幻想郷の二月も半ばを過ぎた。
寒さがいくぶん和らぎ、今年はじめての東風(こち)が吹くと、まるでそれが合図であるかのように、
一斉に梅の花がほころびはじめた。
雪の白さの中に、可憐な梅花が霧を吹いたように広がる光景。まことに趣深い。万葉人がことに愛でたのも頷ける話である。
この早春の風物は、幻想郷のはずれにある八雲紫の庵にもしっかりと訪れていた。
庭に自生する白梅が、今まさに満開となっているのだ。雪の白に、梅の白、良い塩梅である。
式神の藍が、縁側から梅の木を見上げて感嘆の声を上げた。
「わあ、綺麗だな……」
「何がですかー、藍さま」
部屋の奥の炬燵で丸くなっていた橙が、藍の声を聞きつけ、興味にかられて縁側に出てきた。
寒さに震える橙を、藍はフカフカの尻尾で包んであげる。
「わーい、あったかーい」
「橙、ほらあれ、見てごらん」
「あ、かわいい!」
橙にとっては、あの小さな白い花の美しさよりも可愛さのほうが勝るのだろう。らしいな、藍はにっこりと笑った。
「橙、あれが何の花か、覚えてるかな?」
「ええとね、ええとね……うめ!」
「当たり。えらいぞー」
藍が頭を撫でると、橙は得意そうにえへへ、と笑った。その笑顔を見ながら、藍は心からの幸せを噛みしめる。
そして、ここにあの方がいてくれたら最高なのにな、としみじみ思うのだった。
──ふと古い歌が、口をついて出る。
雪の色を奪ひて咲ける梅の花 今盛りなり 見む人もがも
「藍さま、それって何ですか?」
ふしぎそうに訊ねる橙に、藍は微笑みかけた。
「これはね、お願いなんだ」
「お願い?」
「うん。たぶん、きいてくれるよ」
「え、え?」
きょとん、とする橙の頭を撫でながら、藍は庵の奥へと目をやった。
「ねえ、紫さま」
と、その呼びかけに応え、
梅の花夢に語らく みやびたる花と我れ思ふ 酒に浮かべこそ
口ずさみつつ、開かずの間から、八雲紫がスウッと姿を現した。
「お呼ばれするわ」
藍、にやりと笑って、
「おはようございます、紫さま」
深々とお辞儀をした。
一方、橙はあんぐり。
「あれ、紫さま、春まで冬眠中のはずじゃあ」
リリーホワイトが春を運んでくるまで、紫が目覚めることはないはず。
少なくとも、いままで橙が過ごしてきた中ではそうだった。
こんなイレギュラーってあるんだろうか。
そういう橙のもっともな疑問は、
「べつに決まりじゃないし」
という紫の一言であっさりと打ち砕かれてしまった。
「寝たいときに寝るし、起きたいときに起きるの」
「……はあ」
呆然とする橙の背中をぽんとたたいて、藍はいった。
「橙、宴の準備をお願い」
「え、うたげ?」
「そう。蔵に干した魚と貝があるから、持ってきて」
「………」
「どうしたの。さ、はやく」
「は、はいっ」
橙は一目散に駆けていった。
その後ろ姿を見送って、藍は紫に向き直る。
「梅の精が夢に出ましたか」
「あなたの目論見どおりにね」
「それはよかった」
ふたり、笑い合う。藍は、嬉しくてたまらない。
そして紫はたぶん、それをわかっている。
「藍、花びらをお酒に浮かべて」
「はい。今宵は酒と、それから花に酔いましょう。……雅に」
その夜はしんと冷えたが、幻想郷の忘れられた庵の庭は、幸せで温かかった。
了
雪の色を奪ひて咲ける梅の花 今盛りなり 見む人もがも
万葉集 大伴旅人
(雪の色を奪って咲いている梅の花がいま盛りです。私と一緒に見てくれる人がいるといいのに。)
梅の花夢に語らく みやびたる花と我れ思ふ 酒に浮かべこそ
万葉集 大伴旅人
(梅の花が夢に出てきて語ります。「私は、酒に浮かべてこそみやびな花と思うのです」)
※以上私訳。
寒さがいくぶん和らぎ、今年はじめての東風(こち)が吹くと、まるでそれが合図であるかのように、
一斉に梅の花がほころびはじめた。
雪の白さの中に、可憐な梅花が霧を吹いたように広がる光景。まことに趣深い。万葉人がことに愛でたのも頷ける話である。
この早春の風物は、幻想郷のはずれにある八雲紫の庵にもしっかりと訪れていた。
庭に自生する白梅が、今まさに満開となっているのだ。雪の白に、梅の白、良い塩梅である。
式神の藍が、縁側から梅の木を見上げて感嘆の声を上げた。
「わあ、綺麗だな……」
「何がですかー、藍さま」
部屋の奥の炬燵で丸くなっていた橙が、藍の声を聞きつけ、興味にかられて縁側に出てきた。
寒さに震える橙を、藍はフカフカの尻尾で包んであげる。
「わーい、あったかーい」
「橙、ほらあれ、見てごらん」
「あ、かわいい!」
橙にとっては、あの小さな白い花の美しさよりも可愛さのほうが勝るのだろう。らしいな、藍はにっこりと笑った。
「橙、あれが何の花か、覚えてるかな?」
「ええとね、ええとね……うめ!」
「当たり。えらいぞー」
藍が頭を撫でると、橙は得意そうにえへへ、と笑った。その笑顔を見ながら、藍は心からの幸せを噛みしめる。
そして、ここにあの方がいてくれたら最高なのにな、としみじみ思うのだった。
──ふと古い歌が、口をついて出る。
雪の色を奪ひて咲ける梅の花 今盛りなり 見む人もがも
「藍さま、それって何ですか?」
ふしぎそうに訊ねる橙に、藍は微笑みかけた。
「これはね、お願いなんだ」
「お願い?」
「うん。たぶん、きいてくれるよ」
「え、え?」
きょとん、とする橙の頭を撫でながら、藍は庵の奥へと目をやった。
「ねえ、紫さま」
と、その呼びかけに応え、
梅の花夢に語らく みやびたる花と我れ思ふ 酒に浮かべこそ
口ずさみつつ、開かずの間から、八雲紫がスウッと姿を現した。
「お呼ばれするわ」
藍、にやりと笑って、
「おはようございます、紫さま」
深々とお辞儀をした。
一方、橙はあんぐり。
「あれ、紫さま、春まで冬眠中のはずじゃあ」
リリーホワイトが春を運んでくるまで、紫が目覚めることはないはず。
少なくとも、いままで橙が過ごしてきた中ではそうだった。
こんなイレギュラーってあるんだろうか。
そういう橙のもっともな疑問は、
「べつに決まりじゃないし」
という紫の一言であっさりと打ち砕かれてしまった。
「寝たいときに寝るし、起きたいときに起きるの」
「……はあ」
呆然とする橙の背中をぽんとたたいて、藍はいった。
「橙、宴の準備をお願い」
「え、うたげ?」
「そう。蔵に干した魚と貝があるから、持ってきて」
「………」
「どうしたの。さ、はやく」
「は、はいっ」
橙は一目散に駆けていった。
その後ろ姿を見送って、藍は紫に向き直る。
「梅の精が夢に出ましたか」
「あなたの目論見どおりにね」
「それはよかった」
ふたり、笑い合う。藍は、嬉しくてたまらない。
そして紫はたぶん、それをわかっている。
「藍、花びらをお酒に浮かべて」
「はい。今宵は酒と、それから花に酔いましょう。……雅に」
その夜はしんと冷えたが、幻想郷の忘れられた庵の庭は、幸せで温かかった。
了
雪の色を奪ひて咲ける梅の花 今盛りなり 見む人もがも
万葉集 大伴旅人
(雪の色を奪って咲いている梅の花がいま盛りです。私と一緒に見てくれる人がいるといいのに。)
梅の花夢に語らく みやびたる花と我れ思ふ 酒に浮かべこそ
万葉集 大伴旅人
(梅の花が夢に出てきて語ります。「私は、酒に浮かべてこそみやびな花と思うのです」)
※以上私訳。
うまく感情を伝えられませんが、短い中でも物凄く鮮明に情景が思い浮かべられて、読み終わってからカレンダーが目に入るまで今が何の季節だったのかを忘れるほどでした。
とても感慨深くなるいい話でした
藍様の尻尾うらやましい
和歌を小道具として使ったところも上手いと思いました。
だから、この作品も素晴らしいと思います。