「お疲れ様。椛ちゃん、これから宴会らしいけど来ない?」
「あ、いや、私は」
空を見上げる。西の端には赤い夕陽が、東の端には丸い満月が現れて、群青色の空を己の色に染めようと主張しあっている。
しかし間もなくだ。夕陽は根負けして地の底に還り、煌々たる満月が夜空を支配するだろう。
そして、私が楽しみにしている時間が始まる。
「私は用があるんで。これで失礼します」
「あっ、椛ちゃ……」
同僚の誘いを振り切って、私は空へと飛び上がった。
宴会も好きではあるが、あの楽しみを他者との時間で浪費しようなんて、さらさら思わなかった。
◇◆◇霊峰の歌い手◇◆◇
意外に思われるかも知れないが、私は天狗付き合いが苦手だ。
そりゃ誰かに会えば挨拶もするし、哨戒の任務もきちんとこなす。
だがそれ以上――仲良くなったりとか、立身出世してやろうとか、そういう気持ちになれないのだ。
「どうせ――」
独り言が漏れかけて、慌てて口を塞ぐ。
『どうせ努力したところで、白狼天狗は烏天狗に勝てやしない』
こんな事を聞かれでもしたら、私はたちまち吊るし上げを食らうだろう。
生まれからくる身分の違いは乗り越えられない。どんなに頑張って出世しようにも限界がある。
それでも、ここを離れては生きてゆけないから、私は哨戒の任務を果たしている。
我ながら御苦労なこった。
でも、天狗に生まれて良かったと思うことだって、ある。
「そろそろかしら」
月が天頂に近づいたのを確かめて、私は秘蔵の酒を取り出した。
蒼く冴えわたる月が、どんな絵画より細かく散りばめられた星々が、お山の木々を幻想的な色合いで照らし出している。
――おぉ…… ――おぉ…… ――おぉ……
始まった。この声に気付いたのは、随分前になる。白狼天狗の誰かが、お山に向かって遠吠えをしているのだ。
否、それは遠吠えというには余りにも芸術的すぎた。
高く、低く、抑揚をつけて紡がれて、聞いている者の心に寂しさといとおしさの混ざった不思議な感情を湧き立たせる。
美しい。
この美声を聞きながら、ひとりで酒を飲む。それが最近の、私のお気に入りだった。
――おぉ…… ――おぉ…… ――おぉ……
この歌い手は、どんな人なのだろう?
ふと疑問が首をもたげた。
遠吠えは普通、距離の開いた相手にするものである。
目と鼻の先にある、お山に向かって吠えるというのは不自然に思えた。
しかも決まって満月の夜である。
「よし、決めた!」
酔いの勢いも手伝って、私は空へと飛び上がった。
声質からして、歌い手は女性だと思われた。そう厄介事も起きないだろう。
冷たい夜風に、ほてった頬が心地よい。
私は夢の中にいるような気分で空を飛び続けた。
後から思えば本当に――途中で帰っておくべきだった。
「あのー、どなたかいらっしゃいませんかー」
大体、音のする辺りまで来た。
来てみると何てことは無かった。ここは集落の外れ、大きな一本杉が立っている場所だ。
哨戒の際、何人かで集まって、交代したりする場所でもある。
昼間と違い、夜空の下で見上げる一本杉は、天空に吸い込まれて行くようであった。
私は再度、声をあげる。
「あのー、どなたか……」
「はい、なんでしょう?」
木陰から一匹の白狼天狗が姿を現した。
顔は知らない。年老いた、けれど美しいひとだった。
私がぺこりと頭を下げると、彼女はあらあらと困ったような顔をする。
「こんな夜更けに何の御用? もしかして、うるさかったかしら?」
「いいえ。あなたの声がとても綺麗なので、どんな方が歌っているのかと思って、つい」
すると彼女は、あらあらと嬉しそうな顔になった。
「長い間、ここで歌を歌ってきたけれど、そんな風に言われたのは初めて」
「本当ですか!」
思わず声に出してしまう。こんな綺麗な歌に誰も気づかないなんて、どうかしている。
みんな宴会に夢中なのだろうか。上役に取りいるために、懸命に酒を酌み交わしている頃だろうか。
私は、少しだけ天狗社会を疎ましいと感じた。
同時に、そうしたものに縛られない彼女への崇敬の念のようなものが湧きあがってくるのを感じた。
もっと、彼女のことを知りたい。
「どうして歌を歌うのですか?」
私は、思い切って尋ねてみた。
「……もう、しゃべってもいいかな。昔ね、」
彼女は、恥ずかしそうに俯いた後、小さな声で語り始めた。
「好きな人と駆け落ちしようって、ここで待ち合わせたの」
「駆け落ちって、結婚を反対されたんですか?」
「仕方なかったのよ――彼は烏天狗だったから。私のような白狼天狗には似合わなかった」
――嗚呼。声にならない声がこみあげる。
また種族。また格差。一体どうすれば、この見えない壁は無くなるのか。
彼女の話は続く。
「でもね、約束の時間になっても彼は現れなかった。高く昇った太陽が落ちて、満月が昇るまで、私はここで待ち続けたわ」
「そんなに……」
「そうしたらね、満月が昇りきった頃に、法螺貝の音が聞こえてきたの」
――そのとき聞こえた音色を私は一生忘れない。
――悲しくて、けれど強くて、己の生き方を決めた者だけが出せる音だった。
彼女はお山のてっぺんを見ながら、そう語った。
「だからね、私はここで歌を歌うことにしたの。法螺貝の音色に合わせて。
もう二度と会えなくてもいい、ただ二人が過ごした時間がここにあった、その証明が欲しかった」
「その後、相手の人には、お会いしたんですか?」
いいえ、と彼女は首を振る。
「風の噂に結婚した、と聞いたわ。それでも満月の晩にだけは、あの法螺貝が聞こえてきた。
不思議なものね。私、ここで歌っていたら誰かが来てくれるような気がしていたの。
てっきり彼が来てくれるものだと思っていたら――来たのはあなただった」
そう言って、彼女は優しく微笑んだ。
悲しみを乗り越えた人だけが持つ、強い笑みだった。
「そろそろね」
「え?」
満月が天頂から滑り落ち始めた頃。
たどたどしい法螺貝の音が、私の耳をうった。
――ぷおぉ…… ――ぷおぉ…… ――ぷおぉ……
なんだ、このへたくそな法螺貝は。まさか、これが駆け落ちの相手?
老天狗を見やると、静かに首を振っている。
「あの人の法螺貝は、もう半年前から聞こえなくなったわ。代わりに鳴っているのがコレなんだけど……」
「下手ですね」
私が切り捨てると、彼女は心底おかしそうに笑い始めた。
「やっぱり下手だと思う? でもいいのよ。私の歌を聞いて、返事をしてくれる人がいる。それだけで私はこんなにも救われているの」
「そんなものですか……」
老天狗の答えは、私にはピンと来ないものだった。
好きな人と一緒になれなくて、一体何が幸せだろうか?
報われない想いに、どれほどの価値があるだろうか?
しかし、目の前の彼女は幸せそうに微笑んでいる。
訳がわからなくなった私は、答えをハッキリさせるために飛び立つ決意をした。
「お邪魔しました」
「あら、もう行くの?」
「ええ、ちょっと用事が。歌声、また聞かせてくださいね」
「はいはい、こちらこそよろしくね」
老天狗と手を振り交わし、空へと舞い上がる。
私は、この法螺貝の主がどんな奴か、見てやろうと思った。
そいつを見たら、彼女の決意が何をもたらしたのか、幸せの正体が掴めるような錯覚をしたからだった。
夜間哨戒の天狗たちと挨拶を交わしながら、お山の上へと昇ってゆく。
音の方向から、中腹の崖の上あたりだろうと目星はついていた。
脇目もふらず飛んでいった先で――嗚呼、なんということだろう。
私は、あってはならないモノを見た。
「あややややや。椛じゃないですか、どうしました、こんな夜中に」
そこで法螺貝を吹いていたのは、射命丸文だった。
私はこいつが大嫌いだ。強い者には弱く、弱い者には強い。
どんな相手にもヘコヘコこびへつらって、仲間内でのウケも良い。
最近では人里にも出かけるようになって、お山のしきたりに触れるギリギリの線で過ごしている。
かと思いきや、お山にやってきた巫女を上手くいなしたとかで、大天狗様に褒められていた。
私とは正反対の、偉い偉い、烏天狗様だ。
「何をしている」
「聞かれました? 恥ずかしいなぁ……
実はですね、亡くなった祖父が法螺貝の達人で、遺言に『お前も法螺貝を練習しろ』と言い残したんですよ」
――目まいがした。
たとえるなら、美味しいお菓子を机の上に積み重ねてきたのを、土足で蹴散らされた気分だった。
あの人が悲しい想いをして、耐え忍んで積み上げた幸福を遺産として引き継いだのは、よりによってコイツだった!
私は天の采配を恨まずにいられなかった。
やがて、それは激しい怒りとなって私を突き動かした。
ああ、そうだろうとも。コイツの祖父なら天狗の掟を守って、駆け落ちを止めたりもするだろう。
「お前は、今度ばかりは絶対に許さない!」
「うわ!」
私は帯刀した剣を抜き打ち様に斬りつけた。
寸でのところで文が避ける。
「ちょ、ちょっと椛? 私を嫌いなのは知ってますけど、いきなり何するんですか!」
「うるさい! その幸福を受け継ぐのはお前じゃない! その資格はお前にない!」
吠えて、再び斬りかかろうとしたとき――私の耳に、あの歌が聞こえてきた。
――おぉ…… ――おぉ…… ――おぉ……
これは……これは歌ではない。
これは白狼天狗が鳴き交わす、撤退の合図の声だ。
あの老天狗が、私に『もう帰れ』と言っている。
「どうして? どうしてコイツを許すの! あなたはそれで幸せなの?」
私には分からなかった。自分の夢を犠牲にして、こんな天狗の悪い見本みたいな者を残して、彼女はどうしようというのか?
――でも、あなたも天狗社会を守って生きてゆこうと決意したんじゃなくて?
刹那、彼女の声が脳裏に響いたような錯覚を受けた。
社会。そうだ、私が普段お山の哨戒をしているのは、このしみったれて閉鎖的で息の詰まりそうな天狗社会で、生きてゆくことを決めたからだ。
格差があろうが、出世できなかろうが、ここで生まれ育った私は外へ出ていくことなど出来ないのだから。
「ちくしょう……ちくしょおおおおお!」
「椛?」
私は剣を鞘に納めると、その場を飛び去った。
文は――幻想郷最速の彼女は、追いかけてこなかった。
その気になれば、すぐ私に追いつけるだろうに、放ってある。
その余裕に救われたのだと思うと、情けなくて涙が出た。
結局、家に着く頃には酔いも醒めてしまい、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった自分だけが残された。
私は大急ぎで布団を取り出すと、頭からすっぽりかぶって寝てしまった。
「ちょっとー、大丈夫ですかー?」
次の日。仮病を使って哨戒任務を休んだ私の元を、一人の烏天狗が訪れた。
姫海棠はたて。文と違い、世渡りや人づきあいの苦手な、私の同類だ。
お茶いれるわよ、と勝手に台所を開けている。
建前上、病気ということになっている私は大人しく従った。
「はい、お茶。暖まるよ」
「すみません、ちょっと体調が悪くて……」
「そう。もしよければ、見て欲しいモノがあるんだけれど」
「私に……ですか?」
頷くと、彼女は写真を一枚とりだした。
一面に大きく、あの老天狗と、私の顔が写っている。
「これって……」
「文のカメラを念写したら、これが出たの。ねえ、これどこで、どうして撮ったの?」
私は、どんな顔をしていいか分からなかった。
文は老天狗の存在に気付いていた。もしかしたら祖父から駆け落ちの話を聞かされたのかも知れない。
だから会いに来た――? それを私が邪魔してしまった――?
「ねー、ちょっと! アンタだけで伝わりあってないでさ、私にも分かるように説明してよ。
この人は誰で、これは何をしているところなの?」
「文々。新聞に書いてありませんでした?」
「あれば聞きに来ないわよ」
私は射命丸文が、なぜ人気なのか分かった気がした。
アイツは腹の立つことに、肝心なところで人情をきかせてくるのだ。
それこそ駆け落ちをしないと――天狗社会から離れないと決意した、祖父譲りの優しさで。
「ちょっと? なんで泣いてるのよ?」
「え? 誰が泣いて――」
る、を言い終える前に、雫がぽたりと床に落ちた。
ああ、あの老天狗は幸せだったんだろうなと、すとんと胸のつかえが落ちた。
了
「あ、いや、私は」
空を見上げる。西の端には赤い夕陽が、東の端には丸い満月が現れて、群青色の空を己の色に染めようと主張しあっている。
しかし間もなくだ。夕陽は根負けして地の底に還り、煌々たる満月が夜空を支配するだろう。
そして、私が楽しみにしている時間が始まる。
「私は用があるんで。これで失礼します」
「あっ、椛ちゃ……」
同僚の誘いを振り切って、私は空へと飛び上がった。
宴会も好きではあるが、あの楽しみを他者との時間で浪費しようなんて、さらさら思わなかった。
◇◆◇霊峰の歌い手◇◆◇
意外に思われるかも知れないが、私は天狗付き合いが苦手だ。
そりゃ誰かに会えば挨拶もするし、哨戒の任務もきちんとこなす。
だがそれ以上――仲良くなったりとか、立身出世してやろうとか、そういう気持ちになれないのだ。
「どうせ――」
独り言が漏れかけて、慌てて口を塞ぐ。
『どうせ努力したところで、白狼天狗は烏天狗に勝てやしない』
こんな事を聞かれでもしたら、私はたちまち吊るし上げを食らうだろう。
生まれからくる身分の違いは乗り越えられない。どんなに頑張って出世しようにも限界がある。
それでも、ここを離れては生きてゆけないから、私は哨戒の任務を果たしている。
我ながら御苦労なこった。
でも、天狗に生まれて良かったと思うことだって、ある。
「そろそろかしら」
月が天頂に近づいたのを確かめて、私は秘蔵の酒を取り出した。
蒼く冴えわたる月が、どんな絵画より細かく散りばめられた星々が、お山の木々を幻想的な色合いで照らし出している。
――おぉ…… ――おぉ…… ――おぉ……
始まった。この声に気付いたのは、随分前になる。白狼天狗の誰かが、お山に向かって遠吠えをしているのだ。
否、それは遠吠えというには余りにも芸術的すぎた。
高く、低く、抑揚をつけて紡がれて、聞いている者の心に寂しさといとおしさの混ざった不思議な感情を湧き立たせる。
美しい。
この美声を聞きながら、ひとりで酒を飲む。それが最近の、私のお気に入りだった。
――おぉ…… ――おぉ…… ――おぉ……
この歌い手は、どんな人なのだろう?
ふと疑問が首をもたげた。
遠吠えは普通、距離の開いた相手にするものである。
目と鼻の先にある、お山に向かって吠えるというのは不自然に思えた。
しかも決まって満月の夜である。
「よし、決めた!」
酔いの勢いも手伝って、私は空へと飛び上がった。
声質からして、歌い手は女性だと思われた。そう厄介事も起きないだろう。
冷たい夜風に、ほてった頬が心地よい。
私は夢の中にいるような気分で空を飛び続けた。
後から思えば本当に――途中で帰っておくべきだった。
「あのー、どなたかいらっしゃいませんかー」
大体、音のする辺りまで来た。
来てみると何てことは無かった。ここは集落の外れ、大きな一本杉が立っている場所だ。
哨戒の際、何人かで集まって、交代したりする場所でもある。
昼間と違い、夜空の下で見上げる一本杉は、天空に吸い込まれて行くようであった。
私は再度、声をあげる。
「あのー、どなたか……」
「はい、なんでしょう?」
木陰から一匹の白狼天狗が姿を現した。
顔は知らない。年老いた、けれど美しいひとだった。
私がぺこりと頭を下げると、彼女はあらあらと困ったような顔をする。
「こんな夜更けに何の御用? もしかして、うるさかったかしら?」
「いいえ。あなたの声がとても綺麗なので、どんな方が歌っているのかと思って、つい」
すると彼女は、あらあらと嬉しそうな顔になった。
「長い間、ここで歌を歌ってきたけれど、そんな風に言われたのは初めて」
「本当ですか!」
思わず声に出してしまう。こんな綺麗な歌に誰も気づかないなんて、どうかしている。
みんな宴会に夢中なのだろうか。上役に取りいるために、懸命に酒を酌み交わしている頃だろうか。
私は、少しだけ天狗社会を疎ましいと感じた。
同時に、そうしたものに縛られない彼女への崇敬の念のようなものが湧きあがってくるのを感じた。
もっと、彼女のことを知りたい。
「どうして歌を歌うのですか?」
私は、思い切って尋ねてみた。
「……もう、しゃべってもいいかな。昔ね、」
彼女は、恥ずかしそうに俯いた後、小さな声で語り始めた。
「好きな人と駆け落ちしようって、ここで待ち合わせたの」
「駆け落ちって、結婚を反対されたんですか?」
「仕方なかったのよ――彼は烏天狗だったから。私のような白狼天狗には似合わなかった」
――嗚呼。声にならない声がこみあげる。
また種族。また格差。一体どうすれば、この見えない壁は無くなるのか。
彼女の話は続く。
「でもね、約束の時間になっても彼は現れなかった。高く昇った太陽が落ちて、満月が昇るまで、私はここで待ち続けたわ」
「そんなに……」
「そうしたらね、満月が昇りきった頃に、法螺貝の音が聞こえてきたの」
――そのとき聞こえた音色を私は一生忘れない。
――悲しくて、けれど強くて、己の生き方を決めた者だけが出せる音だった。
彼女はお山のてっぺんを見ながら、そう語った。
「だからね、私はここで歌を歌うことにしたの。法螺貝の音色に合わせて。
もう二度と会えなくてもいい、ただ二人が過ごした時間がここにあった、その証明が欲しかった」
「その後、相手の人には、お会いしたんですか?」
いいえ、と彼女は首を振る。
「風の噂に結婚した、と聞いたわ。それでも満月の晩にだけは、あの法螺貝が聞こえてきた。
不思議なものね。私、ここで歌っていたら誰かが来てくれるような気がしていたの。
てっきり彼が来てくれるものだと思っていたら――来たのはあなただった」
そう言って、彼女は優しく微笑んだ。
悲しみを乗り越えた人だけが持つ、強い笑みだった。
「そろそろね」
「え?」
満月が天頂から滑り落ち始めた頃。
たどたどしい法螺貝の音が、私の耳をうった。
――ぷおぉ…… ――ぷおぉ…… ――ぷおぉ……
なんだ、このへたくそな法螺貝は。まさか、これが駆け落ちの相手?
老天狗を見やると、静かに首を振っている。
「あの人の法螺貝は、もう半年前から聞こえなくなったわ。代わりに鳴っているのがコレなんだけど……」
「下手ですね」
私が切り捨てると、彼女は心底おかしそうに笑い始めた。
「やっぱり下手だと思う? でもいいのよ。私の歌を聞いて、返事をしてくれる人がいる。それだけで私はこんなにも救われているの」
「そんなものですか……」
老天狗の答えは、私にはピンと来ないものだった。
好きな人と一緒になれなくて、一体何が幸せだろうか?
報われない想いに、どれほどの価値があるだろうか?
しかし、目の前の彼女は幸せそうに微笑んでいる。
訳がわからなくなった私は、答えをハッキリさせるために飛び立つ決意をした。
「お邪魔しました」
「あら、もう行くの?」
「ええ、ちょっと用事が。歌声、また聞かせてくださいね」
「はいはい、こちらこそよろしくね」
老天狗と手を振り交わし、空へと舞い上がる。
私は、この法螺貝の主がどんな奴か、見てやろうと思った。
そいつを見たら、彼女の決意が何をもたらしたのか、幸せの正体が掴めるような錯覚をしたからだった。
夜間哨戒の天狗たちと挨拶を交わしながら、お山の上へと昇ってゆく。
音の方向から、中腹の崖の上あたりだろうと目星はついていた。
脇目もふらず飛んでいった先で――嗚呼、なんということだろう。
私は、あってはならないモノを見た。
「あややややや。椛じゃないですか、どうしました、こんな夜中に」
そこで法螺貝を吹いていたのは、射命丸文だった。
私はこいつが大嫌いだ。強い者には弱く、弱い者には強い。
どんな相手にもヘコヘコこびへつらって、仲間内でのウケも良い。
最近では人里にも出かけるようになって、お山のしきたりに触れるギリギリの線で過ごしている。
かと思いきや、お山にやってきた巫女を上手くいなしたとかで、大天狗様に褒められていた。
私とは正反対の、偉い偉い、烏天狗様だ。
「何をしている」
「聞かれました? 恥ずかしいなぁ……
実はですね、亡くなった祖父が法螺貝の達人で、遺言に『お前も法螺貝を練習しろ』と言い残したんですよ」
――目まいがした。
たとえるなら、美味しいお菓子を机の上に積み重ねてきたのを、土足で蹴散らされた気分だった。
あの人が悲しい想いをして、耐え忍んで積み上げた幸福を遺産として引き継いだのは、よりによってコイツだった!
私は天の采配を恨まずにいられなかった。
やがて、それは激しい怒りとなって私を突き動かした。
ああ、そうだろうとも。コイツの祖父なら天狗の掟を守って、駆け落ちを止めたりもするだろう。
「お前は、今度ばかりは絶対に許さない!」
「うわ!」
私は帯刀した剣を抜き打ち様に斬りつけた。
寸でのところで文が避ける。
「ちょ、ちょっと椛? 私を嫌いなのは知ってますけど、いきなり何するんですか!」
「うるさい! その幸福を受け継ぐのはお前じゃない! その資格はお前にない!」
吠えて、再び斬りかかろうとしたとき――私の耳に、あの歌が聞こえてきた。
――おぉ…… ――おぉ…… ――おぉ……
これは……これは歌ではない。
これは白狼天狗が鳴き交わす、撤退の合図の声だ。
あの老天狗が、私に『もう帰れ』と言っている。
「どうして? どうしてコイツを許すの! あなたはそれで幸せなの?」
私には分からなかった。自分の夢を犠牲にして、こんな天狗の悪い見本みたいな者を残して、彼女はどうしようというのか?
――でも、あなたも天狗社会を守って生きてゆこうと決意したんじゃなくて?
刹那、彼女の声が脳裏に響いたような錯覚を受けた。
社会。そうだ、私が普段お山の哨戒をしているのは、このしみったれて閉鎖的で息の詰まりそうな天狗社会で、生きてゆくことを決めたからだ。
格差があろうが、出世できなかろうが、ここで生まれ育った私は外へ出ていくことなど出来ないのだから。
「ちくしょう……ちくしょおおおおお!」
「椛?」
私は剣を鞘に納めると、その場を飛び去った。
文は――幻想郷最速の彼女は、追いかけてこなかった。
その気になれば、すぐ私に追いつけるだろうに、放ってある。
その余裕に救われたのだと思うと、情けなくて涙が出た。
結局、家に着く頃には酔いも醒めてしまい、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった自分だけが残された。
私は大急ぎで布団を取り出すと、頭からすっぽりかぶって寝てしまった。
「ちょっとー、大丈夫ですかー?」
次の日。仮病を使って哨戒任務を休んだ私の元を、一人の烏天狗が訪れた。
姫海棠はたて。文と違い、世渡りや人づきあいの苦手な、私の同類だ。
お茶いれるわよ、と勝手に台所を開けている。
建前上、病気ということになっている私は大人しく従った。
「はい、お茶。暖まるよ」
「すみません、ちょっと体調が悪くて……」
「そう。もしよければ、見て欲しいモノがあるんだけれど」
「私に……ですか?」
頷くと、彼女は写真を一枚とりだした。
一面に大きく、あの老天狗と、私の顔が写っている。
「これって……」
「文のカメラを念写したら、これが出たの。ねえ、これどこで、どうして撮ったの?」
私は、どんな顔をしていいか分からなかった。
文は老天狗の存在に気付いていた。もしかしたら祖父から駆け落ちの話を聞かされたのかも知れない。
だから会いに来た――? それを私が邪魔してしまった――?
「ねー、ちょっと! アンタだけで伝わりあってないでさ、私にも分かるように説明してよ。
この人は誰で、これは何をしているところなの?」
「文々。新聞に書いてありませんでした?」
「あれば聞きに来ないわよ」
私は射命丸文が、なぜ人気なのか分かった気がした。
アイツは腹の立つことに、肝心なところで人情をきかせてくるのだ。
それこそ駆け落ちをしないと――天狗社会から離れないと決意した、祖父譲りの優しさで。
「ちょっと? なんで泣いてるのよ?」
「え? 誰が泣いて――」
る、を言い終える前に、雫がぽたりと床に落ちた。
ああ、あの老天狗は幸せだったんだろうなと、すとんと胸のつかえが落ちた。
了
前作のあれは何だったのだろう。今回みたいな路線の作品を次回も期待しています。