帰路。音の亡い湖の畔に舞い降りる。
その夜は快晴だった。
前日の雪雲など全てそれに追い出されてしまったのだろう。どこまでも単一な漆黒の天蓋には、鏡のような満月が輝いていた。
今、それを無表情に見上げる彼女は、纏うドレスを見る限り満身創痍だったが、実際のところ傷は完全に再生していた。肌も筋肉も、普段通りの柔らかな幼児のものに置き換えられている。
上品に翼をたたむと、彼女は木々の間を自分のお屋敷まで歩く。直接庭へ不時着してもよかったが、それでは門と門番のお役目を奪ってしまうことになるのでやめておいた。
ゆっくりと歩いていくと、薄紅色の時計台が見えてきた。
次に、茨の蔦(つた)のような意匠の格子で形作られた、巨大な正面ゲートが見えてきた。
だが、そこに美鈴は居なかった。彼女は一瞬で、咲夜が下がらせたのだと気づいた。館の主を拒絶することはないだろうし、それに向こうは、今は自分が常の行動指針の下に動いていないとでも考えている筈だ。
彼女はそれを可笑しいとも、苦しいとも考えない。主の気持ちが判らない――他人の思考は判らないという、普遍的な真実に辿りついてもらえたことさえ嬉しくはない。それらはさほど重要な項目ではなかった。
ゲートを自分の手で開けるのは、初めての経験だった。重く、とても痛い。ただ、手が汚れはしなかった。
入り口を抜けて至った庭園は、星と月の光で薄明るい。ただ、そこにあるテーブルと椅子に身近な誰かを幻視してしまうほどに閑散としていた。
更にそこを通り抜けて玄関に至る。
そして、そこにある大扉を、力を込めて押してやった。
蝶番は新しい。軋む音もせずスムーズに戸は開いた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
――それは定型句だろうか。
彼女は毎日その声の主と外出する。
だから、そうとは言えないと考え直した。
彼女はそれから、無言で自分の家の中を見回す。
ロビーの中心には咲夜が腕を組んで佇み、吹き抜けになった二階の手すりには本を閉じたパチュリーが腰掛けている。二人で帰宅した自分を見遣っていた。ずっとそこで待機していたようだ。
「何故、迎えに来てくれなかったの? とても寒かったわ」
レミリア・スカーレットは、寂しそうな演技で本音を言う。
「申し訳ありません」
咲夜は言い訳をせずに陳謝した。
「……墜落させられた咲夜に、私が、紅魔館へ帰れる分だけしか魔力を渡さなかったせいです」
パチュリーが無表情にそう言うと、レミリアは、そう、と返した。
それから彼女の方を見てこう訊いた。
「じゃあ、パチェが宇宙人の所へ結果を聞きにいってくれたのね?」
「……何故そう思うのかしら」
パチュリーは逆に聞き返した。
「あら? 何故か堕ちた咲夜を助けてくれたのなら、里のそばまで外出する必要があるでしょう?
出不精のあなたが出るなんて余程の理由があった。それは竹林の宇宙人に遭うため。違う?」
「……いいえ、合っているわ」
パチュリーはそれで引き下がった。
「結果は、どんなもんだったのかしら」
レミリアは両腕を後ろ手にし、愛らしく訊く。
魔女は少し間を置いてから端的に説明した。
「……レミィの見た通り、あれは自然生命系のスペルです。
貴女へ向けられた花と植物たちの嘆き、それに、本来残されていた生きる力が意味として込められている。力強さも美しさも、少しも貴女には届かないようだったけれど」
「そう、大体思った通りね。じゃあ咲夜? 今度時間が余ったら、冴月麟の所へ符を返しに行ってあげなさい」
「わかりましたわ」
従順に咲夜は頷く。それから、何を考えているのか判断しにくい表情でレミリアに訊いた。
「ところでお嬢様」
「なにかしら」
「昨日の夜、あなたは、私と霊夢と妹紅からお逃げになりましたね?」
レミリアはまばたきをせずに、ふくろうのような無表情で首を傾げる。
「ええ、逃げたわ?」
「何故でしょうか」
「そんなの決まっているでしょう。まだ、目的を達成していないから」
「目的とは、何でしょうか」
「言えないわ。順を追ってお喋りしましょう? 咲夜」
咲夜は何もレスポンスせずに引き下がる。
さて、とパチュリーが切り出した。
「……ではあなたは認めるのね? これまで十四人の人間を殺害したことを。
そしてその死体をわざわざ、人間に回収させるために里の傍まで運んだことを」
「ええ」
レミリアは微笑んで、あっさりと己が罪状を認めた。
二人は、その笑顔に言い知れようのない不安感を感じた。いや、彼女の仕草の一つ一つ総てに、これほど恐ろしさを感じたのは久方ぶりだった。
今、何を考えているのか――ではない。
これから、何をするつもりなのか――という予測が、身近な主に対して親友に対して、全く立たなかった。
順を追ってか……と咲夜は思う。
レミリアは何もかも認めるつもりのようだった。紅魔館の人員は、フランドール以外を既に一旦全員退去させていたし、指針としては事実を全て秘匿するつもりだ。故に経緯を説明すべきギャラリーもいない。ならば何故、いきなり理由を訊いてはならないのだろうと不審に思った。
だが何か、それには意味のある理由があるのだろう。
運命を操る能力は、事ここに至って無為な遊びを挟まない筈だ。
ならば、一番どうでも良い箇所から迂遠に切り崩すのが妥当だと考え、彼女は切り出した。
「レミリア様が屠殺なさったのは、うちの食料ですね」
レミリアは、一度全て読んでしまった物語のロジックを追うように頷いた。
「調達役の妖怪の配慮で、いつもあれらには顔が判らないように頭に袋を被せてある。つまり、私達があれらを識別出来るのは、性別、身長体重、肉質、血に関してのあらゆる質、香り、そこからのみなのです。個人個人が誰かということは判らない。――当然知る必要がない。だから私も、里で死体を見た時に、初めて見る人間だと決め付けてしまいましたわ。
そして、紅魔館に支給される食料人間の数にはもう、過不足ないルーチンが出来ています。私もいちいち数を確認することはしていません。つまり数が十四体足らないと発覚するのは月末……月一度の定期支給が訪れる間近になってからだったでしょう」
今日は、一昨日の幾望から数えて二日、十二月の五日である。
「そして二週間、苦もなく里の付近と紅魔館を往復出来たのは、ひとえに私のせいですね?」
また咲夜は訊いた。
「そうよ」
レミリアは無表情のまま言う。
「咲夜がお掃除の時、お料理の時、時間を操るのが私にだけ判ってしまうからよ。いきなり秒針が遅くなったり、止まったりするから。
判っているのでしょうけど、あなたがうちに留まっているということさえ判れば、あとは邪魔する子はいないからね。時間が止まっている時は、当然、私の部屋に誰も来ない。遅くなっている時は、私は何もアクションは起こさない。
例え最初から、私の部屋に誰かが居た状態でも、その子だけ止まってしまうから抜け出すことが出来た。そして咲夜は、時間を操りながら私の部屋を訪れることはない。
時間が止まった状況下で、地下から食料人間を持ってきて紅魔館から出、外で殺して、里の側に置いておくことは簡単だったわ。思い立ってから四年も、そうやってあなたを観察していれば、どの作業にどれだけ、『咲夜に流れる時間』がかかっているのかも把握出来た」
「凶器というか……あの杭を作ったのは、そうして私の目を盗んで行った、という見解で良いのでしょうか」
「良いよ」
「爪が、ぼろぼろになりはしませんでしたか?」
咲夜はこんな時でもレミリアの身を気遣うが、
「吸血鬼の爪が、暖炉の薪を削ったくらいでかけたら面白いわ」
優雅に一蹴された。
「……ああ、一つ質問があるわ」
上に居るパチュリーが挙手した。
「なにかしらパチェ」
「……レミィは、時間を操られた中でいつも通り動けるのですか?」
ええ、とレミリアは頷いた。
「……それは運命を操る能力と関係するのかしら」
しているみたいね、と彼女はまた頷く。
「ただ、予め意識していないと一緒に操られるよ。咲夜の仕事の始まりから終りまでずっと、自分の運命を視ていないと駄目。
1s先、2s先、という数え方では粗過ぎるわね。咲夜が死んでしまって、時間を操る能力の使い手が絶滅する未来まで……本来質量のない点を繋げて、自分の生まれた所から延びる半直線にするように視るの。そうしていると、咲夜と同じ時間に居られるようになるのよ」
それはレミリア様が定義された時間です、と咲夜は言おうとして辞めた。
それは、妙に冷たい言葉だと思った。咲夜と同じ時間に居られるようになる……そう口にした時、心なしかレミリアが、目を輝かせていたように幻視出来たからだ。
パチュリーは聞き逃すまいとその言葉に耳を傾けながら、永琳の言葉を思い出していた。咲夜が物理学と数学に関係した能力ならば、レミリアはそれよりも根源に近い、数学と哲学に関係した能力なのかもしれないと、非常に漠然と推察した。
ならば、短絡に捉えるなら、アキレスと亀だろうか――とパチュリーは思う。パラドクスとは云うが、あれは、『全て間違っている』とは結論付けない命題だ。
時間を操る能力は、実在しない第三者から見た遠近感を操る能力だとパチュリーは断定している。空間を支持する三軸は、時間軸と切り離して考えられない。
咲夜はアキレス(他者)との間のハンディキャップを、見かけ上変更させられる亀だ。そこにある無限の点の間隔を少しでも引き伸ばされ続ける限り、そのパラドクスを間違っているとみなす者でさえ、現実的に彼女には追いつけない。
だが運命を視るという行為を、自我を度外視して自己の時間を巨視する行為だと仮定すれば、レミリアは咲夜の設定した遠近感を把握出来る第三者となり、彼女のいじった時空から遊離することが出来る。咲夜の時間の外側に立てる。視点の問題だ。
……だがこれも、やはり即席の考察だ。しかも仮定が前提となっている。自分がその状況を実際に観測出来る方法を持ち、書に記録して実時間に持ち込まない限り、パチュリーにとっては全く価値のないことだ。少しばかりの材料を得ながら、彼女は小さく頷いただけだった。
話を戻しましょうか、と咲夜が仕切り直した。
「さて今、貴女は、四年前と仰られましたが……」
「言ったわ」
「その頃に何かしら、今度のお戯れの動機が存在したと考え、そう仮定します」
レミリアはイエスともノーとも言わない。
「思い立ってすぐには行動に移せない訳があった……その事と、毎日一人を殺害するという手法を合わせて考えると、今頃になってあのようなやんちゃに及んだのは、雨という運命を避けた故のことと推察出来ます。予め、少なくとも十四日間、殺人作業をする間だけでも、確実に雨が降らない時間を見つけておく必要があったのです。夜に動くとして、吸血鬼は雨の下で活動出来ませんものね。
二週間ずっと雨が降らない時というのもありませんわね――確かに。だからと言って雨が雪に変わりきってしまう時節も駄目です。里の人間は皆、家に閉じこもってしまって、外に置かれた死体を見に行きませんもの。だから今の頃、雪の始まりの季節になったとも、考えられます」
「……」
咲夜はそこで一度目を閉じる。口にする情報の順序を確かめる。
「ああ、そこで、何だか煩雑になったなと、私は考えました。とても無駄が多いのです。いや、理由が判らないので、煩雑に思えたのですね。
本当は全て、意味のあることなのかもしれない。ないことなのかもしれない。
貴女は一体何をしたかったのか? もしくは、今までに何をしたのか? そこを考え直すことが必要でした。具体的には、何故わざわざ毎日殺人をするのか、何故お屋敷の外へ出てまで里の人間に死体を晒そうとしたのかをです」
それは、普段の咲夜なら、いつも看過している部分だった。何故かと言えば、彼女は、レミリアの心理の多くを察す努力をしたことがないからだ。気持ちを察そうと試みている間に、紅茶の換えを出してあげた方が、彼女が喜ぶことを知っていた。
「……花と風は血霧に抱かれた」
そこで、妙な言い回しでパチュリーが話し出す。
「そして、それらを見守っていた麟という少女は、犯された花をスペルカードに封じて戦いに出ることにしたの。……単独で、誰にも知られずに。
貴女が四年前に、幻想郷全てへ向かって一度だけ撒いた筈の霧が、二枚の符に残っていたわ。彼女はもしかしたら、霧の原因を探る為に紅魔館まで辿りついて、美鈴を退け、私を脱帽させ、咲夜を打倒し、貴女と対峙した存在だったのかもしれない。
しかし……そうして、家を出ようとした所で、彼女は、何故自分が出かけようとしたのか、急に判らなくなったの。尻込みして戦意を喪失したのではない。外部から、何者かに剥奪されたのだと、八意永琳と議論していて判ったわ」
レミリアは口の端を歪めながらパチュリーの居る二階を見上げた。
次に咲夜を見、またすぐ正面を向いた。
それから一歩一歩に体重を乗せるようにしながら、彼女は壁沿いに円にゆっくりとロビーを歩き回る。
それは、種明かしをしている最中の探偵のようにも、
机の間を歩き回って授業を行う教師のようにも見えた。
その日嬉しいことがあった少女のように、
いつも峻険に眉根を寄せる老人のように、
手を腰の後ろに回して、歩いた。
やがて二人に背を向けた状態になり、窓を見上げ、
初恋の相手の名を口にするように彼女は言った。
ゆかりよ、と。
「……それにはいつ気づいたの?」
間を空けずにパチュリーは訊いた。そんなことは、彼女にも判っていた。
レミリアは窓から見える夜空を見上げたまま、背中で語る。
「もう、紅魔館の空で、最初に霊夢と魔理沙とやりあっているときから知ってたわ。
いいや、その時は名前まで判っていた訳じゃない……一人足りなくて、少しつまらなかった程度か。
欠席したそいつは、力を増した妖精にでも、道中で撃墜されたんだとその時は思ったわ。でも神社に通う内、そうではないと判って来た。いつも、宴会に一人足らないんだもの。気にならなかったら、変だわ」
「八雲紫は、麟を異変から排除して、何を画策している?」
「その話はやめましょう? パチェ。関係のないことよ」
「わかっているのね? ああ、あれの場合、動機だけが唯一、一個の確証だもの」
「黙りなさい」
言いたくないって言っているのよ、と彼女は呟く。低く抑制するようなその声を聞いたパチュリーは、呆れたようにかぶりを振って引き下がった。
黙って二人の会話を聞いていた咲夜は、話をすぐに戻した。
「冴月麟を排除したのは八雲紫だと、断定しているのですね」
「そうよ」
「それを何か、私達に判る方法で証明することは出来ますか?」
「残念だけれど出来ないわ。
出来ないことが、証明よ。チープな例えをするならそれは、大結界を、外側から見てそこに無いと思い込むことが、内側から見てそこに在ると判っているのと同じこと。
内と外を定義しているのは結界を引いた誰か。私達は内と外を判っているけれど、それは自分で定義したことではないわ。与えられた初期状態、知らずに敷かれていた境界条件」
「せめて、意味の判る言葉でお話して欲しいのですが」
「今ので例えで判らないなら、叶わない。だがそれは、境界を操るという行為に対して、吸血鬼と人間の言語能力が足らないせい。
機械語を介在させれば全てが判るのでしょうけど、生憎翻訳する技能は私にない。貴女にもパチェにもない。ないないづくし」
幻想郷は私の現実なのですけど、と咲夜は納得いかなげに呟いた。が、他の二人はその言葉に何も反応を見せなかった。
「それは、信じても良いことでしょうか?」
ややあって彼女は、極限的な妥協をしたが、
「……believeを用いる以上は」
パチュリーにそう釘を刺された。
「ああ――そうでしたわね」
咲夜は一瞬だけ考えるが、すぐに答えを出した。
「それでは私は、信じる方に致します」
「好きに解釈なさい。例え信じなくても、話は終らないわ」
「はい、単なる私の一意ですわ」
咲夜はそう言って微笑んだが、そう、と無表情にレミリアは返す。構わずに彼女は続けた。
「そこまでは、パチュリー様ともお話したことでした。ここで、何故あのような迂遠な手順を踏んで十四人を殺人したか……という所まで戻りましょう。
果たして八雲紫が、その動機なのでしょうか? 里に食料人間の死体を主張することは、紫に対して何らかのアプローチを図る行いに成り得るのでしょうか?」
パチュリーがその先を受けた。
「……吸血鬼が直接人間を殺すことを制限されたのは、吸血鬼異変、という事件の後だけれど……」
彼女のわざとらしい言い回しに、しかしレミリアは表情を動かさない。
その反応を見た後でパチュリーは続ける。
「……あなたは、条約の曖昧な箇所をついたのね。
妖怪は、里の中で人間を殺せない。妖怪という集合の中に在る吸血鬼は、幻想郷の人間を全く殺せない。
でも、食料と決めて、殺して食べることを容認された人間を『里の中に入れた上、食べずに殺す』のはどうか……と。
非常に曖昧模糊とした所をついて……境界の妖怪にアプローチを図ったのね?
これは、許容される問題ですか? 或いは、裁かれるべき行為ですか? ――そう喧嘩を売った、或いは意見を求めた」
「その言い回しだと、私は、閻魔にも喧嘩を売っていることになるけど?」
「……吸血鬼異変で交わされた条約は、吸血鬼と幻想郷土着の妖怪達だけのもの。
あちらは関知する理由などない……そもそもあれは現世に直接的には関わりません。
霊夢ならば、動く理由があったのでしょうけど、何故か今度は、あの子の勘は働かなかったと聞きます。冬が迫っていて、暫く里にも降りていなかった。冬の間里を監視出来るのは、例え冬眠していても、式を使役する紫の方よ」
レミリアは親友の長広舌に溜息をつく。
「ああ、主張の内容はそれで良いかもしれない。良いとしましょうか……でも、果たして私がやったことだと、紫が確実に特定出来るかしら? 狐が里を見ていなかった場合は?
紫が何でもお見通しだから……なんて説明をしたら喉笛を掻き斬るわよ」
「それは、貴女が怒ることとは違うと思うが……ともかく特定は、普通に出来ます。
いつも首に杭を刺すというルールに則って殺人した……。捕食せずに殺人した……。
それらの事実から、まず人間は戸惑うわ。私が最初に予想したように、人間が人間に殺されたものだと思い込む。上白沢慧音が、犯人を捕縛することに拘って、犯人が誰であるかを問うことを度外視してしまったように、平和呆けしている人間側は、誰かが事件を解決してくれるのを待つか、短絡な方法で解決するかの二派のみに分かれてしまった。
だが、貴女と吸血鬼条約を結んだ妖怪達だけは違う。
貴女の膂力が強すぎて、簡易に捕縛したり処断したりする手段こそ持たないでしょうけど、考える頭脳、見通せる目、観察させる人脈が彼らにはある。それは、あの戦いで彼らと対峙した貴女が一番よく判っている筈。そこから貴女と対面するために、八雲紫が選ばれることは道理です。
つまり……残存している土着の妖怪の内、条約の続く限り紅魔館を監視している筈の誰かが、貴女の犯行を観測出来れば良かった。……十四人目のときにやっと、向こうが気づくように仕組んだのですね。一人から十三人目の間は、貴女は、咲夜によって時間を停止させられた世界の中で食料人間を殺している」
「妖怪の中から紫が来るのは何故?」
「……明晰な人物は、過小評価されていることが――いや、自分の地力を具体的に知られていないことが――大きなイニシアチブになると知っているからよ。だから、今まで私達の前に現れる必要のなかった人物は、積極的に身を隠そうとする。
例えば、妖怪の賢者とは誰かと云った時、私達が八雲紫の名しか挙げられないのはそのせいです」
「ああ……筋は通っているわね」
そういう理路が立つのか、とレミリアは新鮮に思う。
少しの間があった。
「ですが、何故でしょうか」
咲夜が、やがてレミリアにゆっくりと訊いた。
「冴月麟が紫の手で事件からのけ者にされたことと、貴女が紫を挑発する理由が……十四人も人間を殺した理由が、私にとっては、符合しません。
戦うことが目的だったとして……こちらから一方的に仕掛けた所で、彼女が全力を出さないことは判りきっていますね? 紫にこちらと戦う理由を与える為には、確かに今回のような手法を用いる他なかった。それは、判るのです。
――ですがそれは、単なる方法論に過ぎません。動機ではありませんわ。
そこを鑑みて――動機と思しき物は、紅霧異変で起こった戦いに水をさされたから? 宴会の参加者を一人減らされたから? その程度のことしか浮かびません。
果たして、その程度の感情が、今度の問題の理由になるでしょうか」
もちろん貴女の主観の話です、と彼女は付け足す。
「私なりに考えた結果ですが――それは、戦う、互いのための口実を、作っていませんか?」
咲夜はいつも、レミリアの――否、どんな他者の心情も判らないと考えている。
無論、考える努力をする。だが自分の考えた不正確極まりないであろう内容を、口に出して断定してしまう行いを避けていた。強烈な違和感が伴うからだ。
つまり、その言葉はチープな挑発だった。
だがレミリアは何故か、興味深そうに咲夜の問いに返す。
「面白い語彙を使うのね、咲夜。口実……そんな言葉、思いつきもしなかった。私は」
レミリアは二人を見ずに前を見つめる。そして攻撃的な微笑を浮かべ、意識の大部分を思考に割きつつ口を動かした。
「口実って囮かしら……、そうかもしれない……誰の目を眩ます為の嘘か……妖怪たち……。
――すると、そうね。嘘をついたんだわ……私は。貴女の、言うとおりよ」
「過程と、結果だけが視えているのですね?」
咲夜は唐突に訊いた。
「いつもそうだけど?」
レミリアは即答する。
「誰が何を思ったか……という原因までは、視えないのですね?」
「そんなところまで判るのは神仏かな……悪魔だしね、私」
彼女は真顔で言う。
咲夜は思う。
いや断定した。
レミリア・スカーレットは、今回の殺人に動機を持たなかったのだと。
「……今回のことは、結果として、貴女の利益になるのですか?」
咲夜が訊く。
「……利益? ……結果? 私のための利益だとして、それって、一体どの時間に蓄積するものなの? 結果というのも、一体いつのことを指すの? 今行っている努力が、正確にいつ反映されるかなんて、一体誰に把握出来るのかしら? 未来が見えている私にさえ……そんなこと判らないのに。
目先の希望にとらわれていると死ぬわよ、咲夜?
遠くの絶望にとらわれていても死ぬのよ、咲夜。
最初から全て見通せない奴には、遠い先を見通そうとするその行為自体が徒労だわ。やめてしまえ」
それから彼女は、自らをクエスチョンマークとするかのように、まばたきせず、首を傾げながら従者に訊く。
「ねえ、原因と動機って似ているわよね」
咲夜は即答する。
「半分は同じものです。意思を持った何かが実行者なら、それらは短絡的に同じものです」
「そうね。ならば、この事件の原因は、原因でしかないの」
「それは、どういう意味ですか?」
「意思がない、ということよ。私には紫と戦う動機がなければ、十四人を殺す動機も、なかったの」
「何故、動機がないのですか? ああ、判ればで結構ですが……」
「貴女は、何度も視た、台詞を暗記してしまって、空で言えるような映画を、今更、面白いと思う?」
「思いませんね」
咲夜は正直に回答した。
パチュリーが、レミリアが何か言う前に話し出す。
「……記憶の種類が、もう違ってしまっているのですね? 一度きりの想い出となる筈の未来を、反復して視ることで印象が磨耗し、無価値なものに成り下がった」
「そうよ」
レミリアは自嘲を込めずに微笑む。
「……では、貴女は一体誰なのかしら?」
パチュリーが訊く。
「レミリア・スカーレットを追跡している、レミリア・スカーレットよ」
「失礼ですが、興味ありませんわ。お嬢様」
ご自分の能力はご自分で管理なさってください、と咲夜は冷たく言う。
レミリアはそれに、どこまでも無機質に返答した。
「私は、訊かれたことを答えたまでなんだけど? 感情に傾倒し過ぎた感想をもたらされると、ちょっと困るわ」
「――失礼しました」
怒っていない、平気よ、とレミリアは返す。
「けれど多分、貴女たちの予測は当たっているわね。
冴月麟が、紫によって紅霧異変から取り除かれたので、自分の運命に干渉があったと考えた私は激怒した……きっと、そういうことなのね。干渉され書き換えられた箇所も含めて運命の筈だけれど……私の追跡しているレミリア・スカーレットは、相当に我侭で直情傾向にあったようね。私も、かなり、癇癪持ちの方だけれど」
「私とパチュリー様の予想が、当たっていると思われる理由はなんでしょうか」
「そんなもの……信頼しているからよ。私の意志の定義付けを、貴女達に託したの。 whyを確かめてもらう為に、見かけ上最初のレミリア・スカーレットが、貴女達にも簡単に判るように、ヒントを沢山残して行ったのね、きっと。彼女は彼女で、見かけ上後発の自分が擦り切れることを、判っていたのでしょう。だからこうして、真実動機がないと教えるための、機会を持てている」
咲夜は、ついに言葉につまった。
断定などしていない。
脆い所がある気もしている。
だが……だが、自分が先刻まで視ていたレミリア・スカーレットという人物は、
意思をそっくり誰かに譲渡するような、
試行することを全て放棄するような、
思考することを最初から辞めるような、
脆弱な悪魔だっただろうか――
気が遠のく。身体が、膝から順に崩れ落ちる錯覚をした。
だが、ややの時間をかけた後で、咲夜は、強靭な気迫で、意識的に僅か活力を取り戻しながら訊いた。
「どうしてそれを……今更お話しになるのですか」
搾り出すような問い。
レミリアはそれを聞いて、僅かに微笑んだ。
不敵ではない。判らないのかと、揶揄しているようにも見えない。
ただその顔で、じっと咲夜を見、次にパチュリーを見る。
パチュリーは、友人と目が合った時、彼女が知らない場所へ移動しようとする後ろ姿を簡単に幻視出来た。
宵闇の中、軽く手を上げて、蝙蝠の翼で羽ばたいて飛んで行く姿。
だが――それでいいのだろう。
魔女は表情を変えないまま、考えうる全てのアクションを内側に仕舞って、手すりから彼女の小さい影を見下ろし続ける。
咲夜だけがじっとレミリアの返答を待っていた。
やがてレミリアは、咲夜の方に視線を戻すと、彼女の質問に対しこう答える。
「それは……この私の時間を取り戻してくることに、決めていたからよ」
「……」
咲夜はまた、返す言葉を持たなかった。
レミリアは、咲夜の青い瞳を見つめたまま、動かない。
パチュリーは大よそのことを理解し、興味をなくして、そこで月明かりを頼りに、予め持ってきていた有機化学の本を読み始めた。
咲夜はやっと訊いた。
「紫と本気で争うことが、あなたの時間を取り戻すことに……繋がるのですか」
「繋がるわ。――ねえ、一部の人間が、数式に立ち向かおうとする理由は何だと思う」
レミリアは唐突に訊く。そして、自分の問いに自分で答える。
「それは、自分と他者の、不確定さが余りに恐ろしいからよ。ファジィさを……境界の無さを放置出来ない、神経の過敏さ、一種の脆さ。その種類の人間は、立ち向うと決めた数式を解決しておかないと、死んでしまうの。無秩序に耐え切れなくなって、実際に身を滅ぼす。
ところで、それでは……それは、何のために用意された弱さかしら?」
「……人間の集合を護る為」
パチュリーが上から、本に目を落としたまま言う。レミリアは頷く。
「そう、それは防衛と繁栄の力。数式と対峙した者に課せられた運命は、同族を生き抜かせること。証明から哲学を理解し、自覚するモラルを自分の中ではなく、世界の中心に置いて更に客観的に洗練させること。感情に拠らない――美しい秩序を築くこと。
あらゆる全てを理解することは……歴史や、言語では最後まで翻訳出来ない、根源的な構造を識ることは……結局、群れを護ることになる。次世代に繋ぐことになる。例え最初にその覚悟がなくても、結果的に、そうなるの。
そして紫は、その種類の人間。あれが私達の目に見える力を行使するとき、完全に近しい法則に則って攻撃して来るのは、結局、逆説的に、自分の内側の不確定さと無秩序さを積極的に否定したいが為。
意図してつくり上げた性質だって、本物でしょう。でもそれ以上に、あれは不確定極まりない、人間なんだわ」
紫の不確定さ……。
レミリアの決まりきっている時間……。
咲夜は、考える前に訊いた。
「では、貴女は……彼女のその不確定さを利用して、自分の運命を操ろうとしているのですね?」
「そう」
レミリアは即答した。
もうレミリアを追跡しているレミリアが、許せなくなったのよと、彼女は微笑んだ。
「昨日まで――昨日までのことは、後追いだった」
彼女は言う。
「でもどうやら、もうほんとうに、そのことが許せないわ。
病魔に蝕まれるようで、
懈怠に満たされるようで、
私の方が時間に追いかけられているようで――恐ろしい。
あれには頼らないで独りで解決しようと、出来ると、思ったわ。
でも、時間を浪費し過ぎる。これでは、本当に、おばあさんになってしまうわ。考えたくても考えられない、自分に残されていた筈の課題さえ忘れてしまう、老婆によ。今の私は、そんな自分の未来の姿を視ることだけでも、耐えられない。
例えそれが、沢山の笑顔に囲まれた最期であっても。不可能だわ。
つまり……貴女達の為にここまでお喋りに来たことが、この私の、宣言なのでしょう」
「……」
「だからもう行くわ」
彼女は言うや、踵を返した。自分が元来た玄関へ歩き出した。
パチュリーはそれを、目の動きだけで見送ろうとした。
だが、咲夜はその背を引きとめた。
「お待ちください」
「なに?」
「最後に二つだけ、お聞きしたいことがあります」
中途半端ねと、レミリアは薄く嘲るように哂い、律儀に立ち止まる。咲夜は構わずに訊いた。
「十五夜に殺す、最後の十五人目は、紫なのですね?」
ええ、と彼女は静かに応える。
「貴女は、雨のない十四日間を待っていたのではない。雨がなく、新月から満月に至る十五日間を、四年前から待っていたのですね?」
そうよ、と彼女は優雅に頷く。
十五という数字が浮上した時に、咲夜はそのことに気が付いていた。
それは、咲夜が昔、レミリアとフランドールにした御話の内容を、その数字に限り、彼女が模倣したものだった。
十六夜の昨夜は十五夜だ。
レミリアが何を思って、自分の名をそう改名したかは、咲夜には判らない。否、それがいつのことだったかも忘れてしまったし、何より、知ろうとも思わなかった。
だからその符合は、咲夜にとって意味のないことだった。
レミリア様は、その数がとても好きなのだろう――そう予測を立てた所で、咲夜は思考を辞めることにした。
そうですかと咲夜は頷き、彼女に時間を使わせてしまわないようにと、すぐに残りの一つを訊く。
「返り血の付いたお洋服は、何処へ遣ってしまわれたのですか?」
レミリアは咲夜と視線を繋いだまま、何の感情も表さずに首を振った。
「杭をわたして、首に刺せと命じたら、全員、元々望んでいたように、自分で死を選んだ。
自分の死を、自分の意思で私に譲らなかった。だから、返り血なんてないわ」
安堵に似た感情を、咲夜は覚えた。
なんだ……と彼女は心の中で呟く。
汚れたドレスが彼女の部屋のどこかに隠してあったなら、血がみんな固まる前に洗濯してしまわなければと思っていたが、それでは仕事が一つ減ったなと、彼女は今日は寂しくも思った。
――そして、ああ、これで。
――訊くことはみんな訊いた。
そこで、焦らず、遅怠せず居住まいを整えると、咲夜はレミリアに対し楚々と一礼した。お時間をとらせてしまって申し訳ありませんと、謝辞を述べる。
「では、行ってらっしゃいませ、お嬢様」
「……楽しんでらっしゃい、レミィ」
魔女もその時だけは、すすんで挨拶する。
「ええ、行ってくるわ」
当主は首を傾けて可憐に微笑み、ゆっくりと踵を返す。
開いたままの扉を抜け、ゆとりを持って庭の中心まで歩き、そこで口の端を歪めて暴力的に笑う。
その場所で――シンメトリーに拡げた蝙蝠の翼で、冷気を叩き、
レミリアは光の真円を目指して、陰雲が現れ始めた夜空へと舞い上がった。
◆
厚くなりつつある雲海を抜ける。
満月だけが昇っている私の上空とは裏腹に、眼下には煙草の煙じみた雲が徐徐に集結しつつあった。どうやら間に合ったようだ。
彼女を待つ間、私は雲が集まってくる様子を観察する。空の下で見る分には、凄まじい速度で動いているように見えるが、空の上で見る分には、雲の端が見えない為に、巨大過ぎる為に、一体どれだけの速度で移動しているのかが判らなかった。
ただ、段々と、夜の幻想郷が水蒸気に隠され見えなくなっていく。
そのことで雲が、この場所に集まっていると、判るだけだ。
そして視線を月の方へ戻すと、一〇〇メートルほど向こうに、何時の間にか紫が浮いていた。
「今晩は。佳い夜ね」
彼女は私に向かい、朗らかに挨拶してくる。風があまりないせいで、彼女の声はよく耳に届いた。
「雲の上の気象は、いつも変わらないわ」
私はスカートを抑えながら、作られた笑顔を無視して言い返す。
今日は少し暖かいわねと言いたかったのよ――彼女はそう穏やかに抗議すると、一度目を瞑ってから、真っ直ぐに私と視線を合わせた。
私はいきなり核心を訊くことにした。
「何故、麟を異変から排除したのかしら」
「それは、美しい、勾配がつくりたかったからよ」
彼女は微笑んで即答する。答えを一字一句違わず、用意していたかのようだ。彼女は続ける。
「人から妖怪へ至る、単純な一次関数。しかし、元の居場所へも帰還出来る、可逆的な経緯が必要だった」
「誰にとってもわかり易いと思われる日本語で、説明なさい」
また始まった……と呆れながら私は指摘した。
「……人と妖怪を段階的に馴合わせる必要があった」
「それは、何のためにかしら?」
「言えない。少なくとも、貴女には」
紫は涼しげに微笑む。金色の双眼が、これ以上私の目論見に関わるなと、語っていた。
だが、私の質問は、まだ残っていた。彼女の視線を無視して尚も訊く。
「麟は精密には……半人半妖ではない。もう彼女の妖の血は途絶えている。人間と言ってもいい。
だというのに、勾配の最初に配置しなかったのは……出来なかったのは何故?」
「きりん……という言霊が、邪魔だった。由来の尊さが、違い過ぎる」
「名を改めてしまえば良かった」
彼女はそこで、無表情に首を傾げる。
「そこまでして彼女を取り入れることは、矛盾している。
名を変え別人に変えれば、そこからまた、問題の枝葉がどこまでも伸びたことでしょう」
そう、とだけ言って、私は黙った。もうこれ以上、聞いておきたいことはなかった。
それから逆に、紫が私に問う。
「あなたは、何故ここに居るのかしら」
「決まっているわ」
私は即答する。
「お前の力で、カオスを生産するためよ」
彼女は頷くこともせず、尚も訊く。
「無秩序をつくり出したいのは、何故かしら」
「レミリア・スカーレットの運命を操る為に」
「確かに、自分の運命が変更したと認識出来るのは、世の中で貴女一人。
では、その、死に至るまでの道程を変えようとする理由は何?」
「環を外れたい」
「環とは、何かしら。輪廻転生ならば、そこから逸脱出来る者はない」
「自然生命――その代替の、環を創りたい」
「それを創りたい理由は、何かしら」
「私が無為に殺した……十三の人間の死に様を、価値のあることに変える為。
あれらの死は、その環から仲間はずれにされる死だからよ」
「誰にとっての、価値かしら?」
「無論、私にとっての、価値よ」
「でもそれは、お前が殺したのとは、違うんじゃない……? 形式的にも、本質的にも」
紫はわざとらしく首を傾げる。あまつさえ、実際お咎めしようか迷ったのよ、などと言った。
私はそれを遮断しながら訊く。
「ねえ、咲夜」
「私は、八雲紫」
「人間は全てさくや。黙ってなさい人間」
目の前の彼女は、それはごめんなさい、と眼を細めて嬉しそうに微笑む。
私の口は血を吐くように動く。
「紫に晒す目的ならば、あなたの止めた時間の外で殺した、十四人目だけ……一人で良かった」
「そうかもしれない。違うかもしれない」
「何故、十三人殺したのか……。何故、十五という数字に惹かれてしまったのか……。
このままでは、それが判らない。それをこれから、解決しなければならないの」
そう、と紫は呟く。
良く判ったわ、とまた彼女は言い、袖からスペルカードを何枚も取り出すと、それを全て宙へ放ってしまう。
私はそれを無言で見ていた。
風に乗る。
翻る。
そして煌いて雲の中に消えていった。
水晶か……と私は思った。
霊力を最高に通し易い物質。
二酸化珪素の結晶を、ごく薄く、長方形に加工した脆いスペルカード達。
いいのか? と私は訊いた。紫は、何故かみんな捨ててみたい気分になったの、と簡単に答えた。
私も彼女に倣い、両手で、紅い花びらを撒くように、持っていた全てのスペルカードを投棄した。
一先ず、しがらみを、すべて、白紙に戻さなくては……。
くるくると落ちていくカードを見送り、そう考えた。
費やした時間、思考、他者、そしてそこに何時の間にか生まれている思慕と未練……。動機と原因だけを残して、それらを一度一掃してしまわなければ、前へ進むことは、叶わない。
創り、破壊しを、螺旋階段のように延々と継続する。その途中でたまに得られる、ほんの僅かの純粋な結晶を、絶えず蓄積させていけばいい。
そうすることでしか、本質的な進捗はない。
「一体、何の進捗だろうね」
紫が、私の思考を読み取ったかのように訊く。いや実際に、読まれていたのだろう。
「さあ。一度地獄に落ちてみないことには、それすら、判らないわ」
私は可能な限りそっけなく答えた。
彼女と向き合っているようで、実際的には同じ方角を向いている気がしたが、違和感を覚えないことが不思議だった。幻想郷の空は、いつから極点になっていたのだろう。
下界は今や、全て雲に閉ざされていた。
この暖かさだときっと、下は雨ねと、紫は呟く。
どうせ雨を降らせているのはお前のくせに。
今日はずっと晴れて、下界でも月が見える筈だったのに。
沈黙が降りる前に、私は紅い霧を生む。
それを纏い、緩慢に範囲を拡大させながら紫を睥睨した。
そして、
逃げられないのは、
お前の方だと、
そう言った。
紫は黙って、こちらを観察している。
やがて空の真円の白色光は、霧に遮られ、波長の長い赤ばかりが届くようになる。
月って自分で紅く染めるものなのね……と紫は微笑む。
他にどんな手段があるものか……と私は哂う。
互いに怒りという感情は、見せ合わなかった。
ただ微笑む。
子供らしく少女らしく、どきどきと、鼓動の高鳴るのを実感する。
殺害したいという感情は、何故性衝動に似るのか。
相手は同性だというのに、どうかしている。
きっと私は顔が赤い。
雲の上に押し倒しくちづけするヴィジョンしか、思い描けない。
プラトニックな破瓜では済ませられそうになかった。
泣かせてやりたい従えてやりたい壊してやりたい溺れさせてやりたい――
ああ、
溺れているのは自分で、
壊れているのも自分で、
従ってはいないが泣いているのも自分なのか。
普段ならば馬鹿めと云って裁断する、
その感情に汚されていくことがただ愛しい。
しかしやがてそれにも飽く。
――お前だけは、本気で殺すわ。
そして私は突然見切りをつける。
――棺を蓋いて事定まる。貴女の為に何人泣いたかは、指折り数えといてあげるよ。
紫は頬に手を当て薄く嘲る。
私はそれ以上何も言わず、翼で大気を面白げに全力で叩き、前進した。
セキュリティシステムが立ち上がるかのように、都会的な色彩の光の目玉が無秩序に点灯する。
何か巨大な物体の背後に立っているかのように、風はない。
大気はどうしてか、春のように暖かい。
美しい、愛しい、狂おしい――、
無価値と有意義をこれから定義する――、
際限と境界のない霧と夜の内側、
紅い十五の月をつめでなぞる。
飛ぼう、
飛ぼう。
今宵はきっと心ゆくまで。
戦おう、
戦おう。
いざ倒れ逝くその時間まで。
――法則と無秩序を混ぜ込んで創造せよ。
――生くると死ぬるとを呑み込み賛美せよ。
これよりの運命は、他ならぬ私のものである。
◆
◆
ごめんくださいな、という、呑気な声がした気がした。
けれど、布団から抜け出ようと思うだけ思って、玄関まで出ることを辞した。とても自分の意思で這い出せるような気温ではない。
しかしもう一度、ごめんくださいが聞こえる。しつこかった。むしろ、元気な人だと思った。
良心を自責の念から護ろうと、更に、頭まで、布団を被った時だった。
「ごめんくださいと、言ってるでしょう」
いきなり頭上から、やや怒った女の子の声がした。
布団を被ったまま私は訊いた。
「何故……玄関開けずに、家の中に入って来れるの」
「約束の珈琲豆を、持ってきたわ。缶で良かったかしら?」
「ええ……缶が一番いい」
質問にさえ答えない彼女に、私は乗せられてしまう。
「ねえ、これって、どうやってつけるの?」
「やるから……触らないで」
火鉢のことだと判ったので、私は彼女を制止した。この人は多分、人に尋ねつつ自分で試し始めるタイプの人だと思った。
渋々布団から出て、火鉢に火を入れた。寝巻きのままで台所に行き、薬缶をかまどの火にかけて放ってきた。
居間に戻る。そこでやっと、お客さんが誰だか把握した。
「ああ……こないだの君か」
「ええ、こないだの君ですわ」
彼女は微笑んだ。お客は、紅魔館のお給仕さんだった。
「また……何の用? 最近はオフの日続きなのかしら?」
遠かったでしょうに、寒かったでしょうに……と私は訊く。
オフの日なんてないわ、と彼女は何故か嬉しそうに笑う。
「今日は、約束の珈琲豆を届けに来ただけよ」
「あれ、私確か……紅茶の葉がいいって言ったと思うんだけど」
「うちに帰ってみたら品切れだったのよ」
備蓄分考えると無理だったのよねぇ、と彼女は笑って誤魔化した。まあいいけど……ねぇ。
それからまず着替えをして、布団を畳んだ。それを押入れにしまって、立て掛けておいたちゃぶ台を部屋の中心に戻した。
「炬燵にしたらいいのに」
お給仕さんが言う。そして、ああ豆炭はあげられないけどね、と付け足す。
「いや別に欲しくない……。起きたら、起きていたいのよ。寝るときは突き詰めて寝たいけど。 炬燵置いておくとさ、どうしても、睡眠と覚醒の区別を無くしちゃうでしょう?」
「そうかもしれないわね」
「眠い……顔洗ってくるね」
「お化粧だってしてきていいわ」
「ありがとう」
そうして、洗面を済ませて、やや目を覚ました状態になって居間へ戻ってみると、お給仕さんは消えていた。
首を傾げていると、彼女は取っ手に濡れ布巾を巻いた薬缶を持ってきて、火、と言った。
「ごめん……忘れていたわ」
「豆も挽いてないのに、お湯ばっか沸かしてどうするのよ」
「……面目ない」
私はかぶりを振ってしおれてみせた。何で今日に限って、こんなどじをやらかしたのだろう……。
それから、湯を温めなおして、珈琲を淹れ、年寄りみたいにゆっくりと啜った。私も彼女も、ミルクと砂糖を少しも入れなかった。
珈琲は、とても好きだ。
思考が自由に走るから快い。
この熱い一杯から、だいたい全てが始まるのではないか……とさえ思う。
スペルを考えた時も、確かそうだった。
ない知恵を絞って、色を選び、形を考え、意味を付加し……行き詰っては珈琲を啜った記憶がある。
子供のときのように楽しかった。
強い妖怪に勝てるとは思わなかったが、自分なりに納得のいくまで、案を練った。
完成寸前まで組んだ所で、着想から考え直した箇所もあった。
無駄として切り捨てた箇所もあった。
基本的に考えている間は退屈だし、やや苦しかった。
だがそこには、何か大きな目的に向かっているようで、素晴らしい疾走感もあった。争いの道具かどうか――という部分など、その時だけは思考の片隅にさえなかったのだ。
ところで……多分今、私は半分眠っているのだろう。
覚醒と、睡眠の境界を行き来していると、とても、感じる時間が遅くなる時がある。
眠っている間は色々な制限が外れると聞く。
ならば、限界を超えて思考が加速しているのだろう。一瞬の間に、とても沢山のことを一気に考えられることがある。
今もきっと、その種類の状況だった。
頭がぐらぐらした。
向かいの咲夜が、こちらを覗き込んで来た。
「よだれ垂れてるわ」
「う……」
取り落としそうだったので、コーヒーカップをちゃぶ台に戻した。
それからもこっくりこっくりしていると、咲夜が、体でも動かす? と訊いてきた。
それは名案かもしれないわ――と私は上の空で答える。
すると彼女は、仕方がなさそうに笑った。
◆
「じゃあ、何枚にする?」
「枚って……なにが」
「スペルカードよ……持ってるでしょ? 誰にも渡してなんかいないでしょ?」
自分の袖を探ると、随分古い押し花がしてある、本のしおりっぽい御札が二枚出てきた。
花びらか木の葉のように畳の上に落ちたそれを、彼女は拾い上げる。
「なんか……あったけど」
何故私が、命名決闘の契約紙なんか持っているのだろう。
もうずっと前に無くしたと思っていたのに。彼女はそう思った。
押入れから昔の友達の写真が出てきたような気分だった。
「じゃあ運動がてら、いきましょう。私も二枚でやるわ」
「私これ……多分、やったことないわ」
「そうだったかしら?」
「ええ」
彼女がどこまで知っていてどこまで知らないのか判然としなかったが、咲夜はスペルカードルールの概要をみんな彼女に教えてやった。
全て聞き終えると彼女は、へえ、と淡白に呟いて自分のカードを見つめる。
「いつも魔理沙魔理沙だとねえ……真っ直ぐばっかりで飽きが来るのよ。ナイフを溶かされるし」
「ああ……魔理沙じゃあ、仕方ないわ」
「だから、貴女でモチベーションを保とうという魂胆なのであった」
「ああ……そういう。早くお屋敷に帰ってしまえ」
「ええ。これが終ったらね」
光より速く帰ってみせるわ、と咲夜は本気で言う。
彼女はそのトリックを判っていたが、黙っていた。そもそも反則なのだ……時間が操れるなんていうのは、そう思った。
軋む引き戸を開いて戸外へ出た。
庵の外へ出た途端、二人は目も眩むような真夏の日差しに迎えられた。
瞳孔がぎりぎりとすぼまっていく。
視界の半分は樹木の緑に埋まり、信じられないほど蝉の声がうるさい。
まだ午前中だというのに、うだるような暑さ。二人は心なしか肩の高さを下げる。
ただ、庵の周りには、そんな二人を笑っているかのような、パステルカラーの花々が咲き誇っていた。
花壇の中だけではない。水も肥料も与えられていないその周囲の地面にさえ、花を付ける野草が集合して来たかのように、およそ無秩序な種類の植物が無数に根付いていた。
「何で外へ出てきたのか、忘れ始めて来たわ」
蒸し暑さに耐えかねて彼女は言う。
「私はきちんと、覚えているわ」
暑かろうと寒かろうと態度が変わらない彼女は微笑む。
「理由は、覚えているなら、忘れてはいけないものだもの」
「え……何故?」
「後で誰かに、こう思ったからこうしたのよって、伝えなければならないでしょう」
咲夜は手をひらひらさせた。
彼女は尚も訊く。
「じゃあ……全部、忘れてしまったら?」
「それでも思い出そうと試みる」
「それでも……無理だったら?」
咲夜は、空を見上げた。
太陽の白色の光が眼に焼きつき始めたが、それでも見続ける。
そうしながら、少し笑って言った。
「すぐに相手に謝って、そして……、それが自分にとって大事なことならば、死ぬまでその理由は何だったのか、考え続ける」
「何を……謝るの?」
「忘れてしまったことを。いえ、理由が判らないことを」
「理由が……もう判らないのよ? そこに責任はないと思うわ。考え続ける必要だってない」
麟は首を傾げると、咲夜はやっと太陽から目を離す。
そして、微笑みを崩さないまま、眩しそうなままの表情で話す。
「それは、責任が、一体、どこにあるのか、ということよ。
忘れたことは忘れたこと。判らないことは判らないこと。それは、真実なのでしょう。
けれど、自分さえ制裁を受けなければ、それで本当に安堵出来る責任? 相手が許してくれさえすれば、それで自分が納得出来る責任かしら? 私はそれを看過することは、危うくて、本当に、苦しいことだと思うわ」
ああ――と麟は思う。
そして考えたことを、そのまま口に出した。
だが、さあなんでしょうねと、咲夜はそう答えた。
麟は目を丸くして、黙った。
咲夜はそれ以上は、何も喋らなかった。
深緑の森林。夏日を照り返し、銀色のナイフが風を切って飛んでいく。
数え切れない色種の花。向こう側の様子を透過する、幻の花弁が散っていく。
紅い霧はもう晴れていて、幻想郷には夏が戻っていた。
誰が戻した夏なのか……という記録はない。この先も、ない。それは余りに瑣末な出来事だったので、誰にも等しく忘れられていく。
競い合うでもなく、高めあうでもなく、ただ牧歌的に緩慢に、時間の過ぎていくのを愉しむのは二人。
咲夜は冷徹な表情のまま、手首の動きだけでナイフを投擲する。
麟は汗の雫を撒きながら、懸命に光の蝶を生み出して迎撃する。
そこに無論微笑みはないが、楽しい、と感じることは、二人の間の真実だった。
刃物が恐ろしければ、理由を考える前に避ける。
結果的に撃墜されたくなければ、理由を鑑みずに攻めに出る。
負けたくないと思うところに、理由はない。
暑いと感じることに、理由はない。
楽しいことに、理由はない。
この遊びの中に唯一理由を見出すならば……。
――怒鳴れば、冷静にこちらを見遣る、
――痛めば、手をとめて手当てをしてくれる、
――微笑めば、微笑み返してくれる、
向かい合う相手が、咲夜が、そこに居ることに意味があるのだと、彼女は思った。
(了)
その夜は快晴だった。
前日の雪雲など全てそれに追い出されてしまったのだろう。どこまでも単一な漆黒の天蓋には、鏡のような満月が輝いていた。
今、それを無表情に見上げる彼女は、纏うドレスを見る限り満身創痍だったが、実際のところ傷は完全に再生していた。肌も筋肉も、普段通りの柔らかな幼児のものに置き換えられている。
上品に翼をたたむと、彼女は木々の間を自分のお屋敷まで歩く。直接庭へ不時着してもよかったが、それでは門と門番のお役目を奪ってしまうことになるのでやめておいた。
ゆっくりと歩いていくと、薄紅色の時計台が見えてきた。
次に、茨の蔦(つた)のような意匠の格子で形作られた、巨大な正面ゲートが見えてきた。
だが、そこに美鈴は居なかった。彼女は一瞬で、咲夜が下がらせたのだと気づいた。館の主を拒絶することはないだろうし、それに向こうは、今は自分が常の行動指針の下に動いていないとでも考えている筈だ。
彼女はそれを可笑しいとも、苦しいとも考えない。主の気持ちが判らない――他人の思考は判らないという、普遍的な真実に辿りついてもらえたことさえ嬉しくはない。それらはさほど重要な項目ではなかった。
ゲートを自分の手で開けるのは、初めての経験だった。重く、とても痛い。ただ、手が汚れはしなかった。
入り口を抜けて至った庭園は、星と月の光で薄明るい。ただ、そこにあるテーブルと椅子に身近な誰かを幻視してしまうほどに閑散としていた。
更にそこを通り抜けて玄関に至る。
そして、そこにある大扉を、力を込めて押してやった。
蝶番は新しい。軋む音もせずスムーズに戸は開いた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
――それは定型句だろうか。
彼女は毎日その声の主と外出する。
だから、そうとは言えないと考え直した。
彼女はそれから、無言で自分の家の中を見回す。
ロビーの中心には咲夜が腕を組んで佇み、吹き抜けになった二階の手すりには本を閉じたパチュリーが腰掛けている。二人で帰宅した自分を見遣っていた。ずっとそこで待機していたようだ。
「何故、迎えに来てくれなかったの? とても寒かったわ」
レミリア・スカーレットは、寂しそうな演技で本音を言う。
「申し訳ありません」
咲夜は言い訳をせずに陳謝した。
「……墜落させられた咲夜に、私が、紅魔館へ帰れる分だけしか魔力を渡さなかったせいです」
パチュリーが無表情にそう言うと、レミリアは、そう、と返した。
それから彼女の方を見てこう訊いた。
「じゃあ、パチェが宇宙人の所へ結果を聞きにいってくれたのね?」
「……何故そう思うのかしら」
パチュリーは逆に聞き返した。
「あら? 何故か堕ちた咲夜を助けてくれたのなら、里のそばまで外出する必要があるでしょう?
出不精のあなたが出るなんて余程の理由があった。それは竹林の宇宙人に遭うため。違う?」
「……いいえ、合っているわ」
パチュリーはそれで引き下がった。
「結果は、どんなもんだったのかしら」
レミリアは両腕を後ろ手にし、愛らしく訊く。
魔女は少し間を置いてから端的に説明した。
「……レミィの見た通り、あれは自然生命系のスペルです。
貴女へ向けられた花と植物たちの嘆き、それに、本来残されていた生きる力が意味として込められている。力強さも美しさも、少しも貴女には届かないようだったけれど」
「そう、大体思った通りね。じゃあ咲夜? 今度時間が余ったら、冴月麟の所へ符を返しに行ってあげなさい」
「わかりましたわ」
従順に咲夜は頷く。それから、何を考えているのか判断しにくい表情でレミリアに訊いた。
「ところでお嬢様」
「なにかしら」
「昨日の夜、あなたは、私と霊夢と妹紅からお逃げになりましたね?」
レミリアはまばたきをせずに、ふくろうのような無表情で首を傾げる。
「ええ、逃げたわ?」
「何故でしょうか」
「そんなの決まっているでしょう。まだ、目的を達成していないから」
「目的とは、何でしょうか」
「言えないわ。順を追ってお喋りしましょう? 咲夜」
咲夜は何もレスポンスせずに引き下がる。
さて、とパチュリーが切り出した。
「……ではあなたは認めるのね? これまで十四人の人間を殺害したことを。
そしてその死体をわざわざ、人間に回収させるために里の傍まで運んだことを」
「ええ」
レミリアは微笑んで、あっさりと己が罪状を認めた。
二人は、その笑顔に言い知れようのない不安感を感じた。いや、彼女の仕草の一つ一つ総てに、これほど恐ろしさを感じたのは久方ぶりだった。
今、何を考えているのか――ではない。
これから、何をするつもりなのか――という予測が、身近な主に対して親友に対して、全く立たなかった。
順を追ってか……と咲夜は思う。
レミリアは何もかも認めるつもりのようだった。紅魔館の人員は、フランドール以外を既に一旦全員退去させていたし、指針としては事実を全て秘匿するつもりだ。故に経緯を説明すべきギャラリーもいない。ならば何故、いきなり理由を訊いてはならないのだろうと不審に思った。
だが何か、それには意味のある理由があるのだろう。
運命を操る能力は、事ここに至って無為な遊びを挟まない筈だ。
ならば、一番どうでも良い箇所から迂遠に切り崩すのが妥当だと考え、彼女は切り出した。
「レミリア様が屠殺なさったのは、うちの食料ですね」
レミリアは、一度全て読んでしまった物語のロジックを追うように頷いた。
「調達役の妖怪の配慮で、いつもあれらには顔が判らないように頭に袋を被せてある。つまり、私達があれらを識別出来るのは、性別、身長体重、肉質、血に関してのあらゆる質、香り、そこからのみなのです。個人個人が誰かということは判らない。――当然知る必要がない。だから私も、里で死体を見た時に、初めて見る人間だと決め付けてしまいましたわ。
そして、紅魔館に支給される食料人間の数にはもう、過不足ないルーチンが出来ています。私もいちいち数を確認することはしていません。つまり数が十四体足らないと発覚するのは月末……月一度の定期支給が訪れる間近になってからだったでしょう」
今日は、一昨日の幾望から数えて二日、十二月の五日である。
「そして二週間、苦もなく里の付近と紅魔館を往復出来たのは、ひとえに私のせいですね?」
また咲夜は訊いた。
「そうよ」
レミリアは無表情のまま言う。
「咲夜がお掃除の時、お料理の時、時間を操るのが私にだけ判ってしまうからよ。いきなり秒針が遅くなったり、止まったりするから。
判っているのでしょうけど、あなたがうちに留まっているということさえ判れば、あとは邪魔する子はいないからね。時間が止まっている時は、当然、私の部屋に誰も来ない。遅くなっている時は、私は何もアクションは起こさない。
例え最初から、私の部屋に誰かが居た状態でも、その子だけ止まってしまうから抜け出すことが出来た。そして咲夜は、時間を操りながら私の部屋を訪れることはない。
時間が止まった状況下で、地下から食料人間を持ってきて紅魔館から出、外で殺して、里の側に置いておくことは簡単だったわ。思い立ってから四年も、そうやってあなたを観察していれば、どの作業にどれだけ、『咲夜に流れる時間』がかかっているのかも把握出来た」
「凶器というか……あの杭を作ったのは、そうして私の目を盗んで行った、という見解で良いのでしょうか」
「良いよ」
「爪が、ぼろぼろになりはしませんでしたか?」
咲夜はこんな時でもレミリアの身を気遣うが、
「吸血鬼の爪が、暖炉の薪を削ったくらいでかけたら面白いわ」
優雅に一蹴された。
「……ああ、一つ質問があるわ」
上に居るパチュリーが挙手した。
「なにかしらパチェ」
「……レミィは、時間を操られた中でいつも通り動けるのですか?」
ええ、とレミリアは頷いた。
「……それは運命を操る能力と関係するのかしら」
しているみたいね、と彼女はまた頷く。
「ただ、予め意識していないと一緒に操られるよ。咲夜の仕事の始まりから終りまでずっと、自分の運命を視ていないと駄目。
1s先、2s先、という数え方では粗過ぎるわね。咲夜が死んでしまって、時間を操る能力の使い手が絶滅する未来まで……本来質量のない点を繋げて、自分の生まれた所から延びる半直線にするように視るの。そうしていると、咲夜と同じ時間に居られるようになるのよ」
それはレミリア様が定義された時間です、と咲夜は言おうとして辞めた。
それは、妙に冷たい言葉だと思った。咲夜と同じ時間に居られるようになる……そう口にした時、心なしかレミリアが、目を輝かせていたように幻視出来たからだ。
パチュリーは聞き逃すまいとその言葉に耳を傾けながら、永琳の言葉を思い出していた。咲夜が物理学と数学に関係した能力ならば、レミリアはそれよりも根源に近い、数学と哲学に関係した能力なのかもしれないと、非常に漠然と推察した。
ならば、短絡に捉えるなら、アキレスと亀だろうか――とパチュリーは思う。パラドクスとは云うが、あれは、『全て間違っている』とは結論付けない命題だ。
時間を操る能力は、実在しない第三者から見た遠近感を操る能力だとパチュリーは断定している。空間を支持する三軸は、時間軸と切り離して考えられない。
咲夜はアキレス(他者)との間のハンディキャップを、見かけ上変更させられる亀だ。そこにある無限の点の間隔を少しでも引き伸ばされ続ける限り、そのパラドクスを間違っているとみなす者でさえ、現実的に彼女には追いつけない。
だが運命を視るという行為を、自我を度外視して自己の時間を巨視する行為だと仮定すれば、レミリアは咲夜の設定した遠近感を把握出来る第三者となり、彼女のいじった時空から遊離することが出来る。咲夜の時間の外側に立てる。視点の問題だ。
……だがこれも、やはり即席の考察だ。しかも仮定が前提となっている。自分がその状況を実際に観測出来る方法を持ち、書に記録して実時間に持ち込まない限り、パチュリーにとっては全く価値のないことだ。少しばかりの材料を得ながら、彼女は小さく頷いただけだった。
話を戻しましょうか、と咲夜が仕切り直した。
「さて今、貴女は、四年前と仰られましたが……」
「言ったわ」
「その頃に何かしら、今度のお戯れの動機が存在したと考え、そう仮定します」
レミリアはイエスともノーとも言わない。
「思い立ってすぐには行動に移せない訳があった……その事と、毎日一人を殺害するという手法を合わせて考えると、今頃になってあのようなやんちゃに及んだのは、雨という運命を避けた故のことと推察出来ます。予め、少なくとも十四日間、殺人作業をする間だけでも、確実に雨が降らない時間を見つけておく必要があったのです。夜に動くとして、吸血鬼は雨の下で活動出来ませんものね。
二週間ずっと雨が降らない時というのもありませんわね――確かに。だからと言って雨が雪に変わりきってしまう時節も駄目です。里の人間は皆、家に閉じこもってしまって、外に置かれた死体を見に行きませんもの。だから今の頃、雪の始まりの季節になったとも、考えられます」
「……」
咲夜はそこで一度目を閉じる。口にする情報の順序を確かめる。
「ああ、そこで、何だか煩雑になったなと、私は考えました。とても無駄が多いのです。いや、理由が判らないので、煩雑に思えたのですね。
本当は全て、意味のあることなのかもしれない。ないことなのかもしれない。
貴女は一体何をしたかったのか? もしくは、今までに何をしたのか? そこを考え直すことが必要でした。具体的には、何故わざわざ毎日殺人をするのか、何故お屋敷の外へ出てまで里の人間に死体を晒そうとしたのかをです」
それは、普段の咲夜なら、いつも看過している部分だった。何故かと言えば、彼女は、レミリアの心理の多くを察す努力をしたことがないからだ。気持ちを察そうと試みている間に、紅茶の換えを出してあげた方が、彼女が喜ぶことを知っていた。
「……花と風は血霧に抱かれた」
そこで、妙な言い回しでパチュリーが話し出す。
「そして、それらを見守っていた麟という少女は、犯された花をスペルカードに封じて戦いに出ることにしたの。……単独で、誰にも知られずに。
貴女が四年前に、幻想郷全てへ向かって一度だけ撒いた筈の霧が、二枚の符に残っていたわ。彼女はもしかしたら、霧の原因を探る為に紅魔館まで辿りついて、美鈴を退け、私を脱帽させ、咲夜を打倒し、貴女と対峙した存在だったのかもしれない。
しかし……そうして、家を出ようとした所で、彼女は、何故自分が出かけようとしたのか、急に判らなくなったの。尻込みして戦意を喪失したのではない。外部から、何者かに剥奪されたのだと、八意永琳と議論していて判ったわ」
レミリアは口の端を歪めながらパチュリーの居る二階を見上げた。
次に咲夜を見、またすぐ正面を向いた。
それから一歩一歩に体重を乗せるようにしながら、彼女は壁沿いに円にゆっくりとロビーを歩き回る。
それは、種明かしをしている最中の探偵のようにも、
机の間を歩き回って授業を行う教師のようにも見えた。
その日嬉しいことがあった少女のように、
いつも峻険に眉根を寄せる老人のように、
手を腰の後ろに回して、歩いた。
やがて二人に背を向けた状態になり、窓を見上げ、
初恋の相手の名を口にするように彼女は言った。
ゆかりよ、と。
「……それにはいつ気づいたの?」
間を空けずにパチュリーは訊いた。そんなことは、彼女にも判っていた。
レミリアは窓から見える夜空を見上げたまま、背中で語る。
「もう、紅魔館の空で、最初に霊夢と魔理沙とやりあっているときから知ってたわ。
いいや、その時は名前まで判っていた訳じゃない……一人足りなくて、少しつまらなかった程度か。
欠席したそいつは、力を増した妖精にでも、道中で撃墜されたんだとその時は思ったわ。でも神社に通う内、そうではないと判って来た。いつも、宴会に一人足らないんだもの。気にならなかったら、変だわ」
「八雲紫は、麟を異変から排除して、何を画策している?」
「その話はやめましょう? パチェ。関係のないことよ」
「わかっているのね? ああ、あれの場合、動機だけが唯一、一個の確証だもの」
「黙りなさい」
言いたくないって言っているのよ、と彼女は呟く。低く抑制するようなその声を聞いたパチュリーは、呆れたようにかぶりを振って引き下がった。
黙って二人の会話を聞いていた咲夜は、話をすぐに戻した。
「冴月麟を排除したのは八雲紫だと、断定しているのですね」
「そうよ」
「それを何か、私達に判る方法で証明することは出来ますか?」
「残念だけれど出来ないわ。
出来ないことが、証明よ。チープな例えをするならそれは、大結界を、外側から見てそこに無いと思い込むことが、内側から見てそこに在ると判っているのと同じこと。
内と外を定義しているのは結界を引いた誰か。私達は内と外を判っているけれど、それは自分で定義したことではないわ。与えられた初期状態、知らずに敷かれていた境界条件」
「せめて、意味の判る言葉でお話して欲しいのですが」
「今ので例えで判らないなら、叶わない。だがそれは、境界を操るという行為に対して、吸血鬼と人間の言語能力が足らないせい。
機械語を介在させれば全てが判るのでしょうけど、生憎翻訳する技能は私にない。貴女にもパチェにもない。ないないづくし」
幻想郷は私の現実なのですけど、と咲夜は納得いかなげに呟いた。が、他の二人はその言葉に何も反応を見せなかった。
「それは、信じても良いことでしょうか?」
ややあって彼女は、極限的な妥協をしたが、
「……believeを用いる以上は」
パチュリーにそう釘を刺された。
「ああ――そうでしたわね」
咲夜は一瞬だけ考えるが、すぐに答えを出した。
「それでは私は、信じる方に致します」
「好きに解釈なさい。例え信じなくても、話は終らないわ」
「はい、単なる私の一意ですわ」
咲夜はそう言って微笑んだが、そう、と無表情にレミリアは返す。構わずに彼女は続けた。
「そこまでは、パチュリー様ともお話したことでした。ここで、何故あのような迂遠な手順を踏んで十四人を殺人したか……という所まで戻りましょう。
果たして八雲紫が、その動機なのでしょうか? 里に食料人間の死体を主張することは、紫に対して何らかのアプローチを図る行いに成り得るのでしょうか?」
パチュリーがその先を受けた。
「……吸血鬼が直接人間を殺すことを制限されたのは、吸血鬼異変、という事件の後だけれど……」
彼女のわざとらしい言い回しに、しかしレミリアは表情を動かさない。
その反応を見た後でパチュリーは続ける。
「……あなたは、条約の曖昧な箇所をついたのね。
妖怪は、里の中で人間を殺せない。妖怪という集合の中に在る吸血鬼は、幻想郷の人間を全く殺せない。
でも、食料と決めて、殺して食べることを容認された人間を『里の中に入れた上、食べずに殺す』のはどうか……と。
非常に曖昧模糊とした所をついて……境界の妖怪にアプローチを図ったのね?
これは、許容される問題ですか? 或いは、裁かれるべき行為ですか? ――そう喧嘩を売った、或いは意見を求めた」
「その言い回しだと、私は、閻魔にも喧嘩を売っていることになるけど?」
「……吸血鬼異変で交わされた条約は、吸血鬼と幻想郷土着の妖怪達だけのもの。
あちらは関知する理由などない……そもそもあれは現世に直接的には関わりません。
霊夢ならば、動く理由があったのでしょうけど、何故か今度は、あの子の勘は働かなかったと聞きます。冬が迫っていて、暫く里にも降りていなかった。冬の間里を監視出来るのは、例え冬眠していても、式を使役する紫の方よ」
レミリアは親友の長広舌に溜息をつく。
「ああ、主張の内容はそれで良いかもしれない。良いとしましょうか……でも、果たして私がやったことだと、紫が確実に特定出来るかしら? 狐が里を見ていなかった場合は?
紫が何でもお見通しだから……なんて説明をしたら喉笛を掻き斬るわよ」
「それは、貴女が怒ることとは違うと思うが……ともかく特定は、普通に出来ます。
いつも首に杭を刺すというルールに則って殺人した……。捕食せずに殺人した……。
それらの事実から、まず人間は戸惑うわ。私が最初に予想したように、人間が人間に殺されたものだと思い込む。上白沢慧音が、犯人を捕縛することに拘って、犯人が誰であるかを問うことを度外視してしまったように、平和呆けしている人間側は、誰かが事件を解決してくれるのを待つか、短絡な方法で解決するかの二派のみに分かれてしまった。
だが、貴女と吸血鬼条約を結んだ妖怪達だけは違う。
貴女の膂力が強すぎて、簡易に捕縛したり処断したりする手段こそ持たないでしょうけど、考える頭脳、見通せる目、観察させる人脈が彼らにはある。それは、あの戦いで彼らと対峙した貴女が一番よく判っている筈。そこから貴女と対面するために、八雲紫が選ばれることは道理です。
つまり……残存している土着の妖怪の内、条約の続く限り紅魔館を監視している筈の誰かが、貴女の犯行を観測出来れば良かった。……十四人目のときにやっと、向こうが気づくように仕組んだのですね。一人から十三人目の間は、貴女は、咲夜によって時間を停止させられた世界の中で食料人間を殺している」
「妖怪の中から紫が来るのは何故?」
「……明晰な人物は、過小評価されていることが――いや、自分の地力を具体的に知られていないことが――大きなイニシアチブになると知っているからよ。だから、今まで私達の前に現れる必要のなかった人物は、積極的に身を隠そうとする。
例えば、妖怪の賢者とは誰かと云った時、私達が八雲紫の名しか挙げられないのはそのせいです」
「ああ……筋は通っているわね」
そういう理路が立つのか、とレミリアは新鮮に思う。
少しの間があった。
「ですが、何故でしょうか」
咲夜が、やがてレミリアにゆっくりと訊いた。
「冴月麟が紫の手で事件からのけ者にされたことと、貴女が紫を挑発する理由が……十四人も人間を殺した理由が、私にとっては、符合しません。
戦うことが目的だったとして……こちらから一方的に仕掛けた所で、彼女が全力を出さないことは判りきっていますね? 紫にこちらと戦う理由を与える為には、確かに今回のような手法を用いる他なかった。それは、判るのです。
――ですがそれは、単なる方法論に過ぎません。動機ではありませんわ。
そこを鑑みて――動機と思しき物は、紅霧異変で起こった戦いに水をさされたから? 宴会の参加者を一人減らされたから? その程度のことしか浮かびません。
果たして、その程度の感情が、今度の問題の理由になるでしょうか」
もちろん貴女の主観の話です、と彼女は付け足す。
「私なりに考えた結果ですが――それは、戦う、互いのための口実を、作っていませんか?」
咲夜はいつも、レミリアの――否、どんな他者の心情も判らないと考えている。
無論、考える努力をする。だが自分の考えた不正確極まりないであろう内容を、口に出して断定してしまう行いを避けていた。強烈な違和感が伴うからだ。
つまり、その言葉はチープな挑発だった。
だがレミリアは何故か、興味深そうに咲夜の問いに返す。
「面白い語彙を使うのね、咲夜。口実……そんな言葉、思いつきもしなかった。私は」
レミリアは二人を見ずに前を見つめる。そして攻撃的な微笑を浮かべ、意識の大部分を思考に割きつつ口を動かした。
「口実って囮かしら……、そうかもしれない……誰の目を眩ます為の嘘か……妖怪たち……。
――すると、そうね。嘘をついたんだわ……私は。貴女の、言うとおりよ」
「過程と、結果だけが視えているのですね?」
咲夜は唐突に訊いた。
「いつもそうだけど?」
レミリアは即答する。
「誰が何を思ったか……という原因までは、視えないのですね?」
「そんなところまで判るのは神仏かな……悪魔だしね、私」
彼女は真顔で言う。
咲夜は思う。
いや断定した。
レミリア・スカーレットは、今回の殺人に動機を持たなかったのだと。
「……今回のことは、結果として、貴女の利益になるのですか?」
咲夜が訊く。
「……利益? ……結果? 私のための利益だとして、それって、一体どの時間に蓄積するものなの? 結果というのも、一体いつのことを指すの? 今行っている努力が、正確にいつ反映されるかなんて、一体誰に把握出来るのかしら? 未来が見えている私にさえ……そんなこと判らないのに。
目先の希望にとらわれていると死ぬわよ、咲夜?
遠くの絶望にとらわれていても死ぬのよ、咲夜。
最初から全て見通せない奴には、遠い先を見通そうとするその行為自体が徒労だわ。やめてしまえ」
それから彼女は、自らをクエスチョンマークとするかのように、まばたきせず、首を傾げながら従者に訊く。
「ねえ、原因と動機って似ているわよね」
咲夜は即答する。
「半分は同じものです。意思を持った何かが実行者なら、それらは短絡的に同じものです」
「そうね。ならば、この事件の原因は、原因でしかないの」
「それは、どういう意味ですか?」
「意思がない、ということよ。私には紫と戦う動機がなければ、十四人を殺す動機も、なかったの」
「何故、動機がないのですか? ああ、判ればで結構ですが……」
「貴女は、何度も視た、台詞を暗記してしまって、空で言えるような映画を、今更、面白いと思う?」
「思いませんね」
咲夜は正直に回答した。
パチュリーが、レミリアが何か言う前に話し出す。
「……記憶の種類が、もう違ってしまっているのですね? 一度きりの想い出となる筈の未来を、反復して視ることで印象が磨耗し、無価値なものに成り下がった」
「そうよ」
レミリアは自嘲を込めずに微笑む。
「……では、貴女は一体誰なのかしら?」
パチュリーが訊く。
「レミリア・スカーレットを追跡している、レミリア・スカーレットよ」
「失礼ですが、興味ありませんわ。お嬢様」
ご自分の能力はご自分で管理なさってください、と咲夜は冷たく言う。
レミリアはそれに、どこまでも無機質に返答した。
「私は、訊かれたことを答えたまでなんだけど? 感情に傾倒し過ぎた感想をもたらされると、ちょっと困るわ」
「――失礼しました」
怒っていない、平気よ、とレミリアは返す。
「けれど多分、貴女たちの予測は当たっているわね。
冴月麟が、紫によって紅霧異変から取り除かれたので、自分の運命に干渉があったと考えた私は激怒した……きっと、そういうことなのね。干渉され書き換えられた箇所も含めて運命の筈だけれど……私の追跡しているレミリア・スカーレットは、相当に我侭で直情傾向にあったようね。私も、かなり、癇癪持ちの方だけれど」
「私とパチュリー様の予想が、当たっていると思われる理由はなんでしょうか」
「そんなもの……信頼しているからよ。私の意志の定義付けを、貴女達に託したの。 whyを確かめてもらう為に、見かけ上最初のレミリア・スカーレットが、貴女達にも簡単に判るように、ヒントを沢山残して行ったのね、きっと。彼女は彼女で、見かけ上後発の自分が擦り切れることを、判っていたのでしょう。だからこうして、真実動機がないと教えるための、機会を持てている」
咲夜は、ついに言葉につまった。
断定などしていない。
脆い所がある気もしている。
だが……だが、自分が先刻まで視ていたレミリア・スカーレットという人物は、
意思をそっくり誰かに譲渡するような、
試行することを全て放棄するような、
思考することを最初から辞めるような、
脆弱な悪魔だっただろうか――
気が遠のく。身体が、膝から順に崩れ落ちる錯覚をした。
だが、ややの時間をかけた後で、咲夜は、強靭な気迫で、意識的に僅か活力を取り戻しながら訊いた。
「どうしてそれを……今更お話しになるのですか」
搾り出すような問い。
レミリアはそれを聞いて、僅かに微笑んだ。
不敵ではない。判らないのかと、揶揄しているようにも見えない。
ただその顔で、じっと咲夜を見、次にパチュリーを見る。
パチュリーは、友人と目が合った時、彼女が知らない場所へ移動しようとする後ろ姿を簡単に幻視出来た。
宵闇の中、軽く手を上げて、蝙蝠の翼で羽ばたいて飛んで行く姿。
だが――それでいいのだろう。
魔女は表情を変えないまま、考えうる全てのアクションを内側に仕舞って、手すりから彼女の小さい影を見下ろし続ける。
咲夜だけがじっとレミリアの返答を待っていた。
やがてレミリアは、咲夜の方に視線を戻すと、彼女の質問に対しこう答える。
「それは……この私の時間を取り戻してくることに、決めていたからよ」
「……」
咲夜はまた、返す言葉を持たなかった。
レミリアは、咲夜の青い瞳を見つめたまま、動かない。
パチュリーは大よそのことを理解し、興味をなくして、そこで月明かりを頼りに、予め持ってきていた有機化学の本を読み始めた。
咲夜はやっと訊いた。
「紫と本気で争うことが、あなたの時間を取り戻すことに……繋がるのですか」
「繋がるわ。――ねえ、一部の人間が、数式に立ち向かおうとする理由は何だと思う」
レミリアは唐突に訊く。そして、自分の問いに自分で答える。
「それは、自分と他者の、不確定さが余りに恐ろしいからよ。ファジィさを……境界の無さを放置出来ない、神経の過敏さ、一種の脆さ。その種類の人間は、立ち向うと決めた数式を解決しておかないと、死んでしまうの。無秩序に耐え切れなくなって、実際に身を滅ぼす。
ところで、それでは……それは、何のために用意された弱さかしら?」
「……人間の集合を護る為」
パチュリーが上から、本に目を落としたまま言う。レミリアは頷く。
「そう、それは防衛と繁栄の力。数式と対峙した者に課せられた運命は、同族を生き抜かせること。証明から哲学を理解し、自覚するモラルを自分の中ではなく、世界の中心に置いて更に客観的に洗練させること。感情に拠らない――美しい秩序を築くこと。
あらゆる全てを理解することは……歴史や、言語では最後まで翻訳出来ない、根源的な構造を識ることは……結局、群れを護ることになる。次世代に繋ぐことになる。例え最初にその覚悟がなくても、結果的に、そうなるの。
そして紫は、その種類の人間。あれが私達の目に見える力を行使するとき、完全に近しい法則に則って攻撃して来るのは、結局、逆説的に、自分の内側の不確定さと無秩序さを積極的に否定したいが為。
意図してつくり上げた性質だって、本物でしょう。でもそれ以上に、あれは不確定極まりない、人間なんだわ」
紫の不確定さ……。
レミリアの決まりきっている時間……。
咲夜は、考える前に訊いた。
「では、貴女は……彼女のその不確定さを利用して、自分の運命を操ろうとしているのですね?」
「そう」
レミリアは即答した。
もうレミリアを追跡しているレミリアが、許せなくなったのよと、彼女は微笑んだ。
「昨日まで――昨日までのことは、後追いだった」
彼女は言う。
「でもどうやら、もうほんとうに、そのことが許せないわ。
病魔に蝕まれるようで、
懈怠に満たされるようで、
私の方が時間に追いかけられているようで――恐ろしい。
あれには頼らないで独りで解決しようと、出来ると、思ったわ。
でも、時間を浪費し過ぎる。これでは、本当に、おばあさんになってしまうわ。考えたくても考えられない、自分に残されていた筈の課題さえ忘れてしまう、老婆によ。今の私は、そんな自分の未来の姿を視ることだけでも、耐えられない。
例えそれが、沢山の笑顔に囲まれた最期であっても。不可能だわ。
つまり……貴女達の為にここまでお喋りに来たことが、この私の、宣言なのでしょう」
「……」
「だからもう行くわ」
彼女は言うや、踵を返した。自分が元来た玄関へ歩き出した。
パチュリーはそれを、目の動きだけで見送ろうとした。
だが、咲夜はその背を引きとめた。
「お待ちください」
「なに?」
「最後に二つだけ、お聞きしたいことがあります」
中途半端ねと、レミリアは薄く嘲るように哂い、律儀に立ち止まる。咲夜は構わずに訊いた。
「十五夜に殺す、最後の十五人目は、紫なのですね?」
ええ、と彼女は静かに応える。
「貴女は、雨のない十四日間を待っていたのではない。雨がなく、新月から満月に至る十五日間を、四年前から待っていたのですね?」
そうよ、と彼女は優雅に頷く。
十五という数字が浮上した時に、咲夜はそのことに気が付いていた。
それは、咲夜が昔、レミリアとフランドールにした御話の内容を、その数字に限り、彼女が模倣したものだった。
十六夜の昨夜は十五夜だ。
レミリアが何を思って、自分の名をそう改名したかは、咲夜には判らない。否、それがいつのことだったかも忘れてしまったし、何より、知ろうとも思わなかった。
だからその符合は、咲夜にとって意味のないことだった。
レミリア様は、その数がとても好きなのだろう――そう予測を立てた所で、咲夜は思考を辞めることにした。
そうですかと咲夜は頷き、彼女に時間を使わせてしまわないようにと、すぐに残りの一つを訊く。
「返り血の付いたお洋服は、何処へ遣ってしまわれたのですか?」
レミリアは咲夜と視線を繋いだまま、何の感情も表さずに首を振った。
「杭をわたして、首に刺せと命じたら、全員、元々望んでいたように、自分で死を選んだ。
自分の死を、自分の意思で私に譲らなかった。だから、返り血なんてないわ」
安堵に似た感情を、咲夜は覚えた。
なんだ……と彼女は心の中で呟く。
汚れたドレスが彼女の部屋のどこかに隠してあったなら、血がみんな固まる前に洗濯してしまわなければと思っていたが、それでは仕事が一つ減ったなと、彼女は今日は寂しくも思った。
――そして、ああ、これで。
――訊くことはみんな訊いた。
そこで、焦らず、遅怠せず居住まいを整えると、咲夜はレミリアに対し楚々と一礼した。お時間をとらせてしまって申し訳ありませんと、謝辞を述べる。
「では、行ってらっしゃいませ、お嬢様」
「……楽しんでらっしゃい、レミィ」
魔女もその時だけは、すすんで挨拶する。
「ええ、行ってくるわ」
当主は首を傾けて可憐に微笑み、ゆっくりと踵を返す。
開いたままの扉を抜け、ゆとりを持って庭の中心まで歩き、そこで口の端を歪めて暴力的に笑う。
その場所で――シンメトリーに拡げた蝙蝠の翼で、冷気を叩き、
レミリアは光の真円を目指して、陰雲が現れ始めた夜空へと舞い上がった。
◆
厚くなりつつある雲海を抜ける。
満月だけが昇っている私の上空とは裏腹に、眼下には煙草の煙じみた雲が徐徐に集結しつつあった。どうやら間に合ったようだ。
彼女を待つ間、私は雲が集まってくる様子を観察する。空の下で見る分には、凄まじい速度で動いているように見えるが、空の上で見る分には、雲の端が見えない為に、巨大過ぎる為に、一体どれだけの速度で移動しているのかが判らなかった。
ただ、段々と、夜の幻想郷が水蒸気に隠され見えなくなっていく。
そのことで雲が、この場所に集まっていると、判るだけだ。
そして視線を月の方へ戻すと、一〇〇メートルほど向こうに、何時の間にか紫が浮いていた。
「今晩は。佳い夜ね」
彼女は私に向かい、朗らかに挨拶してくる。風があまりないせいで、彼女の声はよく耳に届いた。
「雲の上の気象は、いつも変わらないわ」
私はスカートを抑えながら、作られた笑顔を無視して言い返す。
今日は少し暖かいわねと言いたかったのよ――彼女はそう穏やかに抗議すると、一度目を瞑ってから、真っ直ぐに私と視線を合わせた。
私はいきなり核心を訊くことにした。
「何故、麟を異変から排除したのかしら」
「それは、美しい、勾配がつくりたかったからよ」
彼女は微笑んで即答する。答えを一字一句違わず、用意していたかのようだ。彼女は続ける。
「人から妖怪へ至る、単純な一次関数。しかし、元の居場所へも帰還出来る、可逆的な経緯が必要だった」
「誰にとってもわかり易いと思われる日本語で、説明なさい」
また始まった……と呆れながら私は指摘した。
「……人と妖怪を段階的に馴合わせる必要があった」
「それは、何のためにかしら?」
「言えない。少なくとも、貴女には」
紫は涼しげに微笑む。金色の双眼が、これ以上私の目論見に関わるなと、語っていた。
だが、私の質問は、まだ残っていた。彼女の視線を無視して尚も訊く。
「麟は精密には……半人半妖ではない。もう彼女の妖の血は途絶えている。人間と言ってもいい。
だというのに、勾配の最初に配置しなかったのは……出来なかったのは何故?」
「きりん……という言霊が、邪魔だった。由来の尊さが、違い過ぎる」
「名を改めてしまえば良かった」
彼女はそこで、無表情に首を傾げる。
「そこまでして彼女を取り入れることは、矛盾している。
名を変え別人に変えれば、そこからまた、問題の枝葉がどこまでも伸びたことでしょう」
そう、とだけ言って、私は黙った。もうこれ以上、聞いておきたいことはなかった。
それから逆に、紫が私に問う。
「あなたは、何故ここに居るのかしら」
「決まっているわ」
私は即答する。
「お前の力で、カオスを生産するためよ」
彼女は頷くこともせず、尚も訊く。
「無秩序をつくり出したいのは、何故かしら」
「レミリア・スカーレットの運命を操る為に」
「確かに、自分の運命が変更したと認識出来るのは、世の中で貴女一人。
では、その、死に至るまでの道程を変えようとする理由は何?」
「環を外れたい」
「環とは、何かしら。輪廻転生ならば、そこから逸脱出来る者はない」
「自然生命――その代替の、環を創りたい」
「それを創りたい理由は、何かしら」
「私が無為に殺した……十三の人間の死に様を、価値のあることに変える為。
あれらの死は、その環から仲間はずれにされる死だからよ」
「誰にとっての、価値かしら?」
「無論、私にとっての、価値よ」
「でもそれは、お前が殺したのとは、違うんじゃない……? 形式的にも、本質的にも」
紫はわざとらしく首を傾げる。あまつさえ、実際お咎めしようか迷ったのよ、などと言った。
私はそれを遮断しながら訊く。
「ねえ、咲夜」
「私は、八雲紫」
「人間は全てさくや。黙ってなさい人間」
目の前の彼女は、それはごめんなさい、と眼を細めて嬉しそうに微笑む。
私の口は血を吐くように動く。
「紫に晒す目的ならば、あなたの止めた時間の外で殺した、十四人目だけ……一人で良かった」
「そうかもしれない。違うかもしれない」
「何故、十三人殺したのか……。何故、十五という数字に惹かれてしまったのか……。
このままでは、それが判らない。それをこれから、解決しなければならないの」
そう、と紫は呟く。
良く判ったわ、とまた彼女は言い、袖からスペルカードを何枚も取り出すと、それを全て宙へ放ってしまう。
私はそれを無言で見ていた。
風に乗る。
翻る。
そして煌いて雲の中に消えていった。
水晶か……と私は思った。
霊力を最高に通し易い物質。
二酸化珪素の結晶を、ごく薄く、長方形に加工した脆いスペルカード達。
いいのか? と私は訊いた。紫は、何故かみんな捨ててみたい気分になったの、と簡単に答えた。
私も彼女に倣い、両手で、紅い花びらを撒くように、持っていた全てのスペルカードを投棄した。
一先ず、しがらみを、すべて、白紙に戻さなくては……。
くるくると落ちていくカードを見送り、そう考えた。
費やした時間、思考、他者、そしてそこに何時の間にか生まれている思慕と未練……。動機と原因だけを残して、それらを一度一掃してしまわなければ、前へ進むことは、叶わない。
創り、破壊しを、螺旋階段のように延々と継続する。その途中でたまに得られる、ほんの僅かの純粋な結晶を、絶えず蓄積させていけばいい。
そうすることでしか、本質的な進捗はない。
「一体、何の進捗だろうね」
紫が、私の思考を読み取ったかのように訊く。いや実際に、読まれていたのだろう。
「さあ。一度地獄に落ちてみないことには、それすら、判らないわ」
私は可能な限りそっけなく答えた。
彼女と向き合っているようで、実際的には同じ方角を向いている気がしたが、違和感を覚えないことが不思議だった。幻想郷の空は、いつから極点になっていたのだろう。
下界は今や、全て雲に閉ざされていた。
この暖かさだときっと、下は雨ねと、紫は呟く。
どうせ雨を降らせているのはお前のくせに。
今日はずっと晴れて、下界でも月が見える筈だったのに。
沈黙が降りる前に、私は紅い霧を生む。
それを纏い、緩慢に範囲を拡大させながら紫を睥睨した。
そして、
逃げられないのは、
お前の方だと、
そう言った。
紫は黙って、こちらを観察している。
やがて空の真円の白色光は、霧に遮られ、波長の長い赤ばかりが届くようになる。
月って自分で紅く染めるものなのね……と紫は微笑む。
他にどんな手段があるものか……と私は哂う。
互いに怒りという感情は、見せ合わなかった。
ただ微笑む。
子供らしく少女らしく、どきどきと、鼓動の高鳴るのを実感する。
殺害したいという感情は、何故性衝動に似るのか。
相手は同性だというのに、どうかしている。
きっと私は顔が赤い。
雲の上に押し倒しくちづけするヴィジョンしか、思い描けない。
プラトニックな破瓜では済ませられそうになかった。
泣かせてやりたい従えてやりたい壊してやりたい溺れさせてやりたい――
ああ、
溺れているのは自分で、
壊れているのも自分で、
従ってはいないが泣いているのも自分なのか。
普段ならば馬鹿めと云って裁断する、
その感情に汚されていくことがただ愛しい。
しかしやがてそれにも飽く。
――お前だけは、本気で殺すわ。
そして私は突然見切りをつける。
――棺を蓋いて事定まる。貴女の為に何人泣いたかは、指折り数えといてあげるよ。
紫は頬に手を当て薄く嘲る。
私はそれ以上何も言わず、翼で大気を面白げに全力で叩き、前進した。
セキュリティシステムが立ち上がるかのように、都会的な色彩の光の目玉が無秩序に点灯する。
何か巨大な物体の背後に立っているかのように、風はない。
大気はどうしてか、春のように暖かい。
美しい、愛しい、狂おしい――、
無価値と有意義をこれから定義する――、
際限と境界のない霧と夜の内側、
紅い十五の月をつめでなぞる。
飛ぼう、
飛ぼう。
今宵はきっと心ゆくまで。
戦おう、
戦おう。
いざ倒れ逝くその時間まで。
――法則と無秩序を混ぜ込んで創造せよ。
――生くると死ぬるとを呑み込み賛美せよ。
これよりの運命は、他ならぬ私のものである。
◆
◆
ごめんくださいな、という、呑気な声がした気がした。
けれど、布団から抜け出ようと思うだけ思って、玄関まで出ることを辞した。とても自分の意思で這い出せるような気温ではない。
しかしもう一度、ごめんくださいが聞こえる。しつこかった。むしろ、元気な人だと思った。
良心を自責の念から護ろうと、更に、頭まで、布団を被った時だった。
「ごめんくださいと、言ってるでしょう」
いきなり頭上から、やや怒った女の子の声がした。
布団を被ったまま私は訊いた。
「何故……玄関開けずに、家の中に入って来れるの」
「約束の珈琲豆を、持ってきたわ。缶で良かったかしら?」
「ええ……缶が一番いい」
質問にさえ答えない彼女に、私は乗せられてしまう。
「ねえ、これって、どうやってつけるの?」
「やるから……触らないで」
火鉢のことだと判ったので、私は彼女を制止した。この人は多分、人に尋ねつつ自分で試し始めるタイプの人だと思った。
渋々布団から出て、火鉢に火を入れた。寝巻きのままで台所に行き、薬缶をかまどの火にかけて放ってきた。
居間に戻る。そこでやっと、お客さんが誰だか把握した。
「ああ……こないだの君か」
「ええ、こないだの君ですわ」
彼女は微笑んだ。お客は、紅魔館のお給仕さんだった。
「また……何の用? 最近はオフの日続きなのかしら?」
遠かったでしょうに、寒かったでしょうに……と私は訊く。
オフの日なんてないわ、と彼女は何故か嬉しそうに笑う。
「今日は、約束の珈琲豆を届けに来ただけよ」
「あれ、私確か……紅茶の葉がいいって言ったと思うんだけど」
「うちに帰ってみたら品切れだったのよ」
備蓄分考えると無理だったのよねぇ、と彼女は笑って誤魔化した。まあいいけど……ねぇ。
それからまず着替えをして、布団を畳んだ。それを押入れにしまって、立て掛けておいたちゃぶ台を部屋の中心に戻した。
「炬燵にしたらいいのに」
お給仕さんが言う。そして、ああ豆炭はあげられないけどね、と付け足す。
「いや別に欲しくない……。起きたら、起きていたいのよ。寝るときは突き詰めて寝たいけど。 炬燵置いておくとさ、どうしても、睡眠と覚醒の区別を無くしちゃうでしょう?」
「そうかもしれないわね」
「眠い……顔洗ってくるね」
「お化粧だってしてきていいわ」
「ありがとう」
そうして、洗面を済ませて、やや目を覚ました状態になって居間へ戻ってみると、お給仕さんは消えていた。
首を傾げていると、彼女は取っ手に濡れ布巾を巻いた薬缶を持ってきて、火、と言った。
「ごめん……忘れていたわ」
「豆も挽いてないのに、お湯ばっか沸かしてどうするのよ」
「……面目ない」
私はかぶりを振ってしおれてみせた。何で今日に限って、こんなどじをやらかしたのだろう……。
それから、湯を温めなおして、珈琲を淹れ、年寄りみたいにゆっくりと啜った。私も彼女も、ミルクと砂糖を少しも入れなかった。
珈琲は、とても好きだ。
思考が自由に走るから快い。
この熱い一杯から、だいたい全てが始まるのではないか……とさえ思う。
スペルを考えた時も、確かそうだった。
ない知恵を絞って、色を選び、形を考え、意味を付加し……行き詰っては珈琲を啜った記憶がある。
子供のときのように楽しかった。
強い妖怪に勝てるとは思わなかったが、自分なりに納得のいくまで、案を練った。
完成寸前まで組んだ所で、着想から考え直した箇所もあった。
無駄として切り捨てた箇所もあった。
基本的に考えている間は退屈だし、やや苦しかった。
だがそこには、何か大きな目的に向かっているようで、素晴らしい疾走感もあった。争いの道具かどうか――という部分など、その時だけは思考の片隅にさえなかったのだ。
ところで……多分今、私は半分眠っているのだろう。
覚醒と、睡眠の境界を行き来していると、とても、感じる時間が遅くなる時がある。
眠っている間は色々な制限が外れると聞く。
ならば、限界を超えて思考が加速しているのだろう。一瞬の間に、とても沢山のことを一気に考えられることがある。
今もきっと、その種類の状況だった。
頭がぐらぐらした。
向かいの咲夜が、こちらを覗き込んで来た。
「よだれ垂れてるわ」
「う……」
取り落としそうだったので、コーヒーカップをちゃぶ台に戻した。
それからもこっくりこっくりしていると、咲夜が、体でも動かす? と訊いてきた。
それは名案かもしれないわ――と私は上の空で答える。
すると彼女は、仕方がなさそうに笑った。
◆
「じゃあ、何枚にする?」
「枚って……なにが」
「スペルカードよ……持ってるでしょ? 誰にも渡してなんかいないでしょ?」
自分の袖を探ると、随分古い押し花がしてある、本のしおりっぽい御札が二枚出てきた。
花びらか木の葉のように畳の上に落ちたそれを、彼女は拾い上げる。
「なんか……あったけど」
何故私が、命名決闘の契約紙なんか持っているのだろう。
もうずっと前に無くしたと思っていたのに。彼女はそう思った。
押入れから昔の友達の写真が出てきたような気分だった。
「じゃあ運動がてら、いきましょう。私も二枚でやるわ」
「私これ……多分、やったことないわ」
「そうだったかしら?」
「ええ」
彼女がどこまで知っていてどこまで知らないのか判然としなかったが、咲夜はスペルカードルールの概要をみんな彼女に教えてやった。
全て聞き終えると彼女は、へえ、と淡白に呟いて自分のカードを見つめる。
「いつも魔理沙魔理沙だとねえ……真っ直ぐばっかりで飽きが来るのよ。ナイフを溶かされるし」
「ああ……魔理沙じゃあ、仕方ないわ」
「だから、貴女でモチベーションを保とうという魂胆なのであった」
「ああ……そういう。早くお屋敷に帰ってしまえ」
「ええ。これが終ったらね」
光より速く帰ってみせるわ、と咲夜は本気で言う。
彼女はそのトリックを判っていたが、黙っていた。そもそも反則なのだ……時間が操れるなんていうのは、そう思った。
軋む引き戸を開いて戸外へ出た。
庵の外へ出た途端、二人は目も眩むような真夏の日差しに迎えられた。
瞳孔がぎりぎりとすぼまっていく。
視界の半分は樹木の緑に埋まり、信じられないほど蝉の声がうるさい。
まだ午前中だというのに、うだるような暑さ。二人は心なしか肩の高さを下げる。
ただ、庵の周りには、そんな二人を笑っているかのような、パステルカラーの花々が咲き誇っていた。
花壇の中だけではない。水も肥料も与えられていないその周囲の地面にさえ、花を付ける野草が集合して来たかのように、およそ無秩序な種類の植物が無数に根付いていた。
「何で外へ出てきたのか、忘れ始めて来たわ」
蒸し暑さに耐えかねて彼女は言う。
「私はきちんと、覚えているわ」
暑かろうと寒かろうと態度が変わらない彼女は微笑む。
「理由は、覚えているなら、忘れてはいけないものだもの」
「え……何故?」
「後で誰かに、こう思ったからこうしたのよって、伝えなければならないでしょう」
咲夜は手をひらひらさせた。
彼女は尚も訊く。
「じゃあ……全部、忘れてしまったら?」
「それでも思い出そうと試みる」
「それでも……無理だったら?」
咲夜は、空を見上げた。
太陽の白色の光が眼に焼きつき始めたが、それでも見続ける。
そうしながら、少し笑って言った。
「すぐに相手に謝って、そして……、それが自分にとって大事なことならば、死ぬまでその理由は何だったのか、考え続ける」
「何を……謝るの?」
「忘れてしまったことを。いえ、理由が判らないことを」
「理由が……もう判らないのよ? そこに責任はないと思うわ。考え続ける必要だってない」
麟は首を傾げると、咲夜はやっと太陽から目を離す。
そして、微笑みを崩さないまま、眩しそうなままの表情で話す。
「それは、責任が、一体、どこにあるのか、ということよ。
忘れたことは忘れたこと。判らないことは判らないこと。それは、真実なのでしょう。
けれど、自分さえ制裁を受けなければ、それで本当に安堵出来る責任? 相手が許してくれさえすれば、それで自分が納得出来る責任かしら? 私はそれを看過することは、危うくて、本当に、苦しいことだと思うわ」
ああ――と麟は思う。
そして考えたことを、そのまま口に出した。
だが、さあなんでしょうねと、咲夜はそう答えた。
麟は目を丸くして、黙った。
咲夜はそれ以上は、何も喋らなかった。
深緑の森林。夏日を照り返し、銀色のナイフが風を切って飛んでいく。
数え切れない色種の花。向こう側の様子を透過する、幻の花弁が散っていく。
紅い霧はもう晴れていて、幻想郷には夏が戻っていた。
誰が戻した夏なのか……という記録はない。この先も、ない。それは余りに瑣末な出来事だったので、誰にも等しく忘れられていく。
競い合うでもなく、高めあうでもなく、ただ牧歌的に緩慢に、時間の過ぎていくのを愉しむのは二人。
咲夜は冷徹な表情のまま、手首の動きだけでナイフを投擲する。
麟は汗の雫を撒きながら、懸命に光の蝶を生み出して迎撃する。
そこに無論微笑みはないが、楽しい、と感じることは、二人の間の真実だった。
刃物が恐ろしければ、理由を考える前に避ける。
結果的に撃墜されたくなければ、理由を鑑みずに攻めに出る。
負けたくないと思うところに、理由はない。
暑いと感じることに、理由はない。
楽しいことに、理由はない。
この遊びの中に唯一理由を見出すならば……。
――怒鳴れば、冷静にこちらを見遣る、
――痛めば、手をとめて手当てをしてくれる、
――微笑めば、微笑み返してくれる、
向かい合う相手が、咲夜が、そこに居ることに意味があるのだと、彼女は思った。
(了)
これは是非読まなければと興奮してしまいました。
冴月麟が出たのは驚きましたが、なるほど面白い解釈だなと思います。
個人的には文体とキャラの言動がすごく好みです。
内容も面白かったし、レミィの能力の解釈や葛藤も新しい考え方かなと思いました。
言うこと無しです。
全てを語ってしまわない、言葉にしてしまわないのが、実に善い。
冴月麟という「キャラ」の特殊性を、とても上手くお使いになられましたね。
文句無しの満点を捧げます。
二章 全速でその光を負って → 追って?
この作品は…森博嗣作品を読んであって良かったと思いました。でないと「数式に挑む人間」の下りがいつまでも理解できなかったことでしょう。
前作でも思いましたが、「ふくろうのように首を傾げて」という表現は、他人(他妖)の考えることは理解できないということの象徴のように
思えました。
森博嗣作品もこの作品も、自分の理解力の限界線上に乗っている作品だということで共通します。
「幾望」という表現も気になります。
特にレミリア
この物語の真の主役は間違いなくお嬢様
咲夜の名前、レミリアの能力、その苦しみ。冴月麟。
発想、考察の鋭さに脱帽
言いたいこと、書ききれないくらいホントにいっぱいあったんだけど終盤のゆかりんに全部喰われたw
ゆかりんかわいいよ!!1
極上のエンターテイメントに感謝。
個人的殿堂入りです。