。人間が妖怪を、妖怪が人間を。姿形が似ていれば、無意識下に刷り込めるかも知れない。きっとそれは歪で醜くて淀んでいて濁っていて、何よりも綺麗で愉しいんだろうなぁ。だって、“違うのに自分”だなんて、本当に新しい自分の創造じゃないか。

 でも、姿形が全然違うものだったら、そこにはどんな意味が込められるんだろう。私と猫はなんなのか。この先にいるのは私? 私自身が、猫になる? そんな奇妙なこと、ああでも、無意識なら奇妙じゃないのかも知れない。だって、何にもないのが普通だから。でもだったら、この子も無意識なのかな。

「ねぇ、お姉さんはどう思う?」

 煙管から、ぽわっと煙が昇る。仄暗く輝くランタンにぶつかって弾けて、それでも途絶えることのない灰色の川。流動する意識もいずれ冷めて醒めて、雪になって積もるのだろうか。彼女は煙から視線を落とすと、膝元で丸くなる猫を撫でる。猫は気持ちよさげに眼を細めると、耳をぴんと伸ばして顔を上げた。どうして私を見るのかはわからないけれど、なんとなく目を逸らした先にオレンジを帯びたエメラルドを見つけてしまった。ああ、もう。そんな瞳で射抜かれると、何を無意識して良いのかわからなくなる。

「妬ましいわね」

 たっぷり考えて、それから出た言葉。どうしようもなく脈絡のない言葉に、私は何とな一つの解答を探り当てる。人間は猫が妬ましくて、猫は人間が妬ましい。自由だとか束縛だとか、愛だとか恋だとか。結局他人にないモノを求めた結果、異種族に愛を注いで掠め取ることに決めたのだろう。うん、それならひどくわかりやすい。だってこんなに酷いんだもの。無意識下で相手を支配することしか考えていないから、誰よりも優しいんだ。うん、すごく素敵。

「猫って大人しいのね」

 私が視線を落とすと、彼女も視線を落とす無意識を感じた。視線に釣られて視線を動かすのは、心理誘導の要。けれど私はそれがよくわからない、意識して無意識を操ろうなんて、意識を騙しているのに過ぎないんじゃないのだろうか。無意識に囁いて無意識を得れば本当に自分のモノになるのに、へんなの。

 まだ生まれたばかりの子猫なはずなのに、奇妙なことに、まるで老猫のように大人しい。私の頭の上か彼女の膝の上を定位置に、じっとしていてほとんど動かない。餌を食べるときですら受動的で、私と彼女でこの子を生かしているようだ。

 私と彼女、二人で育てているこの猫は、二人の形になるのかな? 二人の形で生まれてくるなんて、きっとその裡はどろどろに溶けているに違いない。だから自分の形にこねくり回す? うん、なんだかそれってすごく素敵。すごく素敵な、自己愛の結晶。私に、結晶なんか在るのかな? 無意識なんて、霧みたいなモノなのに。

「お姉さんがもっとこの子に意識を注いであげれば、きっと能動的になるわ」
「妬みなんて受動の髄よ。何かがなければ生まれない」
「それでも何かがあれば動くんでしょ? ほら、能動的っ」

 言いながら、猫を持ち上げて帽子の上に乗せる。もう少し彼女が名残惜しそうにしてくれれば、私はそこに意識が残ったように錯覚できるのに。それすらもさせてくれないんだから、彼女は意地悪だ。帽子の上に猫を乗せたまま、くるりとその場で一回転。ステップと一緒に瞳孔の奥に残るランタンの残像に、紫煙の残り香を被せた。これだけで、全部曖昧になる。あはは、うん、きれい。

「さっきまで私に動けと言っていた癖に、能動的ね」
「はい先生! 私はこれから能動的生活第一歩を踏み外す為に、お散歩に行って参りますっ」
「踏み外さないでよね。性悪覚り妖怪に何を言われるかわからないから」

 むぅ、私を目の前にして出てくるのがあのひとのお話とはっ。妬む心を常に忘れないのなら、もっと私を妬めばいいのに。照れてくれでもしたら最高だ。

 窓辺から飛び出して、最後に彼女の顔を一瞥する。緑の奥に映る色が薄暗いブルーに変わると、それだけで愛おしくなった。私もいつかひとを妬めるのだろうか。私が妬めるほどに、ひとを意識できる日が来るのだろうか。来なくても良いかな。来ても良いかな? 来たら何か愉しいのかな? 愉しくないなら……別にいいや。






 街は何時も忙しない。自由勝手気まま暢気に、意識の苛立ちを隠して新しい意識を上書きする。けれど無意識では誰彼構わず伽藍としているから、それでも気にならないんだ。

 歩く速度を速めると、猫は私に強くしがみついた。この子は私の何なんだろう。祭り囃子の音、耳に残るビロード。林檎飴を屋台から引き抜いて食べながら、露店にぶら下がっていた首輪を手に取る。首に輪を嵌めて枷にすれば、それは愛に良く似たカタチになる。あのひとの愛は、いつだって枷だから。

「まだ貴女に名前はないけれど、それでも首輪を付けてあげる」

 帽子から降ろして、猫の首に枷を嵌める。ちょうど良い大きさを無意識で持ってきたから、猫は苦しむことなくそれを受け入れた。うん。苦しみのない始まりを迎える愛だって、きっとあるんだ。だったら私はこの子を、どうにかして愛してみよう。私と、私を見透かす緑色の瞳。彼女の間に出来た愛の結晶がこの子ということに、今、決めた。

 もう一度帽子の上に乗せると、私はこの子のことが愛おしいような、そんな気がしてきた。無意識に愛されたら無意識になるんだろうか。意識が芽生えてきたりも、するのかな。



 でもまぁなんにせよ、うん、懐かれるって悪くない。
















――7――



 橋の下のがらんどう。川の先には海があって、海の底は深く暗い。海淵からみた風景はきっと無意識のように冷たく優しいのだろう。彼女の家も、ちょうど海淵のようだ。深くて暗くて光なんか差さなくて、冷たくて恐ろしくてなのに何よりも優しい。ランタンの奥は陽炎みたいにぼやけていた。ほんものの太陽なんか無いのに、にせものの太陽でひとは惑う。それはきっと、惑いそうな自分を意識して、無意識で後押ししているから。

「この子、寒そうだよ?」
「外が何時もより寒いからじゃない? 抱き締めてあげればいいでしょう?」
「私、まだ、上手い抱き方がわからないよ」

 持ち上げて帽子の上に乗せるだけなら、すごく簡単なのに。抱き締めるのってなんでこんなに難しいんだろう? その理由がわかれば、私ももっと自然に、愛を自覚できるのかな。自分から優しく手を伸ばす。それができれば良いのかなって思うのだけれど、お手本がないとどうにも上手く行かない。そんな風に恨めしそうに見てやると、彼女は小さくため息を吐いた。

「面倒ね……一緒にやって上げるから、一度で覚えてちょうだい」
「うん。ありがとう」

 自分は手伝わない。そんな風に言った癖に、結局手伝ってくれる。場所を貸すだけと言いながら、猫の為に用意された茶色の毛布。猫用の皿。私がどうにかする前に、少しずつ整えられていた環境。彼女はどうして、こんなにも優しいんだろう。優しい彼女を見ていると、私はどうしてこんなにも、胸が温かくなるのだろう。知らない感情を意識と呼ぶのかな? 無意識の中に、感情なんて色つきのシロップは、どこにも存在しないから。

 彼女が私の背に周り、腕を重ねて実演してくれる。といってもそれはほんの一瞬のことで、彼女の掌を手の甲で感じながら、猫の体温を私の掌で感じて、意識しようと努力しようとしたころには全部終わっていた。猫の背中に回された手が猫の身体を持ち上げて、私は猫を抱き締めていた。一緒に、彼女も私を抱き締めていた。間接的だって言うのに、背中に当たる熱が何よりも心地よくて、こんなの、しらない。

「……上手く支えられないや。覚えるから、もうちょっと」

 嘘だ。こんな体勢まで来て、上手く支えられないはずがない。彼女は嫌そうなため息と一緒に抱き締めるのを継続してくれる。だっていうのに私は、正体不明の焦りに追い立てられていた。嘘、うそ、ウソ。なんでこんな嘘を吐いたんだろう。意味がない。本当に? だって、意味とかじゃなくて――意識が、疼く。

「もう大丈夫でしょう? 離すわよ」
「ゃ……う、うん、いいよ」
「はい」

 腕の外側、背中全面、うなじにかかっていた吐息。全部が全部名残惜しくて、私は手の中の温かなモノを抱え込んだ。この子も今、そう思っているのかな? 心が読めればわかるのかな? 愛おしいって感じてくれているのかな?

 目を落として猫を見ると、私の冷たい――はずの――腕の中で、気持ちよさそうにごろごろと鳴いていた。私が離れれば、きっと私のように名残を惜しんでくれるのだろう。そっか、うん、ちょっとだけ、“愛おしい”っていうのがわかった。離れたくないって、そんな簡単なことなんだね。触れたいって、そんな難しいことなんだね。

「そんな顔も、出来るんじゃない」
「え?」

 彼女の言葉に意味を求めて顔を上げる。窓辺に佇む彼女は、ただ微笑んでいた。その笑顔が柔らかくて射止められて抜け出せないほどに甘くて甘くて甘くて。思わず目を逸らした先、窓硝子に映る私の表情に、私は彼女の笑顔が鏡だと言うことを知った。こんな甘い笑顔を私は知らない。私はこんな甘い笑顔を浮かべたことなんか無い。なかった。

「その方が、ずっと可愛らしいじゃない。妬ましいわ」
「ぁ」

 落ちる、音がした。残響する音の名を私は知らない。けれど彼女の言葉は私の中で何重にも反響して連なり覆い尽くして残滓を刻み込んだ。猫を抱いたままだと、自分の頬が熱を持っているかどうかすらわからない。うぅ、ぁぁ、なんてもどかしいんだろう。窓硝子に映る薄ぼやけた私の顔は確かに赤いのに、その熱を感じることしかできない。仕方なく視線を戻した先にあった彼女の笑顔から、私は、結局逃れることができなかった。

 逃れることが出来ずに――いつまでも、彼女の笑顔を見つめていた。
















――8――



 全ての事象はあっさりしていている。昨日出会って仲良くなった人。ちょっと街で気になった人。素行が悪くて嫌だなぁっと想った人。愉しいことがあって悲しいことがあって辛い気持ちを覚えて乗り越えようとして目標得て目的が入れ替わって。もうそれだけで、なにも覚えていない。どんなに名残を惜しんでも、心の底では一緒に居るのが当たり前だって錯覚するから再会も当然だからと別れることが出来る。けれどそれも勘違いに過ぎないから――これもきっと、当たり前のこと。

 彼女と別れてから、私は一日だけサボった。特に意味なんか無くて、無意識のまま行動していたらほんの一日時間の感覚がずれてしまった。たったそれだけのことだったからなんにも気にしないで、またふらふらと彼女の下へ行って、常と変わらない無表情のまま告げられた。

「え?」
「だから、死んだって言ったの。あの子」

 聞き返しても、答えは一緒だった。たった二日、たった二日別れただけで、あの小さな命は逝ってしまったのだという。なんだかそう聞くと、全部が全部ひどくどうでも良いことのように思えてきてしまった。だってそうだろう。こんなにあっさりと終わってしまうようなか弱い生き物を、私がどうこうできるはずがなかったんだ。生き物を育てるのは、つまらない。あのひとは、私に何がさせたかったんだろう。

「なんで、死んだの?」

 それでも、気がついたら私はそう問いかけていた。深い青色を宿した緑眼を、紫煙の向こう側からじっと眺める。ほんの僅かに、あの猫が姿を現した気がした。黄金にも似た体毛ではなく全身が緑色に覆われた猫。その緑色の目はまるで彼女の瞳のようで、そういえば生きていたころもその瞳は鮮やかな緑色で、私は、ひどく――ひどく……。

「生者への嫉妬無しに、生きられはしない。なにも感じる必要のない死者を妬んでいたから、あの子は貴女に懐いた」

 緑の目が細められる。刃のように鋭く研がれたエメラルドから逃れることは出来ない。逃れようとする心さえ許容されて逃げ場なんかとうの昔になくなっていた。紫煙が揺らめき形をとって、私の身体に纏わり付く。緑の瞳の怪物は、まるで猫のように身軽で小さく自由で、鋭い。

「無意識に取り憑くということは、無意識へ至る近道。そう思い込んだあの子は、貴女の無意識に取り入った」
「死にたかったの?」
「無意識になりたかったのよ。ちょうど、貴女のように」

 無意識、無意識、無意識。問告げられた言葉が濁ることなく胸の裡に溜まっていく。噴き零れそうな無意識たちを繋ぎ止めよと、私は得体の知らない怪物を胸の裡で掻き抱いた。けれど形をとったに過ぎない紫煙は、たったそれだけで霧散していく。結局は全部私の勘違い。怪物なんてどこにもいなかった。

「サイコメトリー。触れたモノの記憶を読み取る程度の能力。成長して妖怪にでもなっていたら、面白かったかも知れないわね」
「心が読めたから、無意識に取り憑いて無意識になりたかったの?」

 彼女は私の問いに、ただ、頷く。私のように心が読めた猫は、私の無意識に触れて死んでいった。私が生へ執着していれば助けられたとでも言うのだろうか。そんなのは無理に決まっている。あのひとは、なんでもかんでも突飛すぎるんだ。心が読めない相手のことも、もっとわかってほしい。――私は、あのひとになにをわかって欲しいんだろう。

 彼女が視線を落として、私はその先を追う。私の足下、編み籠の中、茶色の毛布にくるまれたそれの正体に漸く気がついた。理解できない音が響く度に耳鳴りがして、痛みを堪えながら毛布を剥ぎ取る。そこにいたのは確かに――動かなくなったあの子だった。

「――妬ましい?――」

 また、あの問いだ。鼓膜を打った声は頭の中で何重にも反響して、連なって形をとる。さっき振り払ったとばかり思っていた緑眼の猫が、私の頭の中で爪を研いだ。がりがり、がりがりと脳を侵して髄液を啜り骨にしゃぶりつくそれを振り払うことも出来ず、ただ、覚束ない足取りで大きく下がった。下がろうとした。彼女の目は昨日橋の下で見たときのように眇められていて、視線で撫でられただけで脊髄を引きずり出されたかのような快楽に襲われる。私を支える芯を砕かれてしまう、悦楽。

「瞳を閉じても無意識になりきれず、なにかに興味を持っても意識を持って取り組めない」

 見透かされているようだった。煙管を置いた彼女がゆっくりと私に近づく。緑眼の怪物は相変わらず私の思考をかき乱すのに夢中で、無意識にすらさせてくれない。無意識のまま、ただその瞳を意識させられる。

「あっさりと無意識を手に入れる事が出来たあの子が――妬ましい?」

 彼女が腰を屈めて私の頬に手を添えて、初めて自分が座り込んでいたことに気がついた。冷たい指先を辿るように見上げると、彼女の肩口にあの緑眼の怪物が乗っている。私の頭の中で暴れ回る猫とはまた別の猫。けれど私はそれが私の中のモノと同じなんだって、直ぐに気がついた。だって、まったく同じ瞳をしていたから。

 見ていられなくて視線を逸らし、痛みに耐えるように上を向く。そうしたら、彼女の妖美で可憐で艶やかで麗しい微笑みに視線がぶつかって、囚われた。

「貴女も全て捨てて無意識になれば良い。そうしたら、もっと楽になる。ね? こいし」

 死者のように白い肌に浮かぶ、いっそ鮮烈なほどの赤。朱唇から零れ出る言葉は私の形をとって心をくすぐる。いっそ楽になってしまえば焦らされることなく快楽に溺れることが出来るかも知れないと、そう考え始めた私の思考にストップがかかった。それじゃあ、ダメなんだ。それじゃあ、まだ、ダメなんだ。

「でも私は、私は未だ――貴女の名前を聞いていない」

 そうだ。名前だ。私“を”妬ましいと言った彼女の言葉。まだその真意にすら触れていない。あの時、無意識の私を捉えた貴女の嫉妬心は、私の何処に向けられていたの? 貴女の興味は、私の何に向けられていたの? 私はどうやって、あの美しいエメラルドを――ただ欲しいと願うことが出来たの?

 彼女の頬に手を添えて、問いかける。珍しいことにきょとんとした表情で、彼女は私の掌を感じていた。私の熱を、感じてくれていた。誰かに興味を持つことは初めてだった。同時に、無意識の私を捕まえてくれる人に出会うのも、初めてだった。

 ――そう、初めてだったんだ。無意識の私、意識を繋いでくれた彼女、意識の意味を一緒に教えてくれた猫。あのひとが無意識の私に居場所を与えてくれたように、彼女と猫は意識の私にオアシスを与えてくれた。まだ意識を垣間見せても良いのだと、その優しい笑顔と甘い言葉と柔らかな熱で教えてくれた。なのに、なのに私は何も返せていなくて何も応えられていなくてもどかしくてもどかしくてもどかしくて――それはきっと今なんだって、思えるようになった。

 死んだなんて嘘だ。私にはわかる。彼女は騙せたみたいだけど、きっとあのひとも騙せるのだろうけれど、私だけは騙せない。この子はただ無意識に閉じこもっているだけだ。自分の無意識に閉じこもって、ただ、本当に眠るのを待っているだけだ。意識するひとにはわからない。この子の中にはなにもないから。でも、でも、でも。

「私なら、引っ張り出せる」

 横たわった猫を、あの日のように抱き締める。無意識の中へ潜り込んで、真っ暗闇の中で鍵を握りしめた。無意識に転がる鍵は溶け出した雪のように透明で、降りだした雨のように脆くて、黒い空を覆う雲の様に重かった。これがあの子の鍵なら、見つけられるのは私だけ。そしてこの鍵を扱えるのは――きっと、意識を持つ者だけだから、だから私は“愛おしさ”を鍵に乗せて宙で捻った。


 ――流れ出した感情はどこまでも続く愛のプレリュード和音から不協和音へ協奏し狂奏しやがてカタチを愛に定めて狂おしく求め訴え渇望し渇き渇き渇きレクイエムを唱えることすら億劫になるほどの切望を胸の裡へ封じ込めて望みを――


「愛が、欲しかったんだね」

 異質な能力を持った我が子を、親は自分の中身を受け継ぐモノだと認識することが出来なかった。だからあのひとに諭されようとそれを拒み、我が子を捨てた。捨てられた猫は既に愛を求めることを諦めて無意識を求め、求められるがまま――もしかしたらあのひとも、この結末を求めていたのかもしれないけれど――に、猫を私に預けたんだ。

「だったら、もう大丈夫だよ。私が、あなたを望むから」
『――――……にゃ、ぁ』

 緑の瞳が開かれて、私の裡へ飛び込む。望んでみる。望むことが出来る。それを教えてくれたのは、彼女とこの子だった。この子が私に意識の一端を教えてくれた。ひとに興味を持つということの意味。きっとそれは、意識への道程。完全に理解したなんて言えないしわからないことだらけでわかっていることがあるのかすら曖昧だけれど、それでも求めることが出来た。

「――――妬ましいわ」

 彼女の瞳が、どこか苦々しいモノに変わる。私の何を妬んでくれたんだろう。どうして、私を妬んでくれたんだろう。彼女は私の両頬に手を当てると、覗き込むように私を見た。私はもう彼女の瞳しか見えなくなっていて、ただ、その光の意味を問いたかった。

「意識を捨てて心を閉ざし、無意識になってただ生きる。けれども、未だに捨てていない」
「え?」
「嫌われたくなくて能力を封じ、それで嫌われても未だ“――”を捨てようとしない」

 よく、聞き取ることが出来ない。呟かれるように紡がれた言葉。無意識を震わせるほどの意識の込められた言葉の意味。それを知りたいのなら、きっともっと意識を研ぎ澄ませなければならない。ほんの僅かに自覚した程度の意識で彼女の激情を捉えたら、きっと私の意識はばらばらに砕け散ってしまう。

 無意識で耳を塞ぎながら目を上げると、彼女の瞳がほんの僅かに柔らかくなったことに気がつく。瞳の奥に映る鮮やかなオレンジ。それが私自身の心なんだって気がついたのは、たぶん偶然だ。見る者によって姿を変える騙し絵のように、見る者の心によって意味を変えるロールシャッハテストのように、私の心を写す鏡。私は最初から、彼女の中に私を見ていたんだ。彼女の中の私を見て、パルスィ自身の色を見ていたんだ。

「私は貴女が妬ましいわ――古明地こいし」

 そんなに柔らかく云うなんて、本当に意地悪だ。とっくに彼女に囚われていた私は、それだけでもうやられてしまった。鍵を差し込まれて籠を開けられても、居心地が良ければ逃げ出す気なんてならない。籠に置かれたキャンバスは、それほどまでに私の心を捉えていた。

 ああ、そうか、きっと最初から、私は彼女に恋をしていたんだ。愛を求めて愛を与えて愛を望んで愛を唱えて、求める気持ちを無意識で閉ざし、意識の果てで望んでいたんだ。



 そう、そしてきっと、この瞬間――


「私はこいし。古明地こいし。貴女の名前を、教えて下さい」
「私は、私の名前は――」


 ――私は、彼女への“恋”を自覚した。
















――9――



 無意識色の雪に意識で色を付けて、白いキャンバスに塗りたくる。別の色を塗れば色は混ざり合ってやがて最初の三原色からは想像も付かない色合いが完成する。けれど乾いてから塗られた色はメッキでしか無くて、剥がせばその下には何層もの歪な色合いが広がっているんだと、いつかパルスィは言っていた。けれど私は、いつもそのままの色が見えているんだそうだ。意識による色じゃなくて、キャンバスに込められた展望が、どこまでも広がっていると。そんな風に私に告げた彼女の顔は、いつになく赤かった。

 あの時、私を妬んでいると言って自分の名前を教えてくれたとき、パルスィは私の何を妬んでいると言ったのか。私は未だにそれが思い出せない。そもそも聞き取ることが出来なかったんだから、仕方が無いじゃないかっていう風にも思える。

 橋の上で足踏みをすると、その下からさくさくと小気味の良い音が響いて、私の耳朶を震わせた。音の昇る方を見ようと空を見上げると、透明色の雪が私の頬に落ちて、溶ける。雪には色んな形があるそうだ。結晶と呼ばれるそれは、生まれながらの芸術品。例え無意識であっても、無意識はそれそのものに美しい形を持つ。パルスィの言葉は一々詩的で、私はその全てを一字一句違えず覚えるように……その、努力をしている。

 欄干を飛び越えて、くるりと一回転。まるで猫のようね。これも、パルスィの言葉。そういえば、お姉ちゃんはなんでパルスィの所に来たがらないんだろう。今度聞いてみるのも良いかもしれない。いや、お姉ちゃんのことだから、絶対に苦い顔ではぐらかす。うん、今度パルスィを地霊殿に招待しよう。

 相変わらず紫煙が立ち上る小さな家。新しい同居人が嫌がっても止めないから、彼女も慣れてしまったみたいだ。そう、あれからしばらく経った後に“彼女”だと判明したあの子の姿を思い浮かべて、ほんの僅かに苦笑する。なんだかんだで一番手を焼かされているのはパルスィなのだ。おかげで、私は大義名分を持って通えているから良いんだけど。お姉ちゃんも、自分で言い出したことなら抗えないだろうから。

 薄暗い扉を潜り抜けて、中へ入っていく。ランタンの光がぼんやりと照らされていて、それは人工太陽よりも温かい。あの異変から開放感が増したと評判の地底も、ここだけはかつての地底のままで温もりを帯びていた。

「遊びに来たよ。パルスィ」

 お姉ちゃんへの番人としての報告書。それを気怠げに書いていたパルスィは、私の声に顔を上げた。毎回思うのだけど、人の顔を見てため息を吐くのは失礼だ。けれど私は、パルスィが素直じゃないだけだーっていうことは、よくわかってる。あの日から私が試しに頼み込んでみたら、私が来る時を見計らって髪型を変えてくれるようになったのだ。あの日のような、ポニーテールに。一々纏わり付かれるのが面倒だからーなんて額に青筋立てて言ったのは、すでに私の無意識の中に封印済みなのです。

 パルスィの膝は私の特等席。自信満々に膝の上に乗ると、パルスィは舌打ち一つで私を乗せてくれた。ちょっとだけ怒っているようにも見えるけれど、それは違う。だって、私を叩き落とそうとはしないから。

 私の特等席がパルスィの膝の上ならば、私の膝の上は“彼女”の特等席だ。右を見て、左を見て、見あたらなかったから私は机の上にボールを置いた。そうしたら、棚の上から飛び出してきた黄金の毛並みが、それに飛びつく。あとは素早く確保すれば、彼女は自身の特等席に収まることが出来るのだ。

「良くできました、ぱる」
『にゃあ』
「……その名前、いい加減どうにかしなさいよ」

 パルスィがそう、鬱陶しそうに言う。けれどこっそり見て――無意識でも不用意に近づくと捕まる――いると、何度も何度も“ぱる”と名前を呼んでいるのを私は知っている。パルスィの名前を聞いたら、それをこの子の名前にしよう。そんな私の願いは、何度も反対されたあげくこの形に収まった。短縮なら呼び比べも出来るし、私としては及第点だ。

「ねぇ、パルスィ」
「何よ」

 こうしてパルスィの膝に乗って体重を預けていると、どうにも眠くなっていけない。帽子を取って適当なところに投げ飛ばそうとすると、パルスィが受け取って机に置いてくれた。お仕事の邪魔になったりは、しないんだろうか。ちょっとだけ気になっても、この誘惑には勝てそうにない。だから意識が落ちる前に、これだけ聞いておくことにする。もう何度も何度も繰り返している、この問いだけ、しておきたかったから。

「パルスィにとって私って、どんなひと?」
「あー…………そうね」

 パルスィが焦らすから、眠気に耐えられなくなってきた。白濁していく意識の中、私は彼女の言葉を逃さないように必死で瞼を閉じようとする。けれどパルスィはそんな私の瞼に掌を乗せて、そのまま熱を込めた。こんなやり方は、うぅ、ひきょう、だ――


「“――”よ」


 ――ほんとうに、いじわるだなぁ――――……。
















――10――



 降り積もる雪に、一層気持ちが沈む。なんでこんな寒い日に、暖炉の無い部屋で仕事なんかしないとならないのか。燃やしてはならない書類ばかりだからと、暖炉を無くした部屋で凍えながら仕事をするように命じた閻魔様は、大したご慧眼だと思うわよ。本当に。

 こんな時はお燐かお空でも抱き締めて仕事をするのが一番なのだけれど、彼女たちも未だ仕事中。他のペットたちも同様である以上は、ここは主として頑張らねばならないことだろう。

「うん? ああ、これは……」

 手に取った便箋を持ち上げて、また、ため息を吐く。こと水橋パルスィに限っては、私は手紙でのみやりとりをすることにしている。私は彼女のトラウマを掘り当てて、彼女は私の嫉妬心を暴く。出会っても憎まれ口の言い合いになって酒の飲み比べになって揃って同じ布団で呻り声を上げることになるのは目に見えているから、私はなるべく手紙で遣り取りをすることにしていた。最近は、手紙の内容も妹の、こいしのことばかりで、私の苛々は募るばかりなのだけど。

「ああ、そう、まだ無意識状態は時折理解不能、けれど感情も引き出しつつある、ね」

 ――けれど、最初に頼んだのは、他ならぬ私だ。永遠に無意識から心が動かなかったのであれば、あの猫が本来辿るはずだった未来のように、動き思考することもままならない無意識の固まり……路傍の石と化す可能性があった。だからどうにかして自分と自分以外を意識させたくて、パルスィに頼み――トラウマ『三顧の礼・実践編』――込んでこいしの“世話”をして貰った。

 その結果が、うぬぬ、こいしが私よりもパルスィに懐くということだった。手紙には珍しく「そんなことない」だなんてフォローが書かれてたけど。なんで私は、彼女と文通をしているのかしら。

「しかし、まぁ」

 経過は順調。こいしは囚われることなく、第三の目も緩くなっている。パルスィも頼まれたからとかではなく、自身の意思でこいしの相手をしてくれている。後は、私に残された課題。地底を、覚り妖怪でも棲みやすい地に変えていくということ。そうすれば、こいしが再び目を開いた時、再び傷ついたりはしないだろうから。

 一度は完全に嫌われて、二度と逢えもしないことすら覚悟したのに。それが罰なのだと。愛させて壊れさせようとした罰なのだと、自分自身に言い聞かせて。

 窓の奥に積もる雪は、停滞した雨だ。動くことを止めた雨は雪になって降り積もる。こいしのこと――昔とは違っていても――だから、それを自分の無意識と無意識下で照らし合わせているかも知れない。でもこいしは、覚えていないのだろうか。降り積もった雪も、情熱に焦がされることで溶けて、やがて蒸発して雲になる。それは重さを持って降り注いで、雪や雨となって循環していくと言うことを。

 パルスィは、太陽というには、仄暗い。だから私は彼女を、ただ“熱”とだけ思うことにしている。私たちの足の下にも、命の熱は眠っている。きっと彼女の熱はそんな、“意識”しなければ気がつかない熱なのだから。

「ふぅ」

 書類整理をだいたい終えて、疲れた目を癒す為に額を解す。こいしが出入りしなくなっただけで、この部屋もずいぶんと寂しくなった。そんな風に考えても仕方がないと、わかってはいるのだけれど。苦笑と共に額から手をどけると、エントランスの方から“意識”が流れてきた。地霊殿の中の意識なら、だいたい把握できるのだけれど、これは――んん?

『……ったく、なんで私が“お泊まり会”なんかに。さとりのやつ、いないでしょうね』
「は?」

 お泊まり会……ふふっ、どうせこいしが言い出したことなんでしょうね。だったら、私が戸惑う大切な“おともだち”に出来ることと言えば、満面の笑みで迎えてあげることくらいだ。せいぜい、笑わせて貰いましょう。

「あら?」

 ふと、外を見ると雪が止んでいた。この分なら、夜には雪もすっかり溶けることだろう。念のため、お空に頼んで雪を溶かしきって貰って、そうしてから夜は地霊殿の外で宴会だ。どうせ弾幕ごっこに発展するのだろうから、だったら最初から外にいた方が都合が良い。

『ああああ、執務室に灯りがぁぁ……ええい、せめて空気を読みなさいよ、さとり』
「ええ、わかっていますとも。ふふっ」

 扉の外から、第三の目に響いた声。それを受け取って、私は小さく笑う。それじゃあお望みどおり、空気を読みましょう。もちろん読むのは、こいしの都合に良い方だけれど、別に構わないわよね。



 ね? 私たちの、“友達”――パルスィ。










――了――
 雰囲気を弄りたかったので、普段とはやや違う作風でお送りしました。
 お楽しみいただけましたら、幸いです。
 ここまでお読み下さり、ありがとうございました。
 それではまたいずれ、お会いしましょう。
I・B
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コメント



0.1650簡易評価
2.100奇声を発する程度の能力削除
こいしとパルスィの二人の距離感が堪らなく好きです
5.90名前が無い程度の能力削除
日の光の届かない地底で少しだけあたたかいパルこい、素敵。
7.100oblivion削除
なんだか嬉しい。キュートな恋物語でした。
そっけないふりして割と一生懸命なこいしちゃんもミステリアスのようで優しいお姉さんなパルちゃんも意地悪なふりしてやっぱり意地悪なさとりちゃんもああああみんなすごいかわいいよおおおお
8.100晩飯トマト削除
こいしのキャラ付けが何て上手さなんでしょう。妬ましい(パルパル
14.100名前が無い程度の能力削除
表現や雰囲気の一つ一つが素敵で痺れます
21.100名前が無い程度の能力削除
アダルトな雰囲気のパルスィが素敵
26.80名前が無い程度の能力削除
所々分かり難い、少し独りよがりのように感じる箇所がありました。それでも文体のお陰で雰囲気に任せて読めるのですが、少しレトリックに拘り過ぎてくどかったです。もう少し平易、平凡な文章を挿すと可読性が上がるのではないかな、と個人的に思いました。
内容はいいパルこい。ごちそうさまです
28.90名前が無い程度の能力削除
こいしとパルスィの関係もさることながら、さとりとパルスィの関係もいいなぁと。
ほっこりさせていただきました
29.100名前が無い程度の能力削除
さすがパルスィ
30.100名前が無い程度の能力削除
雰囲気が伝わってきてとても良かったです
33.100とーなす削除
いいこいパルでした。
詩的で凝った表現が美しくて好き。
34.90名前が無い程度の能力削除
話の筋は綺麗に進むのに纏う雰囲気は妖しげでねっとり。
濃厚なお話でした。
46.100サク_ウマ削除
素晴らしいかと