Coolier - 新生・東方創想話

煙月夜想

2019/07/27 22:23:13
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 ふらりと出ていった姉が十日ぶりに帰ったかと思うと、浮かない顔で部屋の隅に座っている。
 珍しいことなど何もない。姉の紫苑というのは常からがこうであって、何かというと陰陽の陰の方ばかりを絶えず引き受けてしまうきらいがある。結果として年がら年中おなじ顔ばかりを世間にさらすことになるわけだが、その顔にもいくつか種類というものがあって、双子の片割れの女苑ともなれば、そのいかにも貧乏たらしい、薄暗い、夢も希望もないような顔の裏にひそむ色々な感情を、薄紙の裏を透かし見るようによく見とおすことができる。
 ――またやったな。
 と、妹はこう思うわけである。姉妹は故あってこのへんぴな幻想郷という土地に流れ着き、世にも馬鹿馬鹿しい切った張ったを演じたあげくに一応の住まいを認められ、この人里の端の端の板張りのあばら家に今はひっそりと暮らしている。ひっそりと、と言っても日がな一日こんな場所にじっとしているわけにはいかないから外に出る。女苑は寺に奉公、紫苑は――いったい何をしているやらわかったものではないが、およそどんなことがあったかの想像はつく。つまり現在、姉はご傷心なのである。家具のひとつも満足にない狭いぼろ小屋にそんな空気を持つものがひとりいれば、たちまち空間そのものがこれに染まる。
「姉さん」
 ほらみろ、返事もしない。帰った時だってただいまも言わなかった。日もとうに暮れ落ちた部屋は暗く、安物のランプがひとつ、頼りない明かりを周囲に投げるきりである。そうした中にぼう、と浮かび上がる陰気な姉の顔。こうした時に女苑のすることといったらひとつしかない。部屋の片隅に、いやにきらきらと飾り立てた小さな竹の行李がある。おそらくこのあばら家一軒より値打ちがあるのではないかと見えるそれを手元に引き寄せ、蓋を開け、中からくしゃくしゃの紙の箱と思しきものをひとつ、続いてこれは燐寸箱と見えるものをひとつ取り出して女苑は立ち上がった。するりと、これもまた派手派手しい草履をつっかけて傾いた木戸の隙間から外に出る。
 ぼんやりとかすむ月が、薄闇の表通りに冷え冷えした光を投げる。山のふもとの人里といっぺんに括ってみてもここはその末端、こんな時間に通りかかる人影などあるはずもなく、ひっそりと静まり返った往来が女苑の足もとから左右に伸びて闇の向こうへと消えている。折しも月はおぼろ、頼りないその明かりを借りて、女苑はくしゃくしゃになった紙の箱から一本の煙草を取り出した。続いて燐寸箱を開け、慣れた手つきで火をともし、くわえ煙草の先に近づけてじりじりと焼く。粗っぽい苦みを口の中に転がし、細い煙をふうと吐き出す。くわえた先の火がちりりと赤く燃え、白くなめらかな煙が小柄な女苑の身体を取り巻いて空に昇っていく。
 女苑がこうして紫煙をふかす時は、ただひとつ、姉につらく苦しい思い出が増えた時と決まっている。
 いつに始まったことかはもう覚えていない。別段煙草が好きというわけでもない。つまりこれは、一種の儀式なのだ。女苑にとっての、あるいは、紫苑にとっての。銘柄は外の世界にいた時分に買い求めた安物で、じきにその残りも尽きる。尽きた時には奉公先の寺の化け狸にでも渡りをつけてもらおうかと思っているが、まだそれを言い出してはいない。
 細い煙をあげる紙巻きを指の間に挟み、通りを左に歩いていく。やや進んだ先に小さなせせらぎがあって、そこに欄干つきの橋がかかっている。その橋の中ほどまで女苑は歩き、古い手すりに身をもたせて遥かな宙を見あげた。
 ひとつ、息をつく。吐きだした煙が丸い月に溶け、その影をいっそう淡いものにする。苦みまじりの煙を吸って吐く中に、ゆらゆらと取り留めのない考えが流れだしていく。
 紫苑の心が晴れない理由はわかっていた。きっとまた、お人好しな人間に入れ込んだのだろう。宿痾なるものの何が一番厄介といって、それが決して敵の顔をしていないことだ。長く連れ添った病は、もはやそれ自体がひとつの人格の拠り所となってしまう。紫苑の急所はまさにそこにあった。
 俗世の何もかもを諦めたような顔をして、そのくせ妙に惚れっぽいところが紫苑にはある。惚れるといっても誰彼構わずついていくわけではない、姉は嫌われ者の神である。彼女もそうした扱いには慣れていて、情ない者に無理やりすがろうとする性根は持ち合わせていない。ところがごく稀にそんな貧乏神を救ってやろうとする人間が出てくる。むろん貧乏神と知って近づくわけではなく、薄汚れた華奢な娘と思いこんで手を差し伸べるわけだが、紫苑はこの手の善人にとことん弱かった。
 人の善性は一種の狂気だ。それは人間に生まれつき備わった渡世の嗅覚、あるいは浮世の勘とでも言うべきものを徹底的に狂わせ、やがて大きな過ちへと人間を導く。紫苑を見初める誰かは男の時もあれば女の時もあり、金物屋の若旦那の時もあれば夫と娘を早くに亡くした未亡人のこともあった。そうした人々はみな総じて、汚れた身なりの紫苑に湯を使わせ、綺麗な服を着せ、当人の満足がいくまで飯を食わせた。紫苑はあえてそれを断りもしなかったが、安易な喜びを顔に出すこともなかった。ただ黙って、憂いを含んだ笑みをかすかに浮かべているきりだった。
 ――馬鹿な姉さん。
 紫苑がもっとも弱くなってしまうのが、この手の優しい人間に関わる時だった。誰であれ自分を害そうとする者ならば、姉はじっとうつむいて耐えることができる。心に硬い殻をまとって、一切の感情から距離を置くようにすればいい。問題は、誰も彼もつれなく行き過ぎる中に差し伸べられるひとつの手だった。姉はこの世の中を見捨てている。自分に向けられる感情は憎しみや蔑みのほかにありはしないと決め込んでいる。月並みな涙などとうに枯れ果てたその時、その間際に、どうしてか自分を助ける者が目の前に現れる。現れてしまうのだ。冷たく閉ざした心に小さな光が当たり、色のある世界にふたたび紫苑は引き戻される。硬くひび割れた魂に差しこむわずかな光を求めて、盲目の貧乏神は暗い地中から這い出そうとする。もしかすればまだこの世に望みはあるかもしれないと、今度こそは大丈夫かもしれないと、乾いた心の内に救いがたい思い違いを抱える。
 紫苑の力が周囲の人間を狂わせ始めるのは、まさにそうした心変わりのさなかだった。
 上手くいっていたはずの商売が傾き始める。家を支えていた夫がある日を境に帰らなくなる、貯めていた金をそっくり空き巣に持ち去られる――降りかかる災難の数は枚挙にいとまがなく、やがて紫苑の関わった家はそのすべてが財を失って没落していく。不幸に善悪の区別はない。ただ降りかかる者に、それは降りかかっていくというだけに過ぎない。何度も何度も何度も何度も同じ光景を目にしながら、紫苑は己の愛した人間というあわれな生き物を、どうしても見限ることができなかった。ただ傷つけるだけと知って、姉はそれでも手を伸ばし続ける。救われたいと願った身がいつしか人を救うことを求めるようになり、そのどちらも叶わないと知って、ようやく紫苑は心の内の小さな火を吹き消すことに決める。
 ――馬鹿な姉さん。馬鹿で、可哀想な姉さん。
 そうして紫苑は、灰のようになった姉は、妹のもとに帰ってくる。一度硬く引き締めたはずの心は悲しみを吸って重くなり、触れた先からぼろぼろと崩れていくそれをどうしようもなく持て余して、姉はふたたび自分の心が石に変わる日を待つのだ。
 燃え尽きた煙草の先を眼下のせせらぎに放り、うつろな瞳で女苑はその行方を追った。みなもに落ちた火は音もなく消え、ほどなく月光を映す流れに沈んで見えなくなる。その光景に、細く儚い姉の背中が重なる。
「女苑」
 背後の声に、女苑は振り返らなかった。いつからいたのか、ということも聞かなかった。そんなものが必要なふたりではなく、女苑はただ、小さく鼻を鳴らして中空の夜を見つめた。やがて隣に、遠慮がちに距離をおいて立つ姉の気配。
「……気は済んだ?」
 女苑の問いに姉は答えなかった。透明な沈黙があった後で、紫苑はぽつりと「煙草の匂い」とこぼした。
「女苑の匂いね」
「なにそれ」
 そのままよ、と姉は答える。
「女苑だなって思っただけ」
 なによそれ――と今度は内心にひとりごち、妹は小さなため息をもらした。姉はそれから何を言う気配もなく隣に立っている。やがて女苑の心に小さな苛立ちが募り始める。
「姉さんはそんなだから、つらい目に遭うのよ」
 小さな声で、ぽつりと漏らす。
「……そうかな」
「そうよ!」
 姉をちらと見やり、頭ひとつ分高いその顔を強く睨みつける。抑えていた感情の箍が、ひとつまたひとつと外れていく。
「考えが足りないのも、注意が欠けてるのも、いつもいつも似たような人間についていっちゃうのも……どうして姉さんはそうなの」
 紫苑の顔には、ただ憂いの微笑みがあるのみだった。
「女苑が不幸になったわけじゃないわ」
「そうじゃない! そうじゃなくて……」
 やり場のない激情が、行き先を失ってしぼんでいく。姉は何をされても怒らなかった。だから自分が代わりに怒るしかなかった。世の不条理を、沈黙する姉に代わって糾弾するのが自分の役目のはずだった。しかしそれさえももはや、どこにぶつけるあてもない。
 ――姉さんひとりがつらいんじゃないって、どうしてわからないの?
 発すべき言葉はこの胸にある。しかしその一言を、女苑はどうしても口にすることができない。
「……知らない」
 何ひとつ思いのままにならない感情がいとわしかった。橋の欄干に突っ伏すようにして、女苑は何もかもを視界から消すことに決める。ちりちりした沈黙が流れ、それを時おり、誰かの小さく鼻をすする音がかき消した。胸にはきりきりと痛む感情があって、ほかならぬ女苑にすらそれは手がつけられなくて、何もできないでいるうちにやがて、姉の声がぽつりと夜気を震わす。
「……煙草、もらえる?」
 ほんのわずかに目を見開いて、女苑はその言葉を聞いていた。姉の心はわからなかった。どうしてそんなことを言うのかと思った。聞かぬふりで通すこともできた。しかし女苑は、わずかな逡巡のあとで、手に持った煙草の箱と燐寸をすいと後ろ手に差し出した。紫苑は差し出されたそれにじっと目を落として、
「これで最後? だったら、」
 箱を押し戻そうとする姉に、無理やり煙草と燐寸を押しつける。
「いいから」
「でも」
「いいの。あてはあるから」
 申しわけなさそうに受け取る姉の顔を盗み見、気づかれる前にさっと女苑は目をそらす。
「それにもう、あたしはいらないから」
 その言葉は、果たして姉の耳に届いていたかどうか。
 紫苑はおっかなびっくり燐寸に火をつけ、口にくわえた煙草にそれを移した。およそ煙を吸いつけぬ者の定石どおりに姉は咳きこみ、やがて慣れてきたころにぽつりとつぶやいた。
「……ありがとう」
 煙草のことだと思っていた。女苑が答えずにいると、
「あなたが怒ってるの見ると、ちょっとだけ楽になるの。私にはそういうの、できないから。女苑が――、」
 両腕の間に顔を隠して、女苑は強く唇をかんだ。
「女苑が、私のお姉ちゃんだったらよかったのにね」
 濡れた薄刃のような声で女苑は、違う、とつぶやく。
 ――姉さんは姉さんじゃなきゃ駄目だ。あたしがあたしでしかいられないことと、それは同じだ。
 ちら、と姉の顔を振り返る。細く息を吐きだす姉の横顔を女苑は見つめる。紫煙はおぼろの月に溶け、輪郭をなくした淡い影に混ざって中天を漂う。
 姉の瞳は、月を見ている。
「……苦いね」
「……煙草だもの」
 煙に目をやられてほろほろと泣く姉の顔を、女苑は努めて見ないことに決めて、眼下をゆく小川の流れにじっと目を落としている。
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コメント



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1.100サク_ウマ削除
なかなかに風情があって良いですね。仄暗さが大変素敵だと思います。
2.90奇声を発する程度の能力削除
風情があり良かったです
3.100すずかげ門削除
文章が好きです。
業が深い神様だけに、身内同士だけは拠り所であって欲しく思います。
4.100ヘンプ削除
紫苑の神としての人間が好きということが分かって好きでした。
5.100モブ削除
視点が揺れるのが、煙草の煙のように思えます。面白かったです。
6.100やまじゅん削除
文章の描写が緻密で、姉妹の苦悩が伝わり、とても素晴らしい作品でした。
煙草を通して生まれる情緒ある雰囲気が切なかったです。
7.90名前が無い程度の能力削除
面白
9.100名前が無い程度の能力削除
良かったです。自分の中でステレオタイプにしか見れてなかった貧乏神が
個性を持った紫苑になりました。お見事
10.100名前が無い程度の能力削除
好きでした
自分の気持ちさえきちんとした名前がつけられない、けれどそれに名前を当てるのは惜しいと思いました
11.100終身削除
この不幸な双子はいつもこうやってどうしようもない感情の押し寄せに折り合いをつけていたんだなと夜の悲しげな情景と相まって居た堪れない気持ちになりました どちらにとっても割り切っても割り切れないものが積み重なってきているようでこの二人の先行きが気になりますね