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初等科向け幻想郷歴史物語 : 第五巻  『よみがえった太子さま』

2012/04/04 23:12:48
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 みなさんは、お父さんやお母さんにたのまれて、おつかいに行ったことがありますか。
 行ったことのある人は、きっと、百圓のお札にかかれている方のかおを見たことがあるでしょう。その方が、『しょうとく太子』です。

 わたくしたちが住む『げんそうきょう』は、『はくれい大結界』によって、外の世界とかんたんに行ったりきたりすることができないようになっています。しかし、げんそうきょうも、外の世界も、同じく『日本』という国の中にあるばしょのひとつなのであります。

 その日本には、気のとおくなるような大昔から、そして今でも『みかど』と呼ばれるお方がおられるのです。『たかまがはら』というばしょからやってきた『ににぎのみこと』さまが、国つ神の『さるたひこのみこと』の助けをうけていちばんはじめのみかどとなり、人びとをおみちびきになりました。それが、『じんむのみかど』です(くわしくは、第一巻“かな子さまとすわ子さまの国つくり”をよんでみましょう。また、さるたひこのみことの子どもたちは、のちに天狗たちのご先祖さまとなりました。くわしくは、第十巻“くらま山の射命丸”をよんでみましょう)。

 しかし、それから長い年月がたつと、日本の国にはたくさんのもんだいがおこるようになってきました。人びとがたがいににらみ合い、"まつりごと”もとどこおるようになっていったのです。

 そのようなきびしい時代にお生まれになったしょうとく太子は、人びとが安心してくらせるよう、みかどを中心としたつよい国をつくるため、大いにおはたらきになりました。だからこそ、みなさんが見たことのあるお札に、そのお顔がかかれるようにもなったのです。

 では、そのしょうとく太子がどのようなことをなさったのか、また、わたくしたちの住むげんそうきょうによみがえったわけを、ともに見ていくことにいたしましょう。


――――――


 太子さまがお生まれになったのは、今から千四百年もまえのことです。
 そのころの日本はまだ日本という名前ではなく、かつて海をへだてた向こうがわにあった『魏』という国からなどは『倭』の国とよばれておりました。倭というのは『おくれた、やばんな国』ということで、このころの日本をさげすんだよび方なのです。

 太子さまは、その倭の国のみかどの子としてお生まれになりました。
 幼きころよりふかいちえをおもちであり、とてもやさしいお心のもち主でもあったと言われています。

 わたくしたちは、いつも太子さまを『とよさとみみのみこ』さまとおよびしております。
 そうよばれるようになったわけには、こんなおはなしが伝わっているのです。

 あるとき、太子さまのもとへ十人もの人びとがいっしょにやってきて、口ぐちに自分のうったえをのべておりました。
 わたくしたちのようなふつうの者であれば、だれが何をのべているのか聞きわけることはきっとできないことでしょう。
 しかし太子さまは、十人のうったえをすべて聞きわけ、ひとりひとりにぴったりの助言をおあたえになったといいます。太子さまのお耳は生まれつき、人の持つ『よくぼう』を聞きとどけることのできるお力がそなわっておいででした。そのお力のため、太子さまは『とよさとみみのみこ』さまとよばれるようになったのです。

 しかし、その太子さまでもすぐにはかいけつできないような、大変にむつかしいもんだいが、倭の国にはあったのです。

 そのころの倭の国では、共にみかどにお仕えするはずの『そが』氏と『もののべ』氏というふたつの一族が、はげしくにくみあっておりました。そのわけは、あたらしく入ってきた“み仏のおしえ”をうけ入れるかどうか、というものでした。

 今ならば、げんそうきょうに住むわたくしたちは、当たりまえのようにみほとけの像や、お寺を目にすることができます。『みょうれん寺』の『ひじり びゃくれん』さまや、『とらまる しょう』さまからおせっきょうをたまわった人も多いことでしょう。

 しかし、このころは

「みほとけをうけ入れよう」

 というそが氏と、

「いいや、古くからわが国におわす神がみがあればよい」

 というもののべ氏が、はげしくにらみ合っていたのです。

 太子さまは、このことをおおいに心配しておられました。

 いやしくも、同じひとりのみかどにお仕えするものたち同士があらそっていては、やがてまつりごとが乱れるもととなり、天下の人びとはおおいに苦しめられることになってしまいます。太子さまごじしんは、おさないころよりみ仏のおしえをふかく尊んでおいででした。ですから、み仏をもととして、みかどを中心とした国つくりをすすめれば、きっとまつりごとは安んじられ、人びとは苦しむことなくくらせるようになるにちがいないとお思いになっておられたのです。

 そのような太子さまのお志のもとには、そが氏から『そがの とじこ』、もののべ氏から『もののべの ふと』など、たくさんのすぐれた家来たちがあつまってまいりました。かのじょたちの力は、太子さまの国つくりに大いに役だてられることになるのです。


――――――


 やがて、みかどであらせられた太子さまのお父上がおかくれになると、そが氏はもののべ氏をほろぼすためにいくさをしかけました。
 けれど、いくさ上手のもののべ氏はつよく、そが氏はたいへんに苦しめられ、三度も戦って三度ともしりぞけられてしまいました。
 しかし、戦いに加わっておられた太子さまが、み仏に

「この戦いに勝利をたまわったならば、きっと立派なお寺を建てましょう」

 と、ねがいたてまつりますと、ついにそが氏は勝利し、もののべ氏はほろぼされてしまいました。

 このとき、まっさきにてきに向かってゆうかんに戦ったのが、そがのとじこであったといいます。

「やあ、やあ! われこそはとよさとみみのみこさまの第一の家来、そがのとじこなるぞ! いのちのおしからざる者は、だれなりとかかってくるがよい!」 
「おのれ、こしゃくなやつ! そが氏の者など、このもののべのてきではないわ!」

 剣をふるい、弓矢をうち、けんめいに戦うとじこの前には、つぎからつぎへともののべのへいたいたちがあらわれました。
 とじこは、きびしい戦いであってもけっしてひるむことなく前にすすみつづけます。そんなとじこのすがたを見て、そが氏のへいたいたちはおおいにゆう気づけられました。そして、ついにはてきの大将である『もののべの もりや』を、とじこのはなった矢がうち取ってしまいました。

 こうして、太子さまとそが氏は、もののべ氏とのあらそいにうち勝たれたのであります。
 とじこは、戦いの後に太子さまから

「とじこよ、きみこそがこの戦いでもっとも大きな手がらを立てた者だ」

 と、おおいにおほめのおことばをいただきました。

 また、もうひとりの家来であるもののべのふとは、戦いがあまりとくいではありませんでした。そが氏ともののべ氏が戦っているときも、ずっと都で太子さまやとじこのかえりをまっておりました。しかし、かのじょは太子さまにもとじこにもできないような大しごとをなしとげていたということを、わすれてはいけません。

 太子さまが、みかどを中心とした強くりっぱな国をつくるというお志をなしとげられるよう、

「太子さま。倭の国がふたつにわかれようとしているのは、もののべ氏がみ仏のおしえをうけ入れようとしないからにちがいありません。ですから、われはもののべ氏に戦いをしかけて、ほろぼしてしまうべきだと思います」

 と、じぶんの一族をほろぼすよう、太子さまにのべたのだそうです。
 もののべ氏の大将であるもりやは、だれあろう、ふとの実のお兄上でした。
 太子さまは、このようにつらい決だんをしたふとにたいそうおどろきながらも、戦いが終わって都にかえってくると、かのじょのこともまた、とじことおなじくおおいにほめ、

「ふとよ、きみが味わったようなかなしみがにどとくり返されることのないよう、わたしはきっとすばらしい国をつくってみせよう」

 と、けらいたちのはたらきにむくいることを、固くちかったのでした。

 このように、とじことふとという、ふたりの家来の大きなかつやくがあってこそ、太子さまの国つくりの、そのいちばんはじめのあゆみがはじまったと言うことができるでしょう。


――――――


 やがて、あたらしいみかどが決まりました。

 あたらしいみかどは『すいこのみかど』というお方でありまして、このお方は、日本の国のみかどとしては、初めての女のみかどでありました。

 太子さまご自身は、みかどのまつりごとをお助けする『せっしょう』というお役目に任じられ、そが氏とともにみかどをお助けしたてまつることになりました。また、もののべ氏をほろぼしたときに立てたみ仏へのちかいを守るため、四天王寺というりっぱなお寺をおつくりになりました。太子さまは、このお寺にこれから先の世の中のことを思って書いた『未来記』というご本をお納めになったのだそうです。このご本の写しは、今でも稗田家の倉にたいせつに収められております。

 太子さまはせっしょうとして、み仏のおしえをもとに国つくりをおしすすめられました。
 
 家がらにとらわれることなくすぐれた人びとをあつめるための『冠位十二階』、みかどに仕える者たちはみかどにさからうことなく、み仏を尊び、おたがいが仲良うしなさいと定めた『十七条の憲法』などは、そのだいひょうでしょう。

 太子さまがその中で『和をもってたっとしとなす』という決まりごとをおつくりになったのは、そが氏ともののべ氏とのあらそいがやがてはいくさになって、多くの人びとの命をうしなわせてしまったことや、家来のふとが国のためを思ってお兄上のもりやをほろぼさなければならなかったことを、いつもお心のうちに留めおいていたからにちがいありません。太子さまのお志とは、すなわち、人びとのことをいつもよくいつくしまれる、ふかいやさしさのこともでもあったのです。


――――――


 また、そのころ、海をへだてた大りくでは『隋』とよばれる強く大きな国がさかえておりました。太子さまは、隋のすすんだ文化や国のしくみを学ぶため、家来である『おのの いもこ』にずいのみかどへの手がみをもたせ、使者としておつかわしになりました。

 手がみには、

「日いずるところの天子、日没するところの天子へ……」

 と記されていたといいます。
 少しむつかしいかき方に見えますが、これはつまり、倭の国とずいの国とは、ともに同じだけの格をもつ国であると、お示しなされたことにほかなりません。

 これを見たずいのみかどは、はじめこそ「倭の国のやばんな者たちが、われわれずいの国と同じ格をもっているなどと言い出すとは、ぶれいなやつめ!」とおいかりになりました。しかし、しばらくすると思いなおし、あらためて倭の国に手がみをおつかわしになったのです。太子さまの国つくりは、すこしずつすすんでいるように見えました。


――――――


 しかし、太子さまのお心はいつまでも晴れることがありませんでした。

 国つくりのためとはいえ、いくさで多くの人びとを死なせてしまったことを思いだすと、いつも、くらく、しずんだ気もちになってしまうのです。

 また、人と人との和を尊ぶようさだめても、自分かってなふるまいをする者たちは後をたちません。人びとのよくぼうを聞きとどけるお力のもちぬしである太子さまには、そんな者たちの心の中のよくぼうのこえが、かならずきこえてしまいます。

 また、はじめこそみ仏を尊んでおりましたが、いくらねがいたてまつっても、おそろそしいえき病におかされたり、食べものが手に入らず、うえ死にしてしまう人びとはいなくなることがありません。太子さまは、そのことにもお心を痛めておいでだったのです。

 そして、人はなぜ死ななければならないのか、自分もいつかは死んでしまうのだろうかと、なやみつづけるようになりました。
 ついには、み仏のおしえは国つくりをするにはちょうどよいけれど、人びとのなやみをかいけつするためのものではないのだと、思うようになってしまったのでした。

 そんなとき、太子さまはふしぎな人物に出あいました。
 その人物は、『かく せいが』と名のりました。
 隋の国へつかわした使者がかえってくるとき、こっそりと同じ船にのって、倭の国へやってきたのだと言います。せいがは、太子さまがとてもすぐれた人物だといううわさを耳にして、ぜひともお会いしたいと申しました。

 はじめはせいがのことをあやしんだ太子さまでしたが、すすんだ国である隋からやってきた者なら、もしかしたら、自分のなやみをかいけつしてくれるほうほうを知っているかもしれないと思い、いちどだけでも会ってみることにいたしました。

 せいがは、大りくに伝わる『どうきょう』というふしぎなじゅつを使う、仙人でした。
 太子さまから

「せいがどのともうしましたね。せいがどのは、もしかして、人が死なずに生きつづけるほうほうをごぞんじではないでしょうか。わたしの国つくりは、まだはじまったばかり。人びとのために、もっと力をつくさなければなりませんが、みほとけのおしえをまもるだけでは、ものごとがうまくはこびません」

 と、そうだんをうけたせいがは、

「それならば、このせいがによいかんがえがございます。わたくしがしっている、どうきょうの“ひじゅつ”をおさずけいたしましょう」

 と、にっこりとほほえんで、申したのです。


――――――


 せいがの家来には、『みやこ よしか』という者がおりました。
 よしかは、ことばをはなすのがあまり上手ではなく、頭もそれほどよくありません。
 また、からだがとても固いので、歩くときにはぴょんぴょんと飛びはねなければいけないほどでありました。
 しかし、せいがはよしかのことを、実の妹のようにかわいがっておりました。

 せいがの言うことには、このよしかという人物は、死んだ人間のからだを、まるで“つぎ木”するようにしてくみ合わせ、ひとりの人間にしたものなのだそうです。

 その話をお聞きになった太子さまは、

「せいがどのは、何というおそろしいことをなさるお方なのだ」

 と、たいへんおどろき、おそれたといいます。

 しかし、せいがはすずしいかおで、

「これぞ、どうきょうのひじゅつのひとつである、“キョンシー”というものです。どうきょうは死んだ者をよみがえらせ、生きた者を千年も二千年も長生きさせることができるのです」

 と、申します。

 はじめのうちこそおどろいた太子さまでありましたが、せいがの言うどうきょうならば、人間は死ななくてもすむようになり、国つくりを百年も二百年もつづけることができるのかもしれません。そこで、さっそくもののべのふとにも声をかけ、せいがを先生として、どうきょうを学びはじめました。

 人と人との和をおもんじるみほとけのおしえを国のもととし、死ぬのをまぬかれるためにどうきょうを学んで、長く国つくりができるようになさったこともまた、太子さまのふかいおかんがえのあらわれなのかもしれません。


――――――


 しかし、どうきょうを学ぶみちは、苦しく、きびしいものでありました。
 どうきょうのひじゅつには、『水銀』というものをくすりとして飲まなければなりません。
 水銀は、わたくしたちが日々つかう道具をつくるのにもつかわれる、だいじなものです。
 しかし、そのままからだの中に入ってしまうと、くすりどころかたちまちおそろしいどくとなり、人間を病気にしてしまうのです。

 ですから、多くの苦なんにうち勝ってきた太子さまも、からだの中のどくにだけはかないませんでした。
 どうきょうのしゅぎょうのためにおからだが弱り、やがてご病気になってしまったのです。それは、ふとも同じことでした。

 ご病気になってしまった太子さまとふとを見て、せいがはたいへん困ってしまいました。
 このままでは、いずれおふたりは死んでしまいます。
 せいがの申したところでは

「ほかに、たったひとつだけほうほうがございます」

 と、いうことでした。

「それは、いったいなんでしょうか」

 そのように太子さまがおたずねになりますと、せいがは

「太子さまともののべさまが、いちどおはかの中でねむりにつくことです。このほうほうならば、いちど死んだあとでも、よみがえることができます」

 と、もうしました。

 しかし、太子さまは、

「み仏のおしえによると、どんなものでもさいごにはかならず、ほろびてなくなってしまうといいます。せいがどののもうすやり方でよみがえっても、そのころには、わたしがつくった国はなくなっているのではないでしょうか」

 と、そのようにおっしゃいます。
 きっと、ご病気のためにお気もちがお弱くなっておられたせいもあったのでしょう。

 しばらく、太子さまのおことばについて考えていたせいがは言いました。

「では、このようにいたしましょう。国の人びとからみ仏のおしえがうしなわれ、あたらしくすぐれた人物がのぞまれるようになったときにこそ、太子さまがよみがえることができるようにすればよいのです。それならば、すぐにまた、国つくりに取りかかることができるでしょうから」

 これをきいた太子さまは、たいそうおよろこびになりました。
 ですが、もししっぱいしてしまったら本当に死んでしまい、にどとよみがえることができません。

 そこで名のりをあげたのが、太子さまとともにどうきょうを学んでいたふとでした。
 ふとは、自分もまたおもい病気だったにもかかわらず、

「太子さま。ぜひとも、われをもっともはじめに、おはかの中に入れるようにしてくだいませ。太子さまがこのひじゅつにしっぱいすれば、人びとのためにまつりごとや国つくりをする者がいなくなってしまいます。ですから、先におはかの中が危なくはないかどうか、このふとにたしかめさせてほしいのです」

 と、申しでたのでした。
 太子さまはふとの手を固くにぎりしめ、なみだを流して何度もお礼をのべたといいます。


――――――


 さて、ふとがおはかの中に入る日の前の晩になりますと、太子さまのもうひとりの家来である、そがのとじこがふとのおやしきをたずねてまいりました。とつぜんやってきたとじこにおどろいたふとでしたが、きっとさいごのわかれを告げにきてくれたのだろうと思い、こころよくおやしきにまねき入れました。

 すると、とじこはとつぜんふところから剣を取りだし、ふとに手わたしたのです。
 ふとは、思わずみがまえてしまいました。
 そんなふとに、とじこが言います。

「ふとよ。かつてのそが氏ともののべ氏の戦いで、おまえのお兄上であるもりやどのをうち取ったのは、このわたしなのだよ。太子さまのお志のためとはいえ、わたしは友の一族をころしてしまったのだ。おまえがおはかに入るまえに、そのつぐないをしたいと思っていた。その剣で、わたしのむねを突きたまえ」

 ふとは、おどろいて目を丸くしました。
 しかし、やがてにっこりとほほ笑むと、このように申しました。

「とじこよ。そなたはそのようなことを気にしておったのか。もとをただせば、もののべ氏をほろぼすよう、太子さまに申しあげたのはわれのほうなのだぞ。われわれは、幼きころよりともに太子さまにお仕えし、その国つくりにかかわり、今では、ともにもののべ氏をほろぼしたという罪を背おっている仲じゃ。そなたひとりが気にするようなことではない。それよりも、われがねむりについたのなら、太子さまはおひとりになってしまうからのう。どうか、われのぶんまで太子さまをお助けしたてまつってほしいのじゃ」

 そうして、ふとは手の中の剣をとじこにかえしました。
 しかし、とじこはすぐにその剣をうけ取ることはできませんでした。
 なぜなら、このようにすばらしい友とわかれなければならないことをたいへんかなしく思い、あふれだす涙で目が見えなくなってしまったからなのです。

 こうして、ふとととじこのふたりは、さいごのばんをともにすごしました。
 ふたりのいたへやからは、子どものときからの思いで話が、ひと晩中、つきることがなかったといいます。


――――――


 ふとがねむりについてからしばらくたち、ついに太子さまがおはかに入るときがやってまいりました。

 せいががよういしたとくせいのおはかに入る前、太子さまはとじこへと、今までよくわたしに仕えてくれたとお礼をおっしゃいました。

「とじこ。わたしとふとがよみがえるまで、わたしたちふたりのおはかを、きっと守ってくれますね」
「もちろんです、太子さま。いつの日にか、人びとがふたたび太子さまをもとめるそのときまで、とじこは千年も二千年もおふたりをお守りいたしましょう。おふたりがよみがえったとき、倭の国のあたらしいまつりごとや国つくりのようすを、お教えしなければなりませんからね」
「ああ、それはなんとたのもしいことでしょう」

 太子さまととじこは、そうしておたがいの手を、固く固く、にぎりしめました。
 こうして、とよさとみみのみこさまは長い長いねむりにつかれ、よみがえるときをまつことになりました。人びとには、太子さまはとつぜんのご病気でお亡くなりになったとつたえられ、のちの世でかかれたご本にもそのようにしるされることになりました。

 それから倭の国は、みかどのおことばにしたがって『日本』と名まえをかえ、あたらしい都をつくりました。
 また、なんどもいくさがおき、多くの人びとがいのちをうしなうことになります。
 やはり太子さまのおかんがえどおり、人びとはよくぼうをすてることができなかったのです。


――――――


 けれど、太子さまのおかんがえどりにならなかったことが、ひとつだけあったのです。
 それは、みほとけのおしえが決してすたれてしまうことなく、千四百年も日本の国でつづいていたということなのでした。

 げんそうきょうにみょうれん寺ができたとき(みょうれん寺のなりたちについては、第十巻“空とぶふしぎな倉”を読んでみましょう。また、とらまるしょうさまと家来のナズーリンのぼうけんについては、第十九巻“お寺のなかまたちをすくえ!”を読んでみましょう)、じゅうしょくさまであるひじりさまは、じめんの下に強い力をもつものがうまっているとかんじ、それを封じるためにみょうれん寺を建てたのだともいいます。

 それこそが、太子さまたちがねむりについておられた『太子びょう』だったのです。

『はくれいの巫女』が、げんそうきょうにあふれた『しんれい』を追って、この『いへん』をかいけついたしますと、太子びょうからは、とよさとみみのみこさまと、もののべのふと、それにたましいだけになってもなお、おふたりを守っていたそがのとじこが、いっしょによみがえりました。

 さんにんは、いつのまにか千四百年ものじかんがたっていたことにたいそうおどろきましたが、またそれよりも、みほとけのおしえがすたれることなく日本の国へとあまねく広まっていることにおどろきました。


 わたくしたちがすんでいるげんそうきょうというところは、人びとからわすれさられてしまったものが、いつか流れつくところであるといわれております。はくれい大結界の外では、みかどがまつりごとの中心よりおはなれになって、すでに長いときがたっているのだそうです。み仏のおしえがうしなわれ、人びとが苦しむときに新しくまつりごとをおこなうという太子さまのお志も、すでに人びとから忘れさられたものとなってしまっていたのです。


――――――


 しかし、それでも太子さまは決してめげません。

 いま、かのじょは、日本のまつりごとや国つくりがかなわないのならば、このげんそうきょうを、だれにも住みよいところにしようと、熱心におはたらきになっておいでです。太子さまや、ふとや、とじこが、貧しい人びとに食べものや衣をほどこし、病人たちのめんどうを見ているのを、このおはなしをよんでいるあなたも、もしかしたら見かけたことがあるかもしれません。いつも人びとをおもい、まつりごとをなさっておられた太子さまのお志は、今もなお生きているのだといえるでしょう。

 また、太子さまは太子びょうを封じていたみょうれん寺の方々とも、したしくおつき合いをもつようになりました。

 はじめのうちこそ、太子さまと聖さまはおたがいを苦手としておりました。
 しかし、ある年に太子さまがおひとりでみょうれん寺をおたずねになり、

「聖どの。わたしは、このげんそうきょうにすむ、すべての人びとのためにはたらきたい。そのために、あなたのお力をかしてはいただけないか」

 と、そのようにおっしゃいますと、それを聞きとどけたひじりさまは、にっこりとおわらいになって、

「わたくしは、すべてのにんげんとようかいとは、みなびょうどうに生きることができるのだと信じております。げんそうきょうの人びとにつくしたいというとよさとみみどのと、思いはおなじなのです」

 と、おおせられたのでした。

 はじめのうちこそ不幸ないきちがいはありましたが、それでも、太子さまとひじりさまのおふたりは、ともにげんそうきょうをよりよい都とすべく、はげんでいこうと約束を交わしました。この日から、おふたりはたがいにかけがえのない友となったのであります。


――――――


 こうして、とよさとのみみのみこさまは、千四百年のときをこえてげんそうきょうによみがえり、かつてのお志を今こそなしとげるべく、いっしょうけんめいにおはたらきになっておいでなのです。

 もしあなたが、お父さんやお母さんにおつかいをたのまれたなら、その手ににぎった百圓のお札にかかれた、しょうとく太子のことを思いだしてみるのもよいでしょう。そのお方は今でもげんそうきょうにあって、わたくしたちのふるさとをよりよい都とすべく、今日もどこかでがんばっておられるのですから。 (おわり)

















――――――


 刊行のことば

 博麗大結界の誕生より以来、人妖の相棲むわれらがふるさとである幻想郷は、幾多の困難、数多の苦難を乗り越えて今日までの時を歩んできた。このたゆまぬ偉大な流れを後世に伝えるのは歴史を書き継ぐ者たちの使命ではあるが、歴史というものは、ただ狭き学問の堂宇の中でのみ紡がれ続けるべきものではない。次代を担う幼き子らに、よりわかりやすく、より面白いかたちで、われらのふるさとと祖先とが歩んできた日々を伝えることがかなわなければ、いずれ幻想郷という場所は刹那の時間の合間に飲み込まれ、終焉の日をむかえてしまうだろう。私は、ふるさとのそのような姿を見たくはない。だからこそ子らの心のうちに――幻想郷の歩み、そこに至った者たちの事績、人間と妖怪との関わりを教え、自己の意志の練成、幻想郷に住む者としての心を育まんと祈念し、この物語たちを、いま世に送り出さんとするものである。

  
 稗田阿求
「……と、まあ、ご依頼を受けて、豊聡耳どのの伝記をこんな感じに書いてみたのだが。いかがだろうか、物部どの」
「我の活躍が足りない」


4/10
色々と変更。
こうず
https://twitter.com/#!/kouzu
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コメント



0.340簡易評価
3.10名前が無い程度の能力削除
初等科向けとか言っておきながら内容を子供向けに判りやすくするのではなく、
単にある程度以上の漢字を使わないだけなので無駄に読み難い。
4.無評価名前が無い程度の能力削除
ちょっと文体がナルシシスティックな印象です。漢字を使ったほうがユーモアがはっきりしてよいのではないかと思いました。完成度が高いし面白いので何か残念な感じが。
7.100名前が無い程度の能力削除
>「我の活躍が足りない」
あと書きのこれで笑ってしまった。即答かよwww
8.100名前が無い程度の能力削除
おま布都ちゃんwww
まあ、あれだけドヤ顔するんだから、自慢されたいよねwww
13.90保冷剤削除
いや読みやすいよこれは。歴史を学べるかどうかは解らないけど。平坦な印象なれど主要人物の要がキッチリ史実を通して落とし込まれてるし、山も谷もある・やるべきことはやってる・かと。しかし平仮名多めの文章を見るとなにかを思い出すね。
ただ神子を徹底してブディストと描いているように見えるけど、個人的にあの人は神仏習合って大発明こそ功績だったと思っているので、なんだか都市的だなあって思いました。
14.100名前が無い程度の能力削除
図書館にある、児童向けの解説本っぽいイメージでおもしろかったです。
他のシリーズも気になる。
しかし、実際にはもっとドロドロした関係が想像されるのはなぜだw