テーブルに置かれた蝋燭の火が、向かい合う二つの影を映し出す。天井まで伸びた輪郭が微かに揺れている。
薄暗く閉塞的な空間。その中心で、おおよそ不釣り合いなほど明るい会話が交わされていた。
「なんだか魔理沙と話すの随分久しぶりな気がする。またお家に籠って研究してたの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどな…」
「…ひょっとしてまた図書館の本盗んだの?それでパチュリーを怒らせちゃって来るに来れなくなってたとか?」
「今日の紅茶は美味いな。咲夜の腕にもまた一段と磨きがかかったんじゃないか?」
「図星なんだね」
黒い魔法使いの露骨な話題転換に吸血鬼はわずかに呆れを含んだ微笑みを返した。
湖畔に建つ紅い悪魔の館。その地下の一室で不定期に開かれる小さなお茶会。参加者はいつもこの二人だけだ。度々館に侵入する魔法使い―魔理沙。部屋の主である吸血鬼―フランドール。
「フラン、いつの間にそんなに鋭い子になったんだ?魔理沙お姉ちゃんビックリだぜ」
「解るよ、魔理沙の事だもん。でも…魔理沙がお姉様かぁ…うん、今のお姉様より楽しそう」
「本人が聞いたら太陽の下に飛び出しそうだな」
話が途切れると、二人同じタイミングで紅茶を喉に通す。
紅霧異変以降、魔理沙は頻繁にこの紅魔館に姿を現すようになった。理由は日によって館内にある図書館の蔵書を強奪する為であったり、門番に勝負をする為であったりもするが、半分以上はこのフランドールとの茶会だった。
いつも突然ふらりと地下室にやって来ては、紅茶と菓子を交えつつ他愛の無い会話をしてまたふらりと帰っていく。魔理沙はそうしてフランドールのもとへ何年も通い詰めている。最初は暇つぶしの一環のようなものだったが、そんな時間を繰り返していくうちに魔理沙にとってそれが何よりも楽しみなものになっていった。
フランドールにとってもそれは同じである。外出が認められていないためにこれが唯一の外を知る機会であることも大きいだろう。しかし彼女は魔理沙に対してそれ以上の想いを持っていた。
始まりは件の異変の直後。
「ねぇ、魔理沙」
「うん?」
「私、何か変わったと思う?」
「お前の話はいつも唐突だな」
魔理沙がわずかに眼を細めて茶化すように言った。質問をされてもすぐに返さず一言挟む所が何とも魔理沙らしい。
「変わったって、ひょっとして髪を少し伸ばしたりとかしてるのか?」
「違うよ。そういう意味じゃなくて、昔の私と比べてってことだよ」
「昔?」
「この間パチュリーと話した時に聞いたんだ。ある一人の存在に大きな変化が起こる一番の要因は、他の誰かと出会う事。それは人も妖怪も同じだって」
「…ああ、お前が私と出会ってってことか」
「うん」
金髪に帽子を乗せた頭と一緒に背中の羽根も揺れる。細い芯に連なった七色の宝石。見ているとしゃらしゃらと無邪気な音が聞こえてきそうだが生憎音など鳴らない。
「だったらそれを出会った相手に聞いてもダメだろ。それ以前のお前を知ってる奴じゃないと」
「それは解ってるけどさ、紅魔館の皆に聞いても何かハッキリしないんだもん。お姉様も咲夜も美鈴も、『自分で変わったと思うならそうなんじゃないか』って」
言葉と一緒に『納得していません』という心情が顔にありありと現れる。名前が挙がった本人達からすれば単に一番無難な回答をしただけなのだろうが、少々裏目に出てしまったようだ。
紅霧異変の数日後、事の顛末とそこに関わった解決者たちの話を耳にしたフランドール。姉が起こした異変を解決した人間がいると聞けば、彼女の心が外界へ向くのは当然の流れだった。その人間たちに会ってみたい。フランドールは衝動に近い一念に突き動かされ地下室を飛び出すと、そのまま館からの脱出を断行した。
群がる妖精メイド達を押し退けなんとか入り口まで辿り着くことはできたが、姉の友人である魔女によって脱走は阻止されてしまう。
しかし結果的にフランドールは目的を達することになった。対象の人物が向こうから彼女のもとへやって来たのだ。
黒いエプロンドレスを身に着け頭には大きな三角帽子。魔法使いという言葉のイメージを体現したような少女だった。箒の上に腰掛け自分を見下ろす少女に、フランドールは挨拶もそこそこに弾幕勝負を仕掛けた。
その時間が、彼女の過ごした年月の中でどれだけの刺激になったことだろう。フランドールにとってその少女は―魔理沙は495年越しに初めて現れた、全力の遊びに付き合ってくれた相手だったのだ。
「まぁでも、敢えて答えるとするなら変わったんじゃないか。少なくとも最初に出会った時の第一印象とは少し違ってきてるぜ」
「ほんと?」
「ああ。これはどちらかというと私がお前のことを理解してきたってことなのかもしれないが」
「むー、何よそれ。結局魔理沙の答えもハッキリしないじゃん」
「そう言うなよ。こういう質問は簡単なようで適切に答えるのは結構難しいんだ」
宥めてはみるがフランドールの両頬の膨張が止まらない。
本当は印象が違うなどと感じてはいない。魔理沙の中で目の前の少女はずっと変わらないお転婆お嬢様なのだ。
「それで、なんで急にそんなこと聞いたんだ?いつもと同じただの思い付きか?」
「…」
一度の問いで返答は返ってこなかった。
「フラン?」
「…この頃いつも考えることがあるんだ」
笑みは消え、相手を伺うようにゆっくりと切り出す話題。それだけで、ただのその場の話題ではないことが解る。
「私が今こうしてるのは、ただの偶然なんだよね」
「…」
「今だけじゃない。これまでの私の体験も、きっと偶然なんだよね。私が過ごした時間の中にはその偶然がいくつもあって、可能性には限りなんて無かったのかもしれない。でも私はその中のたった一つしか辿ることができなかった」
隙間無く、次々と言葉が紡がれていく。
「私にはお姉様みたいな能力は無いけど、それでも“もしも”のことを考えるの。もしあの時お姉様が異変を起こさなかったら。もしその異変を解決する人がいなかったら。もしその話が私に伝わらなかったら。もしも」
「私と出会わなかったら?」
「…」
影が揺れる。二つのカップの中身は、いつの間にか空になっていた。
「なるほどな。それでお前はその疑問に対しても適切な回答を私に求めてるわけだ」
核心を突く一言。前置きを聞いた時点で魔理沙には予想がついていた。
フランドールは頭の中から拭い去れない思考が煩わしいのだろう。そんな自分を納得させてほしいと、魔理沙を頼っているのだ。
「こういうのはそれこそレミリアの専門だろうが…その顔はやっぱりスッキリした返答は聞けなかったな?」
「うん…」
魔理沙は一息唸って、答えた。
「ハッキリ言ってな、私はそんなもの真剣に考える気は無いぜ。そりゃ一度も考えたことが無いって言えば嘘になるが、運命なんてそんな大袈裟なもんじゃない」
切り捨てるような、バッサリとした答えだった。真剣に聞いたフランドールが呆気に取られてしまうほど。
「それって…」
「同じ幻想郷に生きてるんだ。あの時私とお前が出会ってなくてもいつか違う形で知り合っていただろうさ。そんなもんなんだよ。上手く言えないが、お前が言う可能性なんて有って無いようなもんだ。同じ結果をもたらす出来事がいくつも巡ってきたりするし、気に入らないならいくらでも変えようはあるんだぜ」
フランドールは黙って言葉を聞く以外の行動をとれなかった。これだ。この魔法使いの言葉にはいつも力で押し通すような説得力がある。
「肝心なのは自分の現状に満足してるかしてないかだ。フランは私と出会ったことに悔いがあるのか?」
「…ううん…そんなわけ無いよ」
「だったら今はそんなこと考える必要無いんだよ。何か不満ができたらその時考えろ。…どうだ?この上無く適切な答えだったろ」
勝ち誇ったような笑み。その表情を数秒眺めた後、徐に牙の覗く口から苦笑が漏れだした。
「最後が強引過ぎるよ。もうちょっと気の利いた答えを期待してたのに」
「むっ、悪かったな。これが私の性分なんだよ」
「くふふ…そうだね。ありがとう魔理沙。スッキリしたよ」
「そうか」
そう一言返すと魔理沙は横に立て掛けていた愛用の箒を手に取る。
「それじゃ、フランのお悩みも解決できた所で…」
「…もう帰っちゃうの?」
椅子から立ち上がる魔法使いの背中に問いかける。
「ああ、つい最近手に入れたばかりのマジックアイテムを一度整理しないといけないんだ」
「そう…」
紅い瞳に、光が灯る。
遠ざかっていく姿へ視線を注ぎながら、彼女の頭の中では結論に向かって思考が凄まじい速度で駆け巡っている。
つい先程の魔理沙の強引な言葉は、フランドールには何より心に響く言葉だった。
そうだ。後悔など有るわけがない。
どんな形であれ、自分はこんなにも心惹かれるものに巡り合えたのだ。
だったらそれを得られなかった仮定を考えることに何の意味も無い。
運命というなら、どんな可能性を選んでも自分達は今のような関係になっていた。その結果こそが運命。
自分がそう信じていればいいだけではないか。
魔法使いのおかげで、余計な雑念は消えた。
だから…
「でも少し遅かったね…」
一寸先に待ち受けている結末にも、
彼女はただ感謝することにした。
箒を担ぎ、ドアノブに手を掛けた状態で魔理沙が固まった。その金属の意匠から指先へと、異質な魔力の感覚が伝わってくる。そしてそれは扉から壁、床、天井へと伝播したように部屋全体を覆っていた。
「ちゃんとできてたみたいだね。よかった」
可愛らしい声が、いつにも増して響いたように感じられる。
結界、それも魔力によって対象を内側に閉じ込めるタイプのもの。
「やっぱりこういうのは難しいね。図書館から本を借りて必死でやり方を覚えたんだよ。…いつ使ったのか、解らなかったでしょ?」
魔理沙の頭は今の状況を理解しようと目まぐるしく思考を重ねる。
今自分は結界の中に捕らえられている。
やったのはフランだ。
何故…?
「ずっと、待ってた…ずっとこうしたかったんだよ」
かたん、と椅子が鳴る。足音も立てず、フランドールがこちらへ歩み寄ってくるのが感じられる。混乱からか、魔理沙は振り返ることができなかった。
「なんでこんな真似をするのかって思ってる?私の望みだから、だよ」
足が止まった。魔理沙の背後、腕一本の長さよりも近い距離に彼女が迫っている。
「魔理沙が、特別だからだよ」
囁く声は、幽かに反響して部屋に溶けていく。
フランドールは魔理沙と出会った時から彼女に特別な感情を持っていた。
彼女にとっての特別、それは常識の上では異常とも呼べるものだった。
「魔理沙。私の能力、知ってるよね。ありとあらゆる物を壊す力」
魔理沙の背中に指が触れ、肩へと這い上がってくる。それを目印にするように、三日月型に吊り上った口が震える耳へ寄せられた。
「私ね、この能力が好きなんだ。何かを壊すのが大好き。魔理沙は知らないよね。物が壊れる瞬間の光景。それがどんなものか」
明るくて、暗い。そんな矛盾したような表現しかできない声が、耳の奥へ奥へと流れ込む。
「…とっても綺麗なんだよ。まるで花火が弾けるみたいで、破片がキラキラ光って堕ちていくの。私はその一瞬が見たくて、いろんな物を壊してたんだ。特に私のお気に入りの物を壊した時が一番綺麗なの。私はこの能力のおかげでこんな素敵な思いができるんだね。解るかなぁ、魔理沙にこの気持ち」
最早魔理沙の五体には、緊張していない器官など無かった。
「解んないよね。私を見た人は皆そういうもの。魔理沙も思ってるよね、狂ってるって。だけど仕方ないじゃん、好きなんだもん。我慢なんてできないよ。…私はもっと綺麗な物が見たいの」
幼い吸血鬼が願いを語る姿には、邪な感情など微塵も含まれていない。
無邪気で、純粋な狂気。
多くの者の眼には歪な恐怖の対象と映るだろう。だが彼女にとってそんな他者の感覚など存在しないも同然だった。
この閉ざされた地下室は、フランドールを中心に存在している不可侵の空間。彼女だけのために完成されていた世界には、あらゆる強制も矯正も存在しえない。当然外界からの干渉も及びはしなかった。
そうして気が遠くなる程の年月、彼女の変化の全てを受け入れ、育んできたのだ。
「ねぇ、魔理沙…」
腰に両腕が回され、力が込められる。締め付けるのではなく、縋り付くように。
「好きだよ、魔理沙。あの時からずっと、私はもう魔理沙の事しか考えられなくなってた。だから、こうしたいってずっと思ってた」
言わんとする言葉は、嘘偽り無い本心。そして本心であるがゆえに…
「ずっと…壊したかった」
この上なく残酷な告白だった。
「本当に魔理沙だけだったんだよ、こんなに惹き付けられたのは。それをこの手で破壊すれば、きっと私の心は今までに無い程満たされる」
ぴったり張り付いていた背中から気配が離れた。
「もう我慢できなくなって、壊しちゃおうって決めて準備をしてたらさ、ふっとさっき言ったような事を考えるようになったの。もし魔理沙と出会わなかったら、こんな最高の体験なんて永遠に出来なかったのかなって。でも魔理沙言ったよね。たとえあの時じゃなくても、いつかは出会ってただろうってさ。私もそう思いたいよ。だってもしそうなら運命ってものが私にこんな幸せを用意してくれたってことだし、どんな運命でも魔理沙は私の特別な人になるってことなんだよね」
魔理沙の身体は一切の反応を示さない。
愛しさが込められた言葉も、突きつけられた『破壊』という文字の前では等しく捻じ曲がってしまう。今のフランドールの声は、聞けば聞くほど魔理沙の精神に冷たく突き刺さる。
だがそれでも、魔理沙は心の奥で理解していた。
「嬉しい?」
歪んでいても、嘘ではないのだ。
結末がどうなろうと、彼女は自分に好意を持ってくれた。自分だって同じだ。自分にだって彼女は特別だった。
互いに通じ合っていたのが事実なら、その先に待っていたものを…
「ああ…嬉しいぜ…」
責めることなどできなかった。
「嬉しいのが…残念だ」
「くふふ…ねぇ、こっち向いて…」
振り返った眼に入ったのは、開いた右の掌を自分に定めた、愛しい少女。
魔理沙は悟る。今自分の存在の全ては、文字通り少女の手の内にある。彼女が細い五本指を閉じれば、自分は…
「ありがとう、私の一番のお人形さん。あなたの最高に綺麗な瞬間、見てあげる」
怪物の真紅の瞳に、迷いは無かった。
静寂に支配された室内。『動』という概念が消え去ったように、内部の物体はことごとく運動を停止したまま。
「…な…」
魔理沙は、今だフランドールの前に存在し続けている。
「何…で…」
「…どうした?私の綺麗な姿を見てくれるんじゃなかったのか?」
フランドールの眼に動揺が浮かぶ。
魔理沙の命を絶とうと力を込めた刹那、突き出された右手に何かが触れた。
手だ。
魔理沙の左手が対を成すように絡んできたのだ。そう理解した瞬間、フランドールの思考が止まった。
「あ、あ…う…」
折り重なり繋がった指を伝い、訴えかけてくる感覚。相手から自分へ流れ込んでくるものは、何だろうか。
「あ…あ…」
温かい。ゆっくり確実に身体の奥へ浸透してくる、心地良い熱。その発生源は、魔理沙。それが警鐘となってフランドールの冷静さを妨げる。
「何…何、これ…」
瞳から頬へと滴が一筋滑り落ちる。
冷たく研ぎ澄まされていた心が溶け出し、今自分が感じているものと同じだけの熱を帯びて溢れ出した。
この感覚を知っている。
今まさに自分が壊そうとしたもの。
あの日から、何より自分の近くにあった温もり。
孤独の中に在った自分に深い安らぎを与えてくれた。
ならば、壊せばどうなる?
目の前にある拠り所を失えば、自分はどうなる?
「フラン」
「嫌だ…違う…こんなん、じゃない…こんなの知らないよ…」
しゃくり上げながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
フランドールの精神は混乱の真っ只中にあった。あれほど渇望していた願いに代わって、今自分の中に渦巻いている感情が理解できないのだ。
初めて味わう、喪失の恐怖を。
「何で…あんなに…あんなに欲しかったのに…堪らなくて…もう私にはそれしか…無かったのに…何で今になって、こんな…見たいのに…」
止まらない涙に濡れながら、吠えるように言い放った。
「壊したいのに…壊したくない…!!」
とうとう脚から力が抜け崩れ落ちてしまった。それでもなお、魔理沙と繋がった右手を解くことが出来ない。
やがて泣きじゃくる少女を前に、魔理沙が静かに語り出した。
「フラン。もし私がただの人間だったら、お前の残酷な願いにも応えてやれたかもしれない。だけど、それじゃ駄目だったんだよ」
少女の前に跪き、空いている右手で金色の髪を優しく梳く。
「私は魔女だ。たとえ種族として人間の枠を超えられなくても、それでも私は魔女なんだよ。魔女ってのは強欲で卑怯な生き物だ。間違っても誰かに与えたりしない。自分が欲しいものをただ手に入れるだけ」
二度三度と髪を往復し、そのまま頬へと移動する。
「解るか?私は誰かの為になんて考えられないんだ。たとえお前の願いでも、私自身が代償を払うなんて許せない。お前のものになって消えるくらいなら、お前を私のものにする」
彷徨うように動いていた指をフランドールの顎に掛け、ゆっくりと前を向かせた。
「なぁ、フラン…」
潤んだ輝きを見せる紅い眼は、星や宝石よりも美しく儚げに感じられた。
魔理沙は告げる。自らに残酷な恋を囁いた少女へ、より残酷な愛を。
「好きだよ。私は絶対に、お前を手放してなんかやらないぜ」
魔女の柔らかな体温が、怪物を包み込んだ。
薄暗く閉塞的な空間。その中心で、おおよそ不釣り合いなほど明るい会話が交わされていた。
「なんだか魔理沙と話すの随分久しぶりな気がする。またお家に籠って研究してたの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどな…」
「…ひょっとしてまた図書館の本盗んだの?それでパチュリーを怒らせちゃって来るに来れなくなってたとか?」
「今日の紅茶は美味いな。咲夜の腕にもまた一段と磨きがかかったんじゃないか?」
「図星なんだね」
黒い魔法使いの露骨な話題転換に吸血鬼はわずかに呆れを含んだ微笑みを返した。
湖畔に建つ紅い悪魔の館。その地下の一室で不定期に開かれる小さなお茶会。参加者はいつもこの二人だけだ。度々館に侵入する魔法使い―魔理沙。部屋の主である吸血鬼―フランドール。
「フラン、いつの間にそんなに鋭い子になったんだ?魔理沙お姉ちゃんビックリだぜ」
「解るよ、魔理沙の事だもん。でも…魔理沙がお姉様かぁ…うん、今のお姉様より楽しそう」
「本人が聞いたら太陽の下に飛び出しそうだな」
話が途切れると、二人同じタイミングで紅茶を喉に通す。
紅霧異変以降、魔理沙は頻繁にこの紅魔館に姿を現すようになった。理由は日によって館内にある図書館の蔵書を強奪する為であったり、門番に勝負をする為であったりもするが、半分以上はこのフランドールとの茶会だった。
いつも突然ふらりと地下室にやって来ては、紅茶と菓子を交えつつ他愛の無い会話をしてまたふらりと帰っていく。魔理沙はそうしてフランドールのもとへ何年も通い詰めている。最初は暇つぶしの一環のようなものだったが、そんな時間を繰り返していくうちに魔理沙にとってそれが何よりも楽しみなものになっていった。
フランドールにとってもそれは同じである。外出が認められていないためにこれが唯一の外を知る機会であることも大きいだろう。しかし彼女は魔理沙に対してそれ以上の想いを持っていた。
始まりは件の異変の直後。
「ねぇ、魔理沙」
「うん?」
「私、何か変わったと思う?」
「お前の話はいつも唐突だな」
魔理沙がわずかに眼を細めて茶化すように言った。質問をされてもすぐに返さず一言挟む所が何とも魔理沙らしい。
「変わったって、ひょっとして髪を少し伸ばしたりとかしてるのか?」
「違うよ。そういう意味じゃなくて、昔の私と比べてってことだよ」
「昔?」
「この間パチュリーと話した時に聞いたんだ。ある一人の存在に大きな変化が起こる一番の要因は、他の誰かと出会う事。それは人も妖怪も同じだって」
「…ああ、お前が私と出会ってってことか」
「うん」
金髪に帽子を乗せた頭と一緒に背中の羽根も揺れる。細い芯に連なった七色の宝石。見ているとしゃらしゃらと無邪気な音が聞こえてきそうだが生憎音など鳴らない。
「だったらそれを出会った相手に聞いてもダメだろ。それ以前のお前を知ってる奴じゃないと」
「それは解ってるけどさ、紅魔館の皆に聞いても何かハッキリしないんだもん。お姉様も咲夜も美鈴も、『自分で変わったと思うならそうなんじゃないか』って」
言葉と一緒に『納得していません』という心情が顔にありありと現れる。名前が挙がった本人達からすれば単に一番無難な回答をしただけなのだろうが、少々裏目に出てしまったようだ。
紅霧異変の数日後、事の顛末とそこに関わった解決者たちの話を耳にしたフランドール。姉が起こした異変を解決した人間がいると聞けば、彼女の心が外界へ向くのは当然の流れだった。その人間たちに会ってみたい。フランドールは衝動に近い一念に突き動かされ地下室を飛び出すと、そのまま館からの脱出を断行した。
群がる妖精メイド達を押し退けなんとか入り口まで辿り着くことはできたが、姉の友人である魔女によって脱走は阻止されてしまう。
しかし結果的にフランドールは目的を達することになった。対象の人物が向こうから彼女のもとへやって来たのだ。
黒いエプロンドレスを身に着け頭には大きな三角帽子。魔法使いという言葉のイメージを体現したような少女だった。箒の上に腰掛け自分を見下ろす少女に、フランドールは挨拶もそこそこに弾幕勝負を仕掛けた。
その時間が、彼女の過ごした年月の中でどれだけの刺激になったことだろう。フランドールにとってその少女は―魔理沙は495年越しに初めて現れた、全力の遊びに付き合ってくれた相手だったのだ。
「まぁでも、敢えて答えるとするなら変わったんじゃないか。少なくとも最初に出会った時の第一印象とは少し違ってきてるぜ」
「ほんと?」
「ああ。これはどちらかというと私がお前のことを理解してきたってことなのかもしれないが」
「むー、何よそれ。結局魔理沙の答えもハッキリしないじゃん」
「そう言うなよ。こういう質問は簡単なようで適切に答えるのは結構難しいんだ」
宥めてはみるがフランドールの両頬の膨張が止まらない。
本当は印象が違うなどと感じてはいない。魔理沙の中で目の前の少女はずっと変わらないお転婆お嬢様なのだ。
「それで、なんで急にそんなこと聞いたんだ?いつもと同じただの思い付きか?」
「…」
一度の問いで返答は返ってこなかった。
「フラン?」
「…この頃いつも考えることがあるんだ」
笑みは消え、相手を伺うようにゆっくりと切り出す話題。それだけで、ただのその場の話題ではないことが解る。
「私が今こうしてるのは、ただの偶然なんだよね」
「…」
「今だけじゃない。これまでの私の体験も、きっと偶然なんだよね。私が過ごした時間の中にはその偶然がいくつもあって、可能性には限りなんて無かったのかもしれない。でも私はその中のたった一つしか辿ることができなかった」
隙間無く、次々と言葉が紡がれていく。
「私にはお姉様みたいな能力は無いけど、それでも“もしも”のことを考えるの。もしあの時お姉様が異変を起こさなかったら。もしその異変を解決する人がいなかったら。もしその話が私に伝わらなかったら。もしも」
「私と出会わなかったら?」
「…」
影が揺れる。二つのカップの中身は、いつの間にか空になっていた。
「なるほどな。それでお前はその疑問に対しても適切な回答を私に求めてるわけだ」
核心を突く一言。前置きを聞いた時点で魔理沙には予想がついていた。
フランドールは頭の中から拭い去れない思考が煩わしいのだろう。そんな自分を納得させてほしいと、魔理沙を頼っているのだ。
「こういうのはそれこそレミリアの専門だろうが…その顔はやっぱりスッキリした返答は聞けなかったな?」
「うん…」
魔理沙は一息唸って、答えた。
「ハッキリ言ってな、私はそんなもの真剣に考える気は無いぜ。そりゃ一度も考えたことが無いって言えば嘘になるが、運命なんてそんな大袈裟なもんじゃない」
切り捨てるような、バッサリとした答えだった。真剣に聞いたフランドールが呆気に取られてしまうほど。
「それって…」
「同じ幻想郷に生きてるんだ。あの時私とお前が出会ってなくてもいつか違う形で知り合っていただろうさ。そんなもんなんだよ。上手く言えないが、お前が言う可能性なんて有って無いようなもんだ。同じ結果をもたらす出来事がいくつも巡ってきたりするし、気に入らないならいくらでも変えようはあるんだぜ」
フランドールは黙って言葉を聞く以外の行動をとれなかった。これだ。この魔法使いの言葉にはいつも力で押し通すような説得力がある。
「肝心なのは自分の現状に満足してるかしてないかだ。フランは私と出会ったことに悔いがあるのか?」
「…ううん…そんなわけ無いよ」
「だったら今はそんなこと考える必要無いんだよ。何か不満ができたらその時考えろ。…どうだ?この上無く適切な答えだったろ」
勝ち誇ったような笑み。その表情を数秒眺めた後、徐に牙の覗く口から苦笑が漏れだした。
「最後が強引過ぎるよ。もうちょっと気の利いた答えを期待してたのに」
「むっ、悪かったな。これが私の性分なんだよ」
「くふふ…そうだね。ありがとう魔理沙。スッキリしたよ」
「そうか」
そう一言返すと魔理沙は横に立て掛けていた愛用の箒を手に取る。
「それじゃ、フランのお悩みも解決できた所で…」
「…もう帰っちゃうの?」
椅子から立ち上がる魔法使いの背中に問いかける。
「ああ、つい最近手に入れたばかりのマジックアイテムを一度整理しないといけないんだ」
「そう…」
紅い瞳に、光が灯る。
遠ざかっていく姿へ視線を注ぎながら、彼女の頭の中では結論に向かって思考が凄まじい速度で駆け巡っている。
つい先程の魔理沙の強引な言葉は、フランドールには何より心に響く言葉だった。
そうだ。後悔など有るわけがない。
どんな形であれ、自分はこんなにも心惹かれるものに巡り合えたのだ。
だったらそれを得られなかった仮定を考えることに何の意味も無い。
運命というなら、どんな可能性を選んでも自分達は今のような関係になっていた。その結果こそが運命。
自分がそう信じていればいいだけではないか。
魔法使いのおかげで、余計な雑念は消えた。
だから…
「でも少し遅かったね…」
一寸先に待ち受けている結末にも、
彼女はただ感謝することにした。
箒を担ぎ、ドアノブに手を掛けた状態で魔理沙が固まった。その金属の意匠から指先へと、異質な魔力の感覚が伝わってくる。そしてそれは扉から壁、床、天井へと伝播したように部屋全体を覆っていた。
「ちゃんとできてたみたいだね。よかった」
可愛らしい声が、いつにも増して響いたように感じられる。
結界、それも魔力によって対象を内側に閉じ込めるタイプのもの。
「やっぱりこういうのは難しいね。図書館から本を借りて必死でやり方を覚えたんだよ。…いつ使ったのか、解らなかったでしょ?」
魔理沙の頭は今の状況を理解しようと目まぐるしく思考を重ねる。
今自分は結界の中に捕らえられている。
やったのはフランだ。
何故…?
「ずっと、待ってた…ずっとこうしたかったんだよ」
かたん、と椅子が鳴る。足音も立てず、フランドールがこちらへ歩み寄ってくるのが感じられる。混乱からか、魔理沙は振り返ることができなかった。
「なんでこんな真似をするのかって思ってる?私の望みだから、だよ」
足が止まった。魔理沙の背後、腕一本の長さよりも近い距離に彼女が迫っている。
「魔理沙が、特別だからだよ」
囁く声は、幽かに反響して部屋に溶けていく。
フランドールは魔理沙と出会った時から彼女に特別な感情を持っていた。
彼女にとっての特別、それは常識の上では異常とも呼べるものだった。
「魔理沙。私の能力、知ってるよね。ありとあらゆる物を壊す力」
魔理沙の背中に指が触れ、肩へと這い上がってくる。それを目印にするように、三日月型に吊り上った口が震える耳へ寄せられた。
「私ね、この能力が好きなんだ。何かを壊すのが大好き。魔理沙は知らないよね。物が壊れる瞬間の光景。それがどんなものか」
明るくて、暗い。そんな矛盾したような表現しかできない声が、耳の奥へ奥へと流れ込む。
「…とっても綺麗なんだよ。まるで花火が弾けるみたいで、破片がキラキラ光って堕ちていくの。私はその一瞬が見たくて、いろんな物を壊してたんだ。特に私のお気に入りの物を壊した時が一番綺麗なの。私はこの能力のおかげでこんな素敵な思いができるんだね。解るかなぁ、魔理沙にこの気持ち」
最早魔理沙の五体には、緊張していない器官など無かった。
「解んないよね。私を見た人は皆そういうもの。魔理沙も思ってるよね、狂ってるって。だけど仕方ないじゃん、好きなんだもん。我慢なんてできないよ。…私はもっと綺麗な物が見たいの」
幼い吸血鬼が願いを語る姿には、邪な感情など微塵も含まれていない。
無邪気で、純粋な狂気。
多くの者の眼には歪な恐怖の対象と映るだろう。だが彼女にとってそんな他者の感覚など存在しないも同然だった。
この閉ざされた地下室は、フランドールを中心に存在している不可侵の空間。彼女だけのために完成されていた世界には、あらゆる強制も矯正も存在しえない。当然外界からの干渉も及びはしなかった。
そうして気が遠くなる程の年月、彼女の変化の全てを受け入れ、育んできたのだ。
「ねぇ、魔理沙…」
腰に両腕が回され、力が込められる。締め付けるのではなく、縋り付くように。
「好きだよ、魔理沙。あの時からずっと、私はもう魔理沙の事しか考えられなくなってた。だから、こうしたいってずっと思ってた」
言わんとする言葉は、嘘偽り無い本心。そして本心であるがゆえに…
「ずっと…壊したかった」
この上なく残酷な告白だった。
「本当に魔理沙だけだったんだよ、こんなに惹き付けられたのは。それをこの手で破壊すれば、きっと私の心は今までに無い程満たされる」
ぴったり張り付いていた背中から気配が離れた。
「もう我慢できなくなって、壊しちゃおうって決めて準備をしてたらさ、ふっとさっき言ったような事を考えるようになったの。もし魔理沙と出会わなかったら、こんな最高の体験なんて永遠に出来なかったのかなって。でも魔理沙言ったよね。たとえあの時じゃなくても、いつかは出会ってただろうってさ。私もそう思いたいよ。だってもしそうなら運命ってものが私にこんな幸せを用意してくれたってことだし、どんな運命でも魔理沙は私の特別な人になるってことなんだよね」
魔理沙の身体は一切の反応を示さない。
愛しさが込められた言葉も、突きつけられた『破壊』という文字の前では等しく捻じ曲がってしまう。今のフランドールの声は、聞けば聞くほど魔理沙の精神に冷たく突き刺さる。
だがそれでも、魔理沙は心の奥で理解していた。
「嬉しい?」
歪んでいても、嘘ではないのだ。
結末がどうなろうと、彼女は自分に好意を持ってくれた。自分だって同じだ。自分にだって彼女は特別だった。
互いに通じ合っていたのが事実なら、その先に待っていたものを…
「ああ…嬉しいぜ…」
責めることなどできなかった。
「嬉しいのが…残念だ」
「くふふ…ねぇ、こっち向いて…」
振り返った眼に入ったのは、開いた右の掌を自分に定めた、愛しい少女。
魔理沙は悟る。今自分の存在の全ては、文字通り少女の手の内にある。彼女が細い五本指を閉じれば、自分は…
「ありがとう、私の一番のお人形さん。あなたの最高に綺麗な瞬間、見てあげる」
怪物の真紅の瞳に、迷いは無かった。
静寂に支配された室内。『動』という概念が消え去ったように、内部の物体はことごとく運動を停止したまま。
「…な…」
魔理沙は、今だフランドールの前に存在し続けている。
「何…で…」
「…どうした?私の綺麗な姿を見てくれるんじゃなかったのか?」
フランドールの眼に動揺が浮かぶ。
魔理沙の命を絶とうと力を込めた刹那、突き出された右手に何かが触れた。
手だ。
魔理沙の左手が対を成すように絡んできたのだ。そう理解した瞬間、フランドールの思考が止まった。
「あ、あ…う…」
折り重なり繋がった指を伝い、訴えかけてくる感覚。相手から自分へ流れ込んでくるものは、何だろうか。
「あ…あ…」
温かい。ゆっくり確実に身体の奥へ浸透してくる、心地良い熱。その発生源は、魔理沙。それが警鐘となってフランドールの冷静さを妨げる。
「何…何、これ…」
瞳から頬へと滴が一筋滑り落ちる。
冷たく研ぎ澄まされていた心が溶け出し、今自分が感じているものと同じだけの熱を帯びて溢れ出した。
この感覚を知っている。
今まさに自分が壊そうとしたもの。
あの日から、何より自分の近くにあった温もり。
孤独の中に在った自分に深い安らぎを与えてくれた。
ならば、壊せばどうなる?
目の前にある拠り所を失えば、自分はどうなる?
「フラン」
「嫌だ…違う…こんなん、じゃない…こんなの知らないよ…」
しゃくり上げながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
フランドールの精神は混乱の真っ只中にあった。あれほど渇望していた願いに代わって、今自分の中に渦巻いている感情が理解できないのだ。
初めて味わう、喪失の恐怖を。
「何で…あんなに…あんなに欲しかったのに…堪らなくて…もう私にはそれしか…無かったのに…何で今になって、こんな…見たいのに…」
止まらない涙に濡れながら、吠えるように言い放った。
「壊したいのに…壊したくない…!!」
とうとう脚から力が抜け崩れ落ちてしまった。それでもなお、魔理沙と繋がった右手を解くことが出来ない。
やがて泣きじゃくる少女を前に、魔理沙が静かに語り出した。
「フラン。もし私がただの人間だったら、お前の残酷な願いにも応えてやれたかもしれない。だけど、それじゃ駄目だったんだよ」
少女の前に跪き、空いている右手で金色の髪を優しく梳く。
「私は魔女だ。たとえ種族として人間の枠を超えられなくても、それでも私は魔女なんだよ。魔女ってのは強欲で卑怯な生き物だ。間違っても誰かに与えたりしない。自分が欲しいものをただ手に入れるだけ」
二度三度と髪を往復し、そのまま頬へと移動する。
「解るか?私は誰かの為になんて考えられないんだ。たとえお前の願いでも、私自身が代償を払うなんて許せない。お前のものになって消えるくらいなら、お前を私のものにする」
彷徨うように動いていた指をフランドールの顎に掛け、ゆっくりと前を向かせた。
「なぁ、フラン…」
潤んだ輝きを見せる紅い眼は、星や宝石よりも美しく儚げに感じられた。
魔理沙は告げる。自らに残酷な恋を囁いた少女へ、より残酷な愛を。
「好きだよ。私は絶対に、お前を手放してなんかやらないぜ」
魔女の柔らかな体温が、怪物を包み込んだ。
なお本当に最後にいなくなったのは真犯人。
フランドールも怖いが、それを前にして物怖じしない魔理沙のギラギラした野心もまた恐ろしい