Coolier - 新生・東方創想話

輪転のノスタルジア

2012/09/12 23:07:53
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 少女の命は、風前の灯であった。

「あぁ……、あああぁぁ……」

 昼間だから大丈夫。
 妖怪避けのおまもりがあるから、一人で平気。
 半刻前まで強気で竹林を歩いていた。そんな自身の姿が滑稽になるほど少女の姿は変わり果てていた。破れ、泥で汚れた着物は、本来の魅力を残すことはない。大きく開かれた布地から見える幼さを残す身体、それを退廃的に彩るだけだ。
 恐怖でその身を運ぶことを放棄した足は、無様に震えるばかりで、とうとう少女は地面の上に腰を落としてしまう。

『付き人が来るまで待ちなさい』

 そんな養母の声を無視し、寺子屋での教わったことも無視して、一人で人里の外に出た。
 自分はもう大人だ、それくらい出来る。
 そう親や大人に証明するために、警備の者を待たずに家を飛び出した。
 養母の誕生日に何かしたい。せめて薬だけでも自分だけで取りにいって、喜んでもらいたい。たったそれだけの我侭を世界は許してくれない。

「ひっ」

 少女の着物を切り裂き、地面の上に追い詰めた妖怪が迫る。尻尾が二つに分かれた、狼のような黒毛の妖獣だ。その鋭い爪は、触れれば少女の肌など易々と切り裂くだろう。その大きな牙は、少女の首など易々と噛み千切るだろう。
 それでも、少女は生きている。
 服を裂く以外は体当たりを繰り返してくるだけで、致命的な一撃がない。
 それは少女にとって、幸運なことであった。けれど、言い知れない恐怖が少女を縛り、精神的に追い詰めていく。

「なんで! おまもりがあるのにっ!」

 震える手で、服の中に入れておいたおまもりを取り出し、妖獣にかざす。それでも、体当たりは止まらない。
 むしろ抵抗するそぶりを見せたことで攻勢は激しくなるだけだった。

『なんで? なんで!』

 心の中で叫びながら、地面を這って逃げようとした。
 竹に掴まって、少しでも永遠亭に近づくように。
 しかし、獣は着物に噛み付き、それさえも許さない。
 少女は自分の身を守ってくれないおまもりを、恨めしそうに見つめて……

「あはは……」

 消え入りそうな声で笑った。
 負けるもんかという意志で、せき止めていたはずの涙が零れた。
 出かける前の決意がすべて崩れ去って、次から次と、瞳から流れ落ちていく。

「……家内、安全、だって、あはは、あはははっ……」

 悔しかった。
 一人で粋がって、確認もせずに出てきた自分の愚かさ。
 おまもりに書かれたたった四文字の漢字に、それを思い知らされた。

『もう助からないよ』

 世界から、そんなことを告げられた気がして。
 握り締めていたガラクタを投げ捨てた。
 それが少女の最後の抵抗で、逃げようとしていた全身から力が抜けていく。地面の上で仰向けになって、呼吸をするだけになった少女。
 それを確認した獣は、やっと、その柔肌に牙を向け。
 鮮血の花が、竹林の中に――

「……悪いけど、私の前でそれは無し」

 咲くことは、なかった。
 がさり、と。地面が音を立てた途端、妖獣は慌てて少女から飛び退き、新たな影に向けて威嚇の声を飛ばした。
 背中から妖獣の気配が消えたことを感じた少女は、慌ててその身を起こす。すると、そこには人里ではあまりみない少女が立っていた。倒れている少女よりも、少しだけ高いくらいの身長で、顔つきはどこか幼さを感じさせる。ただ、最も目を引いたのは……

「ほら、立てる?」

 年齢には分相応な、白く長い髪。
 その髪をふわり、と。なびかせて、少女は倒れている少女に手を伸ばす。
 だから、倒れた少女は……

「近寄らないでっ! この妖怪っ!
 あなただって私を食べるつもりの癖に!」

 その手を強く弾いた。
 興奮を抑えようともせず、ただ、感情に任せて。
 それでも、目の前の少女は困ったように微笑むばかりで。

「私は妹紅、迷いの竹林の案内役なの。人里で勉強しなかった?
 でも、妖怪っていわれても仕方ないかな。だって、ほら」

 笑顔を貼り付けたまま、右手を上げ、炎を生み出す。
 
「こんなこと、人間には出来ないからね」

 それをくるりっと、指先で回した。
 本当にたったそれだけだったというのに、さっきまで威嚇の声を上げていた妖獣が高い鳴き声を響かせながら、竹林の奥へと逃げていってしまう。
 何故殺さないのか、と。少女の攻めるような瞳が飛んでくるが、

「妖獣っていうのは、動物の群れのリーダーとか親代わりだ。あいつがあんたをすぐ殺さずに弱らせたのも、近くにいる仲間の子供に与えるため、狩りを覚えさせるため。あいつが死ぬと、他の動物のグループの縄張り争いで負けて、種族自体が消えることもある。ここまでいえばわかるでしょう?
 人里の外にまで人間の理屈を持ち込むのは、お門違いよ」

 冷静な言葉と、獣の姿が消えたことで、多少は落ち着きを取り戻したのか。
 少女は震える体を起き上がらせながら周囲を見渡し、再び妹紅の方へと意識を向ける。
 すると妹紅は少女にもう一度手を伸ばした。

「そんなことより、行かないの? 永遠亭まで案内するよ。子供が一人で歩けるような場所じゃない」

 子供、と言われて一瞬むっとする少女だった。しかし、自分の身なりと、さきほどのことを思い出し、しぶしぶながら手を握り返した。

「……お願いします」


 この妹紅という少女が信用できるかどうかの葛藤もあったのかもしれない。だが、それでも少女は妹紅を信用することを選んだ。
 そうしなければ、辿り着けないと理解したのだろう。

「それと、さっきは……ありがとうございました……」
「どういたしまして」
「……?」
「どうかした?」

 ちょっとだけ、意地を張って感謝の言葉をぶつけるが、妹紅はそれを受け止めて穏やかに返す。
 その仕草がまるで養母、いやそれよりも年を数えた大人のように見えて。少女はパチパチと目をしばたかせた。
 落ち着いているからということもあるだろう。
 ただ、それ以上に達観しているという言い方が合っているかもしれない。
 もしそれを悪意を込めて表現するなら、すべてを諦めてしまったかのような……

「何もないなら急ごう。日が暮れる前に人里に帰りたいよね?」
「あ、はい……」

 考えを見透かされたような気がして、少女は慌てて妹紅の後を歩いていく。
 たったそれだけしか変化がないというのに、妖怪の妨害は一度もなく、少女が予想していたよりもずいぶん早く永遠亭に到着した。
 帰りは親切な兎にでも案内してもらえばいい、そう妹紅が伝えた後。少女が感嘆の声を上げ、頭を下げようとした。
 しかし、その額を妹紅が止める。
 
「おっとっと、ありがとうはさっきので十分だから。
 それでも、私に感謝したいっていうなら、そうね。
 あなたの名前……、ううん、苗字だけでも教えてもらおうかな」
「苗字……」

 普通、その程度のことならあっさりと答えるはず。
 しかし少女は、何故か少し迷ってから。

「稗田、です」

 昔は良く誰かから聞いたはずの家名。
 それを聞いた妹紅は、どこか懐かしい風を感じた。







「どうだろうね、相手の実力がわからない以上。自分の身に危険が及ぶかもしれないことを必ずやるかと言われれば、はっきり肯定は出来ないと思う」

 正直に答えて欲しい。
 と問われ、霖之助は竹細工を作っていた手を止めて、素直に答えただけ。
 だというのに、

「私が、襲われたって言った!」

 なんだろうか、この威圧感。
 仕事棚兼会計用の棚、その横で椅子に座る稗田家の少女はさっきまで目を通していた本をぶんぶん振り回して、お怒りのご様子。
 YES以外の選択肢を与えられていないような言い方に、霖之助は呆れることしかできなかった。
 ちなみに、振り回している本は売り物であることを付け加えておこう。さらに、その振り回す手がもう少し傾くと、段々に詰まれた商品に当たって大惨事になりかねないということも。

「こんなに可愛らしい脅迫は初めてだ……」

 棚の上に肘を置き、やれやれと言った様子で顎を押さえながら眼鏡を上げる。

「何をぶつぶつ言ってるの!」
「はぁ、君が襲われていたと言うなら、助けていたかもしれないね。そう言おうとしていただけだが、それでいいかい?」
「心がない!」
「悪いね、僕は危険なものにはできるだけ近づかないようにしているんだ。だから、不用意に襲われる側の心境もわからないし、それを救う側の心境もイマイチ理解できない。
 それにだ、人に文句を言う前に、反省と言うものをしたのかい? 君は?」
「……う」

 霖之助さんも同じことを言う。
と、つぶやくと、背中を丸めて小さくなってしまう。おそらくは、母親にも散々しかられたのだろう。
 稗田家の当主となると、今は阿求ではなく次の代の阿祷(あと)。
 転生を繰り返し、歴史以外の記憶は失うのが稗田の投手の宿命ではあるのだが、やはり元が一緒であるため、性格はそっくり。
 もちろん、その怒り方(叱り方)も似ており……

『閻魔様に嫌味を加え、容赦を引いたらこうなる』

 と、人間の中でも恐れられるほど。
 
「私だって、母さんの役に立つって見せたかっただけ……、妖怪の知識だってちょっとだけあった……」
「阿音、君はまだ若い、阿祷から見ても、僕から見てもね。そんな未熟者が一人で人里の外へ出たんだ。たったそれだけで家族がどれだけ心配するか」

『また母さんみたいな』と言いかけて、阿祷の養子である阿音(あのん)が、一端口を閉ざし、ため息を吐いた。

「この店にもあまり行くなって言われた」
「人里の外に出ることを嫌がってるんだろうね、当然の判断だよ」
「……うん、そういうことも言われたけど」

 歯切れの悪さが、阿音の迷いを示していた。
 ただ、それなりに長く生きてきた霖之助はその態度でおおよそのことを掴み取ってしまい。

「僕が半分妖怪だから、心配もするさ」
「うん……でも……」
「妖怪に襲われても、アレは一緒なのかい?」
「あはは、全然治らない」

 阿音が香霖堂に遊びに来るようになったのは10歳を回ってから。一度、阿祷と一緒に店を訪れてこの場所を知ってから、一人で来るようになった。もちろん、妖怪避けのおまもりを握り締めて。
 もちろん、そのままおまもりをつけていたら営業妨害になりかねないので、到着した後は店の奥に一端片付けるようにはしていた。
 しかし、お金も物々交換用の物品も持たず、店内でじーっとし手いるだけの人間。そんなものを霖之助が由とするはずがなく、過去にこう尋ねたことがある。

『何のつもりでこの店にやってくるのか』

 そしたら、阿音は不思議そうな顔で。

『わかんない』

 と答えたのだ。
 それは4年経った今でも変化がないらしく。

「なんとなく、落ち着くから……」

 たったそれだけの理由で、店にやってきている。
 嫌なことがあった今でも、そう思えてしまうらしい。

「しかし、今日ばかりは早々に切り上げたほうがいいと思うよ。阿祷に雷を落とされて出入り禁止になりたくなければね」
「……わかった。じゃあ、また今度」
「ああ、今度は良いお客として来てくれることを祈るよ」

 そんな可愛らしいお客が、とぼとぼと帰ってしばらくした後。
 霖之助はふと、周囲を見渡した。
 何かが変だと一瞬感じたはずなのに、商品の並びは変化していない。何かの拍子で物が倒れたというわけでも、なくなったわけでもない。
 店の中は何も変わっていない、そう結論付けても、しこりとして胸の中に残る疑惑は中々晴れず。

「……はは、老いたね、僕も」
 
 老いによる身体の不調。
 そう解釈した霖之助は、再び道具作りに専念し始めた。





 ◇ ◇ ◇





 妹紅は、布団の上で体を起こした。
 ボロ家と言われてもしょうがないほど痛んだ家の戸を掴み、力任せに開ける。荒々しい音と同時に家全体が揺れるが、そうでもしないと戸が中途半端な位置で止まっていまう。
 慧音からは、いつも注意されていたっけ。

「……さて、今日は」

 何をしようか、と。
 今日を過ごすための目的を探してみるが、てんで出てこない。
 何せ、昨日輝夜といつもの死闘を繰り広げたばかりなのだ。いくら復活するとしても、毎日昼も夜もなんて節操無しにやるつもりもない。
 このうだる様な暑さも思考を鈍らせる要因だろうか。
 ならばいつもの竹林警備隊をやるしかないか、日陰も多いし。と、気だるげに伸びをして、それなりに身なりを整えたところで、神棚近くにある奇妙な形の帽子に目が移った。
 それを見て、ぼーっとしていたら、急に竹林の中に風が流れて、折れた枝が妹紅の頭にコツンっと当たった。

「……あ、ごめん。忘れてたよ」

 まるで、それが旧友の怒りに思えて、妹紅は笑った。
 珍しく、腹から声を出して笑った。
 そうと決まれば早速準備、と妹紅はてきぱきと準備を始める。
 桶はある、柄杓もある、後は花と……アレか。
 夏だから花は野山でなんとかなるにしても、やはりもう一つはどうしようもない。

「えーっと、気まずいけど、あいつのところに行ってみようかな」

 昨日の戦闘の影響で少しだけ焦げたリボンをいじりながら、妹紅は身軽に竹林の中を飛んでいった。




 ◇ ◇ ◇




「……あんなに怒らなくてもいいじゃない」

 永遠亭で例のアレ、線香が余ってないかと受付の鈴仙に尋ねたら。ものすごい剣幕で怒られた。去年はくれたと説明しても、そうそう毎年縁起の悪いものを病院に頼むな、と。 
 なので仕方なく人里までやってきたというわけだ。
 年に数回、山菜やタケノコを届けにやってきているので入り口まで入ることも多いが、中心部まで入るのはおおよそ百年ぶり。積極的に足を運んでいた時期から数えれば、百数十年は経つだろうか。
 それでも知った顔はまだ残っていて、妹紅を見つけると挨拶をしてくれるものも多い。ただ、その誰もが人外の部類だ。人里で顔見知りが人間以外という、面白さもあったが、それ以上に竜宮城から帰った浦島太郎の気分だった。
 ただ、家々は二階建ての建物が少し増えてはいるものの、建物の位置関係があまりずれていないのは幸いだった。おかげで霧雨道具店をすぐに見つけることができたし、加えて持ってきた竹炭との交換で少々金銭も得ることができた。
 これならば、奮発して花も買ってしまおうかと、散策を兼ねて人里の中を歩いていたら。

「もう、百年か」

 そんな呟きが口から漏れていることに気付き、妹紅は自嘲気味に笑う。
 人間というより、あまりにも妖怪よりの言葉だったから。
 さすがに人里の中では人間らしくしようと、気を張って歩いてみるが、ふと、無意識に足が進んだ場所でまた口にしてしまった。
 
「いや、もうちょっと長かったかな……」

 同じような呟きが漏れたのは、元気な子供たちの声が外にまで聞こえてくる場所。見知った顔のあるはずがない、寺子屋の前だった。
 お盆を過ぎて線香を買いに行っている自分とは大違いの真面目さだなと、感心して耳を傾けていると。
 
『せんせー、さよーなら!』

 元気の良い声と一緒に、子供たちが出てきた。
 雲の子を散らす勢いで。
 それに遅れて出てきたのは、先生だろうか。初老の男性が手を振りながら子供たちを見送っている。
 ただ、妹紅の視線はその横に立つ青い着物の少女に向けられていた。
 どこかで見たことがある気がしたからだ。
 黒い髪の毛の中に独特の青が混ざる長髪。そしてどこか真の強さを感じさせる、まだ幼さの残る顔。
 それをじっと見つめていたら、相手も妹紅に気付いたらしく。
 手を振りながら近づいてきた。

「こんにちは、妹紅さん」
「こんにちは」
 
 声も聞いたことがある。誰だろう。
 腕組みして首を捻る妹紅からそんな空気を感じ取ったのか、少女が自分の顔を指差した後、胸元にある名札を指差した。
 妹紅は示されるまま視線を動かし、

「稗田……」

 そう自分の声でつぶやいて、やっと記憶の中のもやが消え去った。

「ああ、少し前に私が助けた子か」
「少し前って、もう3年くらい経つよ」
「……ああ、それで」

 妹紅はその年月を聞いて納得する。
 記憶の中ではすーっとした体型だったと思うのに、ずいぶんと女性らしい輪郭が見えていたから。
 それに、あのときは妹紅が下を向きながら話していたが、今は妹紅が少し顔を上げないといけないほど身長が伸びていた。
 寺子屋にいる長身の女性。それだけで思い出と重ねてしまうのは悪い癖だと自分に言い聞かせながら、妹紅はぱちぱちと手を叩く。

「その若さで先生なんて、すごいじゃない」
「……えーっと、それが」
「ん?」

 もう一度、稗田阿音と書かれた名札をよく見ると、名前の下に小さく『見習い』と書いてあった。

「……覚えるの、苦手で」
「え? でも稗田って」
「あー、私、養子であの家にもらわれたらしいんです。小さい頃に」

 稗田家の人間の発言としては信じられないものだったが、血の繋がりがないのなら仕方ないのかもしれない。
 それに血を引いているのなら、もうちょっと背が低くて寸胴な……
 と、正直に考えてしまっていた。

「そうか、3年か。あなたも良く私のこと覚えてたわね」
「ええ、助けてもらった後、母に聞いてみたら。この人のことかって、絵のついた歴史書で教えてもらったので、それで印象が強かったのもありますが。
 何より、妹紅さんの姿が昔と全然変わっていなかったので」
「……そっか」

 妹紅は、短い言葉で会話を切り。
 一端目を伏せてから、

「ところで、花屋の場所を知らない。昔の知り合いに花を贈りたいの」
「ああ、それでしたら。あっちの突き当たりのところのお花屋がお勧めです。種類も数も多いので」
「ありがとう」

 それだけ言い残して、妹紅は逃げるようにその場を後にする。
 さようならという挨拶にも、振り向かず手を振って応えるだけだ。
 そうして、角の花屋までやってきたところで、かくんっと肩を落とし、

「……変わらない、か」

 寺子屋の前で言われただけで、動揺した。
 そんな未練がましい自分の両手を眺め、そこに握られていた今の全財産を花屋の店主に押し付けた。

「どういった花を?」

 すると店主は、いくつかの花を指差すが妹紅の答えは決まっている。

「これを買えるだけ全部」

 薄水色と白が混ざった花弁を持ち、凛と空に向かって立つ。
 名前すら知らない花を指差した。





 ◇ ◇ ◇





 お盆がすんで、暑さが佳境に入ったある日。
 夏だというのに蝉すら鳴かない静かな竹林の中に妹紅の影があった。
 白銀に輝く鉈を右腕に携えて見据えるは、聳え立つ緑の壁。
 その壁の圧倒的な存在感は、竹の扱いに慣れた職人すら身を引いてしまうほどだ。それでも、妹紅は空中へと軽く飛び上がり。
 自由落下に任せながら腕を縦横無尽に動かす。
 その度にいくつもの閃光が、妹紅の眼前に生まれては消えていく。
 人の技法とは思えぬほどの早業を見せつけ、妹紅が地面につま先をつけた瞬間。

 コン、コロコン、

 切られたことをやっと理解した竹たちが、刻まれたその身を地面の上に晒していく。それを何の感動もなく眺めつつ、3尺ほどに切り揃えた竹を手早く巨大な風呂敷に包むと、空へと飛び上がった。
 竹炭にするために切ったわけではない。
 
「例のもの、持ってきたよ」

 注文があったから、わざわざ持ってきただけだ。
 香霖堂の裏口にその荷物だけを置いて、正面から店に入る。
 そうすると、無愛想な声で。

『代金ならそこの商品棚の一番右に置いてあるよ』

 などという『勝手に持って行け』と言わんばかりの声が返ってくるのだが。
 この日は違った。

「はい、どうもありがとうございます。荷物の方は裏口に回してほしいとのことでした」
「ああ、いつもどおり置いておいたよ、って……」

 何故か高い声が店の中から響いてきて、霖之助よりも少し小さいくらいの幼さの残る少女が精算所の中に立っていた。
 しかも、服が霖之助のものと似ている。
 となるとまさか……

「あれ? ここの店主って、着痩せするタイプだっけ? しかも女性だなんて」
「……何を言ってるんですか、妹紅さん」
「……えっと?」
「私ですよ、私! 稗田阿音!」

 短い声を漏らし、妹紅はぽんっと手を叩く。
 まさしくその女性は少し前に人里で会話した阿音だった。
 青黒い長髪と、服の色が揃っている着物とはまた違う雰囲気を醸し出す洋服。それが彼女を別人に見せていたのかもしれない。
 そんな錯覚に驚かされる妹紅ではあったが、目の前の阿音が目的の人物ではないことは確かであった。

「店主は、どこに?」
「ここにいるよ」

 妹紅は声に誘われるがまま、店の中に入り、周辺を見渡すがどこにもその姿がない。
 あるとすれば、山のように積まれた荷物と、なんだかよくわからない等身大のぬいぐるみくらい。
 ああ、こういうの子供が喜びそうだなと、しばらく妹紅が眺めていると。

「ここにいるよ」

 くぐもった声で、もう一度。
 ぬいぐるみが、しゃべった。
 
「新手の妖怪?」
「僕自身半分は妖怪だけどね。新しいとは言いにくい。とにかく、ちょっとした頼みがあるんだが」

 ナズーリンとかいうネズミの妖怪をもうちょっとネズミっぽくして、黒く染めたらこんな風になりそう。
 そんなぬいぐるみが狭い店の中で器用に向きを変え、背中を妹紅の前へと突き出した。

「君の妖怪じみた力で、この金属部分を下におろしてくれないか。どうやら壊れてしまったみたいなんだ」

 そうやってしゃがみ込んだ巨大なぬいぐるみ。
 妹紅はそれをじっと見下ろして。

「……てっとり早く燃やす?」
「できれば生還させてもらいたいものだよ」

 慌てて阿音が止めるのを見て楽しそうに笑いながら、金属のギザギザ模様を掴み、おもいっきり引きちぎったのだった。





「ありがとう、生きている心地がしなかったよ。蒸し風呂のようだった」
「一体なんなの、アレ?」
「『人間が身に着けるもの』という品物だというのはわかった。しかし、もしかしたら季節限定の拷問器具だったりするのかもしれないね。中から開けられなくなるなんて。
 興味を引く外見は残酷さを軽減するためのカモフラージュの可能性もある」
「古くて壊れただけじゃないの? 霖之助は珍しいものや変なものを持ってくる癖があるけど、品質はそこまでこだわってない気もする」
「阿音くん、変なものは余計だよ」

 汗だくの服を着替えて再登場した霖之助と阿音の会話、それを不思議そうに妹紅が眺めていると、それに気づいた霖之助が声を漏らす。

「ああ、彼女かい? 彼女は寺子屋の先生見習い兼、こちらの手伝いをしている稗田家の」
「名前と顔は知ってる。人里でも外でも見掛けたこともあるし」
「そうだったのか。とにかく、社会勉強の意味合いで働いてもらっているというわけだよ」

 そう言いながら霖之助は畳んだ風呂敷を妹紅へと返す。どうやら着替えるためだけに奧へ引っ込んだわけではないようだ。

「相変わらずいい竹を持ってきてくれるね。もう少し乾燥させてから使うことにするよ」

 併せて、竹の代金を入れた麻袋を手渡そうとするが、その手を妹紅が止めた。

「私の山から持ってきた訳じゃないからお代は気にしないで。この前も奮発してもらったし、どうしても払いたいなら竹林に昔から住んでる兎にでも渡しておけばいいんじゃない?」
「生憎、健康状態は万全でね。足を運ぶ予定もない。それに君から恩を受けるといつでも返せるという甘えが出そうだ。もうしばらくお世話になるだろうから今回は受け取ってもらえると助かるよ。
 親しき仲にも礼儀ありというからね。ならば、客と販売者の関係なら礼儀はさらに重んじるべきだ」

 そういうことならば、と、妹紅は素直に麻袋を受け取った。
 
「じゃあ、また今度」

 それ以上世間話もすることがない。するにしても霖之助は道具についてしか饒舌にならない。妹紅は片手を上げて軽く挨拶をしてから、風呂敷袋を脇に挟み、もんぺに手を入れて香霖堂を後にする。その手の中には先程受け取った麻袋が、ジャラジャラと鳴り自己主張を繰り返していた。
 別段貯金をしてまでも欲しいものがないのだから、このまま家に戻っても邪魔にしかならない。周囲を見渡しても平地や原野が広がるばかりで道中に茶屋などあるわけがない。身を軽くする場所があるとすれば、道が繋がっている人里くらい。
 持っていてもしょうがないから酒でも買おうか。
 そう思って、人里へと足を向けたところで、

 とんっと、

 誰かに肩を叩かれる。

「妹紅さん、どちらまで?」

 うつむいて歩いていた体を少し起こして振り返れば、さっきまで香霖堂にいたはずの阿音がすぐ後ろに来ていた。
 周囲の妖怪に気配を配っていると人間の気配が読めなくなるのが問題だ、と。
 妹紅が自分の感知能力を再認識している間も、阿音は話し続けている。
 それで、妹紅の反応が薄いのが気になったのか。

「あの? どちらまで?」

 答えを聞けなかった問いかけをもう一度。
 仕方なく妹紅が人里だと答えると、

「じゃあ、ずっと前みたいに護衛をお願いしようかな」
「ずっと、前……ね。まあ、いいよ。行く方向が同じなら一緒に歩いても問題ないだろうし、飛んだ方がいいならそうするよ?」
「……飛べたら楽しい?」
「わかった、歩こう」

 妹紅が歩き始めると、何が楽しいのか阿音もすぐ横で手を振って歩く。しかしそれが何処かぎこちない。妹紅の前に出たり、後ろに下がったりを繰り返していた。
 不審に思った妹紅が阿音の足元を見れば、無理矢理歩幅を小さくして歩いているのがばればれで……

「まったく」

 仕方なく妹紅は歩幅を大きくして歩き始めた。

「あはは、ごめん……そういうの不器用で」
「不器用って、寺子屋の先生と道具屋の手伝いがよく務まるね」
「手先は大丈夫!」
「それならいいけど」
「あ、そうそう、そういえば妹紅さんって……」

 どこに住んでいるのか、どんな仕事をしているのか、好きな食べ物は何か、嫌いな食べ物は何か。
 歩を進める度に、そんな質問が矢継ぎ早に投げかけられ、表面では平静を装いつつも心の中で頭を抱えた。
 妹紅も別段会話が苦手というわけではないが、この阿音からこれほど質問を受けるとは思わなかったのだろう。
 
「阿音って結構おしゃべり?」

 自分のことがそんなに気になるのか。
 そんな意味合いが強かったが、それを口に出すのは止めて妹紅は別の言葉を選んだ。単刀直入に聞くのが少し意識過剰にも思えたからかも知れない。
 妹紅の内心を知らない阿音は、唇に人差し指を2回触れさせて、うーんっとうなる。

「恥ずかしいけど、やっぱり人里の外だと心細いから。静かになるのが嫌で話しかけてるのかも」
「……沈黙が嫌ってやつかな?」
「そうそう、二人で何も話さずに静かに歩いてるときに、その辺の茂みから、ガサって何か出てきたら怖いじゃな――」

 ガサッ

「はうっ!」

 にゃーご、と。
 阿音をその場で飛び上がらせた犯人は、一瞬びくりっと小さな体を震わせてから、驚かせるなと言わんばかりに去っていく。
 それを見て胸を撫で下ろす阿音であったが、

「あ……」

 新たな問題を見つけて、固まった。
 当然、その本人も異変に気づいたようで。

「……猫、みたいだけど?」
「……猫、でしたね」
「……リボン解けたんだけど?」
「……リボン、とれちゃったね」
「……誰かが頭に捕まったのが原因みたいだけど?」
「ごめんなさいっ!」

 背筋をぴんと伸ばしてから、上半身を急降下。その角度約90度。
 風を切る音がするほどの速度で頭を下げた阿音は、阿音はまだしっかりと右手に握られたままのリボンを勢いよく差し出す。
 妹紅はため息をつきながらそれを受け取るが、それ以上特に攻めることもなく。また人里へ向かって進み始める。

「あ、あああああっ!」

 阿音の悲鳴を背中に聞きながら。
 ただ、それでも妹紅は気にせず進もうとした。

「髪の毛がっ!」

 と、そこでやっと阿音の悲鳴の意味を理解し、振り返って足下を見てみる。
 すると、毛先が少し茶色になった自分の髪の毛が地面の上で無惨に広がっていた。元々長い髪の毛であったため、一番大きな後頭部のリボンの崩壊に伴い、地面まで垂れ下がったと言うことだろう。

『ああ、いつもの(殺し合い)に比べたら対したこと無い』

 と、言い返そうとした。
 そのときだった。
 妹紅の背中に悪寒が走ったのは。

「妹紅さん!」
「え?」

 がしっと、後ろから両脚のふとももあたりを掴まれた。
 そう思ったときにはもう遅く。

「え?」

 再度疑問の声を上げたときには、妹紅の下腹部、はっきり言えば股の下に阿音の頭が入り込んでいた。
 そしてそのまま、リフトアップ。

「っ!? ちょ、ちょっとぉおおっ!」

 声が裏返るのがはっきり分かった。
 能力を使っていないのに体全体が熱くなり、特に顔のあたりは汗が蒸発寸前であった。じたばたと両腕でもがいても、すでに足は地面を放棄しているため、大した抵抗にも成らない。
 まさしくそれは、肩車であった。
 お嬢様だっこじゃないだけまし、などと言っている場合じゃない。

「これで髪は汚れない!」
「ちょ、駄目だって! 放して! 飛べる! 私、飛べるから!」
「気にしなくて大丈夫! 私、体力無いけど、妹紅さん軽いから!」
「体力とか重いとか軽いとかの問題じゃない!」

 一般的な乙女にとってはそっちも問題かもしれないが、そんなこと気にしていられる状態ではない。
 確かに、年齢的に見れば、4桁を越えるおばあちゃんだ。
 若い者に背負われても不自然ではない。
 が、蓬莱の秘薬を飲み、見た目がある程度成長している妹紅にとってみれば……

「さあ、人里まで急ぐよ!」
「駄目! ぜったいだめぇぇええっ!」

 いい年の女性が肩車状態で人里を回る。
 まさしく拷問に等しい行為であった。
 けれど抵抗しようにも相手はただの人間、能力を使ったり本来の力をぶつけられるはずもなく。

「やめてぇぇぇええええっ!」

 最後の頼りの野良妖怪も妹紅の奇声を警戒してまったく寄りつくこともなく。
 妹紅は……『無事』、人里の中の……
 稗田家へと、たどり着いたのだった。



 髪の毛と同じように、全身真っ白になった状態で……





 ◇ ◇ ◇





 どんっと、妹紅が畳を叩いた瞬間、机と同時にその小さな姿もわずかに飛び上がる。

「まったく、どういう教育してるのよ!」
「人様に迷惑を掛けず、思いやりをもった女性になるよう育てております。今日はその思いやりが、まさしく重い槍となって妹紅さんの胸に突き刺さったという不幸な事故なわけで……あ、おもいやり、おもいやり……」
「……」
「おもしろかったら、このネタ使って頂いても結構ですよ?」
「誰が使うかっ!」

 二回目の叩きつけで、危うく倒れそうになった墨汁の入れ物を押さえた。
 稗田家に連れ込まれた妹紅は放心状態になっているうちに屋敷の使用人たちによって服を脱がされ、髪を洗われ……
 気が付いたら、客人用の敷き布団の上に寝かされていた。
 目を覚ましてからしばらく天井を眺め、そしてゆっくりと見渡しながら、質素な部屋だと正直に考えていたら。
 畳の上でにこやかに座る、当主の阿祷と目があって現在に至る。

「落ち着いて下さい妹紅さん。まずは挨拶に、はじめまして、というべきなのでしょうが。私の中の知識はすでにあなたを知っていると私に告げてくるので、こんばんは、という形でもよろしいでしょうか?」
「こほんっ! 私もはじめましてって言うべきなんでしょうけど、阿求そっくりのあなたに言うのも何か変な気がするから、こんばんはからでいいよ」

 初対面だが、知人。
 不死故の知識と、転生者故の知識、それが不思議な空気を場に満たし、敬語で話すのもばかばかしく思えてくる。
 けれど、そんな雰囲気だからこそ何気なく尋ねることができたのかもしれない。

「あの子って、養子なんだって?」
「ええ、まあ、稗田家始まって以来のことと父から大目玉でした」
「何歳で引き取ったのよ」
「私が14で、あの子は3つだったかと」
「そりゃ反対するわ……」

 若過ぎる。
 阿祷の父親もそう思って反対をしたのだろう。
 
「加えて、私には転生までの100年程の間に溜まった歴史をまとめるという大役もありますし、子育てと両立ができないと考えたのでしょう」
「でも、現実は違うってことね」
「ええ、母が賛成してくれましたから」

 阿祷の母は、彼女のように運命に縛られてはいない。ただの稗田家の姓を持つ女性なだけ。その子が歴史を繋ぐ血族の転生先に選ばれただけ。
 そう語る阿祷の表情は穏やかなままであったが、妹紅は何故かその表情がまるで別物に見えて仕方なかった。
 さっきまで、馬鹿馬鹿しい駄洒落も言っていたというのに。
 そんなものなど、彼女の中から消え去っていた。

「字の見書きができるようになってからでしたか。私が転生者であることを、稗田の本当の当主の器であることを母に告げたとき。そのときの母の落胆振りは、見ていて痛々しいほどでした。
 ごめんなさい、と。理由無く私に謝ることが日課になった。父はそんな母を慰め続けて白髪が増えていって。
 あ、すみません、逸れてしまいましたね。
 そういった経緯があったせいか、寿命のことを含めて、子供を産める体ではないことを知っているせいか。母はせめて女性として産まれたことの喜びを教えたかったのかも知れません。そんな母の説得もあって、阿音は無事、私の娘となったわけです」
「……ふーん、それって、愚痴?」

 思った以上に刺々しい返しになったことを、妹紅自信が驚いていた。
 阿祷にとっては状況説明のために簡単な昔話を付け加えただけだったのかも知れない。それでも、寿命や子供、そして成長するという命の流れを見せつけられた気がして……
 自分でも嫌になるくらい気分が悪くなってしまっていた。

「ええ、妹紅さんになら愚痴ってもいいかなという甘えはあります。いけませんか? 年長者ならそれくらいの余裕を持つべきです」
「うーわ、こういうときだけ年寄り扱いなわけね」

 だからだろうか、阿祷のちょっと怒った様子の返しが、純粋にありがたかった。
 外見以上に年齢を重ねた阿祷が親にも、娘にも、当たることが出来ない。
 そういったことを素直にぶつけてくれたことで、対局でありながら同じ悩みを持つ者として分かり合える気がしたから。

「……でも、初対面なのよね、私たち」
「ええ、本当に。
 できれば、今後もいろいろなお話が出来ればいいのですが……、私の齢も、もう28を数える頃になってしまいました」

 転生者として選ばれた者は、ほとんどが齢30を越えることがない。
 慧音から人里の歴史を聞いたことがある妹紅は、そういった事情もわかっていた。30に近づけば転生の準備のため、意志のある人間として扱われなくなることも。
 それでも阿祷はそんなことよりも大事なことがある、と。目を伏せる。

「お恥ずかしながら、親馬鹿のせいで阿音の伴侶すら見つけられていない状態で」
「そういうのって、子供が勝手に探すものじゃない? 昔みたいに、政略結婚みたいのはないと思うし」
「おお、藤原妹紅さんが言うと、重みが違いますね」
「そこ、茶化さない」
「そうですね。あの子が誰かを好きになって婚姻を結ぶのが幸せなことだと、わかっているつもりです。しかし、どうやらあの子は……困った方に恋心を抱いている可能性が……」
「困った方って、あっ」

 誰? と聞こうとして、妹紅の中である一名の男性が浮かんでくる。
 阿音が寺子屋の合間に、危険を承知で出入りしている場所。
 それ以上のことを知らない妹紅にも、そういった感情がなければ出入りするはずもないことが理解できる。

「……あの人の側にいると妙に落ち着く、と」
「大当たりよね、それって」
「どうしてこう、私の家系は寿命と種族問題が大好きなのでしょうか。同年代の人間だけでなく親しくない人間や妖怪と一緒にいると、緊張して何も言えなくなるような情けない娘で……敬語もなかなか抜けないのも親しくなりにくいところかと」
「あー、そりゃこまっ……はい?」

 阿祷の言葉の中に聞き捨てならない言葉が含まれているのに気が付き、妹紅はずいっと阿祷に詰め寄った。

「あの娘のどこが緊張するって? しかも敬語とか」
「え? 言葉通りですが?」
「私は阿音と2回、今日を含めて3回しか会ってないのに、めちゃくちゃ質問攻めにされたんだけど、しかも結構軽い口調だったよ」
「あら? それは珍しいですね。それだけ妹紅さんが親しみやすいように……
 見えませんよね、普通」
「どういう意味よ」
「いえ、外見から見ても……、どっちかといえば不良……」
「初対面でそういうこと言うっ!?」
「ええ、初対面ですね」

 とにかく、妹紅が好かれてしまったという結論しかでない。
 命の恩人という立場もあるのかも知れないと、阿祷から指摘されて、確かにそうかもしれないと妹紅は首を縦に振った。

「まあ、これで私に何かあったときに頼れる方が出来たというわけで……」
「あまり面倒を押しつけないで欲しいわね。私があえて人里に近寄らない理由だって、過去の文献で知っているのよね?」
「それはやはり、私たちの方があなたより先にいなくなってしまうからですね」

 また初対面でそういうことを。
 そうやって切り返しても良かった。
 しかし、妹紅はじっと阿祷の目を見据えて。

「あなたも怖いよね?」
「何がです?」

 穏やかな笑顔を貼り付ける阿祷に、語りかけた。

「私は必ず見送る立場で、あなたはその逆。
 愛すべき家族から見送られなければいけない。
 だからそれが間近に迫ったときの恐怖も、羨望も、対局である私にはわかる。
 それに今度は初めて娘を残さなければいけないんだものね。
 その恐怖は歴代の誰もが経験しなかった……」
「……」
「だから、棘があるのはわかるけど阿音にぶつけないようにね」
「私は、別にそのようなことに怖さなど!」

 初めて、阿祷が声を荒げた。
 そのときに腕を打ち付けた机が傾いて、墨汁が畳の上に散らばっても、お構いなしに。
 けれど、妹紅はそんな様子を悟った瞳で見つめ続ける。
 まるで過去の自分を見るかのように……

「意地を張って、親友の最期を看取らなかった。そんな馬鹿みたいにはなるな。
 たったそれだけの忠告だから」
「っ!」

 その言葉で、阿祷は石像のように動きを止めた。
 その知識は、歴史の中になかったから。
 歴史の中に残っていたのは、妹紅には親しい慧音という半人半獣がいたことと、慧音という人物が人間や妖怪に見送られる幸せな最期だったということ。
 歴史の陰で動く心理など、覗けるはずもなかった。
 それなのに、阿祷はわかった気になっていて……

「……すみません、もう少しだけ。あなたのお話を聞かせて頂いてもよろしいでしょうか?」

 使用人に酒を準備させると、阿祷は盃を渡す。
 そして一礼し、人生の先輩に一献注いだ。



 

 ◇ ◇ ◇





 生きるべきか死ぬべきか。
 妹紅は純粋に考えていた。
 自由にならない身体を布団の上で悶えさせて

「……頭、痛い」

 重い二日酔いの症状から解放されるために、一回リセットするべきかと。
 割と、本気で。
 おそらく明け方まで飲んでいたと思うのだが、記憶は曖昧。
 身体は倦怠感を訴え続け、下手をすると胃の中の何かを逆流させかねない。
 ものを考えるのも億劫な中で、四半刻ほど掛けてじっくり現状を確認した結果。
 ひとつ、現在妹紅がいるのは稗田家の客間のような所。
 ふたつ、移動した記憶がないので、使用人に運ばれた。
 みっつ、障子で締め切られているため、室内の気温が高い。
 よっつ、室温と差し込む光の角度からして、昼近く。
 いつつ、阿音が布団の横で正座して妹紅を見てる。

「おはよう!」

 そして、笑顔でこの大音量である。
 妹紅に痛恨の一撃。

「こんにちはの時間だけど!」

 さらに、追い打ちで一撃。

「うん、わかったから……、そっとしておいてぇ……」

 自分を炎で焼かなくても、このまま阿音にとどめを刺されるかもしれない。
 妹紅は敷き布団の上で弱った芋虫のように身をよじった。
 それでもまだ阿音が口を開こうとしていることが気配でわかってしまったので、仕方なく妹紅は顔だけそっちに向ける。
 とりあえず、声量を落とすようにと念を押して。

「……寺子屋の手伝いは?」
「今日は満月だから休み。昨日早めに切り上げて妹紅さんと一緒に帰れたのも、満月の一日前だったから」
「あー、そういうことね……」

 何か用があって妹紅に着いてきているのではないか。
 昨日、妹紅はそんなことも考えたが、満月に近い月の力を考慮して早めに戻っただけらしい。
 そして今夜は妖怪の気性が荒くなる本番。
 それに向けて、人里の中で準備が進められているのだろう。

「霖之助も人里に避難すればいいのに……」

 どうやら、外出も禁止らしい。
 それで妹紅のところへ来たようだった。
 しかし妹紅が、今は動けない、と何度も説明した結果、諦めて部屋を出て行った。あの様子ならば、またちょくちょく覗きに来るかも知れない。
 妹紅は仰向けになって深呼吸。
 調子が戻ったらすぐに出て行こうと決意して、再度瞳を閉じた。

「おはようございます」

 はっと、目を開けたときには阿祷が昼間の阿音と全く同じ位置に座っていて。

「こんばんは、と言うべきでしょうか?」
「……あれ?」

 阿祷が移動し、すーっと障子戸を横に動かすと。
 それは見事な満月が、夜空に浮かんでいた。




『せっかくですから、人里の手助けなどをしてはいかがですか? 元妖怪退治屋さん?』

 阿祷の笑顔で送り出された妹紅は、調子が戻ったはずなのに気怠そうに肩を落とした。

「一宿一飯の恩義はあるけどさ……、もうちょっと言い方ってものがあると思うのよね」

 普段なら多少の灯りが漏れるはずの時間だというのに、中央通りの家々はもう真っ暗。それでも周囲がいつもより明るく感じるのは、夜空で大きく自己主張する巨大なぼんぼりが地上を照らすから。灯り代わりに炎を一度生み出してみるが、月明かりだけで充分と妹紅はすぐにそれを消して、また歩き始めた。
 そんなわずかな光が満ちた世界でときおり妹紅の側を人間が走り抜け、

「夜の一人歩きは危ない、家に戻れ」

 などと、妹紅にとって新鮮な言葉を投げかけてくる。そんな元気の良い一団はおそらく、町の自警団。先が分かれた槍のようなサスマタや対妖怪用の札で武装していることからしても明らかだった。分隊長の人間の指示に従い、綺麗な隊列を組んで移動する様は、日頃の鍛錬の成果を充分に感じさせるものだった。
 ただ、そんな機敏な動きよりも妹紅が気になったのは……
 どの装備を見ても妖怪を退治するためと言うより、追い払うという色が濃いことだった。

「がんばったんだね、慧音」

 人間と妖怪の共存。
 妹紅の耳にたこが出来るほど、慧音が目指したいと主張していた世界が少しずつ現実になっている気がして、妹紅は正直嬉しかった。
 加えて、羨ましくもあった。
 死しても、使命を繋いでいくことのできる人里の人間達が、妹紅にはまぶしく見えたのかも知れない。
 だから――

 ごぅっ

 人間たちに見とれていた妹紅は、すぐ後ろで生まれた力に反応しきることができなかった。
 できたのは、法術らしき攻撃に対し半身になり右腕で防御することだけ。
 想像以上に重い攻撃によって、妹紅の右腕が悲鳴を上げ、鋭い痛みを訴えた。
 が、それだけだ。
 命に係わる怪我になりかねない。
 そう身体が判断した瞬間。
 生命活動を維持するために必要な痛みは幻想となり。
 攻撃は、攻撃でなくなる。

「……な、なんとっ!?」

 その結果は、不意打ちを仕掛けてきた相手の反応だけで十分。
 爆風が消え去った後も、妹紅は平然と立ち続けていた。
 まともに受け止めたはずの右腕も綺麗なまま。
 破れた布地だけが攻撃があった証拠として、右腕に巻き付いているだけ。
 異様な光景を見せつけられた少女は、白い胴着を翻して慌てて妹紅から距離を取った。

「い、いまのは完璧な攻撃であったはず……何故……」

 霊夢が使っていたような札を手に持っているが、その札は明らかに自警団立ちが持っていたものとは別物。やり方によっては妖怪を殺すことも可能な札だった。
 長い人生の中、一時期は妖怪退治を生業としていた妹紅にから見ても、その札の構成は見事としか言いようがなく。目の前の少女にとっても、自信のある攻撃だったに違いない。
 それが、あっさり防がれた。

「貴様は……」
「ま、そういうわけ。稗田家から出てる本でも載ってると思うけど、私は――」

 続く言葉は理解できた。
 『化け物か』
 不死となってから妹紅が極端に嫌う言葉のひとつだ。それを言わせないように妹紅が自分から名乗ろうとするが、それより早く少女の指が妹紅を差す。
 勝ち誇ったような、優越感に浸るような表情をその顔に浮かべて。

「いや、お前は……尸解仙だな?」
「……え?」

 両手を開いたまま身体の前に翳す。
 どこか独特のポーズに移行しつつ、銀髪の少女がうんうんと頷き始めた。

「いやいや、皆まで言うな。我とて太子様の右腕だ。我の秘術を打ち破った、いや、耐えたというならやはり、同じ属性であるからこそ効果が薄かったと考えるのが妥当。
 つまり、お前が尸解仙であるという証明に他なら――」
「違うけど?」
「ははは、そう隠すこともあるまい。目覚めるのが太子様よりも遅かったくらいではそんなお咎めもあるはずも無し。
 胸を張って神霊廟への帰路に着くが――」
「違うけど?」
「……む?」

 置いてけぼりにされていた妹紅が二回目に発した否定の言葉でやっと反応した少女は、妙なポーズを止めた。
 その途端、自信満々だった顔から生気が抜けていき、かたかたと小さく震え始めた。
 そして、ついには地面に膝をつき、両手も地面に預けた。

「尸解仙でないと、すると……、ま、まさか我は間違えて人間に攻撃を……」
「そうね、人間に近いと言えば近いけど」
「あ、ああ、太子様になんと詫びれば……かくなる上はこの命! って、不死ではないかぁぁぁ!
 あぁぁ、お許し下されぇぇ……、此度の一件は全て我の責任ゆえ! 責任ゆえ!」

 ついには土下座へと発展してしまう。
 額どころか頭の上野長細い帽子も一緒に地面について、これ以上ないほど頭を下げてしまっていた。
 いきなり攻撃されたとは言え、勘違いでこの状況はまずいかと妹紅は自己紹介から始めることにした

「えっと、よく聞いてね。私は藤原妹紅、稗田家の出してる本の中とかで見たり、聞いた覚えない?」
「……ん? 藤原……?」
「そう、藤原」
「た、たたたたた、太子様と関係のあった藤原様のご子孫様っ!?」
 
 大変だ。
 妙な方向に悪化した。

「あ、あぁぁああぁぁぁ、ひ、平に、平にご容赦をぉぉっ!」

 これ以上正常な情報を与えてもいろんな意味で無理かも知れない。
 そう悟った妹紅は、咳払い一つして。

「えーっと、藤原の名において……、そちらの無礼、非礼は確かに非難するべきでしょう。しかし緊急時ゆえ、不問とします」

 家名を持ち出すことはしたくなかったが、致し方ないと自分に言い聞かせ、妹紅は演劇の役者のように演じてみせる。
 すると、少女はおそるおそる顔を上げ、ずずっと鼻をすすった。

「……不問?」
「お咎め無し」
「お咎め、なし?」

 直後、ぱぁぁっという効果音が聞こえてきそうな程、笑顔の花が咲いた。

「藤原様! ああ、なんという器の大きさ! 我は感動しましたぞ!」
「うん、もう、それでいいから抱きつかない。あと、妹紅でいいから」
「そ、そのような無礼はさすがに」
「私が良いって言ってるの」
「……そ、それでは我のことも布都と! 布都とお呼び下され! 妹紅様!」

 様は付けなくて良い、と言うと、よけいな混乱を招きそうだったので妹紅はそれでいいかと受け入れた。
 精神的に疲れたというのが大きな要因だったかもしれない。

「それで、布都。あなたはなにをしてたの?」
「はっ! 我は都の中に入った俗を排除する役割を担っております。道術を利用した我らが神出鬼没さはこういった防衛にこそ生きると、太子様もおっしゃっておりまして!」

 妹紅の背後に突然現れたことから判断して、任意の場所に移動できるということか。
 得体の知れない力で出たり入ったりできるのなら、もうちょっとやりようもある気がしたが。あまり自由さを持たせると大変なことをやりかねない怖さもこの布都から感じる。
 現に、身をもって体験した妹紅がここにいるのだから。
 おそらくは、炎で灯りを作り出したときの力に反応して、攻撃を仕掛けてきたのだろう。

「とにかく、今後は良く相手を確認してから能力を使うこと」
「おお! 太子様と同じお言葉!」
「返事は?」
「はっ! お任せ下され!」

 膝をつき、仰々しく礼をする布都を見て、妹紅は思った。
 たぶん、駄目なんだろうな、と。

 その後、人里の外まで徒歩で向かい、命蓮寺の面々と人里の協同戦線というものも見た。見たはずなのだが、布都という尸解仙の存在感が圧倒的すぎて、家に戻ってもそのことばかりが思い出されてしまう。
 それと、阿祷の語り明かした夜のことと。

 そんなことを考えていたら……


「あれ?」


 今まで何も思わずに住んできたはずの家の風景が、
 白と黒だけの世界に見えた。


 百数十年ほど、前のように……





 ◇ ◇ ◇





 そんな満月の数日後

 妹紅はボロ負けした。
 輝夜との戦闘だけが妹紅がこの世界にいる理由となってしまってからは、連戦連勝だったのに、その呆気なさは妹紅本人でさえ首を傾げるほど。

「随分と府抜けたわね、妹紅……。私の前にしばらく顔を見せないで」

 しまいには気を抜き過ぎだと輝夜から駄目だしをされる始末。
 その敗北の原因が何処にあるかなど、妹紅にはわかりきっていた。
 輝夜が突き放した言い方をした理由も、なんとなく。


 理由が出来たからだ。


 満月の夜では奇妙な尸解仙とあったこと、
 阿祷から家庭の事情を聞いたこと、
 加えて、阿音の恋話についても相談を受けてしまった。
 新しく知り合ってしまった人間達が、妹紅に竹林の外へ出る理由を作ってしまった。
 いや、そう妹紅が望んでしまった。
 もう、単色の世界で過ごすのは嫌だと、心のどこかで思ってしまったから。
 大切な人を失ってから、もう絶対人里と深い関わりを持たないと誓ったのに……

 だから、妹紅は心の中で慧音に謝りながら、今日も竹林を出る。


 ただ、妹紅は思うのだ。
 心の底から、思うのだ。

『こんにちは、妹紅。申し訳ありませんが、阿音がお弁当を忘れていってしまいまして』
『……』
『それと……もしよろしければもう一つの方も』
『……了解』

 竹林を出たのは、別に阿祷のお使いをするためではないはずだ、と。
 それに加えて、妹紅は考えるのだ。
 愚痴りながらも香霖堂までやってきて、考えるのだ。

「……えっと、はじめてお弁当を作ったら、分量を間違えて……、あの、そのぅ。もしよかったらー、なんてぇ」
「それで僕にも協力しろと言ったところかな? 確かに重箱に入れるのはどうかと思うしね」
「はい! そう! そういうこと! 食べよう! さっさと食べて、お昼もお仕事がんばるぞ!」

 見ていて妹紅の方が恥ずかしくなるお昼のひとときが展開されつつある中、それを眺めるだけの妹紅。
 何かが間違っている気がしないでもないのだ。
 
「……なんか、良いようにこき使われてる気がする」
「あっ、も、妹紅も! ほら、食べて食べて!」

 しかも邪魔にならないように店の隅っこで座っていたら、思い出したようにおかずを取り分けて持ってこられる。
 その気遣いが妹紅の気まずさを向上させているのだが、阿音は気づいているのだろうか。
 しかも出て行こうとすると、顔を紅くした阿音が無理矢理引き留めるのだから性質が悪い。普段二人で店番しているはずなのだが、こういう場面は何かが違うらしい。
 そうやって妹紅が観察する中。
 黙々と弁当を食べ続ける霖之助の側で、ちらちらと様子を気にしながらやはり無言で食べる阿音。
 それを無言で眺め続ける妹紅という構図が完成し、箸と皿がぶつかる音だけが空間を支配していた。
 その沈黙を打ち破ったのは霖之助の一言。

「ごちそうになったよ」

 たったそれだけの飾り気のない言葉だった。
 美味しいといった言葉はなく、それに続いたのは儀礼的なありがとうという御礼の言葉。ただ、なんとやらは盲目という言葉もあるとおり。
 
「へへへ」

 空っぽになったお重を風呂敷に包んでいる阿音の顔は、緩みきっていた。
 それでいいのか、と妹紅もつっこみを入れられるはずもなく。

「じゃあ、お昼の寺子屋いってくる!」

 幸せそうな顔のまま出て行く阿音を見送ることしかできなかった。

「なるほど、昼から寺子屋があったから、いつもの着物のままだったのね」
「忙しい娘だよ、僕から見ても」
「あなたから見たら誰でも忙しく見えるんじゃない?」
「その例外が目の前にいるから問題ない」
「ああー、これは一本取られたね」
「それで、行かないのかい? 護衛に」
「今日は問題ないと思う、おまもりも持っていたし。たまには商品を見てゆっくりしてもいいわよね? お客として」
「それはもちろん構わないが、僕は少し作業があるからね。欲しいものが見つかったら呼んでくれないか」

 そう言って仕事棚兼会計用の棚の下から加工中の竹細工を取り出し、黙々と手を動かし始める。

「世間話はあり?」
「考えないで住む単純なものだけなら答えてもいいけど、それ以外は遠慮して欲しいね」
「了解」

 ならば、と。妹紅は棚に置かれていた装飾のついたカップを手に取る。
 それを眺める仕草だけして、阿祷から頼まれたもう一つの方を整理することにした。

「霖之助って阿音と出会ってどれくらい経つ?」
「そうだね、年数で言えば約8年、月を含めれば7年10ヶ月といったところかな」

 さきほどの様子からしても一方通行であることは目に見えている。けれど、試すだけ試しても良いかと、また別な商品を手にとって。

「たまに着てる霖之助とそっくりの服は?」
「僕が作った」

 思いがけない言葉に、妹紅が霖之助を見た。しかし……

「阿音に、寺子屋がないときくらい服を合わせたいとしつこくお願いされてね。仕方なく作った」
「……あー、そういうことね」

 声のトーンもまるで変化なく、小刀で竹を切る手元も危なげがない。
 さすがにこれ以上商品で時間を稼ぐのは不自然かと、妹紅は霖之助に近寄っていき。竹細工を見下ろした。

「これは、やっぱり商品として?」
「残念だけど売り物じゃないんだよ」

 籠と言っても良いのかも知れないが、農家が使う物よりも随分小さく。両手で持てるくらいの大きさだった。
 小物入れか何かに使うにしても、筆を置くには竹同士の感覚が広い。
 加えて、全面がしっかり閉じられていて、開くのは一面。しかも小さな面積だけ。

「これは虫取り籠だよ。魔法の森にいる珍しい昆虫をこれに入れて寺子屋の子供達に見せられるようね。虫取りといっても、外の世界で幻想となった種が紛れ込んでいることもあるからね。なかなかに奥が深いんだ。
 しかも虫というものは、あれでいて結構無駄のない機能を全身に持っていてね。それを技術に応用することで道具が生まれたことも多々あるらしい。例えば――
 ああ、すまない。少し逸れてしまったね。あの竹はこれを複数作るために取ってきて貰ったんだ。もちろん別の道具作成にも利用しているけど」
「あー、よかった。説明続きで夕方まで待ちぼうけかと」
「さすがの僕もそれはないね。喉が渇くから」

 喉が潤っていればいけるのか、と。道具知識の別の怖さを知った妹紅だった。

「それにしても、阿音ってば結構考えてるんだね。見習いとして」
「ん? どういうことだい?」
「阿音が、子供のためにそういうことをしようとしてるってことよ」

 そう妹紅が伝えたとき、それまで何を話しても手を止めることのなかった霖之助が動きを止めて、見上げた。

「これは僕が勝手にやっていることだよ。阿音には伝えずにね」
「……は? え? 何?」
「僕が自分の意志で作っている」
「あ、ああ、なるほど。お店を手伝っている礼にってことね」
「そうだね、間違いない」

 一瞬焦ってしまったが、霖之助も承認の端くれ。妹紅に対してもしっかり賃金を払うのだから、手伝いに来ている阿音にも相応の報酬があってしかるべきであり。
 それが寺子屋の子供たち用の虫かごであっても、なんら不自然はな――

「けれど、それを受け取ったとき、阿音がどんな反応をするか。それを考えるだけでもなかなか楽しい物だよ」

 妹紅の中に、疑問符が乱れ飛ぶ。
 霖之助がなんの照れも見せずに、当然のように口にした言葉。
 それが一体何を意味しているか。
 どんな感情の片鱗であるか。
 思いも寄らない反応に、思考が制御できずにいた。
 ただ、突っ立ったまま不信感を持たせるのはまずい。そう判断したのか、妹紅は周囲を見渡し始めて、霖之助のすぐ後ろの棚に八角形の物質が大事そうに置かれているのに気が付いた。
 霖之助もその視線に気づき、後ろを振り返って……
 ふうっと、静かにため息を吐く。
 どこか、寂しげに。
 どこか、弱々しく。

「なるほど、そういうことか。
 こんな商売をしているとね、余計な情報が入ってくる。例えばそうだね、君のプライベートの大事な話。
 慧音が息を引き取るときも、彼女の葬儀のときも、一緒にいてやらなかった、とね」

 そう霖之助が言い終わった直後、無言の妹紅の拳がその顔に突きつけられる。
 その拳の中では、ぱちぱちと炎が弾ける音が響く。
 小さな破砕音は妹紅の心を語っていた。
 けれど、次の霖之助の言葉を聞いたとき――

「僕も、そうだった」

 その炎は、一瞬にして消え去っていた。

「僕には恩人がいた。道具屋の資質をたたき込んでくれた、師匠とも呼べる人がね。でも、その人は魔法関係の道具を扱おうとした僕を破門した。
 だから、死に目にも会ってはいけないと、自分の中で決めていたんだ。決めていた、つもりだったんだけどね。僕の兄弟子にあたる人から仏壇に参るよう言われた後だったかな。霧雨の敷居をまたいだ瞬間、何故か涙が零れたよ」

 声室も、表情も何も変わらないのに。
 妹紅はその言葉に引き込まれていた。

「その次は、そこの一人娘だった。彼女は今の阿音をもっと元気に、もっと図々しくした女性だったよ。幼なじみとも言える間柄でね、そのせいかな。
 それ以上で見ては行けない気がしたんだ。
 そう、自分に言い聞かせていた」

 突きつけていた拳はいつの間にか下りていて、霖之助の言葉が続く度、唇を強くかみしめる。
 まるで、その体験を知っているかのように。

「だからかな、彼女の最後を看取るのも別の誰かに任せた。その子の方が僕よりも親しい、そう思っていたからね。そうしたら……その誰かさんは彼女を看取った後の足で僕の所にやってきて、眼鏡が折れ曲がるくらい力一杯殴りかかってきた。
 何も、言わずにね。
 そして、僕に日記を投げつけたんだ。訳がわからなかった僕は、気持ちの整理が付かないままその日記を開いた。そうしたら、どうだろうね。
 彼女のため込んできたものが、僕を壊した。存在そのものをバラバラにされたんだ」

 繋がっていた物がなくなったとき。
 それと一緒に全てが壊れる感覚。
 それを妹紅はよく知っている。
 それに何度裏切られたか知れない。
 それに何度血反吐をはかされたか知れない。
 それに……何度……

 幸せな夢を見たか、わからない。

「だから僕はもう躊躇わないつもりだ。もしかしたら、遠い空から見下ろしている彼女たちに怒られるかも知れないが……
 もし、少しでもそんな感情を持てるようになったなら。今度はそれを信じて進んでみるよ。
 償いになるかどうかは、わからない。単なる僕の勝手かもしれないけどね。
 これだけ言えば、わかってくれると思うんだけど」

 痛いほど、わかる。
 妹紅が何度も触れてきた感情だ。慧音で最後にしようと誓ったはずの感情なのだから。

「それを伝えてやれば、阿祷は安心するよ」
「……そうだね。でも……、よくわらないんだ」

 堅い決意を語ったはずなのに、霖之助は口の前で手を組み瞳を閉じた。

「阿音には、まだ……何か……」

 そんなことをつぶやき始めた霖之助を見下ろし、ふんっと妹紅は鼻を鳴らして。

「意気地なし」

 そう吐き捨て、店を出た。
 





『……何故そういった縁談を進めるようなことをっ! あ、いえ、そういう感情があれば問題ないという話でしたか。すみません、ありがとうございました』

 もしかしたら脈があるかも知れない。
 妹紅が素直に伝えると、阿祷はそのやり取りの流れも聞いて怒っているのか喜んでいるのか。よくわからない態度で妹紅に礼をした。
 できれば人間と共に家庭を築いた方が良いのではないか。
 そもそも花嫁修業すらしていない娘を送り出せるのか。
 そんな迷いが、表情からは見て取れた。

「……あの霖之助がねぇ」

 その帰り、茶屋の店内。
 入り口から一番遠い机に付いた妹紅は、久方ぶりの甘味を楽しみながら霖之助とのやり取りを思い出していた。
 異性関係よりも道具や知識の方を重要視しそうな彼から出た言葉。それは少なからず妹紅の胸にも突き刺さった。 
 最後の『意気地なし』という言葉も、いったいどちらにあてたものか。

「あーもぅ、やめやめっ」

 そんな暗い気分を払うため、景気づけに茶屋にやってきたのに逆に塞ぎ込んでは意味がない。妹紅は阿祷から少なからずもらった報酬を全部使う気持ちで、店員を呼ぼうと手を挙げた。
 だが、その仕草に店員よりも早く動いた陰一つ。

「おお、これは妹紅様ではありませぬか!」
「……げ」

 誰かに頼まれたのだろうか。
 お持ち帰り用の団子の包みを受け取っていた布都が出入り口付近で手を振っていた。妹紅がそれに応じて振り返すと、まさに疾風のごとき早業で妹紅との間合いを詰める。
 そして茶屋には不釣り合いなほど仰々しく頭を下げた。

「妹紅様も休憩中のご様子。しかしいけませんぞ、徳の高い御方がこのような場所で食事など……、はっ! なるほど、庶民の生活を知るのも上に立つものの役割というわけですな!」
「……あー、はいはい、とりあえず落ち着いて座りなさいって」

『このような場所』発言に店主があからさまに不機嫌な顔をするが、何故か布都の後ろ姿を見てから諦めたような顔になってしまう。
 布都だからしょうがないと、言わんばかりに。

「それで、そっちは何しにきたの?」
「我は太子様に頼まれて茶会用の一品を確保したところにございます。道教の鍛錬も一段落しましたので」

 仙道に通ずると言われる、道教。
 妹紅もあまり知らないものだったので布都に尋ねてみると、『とにかくすごい』という内容しか聞き出すことが出来なかった。
 ただ、それを人里に広めるため毎日弟子と一緒に鍛錬をしているのだと。

「攻防に応用可能な術式はその一つ一つが言霊により構成されておりまする。それゆえ、一文字でも間違えれば大事故になると、毎日の鍛錬はそのために必要でありまして――」
「……それで? 茶会はいいの?」
「……お、おおおおおっ! わ、我としたことがっ! し、失礼します、妹紅様!」

 がたんと、椅子が大きく鳴るほど勢いよく立ち上がると、じたばたと両手両足を動かしながら、ものすごい速度でいなくなってしまう。
 
「次の満月の時も様子見に来てみるかな」

 追加の羊羹を店主に注文してから、小動物のような動きをする布都の姿を思い出して、くすりっと微笑んだ。





 ◇ ◇ ◇





 普段の生活とは一線を引く、夜。
 夏の暑さが薄まり、虫の声が大きく鳴り始めた夜の中で、また大きな月が夜に昇る。
 そんななか、布都は人里の中に張り巡らせた術式を観察しながら怪しい力の流れを探していた。
 里を防衛する自警団の屋敷、その中庭で瞳を閉じ、空間に両手を這わせて。

「異常なし、だな」

 他人から見れば、立ったまま手を動かしてるだけのようにしか見えず、ただサボっているだけにしか見えないのが玉に瑕。
 しかし、間抜けに見えてもそれは仙人は仙人、布都が太子と呼ぶ主君が延命の術式のため公の場に出られない今。彼女たちの陣営を支えているのは間違いなく彼女なのだから。
 失敗が多くても、そのひたむきさでカバーしているからこそ、人里の人間も彼女のことを信頼し、命蓮寺の陣営と協力して里を守っていた。
 里の中に妖怪が入り込んだ際の切り札として。
 つまり、布都が動かねばいけないときは、そこが極めて手薄か。
 極めて危険な状況にあるときであり……

「ん?」

 そのとき、布都が感じたのは間違いなく後者。
 何故ならばそこは……

「っ!」

 里の重要施設の多い一区画。
 そんな場所の中心に、あからさまな妖怪の気配が生まれたのだ。
 それなのに、自警団はそれを押さえることも出来ず、妖怪は依然と存在を続けている。
 いや、存在するだけでなく。
 人里の外へ向けて移動を始めていた。自警団がいたはずの場所を、なんの抵抗も受けずに……、妹紅の件もあってすぐさま動くのを躊躇っていた布都の我慢も、それが限界だった。

「まさか……、隊長殿! 我は出るぞ!」

 手早く術式を展開し空間を開いく。
 まず、目指すは異変が生まれた中心地。
 稗田家へ――





 

 その光景は、何度も見たことがある。
 特に、炎を自由に使えなかった昔は酷いものだった。
 人が人を襲い、人が妖怪を襲い、妖怪が人を襲う。
 隠れて、逃げて、追われて。死なないだけの身体でただ、やり過ごす。
 その後、動くものがいなくなった場所で……、絶望するのだ。
 何故、こうまでして自分は生きているのかと。
 愛しい者を犠牲にして……
 置き去りにされて……

 何故、死ねないのか、と。





「っ!」
 
 一瞬だけ、妹紅は意識を失っていた。
 布都の様子を見る前に、稗田家に寄ってみよう。
 ただ、それだけの理由で足を運んだとき、門の前で倒れ付す自警団員たちの姿を見せつけられて、昔の映像と重なってしまったから。
 慌てて、そのうちの一人の身体を抱え、脈を取る。

「……よかった」

 出血もない、気絶しているだけのようだった。
 他に倒れ伏す10名ばかりの男の様子も確認するべきだったのかも知れないが、妹紅は男の身体をゆっくり地面に降ろすと、門の中に飛び込んだ。

「阿祷っ!」

 人里で知り合った友人の名を叫び、屋敷に駆け込む。
 靴を脱ぐことなく、ただまっすぐに。
 阿祷の部屋を目指して……
 外の自警団と比較して通る廊下も、見える障子も、壊れていない。
 だから、大丈夫、無事でいるはず。
 妹紅は総自分に言い聞かせて、無視した。

「阿祷っ!!」

 いくら叫んでも、返ってこない。
 その沈黙を否定して、阿祷の部屋へと一目散に進み。
 障子が破れるのを無視して、力ずくで部屋の入り口を開く。

 阿祷は、そこにいた。
 
 妹紅の眼前、入り口から延びる月の光に照らされ……
 ただ、力無く畳の上に横たわったまま。

「……ああ、月が、綺麗ですね、妹紅」

 消え入りそうな声を絞り出しながら、妹紅を見上げていた。

「あ、阿祷っ! すぐにっ! すぐに永遠亭へ運ぶから!」
 
 畳の上に膝をつき、阿祷の元へすり寄って、妹紅は震える手を伸ばす。
 あまりの白い阿音の顔を見て、動かして良いかわからなかったから。
 それでもこの場に置いてはおけないと、手を伸ばすが。

「……大丈夫、です。突き飛ばされただけですから。ちょっと、机とぶつかっただけで……でも、あなたがそこまで狼狽しているということは……今のは私はそれほど弱々しく見えているわけですね」

 つまり、稗田家を襲った妖怪にやられたということだろう。
 言葉通り、阿祷が良く仕事で使っていた机が横倒しになり、道具が散乱していることもそれを証明していた。

「……それよりも、妹紅……ちょっとだけ、話があります」
「本当に、本当に大丈夫なのね?」
「ええ、だから話を聞いて下さい……阿音にとって、本当に大事な……」

 阿祷はそこで言葉を切り、半分だけ目を伏せ。

「いえ、あなたにとっても……大事なこと……」

 今、この場にいない阿音のことについて、静かに語り始める。

「……あの子が養子として稗田家に来た、それは話しましたね?」

 血の繋がっていない親子だというのはもちろん知っている。
 妹紅は無言で頷き、阿祷の言葉を待つ。

「それ以前は、あの子は身寄りのない子供でした。誰が生んだのかもわからない、捨てられたような子供だったと。それを拾い、育てようとした家があります。
 その家は子供がおらず老夫婦しかいない、後は廃れるだけ。
 そう言われていた家でした。ですから、せめて最後にと思ったのかも知れません。その家の名は、貴方がよく知っているものです。妹紅」

 妹紅が人間の姓で知っているのは、指で数える程度しかない。異変の時にぶつかったことのある人間か。
 人里でいえば稗田か――
 もう一つ。稗田の他のもう一つ。確かに、妹紅は良く知っている。
 
「……上白沢」
「そのとおりです。そして、何の因果か、老いた夫婦は、その黒に混ざった青を見て……その家系の中から見捨てられた、一人の女性を思い浮かべたと」

 その家系から見捨てられた女性。
 人里を守り、歴史を守ることで、自分の居場所を必死に確保した。
 そんなもの、たった一人しかいるはずがない。

「今一度、幸せな生を歩んで欲しい。
 そう、願いを込めて付けられたあの子の本名は――
『上白沢 慧音』――、あの方と、同姓同名の少女です」

 頭から、つま先まで。
 雷に打たれたかのような衝撃が、妹紅を襲った。
 瞳孔が開いたまま、焦点が定まらない。
 膝をついて目の前の阿祷を見ていたはずなのに、視界がぼやけてしまう。

「その先は、以前にお話ししたとおり……老夫婦がすぐに息を引き取り、あの子はたった一人になりました。
 だからでしょうか、私は……それがあの名前の呪いか何かのように感じました。
 それを知る先代の微かな知識が、警鐘を鳴らしていたのでしょう。だから私はあの子を引き取ってから、人間として生きていけるよう……、稗田の姓と、阿の一文字を与えました。
 与えて、それで全て終わったと、思っていました……いえ、思いたかっただけなのかも知れません」

 妹紅は、その言葉だけで阿音の今の状況を理解してしまう。
 加えて、布都から聞いた言霊の話しもそれを肯定する。言葉は、力。そう言えるのであれば、あの名前を一度持ってしまった少女が……、あの獣に、
『ハクタク』に魅入られても不自然はない……

「阿音は、混乱していました。角と尻尾、そして急に色の変わった髪の毛を私に見せて、助けてと……、
 そのときです。阿音の悲鳴を聞いて自警団員が駆け付けたのは……それからはもう、散々でした……捕まえようとする自警団の手を振り払うように外へ出て、暴れて……、再び戻ってきたあの子は、母親である私が自警団を呼んだと疑い、突き飛ばして……、その後のことは、わかりません……ですから、妹紅……お願いです……」
「ええ、わかってる」

 妹紅は、左腕で目元を拭う。
 今は感傷に浸っている場合じゃない、一刻も早く阿音を安全な場所へ連れて行かなければ……
 そう決意して立ち上がろうとした、そのとき。

「だ、大丈夫かお前達!」

 聞き覚えのある声が玄関先から聞こえてくる。
 その声に危機感を覚えた妹紅は即座に畳の上を蹴って、外へと飛び出した。




「おお、妹紅様!」

 妹紅が、塀を飛び越えて門前に着地した瞬間、さきほどの声の主である布都が駆け寄ってくる。

「阿祷と、阿音のご様子は?」

 妹紅は味方、そう頭の中に入ってしまっているようで、この事態を引き起こした人物は別にいると判断しているようだった。
 そして、妹紅は布都の言葉で、彼女が事態をまったく把握していないことに気づく。
 つまりは、布都が今の阿音と遭遇した場合。
 最悪の事態が起こりかねないということ。

「阿祷の方は軽傷だった。阿祷の話によると阿音の方も無事みたい」

 嘘は言わず、それでも真実は伝えない。
 下手に阿音がいないと言うと、誘拐されたとか大騒ぎしかねないからだ。
 そういった誤解を与えないために、屋敷に入る前に留めておく必要があったからこそ、妹紅は素早く外へ出たのだ。

「そうでしたか! それでは我は秘術でその妖怪の元へと!」

 そして、もう一つの理由が、布都が出入りに利用している瞬間移動にも似た術式の存在。

「待って、その秘術ってやつは何人も運べるもの?」
「はっ、難しくないかと、……もしや妹紅様。ご助力願えるのですか!」

 キラキラとした瞳で見上げてくる。
 そんな純粋な支線を受け、妹紅はすっと、目を横に泳がせつつ。

「も、もちろんよ……」
「お、おおおっ! 我の術も耐える妹紅様がおれば怖いものなしですぞ! では、まいりましょう!」

 もちろん妹紅の目的は阿音を守り、安全な場所まで連れて行くこと。
 だから、布都が先走らないように妨害するため、などと正直なことが伝えられるはずもない。妹紅はわずかに胸を痛ませて、

「ささ、こちらです!」

 布都が自慢げに開いた空間の中へと飛び込んだ。





 これで阿祷の願いを叶えることが出来ると、妹紅は思った。

 布都の反応は全部、想像していた。
 妹紅のこともあり、今度こそ手柄を。
 そう意気込んでいるのも間近で感じた。
 だから空間を開いた先で、布都が目標に突撃することくらい。予想に難しくない。

 だが――

 妹紅は想定していなかった。
 月明かりの下で、薄く輝く緑色の長髪を揺らし走る後ろ姿を
 足を運ぶたびに揺れる緑色の衣服の下から伸びる尻尾の癖のある動きを
 天を突くようにまっすぐの伸びた角を
 その後ろ姿を見せつけられただけで、妹紅自身が動けなくなってしまうなど。
 まるで予想していなかった。

 だから、手を伸ばしたときはもう、全てが手遅れだった。
 両腕に力を溜め込んだ布都が、電光石火の動きで半人半獣の背中に迫っていく。
 それを棒立ちのまま、眺めていることしかできない。

「……音」

 あの少女は慧音じゃない。
 頭の中で何度繰り返しても、恐怖ばかりが妹紅を支配する。
 自分の失敗で、また失う。
 あのときのように、また、失う。
 それだけが、妹紅の身体を縛り付け……

「逃げろ! 慧音!」

 そう叫ぶので精一杯だった。
 阿音という少女のことも一瞬、頭の中から消え去り。
 その名前を呼ぶことしかできない。

「!」

 それでも少女は反応した。
 急に生まれた大声で、驚いたからだろう。
 足を止め、声をした方を、後ろを振り返ろうとする。
 しかし、そこにはもう攻撃態勢に入った布都が。
 阿音を覆うように両腕を拡げた布都が、今にも力を阿音に向けようとしていた。それに対して、慌てて阿音が拳を繰り出そうとしていた、が――
 間に合わない。
 糸の切れた操り人形のように、妹紅の膝が折れ、地面にへたり込む。
 救えたはずの相手を救えなかった。
 言い知れない脱力感に襲われ、ただ現実を眺めるしかできない。
 そんな妹紅の眼前で、ついに攻撃が放たれ……

 どごんっ、と。

 打撃音が、響き渡った直後。
 布都が、吹き飛ぶ。
 
「……っ!?」

 大きく打ち上げられた布都は、毬のように、二度弾んでから。
 妹紅の眼前で、大の字に転がる。
 絶対優位の態勢だった。あの条件で負けるはずがない。そんな場面で……
 ただ、そんな妹紅の疑問に応えたのは、地面に倒れたまま咳き込む布都本人だった。

「妹紅……様、あやつを攻撃しては……なりませぬ……あやつは、慧音殿の生まれ、変わり……」

 はっ、と妹紅は顔を上げる。
 確かに、布都たちが現れた頃には、慧音はまだ元気だった。もちろん、人里を守って戦ってもいた。
 だから、布都は……振り返った阿音に動揺して……
 
「……本当だ」

 攻撃姿勢を解き、恐怖を貼り付けながら後ずさりする。
 布都は阿音に、慧音を重ねたからこそ動けなくなってしまった。
 妹紅と、同じように。
 振り返って、正面を向いてくれたおかげで、それが良くわかる。
 
「ははっ、本当に……そっくりだ……」

 少し若さは残るが、その顔立ちは記憶と重なり心をかき乱す。
 けれど笑いながら、妹紅は立ち上がる。
 その右手に炎を宿して、ゆっくりと、立ち上がる。

「……嫌、来ないで! 来ないでっ!」

 また、攻撃される。
 そう感じたのだろう。
 阿音は酷く狼狽して、身構えるが、

 とんっと、

 妹紅は、一息で阿音の上を飛び越え、その後ろに着地した。
 そのまま無言で人里の外側へと歩き始める。

「……阿音、急いで」

 もしかしたら阿音はそんなことを意識していないのかも知れない。
 稗田家からこっちの方角に逃げていたのは、本当に偶然で、何の意図もなかったのかもしれない。
 それでも、妹紅はわかる気がした。

 人じゃないと言われ、人間に追われたとき。
 里の人間に裏切られたと感じたとき、
 彼女が誰を頼ろうとしたか……

 目の前に迫る防衛部隊と、妖怪の攻防を眺めながら、後ろを振り向くと。
 ハクタク化したままの阿音が、じりじりと妹紅の方へと進み始めていた。
 
「それでいい」

 妹紅は口の中でそうつぶやくと、一気に掛けだし。
 邪魔だと叫んで、防衛部隊に割り込んだ。

「阿音! あなたは、あなたが行きたい場所に行きなさい!」

 呼びかけながら両腕から凄まじい勢いで炎を生み出す。
 渦を巻きながら集まる炎から逃げるように、自警団たちが妹紅から離れた。その直後だった、妹紅が両腕から放った炎の弾幕が、妖怪の群れを襲ったのは。
 そのたったの一撃で、妖怪の群れが割れ……
 一直線に伸びる空間ができあがっていた。

「そのための道は、私が作ってやる! 人間にも、妖怪にも、邪魔はさせない」

 その言葉が響き渡った後、阿音が妹紅のすぐ側を駆け抜ける。
 転びそうになりながらも、必死で緑の髪を振り乱して。

『人里に入った妖怪が逃げるぞ! 捕まえろ!』

 誰かが叫ぶ。
 たぶん、それが自警団のマニュアルなのだろう。
 人里に入る前の妖怪は追い払い、入ってしまった妖怪については何をしたのか聞き出してから外へ出す。
 ただ、自警団が動くよりも早く。

「……邪魔をするなと、言わなかった?」

 腕ではなく、背中から炎の羽を生み出した妹紅の冷え切った言葉と。
 圧倒的な威圧感が、その一歩すら許さない。
 この緑の生き物は、この炎術使いは何者か、それを知らない妖怪たちでさえ……
 本能で悟った。
 今、下手な行動を取れば、命が消し炭に成りかねないことを。
 そして、妹紅は阿音の背中が近くの林に消えたことを確認してから、自警団の一人に布都と、稗田家の状況を伝えて。

「……」

 静かに空へと飛び上がる。
 そして、そのまま、何かをとまどうように滞空していたが、ゆっくりと進み始めた。
 阿音が消えた方角へ。
 追い抜かないよう、気づかれないよう。
 注意を払いながら、妹紅は飛び。
 魔法の森の入り口の道具屋の前で、足を突いた。
 入った姿は見ていない、でも、ここにいるという確信はあった。

「……」

 おこぼれを狙う、負け犬。
 おそらく、それが今の妹紅を形容する、最悪の……、そして、最適な言葉かもしれない。今、目の前の扉が開いて、受け入れられなかった阿音が……
 慧音の姿をした、彼女が飛び出してくるのを、待つ。
 不安定な状態で一人になってしまうのは危険だから、それを防ぐため。
 そう自分に言い聞かせ、ひたすらに待って。

『――!』

 言葉にならない、阿音の泣き声が……
 安堵と、喜びを内に秘めた、幸福な叫び声が……
 妹紅の元にも届く。
 だから、妹紅の役割は終わり。
 阿祷に託された願いも、ここで終わり。

「これでいいんだよ……、これで……」

 誰に言うでもなく、そうつぶやき、阿音を祝福するように微笑むと。
 人里に戻ることもなく、妹紅は家路へと付いた。
 そして、入り口を開けてすぐ、敷き布団の上に飛び込むと。
 強く、強く、顔を枕に押しつけて、静かに夜を明かした。





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