Coolier - 新生・東方創想話

人と神と境界と

2009/08/30 01:34:30
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真夜中の妖怪の山。
その山頂付近に存在する、博麗神社ではないもう一つの神社・守矢神社。
二柱の神と一人の現人神の住むその神社に明かりは点っておらず、皆眠りについている様である。

その内の一部屋を仕切る障子が、微かに開いている。
部屋の中で、妖怪の山に住む数少ない人間の一人、東風谷早苗が眠り込んでいた。

「………ん……?」

不意に、早苗が小さく呻き声を上げ、のそのそと身を起こす。
閉じた瞼から感じる眩しさが、安眠を妨害していたのだろう。
その元を辿る様に、早苗は薄く目を開く。

「…………」

光を感じた先には、微かに開いた障子から見える月が在った。
満月から少し欠けただけのとても明るい月と、その周りに散らばる無数の星、
その光が障子から入り込み、早苗を起こしてしまったのか。

「…………」

早苗は、布団に入ったままじっとその月を見つめ始めた。

幻想郷という世界に来て以来、早苗は夜空を見上げるのが好きになっていた。
妖怪の山の頂上から見上げるとても近い満天の星空は、言葉にし難いほど美しく、
澄んだ夜空の空気はとても心地が良い。
そして、その中心に浮かぶ月は、早苗の知る中で数少ない、幻想郷と外の世界で変わる事の無いものであるから。

障子から覗く月を暫く眺めていた早苗は、ゆっくりと立ち上がり、もう一度眠る為にと障子を閉める。
月を眺めた後は不思議と心が落ち着くので、今度こそゆっくりと眠れるだろう。
布団に戻った早苗は再び目を閉じ、少しして寝息を立て始めた。


―――きっと、明日は満月だ。










東風谷早苗の朝は早い。
まだ日も完全に姿を現さない頃には目を覚まし、身支度を整えて境内の清掃を始める。
もっとも、少しずつでも信仰を取り戻しつつある神社は荒れ果てる事も無く、広い境内と言えど僅かな時間で終ってしまう。
その為、彼女の主な目的はその後の時間であると言えるだろう。

あっという間に境内の清掃を終え、掃除用具を片付けた早苗は、何をするでもなく空を見上げた。

「良い天気…」

その見上げた先には、日も大分登り、僅かに雲の見えるだけの澄んだ青空だけが一面に広がっていた。


幻想郷に来てからというものの、早苗の周囲の環境は激変した。
幻想郷には無い素材で作られた建物が立ち並び、便利さを追求された生活の中で過ごしていた早苗は、
漫画や歴史の授業でしか聞いた事の無いような生活水準の幻想郷で生活していかなければならなかった。


幻想郷に来てからの生活は、早苗にとってとても心地の良いものだった。
外の世界の様な便利さは無くとも、幻想郷での暮らしでは何一つ不自由な事は無く、穏やかで暢気で、暖かい。
早苗には、正に外の世界の本に有るような世界に入り込んだかの様な、理想の世界の一つだと思えた。

「………!」

のんびりと空を見ている内に、早苗は不自然な風を感じて立ち上がる。
誰かが操っている様な、妖力を微かに含んだ強い風が、境内の方に向かって吹いて来ている。
ただ、そこは風祝であるからか、風の妖力を感じ取った早苗は、その風が誰が起こしたものなのか分かっている様に笑顔で迎えていた。

そして一歩前に踏み出すと同時に、突風と共に一人の少女が早苗の前に降り立った。

「おはよう、早苗」

風を操る烏天狗、射命丸文。
彼女もまた朝早くから幻想郷を飛び回り、新聞のネタを捜すのが日課になっている。
しかし、この日は脇に抱えた鞄に入っている大量の新聞を配る為の早起きだった様だ。

「あっ、新聞、出来たのですか?」
「そう、だからこれ、早苗の分」
「…はい、ありがとうございます」

早苗は文から新聞を受け取ると、そのまま文の身体に抱きついた。

「…………♪」

唐突な行動ではあるが、文は嬉しそうに早苗の身体を抱きとめる。
例え新聞を配っていなくとも、文は毎日早苗に会いに境内を訪れている為、これも日課の一つになっていた。
お互いに忙しい毎日での僅かな逢引は、二人にとってとても大切な、朝の目的の一つ。

「……それでは、行ってらっしゃい、文さん」
「…うん、行ってきます」

名残惜しそうに離れた二人は、二人の生活に戻っていく。
もう一歩進められればとても幸せな一時になれるのかもしれないが、そうなってしまっては今日一日何も手に付かなくなるかもしれない。
ほんのりと赤みの差した頬を緩ませて、早苗は文を見送り、文も同じく早苗の見送りを受けて、新聞の配達に戻った。

突風と共に飛び去っていった文を見上げて、早苗はこの上ない幸せを感じていた。
この出会いもまた、幻想郷に来れたからなのだろう。






居間に戻ると、この神社に住む神様の一柱、洩矢諏訪子が卓に着いていて、台所からは既に調理の音が聞こえてきていた。
早苗は一礼してから諏訪子の隣に座り、新聞紙を広げて読み始める。

この文々。新聞とは、烏天狗である射命丸文の発行している新聞の事である。
天狗の新聞は誇張された表現や嘘の内容が多く、楽しむ為ならともかく情報源とするにはかなり不安が残る。
その中で、この新聞は噂に聞く出来事も載っており、主観的な表現は多いものの事実を載せている、
天狗の新聞にしては、珍しいものである。

その新聞を、早苗は幻想郷の情報元として購読し、よく読んでいた。

「どう? 何か面白そうな記事は有った?」

夢中になって読み耽っている早苗の横から、諏訪子が首を突っ込んで記事を覗き見る。
諏訪子もまた、文々。新聞の記事に興味を持っているので、早苗と一緒に読む事が多くなった。
二人の目的は、微妙に違ってはいるのだが。

「えっと……『博麗神社主催の弾幕花火大会、開催決定』『騒霊ライブ、次回は人里か』―――
やっぱり、この時期はお祭りが多いみたいですね」

じっくりと一文一文を読みながら、早苗は幻想郷の新聞を覚えていく。

外の世界の新聞は読んでいて気が滅入るニュースがびっしりと書かれており、
何となく読んでみただけでも、あまり積極的に読みたいとは思えないものだった。
幻想郷の新聞は外の世界の新聞とは全く違う、幻想郷での日常やちょっとした出来事が書かれただけの新聞、
それがここまで面白いとは、早苗は思いもしていなかった。

「うんうん、あの天狗も頑張ってるみたいだね」

早苗の横で、何か安心したように頷く諏訪子。

「何を頑張っているのですか?」
「この間、幻想郷を見て回ってた時に知り合った閻魔様とちょっとね」
「え、閻魔様…?」
「閻魔様って言っても、そんな怖いものじゃないよ。
閻魔の仕事をしているだけの幻想郷の一員みたいな感じだったね」
「はあ……ですが、それとこの新聞と何の関係が有るのですか?」
「早い話が『善行を積みなさい』って事ね」
「?」

今一話が飲み込めないまま会話が途切れてしまい、早苗は再び紙面に視線を落とす。

面白いのは、単純に記事の内容だけではない。
書かれた内容から見えてくる幻想郷の日常、人妖の関係、生活、事象。
文面から読み取れる幻想郷の事情も、新聞の楽しみ方の一つである。


「……?」

そうして読んでいく内に、小さな広告欄に目が留まった。

「香霖堂……」

早苗は、少し前に文から聞いた話の中に、その名前が有った事を微かに思い出した。
幻想郷に無い、外の世界から流れ着いた物が集まる場所の一つ。
そこでなら、外の世界の物が手に入るかもしれない。
確か、そう言っていたはずだった。

「……………」

不思議と、興味が湧いた。
幻想郷に流れてくるような外の世界の物がどんなものなのか、それが自分の知っているものなのか、
そして、幻想郷でも使えるような物なのか。

「……そうだ」
「?」

この日、早苗は午後から文と会う予定が有った。
その時に、二人で香霖堂に取材に行ってみよう、と早苗は考えた。
早苗が文に同行する事でより詳しい事が分かるかもしれないし、自分も調べものが出来て、
更にお店の宣伝にもなる、一石三鳥の計画とも言える。

「さあ、朝ごはんが出来たよ」

そこまで考えた所で、台所から神奈子の声が聞こえた。
早苗は読んでいた新聞を傍に置き、午後からの予定を楽しみにしながら朝食を迎えた。





今まで、足を運んだ事も無かったかもしれない。
あるいは、見かける事くらいしか無かったのだろうか。
魔法の森の傍に有る小さな古道具店に二人が向かったのは、正午を大分過ぎた頃だった。

「…ここが、香霖堂ですか」

目の前に来てみると、より一層好奇心が湧き出してきた。
軒先から広がる珍しい品物、というより外の世界で話にしか聞かない様な古い道具、
幻想郷の中でも見た事の無い物が、所狭しと並べられている。

「簡単に言えば、物好きな半妖が趣味で経営している美術館兼お店、って所ね。
大抵は非売品にされてるけど、たまにネタになる物が置いてあるのよ」

早苗の隣では、文がこの店の事を教えてくれている。
どうやら新聞に関してのお得意様らしく、割とここには通っているらしい。
その店主を少し羨ましく思いつつも、早苗は香霖堂へと足を踏み入れた。

幻想郷に流れ着いた物を品物として扱ってのは、外の世界のリサイクルショップの様なものだと、早苗は思っていた。
しかし、ここはそれよりもっと面白く、興味深い物が有るに違いないという確信も持っていた。



一歩踏み込んだ先は、見渡す限りが品物で埋め尽くされていた。

「ふわぁ………」

圧倒的な品数に、早苗は思わず感嘆の息を吐く。
一見何の変哲も無い道具から外の世界でも使われていた有名な機械まで、様々な物がごちゃごちゃに積まれている。
一瞬、外の世界の古道具屋に迷い込んでしまったかのような錯覚すら覚えてしまっていた。

「いらっしゃいませ、何か御用ですか?」

そんな道具の山の隙間から男が一人現れ、二人を迎え入れた。
その言葉から、この店の店員、あるいは店主だという事が分かる。

「毎度お馴染み射命丸です。
今日は外の世界の道具を取材させて頂きたく、やって参りました」
「また君か…今朝も会ったばかりじゃないか。――で、そちらの方は?」

普段からこうなのか、文への対応はお客に対応するそれではなく、文もまたその態度に慣れている様だった。
その文の横でキョロキョロと品物を眺めていた早苗は、文につつかれて店主の方に振り向く。

「……東風谷早苗、でしたかな? 山の神社の巫女だと聞いておりますが」
「あっ…はい、そうです」
「やはりそうでしたか。僕は森近霖之助と言います、この香霖堂の店主を勤めております」

随分と丁寧な挨拶である。 早苗もそれに合わせて、丁寧に自己紹介を返した。
本人曰く、霖之助は半人半妖であり、霊夢や魔理沙とも親しいと言う。

「…私や霊夢達とは、随分態度が違うみたいですねぇ」
「君ほどではないよ。 それに、彼女は君達とは違って、お客さんだ」
「あやや、実はそうではないんですよ」
「どういう事だい?」

怪訝な顔をする霖之助に、文が方法と早苗が居る理由を、早苗が自身の目的を霖之助に伝える。

「なるほど、外の世界の知識をね……」
「そうです。 そちらには外の世界の知識を得られて、私は新聞のネタを手に入れて、早苗には好奇心を満たせる。
誰にとっても損の無い事だと思いませんか?」

この取材自体は、早苗が提案した事である。
幻想郷を知る上で、幻想郷からの観点を学びたいという好奇心の為のものだったが、予想外に上手く利害が一致していた様だ。

「…そうだな、確かに悪くない」

霖之助は少し悩み、その提案を了承した。







「これ…も確か、少し前まで外の世界で使われていた物です。
今ではこれより小型化されていて、より性能が上がっているんですよ」

小さな機械を手に取りながら、早苗は霖之助達に使い方や外の世界での評価を説明していく。
それまでにもいくつかの外の世界の道具を、早苗は思い出しながら伝えていった。

「それで、他にも様々な機能が―――」

早苗は、早苗の説明に聞き入る二人の反応を楽しんでいた。
二人の意見や質問は、それこそ幻想郷から見た外の世界の評価そのものであり、早苗が興味を持った事の一つだったからである。

また、幻想郷では外の世界で通じるような用語が通じない事が多いのは早苗自身の経験上、よく分かっている。
極力横文字を使わないようにしつつ、早苗は商品の一つ一つに感想を付けていった。

「なるほど…一つ聞くけど、それは外の世界ではどの位の価値が有るものか分かるかい?」
「そうですね……これ一つで、一ヶ月間毎日お米がお腹一杯食べられるくらいですね」
「そんなに価値の有る物だったのか、動かす事が出来ないのが残念だよ」

心底残念そうに、霖之助は肩を落とした。

「それにしても、そんな有名な物がよく二個も手に入ったものだ。
僕はとても運が良いのかもしれないな」
「二個ですか? 一つしか無いみたいですが…」
「ああ、一つは持って行かれてしまったんだよ。…今考えれば、とても惜しい事をしてしまったものだ」

霖之助の話では、八雲紫と名乗る妖怪がストーブの燃料と引き換えに持って行ってしまったらしい。

「それでは、八雲氏はその道具の価値を知っているという事なのでしょうか?」
「まあ、そうなるだろうね。 彼女は外の世界にもとても詳しかった。 それこそ、外の世界にも行けるかの様にね」
「外の世界に…」


八雲紫。
早苗は、話には聞いた事は有るものの、実際に会った事は無い妖怪だった。
圧倒的な妖力を持ち、境界を操る力を有し、幻想郷という世界を作り出した張本人であると、人間の里のとある文献で見た事があった。
言われてみれば、幻想郷を作り出した者であれば、外の世界について知っているのは至極当然の事だろう。


「僕も彼女には世話になっていてね、時々来ては燃料と店の物を交換していってくれている、言わばお得意様みたいなものだよ。
…ただ、彼女は外の世界については殆ど何も教えてくれないけどね」

きっと持っていったのは価値の有る物ばかりだったんだろう、と霖之助は付け加えた。

「八雲紫…ですか、一度会ってみたいです」
「いや、会うのは極力やめておいた方が良いよ。 大抵良い事にはならないだろうから」

霖之助がバッサリと切り捨てる程の妖怪とはどういうものか、早苗はちょっとだけ気になった。




「…しかし、少し気になる事が有るんだが、聞いても良いかな?」

店の大半の品物の鑑定が終った所で、霖之助は何かを考えるように押し黙った後、早苗に向かって話し掛けた。

「私にですか?」
「そうだ。君の意見はとても勉強になった、その事には感謝したい」

結局、早苗の協力で、この店の殆どの品物の使い方と価値が分かり、霖之助はその殆どを倉庫へとしまってしまった。
ただ、幻想郷では使う方法が無いので意味は無いのだが。

「だからこそ気になったのだけど、君は外の世界にそれなりの愛着を持っていたんだろう。
それは、幻想郷の事を知らなければ、そうなるしか無いのだとは分かってるつもりだ。
しかし、今、君はこうして幻想郷に居る、幻想郷を知っている」

早苗もまた、外来人と同じように幻想郷にやって来た外の世界の人間である。
一つ違う点が有るとすれば、早苗は幻想郷の住人となる力を持っている事だろう。


「少し迷惑な質問かもしれないが……幻想郷に居る今の君は、外の世界の事をどう思っているのかな?」


霖之助の質問は、早苗という特別な存在に対する純粋な興味であると共に、早苗という存在をそのものを問うかのような言葉だった。




「―――――――」

早苗は、すぐには答える事が出来なかった。
早苗にとって外の世界とは、幻想郷よりも長く過ごしていた世界であり、生まれ故郷でもある。
外の世界での知識はもちろん、文化、食、娯楽など、幻想郷には無い素晴らしいものも多く、
何より、外の世界でも楽しい思い出が有った。

だからこそ、目の前の楽園に傾倒しきれず、早苗は答えを決められないでいた。

「外の世界は……私にとって大切な故郷です」

この一言だけでも精一杯の様に、早苗は機械を握り締めたまま立ち尽くす。
今の早苗にとっての外の世界とは、どの様な存在であるのか。
早苗は、心の中で整理をつけようと外の世界の記憶を辿り、外の世界へと意識を傾けた。









――――真っ白な世界の中に、聞き覚えの有る声が聞こえた気がした。

何度も叫んでいたように聞こえたその声も、段々と遠ざかっていく。

その声が完全に届かなくなった時、早苗は懐かしい何かを感じていた。


眩しいまでの人工的な光。誰かが話していた、だけど早苗は使う気にはなれなかった言葉。不思議と落ち着く生暖かい空気。
それはまるで、早苗の知る外の世界そのものの様に、早苗を迎えていた。


懐かしい。


今だ記憶に新しい故郷の事を、早苗は思い出していた。
だとすれば、ここは外の世界なのだろうか。それとも、意識だけが外の世界に飛んで行ってしまったのか。


「あら貴女、どうやってこんな所に来たの?」

目も開けられない様な光の中、何処からか女性の声が聞こえた。
不思議な事に、外の世界の様な喧騒の中から女性の声だけがはっきりと聞こえた後、周りの雑音がとても遠くに聞こえる様になっていた。

「貴女で二人目ね、こんな無茶な事をしようとしたのは。
それに、貴女は人間……いえ、半人前の神様かしら?」

声の主に今の状況が何なのか問い質そうとしても、口が開かないし、声も出ない。
早苗は、ただその女性の声を黙って聞き続けた。

「弱まってもいない結界を越えようとするなんてどんな妖怪かと思ったけど、神様なら結界を抉じ開けられるのも頷けるわ。
……でも、神様の貴女は幻想郷から抜け出したいの?」

――ここで、漸く早苗にも状況が理解出来た。
原因は分からないが、早苗は結界を越えて外の世界に出ようとしていたのだ。

外の世界の道具に囲まれ、外の世界に想いを馳せていた早苗は、幻想郷の結界を乗り越えかけてしまっていた。
今ここで早苗がそう意識すれば、外の世界に出る事も可能だろうか。

現に、周囲は外の世界の空気に満ち溢れている。
今早苗が閉じている目を開き、外の世界の景色を確認したのならば、それは外の世界に出られたという事だ。


今この時、早苗の気持ちは外の世界に向けられていた。
幻想郷を知る前の早苗は、外の世界での生活に何の疑問も抱かず、
だが、今の幻想郷を知った早苗が外の世界を見たならば、外の世界はどう映るのだろうか。
その外の世界を見れば、早苗の小さな迷いは吹っ切れるのか。


ほんの少しだけ、幻想郷に戻る為に外の世界を見るだけだ。
幻想郷を見たこの眼で外の世界をもう一度見れば、分かるはず。



「…そう、それなら仕方ないわね、人間」

少し調子を落とした声で女性がそう告げると、途端に外の世界の音が四方八方から聞こえ出した。
瞼の裏に見える光が、真っ白なだけの光から、色彩豊かな人工的な光へと移り変わる。




―――――……ぇ、……なえ!

耳を塞ぎたくなるような騒音の中、早苗は後ろから小さな声を聞いた。
正確には耳で聞いたわけではないが、確かに早苗にその言葉が届いていた。
その声が段々と大きくなるに連れて、その声が自分を呼ぶ声だと、早苗は気付いた。
その声の主は、悲痛なまでの叫び声で、早苗を呼び止めている。


―――――…なえ! 早苗っ!!


やがて、その声が耳元で叫ばれたかの様に大きくなり、同時に身体が温かいものに包まれた様な気がした。
その感触が、過去ではなく今のものであるという事を、早苗に伝えている。

その声が、早苗の意識を幻想郷へと傾けた。


だから早苗は、今居る所へ戻ろうと、強く意識した。
それに合わせて、外の世界の騒音が少しずつ遠ざかって行く。


そしてその騒音に早苗が背を向けた時、


「早苗っ!? どうしたの、早苗っ!?」

早苗は、はっきりと感覚を取り戻していた。


自由になった目を見開いてみれば、目の前には手を振り下ろしたままの様な姿で固まっている霖之助と、
様々な道具が並んだ店内が、はっきりと確認出来た。

「…良かった、戻って来れたみたいだ」

霖之助は、ふうと一息吐いて再び椅子に腰掛ける。

「早苗……?」

早苗の後ろでは、文が早苗の身体に必死にしがみ付いて、涙目で早苗に呼びかけている。
そして早苗の意識が戻ったと分かり、緊張の糸が切れた様に店の床に座り込み、長い息を吐いた。
その文の両腕は早苗のお腹に回っており、後ろから抱き締められていた事になっているらしい。


「文さん……、霖之助…さん」

意識が戻った早苗は、震えていた。
寒いからではなく、何か肉体的な理由が有るわけでも無い。




ほんの少しだけ冷静になって、東風谷早苗としての記憶が蘇り、最初に感じたものは。

恐怖だった。

恐らく、文と霖之助が無理矢理幻想郷に引き戻してくれていなければ、あのまま早苗一人が外の世界に放り出されていただろう。
外の世界に、たった一人で。
そして、意識的に結界を越える力を持たない早苗は、今の外の世界では容易に振るえないであろう二柱の力を借りても、もう二度と幻想郷に戻る事は出来なかっただろう。

それはつまり、今の早苗の全てとの別れを意味している。
幻想郷での穏やかな生活。新しく出来た人間や妖怪の知り合い、友人。自由に振舞える現人神としての力。
その全てが早苗から失われ、一人の人間として外の世界に戻り、
まるで夢の世界から目が覚めた様に、外の世界で過ごしていくという事も出来たのだろう。

だが、あの境界の中で早苗はその可能性を拒否し、幻想郷を選び取った。
故郷であり、数多の思い出を残す場所である外の世界を選ばずに。

それが、早苗自身が示した、早苗の答えだった。




早苗は、たった今起こった出来事を、覚えている限り文と霖之助に話した。
外の世界を感じた事、女性の声が聞こえた事、自分が結界を越えようとしていた事。
ただ、自分の考えは全て隠したままで。

「…夢を見ていたんだろう」

早苗の異常な様子にも動じず、霖之助ははっきりと言い放った。

「ここは外の世界の物も多いから、外の世界の夢を見る事が有るみたいなんだ。
僕も一度だけ見たことが有る、詳しい事までは覚えていないけどね」

いつの間にか床に落ちていたらしいひびの入った機械を拾い直し、霖之助は椅子へと戻る。

「どうやら、あまり体調が良くないみたいだね。 今日の所はさっさと帰った方が良い」

早苗の様子を気遣ってか、霖之助は取材を切り上げ、二人に帰るよう促す。
文はもちろんの事、早苗も自分の力で立ち上がり、神社に戻って休む事に同意した。













夜も更けて月が大分高く昇る頃、早苗は一人守矢神社の縁側で視線を境内に落としていた。
その上には雲一つ無く澄んだ空と、無数の星が輝く中に、一際大きい満月が浮かんでいる。
外の世界のなんでもない満月とは違う、妖しい光を帯びて輝く満月は、早苗の不安をより一層煽っている様に見えた。

早苗は、夜空を見上げる気になれなかった。
外の世界の事を、恐怖の記憶として思い出したくなかった。

早苗は、外の世界の事を大切なものだと思っている。
だが、現人神としての早苗は、外の世界に恐怖を抱いていた。

幻想郷を知れば知る程に、外の世界という存在が早苗の思考の中でマイナスに傾いていく。




その時、不自然な風が境内に吹き渡り、早苗ははっと空を見上げる。
風の吹く元に、満月を背景に横切る黒い翼が見えた。

「――――!」

瞬間、早苗は大地を蹴って飛び立っていた。
妖しい満月に浮かされているのか、横切った影に惹かれたのか、殆ど衝動的にその翼の持ち主を追って飛び続けた。



「あやや、早苗?」
「こんばんは、文さん」

月を横切った黒い翼の主、射命丸文は、妙な時間の意外な人との遭遇に、驚き立ち止まった。

「…身体は大丈夫? 今日はもう休んだ方が良いわよ、特にこんな夜はね」

満月だからか、文は早苗に外を出歩かないよう忠告している。
人間の里ならまだしも、妖怪の山を満月の深夜に出歩くなど、本来なら自殺行為に等しい事だ。

「…文さんだから大丈夫です。 それで、今、文さんにお願いしたい事が有るんです」

昼間はあの様な状態ではあったが、今は文に空で追いつけるほど、とても調子が良い。
早苗は自分の力の自信を持ち直し、文に向かって力強く告げる。

「文さん、私と本気で勝負してくれませんか?」

早苗の頼み事は、その一言だけだった。

「満月の夜に妖怪と戦うなんて…本気なの?」
「はい。全力で思いっきり、私の力を使いたいんです。 だから文さんも、全力でお願いします」

満月の下で、早苗は御幣を強く握り締めて、文と向かい合う。
その目は真剣そのもので、刺し貫くような視線が真っ直ぐに文に向けられていた。

「…分かったわ、本気で相手してあげるから、本気で掛かってきなさい!」

文もまた、満月の魔力に身を任せて扇を天に向けて翳す。




満天の星空の下、二つの風が渦を描いて舞った。








「はっ……はっ………。や、やっぱり、敵いませんね……」

数十分後、文の勝利で勝負は幕を閉じた。

「いや、早苗も頑張ってたわよ……こんな満月の日になんて」

文も多少疲れてはいる様だが、まだ戦える程度の力は残っているだろう。
それでも、満月の夜の烏天狗を相手にと考えれば、早苗は善戦した方ではないだろうか。

「完敗です……けど、とても楽しかったです」

持てる力を限界まで消耗して、それでも優勢に立つ事すら儘ならず、敗北した早苗。
負けたというのに、悔しい気持ちは全く湧いてこなかった。
不思議な力の戦いで負けた事が、楽しかった。

やっぱり、幻想郷は外の世界より、ずっと楽しい。
神の力を持つ早苗にとって、幻想郷の今を生きるという事は何物にも変え難い至福の時間だからだ。

「……文さん。
文さんにとって、思い出ってどういうものでしょうか?」

それこそ、思い出を振り返る事が、つまらないと思える程に。


「…あまり意識した事が無いから、よく分からないわ。
そういうのをいちいち記憶していたら、全部覚えていられるなんて出来ないわよ」

長い時を生きる妖怪にとって、思い出というのは心地良い足枷の様なものなのだろう。
それこそ、長い時間の中に思い出と呼べる様な出来事はいくらでも有るはず。
人ならざる者にとって、思い出はあまり重要ではない事なのか。

「…良いですね、それは」

文の答えに早苗はくすくすと笑い、幻想の戦いを振り返る。
今の早苗は外の世界の早苗とは違う、幻想の早苗だという事を、改めて実感出来た。

早苗自身元は幻想でない存在であり、いつまた幻想でない存在となるかは、早苗にも分からない。
それならば、幻想の存在として在る今を楽しみたいと、そう考えても良いはず。

「外の世界では、こうして弾幕を撃ち合う事も、空を飛ぶ事も、……文さんを好きになる事だって、非常識で考えられない事なんです。
だって、外の世界の私は人間なんですから」

人間として窮屈な外の世界で生きて来た現人神は、幻想郷という内の世界で、幸運を掴み取ろうとしている。
早苗は『外の世界で生きて来た』という、幻想郷を楽しむ経験と知識が有る。

「……でも、幻想郷でそんな外の世界の常識に囚われてたら、損ですよね」

外の世界を割り切れず、目の前の楽園を楽しめないなんていうのは、それこそ幸運の無駄遣いというものでしかない。
外の世界を知り、内の世界を知る早苗は、全てを楽しめるという奇跡を持っているのだから。

ここは、幻想郷だ。
外の世界の常識や観念は、幻想の存在である現人神にとって、重要なものではない。

「私は風祝で、現人神です。 だけど、現人神であると同時に一人の人間です。だから……



思いっきり、幻想郷を楽しみたいです。私は私の好きな様に、幻想郷で過ごしていきます」

文の腕の中で身体を寄せ、早苗は決意を込めて呟いた。
早苗さんは、まさに『奇跡を起こす程度の能力』を持っているのです
ライア
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コメント



0.1510簡易評価
2.80名前が無い程度の能力削除
世界観が大切にしてあってよかったです。
24.80名前が無い程度の能力削除
文章表現がいい
25.100名前が無い程度の能力削除
よかった、物語の世界がふわりと浮かび上がってくるような心地よい作品をどうもありがとう。

読んでいてキャラの関係に違和感なく、なる程と想わせる自然な解釈等。
派手さはなくてもそれを補って余る物静かな心地になれた

いやはや、ええもん読ませていただきました
28.100名前が無い程度の能力削除
綺麗だ
33.100カギ削除
何て言えばいいかわからないけど、よかった。
月並みな感想で申し訳ない。

ミス?
「早苗は、夜空をを見上げる気になれなかった」
を が一つ多い気がします
37.70名前が無い程度の能力削除
綺麗な世界観が表現されててよかったです。
ただ、それだけといえばそれだけで、人物の感情が伝わってこず、「あーなにか大変そうなことが起こったのかー、あーいつのまにか解決したのかー、よかったなー」くらいにしか思えませんでした。
たぶん、状況と描写の量のバランスの悪さを改善すると、淡白さを無くなって良いかと。
今後とも期待しています。