Coolier - 新生・東方創想話

蛙は口ゆえ蛍に喰わるる

2010/02/28 03:10:16
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 ある夏の日の暮れつ方のことである。
 守矢神社の一柱、洩矢諏訪子は、本殿の裏手に広がる湖の畔を、暑気払いならぬ梅雨払いと称して、独り歩みをすすめていた。
 折しも、岸辺から吹き込んでくる涼風が、蒸暑を散らしており、水辺はとても過ごしやすかった。
 その快適さに、知らず知らずのうちに諏訪子は鼻歌を奏でていた。
 そのメロディに合わせるように、湖畔には蛙声が響き渡っている。
 蛙たちは、ただ合唱しているわけではない。
 蛙の化身である諏訪子へ、日々の暮らしの感謝と、それ以上の親愛を込めて、全身の力を込めて声を張り上げているのだった。
 そんな心地よい声のシャワーを浴びながら、諏訪子は楽しげに湖畔を歩んでいた。
 諏訪子の背後から彼女を呼ぶ声がした。
 ん、と振り返ると、一際大きな体躯を持つ蛙が、蓮の葉の上でゲコゲコと袋を震わせ、彼女に向かって手を振っていた。
 諏訪子がその前にしゃがみ込むと、その蛙は一つ頭を下げて挨拶をした。

「諏訪子様ご機嫌はいかがですか」
「ん、悪くないよ。お前たちも――その声を聴く限り元気いっぱいのようだね」

 もちろんでさあ、と言わんばかりに、その蛙だけではなく周囲の蛙も、いっそう声を張り上げるのだった。
 その様子に満足げに頷きながら、諏訪子はさらに湖の周囲の散策を続けるのだった。

「諏訪子様、諏訪子様、こいつを見てやってください」
「ん? なんだい。えっ?」

 再び諏訪子の背中に彼女を呼ぶ声があった。
 何の気もなく振り返って、思わず吹き出しそうになってしまった。
 そこには頬袋をいっぱいに膨らませた蛙がいた。
 いや、ただ膨らませたぐらいで笑うような諏訪子ではない。
 驚いた理由はその蛙の頬袋が蛍光色に輝いていたからだった。

「ブフッ、……どうしたんだい、それは?」

 諏訪子の疑問の言葉に合わせるようにして、袋が上下に揺れる。
 いかにも滑稽なその様子に、彼女はとうとうこらえきれなくなり吹き出してしまった。
 ひとしきり腹を抱えて笑っている様子を、満足そうに蛙たちは眺めていた。
 ようやく諏訪子が落ち着きを取り戻したころ、頬袋が光る蛙の横にいた一匹が、おずおずと口を開いたのだった。

「いえですね、そいつの目の前に蛍がおりましてな、それをひょいと咥えたのでございますよ」

 そう言って蛙は頬袋を指した。
 諏訪子がまじまじと見ると、確かにその淡い輝きは蛍の放つ光に他ならなかった。
 緩やかな点滅具合が、蛙の頬の中で蛍がまだ生きていることを証明していた。

「なかなか鯔背なことを考えたねえ」

 見れば見るほど可愛らしい光景だった。
 自然の理からすれば蛍はただ蛙に食われるだけである。
 だが、それをただ食うだけでなく、見た目にも楽しませる。
 ある種、人の美食にも通じる蛙らしからぬ機知に、諏訪子は思わず舌を巻いていた。
 そして感心したように何度も頷くと、その蛙の頭を撫でるようにしてこう言った。

「いや、お前の発想には天晴れをやるよ」
「何が『天晴れ』だよ!」

 脳天気に諏訪子がそう言った時だった。
 怒号が響き渡ったかと思うと、風切り音を上げて光弾が湖面に降り注いだ。
 咄嗟のことに動くことも出来ず、諏訪子はその光弾の嵐に身をさらしていた。
 当たろうが当たるまいがお構いなく、光弾は容赦なく降り続けた。
 無差別に散らばった弾が、湖面や地面を打ち付け、水飛沫と土煙を巻き上げていた。
 先ほどまでの長閑な光景はそこにはない。
 湖畔は一転して戦場と化していた。
 数刻ほどして、ようやく光弾の嵐は治まった。
 その跡には、もうもうと靄と煙が立ちこめているだけだった。
 激しい嵐によって何もかもが押し潰されてしまったかのようである。
 だが、湖を渡ってくる涼風が、靄と煙を吹き散らすと、そこには蛙たちを庇うように仁王立ちした諏訪子がいた。
 ケホケホと咳をしながら、諏訪子は蛙たちを地面におろすと、埃まみれになった服をはたいた。
 そして、突然の無礼者の姿を探してキョロキョロと周囲を見回すのだった。

「まったく無粋なやつだね。また氷の馬鹿妖精か?」
「ここだよ」

 上空から厳しい声が投げかけられた。
 諏訪子がそちらに目を向けると、一匹の妖怪が夜空に浮かんでいた。
 その姿を包むほのかな黄緑色の発光が、蛍の妖怪であることを主張していた。
 諏訪子は、蛍妖怪に何か憎まれ口を叩こうとして失敗した。
 それは、ある強い感情がことごとく彼女の思考を奪ってしまったからである。
 諏訪子の目は蛍妖怪の瞳を捉えて離さなかった。
 強い意志を感じられる瞳だった。
 怒りで紅く燃え上がってはいたが、澄み切った宝石のように美しかった。
 端正で凛々しい顔立ちの中にあってなお、その強い輝きは鈍ることはなかった。
 そして、そこから発せられる強い光が自分を貫いているのを、諏訪子は痛いほど感じていた。
 その鋭い眼光に怯むことなく、暫くは息をするのも忘れて、諏訪子は蛍妖怪の顔を見つめていた。
 あまりに熱心に見つめすぎたからだろう、目の前の妖怪の表情には不審の色が浮かんでいた。
 二人はしばらく向かい合っていたのだが、先に根負けしたのは蛍妖怪だった。
 焦れたような表情を浮かべるとくるりと回転して地面に降り立った。
 どことなく中性的な印象を与える身のこなしだった。
 シンプルなシャツにショートパンツ、その身を包む黒いマントが、いっそうその印象を強めていた。
 それでも、シャツの襟元から覗くささやかな双胸が、その妖怪が女性であることを主張していた。
 いきなり攻撃されたことに、最初諏訪子は軽く苛立ちを覚えていた。
 だが、目の前の蛍妖怪への興味から、その気持ちを抑え、極めて冷静な口調でこう言った。

「誰だい貴方は?」

 その言葉に蛍妖怪は、怒りに燃えていた目をさらに見開いて諏訪子を見た。
 それから、おもむろに口を開いた。
 怒りに震えたボーイッシュな声が諏訪子の耳を打つのだった。

「『誰だい』じゃない! 何てことをさせてるんだ。それとチルノちゃんと一緒にするな」

 どうやら諏訪子の態度は、目の前の妖怪の怒りに油を注いだだけのようだった。
 しかも、どうやら氷の妖精とも知り合いらしい。
 支離滅裂な怒りを発する様子に、諏訪子はやれやれと嘆息をした。
 先ほどまでの興味とはうってかわって、彼女の心には冷ややかな侮蔑の気持ちが流れ込んできていた。

「別にさせてるわけじゃないよ。この子が小さい頭を使って、私たちの目を楽しませてくれているんだ、その努力は認めてやらないと可哀想じゃないか」

 諏訪子の言葉にいよいよ怒りを強めたのは蛍妖怪だった。
 一歩前に出ると、冷たく言い放たれたその言葉に即座に反駁した。

「普通に夜空に飛ぶ姿を楽しめよ!」

 普通と言う言葉に反応して諏訪子の口元が自然に釣り上がった。
 それは、当然の嘲りだった。
 それこそ普通というのであれば、自然の摂理に反するような蛍妖怪の言はおかしいのである。
 そのことに考えも至らない目の前の妖怪の愚かさに、思わず嘲笑がこぼれたのだった。

「何がおかしいんだよ」

 その諏訪子の態度を見とがめて、蛍妖怪がさらに諏訪子に近づいた。
 手を伸ばせば触れそうな距離である。
 だが身体的な距離に比して、心理的な溝は大きく深まっていた。
 酷薄な笑みを浮かべると、諏訪子は断罪するかのように宣言するのだった。

「『何がおかしい』とな、何もかもがおかしいよ。そもそも蛙が虫を喰らう。それはごく当たり前の自然の営みなんじゃないのかい? 小さな蟲の女王さん」

 大きくはなかったが、聞いているものが鼻白むような冷たい声が湖畔に響き渡った。
 それは、どうしようもないほどの欺瞞に満ちた正論だった。

「うるさいうるさいうるさい。そんなことはボクだって分かってるよ。でもそんな拷問みたいなことを目の前で見せられて、黙ってられるもんか!」

 だから、それに反論する蛍妖怪の言葉は、童子が駄々をこねているようにしか聞こえなかった。
 目の前の妖怪が子供っぽい怒りの炎を燃え上がらせれば燃え上がらせるほど、諏訪子は心が冷え、相手への嘲りの気持ちが増していくのを感じていた。
 その気色が相手にも伝わったのだろう。
 蛍妖怪は固く握りしめた両手を震わせながら言った。

「わかった」

 それまでとは雰囲気が異なる落ち着いた声だった。
 声を聞くだけで、蛍妖怪の廉直な性情をうかがい知ることが出来た。
 彼女の眩しさから目をそらすかように、諏訪子は帽子を目深に被ると、腕を組んで、冷然とその言葉を聞いていた。

「なにがわかったっていうんだい?」

 クイっと帽子のつばを押し上げて、諏訪子は蛍妖怪の顔を見返した。
 思い詰めたような瞳の色に、悲愴なまでの決意が込められている。
 その表情を見ているうちに、諏訪子の口元に自然と笑みが浮かんできた。
 それは先ほどまでの嘲笑とは違う、歓喜の笑みであった。
 だが、蛍妖怪はそうは取らなかったようである。
 ギリギリと奥歯を噛み締めるようにして諏訪子を睨み付けていた。
 そして、絞り出すような声で宣言するのだった。

「……馬鹿にして。……まあ、いい。貴女にスペルカードルールによる決闘を申し込む」

 スペルカードルール。
 命名決闘法とも呼ばれるこのシステムは、幻想郷の巫女、博麗霊夢によって制定されたものである。
 幻想郷内での揉め事などの解決の手段とされ、人間と妖怪が戦う場合や、強い妖怪同士が戦う場合に、必要以上の力を出さない内容にするための決闘法である。
 また、肉体的に相手を叩きのめすというよりは、心を折る戦い、所謂精神的な勝負という側面が強い。
 それゆえ、繰り広げられる弾幕の美しさに重点が置かれることも多いのである。
 それ故、弾幕ごっこという俗称で呼ばれることがあるのだ。
 だからこそ、力の弱い者が絶対的な強者に勝つことも可能になった。
 それだけでなく、遊びという側面を持つ故に、負けたとしても追い打ちをかけられて殺されることはない。
 その結果、弱者であっても気軽に強者への挑戦が行えるようになったのである。
 この挑戦もその恩恵を受けたものと言えよう。
 土着神の頂点に位置する諏訪子と、一介の蛍妖怪では、圧倒的なまでに差がある。
 だが、その絶対的な力関係を縮めることが出来るのがこの命名決闘法であった。
 本来届くはずがないものに、届かせる可能性を持たせ得る。
 それこそがこのルールの素晴らしいところだった。
 それでも、縮まっただけである。決して逆転したわけではないのだ。
 もちろん、そのことに気付かないほど蛍妖怪も愚かではなかった。
 だが、彼女が諏訪子に反発するのは、もはや理屈ではない。
 ただ蟲の妖怪としての気概それだけだった。
 その儚くも哀れな心持ちに、諏訪子は好感を抱かないではなかったが、口では相手を挑発するような言葉を投げかけるだけだった。

「へえ、いいのかい? さっきみたいに不意打ちは出来なくなるよ」

 その諏訪子の挑発的な物言いに、蛍妖怪の顔が羞恥で赤く染まった。
 やれやれ簡単に踊ってくれるなよ、そう心のうちで呟きながら、諏訪子はじっと妖怪の瞳を見つめた。
 その動揺した態度とは裏腹に、先ほどと変わらぬ強い意志の光がそこにはあった。
 その光に満足したように頷くと、諏訪子は再び口を開いた。

「ふふふ、神たる私に挑むか、……いや、だからこその神遊びだね」

 そう言って諏訪子はゾッとするような笑みを浮かべた。
 そこには愛らしさなど欠片も存在していなかった。
 あるのはただ絶対者としての祟り神という本質だけであった。
 本能的にそれを察したのだろう、蛍妖怪はそれこそ蛇に睨まれた蛙のように身動き一つ取れずにいた。

「臆するんじゃないよ、最期まで。……そうでなければ愉しくないだろう」

 破壊を楽しむ邪神。
 今の諏訪子を形容するに、これ以上相応しい言葉はなかった。
 その神性に気圧されまいと精一杯虚勢を張りながら、蛍妖怪は懐からカードを取り出した。
 そうして扇状に広げて見せると、諏訪子に宣言するのだった。

「ボクは四枚だ。お前は?」

 そのカードをさっと一瞥すると、諏訪子は懐から無造作にカードを取り出し、投げ捨てるように蛍妖怪の前にさらした。

「私かい? 二枚で良い」

 投げ出されたカードは諏訪子の周りをふわりと舞うと、まるで始めからそこにあったかのように、再び彼女の手のひらに治まった。

「なっ……!?」

 諏訪子の宣言に蛍妖怪の顔が朱に染まった。
 技を全て攻略されたら負けというスペルカードルールにおいて、枚数が半分など、侮辱も良いところだった。
 見くびられたことに激昂する蛍妖怪を遮るようにして、諏訪子がさらに口を開いた。

「――勘違いしなさんな。別に貴方を馬鹿にしている訳じゃないよ。……まあ、始めたらすぐにわかるさ」

 含みのある諏訪子の言葉に、蛍妖怪はいっそう気分を害したようだった。
 彼女は、何か言い返そうとして口を開いたが、もごもごと口籠もるだけだった。

「枚数が少ないから負けたなんて言い訳はしないでくれよ」

 怒りのあまり言葉を失った蛍妖怪は、そう皮肉を言うので精一杯だった。
 しかし、諏訪子はどこ吹く風でそれを聞き流すと、さらに彼女の神経を逆撫でするように口を開いた。

「ご心配どうも。……でも大丈夫、負けないから」

 そう言うと諏訪子は不遜に笑うのだった。
 それは過信ではない、歴とした事実に基づく自信だった。

「そのご大層な口を利けないようにしてやる」

 メデューサもかくやという視線で、諏訪子を睨み付ける蛍妖怪の視線は、それだけで相手を殺せそうなほど激しかった。
 そんな視線すら心地よいねえ、と諏訪子は思っていた。
 人々の怨嗟を嗜む神としては、この程度の憎しみなど、おやつのようなものだった。

「期待しておくよ。……さあ、始めようか。万が一命を落とすようなことがあっても恨みっこ無しだよ」

 そう言うと諏訪子はふわりと宙に浮いた。
 そして、湖の方へ向かうのだった。
 彼女の呼びかけに、蛍妖怪も小さく頷く。

「わかってるよ。その澄ました顔をくしゃくしゃにしてやるよ」

 いかにも小物臭の漂う台詞を吐きながら、蛍妖怪も諏訪子の後に追随するのだった。
 諏訪子と蛍妖怪は湖の中程まで行くと対峙した。
 やや緊張した趣で諏訪子の方を見る蛍妖怪に対して、諏訪子は全く以て緊張感の欠片もなかった。
 それどころか、これから決闘が始まるという時であるのに、彼女は全く別のことを考えていた。
 そうそう、西部劇と言ったかしら、何だかあれのワンシーンを思い出すのよね。
 諏訪子は、かつて結界の外にいた頃に、早苗達と見た映画のことを思い出していた。
 そんな諏訪子の内心など、慮ばかることなどなく、蛍妖怪はスペルカードを彼女の目の前に突きつけるのだった。

「灯符『ファイヤフライフェノメノン』!」

 先攻したのは蛍妖怪だった。
 一気に諏訪子と距離を取ると、速攻でスペルカードの宣言を行った。
 通常弾幕で相手の様子をうかがうなんてことは一切無い。
 全力全開、ただがむしゃらに押し潰すための攻撃だった。
 黄緑色の光の波が、蛍妖怪を中心に、幾何学模様を描きながら広がっていく。
 よく見ればそれはただの光弾ではない。
 蛍の群体の集まりだった。
 蛍弾幕。
 まさに蛍の妖怪に相応しい弾幕であった。

「激しいなあ。せっかくの神遊び、楽しまないと損だよ」

 間延びしたような声で、その姿を諏訪子は茶化すのだが、蛍妖怪の反応はすげないものだった。
 ツンとした態度を取る蛍妖怪は、些かも馴れ合うつもりはないようだった。
 つれないねえ、と諏訪子はつまらなさそうにぼやくと、押し寄せてくる蛍の大群を軽々とかわしていくのだった。

「馬鹿にして! そんな減らず口をいつまでも叩かせないよ」

 心中穏やかならぬ様子で蛍妖怪は反発した。

「ふむ、この程度で冷静さを失っているようでは、永遠に私に届くことはないよ」

 天空から振り下ろされる光の筋をかわしながら、諏訪子はそう言った。
 間髪入れず右から来る蛍の群れをさらにいなす。
 次から次に押し寄せてくる蛍の波を、ギリギリでかわすたびに、彼女はカリカリと心が研磨されるような感覚を覚えていた。
 ふぅ、やれやれ、そうは言ったものの、これは一苦労だねえ。
 そう内心で呟きながら、相変わらず顔色一つ変えずに諏訪子は避け続けるのだった。
 しかし、反撃一つせずにただ避け続けるだけの諏訪子に、蛍妖怪の方が先に焦れてきた。
 文字通り遊ばれている、そんな思いが彼女の中で大きくなっていたからでもある。
 歯軋りをしながら、新しいカードをマントの裏より取り出すのだった。

「だったらこれならどうだい!? 蛍符『地上の彗星』」

 宣言をした後、蛍妖怪はキリッと両手を挙げると、まるで指揮者のように手を振り下ろした。
 手には何も持っていないが、諏訪子の目にはまるでタクトが握られているように感じられた。
 蛍妖怪の指揮に従って、蛍達の軌道が変わりだした。
 最終的には、それまでの幾何学的な光の筋から、蛍妖怪を中心として、何本もの光の柱が生み出されると、一直線に諏訪子を襲ってくるのだった。
 その姿はまるで夜空を翔る帚星であった。

「蛍達で彗星を作るとはねえ……、なるほど。流石だね――」

 そう言って諏訪子は言葉を切ると、周囲に視線を巡らせた。
 それまで幾何学的に広がっていた光の筋は、今ではすっかり光の大河へとその姿を変えていた。
 彼女は、その光景に感嘆を覚えながらも、しっかりとその欠点も見抜いていた。

「――だが、所詮はただ太くなっただけ。むしろ的が大きくなった分、避けやすくなったんだけどねえ。やっぱり蟲は頭が弱いのかな?」

 侮蔑の色を隠そうともせずに、諏訪子はそう呟いた。
 わかりやすい挑発だった。
 しかし、蛍妖怪は諏訪子の言葉に一顧だにしなかった。
 それどころか、なおいっそう激しく腕を振り、蛍達を導くのだった。
 ふむ、何か考えがあるな。
 そう思いながら諏訪子は別段それを遮ろうという気はなかった。
 むしろ、何かあるならばそれこそ望むところだった。
 それは油断だよ。
 そう小さく蛍妖怪の口が動いた。
 彼女もまた諏訪子の気持ちを十分に察していた。
 だからこそ、その油断に最大限につけ込むつもりだった。
 ふと諏訪子は気が付いた。
 自分の周囲が、いつの間にか見覚えのない白い欠片に取り囲まれている。
 薄気味悪く感じて、わざと不規則に上下左右、全ての空間を使って動いたのだが、その白い欠片はいっそう彼女の周りを取り囲むのだった。
 何だろう。
 そう思ってよく観察すれば、その白い欠片は諏訪子が避けた蛍の彗星の滓だった。
 つまらないなあと、肩すかしをされたような気持ちになって、蛍妖怪の方に視線を戻した時だった。
 蛍妖怪は三枚目のスペルカードを取り出していた。

「いい加減ボクを舐めるなぁーっ! 蠢符『ナイトバグトルネード』。目覚めろ、ボクの仲間達よ!」

 蛍妖怪の怒号に共鳴して、その白い欠片達が光を放ち始めた。
 いけない。そう諏訪子が思った時には遅かった。
 その欠片に囲まれて、彼女は身動きが取れなくなっていた。
 星屑のように散らばった白い欠片が、蛍妖怪の指揮に合わせて渦巻く。
 そして、三百六十度全ての方向から、諏訪子に向かって降り注ぐのだった。
 さながらそれは、季節外れの台風のような勢いであった。
 嵐の中で漂流する筏のように、上下左右に揺れ動きながら、諏訪子は光の弾幕にその身を曝していた。
 初めて彼女の表情に、焦りの色が浮かんだ。
 これは被弾を覚悟しないといけないかもね、そんな風に彼女は思っていた。
 諏訪子の表情が変わったことに蛍妖怪も気づいていた。
 だが、彼女は慢心することはない。
 最後の一手を詰める所まで気を抜いてはいけないということをよくわかっていたのだ。
 白い欠片は完全に諏訪子を包囲していた。
 しかし、それでも彼女を追い詰めるにはまだ足りない。
 永遠に続くような暴風の中でも、彼女は被弾せずに避け続けているのだった。
 制限時間のある戦い故に、諏訪子が粘り続ける限り、蛍妖怪の負けは刻一刻と近づいてきていた。
 だが、蛍妖怪の顔には焦りの色はない。
 むしろ、時を待っているような表情だった。

「ふむ、確かに分厚い弾幕が嵐のように吹き荒れている。ナイトバグトルネードとはよく言ったもんだね。だけど、所詮はそこまで、慣れればどうと言うこともない。先程の蛍と比べれば、この白い滓のような欠片なんか、恐れることはないね。それに、動きはと

うに見きったよ」

 そう諏訪子が言うように、彼女の動きは先ほどまでと比べて、格段に安定してきた。
 三枚目を使われてすぐの時のような動揺もまるで見られなかった。
 それどころか欠片を相手にダンスを踊っているかのように軽やかだった。

「だから、馬鹿にするのもいい加減にしろって!」

 蛍妖怪がそう叫んだのはその時だった。
 彼女は振り下ろした右手をたぐり寄せるように戻した。
 その右手に合わせるようにして、諏訪子の死角に位置する欠片の色が、白から緑へと変化した。
 色が変化しただけではない。
 諏訪子がかわしたはずの方角から、緑色に輝く蟲が飛びかかってきた。
 予期せぬ所からの攻撃に彼女は完全に虚をつかれた。
 首筋を蟲の牙がかすめていく。
 薄皮一枚でかわした形になったが、取り戻したはずのリズムは完全に崩されてしまっていた。
 一転して苦境に立たされたのは諏訪子だった。
 白い欠片をかわしたかと思えば、死角の位置から緑色に発光する蟲が飛びかかってくる。
 対策を練ろうにも、蛍妖怪の付近には緑色の蟲は一切見あたらず、飛んでくるのを気配で察してよけるしかなかった。

「あははは、どうだい。ボクを甘く見たことを後悔させてやる。蛍の輝きに押しつぶされるがいい」

 蛍妖怪の哄笑が湖に響き渡った。

「『鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす』というけど、あまり調子に乗らないでくれるかな、貴方の浅さがすすけて見えるよ」
「なに!?」

 咄嗟の返答だったが、蛍妖怪の調子づいた態度に一矢報いることは出来たようだった。
 顔色が変わったところで捲し立てるように諏訪子は続けた。

「『鳴く虫は捕らる』ともいうね、まだ勝ってもいないのに、余裕を見せるのは早すぎるというものよ」

 減らず口を吐いて少し気が晴れたものの、諏訪子の状況は全く芳しくなかった。
 どういうことだろう。
 捌いたはずの弾幕が再び襲ってくる。
 そんな不可思議な状況に、彼女は切り返すすべが見つからず、困惑し動きあぐねていた。
 一つ大きく息を吐くと、諏訪子は覚悟を決めた。しかたがない、大の虫を生かして小の虫を殺すほかないねえ。そう諏訪子は決意すると、蛍妖怪からは完全に目を切り、白い欠片の波だけに集中した。
 まず、自分を目掛けて飛んでくる欠片をかわす。
 ここまではいい、大事なのはその次だ。
 彼女は全身をバネのように振り絞り、続弾を感覚だけでかわしながら、先にやり過ごした欠片をじっと観察していた。
 すると、やり過ごした欠片のいくつかが緑色に発光し始める。
 そして、ピリピリと音を立てて欠片に裂け目が入ると、その中から緑色の蟲が羽化し、諏訪子を目掛けて飛んでくるのだった。
 なるほど。
 遅まきながらようやく諏訪子は気が付いた。
 白い欠片は、蛍の弾幕が零したただの滓ではなく、蛍の卵だったのだ。
 その卵から、蛍の幼生が羽化して自分を襲う。
 そして、襲った幼生は蛍となって、夜空を駆け巡っては卵をばらまき、竜巻へと戻る。
 この永遠に繰り返される循環が、彼女を追いつめていたのだった。
 きりがないな。
 そう諏訪子は嘆息した。
 そしてこのままでは、自分の集中力が時間よりも先に切れてもおかしくないことを自覚していた。
 しかし、冷静に戦闘のことを考える一方で、彼女は全く別のことに心を奪われていた。
 それにしてもなんと美しいのだろう。
 気が付くと諏訪子は、目の前の光景から目を離せずにいた。
 蛍達の発する光とはいえ、それは星々の輝きのようで、湖に向かって流れ込む姿はまるで天の河のように見えた。
 白い天の河と緑の流星。
 その美しさは、今まさに追いつめられようとしている諏訪子でさえ、思わず見惚れてしまうものだった。

「とはいえ、流石にこれを全て避け続けるのは骨だね」

 そう呟くと、諏訪子は懐からスペルカードを取り出した。
 ようやくの一枚目に蛍妖怪も少し警戒の色を浮かべた。
 だが、その表情からは、それでも自分の優位は揺るがないと言う自信が窺えるのだった。
 しかし、その蛍妖怪を見つめる諏訪子の顔には、どこか哀惜の色があった。

「相性が悪かったね……。蛙狩『蛙は口ゆえに蛇に呑まるる』!」

 諏訪子がスペルカードの宣言をした。
 咄嗟に身構える蛍妖怪。
 だが、何の変化もなかった。
 弾幕の嵐どころか、弾の一発たりとも彼女のもとに飛んでこなかった。
 それどころか、諏訪子自身は、相変わらず自分の弾幕をかわすので手一杯といった様子で、近づいてくる気配すらなかった。
 しかし、蛍妖怪は一抹の不安をぬぐえないでいた。
 何故あいつは弾を撃ってこない。
 それとも、まだ侮っているというのか。
 そう思って彼女は諏訪子の様子を窺った。
 白く輝く卵の嵐の中、諏訪子は口元に笑みを浮かべていた。
 とても楽しそうにしているところを見ると、弾幕ごっこ、彼女の言うところの神遊びを心から楽しんでいるようであった。

「ん?」

 ふと、蛍妖怪は諏訪子と目が合ったような気がした。
 違和感を覚えて再び見るが、彼女は弾の軌道を見ており、自分の方を見ていなかった。
 気のせいか、と思いかけた時、今度は本当に目があった。
 ニターっとしたいやらしい視線だった。
 思わず目をそらすと、再び彼女は蛍の暴風の中に姿を消した。
 こんなやり取りが何度か繰り返された。
 気が付くと、諏訪子と目が合う回数がどんどん増えてきた。
 それと共に、彼女の蛍弾幕を回避する様子は、徐々に余裕の面持ちになっていた。
 それだけではない。
 光り輝く嵐の中、彼女の姿は何故だか心持ち大きく見えるのだった。
 おかしい。
 蛍妖怪の疑念は確信へと変わっていた。
 確かに自分の蛍達は諏訪子を取り囲み、ひたすらに押している。
 現に諏訪子は回避に手一杯で、こちらに弾を一つも撃ってきていない。
 それでも、あいつは何かをたくらんでいる。
 彼女はそう思っていた。
 それは、諏訪子の表情のためだった。
 追いつめているはずなのに、追いつめているはずなのに、何故諏訪子は相も変わらずあんなに楽しそうなんだ。
 蛍妖怪は心の中で何度も問いかけ続けていた。
 思わず蛍妖怪は、懐に入れたカードに触れた。
 隠蟲『永夜蟄居』。
 彼女のラストスペルである。
 これを使わないで済むに越したことはないが、最悪使わないといけない。
 そう決意を新たにしながら、彼女は何気なく視線を湖に向けた。
 そこには、今の彼女の心境そのもののような暗い闇が横たわっていた。
 気が滅入るな、そう思いながら蛍妖怪は諏訪子の方に視線を戻した。
 目の前では彼女がやはり同じように、自分の蛍弾幕を避け続ける姿があった。
 やはり何かがおかしい。
 蛍妖怪の中に生まれた確信は、時を追う事にさらに膨らんでいった。
 それでも、何がおかしいか自分でもわからなかった。
 これまでと同じように、彼女は諏訪子の様子をただ窺うしかなかった。
 だが、諏訪子の様子は完全に余裕のあるものになっていた。
 その姿を眺めながら、蛍妖怪は顎に手を当て考え込む。
 そうすると自然と目線は下に下がる。
 彼女の目の前には、なおも真っ暗な湖面がたゆたっている。
 それは音すらも飲み込みそうなほど深く黒かった。

「忌々しい色だね。こっちまで気が滅入ってく――えっ?」

 吐き捨てるように呟こうとして、蛍妖怪はようやく自らの違和感の正体に気が付いた。
 ――何故、湖面が真っ黒なんだ。
 目の前で諏訪子を追いつめている蛍達は未だ輝き続けている。
 それなのに湖は何の光も映してはいなかった。
 その事に気付き蛍妖怪は慄然とした。
 そして、ハッとして諏訪子の方を見る。ようやく気付いたのかい、と言わんばかりに彼女は憫笑を浮かべていた。
 蛍妖怪の瞳は、諏訪子の口の動きをはっきり捉えていた。
 起きろ。
 諏訪子の口はそう動いていた。
 その合図に合わせて、湖一面が二対の真っ赤な光によって埋めつくされた。

「蛙だと……」

 そう、湖面は光を映さなかったのではない。
 それを覆い隠すほどの大量の蛙によって、光が吸収されていたのだ。
 蛍妖怪はその光景を見て、呆然と呟くより他はなかった。
 そこにはある種、絶望の色しかなかった。

「貴方はなかなかよくやったよ。名も知らぬ蟲の女王よ。だけど、これまでだね。さあ、吾が眷属よ、絶望を撒き散らし行くがよい」

 諏訪子の宣言に従い、湖面から蛙たちが跳ね上がる。
 そして、辺り一面を埋め尽くすほどの蛙が、とぐろを巻いて蛍妖怪に向かって押し寄せていく。
 不意を打たれるような形になったが、何とか蛍妖怪は第一撃をかわすことが出来た。
 ホッと息を吐き出し、次の波に備えようとして、彼女は驚愕のあまり目を見開いていた。

「な……、そんな……馬鹿な」

 蛙の大波は蛍妖怪にかわされたあと、その勢いのまま蛍の弾幕の渦へと突っ込んでいった。そして、突っ込んだところから、蛍達の輝きが失われていくのだった。

「……弾幕を、食ってる」

 擦れた声で呟く蛍妖怪を他所に、彼女の使役していた蛍の輝きは、次から次へと失われていった。
 夜空に浮かぶ天の河のような輝きは、黒い大波によって切り裂かれ、飲み込まれようとしていたのだった。
 その後には、ただ無惨に食い散らされた蛍の死骸が横たわるだけだった。
 蛍妖怪は無力感に打ち震えながら、それを呆然と眺めることしかできなかった。
 諏訪子の言った『相性』と言う言葉が、彼女の頭の中をグルグルと回っていた。
 自然の理と言えばそれまでだが、こんな光景を見ることになるとは思ってもいなかった。

「戦場で惚ける奴があるかい。しっかり逃げないと被弾するよ」

 蛍妖怪を現実に戻したのは、意外にも諏訪子の声だった。
 驚いて彼女が顔を上げると、遠目には厳しい表情で、自分を睨み付ける諏訪子の顔があった。
 矛盾するような諏訪子の行動だった。
 不審に思いながらも蛍妖怪は軽く顔を張って、目の前の蛙の大波を避けるのだった。

「ほれほれ、しっかり逃げないと被弾するよ」

 弄ぶような諏訪子の声に歯噛みするが、蛍妖怪にはどうすることも出来なかった。
 たとえ、破れかぶれで弾を撃ったとしても、撃ったそばから蛙に喰われてしまう。
 万事休すだった。

「くそっ、遊びやがって。どうしてボクはこんなに弱いんだろう……」

 蛍妖怪は、悔しそうに顔を歪ませた。
 彼女の胸の奥では、かつて紅白の巫女や、黒白の魔法使いたちに破れた苦い記憶が、蘇りつつあった。
 両手で顔をはたくと、忌まわしい思い出を頭の中から追い出すように、ブンブンと首を大きく振るのだった。

「いけないいけない。ボクはもう頭を下げないって約束したんだ。だから、絶対にボクは諦めない!」

 悲愴なまでの蛍妖怪の叫びだった。
 そして、再び蛙の大波と対峙する。
 彼女は激しい波を何度も避け、少しでも諏訪子に近づこうと試みるが、何度もはじき返されてしまう。
 それでも彼女は諦めなかった。
 だが、現実は無情である。
 諏訪子の蛙弾幕は彼女の心を折ることは出来なかったが、刻一刻と彼女の集中力を削いでいくのだった。
 それまでよりも蛍妖怪に蛙が当たる回数が増えてきたとき、諏訪子は一つ嘆息した。

「ふぅ、詰まらないね。……そろそろ終わりにしようかな」

 そう言って、詰めのスペルカードを取り出そうとした瞬間だった。
 諏訪子の鼻腔を甘い香りがくすぐった。
 そして、間髪をおかずにゾワッとした悪寒が諏訪子の周りを包んだのであった。
 本能的に危険を感じ、勝手に体が回避行動を取るのだが、周囲には何もなかった。
 目下、蛍妖怪も未だ諏訪子の蛙弾幕の回避に手一杯であり、何かする余裕はなさそうだった。
 勘違いか、と独りごちて、改めて諏訪子がスペル発動に移ろうとすると、再び明らかな殺気が彼女の周りを取り囲んだのだった。
 今度こそ勘違いじゃない。
 諏訪子は思わず舌打ちをして立ち止まった。
 確かに周りには何もない。
 だが、一歩でも蛍妖怪の方に近づいたならば、自分を狙って弾幕の嵐が吹き荒れる。
 そんな予感があった。キッと中空を睨み付けると、彼女は周囲を見回した。

「誰だい、人の遊びに水を差そうとする無礼者は」

 その問いかけに答える者はなかった。
 しかし、依然として諏訪子の周囲には殺気が張り巡らされている。
 そんな不可思議な状況に、彼女はただ苛々するよりほかなかった。
 遠くでは蛍妖怪が苦心しながら何とかスペルを捌こうとしている。
 多少傷ついてもいいので、無視して突き進むか、と諏訪子が思ったときだった。
 彼女の鼻腔を微かに甘い香りがくすぐった。
 諏訪子はハッとして顔を上げた。
 なるほどお節介はあいつのせいか。
 舌なめずりをして獰猛な笑みを浮かべていた。
 僅かな時間だったとはいえ、蛍妖怪から目を離し、隙を作ってしまったのは諏訪子にとって失策だった。
 その間隙を見計らって、体勢を立て直した蛍妖怪は、ようやく諏訪子の蛙符の包囲から脱出することが出来た。
 そして、湖の上で再び二人は対峙していた。
 激しかった弾幕の場に空白が出来たかのように静かだった。
 その静寂を破って蛍妖怪が口を開いた。

「どうあっても貴女には勝てないことはわかった。だからといって、ボクは引くわけにはいかないんだ。蟲の女王としての誇りの為にも最後の宣言をさせて――」
「――やめやめ、興が削がれた」

 蛍妖怪がラストスペルを宣言しようとするのを遮って、諏訪子が戦意がないという風に肩を竦めた。突然の終了宣言に、

「逃げるのか?」
「『逃げる?』はっ、見逃してやっているんだよ。それとも勝てるとでも思っていたのかい?」

 余裕綽々の諏訪子の言葉に、蛍妖怪は悔しそうに唇を噛み締めた。
 そして、憎しみを込めた視線で諏訪子の姿をじっと睨み付けていた。
 真っ向からその視線を受けながら諏訪子は、やれやれめんどくさいねえと、一つ溜息を吐いた。
 強情なのは嫌いではないが、今日の所は引いてもらおうかね。
 小さな声でそう呟くと、彼女は全身に意識を巡らせた。
 瞬間、禍々しい気配が諏訪子の背後より立ち上った。
 彼女の背後には、白い蛇のようなものがうっすらと浮かび始めていた。
 スペルカード戦ではない、彼女の真の力の顕現しようとしていた。
 アレは危険だ。
 それが目の端に入った時、蛍妖怪の背筋には冷たいものが流れていた。
 そんな彼女の恐怖を見透かしたように、諏訪子は鋭い視線を投げかけていた。

「ここからは遊びじゃない。わかるだろう? じゃあ、もう一度言うよ『見逃してやる』」

 諏訪子の声色は冷徹そのものだった。
 地獄の底から聞こえて来るようなその声に、蛍妖怪は精一杯耐えているつもりだった。
 だが、彼女の体は正直だった。
 ザリッ。
 足元を見て蛍妖怪は愕然とした。
 諏訪子の言葉に反発を覚えているはずなのに、その心に反して彼女の足は後ろに下がっていた。
 本能的な恐怖が彼女を支配していた。

「なんで、なんでなんだよ……」

 恐怖に抗えなかった悔しさに、蛍妖怪は涙を堪えることが出来なかった。
 ポロポロとこぼれ落ちる涙を拭うこともせずに、彼女は諏訪子を睨み付けていた。
 だが、その視線に諏訪子は何の感慨も抱かなかったようだった。
 無言のまま彼女が一歩足を進めると、それに合わせて蛍妖怪の足は後ろに下がっていくのだった。
 完全に動揺しきった蛍妖怪は、怯えたようにキョロキョロと辺りを見回すと、諏訪子に背を向けた。
 そして振り返ることもせずに、脱兎の如くその場から飛び去っていった。

「クソッ、クソッ、クソッ!」

 蛍妖怪の口からは抑えようのない悔しさの言葉が漏れ聞こえていた。
 流れ星のように飛び去った彼女の姿が、遠く夜空に消えていったのを確認すると、諏訪子はフゥと一つ息を吐いた。
 そこには、先程までの獰猛な様子はまるで見えなかった。だが、彼女は完全に緊張を解いたわけではなかった。
 おっと、まだもう一つ残っていたんだったね。
 そう心中で呟くと、諏訪子は再び顔を引き締めなした。
 そして、中空をキッと睨み付け、口を開くのだった。

「花妖怪。いるんだろう?」

 諏訪子の声に従うようにして女が姿を現した。
 その女は、夜だというのに純白の日傘を差し、血で染め上げたような赤いチェックのワンピースを身にまとっていた。
 日傘の下には、葉桜を思わせる艶やかな緑の髪がなびき、顔には向日葵のような眩しい笑顔を浮かべていた。
 だが、その笑顔からは、優しさは欠片ほども感じられなかった。
 むしろ、その女の危険で嗜虐的な印象を強めているだけだった。
 この女こそ、花の大妖怪、風見幽香である。

「あら、見つかってしまいましたわ」

 さも馬鹿にしたような声を出し、幽香は日傘をくるりと回して諏訪子の目の前に降り立った。

「ふん、見つけさせたんだろう。あの小さき女王を救うために」

 悪びれた様子も見せずにとぼけたふりをする幽香に向かって、諏訪子は鼻を鳴らし、咎めるような視線を向けた。
 だが、諏訪子の厳しい視線にも幽香は全く怯む様子はなかった。

「神ともあろうものが、弱いもの虐めとは堕ちたものですわね」

 それどころか諏訪子の疑問に全く答える気がないようで、全く見当違いの返答を返すのだった。
 口角を軽くつり上げ、嘲るような幽香の態度が諏訪子をいっそう苛立たせるのだった。

「ぬけぬけとよく言うよ。それこそ貴方にだけは言われたくないよね」

 究極加虐生物とまで渾名された妖怪が、自分のことを全く棚に上げ、自分を詰るような発言が諏訪子を鼻白ませていた。
 呆れたような諏訪子の言葉に、幽香はさも心外だというように溜息を吐いた。
 その行動一つ一つが、いちいち諏訪子の癪に障るのだった。

「酷い言い種ですわね、助けて差し上げたというのに」
「大きなお世話だよ」

 幽香から予想だにしない言葉を掛けられて、諏訪子は思わず面食らってしまった。
 だが、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている幽香の表情から、その意図に気が付いて羞恥に顔を赤らめるのだった。
 そんな諏訪子の様子を、くすくすと嗤いながら幽香はなおも言葉を続けた。

「そんなことだから、子孫との付き合い方も上手くいかないんですわ。早苗が零していたわよ『諏訪子様は何を考えていらっしゃるか時々分からないときがあります』ってね」

 わざわざ声まで似せて、愛すべき風祝のまねをする花妖怪に対して、諏訪子は不機嫌そうな表情を浮かべた。

「……似てないよ。まったく、いちいち余所の厄介事に首を突っ込むのが好きな女だなあ。どこぞの隙間妖怪と何ら変わらないじゃないか」

 隙間妖怪という単語に反応し、幽香は少しだけ口角を上げた。
 そして、初めて不快そうな気色を見せ、口をとがらせるようにして言った。

「あのババアと一緒にされるのは釈然としないですわね?」
「全然関係のない争いに顔を出し、その上邪魔までしておいて、それでもお節介ババアじゃないとでも?」

 ようやく幽香の余裕の仮面を崩せたことに、諏訪子は少しだけ満足し、間髪入れず言葉を続けた。

「見た目はともかく貴女の方がババアじゃない。……まあ、それはいいわ。別に関係ないと言うことはないでしょう。私は花の妖怪。そして、あの子は蟲の女王。それで十分じゃなくて?」

 だが、幽香もさるものである。
 すぐに気を取り直すと、諏訪子へ手痛い逆言をするのだった。
 自然の理。
 幽香の言いたいことはそういうことだ。
 そして、諏訪子にはそれが十分理解できた。
 何よりも彼女自身が蛍妖怪に説いたことである。
 ただ、まさかそれがブーメランになって返ってくるとは思いも寄らなかったが。

「どこから聞いていたんだか……。このストーカーめ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」

 皮肉のつもりで言ったのだが、幽香は全然堪えてないようだった。
 それどころか、さも誇らしげにされてはたまらない。
 諏訪子は、強引に話題を変えることにした。

「というより、まだ早苗にちょっかい掛けているの? いい加減にしないと土着神の本気を見ることになるよ」

 そう凄みながら言う諏訪子に、幽香はさも面倒臭そうな表情を浮かべていた。

「……本当に貴女達はよく似ているわね。そもそも、ちょっかいを出しているのは私でなく、早苗。そこを間違ってもらっては困るわ」

 親馬鹿全開の諏訪子の言葉に呆れたように肩を竦めると、幽香は明後日の方向に嘆息していた。

「誰と似ているかってのはあえて聞かないでおくけど、本当に早苗に不埒なことはしてないんだろうね」

 くどくどしく続く諏訪子の言葉に流石の幽香も辟易していた。
 いい加減何か憎まれ口を返してやろうと、口を開こうとした時だった。
 彼女は、何かに気付いたようにニヤリと口角をつり上げるのだった。

「不埒なこととはいったい何のことかしらねえ? ……そうねえ、確かに極上だったわ、あの子のものはとっても美味しかったわよ」

 目を細め、淫靡な視線を投げかけながらそう言うと、幽香は、さも美味しかったかのように舌なめずりをした。
 わかりやすい挑発だったが、今の諏訪子に対しては十分だった。

「貴様!」

 諏訪子はあっさりと激発した。
 その反応に対して、いかにも愉快そうな表情を浮かべる幽香を見て、彼女はしまったと思うが、時すでに遅しであった。

「ああ、嫌だ。何を考えているのかしらね、あの子が作ってくれたご飯がとても美味しかったって言っただけなのに、やましいことを考えているから、変なことを想像するんじゃないのかしら?」

 期待通りの反応を見せた諏訪子に対して、幽香は更に言葉責めを続けた。

「……貴様の言いようも悪い」

 幽香に乗せられた挙げ句、そう言い返すほかない諏訪子は、ただひたすらに渋面を浮かべていた。

「神様ってのは人のせいにすることがお上手なことで」

 さらに塩を塗り込むように、幽香はこれ以上ないほどの嫌みったらしい声で、諏訪子にそう言うのだった。

「人ではなく妖怪だから良いんだよ」

 吐き捨てるように諏訪子が言った言葉に、幽香の片眉がピクリと跳ね上がる。

「……妖怪だからあのようにいたぶり、潰しても良いと?」

 相変わらずにこやかな笑みを浮かべてたまま幽香はそう言った。
 だが、その瞳は真剣そのものだった。
 それまでの茶化したような様子はまるでない。
 隙を見せれば極太レーザーがいつでも飛んできそうな剣呑な雰囲気を醸し出し、諏訪子を凝視していた。
 彼女はその態度の豹変ぶりに面食らっていた。

「……あの娘もわかって突っかかってきたのだろう、だったら何故私だけが責められねばならない。……それに、貴様にだけは言われたくないよ」

 諏訪子は、幽香が態度を変えた理由を理解できないではなかったが、その言葉の理不尽さに、自然と返答がふて腐れたものになっていた。

「それもそうですわね。でも弱い者虐めは趣味ではないでしょう?」

 諏訪子の答えを聞いた幽香は、顔色を変えることなくそう言った。
 だが、彼女の声色は優しく、張りつめていた空気がフッと緩んだようだった。

「貴方、祟り神を勘違いしていない? そうだね、貴方みたいに好んではいないけれど、必要とあらば恐怖を教えてやることは吝かじゃないよ」

 獰猛な笑みを口元に浮かべて、諏訪子はじろりと睨み付けた。
 わざと凄んだつもりだったが、幽香はまったく意に関した様子はなかった。
 それどころか一つ欠伸をすると、さも興醒めだと言わんばかりに笑みを浮かべた。

「……つまらないわね。貴女みたいな人がそんなくだらない強がりを言うなんて。ああ、本当に退屈だわ。貴女とお話しするのはとても愉しいのだけど、興がさめてしまいましたわ。まったく、お社に帰って少し頭を冷やしたらどうかしら?」

 そんな幽香の慇懃無礼な物言いに、諏訪子は腹は立たなかった。
 それでも、何となく釈然としないまま、憮然とした表情を浮かべていた。

「言いたいことばかり言ってくれるなあ」
「直言されることも必要ですわよ、か・み・さ・ま」

 幽香の口調は、あからさまに馬鹿にしたものだった。
 しかし、諏訪子はその態度に、別段目くじらを立てることなく、平然と笑っていた。
 それからフフンと鼻を鳴らし、諏訪子は幽香を見返した。
 自然とお互いの視線がぶつかり合う。
 ニヤリと冷笑を浮かべ合うと、どちらともなく視線を外すのだった。

「ではまた、ごきげんよう」

 先に背を向けたのは幽香だった。クルリと日傘を回すと、彼女はふわりと空に浮かび上がった。

「もう来なくていいよ」

 その背中に向かって諏訪子は声を掛けるが、幽香からの返事はなかった。
 彼女はヒラヒラとスカートを揺らしながら飛び去っていった。
 ようやく昇ってきた月の光が、独り残った諏訪子を照らしていた。
 彼女は呆然と幽香の姿が消えていくのを見送っていた。
 そして、その姿が完全に見えなくなると、踵を返して、とぼとぼと神社に向かって歩き始めたのだった。
 諏訪子は、歩き慣れているはずなのに、神社までの参道がいつもより長く感じていた。
 それは彼女が絶えず先程の事を考えていたからであった。
 諏訪子の頭の中には、蛍妖怪との弾幕ごっこと、幽香とのやり取りが渦巻いていたのだった。
 つまり今、彼女はその二つのものに歩かされているようなものだった。
 ふと道の途中で立ち止まると、諏訪子は天空を眺めた。
 冷ややかな月が、彼女を蔑むかの如く見下ろしていたのだった。
 そんな月の光を直視できずに、彼女は目線を下げた。
 別に彼女自身は、先程の件に悪い事をしたという気はなかった。
 ただ、どこか後味の悪さだけが残っていたのだった。
 幽香のせいだ。そう思えれば楽だったのだろうが、諏訪子は、そんな割り切りが出来るような気分ではなかった。
 理屈の上での正しさは理解しているはずなのに、彼女は自分の気持ちを消化する事が出来ずにいたのだった。
 こうしてグジグジと悩みながら歩いた挙げ句、軽く見積もってもいつもの三倍の時間をかけて、彼女はようやく神社の境内に戻ってきた。
 社務所の窓からこぼれる柔らかな灯りを見て、諏訪子は思わず胸が締めつけられるような気持ちを覚えていた。
 何となく入りかねて、家の外からその灯りを眺めていると、不意に声を掛けられた。

「何をなされてるんですか、諏訪子様?」

 声の方に振り返ると、そこには守矢神社の風祝、東風谷早苗が不思議そうな顔をして立っていた。

「ん? ああ、早苗か」
「ああ、早苗か、じゃないですよ。ちょっと夕涼みに、と言って神社を出られたのに、あんまり帰って来られないから、様子を見に行くところだったんですよ。……ところで、何で入られないんですか?」

 少し怒ったような口調の早苗に、諏訪子はバツの悪そうな顔をするより他なかった。
 何か弁解をしたい気持ちにさせられたが、特別何も思い浮かばなかったので、とりあえず誤魔化すように満面の笑みを浮かべると、帰宅の挨拶をするのだった。

「それは悪かったね。おっと、それはそうと、ただいま」
「……お帰りなさませ、諏訪子様」

 そんな諏訪子の態度に、早苗は一瞬、何か言いたげな顔をしたが、口に出しては何も言わなかった。
 落ち着かない様子でキョロキョロと目を彷徨わせているうちに、何かに気が付いたようだった。

「あら?」
「どうしたんだい、早苗」

 諏訪子の疑問の声に答えるかわりに、早苗は鼻をくんくんと鳴らしながら、彼女の頭の付近に顔を近づけるのだった。

「いえ、何か良い香りが」

 その様子を訝しげに諏訪子は眺めていた。

「諏訪子様、帽子に何か……、失礼しますね」

 そう言って早苗は、諏訪子の頭の方に手を伸ばした。
 帽子の脇をごそごそといじると、小さな物体を取り上げた。
 彼女からそっと手渡されたそれを見ると、可愛らしい白い花だった。

「茉莉花?」

 諏訪子の言うようにそれは茉莉花だった。
 手のひらに乗せられた花弁からは、小さいながらも甘く魅惑的な香りがプンとしていた。

「ジャスミンの花ですね」

 諏訪子の言葉に頷きながら、早苗はそう言った。
 そして、香りを嗅ぐために、諏訪子の手に鼻を近づけるのだった。

「あいつめ……、余計なお世話を」

 白い茉莉花を陶然と見ていると、諏訪子の口からは、言わなくて良いことまで零れていた。
 彼女の発したあいつという単語に、早苗の肩がぴくりと震えた。

「あいつ? もしかして諏訪子様、また幽香さんに突っかかったんじゃないでしょうね」
「別にあいつとは何もなかったよ」

 自らが失言したことに気が付いた諏訪子は、咄嗟にそう言っていた。
 嘘ではなかったが、真実を全て言わないような形になった。
 しかし、どうやら早苗にとってはそれで十分だったようである。

「じゃあ、良いですけど。勝手に変なことばかりしないでくださいね」

 まだ不満げな顔をしているが一応納得した様子であった。

「ははは、心配性だなあ早苗は」

 それを見て、上手くごまかせたことに安堵しつつ、諏訪子は何故か心の奥に棘が刺さったような気がしていた。
 それをごまかすように軽口を叩くのだが、早苗の反応はつれなかった。

「別に心配はしていません」
「そうかい」

 諏訪子が、少し寂しいなという顔を見せたからだろうか、気遣うような感じで、早苗は家に入るように促すのだった。

「さあ、家に入りましょう。神奈子様が待ちくたびれてますよ」

 二人して居間に向かうと、そこには守矢神社のもう一柱である八坂神奈子が、苛々した様子で大杯をあおっていた。

「ただいま戻りました」
「ただいま~」

 そこに二人は帰宅の挨拶をしたのだが、神奈子から返ってきたのは、出迎えの言葉などではなく、叱責の声であった。

「遅い! もう、何をしてたんだい諏訪子、お前が帰ってくるのが遅いから、お腹が減ってしょうがなかったよ」

 ただ、その苛々した声の裏にも、どことなく心配するような色が混じっていると感じてしまったのは、諏訪子自身、自分を買い被り過ぎかな、と思わないでもなかった。

「ああ、すまないねえ神奈子」

 だから素直に謝ったのだが、反省の色が薄いと取られたのか、神奈子はさらに言葉を続けたのだった。

「まったく、遅くなるなら遅くなるって言ってから遊びに出ればいいのに……」

 結局、この神奈子の説教は、彼女が話し出すと同時に台所に引っ込んでいた早苗が戻ってくるまでずっと続いたのだった。

「そろそろよろしいですか、神奈子様?」

 そう尋ねてはいたものの、早苗は問答無用でお皿を並べていた。
 その有無言わせぬ様子に、流石の神奈子もそれ以上お説教続けることも出来ず、ただ頷くしかなかった。
 こうして諏訪子は無事お説教地獄から解放されたのだった。

「え、ああ、済まないねえ、早苗」

 少し気圧されたように、座り直す神奈子を余所に、配膳をしていた早苗は、諏訪子の耳元でそっと囁いた。

「神奈子様はああ仰っていますけど、諏訪子様を待つって、頑として聞かなかったんですよ」

 口元を抑えてクスリと微笑むと、ウィンクした。

「ウォッホン。早苗、聞こえてるよ」

 神奈子は憮然とした表情で、一つ咳払いをすると、早苗に配膳を続けるように促すのだった。
 あら、聞かれてましたか。そう言うと、早苗は悪戯を見咎められた子供のように軽く舌を出した。
 そして、早苗は苦笑しながら台所へと下がるのだった。
 そんな二人の様子を何気なく見守っていると、ささくれ立っていた諏訪子の心も、少しだけ癒されるような気分になっていた。

「さ、飯だ飯。ん、早苗、この魚は?」

 そう言って神奈子が刺身を箸で持ち上げるとぶらぶらとさせるようにした。
 微笑ましいがその子供っぽい動作に、諏訪子は思わず口元がほころびかけるが、早苗はそうではなかったようだ。

「それですか、河童の方々にいただいたんですよ。……それはそうと、神奈子様、はしたないですよ」
「ああ、ごめんごめん」

 自分よりかなり年若き風祝にピシャリと叱責されて、神奈子は面目なさそうな顔をしていた。
 そんな二人のやり取りを眺めながら、少しだけ気が晴れる思いがしていた。
 けれど、口に持って行く飯の味は全くしなかった。
 まるで鉛のような飯を食いながら、諏訪子はどことなく気まずい思いを抱えていたのだった。
 諏訪子の箸の進みが悪いことに、二人は当然気付いていたのだが、敢えて口に出して指摘することはなかった。
 時が来れば、きっと話してくれるだろうという信頼がそうさせていたのだった。
 しかし、気を張りっぱなしで、周りが見えていない今の諏訪子には、その二人の密かな心遣いなど、知るよしもなかった。
 その後も、相変わらず口をもごもごさせるばかりで、夕飯が一向に進まない諏訪子へ、何気ない風を装って神奈子が酒瓶を差し出した。

「諏訪子、どっかで何か食べてきたんじゃないのかい? だからお腹が減ってないんだろう。それだったらどうだい、一杯付き合ってくれないか?」

 当然そんなことはなかったのだが、何となく断りかねて、諏訪子は神奈子に注がれるまま、諏訪子は杯を傾けていた。
 決して酒に弱い方ではないが、今日は悪酔いしそうだと言うほど、酒も不味く感じていた。

「そんな不味そうに呑むこともないだろう。それとも私のお酌じゃ不満かい?」

 面倒臭いなこの酔っぱらいは。思わず諏訪子はそう思っていたが、口には出さなかった。
 そのかわりに無言で杯をお神奈子の前に出すのだった。

「お、いいねえ。諏訪子から呑むって言うんだったら、注いでやらないといけないね」

 嬉しそうに酒を自分の杯に注いでくれる神奈子を見ながら、諏訪子はどこまでも無表情だった。
 こんなやり取りを何度か繰り返したところで、諏訪子ははたと気付いた。
 正直、このまま呑んでいたら間違いなく悪酔いする。
 彼女はそう思っていた。杯を置いて、畳に体を投げ出すように横になった。

「行儀が悪いよ、諏訪子」

 神奈子からさっとそれを咎めるような声が飛ぶ。

「ああ、ごめんごめん」

 そう言って起きあがった諏訪子を見て、神奈子は何か気になるところがあったのだろう、訝しげに眉を寄せた。
 だが、口に出してそれを厳しく問いただすようなことはなかった。

「ところで、遅かったのはどうしてなんだい?」

 そんな風に何気ない口調で神奈子は尋ねたのだった。

「ん? 蛍狩りしてたら時間を食っちゃった」

 諏訪子はその変化には気付かないまま素直に答えた。

「蛍狩りねえ。なかなか風流なことをしているじゃないか」

 文字通りの蛍『狩り』であったことは、諏訪子は指摘しなかった。
 わざわざ言って、物議を醸し出す必要もないはずだ。
 そう思って彼女は、自分の言葉の反応を見るように、さり気なく神奈子の様子を窺っていた。

「ん? 何かあたしの顔に着いてるかい」
「いーや、なんでもない」

 いかにも何もないというような素振りをしたが、上手くいったのだろうか。
 諏訪子には判断できなかった。
 だが、神奈子は不審な様子も見せず、むしろ彼女の行動を羨ましがるような態度を見せていた。

「おかしな奴だねえ。それはそうと、今度はあたしや早苗も連れてきなよ」
「えー、どうせあんたは酒の肴にするだけだろ? ちったあ風流だけを楽しんだらどうだい」

 自分も含めて、一見いつもの守矢神社の光景に戻ったような気になったので、諏訪子は安心して軽口を続けた。

「花鳥風月を愛でながら酒を飲む。これもまた風流だよ。
 それにここは幻想郷だよ、酒無しでいいはずが無いじゃないか」

 遺憾なく益荒男っぷりを発揮する神奈子の言葉だった。
 この呑兵衛め、と思いながら諏訪子は苦笑していた。
 その諏訪子の笑い顔に、神奈子は少しだけ安心したような表情を作り言葉を続けた。

「まあ、何にしてもいいじゃないか。ここは幻想郷だよ、楽しまなきゃ損ってもんだ」

 そう言って豪放な笑いを浮かべると、神奈子は諏訪子にこれが最後だよ、と言いながら酒瓶を差し出すのだった。
 諏訪子はしょうがない奴だ、と言いながら杯を差し出すと、杯一杯の酒を飲むのだった。
 今夜初めて、美味いと思える酒だった。
 深夜、床に就いてからも、諏訪子の心は靄が掛かったように晴れずにいた。
 暗い天井を見つめながら、問題にもならない問題についてじっと考えていた。
 けれどまとまるはずもなく、ただグルグルと同じ所を彷徨した挙げ句、同じ所に戻るのだった。
 強引に目を閉じて、寝返りを打ったとしても、やはり思い浮かぶのはあの蛍妖怪の涙だった。
 その情景を消そうと、何度か寝返りを打っていると、障子の外から微かな音が聞こえてきた。
 シトシトと葉っぱに水滴が当たる音に目を開く。

「雨か……」

 諏訪子は、布団に潜ったままその音を聞いていた。
 閑かな雨音が、少しずつ彼女の思考に方向性を示していってくれるようだった。
 障子の方を見ると、外はまだ深い闇に包まれていた。
 諏訪子は何故これほどまでに、自分が思い悩んでいるか分からないままだった。
 蛍妖怪に対して罪悪感を感じているか。
 否、そうではない。
 幽香の言葉に揺さぶられたからか。
 否、そうではない。
 このまま答えが出ないままでよいか。
 否、そうではない。
 やはり、その答えを出さなければならない。
 諏訪子ははっきりと心に決めていた。
 そうやって考えがまとまると、一つ欠伸が出た。
 どうやら、彼女にようやく遅い睡魔が訪れてくれたようだった。
 再び目を閉じると、彼女は程なくして穏やかな眠りに落ちたのだった。
 翌朝、寝苦しい思いをしたわりに、目覚めは爽やかなものだった。
 昨晩降った雨の跡も、初夏の早朝をいっそう際だたせるアクセントになっていた。
 布団をたたんで、自室を出るととりあえず顔を洗った。
 冷たい水が思考を透明にしてくれた。
 彼女はある決意を持って、一目散に外に向かうのだった。
 境内に出ると竹箒を持ち朝の掃除をしている早苗に出会した。

「おはようございます、諏訪子様」

 そう声を掛けられて、諏訪子は思いがけず戸惑ってしまった。
 早苗にとっては朝の日課であるから当たり前の行動なのに、彼女にはそう考えられなかったからである。

「ああ、おはよう、早苗」

 諏訪子は、内心の動揺を隠すかのように、出来るだけ何気ない様子で返事をした。

「今日はご機嫌がよろしいみたいですね?」

 そんな諏訪子の心持ちを知ってか知らずか、軽く首を捻りながら、早苗はそう言った。
 思いも寄らなかったその指摘に、彼女はさらに驚かされていた。

「え!?」
「いえ、昨晩はどこか鬱ぎ込んだように、暗い顔をなされていたので、どうしたのかなあと思っていたんですよ。
 でも、今日は吹っ切れた顔でしたから、ホッとしました」

 心の底から安心したような口調に、諏訪子は胸の内が暖まるような気がしていた。

「あはは、そう見えたかい?」
「ええ、神奈子様も口には出されませんでしたが、心配されていたみたいですよ」

 その言葉に、諏訪子は昨晩の神奈子の様子を思い返す。
 不自然なまでに酒を勧めてきたのはそのためか、と今更ながら思い当たっていた。

「神奈子が?」
「ええ。先にそのことに気付かれたのも、神奈子様ですし」
「ふーん」

 見透かされていたことに気恥ずかしさを覚え、思わず諏訪子はつっけんどんな態度を取っていた。
 その様子に、早苗から忍び笑いが漏れていた。

「今日も遅くなられるのですか?」
「わかんない。まあ、心配させるといけないからそういうことにしておいてよ」

 煮え切らない諏訪子の言葉に、早苗は特に表情を変えず、にこやかな笑顔を浮かべたままそう言った。

「かしこまりました」
「んじゃ、行ってくるね」

 そう言うと諏訪子は、早苗に背を向けて手をヒラヒラさせながら鳥居をくぐって行くのだった。
 勢いよく神社を出てきたのは良かったが、諏訪子に心当たりはまるでなかった。
 しかも、まだ朝である。蛍の時間までは、かなり間があった。
 まあ、のんびりとやろうかね。
 諏訪子はそう独りごちると、フラフラと幻想郷の空を浮遊するのだった。
 太陽が中天に上ってから暫くたった頃だった。
 お目当ての者に会えぬまま、ただひたすら飛び回っていることに、諏訪子は徒労感を覚えていた。
 彼女の背後から声を掛ける者がいたのは、そんな時だった。

「あらあら蛙さん。お散歩ですか?」

 嗜虐心に溢れた声。振り返らずとも誰が話し掛けてきたか、諏訪子はわかった。

「また貴方? そろそろ飽きてきたよ」

 うんざりしたような返事をしながら振り向くと、やはりそこには、微笑みを湛えている風見幽香がいた。
 一見すれば聖母のような印象を受けるが、その口元からこぼれる凶悪さは隠しようがなかった。

「そうね、私も貴女の顔なんて見たくもなかったわよ」

 そう返す幽香の口元は更に釣り上がり、いよいよその凶悪さを隠すことが無くなってきていた。

「だったら何で出てきたのよ」

 徒労感からか、諏訪子の返事には切れがなかった。
 だが、次に幽香が放った一言は、そんな彼女を目覚めさせるには十分だった。

「そうですね、人助けならぬ神助けとでも言っておきましょうか」

 幽香から出そうにもなかった言葉を耳にして、諏訪子は思わず自分の耳を疑っていた。
 風見幽香が人助け。改めて考えてもいても、これほどそぐわない組み合わせはなかった。

「は? 貴方頭大丈夫。もう春はとっくに過ぎたけど、貴方の頭の中では、まだ春告精が飛んでいるみたいね」
「ふん、貴方のその頭の上に乗っているものに比べれば、随分とましですわよ」
「人の帽子の悪口を言うな」

 口汚く罵り合う中、諏訪子はある懸念を持っていた。
 幽香はもしかして私の目的をわかって出てきたのではないか。
 その疑念が彼女の頭から離れなかった。
 そしてそれは、見事に当たっていたようだった。

「誰もその帽子とは言ってないわよ。それに、早朝から夜の蟲を探しに行くような酔狂な頭は、流石に持っていないわね」

 幽香の言葉にウッと口籠もる諏訪子。彼女の目的は、この目の前の花妖怪にはとうにお見通しであった。

「図星みたいね」

 諏訪子をいたぶるかのように、分かり切った答えを再確認した。
 そして幽香は愉快そうに口元に手を当てると、彼女を嘲ら笑うのだった。
 諏訪子はそんな幽香を無視して、彼女に背を向けると、振り払うかのようにその場を離れようとした。
 それをさっと見とがめて彼女は制止する。

「何処に行くつもり?」

 その声に答えもせずに、諏訪子はその場を離れようとした。
 制止する声がその後に続かなかったので、追ってこないなと安心した時だった。
 背後にゾクッとした悪寒を感じ、彼女はとにかく今まで佇んでいた空間から体を動かした。
 一瞬間後、極太のレーザーが諏訪子の体を掠めていった。
 振り返れば、幽香がこちらに向かって日傘を突き出していた。
 その先端からはまだ微かに煙が立ち上っていた。
 目線を返して、着弾した先を見ると、大地をなぎ払った挙げ句、巨大な水柱が上げて止まった。
 あんなモノを無防備で当たっていたらと思うと、流石に神とはいえ、肝が冷える思いだった。

「止まらないと打つわよ」

 そう言った幽香に対して諏訪子の思いは一つだった。
 打ってから言うなよと。
 冷や汗を流しながら、諏訪子は幽香の方に向き直って言った。

「別に何処だっていいだろう。貴方には関係ないよ。大体、打ってから言うなよ」
「そうね、私には全く関係ないわね。貴女が見つけられず途方に暮れる様を見て楽しむだけだから」

 幽香は、諏訪子の苦情など意に関した様子はなかった。
 それどころか、開き直るような発言までするのだからたまらない。
 唯我独尊を地でいく幽香に、諏訪子は心底嫌気が差したような長嘆息をしたのだった。

「本当にいい性格をしていることで」

 諏訪子の精一杯の皮肉すら、幽香には全く伝わっていないようだった。
 その言葉に嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

「ありがとう。よく言われるわ」
「だから褒め言葉じゃないって」

 こいつと話すといつも勝手を狂わされるな、と諏訪子は長歎した。
 そんな彼女のことなどお構いなく、幽香は更に言葉を続けた。

「手を貸すのはこれっきりですから、後は自分で何とかしなさい」
「だから誰も頼んでないって」
「桃色のスターチス。前に差し上げたジャスミンと共に、貴女にはその花を贈るわ、花の美しさに感謝しなさい」
「は、何のこと」

 相変わらず花言葉で話し掛けるのはやめて欲しい。
 そう思って、諏訪子は問い直すが、素直に答えるような相手ではなかった。
 幽香はフンと鼻で笑っただけだった。

「わからなければそれでいいわ。ではごきげんよう」

 結局、幽香は好き放題言って、ぷいっと姿を消してしまった。
 一体全体、あいつは何がしたかったんだ。
 そう思って諏訪子が振り返ると、彼女の意図を少しだけ理解することが出来た。
 幽香が先刻放った極太レーザーの跡は、別に何か大地に傷跡を残したわけではなかった。
 その通った跡が、花の道になっていることを除けばであるが。
 そしてその花の道は、一つの湖へとつながっていた。
 所謂、霧の湖と呼ばれるうっそうとした湖である。

「本当にお節介な奴」

 そう言うと、諏訪子は幽香の放ったレーザーのせいで、急激に咲き乱れた花の道を通るために、大地に降り立ったのだった。
 時間もあるのでのんびりと花の道を歩いていたら気が付くと、空は薄暗くなっていた。
 そろそろ時間か、諏訪子がそう呟いたとき、目の前に見覚えのある妖怪の姿があった。

「ん? なんだお前か」

 先に声を掛けてきたのは蛍妖怪だった。
 嫌そうな表情を隠すこともせずに、諏訪子の方をじっと見つめていた。
 何かおかしなことをしようものならば、いつでも対応できるという感じで、緊張していることが見て取れた。

「お前ってのは酷いな。私には洩矢諏訪子と言う名前がある。そう言う貴方こそ名前は何というんだい」

 戦うつもり出来たわけでなかった諏訪子は、わざと気の抜けたような態度を取ると自分の名前を告げた。
 そして、蛍妖怪に対して、肩を竦めながら返事をするように促すのだった。

「……リグル。リグル・ナイトバグ」

 そんな諏訪子の行動に、リグルと名乗った妖怪は不審そうな目を向けていた。
 自業自得だとはいえ、嫌われたものだな、と少しだけ諏訪子は寂しい思いをしていた。

「リグルっていうんだ。耳馴染みはない音だけど、悪くない。何だか可愛らしさすら感じる響きだね」

 だからせめて、その勘気を和らげようと、親しげに話し掛けたのだが、それはどうやら功を奏したようだった。

「そう? でも蠢くって意味だよ、元々。可愛くはないよ」

 望外な諏訪子の物言いにリグルは驚いたようだった。
 棘のあった声が少しだけ優しくなり、そのかわりに嘆き混じりの溜息が漏れるのだった。

「蟲というのは蠢くモノだろう。蟲の女王たるリグルに相応しい名前だと思う」

 それでも自分の言を肯定する諏訪子の言葉に、リグルは思いの外喜びを感じていた。
 だから、本当は敵として見ていたのに、知らないうちに親しげに名前さえも呼んでしまっていた。

「ところで諏訪子は何の用? わざわざこんな所まで来て、蛍を苛めようって言うんだったら、それこそボクはどうなってでもいいから、君を止めるよ」

 リグルの変化を如実に感じた諏訪子は少し安心した。
 これで自分の目的を達成できる。
 そう思いながらも彼女は誤魔化すような返事しかできないでいた。

「私? 特に何か用があった訳じゃない。ただの散歩だよ……」

 諏訪子の言葉に再びリグルの表情が曇る。
 そして、唇をとがらして、その不自然さを追求してくるのだった。

「散歩にしては妖怪の山からは大分あるんだけど」

 自分の言葉が失言であったことに気が付くと、諏訪子は慌てて弁解を始めたのだった。
 少々テンパっていたせいか、訳のわからないような話になってしまっていた。

「うちの早苗だって、ちょっと散歩って言いながら、太陽の畑や、博麗神社に行くんだ。私がここまで来ても、何の問題もないだろう」
「それはそうだけど……。ところで、早苗って誰?」

 見知らぬ固有名詞に、リグルが首を捻っていた。慌てて諏訪子は補足説明をする。

「ん、うちの風祝って言ってもわかんないか。巫女みたいなもんだよ」

 あまりちゃんと説明しなかったが、どうやらリグルには伝わったらしい。
 ポンと手を打つと、思い出したような顔をした。

「ああ、あの緑色の方の腋巫女か。あの子なら知ってるよ、幽香さんのところで時々見るから。そう言えば、今日も昼前に見かけたなあ」
「は? 早苗を、だからか……。ということは、ああ、もう恥ずかしい」
「いきなり叫びだして、どうしたんだい?」
「いや、こっちの話だよ」

 その後も諏訪子はああでもない、こうでもないとグジグジと百面相を続けていた。それがようやく、落ち着いたところでリグルは諏訪子に向けて話し掛けた。

「ちょっとこっちに来てくれないか、見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの?」

 諏訪子の疑問にリグルは大きく頷いた。そしてそのまま、ずんずんと森の奥へと入っていった。
 すでに森には夜の帳が降りていて、花の道は全く見えなくなっていた。
 二人とも夜目が利くので、森歩きをする分には支障がなかった。
 森の奥に進むリグルを諏訪子が追う形になった。
 何処に行くんだろう。
 よくわからないまま彼女はその背中をじっと見つめていた。
 二人とも森の中を歩いている間、一言も口をきかなかった。
 別に気まずかったわけではない。
 何となくこうして静かに歩いているのも悪くない。
 そんな風に諏訪子は感じていたし、リグルもそうであると、彼女は何とはなしに思っていた。
 暫く行ったところで、ふとリグルが諏訪子の方を振り返った。

「ところでさ、諏訪子……」

 不意に振り返って自分の名前を呼んだにも関わらず、リグルが口ごもってしまったので、諏訪子は不審そうに首をかしげた。
 リグルの口元を眺めると、口の辺りが震えているのが見えた。
 何か出てくるんだろうか、と思ってはいたのだが、諏訪子は全くの無防備だった。
 だからこそ、彼女の唐突な発言に驚かされたのだった。

「…昨日は悪かった」

 リグルの重々しい口から発せられたのは、昨日の一件に対する謝罪だった。
 彼女の予期せぬ言葉に、諏訪子は大いに衝撃を受けた。
 驚きのあまり、体が石になってしまったかのようにすら感じていた。
 彼女は、程なくして平生を取り戻したが、すぐにしまったと思った。
 先を越されてしまった。
 そうも思っていた。

「何でリグルが謝るんだ? 別に私の方が悪いとは思ってないけど、あれは仕方がないことだろう」

 口ではそう言いながらも、先にリグルの方に謝られて諏訪子は自分の気持ちの行き場を失っていた。
 背中を流れるじっとりとした汗が、否が応にも居心地の悪さを増すのだった。

「そう、仕方がないことを無理に突っかかっていって、頭に血が上っていたのかな。家に帰ってよく考えてみたんだ。あの場はああするほかなかったのかもしれないけど、もっと別の方法があったんじゃないかってね」

 ぽつりぽつりと重い口からこぼれるリグルの言葉を、諏訪子はただ呆然と聞き続けていた。
 彼女の言葉が終わっても、何も言うことが出来なかった。
 無言を続ける諏訪子に向かって、またリグルは口を開いた。

「だから、ボクはこれを諏訪子に見せようと思ったんだ」

 そう言ってリグルは諏訪子を手招きすると、背中を押して前を行くように促した。
 その突然の行動に驚いたが、全く別の感動が彼女の視線を完全に奪っていた。
 諏訪子の目の前には、光り輝く湖があった。
 昨夜のリグルの弾幕による作為的なものではない。
 月や星の光より眩い自然の蛍たちの光によるものだった。
 諏訪子は一途にその光景に目を奪われていた。
 彼女の反応にリグルは満足したように腕を組んで頷いていた。

「そろそろこの子たちの季節も終わりなんだよね、本格的に夏が来る。だからみんなと最後の輪舞をしようと思ってさ」

 そう言ってリグルが手を伸ばすと、光の筋が上るように蛍が集まってきた。
 諏訪子の脇を通り抜け、彼女は湖の縁まで歩みを進めると、振り返った。
 そして、諏訪子の方を振り返って、物語の王子のような凛々しくも穏やかな微笑みを浮かべた。

「だから、一緒に踊ろうよ」
「は、何を言ってるんだ」

 リグルが手を差し出しながら言った言葉を、諏訪子は理解出来なかった。

「蛙が蛍を食べるのは、生き物だからしょうがないけれど、あんな風に残酷なことが出来るのはその美しさを知らないからじゃないかって思うんだ。だから、蛙の神様である諏訪子に知って欲しいだ。ボクたちの美しさを」
「やっぱり根に持っているんじゃない」
「ははは、まあそうなんだけどね。でもそれだけじゃないよ。楽しいよ、踊ると」

 そう言ってリグルは、再び諏訪子へと手を差し出した。
 そして、一緒に踊ろうと促すのだった。
 差し出されたその手を見つめながら、諏訪子は掛けられた言葉について少し考え込むようにした。
 リグルの言葉は単純だった。
 だが、その単純さこそが諏訪子を救ったのだ。
 あらゆる悩みが氷解していくのを、諏訪子は感じていた。
 差し出されたリグルの手を諏訪子は取った。そしてまじまじと彼女の顔を見つめる。
 出会った時と同じ美しい瞳だった。
 怒りに曇ってもいないその瞳は、本当に宝石のようだった。
 ああ、そか。諏訪子はふっと胃の腑に落ちるように納得した。
 私はこの瞳に最初から惹かれていたんだ。
 凛として、真っ直ぐ前だけを見つめるこの紅玉。
 いつまでもこの光で私を貫いて欲しい。そんな風に彼女は思っていた。
 不意にリグルが顔を赤らめた。

「ちょっと、あんまり見つめられると恥ずかしいんだけど」

 そう言ってリグルは照れを隠すように頭をかいた。
 その仕草に、見た目にそぐわぬ少女っぽさを感じて、思わず失笑が漏れてしまった。

「何だよ。何かおかしいかい」
「いや、乙女だなあって思ってさ」

 そう言って諏訪子は艶やかな笑みを浮かべたのだった。
 それを見てリグルは再び顔を赤らめた。

「……お子様みたいな顔をしてるのに、何でこうも色っぽいんだろ?」

 リグルは小さく呟いていた。耳ざとく諏訪子が聞きつけて、問い返した。

「何か言った?」
「いーや、じゃあ、お姫様、踊りましょう」

 誤魔化すように首を振ると、リグルはお姫様に忠誠を誓う騎士のように、跪くと諏訪子の差し出した天に接吻をした。
 如何にも王子然としたリグルの行動に、今度は逆に諏訪子の方が顔を赤らめさせられる番だった。
 気恥ずかしさを押し隠すようにして二人は踊り出した。
 闇夜を切り裂く光の乱舞の中、二人はずっと踊り続けていた。
 それこそ夜が明けるまで。
三度目まして。今回は虹川姉妹を離れて、リグケロです。
これは山口県にあるリグルの郷ミュージアムで、蛍の生態というビデオを見たときに思いついたものです。
皆さんも行ってみると良いと思います。リグルが好きになること間違いないです。
と言うことで、読んでいただけたら幸いです。
久我暁
http://bluecatfantasy.blog66.fc2.com/
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コメント



0.810簡易評価
12.90あると削除
いいお話でした。
終始丁寧に描かれた文体で、作品の中の空気を感じられるようでした。
しかし諏訪子とリグルとはまた珍しいカップリングですね。
一見設定のなさそうなふたりなのに、こうも上手くかみ合うなんて。これはありです。かなりありですよ。

次回作も楽しみにさせていただきます。
13.100名前が無い程度の能力削除
良かったです。
決闘の間の緊張感が伝わってきました。
描写が丁寧で、弾幕の様子も諏訪子の心の動きも、はっきり脳裏に浮かびました。
幽香が非常に良い味を出しています。

あまりに諏訪子の性格が急転換するのが少し気になりますが、気が昂ぶっていたということなのでしょう。

ただ、ちょっとタグが似合わないかな…という気がします。