Coolier - 新生・東方創想話

わたしとあなたの七徳スプーン ~愛と友情の円錐曲線~

2011/07/16 17:36:50
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――prologue――



『おまえってさ、何をやっていても――全然、楽しそうじゃないよな』


 それは確か、地底に降りた後のことだった。
 地底から帰って、人形を返してもらって、あのモノクロの魔法使いに礼を言って。
 それから彼女は――魔理沙は私に、そう言ったんだ。

 それになんと返したかなんか、覚えていない。
 特に感じるものもなくて、適当な返事をして、それからその言葉に悩むこともなかった。
 目標があって、それに向けた研究をしている。その結果に喜ぶのならまだしも、過程に喜ぶ必要など在るのだろうか?

 そんなのはやはり、体力と時間の無駄だ。
 あの魔法使いは、少し魔女らしくなさ過ぎる。
 合理的に、効率的に、能率を上げてより多くの軌跡を踏み奇蹟を生む。
 それが魔法使いの本質だというのなら、やはり魔理沙の言葉は邪道だ。

 そう理解しているし、それで間違いだと思ったこともない。
 なのに未だに“どうでもいい”と思ったはずの言葉を覚えているのは、あの時の魔理沙の表情が、印象的だったからだろう。

 瞳が、普段よりも数回多く瞬いた。
 唇が、放つ言葉を選ぶように震えた。

 たったそれだけなのに。
 私は――何故だか今でも、あの泣きそうな顔が、頭から離れなかった。



 頭を振って、思考からあの顔を叩きだす。
 今日はどうにも、調子が良くない。

 妖怪は、月の満ち欠けが自身の力に反映される。
 人形作りに精を出す中、私は十四夜の小望月を見て、そんなことを思い出した。
 精密作業に必要な眼鏡を外し、作りかけの人形から離れる。どうにも、気分が乗らなかった。

 きっと、満月よりも一歩遅れているからだろう。
 そんな言い訳ともつかない言い訳を、思い浮かべる。
 どうせ時間はいくらでもあるのだから、のんびりとやればいいのだけれど。

「上海」

 長い間操っている人形を、たぐり寄せる。
 紺のエプロンドレスの人形で、彼女は私のお気に入りだ。
 長年使っていれば、その分操作のしやすさは段違いなのだから。

 上海を操って淹れてきた紅茶で、唇を濡らす。
 舌の上を上品な苦みが流れ、嚥下すると熱が喉からじわりと広がった。

 どうにも、新しい人形を作り始める“切っ掛け”が、私の中に訪れない。

「今日はもう、寝ましょうか?」

 上海に告げると、彼女は悩んでいる様子を見せた。
 これはきっと、私の本音。私自身の表層のちょっと下は、こんなことを考えているのだ。
 覚り妖怪でもない私は、人形を通じてその程度の所までしかわからないのだけれど。

 寝室に行って、それから魔導書でも読み更けよう。
 それでだいたいは、満足した一日とやらが得られるはずだ。
 そう思い、席を立ち、踵を返して――足を、止めた。

「上海、蓬莱、警戒態勢」

 上海に剣、喚び出した赤いエプロンドレスの人形――蓬莱に槍を持たせる。
 そのまま、小望月の光が注ぐ窓辺から、大きく下がって何時でも動けるよう体勢を整えた。

「強襲かしら?強い気配ね」

 力の強い妖怪の気配が、徐々にこの家に近づいている。
 速くなったり遅くなったり、まちまちなスピード。
 どんな移動手段を用いているのか知らないが、直進してくること以外、どの方角から来るのかわからないから満遍なく警戒しておけば良かった。

――……ッ
「来る」

 窓の外から、姿は見えない。
 空から来る訳ではないのなら、このままじっと待てばいい。
 迎撃でも、十全の力は発揮できる。

 そう考えていたが――それは、油断だった。

――ドガンッ!!
「きゃあっ!?」

 爆発したのは……地面!?
 床板を突き破り、机を押しのけ、窓際に降り立つ小柄な影。


「掘り続けて、きゅっとしてどかんとして幾星霜!やっと通じたぁーっ!」


 両手を振りかぶり、やり遂げた笑顔を浮かべ、声を張り上げる少女。
 ハチミツを溶かし込んだような黄金の髪、ルビーを煮詰めたような真紅の目。
 七色に輝く歪な翼は、いっそ美しい。

 その右手に力強く握られた銀色のスプーンに気になりはしたが、けれどそれよりも大切なことがあった。
 後から思えば、天人の緋想の剣や妖夢の楼観剣と白楼剣のようにそこにあるのが当然と言わんばかりのスプーンに、もっと注目していても良かった気がしたのだが。

 けれどそれより。
 そう、それよりも。
 私は、彼女に――魅入っていた。

「さぁ、泊めて!」

 だからだろう。
 情けなく尻餅をつきながらも、その言葉に、頷いてしまったのは。

「って、魔理沙じゃな――」
「――ええ、いいわ」

 私の言葉に、彼女は首を傾げる。
 その度に、一房だけ結われたサイドテールが、流れ星のように揺らいだ。

「ただし一つ、条件があるの」
「え?あれ?これって、誰?」
「貴女の“人形”を作りたいから、モデルになって」

 気がつけば、私は戸惑う少女にそう告げていた。
 砂煙と、月明かりと、夜空と、その中に広がる星と。
 溶け込むことはないほど鮮やかなのに、溶け込むほど煌びやかな少女。

 私は彼女の姿を、創り出してみたくなった。

「へ?魂を売れ!人形にしてやるぞ!じゃなくて?」
「ええ。ただ、貴女の人形を作らせてくれるのなら、それでいいわ」

 立ちあがり、膝を叩いて砂を落とす。
 そうして改めて見ると、彼女は数瞬迷って、それから頷いた。

「うん。魔理沙の家にいるよりばれにくいかも……よし!それならそれで、契約成立ね!」

 歪な翼は悪魔の証だろうか。
 望んで悪魔と契約を交わすとは、私も魔女らしくなったものだ。
 そんな取り留めもないことを考えながら、私は彼女に右手を差し出す。

「私はアリス。人形遣い、アリス・マーガトロイドよ。よろしくお願いね」
「うん!私はフラン。吸血鬼、フランドール・スカーレットよ。よろしく、アリス」

 手を握り返してきた彼女の手の平は、吸血鬼と名乗っただけのことはあり、冷たかった。
 そのくせ、その笑顔は、吸血鬼のくせに明るく輝かしいもの、だった。



 この日の約束から、私とフランドールの奇妙な共同生活が始まることになる。
 奇妙で、不可思議で――――なにより、満ち足りた、日々が。













わたしとあなたの七徳スプーン ~愛と友情の円錐曲線~













――1――



 人形たちに、急ごしらえの補修をさせる。
 間違って落ちて怪我でもしたら、それこそ目も当てられないからだ。
 時刻はそろそろ丑三つ時、そろそろ寝た方が良いのだろうけれど、その前にするべきことがあった。

 上海に紅茶を淹れさせて、フランドールの前に置く。
 すると彼女は、手に持つ銀色――吸血鬼なら、銀ではないだろう――のスプーンを手に、紅茶をかき混ぜた。どうでもいいが、その大匙は地下から飛び出してきた時に持っていたものではなかったか。

「それで、フランドールはレミリアの妹なのよね?」
「そうだよ。言わなかったっけ?」
「姉とよく似ていたから」
「ふぅん」

 フランドールは、一言相槌を打つと、そのまま黙り込む。
 なにか癇に障ることでもあったのだろうか?……気にすることでも、ないか。

「さて、泊めて欲しいとのことだけど、何故家から出て来たの?」

 まずは、これから聞かねばならない。
 彼女の容姿には、興味を惹かれた。
 それは間違いないのだけれど、でもやはり、紅魔館で重大な諍いを起こして逃げてきたのなら……私の手では、負えない可能性もある。

「――から」
「え?」
「お姉さまが楽しみにしていたショートケーキを、私が食べたからっ」

 思わず、目を丸くする。
 苦虫をかみつぶしたような表情で俯く、フランドール。
 そんな彼女に私は、恐る恐る口を開いた。

「それで……怒られて、出て来たの?」
「そ――――そんな、ところ」

 それは、なんとも……。
 いや、最強と名高い“鬼”の称号をもつ種族だ。
 きっと、私では理解できない深淵がそこにあるのだろう。

 そう、額を解しながら息を吐く。
 なんにしても、さほど重大なことにはならないだろう。
 それなら、少しの間泊めるくらい……いえ、それもあったわね。

「貴女は何時まで泊めて欲しいの?」
「何時まで泊まって良いの?」
「とくに期限は設けないけれど、住み込むのは止めて頂戴」

 とんでもなく長い時間でなければ、別の良い。
 もっといえば、私が彼女に興味を抱かなくなるまでは、何時までも居て構わない。
 無限ではないけれど、それに等しいだけの寿命を持つのが、私たち魔法使いだからだ。

「それなら――」

 フランドールは、ぐっと強く頷く。
 決意の込められた、揺るぎない視線。
 その先では、銀のスプーンが光を反射して煌めいていた。

「――私が、“スプーン”を極めるまで!」
「は?」

 頭上高くまでかかげてみせた、銀のスプーン。
 スプーンの使い道と言えば混ぜる・掬う・計るの三パターンだけな気もするのだが……。

「それは、なにかの比喩かしら?」
「え?アリス……知らないの?」

 なにをよ。
 そう出て来た言葉を、ぐっと呑み込む。
 なにしろ“鬼”の称号をもつ強大な妖怪。
 私の知らないスプーンの使い方があっても……おかしいわね。

「いいよ、アリス。それなら特別に、私が直々に教えてあげる!」

 フランドールはそう言うと、スプーンを掴んで立ち上がった。
 その勢いに負けて、私は椅子に深く腰掛ける。
 なんなのかしら、このノリ……。

「そもそもスプーンの歴史は宇宙からやってきたヤゴコ・ロエ・リーンによるスプーン征服が切っ掛けだったの。急激に広げられたスプーン文化は世界に浸透してフォークやナイフの立場を奪っていったわ。そうして一度は世界を手中に収めるところまでいったのだけれど、神聖ウッドスティック帝国からやってきたフ・ジワラノ・モコーンが……」
「ちょ、ちょっと待って、待ちなさい!」

 思わず、フランドールの演説を止めた。
 いくら世に疎いとか言われる家に篭もりがちな私でも、彼女の言葉がおかしいことくらいはわかる。からかわれているのだろうか?

「なに?これから三国同盟によるスプーン財閥の隆盛が……」
「いや、なんなの、その話」
「え?スプーンの魅力を語ることによる洗の……洗脳演説だけど?」
「言い直せてないわよ。そうじゃなくてっ」

 私は、スプーンの使い道について訊ねたはずだ。
 なのに、何時の間にスプーンのとんでも歴史講釈になったのだろう。

「はぁはぁ……見てアリス。この流れるような銀の楕円。滑らかに透きとおる曲線は、まるでミロのヴィーナスが奏でる尺八のように研ぎ澄まされているわ。美しい……」
「落ち着きなさい」

 ちょっと逝っちゃった目で、スプーンに頬ずりするフランドール。
 うーん……選択肢を間違えただろうか。なんかこの子、予想以上に変な子だ。

「そ、それで?スプーンの使い道は?どう極めるの?」
「あ、忘れてた。そう、そんな経緯を辿ったスプーンには、七つの用途が隠されていたの」
「七つの用途……って、そんなに使い道があるはずないじゃな――」
「――わかってないわアリス!」

 詰め寄られて、腰を引かせる。
 フランドールの息は荒く、目は潤み、頬は上気している。
 あれ?なんかこれ、誰かに見られたら言い訳のしようがないかも。

「様々な歴史を内包したスプーン。そこには、七つの大罪と七つの徳と七つの用途が秘されていた。それこそが、神道スプーン流よ!」
「えっ、神道?いやいやいや、吸血鬼的にどうなのそれ?」

 フランドールが机を叩く度に、カップが浮かび上がる。
 壊れたら紅魔館に請求しよう。というか、少なくとも床は弁償して貰おう。

「一つは万能調理器具。一つはあらゆる武術の補助具。一つは声を浸透させる超小型拡声器。一つは霊力も妖力も根こそぎ跳ね返す神秘の曲線。一つは天使の羽毛と心臓の重さを量る天秤。一つは脱獄囚御用達の万能遁走穴掘り器具!」

 おかしい。
 本来の用途である“食器”がない上に、その他だけで六個もある。
 いや、七徳スプーンだというのなら、最後が食器的な用途なのだろうか。

「最後の一つは……私ではまだ、得ることが出来ないの」
「食器は?ねぇ、食器は?」

 この子はスープを何で飲むんだろうか。
 流石に私の家では食器としてスプーンを用いて欲しい。
 犬食いは、困る。

「待って、お願いだから私でもわかるような言葉を使って」
「アリスの方こそ何を言ってるの?エスペラント語並にわかりやすいわ」
「最近幻想入りした世界共通語ね……って、そうじゃなくて」

 弾幕はブレイン。
 全ては、緻密な計算の上に成り立っている。
 それが無ければ黄金と白亜の城砦でさえ、砂上の楼閣となり果てる。

 だから私は、頭をフル回転させて事に望んでいる。
 ……なのに、この子との会話では、それが許されない。

「ねぇ、まさか貴女がスプーンを持って出現したのって――」
「ちゃんと魔理沙の家を狙って掘ったんだけどね。スプーンで。能力も使ったけど」
「――そ、そう」

 こうなると、もう二択だ。
 一つは、この子は相当妄想が好きなアレな子だということ。
 一つは、スプーンには本当にそんな用途があるということ。
 そしてこの場合、よほどの事がない限り、後者はあり得ない。

 長いこと幽閉されていたというし、そこか変になってしまったのだろうか。

「いったいどこでそんな知識を仕入れたの?夢の中とか、なんか、そんな……」
「パチュリーが教えてくれたの」
「えっ」
「えっ」

 パチュリー……パチュリー・ノーレッジ?
 紅魔館地下大図書館の主にして、賢者の石を自在に操る七曜の魔女。
 その魔法使いとしての実力は抜きん出ていて、合理的な思考と理知的な目で全てを佇みながら見通す、知識と日陰の魔女。

 そんな彼女が与えた、知識?

「『パチュリー様に聞かれたのですね。それでは、仕方ありません』……そういって、美鈴も私にスプーンの使い方を教えってくれたわ」
「あらゆる武術の補助具ってあれね。そう」

 紅魔館勢が揃って教えた知識。
 それはきっと、本来ならば私では触れることの出来なかった技術かもしれない。
 あの七曜の魔女、パチュリー・ノーレッジの魔法の淵源が、そこに……あるはずがないか。

「私にも納得できるように、説明して欲しいのだけれど」
「お姉さまのスペルに、“デモンズディナーフォーク”っていうのがあって……」
「ああなるほど。わかったわ」

 つまり、対抗心か。
 姉に対する反発、それが形となって表現されたのがスプーンだった。
 目を逸らして頬を掻きながら告げたフランドールに、私は息を吐く。

「だから私は、スプーンを極めようかなって」
「極め方に問題がありそうなものだけれど、それはまぁいいわ」

 そろそろ、朝焼けが見えようとする時間。
 不老長寿の妖怪だとはいえ、普段の習慣では寝ている時間だ。
 そうなれば当然、身体は日常のサイクルを要求してくる。

 ようは…………眠いのだ。

「私の部屋の向かいが空き部屋だから、そこを使って。家具は壊さないように」
「はぁーい」

 間延びした返事に、頷く。
 それから私は踵を返して、フランドールに背を向けた。
 だからだろう、彼女の言葉を、聞き逃したのは。


「そう、それだけ。それだけ……だから」


 眠気に任せて、部屋を出る。
 それから少し遅れて、私の後に小さな足音が続いた。
















――2――



――キェェェェェ、キェェェェェ

 瘴気にやられた雀の、パワフルな鳴き声で目を醒ます。
 昨晩何時に寝ようと、この森は安息を許してくれない。
 魔法使いにとって最高の環境であるのと同時に、人の習慣を続けるには最悪の環境なのだ。

「上海」

 起き上がって、上海に持ってきて貰った服に着替える。
 お気に入りの青いワンピースを着て、白いケープをリボンで留めればいつもの私の完成だ。

「さて――」
――ドゴンッ
「――っなに?」

 足下から伝わる振動。
 爆音に、目を瞠って発信源を探る。
 大江戸でも誤爆した?いや、もっと重要な何かを忘れているような気が…………ぁ。

「そういえば」

 ドアを開け放ち、廊下を走る。
 音が響いたのは、彼女が昨日出て来た“穴”がある、リビングの方角だった。

「フランドールっ?」

 走って、リビングに入ると、昨日補修した床が破られていた。
 被害が拡大されないように床の破壊は補修部分のみに留めているけれど、そもそも木材が無駄になってしまうので、面白くはない。

「何をやっているのよ、もう!」

 朝からこれじゃあ、先が思いやられる。
 そう思いながらも、魔法で灯りを点して穴を覗き込んだ。
 暗い穴の奥が徐々に照らされていき、そうしてその底に、歪な七色を見つけた。

「ちょっと、なにやってるの?」
「あ、アリス。いやぁ、地下室から続く穴を破壊するのを忘れてたから、こう、きゅっと」
「いやいや、地盤沈下したらどうするのよ」

 紅魔館からここまで、相当な距離がある。
 その間の地下道を崩したとなれば、地表がどうなるかわからない。
 永遠亭の悪戯兎ってレベルじゃない落とし穴なんか使ったら、霊夢になにを言われるか。
 迷い人を家に泊めるフリをして落とし穴に導くなんて噂が立つのは、御免だ。

「とにかく、上がってきなさい」

 そう言って、手を伸ばす。
 伸ばしてから“飛べるじゃない”と気がつきはしたが、引っ込みがつかなかった。

「うん、ありがとう。アリス」

 それなのに彼女は、嬉しそうに笑う。
 笑って、冷たい手で私の手を握り、穴から這い上がった。
 ……本当に、よくわからない子だ。

「事が済むまで、ここは開けておいた方が良さそうね」

 ぽっかりと開いた穴。
 また破られてはたまらないから、もうこれはこのままで良いだろう。
 私自身が落ちないように気をつければ、それで良いのだから。

「ぁ、アリス。床を壊しちゃって、その」
「その、なに?」
「怒ってる?」
「当たり前でしょう。これきりにしなさい」
「ぁ、うん。ごめんね。アリス」

 いやに、素直だ。
 これが彼女の地なのだろうか。
 なんにしても……謝るひとをいつまでも責める趣味は、ない。

「ほら、もう、こんなに汚して。シャワー……は、ダメか。今濡れタオルを持って来させるわ」

 取り出したハンカチで、フランドールの頬を拭う。
 人形のようだと思ってしまったせいか、綺麗にさせてあげないと気が済まない。
 私の、悪い癖だ。

「ありがとう……ええと、しゃんはい?」

 フランドールが訊ねると、上海はスカートの裾を摘んで頭を下げた。
 それに、フランドールも同じような礼を返す。

「今日から暮らしていく上で聞いておきたいことがあるんだけど、良いかしら」
「あ、うん。なに?」
「血液は用意できないけど、どのくらい持つ?まぁいざとなれば、なんとかするわ」

 指先を切るのは嫌だから、手首から摂るか?
 うーん、直接吸わせるのは危険すぎるし、場合によっては永遠亭から注射を買うのも良い。
 なんにしても、人間を襲ったら、その時点で霊夢からの夢想妙珠→夢想天生のコンボが確定してしまう。

「あ、当分大丈夫。というか、血に狂うほど若くもないし」
「違和感のある台詞ね……いえ、それならいいわ。食事は?」
「なんでも食べられるよ。お姉さまみたいに、ドレッシングをかけないとブロッコリーが食べられないなんて事はないわ」
「それはカミングアウトしてあげないほうが良かったと思うわ」

 余計な情報が、増えていく気がする。
 紅魔館に詳しくなっても、それほどあそこの住人と関わることもないだろうに。

「部屋割りは昨日の通り。一日に数時間、人形作りの協力をしてくれれば、あとは自由に過ごして構わないわ」
「うん。デモンズデザートスプーンが火を噴くわ」
「噴かせないでね」

 ああ、忘れてた。
 考えないようにしていた、でもきっと間違いではない。
 銀のスプーンを持ってにたにたと笑う彼女は、なるほど狂気に満ちていた。

「朝食は……簡単なもので良いわね」
「私も手伝うよ?料理できないけど、呑み込みは良いから」
「自分で言う事じゃないわね」
「えへへ」
「褒めてないからね?」

 照れて頭を掻くフランドールを見て、息を吐く。
 ため息が急激に増えたような気がして、ならなかった。
 幸福が芋蔓式に逃げていきそうだ。……はぁ。

「料理は人形に任せてあるから、手伝うことはないわよ」
「そう、なんだ」
「そう。だから大人しく待ってなさい」
「うん」

 この間に、今聞きたい事を全て聞いておこう。
 逐一聞くよりも、最初に聞いておいた方がスムーズに一日を進められる。
 そうすると、人形作りの能率も上がるのだ。

「睡眠時間は?夜寝て朝起きる……で、大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。お姉さまに出来て私に出来ないはずがない!って思ってたら、生活習慣が変わっちゃったの」

 それでいいのか夜の支配者。
 いえ、深く考えるだけ無駄ね。

 レミリアが霊夢たちに合わせて昼間に起きるようになったのは知っていたけれど、フランドールもだったのね。
 朝に起きる悪魔というのも、不思議だけど。

「私からの注意事項としては……家具や調度品なら諦めもつくけれど、人形だけは壊さないで」
「う、うん」
「これは、絶対よ」
「うん……わかった」

 弾幕ごっこのためでない人形は、そのほとんどが壊れやすく、換えがきかない。
 そもそも愛着があるものばかりだし、壊されでもしたらたまらないから。

「他に言っておきたいことはある?」
「外出は?」
「うーん……近場で、私同伴ならいいわ」
「やった!」

 縁起に幽閉が終わった後も館から外へ出ては居ないって書かれていたし、紅魔館ではなにかしらの誓約がかかっていたのだろう。
 ……そう考えると、許可を出したことが不安になってきた。

「……っと、できたみたいね」

 人形たちが料理を運んできたので、それを並べさせた。
 コーンスープにバターロール、スクランブルエッグとサラダ。
 特製オリーブドレッシング、アールグレイティー、林檎の切り身。

 うん、短時間で作ったにしては豪勢だ。

「おお!」
「ずっと使ってたスプーンは汚れているだろうから、用意した方を使いなさい」
「わかってるよ。だってこのスプーンは七徳用だし」
「そ、そう、ならいいわ」

 なによ、七徳用って。
 だから食器という本来の用途が省かれていたのね。

 バターロールを千切りながら、今後のことについて考える。

 とりあえず、人形作りだ。
 彼女が私の、人形に対する新しいアプローチになることは間違いない。
 その結果がどのように繋がるかはわからないが、だからこそやる価値はある。

「美味しい!」
「レシピどおりに調理すれば、まずくはならないわ」
「レシピどおり……ふぅん」

 スプーンでスクランブルエッグを食べて、スプーンでサラダをつつく。
 なにも林檎を食べるのにまでスプーンを使わなくても良いのに……。

「ああ、林檎美味しい。スプーン美しい。このスプーンはアリスが林檎?」
「そうね。スプーンの彫金も私が……へ?林檎?」
「やっぱりそうなんだ!すごく素敵!」
「え?流しちゃうの?」

 フランドールは、私の疑問には答えず林檎を楽しんでいる。
 美味しいのは良いことだが、何で嬉しそうなんだろう?

「なにがそんなに嬉しいの?」
「美味しいものを食べると、心が満ちるから!」
「ふぅん?美味しいは、美味しいでしかないと思うけど……まぁいいわ」

 変なことを言う子だ。
 スプーンフェチ的な所を見ても、やはりちょっとどころではなく変な子なんだろう。

「ごちそうさま!」
「お粗末様」

 人形に食器を片付けさせて、それから満足げに頬を緩ませるフランドールに向き直る。
 上海にスケッチブックを持って来させて、早速ファーストステップに取りかかるのだ。

「フランドール、そのままじっとして」
「へ?絵を描くの?」
「人形作りのためのデッサンよ」
「へぇ……楽しみにしてる!」

 吸血鬼は、鏡に映らない。
 だから、自分の姿を見ることが出来るのが新鮮なのだろう。
 けれどすぐに飽きそうなものだから、なるべく早く仕上げようかしら。

 大胆に筆を走らせていく。
 満腹になった後だから、静かなものだ。
 私よりも遙かに年上な筈なのに、落ち着きがないというのもどうなの、とは思うけど。

「動かないで」
「はーい」

 羽と足が動いてしまうのはまぁ仕方がないとしても、表情がくるくる変わるのはいただけない。
 とりあえず特徴さえ掴めばそれでいい気がするけど……。

 デッサンの音だけが、午前中の部屋に響く。
 人形たちが食器洗いを済ませて、他の家事に取りかかり始めた頃。

 漸く、私の手が止まった。

「表情が掴めないけど……まぁいいわ」

 特徴だけは、掴んだ。
 そうすれば、後からどうとでもなるだろう。

「終わった!?それなら、外へ行こう!」
「え、ええ、あ、ちょっと!日傘がないと駄目なんじゃないの?」
「ぁ」

 気がつかなかったのね。
 それにしても、日傘か……確か、人形の小道具の資料に、買ってあったはずだ。
 それを引っ張り出してくればいいだろう。

 上海と蓬莱に探させて、その間に気まずげなフランドールと紅茶を飲む。
 手持ちぶさたになりながらも、最初から持っていたスプーンだけはしっかり持っている。
 日光を反射して、銀光に煌めくスプーン。直接浴びなければ、日光も平気なのだろうか。

「準備できたわ、行きましょう」
「へ?もう!?」
「驚くほどの事じゃないわ。というか、準備云々だったら咲夜の方が早いでしょうに」
「あ、いや、つい」

 日傘をフランドールに持たせて、人形にカップの片付けを命じる。
 吸血鬼にとっては悪天候といえるであろう晴天も、私にとってはそうでもない。
 たいして感じ入るところはないけれど、健康に良いことは確かだから、倦厭するものでは無い。

 さて、意義のある散歩になれば良いけれど。
















――3――



 一つ、わかったことがある。
 彼女の特性、というものが。

「ほらアリス、あの花すごく綺麗だよ!」
「良い色合いね。この辺りに群生しているのかしら?」
「素敵だなぁ」

 ――素敵。
 花を見て、心が躍る?
 たかが花、しかも野生の雑多な花なんて、紅魔館の庭園には遠く及ばない。

「風が涼しい。生き返るっ」
「はしゃいでいたら涼しくもないでしょうに」

 ――生き返る。
 風を浴びて、心が澄む?
 そんなのは勘違いだ。心なんて、曖昧なもの。

 彼女は、世界の全てに一喜一憂して見せた。
 なにがなんでも楽しんでやろうとしているのか、それとも心の底から愉しくて仕方がないのか。
 スプーンなんかに心躍らされるだけのことはある。

『おまえってさ、何をやっていても――――』

 声が、脳裏で谺する。
 あの時の、魔理沙の言葉。
 彼女の言葉を、どうして今、思い出したんだろう。

 私は、何に躓いているんだろう。
 私は、何を思い出しているんだろう。
 私は、何が足らないと、感じているんだろうか?

「アリス、ほら、こっち!」
「あ、ちょ、ちょっと!」

 フランドールが、私の手を引いて走る。
 その手は小さくて、冷たい。



 不可思議なキノコに驚き。
 小川を泳ぐ見たこともない魚に首を傾げ。
 沸き水を飲むのにスプーンを使って、摂取量の少なさに苦労して。



 なんでこんなに、無駄な行動が多いのだろうか。
 目的を果たすことだけに、力を注げばいいのに。

 それ以外のことに、意味なんか無いはずなのに。

「ねぇ、アリスはどう思う?」
「え?ぁ、ええっと……?」
「もう、聞いてなかったの?」

 腕を組んで、人差し指を立てる。
 無駄に偉そうな辺り、彼女の姉によく似ているように感じた。
 レミリアも、一々無駄に偉そうなのだ。

 案外、姉妹で“無駄を好む”というだけな気がしてきた。

「だから、スプーンの最後の用途って、何だと思う?」
「ああ、それね。そもそも、他の用途とやらは出来るの?」
「それは追々考えるから、いーのっ」

 出来ないのね。
 いえ、出来たら出来たで困るわね。
 あらゆる霊力や妖力跳ね返すスプーンなんて、御免だわ。

「だったら、それも追々考えればいいじゃない」
「まぁ、そうだけどさぁ、でもやっぱり考えておきたいし」
「どうしてそんなに、突飛な使い方に拘るのよ?」

 私がそう問うと、フランドールは口を噤んだ。
 それからゆっくりと、尻すぼみな声を出す。

「それは、だから!お姉さまに対抗する為に七徳のスプーンで、その」
「そういえばそう言っていたわね。はぁ、まぁいいわ」

 たいして興味も、なかったし。
 私はその言葉を呑み込んで、フランドールに手を伸ばした。

「え、ちょ、アリス」
「もう戻りましょう。暑くてかなわないわ」

 木陰でむくれる彼女の手を引いて、歩く。
 そうするとフランドールは、慌てて日傘を差した。
 たったそれだけで、先程まで曇らせていた表情も何のその。

 木陰から日向という周囲の景色の転換に、頬を綻ばせた。

「アリス!」
「なに?」
「楽しいね!」

 楽しい、か。
 本当に、わからない。
 楽しんで生きることの意義が、意味が、価値が。



 きっとこれが、彼女の特性。
 世界の全てを、己の内側で喜びに変える。

 なんともおめでたいことだとは思うけれど――どうしてだか、その姿が、あの黒白魔法使いのものと……重なった。
















――4――



 それからは、なんとも慌ただしい日々だった。
 フランドールは、まるで始めて空を知った蝶々のように、あらゆるものに興味を持った。

 見るもの全てに喜びと興味を示す、彼女の姿。
 その姿に、私はただ引き摺られることしかできなかった。

 ある日私は、彼女から話を聞いていた。
 リビングでクッキーを摘みながら、紅茶を飲む。
 午後三時ののんびりとした時間だ。

「それでね、パチュリーが言ったの!スプーンは大局を担うタクトなんだって!」
「そう。パチュリーが冗談が下手だと言うことは、わかったわ」

 彼女は図書館で過ごすことが多いらしく、まずはパチュリーの話だった。
 スプーンのトンデモ用途の一つ、“霊力も妖力も根こそぎ跳ね返す神秘の曲線”は彼女から教わり。
 更にその後、小悪魔がフォローをするように――事実、方向性を間違えたフォローだったのだろう――もう一つ、“天使の羽毛と心臓の重さを量る天秤”を教えてくれたのだという。

「それを美鈴に言ったらね、美鈴も教えてくれたんだ!」
「そう。とりあえずあの門番、案外とおちゃらけているのね」

 美鈴が教えたのは、二つ。
 それが、“あらゆる武術の補助具”と“脱獄囚御用達の万能遁走穴掘り器具”だという。
 正直、一番厄介なことを教えてくれたように思えないこともない。

 たまには、魔理沙と一緒に門をぶち破ろうかな。

「それで、今日の計画を練ってたら、咲夜も教えてくれたの」
「咲夜も?」
「そう!『も、もちろん知っていますわ』って」
「うん、そうね。知ったか……いえ、なんでもないわ」

 咲夜が教えてくれたというのが、残りの二つ。
 そう、“万能調理器具”と“声を浸透させる超小型拡声器”なのだという。
 後の方は慌てて付け加えたらしいから、きっと前者が平凡すぎたからだろう。

「あとは最後に、私だけの用途を見つけるんだっ」
「そう、まぁ、応援だけしているわ」
「うんっ!ありがとう、アリス!アリスもこれだっ!って思ったら、教えてね!」

 フランドールはそう言うと、私の腰に抱きついた。
 思わず紅茶を手放しそうになるが、そこはなんとか堪える。
 本気で抱きつかれていたら、背骨が折れていたかも知れない。
 そう考えると、薄ら寒くもある。

「ちょっと、危ないから離れなさい」
「あ、うん」

 フランドールはそう言うと、ぱっと離れて席に座り直した。
 そうしてからまたクッキーを囓って、はにかむ。

「甘いものを食べると、幸せだね」
「幸せ?甘いものは美味しい、じゃなくて?」
「そうだよ!少女なら、みんな幸せを感じるんだぜって……」
「……魔理沙ね」

 あの子はアレで少女チックなことを言う。
 図書館を度々襲撃している彼女なら、フランドールと弾幕ごっこをする機会もあるだろう。

 けれど、それだけだ。
 聞けば聞くほど彼女の“世界”が見えてくる。
 幽閉から解き放たれてもなお、館での軟禁が続いているのか。

 紅魔館で、全てが完結していた。

「レミリアは、どうなの?」
「お姉さま?お姉さまは、優しい、よ」
「へぇ?あのレミリアが、ねぇ」

 吸血鬼らしい傲慢さ。
 その強大な力を余すことなく使ったスペル。
 そんな彼女が、まさか“優しい”なんて、言われているとはね。

「もちろん、アリスも優しいと思うよ」
「私?私はべつに、優しい訳ではないわ」
「でも、床を突き破って出て来た私を、迎え入れてくれた」

 フランドールはそう、紅茶を傾ける。
 喉を小さく動かして、嚥下すると、今度は照れたようにはにかんだ。

「私がスプーンを極めたいって言っても、笑わなかった」

 頭の心配はしたのだけれど。
 まぁ、口に出しては居ないけれど、それだけだ。
 そんな本気で取り組んでいる事を笑えば、報復があるかも知れない。

 そんな風に思った――だけ。

「優しくなんか、無いわ」
「優しいよ。うん、すごく優しくて、そういうところ、私は好きだよ」
「ふぅん」

 それしか、返すことができなかった。
 ただ、彼女の笑顔を見て、目を逸らすことしかできなかった。
 いつもみたいに受け流すことすら、できなかったのだ。

「新しい紅茶を、淹れるわ」
「うんっ。ありがとう、アリス」
「どういたしまして」

 あからさまなため息をついて、人形ではなく自分で紅茶を淹れに行く。
 どうしてそうしようと思ったのか、そんなのは、自分でもわからなかった。

 西に傾き始めた太陽が、窓辺を通りかかる私を照らす。
 その眩しさに目を眇めて、思考に光を照らそうとした。

 けれども太陽は、私に何の答えも与えてくれなかった――。
















――5――



 あらゆるものに一喜一憂を、繰り返す。
 そんな感情と始めた共同生活も、今日で七日も経った。
 あっという間だったようにも、長かったようにも思える。

「疲れたことには、違いないけど」

 ひたすらスプーンについて語り、ひたすら感情的に生きる。
 フランドールはそうして、この一週間を過ごしてきた。
 本当に、どこからあんな力が沸いてくるのか。

「ダメね。どうしても、上手くいかない」

 そうして彼女に引っ張り回されていた私は、人形作りに躓いていた。
 何度作り込んでも、何度失敗作を生み出しても、何度試行錯誤を繰り返しても。

「“顔”が、できない」

 あの日見た、歪な翼と金の髪に彩られて輝く、綺麗な顔。
 人形にしっくりと来るその表情が、どうしても思い出せない。
 人形に合致するであろうその顔が、どうしても思い浮かばない。

「また、ダメ」

 人形を、机に置く。
 そろそろ彼女たちも、別の人形に流用して、生き返らせてあげないと。

「息抜きでも、しようかしら」

 紅茶を混ぜる為のスプーンを手に持ち、照明に掲げる。
 こんな小さな、力ないものに、どうしてそんな大それた幻想を抱くのか。
 スプーンは、万能なんかじゃないのに。

「考えていても、無益でしかないわね」

 立ち上がって、リビングに移動する。
 少しだけ開け放たれた扉からは、光が漏れていた。
 気がつけばもう真夜中、ならフランドールが起きているというのも変だ。

「フランドール?あなた、なにを――」
「――ぁ」

 フランドールが持つ、人形。
 飾ってあった人形でも手に取ったのか――――その人形は、腕が根本から取れていた。

「っ」
「あの、これは、その……きゃっ」

 走って、フランドールの手から人形を奪い取る。
 脆い人形は、少しでも力を込められればこうなってしまう。
 それはわかりきっていたことで、だからこそリビングから退かしておくべきだった。

「あの、アリス、私」
「触らないで!」
「ぁ」

 材質が歪む前に直せば、どうにかなるかもしれない。
 私は伸ばされた手を払いのけると、工房へ走った。
 すぐに失敗作のパーツを流用してあげないと!

 もう、背後の気配のことなんか、気にしていられなかった。
 早く、直さなければならないという焦り。

「まだ、間に合いそう……っ」

 私は焦りと自分でも掴みきれない感情を胸に、工房へ飛び込んだ。



 意識を集中させて、本気で取り込む。
 人形遣いとして妖怪に、種族魔法使いになった私なら、人形の事なら誰にも遅れはとらない。

 そうして、時間にすれば僅か十五分ほど。
 すっかり元通りになった人形に、胸を撫で下ろした。
 何時まで経ってもリビングに置いておくからこうなるのだ。

「ふぅ……それにしても」

 上海や蓬莱と同じ感覚で掴んだら、壊れてしまったのだろう。
 人形に興味を持つのが悪いこととは言わないが、せめて一言欲しかった。

「はぁ、まったく。ちゃんと言い聞かせないと」

 もちろん結果的にどうにかなったというのは大きいが、一度のミスで頭ごなしに怒ることもないだろう。
 とりあえず、さっさと注意して、今日はもう休んでしまおうか。
 あんなに焦ったのは、人形作りが進まない事への苛立ちも、含まれていたような気もするし。

 なんだ、そう考えると、私もずいぶんと大人げない。

 人形を脇に置いて、リビングへ戻る。
 まず彼女に何を言おうか。そんなことを考えながら、半開きになった扉を潜った。

「フランドール?」

 けれど、部屋を見回しても、彼女の姿は見えない。
 代わりに……机の上に、メモの端切れが置いてあった。


【今までお世話になりました。ありがとう、ごめんね】


 走り書きだった。
 急いで書いたのか、それとも手が震えていたのか。
 なんにせよ、汚い字で書かれた一言だった。

「――――そう、出て行ったの」

 申し訳なく思ったのか。
 吸血鬼の癖に、怒られるのが怖くなったのか。
 それとも、こんなに震えた文字を書くほど、後悔したのか。

「はぁ、人形は完成していないけど、いいわ」

 椅子に座って、メモ書きを見る。
 何度見ても、内容が変化するはず無いのに。

「これでまた、元通り。何も変わらない、日常ね」

 考えてみれば、今までの方がおかしかったのだ。
 何の因果かスプーンフェチの吸血鬼を招いて、一緒に生活して。
 日常から大きく離れた生活に、ちょうど、やきもきとしていた。

 だからきっと、これで正しい。
 これで、正しい、はずだから。

『ほらアリス、あの花すごく綺麗だよ!』

 声が、浮上する。
 脳裏に響く声と、言葉と、笑顔。

『風が涼しい。生き返るっ』

 思い返せば、笑顔が多い。
 どうしてあの子は、こんな無愛想な妖怪と一緒に居て、あんなに嬉しそうに出来たのか。

『甘いものを食べると、幸せだね』

 微笑む、笑う、はにかむ、吹き出す。
 全部笑顔には変わりないのに、全部喜びに依る表情なのに。
 なのにこんなにも、彩りが違う。

『楽しいね!アリス!』

 それに私は、なんと返したか。

『アリスも優しいと思うよ』

 彼女は、どんな表情を浮かべていたか。

『すごく優しくて――』

 彼女は、フランドールは、私に。


『――そういうところ、私は好きだよ』


 椅子を後ろに倒しながら、立ち上がる。
 両手を思い切り机に叩きつけて、私は手紙を睨み付けた。
 まだ、それほど遠くには行っていないはずだ。

「だから?だからどうするの?私は、どうしたいの?」

 遠くへ行っていない?
 追いついて、連れ戻しでもする?
 そんな必要なんか無い。これまでが戻ってくるだけ。なにも、変わらない。

 けれど。

「勝手に出て行く必要、ないじゃない。私はもっと、貴女と――」

 貴女と?
 フランドールと、どうしたかった?

 自分で紡いだ独り言。
 空に消えるしかなかった言葉。
 なのにそれは、私の内側で響き続ける。

 私の“心”で、泣き続けた。

「――ぁ、はは、なんて間抜け。ブレインが、聞いて呆れるわ」

 もっと一緒に居たい。
 始めて、他人と共に在りたいと、望めたから。
 だから私は、もっと――――あの子の笑顔を、見ていたい。

「上海ッ!」

 上海を連れて、飛び出す。
 同時に他の人形たちにも指示を出して、展開。
 周囲一帯を覆えるように、レーダーの役割を持たせる。

「魔法の森は、道筋を知らなければ、そうそう抜けられないはず……ならっ」

 魔理沙にでも拾われれば、フランドールはそこで生活をすることも可能だろう。
 探して居るであろう咲夜にでも見つかれば、その時点で家に戻されて終わりだ。
 もしかしたら香霖堂へ迷い込むこともあるだろうが、結局は同じ事。

 彩り始めて来た世界が、私の下へ戻らなくなってしまう。

 走って。
 ――飛べることを忘れて。
 走って。
 ――枝で服を破いて。
 走って。
 ――キノコに躓き、転びかけて。

 走って、走って、走って。
 あの日の木陰に蹲る、彩り豊かな黄金を見つけた。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ…………ふ、ぅ」

 深呼吸をすると、それで私に気がついたのだろう。
 フランドールの背が、小さく震えた。

「道に迷ったのかしら?お嬢さん」

 問いかけると、ただ彼女は、頷いた。
 飛び出して、でも道がわからなくて。
 そうしてここに、辿り漬いたのだろう。

 初めて二人で散歩をしたとき、語り合ったこの場所に。

「それならちょうどいい所があるのだけれど、泊まっていかないかしら?」
「ぇ?」

 小さく、声を零す。
 そんなフランドールに私は、少しずつ、近づいた。

「三食寝台人形付き。今ならオリジナル人形もつけるわよ?」
「ぁ」

 そうして――フランドールの首に、手を回す。
 背中からそっと、抱き締めて、言葉を紡ぐ。

「ごめんなさい、しょうがないわね。そう言って、やり直せばいいわ」
「で、でも、でも、私」
「そうしたら私も、冷たくしてごめんなさいって、謝れるから」
「そ、そんなことないよ!アリスは、冷たくなんか、ない」

 私の手を、フランドールは握りしめる。
 壊さないように、傷つけないように、求めるように。

「だから、そうしたら、しょうがないねって……笑って?“フラン”」
「ぁ、りす。いいの?また、戻って、いいの?」
「あら?他にどう聞こえたのかしら?」

 フランドール――フランが、私の手から抜け出す。
 そうして、身体の向きを変えて、正面から抱きついた。
 じわり、と、私の服に熱が染み込む。

「ありがとう、それから、ごめんなさい、アリス」
「いいえ。私も冷たくしすぎたわ。だからごめんなさい、フラン」

 興味がなかった。
 他人に、自分にすら、関心が持てなかった。
 だから私は、楽しむということを知らなかったのだ。


 心にイコールしない感覚。
 心にイコールする感情。

 きっとそれが、全てを楽しむという事への、源泉。


「さ、戻りましょう?」
「うん……うんっ、アリス」

 手を引いて、踵を返す。
 これまでとは違う。これまでよりもずっと、強く握り合う。
 そうすれば絆が深まる、なんて……今まででは思いもしなかったことを、考えながら。

 味気なかった夜も、変化が起こった心で見れば、違って見えて。
 ただその瑠璃色の空が抱く優しさに、私はそっと、感謝した。
















――6――



 それからの日々は、これまでとは違ったものだった。

 花は綺麗、心が踊る。
 風は涼しい、心が安らぐ。
 お菓子は甘い、心が満ちる。

 心という不可解なロジックは、私の全てを満たしてくれた。
 私の世界を、私“だけ”のものという楔から、解き放ってくれた。



 昼になれば、一緒にメニューを考えて。

「昼食は、何が食べたい?」
「えーとね、簡単なもの、とか」
「そう、それじゃあ一緒に作りましょうか」
「うんっ」

 発展しなかった会話も、心の機微を見るようになっただけで、変わった。
 人形を休ませておいて、二人で台所に立つ。
 野菜を切って、パスタをゆでて、生クリームでソースを作って。

 習慣だから食事をするんじゃない。
 楽しいから、二人で作って、食べる。


 散歩にでかければ、見ようとしなかった風景を見て。

「あの花は?」
「コスモスね」
「あの蝶は?」
「紋白蝶よ」
「あのキノコは?」
「うーん……なにかしらね?」

 一緒に悩んで、一緒に見て、一緒に答えを探して。
 そうして正答が得られなくても、その時間は無駄なんかじゃない。
 なによりも有意義で、素敵な時間だ。


 夜は枕を並べて、遅くまで語り合って。

「うーん、つまりパチュリーは割と真面目にスプーンの活用法を考えていたのね?」
「うん。曲線に魔力を込めれば、実体のないものだったら滑らせられるんじゃって」
「その要領で拡声もできるかも知れないわね。明日、やってみる?」
「うん!あと武術の補助具だけど……握り込めば良くない?」
「それは……なんというか、物騒ね。でもそれなら私は、ブーツに仕込もうかしら」

 だんだんと瞼が落ちてくるまで、絶えず会話を繰り返し。
 どうしてそうなったかもわからないうちに、笑い合って。
 そうしたらもう、部屋に帰すのが面倒だから、そのまま一緒に寝てしまう。


 あれほど当てはめられなかった、人形の顔。

「うーん、こんなのはどう?」
「そんな緩んだ顔してないよ」
「じゃあ、こっちは?」
「え?なんで恍惚としてるの?」
「え?だってあなた、スプーンに頬ずりしてたとき……」
「あわわわっ、忘れてっ!あれは色々誤魔化したくて、そのっ」
「うーん……どうしようかしら」

 二人で考えて答えを探すと、なにも作れなかったのが嘘のように。
 何個も、何十個も、顔のパターンが出来上がった。
 全部の表情で作ってしまいたい。そんな衝動に、駆られる程度には。


 笑い合って、手を取り合って、言葉を紡いで。
 私は、フランドールという少女に、近づいていった。



 仲直りをして、二週間ほど経った、ある日。
 夜半のころ、私はフランと枕を並べて、いつものように語り合う。
 もう、いつもの、といえる程度に繰り返していた。

「ねえフラン、聞いても良い?」

 私がそう訊ねると、フランは首を傾げた。
 心の機微がわからなかった頃は、納得していたこと。
 でも今は、それでは納得できなくなったこと。

「どうしてフランは、そんなに“スプーン”に拘るの?」

 レミリアに対抗したい。
 それだけで握ったのであれば、愛着なんか持たずに雑多に使うだろう。
 けれどフランは、最初に持っていたスプーンを、変わらず握りしめていた。

 フランは私の質問に、少しの間逡巡する。
 それを私は、じっと待っていた。

「笑わない?」
「当たり前じゃない」
「そっか」
「そうよ」
「そっか」
「もちろん」
「うん」

 フランは安心から頬を綻ばせて、枕に顔を埋める。
 それから、ぽつりぽつりと語り出した。

「昔、情緒不安定で、幽閉されていた頃なんだけどね」
「ええ」

 消え入りそうな声。
 けれど、伝えようとする意志は、伝わる。

「なにもかも壊すから、誰も私に近づけなくて、私も体力を使うから、ずっとベッドに寝ていて。なにもかもが、曖昧な世界にいた」

 夢も現も。
 生も死も。
 破壊も再生も。
 全てが移ろう世界が、どれほどのものか。
 私にはただ、想像することしかできない。

「そんな中、お姉さまだけは違った。私の力にぶつかって怪我をしても、変わらず私に接してくれた。セピア色の世界の中で、お姉さまだけは真紅に瞬いていた」

 頷くと、フランは続きを紡いでいく。
 ゆっくりだけれども、それでも、想いの丈を余すことなく。

「お姉さまはね、ぼろぼろになりながら、誰も運ばない私の食事を運び続けてくれたの」

 当時は、血液無しではいられなかったから。
 そう続けたフランの顔は、嬉しそうで――悲しそうだった。

「動けない私に、特注だって笑って言った、壊れにくい銀色のスプーンで食べさせてくれた。それが嬉しくて、優しかったから――スプーンは私にとって、すごいものなんだ」

 だから。
 だから、七徳スプーンなのだろう。
 僅かな力しか持たないのではなく、レミリアとの絆に相応しい力を持っている。

 だからフランは……そんなスプーンを、望んだ。

「あれ?それならどうして、ショートケーキの取り合い程度で……あら?」

 見ると、フランはすでに小さく寝息を立てていた。
 話が終わって直ぐに、体力が尽きてしまったのだろう。

「もう……おやすみ、フラン」

 仰向けに寝かせて、毛布を掛けて、頬を撫で。
 そのあどけない寝顔に笑顔を向けると、私も一緒に目を閉じた。



 明日からはまた、日常が訪れる。
 ――そんなことを、信じて疑わなかった。
















――7――



 翌日は、生憎の天気だった。
 吸血鬼の天敵ともいえる、雨。
 それが延々と降り注いでいた。

 これでは、外にも出られない。

「今日は一緒に、裁縫でもしましょうか」
「裁縫!人形作れるようになるかな?」

 声を弾ませるフランに、答える。
 いきなり人形は難しくても、他のものならどうにかなるかもしれないから。

「それなら、まずはぬいぐるみから教えて――」
「――アリス?」

 言葉を止めて、玄関の外に意識をやる。
 近辺に張られた結界が、強大な気配を感知したのだ。

「フランは、ここで待っていて」
「私も行くよ。足手まといには、ならないから!」
「雨だけど、大丈夫なの?」
「うん!」

 確かに、遠距離からの攻撃だけでも、彼女が居れば心強い。
 それほどまでに大きな気配が、近づいて来ているのだから。



 傘を持って、玄関から外へ出る。
 フランは、そこから一歩も出さないようにした。
 玄関からでも援護は可能なはずだから。

「だれ?」

 前も見えないほどの、大雨の中。
 訊ねても返事はこない――代わりに、真紅の短い槍が飛来した。

「っ」
――ガインッ!

 咄嗟に張った結界に、罅が入る。
 その赤い槍は、その暴虐の力は――間違いなく。

「へぇ、誘拐犯の癖に中々良い反応ね。人形遣い」

 降り注ぐ大雨。
 太陽が隠れているとはいえ、まだ昼前。
 吸血鬼にとって最悪のアウェイに乗り込んできた、赤いドレスの少女。

「まぁでも、あと何撃耐えられるかしら?」
「お嬢様。まずは妹様のお話も聞きませんと」
「煩いよ、咲夜。ったく、てっきり魔理沙や他の連中の所かと思っていたら、引き籠もり魔女のところだったとはね。余計な時間をとらされたわ」

 銀髪のメイド、十六夜咲夜を従えた、吸血鬼。
 レミリア・スカーレットが、私をその深紅の瞳で射殺さんばかりに、睨み付けていた。

「お姉さまっ!?」
「待っていなさいフラン。今この人形遣いを屠殺して――」
「お嬢様」
「――はぁ、わかったよ」

 なにやら物騒なことを言っていたレミリアを、咲夜が窘める。
 延命処置に過ぎないような気もするが、とにかく今は彼女に感謝しておこう。

「さぁフラン。帰るわよ」
「……やだ」
「ケーキのことなら怒っていないわ。だから――」
「――最初から、怒ってなかったじゃん」

 え?
 レミリアが楽しみにしていた、ショートケーキ。
 それの取り合いになって、家出をした。

 そうじゃ、なかった?

「当たり前じゃない。別にケーキ程度で怒ったりはしないわ」

 そう言ってみせるレミリアの表情は、優しい。
 傷つけないように、傷つけないように。
 そんな風に、優しさを煮詰めたような、表情。

「嘘」
「嘘じゃないわ」
「嘘よ!だって、あんなに楽しみにしていたのに、怒ってないはずがない!」
「……フラン?」

 フランの言葉に、レミリアも咲夜も戸惑い始める。
 それは私も同様で、けれど、今のフランから離れてはならないような気がした。

「怒ってよ!叱ってくれればいいじゃない!なのになんで、なんでもないように笑うの!?私が悪いことをしても、私が誰かを壊しても、なんでもないって笑うの!?」
「フラン、私は――」
「――もう、お姉さまは」

 慟哭だった。
 心の底から零れだした、胸を引き裂く言葉。
 その声は、その音は、切なく痛々しい。


「私のことなんか、“どうでもいい”んだっ!!」


 雨の森に、響いて消える。
 虚しくも哀切を讃えて、空に溶ける。

 咲夜はただ目を伏せ。
 レミリアは唇を噛み。
 フランは涙を流していた。

「お嬢様、今日の所は一度、落ち着いてから――」

 ここで帰って、次は大丈夫?
 そんなことは、きっとない。
 過ぎれば、蟠りは大きくなる。

 本当に…………誰も彼も、不器用だ。


「そうね、さっさと帰りなさい」


 ああ、もう、本当に。
 私は何をやっているのだろう。
 こんなに堂々と、吸血鬼に喧嘩を売るなんて。

「なんて、言った?」
「アリス、貴女落ち着きなさい」
「アリス?」

 レミリアの低い声に焦り、咲夜が私を制止する。
 けれど、まだ私の背後では、フランが泣きそうな声を出しているから。
 だから私は、退けない。

「耳が悪いのね。さっさと帰れって言ったのよ」

 ギリッと、歯ぎしりの音が響く。
 どうしようかしら。足が、竦んできたわ。

「私たちの問題が、おまえにわかるのか?答えろ、人形遣い」

 それでも。

「貴女のことなんか、わからないわ。他人のことに興味ないもの」

 それでも、私は。

「ははっ、素直でいい。それじゃあ、フランは返して――」

 それでも、私は、あと一歩を。

「――でもね、フランの気持ちだったらわかるわ」

 踏み出す!

「彼女は他人ではなくて、“友達”だから!」
「……アリス」

 声が、響いた。

 震えた声のフラン。
 目を丸くする咲夜。
 俯いて言葉を発しないレミリア。

 足が震えて竦むのを、気合いで隠して佇む私。
 ポーカーフェイスなら、咲夜にだって負けない自信がある。

「そう。なら……その言葉を後悔しないように、大切に抱いて死ね」
「お嬢様、いけません!」

 ハートブレイク。
 心臓破壊の名を持つ真紅の槍が、凄まじい速度で飛来する。
 避けきれるものでは無いだろうし、防いだところで破られるのはわかっている。

 だったら――流せばいい!

――ガンッ

 ハートブレイクが、軌道を逸らされて、レミリアの斜め後ろの木に突き立った。
 それを成した私の手元の道具を見て、レミリアは目を瞠る。
 まるで、信じられないものを見たかのような表情で。

「…………スプーン?」

 正直、これをやるくらいだったら、人形に盾を持たせて魔力でコーティングした方が、効率が良かったと思う。
 けれど今ここでは、スプーンが必要だと思ったから。

 だから私は、銀色のスプーンに魔力を込めて、凹みを利用してハートブレイクの軌道を変えた。

「バカにするなよ、人形遣いッ!!」
「あら?私は大真面目よ。ね?フラン」
「ぇ、あ、う、うん――――うん」

 逡巡しながらも、フランはしっかりと頷いた。
 それがまたレミリアの癇に障ったのか、感じる妖気が強くなる。
 肌を粟立たせ、背筋を凍らすほどに。

「神ッ槍ォ……」

 レミリアが大きく弓なりに、手を引いた。
 そこに生まれるのは、ハートブレイクとは比べものにならない、巨大な槍。
 真紅の大槍が、私の心臓を狙う。

「……【スピア・ザ・グングニルッ】!!」
――ズガァンッ
「く、ぁぁぁぁぁっっ!!!」

 雨の日で。
 まだ昼前で。
 私の陣地で。
 背後にフランがいる。

 この条件でなければきっと私は、無残に貫かれていたことだろう。
 けれど、この最高の条件下なら!!

「はぁっ!!」
「グングニルまで!?」

 スプーンが半分ほど溶けて消えたが、グングニルは天高く消えていった。
 たった数度しか曲げられなかったけれど、上出来だ。

「あぅっ」

 私自身、大きく後ろに弾かれる。
 人形遣いに手は不可欠な要素だというのに、手首を痛めて……あつつ、折れてないわよね?

 そんな私を、フランが心配そうに見る。
 玄関と、雨の降る外側。
 その境に、私たちは立っていた。

 背中のすぐ向こうに、フランがいる。
 この状況ならきっと、レミリアに聞こえないように、フランに伝えられる。

「ねぇ、フラン」

 答えはない。
 でも、構わない。

「雨の日にわざわざ助けに来てくれるひとが、本当に貴女をどうでもいいなんて思う?本当に、貴女を愛していないと思う?」
「え?ぁ」

 レミリアは最初、私を“誘拐犯”だと言っていた。
 妹を、最愛の妹を浚った、犯人だと。

「スプーンなんか使わずに、本来の力で戦えば、もっと強いだろう?おまえは」

 レミリアが、呆れを滲ませた声を出す。
 咲夜はただ、そんな私たちを心配そうに見ていた。

「ふん。使わない方がスムーズに戦えるってことくらい、わかっているわ」

 そんなことはわかっている。
 けれど、それでも。

「なら、何故?」

 私には、スプーンを使わなければならない、理由がある。

「フランにとってスプーンは、何時だって最強でなければならないから」

 フランの。
 大切な友達の、思い。

「だから私は貴女に、スプーンの力を証明してあげる」
「アリス……ダメだよ、アリス。それじゃあ、お姉さまにはっ」
「いいから。フランは、見ていて。七徳スプーンの最後の一つ」
「え?」
「それは――――“愛と友情を繋ぐ、銀の架け橋”よ」

 新しいスプーンを取り出して、握り込む。
 グングニルで右手はダメになったから、まだ使える左手で。
 レミリアを、真っ直ぐと、睨み付けた。

「いいだろう、人形遣い。死ぬまで付き合ってあげるわッ!!」
「そういって吠え面かいて、妹に笑われなさい。吸血鬼ッ!!」

 レミリアは咲夜から傘をひったくると、自分で持ちながら走る。
 私もそれを迎撃しようと、バカみたいに真っ直ぐ突っ込んだ。

 あと三歩。
 ――ブーツの仕込みスプーンだけじゃ、だめだろうなぁ。
 あと二歩。
 ――手と足、一本ずつで済めば良し。
 あと一歩。
 ――それで“友達”が笑えるようになるのなら、それでいい。

「ここで砕けなさい、アリスッ」
「砕けるのは貴女よ、レミリアッ」

 拳が交わる、その瞬間。
 私とレミリアの間に、小さな影が飛び込んだ。
 体中から煙を出した、影が。


「だめぇーっっ!!」


 両手を広げて、間に入ってきた。

「フランッ!!」
「お嬢様、妹様!」

 レミリアは傘を投げ出して、フランを抱き締める。
 すると咲夜が慌てて傘を回収して、レミリアに差した。

「ごめんなさい、お姉さま!ごめんなさい、私、私、わたしっ」
「フラン……」

 大きな声で泣くフランを、レミリアは抱き締める。
 あやすように優しく、想いを伝えるように強く。

「私の方こそ、ごめんなさい。フラン。貴女の気持ちを、考えなかったわ」
「ううん、私が、お姉さまを困らせてばかりだから、だからっ」
「いいの、フラン。もっと困らせて良いの。次からはちゃんと――叱って、あげるから」
「うん、うんっ、うんっ!」

 咲夜の差す傘の下。
 二人の嗚咽が、雨に溶ける。
 その光景を邪魔したらいけないような気がして、私は踵を返した。

「待ちなさい、人形遣い――いや、“アリス”」

 レミリアに呼び止められて、足を止める。
 正直右手が泣くほど痛いから、止めて欲しくはなかったのだけれど。

「貴女のおかげ、何だと思う。よくわからないこともあるけど――ありがとう」

 混乱が滲む声。
 それでも、感謝に満ちた声。

「べつに。私は、友達の為にやっただけだから」

 格好つけて見せても、痛い。
 ついでに言えば、仕込みスプーンで足も痛い。要改良ね。

「あの、アリス、人形……なんだけど」
「取りに来るのも作りに来るのも、好きにしなさい」

 この雨だ。
 きっと涙は、隠してくれる。
 だから私は、振り向いた。

 上手く笑えているかは、わからないけれど。

「今度は、レミリアも一緒にね」

 精一杯の笑みを浮かべて、言って見せた。
 私のこの、満ち足りた感情が、少しでも伝わるように。

「うんっ」
「アリス、貴女…………ええ、招待、感謝するわ。行くわよ、咲夜」
「はい。お嬢様。それからありがとう、アリス」

 三人の声を受けて、今度こそ踵を返す。
 雨の中だ。きっと咲夜が時間を止めて、直ぐに連れ戻したことだろう。
 なら、これ以上彼女たちが傷つく可能性を考慮しなくても、大丈夫だ。



 家に入って、玄関を閉めて、リビングまで歩いて座り込んだ。
 手首は痛いし、ひたすら寒いし、最悪だった。

 座り込むと、目の前に穴があった。
 補修されていない、大きな穴。

 あの日、初めてフランと出逢った、切っ掛け。

『掘り続けて、きゅっとしてどかんとして幾星霜!やっと通じたぁーっ!』

 歪な羽。
 いいえ、違うわね。
 綺麗な、七色の翼。

 黄金の髪に、真紅の瞳。
 ただその目には、輝きを宿して。

『ほらアリス、あの花すごく綺麗だよ!』
「ええ、そうね。綺麗だった」

 高揚した声。
 澄んだ笑顔

『風が涼しい。生き返るっ』
「あの日は、少し涼しかったわね」

 吐き出した息。
 心地よい笑顔。

『甘いものを食べると、幸せだね』
「ふふ、ええ。幸せ」

 緩んだ頬。
 蕩けそうな笑み。

『楽しいね!アリス!』
「うん。すごく、楽しかったわ」

 弾んだ声。
 ちゃんと、同意してあげれば良かった。

『アリスも優しいと思うよ』
「フランの方が、ずっと優しいわ」

 微かな笑み。
 想いを紡ぐ言葉。

『すごく優しくて――』
「ありがとう」

 もう、帰ってしまったのに。
 満ち足りた日々は、終わりを告げたのに。

『――そういうところ、私は好きだよ』
「私も好きよ。私の、ともだち」

 涙が零れる。
 過ぎてしまった事ばかりが、頭の中で谺する。
 これっきり、なんてことはないだろう。
 それでも、終わったことが過ぎるのを、止められない。



 その日、私は、静かに泣いた。
 声を押し殺して、それも抑えられなくなって。

 ただ、ただ、雨雲に向かって――声を、嗄らし続けた。
















――epilogue――



「最近おまえ、なにをやっていても楽しそうだよな」

 暑い日の午後。
 三時のティータイムにやってきた、黒と白のツートンカラー。
 やや色の薄い金髪を携えて、霧雨魔理沙は私にそう零した。

 にやにやと緩んだ頬。
 前の私ならきっと、なんてことはなく流していた。

 けれど今は。
 満ち足りた日々を送る今は、違う。

「それで、なんでそんなに嬉しそうなのよ?」
「だっていつもぶすぅーっとしてた隣人が笑っているんだ。嬉しくない訳ないだろ」

 そんな風に言ってのける。
 けれど、それだけじゃない。
 少しだけ弾んだ声、増えた瞬き。
 素直じゃないけれど、心の機微が顔に出やすい。

「ふぅん……それで、本当は?」

 訊ねると、魔理沙はクッキーを手にしたまま、固まった。
 固まって、目を泳がせて、それから私の視線に負けて息を吐いた。

 帽子を強く下げて、顔を隠しながら。

「――友達は、笑っている方が好きなんだよ」

 魔理沙はそれだけ言うと、クッキーを口に放り込む。
 そしてそのまま、箒を掴んで飛び出そうとした。
 耳まで真っ赤なのは、隠せていないのに。

「まぁ、待ちなさいな」
「っうわ!?」

 そんな彼女を糸で絡め取り、引き寄せる。
 元の場所に行儀良く座らせれば、完了だ。

「なんだよ。くそっ。なんで急に鋭くなるんだよ!?前は鈍かったのに!」
「いいから、落ち着きなさい。それと、ありがと。魔理沙」
「へ?ぁあ、うん」

 それきり、魔理沙は大人しくなる。
 思えば彼女にも、以心伝心面で苦労をかけた気がする。
 今度“彼女たち”も一緒に、とびっきりのショートケーキでもご馳走しよう。

「さて、もうそろそろよ」
「あん?何がだ?」
「まぁ、見ていなさい」

 時計の針が、カチリと動く。
 時間はぴったり。約束の時間に、相違ない。

 その時間に合わせて――――私たちのすぐ横の床が、爆ぜた。

――ドゴォンッ!!
「な、なんだっ!?」

 魔理沙の驚きが、空間を支配する。
 けれど次の瞬間には、もっと元気な声で埋め尽くされた。

「掘り続けて、きゅっとしてどかんとして幾星霜!ただいま、アリス!」
「なんでアリスの家に“ただいま”なのよ。ああ、邪魔するわね」

 目を丸くする魔理沙を余所に、私は二人に笑いかける。
 きっと地下通路からは、咲夜やパチュリーたちもやってくるのだろう。


「おかえり、フラン。レミリアも」


 さぁ、紅茶を淹れよう。
 心が満ちる、とびっきりの紅茶を――――。






――了――
 今日は七色の日、ということで、二人と七のお話を。

 ここまでお読み下さり、ありがとうございました。
 またいずれお会いできましたら、幸いです。

 2011/07/16
 誤字修正しました。

 2011/07/28
 誤字修正しました。変なミスでしたね。ご指摘ありがとうございます!

 2011/07/29
 誤字修正しました。
I・B
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コメント



0.4840簡易評価
2.100奇声を発する程度の能力削除
読み終えて温かい気持ちになれました
3.100名前が無い程度の能力削除
うん、いいね。七色の日だからアリスの良いアリスのSSがくるかなって楽しみにしていた甲斐がありました。
良いアリス。登場人物がみんな優しくて幸せな気持ちになれるお話でした。
7.80ヤマカン削除
うんよかったよ
8.100名前が無い程度の能力削除
アリスとフランドール、あまり接点のないキャラ同士ですが
良いお話でした。しかしスプーンすごいなぁ・・・w
12.無評価名前が無い程度の能力削除
誤字報告
三パターンだけ泣きもするのだが→三パターンだけな気もするのだが ですかね?

それはともかく、スプーンの万能性にびっくりですwww
アリスとフランちゃんの温かいお話、ありがとうございます。
18.80名前が無い程度の能力削除
心が温かくなるいい話でした
ただ感情的になりすぎて人の話を聞かないレミリアにはイラッときましたが
19.100名前が無い程度の能力削除
読み終わるのがもったいないくらい、とてもよかった!
20.100名前が無い程度の能力削除
いい組み合わせだ・・・やっぱ無邪気な娘が無関心を融かすのは良いものだ
31.100名前がry削除
好きだ。

あたたかい気持ちになった
32.100名前が無い程度の能力削除
ほっこり。
陽気でお茶目なフランもいいですねぇ。
36.90名前が無い程度の能力削除
フォークが武器ならスプーンは盾か。なるほど。
47.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
56.100名前がない程度の能力削除
なんと!某米兵の大脱走は幻想郷では常識だったのですね!
それはともかく心温まる良い作品でした。
I・Bさんのアリスはどれもかわいすぎだ!!
65.100名前が無い程度の能力削除
スプーすげえ!
66.80名前が無い程度の能力削除
スプーンがすごいのはわかりました
70.100名前が無い程度の能力削除
こういう話は、やっぱりいいですね
71.100名前が無い程度の能力削除
スプーンで槍の軌道を変えたところは鳥肌たったわ。
この1場面だけ見れば、笑うシチュなのに。
最高におもしろかった。
75.100名前が無い程度の能力削除
アリス超かっこいいですね
83.無評価名前が無い程度の能力削除
>「私はアリス。人形遣い、アリス・マーガトロイドよ。よろしくお願いね」
>「うん!私はフラン。吸血鬼、フランドール・スカーレットよ。よろしく、アリス」

>「それで、フランドールは吸血鬼、よね?」
>「そうだよ。よくわかったね」
>「姉とよく似ているわ」
>「ふぅん」

自分で吸血鬼と名乗ったのでは?
87.100もちょ削除
素晴らしい フランかわいい アリスもレミリアもいいキャラしてる 心暖まる良い話でした
誤字報告 いつもの私の感性 → いつもの私の完成
91.100名前が無い程度の能力削除
とても暖かい気持ちになれるお話をありがとうございました。
94.100名前が無い程度の能力削除
アリスの性格の変わり様が突然な気もするけど、良い話だった
97.100名前が無い程度の能力削除
 健康に良いことは確かだから、倦厭するものでは無い。
→健康に良いことは確かだから、敬遠するものでは無い。でしょうか?
素直なフランちゃんが可愛かったですw
102.90名前が無い程度の能力削除
意外な組み合わせだけどよかったです。
107.100名前が無い程度の能力削除
スプーンでグングニルを弾き返すなんてすごいシュールなシチュエーションなはずなのに感動させられてしまったw
127.100名前が無い程度の能力削除
ええはなしや
131.100名前が無い程度の能力削除
妹様ええこやのう…