Coolier - 新生・東方創想話

黒の世界

2011/02/12 18:12:06
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 彼女が<>で目を覚まし、瞼を開いて最初に彼女が見た色は、見慣れない黒だった。

――あれ、おかしいな?

 瞼を一旦閉じ、その上から手の甲でごしごしと眼球を擦り、そしてもう一度開いた。
 やはり黒だった。しかし普段見ている黒と、何かが違う。
 
「パパ?ママ?そこに、居るんでしょ?どうして、お外がこんなに真っ暗なの?」
 
 彼女の口から出たその声は、僅かな反響を伴って、彼女自身の耳にそっくり返ってきた。返事は無い。いや、返事はおろか物音一つ聞こえない。ただ冷たい黒と静寂だけが<>に満ち、仰向けに転がる小さな肢体を鋭く圧迫し続けていた。

 彼女はぼんやりと空想を始めた。自分はどうやら、知らぬ間に眠ってしまったのかもしれない。**通りを歩きながら突然眠りに落ちてしまった自分を、パパとママが目を覚まさせないように細心の注意を払って連れ帰り、カーテンを閉め切った寝室のベッドの上にそっと寝かしつけてくれたのかもしれない。そして、私は今起きたんだ。そうだ。月の無い、真っ暗な新月の夜に。そうだ。きっとそうに違いない。なあんだ、パパとママはちゃんと近くに居る。小机の上のランプを点けて、廊下を挟んだ向かいの寝室のドアをそっと開ければ、きっと、ぼんやりと夕焼け色に染まったパパとママの顔が見れる。

 早速彼女は、ベッド脇の小机に置いてあるはずのランプを取ろうとして、左手を伸ばした。が、そこにランプは無かった。代わりにひんやりとした、細かく波打つ平坦な物体の感触が彼女の掌に吸い付いた。彼女は思わず悲鳴をあげ、引っ込めた左手を胸元で固く握り締めた。心臓が肋骨越しに、不可思議に慄く哀れな左手を、どくんどくんと叩き始める。――あれは、何?今までに触ったことの無い感触……一番近いとしたら、年に何回か納屋に出る大きな蛇の鱗……でも、それも全然正確じゃない。ただ、冷たくて、平らで、グネグネして……

 彼女はそこまで考えて、ふと気が付いた。その未知の物体は彼女の後頭部、背中などにも張り付いている。――つまり、この不気味な蛇の鱗は、床だったのだ。そしてそれは、間違いなく少女の寝室のものではない。……ここまで考えてようやく少女は、自分が見知らぬ部屋の見知らぬ闇の中に居ることを悟った。

「あらあら、ようやくお目覚めのようね。こんにちは、可愛いお嬢さん」

 暗闇の底から、女性の声が響いた。その余りに唐突な声に少女は驚き、跳ねる様に上体を起こした。そして、身を護る様に膝を抱え込んでうずくまった。 

「……こんにちは」

 少女が囁く様にそう答えると、姿の無い声は上品な笑い声を上げながら言った。

「ふふふ、意外と礼儀正しいのね。立場をわきまえてる人間は、嫌いじゃないわ」
 
 重ねて、また少し笑い声が聞こえた。先程よりも僅かに低い、冷やかす様なトーンを含んでいる。少女はそこでもう一つの、生ける暗闇の存在を悟った。――少なくとも二人の人間が、私の近くに居る。でも、その姿を周囲の黒と区別することは出来そうにない。

「……あなたたち、パパとママじゃない。誰?なんで私をこんなとこに閉じ込めたの?私、**通りでパパとママと、買い物してたのよ?そうだ。パパとママは?ここに居るの?居ないなら、今どこに居るの?ねえ、ねえ!ねえってば!聞いてるんでしょ!?お願い!教えてよ!」

 少女は闇に向かって喚いた。この闇が誰なのかは分からないが、とにかく少しでも多くのことを聞き出さなければならない。……今自分が置かれている状況の説明を……なぜ夜の仄暗い灯りに満ちた**通りと両親が一瞬にして消え、この魂までも吸い込まれてしまいそうな黒の只中に放り出されてしまったのか……その明快な答えを、少女は欲していた。言葉を換えるなら、手品師がショーの最後に見せる種明かしの様な、他愛も無いトリックの告白を期待していたのだ。

 すると饒舌な方の闇が、さらさらと流れる様な口調で少女の質問に答えた。

「あらまあ、そんなに一度に訊かれても答え様が無いわね。とりあえず落ち着きなさいな。どうせパパもママも死んじゃったんだし、多分あなたにしたって、<>から死ぬまで出られない。そう、<>は<>で死ぬのよ。ここが最期の場所。だから大人しくなさい。いくら喚いたって、何も変わらないわ」

 そう言って闇はけらけらと笑う。その不気味さに少女は心臓が、どきん、どきん、と暴れだすのを感じた。

「……嘘!パパとママが死んだなんて、嘘!いい?二人とも、さっきまで私と手を繋いで一緒に歩いてたの!だから死んだなんて嘘、言わないで!ママもパパも……もうすぐ私の体もよくなるって……そしたらお祝いに新しいリボン買ってあげるって……笑ってたのに!」

 少女は力の限り叫ぶが、闇は一向に動じる様子を見せない。それどころか却って笑い声を大きくし、対抗する様に声を張り上た。

「ああ、そういえばそうだったわねえ。あなた、体が弱いんだったっけ。確か、太陽の光をまともに浴びれないのよね?だから両親と森の奥の一軒家に住んで、誰とも会わずに引きこもってたのね」

「そうよ!いけないの!?私だって、好きでこんな体になったんじゃない!パパとママのせいでもない!ただ赤ん坊の時に泣き過ぎたせいで、お日様に嫌われちゃっただけなの!」

「あらあら可哀想に。だから暗闇に慣れてるのね?何も見えなくても、犬の様に浅ましく這い回ったりしないのね?感心、感心」

「……あなた、さっきから馬鹿にしてるの!?どうして私のことを知ってるの!?そうだ、いい加減パパとママのことを教えてよ!……ねえ早く……お願いだから……本当は、死んでなんかいないんでしょ?」

 僅かな沈黙が二人の間に横たわった。少女ははあはあと荒い息をし、二つの闇は片方の声以外に、依然として物音一つ立てない。その余りに奇妙な静謐は、まるで本当に闇そのものが語りかけているかの様な錯覚を、少女にもたらしていた。 

 すると突然、もう一つの闇が初めて口を開いた。起伏の少ない、無感情な声。

「いい加減にしろ。お前の両親は、殺された。そしてお前は辛うじて生き延びている。それが事実だ。当時の状況の詳しい説明が必要ならしよう。お前は街へ行きたいと両親に無理を言って、夜の**通りへと連れられて来た。父親がお前の左に、母親がお前の右に立っていた。そうだな?そうしてお前たちは手を繋ぎながら、夜の街を歩いていた。だが、問題が生じたのはここからだ。お前たちの背後に、三人の男たち――恐らく金目当ての強盗だろう――が音も無く忍び寄り、隠し持った斧で一斉にお前たちの頭蓋を打ち砕いた。両親は殆ど悲鳴を上げる間もなく息絶えた。だが、お前は生き延びた。二人の大人に挟まれた小さな頭を狙うのに精一杯で、斧に十分な力を乗せられなかったらしい。そして……」

「嘘……そんなの……知らない……」

 淡々と紡がれていく言葉の合間に、少女が弱々しく呻く。しかし闇は、更なる言葉でそれを踏み消していく。

「嘘ではない。お前が覚えていないのは、脳に強烈な衝撃を受けたせいだ。そういう時の記憶というのは、ひどく脆弱なものだからな。お前は、自分が殴られたことも覚えていなければ、両親の魂が肉体を離れた瞬間に、自分の体が<>へと運ばれてきたことも覚えていない。だから、わざわざこうして説明してやっているのだ」

 少女は訳が分からなかった。まるで夜明け前の森で、梟の声を聴いているだけの様に思えた。言葉が耳から入り、思考の端っこを掠めてはまた耳から出て行く。――この闇は、一体何を言っているのだろう?三人の男?斧?私が運ばれた?<>へ?

 少女が言葉を失って呆然としていると、最初の闇が再び声をかけてきた。

「理解できないのも無理は無いわ。もっと分かり易く言わないと……そうね……簡単に言えば、あなたは忘れられちゃったから<>に来たの。あなたをよく知っていたのは両親だけだったから、その両親が死んで、元々孤独だったあなたはとうとう世間から完全に忘れられちゃったのよ。そして<>はロストパラダイス、忘れらた者達の最後の楽園。ここまで言えば分かるわよね?まあ、こんな荒っぽい方法で五体満足のまま結界を抜けてくるなんて、あなたって実は結構運がいいのね」

 そう言って闇は、ふふ、と笑う。少女は闇の言葉を必死に理解しようとしたが、一向に思考が働かない。――最早彼女の意識は現実を離れ、茫洋とした言葉の海をあてどなく漂っていたのだ。何も、理解できない。いや、何も、理解したくないのかも知れない。言葉の欠片を手で掬おうとすると、胃袋の底から得体の知れない恐怖が湧き上がってくる。そうして慌てて拾ったものを投げ捨て、目を閉じて再び流れに身を委ねる。彼女の意識はそんな緩慢な所作を繰り返していた。そこには最早、理性が立ち入る隙などありはしない。

……そもそも幼い彼女に、突然斧で襲い掛かってくる強盗や、幻想の世界の存在を、理解できるはずなど無かったのだ。光を避けて暗がりに生きてきた少女にとって、世界はもっと単純なものでしかない。自分を脅かす光と、そうでない闇。自分を優しく包み込んでくれる両親と、そうでない他人。彼女の世界はそれだけだった。必要なものは足りていた。ただ、他にほんの少し……本当に僅かな刺激さえあれば……彼女がそれを求めたことを、誰が責められよう?




――ゴトッ。

 ふと、少女は意識を現実に引き戻した。音だ。音が、黒の中に響いた。少女は息を殺して耳をそばだてた。……何か重いものが低い所から落ちる、不自然な音……それに続いて、ずりずりと引き摺る音……そして……

「きゃあっ!!」

 少女は思わず悲鳴を上げた。柔らかくて生温かい何かが、爪先に触れたのだ。

「あらごめんねえ、驚かしちゃったかしら?気になるなら、触って確かめてみてもいいわよ」

 闇の声が聞こえた。少女は恐る恐る手を伸ばす。震える指先が、静かにそれに触れた。温かい。そして柔らかい。しかし指の腹を横に滑らせていくと、今度は硬いものに当たり、またすぐに柔らかいものに当たった。更に指を滑らせていく。対象の表面をなぞる軌道は、奇妙な曲線を描きながら柔らかさと硬さを交互に通り過ぎ、そして……太く長い糸を大量に生やした球体に触れた時点で、少女は悲鳴を上げ、ついに理解した。

――これは、人間だ。

「あら。今更気が付いたのかしら?嫌ねえ、どうりでやたらとじっくり撫で回してたのね」

 そう話す闇の声は、まるで子犬と戯れる子供を優しく嗜める、母親の様だった。――たった今この場に意識を失った人間が落下してきたことなど、気にも留めていないのだろうか?

「ちょっと……何なのこれ……何で人が……誰なの……?」

 少女の弱々しい呻き声は、重苦しい黒の中に、ぼろぼろの糸屑となって溶けていった。何が何だか分からない。立て続けに起こる不可解な言葉が、現象が、彼女の小さな脳をがんがんと揺さぶっている。

 闇はそんな少女の動揺などお構いなしといった様子で、朗らかに説明し始めた。

「ああ、これはね、なんてことは無いわ。ただの、お薬よ。頭のお薬。分かる?さっきも言ったけど、あなた、死ななかったとはいえ斧で殴られて怪我してたのよ?こっちであらかたの治療は済ませたけど、なんせ未発達な人間の体なもんだから……中々上手くいかなくて。ちょっと触れただけで壊れちゃうし、私たちとは構造もまるっきし違うし。そこまで回復しただけでも結構凄いと思うわ。我ながら。うん」

 まるで独り言の様だった。

「まあそうは言っても、実は完全に治療が済んだわけではないの。どうにも最後の処置が上手くいかなくてねえ。それも本来あなた自身がやることだし、他人の手でやろうとすると、かなり無理のある作業になるのよ、これが。面倒よねえ。でもね、このお薬を飲まないと、あなたはあと一時間も経たない内に死んでしまうの。そんなの嫌でしょう?私たちとしても、病弱な孤児をこのまま見殺しにするのは忍びないわ。だから、あなたに生きるチャンスをあげようと、あなたが起きるのを待ってたのよ。そうして全て事情を理解した上でこのお薬を飲んでもらった方が、私たちとしても気分がいいし。うん、そういうことなんで、遠慮なくどうぞ」

 そう言って強引に説明を締めくくると、闇は、ふわあ、と眠そうな欠伸をした。少女は、今すぐ泣き叫びたい気分だった。この闇が何を言っているのか、一つも分からない。しかし、たった一つだけ明らかな事がある。――この闇たちの考えていることは、自分の世界にとって異常そのものだ。私の知らない、恐ろしい異常……。パパとママが死に、その上、人がお薬?分からない。理解ができない。でも……それを理解するということは、とても恐ろしいことなんだ。多分、理解できた瞬間に私は私でなくなってしまう。だから、私は、理解しないんだ……。

「……あれ?……」

 気が付くと、足元から感触が消えていた。人間は最早、少女の爪先に触れてはいなかったのだ。ぞっとして辺りを見回すが、肌寒い黒以外に見えるものなど一つとして無い。が、どこからか微かに音が聞こえた。きゅう、きゅう、という小さな音。興奮を抑えきれない子供が発する、あの断片的な悲鳴……。

 その時だった。少女が状況を把握するより先に、少女の体が金縛りにあった様に硬直した。指一本動かすことが出来ない。声も出ない。鼻の呼吸も止まり、口で喘ぐ様な呼吸を強いられる。辛うじて動かせるのは、舌と、唇と、顎の関節だけだ。

 突然の事態に少女がパニックを起こしていると、二番目の闇の声が聞こえてきた。感情の無い、冷たい声。

「落ち着け。私の声が聞こえるか?」

 混乱しながらも、少女は口を大きく開閉してそれに答えた。

「そうか。それなら、私の今から言うことをよく聞くんだ。いいか、お前は今から、この薬を飲む。それはお前の意思であり、願望だ。お前は一秒でも永く生き延びる為に、この薬を飲むんだ。そこに、罪など無い。ただお前は、息をしようとしていただけだ。いいな?今は、そのことだけを考えろ。他のことは考えるな。生きることだけを考えろ!これから、お前は、生きるために、薬を飲み、息を、しようとするだけだ!」

 闇の冷たい声は終わりに近付くにつれ、いつの間にか、悲痛な怒鳴り声へと変わっていた。心をずたずたに切り刻んだ、その傷口から一思いに搾り出した様な声だった。少女は言葉の表面的な迫力に慄きながらも、その隠れた悲哀を聞き逃さなかった……。 
 と、突然少女の口に何かが押し込まれた。温かく、柔らかい、人の肌。体のどこの部分かは分からない。だが、舌先に感じる僅かな酸味……食い込んだ歯に伝わる骨の感触……それらは全て、紛れも無く、人間のものだった。柔らかい皮と肉が、小さな口へと力任せに押し込まれている。

 少女は懸命に、呼吸をしようとした。しかし、皮と肉は少女の小さな口を余す所無く塞いでおり、ほんの僅かな空気の通り道しか無い。息を吐くほど、吸うのが苦しくなる。徐々に、気管を行き来する空気の量が少なくなっていく。肺が萎んでいくのが分かる。痛い。苦しい。地鳴りの様な音が、頭の中に響き渡り始める……

 きゅう、きゅう、と声が聞こえてくる。あの声だ。金縛りが発生する時に聞こえた、あの短い悲鳴。心の昂ぶりを隠し切れていない、獣じみた嬌声。どうやら、すぐ近くから聞こえている様だ。生温い微風とともに、耳をくすぐっている。誰の声だろうか?いや、もうこの際誰でもいい。ただ、苦しい。空気が、欲しい。呼吸を、したい。でもそれを成し遂げる為には、この肉が邪魔だ。どうにかして、手を使わずに、この肉を取り除かなければならない。どうすればいいのだろう?

(そこに、罪など無い。ただお前は、息をしようとしているだけだ。)
 
 朦朧とする意識の中で、少女は、眼前に広がる黒を見つめた。黴臭い物置の中よりも、星の瞬く瞼の裏側よりも、ずっと暗い。――そういえば随分長い間、瞬きをしていない様な気がする。だがそれも、もうどうでもいい。確かめてみる気も起きない。そんなことよりも、息がしたい。空気が、欲しい。

(お前は、生きるために、薬を飲み、息を、しようとするだけだ!)

 悪寒が、背筋を一気に駆け上がった。目の前の闇が、今や彼女の中にまで浸透し始めているのが分かった。少女は、生まれて初めて闇に恐怖していた。太陽に忌み嫌われた彼女にとって親しむべき存在だった闇は、今や彼女に牙を剥いている。彼女はそれを鋭敏に感じ取っていた。闇は彼女の両親を言葉の中で殺し、少女自身をもこうして殺そうとしている。そこには、黒しかない。どんなに強い光でも立ち入ることのできない、深い深い黒。最早少女には、それしか見えない。そしてその黒は、体中に広がり始めている。いつの間にか、音、味、温度……何もかもが黒い。先程頭に響いていた声には何か他の色がありそうだったが、それもすぐに黒に染まってしまった。もう何も考えられない。頭の底から濁流の様な黒が湧き上がり、私を飲み込んでいく。分からない。何も分からない。ただ黒くて、苦しくて、黒くて、痛くて、黒くて、黒くて、黒くて、黒い――

 
 






がりっ。









































――がりっ。がりっ。

 何かをひっかく様な音で、少女は再び目を覚ました。その小さな目に映っているのは、再び黒。しかし、それはどこか柔らかくて、懐かしい色。少女はぼんやりと母親のことを思い浮かべたが、すぐに止めてしまった。顔の輪郭すらも思い出せなかった。

――がりっ。がりっ。

 少女は考えた。……ここはさっきと違って、とても狭苦しい。それにひんやりと冷たい。体中に重い何かがまとわり付いていて、むずむずする.……ああ、そうか。この奇妙な音は、私がこの何かを引っ掻き回している音なのか。

――がりっ。がりっ。

 少女はしばらくしてまた考えた。……目が覚めてしばらく経ったけど、相変わらず真っ暗。でも、黒の向こうにぼんやりと何かが見える。何だろう?……どちらかといえば縦に長い……人の姿かもしれない。二つ。もしかしたら木かも知れないけど。ああお腹が空いた。そういえば、なんで私はここに居るんだっけ?全然思い出せない。さっきまでどこか暗いところに居た、ということだけは覚えているけど……ああ、そんなことより、とにかくお腹が空いた。もう、自分の指でも食べてしまおうかな。

――がっ。がっ。ぼこっ。

 小気味よい音とともに、急に目の前が開けた。少女は突然肺に流れ込んできた冷たい空気に、激しくむせ込んだ。それに眩しい。月の光だろうか?少女は涙を流しながらがなんとか立ち上がり、今の今ままで自分がもがいていた空間を見下ろした。子供一人がすっぽり収まりそうな、浅い穴。

「おはよう。いえ、この場合はお誕生日おめでとう、かしら?まあどっちでもいいわね。とにかく気分はどう?」

 どこかで聞いた覚えのある声に目を上げると、一人の女性が立っていた。煌々と輝く月を背に、空中の奇妙な切れ目に腰掛けて少女を見下ろしていた。そしてその隣には、もう一人の女性。こちらはただ浮いていた。その背後に浮かぶ不思議な毛の塊が、月光に透かされて金色に燃えていた。

「気分は、いいよ。ちょっと眩しいけど」

 涙を拭いながらそうおどけてみせると、女性は笑った。逆光で少女には見難かったが、とても美しいということだけは何となく分かった。
 次に、浮かんでいる方の女性が口を開いた。こちらも聞き覚えのある声。

「……何か、覚えていることはあるか?」

 少女は首を左右に振った。

「……なら、いい。好きな場所へ行って、好きな事をしなさい」

 そう言って、浮かんでいた女性はどこかへ飛んで行った。もう一人の方は、何も言わず、ただ手をひらひらと振って見送った。そうして、金色の炎を背負った後姿が小さくなっていくのを、長いこと眺めていた。

 そして彼女の姿がほとんど豆粒の様になった頃、少女は尋ねた。

「……ねえ、私、さっきまでとっても暗い所に居た気がする。なんにも見えない、とっても不思議な場所。あれはどこだったのかなあ?」

 女性は少し笑いながら答えた。

「ふふふ、そうね。私は一応答えを知っているけど、あなたは知らない。でも、多分あなたの方がよく理解してるんじゃないかしら?違う?」

 少女は少し黙り込み、考えてみた。しかし、一向に分からない。知らないのに理解しているとは、一体どういうことなのだろう?

「……分かんないよ」

 すると女性は少女に近寄り、頬に手を触れて言った。

「そう。今は、そうかも知れないわね。でもね、実はあなたはちゃーんと分かってる。夜にふわふわ浮かぶだけのか弱い黒と、海の底よりも深い本当の黒の違いを。あなたは、誰よりも闇のことを知っているのよ。それは今すぐ思い出せることでは無いけど、きっとあなたの体の中に残っているわ。だから、いずれ時が来たら……鳥の雛が飛ぶことを覚える様に、きっとあなたもその闇を思い出し、自分のものに出来る。とっても素敵だと思わない?」

 少女はもう少し考えてみた。あの闇の中にもう一度戻る。そして、その闇を自分のものにする。太陽さえ立ち入ることの出来ない、本当の闇を。それはそれで面白そうに思えた。

「そうね。とっても素敵。じゃあ、もし私がそれを覚えたら、一番最初にあなたに見せてあげるね!」

 そう言って少女は土塗れの両手を広げ、自らが埋まっていた穴の縁をくるくると踊った。女性はにこやかにそれを眺めていたが、やがて空間に新たな切れ目を作り、そこに体を半分ほど埋めた。そして、優雅に手を振りながらこう言った。

「じゃあ私はそろそろ帰るわ。あなたも早く、どこかに寝場所を見つけなさいな。ゆっくり休んで、たくさん食べて、できるだけ早く闇を従えてしまいなさい。そうしたら私はもう一度あなたの前に現れるでしょう。そして……そうね、折角だからその時は、私もあなたにプレゼントをあげる。とっておきの、誰かに斧で殴られても絶対に取れない様な、とっておきのリボンをね……きっと気に入るはずよ」

 そう言い残して、女性の姿は切れ目の中に完全に埋まり、やがて切れ目も完全に消えた……。





 一人残された少女は、穴の縁に座ってしばらく考え事をしていた。あの闇の記憶について、一つでも多くのことを思い出そうとしていた。しかし、何も思い出せない。思い出せるのは唯一つ、混じりけの無い正真正銘の黒……眼球よりももっと深く、脳髄まで侵す鮮烈な黒……そしてその黒に意識までも隙間無く染め上げられる、あの凄まじい感覚以外に、何かあっただろうか……?

――たっ、たっ、はあっ、たっ、たっ、はあっ……

 ふと、少女は物音に気が付いた。早いリズムで刻まれる足音だ。誰かが近くを走っている。音は、段々と大きくなって、こちらに近付いている。いや、こちらに向かっている。

 少女は咄嗟に立ち上がり、木々を縁取る青白い闇を見つめた。そして、息を殺し、耳を澄ました。――たくさんの音が聞こえる。躓きながら懸命に走っている様な、不規則な足音。荒い呼吸。そして僅かに、すすり泣く声。不安と、恐怖の音だ。誰かが黒い闇に怯え、白い月に向かって走っている。猿などではないだろう。猿は泣かない。恐怖に泣くのは、人間だけだ。夜の優しい闇に怯えるのも。あれ?ならば私は、人間?この宵闇が、この柔らかい黒が眩しくてたまらない私は、本当に人間?ああ、今なら分かる。私は人間じゃない。そうだ。そして、あいつは人間だ。証拠は無いけど、何となく分かる。人間。恐らく、人間。多分、人間。間違いなく、人間。絶対、人間。人間。にんげん。ニンゲン……
 




……暗い森のどこかで、鴉が鳴いている。
時たまこんな感じで妖怪の数を調整してたりしたら面白いなあと思いました。
ラック
http://
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コメント



0.600簡易評価
7.90奇声を発する程度の能力削除
これは良い狂気
14.80名前が無い程度の能力削除
ルーミア誕生秘話?
とても雰囲気があるお話でした。
紫と藍がとても妖怪らしいのも良かったです。
15.90名前が無い程度の能力削除
ルーミアの幻想入りの事に最後にようやく気づけた・・・