幻想郷のどこかにある屋敷の廊下を一人の妖獣が歩いている。一歩一歩を踏むたびに九本のたおやかな尻尾が揺れている。さらさらと幻想的に光を映して金色に輝く尻尾は、よく手入れがされていると一目でわかる。だけどその持ち主の顔は少々やつれていた。目の下にはうっすらとクマが見えている。手触りのよさそうな黄金色の髪が、一部はねたままだった。
藍は憂鬱そうにため息をついた。憂鬱だった。元々二人しか住んでいない屋敷をただ一人歩いている。ここしばらくの間にすっかり慣れてしまったことだった。紫が部屋に閉じこもって出なくなったのはいつだったろうか。半年前だったっか、一年前だっか、それとも最初からずっとそうだったようにも思えてくる。あれからは長かったのだ。とても長かったのだ。天然かどうかわかりにくい彼女のボケに呆れる自分の声がもう思い出せない。自分が彼女との交流をどれだけ楽しんでいたのかが身に染みる。ああ思い出した。一年前のことだ。確か幻想郷に春が来ないという異変が起こっていた。いや違う。それが解決したころの話だ。紫は草木が枯れるとともに眠りにつき、春の訪れに暁を覚える。何月何日を迎えたかではなく、自然の移り変わりに反応して起きるのだった。春が来ないという異変が起きれば、当然起きる時期もずれこむのである。
春雪異変が解決されたのは五月のこと。
紫が起き出してきたのもそのころだ。
「今年は冬が長引く異変が起こったんですよ」
藍はまずそう言った。
「ふぅん、そう」
と紫が答えた。
「反応薄いですね、結構大変だったんですけど」
「私はずっと春にいましたわ」
「布団の中はさぞ温かかったことでしょう」
「それはもう、ぽかぽかと」
「その間私はてんてこまいですよ」
「よくやったわね。えらいわえらいわー」
「そこはかとなく馬鹿にされてる気が……」
紫はいつも飄々として掴み所がなかった。彼女の友人である亡霊嬢もそういうたちであるから、類は友を呼ぶとは本当なのだろう。亡霊嬢の従者も苦労していることだろうなと思った。
「いきり立っちゃあだめよ。春は頭にお花を咲かせるの」
「実践している人が言うと重みが違います」
「久しぶりに食べるご飯も、程よくお腹にたまるわ。おかわり」
「はいはい」
茶碗に白米をよそっていると、紫が思い出したように言った。
「春といえば」
「?」
「幽々子は元気?」
「特に会っていませんが……この異変を起こしたのは彼女でしょう。春度は冥界のほうに集まっているようでした」
「ふーん、それで春が来たということは、もう異変は解決されたのね。残念、生で見たかったわ」
とことん愉快な性格である。他人の不幸は蜜の味とは言ったものだが、それを実践できるものは人生を三倍は楽しめているに違いない。この調子だと起き抜けに異変の一つ二つ起こしかねない、と思った。それで、ふと思い出した。
「でも一つ妙な話が」
「あら?」
「なんでも、博麗の巫女は道中、妖夢に追い返されたらしいですね。黒白の魔法使いや、悪魔の狗なんかも異変解決に乗り出しましたが、どうも妖夢はがんばったみたいです。全員一度敗れたと。三人は力を蓄えて雪辱の機会を図っていたそうですが、そうこうしているうちに異変は終了してしまって……誰か解決したものがいるはずなのですが……珍しい話です」
「……それは、本当なの?」
「はぁ、そうですが……?」
にわかに主人の声が低くなったので、藍は動揺した。彼女のこんな声を聞いたのはいつぶりだろうと考えた。顔を青くしてスキマを開く姿は珍しいカメラに収めておきたいなと思った。自分もたいがいに影響を受けているなと考えた。そうこうしているうちに紫の姿は消えていた。藍は湯気を立てるご飯をどうしたものかと考えながら、ぼんやり彼女のいたところを見つめていたのである。
「それから帰ってきて……」
己の声で、藍は意識を現実に引き戻された。ひとけのない寂しい廊下が続いている。その先には一つ大仰な扉があって、幾重にも錠と封印を施されているのであった。いかにも危険なものが入っていますという風の扉。その先にあるものを知っている。
「紫様……」
扉の前に立ち、呟く。その声は向こうに届いているのだろうか。この一年この扉から答えが返ってきたことは、ない。それでも藍は心配で心配で、事あるごとにこの扉の前に立って、その名前を呟くのだ。
「紫様……いったいどうしたというのですか……」
帰ってきた紫は蒼白な顔を隠そうともせず、茫然自失とした足取りであった。気にかける藍の声にもまるで反応しないままふらふらと歩いていくと、この部屋に入り、自分ごと蓋をしてしまったのだ。よりにもよって、この部屋に。この部屋ではどれほど強い力を使っても、結界に押さえられて外に影響を及ぼさない。それゆえかつては、あまりに危険な妖怪を封じ込める牢獄として使われていたものだ。
そっ、と手を扉の取っ手にあてる。硬くて冷たい鉄の感触が伝わってくる。そこにかかる自分のため息が妙に生ぬるく感じられた。じれていた。なにもわからないままに翻弄されるのは嫌だった。
藍は少しだけ、力を込めた。もしかしたら開くかもしれない、希望的観測。それは一年にわたって繰り返された一種の儀式だった。
そして、開かないまでが儀式。
普段なら、決して開かない。
ぎぎ……
「……あれ……?」
動いた。
扉が、動いた。立て付けが悪いのか錆びているのか嫌な音を鳴らしながら、ゆっくりゆっくり。ぎぃ、と耳に障る音とともに封印の扉が開かれる。
その先には――
「うっ……!」
口を押さえる。息を止める。足がすくむ、じりじりと後退する。中にあったのは膨大で濃密な妖気の塊だった。部屋に満ち満ちた力がうねりとなって肌をたたく。鳥肌が止まらない震えが止まらない歯がかちかちと音を立てる。あまりに強大な気にあてられているのだ。覚えず、扉を閉めていた。「あ……」間抜けな声が漏れる。やっと開いたのに。開けなければ、もう一度。手を伸ばす。小刻みに揺れている。じっとりと汗がにじんでくる。ごくりと生唾を飲み込んだ。
そして。
開けた。
「ぅぅっ……」
今度は覚悟ができていたから、耐えられた。肌を撫でて行く妖力に負けじと目を見開く。
部屋の中心には紫がぐったりと横たわっていた。
「紫様!」
部屋の中を進むのは容易なことではなかった。異常に濃縮された力の塊をかきわけるのは水の中を歩くのに似ていた。ともすれば足が地を離れていきそうだった。意識が飛び飛びになって上空から自分を俯瞰しているような錯覚を覚えた。
たどり着く。
抱き起こそうとして、その体が嫌に軽いのに気づく。げっそりとやつれた顔が痛ましい。「なにがあったのですか!? なにが!」呼びかける声は裏返っていた。ゆすってもゆすっても返事がないので、部屋から出して、扉を閉める。重圧が消えて安堵の息が漏れる。いやこうしてはいられない。紫の体を抱いて、彼女の部屋へ向かった。布団を敷いて横たえると台所に走る。水を汲んできて、力のない唇に含ませる。
「藍……?」
「気づきましたか……」
全身から力が抜けた。安心のあまり泣き出してしまいそうだった。
「紫様、お腹はすいていませんか。いやすいているでしょう。なにか作ってきます。おかゆで……いいですね?」
「……」
答える気力もないのだろうか。紫はうなずいて答える。
急ぎ作ったおかゆを食べ終わるころには、紫の顔色はだいぶ増しになっていた。
「ありがとう」
「紫様……あの……なにをしていたんですか? 尋常じゃあない……あなたほどの妖怪があんな状態になるまで……」
「……」
紫は細く何度か息を繰り返した。気持ちを整えているように見えた。
「言っても、しかたがないわよ。駄目だったんだもの」
「いいから教えてください。心配したんですよ! 一年間ずっとっ!」
「ああ……一年もたっていたのね……ごめんなさい。気づかなかったわ」
「あの――」
「あなたは」
藍の言葉をさえぎって、紫が言う。そこに先ほどまでの弱弱しい姿は見受けられなかった。だがいつもどおりでもない。目は炯々と怪しい光を放ち、なにか情念に取り付かれているみたいに見える。
「思ったことはあるかしら?」
その言葉は不思議と部屋に響き渡った。藍は何も言えなかった。彼女の声に混ざる強い執念に喉を押さえつけられていた。黙って聞くしかなかった。
「“過去をやり直したいと”」
紫は言う。
今にも泣き出しそうな人間くさい声で。
悔しそうな、歯がゆそうな目で。
「私はやり直そうとしたの」
「なにを……」
「“幽々子の死ななかった未来を”」
春の――幻想色の桜が咲く季節のことである。
それもまた、春雪異変から一年が過ぎた春のことであった。
※※※
時をさかのぼる。
一年と少し前。
まだ雪の花びらが散っていた頃。
「いつも冥界にいるけど、たまには遠くに行ってみたいわ」
「なんですか唐突に」
「だって、退屈なんだもの」
「いや、退屈って、そりゃそうでしょう」
「どうしようかしら。紫が言う『外の世界』とか見てみたいんだけど」
「そんな気軽に行ける場所なんでしょうか」
「さぁ? だめなら、なにか起こらないかしら。それとも、起こしてみようかしら」
「起こしたって、迷惑がってくれる相手がいませんよ」
「迷惑かけるの前提なのね。ひどいわ」
「かけないんですか?」
「かける。あなただけに」
「私だけ!?」
「だって、他にいないし」
「ほら、紫様とかは?」
「今頃寝てるわ」
「その式神とか」
「てんてこまいね。色々と」
「私も割とてんてんこまい……」
「今度休みをあげようか?」
「え、あ、いやそういう意味で言ったのでは」
「たまには、休んでもいいのよ? 私も家事くらい一通りできるし」
「そんなことをやらせるわけにはいきません」
「むー。つまらない。つまらないわ。あなたぐらいの年ならもうちょっと遊びまわったっていい」
「でもなぁ、仮に休みをもらったとして一緒に遊ぶあい……」
「どうしたの?」
「えっと、あっと」
「ああ――友達が――」
「せめてもっとオブラートに包んだ言い方にして!?」
「じゃあ、遊ぶ相手が――」
「変わってないです! 変わってないですよ!」
「つまり、ひと」
「一人じゃないもんっ!」
「もん?」
「え、あ、うー……うあぁ……」
「別に、それくらい恥じることも――」
「……ない……」
「あなたがそれだけ尽くしてくれたということでもあるし――」
「ぼ……じゃない……」
「なんなら今度――」
「ぼぼぼぼっちじゃないです!」
「えっ……えっ? なんて?」
「ぼっちじゃ……一人じゃないもぉーっん!」
……
……
……
※※※
絶叫と共に逃げ出した妖夢は人里に来ていた。
(うう……)
胸のうちに、色んな思いが渦巻いている。
(幽々子様もあんなにはっきり言うことないのに……確かに私が……と、とととも……知り合いが少ないのは事実ですけど……むぅー……みょんなこと言っちゃった……一人じゃないもんって……幼児じゃないんだから……なんだか、帰りづらいなぁ……)
人里に来た理由は単純。
人が多いから、それだけだった。
(人里に来たはいいものの……どうしよう……そこらの甘味処で適当になにか食べて、帰ろうかな……? うーん……でも……それじゃ結局……)
一人。
ぼっち。
友達いない。
色んな言葉が頭を過ぎる。
(みょああ!)
妖夢は声にならない叫びを上げる。
ぶんぶん。頭を振る。
前向きに、前向きに。
幸運の女神様が微笑んだって、うつむいていちゃわかりやしないわ。
ざわざわ。
「ん……?」
前方に、人だかりができているのが見えた。
なにがあるのだろうか。
近づく。
(うわわ……)
厚い人垣に阻まれた。
背伸びしても、まるで見えない。
しかたなく、強引にかきわけていった。二本の刀を携えた物騒な少女に、里の人間たちはこっそり道を譲る。
(あら……?)
あまり、人間っぽくない少女がいた。
綺麗な蜂蜜色の髪と、瞳をしていて、芝居がかった口調で芝居がかった言葉を並べている。可愛らしい人形たちが周囲で動き回っている。人形劇をしているらしい。人形たちは縦横に空を飛び回っていた。魔力で動いているのは瞭然である。
(へぇ……)
感心する妖夢。少女は、いくつもの人形を指先一つ動かさず操っている。
その技巧は目に楽しく、憂鬱を忘れてしばし見入っていた。
(すごいなぁ)
ぼんやりと考える。
劇が終わると、人形遣いの少女が一礼。惜しみない拍手が送られた。妖夢も送っていた。
それからは、里人たちは点々に散り、帰っていく。
何人かは人形遣いの少女に話しかけていた。
そつなく対応する少女。
(私も話しかけてみようかな……?)
ふと、思いつく。
(なにせ私の交友が狭すぎたことが問題になのだから、これはまたとない機会のはず。どうやってあんなにたくさんの人形を動かしているのかも気になる。……でもなぁ……迷惑がられるかもなぁ……うぅーん……)
眉に皺を寄せ、口をへの字に曲げて悩む。
腕組みし、脳内会議に浸っていると。
「そこのひ……人?」
「きゃぁっ」
話しかけられた。
慌てて見ると、くだんの少女がその綺麗な目で覗き込んでいた。
「あ、え、あの……」
「いやね、難しい顔で考えこんでいたから……。私の人形劇、お気に召さなかったかしら」
「そ、そんなことはないわっ!」
「そう……うん、よかった」
ほっとした表情を見せる少女。
意外と親しみやすい人なのかもしれないと妖夢は思った。
「あなたは、人間ではないみたいだけど」
「半分人間」
「もう半分は?」
「幽霊」
「ああ、その饅頭みたいなのか」
「女の子に饅頭なんて言うもんじゃないわ」
「それもあなたなの?」
「私の半身」
「あー、うぅ、ごめんなさい?」
「そこまで気にやまなくてもいいけど……」
「ありがとう。まぁ、それだけだから、それじゃあね」
「え……あ」
少女はそれだけ言うと、くるりと背を向けて歩き出してしまう。
あまり人ごみが好きではないのだろうか。
それとも私と話していてもつまらないのかもしれない。
不安になる妖夢。
(どうしよう……もう少し話してみたいけど……追いすがるか?)
足が出ない。
自分の未熟さを見せ付けられているようで、つらい。
(ああもう……!)
「あのっ!」
思わず声を張り上げていた。
「?」
振り向く少女。
「えっと……」
「なに?」
「名前は?」
「ん?」
「あなたの……名前は?」
「アリス・マーガトロイド。魔法の森に住んでる人形遣いよ」
「あなたは人ごみが嫌い?」
「な、なんかいきなりね……うーん、嫌いじゃないんだけどね。それより一人が好き、っていう感じかな」
「そう……」
「あなたは人ごみが嫌い?」
少女……アリスが聞き返してきた。
「私は……」
妖夢は少し考えてから。
にっこり笑って言った。
「たぶん好き!」
「そ、そう……」
「そこで引くの!?」
「い、いや引いてないわよ?」
「うぅぅ……みょんなことを言ったとは思いますけど……」
「あはは……。まぁ、今度こそそれじゃあね。実は今実験の途中で抜け出してきたから、続きが気になってて……魔法の森に迷い込んだときは、頼ってちょうだい」
「それ以前に、あなたを見つけられないと思うけど」
「そういうときは大声で助けを呼べばいい。色々寄ってくるわ」
「なにが色々なの!?」
「そりゃもう妖怪や人外やネズミのような人間が」
「ね、ねずみ……?」
「でもいっそ堂々としてるから、ネズミは不適切かもしれない」
「は、はぁ……」
「またね」
「ええ、また」
アリスは今度こそ歩き去っていった。
残されたのは人里の喧騒と、対照的に静かな心だけである。
嵐が通り過ぎたあとみたいに、しばし放心していた。
(……話しかけられたのよね……うん、話しかけられた……)
それが、次第に嬉しくなってくる。
普段人里に来ても、買い物のさいの必要最低限の会話しかこなさない。だから、とても新鮮なことだった。
顔が緩む。
高揚が身を包んでいく。
今度また、人里へ来ましょう。
そのときまた、会えるかな。
この嬉しさを、一刻も早く誰かに伝えたい。
ああ、もう変な意地なんて張ることないわ。
妖夢は白玉楼へ向かって飛び立つのだった。
※※※
それから数刻後。
のんびりごろごろしていた幽々子の下に、妖夢が威勢良く乗り込んでくる。
「妖夢?」
「幽々子様! 私今日話しかけられました……!」
「ん……え?」
「今日、私話しかけられたんです……!」
「あ、ああそう……よかったわね」
「はい!」
「えっと、それでどうしたの?」
「少しだけど色々話をして、別れました」
「そう……」
「もう、友達がいな……ああいやまだ友達って呼べるほどのものでは……えぇと……話す相手がいないだなんて言わせませんよ……!」
「まぁ、とりあえず座りなさい。話はそれから聞くから」
「はいっ。それでですねっ! 今日人形遣いの魔法使いのですねっ! アリスさんにですねっ!」
……
……
……
※※※
また数日たって。
冬も終わりに近づきつつあり、落ち着いてぽかぽかとした日差しがさしていた日のことだ。
「書架を漁っていたらね、古い書物を見つけたのよ」
幽々子がのんびりと言う。
「はぁ」
間の抜けた声でうなずく妖夢。
「ほら、お庭に大きな桜があるでしょう? あの桜の木の下には、なにものかが封印されているらしい」
「それはまた大層な」
「大葬だわ。桜の木の下に封印だなんて、どんな大層な人が埋まっているかしら?」
「もしかしたら人ではないかもしれませんが」
「妖怪だったとしても、恐れることはない」
並大抵のものならば、迎え撃てる。
幽々子は自身ありげに言った。
「それで、どうしたんです?」
「ちょっくら掘り返してみようかな」
「ええ!?」
「驚きすぎよ。別にスコップ片手に農作業するわけじゃない。あの桜……西行妖は、たくさんの春を集めれば咲くそうよ。そして、あの桜が満開になれば、封印は解ける」
「そうですか……よかった……」
「それとは別に、妖夢には墓荒らしをしてもらって……」
「なんで!?」
「復活したその人に知り合いはいないでしょう。でも、死んだもの同士なら仲良くできる……かもっ」
「あなたも死んでます!」
「あら、そうね。妖夢も仲良くできそうね。墓の中の人と。半分くらい」
「下半身だけ埋まるの!?」
「私は、上半身が埋まってる図を想像した」
「普通に怖いっー!?」
妖夢は思い描いていた。
地面に、墓標のように突き刺さっている自分。
半霊が心配そうに足の周りを飛び回っている。
スカートがめくれて、色々あられもない姿なのだ。
半霊で必死に隠そうとする。
土の中で妖夢は顔を真っ赤に染めていた。
……
「……」
「それで、春についてなんだけど」
「なんでしょう」
「異変を起こすわ」
「え、えぇぇぇ……どう反応していいか、わかんない」
「前言ったじゃない。なにか起こらないなら、起こしてみようかしら? なに、ちょっとそこらから春を集めてくるだけよ。正直、足りるかはわからないけど……」
幽々子は目を瞑って考えているようだ。
妖夢は頭にこびりついて離れない先の映像を消去するのに忙しい。
異変の発端となったこの日は、そうして穏やかに過ぎて行った。
それから妖夢は大変忙しくなった。
幻想郷中の春を集めねば、あの桜が咲くことはないだろうというのが幽々子の見立てである。
冬を長引かせて、悪いなぁと思いつつも、主の命令は絶対だったし、妖夢自身気にならないわけではない。
あの桜の下に。
いったいどんな人が埋まっているのだろう。
(でも幽々子様みたいのがもう一人増えたら、私の仕事が二倍に……)
ぶんぶん。
頭を振る。
それは考えてもしかたない。
春を、集める。
雪もそろそろ溶け出してきた幻想郷には、再び白銀の冬が訪れた。
それと対象に、冥界の桜は咲き乱れ、典雅に優美に庭を彩っていく。
(やっぱり、悪い気が……)
それでも、途中まで来たからには引けない。
何ヶ月もかけて幻想郷中を飛び回り、春という春をかき集めた。
時にはそのテリトリーの妖怪の迎撃にあった。けっして容易なことではなかった。
五月。
幻想郷に春は来ず、冥界の春は光り輝くように、神々しい。
「あと、少し……」
ある日、幽々子が呟く。
「はぁ、そうですか」
(やっと終わる……のかな?)
「妖夢、今までよくがんばってくれたわ。あと少し、少しだけお願い」
「そ、そんな……従者として当然のことをしただけです。幽々子様自身も、あちこちから春を集めていたではないですか」
「そうねぇ……でも……」
幽々子の言いたいことが、妖夢にはすぐ理解できた。
「でも……もう、春が見当たらない」
秘境辺境にまで足を伸ばした妖夢は、いい加減集めるべき春がなくなってきていることに、気づいていたのだ。
「最後の一歩……ってとこなんだけどねぇ」
「まぁ、なるようになるしか……ないでしょう」
それからは一度は行ったところにも訪れて、春を探し回った。地につもる雪の中から、わずかな春度……桜の花びらを探すのは砂漠で砂金を見つけることに等しい。
難業。
一つ一つ、小さな春が見つけられていく。
その日、冥界には幽霊楽団が呼ばれていた。
とうとう、桜が満開になろうとしていたのである。
後一歩。
後一歩のところで。
春が尽きた。
(くそっ……! 本当に、あと少しなのにっ……もう、諦めるしかないのか?)
満開になった西行妖を見て、楽しそうに微笑む幽々子の姿。
そんな幻想が、かすむ。
悔しかった。
己の無力が腹立たしい。
嫌なことには嫌なことが重なる。
冥界の幽霊たちが妙に騒がしいのである。幽々子があちこちなだめて回っていた。
なんでも、幽明の境を越えてきた生者がいるという。
なんて破天荒。
なんて愚か。
妖夢は白玉楼へ繋がる階段のほうへ飛んでいって、元凶を探した。
……
いた。
黒白の暑苦しそうな服を着ている。魔女っぽい帽子と魔女っぽい箒を持っているが、魔女っぽい顔ではないし魔女っぽい服ではない。
「……!」
だけどなにより。
その人間は、なけなしの春を持っていた。
『あなた、人間ね。ちょうどいい。あなたの持ってるなけなしの春をすべて頂くわ!』
そう言って斬りかかって行くが、一度は撃退されてしまう。
目にまぶしい星の弾幕と、太くて熱いレーザー。
こんなところに来るだけあって、実力は確かなものだ。
『大分暖かくなってきたな』
人間は言った。
『みんなが騒がしいと思ったら生きた人間だったのね』
『私が死体なら騒がないのか?』
『騒がない。人間がここ白玉楼に来ることは、それ自体が死のはずなのよ』
『私はきっと生きてるぜ』
『あなたは、その結界を自分で越えてきた。その愚かさに霊が騒がしくもなろう』
『で、ここは暖かくていいぜ』
『それはもう、幻想郷中の春が集まったからね。普通の桜は満開以上に満開だわ』
『死体が優雅にお花見とは洒落てるな』
『それでも西行妖(さいぎょうあやかし)は満開には足りない・・・』
『さいぎょうあやかし?』
『うちの自慢の妖怪桜よ』
『それは見てみたい気もするぜ』
『ともかく、あとほんの僅かの春が集まればこの西行妖も満開になる。あなたが持ってきたなけなしの春が満開まであと一押しするってものよ』
『しかし、せっかく集めた春を渡すつもりなどあるわけもないぜ』
『満開まであと一押し!』
『いっそのこと、私がお前の集めた春を奪って、その妖怪桜を咲かせてやるぜ』
『私の集めた春は渡しやしない』
『私もな』
『・・・妖怪が鍛えたこの楼観剣に』
妖夢は息を吸い込んで、豪語した。
「斬れぬものなど、ありはしない!」
空には、弾幕の嵐が吹き荒れる。
黒白の魔法使いは、やはり強敵であった。
幾条ものレーザーが行く手を阻み、高密度の星型弾幕が押しつぶす。剣を振るい、振るい、活路を見出さんとしても、どうしても前に進めない。苦戦した。かつてないほどの強敵であった。
それでも、妖夢は勝った。
勝って、春を奪って追い返すことに成功していた。
(危なかった……もう少し長引いていれば、私が負けていた。最後、相手が集中を欠いたところにつけこめたからよかったけど……)
未熟さが身に染みる。
この先、こんなことで主を守っていけるだろうか。
不安だ。もっと、がんばろう。
妖夢は幽々子のもとへ飛んだ。
魔法使いから回収したなけなしの春を渡す。幽々子の手で冥界に溶け込んだ春に、桜という桜がざわめいた。
それでも、咲かない。
彼女が持っていたのは、本当になけなしの春であったから。
(まだッ……だめなのか……!)
幽霊たちが、また騒ぎ出した。
それは妖夢の怒りに当てられたというわけではなく――
(破天荒な人間が、また一人)
ここへ来させるわけにはいかない。
妖夢は再び飛び出した。
次に乗り込んできた人間はことさら奇妙であった。なぜかメイド服の少女は(まさか本当にメイドというわけでもあるまいし)時を止める力を持っていたのだ。まばたきした瞬間に展開される膨大なナイフ、弾幕。妖夢は常に、神経をすり減らすような集中で挑まねばならなかった。気を抜いたら、後ろからざっくりやられるから。
今度も、妖夢は勝った。
やはり、辛勝であった。
なけなしの春を回収し、幽々子のもとへ。
だけど、まだ咲かない。
(あとッ……あと、少しなのに……!)
歯噛み。
幽霊たちが、再三騒ぎ出す。
妖夢の取る行動は決まっていた。
今日は本当に奇妙な日だ。
思う。
目の前に乗り込んできた巫女っぽい少女を見ながら。
(ていうか、ええと……巫女なのかしら? 脇丸出しだけど……こんな服見たことないし……たぶん、巫女かなぁ……?)
いやいや。
そんなことを考えている場合じゃないって。
目を閉じて、雑念を排していく。
(これまでの二人を鑑みるに、この似非巫女も生半可な人間ではない。生半可に人間である私が勝つには――)
気概。
覚悟。
集中。
(余計なことは考えなくていい……目の前の相手に集中するのよ。私は、負けない。先の二人にも勝ったんだから。今度だって、勝って見せる! 勝ってッ、満開の桜を見る!)
妖夢は目を見開いた。
それまでの二人を倒したことで、その日妖夢はとても調子がよかった。筋という筋に力が張っていて、目に映るもの全てがひどく明瞭であった。
必勝の意気を乗せて、吐き出す息も生き生きと。
「妖怪が鍛えたこの楼観剣に――」
武者震いが全身を走る。
「斬れぬものなどあるものか!!」
そして――
……
……
……
桜吹雪が舞っていた。
それは本当の冬のように。
西行寺幽々子は桜を眺めていた。
大きな――巨大といってもいい、桜の木。美しく優雅に、いっそ恐ろしく不気味にも見える威容を誇る妖怪桜だ。西行妖はその花を存分に咲かせ、桜色の吹雪に覆われた冥界はこの世のものではないかのように思える。
「あと……少し」
呟く。
目は、釘付けに。
今なお満開にならぬ桜へと、縫い付けられている。
あと少しで、この桜は満開になる。
そのとき「何者か」が復活するという。その「何者か」が何者なのか……わからない。その好奇心ゆえに、この異変を起こした。
なにより、この「何者か」を他人のように思えなかったのだ。
あるいは、失くしてしまった生前の記憶に、関連しているのかもしれない。
生前深い付き合いのあったものがこの下には埋まっている――。
(私は……生前どんな人間だったのかしら?)
好奇心がうずく。
(今みたいに陽気だったか、対象に陰気だったか……人懐っこかったかもしれないし、孤高を気取っていたりしたかもしれない)
幽々子は、自分の生前の記憶がないことに関してさして悲観していなかった。
(紫は知っているはずなのに、全然教えてくれないし……)
鬼が出るか蛇が出るか。
胸がどきどきと高鳴っていく。
顔を楽しそうに緩めながら、刻々と美しさを増す桜を見上げる。
「本当に、綺麗だわ」
西行妖はもはや、およそ現実と思えない美しさであった。
ピンク色の花弁を散らし、魂が吸い込まれそうな輝きを放っている。
その麗しさに魅せられたものは喰らわれてしまう……そんな一種の不安さえ醸し出す圧倒的な香気と高貴と光輝。好奇の心は興起しとどまるところを知らない。
もう一つむくむくと育っていく感情。
憎い……
「? ……にくい……?」
幽々子ははて、と首をかしげた。
「幽々子様ーッ!」
妖夢が帰ってくる。
「あら、妖夢。早かったわね」
「三人ばかり人間が来ましたが……どうにか、撃退できました」
「人間ねぇ……生者が死者の世界に来るだなんて。まぁいいわ。よくやったわね。それで、春は?」
「集めてきました」
妖夢が差し出した春度を、幽々子はたちまち西行妖へと還元する。
多くの春を吸い上げた桜は、とうとう満開になろうとしていた。
「ああ、とうとう……」
「いったい、なにが現れるのでしょう」
「それはもうここまでさせるんだから、よほどのものでしょう。おいしいのかしら」
「こんなときまで食べ物!?」
「よしんば人間だったとして……」
「カニバリズムに目覚めないでくださいっ!」
「誰も食べるなんて言ってないわ。料理するのは妖夢ね」
「食べる気満々ーっ!? しかも料理するの私ですか!?」
「だって、私より妖夢のほうがうまいし」
「おいしくない! 褒められたって、そんな役得おいしくないですよ!」
「? ああ妖夢違うわ」
「?」
「私が料理するのよ。あなたのその半霊、どんな味なのかしら?」
「まさかのされるほうだったー!?」
「あ、咲くみたい」
「もう……こんなときまでぼけなくていいのに……」
妖夢が溜息をつく。
幽々子はけらけらと笑う。
無理やり、笑う。
彼女自身、不安だったのかもしれない。
それ以上に。
(憎い……憎い憎い憎い……もう……いったいどういう……ああ、憎い憎い憎い……憎いっ……憎い! 憎い! 憎い憎い憎いっ!)
胸の奥からあふれ出してくる憎悪。
とてもつもない恨み。
制御できない感情。
額には、びっしりと脂汗が浮いている。
指先が震えている。足に力が入らなくて尻餅をついてしまいそう。意識がくらくらと揺れて、視界が明滅していた。
「幽々子様でも、緊張することはあるのですね」
その様子を勘違いしたらしい妖夢。
「私だって、元は人間なのよ?」
「そうですよね……幽々子様も人の子、なんですよねぇ……」
「今までなんだと思ってたの?」
「妖怪食いしん坊お化けだとか思ってませんよ」
「じゃあそう思ってもらえるように、もっと食べなきゃね。たくさん作って、妖夢」
「これ以上仕事が増えたら……死ねる……」
「ふふ」
困ったように言う妖夢に、笑いかける。あまり冗談を理解できない彼女である。そういうところもかわいくて、ついつい幽々子はからかってしまう。
少し、心が軽くなる。
静かに、息を整える。
(大丈夫……憎い……大丈夫よ……ただ少し封印されていた誰かさんが蘇るだけ……妖夢の言うとおり緊張しているのかもしれないわね。私も、人の子、か……)
幽々子ははかなく微笑んだ。
(緊張して、ナイーブになってるんだわ。憎いだなんて……私はこれまで思うがままに生きて……いや違うか……死んで来たじゃないの。恨みなんていだく余地がない。散々、好き勝手やってきたんだもの)
憎い憎い憎い……。
(なんで……)
ざわめき。
ざわめいていた。
幽々子は自分の感情が理解できない。
なぜこんなにも憎いのか。
なぜそれを止めることができないのか。
いったいなにを憎んでいるのか。
風が吹いた。
ひときわ強く、桜が舞う。
西行妖が、満開になる。
「わぁ……」
感嘆の息が聞こえる。妖夢のものだ。
だけど幽々子は。
汗。
汗。
汗。
だらだらと流れ落ちる。動悸が止まらない。息が荒くなる。霊の癖して寒気を感じる。
吐き気がする。吐いてしまいそう。吐いてしまいたい。このまま塵のようにはかなく消えてしまいたい。この苦しみから逃れたい。
苦しい……
憎い……
(うぁぁ……)
西行妖の根元に、なにかが滲み出るように現れるのが見えた。
なんとなく。
なんとなく、気になる。
(こんなにつらいのに……)
その“なにか”が、気になってしょうがない。
街頭に誘われる蛾のように、幽々子の足は動いていた。
どこか、浮ついた足取りだった。
妖夢も、幽々子の様子がおかしいのに気づく。
でも、呼び止めはしない。
悲願を達成して、舞い上がっているのだろうと考えた。
後ろからでは、表情も見えやしない。
例え死人のように輝きを失った顔をしていようと。
幽々子は“それ”のもとにたどり着く。
一目で、なにかわかった。
わかった。はずだ。
わからないはずがないからだ。
(ああ……)
幽々子はそして、全てを理解した。
全てを理解して、幽々子は――
……
……
……
※※※
亡霊西行寺幽々子は生前の記憶を失っていた。
彼女は自分が死んでいることを知っているが、死んでいるとわからない。
生の記憶がないからだ。
生きていた頃の実感を持たないということは、彼女がたとい死んでいたとしても、それは死とは呼べない。死がなければ生ではなく、生がなければ死はありえない。生の実感を知らぬ彼女は、死という概念を正しく理解できないのだ。
亡霊とは通常生への執着によって生まれるもの。自分が死んでいることを知っているものもいるが、気づいていないものもいる。気づいていないものは、自分の死体を見ると己の死をさとり、成仏する。知っていながらこの世にしがみつく悪霊も、肉体を供養されれば成仏しよう。
特段生への執着を持たない幽々子が亡霊としてあれるのは、生前の記憶を持たないがためだった。
自分の死を正しく認識できていない幽々子は、自分の死に気づいてはいないのだ。
これは、幽々子の肉体を封印するさい、彼女が輪廻に戻らないよう為された工夫であった。
すなわち、生前の記憶ごと封印する。
生の実感を切り離す。
そうすることで、幽々子は苦しみの輪から解き放たれるであろう。
その事実は、きっと覆られないはずだった。
だが、今封印は解かれた。
封じ込められていた幽々子の死体は西行妖の根元に浮上し。
幽々子はそれを目撃する。
同時に、封印されていた記憶が彼女の脳裏に逆流する。
生まれてから自殺へといたるまでの喜悦、悲哀、鬱屈、絶望が一度に。
生の実感として。
つまり、その時点で。
亡霊西行寺幽々子の死は確定したのである。
※※※
美しく咲き誇る西行妖の威容を前に、妖夢は感嘆を禁じえなかった。
(すごい……これがこの桜の……)
かつて見たこともないほどの清冽な美しさ。あるいは、凄烈。見たものの心に訴えかけるなにかを、その桜は持っている。
(幻想郷中から春をかき集めた甲斐が、あったというもの)
深い達成感と満足感、わずかばかりの虚脱感が全身を包んでいる。
きっと、幽々子様の感動はひとしおでしょう。
目を向ける。
幽々子が、見たこともない形相をしていた。
(え……?)
一瞬、誰かわからなかった。
目を豁然(かつぜん)と見開き呆然と口を開き、顔の幾箇所が小刻みに震えている。元々白皙であった肌を蒼白に染め上げて、色鮮やかな世界の中でその姿はひどく浮いて映る。
その目元から、なにかこぼれ落ちる。
涙。
妖夢は一度も、幽々子の泣くところというのを見たことがなかった。ましてやそれは、西行妖が満開になったことへの感動によるものとは、到底思えなかった。
走る。
幽々子のもとへ急ぐ。
そこで幽々子は。
“彼女と瓜二つの死体をただ呆然と見下ろしながら”。
泣いていた。
「……!」
言葉を失う。
思考を失する。
「幽々子様!」
なんとか絞り出した声。
聞こえているようには見えない。
「幽々子様!」
「う、あぁ……」
「幽々子様!」
「うあぁぁぁ……」
嗚咽を漏らす。
あるいはうめきに過ぎなかっただろうか。
「ゆゆ……」
妖夢は今一度主の名を呼ぼうとして――
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
直後聞こえてきた耳をつんざく絶叫にひるみすくんだ。
「幽々子様!」
叫ぶ。
声の限りに、叫ぶ。
だけどそれ以上に。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
断末魔がごとき幽々子の叫びが大きかった。
冥界が揺れていた。
そう錯覚するほどに、その叫びは確かな質量をもって妖夢を射止めていたのである。
おそろしくておぞましくて不気味だった。
およそ、人が出しているものと思えなかった。
なにより、いつも陽気で暢気なあの幽々子が、こんな悲痛な悲鳴を上げていることが、妖夢から考える力を奪う。
「幽々子様ぁ!」
涙を目じりに溜めて、叫び続ける。幽々子の肩をつかむ。ビクッ、と体をはねさせてから、幽々子は暴れだした。妖夢だと気づいていないらしい。
「幽々子様! 私です! 気を確かに!」
幽々子はいやいやと駄々をこねる子供のように体を振って、妖夢を引き剥がそうとする。滂沱と流れ落ちる涙が、桜に照らされてきらきらと舞う。ひどく幻想的な風景の中で、その一角だけがひどく悪夢じみている。
「幽々子様! 幽々子様!」
妖夢には、名前を呼ぶことしかできない。
「ああああああああああああああああああああああああああ」
幽々子はなにかにおびえるように叫び続ける。
喉から力が失われて、声が出なくなろうとも。
息が途切れて、苦しくても。
「ああああああああああああああああああああああああああ」
体から全てを吐き出すように叫び、泣き、喚き、暴れた。
「あああああああああ……」
その体が、薄っすらと消えていくのに、気づく。
妖夢は、これ以上ないほどに顔を青くした。
「ゆ、ゆゆこさま……?」
「あああああ……」
「幽々子様!」
夢か、幻のようだった。
西行妖のあまりの美しさに自分は白昼夢を見ているのではないか?
あたかもそう錯覚するような、異常な光景であった。
幽々子の体が薄れていく。
それだけではない。
彼女の足元にあった、幽々子の死体が急速に腐敗を始めたのである。
“止まっていたときが、一斉に動き出したみたいに”。
皮膚が腐り肉がこそげ骨さえも風化し消えていく。
西行寺幽々子の生きた証が、ほんの数秒のうちに全て消え去ろうとしている。
「ゆ、幽々子様! 幽々子様!」
もう止められない涙を流しながら、妖夢が呼ぶ。
呼び続ける。
そうしていれば、戻ってくるんじゃないかと思った。
「あああああ……あ……ああ……」
幽々子はもう、後ろが透けて見えるくらい、薄くなっていた。
塵か芥のように、声さえも風にのまれて消える。
「――」
最後の瞬間、妖夢は幽々子が自分を見たように思った。
表情をくしゃと笑みの形にゆがめ、なにかを呟いたように見えた。
その口の動きがなにを表していたのか。
果たして――。
西行寺幽々子という亡霊は完全に消滅した。
まさしく、風の前の塵ほども残ってはいまい。
残されたのは、幽々子の気質の塊(ゆうれい)のみである。
だが、それはもう幽々子だとは言えない。
精神の具現である亡霊と、気質の具現である幽霊は違う。
気質は「考え方」そのもので、記憶や経験を含まないから。
さらに、その幽霊さえも。
妖夢の目の前で千々に散って、消えた。
桜が花を散らすよりも、早く。
儚く。
最初からなにもなかったみたいに。
「あ……」
西行妖は美しく咲き誇っていた。
桜吹雪が舞っていた。
呆然。
呆然と。
妖夢は虚空を眺めるばかりであった。
※※※
生前の記憶、生の実感を取り戻し、かつ自分の死体を見た幽々子は亡霊としての形を保てなくなる。
すなわち、幽霊。ただの気質の塊と化す。
同時に、封印……ある種の結界から解き放たれた幽々子の死体は、それまで止まっていた時の報いを受けるだろう。
千年以上もの時間の渦にさらされるのだ。
当然死体は腐敗し、分解され、地に還るしかない。
時の報いを受けるのは、肉体だけではない。
日の光でさえ消滅しかねない、か細い存在である幽霊に。
千年分の時が叩きつけられる。
耐えられるはずがない。
よって、幽々子の幽霊は消滅する。
消滅するしかない。
つまり、幽々子が幽霊に戻った時点で。
彼女の消滅は確定したのである。
※※※
「そんなところで呆けてどうしたの?」
後ろから声をかけられて、妖夢はようやく自失から立ち直った。
いったいどれだけの時間が過ぎたのだろう。
孤独な白玉楼において、答えるものはない。
「……?」
振り向くと、花見に呼んでいたプリズムリバー三姉妹が不思議そうな顔でこちらを見ている。
彼女たちの演奏を聞きながらのんびりお花見にしゃれ込むはずだった。
それももう、かなうまい。
「あれ……?」
妖夢は混乱する。
なぜ自分はここにいるのだったか。
いったいなにをしていたのだろう。
幽々子様はどこにいるだろう。
西行妖が今、こうして咲いているというのに。
「幽々子様……?」
「あの亡霊嬢なら、私たちも見てないよ」
三姉妹の長女、ルナサ・プリズムリバーが答える。
「呼んだ本人が不在とは、妙なものね」
次女のメルランは不思議そうな顔だ。
「お出かけ中かしら」
「お出かけ中なんじゃない?」
「素直に、聞けばいいのに。お出かけ中なの?」
ルナサ、メルランがぼけるのを無視して、三女のリリカが問う。
妖夢はますます混乱した。
(出かけている……? ようやく、西行妖が咲こうとしているところで……? そうは思えない……幽々子様は……幽々子様は……)
ずきずき。
頭が痛む。
思考がかすみがかったようで、働かない。
なにか言おうとするのだが、舌が動いてくれない。
「あれ? 大丈夫?」
ルナサが心配そうな顔で妖夢を見た。
どんな風に見えているだろう。
私はどんな顔をしているんだろう。
(私は……幽々子様は……)
ぐちゃぐちゃと絡み合う糸のように難解な思考の海。
胸の奥で渦巻いている感情の渦。
その正体もわからずに、埋没していく。
海に沈めば沈むほど、視界の焦点がぼやけた。
なにも見えない心の奥に、たどり着く。
手を伸ばし、なにかをつかもうとして――
……
……
……
「――ああぁぁーッ!」
妖夢は思い出した。
視界の焦点が、合う。
思考の焦点が、結ぶ。
悪夢のような光景だった。
幽々子が影のように溶けて消える。
桜の花びらが舞い落ちる。
気質の塊さえも、消えうせて、一人残され……
「うわあぁぁぁ! わあっぁぁぁ!」
「ちょ、ちょっと! どうしたの!?」
「お、落ち着いて!」
「姉さんたちも! 落ち着いて!」
妖夢はわけのわからぬことを叫びながら暴れだす。三姉妹が必死に押さえようとするのを、おしどけ、わめき、はいつくばる。
「あああぁぁぁぁ……」
叩く。
地面を叩く。
この死者の大地において、幽々子はのんびりと生きていくはずだった。
彼女もそれを疑っていなかっただろう。妖夢も、疑っていなかった。
その幽々子は、消えた。
……死んだ。
消滅したのである。
思考が、かつてないほど早く回転している。感情が、かつてないほどあふれ出してくる。幽々子は実は生きているのではないか? 彼女は一度は死んだ身、それが死ぬなんてあってはならない。……だけど、亡霊は時に成仏する、消滅する。幽霊の存在はひどく儚い。まぶたの奥に焼きつく光景は何なのか。直視してなお、生きているなどと妄言を吐けるか。
「私は! 私はッ……!」
悲鳴、阿鼻、叫喚。
意識がぐちゃぐちゃに乱れて溶けて、形をなくしていく。
平衡感覚が失われて、地面がどっちかわからなくなる。
妖夢は宙に浮いたまま、泣き続ける。
叫ぶ。
咆える。
絶叫する。
「ああああああああああああああああああああああああ!」
その尋常でない様子に、三姉妹は硬直する。
動けなかった。
いったいなにがあったのか、なにが彼女を泣かせているのか。
わからない。
なにもわからない。
ただ、妖夢の声は、涙は、ひどく悲しそうで悔しそうで、そのうちには膨大な怒りを宿していて……
触れれば、斬れてしまうと思った。
物理的な、刀による刀傷ではない。
精神的な、むき出しの感情による傷である。霊の類である彼女たちは精神的な存在であり、他者の感情に影響を受けやすい。
手を出せず。
ただ眺める。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
他人でもない半霊が泣き崩れる様を。
ただ、おろおろと見ていることしかできない。
いつまでも泣いているのを見るのも気まずいので、三姉妹は場所を移していた。
どうやら幽々子はいないようだし、家主のいない家に上がるのもよくない。
白玉楼手前の門のところで、塀に背を預けて座りこむ。
「いったいなんだったのかしら……」
ルナサが眉を寄せ、何事か考えながら呟く。
「さぁ……あんな取り乱したのは、始めて見た……」
いつもは陽気で躁っぽいメルランですら神妙な面持ちで、地面を見つめている。
「亡霊嬢もいないし……なにかあったのは間違いないんでしょうけど」
リリカは、ぼんやりと中空に目をやっていた。
「これから、どうしよう」
ルナサが言う。
「うーん……あの様子じゃあ、お花見とかそんな場合じゃなさそうだしね……帰る?」
「せめて一言残してから」
メルランの提案を、ルナサが補足した。
「うぅん……こんなときこそ演奏するっていうのは?」
そう言ったのはリリカである。
「ほら、メルラン姉さんの演奏なら、気分も上向くんじゃない?」
「そうかもしれないけど……かなり感情が不安定みたいだったし、こういうとき精神に直接響く演奏を聞かせるのは、あんまりよくないわ。メルランはどう思う?」
「えーと……私個人は演奏したいんだけどね。元々そのつもりで来たし、なにもしないで帰るのは不完全燃焼というか……」
「むぅ……」
ルナサは深くうなって考え込んだ。
一番の年上で、リーダー的な立場の彼女はこういうとき判断を求められがちだ。
「やっぱり――」
ざっ、ざっ。
地面を靴が滑る音。
三人は顔を上げた。
存在感も幽(かす)かな半人半霊が歩いてくる。
「ごめんなさい」
開口一番、妖夢は謝る。
「さっきは、取り乱してしまったわ。……でも、今はお花見とか、そういう気分じゃないの。幽々子様も…………いないし、宴会は中止します。せっかく来てもらって、悪いんだけど……」
本当に申し訳なさそうな顔で謝る妖夢。
生気のない顔がうつむけられると、もはや死人にしか見えないほどだ。
「あ、い、いや大丈夫よ。そういうことならしかたないし。う、うん……それじゃあねっ。ほら、メルラン、リリカ!」
「あ、うん、それじゃあ!」
「ま、また……?」
各々別れの挨拶を言うと、気がかりげに後ろを振り返りながら、ゆっくり飛んでいった。
やがて、その姿が空のかなたに見えなくなった頃。
妖夢はひざを突く。
「うっ……うぅぅ……」
涙が自然と溢れてくる。
止めていられたのは、ほんの一時だけだった。
「ぅぁぁ……ゆゆ……こさま……」
まだいまいち、現実感はない。
幽々子が死んだという事実に現実味を見出すことができなかった。
それでも、涙は溢れてくる。
止まらない。
止まらない。
体中の水分が抜けていくみたいだった。
今度こそ誰もいなくなった白玉楼で、孤独な魂魄は泣き続ける。
とても長い時間そうしていた。
気づけば、日が暮れようとしている。
春に満たされた冥界は茜に染まってなお美しく。
満開の花を咲かせる西行妖はただ悠然と、なにもなかったみたいにたたずんでいた。
日は暮れて、空には月が輝いている。
おもむろに立ち上がる、妖夢。
足ががくがくと震えておぼつかない。
涙と一緒に、体中の力を出し切ってしまったみたいだ。
「眠ろう……」
ふらふらと、歩く。闇の中にあってなお陰鬱なその様は、幽鬼と見紛うばかりである。
白玉楼の自分の部屋へ行く途上、庭に咲き誇る桜を見た。
「ああ……これも……」
もう、春をこの場所に集めておく意味はない。
西行妖は、咲いた。
そして、幽々子は消えた。
なぜ幽々子様はきえてしまったのだろう。
(なぜ……)
しかし少なくとも、その一端はわかっていた。
今も、当たり前の顔して咲いている、そいつ。
西行妖。
「お前が……なければッ……!」
唇をかみしめる。
歯軋りする。
今も綺麗なピンク色の花弁を散らすその姿に、罪悪感は認められない。それは当たり前のことだ。妖怪化しているとはいえ、植物。長らく封印されていて、きっと自我も弱かろう。そんなものになにを求めるというのだ。
「それでも……!」
憎しみを込めた視線が、夜の空気を切り裂く。
蒼白であった顔は、ほの赤く染まり、怒りに震えている。
今すぐこいつを……
妖夢は、かぶりを振った。
今は、もう、そんなこと、いいんだ。
どうでもいい。
寝たい。
なにもかも忘れて。
眠ってしまいたい。
再び歩みだし、自分の部屋に着いた。布団をおざなりに引っ張り出すと、服もそのままにもぐりこみ、目を閉じる。
全身に溜まっていた疲労。三度にわたる熾烈な弾幕戦と、主の死に体は休息を訴えていた。
あっという間に、眠ることができた。
妖夢はその日、夢を見た。
※※※
「妖夢、ご飯」
「お昼ごはんなら、今さっき食べたじゃないですか。ボケ老人じゃないんだから」
「ボケ老人なんて……ひどいわっ……妖夢は私のことをっ……そんな風に……!」
「思ってません。でもある意味、ボケ老人よりたちが悪い」
「私には介護が必要だって?」
「それより悔悟が必要かなぁ」
「私は過ちなんて犯さないわ。だから悔いることもなにもない」
「暴飲暴食はお体に障りますよ。あと私の疲れに繋がります」
「過ちとか失敗っていうのはね、妖夢、主観的なものなのよ」
「はぁ」
「確信犯という言葉があるでしょう? あれは本来、本人が自分の信念に基づいて、規範から外れていることを正しいと信じて行う犯罪を指す」
「わざと悪いことをやる、って意味じゃなかったんですか」
「それは誤用。日常的に使われる言葉としては、だいたいそっちの意味だけど」
「犯罪を起こしたら御用ですけどね」
「そう、でも後世になってその行動は賞賛されるかもしれない。筋の通った思想には、たいてい賛同者が現れるもの。社会から大変な罪だと言われる行為も、一部の人にとっては正しいこと。時代が移ろえば、マイノリティがマジョリティになりえる」
「ええと、つまり?」
「私が正しいと思えば、正しい」
「んな無茶な……」
呆れる妖夢。
「ともかく、お夕飯まで待ってください」
「えぇー? 三時のおやつはー?」
「だめったらだめです!」
「ぶぅー、いいじゃないのー、それくらいー」
「今度は赤子になった……」
「年齢不詳って素敵な響きよね!」
「範囲が広すぎますよっ! もうっ」
言いながら、腰を下ろした。
「忙しいんじゃないの?」
「特に忙しくはないです」
「暇なの?」
「暇じゃないです」
「馬鹿なの?」
「死んでいます」
「のんびりお茶を飲むことが仕事だったのね」
「私は知っていましたよ。あなたの仕事がそうであることを」
手元にあった湯飲みにお茶をそそぐと、冷ましながらちょっと啜った。
「まぁ、確かにあなたは少し働きすぎね」
幽々子が唐突に言う。
「いきなりなんです?」
「ちょっと仕事させすぎかと思ってね。朝から晩まで」
「わかってるなら減らしてくれてもいいのに……いや、でも剣の修練をする程度の時間はありますし、こうしてゆっくり休むくらいには」
「うーん、でもねぇ」
なにかしら考え込む幽々子。
「そうだわ! 今日は私が代わりに」
「そそそんないいですって!」
慌てて妖夢がさえぎった。
むぅ、とうなる幽々子。
「融通が利かないねぇ」
「真面目だって言ってくださいっ。主に仕事させるなんてそんなこと……」
「うーん」
幽々子はおとがいに指を当てて、かわいらしく首をかしげる。
奔放な人だなぁ、と妖夢は思う。
「じゃあ、せめて」
幽々子が静かに立ち上がる。
近づいてくる。
ぽけっ、と間抜けな顔で見上げる妖夢。
「えいっ」
「わぁっ」
幽々子が突然抱きついてきたので、素っ頓狂な声が出た。
「あ、あの……」
「よしよし」
「うぅぅ……子ども扱いしないでくださいよ……」
頭を撫でられて、気恥ずかしい。
早く一人前になってやろうと思っているのに。
妖夢には、幽々子を振りほどくことができなかった。
「たまには従者をねぎらってやるのも、主としての仕事よ」
「そんなこと言ったって……恥ずかしいですよ」
「もー、うぶねー。えいえいっ」
わしゃわしゃと髪の毛をかき乱される。
思考もかき乱されて、落ち着かない。
視線は救いを求めてさまようが、ふんわりと包み込む幽々子の体しか見えなかった。
(ああ……でも……)
なんだかとても穏やかで、静かで、温かくて……
気持ちい……
※※※
目が、覚めた。
――ちちちちちち……
そんな小鳥のさえずりが聞こえてきそうな、健やかな朝だ。
障子越しに太陽の光が燦燦と差し込んできて、眩しい。
部屋にできた光と影。その光の中にあって、妖夢は蔭った目をしている。
――ちちち……
健やかな朝に、実際そんな声が聞こえてくるのではない。
冥界の生物は基本みな死んでいる。
死人に口はなく、死んだ生き物は鳴かないのだ。
ぽとっ。
こぼれる。
涙だった。
自分が泣いていることに気づくのに、十秒かかった。
自然な、涙。
立てた板の上を水が滑るように、至極当然にあふれ出てくる涙。
嗚咽は漏れない。
昨日感じていた爆発的な悲しみや憤怒が胸を満たしているのでもない。
ただ、空虚だった。
もう、なにも残っていない。
心がにぶい。
泣いて泣いて泣いて……全ての感情が流れ落ちてしまったみたいに感じる。
(あれは……夢か……)
懐かしい夢だ。何年か前に、そんな一幕があった。そのときの感触を今でも覚えている。幽々子が抱きしめてくれた、その温かさを覚えている。
「……寒い」
肩をいだく。
空前絶後に春ざかりな冥界は、朝でもひどく暖かな陽気につつまれている。
布団をかぶった。
目を瞑れば、あの団欒がまぶたの裏に浮かんでくるような気がする。
……
……
……なにも、起こらない。
むなしい。
妖夢は立ち上がった。
障子を開けると、強い光が目をつきさす。平和な光であった。慈悲の光であった。皮膚がぽかぽかと温まっていく。だけど、皮の内側がどうしようもなく冷たい。
塀の向こう、庭にはたくさんの桜が咲いていた。
草花の香りに溢れた世界は、今の自分にふさわしくない。
(今日は、春を幻想郷に返そう)
なんとはなしに、そう決める。
決めると、すぐに動き出した。
体を動かしている間だけは、なにもかも忘れていられそうな気がしたのだ。
一度は破れ、すごすごと帰っていった霊夢、魔理沙、咲夜。
彼女たちは各々、一日休んで力を蓄えていた。
一度負けたからといって、そこで異変解決は終わらない。
一度負けたら二度挑む。二度負けたら三度挑む。三度負けたら……
特に今回は、いつまでたっても春が来ないという大変面倒な異変だ。
なんとしても解決せねばなるまい。
彼女たちは、充実した気概で、再戦を誓っていたのだった。
が。
「春ですよー」
幻想郷に春が訪れる。
今まで降っては積もりを繰り返していた雪はあっという間に溶け、木々は芽吹いて、茂り、生き物の気配が戻ってくる。
突然のことに困惑を隠せない。
でも、春は帰ってきた。
目的が達成された以上、釈然としないものが残るものの、わざわざ冥界まで乗り込んで行く理由はなくなっていた。
こうして、春雪異変は幕を閉じる。
幻想郷中を騒がした異変にしては、あまりにあっけない終わりだった。
「いったい、なんだったんだろうな」
博麗神社の縁側に座って、魔理沙が言う。
「さぁ? 飽きたんじゃないの?」
霊夢がのんびりした声で言った。久方に生き生きとした春景色を見れて、心なしか嬉しそうな声だ。
「だけどこうも都合よく展開すると、逆に怪しいわ」
咲夜が言う。突如春がやってきたのは、博麗の巫女か黒白の迷惑な魔法使いがあの半霊をどうこうしたのだろうと、確かめるために来てみれば、二人はそんなこと知らないと言う。
(いったい、なにがなんだか)
勝手に異変を起こしては勝手に終わらせるなんて、マイペースなやつらだ。
咲夜は不満げに鼻を鳴らす。
「ああでも、あんたたちもあの……ほら、なんか半人前っぽいのと戦ったのよね」
霊夢が言う。
「ああ、そんで全員後れを取ったと」
相槌を打つ魔理沙。
「半人後ね」
霊夢が溜息をつく。
「できれば、雪辱を晴らしたかったわ」
咲夜は歯がゆそうである。
「今からでも喧嘩吹っかけてくれば?」
「大儀名分もなしに館を長くあけるのは……妖精メイドたちに任せっきりだと、碌なことにならないし」
「それ、雇ってる意味あんのか?」
「さぁ? まぁ、広い館に数人だけじゃ味気ないんじゃないかしら」
「適当だなぁ」
魔理沙がしみじみと言った。
「その適当さにつけこんで泥棒を働く不届きものがいるから、困るのよね」
「うんうん、全くだ」
「……」
「……」
「ちょっと表出ろ」
「おお。私もちょうどもやもやが溜まっていたところだ。受けてたつ」
今日も幻想郷は騒がしい。
特に寂れた神社には変なのばかりが集まってくる。
飛び去っていく魔理沙と咲夜を見ながら、霊夢は一人呟く。
「噂の従者さんは、今頃なにをしているのかしら」
答える声はなかったし、答えを望んでもいなかった。
集めた春を幻想郷へと返して回り、帰ってくるころにはほとほと疲れ果てていた。
日はもう傾きだしている。
春度が減少し、平年の5月の気候を取り戻した冥界では、もう桜の花も散り果てている。
今朝とは打って変わって、物悲しい風景。
午後の陽が照らす冥界に音はなく、色はなく、灰色の景色がどこまでも広がっている。
(そうだ……こっちのほうが、いい)
自分の部屋へ戻る途上、幽々子の部屋の前を通りかかる。
足が、床に縫い付けられたように動かない。
先へ進もうとするのに。
(気になっているの……? 私は)
手が、伸びる。
制止しようとしても、無駄だった。
(幽々子様……)
幽々子の部屋は、いつもと変わらぬようにあった。
毎日のように掃除していた、見慣れた部屋。
家具が上品に配置されて、壁には掛け軸がかかっている。
すぅ、と息を吸い込む。
幽々子のにおいがした。気がした。
(なにを考えているんだか……)
変態か。
私は。
溜息をつく。
「……」
それからしばらく、立ち呆けていた。
どうしても、離れる気になれない。
今すぐにでも寝転がって、幽々子がそこにいたのだという実感を得たい。
だけどそれ以上に。
(怖い……)
なにが怖いのだろう。
よくわからない。
でも怖い。
妖夢は怖かった。
動くに動けない。
……
……
「日が暮れちゃうわ」
振り切って、歩き出す。
主がいないからといって、仕事をおろそかにしてはなるまい。
掃除をしよう。洗濯をしよう。ご飯を作ろう。
それを喜び、いたわってくれる人はもういないけれど。
「……ッ!」
歯噛みする。
また涙が溢れてきそうだったから。
目をぎゅっ、とつぶって考えるのをやめて、必死に悲しい感情を排泄していく。
泣いてたまるか!
泣いてたまるか!
泣いてたまるか……!
(いつまでも泣いているような……半人前じゃ、ないのよッ!)
どうにか耐えられた。
眉を引き寄せ、唇を引き結び、屹然とした顔で歩く。
(幽々子様私は……)
それでも、こぼれてしまう。
疑問。
私はこれから、どうすればいいんでしょうか?
春を返した次の日からは、いよいよやることがなくなっていた。
いつもどおりに庭の手入れや家事をこなして、屋敷を保持する。
剣の修行にうちこむ。
ただ、それだけだ。
作ったご飯をおいしいと喜んでくれる人がいない。
掃除された部屋を見て微笑んでくれる人がいない。
剣の修行をにこにこと眺めている、あの人はもういない。
たわいもない話をする相手も、いない。
(ああ――)
妖夢は理解した。
(これが……これが孤独だった。私は自分のことを、一人ぼっちだとか、友達がいないだとか、そんなことで悩んでいたけれど……違う。違うんだッ! 私の傍にはずっとあの人がいてくれた! 幽々子様が笑っていてくれた! それなのに……それなのにそんなことにもッ……!)
情けない。
なんて情けない。
本当に一人であるときは、全ての行動は自分のためにしかなりえない。
それは虚しい。
とても虚しいのだ。
感情という感情が麻痺して、全身から気力が抜けていくように感じる。
「どうすれば……」
ここ数日、何度も繰り返してきた問い。
「どうすればいい……」
主を失った従者は、これから何のために生きればいいのだろう。
「幽々子様ぁ……」
視界がにじむ。
涙がにじんだ。
(駄目だ……)
涙と一緒に、色々なものをまぶたの裏に押し込める。
(駄目だ……考えるな……)
考えたら、また泣いてしまうことが理解できる。
思えば思うほどに、悲しみが深くなることを直感していた。
(なにも……考えちゃ駄目……私は、ただ、生きればいい……目的なんてなくても、食べたり掃除したり修行したり庭の手入れをしたりして過ごしていけばいいのよ。一人で隠遁している老人なんて、どこにだっているでしょう? そうよ。誰しもが団欒の中にいるんじゃあない。一人で暮らして、平然としている人だっているじゃないか! 私もそうなればいい! 前例がある以上、なれないはずがないんだから! 生活の様式が変わるだけよ! その変化に、ついていけてないだけなのよ……!)
そう考えると、気が楽になった……気がする。
重たい足を動かして、走る。
走りたかった。
こんな鬱屈、風に流されて消えてしまえと思った。
顔の筋肉を無理やり動かして、笑う。
「あはは!」
笑った。
馬鹿みたいに口を開けて馬鹿みたいな笑い声を上げていた。
感情なんて、あとからついてくる。
楽しそうに生きていれば、いつかは本当に楽しくなる。
そうだ、それでいい。
それで……
……
……
……
その日も、夢を見た。
とても楽しい夢だった気がする。
だけど、詳しい内容は覚えていない。
それが、ひどく惜しい。
(朝、か……)
これで彼女がいなくなってから、何度目の朝だろう。
ふと数えてみようとして……
わからない。
(こりゃ、参ったね)
曜日の感覚が消えうせている。
今がいついつ何日なのか見当もつかない。
一人の生活は、時が過ぎるのが早すぎる。
妖夢は毎日、機械的に家事や修行をこなし、食べ、作業的に寝ることを繰り返していた。
その日も、そうなるはずであった。
昼頃、一人の来訪があった。
屋敷の玄関口から、妖夢を呼ぶ声がする。
いったい何日ぶりの、人の声だったろうか。
「あ、あー」
少し、声を出してみた。
うん、大丈夫。
ちゃんと出る。
確認して、来訪者のもとへ向かうのだった。
「えっと、あなたは……?」
そこに立っていたのは見知らぬ人物だ。
いや、人ではないのだろう。
死者の国たる冥界において当たり前の顔をできるのは普通、人ではないか、既に死んでいるものだけだ。
「私は彼岸で閻魔をやっている四季映姫・ヤマザナドゥと言います。今日はあなたに、一つ確認があって来ました」
「はぁ……」
鬼も嫌がる閻魔を前にしながら、妖夢は気の抜けた返事を返す。
そもそも生気がなかった。
「あなたは……」
なにかを言いかける映姫。
口を閉じ、つぐむ。
再び開くときには、もうその声は揺れていない。
「先日」
映姫が言葉をつむぐのを、妖夢はぼんやりを見ていた。
「西行寺幽々子の身になにか起こりましたね?」
「……!」
その意識が、急速に現実に引き戻される。
どこかふわふわとして、現実味を欠いていた世界が、ひどく鮮明になる。
「幽々子様は……! 幽々子様は! まだ生きて……!」
「? なにを言っているのですか?」
閻魔はいぶかしげな顔だ。
「彼女にはこの冥界の幽霊の管理を頼んでいました。ところが先日、冥界の幽霊が彼岸に迷い込んできたのです。それも、何度も。彼女に管理を任せてから、こんなことは一度もなかった……。となれば、なにかがあったはずです。なにがありましたか?」
語る映姫の言葉を、妖夢はゆっくりと咀嚼する。
それはつまり、妖夢の中に残っていた一縷の希望を砕くことでもあった。
(幽々子様はやはり、ただ消えたのではない。消滅した。跡形もなく。現に、彼岸の閻魔様もわからないという……幽霊は普通、三途の川へ、彼岸へ漂うものなのに。………………)
「幽々子様は……」
呟く。
映姫に言ったというより、考えがそのまま口から漏れていたといったほうが近い。
「幽々子様は、死にました」
「死んだ? もう死んでいるわ」
「消滅しました」
「……」
「幻想郷には、春が訪れないという異変が起こっていましたね」
「ええ」
「私たちが犯人です。幻想郷中の春を集めて、西行妖の花を咲かせようとしたのです。封印を解くと復活するという『何者か』を見るために。そして西行妖が満開になると、幽々子様瓜二つの……死体が現れ、それを見た幽々子様は消えてしまった」
いざ言葉にしてみると、意外と落ち着いて、すんなり話すことができた。
自分でも不思議なほどだ。
喉はつっかえなかったが、そのことが胸につっかえる。
「……」
そして妖夢の告白を聞いた映姫は、傍目にもわかるほど驚いた。
瞳孔が開く。
だが、それも一瞬。
努めて冷静な声で、映姫は聞く。
「それは……本当ですか?」
「本当です」
「……困りましたね」
「あの……」
「はい」
「幽々子様は……幽々子様はなぜ死んでしまったのですか? それが、いまだにわからない。……いや、もちろんわかっています。西行妖が原因でしょう。それ以外に考えられない。私たちが……私が愚かにもあの桜を咲かせてしまったから……!」
その言葉は、つっかえた。
あるいは、ずっと考えないようにしてきたことに、はからずも。
気づいてしまう。
(私が……私が幽々子様を殺したようなものだ……! 私は……私は……)
うちひしがれる妖夢。
映姫が答える。
「あの桜には封印されていたのは」
「……」
「あの桜には、西行寺幽々子の生前の肉体と記憶が封印されていたのです。よって、あなた方が復活させようとしていたのは、西行寺幽々子そのものです」
「……つまり?」
「彼女が亡霊であれたのは、肉体が保存されていたから。そして、生前の記憶を失っていたからです。生前の記憶、生の実感を持たないからこそ、自分の死を理解せずにすんでいた。記憶が蘇れば彼女はもう、亡霊ではいられない。ただの幽霊になるでしょう。一つ聞きたいのですが……彼女の死体は、どうなりましたか?」
「……あっという間に腐って、なくなりました」
「なるほど。おそらく封印されている間先送りにされてきた時間が、一度に襲い掛かったのでしょう。だとすると、こうですね? 死体を見た西行寺幽々子はまず、幽霊になった。さらに、幽霊となった彼女もすぐに掻き消えてしまった。大量の時間が、一度に彼女に流れたから」
「……それで、たぶん……」
妖夢の声は、小さく震えていた。
それはこの短い時間、少ない情報から幽々子が死んだ状況を推測した映姫への驚きを表すものであり、理屈によって幽々子の死を証明されたことへの恐怖でもある。
一縷の望みが砕かれても、どこかにくすぶっていた“希望的観測”。
それさえも……もう保てない。
認めるしか、ない。
認めるほかない。
くしくも閻魔の口から、死亡宣告を突きつけられた。
やはり、幽々子は死んだのだ。もう生きてはいないのだ。
そのとき妖夢の内面で、大きな変化が起こる。
本人自身も気づかないような、水面下の変化。
「しかし……」
映姫が呟く。
「そうとなると、なにかしら対策を立てねばなりませんね。幽霊があちこちさまよい歩く事態はさけなければならないし。……ああ、大丈夫です。あなたに負担はかけません。これはこっちの問題ですので」
「あの……」
「はい?」
「あなたは幽々子様のことについて、色々知っているみたいですが……」
「彼女は死霊を操る能力を持っていた。それが幽霊の管理に役立つということで、彼女に冥界への永住権が与えられました。それを決めたのは我々です。そのさい、彼女のご友人に少し話をうかがったんですよ」
「ご友人……?」
「八雲紫です。西行寺幽々子は、生前自分の能力を疎んでいたそうですね。当初彼女が持っていた死霊を操る能力は、人を喰らう西行妖の傍にいることで増幅し、人を死に誘う程度の能力になった。人をたやすく殺してしまえる自分を嫌って、自刃したと聞きました」
「……そうですか」
「他になにか、聞くことは?」
「……」
妖夢はしばし沈黙した。
「いいえ」
「そうですか。……大丈夫ですか?」
ふとそんな心配をされる。今自分はどんな顔をしているのだろうと思う。
(幽々子様は生前自殺した……なんだか、全然想像できない。所詮、私は幽々子様のことをその程度しか知らなかったのかしら。これ以上知ることもできない。彼女はもう……いない……いない……彼岸に流れ着いたのでもない。時流に押しつぶされて消滅した……彼女が生きている可能性は、考えるだけ無駄だというの?)
頭の中がごちゃごちゃしてまとまらない。そんな妖夢に気遣わしげな目を送る映姫。まさかあの亡霊嬢が死んでいるとは思わなかった。その従者だった彼女の衝撃は計り知れない。このまま事務的な確認だけで帰ってもいいし、あまり時間もない。しかし、それは果たして善行と呼べるのか。
ふぅ、と一息をついた。
映姫は言う。
「主を失った従者の気持ちを、私は推し量ることしかできません。しかし閻魔として、少し助言したい。落ち込むときは思いっきり落ち込んだほうがいいですよ。感情を内に溜めこんでも、碌なことになりません」
「……いえ、お気遣いなく。大丈夫です……大丈夫。涙なら、とっくに流しました」
「そういう問題ではないのです。あなたは死者の気持ちがわからないでしょう。――ああ私は半分死人ですとかそういうボケはいりませんよ。浄玻璃の鏡で幽霊を映すと、その人間の生前の行い、罪が全てわかる。彼らは死ぬ間際、自分が死んで周囲のものがどうなるか心配していることも少なくない。過去を振り返り引きずることはありがた迷惑になりもします。私があの亡霊嬢と話した時間は多くありませんが、あれは生者をねたみおとしめるようなたちではない」
「……参考に、します」
「実践なさい。それがあなたに積める善行です。親しいものが死んだのなら、思いっきり泣いて、泣いて、負の感情を洗いざらい捨ててしまうべきなのです。自分ではすっきりした、振り切ったと思いこむもののなんと多いことか。そう思うことで己の本当の感情に目を向けないようしているのです。過去への執着を捨てたくないからこそ、もう捨ててしまったと信じるのです」
「……」
「私の見立てでは、あなたはまだ泣けますよ。まだまだ背負い込んでいます。生への執着は悪霊を生み、過去への執着は悪鬼を生む。それを忘れないようにしなさい」
一通り言うことを言って、踵を返した。閻魔の仕事は交代制で、その時間が迫っている。いつまでもはいられなかった。
歩き去っていくその背中を、妖夢はぼんやりと見送っていた。胸中に雑然と渦巻く思念をどう整理していいのかわからない。平静を保っているようで、それは満々と満たされたコップの表面に水が張っているようなもので、ほんの少しの衝撃で決壊してしまうだろう。
妖夢も、踵を返す。
歩き出す。
屋敷の中へ、歩き出す。
自分の部屋へ。
その途中、幽々子の部屋の前を過ぎる。
通いなれた道をたどると、どうしてもそこを通ってしまうのだ。
(ああ……そうだ……)
もう、理由はわかっていた。
中に入ると、幽々子がいなくなったあの日から寸分たがわぬ部屋が迎えた。
この部屋だけは、一度も掃除していなかった。
できなかった。
あの日、寝転がって彼女の形跡を探せなかったのも。
映姫に淡々と幽々子の死を語ることができたのも。
それはきっと。
(……認めたくなかったんだわ)
そんな、単純な理由だった。
(わかっていたのよ。この部屋に幽々子様の残り香を探しても、無駄だと。見つかっても、それは幽々子様がいないという事実を浮き彫りにするだけで、見つからなくても、つらい。この部屋に居留まること自体が、幽々子様が死んだという実感を強くするものでしかない。確かに、私は目を背けてきた。考えないようにしてきた。私は幽々子様が目の前で消えて、それでもどこか期待していたのよ)
ひょっこり、現れるんじゃないか?
全ては手の込んだいたずらなのではないか?
そうじゃなくても、あのぽけぽけした主がそう簡単に死ぬはずないじゃないか。
(幽々子様が死んだことを、認めたくなかった。幽々子様が死んだことを前提に行動したら、それだけその死を認めていることになる。だから平然と語った。平然と語ることが、望みをつなぐことだった。けど、もう認めざるを得ない)
そう思うと、映姫を少し恨めしく感じた。
あなたが来なければこの希望に浸かっていられたのに。幽々子様は実に生きているに違いない。生きているはずだから、いつ彼女が帰ってきてもいいように、いつもどおりに過ごそう。掃除をしよう洗濯をしよう剣の修行を怠ってはならぬ。
帰っては来ない。
そう思考すれば、涙が落ちる。
それが合図だった。
魂魄妖夢はこのとき。
100パーセント確実に幽々子が死んだという事実を認めたのである。
「うっ……うぅっ……」
ぽろぽろと。
粉雪のように涙がこぼれる。
『思いっきり泣いて、泣いて、負の感情を洗いざらい捨ててしまうべきなのです』映姫の言葉が頭を過ぎる。
もう、止めようがなかった。
感情を胸の深いところに押し込めていた堰が、切られる。
決壊する。
「うぁっ……うああああああああああああああああああああああああああああああああ」
泣いた。
喚いた。
喚き散らした。
あるいは幽々子が死んだあの日よりも、もっと。
幽々子が死んだという現実に、妖夢の心は追いついていなかった。
どんな悲しみも、心の表面をなでるものでしかない。
でも今は。
今感じているものは。
もっと熱い、血のように熱い感情の塊である。
右心房から入り、左心室から全身に流れ出ていく血流。
その全てが、感情だった。
全身が感情だった。
悲しさ。
寂しさ。
悔しさ。
不甲斐なさ。
怒り。
悲観。
自責。
絶望。
燃えるように熱い。体が燃えている。現実の冷たさにあらがうように、妖夢の体は燃えていた。滂沱と涙はこぼれおちる。鼻水や涙が床に垂れて、ああ汚いなぁと思う。止められない。泣いて、泣いて、泣いた。
「ぁぁぁ――」
声がかれていた。喉がかれていた。
倒れ付して、一人の体をかかえて、叫んだ。
「ゆゆこさま……ゆゆこさまぁ……」
戻ってこない。
もう絶対に、手は届かない。
夜まで妖夢は泣き続けた。
泣き疲れて、そのまま眠った。
幽々子の眠っていた部屋で、その存在を求めるように。
目を覚ますと、強い朝の光が目蓋を焼いた。すさまじい脱力感が全身を覆っていて、動きたくなかった。それでも日光が皮膚を焼くので、しかたがなく目を明ける。そのわり、布団もかけずに寝ていたからか体の芯は冷えている。鉛を差し込まれたみたいな体の重さは、はてさて風邪でも引いたのか。
障子から、朝の日差しが差し込んできている。
朗らかな日和だった。
のろのろと、立ち上がる。
昨日感じていた爆発的な感情は綺麗さっぱり消えていて、代わりに得もしれない空虚さが満ちている。幽々子が死んだ翌日と同じだった。ぐぅぅ。お腹が鳴った。昨日の昼から何も食べていない。とりあえず、朝食をとろう。
適当なものを作って朝食を済ませても、あまりお腹が膨れた感じがしなかった。
料理の腕には自信があったが、どうにも味がにぶい。舌がにぶいのだろうか。本当に麻痺しているのはどこだろう。
(味覚がにぶいっていうなら、いっそ本当に夢であってくれればいいのに)
目を閉じて、思いをはせる。
――私は今自分の部屋で眠っている。暑苦しさに布団を蹴りのけ、肌にまとわりつく空気の不快さが嫌な夢を見させる。荒唐無稽で、最悪な夢だ。幽々子様は死んでしまって、私は一人この白玉楼で死んでいる。
(そうだったらいいのに)
昔ある中国の思想化が胡蝶になった夢を見た。
夢の中で蝶に成りきっていたが、目を覚まして夢だと悟る。
でも、本当は蝶が人間である夢を見ているのかもしれないし、やはり蝶である夢を見ていただけかもしれない。自分は今、とてつもなくリアルな夢を見ているにすぎない。
(一瞬後には、いつもの天井が広がっていて、どっさり汗をかいていて、私は――)
『幽々子様! 幽々子様!』
『……どうしたの、そんなに慌てて』
『いえ……嫌な夢を見てしまって』
『なんだ、夢見が悪かっただけ』
『幽々子様は悪い夢を見たりしないんですか?』
『見ているのかもしれない。でもどうせ全部すぐ忘れるわ』
『それはそれでうらやましいなぁ』
『でも時々……余計なものまで忘れちゃうのよね』
『つまりボケろう』
『今が丑三つ時で、草木も寝静まる時間だっていうこととか』
『……』
『……』
『……起こしてしまいましたか?』
『まぁ、どうでもいいんだけど』
『それじゃ……えっと、その……』
もぞもぞと近寄っていく。幽々子はそれだけで意図を察するだろうか。
『ああ、添い寝』
『こ、怖いわけじゃないんですよ?』
『そう?』
『ほら、こう、なんていいますか……』
人肌を感じていたい。と心の中で言って。
そうして幽々子の布団にもぐりこみ、ぬくもりを感じながら眠るのだ。
(そんな未来が――)
考えながら一つまばたきした瞬間、風景は切り替わっていた。
食べ終わり、空っぽの皿、茶碗。
まだちょっと残った湯飲みのお茶に、無表情な少女が映っている。目の下を真っ赤に腫れさせて、眉は力なく垂れ下がり、瞳に力が感じられない。
目を逸らす。
早朝の空気に包まれた食卓には、どこか白々しい、無機質な空気が流れている。
早く、片付けなきゃね。
もっさりとした、緩慢な動作で動き出す。
やるべきことは、いくらだってある。
しかし、太陽が天頂に輝くころ。
明るく朗らかな光が冥界の地表を温める中、妖夢は幽々子の部屋、畳の上に寝転がっていた。なにをするでもない。ただ、ぼんやりと天井を眺めている。腕から、足から、腰から、背中から、全身から力が抜けていてまるで動けそうにない。
「……はー……」
溜息をついて、また力が逃げていく。
朝からあった気だるさが、いつまでたっても抜けてくれない。
外はこんなに晴れているのに、その明るさが気分をめいらせる。
(なにも、やる気にならないわね……)
ごろり。寝返りをうつ。腕に畳の跡ができている。ざらざらした感触が服越しにも伝わってくる。ほのかに香り立つにおいが鼻腔を満たした。口から吐き出されるときには、胸中の憂鬱に汚染されたように淀んでいて、自分が有害ななにかになってしまったようだ。
(そういえば、人間は酸素を吸って、二酸化炭素を吐く……んだっけ? それで、酸素が減ると人間は苦しい。植物なんかが酸素を増やしてくれる。よくわからなかったけど、人間は生きているだけで他の人間を害するのね。死んだら死んだで腐って悪臭や虫を運んでくるし、存在自体が有害なのかしら。これからは人間たちに『有害です。気をつけましょう』の張り紙をして回らなきゃならないわ。でも自分に張り紙をしようとすると、前面に貼ることになって不恰好なのよね。背中に貼られているのも間抜けなんでしょうけど……)
とりとめもないことを考える。
ずっと寝転がっていると、勝手にまぶたが落ちてきた。
ああいけない。今日はまだやることを一つもやっていない。剣の修練も、家事も、炊事も、ここで寝てしまったら明日に回すしかなくなっちゃうわ。早く起きるの、妖夢。こんなぐぅたらじゃ幽々子様にも顔向けが――
(もう……いないのに)
まぶたを閉じる。
心が閉じる。
目を覚ますと、夜だった。
随分長いこと眠ってしまった。
十分すぎるほどの睡眠をとったはず。
(……でも、だるいな)
相も変わらず、四肢に力が入らない。今では剣を持つことさえ億劫に感じられる。思考は霞がかったみたいに重く、そのくせ腹だけがいっちょうまえに自己主張する。動きたくない。でも、お腹がすいた。私以外に、用意するものもいやしない。
妖夢はよろよろと立ち上がる。
それから、夕飯を作って食べた。適当に。
いつも腕によりをかけて、それを食べることも、食べてもらうことも楽しみだった。なのに今は意義を見出すことができない。食べられればいい。そう思ってしまう。最低限の腹ごなしを終えると、幽々子の部屋に戻ってきていた。誘われるみたいに、そこが居場所だとでも言うみたいに。
妖夢はなにをするでもなく時間をつぶす。
最初はあれこれ徒然なることを考えているのだが、次第に、幽々子との思い出が割合を占めていく。いけないと思うのに、目を閉じて、追想してしまう。どうしようもなく楽しくて、顔がほころぶ。
(あの日は確か、幽々子様が調子に乗って食べ過ぎて吐きかけたんだっけ……それからあの日は私が若気の至りで……うわぁぁっ、恥ずかしいっ……幽々子様の前では、みっともない姿何度も見せちゃったなぁ……もう汚名返上の機会も……。……師匠はどうしているだろう……所在も息災もわからない。生きてるといいけど。そう簡単に死ぬとも思えないけど。……幽々子様は……)
あっさりと死んだ。
あっけなく死んだ。
……
(あ、ああ! そういえばあの日なんか珍しく幽々子様が焦っちゃって! 紫様と話してるときなんかも楽しそうだったわっ……!)
心の隙間を、その虚しさを埋めるように色んなことを考える。色んなことを思い出す。麗しい思い出に浸かっている。先日ここを訪れた、閻魔の言葉が存在を主張する。
『実践なさい。それがあなたに積める善行です。親しいものが死んだのなら、思いっきり泣いて、泣いて、負の感情を洗いざらい捨ててしまうべきなのです。自分ではすっきりした、振り切ったと思いこむもののなんと多いことか。そう思うことで己の本当の感情に目を向けないようしているのです。過去への執着を捨てたくないからこそ、もう捨ててしまったと信じるのです』
(……私は昨日、泣いた。ありったけ泣いたわ。だけど結局こうして、過去への執着が捨てきれていない。……今もこうして、どうしても思い出してしまう。そうしている時間だけ安らげる。まだ、泣きたりないのかな。胸の奥にわだかまった感情を全て吐き出したわけではないのか。だけど、忘れたくない……忘れたくない。全て捨てたら、忘れてしまう気がする。幽々子様と過ごした日々を、幸せな平穏を、忘れてしまう気がする。それは嫌だ。嫌なんだ。だけど、それがとらわれているってことなのかしら)
ならば自分はどうするべきだろう。
いけないことだとわかっている。もう彼女が帰ってこないことを理解している。過去から今へ立ち返るたびに彼女の不在を思い知って悲しくなるだろうことを。それでも追憶がやめられない。そうしていないと、現実の重さに押しつぶされてしまいそうだ。
(あと少し……あと少しだけ……)
幽々子様、許してください。
あなたはそう望まないかもしれないけれど、過去に縛られていることを。
あと少し、あと少しだけ。
妖夢はゆっくりと目を開けた。幽々子の部屋だ。見慣れた部屋だ。すんすん、臭いをかぐ。彼女の臭いはもう残っていない。妖夢のものに塗りつぶされてしまった。耳を澄ます。何も聞こえてはこない。あのおちゃらけた声を聞くことはもう、ない。
つー、と細い川を作って、涙が流れていく。
思い描く。
彼女がここにいる様を想像する。
胎児が羊水の中でうずくまるように、過去の記憶にぼんやりと包まれて。
かつての幸せを、ずぅっと噛み締めていた。
※※※
「私はもてる限りの力を注いだつもりよ。境界を操る能力を最大限活用して術式を組み、妖力を漏らさない部屋に引きこもって、術の容量限界まで延々力を注ぎ続けた。事実、完成はしたの。ただし“不完全なものとして”。時間の壁は厚い。気が遠くなるくらいに厳然とした壁よ。時を止める奇術を使うものがいるが、あれは連綿と流れゆく時の川から、一時的に浮いているだけ。時に縛られない蓬莱人たちも本質的には同じ。でも時流から外れることと、逆らうことは違う。全然違う。すさまじい密度と共に流れ来る時の流れには、通常どうやっても逆らえない。私の能力も、まだその段階には至れない」
そこまで一息に語ると、紫は水を口に含む。
乾いた唇を潤して、続ける。
「人間や妖怪のような、実体を持つものはまず送れないとわかった。大きすぎてはじかれてしまう。例え亡霊や幽霊のような希薄なものでさえ、不可能。もっと繊細で儚いものだけが、この隙間を通ることができる。謂わば“情報”。過去の自分か何かを存在の依り代として、そこに現在の自分の情報……記憶を送り込んで上書きするの」
紫はまた一口水を含んだ。
「けど、仮に時の壁を越えたとしても目的地を見失えば迷子になる。時の迷子にね。憑依する先は、よほど親和性の高いものでなければならない。じゃないとこっちとあっちを結びつけるラインが弱くなって、たどり着けない可能性が高い。だからさっき言ったように、過去の自分とかそういうのが憑依先になるわ。でも過去の自分に憑依しようとすれば、この魂は過去の魂を上書きすることで定着するわけだから、それを防ぐために、過去の魂は異物を排斥しようとするでしょう。そのあとに待っているのは、消滅だけよ」
もう一口。
「そして、幽霊や亡霊よりも儚い“情報”は依り代がなければ存在さえできない。……理論上、過去へさかのぼること自体はできるの。だけど、本当にそれだけで、私には何も為すことができない。私が過去へ行っても、お陀仏して、おしまい」
悔しげに唇をかむ。
藍は一つ一つ確かめるような語調で訊いた。
「それでは、それが不完全なものとして、の意味ですか?」
「ええ。私の心血を注いだ術は、“不完全に完成した”」
「……いまいち引っかかるんですが、それは完成したというんでしょうか。実質上可能となることを完成というのでは――」
「もちろん」
紫はとても苦しそうな顔をする。
藍にはわけがわからない。
「できるわ」
断言した。
「過去へさかのぼることはできる。幽々子を救うことはできる。“不釣合いな対価を支払って”」
「……過去へさかのぼったら、戻ってこれなくなると?」
「それもあるけど……」
不意にうつむく紫。いったいどんな顔をしているのか、なにを考えているのかはさっぱり読み取れなかった。ただ、次に上げたときそこに浮かんでいたのは、泣きそうなのを無理やり抑えたみたいな引きつり笑いだけだ。
「私自身が過去へ行っても、お陀仏しておしまい。でもね、一人だけいるのよ――さっき言った様々な条件を全てクリアして、過去改変を成し遂げうる人物が」
「……それは……?」
問われ、紫は静かに口を開く。
その名前を聞いた藍は、手を目に押し当てて天を仰いだ。
なんてことだ。
そんな、そんな残酷な話はあるまい。
「――あるいは教えないほうがいいかもしれない。手段があるということは、また新たな懊悩を生み出す。それでも私は諦めきれない。幽々子のことを、なんとしても助けたい」
例え、自分がその結果を見ることはかなわなくても。
過去が変わったとしても、この現実にはなんの影響もないことを紫は承知している。塗り替えられたその瞬間から、その世界は別の道を歩みだし、二度と今とは迎合しない。こちらから出向くこともできない。だから過去を変えても得られるのは、ほんの小さな自己満足だけだ。
それでも、救いたい。
彼女が死ななかった世界があると信じたいのだ。
そうでないと、自分を許すことができないから。
スキマを開くと、彼女がいた。ひざに手をついて息を乱している。なにがあったのだろう。なにがあったのでもいい。ただ、己が為すことを為すだけだ。
ああなんて身勝手なのだろうと、散々自嘲してやった。
※※※
時間が傷を癒してくれるなんていうのは誰が言ったのか、誰もが言っているような気もするし、誰も理解していないような気もする。自分を含めて。
あれから、一年がたった。
夏が来て青葉が茂り、秋が来て紅く染まり、冬が来て枯れ、雪が舞い散り、再び春の芽吹きが訪れていた。
床を一定のリズムで蹴っていた足をぴたと止めて、額に浮いた汗を拭う。長い長い廊下の雑巾掛けがちょうど終わったところだ。中天に輝くお天道様が暑苦しい視線を向けてくる。雲がさえぎろうとするのだけどまるで意に介さない。バケツと雑巾を片付けて、今度は箒を手に持った。これから、白玉楼前の階段を掃くつもりだ。
「春、か……」
春になると、どうしても思い出してしまう。幻想郷中の春を集めたこと、咲き誇る妖怪桜の下で幽々子が消えたこと、もう戻ってこないことも、それからすでに一年がたったという事実も。
時間が傷を癒してくれたわけではない。
妖夢は今でも思い出す。幽々子と過ごした幸せな日々を、穏やかで、暢気で、陽気で、朗らかな、輝いていたあの時間を。何度だって思い出す。忘れようとした。忘れようとしている。それでもふとした拍子に記憶が湧き上がって、胸を叩く。どんどん。出してくれ。いつまでこうして押し込めているんだ。本当は忘れたくないくせに。りこうぶって閉じ込めやがって。
あと少し、というのは少なくとも一年以上ではあったらしい。
いつまでも過去に引きずられている自分が情けなくもあり、どこか誇らしい自分もあったのだ。そしてそんな自分を嫌悪する自分もいて、わけがわからない。
(でも……)
今では、もう感情が荒れることは少なくなっていた。空虚さに打ちひしがれて何もできないなんてこともない。今だって日課を果たしている。そういう意味では十分過去と決別できたのだろう。青々と光輝く空は一年前にも見たものだが、今はそれを空虚なものではなくて、もっとすがすがしい、温かいものとして見ることができる。
じゃっ、じゃっ。
箒で階段を掃き清めていくうちに、心まで清められるようだった。
無心になって手を動かしているときは、いかなる感情にもとらわれないですむ。
なにからも浮遊したようなこの感覚が、好きだった。幽霊は幽霊らしく宙に浮いていろということだろうか。
「ふふ」
くだらない冗談に自分で笑って、じゃっじゃっじゃっじゃっ、手を動かし続ける。誰もいない冥界は一人で静かでなによりも……
寂しい。
「……」
妖夢は目を固く閉じ、集中する。壁に張り付いた粘土を丁寧にはがすように、胸を過ぎる感情を押さえ込んでいく。
「ふぅ」
手馴れたものだった。湧いて湧いて、どんなに駆逐しても枯れることのないその感情を、今日も蓋をして封じ込める。ぐつぐつ、音が鳴っていた。煮え立っている。心のどこか奥底で、存在を主張するものがある。考えてはいけない。もう過去とは決別したのだ。できているのだ。蒸し返すようなことはないじゃあないか。この現実に幸せを求めていけばいい。
(なら……ならどうして私は……この一年間冥界にこもりっきりで……)
外に出ようとしなかったのだろう。
誰とも交友を広げようとしなかったのは、なぜだ。
(忘れたくない……)
時間が傷を癒してくれるとは限らない。だが、時間は確実に記憶を蝕んでいく。楽しかった日々も、嬉しかったことも、大切な人の仕草や、表情や、声色や、口調や、そういったものが次第に曖昧なものになっていく。気づかないような微弱な変化だけど、毎日のように想起していたからこそ理解できた。
(忘れてしまう……忘れてしまう……嫌だ……それは嫌だ……)
現実に幸せを求め、手に入れた先にあるのは忘却だ。大切な思い出は記憶の片隅へと追いやられて、昔はこんなことがあったなぁなんて話す日が来る。必ず。絶対に。絶対だ。逃れられないのだ。それが時の流れというものなのだ。妖夢は時の流れに抗おうとしていたのだ。
(でも、結局は)
それが過去にとらわれているということで、今日も憂鬱な溜息が漏れる。
いったい、どうすればいい?
「……ん?」
ふと、遠くから飛んでくる影が見える。鳥かと思ったが、違う。すごい速さでこっちへ向かってくる。黒い点にしか見えなかった影は、人の形を取り始め、モノクロの単純な色合いを持ち、金糸を宙にひるがえらせて、こちらへ到着した。
「久しぶりだな」
いつぞやの黒白の魔法使いはそう言って笑うのだった。
「……会ったこと、あったっけ?」
とぼける妖夢。あの日のことは良くも悪くも印象的だったので覚えている。が、なぜ今さら。生者がここへ来るのだろう。
「死んだの? 若死にね。大変」
「おお、私は死んでいたのか。大変だ」
「ここにいるってことは、やっぱり死んでいるわ」
「私は生きているぜ。生き生きしているぜ」
「……それで?」
「んー? なんか前と印象が違うな。髪が伸びたからか。それとも前ほど勢いがないからか。あれだ。お前は戦闘中だけハイになる人種だったんだな」
「人を勝手に戦闘民族扱いしないで」
「ほれほれ、やるか? 弾幕ごっことか。そうすればその言葉の真偽がわかる」
「どうでもいいわ」
「……」
魔理沙はいぶかしげな顔で妖夢を見た。
「どうした?」
「……なにがよ」
「いや、ほんとに別人みたいだ。別人だったのか」
「……私は魂魄妖夢。あなたを一年前に追い返した本人」
若干の苛立ちをこめて言う。八つ当たりに近いものがあったかもしれない。同時に、その言葉は正しいとも思った。一年前の自分と今とでは、なにもかも変わってしまった気がする。何も考えず幸せを幸せと気づかず享受していた自分とは。あれから髪も伸びたし。というか、切るのが面倒なだけなのだが。
「そういきり立つな。私は異変が解決したいだけだ」
「異変?」
「知らないのか?」
「知らないわ。なにがあったの」
「うーん、本当に知らなさそうだな……。見当違いか」
「だからなにが」
「今幻想郷では季節に関係なく花が咲き乱れてる。文字通り。実害がないからか妖怪たちは興味が薄そうだが。花で、春といったら去年の春雪異変を思い出して、ここへ来たわけだ」
「春雪異変……? ああ、そういう名前がついたのね。でも、関係ないわ。帰ってもらおう」
「まーそーするか。一つだけ忠告しておくと」
魔理沙はいたずらっぽく笑う。
「多分この後も、私と同じ考えに至ったやつが続々とやってくるだろうな」
「んな迷惑な……」
「特に咲夜とかは借りを返したがってたし」
「誰?」
「メイド」
「あれはメイドの服を着た人間らしくない人間でしょう?」
「いや、あれはメイドの服を着た人間らしくないメイドだな」
「メイドがなんで冥界に乗り込んでくるのよ……」
メイドが冥土とか駄洒落のつもりなのか。
「それを言ったら、ほら」
「……残りは巫女だったっけ?」
「ああ、巫女巫女していない巫女だ。脇を出した巫女なんて他じゃお目にかかれない。中々のレア度だぜ」
「レアで、アレなのね」
「レアでアレだな」
「あなたはアレな人?」
「私は普通の魔法使いだぜ」
魔理沙は踵を返した。
「そろそろ、帰るよ。異変の元凶を探す」
「あ、待って」
「?」
振り向く魔理沙。妖夢は言葉に詰まる。
(なんで引き止めたんだろう)
咄嗟に口が動いていた。
それ以外に言いようがない。
「い、いやなんでもない……」
「? おかしなやつだな。幽霊の考えていることはよくわからん」
「あなたも十分理解不能な人間だから安心するがいい」
「それはお前が普通じゃないからだ。普通じゃないやつは普通なやつを理解できない」
「あなたが普通じゃないだけ」
「普通じゃないやつほど、自分を普通だと思いたがる」
「さっき自分で……」
「言葉のあやだ」
「やっぱりアレな人じゃない。やっぱりレアな人じゃない。私があなたを引きとめたのも言葉のあやに違いない」
「なんだか、そうらしいな」
今度こそ魔理沙は帰っていった。
ぼんやりと、彼女がいた場所を見つめる。
春風が吹いた。
心の中に吹いていた。胸の奥底から湧き上がってくるものがある。
(久しぶりに人と話したな……)
満たされていく感情は、喜びだった。歓喜だった。いや、駄目だ。そんなことを思ってはいけない。なのに胸が温かい。人と話すこと、人の発する温かさ、ずっと感じていなかったもの、一人では味わえないもの。
(駄目だ……駄目なんだって……私はこの温もりに浸かっては、幽々子様のことを忘れてしまう。忘れたくないのに。だから、こんな喜びも嬉しさも一過性のものでしかない……さっき思ったばかりじゃないか、忘れたくない、忘れたくないからこうして一人で過ごしてきたんだって……だけど、それは正しいことなの?)
眉をしかめて、考える。
階段を掃いていた手は完全に止まっていた。
消せども消せども湧いて来る感情を押さえ込むのにはそれだけの時間が必要だったのだ。
だが、魔理沙の予想は的中する。
「あなたが異変の元凶?」
色々すっ飛ばしてそう聞いてきたのは完全で瀟洒な従者である。
「違うわ」
妖夢も簡潔に答えた。
「そう、でも疑わしいから懲らしめてやりましょう」
「……ちょっと、強引すぎない?」
「人は幾つものペルソナを持つ。場面によって自分を使い分けるの。場面に関わらず二つに分かれているあなたはすごい嘘つきに違いない」
「えぇー」
無茶苦茶すぎる。
なのにそんな無茶苦茶さがどこか懐かしい。幽々子の姿が頭を過ぎった。
「私は異変の元凶じゃないわ」
「嘘ね」
「私は嘘をつかない」
「嘘つきの嘘をつかないという発言はやはり嘘」
「そこまでして戦わなくてもいいと思うけど」
「負けたままじゃあ気持ち悪いじゃない」
「至極個人的な感情!?」
「勝者はいつだって余裕でいられるの。私は瀟洒でありたいから、敗者に甘んじるつもりはない」
「その物騒なナイフを閉まって、閉まって」
「ところで、あなたが異変の元凶?」
「何回くりかえしたら、諦めてくれるのかしら」
十回くりかえした。
弾幕ごっこをする気分ではなかったから、ひたすら否定し続けた。
最後は咲夜が折れた。「異変の元凶を探すのが先決ね」そう思っているなら、十回くりかえした質問は何だったのだろう。妖夢は呆れ混じりに見送った。
それから、顔が緩む。
いや、違う。違うんだ。嬉しくなんかない。楽しくなんかない。孤独なんて感じていない。誰かと一緒にいたいだなんて考えていない。
違う。
違うのよ。
私は一人でもやっていける。それで初めて、一人前っていうものでしょう?
薄々そうなんだろうなと思っていたら、やっぱりいつか見たような顔が階段を上ってきた。
「ここは普通の桜ね。ところで、あなたは」
「異変の元凶じゃないわよ」
「話が早くて助かるわ」
満足そうにうなずく霊夢。
「それはよかった。話の遅い人と話していたところだったから」
「あの世は音速が遅い……。ところで、私は何も聞いていないのに否定しだす人は怪しいと思ってるの」
「そう……」
嫌な予感がする。
「真相を聞くには痛めつけるのが一番」
そう言って霊夢は弾幕を展開した。先の二人はまだ紳士的なほうだったらしい。なんとか説得しようと思ったが、それより先に自機狙い弾が迫ってくるので、しかたがなく応戦する。
負けた。
あっさりと。
「手応えがない。本当に違うようね」
「だからそう言ったのに……」
「まぁ、今度酒くらい奢ってやるわよ」
さばさばとそう言うと霊夢は階段を下り始めた。
「酒って?」
覚えず、また引き止めていた。
「まー、この異変が解決したら、どうせまた宴会開くと思うし。来る?」
「……」
答えは返せなかった。
「まぁ、気が向いたら来なさい」
霊夢はそのまま帰っていった。それ以上引き止めるのは、心が制した。
「……はぁ……」
(結局、私は嬉しかったのかしら……)
誰かと話すことが、久方ぶりの交流がどうしようもなく楽しくて楽しくてしかたがなかったんじゃないのか。本当は、このままなんて嫌だと思っているんじゃないか。例えそれが、主のことを忘れて生きていくことに繋がろうとも。
(いや、だいたい人と交わることが忘却に繋がるのかしら。昼間は楽しく過ごし、夜幽々子様の姿を思い描く……それでいいんじゃないのか? それが健全というもので、それがあるべき姿で、私が過去にとらわれることを、幽々子様は本当に望むものか?)
ぐるぐる。思考が回る。視界が回る。気持ち悪い。考えたくない。でも考えが進む。
(私がやってきたことは本当に正しかったのか? これからもそうすることは本当に正しいのか? 全部私のエゴじゃあないのか? 忘れたくないなんて独りよがりな我侭じゃあないのか? 私は、いつまで過去に……)
気づけば、階段にみっともなく寝そべっていた。立っているのも億劫だった。
空が青い。突き抜けるようだ。果てのしれない悠久を鳥たちが飛んでいる。正確には鳥の霊であり、彼らは鳴くことがない。冥界にある生き物は等しく全てが死んでいるのだ。ただ、妖夢だけを除いて。この広い世界の只中にあって、たった一人、一人だけが生きている。
なんだか、無性に叫びたくなる。
頭がどうにかなりそうだ。
雑然と渦巻く雑念もうっとうしい。
すぅ、息を吸い込む。
「ああああああああああああああああああああああああああああ!」
思いっきり、声を出した。
ごちゃごちゃした思考ごと吐き出してしまおうと思った。
肺からなにもなくなって、息が苦しくて、その間だけ何もかもを忘れていられたのだ。
「あああああああああああああああ!」
馬鹿みたいに大口を開けて、馬鹿みたいに叫んでいる。
実際馬鹿なのだ、自分は。過去にとらわれて未練たらたらで、いつまでも足を引きずって生きている。もう彼女は戻ってこないと知っているし、これからどうするべきかもわかっているのに。
「あああああああああああああああ――」
そんな馬鹿な自分など。
消えてしまえ。
消えてしまえ。
いつまでも、未熟者をやっていられない。
いつかは変わらなきゃならないときが来る。
必ず記憶は風化して、磨耗して、消え去るのだから。
この命には限りがあって、だからこそ尊くあるべきなのだから。
「ああああああああああああああああ」
息が続かなくなるまで叫んでいた。
声を張り上げていた。
あるいは断末魔だった。
後ろを向いた半人半霊が、消えようとしている。過去に浸る自分の存在が薄れていく、ような気がする。そう、前向きに、前向きに。その先にはきっと幸せが待っているんだ!
「あああ……」
やがてそれも、ついえた。
はぁー、はぁー。胸を大きく上下させる。げほ、げほ。咳き込む。
「幽々子様……私は……」
……あなたのことを忘れてしまうかもしれません。
それでも、許してくれますか?
なんとなく、彼女はうなずくような気がした。
胸のうちから、あのごちゃごちゃした思念はもう消えている。
ただ胸の奥が、針で刺されたみたいな痛みを発し続けている。
「さっきぶりだな」
日が暮れなずむ中、また彼女はやってきた。
「なによ」
目を細める妖夢。まさか、また疑っているんじゃあるまいな。
「ああ違う違う」
そんな考えを見透かしたのか、魔理沙は否定する。
「花の異変のことは、もういいんだ」
「……もういいって?」
「あれは解決しなくていいものだ。のんびり景観を楽しめばいいのさ」
「この冥界には、どっちにしろ関係ない話だけどね」
「……なんかかりかりしてないか?」
「別に、そうでもないわ」
実際かりかりしていた。
なにが気に障ったんだろう。
「……異変は、解決されるべきものなのよ」
そんな言葉が口をつく。
「あー? まぁ、そりゃそうだな。なら別の言い方をしよう。今回のは異変じゃなかった」
「異変じゃなかった?」
「少なくとも、害はないってことだ」
「……そう」
「で、だな」
「?」
「どうせだからのんびり花でも見ながら宴会しようと思っている。今日また会ったのもなにかの縁だろうし、来るかね?」
「………………気が向いたら、行くわ」
「博麗神社開催だ。が、場所わからないだろ」
「……」
「案内してやってもいいぜ」
どことなく偉そうに魔理沙が言う。
「偉そうね」
「私は尊大な魔法使い様だぜ」
「普通なのはやめたのね」
「普通じゃないらしいし」
「……」
「別に急いでるわけじゃないが……」
「……」
妖夢は考え込む。
理性が行くべきだと叫んでいた。
純粋に楽しそうだとも思う。
だけど感情が、行くなと訴える。さっきもう消え去ったものだと思っていたが、しつこい。ぎり、歯を噛み締める。
「……行く」
「よし、決まりだな」
魔理沙は空に飛び上がる。「ちょっと待ってて」妖夢は白玉楼に戻り、箒を置いて、刀を手に取る。
いつものように二本携えようとして……やめた。こんなぐずぐずと過去を引きずって、迷い続けている自分は紛れもなく半人前なのだ。半人前には、半分の刀がちょうどいい。
元の場所に戻ると、魔理沙はすでに前傾姿勢をとっていた。
「私は割りと速い」
「ゆっくりしていってくれないかなぁ」
「ゆっくりしたとき、割と速いって言うことだよ!」
言うなり、魔理沙は飛び出して行った。急いでないんじゃなかったか。慌てて追いかける妖夢。久しぶりに上から冥界を俯瞰する。雄大にどこまでも広がる自然と、その中心にそびえる白玉楼。命の気配のない死界。長らくここを出ていなかった。買い足しに人里へ行くくらいだったろうか。
前を見据える。
それが正しいことのはずだ。
過去を振り切ってこの今を生きていくことが。
そうだ、これが転機なのだ。
「幽々子様」
その名前を、呟く。
風に乗せて、冥界に置いていこうと思ったのだ。
むねが、いたい。
博麗神社には様々の人妖が集まっていた。咲き乱れる花々、中でもひときわ目に鮮やかな桜を見ながら、飲んだり、踊ったり、笑ったり。どうにも気圧されてしまう。長らく喧騒と無縁だったからか。
「あそこにいるのが霊夢であっちが咲夜で……ここらへんは説明しなくていいか。あっちがその主のレミリアで、あいつが……」
魔理沙が指差し指差し名前を言っているが、あまり頭に入ってこない。
(本当に、いいのか……? 確かに皆楽しそうで、幸せそうで、気がよさそうで、きっとこの輪に混じってはしゃげば、すごく楽しい。わかる。それがわかる。だけど……)
足が止まっていた。それは、宴会の風景が思っていたより騒がしく、浮かれていて、なにより楽しそうであったから。いつか聞いたことがある。幻想郷は全てを受け入れる。こんな未熟者でも馴染むことができそうだと思う。くだらない話をして馬鹿笑いして、つらいことや苦しいことを忘れられそうな気がする。
忘れてしまいそうな気がするのだ。
麻薬のように、この妄念を蝕むように思えるのだ。
ここに来て、動けない。
「……どうした?」
少し心配そうな目で魔理沙が見てくる。目を逸らす。
「放っておいて。私はここで飲んでるから」
持参してきた酒や菓子を掲げる。いくつかを魔理沙に手渡した。その分は皆でわけてくれ。そう言うと、妖夢は境内の端に座り込む。
「……本当に、いいのか?」
「参加する以上、なにか手土産くらいは持ってくるわ」
「そうじゃなくて、どうせなら」
「意外とお節介焼きね。私は……一人で飲んでるほうが性にあってるの」
魔理沙はひどくいぶかしげな目をしていた。
「そうか。それじゃあしかたない」
が、それ以上の追求はしなかった。それが彼女なりの一線なのだろう。それとも、それほどとっつきがたい顔をしていただろうか。
(私は……なにをやっているのか)
ここまで来て尻ごむなんて。
ばかばかしい。
酒を煽る。
もうなにも考えたくない。
「……あれ?」
視界の端に、見覚えるのある色が見えた。
蜂蜜色の、やわらかそうな髪。
(アリス……さん?)
人形遣いの少女は、紅白の巫女や黒白の魔法使いと談笑し、笑っている。腰が浮きかけた。友達といえる相手がいないだとか馬鹿なことに悩んでいたとき、少しだけ話した相手。一年前のあのわずかな会話。その記憶は強く印象に残っていた。
でも、やっぱり立ち上がれない。
どうしても、心がブレーキを掛ける。
(本当に、なにやってるんだ)
自分が本当に情けなくて、刀を一本置いてきたのは正解だと思った。
杯を大きく傾けて、視界から一切合切消し去った。
それからは、ちょくちょく魔理沙が来て妖夢を宴会に誘った。なんだかんだでそうしてくれる彼女の存在のおかげで、妖夢は閉じこもった生活から脱却することができていた。感謝している。だけど、いざその場へ行ってみると、どうしても前に踏み出せないのだ。この境界を越えたとき、それは本当の意味で過去と決別することだと思えた。まだ迷いを捨てきれないことが、嫌でもわかる。
そんなある日のことである。
その日も、宴会に来て、そのくせ端っこでちびちび飲んでいた。暖かな喧騒に包まれたその場所にいるとひどく心地よくて、いつまでも踏み出せない自分を意識して気落ちする。
何事も変化などなく終わってしまうはずだった。
そう思っていた。
ふと、影が差した。
顔を上げる。
そして――
「隣、いいかしら?」
人形みたいな顔たちをした、人形みたいな少女はそうして、笑うのだ。なんとなく、自分のことを忘れていると察せられた。少し恨めしい。しょうがないことだとも思った。一年前の自分は今よりもっと活発で闊達で明るかったはずだ。幽々子にからかわれては愚痴をこぼしていた。今はじめじめして迷い続けて、端っこに座っている。髪も随分伸びた。その上一年前少し話しただけの相手を、どうして判別できるだろう。
「ああ、うん、ええ」
動揺を必死に隠して、返事した。
「えーと……魂魄妖夢さん? だったっけ?」
「ええ」
答えながらも、くるくると思考が回る。主に空回り。なにを話すべきだろう。そもそも、こうしていていいのだろうか。でも、ここで席を立つのは不自然すぎる。私が彼女を嫌ったみたいではないか。けしてそんなことはない。誤解は与えたくない……
「えっと、一人が好きなの?」
とかなんとか思っていたらそんなことを聞かれた。
(え、えぇー?)
初対面(彼女の主観の上では)の相手にそんなこと聞くかなー。意外と抜けてる人なのかなー。……い、いや、でも傍から見るとそうなのか。宴会に来ておきながら誰とも話さないのは確かに不思議なものだろう。
「いや、別に好きなわけじゃあないわね」
とりあえずそう答える。
「ああうん、そうよねぇ」
「あなたは一人が好き?」
聞き返してみる。
「いや、あんまり。でも実験してるときとかは、一人のほうがいいわ」
「魔法使いの方?」
「人形遣いの方」
「知ってる」
ああ知っている。ちゃんと覚えている。
「あ、知ってたの」
「人間の里で人形劇を開いているんでしょう」
「人里にも行くのね」
「食材を買いに行ったりとか、なんとかで」
「あなたは……白玉楼で庭師をやっているんだっけ?」
「庭師のようななにか」
仕える主がいないのだから、従者というのはおかしい。妖夢の中では庭師=従者というイメージがあったので、やっぱりなにか違う気がした。
「なんとなくわかった」
「わかったの!?」
「いやまぁ、幻想郷の従者的立場の人たちは、だいたいどこか外れてる法則が」
そんな心情の機微を理解したわけではないらしい。そりゃそうだ。
「どんな法則なのよ」
「自分のことほどわからないものはない。あなたにはわからないかもしれないわね」
「魔法使いという種族は相手もわかっているのを前提に話を進めるわ。あなたにはわからないかもしれないけれど」
魔理沙然り。
「心外ね。私は鏡に映る」
「幽霊が映らないというのは迷信です。映らないのは、吸血鬼くらい」
「確かに、彼女はあまりかえりみない」
「吸血鬼の知り合い?」
「魔女仲間の友人の、友人が吸血鬼」
「面倒くさいから、知り合いってことでいいんじゃないかしら」
魔法使いというのはどうも細かいことにこだわるみたいだ、と思った。
でも、と思う。
(私のそれは……細かいことじゃなかったのか? 温もりに浸かっては、過去をなくしてしまうだなんて。現に一年前少し話しただけのアリスさんを、私はちゃんと覚えていた。過敏になりすぎなんじゃ、ないのか……? やはり私は、なにか間違っているんじゃ、ないのか?)
「しかし桜が綺麗ねぇ」
思考は、その言葉で打ち切られる。
綺麗な桜、西行妖、主の死、連想が働いて、気分が塞ぐ。やはり神経質になっているのだろう。こんな日常会話でさえ、思い起こすなんて。どうかしている。自分は果たして正気だったのだろうかと、思った。
「どうしたの?」
「あ、いや、なんでもないの」
「もしかして嫌い?」
「……嫌いじゃないわ。むしろ好き。白玉楼の大広間から障子を開けると、ちょうど壁や天井にはさまれて一枚の絵みたいに桜の木々が見える」
嘘ではない。元々桜は好きだった。幽々子が格別桜の花を好んでいたからだろうか。それでも一瞬言いよどんだのは、あの憎き桜が浮かんだから。
「それは……一度見に行ってみたいわね」
「生者があまり、死者の世界に来るものじゃないよ」
「あなたは生者じゃなくて?」
「半分死んでる」
「あなたは死者じゃなくて?」
「半分生きてる」
「あいまいね」
「たまに自分でもわからなくなるわ」
「へぇ」
今現在に生きているのか、過去にすがって死んでいるのか。
「でもまぁ、私は冥界の庭師ですから、たぶん死者で正解なんでしょう」
「ふぅん。庭師っていうけど……白玉楼には他に家主がいるのよね?」
「そうだけど、どうして?」
声は震えていないだろうか。不安だ。
「宴会に来てるのも見たことないし」
「……今は遠くに旅立っているの」
「死んだみたいな言いかたね」
「最初っから死んでいる」
「どんな人?」
「よくわからない人」
「……なんだかあなたが、いじくられてるところが目に浮かんだわ」
ふい、と顔を背ける。今の顔を見られたくない。きっと、心配させてしまうだろうから。 あの幸せな日々が頭に浮かんで、なんだか泣きそうになってしまったから。
「図星ね。それも少し見てみたい」
都合よく、彼女は勘違いしてくれたらしい。
「……あまり、からかわないでよ」
どうにか持ち直して、話をあわせる。
「私にも白玉楼の主の資質があるってことね」
でも今度こそ、泣くところだった。彼女は冗談で言ったのだ。わかっている。いかなる他意もない。だけど。
(違う……違うんだ……白玉楼の主は……あの人しか……幽々子様しかいない。幽々子様がいなかったら……それはもう……)
「白玉楼の主は、あの人だけです」
そんな事実を認識するたびに、心がきしむ。
やっぱり、正気じゃない。狂ってる。狂おしい。もう一年もたつというのに、まるで忘れられやしないじゃないか。私の主は、幽々子様だけなんだ。私は彼女の従者としてこれまで生きてきて、ずっとそうして生きていこうと思っていたんだ。
「あ、ああごめん」
自分はどんな顔をしていたのだろう。アリスが謝ってくる。謝らなくていいと言おうとしたが、口が動かせない。鼻の奥がつんとして、目蓋の裏が熱い。こらえるので精一杯だった。
しばらく沈黙が流れた。
「そういえばその腰の、魔理沙や霊夢からは、二刀流だと聞いたんだけど……」
「もう一本の刀はすごく大きいから。よくつっかえるし。まぁ、元々は二刀流」
よくもまぁ適当なことを言うものだ。でも、自分の未熟さに嫌気がさしたからなんて言っても理解を得るのは難しいとも思う。
「そっちの刀も見てみたいわね」
「なんのために?」
「最近、人形に持たせる武器にもこっているのよ」
「西洋風の人形に、日本刀はあわないと思うけど……」
「それはほら、あれよ。ギャップ萌え?」
「もえる? 火が出る……芽が出る……ん……?」
「ああえっと……なんでもない」
気まずげにアリスは目を泳がせる。
「気になるわ」
「気にしないで。お願い」
なぜかお願いされてしまった。そのアリスはふと斜め上を見て「そろそろ、宴もたけなわかしら?」言った。
気づけば、そんな時間だ。
「そろそろ……帰ろうかな」
今なら帰っても不自然ではないだろうと思った。でもそれでいいのだろうか。逃げているだけじゃないのか。また過去にしがみつくつもりなのか。
「帰るの?」
それでも、やっぱり。
「帰るの」
「そうだ。今度私の家に来てみる? 刀を持った人形も見せられるかもね」
「いえ、やめておきます」
「あらら、ふられちゃったわね。たまには、いつもと違う人と話したくなるんだけど」
「あなたと話すのは楽しかったけど……ううん、でも、やっぱり……」
やっぱり、駄目なのだ。
まだ決心がつかない。
今だってこうして泣きそうになっている。
背を向ける。
「またね」
アリスが言う。
「また」
そのまま逃げるように飛び去った。
夜更けの冥界はいつも通り、静かで暗くて閑散としていた。およそ生き物の気配というものが感じられない。あるいは情趣と感じられるその静寂が、今は体にまとわりつくようでうっとうしい。騒がしい宴会場から一転、世界は凍ったみたいに音をなくしている。
白玉楼も、同じ。
果てなく長い廊下は暗闇をたたえ、歩くたびに鳴る床板がみょうに存在を主張する。
帰ってきていた。
今はなにも考えたくなかった。
ただ眠りたかった。
ひどく疲れていた。
いつまでたっても捨てきれない未練と、ひたすら前進しようとする意識。そのせめぎあいの中で、心がきつくしめつけられる。
ぎし、ぎし……
床板が鳴る。
今日は楽しかったな、なんて見当違いなことを考える。
また、話せるかな、なんて考える。アリスさんともあの黒白の魔法使いとも。誰かと何気ない話をしているときは寂しくないから。
自室に着いた。
ふらふらとよろめきながら布団に入った。酒が入っていたのもあるだろう。すぐに眠りに落ちていった。
目が覚める。
外に出る。
太陽の光をうんと浴びて、色鮮やかな景色を睥睨する。明るい色に山を染め上げる桜や、健康な色を放つ木々、見え隠れする清流、雲のまばらな青天、最近は晴れ続きだ。なにかに祝福されているみたいに。そして、そんな美しい風景だからこそ、自分が一人であることをまざまざと実感させられる。
「……」
昨日の喧騒が頭に蘇る。
……否定は、できない。
寂しい。
すごく寂しい。
なまじ温かい世界に触れたから、なお寂しくて心細くてたまらない。
心がうずく。今すぐあの陽気な少女たちのもとへ飛んでいって、なんでもない話をして、なんでもない穏やかな時間に身をうずめて、こんな苦しみから解き放たれたい。
(ああ、そうか……)
心がうずく。そうして、だんだんと自分の心が過去から現実へ向かっていることが、わかったから。つらい。ずきずきと痛い。わかった。わかってしまった。そう遠くない未来に、自分は過去との折り合いをつけ、主の死を受け入れて、未来を見据えて生きていくことになる。予感だった。ただの勘だった。でも、間違っているとは思えなかった。ああやっぱり時間は傷を癒してくれるのだ。時間の経過が、先のわかりきった未来をたぐり寄せる。
「幽々子様……」
名前を呼ぶ。
彼女はもういない。
「幽々子様……幽々子様……」
噛み締めるように呼び続ける。温かい思い出が蘇る。だけどその温かさを、どうしても思い出せない。
「幽々子様……」
本当はもう、彼女がいないことに慣れてしまっているのではないか。
この過去への思いは、なにかの意地だったのかもしれない。
その意地も、維持できなくなろうとしている。
「私は……」
昨日の申し出をふと思い出す。
足が動き出す。
向かうのは、人里。強いては魔法の森。人形遣いアリス・マーガトロイドが住んでいるというその場所だった。
ずっと、むねがいたい。
魔法の森は、噂に聞くとおり禍々しく、あまり立ち入りたくない様相である。こんな場所に住んでいるのはちょっとおかしいんじゃないかと思う。そこかしこに不気味な植物が繁茂しているし、なにか獣の遠吠えが聞こえてくるし。
その上、地面がなくなってきやがりやがった。しっかと大地に足をつけていたはずなのに、平衡感覚を失ったみたいにふわふわする。歩いているのに歩いていない。どこへ向かっているのかよくわからない。苛立たしい。ここに来てこんな面倒な。
「どうしたの?」
声が聞こえた。
「あなたは、アリスさん……?」
アリスの声だった。「だからどうし……」なにかを呟きかけて、突然。
「えっと、大丈夫? あなた、今、なにが見えてる……?」
そんなことを聞いてくる。言われてみれば、なにを見ていただろう。全然意識していなかった。いざ見てみると、なんとそこかしこに桜の木が咲いているではないか。幽々子がよく操っていた、ピンク色の蝶々が羽ばたいている。とても幻想的な光景である。
「そこら中に花びらが舞っている……あと、蝶が飛んでいるわ。たくさん、たくさん飛んでいる……」
「思っきし幻覚見てるぅー!?」
「なにを言っているの?」
「いいからちょっとこっち来なさい! この森は慣れてない人には危険なの!」
腕を引っ張られる。視界はぐにゃぐにゃしたままだ。アリスの白い腕が、ゆがんで畸形のように見える。薄気味悪い。自分は異界かなにかに迷い込んでしまったのか。魔法の森とは別世界だったのか。別世界に住む彼女はなんだろう。不思議の国のアリス? あの物語も、幻想入りしたらしい。
やがて、どこかに座らされたようだ。お尻にやわらかな感触が伝わってくる。アリスはそのまま離れていった。どこへ行くの。ここはどこなの。不思議の国かしら。夢でも見ているのかしら。
夢だったらいい。
このどうしようもないくそったれた物語は夢として終わるべきなのよ。
そういえば、前もこんなことを思ったな。あのときは胡蝶の夢を例えに出したか。
ああ、幽々子様がいる……。
視界の先には、幽々子がいた。さっきアリスが消えた方向だ。棚を漁っている。なるほど。やっぱり夢だったのか。自分はうたた寝をしていて、その寝顔を幽々子はじっと見ていたのに違いない。悪趣味な方だ。なにが楽しいのだろう。でも、だんだん飽きてきて、今はお菓子でも探しているのだろう。
「ああもう幽々子様なにをやってるんですか……棚を漁って……今日のおやつはもう食べたじゃないですか……」
「私が探しているのは薬!」
珍しく語調が荒い。薬? ああなるほど熱があるのか。それで落ち着かないのだな。
「病気なんですか? なら部屋で休んでないと」
「私はアリス! しっかりしなさい!」
挙句の果てにはそんなことを言い始める。よくよく見てみると、アリスに思えなくもなかった。どういう理屈かさっぱり。
「あれぇ? でも幽々子様だし……あれぇ? 悪ふざけ? もう、からかわないでくださいよー」
「なーもうまどろっこしい!」
幽々子はずかずかと歩いてきて、肩をつかんできた。
「ほらー! 起きろー! 朝よー!」
そうは言っても、今は夜なのだ。なんだか、そんな気がする。
「今は夜ですよー……」
障子を開けて外を見れば、案の定。月に煌々と照らされて桜が咲き乱れている。
「ほら、あんなに桜が美しい……幽々子様が……うぅぅ……」
なにかが頭に引っかかる。ずきずきする。思い出す。そうだ。幽々子は死んだのだ。今目の前に咲いている桜が咲くと同時に。死んだ。消えてなくなった。そのときの光景がフラッシュバックする。幻想的な風景の中の、悪夢じみた情景。幽々子の悲鳴、断末魔。最後に呟いた言葉。
その口の動きは確か――
a a a o u o e e a o i a a a
今まで、そんなこと意識にも上らなかった。その前後の光景があまりに衝撃的で、すっかり忘れていた。だけど思い出すと同時に、急速に映像が結ばれる。鮮明に蘇る。ほとんど本能じみた直感だった。妖夢は彼女が最後になんと言ったか、なぜか感得できていた。
生前の、自殺するほどだったという記憶を思い出しながら、彼女は。
その顔をくしゃと笑みの形にゆがめて。
言ったのだ。
『あなたと過ごせて楽しかったわ』
壊れる。
崩れる。
理性が溶け出していく。
そこで、意識が飛んだ。
次に気づいたときには、妖夢は床に寝転がっていて、眼前には息を乱すアリスの姿があった。
「私は……あれ……アリス、さん……?」
「いいから、まずは、ちょっと落ち着かせて」
「は、はい……」
妖夢も、落ち着く時間を欲した。いったいなにがどうなっているのだろう。魔法の森に入ったところまでは覚えている。そのあとは、なにがあった? 確か、アリスに手を引かれてどこかに座らされた。彼女はどこかへ行った。幽々子の姿が見えた。今思うと幻覚の類だろう。
……彼女が生きているはずがなかったのだ。
それから……
思い出せない。
その先が思い出せない。
「ここは……アリスさんの家?」
しかたがないから諦めて、現状を確認する。
「そう」
「なんで……私は……?」
「逆に聞くけど、どうしてあなたは魔法の森にいたの?」
若干怒りを含んだ声色。なにかまずいことをしてしまったらしい。
「ああそれは……前、宴会の後誘ってくれたから……」
それだけではないが、それも事実だった。
アリスはすごく気難しげな顔をした後、恨みがましい目で言う。
「先に言ってくれれば……」
「すみません。どうしても間を置きたくなくて……」
「ああもう……ともかく、これは覚えておいて。ここのキノコは瘴気を放つわ幻覚作用のある胞子を飛ばすわで危険なの。魔理沙とかみたいに平然と採取しているのもいるけど。次からは、来るときは……」
そこで言葉を切って、横目に見てくる。
たぶん、先に一言入れて欲しいと言おうとしたのだろう。
でも、元々彼女との接点はないに等しいのだ。
「最初は、人里で探していたんだけど……次の人形劇はまだ先らしかったから」
とはいえ、なにか大変なことをしてしまったようだし、気まずい。家の中の荒れた様を見るにたえない。
「その……私はなにをしたの?」
「幻覚を見て森で迷っていたの。それを家に引っ張り込んで、薬を探していたら幽々子様今日のおやつは云々言い出してね。桜がなんとか呟いた後いきなり叫んで、暴れだしたのよ」
「ほんとに大変なことを……すみません」
「いや、もう……それはいいわ」
意外とあっさりとアリスは許してくれた。
ほ、と安堵の息をつく。
「次からは事前に教えて。あまり胞子の飛んでいない場所を案内してあげるから」
「あ、うん」
「私は月に一度の人形劇か、それ以外では博麗神社あたりにいるわ。あと宴会のときとかね。……それで、どうしてまた、来る気になったの? ……いや、歓迎してないわけじゃなくてね」
「えっと……」
なんと言ったものだろう。
「言わない、っていうのは駄目かしら」
「まぁ、うん」
「……」
「……」
また気まずい。
「……あ、前言ってたあれ……ほら、刀を持った人形とか」
「それならばっちりよ」
アリスが指をたぐると、どこからともなく人形が飛んできた。洋風のドレス姿で刀を携えている。一見ミスマッチだが、刀を鞘から抜き放って掲げると、意外と様になっていた。
「おぉぉ……」
「ふふん?」
「刀とか、すごい作りこんであるのね」
「当然! 鞘の文様にも気を払ったし、刀身は研ぎ澄ませてあんなに硬いお肉もこの通り! 奥さん見てよこの切れ味! あなたのご家庭にもお一つどうぞ! ってなもんよ」
アリスは通販(というものが外の世界にあるらしい)みたいな自慢をした。
「へぇぇ……凝ってるわねぇ」
刀だけじゃなくて、細かな衣装や意匠にも気が配られている。素人目にも、非常によくできたものだとわかる。
「なんなら、あげましょうか?」
「いいの!?」
「そんなに喜んでくれると、作った側としても嬉しいの。まぁ、私の操作がなくなると、名実ともにただの人形になっちゃうんだけど……」
「もらう! もらうわ!」
「よし、あげた!」
はしたなくも、思わず声を張り上げてしまった。
「私も、なにかお返ししないといけないわね」
「いや、別にいいって」
「もらうだけじゃ、悪いもの」
「どこぞの巫女に見習わせたいわね」
「博麗の巫女? 貧乏だって聞いてたけど……噂じゃないのかしら?」
「割と本当」
「世知辛いわねぇ」
「……そういやあなたって、魔理沙や霊夢たちとは面識あるのよね?」
「え、ええ……」
「いやね、なんか違和感というかしっくり来ないというか……魔理沙は知り合ったやつを片っ端から輪に入れてくようなイメージが」
その認識は、間違っていない、と思った。
自分が突っぱねただけだ。
あの輪に入ったら、過去から離れてしまうよう思ったから。
「……それは……えっと、ほら、緊張しちゃって?」
はぐらかす。
「あんまり、人見知りするようには見えないけど」
「いえいえ、私はまだまだ未熟ですから」
「そういうものかしら? なんなら、私がサポートするけど」
「いいですよ。そんな」
「私じゃ不満?」
「そういうことじゃ」
「どうせなら、みんなで騒いだほうが楽しいわ」
アリスはこともなげにそう言う。少し意外に思った。『それより一人のほうが好き、って感じかな』かつてそう言っていたから。この一年の間に、彼女にもなにか変化があったのだろうか。
「あなたもやっぱり、ここの住人ですね」
「んん? どゆこと?」
「なんだかんだで、馬鹿騒ぎが好きだってことよ」
肩をすくめる。でも、嫌いじゃない。というより、眩しい。どうしようもなく寂しいくせに、ずっと足踏みしている自分なんかよりはよっぽど。
「そりゃ、意外。でも、嫌じゃないわ」
アリスは楽しそうに笑う。
やっぱり、眩しい。
(本当は、シンパシーみたいなのを感じていたのかもしれないわ。一人でいるほうが好きって、言った彼女に自分の影を重ねていた。一人で過ごす中で、きっと無意識に。だから覚えていたのかしら?)
でも勘違いだったみたいだ。
なんと滑稽な。
笑う。
「えっと、どうする?」
さっきの提案のことだろう。
「……そうね」
今一度、考える。
今度こそ、これこそが本当の転機なのだ。いい加減過去の幻影を捨て去って、地を踏みしめていくための。幽々子と過ごしたあの日々は今も心に燦然と輝いている。なら、いいんじゃないのか? もう、十分じゃないのか? 忠義は、尽くしたんじゃないのか? 自分の行動は従者として十分に……
(違う)
そうではない。そういう論点ではない。従者だからとかではなくて、一人の人間として、いいのか。彼女を過去の人物として、歩いていくことにして、いいのか。
脳裏になにかがちらつく。
ちりちり、ひりひりと焼いている。
うん、でも、もう、いい。もう……いいじゃないか。一年間ずっと、縛られ続けてきたじゃないか。想い続けてきたじゃないか。彼女は戻ってこないじゃないか。それなのに、想い続けるのは苦しい。すごく苦しいし、寂しい。
(結局、最初から決まっていたんだ。私がどうあがこうとも、幽々子様が帰ってくることはない。時をへればへるほどに、その実感が強くなる。帰ってこない人は待てない。概念的に。無理だ。無理なのよ。それなのにずっと待っているなんて、妄執だ。それは一途とか誠意とかそんな綺麗な言葉では表せない。だから――)
ここが正気と狂気の境界線。
選ぶ。
「話して、みるわ」
現実を。現在を。そして未来へ続く道を。
その日帰ってから、妖夢は一度だけ嘔吐した。
なにかが、まちがってる。
そうして訪れた宴会で、妖夢はあの騒がしい空間へ入り込んでいったのだ。
見慣れた魔法使いや巫女、他にも色々な人妖がいて、その誰と話すのも楽しくて、うきうきして、自分の望みに嘘をつき続けてきたのだと実感する。
寂しくないはずがなかった。
人肌に触れて、包み込まれて、慰めてもらいたいと何度も思った。
だけど、それはいたずらに過去から逃げて、忘却することに思えて。
ずっと耐えてきた。
今は、もう、耐える必要はない……。
うつむいた。
涙があふれ出た。
解放されて嬉しかったのか、捨ててしまって悲しかったのかいずれにせよ。
誰にも見られたくなかった。
いっそ雨でも降っていればよかったのに。
桜吹雪は、このしずくを隠してくれるのか。
先日喧嘩を吹っかけてきたあのメイドとも話した。どうやら本当にメイドらしくて驚いた。料理なんかをしていて、途中からの参入になったようだ。
「私なんか食べてもおいしくないわよ」
「でもたまには饅頭を食べたいってお嬢様が……」
「これは半霊っ、饅頭じゃないっ」
「あら、怖い」
「幽霊は怖がられるものよ。私はあまり、怖いのが好きじゃないけど」
「じゃあちょうだい」
「話が別っ。あなたは、そのお嬢様に言われたら人だって殺すのか?」
――何気ない質問のつもりだった。話の流れから、自然とそう言っていただけだった。何も意図してはいなかった。ちょっとした冗談のつもりだったのだ。
「ええ、おおよそ」
メイドは、十六夜咲夜即答した。おおよそだとかつけているあたり、彼女も冗談交じりに返したのだろう。けど、その目は真剣で、本当に命令されたら、本当に実行するのだろうなと思えた。
自分が、そうだったではないか。
自分は主の言うとおりに春を集め、一片の疑いも持たず、その結果彼女は死んでしまったのではなかったか。
自分が殺したのは、他ならぬ――
「――幽々子様……」
名前を呼ぶ。過去に置いてきたはずなのに自然と口からこぼれている。「幽々子様……幽々子様……」小さな声でうわごとのように呟いている。止まらない。どうしてか、止まらない。振り切ったんじゃなかったのか。過去は過去として受け入れたのではなかったのか。脳裏がちりちりする。じりじりする。焼け焦げている。じれている。『あなたと過ごせて楽しかったわ』なぜそんな言葉が頭を過ぎるのだろう。なにか忘れている。思考が溶けていく。自分でもまるで制御できない。
「――幽々子様……」
その声はひときわ大きく、周りのものにも聞こえたようだった。「なぁ妖夢」この声は誰のものだろう。魔理沙だ。すごく不思議そうな声だ。どうしたの? いったいなにが疑問なのよ。
「――“幽々子って、誰だ”?」
その言葉で、彼女は気づく。
気づいてしまう。
気づいてしまった。
西行寺幽々子は、冥界の亡霊嬢であり、管理者であった。冥界を離れることはほとんどなく、人付き合いはお世辞にも多いとは言えなかった。ちょうど、妖夢がそうであったように、彼女もまた。あるいは孤独だったのだ。浮世から隔たれた存在だったのだ。八雲紫や妖夢や、あるいは映姫と、そういった限られた人付き合いしかなかったから、当然、彼女を知るものは少ない。
知られていない。
彼女の存在を知らない。
今この場に集まっている人妖の、いったいどれだけが知っている?
大食らいで食ったり寝たりごろごろしたりしていて、本を嗜んだり風景を楽しんだり、日がなのんびりと過ごす彼女のことを知っているのか。
飄々として掴み所がなくてしょっちゅう人をからかってあらあらなんて笑っている彼女を知っているのか。
何事にも動じず全てを見通したみたいな言動をしてそのくせ自分からはめったに動こうとしないで暢気でお気楽で時々優しくてとても嬉しそうな笑みを見せる彼女を知っているのか。
知らない。
私は知っているのに。
私が忘れたら、どうなる。誰が彼女を覚えている。誰からの心からも忘れ去られたとき、本当の意味で死んでしまうのではないか。西行寺幽々子という存在の終焉はそこにあるのではないか。
思考がぐちゃぐちゃにかき乱される。せっかく振り切ったと思ったのに。そのはずだったのに。なんだよ。なんだよ。全然駄目じゃないか! これで何度目だ。いったいいつまで揺れ動いているつもりなんだ。もううんざりだ。わかっている。本当は忘れたくないんだ。無理やり現実に適応しようとしているだけなんだ。忘れたくない。忘れてはいけない。彼女を死なせてはいけない。
死なせたくないのに!
走った。
方向も定めず、がむしゃらに。
いつしか、木々に囲まれていた。博麗神社周辺の藪の中で、ぜぃぜぃと息を乱している。ここまでどこをどう通ったかてんで覚えていない。
ひざに手をついて、必死に息を整えていると、影が差した。
誰かが来た。
こんな顔、見られたくないのに。
泣きはらして真っ赤な顔なんか。
「あなたに、可能性を提示する」
その声はひどく聞きなれていて、しばらく聞いていないものでもあった。
「あなたには今ひとつの道しかないでしょう。だけど、私が選択肢を提示するわ。提示するだけ。選ぶのはあなたよ。あるいはその可能性自体があなたを苦しめるかもしれないけれど、それでも」
妖夢は顔を上げた。
紫、八雲紫、スキマ妖怪、幽々子の友人。ああ、彼女は幽々子様を覚えているだろうか。
「別に誘導するつもりとかはないの。あなたにそれを教えること自体が我侭なの。身勝手なの。わかっているわ。けど、言うわよ。覚悟はいい? 聞いたらもう後戻りなんてできないわよ。必ず選ばなくちゃならなくなる」
彼女がなにを言っているのかよくわからなかった。だけど、その目を見て、理解する。彼女は忘れていない。この一年、ひと時たりとも。ほとんど無意識でうなずいていた。
「“あなたは幽々子を救うことが出来る”。その可能性を持っている。そのためにあなたはどうしようもなく絶望的な未来を迎えるでしょう。肉体的な死を迎え、存在としての終わりを迎え、決して幸せな未来を歩むことは出来ない。すぐ傍で幸せなものを見続けて、どれだけ羨んでもその位置を手に入れられずに、朽ちていく。死ぬ。確実に。なのに、確実に幽々子を救えるわけでもない」
紫は最後に儚く微笑んで、言った。
「もう一度言うけど、本当にどうしようもない手段なの。はっきり言って、正気じゃない。狂気の沙汰よ。間違いなく。取り憑かれてなきゃ、こんなことできないしやろうとも思わない。どう? 聞きたい? それでも、彼女を救いたい?」
その質問は、どこか事務的で淡々としていた。誘導するつもりはないというのは本当なのだろう。一切の選択を妖夢にゆだねて、紫は沈黙していた。
だが。
「……わかっているくせに」
「なにも、わからないわ。幽々子が死んであなたがどんな風に思い、どんな風に生きてきたのか。私にはわからないわよ。一年間ずっと引きこもっていましたから。だから、馬鹿馬鹿しいと思うならさっさと断って欲しい。死人は蘇らない。間違いないわ。私が言う方法というのも、その類のものではない」
「……じゃあ、なんなんですか?」
「“タイムトラベル”。過去改変よ。とても小さな小さな逆行。そして――」
紫は強調するように一拍置いてから、言う。
「過去へ行ったあなたは役目を果たしたら死んで終わり。過去の幽々子と一緒に生きていけるわけではないし、そもそも話すことさえできない。かつ、過去の幽々子を救っても、この時間軸の幽々子の死は覆らない。幽々子が死ななかった世界が別に生まれるだけ。だから、狂気の沙汰なのよ。命を捨てて得られるのは、“幽々子が死ななかった”という分岐だけなの。本当に、それだけなのよ」
紫が冷然と語るのを、表情の抜け落ちた顔で妖夢は聞いていた。もう涙は流れていない。ただなにを考えているのか、全くうかがい知れないだけだ。
どこかで桜が咲いている。その花びらが風に乗って流れてくる。
その一つが、妖夢の目の上にとまる。目が閉じられる。花びらが落ちていく。同時に、目が開かれた。暗く何も宿していなかった瞳は炯々と光を灯して、煌々たる月明かりを映している。
詳しく、教えてください。
そう言うと、それっきり妖夢は静かになった。
紫はまず、藍にしたのと同じような説明をした。
「つまり、私が……その条件を満たした存在だと」
「そう。確かに、過去の自分に憑依しようとしても、異物として排除され消滅するしかない。それは自分という存在をたもつためには必要なことだから。普通精神には一つしか依る処がないからよ。でもあなたには本体にある気質と、その半霊二つの霊体がある。半霊はあなたとの親和性が最高で、かつあなた自身ではない。だからうまいこと、排除されないで入り込む余地がある」
「私自身ではないっていっても……でもこれは私の一部ですよ?」
「あなたは、人の心はどこに宿ると思う?」
「えっ……と……」
少し悩む。
「心臓か……脳、ですか?」
「つまり、腕や足や尻尾には宿らない」
「尻尾って……」
「ほら、ちょこちょこついてきて可愛いじゃない。可愛いのは好きよ。幽々子は可愛い。だから、私自身は救いたい」
「……しかし私は、過去の私の半霊に憑依して、どうすれば……?」
「語りかけてほしい。過去のあなたへ、異変を完遂させてはならない。必ず止められなければならない。そもそも起こさせてはならない。その結果がなにを招くのかを伝えてほしい」
「どうやって――」
――どうやってやるんですか? ってところかしら?
突如、脳内に流れ込んでくる声。不思議な感覚だった。内側の奥底になにか異物感を感じる。耳を通してではなく、もっと深くて確かな道を通って声が聞こえてくる。
――今、あなたと私の境界を薄くしているわ。同一に近い存在同士でなら、こんなテレパシーじみたこともできる。過去の半霊に憑依することは、存在として繋がることでもある。一年前のあなたと今のあなたでは違いもあるだろうから、完全にとはいかないでしょうけど……声を届かせることは、できるはず。
「と、いうことなの」
ふ、と憑き物が落ちたみたいに体が軽くなる。紫を見上げると、彼女との間にある『距離』がまざまざと実感できた。空間的な距離、空気、風、におい、概念。
一つ疑問がわいた。
「直接、過去の私との境界を薄くすることはできないんですか?」
「……考えは、したんだけどね」
ため息。
「まず対象を認識しなければならない。ここでつまづいた。私は過去視や未来視の能力を持ってるわけじゃない。ないない尽くしね……。……妖怪の賢者が、聞いて呆れる」
「……」
紫の自嘲に、妖夢はなにも言えなかった。ナイフで突き刺すみたいな声だ。冷たくて硬くて尖っていて、悔しげな。意外だった。紫はもっと超然としていて、何事にも動じなくて、焦ることなんてなくて……そう思っていた。幽々子の死の間際を思い出す。髪を振り乱して悲鳴を上げていた彼女の姿。皆同じなんだと思った。どれだけ経験をへて老成しても、泣きたくなるし笑いたくなるし怒りたくなるし嬉しくなるし怖くなる。
彼女は怖かったのだろうか。
幽々子は、怖かっただろうか。
「だからこそ……」
「?」
「あ……いや、なんでも」
「……ともかく、今は返事は聞かないわ。よく考えて。ここまで言っておいてなにをと思うかもしれないけど、あなたにはあなたの意志で選んでほしい。救わなくちゃならないわけじゃない。救ったって、この世界での幽々子は蘇らない。得られるのは彼女が死なない世界があるんだという事実だけ。そのために命を投げ出すことの、意味を、意義を見定めてほしい。じっくり。時間ならいくらだって待つ。明日でもいいし一年後でも、十年後でも、百年後でも私は待ち続ける。これでも結構、あなたのことも気に入っているのよ? ……だから命を粗末にはしないで。一時の感情ではない何かで、選んでほしい」
そう言ってから、紫ははかなく笑った。
「謝らないといけないわね。あなたに、可能性を提示したことを。私はあなたがもしかしたらその道を選んでくれるかもって期待してるから、こうして言っているんだわ。あなたが死ぬことになるのに。あなたが主思いなのを知っているのに。悩むことになるとわかっているのに。ごめんなさい」
「いえ……そんな……あの、過去の半霊に憑依した私は……どうなるんです?」
「消えるわ」
紫は即答した。
「いくら親和性が高いっていったって、やっぱり別物。そもそも、時の流れに逆らうこと自体が不自然。その不自然性ゆえに少しずつ磨耗して意識は薄れて思考は曖昧になって消えていく。確定事項よ。覚えておいて。行くのなら、絶対に死ぬ」
「……そう、ですか」
「私はあなたがどちらを選んでも、決して責めはしない」
言い残して、紫はスキマに消えていった。
茫然と妖夢は見送った。
いまいち、頭が働かない。膨大な情報に麻痺している。寝耳に水だった。幽々子のことはもう諦めるしかないと思っていた。どれだけ思いを募らせようとどうしようもないのだと、必死に忘れようとしてきた。
でも、救う手立てがあるのだという。
命を犠牲にして。
仮にその選択を捨てようとも、責められはしないという。
じっくり考えるべきなのだという。
……
……
……ただ一つだけ、わかっていることがある。
幽々子を救いたいという願いが今にも胸を突き破ろうとしている、それだけが。
すぐにでも「はい」と言いたかった。
過去へ飛びたかった。
もう一度、あの笑顔を見れるだろうか。
だけど感情的になってはだめだ。
さっきの出来事が尾を引きずって、そんな情念にとらわれているだけかもしれない。
入念に念押しをされたからこそ、今一度考えてみようと思える。それは紫の狙い通りなのだろうとも思った。
後は、選ぶだけ。
でもその答えは、本当のところもうわかりきっていた。
次の日の朝、意識の覚醒と起き上がるのはほとんど同時だった。かつてないほどに思考が鮮明だった。目に映る全てが新しく見えた。ずっと胸の奥にちらついていた痛みがすぅーっと引いていくのを感じていた。マグマのように渦巻きとぐろまく情念が消えていた。妖夢は思い切り朝の空気を吸い込んだ。空はかつてないほど澄み渡っていた。この世界そのものが澄み渡っていた。それは、見方の変化に違いなかった。
ざ、と。
踏みしめる。
この死の大地を。
幽々子の、居場所を。
一晩悩み続けて、答えは出ていた。
後は、呼ぶだけだった。紫のことを呼ぶだけでよかった。でもそれより先に来訪者があった。
「お久しぶりですね」
「閻魔様……」
映姫は妖夢の目をしか、と見つめて、どこかたおやかに微笑んだ。
「最近、花の異変があったでしょう? それでこの世のものとの交流を持つようになりまして。説教をして回っていたところです。それで、あなたのところにも、顔を出そうと」
「説教をしに?」
「でも、なんだか、必要なさそうですね。あなたの目は今、とても澄んでいます。過去を振り切ったのですか?」
「いえ」
「……では?」
「私は、振り切れませんでした。どれだけ現実に適応しようとしても、駄目なんです。いつも私は幽々子様のことを思い出しているんです。どうしようもなかった。どうしようもなくつらかった。だけど、それも今日までのこと」
「………………八雲あたりでしょうかね」
「前のときも思いましたが、明晰な方ですね」
「何かしら彼女が噛んだこと、くらいしかわかりませんよ。何があったのか、何をしようとしているのか」
映姫はため息をついた。
「何か、危ないことですね?」
「……本当に、なんでもわかりますね」
「あなたの目は死を覚悟したものの目だ。私は今まで、何度もそういう目を見てきた。年の功ってやつです」
映姫は妖夢へ向かって歩き始める。そっ、とその手を伸ばした。何をされるのかと身構えていると、背中に手が回される。あ、と思ったときには抱きすくめられていた。
背中を優しく撫でられる。
「頑張りなさい」
やらわかい手つきだった。いつかの夢の、幽々子の手を思い出した。
「死を覚悟し、迷いを捨て去ったものは美しい。精神が、ではなく、その魂が。とても綺麗に輝くんですよ。見たことはありますか? 夏の太陽のように強い光を放っているんです。そして、閃光のように消えてしまうんです」
妖夢はなんだか、泣きそうになってきた。でも泣いてはならない。もう、半人前ではいられない。そんな中途半端な覚悟では彼女を救えない。絶対に、助け出してみせる。
「成し遂げなさい。それが、あなたに積める最後の善行です」
「はい」
妖夢はうなずいた。
映姫はひまわりのような笑みを見せた。
「では、さようなら」
「ええ、さようなら」
二人は別れた。
妖夢はしばらく、体に残る映姫の体温を感じていた。身を覆っていた緊張もそれでほぐれて、もう何も恐れるものはないよう思えた。
「ゆか――」
そして、呼ぼうとして。
「おーい!」
また呼び止められる。飛んできたのは三人の騒霊だった。騒がしくぎゃあぎゃあと名前を叫んでいる。自分の名前だ。呼ばれているのだ。最後に、彼女たちと話すのも悪くないと思った。
「よかった。ここにいた」
メルランがほっ、としたように言った。
「最近、宴会に参加しだしたんだって?」
リリカが世間話でもするように言う。
「私たちはね」
ルナサが本題を切り出す。
「あの日あなたが苦しそうにしていた日、そのまま帰っちゃって、後悔したのよ。でも、ずっと機会もなかった。私たちの演奏は精神に直接響くから、不安定な人には聞かせられない。でも――」
ルナサは妖夢の瞳を覗き込む。妖夢は、気恥ずかしくて目を逸らすことも、のけぞることもなかった。
「今なら、大丈夫そうだ」
「最近あなたが宴会に顔出すようになったって聞いてねー、ちょっとしたプチライブを開こうと思ってるのよー」
リリカが続けて言う。
「場所は、博麗神社。あなたの知り合いも、いくらか来るわ。来る? いや、来てくれない?」
メルランが締めくくった。
「……」
逡巡する。今そこに行って、覚悟が鈍るようなことはないだろうか。今のこのせいぜいしい気分のままにこの世を去ってしまったほうがよいのではないか。だけど、そのとき、アリスの顔が頭をよぎった。からかうような笑みの魔理沙、無愛想な霊夢、そっけない咲夜、目の前の騒霊たち。
(なんの挨拶もなしってんじゃ、幽々子様に怒られちゃうわ)
決めた。
「行くわ」
「そ、じゃあ行きましょう」
うなずく。
これが最後の宴会になることを、言うまでもなく妖夢は理解していた。
プリズムリバー楽団の演奏はいつも混沌としている。欝っぽい暗い音と躁っぽい明るい音、筆舌にしがたい幻想の音がごちゃごちゃに、だけどお互いを食いつぶさないよう絶妙に纏め上げられている。耳に届く音はひどく心地よく、舌が寂しく感じたのでお茶を飲んだ。
「酒は飲まないのか? 宴会も演奏会も似たようなものだぜ」
魔理沙がけらけらと笑って言った。
「今日はちょっと、事情があってね」
「ふーん、そんなものか?」
ぐびぐびと酒を煽っている。朝っぱらからそんなに飲んで大丈夫なんだろうか。
「では次の曲は――」
三姉妹の口上をぼんやりと聞き流しながら、妖夢は境内を見回した。朝っぱらの、それも昨夜宴会があったばかりともあってか集まった人数は多くない。霊夢、魔理沙、咲夜、アリス。それとも気を利かせて顔馴染みばかり集めたのだろうか。妙なおせっかいを焼くものだ、あの三姉妹も。皆皆おせっかいじゃないか。アリスも、魔理沙も、映姫も、誰もかれも。
(だから、ここは楽園なのね)
かつて紫が幻想郷を愛していると言っていたことを思い出した。当初は、うさんくさいものだと思ってばかりいたが……違う。今ならわかる。彼女は本当に愛しているのだろう。この楽園を。彼女も一人の少女に過ぎない。幽々子だってそうだった。憧憬と卑屈を取り違えて、ただ見上げるだけだった自分はなんと愚かだったのだろう。もっと早く気づいていれば幽々子様とも……
(考えても、しかたない)
「楽しんでる?」
アリスが隣に立っていた。
「私は楽しんでいるぜ」
「あなたには聞いてないの。聞かなくてもわかるから。ああもうっ、その赤い顔を近づけるな! 酔っ払いめ! 昨日散々飲んだから頭が痛いのよ!」
ぐいぐい、と赤い顔と杯を近づけてくる魔理沙にアリスが怒鳴る。「あははっ」なんて笑いが自然と漏れていた。
「ほら、笑われちゃったわ」
「私は何も悪くない。全ては酒のせいだ。犯人は酒だぜ」
「相変わらずねぇ」
咲夜が割り込んできた。
「なにがだ?」
「泥棒には飲んだくれの姿がよく似合うってことですわ」
「私がいつ泥棒なんてしたんだ。図書館はいつから犯罪の温床になった?」
「飲んだくれとはいえ、ちょっと口が悪すぎるわね」
「どうでもいいけどあんたら、弾幕ごっこは始めないでね。空気を読んで」
さらに霊夢が割り込んでくる。「演奏の最中なんだから、ちょっとは静かにしたら?」正論である。咲夜は大人しく黙った。瀟洒である。魔理沙はまだ何か言っていたが、見かねたアリスが黙らせた。
演奏は佳境に入ろうとしていた。普段のプリズムリバー楽団と比べると、やや明るめの曲調が続いている。それが自分への配慮だということに妖夢は気づいたし、気づいたから耳を傾ける。この演奏を聴くのも、最後だから。この騒がしい日常も、最後だから。
なんだか、寂しくなった。結局、迷ってしまっているのだろうか。そうも思った。だけど違う気もした。妖夢は目を閉じて、思い浮かべる。鋭敏になった耳から美しい音色が流れ込んでくる。ぎゃあぎゃあと姦しい彼女たちの声が聞こえる。だけど、その喧騒の中に探しても幽々子の声は、ない。
(ああ……)
こんなに素敵な場所なのに。
こんなに素敵な幻想郷なのに。
彼女はついぞ、そのことを知らなかったのだ。
(幽々子様がこの中に混じって無邪気に笑っているような未来……私はいつもみたいにからかわれて愚痴愚痴言いながら酌をするのよ。なんでもない他愛もないことを言って、軽口を飛ばして、弾幕ごっこをして――)
そんな未来を幻視する。
こんなに素敵な場所だからこそ。
こんなに素敵な幻想郷だからこそ。
彼女を、救わなくてはならないのだ。その考えはすとん、と体の芯に落ち着いた。今はもう、迷うことなどないだろうという確信があった。笑みが漏れた。透き通った笑みだった。
やがて演奏が終わった。
「どうだった?」
と聞いてくるメルランの声は少し震えている。不安からか、達成感からか、後者だと思った。「すごくよかったわ」と妖夢は答えた。三姉妹は嬉しそうに笑った。
「ごめんなさい、私にはやらなければならないことがあるの」
唐突に、そう切り出す。皆鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔になった。
「もう帰っちゃうの?」
アリスがそう聞く。いつか、こんな会話をしたなと思い出した。つい最近のはずだった。なのにずいぶん昔のことに思える。
「帰らなきゃ、いけないの。どうしてもやりたいことが、あるから」
「薄情者ー」
魔理沙が茶化すように言う。
「ごめんなさい」
謝ると、魔理沙は鼻白んだみたいに沈黙した。「そんなに、大事なことなのか?」声が変わる。真面目なときは真面目にできるんだなぁ一応、なんて他愛もなく考える。
「とても、大事なことなの。今日はありがと。本当に、楽しかったわ。本当に……」
「うん、そう言われると私たちも嬉しい。また」
ルナサが言う。
「またね」
メルランが言った。
「またー」
とぼけた調子のリリカ。
「また」
相変わらず淡白に霊夢。
「いつか、リベンジしてやるわよ」
まだ根に持っているらしい咲夜。
「じゃあな、また」
あっけらかんと魔理沙。
「また、ね」
名残惜しげにアリス。
「……」
妖夢はしばらく、何も言うことができなかった。きっと各々、意識して言っているのではなかった。だけど、皆が皆「また」というものだから、果たして自分は嘘をつくべきなのか、どうなのか、迷ってしまったのだ。
(ああ迷い……迷いなどっ!)
覚悟を決めたはずだ。どんなことがあっても、救って見せると。
だから、言わなくちゃならない。
未来への未練を捨てなくては、過去を変えるなんてできるものか!
「さようなら」
そう言って飛び去る。逃げるようにではなく、屹然と背を伸ばして、堂々と飛び立った。なにか彼女たちが言っていたが、聞かなかった。聞く必要はなかった。もう、後ろを振り向いてはいけなかった。ただ前だけを向いて飛び続けた。
白玉楼に帰ってきた妖夢は、蔵に押し込めていた楼観剣を取り出した。しばらく見ないうちに積もっていた埃を払う。
その後庭に出て行くと、ふと西行妖が目に入った。悪夢の始まり、全ての元凶。今すぐ切り倒してやりたい衝動に駆られた。この世への置き土産に特大の切り株を残していくのもやぶさかではない。
(でも……まぁ、いっか)
これが憎いのは、自分だけではないはずだ。どうせなら、他の者にその役目は譲るとしよう。どうせ、この世界とは別れを告げるのだから。
すぅ、と息を吸い込んだ。
厳かに、呟く。
「紫様」
現れない。
はっきりと、呼ぶ。
「紫様!」
現れない。
声を大にして、叫ぶ。
「紫様っ!」
出てこない。聞こえていないのか。人がせっかく覚悟を決めて出てきたというのに。
(もうこのさいだから……ちょっとはっちゃけてみようかな……)
日ごろの鬱憤というものもあるし。
思いっきり息を吸い込んだ。
「出て来い! スキマ妖怪ぃぃぃぃぃぃぃ!」
紫は、現れた。
「本当に、いいのね?」
紫の再度の確認。
愚問だ、と切り捨てる。
「私は幽々子様がいなくなってから一年間、ずっと忘れようとしてきました。過去にとらわれてはならない、現在を見つめて生きていくべきなのだと信じていましたし、正しかったとも思います。でもできなかった。どれだけ頑張っても……どれだけ忘れようとしても……できないんです。私にとってそれだけ幽々子様は大きかったんです。気づいてさえいなかった。気づいてさえ」
視界が、にじむ。一年間、この苦しみを語ったことはなかった。本当は、ずっと話したかったのかもしれないなと思った。口は自然と動いていて、止まらない。
「気づいてさえいれば、何か変わったかもしれません。異変を起こそうとする彼女を止めたかもしれない。止めれたかもしれない。……幽々子様は私の主である以前に、母であり、姉であり、親友でした。そこをずっと勘違いしていたんです。私は知らず、自分を従者としての枠組みに嵌めていました。きっと幽々子様は、孤独だったと思うんです。彼女は自殺するほど生前思いつめ、死んでからはこの広い冥界の、広い屋敷に住まねばならなかった。あれは、寂しいんです。本当に、寂しいんです。音のない冥界の風景にむなしさがこみ上げるんです。だから……だから、私は従者であるだけでは駄目だった……もし今やりなおせたなら、もっと、違う関係を築けたかもしれません」
涙はとっくに溢れ出していた。止めようという気も起こらなかった。止められるとも思わなかった。ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、みっともなく鼻水をすすりながら、言葉だけははっきりと、しっかりと、刻み込むように紡いで行く。
「本当に、いいのね?」
「くどいですよ」
「……私は謂わば悪魔の囁きをした。あなたが幽々子を助けたいと願うだろうと見越して、期待して、方法を提示した。……私は……! あなたが死ぬことより、幽々子が助かる道を選んだのよ! 憎くないの!? もしあなたが救う道を選ばなかったとしても、あなたはそのことに悩み苦しんだはずなのよ!? どちらにせよ苦しみしか約束されていないのに、私は……私は――」
声を荒げる紫の、目元が赤くなっていることに妖夢は始めて気づいた。
(ああ……そうか)
呼ばれて、なぜすぐ出てこなかったのか。なぜすぐ出ては来れなかったのか。
「私は、憎みません」
「あなたは、この現実で幸福になれたはずなのよッ……彼女たちとたわいもない話をして、なんでもない日常を過ごして、たまには異変もあって、少しずつ傷も癒えていって――そんな未来があったはずッ……私はその可能性を摘み取った!」
「それでも、憎めません。私も、幽々子様を救うためなら全てを犠牲にできる気がするから」
「……もう、私からは何も、言えないわね。あなたのことを……」
あなたのことを半人前だなんて、からかえなくなっちゃったわ。
泣き笑いの表情で紫が言う。
妖夢は精一杯笑った。
「覚悟はできています。いつでも、やってください」
「じゃあ、目を瞑って」
「あの、その前に」
「?」
妖夢はおもむろに楼観剣を抜き放つ。長い刀の背を握り、ナイフのように後頭部に押し当てた。「ちょ、ちょっと何する気!?」紫が慌てふためくのを尻目に。
髪を。
長く伸びた髪を。
切り落とした。さらさらと風に流れて銀糸が散っていく。
もう、迷うはずはない。
今、そんなものは切り落とした。
妖夢は、目を瞑る。ふわ、と体を持ち上げられる。同時に、濃密な妖気の漂う部屋に入ったことがわかった。スキマを使って移動したのだろう。仰向けに横たえられた。紫が、覆いかぶさるように自分を見ていることがわかる。
「じゃあ、行くわよ」
「紫様」
「なに?」
「さようなら」
「……さようなら」
そこで、妖夢の意識は途切れている。
ぴくりとも動かなくなってしまった妖夢であったものを紫は見下ろしていた。むせ返るほどの妖気が満ちていた部屋はがらんどうと空き渡り、ただ空虚で乾いた空気を漂わせている。そ、と座り込む。妖夢は安らかそうに死んでいた。今の彼女は、魂魄妖夢という存在を形作る情報を全て抜き取られた抜け殻に過ぎない。それは記憶とか、気質とかそういうものの集合、謂わば精神だった。精神が具現すれば亡霊。亡霊は実態だが、精神そのものは実態ではない。紫は、精神そのものを過去に送りつけたのだ。一応、身体活動は続いているものの、この妖夢が目覚めることは二度とない。
「紫様」
扉を開けて入ってきた藍が気遣わしそうに声をかける。「大丈夫、大丈夫よ」紫は気丈に笑った。スキマを開く。
「どこへ行くのですか?」
「罪を、あがないに行くの。私は、妖夢を殺した。妖夢が仲良くしていた彼女たちに、糾弾され、なじられ、裁かれるのが私の責務よ」
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫よ」
紫は涙のあともまだ乾かない顔でそんなことを言う。彼女の内心を藍は推し量ることしかできない。スキマに入っていく彼女を見届けながら、今日は、飛び切りおいしいものを作って慰めようと思った。ふと、横たえられた妖夢の抜け殻に目が行く。いつもなら布団か何かに寝かせるくらいはするだろうに、放ったまま行ってしまった。やはり動転しているようだ。妖夢の軽く感じる体を持ち上げる。藍も、その顔が、ひどく安らかなものであるのを見つけた。
「願わくば、それが紫様の救いになりますように」
さぁ、いったい何を作ろうか。
帰ってきた紫は、案の定ひどい顔だった。
「藍……」
生気のない声が、藍を呼ぶ。
「そんな顔をしないでください」
「どんな顔をすればいいの?」
「私にも、わかりません」
「なによそれ」
紫が笑う。今にもついえそうな笑みだった。妖夢の死を突然に伝えられた、博麗神社に集まっていた面々は当然混乱した。信じなかったり、問い詰めたり、泣き出したり、声を荒げたり、直截な暴力に訴えなかっただけ、彼女らはむしろ理性的だったかもしれない。
「いっぱい、いっぱい涙を見たわ」
皆呆然としていた。理不尽への嘆き、突然の死、そういった状況で抱く感情が、紫には理解できる。加害者の立場でありながら、おこがましくも、わかる。わかるのだ。
紫もそうだったから。
「いつものように冬眠から目覚めると、幽々子はもうこの世にいなかった」
一年前のことだ。紫はひょんな会話から、嫌な予感を覚えた。そして、知った。西行妖が咲いたこと、幽々子が死んだことを。今思い返してみれば恐慌に陥っていた気がする。なんてことをしてしまったのだと思った。幽々子の封印の真実を知る数少ない人物であり、いざというときすぐ助けにいける稀有な人材であり、親友であり、理解者であるつもりだった。だけど、迂闊にも冬眠などをしていたではないか。完全に平和ボケしていたではないか。本当に動かねばならなかったときに、動けなかったではないか。
(愚かな)
あまりの衝撃に床が抜けたように感じたのを覚えている。なんとしても助けなければと思った。救わなければと思った。すぐに部屋に引きこもって、過去へさかのぼる方策を探し始めた。試行錯誤の末に、不完全な完成を得た。
そして、妖夢を犠牲にした。
(他ならぬ、私のせいで……! 私がちゃんと起きていれば、幽々子は死ななかった……! 私がもっと力を持っていれば、妖夢の命をささげることもなかった……! 私自身が死ねばよかった……! 私が殺した。私の失敗の、尻拭いをさせてしまった。そのくせ、私は今もこうして、のうのうと……)
「紫様」
声で思考がさえぎられる。
藍はまっすぐに紫を見ていた。
「あなたが罪だと思うなら、それは罪ですし、あなたはきっとあがなっていくでしょう」
藍は紫に歩み寄る。心配そうな目が紫を一心に見つめている。ああ自分には勿体ない式だと思った。
「でも、その手段に死だけは選ばないでほしいのです。あなたが死んでしまったら、私はどうすればいいのかわかりません。私は彼女のように、強くはないかもしれない」
真摯な目だった。藍はゆっくりと紫の手をとって、握る。紫は握ろうとして握れないような中途半端な力を込めた。
(ああ幽々子……いい従者を持つって、こういうことなのね)
もしも幽々子が生きていれば、あの迷いを捨てた妖夢と、こうして、手を取り合うこともできたかもしれないのに。
そんな夢想が夢想に過ぎないことを思って、悲しかった。
自分だけが幸せになることが、後ろめたい。
このまっすぐに見つめてくる瞳を、受け入れられない。
「もしもあなたがそんなことで死んでしまったら……」
藍は、紫を励ますように、冗談めかして言う。
「例え過去にさかのぼってでも、助けてみせる。この命を捨ててでも、助けてみせる。私は、今ならなんだか、彼女の気持ちが理解できるような気がするんです」
さぁ、おいしい料理を作ってあります。
それでも食べれば、気分も楽になりますよ。
そう言って笑う藍はいい従者だったろう。だけどだからこそ紫は握った手をほどいた。幽々子と妖夢は再開できない。こうして手を取り合うことも、話すことさえも。なのに、自分だけ救済を受け入れるのは、どうしてもどうしてもできなかった。藍のゆれる瞳を見返しながら、「ごめんなさい」と言ったきり、紫は顔を俯けてしまった。
※※※
最初に感じたのはすさまじい違和感だった。
違う。
違う。
これは違う。これは全然違う。全くもって不自然だ。窮屈で息苦しい。無理やり体を折りたたまれたような違和感が拭えない。視界はいたって不鮮明であったし、動かせる手足など存在しなかった。魂魄妖夢は今、魂魄妖夢の半霊なのだ。
――幽……様……もうす………………かし……。
思考にノイズが混じったような感覚。しばらく意味がわからなかった。おくれて、これが過去の自分の思考であると思い至った。ちょうど紫が境界を薄くしてテレパシーを届けてきたときの感覚に、似ている。でも受け取れる情報は断片的で、碌に解読できそうもない。ただ、言葉にはならなくても、イメージが伝わる。過去の妖夢が思い浮かべているのは、からからと笑う幽々子の姿だった。その、久しぶりの、生きている姿。それだけで、胸がしめつけられた。決して話すことができないことが、ひどく悲しくなった。そのあと実物の幽々子を見て、それだけで胸がはりさけそうだった。
しかしこの時点で、嫌な予感はしていたのだ。
確信へと変わるには、三日ばかりの時間がかかった。
交信が、薄い。
つながりが、薄い。
つまり、今感じているこの窮屈さも、視界や伝わってくる思考、イメージがぼやけているのも、全て妖夢と妖夢のつながりが薄いからに他ならなかった。
(なんで……?)
自問する。紫は己の全身全霊をかけてあの術を作ったという。妖夢は、あの紫がこれほど大事な問題においてイージーミスを許すとは思えない。術式自体には問題ないはず。じゃあ、何が問題だった? 何か、見落としていることが……
『過去の半霊に憑依することは、存在として繋がることでもある。一年前のあなたと今のあなたでは違いもあるだろうから、完全にとはいかないでしょうけど……声を届かせることは、できるはず』
紫の言葉が、脳裏によみがえる。それはつまり、全く同じ名前、全く同じ姿の人物でも、中身が違えばコネクションが完全にならないことを指している。一年。一年の時間があったのである。妖夢はその間に様々なことに悩み、苦しみ、結論を出し、ここへ来た。たった一年でも、その濃度が違った。密度が違った。
(私は……思っていた以上に変わっていたのか……? この違和感は、一年前の私との差異そのものだというの?)
そうだとしか思いつかなかった。
妖夢はそう結論した。そんなことより、一刻も早く忠告を促すことが先決だった。妖夢はもてうる全ての力を注いで言葉を送り続けた。言葉よりイメージのほうが伝わりやすいとわかってからは、思念をそのまま叩きつけた。幽々子の死、色を失った景色、麻痺した感覚、胸のがらんどう、春を集めてはいけないこと、西行妖を咲かせてはならないこと――
だけど、思うように伝わらない。
徐々に、焦りが思考を支配していった。
(どうしよう……どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう……)
まずい。
早く。
時間がないんだ。
今もこの存在が削れて行くのがわかる。自分がこの時代にとって不自然だという感覚がある。意識が飛び飛びになって、気づけば一日たっていたりもした。十分な猶予期間があった。なのに、いつしか過去の妖夢は春を集め始めていた。異変が今にも始まろうとしていた。それどころか、もう始まっている。せっかく、せっかく覚悟を決めて、ここまで来たっていうのに……!
(ここまで来て、それはないじゃない!!)
心中で絶叫する。身を引き裂かれそうな焦燥だった。頭のおかしくなりそうな恐怖だった。伝えなきゃ、伝えなきゃならないのに、全然伝わらない。過去の妖夢は時々首を傾げても、それだけだ。どうすれば、どうすれば……
そしてある日。
妖夢と幽々子が話をしていた。
「最近、嫌な夢を見るんです」
何か、頭の隅に引っかかる。
「そうなの、どんなの?」
これはいつのことだったろう。
「内容はよく覚えていないんですが……」
確か、その時期は立て続けに悪夢を見ていた。
「どうでもいい夢ってことかしら」
あまりに怖くて不安だったので、幽々子に相談したのだ。
「そうでもないような……」
でも気恥ずかしい思いもあって、相談というほどは相談しなかった。
「一人で寝れなくなったら、添い寝でもしてみる?」
その後、何日かたち。
「そ、そんな子供じゃないんですから……」
結局自然と悪夢を見ることはなくなった。
「そう言ってるうちが子供ね。夕飯は何?」
まぁそういうものなんだろうと思っていた。
「はいはい、今作りますので」
だけど――
(ああそうか……“初めて”じゃ、なかったんだ)
理解すると同時に、胸の奥で諦観が首をもたげてくるのがわかった。
いったい、“何度同じことを繰り返したのだろう”。
(わからない……ただ、私が見ていたあの“悪夢”は、“悪夢”じゃなかった……あれは、私が毎日送っているこの思念、記憶だった……! それが夢という形で現れていたんだ……! “私より一つ前の未来から来た”私が命を賭して伝えようとしていた過去だったんだ……! それを、たかが夢だと切って捨てた! 私は! きっと、何度も何度も過去へ戻り、過ちを伝えようとしたけれど失敗したッ! そしてまた同じ過ちを繰り返して、同じように過去を変えることを選択し、失敗する……何度も何度もッ……失敗していた……ッ)
そう、これが初めてではないのだ。
今現在の妖夢を妖夢Aとして、彼女に『悪夢』を見せていた妖夢B、妖夢Bに『悪夢』を見せていた妖夢C、妖夢Cに……そうやって何度も何度も、それぞれ別の妖夢が同じことを繰り返してきたのだと考えられた。
ならば、いくら頑張っても結果は変わらないのではないか。
これから先も、彼女に思いが届くことはなく滅びるだけなのではないか。
その未来を思うと、目の前が真っ暗になった。絶望が黒色をしているということを始めて知った。幽々子が死んだときさえ、これほどの絶望は覚えなかったというのに。だって、滑稽じゃないか。命を捨てる覚悟までして、惨めに失敗する。それを延々と繰り返しているだなんて。すごく滑稽じゃあないか。
(もう……疲れた……)
何も考えたくなくて、思考を放棄する。
幽々子の笑顔が浮かんだ。
もうしかたがないわねぇ、なんて言いながら、穏やかな目で見つめてくるあの笑顔が。
背中を押されたような気がした。
絶望と意志がどろどろに溶け合って、何もわからなくなっていく。
……
……
……
意識を失っていた。いよいよ存在の消滅も近いのかもしれない。最後、いつ意識が飛んだのだったか。確か……ああそうだ、同じことを何度も繰り返していると気づいたんだった。なんだかもう全てがどうでもよく思えてくる。なんだよ、なんだよ。こんな、最後の最後で……
『あなた、人間ね。ちょうどいい。あなたの持ってるなけなしの春をすべて頂くわ!』
その言葉だけで、今がいつなのか特定することができた。春雪異変を解決しに、魔理沙や霊夢や咲夜が乗り込んできたあの日。この日だ。この日、幽々子は死ぬのだ。
『大分暖かくなってきたな』
この日、幽々子は死ぬ。悲痛な声で、苦しそうな息で、絶望した表情で、最後に妖夢のほうを見て――
『みんなが騒がしいと思ったら生きた人間だったのね』
『私が死体なら騒がないのか?』
『騒がない。人間がここ白玉楼に来ることは、それ自体が死のはずなのよ』
『私はきっと生きてるぜ』
あなたと過ごせて楽しかったわ。そんな言葉が頭をよぎった。なんでだろうと考える。
…………ただ、このままじゃいけない気がした。
『あなたは、その結界を自分で越えてきた。その愚かさに霊が騒がしくもなろう』
紫はどうしているだろう、なんて考えた。気に病んでいるかもしれない。気にしないと言っているのに。妙なところで義理堅い。もしも幽々子が死ななかったら、彼女はどうしただろう。案外、色々な知り合いを作って好き勝手やったかもしれない。そんな未来が、これから訪れるといいのに。
『で、ここは暖かくていいぜ』
『それはもう、幻想郷中の春が集まったからね。普通の桜は満開以上に満開だわ』
『死体が優雅にお花見とは洒落てるな』
そのために、まだなにかできる気がした。でも、できない気もしていた。
『それでも西行妖(さいぎょうあやかし)は満開には足りない・・・』
『さいぎょうあやかし?』
『うちの自慢の妖怪桜よ』
『それは見てみたい気もするぜ』
それでも、まだ生きている。
だから、もう少しあがこうと思った。短い時間の間に、色んなことを考えた。解決策を手に掴もうと、必死にあがいた。
そして、あるいは奇跡のような確立で、妖夢は思いついた。それとも、今までは思いつかなかったから失敗してきたのかもしれない。その極わずかな可能性にたどり着くために、こうして何度も繰り返していたのかもしれない。希望を、見つけた気がした。全身の血が沸き立つような感覚だった。
目を瞑る。半霊にはそんなものないけれど、そんなイメージをした。細く息を吸い込んで、整えた。静かに、己の内面深くへと沈んで行く。さぁ、“思い出せ”、まだやれることがあるだろう。
『ともかく、あとほんの僅かの春が集まればこの西行妖も満開になる。あなたが持ってきたなけなしの春が満開まであと一押しするってものよ』
一分のようにも一年のようにも感じた。長い間自分の奥を探し回った。妖夢は、あの悪夢の記憶を探していたのだ。一人分のイメージが届かないなら、それでいい。十人分、百人分のイメージを重ねてぶつければいいのである。それなら一つくらい、届いてくれる。たぶん。きっと。
『しかし、せっかく集めた春を渡すつもりなどあるわけもないぜ』
見つけた。一つ前の妖夢の、伝えたかったもの。その思念、記憶の中にさらに埋没し、その先にもう一つ前の妖夢の記憶を探す。合わせ鏡の鏡像に手を差し込むような作業だった。かつてないほどに集中していた。あるいは、走馬灯とか、そんなものに近かったのかもしれない。妖夢の中に蓄積し続けたたくさんの“妖夢”の思念を慎重に慎重にサルベージしていく。
『満開まであと一押し!』
それらは大筋こそ同じだったが、細部はしばしば変わっていた。妖夢を冥界から引っ張り出したのは霊夢だったり咲夜だったりもしたし、憎悪のままに西行妖を切り倒したこともあった。その全てにおいて共通しているのは、幽々子が死んだことと、紫がタイムトラベルの術をくみ上げること、そして、必ず妖夢が幽々子を助けに行くことだ。
『いっそのこと、私がお前の集めた春を奪って、その妖怪桜を咲かせてやるぜ』
何回繰り返しても、妖夢はその選択を続けた。続けたから、今がある。一度でも諦めたら、そこで終わりだった。世界は分岐をやめて直進するに違いなかった。自分の存在が不確かになっていくのを感じながら、なんだか誇らしい気分になる。自分たちは、一度も彼女を忘れられなかったのだ。
『私の集めた春は渡しやしない』
『私もな』
妖夢は二十九個分の思念を掘り返した。そして、それらに共通している部分を取り出して、纏め上げて、後はおとぼけた一年前の自分に送り込むだけになった。
『・・・妖怪が鍛えたこの楼観剣に』
実行。
同時に、自分の存在がこれから消えるのをはっきりと予感した。生きていた証、妖夢を形作る輪郭がぼやけて、ふやけて、ぐちゃぐちゃになっていく。もうこの意識を保っているのも限界だった。為すべきことは、為した。と思う。それが最後の善行だと閻魔は言った。なら、少しくらい融通してもらえるだろうか。ああ、違うのになぁ、と思いなおす。本当は三途の川なんか渡らない。消滅して、跡形も残らないのだ。幽々子がそうであったように。
だけど、何も怖くなかった。
※※※
そして、東方妖々夢へ
※※※
「妖怪の鍛えたこの楼観剣に――」
妖夢はそこでふと、言葉を止める。魔理沙がいぶかしげな顔をするも、妖夢は愕然と目を見開き、口をパクパクさせるだけだ。彼女の脳裏に去来するものは、おびただしい『生死』と『制止』のイメージだった。幽々子が死んでいた。自分が悲嘆にくれていた。紫が悲しそうに微笑んでいた。知らない顔ぶれたちが自分とたわいもないおしゃべりをしていて、でも、彼女たちとは別れなければならない。その中に今目の前にいる黒白が含まれているようにも感じたが、どうだろう。
なにせすぐ忘れてしまった。
あまりに膨大な情報を脳が拒否していた。いやおうなく脳裏に流れ込んでくる思念の渦を必死にさばき、流し、かいくぐると、最後にはただ漠然としたイメージが残る。
『この異変は解決されなければならない』
そう、思った。
確信だった。
自分はここで、あまり頑張りすぎてはいけないのだとわかった。
そういう意味では、今目の前にいる黒白を斬ることはできなさそうだ。「斬れぬものなどありやしない!」だなんて言えたものじゃない。どうしよう。困った。すごく困った。でもあまり悩んでいる時間もないのだ。
ふと、思いつく。
適当な閃きだった。それが不思議と、正しいように思えた。
(だって、何回何回繰り返しても、それだけは切れなかった。幽々子様への忠愛だけは、絶対に切り捨てることができなかった……あれ?)
何を考えていたんだろう。
まぁ、いいや。
今は弾幕ごっこ。
「妖怪の鍛えたこの楼観剣に――」
心がひどく澄み渡っていた。その言葉を言うのに、なんの羞恥を感じる必要もなかった。
むしろ妖夢は堂々と、誇らしげに、声高らかに宣言するのだ。
「斬れぬものなど、殆どない!」
※※※
春雪異変解決から一ヵ月後。
幽々子と妖夢は居間でのんびりお茶を飲んでいた。
空は蒼々と晴れていて、開けた襖から見える桜は極上である。死んだ鳥が飛び死んだ草花が生え茂り、風も穏やかな日和だった。
その暖かい光景に、ふと幸せになる。
心の底がぽかぽかする。
なぜかはよく、わからなかった。
こんななにもない一日、そんなに珍しくもないのに。
平和な室内に、現れるものがあった。
「はろー」
紫だった。いつものように胡散臭い笑みを浮かべた大妖は、当たり前のように座布団につく。妖夢も当たり前のようにお茶を用意して、静かに三人ですすり始めた。
ずず、ずず。
ずず、ずず……。
「妖夢、泣いてるの?」
幽々子が不思議そうに問う。目元を押さえると、しっとり濡れていた。
「あ、あれ?」
なんで、泣いているんだろう。
まるでわからない。
「あらあら、怖い夢でも見た?」
紫は愉快そうに笑っている。じっとりした目でじっとりした視線を送るも、扇子に隠されて顔が見えない。うむむ。歯がゆい。
「今日はなんだか、水っぽい日ねぇ」
幽々子が呟く。
「こんなに晴れているのに?」
紫が言った。
「だって、あなたまで泣き始めるんだもの」
「……ッ」
紫は顔を背ける。扇子の向こうがどうなっているのかは、やはり見えない。でも妖夢はなぜか、とても暖かい気持ちになった。
「し、知らないわよ。なんか泣きたくなったんだもの。そういう幽々子はわけもなく泣きたくなる日とか、ないの?」
おどおどした声。焦ったような声。紫のそんな声を、妖夢ははじめて聞いた。
「ふふふ。さぁね。湿っぽい話は、これくらいにしましょ」
お茶を優雅に啜って。
「妖夢」
言う。妖夢は十を察しておかわりを注いだ。
ぽつ……
「あ、すみませんっ。こぼしてしまいました……っ」
もう己の涙は乾いていたし、紫も涙の跡など残さぬ平然とした顔を見せていた。つまり、お茶をこぼしてしまったのだ。小さな失敗も、半人前の証左に思えて心苦しい。
「ああ、別にいいわ」
幽々子は不思議そうな顔で妖夢の傍らを見ながら。
「こぼれたのは、お茶じゃあないし」
とてもおかしなことを言った。
そのしずくがなぜ、どこから落ちたものだったのか。
彼女たちが夢見た未来は、ここにある。
たとえ?
ただただ、鳥肌物です…
読んでる途中で涙腺が崩壊しそうになりました
とても素晴らしい読み応えのある作品でした!
数ヶ月前と言えばそんなアニメもやってましたね。
それは置いておくにして、なんとなくご都合主義が所々に垣間見える気がしました。
しかし、非常に夢中になって読める作品だったかなぁと。
後編では前編に出てきた文章を上手く活かせていて成る程こう来るかと感心しっぱなし。そして
a a a o u o e e a o i a a
すぐ下に解答があることに気付かずこの時点で5分くらい考えて答えを出した達成感と直後のやるせなさ
いや、良いものを読ませて頂きました。
この一言の強さがもう…
涙腺崩壊しました。
すご。貴方すごい!
もう、ただすごいとしか言いようがありません。
俺も泣く、感動よりも悲しさのが強すぎるぜ;;
投稿してくれてありがとう。
斬れぬものなど、殆どない!
にそんな解釈の仕方もあったんですね
良い話をありがとうございました
前編を上手く補足していく形が凄く上手で入りこんでしまいました。100点で足りないくらいの素敵なお話をありがとうございました。
言葉もねえや、と言う位に心を動かされました
安っぽい表現では言い表せず、語彙の少ない自分が許せん
これは妖夢ステージの東方妖々夢を聞きながら読むと最高に切なくて良いです
前編を見て、シリアスとギャグの間かなーっとか思った自分が情けない
ばらっばらのパズルが読むうちに頭の中でどんどん組みあがり、完成したときの満足感。ものすごい良かったです。泣きそうになりました
大作。本当に大作でした。読んでるときにほかの事を考えなかったのは久しぶりです。
ありがとうございました。1000点つけたいです
ときどき、誰の台詞か戸惑うこともありましたが、原作の雰囲気を上手く地の文に溶け込ませていると感じました。
この紫、すごい自分好みです。
半霊はただの空飛ぶ饅頭じゃなかった。
大作をありがとう。
とても良い作品をありがとうございました。
ただでさえ最近寒いのにどうしてくれるんですかぁぁ!
最後急ぎすぎかなぁと思う反面、あれくらい怒涛の如く進めたから
こその鳥肌かなとも思い、ちょっと複雑です
前編からは題名に似つかわしくない暢気っぽいような空気を感じてしまってたんですが、前編の最後の言葉からその印象は吹き飛んでしまいました。
ただ、そのときは首を傾げるばかりでしたが、後編を読んで納得。
それから、のめり込むように読んでしまいました。
こんなにも素晴らしい作品をありがとうございます。
今まで読んだ二次創作小説では妖々夢の設定を最も生かし切った作品のように感じました。
原作調のユーモレスクな会話の再現もとても巧みで、新しい妖々夢をもう一回プレイしている気分にさえなりました。
妖々夢を知っていてよかった、この作品を読めてよかった、そう思わずにいられません。
二次創作っていいものですね。
萌えよりも燃え、伝わってきました。この話は確かに悲しいけれど、主題は断じてそんなものじゃなかったです。
前半の妖夢の突然の絶叫やささやきから、並々ならぬ空気は感じました。
幽々子に不幸があり、ショックのあまり妖夢はその記憶をなくしてるのかな、と予想しましたが大外れ。この妖夢が幽々子のことを忘れるはずはなかったですね。
閻魔様の発言や一年後のアリスたちとのふれあいから、愛する人の死を乗り越えて新しい答えを出すのかと思いましたが、それも違ったようです。
最初は過去への干渉なんてとんでもない、とか妖夢の理性側の考えに深く共感していたんですが。
思えば幽々子の死に対する激情、虚無感、孤独感などなど、かなりの分量が割かれているように思えます。
それだけ妖夢の失ったものの大きさというのは伝わってきましたし、それに対して過去と決別してつかむ幸せは小さいのではないか、本当にそれでいいのかといった思いや、妖夢が途中感じる胸の痛みも感じ始めました。
そして妖夢の迷い(これも長く書かれていました)も私の中で、いつかは決別して当然→決別するべきかな→何かがおかしい気がする、と変化していき、理屈の上では私も決別すべきと分かっていましたが、読み進めていくうちに感情がしきりに違うと訴えてくるようでした。
結末に向けて紫が出てきてからは涙腺が緩みっぱなしでした。
閻魔様の激励、紫や神社での決別、幽々子を助ける選択肢を取り続けたこと、狂おしいまでの忠愛、妖夢の最後のセリフ、エピローグとどれも素晴らしかったです。
妖夢の気持ちはよくわかる。自分も同じ気持ちを、大切にしてた犬が急死した後・気の合うやつと飲み会を終えた後に
感じた事がありました。その時を懐かしいと思い出しながら読み進め、167KBも全然長くなかったです。
「そうだ。そうだよ。」と納得しながら読めました。
妖夢がタイムスリップを選んだ時は「え?寂しさを感じながらも新しい関係を築いていってほしかった。」と残念に
思いましたが、29個分の妖夢の、その誰もが過去に戻ることを選ばなかったらHAPPYENDは
迎えられなかったというラストに前言撤回。映画「アルマゲドン」、手塚治虫の「火の鳥」を訪仏させるすばらしい
締めくくり方だったと思いました。
いい話でした。本当に。これはストーリーの大筋だけそのままに、キャラを別にして東方知らない人にも伝えたい話ですね。
後編から次々と回収されていく伏線や、それ以上に孤独の中悩み悩んで苦しみぬいた妖夢が可哀想で、しかし目を離せませんでした。
ああ、何と自分は語彙能力に乏しいのか。こんな感想しか残せないことをどうかお許し下さい。
本当に素晴らしいSSだったと思います。
妖々夢はもう絶対にコンティニューできないw
面白かったです。ありがとうございました。
現実的に考えると、ハードは難しいからノーマルにした(なった)ってところですかね?
>>あなたは、この現実で幸福になれはずなのよッ
なれたはず?
この作品は名作だと思います。いえ、名作です、断言します。過去の名作と並べても遜色ない名作です。
原作の設定と調和してなおかつ、人を感動させられる話というのは、二次創作として最高のものだと思います。
作品集に名前があるのをわかっていながら無視していた過去の自分を叱ってやりたい気分ですし、
もっともっと多くの方々に読んでもらいたいです。
感動をありがとうございます。
久々に原作を活かした作品を読んだ気がしました。面白かったです。
まあ東方妖々夢クリアにかかった時間はそんなもんじゃないんだけどな!
見事な伏線回収、忘れてしまう事への恐怖と人と関わることの喜び、一人でいることの寂しさ。
お見事でした。
とても切なくて、でもハッピーエンドを迎えて、おもわず涙が出てしまいました!
どうもありがとうございました。
特にゆゆ様が妖夢に向かって言った最後の言葉・・・。
もう涙涙でした。
自分自身の心中で思いっきり泣きました。
他にもまだまだ言いたいことがありますが、言葉では表せないのでこの辺で失礼します。
今さらですが素晴らしいお話を投稿してくださりありがとうございました。
とても素晴らしい作品で長さも気にせず2回目を読んだのですが、気になった点が1つありました。勝手なことを言いますが、ご容赦ください。
最後、幽々子が生存している世界で、妖夢と紫が泣く場面。時間を飛び越えてきたのは妖夢だけなので泣くのは妖夢だけでも良かったのではと思います。
精神だけとなった妖夢が自分たちの記憶や思いをぶつけて、一瞬だけ必要なイメージを思い起こさせます。夢を見た後のようにその記憶は消えてしまいましたが、思い出せない所にあるだけで心の奥底に今までの妖夢たちの思いが残っていて、それが無意識に涙を流させた、というのが私の中ではしっくりきます。心の奥底には残っているからこそ、妖夢も29人分の思念を掘り起こせたのではと思います。そうすると紫が泣くのが私の中ではしっくりこなかったのです。