Coolier - 新生・東方創想話

巻き込まれ系女子、男子、土地

2013/12/12 23:28:21
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――

 まどろみの中に揺れを感じる。
 電車は山道を行く。北へ。窓の外には雪が降っている。葉の抜けた木々の間、ちら、ちらと白い粒が、舞うようにかすかに流れていく。
 蓮子には降り初めを見た覚えがない。どうやらいつの間にか眠っていたらしい。どれだけ経っているだろう、重たい目を少し傾けると、向かいに座る相方が見える。
 相方は、じっと景色を眺めていた。雪で遮られ木々に遮られ、何が見えるでもない筈の景色を、ずっと、動くことも無く。
 蓮子は何か声をかけようとして、やめた。眠かったし、さして話す事も無かった。代わり映えの無い景色に対して感想は出尽くしてしまっている。蓮子は再び目を閉じた。そしてすぐに眠ってしまった。
 メリーは、相方は。それに気付くか気付かずか、ちらと蓮子の方へ視線を向けて、また外へ戻した。

――


――

 電車が音を立てて止まったのは、それから幾ばくか経った後だった。振動が車内を震わせ、蓮子は意識を引きずり出された。変な声が喉から出る。目を白黒させながら顔を上げる蓮子の体は、半ば以上座席からはみ出ている。

「凄い、雪よね」

 揺れが一段落し、車内にかすかなざわめきが走った頃、メリーが言った。
 この揺れの中にもメリーは悠々と座っている。座り直しながら蓮子は、相方の言葉に促されるよう窓を見た。窓の外は白く染まっている。
 白く。ただ白く。それが一面を、景色の全てを覆い尽くす雪だと気付くのにそう時間はかからなかった。そして、気付くと同時に蓮子は唖然とした。これは、降っているではなく吹雪いているのだ。直前の記憶まで外の景色は穏やかだったのに。今はガラス一枚を隔てて外の荒れ狂う様を伝えている。
 一度気づくと風の音までもが聞こえて来るようだった。厚い壁に弱められ、何も聞こえる筈のないのに。なのに、何故か消え去る事なく音は耳の奥で響いている。それは幻聴に近い。精神が、その空間に相応しい音を選び取っているのだ。メリーはなおも遠くを見るような目で外の景色を眺めていた。白く覆われた景色、何が見えるはずもない景色を。

「ねえ、メリー……」

 こんな雪の中に何を見ているのか。聞こうとする寸前、灯かりが消え車内を薄闇が包んだ。まばらな乗客からどよめきが漏れる。
 蓮子も、思わず身を竦めてしまった。情けないと言えるだろうか。暗くなった車内は何とも心細く、見る機会も早々無い。薄暗い中に風はますます勢いを強める。頼みの陽は雲に遮られ、昼間だというのに光量はいかにも乏しい。
 もうメリーは窓の外から視線を外してしまっている。蓮子が竦んでいる隙に。メリーは天井を見、周囲を見渡して、蓮子の方を向く。

「怖い?」

 何の気なしの声音だった。ただそれが、いかにも自分の心を見透かされているようで、蓮子は虚勢を張った。

「別に、大丈夫だよ」
「そう」

 メリーはまた、そう言って目を伏せた。あえて強がった試みが失敗に終わったか。メリーが顔を上げる。眼前の蓮子を通り越して天井へ。消えた電灯へ向けて。

「送電、やられたみたいね。思った以上に降ってる。このままだとじきにここの温度も外と変わらなくなるわ。その前に救助が来れば良いけど」

 そして、至極、何でもない事の様にメリーは言った。まるで日常の、世間話のような声色で。停電、遭難、そんな事に意識を割くつもりは無いとでも言いたげに。

「……もし、来られなかったら?」

 それが、とても恐ろしい事のように感じて、思わず蓮子はそう聞いていた。本当にそんな、危機感を持たないようで良いのか。その言葉にメリーは少し間を置き、首を傾げる仕草をして、

「大丈夫よ、蓮子は心配性ね。来るんじゃない? きっと」

 そう言い軽く微笑んだ。
 蓮子は慌てて車内を見回した。暗い中に、不安そうに身を寄せ合った乗客が数人居るだけだ。彼らもまた同じ事を考えたのだろう。本当に、思ったよりも、よくない状況ではないかと。蓮子と同じこの車内の、何をしようもない状況。
 その焦りが伝播する前、車両間の扉が開いた。老齢の車掌が他の乗客を引き連れて入って来る。取り敢えずの説明があるのだろう。この車両を合わせて十人足らず、それで全員揃ったようで、車掌がおもむろに口を開いた。しわがれ声が社内に響く。
 車掌は幾らかの決まり文句を述べたあと、近隣に村がある、と言った。どうやらこの中で篭城するのは早々に諦めたらしい。これ以上酷くなる前に移動するか、この車内でじっと耐え続けるか、二つに一つだと言った。
 早く、行くべきではないのかなと蓮子は思った。雪中行の経験は蓮子には無い。メリーだってその筈だ。ただここに残っては、徐々に不利が溜まっていくだけではないかと思えた。
 車掌はすぐに出ると言って乗客を散会させた。きっとここに残る選択肢は端から無かったのだろう。各々が座席に戻り持ち物を手に取る。蓮子は自分の鞄を一瞥し、無言で肩にかけた。
 すでに車内は冷え始めている。開かなくなりつつあった扉を開けて、色の消えた世界へと降り立つ。寒風に目を遮られながらも、木々のばらついているのがかすかに見える。車両の前の方が、白く壁のようになっていた。あれが線路を遮断したのだろうか。
 全員が外に出たところで車掌が歩きはじめた。風は強いが歩けないほどではない。メリーは蓮子の後ろを黙って歩いている。
 線路を元来た方向へ暫く歩くと、ふいにそれを横断する道が現れた。車掌が左へと合図を送り、そちらに進んでいく。風はなおも強く吹き続ける。いくら歩いたか知れなかった。気が滅入ると思って、なるべく無心で歩き続けた。雪はますます降り積もる。歩く端から吹き付けて、埋もれた脚を取ろうとする。また暫くすると、遠くに灯かりが見えた。あと少しだ。後ろをちらと確認する。誰も脱落していない。メリーは、小さくなってただ歩を進めていた。


――


 最初の家屋に辿り着いて、思ったより時間はかかっていないように感じた。
 ただ、こんな山中にあるのだから当然と言えば当然なのかもしれないが、村の入り口と思しき場所には家屋が一軒きりで、他に建物と呼べるような物は見当たらない。横を通り抜けると広く土地が開けまた向こうの方に明かりが二つ。そこまでたどり着くと、今度はもう少し固まって明かりが見えた。
 町と呼ぶには、あまりに建物がまばらであるようだった。車掌は黙々と進んでいく。幸い人の住むところに辿り着いたとあってか後続の足取りも軽い。
 また暫く歩いて、二件、三軒。戸は全て閉まっていて、誰一人外を歩いている者は居ない。当然だろう。雪は、この間も横殴りに吹き続いている。いつ止むかも分からない雪だった。
 幾らか建物が密集し始めた所で、車掌が、あれだと言って指をさした。顔を上げると、家屋に挟まれ通りのようになった向こうに、他より幾分大きい建物がこちらへ門を向けている。
 一際意匠を異にし、どしりと横に広く建ったそれ。人の住むより、人に見せる事を目的とした造りはまさに館然としている。旅の宿。珍しい。その思いは他の乗客たちも同じだろう。形から存在は知っていても、もう大分前から数を減らしている。純和風建築のようなそれは、白く煙った視界の中にも強く存在感を放って佇む。
 半ば転がり込むようにして中へ入り、ようやっと人心地を付くことができた。突然の来客に面食らった女中が慌てて奥へと駆けていく。大きく息を吐くと暖められた、外よりは大分マシな空気が体に染み込んでくる。
 車掌が一団を抜け女将らしき人物と話しに行く。慌しく女中が駆け回る。それを横目に、各々用意して貰ったタオルで濡れた体を拭き、雪を払い落とす。
 ある程度落ち着いて改めて見ると、寒村の宿にしては、思いのほか広いエントランスだった。小さな子供だったら平気で走り回れるくらいある。何人ほど泊まる事ができるのだろう、左手に伸びる廊下はそれなりに深く見え、エントランス奥には二階への階段もある。右手は垂れ下がった幕の上に、大きく食堂と書いてあった。

「寝床が確保できただけ、儲けものよね」

 メリーが呟く。確かに予約した宿はもう行けず、車内で泊まる事を考えると随分幸運なのかもしれない。
 ストーブに手をかざしながら熱を享受していると、部屋の用意が出来たと案内された。エントランスから左の通路、造りと照明に和の香りを感じさせる。
 そのまま左へ四つほど扉を数え、中へと通された。やはり、部屋も多ければ廊下も長い。部屋は、畳敷きの典型的な和室だ。布団は既に敷かれている。ちゃぶ台の様なものが畳んで脇に置かれていた。別に畳まなければいけないほどでもないだろうと思ったが、実際そのまま置いてあったとして、二人では少し手狭かなとも思えた。
 女中が部屋を出ると同時に荷物を置いて、足を投げ出した。メリーも同様に腰を下ろす。一時間も歩いていない筈だが、慣れない雪道はやはり堪える。

「疲れた」
「珍しいじゃない、蓮子が音を上げるなんて」
「蓮子さんは北国仕様じゃないのですよ。むしろメリーが割と平気そうなのが信じらんないわ」
「そんな事ないわよ。疲れてるけど、まあ、北国仕様なのかしらね。北欧の血が、きっと」
「そうなの?」
「いや、分からないけども、そんな感じしない? 家系図は見た事ないけど、うちは結構多国籍だから」

 そんなものだろうか。血でそこまで適性が出るのならさぞかし便利だろうなと思いながら、蓮子は窓を見る。少なくとも、時間の分かりそうな空模様ではなかった。

「止みそうに、ないわね」

 メリーもまた窓を見て言った。風の音が強くなる。雪はまた降る強さを増したようだ。
 窓は完全に閉まっていて、なのに風に煽られ軋みながら揺れている。中から見ると、外はこんなにも暗い。灰色に染まった空間が少しずつ明るさを失っていく。日が落ちたからか、はたまた雲が一層厚くなったからなのか。これから夜にかけて雪はもっと降るのだろう。
 障子を閉めた。少しだけ音が小さくなったように感じる。電車の中に残らなくて良かったと思った。この雪だ。あの車両は、きっと今頃埋まってしまっている。

「ご飯、聞いてこようか」

 メリーが立ち上がる。まだ、少し早いだろう。でも蓮子も立ち上がった。他に、やることなどなかったから。


――――


 そんな様だから眠りについたのもきっと早かった。早々に布団は拡げられていたし、この狭い部屋の中、やるべき事も存在しない。
 ただ一つ、旅程の崩れだけが気になった。明日から戻せば戻れない事もないだろうが、それは難しい事に感じた。まず、そう、予定に余裕がない。そんな時は失敗するものだと先人からの言葉にある。蓮子達も薄々感づいてはいる。一種の諦観と共に、日を終えた。
 起きたのは、起こされたのは、何か物音によるものだ。
 蓮子ははっと目を覚ました。それは戸の向こう、廊下の側から聞こえて来る。足音と共に廊下を右から左へ流れて行って、暫くのちもう一度左から右へと帰っていく。
 蓮子は上体を起こした。入り混じった声は、小さくて聞き取ることが出来ない。ただその響き、尋常の余裕のあるものではない。蓮子はメリーを見た。同じように起こされたようで、薄目を開いて天井を睨み付けている。

「うるさい、ね?」

 不機嫌そうな相方に気を遣い、おそるおそる聞いてみた。メリーは寝起きが悪い。安眠妨害は断固として拒否しようとする。
 取り敢えず、文句も何も言わない相方にほっとしたあと、蓮子は再び廊下を見た。声は、今は消えている。ただ蓮子の中には、薄くもやのようにその記憶が残っている。
 あれは、何か問題があった時の声だ。蓮子を目覚めさせた原因が何事か、それを聞いてみようとしたのだ。

「メリー、どう思う?」

 起きたての相方に問いを振ってみる。メリーはとても眠そうに目を閉じて少し思案するそぶりを見せた後、別に大したことは無いだろうと言った。

「本当に大変だったら、そうね、あんな風に騒いでないでまず私達の所に来るわ。それが無い内は少なくとも火急の、私達が気にするようなものにはならないわよ」

 だから、さっさと寝かせてくれと、そう頼むようにしてメリーは布団を引き上げた。顔が半分隠れている。もう聞かないのポーズだ。
 確かにそれにも一理ある。だが蓮子には、多少心当たりがあった。昨日の雪だ。それに何より騒ぎまわるとは、決して穏当なものではないではないか。そう言うとメリーは、なら雪で何処かの屋根が崩れたか、と返した。

「そんな程度よ」
「夢がないなあ、もっとバーッとさあ、言おうよ」
「蓮子は野次馬根性ね。そういうのは早死にするわよ。いずれ見て何になるものじゃないでしょうに。……でも行くの。その顔は、なんとも行きたそうにしているけれど」
「逆に行かない選択肢があるの?」

 メリーが呆れた表情を作る。ごく自然に。蓮子は早々に身支度を整えて活動用の小型鞄を腰に下げた。活動用である。小回りの利く、便利ものとも言う。何事か、感じ取るところがあったのかもしれない。ごく自然に蓮子は鞄を手に取っていた。戸を開ける。廊下には、もう誰の姿も見えなかった。メリーが背後で言う。

「ほら、なんでもなかった。静かなものじゃない」
「いや、ちょっと待った」

 廊下に見る違和感。昨日よりもどこか薄暗い。光量が明らかに、知覚できる程度には少なくなっている。いや、抑えられているのだ。近くの灯かりに触れてみた。よく、伝わってくる。これは目の錯覚などではない。

「やっぱり暗い。何、これ。まさか建物中こんなになってるの?」
「省エネかしらね」
「脈絡がなさすぎる。やっぱり何かあったんだわ」
「省エネにする何かが? 随分間抜けな響きじゃない」
「冗談じゃないよ、もしかしたら、ライフラインの断絶とか……」

 そこまで言って、蓮子は足早に歩き出した。もしそうなら悠長にしている場合ではない。すぐにでも、知っている人間を見付け話を聞かなければならない……。
 エントランスは、やはり薄暗く、そして寒々としていた。暖房器具自体がその力を弱められているのだ。目前、食堂と書かれた部屋も明かりのついた様子はない。人の気配は無いかと見回して、食堂すぐ横、二階への階段の上に女中が屯しているのを見付けた。
 不穏な集まりだった。それは彼女たちの周囲に淀む空気からでもわかる。おそらく先ほど騒いでいたのもこの中の誰かだろう。話を聞くため蓮子が近寄る。女中の一人がそれに気付き、視線がかち合う。その時、蓮子は、もはや何を聞く気も失せてしまった。
 目は、雄弁だ。合った一人のその目は不安の色に染まっていた。おそらく他の者もそうだろう。見ずとも、もう分かる。不安の目が蓮子を捉えている。蓮子は階段を駆け上がった。
 近づく中、一人の視線がちらと横に移動したのを、蓮子は見逃さなかった。女中たちが後ろに下がる。黙って視線の示した先を向く。特に変わったものは無く、明かりを入れるための窓が一枚あるだけだった。朝の陽光が目をさす。何か輝いて、窓の外は見えた。白く輝いて。

「これは……」

 近付き、蓮子が息を呑む。遅れて隣に付いたメリーが、窓の外を見て、次いでその横顔を見る。

「予想が当たった気分はどう? 蓮子」

 メリーは冷たく、意地悪くそう言った。少なくとも蓮子にはそう聞こえた。
 村は、沈み切っていた。そう表現するのが一番近い。昨日と打って変わって雲ひとつ無い空に、白い水面が、窓を越えた向こうへと伸び広がっている。そこに沈没を免れた屋根や、家々の二階部分が点在しているのだ。
 綺麗な雪面だった。広く、均一に、眼前遥か遠くまで埋め尽くしている。あの雪は、と思う。あの雪はここまで降り積もるものだったろうか。もう起ってしまった事柄に、否を唱えるなどあってはならない事だろうか。蓮子は古今この様な話は聞いた事が無い。いつかはあったのかもしれないが、それでもこんな、一夜のうちになど、蓮子の知る常識の範疇を越えていた。
 随分広くなったものじゃないかなどと軽口を叩こうとしても声が出ない。鞄に手が触れる。目は水面を凝視したまま、手探りで中を探っていた。カメラを取り出し構える。自然と体が動いていた。カメラ越しに見ても、村は沈んだままだ。黙ってシャッターを切った。一枚、二枚。
 映すたび、少しづつ正気が戻っていく。眩しく太陽を反射する雪面は確かにそこにある。三枚目を撮ろうとした所で、メリーが後ろで何か話しているのに気付いた。女中とだ。

「……分かりました。ねえ蓮子、朝食はおにぎりだけで我慢してだってさ。設備がどれだけ動くか分からないんだって」
「はあ、朝食? まあ別に良いけど……。メリーったら随分能天気ね? 外がこんな事になってるってのに」
「あら、私は蓮子のためを思って聞いておいてあげたのよ? 食いしん坊の蓮子ならきっと、お腹が空いて暴れだすでしょうから」
「誰が」

 言いつ、窓を開ける。恐る恐る足を踏み出してみると、みるみる中へと沈み込んでいった。思ったよりも密度が薄い。

「駄目ね、このままじゃ外にも出れない。体中雪まみれのびしょびしょになっちゃうわ」
「残念ね、それとも蓮子の事だから雪まみれになりながらも無理矢理進んでいくかしら」
「阿呆な事言ってないで、靴借りれるかどうか聞いてよ。あるでしょそういった専用の靴」

 メリーが交渉に行き、程なくして見慣れない形の二足の靴が持ってこられた。履いてみて、底面積を大きくし、体重を分散させているのだと分かった。再び雪面へと降り立つ。今度は沈まない。
 いざ外に出て見ると、何とも奇妙な感じだった。立てば普通に立てる。歩こうとすれば普通に歩ける。走る事はまだままならないが、慣れれば似たような事は出来るようになるだろう。
 だが何よりも、視界が高いのだ。正しくは目の錯覚だろう。地面は全て上がっており、そこからの距離は平常と変わる事は無い。だが、あくまで高い位置にある建物の対比が、蓮子の視界を宙へと誘うのだ。
 どれほど降ったか。計算しようとして、止めた。計りきれるものではないと思った。何せ視界の大部分を白が占めている。行ったところで、きっと、詮の無いことだ。
 足元の雪を一すくい掴んで、メリーに投げつけようとしてみた。目を上げると、既にメリーはこちらの方を向いている。一連の動作を見られていたと感じ、そっと雪を下に戻した。

「蓮子ったら、随分子供っぽい事するのね?」
「……別に、そんな事ないわよ」

 手の平に、まだ冷たさが残っている。握り締めてみた。赤く、跡が残る。

「この雪が、気になる?」

 じっと見ていると、メリーはそう問いかけてきた。問いかけだった。メリーからの、曖昧な問いかけ。
 何と答えたら良いのか分からなかった。気にならないと言えば嘘になる。しかし、それよりももっと。

「ううん。ただ、折角あるんだからなって思って。こんな風に雪を見るのは、初めてだから」
「雪は雪よ。それ以上の何物でもないわ」

 ぐ、と足元を踏みしめる。

「冷たくて、すぐあとが残る。春になれば、消えてなくなる」
「メリーは雪、嫌い?」
「……好きではないわね」

 本当は、ただ、何なのだろうと思った。自分の常識の中には無い光景。しかし一度起こってしまったそれは、きっと予想以上に抵抗無く受け入れてしまう。誰もが。受け入れざるを得ないのだ。
 でも、心のどこかには、必ず何か違うという感覚が残る。芯の芯では、それは、一過性の何かであり続ける。得体の知れない何か。外面だけの、中身の存在しない何か。
 子供達の嬌声が一際大きく聞こえる。

「あの子達も、ほら、狂ったように駆けずり回っている。ここからじゃ見えないかしら? 近づけばあの子達の目が、色を帯びているのが分かる筈よ」
「色……」
「幼い分、影響も如実に現れる。あの子達は、遊んでいるんじゃない。遊ばされているのよ。この雪に。この空間に」

 だから嫌い、と言うのは、少し違う気がした。雪自体に意味を付加するのは滑稽だとでも言っているのだろうか。それには随分と遠回りだった。

「……良いじゃない、別に」

 少し顔をそむけながら、蓮子が呟いた。メリーは、相方はこの雪に否定的だ。蓮子にはそれが納得いかない。何か楽しみを減らされた気がして少しだけ、歩を速めて先へ行った。

「救助が来るわよ。そうしたらまた旅程に戻りましょう。一日程度のずれならどうにでもなるわ」

 数歩の後ろからメリーが言った。蓮子は返事をしなかった。ただムスリとしながら黙って歩いていた。その様子に、メリーも何も言わず黙ってついていた。
 殆ど村の端に来て、人の姿も見えなくなった頃。遠くに装備を持った一団が見えた。口々に何かを話しながら、くたびれた様子で歩いている。もう村のそれなりに外れである。その内の一人がこちらに気付いた。

「君達、この先は危ないから行っちゃいけないよ。散歩したくなる気持ちも分かるけど……」
「危ないって、何かあるんですか? 見た感じ平坦な道のりですけど」
「まあ、目立って危険ってわけじゃないがずっと続いてるからね。踏み外して滑落とかでもなったら大変だ。道も分からないだろうし……君たち外の人だろう?」

 その言葉に一団の他の男性が反応した。

「えっ、村田さん、この子達そうなんですか?」
「そうだと思うよ、見たことないもの。僕の知らない間に誰か移住してきたってなら別だけどそんなのも聞かないし。それに、まあ体つきかね。あるんだよそういうの。こっちの女の子とは違う」

 村田と呼ばれた男性はそう言って蓮子と、そしてメリーに視線を向けた。

「災難だったね、来たと思ったらこんな状況で。ようこそこの辺鄙な村に。……と言っても僕はここの住人じゃないんだけど。多分君らと同じところに泊まってる、村田と言います。よろしく」
「あっ、はい。どうもよろしく……」
「折角だからどこから来たとか聞きたいものだけど……」

 そうしてちらと後ろの一団を見る。彼らが苦笑いを浮かべながら首を振る。

「どうも駄目みたいだ。まあ縁があったらまた会う事もあるでしょう。その時には色々とお話ししたいものだね」

 彼らは去って行った。どれと再び少し歩いてみると、確かにもう村は外れのようで、道の名残と思しき木のない雪面が延々と続いている。
 なるほど、これは脱出は難しそうだと思った。道の両脇は山であったり崖であったり、雪に包まれて輪郭をかなり丸くしている。足元が分からない、と言うより、崩れるのかどうか分からないと言った方が正しかった。頼みの足は全て雪の下であることを考えると、こんな妙な危険の匂う道、わざわざ徒歩で行く気にはなれない。
 暫し眺めて、二人もまた来た方へ戻っていった。実質的にこの村は外との連絡を絶たれた。情報が伝わっても相互の移動が出来ないでは同じことだ。陽はもうそれなりに高く上がっている。
 どこか、救助のお世話になる事は明白であった。
 もとの部屋に戻るには当然ながら階段を降りることになる。窓から外へ出ることよりも、こちらの方が蓮子には奇異に感じられた。一階なのにまるで地下へ潜っているみたいだ。ここまで埋もれていると空気の循環は大丈夫なのか気になるが、存外心配するほど息苦しくもないのは、何かそういった理由があるのだろう。
 時計は生きている。メリーが、昼頃には救助も来るだろうと言った。蓮子も同じ予想をしている。準備があったとして、それくらいあれば十分にここまで来れる筈だ。
 しかし来られると困る事もある。言い出しにくかったが、蓮子はもう一度外に出て、またあの雪に触れてみたいとも思っていた。何といって、見るからに異様ではないか、この光景は。台無しになった旅行の埋め合わせをして、それからでも帰るのは遅くない。今から元の旅程に戻すのは、またそれなりに手間だろうから。
 だがメリーは、それにあまり乗り気でないらしい。早く帰りたがっている節もある。メリーはここに来てから今まで何も自分の視界について述べる事は無かった。この雪がどれだけ奇異に映ろうと、所詮は活動に足る怪異ではないと、暗に蓮子へ示している。
 だがこの相方には全く、無駄なものに対する興味は無いのだろうかと、蓮子は思わずに居られない。ある種貴重な経験であることは間違いないのだから、それを取り込む姿勢があったとして悪くはないと思うのだ。
 既にメリーは荷物を畳み始めている。見れば時計の針は、もう決して早朝とは言えない所まで上っていた。

「蓮子も手伝ってよ。まさかあなた、自分の分まで私にやらせる気?」
「いや、そんな事はないけどさ」

 少しの名残惜しさを感じる。深くは考えないようにした。旅程はまだ取り戻せる範囲だ。せめて帰る前に、幾つか写真を増やしておこうと、そう思うに留めて。
 しかしその思いとは裏腹に、荷造りが完了して、時計の針が中天を回って。昼食の米が運ばれてきた後も一向に救助の現れる気配は訪れなかった。
 メリーが心なしイラついているように蓮子には見える。無理もない。蓮子もそう危機感を持っているわけではないが、やはりこんな場所に残されていい気分がするものではないのは分かる。
 ただそれよりも、本当にメリーはこの場所が嫌なのではないか。
 せめていつ来るかだけでも知りたい。通信は生きているのだろうから、訊けばすぐに分かる筈だ。
 立ち上がり外に出ようとした時、ドアが叩かれた。二人が顔を見合わせる。まさか来たかと蓮子は思ったが、すぐに違うと打ち消した。メリーは既にドアへと歩いている。
 夕食ではない。自分の時間感覚は正常であるはずだと、自らの腹の空き具合を確認してみたりする。大丈夫だ。確かに今、陽は高く登っている時間帯である。
 もしやこの外も。同じように雪で閉ざされてしまったかとも考える。それは流石に荒唐無稽を通り越しているだろうか。程なくして、メリーが何事か声を張り上げたのが聞こえた。

「そんな……いえ、ええ……分かりました」

 何事かと振り向く間に、すぐに元の調子に声を落とす。来訪者が離れていく。メリーが戻って来る。蓮子の表情に訝しげなものが浮かぶ。

「何かあった?」
「ええ、そうね……。あった、わね」

 メリーが歯噛みするように、諦めたように呟く。一度首を振って顔を上げた。

「救助、いつ来れるか分からないって、今しがた連絡があったそうよ。ご丁寧にもあちら側から。暫くは現状で我慢してくれだってさ。ふざけてるわ……こんな……雲一つない日に……」

 絞り出すように、忌々しげにそう口にするのを、蓮子は何とも奇妙な気分で聞いていた。常に余裕を作っている。いや、作るよう動いている。そんなメリーがこれほど驚いたのを、蓮子はもう随分と見ていなかった。


――


 村の周囲は山で囲まれている。山の中にぽつんとこの村が存在している、とも言えるかもしれない。木の密集し始める場所が外周だと考えて、数時間もあれば十分一周できる程度の規模である。
 二つ、三つ外へと通じる道があっても、それ以外は全く外への連絡線が無い。
 この村の位置を、衛星、航空写真を、一度見てみたいものだと思った。どう映っているのか。距離と、場所の関係をこの目で確かめてみたい。
 幸い回線も電波も生きているのでそのまま外部の新聞記事に繋いでみた。案の定大きな見出しにこの封鎖された雪の事が書かれている。写真も、記者が直に撮影しに行ったのだろう、麓からのそれが通行止めの看板、人員と共に映っている。別紙でもそれは同じだった。また別の道、別の山麓であろう場所から山々を見上げる形で撮られている。
 だが一つとして空から、地面よりも上の高所から撮影されたものは無かった。参照が早すぎたか。だが、既に丸一日。一社程度はどこか鳥瞰写真を手に入れた所があってもいいのではないか。

「これは、やっぱりいよいよ大変なのかな」

 呟く言葉に現実味のなさを覚える。現に渦中にいて、その雪の多さをまざまざと見せ付けられているにもかかわらず、蓮子には未だそれが実感を持つものとして伝わってこなかった。

「蓮子、楽しい?」
「え? いや……」

 唐突な言葉だった。不意を突かれしどろもどろに、そんな事はないと言おうとしてふと気づく。ピンとこない正体。それは蓮子自身、まさしく危機感が無いからではなかったか。
 幾ら道が途絶えたと言えライフラインに備蓄はある。村民軽く数日は持ち応えられる量で、また尽きるまで救助が来ない事も有り得ない。言ってしまえば蓮子は、この状況に及んでなお、安全圏に身を置いていた。
 その信頼があるからこそ村の誰一人として、必要以上の狼狽を見せない。そして、だからこそ蓮子も。

「うん……楽しい、かもしれない。だって、滅多にない事じゃない。当面悲観する事もないんだし、だったら楽しんだって罰は当たらないよね」
「あら、じゃあ悲観することが出来たら? 蓮子は止めちゃうのかしら」
「いじわるなこと言うなあ、メリーは」
「ふふ、きっと止めないでしょうね。食料や水が無くても蓮子はぐいぐい進んでいく。知ってるもの、あなたがそんな性格だって」

 微笑みながら言われて蓮子は少しだけ赤面した。何とも気恥ずかしいことをこの相方は平気で言ってくる。照れ隠しにもう一度外を回ってみようかと提案した。しかし反面、それはにべもなく却下された。

「別に腰を落ち着けて、ゆっくりと取り組めば良いのよ、こんなの。一日や二日で無くなる様なものじゃないんだから。今日はもう終わり。明日にしましょう」

 そう言って慣れた手つきで給湯器を回し始めた。多少の不満を抱えながらも蓮子も黙って座り込んだ。茶は十二分に熱い。冷ましながら飲みほっと息をつくと、全てがうやむやになってしまう気がした。
 その日は結局、これ以上外に出る事は無く終わった。


――――


 蓮子の危機管理能力はある面で非常に優れている。それは直観力とも言うべきもので、空気の変化、淀みには敏感に体が反応する。
 だから、昨日起きたのもその事と無関係ではない。食い下がったのも。蓮子が目を開けた一瞬そのことがよぎった。ぱちりといきなり覚醒して、その次にはもう上体が起こされている。既に夢の余韻などどこにも残してはいなかった。
 至って、部屋は静かである。昨日の朝とは打って変わって宿に物音の聞こえる風もない。
 それが不思議だった。普通はもう少し、想像のつく何かがあるものだ。平穏な室内は何も蓮子に不都合を感じさせない。日常の、一側面を、綺麗に描いている。

「蓮子、なにやってるのよ」

 半身を起こしたまま動かない蓮子にそんな言葉が飛んできた。見ればメリーは机を引っ張り出して折り目正しく座っている。

「いや、別に……」

 起き掛けで判断が鈍っているだろうか。蓮子は所在なさげに、ただ手などを動かしたりしながらも、ただ曖昧な返事をする事しかできない。

「起きてたんだ」

 そんな事を言った。蓮子は声がかかるまでメリーが起きている事に気付かなかった。だからという訳ではないが所在なさの極致としてそんな言葉が出た。

「蓮子が寝坊助なのよ。私は至って普通。それよりも、何、蓮子はいつまでそうやってるの」
「いや、うん、顔洗ってくる……」

 首を傾げながら洗面所へ行き、やはり思い過ごしだったかと、また外れることもあるものだと自分に言い聞かせた。鏡を前にし水が酷く冷たいのだと思いだす。暖房は生きているのにそんな所だけ不便なのは些かアンバランスだ。意を決して水を顔にぶちまけ、蓮子は軽く後悔した。
 冷やされ明瞭になった視界が蓮子を捉える。鏡の前の自分は奇妙な顔をして自分自身を見つめている。自信を失ったような、何かに怯えているような。そんな思いをかすかに忍ばせながら目を開いている。
 視線が移る。洗面台は戸のすぐ近くにある。戸の前の空間に、一抹の違和感を覚えた。覚醒した蓮子が再び首をかしげる。

「はてな……」

 嫌に静かだ。無論、宿とはそういったものであるべきなのだが、しかしこの静けさは妙に違和感がある。静けさを媒介として、奇怪な気が伝わってくる。そんな感があった。
 一瞬の気の迷いとも思われない。不穏とは肌を打つものだ。打たれた側はその打たれたことを敏感に感じ取る。それが幾ら自覚の外にあろうとも。蓮子にその大本は察知できなかったが、宿自体が昨日とその本質を異にしているような気配がした。

「メリー、なにか……いや……」

 言葉として上手いものが見つからない。それを伝えるのに直感は曖昧に過ぎる。どうも口が役立つ場面は思うより少ないらしい。
 いや、それでもメリーなら蓮子の言わんとする所は察してくれるだろう。何か変だと、その一語だけで。あとは彼女がその意を探ってくれる。だが円滑な伝達には足りない。もっと分かりやすいものを見せなければ。
 暫しの黙考を経て、蓮子はまた戸を見た。そして一つの納得を得る。要は、分かり易ければ良いのだと、蓮子は戸に歩み寄った。ノブに、手をかける。

「何をやってるのかしらね、蓮子は」

 真後ろからメリーの声が聞こえた。蓮子は思わず手を放した。呆れるような響きを持って、振り向いたすぐ前にメリーは立っている。冷ややかな目線で戸を見、伸ばした蓮子の手を見た。

「奇怪な行動。顔を洗ったと思ったらいきなりこれだわ。ちょっと楽しくなっちゃったの? たまの旅行で」
「え、いや、その」

 答えにどもる。そう言われてしまっては身も蓋もない。戸にかかりかけた手は行き場を失くして宙を彷徨う。そして視線に刺され下へとおろされた。その姿はまさに間の抜けたものであり、客観的に見ると顔が赤くなるのを感じる。

「朝ごはんなら心配しなくても届けに来てくれるわよ。あまり早く行って催促したら迷惑よ」
「違うわよ。勝手に食いしん坊キャラにしないでよ」

 意味のない会話の中に違和感は消え去ろうとしている。蓮子はメリーに押されるがまま部屋の中央に戻ろうとしていた。戸を開ける事も、相方に伝える事さえ、必要のないものに思えて来ていた。
 認識できなくなると、人はこんなにも危うい。ただ記憶の片隅に、何かの痕跡として残っているだけで。
 本当にそうだろうか。蓮子が常人と違う所はいくつもあるが、それは長い活動の中自然と身についてきたことでもある。蓮子は反芻する。自身の直感を。常人なら気にも留めず流れていくところを、蓮子は足を止めることが出来る。足を止めて、もう一度見ることが出来る。
 戸の向こうの空間から、不安は伸びていた。
 それは戸ではない。似て非なるものだ。蓮子はメリーの束縛をすり抜け戸を開け放した。廊下の空気が流れ込んでくる。廊下にはかすかなざわめき声。そして鼻腔に、かすかな、不快な気配。
 蓮子は声のする方を見た。遠く、建物入口エントランスには黒い人だかりができている。何人もが集まって、その向こうは蓮子に見えない。

「あれ、なんだ」

 それは、人の背でしかなかったが、蓮子には抗いがたい違和に思えた。本来ここにあるべきではないような、存在自体が不和と不穏の象徴であるような、そんな感覚を覚えた。
 再びその鼻腔に、発せられた赤黒い気を蓮子は感じていた。見えるものではない、しかし確かに存在する。人の背中から、その向こうから、空気の中を漂ってくる。
 蓮子は吸い寄せられるようにその背中に向けて歩き出していた。自然に眉根がしかめられ、嫌悪の表情が出ているのに自分でも気付かないまま。

「蓮子」

 エントランスに辿り着く前、メリーが後ろから呼び止めた。

「やっぱりやめておきましょう。これは私達が野次馬する必要もないし、するべき事でもないと思うわ」

 蓮子もそんな気がしてきた。この間も不穏な気配は発せられ続けている。その中に取り込まれ、当事者の一人となる前に、さっと身を隠してやり過ごすべきだと。

「ううん、僕もそう思うねえ」

 だが踵を返す前、メリーの言葉に割り込む男の声があった。見ると人垣をかき分けて一人、こちらへ向かって来る者がある。見た覚えのある顔だった。それも、そう遠くはない。

「村田、さん、でしたっけ」
「はい。覚えててくれた。昨日の今日だ、再開を祝したいのは山々なんだけど……見ればわかる通りちょっとこっち取り込んでて。折角起きて来たところ悪いんだけどさ、もう少しすれば片付くと思うから、暫く待っててくれると嬉しいな。朝食だったら後で部屋に届けさせるんで」

 言われるまでもなく元よりそのつもりだ。
 ちらと後ろを盗み見る。さきより近くなった人の背は、なるほど厄介ごとらしい姿をしている。会話の間後ろの肉壁は微動だにしない。この村田という男も物腰は柔らかいが、決してこの先には二人を通さないだろう。
 鼻をなでる違和感、ざらめいた違和感。メリーが裾を引っ張る。蓮子はいつしか、その正体を努めて見ないようにしていた。
 察する材料はあるいは揃っていたかもしれないのに。気付いてしまえば、それはとてもおぞましい事になる気がしたからだ。空気中にまんべんなく漂って、慣れぬ者にはそれが何か見当もつかない。ただ誰もこれだけは分かる。臭いというものは理性でなく、もっと根深い本能に働きかけるものであるという事を。
 それは不快なもの。動物が本能で忌避するもの。
 ……血だ。これは、血の臭いだ。鼻の奥にまでそれが感じ取られるほど、血の粒子がこの場に充満しているのだ。
 血をここまで飛散させるに使った労力、この結果に至るまでの過程。その、壁の向こうに広がっている光景。
 そう、想像した時、蓮子は既に自らの体に取り込まれつつあるそれを幻視してたまらなくなった。

「君は、その様子だと、もう何が起きたか察したみたいだね」

 村田は何も動じることなくそう言ってのける。彼の言った様子が、蓮子は自分ではわからない。

「察しのいい子だ。なるべく隠しておくつもりだったんだが、あまり知らなくていい人間ばかりがこうやって気付いていく。おかしいじゃないか。この時間、まだ呑気に寝てる人だって居るっていうのに」

 蓮子は何も言葉を発しようと思えなかった。ただ眼前の男が話すのを聞くともなく聞いている。男は一度言葉を切った。蓮子の、反応を待つように。

「……まあ、幸いなことに人死にはね、出ていないよ。女将さんが大けがしたけどね、まだどうにかなる程度だったから。だから本当は早く病院とか連れてってあげたいんだけど」
「まだ、救助は来ませんか」
「来ないね。少なくとも今日一日、明日も怪しいかな。あっちにもいろいろ都合があるんだろうけどね、こっちは参っちゃうよ。一応来るまではもつだろうけど……」

 その時、人だかりの中から一人現れて村田の方へと寄って行った。村田は耳元で話を聞くと、何事か指示をしまた人だかりの中へとやった。

「こっちの仕事がねえ。僕は休暇で来てるってのに」
「……警察の、人なんですか?」
「ん? ああ、そうか。君達外の人だもんね、知らないのも無理はない。こっちじゃ僕も中々有名なんだがねえ。まあ安心していいよ。似たような仕事だし、僕もこれで有能なんだ」

 そして村田はにっと笑った。自信の表れ。それは蓮子を安心させようとした行動でもあったのだろう。

「自己紹介するよ。僕の名前は村田修二。この地域の、ローカル名探偵やってます。よろしく」


――


 探偵。聞き慣れない言葉に蓮子が目を丸くする。その様子に薄く笑みを浮かべながら探偵は背を向けた。そしてまた人壁の中へと入っていった。厚い壁の中に。彼は率先してそう動いているように見えた。
 代わりに、二人の傍らには、蓮子も気づかぬあいだ女中が佇んでいる。暗く、不安げな表情を浮かべて。二人の顔色をうかがっていた。

「あの、お部屋の、変更を」
「変更?」

 思わず聞き返す。何故ここで部屋を変える必要があるのか、一階でいる事に不具合があるのか。

「良いじゃない。何かあるんでしょ、理由が」

 メリーが蓮子の言葉を遮る。促して、部屋へと歩いていく。女中はそれに付き従った。蓮子は、もう一度だけ、こちらに関心を寄せもしない人壁を見た後、足早にメリーを追いかけて行った。
 通されたのは、二階の一番奥の部屋だった。入口は廊下の右手。一応現場から一番遠い所が選ばれたらしい。代わりに窓の向きは正反対になって、裏手を向いている。
 宿の裏は、山になっている。全て雪で白く覆われた山。幾らかの空き地を挟んではいるが、少ないものだった。そしてその空き地の右方、向くと取ってつけたように杭とテープが張られている。

「あれは?」
「犯人の残していった足跡……だそうです。荒らされないように、ああして囲いを」
「でも、こっちって」

 山だ。一面には山しかない。囲いは、山の方へと伸びていた。

「それは分かりません。あの、そろそろ……」
「あ、ごめんなさい引き止めちゃって」

 女中が部屋を後にする。メリーが備え付けの椅子へと腰掛けた。

「ご丁寧に、窓のある部屋とはね。誰が提案したかは知らないけど、随分抜け目の無い事をやるもんだわ」

 メリーは不機嫌そうに椅子を揺らしている。それには目もくれず、蓮子はぼうと窓の外を眺めていた。何となく、相方の話を聞く気分ではなかった。
 衝撃的な事件に打ちひしがれていたわけではない。そこまで華奢な心胆は活動の中に消えていた。かといって何も感じないわけでもない。不快ではある。非日常でもある。怪我は痛そうで、するべきでないとも思う。
 だが蓮子の今の心境は、そんなものよりももっと落胆とか失望とかいったものに近かった。要りもしない事件を起こされ周囲を乱された者の、愚痴にも似た悪感情の一つが、蓮子の心を暗く沈ませていた。
 事件はすぐ傍で起きている。傷害では済まされない、殺人未遂のただ中である。その中にこれではあまりに呑気が過ぎるだろうか。しかしその実蓮子には事件がどこか遠くのものへと感じられている。同じ建物であるのに、それは理屈の上だけで、感覚の上の言うなれば恐怖を、蓮子は感じる事が出来ないでいた。
 囲いの近くへ村田探偵が現れる。おそらく、この部屋を用意したのはあの人だろう。メリーは抜け目が無いと言った。簡単な話だ。蓮子にも、メリーにも、この村で殺される理由が無い。それを踏まえた上で、出入りの容易な二階に部屋を移した。おそらく、隣の部屋にもあの電車の乗客が入っている筈だ。
 そのせいだろうか。自分達は、あくまで部外者なのだと。だからだろうか。
 視界には、否応無しに雪の積もったのが入ってくる。建物から一歩でも出れば、何処を向いてもこの光景が広がっている。この突飛な状況に、慣れてしまったからだとは思いたくなかった。

「あれ、村田さんじゃない」

 いつの間にか近くに来ていたメリーが、囲いに目をやる。村田探偵は手伝いを連れて検分を続けている。囲いの中には殆ど立ち入らずに、今も外から中を眺めている。

「足跡って言ってたっけ、じゃああの辺りが進入経路なのかしらね」
「食堂の上くらい、かな」

 目測だが、二階へ上がる階段よりは、もう少し右へずれている。そちらの方向に客室は続いていなかったから、おそらく倉庫か何かだと推測した。

「やんなっちゃうな……」

 ぼそりと、呟いていた。決して愉快ではないこの状況に、否が応にも留められている。それがたまらなく厭だ。
 この先暫くは何が起こったとて蓮子の力で打開されることはない。何が起きても。行動の与奪を握られているような気がして、それが蓮子の心をざわめかせた。

「ご機嫌ななめね、蓮子」

 呟きを聞いて、横のメリーが蓮子の顔を覗き込む。その表情は心なしか薄く笑んでいるように見えた。蓮子は顔をそむけた。

「こんな時に機嫌のいい方がおかしいでしょ」
「それもそうね」

 メリーが首を振って離れる。蓮子はまた、とりとめもなく窓の外を眺めた。
 朝食は運ばれてこない。いや、きっと昼食も運ばれてこないだろう。宿の機能は全てが停止してしまった。静謐が冷たい空気と共に建物を包む。この空間は却って今、平穏を得ているように思えた。
 メリーが後ろで立ち上がる気配がした。振り向くと、彼女は今にも部屋を出ていこうとしている。

「どっか、行くの?」
「ご飯貰ってくるわ。おなかが空いたままなんて蓮子も嫌でしょ? 何より健康に悪いもの」
「だったら私も行くよ」

 メリーは戸の前で少し待つ素振りを見せた。
 二人出た廊下は、やはりと言うか人気が無い。部屋の変更に伴い、今朝より少しだけ長くなった廊下。階段下のエントランスにもう人だかりは消えていた。鼻をざわつく違和感も今はあまりない。消えたのか、慣れたのか、それまでは分からなかった。
 困ったのは食堂が開いていない事だった。当然と言えば当然だが、人が居ないから他を聞くこともままならない。
 その中どうせなら従業員室にでも寄ってみようと言い出したのはメリーだった。何処にあるのだと聞けば、初日に方向の見当は付いている筈だと返された。
 エントランスの奥、階段の後ろに目をやる。最初に転がり込んだ時、女中がかけて行った場所。覗き込むと確かに一つ、古ぼけたドアがある。横の文字はかすれて読めないが、およそ休憩室やら、それに類した言葉であるのだろう。
 どうしたものやら、まずは叩こうとしてドアが開かれた。中から人が覗き、蓮子達の姿を確認して足を止めた。

「あら? ……どうか、しましたか?」
「いえ、その、ご飯の無心に……」

 途端に気恥ずかしくなってメリーへ助けを乞う。だがメリーは、いつの間にか一歩下がっていて、無言でその乞いをはねのける。
 女中が少しだけ微笑んで二人を部屋の中へと招きいれる。顔が熱くなるのを感じながら、蓮子はそれに続いた。
 ただ、その時。蓮子は自らを見て察するべきであった。蓮子はドアの有ったその木枠をくぐる瞬間、ぬるりとした空気の壁を感じた。気圧の様な、半透明の個体の様な。空間の違いを感じ取らざるを得なかった。
 それは襲い来る視線、介在される意識の壁。部屋に入ってすぐ、蓮子は自らに視線が、一斉に注がれるのを感じた。蓮子はどきりとした。不意を突かれた。その視線は顔を合わせようとするとまた一斉に目をそらす。その退き口は鮮やかで実は最初から見られてなどいなかったのかもしれないとすら思える。そんな程度には、蓮子はこの部屋の住人から歓迎を受けていた。
 異様な空間だ。部屋自体は何の変哲もない小さなものだ。ソファとテーブルの簡素な内装に流しが備え付けられている。だがそこにひしめき合うのは蓮子達を含めて八人。明らかに手狭な部屋だった。

 先の女中はもう奥に行ってしまってここには居ない。後悔の念が軽くよぎった。安易に過ぎたのだ。蓮子ですら、不快の念や、気落ちでありや、抱え込んで燻っている。いわんや当事者をや。それを想定しなかったのは明らかに蓮子の落ち度であった。
 こんなにも空気とは変わるものだろうか。この部屋には事件に対する不安とは別の暗いものが渦巻いている気がした。蓮子は気持ちその目の先を下へ向けていた。顔を上げたくなかった。無意識にそうしていたのだ。上げればまた異様な目が、今度はそらすことなく見つめている気がして。
 棘のない黒く分厚い布。そんなイメージが浮かんだ。棘は、痕跡を残して巧妙に隠されている。メリーは目を閉じてただ立っていた。視線にも臆することなく。気持ち、体を寄せた。メリーは受け入れるように、少し腕をくっつけた。蓮子は先ほど戸を開けた、比較的まともそうな女中が帰ってくるのを待った。彼女は奥に行ったきり戻ってこない。
 いたたまれなさに耐え彼女がようやっと戻ってきたとき、手には二つの皿があり、そこには盛られた握り飯が乗っていた。他に皿は無い。二日連続で米しか炊けてない。

「ごめんなさいね、こんな物しか用意できなくて」
「あ、ええ丈夫です。こんな時に食べられるだけでもうほんとうに」 
「丁度他の食材も切らしてしまって、お米しかないんです。代わりにお米ならあるので、どうぞ好きなだけ」

 皿を取ろうとし、蓮子は逡巡した。あまりここで食べようとは思えない。歓迎されることもないだろうし、何よりこの場に長く留まりたくない。長居をさせない空気があった。

「これ、部屋に持って行っても?」
「ええどうぞ、他の方の分は別にありますので」

 女中の言葉も、むしろそれを勧めているように聞こえた。そそくさと皿を手に入れ部屋を後にする。背を向け扉を閉めるとき、一際強く視線を感じた。舐めるような幾つもの視線を。蓮子は振り返らず、後ろ手で扉を閉めた。

「メリー」

 階段を上りながらたまらないように相方へ話しかける。

「ん?」
「やっぱり居心地悪いね、ここは」
「でしょうね。あの人達が感じているものが何か、蓮子には分かる?」

 廊下を歩きながら、メリーがそう言った。蓮子には分からない。メリーが部屋の戸を開けた。

「恐怖よ。あの人達は、滑稽にも、私や蓮子の事までその対象に選んだの」

 蓮子は、暫し呆然としていた。言葉が入らなかったのではない。ただ、そんな事、思わなくても良いじゃないかと思えた。
 感覚的な理解が出来なかった。怖がられる理由が自分達にあるとは、到底思えなかったのだ。ただのか弱い女学生二人である。妙な事をしたわけでもない。メリーはそれ以上は何も言わず、はやく食べようと促してきた。
 二人でほぼ交互にさらに手を伸ばす。だが、交わされる言葉は無かった。黙々と、米の塊を口に運ぶ。黙々と、ただ黙々と。言葉が出てこなかったのだ。それほど相方の言葉は、抗えぬ真実味を持って蓮子の心に残った。
 あんな視線を向けられる謂れは無い。蓮子は自分の気が、また一つ滅入ってきているのを感じた。思うよりも早く、環境は心を蝕む。
 山盛りの半分を食べ終わった所で、両者の手が止まった。

「残っちゃったね」

 女学生二人には多すぎたのだ。ぼうと眺めて、夕飯に、固まったそれを食べるのを想像する。二度あの部屋に行くのは嫌だ。受け取るのも、返すのも。

「別に私が行ってあげても良いわよ? 私は大丈夫だし」

 心機を察して掛けられたメリーの声色は優しい。蓮子を気遣ったその気持ちは本心で、そして本当に大丈夫なのだろう。メリーはあの部屋の住人を何とも思っていない。
 それは蓮子だって同じだ。決して悪印象を持つわけではない。非常時に、妙な対応を取ってしまう事がある。その程度の理解と分別はあるつもりだ。しかし、行くとなると。蓮子は二の足を躊躇してしまう。踏んで、次の一歩は無い。行きたくないし、行かない方が良いという思いも強くある。
 だから、余人には計れぬ結界のようなものがあの部屋には存在するのだ。他者を阻む結界が。淀んだ気が押し留められて凝縮する。それは本来、人の立ち入る場所ではない。相方を一人で行かせる場所でもない。

「……意地悪、言わないでよ」
「だって蓮子、嫌そうじゃない。別に気にすることないわよ」

 そんな問題ではない。相方に面倒を押し付けて自分はのうのうとお留守番でもしている、それを蓮子のプライドは許せなかった。それは、あまりにも酷ではないか。メリーではない、蓮子に対して。あまりにも情けない真似を強要される。
 メリーが何でもないように立ち上がろうとする前、それを見るのが嫌で蓮子は皿を引っ掴んだ。
 メリーは目を白黒させて、それから生暖かい視線を蓮子へ向けた。それで、どうするのか、と。ムズがる子供を見るような目で。それを振り払うよう、蓮子は外へ出た。

「もう、待ってよ。悪かったから」

 半分笑いながらメリーが追いかけてくる。むくれた振りをして蓮子はさっさか歩いた。
 こんなもの、気負うから妙になる。普通に渡して普通に帰ってくるだけの簡単なミッションだ。なんなら睨み付けてくる人びとに対して文句を言ってやっても良かった。それで少しは、あちらの気も紛れる事だろう。
 階段を降りようとしたところで、下から上ってくる者がある。探偵だ。ため息を吐いていたのが、人影を察したようで顔を上げる。目が合う前、緩んでいた顔は外行きのものになった。

「やあ、おや、今朝方ぶりだね。どうだい新しい部屋は」
「ええ、良い部屋ですね。景色も良いし、外に出るのも楽そうです」

 メリーが皮肉を込めて笑顔を返す。それを感じたか否か、探偵はどこ吹く風と言った表情でそれを流している。

「良い部屋だろう。まあ、景色は面白味もない上に夏は虫が入るけどね。でも気に入ってくれたようで何より。あ、でもあそこから外には出ちゃだめだよ。色々荒れちゃうからね……ところで」

 ちらりと、蓮子の方へ目をやる。

「はい?」
「その、手に持ってるのは、もしかしてもう食べないやつなのかな? できれば譲ってくれると嬉しいんだけど。情けないことに、ご飯貰い損ねちゃって」
「それは、まあ、良いですけど」

 こちらとしても願ったり叶ったりである。言うと探偵は迷わず皿から二つほど掴み取り、そしてあっという間に一つを平らげ皿を受け取った。

「いやあ本当に助かったよ。お預け喰らっちゃってさ、このままじゃ丸一日何も食べられない所だった。こちとら朝食も抜いているっていうのに……」
「それは、あー、災難なことで」
「災難だよ。まあ、あの人たちの言う事も分からいではないからね。こうして文句も言わずに調査してるんだけど。でもなあ……ううん……そうだな、君達、あの辺りに足跡があるってのは誰かから聞いたかい」

 言って階段右、ドアと壁の向こうを指す。それは確かに二人が女中から聞いた場所と一致した。

「いきなりでなんなんだけど、君達ちょっとそれ見てみる気はないかい。少なくとも話のタネにはなると思うけど」
「いえ、遠慮しておきます。怖いですもの、そんな犯行の証拠だなんて」

 即座にメリーが答えた。実際蓮子もそれほど見たかったわけではないが、それでも何も聞かれなかったのには驚いた。

「ははは、まあそうだろうね。でも頼むよ、これも人助けだと思ってさ」
「他に、適任が居るんじゃありませんか? 素人の意見なんて何の足しにもなりはしませんよ」
「いやいや、これが中々ね、素人の意見も馬鹿に出来ないんだ。それにむしろ僕は君達にこそ見て貰いたいと思っている。外の人間にね。僕は、やっぱりどうしてもこの土地の人間だから」

 さりげないが、その言葉に何か並々ならぬ含みを感じて蓮子は探偵を見た。探偵は、変わらずどこを見るでもなく笑んでいたかと思うと、さっと身を翻してその扉を開けた。

「来るなら、来てくれれば良いさ。足跡はそこの、窓の向こうにある」

 雑然としたその部屋は、やはり物置として使われているようだった。探偵はその中、通り道のようになった場所を歩くとそのまま窓を乗り越えていった。窓も、扉も。開かれたままになっている。
 冷たい風が通り抜けていく。蓮子は相方に目をやった。相方は動こうとしない。そして、蓮子が見ているのに気付くとちらりとその方を向いた。

「どうするの? 蓮子」

 そう言った。静かな言外にはしかし決して賛成しない思いを匂わせている。蓮子はためらった。少なくとも見てやる必要性は二人には無い。
 だが蓮子は、もう一度、相方を見やると扉へ向かい歩いて行った。メリーの吐く息が重くなる。

「行くの? へえ、行くの。私は止めないけど、蓮子は良いの。あなたこそ怖がっていたんじゃなかったかしら」
「うん……。でも、多分大丈夫だと思う。いくらなんでも一般人相手にそこまで変なものは見せないだろうし、それに……」

 このまま戻ったとして、どうせ何をすることもないのだという思いもあった。ただ部屋にこもり鬱々としながら救助までの時間を潰しているよりは、ここで探偵に少し程度でも協力をした方がまだ有意義に感じる。それに気晴らしにもなる。さして意識はしていなかったが、蓮子にとってそちらの方がずっと優先されて動いていた。
 空気の通り道がそのまま人の通る道を示しているように思える。二人は物をよけながら窓の傍まで行った。探偵は、既に窓を乗り越えて向こう側へ行っている。

「やあ、君たち、来たね」

 まるで来ることは分かっていたような口ぶりだった。二人を部屋の中で留めると、探偵は手で目の前の雪面を示す。縄で囲われた細く長い範囲、そして足元。
 蓮子はそれを見た。犯人の残して行ったと言われる足跡。遠目から、小さく縄の張られているのを見るだけだったそれを、間近で見た。
 横からメリーが奇妙な声を上げた。その目は雪面に釘付けになっている。メリーの声が無ければ、蓮子も同じように何ともつかぬ言葉を発していただろう。
 メリーは鋭く雪面を見つめている。そこに足の跡はなかった。代わりに何か、赤いものが点々と雪面に付着している。

「君たち、これ、何に見える」

 探偵の言葉は短かった。この反応も予想していたのだろう。蓮子は、何を言ったものかと思った。事件現場に残されてペンキというわけもあるまい。これは間違いなく血だ。だが、それをそのまま言ったものかどうか?

「血ですね。見るからに」

 その間を破ったのはメリーだった。もう驚きは消え冷ややかな眼差しになっている。

「そう。そして同時に、足跡でもある」
「それは……痕跡という意味で」

 蓮子が口をはさんだ。決して言葉通りの意味には取れなかったのだ。だが探偵は首を振る。

「いや、そのままの意味さ。こいつが犯人の足、そして辿って行った道だ。ご丁寧にもこんなにわかりやすい道筋を残していってくれて、そして途中で霧消している。今からじゃ追いかけても捕まる事はないだろうね」

 蓮子はまた訝しげな目を向けた。それが違うのは聞くまでもなくわかる。この足跡が、たとえば何か二人の活動領域、怪奇の辺縁に触れるような設定だったとして、その真贋は一目で分かる。伊達で活動をやっているわけではないのだ。これはちゃちな仕掛けで、話にのぼる価値もない子供だましだ。
 だから不思議だった。それを何故二人に見せるのか。蓮子にはその以上の感想は無かった。何故探偵がここまで勿体ぶった言い方をするのか、蓮子には分からなかった。

「まさか、本当に?」

 その設定で通すつもりなのか。だとすれば蓮子も内心唸らざるを得ない。なるほどそんなものは、部外者にでも頼むしかないだろう。当事者に話して白い目で済むとは思えない。
 ただ解せないのは犯人がわざわざこんなものを残していった事だった。蓮子は何を調べるでもなく子供だましだと見て取った。それが、いわんや観察の専門家を。この仕掛けは本来人を騙せるものではない。

「おおよそ、目を眩ませたかったんだと思うよ」

 探偵が答えた。

「周りがこれだからねえ……。異常ごとが起きても説得力を持たせられると思ったんだろう。君も、これが人の足跡じゃない事は分かっているんだろう?」
「ええ、まあ……」
「これが犯人の足跡でなかったとして」

 また、メリーが会話を遮った。

「犯人の当ては付いているんですか? これが捜査の役に立つとは、どうにも思えませんけど」
「それは、まあ安心してもらっていいよ。こっちは確かに役には立たない。こんなものはサブだし、それにこんな仕掛けに証拠を残すような間抜けならねえ、とっくに捕まえてるからね」

 そういって苦笑する。メリーが目で、もう良いだろうと促してきた。これ以上特に用事もないだろうと。探偵は二人にこの光景を見せた所でその目的を終えたようだ。引き止める素振りは見せない。
 蓮子は一瞬、二瞬ほど反応が遅れた。探偵の言う言葉をだからどうしたのだろうと聞いている内に、いつの間にか、ここでするべきことは全く終わってしまっていた。
 本当に言葉通りだった。話のタネにはなるかもしれない。こんな間抜けが居たのだと、いつか話す時があるかもしれない。だがそんなもの、わざわざ足を運んで得るものではなかった。むしろわざわざ足を運ばされたこの状況こそ話のタネである。

 だが反面蓮子は、その中にも今一つ引っ掛かりの様なものを感じていた。
 例えば探偵の言動だ。メリーが遮る前、探偵は何を言わんとしていたのだろう。人の足跡でなかったからなんだと言うのだ。探偵は説得力と言ったが、そもそもその発想に至る事自体がおかしい。
 おかしいと言えば、まず蓮子やメリーをここに呼んだことからしておかしいのだった。何がおかしいのか。メリーが踵を返す間、蓮子の思考は密度を増す。そういえば蓮子達を呼ぶ時も気になる事を言っていた。外の人間と。裏を返せば探偵は中の人間なのだろう。何の中かと言えば、

「村の、中……?」

 つぶやく言葉に探偵が反応する。歩き出そうとしていたメリーは、それを聞いて足を止めた。
 これかと思った。そう、村は外と中を分けている。中にいる人間にはこの足跡を見て、これは推測だが、きっと蓮子とは違うものを感じるのだ。いや、違うものが視えるのか。そしてそれは探偵には限らず、きっと村の人間全体に及んでいる。
 さっと、あの部屋の光景が浮かんだ。狭い部屋にひしめくようにして、怯える女中達の姿を。あの人達も村の中の人間だ。だからその対象があるのなら、きっとこの足跡もそうなのだろう。あの人達の恐怖の対象はこの足跡だ。この取るに足らない足跡に、何事かの理由を持って怯えていた。
 だが、そんな事が可能だろうか。蓮子達のようなオカルトに染まりきった者でさえ、まずその類の話は疑ってかかる。疑ってから、ある程度の成算を持って、活動として取り掛かる。蓮子達でさえそうなのに、一般の人間がと。でも、きっとそうなのだと思った。どこか納得できるところがあった。
 あの部屋は身を切られる、半ば確信に似たものによって埋め尽くされていたから。

「元になった伝承、あるいは民話が、あるんですね?」

 このトリックは、成り立ってしまう場だからこそ使われた。村民の間に流れる共通認識。山奥にあるような代謝の遅い土地は、昔のものが良く残る。
 ついに探偵がギラついた目を向けてきた。正解だ。そして正解を得た人間を、再び値踏みする目だ。

「いやあ、そうだね、驚いたよ。確かにその通りだ。どうにも中々勘が良い。土地の人間でもないのに……大学ではそういったものを専攻で?」
「ええ、まあ」

 答えはぼかした。一言で表せるものではないし、吹聴して回るものでもないからだ。探偵は納得をさせるように首をかしげる。

「そう……そうか、うん。お恥ずかしい限りなんだけどね、まあ色々とこの土地も昔話に事欠かないんだよ。小さい頃から聞かされてるから、本当は君達みたいなのが正しいんだろうけど、周りが皆信じてると僕も流されそうになっちゃって」
「そこに、雪と足跡の話も載ってるんですか?」

 もはや食い付くように質問を投げかけている。載っているのなら、それに見立てた仕掛けだろう。既に半ば活動の心気を体に纏い、蓮子の精神は活性を見せている。だが予想とは違い探偵は首を横に振った。

「さすがにそこまでドンぴしゃりのは無いな。こんな雪、今はともかく昔じゃ土地が壊滅してるだろうからね。起きたら残らないし、残すならもっと大きく残すよ」
「じゃあ……」

 それ以外に? その言葉を押し留めて探偵が虚空を見た。思案をするように。思案の事柄が、存在するように。

「みんなね、小さい頃に見るんだ。何故かどの家にもあってね、それを掘り当てるんだよ。幾つか版があって、それぞれ少しずつ中身が違ったりする。民間伝承やら何やら、ごっちゃに寄せ集めた本さ。宇宙人の話も載ってるトンデモ本だよ。ただね、ただ……」

 一拍の間。

「ただ、初めの部分だけは一致しててね。この山には神様がおわす、って所から始まるんだ。その神様は、山を荒らす人間を迷わせて、懲らしめる。それだけはね、どのパターンでも一緒なんだよ」


――


 その言葉に、瞬間蓮子の瞳が輝きを増した。もう憂き目はどこかに飛んで行ってしまっている。心の中にくすぶる火種が熱を持つ。
 メリーが袖を引く。もう用は無いだろうとの意思表示。蓮子も逆らう事はなく適当に挨拶してその場を後にする。探偵は、皿を片手にまた囲いの傍へとしゃがみこんだようだった。

「ね、蓮子。このまま大人しくしていましょうよ。もう暫くすれば、雪を割って道も通るようになるわ。それで早く帰って、こんな事件忘れてしまいましょう」

 開口一番、部屋に戻ってメリーはそう言った。もう面倒ごとはたくさんだと、首を突っ込む真似はよせと、その目が訴えている。
 だが蓮子はそれを聞き流し、 

「あの跡は、結局なんだったと思う?」

 と聞いた。メリーの言う事を半ば無視する形で。

「……探偵さんの言ったとおりただの目くらましよ。あんなもの、児戯にも等しい」

 メリーが眉をひそめて返答する。だよね、と返して、蓮子は沈黙した。
 児戯とは、よく言ったものだと思う。結局あの細工が何を目的とし、どう達成されたかを思えば、およそいっぱしのトリックとは、まして妖怪騒ぎの証拠だなどとは決して言えないものだ。
 しかしそんな事は問題ではない。探偵はあの仕掛けを無意識に通用するものとして見ている。あるいは通用する場であると自覚している。掲載順から言っても、本の内容によっても、あの山の話は実際にこの土地にとって重要なものだ。
 そこに意味がある。蓮子は相方の態度が不思議でならなかった。これは普段なら十分活動原因に足るものだ。それに活動に入れば、それはメリーは平気なのかもしれないが、この鬱屈とした空気からも少しは解放される。良いことづくめではないか、と思う。
 覗うと、いつの間にやら、メリーは備え付けのポットを持ち出してお湯を注いでいる。視線に気付いて蓮子の方を向いた。蓮子は、自分にもくれと目配せしてまた下を向いた。
 思えば探偵との会話にもどこか棘があった。何か嫌な理由でもあるのかな、などと考える。蓮子は、もはや強行的に、活動の態勢を整えようかとも思っていた。

「はいどうぞ、白湯ですけど」

 メリーが湯飲みを差し出し、卓の向かいに座った。啜ると、湯の、味とも言えない味が口に広がった。苦い顔で蓮子はメリーを見た。せめて茶葉くらいは使って欲しかった。

「また何か、録でもない事考えてるでしょう。罰よ」

 それを、いきなりそんな事を言うので、思わず蓮子はむせ返った。
 見ればメリーの湯飲みに入っている液体には色が付いている。メリーはそっぽを向いていた。しかし意識は明瞭に蓮子へと注がれている。

「ね」

 視線を外したまま、メリーが話しかける。

「それってさ、今現時点でどうしてもしなくちゃいけない事なの? 危ないかもよ? それでも蓮子はやりたいの?」

 静かな物言いに、ぐっと肺腑を抉られた気分だった。
 メリーは分かっている。分かった上で蓮子の行動を否定している。既にお互い、相手のとる行動など痛いほど分かっているのだ。だから先手を取られたのは、蓮子が甘かったからだろう。メリーは、次を譲るように黙っている。蓮子が半身を乗り出した。

「メリーは気にならないの?」
「さあ?」

 その返事は軽快だ。取り合う気を見せていない。手が悪い、と感じた。メリーに是を言わせるには方向が違う。少し蓮子は俯いて、次の手を探した。

「じゃあ、そうだな、逆にメリーは、どうして行きたくないの? 私は行きたいよ?」

 ねだる様な格好だ。情に迫る。これも説得には多少不格好ではあるが、それで流されてくれるなら重畳。そう思っていると、聞いたメリーはかすかに笑った。

「私、蓮子のそういうひたむきなところ好きよ」
「てれる」
「でも、蓮子はどうして行きたいの? それがない以上私はうんとは言えないわ。素人の雪山だなんて危ない事、実は本当に犯人が潜んでるかもしれない。それを覆すものが、蓮子にはあるの?」

 蓮子は、おぼろげになら、あった。山も、犯人も、自らを阻みはしないだろうなという予感があった。だがそれは例えば総合的な判断であって、一概にこうと言うのは難しい。
 だから、蓮子は言葉を探してしまった。すぱりと、メリーに答えを提示することが出来なかった。その間、一瞬の沈黙に、メリーは取り入ってくる。決然とした語調で。蓮子を断つような、剛芯の刃物と化して。

「駄目ね。それじゃ私は動かない。言うほど行く必要が見えないもの。良いじゃないまた今度で。それに変なことしたら探偵さんに怒られちゃう。軽々しく、活動していい雰囲気じゃないでしょ、今は」

 そして、話は終わった。
 正確には終わらせられた。これ以上続けることをさせない空気が、メリーによって形成されたのだ。
 全く一瞬であった。確かにメリーの言う事は尤もなのだ。この期に自分達だけ遊びに出るとなれば、きっと不謹慎のそしりは免れない。それは、少なくとも人間、進んでやる類のことではないだろう。
 だから、静かに、じんわりと。蓮子はそのまま黙る事を余儀なくされた。まだ話したい事はあったのに、機を外された。すると最初から始まってすらも居ないのに、段々と今回は諦めても良いのかなという気持になってくる。言霊とはそれほど自己を縛るものだ。蓮子はもう、次回の探索案をすらうっすらと考え始めていた。
 しかし、違うのだ。弱気な蓮子の心に、それは違うと声が響く。

「私達、そんな良い子じゃないでしょ?」

 それこそ、今さらにもほどがある。
 蓮子など幾らグレーゾーンを歩いたか。それはメリーも同様だ。慣れ親しんだ蓮子に引っ張られる形で、二人は一蓮托生、半反社会的学生といっても過言ではないまでに生きてきた。
 つまりは大人に怒られる事程度、我慢しさえすれば物の数ではないのだ。

「駄目よ、こんな目立つところで、捕まりでもしたら面倒よ? ただでさえ蓮子は叩けば出る物がたくさんあるのに」

 それもまた、尤もなことであった。好き放題生きたツケと言えよう。今や蓮子は限られた人間から火薬庫と呼ばれている。爆発すること、だけではない。巻き込むことも含めての暗喩である。

「でも、私は行きたいんだ……」

 メリーは、おかしい。守りに入りすぎている。
 だって、そうではないか。一目見れば分かる事だ。この光景、窓の外を。二度とあるような事ではない。この中に精神を刺激されない人間が居るのだろうか。それは蓮子の様な人間は通常物好きと揶揄されるものかもしれない。だが、ならばこそ、二人は臨むべきではないのか。
 亀裂が見えた。交渉の線の、決して交わらない事が、二人に感じ取れた。だが蓮子に折れるつもりは無い。それは多分に意地が含まれたものであったかもしれない。蓮子自身、それに気付くか気付かずか。しかしその強情は、もはや確定的になった。メリーは湯呑を静かに置く。彼女に気持ちは伝わった。蓮子は、それを見て、何やら申し訳のない気分になった。

「メリー……」

 その姿は、このまま話しかけられることを拒んでいるようにも見えた。目を閉じて、蓮子の次の言葉を待っているようでもあった。蓮子は声をかけようとして躊躇った。
 メリーが目を見開く。整った姿勢で、その視線は真っ直ぐと蓮子に向けられている。合った目を思わずそらしそうになるのを、蓮子はぐっと堪えた。

「ごめん、メリー」
「何で謝るのよ」
「私、行くよ。一人でも、行く。メリーは私を、止める?」

 メリーの瞳は蓮子を射抜いている。
 もうメリーは止めない。非難がましく睨み付けてはくる。でも力づくで、強引に止めさせたりしないことを蓮子は知っている。
 仮に逆の立場だったとして、メリーと同じ気持ちだったとして、蓮子なら止める。何を言われようとも、絶対にやめさせる。だがメリーは、そうする事で結局蓮子が反発するのを知っている。
 だから止めない。無駄な労力を使いたくないから。蓮子もそれを分かった上で無理な要求をしている。止められれば、止まってしまうものかもしれないのに。
 視線は交わされ続ける。メリーは何も言わなかった。何も言わないまま、ただじっと、蓮子を見つめていた。

「……好奇心は猫を殺すわ。身の程もわきまえず邁進した結果、それは無残に死んでいくの」
「だめ?」
「せめて、夜に、月が出てからに、しなさい」

 そして、大きくため息を吐く。

「そうよ、いいわよ。どうせ止めたって聞かないでしょう。あなたは本当に、勝手で、向こう見ずで、自己中心的。だけど条件があるわ。一時間で帰ってきなさい。そして約束して。私を、悲しませないって。あなたのしようとしている事がどんな意味を持つのか、分からないとは言わせないわ」

 頷く。
 日が沈み、少し欠けた満月が高く見え出した頃、蓮子は一人窓から外へと抜け出した。


――


 見上げる。空は快晴で、雲一つない。
 眼前、眼下、周囲を埋める雪は月明かりで青白く光りを帯びる。背後から漏れる宿の明かりがそれにも重ね周囲を照らす。夜なのに、そこは蓮子の想像する以上に明るかった。
 行動の芯はその信じられるものの確かさで決まる。蓮子はその点、客観的に全くの薄弱であった。第三者が視れば十中の十まで誇るべき相方に軍配が上がるだろう。
 だが蓮子は、雪上へ躍り出るともうそれら疑問を心から追いやっていた。代わりに蓮子を満たすのは確信。直感などと弱いものではない。蓮子はこの雪に信ずるところを託していた。何かが、あるとするのなら。それはこの特異な状況の中こそ相応しい。
 山が表情を変えた。蓮子の見方が変わったからかもしれない。染み出る空気が、怪異の象徴のように感じられた。
 小さな空間の先、ほんの少しの空き地の先、山の木々は雪に埋もれつつなおも大きくそびえている。その木の列が蓮子には一種の境界線に見える。
 蓮子は一歩、中へと踏み入った。それはいつしか、確然たる境界として蓮子の中に認識されている。もはやそれはただの木ではない。それは間違いなくこちら側とあちら側を隔てている標。
 空間は途切れることなく続いている。なのに数歩進むともう、現実に自分は山の中に居るのだと思わされる。今まさに蓮子は人界から抜け出たのだ。この先はただ山の中であり、一介の人間に過ぎない蓮子にとっては異界となる。
 山中異界、山中異界。昔の人はよく言ったものだ。蓮子はその中に身を置いた。あとは、きっと行くだけなのだ。一歩一歩、踏みしめつ坂を登る。厚い雪の層は、思ったよりもしっかりしているようで、意外と崩れはしない。少し近くなった夜空を見上げた。まだ、まだ先は長そうだと思った。

 歩く、歩く。木々を縫い起伏の少ない山地を行き、五分が、十分が消え。
 ……十五分と、四十一秒経過した。星は満天に広がっていて、少し視線を上にあげただけで時刻は入ってくる。位置は、思ったほど変わってない。人の歩む速度には限界がある。それが慣れない山道とあらば、なおさらだ。
 山の中は静かで、風の音だけが、ときおり蓮子の耳膜を震わせた。それは徐々に強くなってくるようだった。どこかで枝葉をざわめかせたり、空気を響かせたり。途切れ途切れの風が、その毎に大きさを増し、振るい、音だけを蓮子に届けてくる。それだけだ。それだけの、何もない山だ。
 当てが外れただろうか。もっと、入ればすぐに、お出迎えに会うと想定したのだが、既に引き返るまで半分を切っている。流石にあれだけ大見得切って手ぶらでは帰りたくない。
 しかし……果たして……何も異常はない……。一応、強いて気にするとすれば今も吹いている風音なのだが……蓮子自身確証が持てなかったのだ。風などどこにでも吹く。そしてそれはあまりにも遠かった。またもしよしんば蓮子の求める何がしかがあったとして、結局は歩かざるを得ない。遠すぎて、蓮子には視えないのだ。
 怪異の存在証明。それはあまりにも遠い。気を取り直して歩を進めた。単純計算で三十分は先に進むことが出来る。残り十三分を切っているが、それまでは希望を持とう。どうこう言うのはそれからだ。

 しかし転機は、それより早く訪れる。
 気付いていた風の音が、聞き逃せないほど大きくなっていたのだ。ここまで来ると蓮子も立ち止まっていた。風は四方八方から聞こえてくる。その一つ一つは轟音とまではいかないまでも、たとえば教室一部屋をゴミ山にするには十分な勢いを備えているものと見えた。
 蓮子は奇妙な選択を迫られた。遠くで出ている、あくまで予兆とも思える風の音だけで引き返すべきかどうか。さすがにこれ以上は不味いと思っても、しかし何を帰って報告するのか。何を。風がとても吹いていた。
 そんな、しょうもない……と思う気持ちを抑えて、蓮子は勘案する。油断、慢心は禁物だ。現時点で判断しきれない事はあるけれど、蓮子は干渉の術がない。術がないのだ! メリーを連れてくればよかった。しかし彼女が、嫌がってついてこないから一人でいるわけで。そしてその間にも風の音はまた大きくなった。徐々に、徐々に。

 蓮子はそれを聞き逃さない。きっとこれで終わりではない。これ以上進めば、またこれ以上大きくなる。その余地がある事を風は敏感に感じさせた。数歩、あとずさり後ろを振り返る。足跡は雪にくっきりと残っている。蓮子は踵を返した。退くときは徹底的に退くのも蓮子の信条だ。
 だが、それに呼応するかのように、風は向きを変えた。取って返す中、風が潮のように引いていくのを感じた。しかしかすかに、まだ、残り続けている。音の強弱が波のように周囲をうねっていく。蓮子は足を速め、半ば走るようになっていた。
 並走されている。風はその都度大きさを変えた。遠ざかったり近付いたり、する以前にその発生地点も移動しているのだ。気付かれたかと仮想の誰かに対して思う。行為の主体、意思の主体。空間が、一斉に自分を狙っているような気がする。飛びかかるその機を今か今かと待ちかまえられているような。もう、蓮子は形振り構ってなどいられなくなった。
 しかし遅い。いつか足をつくその瞬間、風は一足飛びにその大きさを変え、ついに蓮子の前方から吹きつけた。うなりの様な風。蓮子は咄嗟に目をつぶった。

 不味い、と蓮子は直感的に感じた。その風は熱的な寒さと同時に、感覚的な、自らと違うものへ対する畏敬を伴って吹き付けた。これは、直に行き当たってしまっている。引き返すのが遅すぎたのだ。蓮子は今、例の風についに捕まった。手でどうにか風を遮ろうとする。無駄な努力だ。
 蓮子は体を小さくして動かなくなった。この状況、むやみに移動するのは危険だと判断したのだ。その中で蓮子は薄く目を開けた。この強風の中、どうにか何かを見ようとして。だが何も見る事は出来なかった。視界は全て白く染め上げられていた。
 蓮子は愕然とした。本当に何も見えない。無理やり目を見開くと顔に冷たいものが当たってくる。雪だ。これは、雪が吹き付けている。
 手を伸ばした。前へ、わけも分からずに。霧が晴れるように視界は戻り、周囲には雪と、木と、かすかな風の音だけが残った。

 何が起きたか、体には雪が付着している。だがそれだけで、他に異常と呼べるものはない。蓮子は逆にそれが奇妙な、不気味な事であるような気がした。ああまで吹いて、これで終わってくれるものだろうか。答えは否だ。長い経験がそう言っている。必ず、まだ一つ二つは隠し玉がある。
 蓮子はすぐに空を見上げた。何かあれば即座に星と月を見るのは蓮子の習性であるといって良い。すぐに今の時刻と場所情報が入り、蓮子は頬が引き攣るのを感じた。
 蓮子の能力。それを人に説明するとき、彼女は端的に視られているという表現を使う。月から視返されているのだと。地球の表面図がイメージ化されていて、その一点に焦点が当たり、限りなく小さくなっていくと自分の、そのシンボルのようなものが視える。
 その理解は直感的なものであったからこそ信頼できる。蓮子は既に山の地形図を自らの通った範囲限定であるが俯瞰図として把握している。その範囲における土地の理解はこの近辺の住人を含めても上位に位置するだろう。だからこそ蓮子は歯ぎしりした。こう来るかと、感嘆のような思いが混じった。
 眼に異常はない。だが蓮子の位置は、何も、前後の繋がりを示してはいなかった。歩ける距離でも、歩いた場所でもない。蓮子はこの一瞬に、遥か遠く別の場所へと飛ばされていた。

 山の中、ではある。それはこの光景が示している。雪と樹に囲まれた、暗い銀世界。かすかに聞こえる風も証拠になるだろう。
 どうしたものか、途方に暮れる。状況の突飛さに比べて割合落ち着いていられるのは経験のなせるわざだろうか。それとも、実感が追い付いていないだけだろうか。
 村の位置は分かっているが、同時に風の音も絶えず動き続けている。もう一度捕まれば、もう一度飛ばされるのは目に見えた結果だ。歩くにも止まるにも、良い手を封じられた形になる。
 とりあえず歩き出した。このまま夜が明けてしまうのだけは避けたい。蓮子にも、流石に丸二日歩き続ける体力はあやしい。風の吹く中、そちらに足を向けるか迷う。少し行こうとすれば、すぐにでもたどり着けるような音をしていた。
 一度、ひゅうと鳴った。蓮子のすぐそばを吹き抜けていった。蓮子は足を止めた。気持ち、音から体を遠ざけた。のるかそるか。再び歩き出したとき蓮子の重心は少し後ろにずれていた。警戒を解かず何かあればすぐに止まる、あるいは踵を返せるようにしている。
 しかしすぐに、また別の風が何処からか聞こえてきた。それを避けてもまた別の風が。殆ど行かない内に、ついに蓮子は四方を風に囲まれてしまった。まだ遠いが、時間の問題だろう。まず逃げられないな、と静かに蓮子は感じた。
 思い定めれば気も落ち着く。また、風が吹き始めた。今度は弱い。一瞬だけ立ち止まり思案する。この風は、ただの風だろうかと。もし先ほどと同じような予兆めいた風だったならば、この先に進めば蓮子はまた、何処とも知れぬ場所に飛ばされる可能性がある。
 一瞬の思案であった。蓮子はまた歩き出した。風が唸りを増す。雲も無いのに雪が、前から徐々に、大きく、薙ぎつけてくる。

 視界が晴れ、またも変わり映えのしない雪面に立たされても、今度は冷静に月を探す事が出来た。先ほど歩いていた場所から、大きくずれている。やはり関係も無い所に飛ばされていた。
 そのまま帰ることが出来ないのではどう動くべきか。歩きながら、周囲を眺めてみた。右も左も、月明かりに視界は良好だ。それが却って不気味に思う。今の蓮子にとっては、暗闇が広がっているのと何ら変わる所は無い。現に蓮子は、最早帰り道も、自分の居る場所も、掴む事が出来なくなった。
 空間が信用できない。それは生物にとって致命的な事ではないのかと、今更ながらに恐ろしく感じる。昔の、伝承の端に思いをはせる。この歪みは、伝承の体現なのだろうか。これを味わった人間が、遥か昔にも存在していたのだろうか。
 位置の分かる蓮子ですらこうだ、普通の人間にはたまったものではないだろう。しかも飛ばされるのは一度ではないと来ている。最悪、堂々巡りの後に体力が尽きる事も有り得るのだ。出るには運良く歪みの外縁に飛ばされる事を祈るしかないのか。

 歩く。風が鳴り始める。また、来るか、と思った。風は予兆なのだ。風と共に歪みは現れる。それとも、歪みと共に風が現れるのか。
 詮無い事だ。
 決断的に蓮子は足を踏み出した。迂回すれば避けられるかもしれない。しかし蓮子の目は前方の空間を見つめている。歩も、真っ直ぐと進み運ばれていく。
 そして、風が吹いた。雪の中、何故だか蓮子は自分が笑っていることに気付いた。視界が開ける。月を視る。場所は、やはり途方も無くずれている。
 周囲を見回し、また歩き出した。暫くするとまた風が吹き出してくる。蓮子は迷わずその先へ歩を進めた。笑みが深くなる。
 それに蓮子自身は気付いていなかった。ただ幾らかの高揚を胸に感じていた。何処から現れたのかも判然としないで。
 判然としないまま蓮子は、歪みを探していた。二歩、三歩と、半ば前傾しながら奥へと向かっていく。風が蓮子を押し返す。風だ。それを振り払うかのように、蓮子はまた一歩、大きく雪面を踏み込んだ。
 雪が吹く。来ればいい。来るだけ来て、飛ばされて。飛ばされた果てにこの眼は山の全貌を掴み取る。もはや根競べだ。蓮子は追いかける側だ。山は逃げる側。蓮子が力尽きる前に山の図を把握できるか、その勝負なのだ。
 逃げてみろ、と思っていた。そう思いながら蓮子は歩を進めた。決然と。すぐさま風が吹き出してくる。頬が歪む。目が、凶暴性を帯びてくる。

 雪の中、少し、長く感じた。まだ風が吹いている。その中で、声が聞こえた。
 聞き覚えのある声。だんだんと大きくなる。近い。しきりに誰かの名前を呼んでいる。

「……メリー?」

 まさかと思った。しかしこの場所で人を探す者に、他に心当たりは無い。視界が戻る。また、木と、雪と、薄明かりの中へと放り出された。
 声はなおも続いている。声のする方へ意識を向ける。木の隙間に、影が揺らいだ。

「メリー、……メリー!」

 思わず叫んでいた。声の主が駆け寄ってくる。やはりメリーだ、相方だ。

「蓮子、良かった、無事だったのね。あんまり遅いから探しに来たのだけれど……必要も無かったみたいね。こんな近くまで来ていたのなら」

 指差す方向に明かりが見える。あれは、宿の明かりか。戻って来ていたのか。
 相方に先導されつつ、ふと上を見た。星が、山に入り丁度一時間が経過したと教えてくれた。


――


 近づいてくる宿の明かりのなか、メリーはふいに立ち止まった。あと少しで部屋に着く、そんな所でおもむろに振り返った。

「どうだった?」

 小さく聞いてきた。宿の前、窓の外。質問の意図が読めず立ち尽くす。部屋からは明かりが漏れている。それが逆光になってメリーの表情はよく読めない。ただ声音だけ、少し楽しそうにしているのが分かった。

「視てきたのでしょう? 山の中。どうだった? 面白かった?」

 もう一度、メリーが聞いてきた。きっと黙っていれば何度でも聞いてくる。蓮子が答えるまで、この場で。ずっと。
 蓮子にはメリーの顔が分からない。向こうからは蓮子がどんな顔をしているか手に取るように分かるだろう。蓮子には分からない。だが視線は交差した。見える見えないとにかかわらず、確かに蓮子はそれを感じ取った。

「メリー……」

 答えを、待っているようだった。

「もう、単刀直入に聞くわ。メリー、あなた、視えているでしょう」

 シンプルな答えだ。相変わらずメリーの表情は隠れている。なのに、暗がりの中、かすかにメリーが笑ったような気がした。

「だって、危ないと思ったんだもの。相方をむやみに危険へ晒すのは当然避けるべきことよね」
「否定しないんだ」
「ええ、蓮子の言う通りよ、なんて、そう言ったら蓮子は、怒る?」

 甘えたような声色が蓮子の耳を撫でる。時々使う手だ。具合が悪くなったとき、不都合が起きたとき、面倒事を押し付けるとき。蓮子は眉根をしかめた。そうそう騙されてやるつもりもない。

「一言、ううん、説明くらい、あったって良かった。今さら何でなんて聞かないけど、ねえ、教えて。メリーから視て、あの山はどう映っているの?」
「難しい質問ね、言いようがないもの。端的に言えばぐちゃぐちゃの結界が視える。もっと言えばぐちゃぐちゃの大きな結界が視える。それだけよ」

 眺めるようにメリーは首を傾けた。蓮子の背後、闇の山中。

「ええまったく、よくもこうまで歪んだものだと感心するわ。あなたが何を見てきたか知らないけど、まず十中八九関係はしてるでしょうね。あっちもこっちも、本来あるべき姿とはかけ離れている。こんなにも大きいのだもの、蓮子、あなたなんか飲み込まれてしまうかも」
「もう何度も飲み込まれたわよ」
「まあ怖い」

 それでも無事に戻って来れたんだから良いじゃない、とメリーは言った。そういう事を言ってるんじゃない、と蓮子は返した。

「危ないでしょうが」
「大丈夫よ、私が行かなければある以上は開かないわ。それに、虎穴に入らずんばが蓮子の信条じゃなかったの? 虎穴に入って、そして蓮子は結界の存在を知った。良いじゃないそれで。何か怖い目にあったのなら、それも良い教訓になったでしょう」

 ぐうの音も出ない。言葉に詰まる蓮子をメリーは愉快そうに眺めている。

「相当に大きいわよ。結界の規模は、おそらくこの山の全域。視界外は判別できないけど、感覚的にね」
「全域?」

 メリーはこの山の範囲を分かっていない。
 おうむ返しに聞き返していたが、内心、蓮子にはそれは考え違いだと思えた。それは、確かに結界も大きい。蓮子一人で作用するほど、力もある。だが蓮子はこの山を肌で感じた。この数歩で歩ききれる、あるいは把握しきれる大きさではないと断言できる。いわんやメリーを。山一つ、いや連なる一区域を覆い尽くす結界などそうあるものではなかった。

「よかったわね蓮子、大物よ」

 なのに相方は、あっけらかんとそう言ってのけた。思わず後ろを振り向く。山の、今登って行った坂の向こうは見えない。

「山の、全域?」

 声が上ずる。メリーは無言で頷いた。もう一度蓮子が山を見上げた。
 本当に、全てなのか。山の威容に戦慄が駆け巡る。今まで何の気にも留めず歩いていたが、それほどの不可解が罷り通る正体とは何なのか。あまりにも常識とかけ離れすぎてやしないか。それほどまでに隠さなければならない物がこの場に存在するのか。
 もしやと思った。図らずも蓮子は、かなり奥の本質にまで足を入れてしまったのではないかと。一つの神社や寺ならば良い。だがこの大きさの結界をも把握できずして、あの法に何の意味があるのか。
 法、である。数あるオカルトサークルの中で、半ば禁忌として伝えられている法。
 政府は、法をもって結界暴きを禁止している。破れば、罰則がある。それなりに重い、しかし決して主張がされる事はない程度の、軽い罰則が。
 それはつまり、正規の手続きを経て法が法として通された事を意味する。当時、政府は結界の存在を確認していたのだ。そして法が出来た以上、当然、政府は結界を閉じる。その筈だ。あるいは秘匿する。
 そのどちらも、された形跡は無かった。過去から、現在まで。この法が有名無実と揶揄される所以である。現に今まで、関連する判例すら存在せず、政府はそも結界を判別する術を持たないのではないかと、そんな噂もまことしやかに囁かれている。
 だが、秘せられる物には秘せられる理由がある。明確に開示されるまで、それを暴く行為には歪みが付きまとう。
 恐ろしい考え。あの法はむしろ逆で、この結界をこそ隠すために作られたのではないか。他は全て枝葉末節のおまけで、これのみが重要な対象であって。ならばそこに辿り着いてしまった者はどうなるのか。
 唇がわななく。勿論これは未だ憶測の域を出ない。実の所政府は結界に対して何の手立ても持っていないのだ、とも取れる。ただ臭い物に蓋をしただけで。それにそう思ってしまった方がずっと楽だった。まだ二人は、ほんの学生なのだ。

「ちなみに……」

 黙り込んだ蓮子を見かねて、メリーがもう一つ言葉を挟んだ。

「今なら抜けられるわよ。あなたも見たんでしょう? あれはもう、相当に綻んでいる。あちこちがボロボロよ。私も行けば、まず門は開くかしらね」

 メリーの言葉が甘い誘いとなって蓮子を襲う。
 ここが境界だ。境界の上だ。蓮子は図らずしてそこに立っていたのだ。手を伸ばせば、伸ばす意思があれば、すぐにでも渦中へと飛び込む事が出来る場所。幻想の渦中へ。

「私は、また入るべきなの?」

 背中でメリーに語りかけた。目の前に確固としてあるそれを見逃す事が、秘封倶楽部に許されるのか。
 何を天秤にかけたとして、先に進むべきではないのか。

「さあ、知らない。私はあなたに付いていくもの。それを決めるのは蓮子よ」

 メリーは何も答えてはくれない。答えるつもりも無い。そうしてくすくすと笑い声をあげた。蓮子はじっと山を見ていた。雪に覆われた山の、目に見えぬ結界を。


――


 くらり、眩暈を抑え、蓮子は佇んでいる。会話が途切れたしばしの沈黙の中、蓮子はふらと一歩足を踏み出しそうになった。場の空気に流されて。まだ考慮は終わっていない。
 それは情報の過多、混乱に惑わされた暴挙だろうか。違う。違うはずだ。蓮子はそんなヘマはしない。
 そう、いつしか自分に言い聞かせていた。岐路の直感ほど頼りになり、また当てにならないものもない。蓮子は揺れていた。先の手が、読めなくなった。いや、読めないだけならまだいい。正確にはどちらを選んでも先に見える、好ましからざる結果が蓮子の足を留めていたのだ。
 蓮子は薄れゆく意識、淀みの迷路へ嵌り込んでゆく意識の中で、回転する星を見た。あたかもコイントスのように、前途を象徴している。刹那的な時間経過の中星は止まろうとしている。その星は蓮子を見据え、答えを、示そうとする――
 瞬間、背後から不意を突いて物音がした。
 はっと我に返る。真夜中の、裏庭。人などいる筈もない時間である。咄嗟に蓮子は身構えた。音は蓮子の後方左、宿の陰から聞こえてきたようだった。

「驚かせちゃった、かな?」

 ぬうと人影が現れる。影は害意が無いことを示すように手を開いて、丸みを帯びた声でそう言った。出ると同時、手から降ろした袋ががちゃがちゃと音を立てる。

「こいつを置きに来たら話し声が聞こえてねえ。なんだい、散歩かい? こっちは入っちゃいけないって言ったんだがなあ」

 宿の明かりが影を照らし探偵の姿を表した。探偵は苦笑を浮かべながら二人へ近付いてくる。先んじてメリーが軽く会釈をし、蓮子もそれに倣う。探偵も、それに返すよう手を振った。

「ん? 君達、山に入ったのか。無茶するねえ……どうだい、犯人は居たかい」

 足元に続く雪の跡を目で追いながらそう言う。蓮子は曖昧な表情で返した。自分が今、決して褒められたものではない状況に居る事を知っている。碌な返事を返すわけにもいかず、ただ通り過ぎるのを待った。
 それに、だからだろうか、探偵の言葉にも、どこか角があるように聞こえたのだ。その心証は察されたようで、探偵は大仰に手を振る。

「ああ、いいよいいよ、そんなに気にしなくても。こっちはあまり重要じゃないからね。それにずっと部屋にいろってのも、不健康だし。そのくらいは大目に見ますよ」
「それ……」

 メリーが探偵の持っていた袋を指さす。

「なんです?」

 見ると探偵は、もう片方の手にも何か持っているようだった。二条の突起が付いた箱のようなもの。少なくともただのオブジェクトには見えない。

「……ああこれ? モーションセンサーだね。宿の人たちがもう付けろ付けろってうるさくてさあ。本当に空飛べる化物だったらこんなの意味無いと思うんだけどねえ。説明書によると、えー、これ一個で15mくらいカバーできるのかな? 縦横で。凄いでしょ、秘蔵っ子でね。一セット四個入りでお得だよ」

 君達もどう? などと言って勧めてくる。バラしたセット品を手にどうも無いだろうと曖昧に返事をしておいたら、カタログを渡された。

「まあざっと、数だけは持ってるからこれで裏と側面をカバーして、表は僕らが張ってるって形になるかな。あ、だから今度こそあまり出歩かないでね。反応すると面倒なんだこれが。それに……」

 目を、合わせる。その眼光は驚くほど鋭い。

「君達も容疑者だからね。不用な行動は慎んでくれると嬉しいな」

 メリーが割る。

「ええ、大人しくさせて頂きますわ。でも、是非とも探偵さんには早めの解決をお願いしたい所ですね。ずっと部屋にこもりきりというのは、不健康ですから」
「ふふ、こりゃあ全く、僕も頑張らなくっちゃね。ま、見ててちょうだいよ。一両日中には解決してみせるから。ローカルでも、名探偵の名は伊達じゃないよ」

 話は終わったとばかりに、探偵はまた別の箱の設置に取り掛かった。メリーが促し二人部屋に入っていった。窓を閉める。物音は、すぐに移動していった。

「釘、刺されちゃったね」

 外に聞こえない程度の小声でメリーが言った。

「本当に抜け目ない。あれを言うために待ってたのかしら。いや、そんな筈ないか。私達がいつ来るかなんてわからないものね」
「メリー……」
「大丈夫よ。蓮子が気にする事はもっと他にある。見付けちゃったもの。蓮子は、本当に目ざといから」
「うん、分かってる。私も、ちゃんと結論出すから」
「行くから、とは言わないんだ。まあでも、どっちにしろ今日は無理ね。釘も刺されたし、面白機械は置いてあるし」

 窓の向こう、障子の向こう、目に見えない光線は縦横に張り巡らされている。なるほどそれを突破するには空でも飛ばない限り方法は無い。

「蓮子の脚が竦んでるの、分からないじゃないよ」

 呟くような声で、そう言った。蓮子は何も返せなかった。
 メリーは慈しむように蓮子を撫でると、少しだけ思案する素振りを見せて布団を引っ張り出した。驚くほどの手際の良さで二組の布団が敷かれる。

「寝よう、蓮子。遅いし、あなたも疲れてるでしょ」

 有無を言わさずそう言って、さっさと蓮子を中へ押し込んでしまった。蓮子はどうすれば良いか分からず呆然としている。辛うじて、

「……良いの?」

 とただそれだけが言えた。

「いいのよ、探偵さんのだってどうせ何を言われようが警告以上の意味は持たないもの。間違っても犯人にされる事はないし、あっちだってそれを分かって言ってる。それよりも、蓮子凄い疲れてるはずよ。あんな中を歩き続けたんだもの、山の気にだって当てられてるかもしれない。良いから今は寝て。気になる事があるなら聞いてあげるから、まずは横になって」

 蓮子はまだ動けると思っていた。高を括っていたが、しかし横になった途端、抗いがたい眠気に襲われた。身体が重い。疲れが一度に噴出したような、そんな感覚がある。

「ほら、もう眠い」

 灯りが消される。本当に山の気に当てられたのかもしれなかった。

「近くまで行くと、実際よく視える。空気がね、ぼやけて、歪んで見えるのよ。そこに囲まれた空間も、ずれて見える。まるで何かレンズでも通したみたいに」

 一緒に布団に入り、子守唄のようにメリーは語る。それが空間の歪みだと蓮子は直感した。おそらくそのずれが向こう側だ。変わり映えのしない景色が同形の錯覚を起こさせている。
 だがそう感じたとき、もう蓮子に返事をする体力は残されていなかった。瞼は既に閉じられている。意識はもう半分闇に溶けかかっている。
 完全に眠りにつく前、おやすみとメリーの声が聞こえた気がした。


――――


 今まで眠っていた、黙認してきた大きな組織、国という名の大きな組織が一斉に矛先を向けてくる。ならばその時真の意味で、二人の存在は抹殺されてしまうだろう。
 行くべきだと声がする。夢の中に。蓮子自身もそう思う。今を逃したら、きっと機会は巡ってこないと。それは雪の特異さに似ていた。雪が場を作り蓮子を掻き立てる。だが、怖れと不安が、確かに心へ居場所を作っているのだ。
 好奇心はある。二人は秘封倶楽部だから。だが知っているのだ、蓮子は。何か大きなものと天秤にかける時、結界の向こうと天秤にかけた時、自分達の命がいかに軽いものとなるかを。
 それは払拭されるべきだと、また言われた所で、地鳴りがした。空間が全て揺れた。夢をむちゃくちゃに動かされ、蓮子は目を覚ました。
 朝の明るさの中轟音が部屋を包み込む。それは建物に共鳴し、部屋そのものを揺らしているようだった。目を白黒させながら蓮子は体を起こす。メリーはもう起きて窓の傍に腰掛けている。
 メリーは遠い目をして音のする方を見ている。音は宿の上を通り、徐々に離れていき、どこかの場所で小さくなった。それほど遠くはない。歩いて数分、村の中であると思われた。

「起きた、みたいね」

 蓮子に気付いた。思えばここに居る間ずっとメリーの方が先に起きていた。彼女も、そう早起きな方ではないはずなのに。

「早いね、メリーは」
「ええ、そうね……蓮子は良く寝てたみたい。疲れは取れた?」

 言われて腕を回す。とても軽い。昨日寝る前に感じていた倦怠感が嘘のように消えていた。

「うん、結構、割と大丈夫」
「そう」

 頷いて、また窓の外へ目を向けた。何を見ているのか。ぼうっと、遠い目をして眺めている。話が続かなくて、蓮子は話題を変えた。

「凄い、音だったね」

 今でも振動の余韻が体に残っている。実質それに起こされたようなものだ。蓮子は目をその消失点へ向けた。村のどこかで燻っている筈の本体は、未だその目的を報せていない。

「あれ、救助よ」

 長い息を吐いてメリーが言った。気怠さを、その身に宿しながら。

「救助? 来たの?」
「ええ、二日も遅れてようやっと。本当、今さらよね……」

 嘆息を結びメリーは視線を蓮子へ向ける。蓮子は一瞬その身を強張らせた。何をか言わんとしている表情に、意識を身構えた。

「結界、弱まってる」

 ぼつりと、そう言った。

「結界の歪みが薄くなってる。きっと何処行ってもそうよ。私が開けるのは多分、今日明日までが限界。蓮子、覚えておいて」

 蓮子は咄嗟に返事が出来なかった。それはあまりにも突然だ。蓮子が選択をするには、いや選択とも呼べない、流されるまま環境だけが刻一刻と変化している。本当に、この今の時点で臨むことになるのか。準備も、何もかも心許ない今。

「メリー……」
「来ちゃったね蓮子。救助だってさ。もう時間ないよ」

 メリーは悪戯じみた笑みを見せる。楽しそうに、そのまま蓮子の傍まで来て覗き込むように顔を見た。

「帰ったら終わり、行くしかない。岐路ね。ねえ、どんなので来たか、見に行ってみようよ。こんな機会早々ないよ。折角だし、見納めに、ね?」

 蓮子の手を引っ張り上げようとしている。いいよと言って自分で立ち上がった。まるで人が変わったように、どこか彼女のしぐさは子供っぽい。はしゃぐように。蓮子は、彼女がそうなる時のことを知っている。彼女は廊下にも蓮子より早く出た。
 上機嫌なのだ。機嫌の良い時、彼女はしばしばそういった面を見せる。それが自分だけである事を、蓮子は薄々気づいていた。出てすぐに、メリーはいつものように戻った。外行きの仮面をつけて、どこか澄ました様にして。蓮子はそれを特に何の感慨も受けずに見ていた。

 外に出るには昨日探偵が言っていた表口を使う必要がある。本来なら、それは玄関口であるのだろう。だが今は埋まっていて使えない。今の表口は、きっとあの窓だ。蓮子達が最初に雪を見た、あの階段横の窓。
 行くと、脇には人が立っている。この人が駐在さんなのだろう、軽く会釈をすると、すっと体を避け、窓への道を開けてくれた。少し後ろを振り返ると、さりげなく記帳している姿が見えた。
 だが、蓮子には分かる。それは形だけのもの、見かけだけのもの。その対象は決して犯人ではない。
 感じられるのだ。未だ重苦しさを残す宿の空気に対して、この近辺はいかにも重さがない。なるほど彼らにとっては簡単な事件だったのだろう。いや、興味がないと言うべきか。
 何時から。きっと、昨日の時点から。その時にはもう犯人の目星は着いていたのかもしれない。

 階段の下へ行ってみる気には蓮子はなれなかった。ただ一度離れてしまうと何もかもが虚仮おどしに思えてくる。これが探偵の見ていた気持ちなのだろうか。むしろ未だに振り回されている彼女たちがあわれにすら感じる。
 宿から少し離れた広場。周囲に見える建物の形を考慮するに、元々はずっと狭かったのではないかと思われる場所には、既に何人もが集まっていた。傍らには金属質の大きな塊。籠のような形をしたそれからは乗員と共に様々な荷物が降ろされている。

「あれで来た所を見ると、陸路の開通はできなかったようね。予想外に来るのにも時間かかったし、何やってたのかしら。まあ何にせよ、物資があるのは良い事だわ。米のみの食事にもそろそろ飽きてきたものね」

 物資が下ろされ、配られていく様を二人で眺める。向こうから見れば、さぞかし異様に映るのだろう。折角の救助を二人は半ば無視している形になる。尤も、こちらを向く人間などは居ない。二人は遠目に彼らを眺めていた。
 誰か、宿の方から駆け寄ってくる。目を凝らしても判然としないが、横のメリーが多分村田探偵だと言った。言われて見れば確かにそんな気がする。探偵はそのまま人だかりへ走っていくと、近くにいた隊員を捕まえて何事か話しかけた。

「大方、解決するまで待ってとか交渉してるんでしょう。もう少しだから、とか。それであの隊員さんは……一日だけなら譲歩って所かしらね。融通利くわね」
「よく分かるね」
「勘よ」

 程なくして探偵が離れていった。その足取りに不満は見えない。

「交渉、成功したのかな」
「でしょうね、あの様子なら。するとこれで足止めは確定したのかしら。好都合ね、蓮子?」
「え?」
「だってそうでしょう。もし今帰れなんて事になったら、あなた一体どうするつもりだったの?」

 ぐっと言葉に窮する。それは有無を言わさぬ、半ば連行めいたものであっただろう。当然だ。この期に及んで残る物好きが、通るはずもないのだから。
 その時蓮子は、……自分ではない、メリーに対して、きっと申し訳ないと言う気持ちを持っただろう。自分は後悔しただろうか。不安に任せて、ほっと安堵の息を吐いただろうか。何もしなかった事を、家に辿り着いた後で、悔やみはしなかっただろうか。

「……私は、一つ懸念がある」

 顔を向けなくても分かる。だからメリーの言葉が聞きたかった。聞いて、悩みを、解いてほしかった。

「この結界は大物で、もしかすれば今まで私達が見てきた中でも一番大きいかもしれない。この国にある中で、ううん、世界中探したってそうは無い物かもしれない。メリー、それに手を付けてまで、私達は見逃してもらえるのかな。私達二人の手に余ったりは、しないものかな」
「へえ……」
「へえじゃないよ、私達、捕まっちゃうかもしれないんだよ?」

 あの山のふもと、宿の手前で聞かされた蓮子が、率直に感じたことだった。一つの大きな疑問だ。

「ごめんね、少し、感心したものだから。でもそうね、政府筋。確かにそんな事もあるでしょう。けど、それでどうするの? 諦めて帰る? 私達は見付けた時から、いいえあなたが行くと決めた時から、その選択を求められていた。蓮子はそれを押してでも山に入ったんじゃなかったの? それに結界にちょっと触れたくらいで見逃してくれないような人たちが、今帰ったところで許してくれるかしら。どうやって足が付くの? 足跡を辿るとして、丁度そこに、都合のよさそうなものが停まっているけど」

 大きな、籠状の輸送艇。人の列が途切れ始めてきた。乗員と思しき制服姿が四、五人。その内の一人と目が合いそうになって、蓮子は咄嗟に視線をそらした。

「結界のすぐ傍で異変が起きているのだから、調査のためにあの中へ紛れる事はできる。そうでなくても、人の調査が目的なら救助して、降りた所で理由を付けて調べられるかもしれない。名前が取れれば、後はこの程度の人数、虱潰しに探してもいいわ。すると私達なんかは一発でしょうね。活動を隠してもいないし、方々に出没してるもの。すると蓮子が懸念すればするほど、あの機体は死地への入り口になるわよ」
「死地……」

 飛べば、逃げられない。あそこにあるのは、一度乗ってしまえば自分で運命を決する事の出来ない、動力によって保たれた狭小な空間だ。

「詰み、か……」

 口を突いて、力なく、そう呟いていた。始まった頃には、気付けば搦め手が整えられていた気分だ。何をするにも、染み込むように問題が浮上してくる。実質的に二人の取れる道は一つしかない。行くか行かざるかではない、行かねばならぬのだ。
 この閉ざされた空間、もっと視野を広げていれば、気付くことが出来ただろう。網をじりじりと絞られて、どんどん逃げ場がなくなっていく。蓮子達にとって、この山全域が死地であったことに。
 メリーは慰めるように言葉をつづけた。思いのほか意気消沈してしまった相方を気遣うように。

「そうね、あなたの予想が正しければね。私達はこの山に入った時、ううんもっと前、あの電車に乗った時から詰んでいた。正しければね」
「間違ってるって?」
「まだそうと決まったわけじゃない。あくまで仮説にしか過ぎないもの。まあ、悩みたいなら悩めば良いと思うわ。その方が純度の高い結論が出るだろうし、覆す必要の無い、正しい答えになるでしょうから」

 結論とは何だろう。食料を持って立て篭もるなどというどうしようもない案が浮かび、慌てて首を振った。手順ばかり多い下策が、それこそ沸いて出るようになったらいよいよ末期だ。

「それに、私達ってそんな良い子だったかしら。いけないからって止めるような。蓮子は何か勘違いしてる。私達が視るのは、そんな目先の損得じゃないでしょう?」
「難しい、ものね」

 蓮子が目をつむった。

「でもね蓮子、多分あなたは行くって言うわ」
「なんで……?」

 蓮子が怪訝な表情を作る。一寸先の判断すら闇に包まれたままなのに、どうしてそんな事が言えるのか。

「……人の、先へ先へと進む力の源は、好奇心よ。私達の活動なんかは特にね。好奇心が最後の一押しを、きっかけを与えてくれる」
「単純に、好奇心だけで言ってるっていうの?」
「さあね。でも私は、それはとても大切な事だと思っている。好奇心で動ける事も、また好奇心で動いていい事も」
「んなことは分かってるわよ。でも昨日、猫を殺すってメリーは言ってた。言ってること違うじゃない」
「そう、過ぎた好奇心は身を滅ぼす。関係の無い事に関しては、私も反対させてもらうわ。でもね蓮子、好奇心を持たずに生きた人間の末路も、それは悲惨なものなのよ」

 遠く、回り込むように、メリーは主題を言わない。
 ただ、好奇心の、ありやなしやと問われたら、蓮子はまず間違いなくあると答えるだろう。宇佐見蓮子は好奇心の塊で、自分でもよく分からないほどそれが渦巻いていて、もはやなにかよく分からないなにかになっていると、もう自分でもそれは確からしいと思える。
 ならば蓮子はその心の在り様に従えば、自ずから選んでしまうものなのだろうか。選択の如何に問わず、まず選ぶことを選んでしまう。選ぶことが自然ならば、蓮子はそうあるべきなのだろうか。
 忌々しいメリーは、それ以上はまた口を閉ざした。蓮子に考えさせ、もって辿り着かせようとしている。いや、本当は選ばせようとしているのかも知れなかった。あくまで蓮子自身が考え、そして選んだことだと、そう言いたいのかもしれない。
 蓮子は踵を返した。これ以上ここに居ても、もはや仕方のない事に思えた。メリーは黙ってついてくる。背後には、まだ幾らかの人々が物資を求めて集まっていた。


――


 準備は出来ている。語弊がある。端から準備が必要なほどの荷物は持ってきていない。だから決行は、機を待つだけとなった。
 問題は沸くように現れて、そして今唐突に転機も訪れる。夜になれば二人は山へ挑む。その強大を肌で感じ、なおもおぼろげな輪郭を残した結界。蓮子はその規模をまだ確りと把握してはいない。
 宿に着いてすぐ、探偵からの伝言だろう、各部屋に帰宅への詳細が語られた。みな予想はしている。事件が終わり次第とのことだ。このしょうもない事件もほどのよい所で終わりを迎える。そうメリーは言っていた。

「今、行っちゃっても、いいのよ?」

 メリーが言った。

「今ならまだ注意も散っている。走り続ければ男女の脚力差をもっても追い付かれる前には抜けられるでしょう。蓮子の眼は使えないけどね。でも、きっと直前になったら宿を抜け出すことすら難しくなるわ」
「新天地で私が視れないってのが問題なのよ」

 兎角、着いてすぐに位置情報を確認できないのが困る。今回は生身で、身体ごとなのだ。意識を飛ばす事、本体をこちらに置いておく事とは違う。勿論星空の下に出るとは限らないが、それでも身一つの危険を考えれば座標は確かにしておきたい。
 尤も向こうと時間が違う可能性、そもそも眼が役に立たない可能性、考えれば幾らでも出る。どちらかと言えば蓮子自身の対応力、危機管理能力こそが問題だった。蓮子はどんな時にも最善手を考え行動しなければならない。損害は、最小に抑えるよう努力しなければならない。
 自己矛盾だ。それが冒険心と反発しあう事を、蓮子は身を持って体験していた。むしろ、なるようにならせれば良いのではないかとすら思う。結局、行ったら行った所の状況があるだけだ。

「折衷案」
「なに」
「ギリギリまで待つ。多分終わるかそのちょっと前に連絡が来る。その時に先んじて窓から駆け抜ける」
「時間が経つと、分かるわよね?」
「開けるものも減っていくんでしょ。大丈夫だよ。その時は、メリーの脚力と、踏ん張りにかけてるから」

 そして頼りない笑顔を張り付けて、蓮子はメリーの肩に手を置いた。予想を外したようにメリーはそれを見る。これで成功は、運とメリーの能力上限に託された。蓮子は、ただ縋り付く事しかできない。博打だ。そして、打つ場所のおかしい博打だった。

「ずるいわ、蓮子は」

 観念したように呟いて、そして首を振った。蓮子の力無い笑顔が少し晴れた気がした。気がしたと言うのは、当の本人にも、それがどうか分からなかったのだ。ただ、気は軽くなった。だからきっと、晴れてはいたのだろう。
 日没まではまだ間がある。蓮子は何度か外へ出た。探偵を捕まえて、捜査の進捗を聞くために。二人は部外者であり、だからこそ情報を聞くことも出来るだろう。それを目安にするつもりだった。聞いて何になるものでもない。結局最後の通知だけが基準になる。けれどじっとしていられなかったのは、蓮子自身、気持ちに焦りがあるからだ。それはもう仕方のない事だなと、半ば諦めても居た。メリーはそんな蓮子に対して何も言わなかった。無駄な行動だと、分かっているのに。
 探偵は見つからない。それが蓮子の焦りを深くさせた。何故か、居ないのだ。ここに来て探偵は姿を消してしまった。本当に、おそらくこの建物そのものから。
 探偵は沈黙を続けている。一時間や二時間では済まない沈黙を。それが言い知れない圧迫を与える。蓮子の精神に。見えない場所から、一方的な根競べを強要されているような、そんな気がした。
 夜が近づくのは良い。それだけ蓮子の眼には有利になる。だが同時に不安になるのだ。あれほど簡単そうにしていた事件が、どうしてこんなに時間がかかるのだろう。もしや別に、何か別に問題が起きているのではないかと。
 メリーは、気にするなと言った。土壇場で不測があるのはいつもの事で、そんな些事に一々心を動かすなと。
 いつもと言えるほどいつもであっただろうか。ついに陽は沈みかけていた。月の昇るまでにはまだ間がある。蓮子は耐え切れなくなってまた部屋の外へと飛び出した。メリーは時計を確認する。着いては来ない。
 廊下を抜け、しかし外に行くわけでもなく、二階を数歩うろうろしていると何やら情けない心持になってくる。言ってしまえば、メリーが出て来ない時点で、それは程度が知れているのだ。こんな事をしても、それは蓮子の心の弱さが招いたことにほかならない。
 気の迷いだと首を振った。肩を落としつつ部屋へと歩く。もう少し落ち着くべきだ。それを反省文めいて心に繰り返しながら。

「やあ、何をしているのかな? 君は」

 意識の外、背後からいきなり声がした。身をすくませると、合わせてかすかな笑い声。この数日で聞き慣れ始めてきた声だった。探偵の声。振り向くと親しげな笑顔を向け探偵が立っていた。

「こんな場所であまりに怪しいね。とっ捕まえちゃうぞ」
「探偵さん、今まで何処に……」
「ん、探させちゃった? 悪いね、ちょっと野暮用で。ああ、いつ帰れるのかって話かな? 確かに僕としても軟禁を強いる形になっちゃってね、心苦しいところはあったんだ。でももう気にしなくていいよ」

 言葉の意味に気付き蓮子が探偵を見る。探偵は変わらず蓮子に顔を向けている。

「大トリ、ですか、これから。本当に一日で終わらせたんですね」
「うん。まあ大方最初の予想通りだったからなんだけどね。でもこんなに時間がかかってしまった。そこは申し訳ないと思うよ。もう少し早く決め手が見つかっていればね……」
「決め手……?」
「アタリがあるのに決め手がないのはおかしいって? 簡単な話さ。証拠はない、目撃者も居ない、でもやれるのはそいつしか居なかった。あるいはやるような奴はね。それだけの話だよ。でも決め手が無かった。証拠もそうだが、何より動機が無かった」

 そして探偵は何かを探すように辺りを見回した。蓮子もつられて同様に廊下を見た。薄暗く長く続く廊下。二人の気を引くものは何もない。

「そうだな、例えば……この壁の向こうには何があるか、君は知ってるよね」
「ええ、丸数日は見てますから」
「うん。正確に言ってしまえば部屋だけど、まあ雪だ。積もり過ぎた雪。大分特異な環境を我々に提供してくれた、忌々しいものだよ。でも、それは本当はそれだけだった。彼が事を起こす理由には、なりはしないものだったんだ」
「でも、妖怪の仕業に見せかけるためって、昨日……」
「じゃあ君は、妖怪って何だと思う?」

 突然の言葉に、少し言いよどむ。答えが出てこない。いや、蓮子には分かっている。本当は最初から知らないのだ。確かに二人は怪異を専門とする活動に身を置いている。だが未だ、それを定義させるまでに至っていないのが現状だ。経験は不明を表す。二人はまだその存在を捉えてはいない。
 だから、当たり障りのないことしか答えられなかった。それを見て探偵は自嘲的な笑みをこぼす。

「僕もね、信じかけてしまったんだよ。ただの人間にそんなこと出来るだろうかって。こんな日に、計画を練って、そして誰にも気づかれないような大胆さで。それは本当に、妖怪の仕業だったんじゃないかってね。でも結局はばれてしまった。僕は確信を得て真相を探し出した。これは間違いなく人間のやった事なんだ、残念なことにね。どうだい、君はもう一人の子よりはそっちの話が好きそうだ」

 蓮子はたじろいだ。向いた探偵の目はしっかりと蓮子の姿を捉えている。問われることを蓮子は感じた。これは、問いの前置であると。

「……君は妖怪っていると思うかい」

 その言葉は、いばらのように蓮子の心へ食い込んでくる。蓮子はそれに否を返せない。返せない自分が居る事も蓮子には感じ取れる。発した言葉は容易く自らを包み込む。
 探偵は、そして、その答えをこそ待っているようでもあった。蓮子は探偵の心を感じた。感じて、肯定の言葉を述べようと思った。それは共感だ。そう、探偵は、きっと妖怪の存在を信じている。
 だが蓮子が口を開く前、その言葉はいつの間にかこちらへ歩いてきたメリーに遮られた。

「蓮子、遅いわよ」

 悠々とメリーは近づいてくる。一歩一歩と、静かな足取りで。探偵がそちらを向く。自然、二人の視線が交差する。

「おや、相方さんも登場だ」
「こんにちは探偵さん。こんな所で私の相方と油を売って、昨日言った事は嘘だったのかしら。もう犯人の目星は着いた頃では?」
「いやいや、もう終わってるよ。ただ探偵の仕事も一つじゃないのさ。悪い子や問題児はちゃんと見張っておかなきゃいけない。善良な市民、そして善良な大人のね、義務だよ」
「悪い子供、ね」

 メリーが目を細めた。探偵はにこやかな相貌を崩さない。

「そうだろう。入っちゃいけないよって言ったのに、それを知らんふりだ。少なくとも優良学生ではないなあ。君達も覚えがあるんじゃないかい? そんな呼び名に」
「それはご想像に。でもその口ぶり、まるであの話が本当だったみたい。あのお山の話。何か他に面白いネタでもあるのかしら。それこそ、私達にも言っていないような」
「さあね、それこそ想像に任せるよ。でも確かにあの山は話に事欠かない。君達が気に入るものもあるかもしれないねえ。どう、何か聞きたい事でもあるかい。あれば話すよ」
「いえ、ありませんね。もう知ってますから」

 その言葉に何より驚いたのは蓮子だ。あっさりとバラしてしまった。
 ただ、同時に探偵が言葉に詰まるのも蓮子には分かった。何気ない言葉が探偵の虚をつく。そして蓮子もまた不意を突かれた。何故探偵がここで止まるのか、蓮子には分からなかった。探偵が持ち直す。

「それは、……面白いね。直に見た、とか? 昨日、入った時に」
「さあ? いつだったかしら」

 両者は顔を見合わせて、そしてかすかな笑い声を発した。低く、長い声を。虚偽的な笑いがこだまする。
 蓮子の頬へ一筋、冷たい汗が流れた。見る間に空気が牽制味を帯びてくるのがひしひしと感じられる。これはもはやただの世間話ではない。何がしかの目的を持った、接触行動だ。
 探偵が何の目的で二人に近づいたのか蓮子は知らない。ただ、メリーが蓮子を助けに入ったのは分かる。そしてメリーは、それを知って探偵を挑発している。
 笑い声の絶える頃、探偵はまじまじとメリーを見た。その視線は何を含むか含まぬか。意に介さぬよう、メリーはそれを受け流している……。

「どうも、君は才女のようだねえ。その点は素直に褒めておこう。なんだい、ここには、どういった理由で?」
「相方の気まぐれですよ。本当に、それだけだったのですけれど」
「つまらない村だろう」
「いいえ中々、刺激的でした」
「そうかい、そうかい」

 もはや牽制とも差し合いとも区別のつかないやり取り。探偵の眼差しは一歩引いたように二人を見ている。探偵は腰を入れない。軽率にも尻尾を見せた二人を、気取られぬよう泳がせている。
 メリーは矢継ぎ早に出される探偵の質問に、間髪を入れず答えていた。他愛もない会話に、見える者は見えるかもしれない。蓮子にとってのそれは、毒酒を杯へ絶え間なく注がれているに等しい。
 いつか耐え切れなくなる時が来る。探偵はもはや自らの本心を隠そうともしなくなっていた。二人を暴く。探偵は二人をある種の犯罪者として見ている。いいや、犯罪者だ。結界を暴く、学生の皮を被った罪人。
 ぞっとする。その視線が怖い。会話を重ね、その底を探る。どこまで知っているか、どこまでしたのか、その程度を。そして二人の首にはゆっくりと縄が、遠くから。
 これ以上会話を続けることは危険だと感じた。幾らメリーでも難しいことくらいある。たまらずどうにか止めに入ろうとする蓮子に少し顔を向け、メリーは不敵に笑った。心配するなと、安心してみていろと。その目は語る。メリーはすぐに視線を向き直らせた。探偵の表情は徐々に人間味を失っていく。
 笑みは浮かんだままだった。だが探偵はにこやかに、仮面のようにして貼り付けた笑顔を決して動かさない。ブラフも、協調も、もう必要は無くなった。それは完了の証であった。探偵は表面に自分を出すことを止めたのだ。

「いい、時間だ。君達が何処に住んでいるかは知らないが、宇佐見、蓮子さん? とマエリベリー・ハーンさんだっけ。君達も日が変わる前には家に着けるだろう。さて……、僕はトリがあるからこの辺で失礼させて貰おうか。彼らは優秀だからね、ちゃんと言う事を聞くんだよ」
「あら、もう良いんですか?」
「ああ、もう十分だ。十分にお話は出来た。いやそれにしても楽しかったよ。賢い娘は好きだ。じゃあこの後も、帰宅するまでよい旅を……」

 探偵はそう言ってさっと踵を返した。最後まで丁寧な口調だった。だが足を止めるそぶりも見せずに去ろうとするその背中を、メリーは黙って眺めはしなかった。

「惜しいわね探偵さん。まさか私達が、そんな事でここに居るとでも思ったかしら」

 背中に浴びせかける、機先の妙は相手が背を向ける事をこそ待っていたようでもある。目論見通り探偵は足を止めた。代わりにその背には針のような気が満ちている。振り向かず、そのままの姿でメリーの言葉を待っている。
 言いたいことがあるなら言ってみろと、そう背中が語っているようでもあった。同時に、下らない事を言えばそのまま歩き去るという姿勢も。しかしメリーは動じることなく言葉をつづける。

「なるほど確信を持ったわけね。中々どうして探偵稼業も慎重かつ堅実、間違いのない仕事ぶりです。でも足りないわね、探偵さん。何か忘れてないかしら」

 そこで一つ、誰にも見えずにくすりと笑って。

「例えば私達が本物の妖怪で、ここにはたまたま遊びに来ただけ、とは思いませんでした?」

 と言った。傍で聞いている蓮子の方が妙な声を上げそうになり、慌てて口をつぐんだ。
 それはハッタリにしてもあまりに大胆な論の飛ばし方だ。ここまで飛躍してしまっては、全く制御を度外視しているとしか言えない。どう転ぶか予測が出来ない手を、好んで打つのがどこにいるか。
 目の前にいる。だが蓮子は今努めて無表情を作っている。この場がメリーの機転によって作られた以上、下手を打って崩してはならないと考えた。それは功を奏したのだろうか。探偵は未だ足を止めたままでいる。
 何を感じているのか。振り向いた探偵の視線は、二人を吟味するように注がれている。

「それに……」
「待て」

 メリーが何か言おうとするのを待たず強い制止が入った。止めた探偵の表情にもう笑みは残っていない。目は油断なく見開かれメリーを見据えている。何も、身を傷つける物は誰も、持ち合わせていない筈なのに。その姿は敵と形容するにこそ相応しかった。
 敵は排除すべきもの、対処されるべき問題。蓮子の目に敵のような姿が映し出されたなら、それは相手も同じこと。気は互いに行き交いあい鏡のように相手を映す。
 メリーの挑発は相手の照準をこの場に出させた。その額に向けられるまでに。

「どうも、君は思った以上の悪童みたいだ。そんな言葉が出てくるようじゃあ相当深入りもしてるだろう。下手な問答を続ける前に今この場で捕えてしまおうか。覚悟は良いかい」
「あら、野蛮ね。私達何かいけないことしたのかしら」
「黙るんだ。僕にはその権限がある」

 強く、言った。硬い語調は決して付け入る隙を見せない。繰り言にはぐらかされる事のない意思が、言葉にままこもっている。
 蓮子は、直感的に潮時だと思った。もうこれ以上は無理だ。どうにか場を離れて、直接山に臨むしか道はない。探偵は気を張った。そこに真っ向立ち向かうのは、今の蓮子達では無理だ。
 退却しようと横を見た。気取られないよう最小の動きで。だが、視界に最初に入ってきたのはメリーの手だった。
 手は、蓮子を押し留めるようサインを作っている。この期に及んでまだ。蓮子は思わずメリーの顔を見た。探偵に気取られる事など構いもしないで。
 メリーの口角は、攣り上がっていた。蓮子は何も、それ以上何も干渉することが出来なかった。尋常のものではない。まるで我慢に我慢を重ねたのが、堪え切れず漏れ出してきたように、メリーは笑みを深くする。引き絞るように、深く。

「ふふ、ふ、人は自らを晒すほど捨て身になる。やっと尻尾を出しましたね。権限だなんて、そこまで言ってしまってはもう後には引けないでしょう。この辺りで手打ちは無くなった。私達、捕まっちゃうのかしら。いいえ、そんな事は出来ませんね。だって……」

 一瞬、思案するようなそぶりを見せる。その姿はどうにもわざとらしい。本当は悩むことなどないのに、ただ見せるためだけに、所作を相手の前にひけらかしている。
 探偵が顔をしかめる。当然だろう。

「……何が言いたい」

 蓮子も同じ気持ちだった。この相方は次に何をやらかすつもりなのか。もはや必要以上に挑発を繰り返している。まるで挑発のために挑発をするように。

「私達、山に帰らせて頂きますもの。潮時ですからね」

 一瞬沈黙が流れた。二人ともすぐにはその意味を理解する事ができなかった。
 ただ意味を理解したその刹那、確かに探偵の顔が凍りついたのを蓮子は見た。驚きと否定、ある筈がないと言う思い。そして、それらを消し切ることが出来ない事実。
 遅れて蓮子も理解した。メリーは、この場から消えようとしている。結界の向こうに姿を隠してそれで説得力を持たせるつもりだ。常人にはできない方法、二人だからこそできる方法。

「でまかせは良くないな……」
「さあ、でもあなた方も知っているのでしょう、この山の現状は。結界が崩れてまあひどい有様。これを隠すのは骨じゃないかしら」

 常人には知りえない情報。それは即ち、二人がそのままただの人間ではない可能性を示唆させる。
 いや、本当は情報などいらない。山に消えてしまえばそれだけで。探偵の顔は見るからに蒼くなっていった。疑念が、払えないのだ。あの休憩室の女中達のように。本人もまた自覚しているかいないか、とらわれている。自ら発した言葉に。自ら臨んだこの空間に。
 この悪知恵の働く相方に、言わせるだけ言わせたことが逆に首を絞めたのだ。信じないなら最初からこの場には居ない。あやかしごとの存在を、知っているからこそ探偵は二人に接触した。そしてだからこそ、こんなハッタリを振り払える材料すら持っていないのだ。
 何を、勘案しているのだろう。この少ない沈黙の中、探偵の勘定は目まぐるしく動いているように見えた。蓮子は、危ういと思う。判断の末、兎角強硬策に出られたら二人は捕えられてしまう。あり得ない事ではない筈だ。情報は見せても証拠はまだ見せていない。二人はまだ消えていない。

「その身が惜しければ静かにしている事です。我々にはこの結界、もう幾らか悪戯する程度造作もないのですから」

 機をはかり、探偵が勘定を纏め終わるところへ、重ねるよう言い放つ。これだ。これがとどめだと蓮子は思った。この場の生殺与奪は、俎上の鯉にも等しい。これを言うための挑発。

「では、良いですね?」

 だが会話の締めくくりに発せられたのは、蓮子の思いとは反対に単純な言葉だった。探偵は何も返さない。苦々しげにそっぽを向いたままだ。それを了承と受け取ったのか、メリーは傍で固まっている蓮子に目配せする。帰ろうと。
 蓮子は慌ててそれに従った。探偵は歯噛みするようにメリーの一挙一動を見つめている。何の言葉も持たず。ただ、帰る背中に一言だけ、絞り出す声がかかった。

「あれは、君がやったのか?」

 敵意と怖れ、そして幾らかの後悔が入り混じって、探偵の言葉を形作っている。メリーは立ち止まらない。歩き続ける。

「あれは、人間の仕業だったんでしょう?」

 鼻で笑ってメリーは去っていく。疑問などは歯牙にもかけずに。その姿を、探偵は進退窮まった様に見送っていた。
 部屋に入れば外は見えない。無論外からも。後ろ手に戸を閉め、蓮子は沈みこむように息を吐いた。メリーが荷物を放って寄越す。室内は、綺麗に片付いている。

「駄目かと思った」
「大げさね。でも蓮子が悪いのよ。あんなところで捕まって」
「だってさあ。普通世間話からああくるとは思わないじゃない」
「政府が気付いているのなら、監視を置かないわけがない。甘いのよ蓮子は。あの探偵さんはその内の一人ね。事情を知って、連絡も取りあってる」
「むう……」
「まあでも、お陰で上手くはぐらかせたし、結果的には上々かしら。痛くない腹を探られるのは誰だっていやだけど、痛い腹を探られるのはもっといやだものね、蓮子?」

 ははと苦笑いを浮かべる。確かに言われてしまえば、蓮子達だって相当な痛い腹持ちなのだ。調べられれば黒になる。調べられる前に無理やり灰色にしたのは、確かに得であったかもしれない。

「ねえ、あの良いですよねって何だったの? なんか、あまり追及もなく終わっちゃったけど」
「ああ、あれハッタリよ。やっぱりあの探偵さん詰めが甘いわね」

 間抜けな声が出そうになり抑える。まだ廊下に居て聞かれでもしたら一大事だ。

「どういうこと!?」
「締めにそれっぽいこと言っておけば勝手に想像して、勝手にやってくれるでしょ。まあ、イレギュラー多いのは同情するけどね。さ、もうちょっとしたら出るわよ。多分探偵っぽい場所で探偵っぽいことやるんでしょうから、あの人」

 そして、頃合いだと言って、メリーは窓を乗り越えた。もう、センサーは取り払われているようだ。必要ないのだろう。この期に至ってまだ山に入ろうとする人間も想定していなかったに違いない。
 メリーは浅く、指を流しながら確認を行う。その動作はとてもてきぱきとしていた。まるで夜逃げのようだ。蓮子は思う。
 そう、変わらないだろう。追い立てられて動いているという点では、何も。気付けば蓮子も、窓を乗り越え山の麓に立っていた。そしてここが、正念場になるのだろうなと感じていた。


――


 本来、蓮子はこの場に居なかったのかもしれない。メリーも。いや、あの電車に乗っていた人間は全員。
 空は快晴、雲ひとつ無い。月も、星も、燦然と頭上に輝いている。
 良い天気だと思う。今日も、昨日も空は晴れていた。蓮子はここに来てからこの空に雲がかかっている所を見た覚えが無い。それも異変の一つなのかもしれなかった。この空間、結界を含めた全ての空間が、異変を起こしている。山の中も、村も。山に包まれた村はそれ一つだけ蚊帳の外に居る事を許されなかった。
 この雪も、ならばこの雪こそ、異変なのだろう。雪が降ったから異変が起きたのか、異変が起きたから雪が降ったのか。それを知る術は、もう無いように思えた。
 機は熟した。メリーは荷物と共に数歩離れた場所をうろついている。時折蓮子の方を見ては、またその辺りの空間に視線を走らせている。その視線、蓮子を覗う視線。言えと言っているのだ。蓮子に対して、号令をかけろと。

「じゃあ……」

 蓮子が口を開いた。恐らく今頃はこの足下、一階エントランスで犯人が告発されている。人は全て集まって、その周囲には誰も居ない。
 好都合だ。膳立ては整った。一瞬のタメを作り山を見据えると、二度目の光景が目に入った。張り出た枝と青白く光る雪。

「行こう、メリー。私たちも大トリの始まりだ」

 言った瞬間、メリーの瞳が鈍く光彩を放った。
 メリーが隣に立つ。覗き込むように山の中を見渡した。どの辺りになるのか、思ったよりも近くにあるのか。蓮子には分からない、何も視えない。
 メリーが前方を指差す。つられて蓮子もそちらを見る。斜面の中ごろ、木々を掻い抜け木の幹と、幹の間。

「あの辺りが良いかしらね。近いし、先も先で好都合」

 メリーには何が視えているのだろう。脇目も振らず、迷いない足取りで蓮子の前を先導する。蓮子もまた歩き出した。少しだけ前に居るメリーが、肩越しに視線をよこす。彼女は軽々と先へ進んでいく。
 メリーの背中が見える。蓮子の心を占めるのは少しばかりの怖れと不安、そして歴史的瞬間への尽きぬ興味。相方の瞳に映るもの。その先の希望を幻視しながら、蓮子は歩を進め続けた。結界が近付いてくる。その切れ目、歪み、開かれる場所が。それは、もうあまりにも近い。メリーはもう結界のあると思しきすぐ前で待っている。意を決して蓮子も、その数歩足を速めた。

「来たわね」

 蓮子が来たのを視線で確認し、メリーが虚空に手をかざす。流れるような、その指先。乾いた音が、空間の端から生まれる。
 例えば硬質の、しかし軽い何かが擦れるような。音はメリーの手の先から、徐々に範囲を広げて出て来ているようだった。軋むようにして。今、メリーは結界を開いている。音が重なり合うと共に徐々に視認できる形で白い何かが縁取られていく。
 それは例えるなら光の柱。蓮子に視認できる範囲ではそこまでしか見えない。メリーの眼にはどう映っているだろう。手元から始まったそれは見る間に地面にまで達し、二人の身長を越えた。

「大きいね……」

 蓮子の呟いた言葉にメリーは返事をしなかった。蓮子はじっと結界が開くのを見ている。それを開こうとしている相方の姿も。

「もうすぐよ。もうすぐ開く。向こうに着いたら何をしましょうか……。きっと、やることはたくさんある……」

 メリーは低く小さく呟いた。蓮子もまた、黙ってそれを聞いていた。最初から相方は、返事など求めていなかったのかもしれない。蓮子はきっと、何を返すことも出来なかった。
 結界の切れ目は濃さを増してその形をあらわにする。向こう側とこちら側を繋ぐ門がもうすぐ開く。その様を、何を思うでもなく蓮子は幻想的だと感じていた。切り開かれた門は光の柱と化し、淡く周囲を照らしている。淡く、二人を照らし出している。何処から湧いてきたか光の粒子のような物が、蓮子の目の前ではじけて消えた。

「綺麗な物よね。蓮子にも見えているんでしょう? どうやって発光しているのかも分からない、歪みの柱。後はあなたが足を踏み出すだけ。さあ、私の手を取って、向こうに連れてってよ」

 メリーが一歩下がり、蓮子は柱と正対する。メリーはもう手をかざすことを止めた。開いているのだろう。気づけば音も止んでいる。蓮子の目には、ただ白い発光物しか映る事はない。
 この光景。覗き込めば、向こう側が見えるのかもしれない。空間を繋ぐ柱、白く輝く柱。手を、前に出した。白い中へ指先が、手のひらが、腕が消えてゆく。手には冷気がまとわりついている。半身を入れればたちまち凍えてしまいそうなほどに、柱の中は冷気で満たされていた。ゆっくりと動かすと、空気と共に冷気が流れ動くのが分かる。
 引き抜きつつ、後ろにももう片方の手をやった。メリーが手を差出し、そして手と手が合わさる。強く握りしめると力が返ってきた。一歩踏み出すと冷気が二人を包む。もう一歩、ぐっと体を傾けると、視界が白く染まった。
 光の世界が二人を包む。そこに距離は無い。右も、左も、霧のように白い。勿論前も、きっと後ろも。なのに何故か前にだけは、空間があるのが分かる。メリーに言われているからだろうか。手を出しても、すぐに見えなくなってしまうほど濃い霧なのに。

「怖気づいているの?」

 耳元でメリーが囁いた。蓮子は振り返れなかった。無言の息遣いは奥へ進むようにと促している。なのに蓮子の脚は、いつの間にかその場から動こうとしなくなっていた。釘付けになった目は離そうとしても離れない。メリーはそれを悟り、優しい声音で諭そうとする。

「大丈夫よ、怖いのは最初だけ。そうね、あと数歩も進めばそれだけで向こうに出られるわ。あなたには視えないでしょうけど、私の眼にはおぼろげに映っているもの。この出口も、その光景も」

 それは山に対する根源恐怖に似ている。それは生物的な部分で、蓮子に警告を与え、また縛り付けようとしている。
 もう、取り繕う事などできはしない。冷たい風が身体から熱を奪っていく。長居が出来る場所ではない。なのにただ、足だけが動かなかった。
 白い幕の中に蓮子は目を閉じた。流れるような冷気が頬を撫でる中、一筋、ゆっくりと息を吐いた。呪縛を撥ね退けるために。己の心に針を打つために。蓮子はどうにか脚に力を込めた。もう動かない事は無い。きっと、先に進むことが出来る。
 メリーはそんな蓮子の感情を分かっていただろうか。分かっていながら、傍観しただろうか。すべてお見通しで、どう動くかも結局は分かっていて。

「ね、蓮子?」

 メリーの手が背中に触れた。肩へ伸び、抱くように。しなだれかかって、蓮子を押し出そうとしている。
 もう、抗えない。緩慢ながら、自然に、蓮子の脚は前に出た。この出口が、少し見えるような気がする。冷気が少し強くなる。ちらちらとしたものが顔に当たった。
 冷たい、欠片の様なもの。もう一度、それは奥から手前へ、流れるようにして吹いてくる。蓮子は何の気なしにそれを手袋で受け止めた。白い。それは雪だった。
 そういえば昨日もそうだった。結界の歪みからは雪が吹く。この地ではそれは当然のことなのだろう。蓮子は雪を見ていた。手袋の上、雪は溶けずに残っている。
 数秒の交差だった。蓮子は行ってもいい。行ってもきっと、死にはしない。その予感が蓮子にはある。
 だが同時にこの交差こそが最後の、最後の手がかりであるとも感じた。一瞬の中に、凝縮された時間が走馬灯のように情報をかけ巡らせる。
 雪と、メリーと、結界と。この山と、村と、それを包むすべての空間。
 それを悟ったとき、蓮子は腕を下ろした。


――


「メリー、下がって」

 告げた時、確かに結界が揺らいだ。同時に、前から吹き続けていた圧力が消えた気がした。光の道は未だ形を保っているが、確かにそれは一度閉じた。メリーは退かない。蓮子の後ろで、じっと押し黙っている。

「メリー、早く。なんかこいつはヤバい気がするわ」
「なんで……?」

 ようやくそれだけを口に出した。あてられた手に、少しくメリーの力がこもる。

「聞き間違い、じゃないわよね。行かないって言ったの、蓮子」
「ええ、行かない。取りやめるわ」

 断言し、半ば強引に、押し出すようにして蓮子は柱の外へ出た。メリーも流されるように出てきた。たたらを踏む。何かよく分からないものを見るような目で、蓮子を見ている。

「なんで? 今更、行くつもりだったでしょ? それで、なんでそんな事言うの? もう結界まで開きかけで、目の前に立って。あとちょっとじゃない。あとたったの、二歩とか、三歩じゃない。それでなんで…………ねえ、行こうよ。あと一手間にでも、これは開くんだよ」
「メリー、これ、どれ位降ったと思う?」

 足元を指差す。瞬間、メリーの目が、わずかに見開かれた。
 計算をして答えるなどと愚かな真似はメリーはしないだろうと、蓮子は分かっていた。どう数字を弄んだ所で、導かれる結論は同じだからだ。

「凄い量だよね。厚いし、広いし、パッと見ても目が眩みそう。でもさ、それだけの量どうやって降ったの?」
「それは……」
「おかしいじゃない。降る筈がないんだよこんなの。まず材料がないもん。降ったら降っただけ尽きていく。なのに雪はこうやって一帯を埋め尽くしている。本当はそこで気付くべきだった。私達は、そういう人種なんだから。でもみんな、私も、実際に降ってるんだからそれはそういう、何かそういうものなんだろうって思ってた。おかしいんだよ、降ってる時間だって、それこそ一昼夜に満たないっていうのに、こんな量。この雪は、通常降る以外の方法でここに来たんだ。降るよりも速く、無尽蔵とも言える規模で、何処からか湧いて出た! メリーは昨日、一昨日より結界が収まっているって言ったよね。なら逆に言えば、その前はもっと結界の歪みが酷かったって事じゃないの? 私達がこの村に辿り着いた時、電車が雪に動かなくなった時。断言してもいい、あの時に結界は開いた。メリーの言った通り、私達があっちに行けるなら、あっちからだってこっちに来れたんだ。だったら……」
「蓮子は、この先に行きたくないの!?」

 金切り声。はっとして口をつぐむ。蓮子は静かにそれを見ている。

「行きたいよ。私だって、秘封倶楽部だ。でもね、メリー、駄目なんだよ。もう前提が変わっちゃったんだ。私は自分の相方をそんな公算の高い危険に晒す事はできない。絶対に。今行くべきじゃないって、私は自信を持って言える。この向こうが今どうなってるかなんて、知れたものじゃないよ」

 メリーが言葉を詰まらせた。何か、言葉にもならないうめきを発して、手も宙をさまよって。
 その目は蓮子を見つめようとして、ぼやけていた。ついに何も言えなくなった。捉えようとしても、蓮子の姿を結べるほど心神が整っていないのだ。どの言葉が、どの行動が、あるいは全てだったかもしれない。メリーの心は、それほど大きく衝撃を受けた。我の事など保ってもいられないくらいに。
 動きを止めた相方に、一歩近付く。刹那、それが衝撃となって、メリーが意識を取り戻した。

「な、ら、蓮子。あなたはあの救助に乗って帰るって言うの? あれだけ疑念の湧いて出た乗り物に、あなたは安心して乗る事が出来るの? もう目だって付けられた。後戻りはできないのよ……!」
「できるよ」

 できる。自分でも不思議なほどその言葉には力がこもっていた。自分でも不思議なほど。蓮子にはその道筋がはっきりと見える。この村からの脱出経路。秘密の抜け穴が。

「メリーがやってくれた。消えれば良いって。その下地を。私たちは二人でここを出る。何も禍根を残さずに、問題も残さずに、霞のように消えていなくなればいい」

 その、最善手を。咄嗟にメリーが反論の構えを見せる。メリーが二の句を続ける前に、先んじて蓮子が口を開く。

「全て、無かった事にする。山も、結界も、私達がここに居た事実も! 良いメリー。私達はここには居なかった。救助にも乗らない。そもそも電車にも乗ってない。天候の悪いのを見越して最初から家に居た。彼女たちの名前も体も、どこかのよく似た別人よ。それで通す。私が決めた。良いわね。……良いわね、メリー!」
「あ、あっ……はい……」

 呆然と言葉を失う相方を、少しかわいそうに思いながらその手を握る。その視界が、同調していく。両者の瞳が鈍く揺らめいた。


――


 その結界を、なんとするべきか。空間に虫食いのように亀裂が走り、その縁取りは薄暗い。青のような、あるいは赤のような。中に、少しの不鮮明さを残して、周りとずれた木が見える。
 なるほどメリーの言っていた歪みというのも分かる気がする。小さな亀裂はそこかしこにある。これが今より大きければ、さぞかし歪み放題に見えたであろう。手を引っ張って、大きめの歪みを探した。大きなものも、まだどこかには残っているはずだ。
 程なくして、一つの、蓮子達より二回りほど大きい亀裂を見つけた。少し屈んで上を覗き込む。星が見える。少し横から。月の端が。

「これは、向こうからも戻ってこられるの?」
「……綺麗なものなら、多分。汚ければ、きっと一方通行でしょうね」

 ぐったりとしながら、力ない返答をよこす。蓮子は、少しばかり迷ったあと、一思いに結界の中へと飛び込んだ。視界が白く染まり、雪が。昨日よりも勢いを失った雪が、顔の前から撫で付けた。
 この雪も、向こう側からの漏出だったのだろうか。いや、きっとそうなのだ。風も、雪も。この間だけ、蓮子は向こうへと一歩踏み入れていた。
 数秒ののちに、出ると山中。見渡せば幾つかの亀裂と、また月が見える。一番、東側に近そうな亀裂を見つけて、その中に飛び込んだ。これでまた幾らか距離を稼いだ事になる。
 都合三度、結界を潜り抜けると、そこはもう山の辺であった。少し離れた所に道路と、またその先に町の明かりが見える。

「拍子抜けだ……」

 思わずそう呟いていた。あれだけ彷徨った山が、ものの数分足らずで通り抜けてしまった。町へは歩くだろうが、そこから交通機関を踏まえても帰宅にそう時間はかからない。ともすれば、蓮子達が一番早いかもしれなかった。あの、空飛ぶ救助艇よりも。

「はは、ははは」

 笑い声が漏れる。あんなに悩んでいたのが、終わってしまえばそれはこんなにも呆気ない。メリーが恨めしげに蓮子を見る。いや、それも蓮子の思い過ごしだったのかもしれない。上機嫌で、蓮子は山の辺を駆け下りた。
 途中で、適当な新聞を一部購入した。一面には載っていなかったが、少しめくるとあの、雪の事が載っていた。
 蓮子の顔が綻ぶ。紙面には、異常気象である事と、救助の難航が書かれていた。特に、この気象の異常な事が、割り当てられた分量の大半を通して書かれている。
 蓮子は、その渦中に居たばかりでなく、その雪のどうして降ったかを知っている。如何にして雪が、一夜にして現れたかを知っている。
 そして何より、蓮子は逃げ切った。これを成功と呼ばずして何と言おうか。蓮子は確かに退いた。だが退いて余りある獲物が確かにそこに存在していたのだ。

 東京の実家に着いたとき、もう星は日のまたぐのを伝えていた。移動続きの疲労のなか、荷物を抱えて中に転がり込む。
 床に荷物を置き、一息つくと、一も二も無くメリーは眠ってしまった。蓮子も苦笑しながら、同じように床に就く。

 だが落ち着くと何やら、あった事が客観的に見えてくる。
 吹雪の中の強行。積もった雪。殺人事件に、歪んだ結界。
 言葉にして反芻すると、中々寝付けない。横になっているのに、動き出したくなってしまう。まるで体が眠る事を拒否するかのように。
 冴えたまぶたの裏で光景を思い返す。床に放り出してある鞄。フィルムには確かにその写真が収められていた。
 口の端が上がる。自然と笑みがこぼれる。
 確かに、手応えはあった。久しぶりの、活動の手応えだ
 その後も暫く、目を瞑りながら戦利品の存在に頬をほころばせていた。

 傍らで、メリーの寝息が、すうすうと聞こえていた。
~氷雪異変~
暴風雪が荒れ狂い郷の全域を雪に閉ざし、人妖問わず多大な迷惑を被らせたのがこの氷雪異変である。
賢者達の尽力により人里はすんでの所で難を逃れたものの、それ以外との交通は断絶。郷全体にも異例の厳戒態勢が敷かれることとなった。
幻想郷史上稀に見る大異変であるところのこの異変を引き起こしたのは、その実、何処にでもいる小妖達であった。
力の弱さゆえ異変の主役たれなかった彼女たちは、一堂に会して力を合わせ、もって異変を計画した。その試みは成功する。しかし、気付いた時には、もう彼女達の誰として手に負うことが出来なくなっていた。
この雪はそれから春まで消える事はなく、首謀者たちは後々じっくりお説教を受ける羽目になった。
のち、共謀に関する取り決めが作られる切欠となった事件である。

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なんか110kbもありました。こんな長いの、読んで下さった方に感謝を。
ごまポン
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コメント



0.350簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
他近くに
向こう今

極めて完成度が高く、引き込まれる秘封ものでした。ゆっくりとねっとりと忍び寄り絡み付いてくるような怪異の描写と、会話に表れる蓮子とメリーの尋常ならざる頭の切れ、そしてキャラ立ちは、まさしく超一級品。
会話の機微を丁寧に描写しているのが特徴的で、これまた楽しめました。言葉が幻想を規定する。
裏設定も丁寧に作られていそうで、とにかくすごいです。
3.100名前が無い程度の能力削除
あなたの秘封を待ってました
今作もおもしろかったです
ところでFileNoは(ボソッ
4.100名前が無い程度の能力削除
なるほど、土地も含めて全員、幻想郷内の大型異変に巻き込まれたと。なんて迷惑な郷なんだ。
5.100非現実世界に棲む者削除
これはまた壮大な作品ですね。
二人の活躍ぶりが素晴らしかったです。
6.100名前が無い程度の能力削除
これ、チルノとかも入ってるのかなぁw
7.100奇声を発する程度の能力削除
とても面白く読んで良かったです
8.100絶望を司る程度の能力削除
引き込まれました。飽きることもなく非常に完成度が高いと思います。
11.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい。楽しませて頂きました。
でも個人的には幻想郷側の事情は種明かしされない方がより想像出来て良かったです。
13.100名前が無い程度の能力削除
会話が秘封らしくて良いです。頭の良い会話術。
15.100名前が無い程度の能力削除
これは面白かった
またお願いします