Coolier - 新生・東方創想話

おねえちゃんのこいびと

2015/01/11 17:03:34
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 珍しいことに。
 自分で言うのもなんだけど、珍しいことに。
 ここ数日のわたし――古明地こいし――はある悩み事を抱えていた。
 ついこの間、地底と地上の妖怪たちが長年のいがみあいを終わりにして手を取り合う、なんていうメモリアルな出来事があった。地底に押し込められていた(地上生まれ世代の妖怪たちはこういう表現を好んで使う)のがある程度自由に地上へ出入りができるようになったとあって、暇をしていたわたしも行ってみた。持病のおかげで年中暇なので、わたしはイベントごとには目がないのだ。姉のペットから聞いた神様の話を確かめたかったという目的もあったが、その話は今回あまり関係ないので置いておくとして。
 いろいろあって、久々の我が家で。
 疲れ果てて帰ってきたわたしを出迎えたのが――
「えっ誰……?」
 姉でも。
 姉のペットでもなく。
 緑の目を持つ妖怪だったのだから、わたしはおおいに困惑した。
 緑の目。くすんだ金髪とか、しおれた雰囲気とか、思ったことはいろいろあったけど、印象に残ったのはなによりもその目だった。
 出迎えたというのはただの例えで、わたしは普段からの『誰からも見られない・悟られないモード』に入っていたので、本当は廊下ですれ違っただけだ。もちろん、その妖怪には認識されもしなかった。
 地霊殿は地底の行政に関する公共施設なのだから、用向きのある地底市民もいれば職員だっているのだから不自然はないと思うかもしれない。しかし地霊殿は、同時に古明地家の不動産でもあるのだ。
 すれ違ったのは、姉が寝起きに使っている母屋の廊下で、だった。
 古明地の名を持つわたしと姉以外の妖怪がこんなところにまで入り込んでいるというのは、いったいどういうことなのだろう?
 疑問が浮かぶも、緑目妖怪がそのまま母屋を出て行ってしまうと、すぐに忘れた。興味が長続きしない性格というか性質というか、わたしはいつもこんな感じだ。無意識にそうなってしまう。あるいは、そうしてしまう。
「そういえばさ、お姉ちゃん」
 だから、わたしがその翌日に緑目妖怪のことを思い出したのも、これまたなかなか珍しいこと。
 長旅で汚れてしまった、お気に入りの帽子を手入れしてるときだった。
 久しぶりに会った姉の様子はいつもとさして変わらない。
 寝ぼけ眼にピントあわせの眼鏡をかけてゆるゆるの部屋着を着ている、珍しくもない姿。
 わたしはそんな姉に、慎重に、話しかける。
「昨日うちに見たことない妖怪がいたんだけど」
「ああ、パルスィのこと?」
 姉はこちらを見もせずに言った。羽ペンなどという趣味的な代物が紙をひっかくカリカリという音を途切れさせることさえなかった。
「えっと、なんでうちにいたの?」
「最近、同棲してるんですよ」
 …………
 無意識が空白を生んだ。遠いところに飛ばされた意識が戻ると、わたしは姉の書記机に置いてある綿棒をひとつ失敬して、入念にみみそうじをした。みみあかと綿棒をティッシュにくるんでゴミ箱に捨てて、姉に向き直る。
「ふう……ごめん。なんだって?」
「あれ、聞こえてませんでしたか。彼女は水橋パルスィさんと言って、うちの職員なんですけど」
 うちというのは、この場合も公共施設である地霊殿のことだ。建前はどうあれ、姉が地霊殿を私物化しているというのは、突っ込まれたら誰にも否定できないと思う。
「へえそうなんだ。それでそれで?」
「去年あたりから交際を」
「はいストーップ! ちょっとなに言ってるか全然わからない。交際っていうのは……そのぉ」
 このとき我知らず頬が熱くなったのを覚えている。
 何故って、わたしはそういった概念を、まだおはなしの中でしか知らなかったから。
「こ、ここ、こいッ」
「……そういえば、なんで言うの忘れてたのかしら。今さらという感じで言うのが恥ずかしくなってきたけど……」
 姉は書き物をするときだけかけている眼鏡をそっと外して机に置くと、その分だけちょっとぼやんとした視線をわたしに向けた。
 いつもの仏頂面にほんの少し、感情の朱が差す。
 姉が、そっと左手を差し出した。
 その薬指には、ごくシンプルなデザインのリングが。
「そう、彼女はわたしの……こいびとです」
「――――」
 えええええええ!!
 わたしは絶句し、無意識が咆吼した。
 長くなったけれど、悩みというのは――これのこと。
 すなわち。





おねえちゃんのこいびと





(義理の妹……)
 左手の薬指におさまっているペアリングの片割れを意識すると、そんな単語が水橋パルスィの脳裏をかすめる。
 婚姻関係における最大の利点はもちろん愛する相手を束縛できることだ、とパルスィのような妖怪は考えるが、では欠点はどうなのか。
 結婚したその先にあるのは幸せな生活ばかりではないと、パルスィは賢明にも文献から学んでいる。自分の年齢を考えると、その賢明さとはそれまでなにもなかった干物女ぶりと引き換えに手に入れたものということになるが、とにかくさておき。
 生活から自由がなくなることか? 否、この件についてはどちらかと言えばパルスィが相手の自由を奪う方だろう。
 では財布を握られることか? 収入を家庭に納め、自分はひと月いくらの小遣いで日々を過ごす。辛いことなのだろうが、否だ。相手は地底でも有数の資産家。むしろ今のところ将来の経済的な不安は完全消滅したといっていい。
 ならば、相手がいずれは老い、美しさを失うことか? これも否。お互いにいい歳のアラサー妖怪世代、若さは陰りを見せ始め、それを受け入れる心の準備くらいはしている。それでもあの童顔と向かい合うと、多少は嫉妬の心も渦巻くものだが……
 答えは単純に、親族が増えるということ。欠点と切り捨ててしまうと各方面から反論はあろうが、だらしないところを見せられない相手が増えるとなれば、嫉妬心や猜疑心の強いパルスィには十分に悩ましい問題となってしまう。
 愛する者との関係が深ければ深いほどに。
「……はああ。いったいどんな顔をして会えばいいんだろ」
「ひとの妹と会うってときにため息なんてやめてくださいよ」
 ふたりで手土産のケーキを選びながら、パルスィは頭を抱えていた。
 今日はさとりの妹である古明地こいしに、古明地家(地霊殿の母屋のことを便宜上こう記す)のお茶会に招かれていた。こいしには放浪癖があるとのことで、さとりとふたりで過ごすようになってから一度も彼女を見たことがない。それが数日前にこいしのほうがパルスィを見かけて、大層興味を持ったのだと言う。
 いったいどこでと思ったが、さとり曰く『妹の特技はかくれんぼ』だそうで、ひどいときは隣にいてさえその存在を気づかせないという。
(それはいくらなんでも特技ってレベルじゃないんじゃ……)
 つまりはどこで見られていたとして不思議ではない――とさとりは言いたいのだろう。
「あ、ラズベリーのタルトがありますね。こいしはこれ系の結構好きですよ……確か。すいません、これをひとつとー」
 さとりがもやもやとしたままのパルスィを差し置いて、店員に声をかけている。
「わたしはね、さとり、誤解されたくないから言うけど、誰からも嫌われたくはないのよ。誰っからもね」
「おやそうなんですか。それは本当に初めて知りました」
 言った通りに意外そうな顔をしてみせる。それほど顔のどこかしらが動いたわけではなく――ただぴくんと眉を痙攣させた。その程度だが、大体わかる気がする。
「ただ、なんていうか……距離感かな。そういうのが、よくわかんなくて、誰かとどうつきあったらいいか考えるのがなんかもう面倒なのよ」
「パルスィって友達いませんものね」
「あんたに言われたかない。少しはいるし」
「少しなんですか……」
「だからあんたもでしょ! ……んでもさ、それが親戚となったらそうもいかないでしょ? これからずっとつきあいがあるんだから」
 あんたに愛想を尽かされない限りはね。
 さとりはくすくすとおもしろそうに笑った。覚(さとり)妖怪は心を読む。口をつぐんでも、耳以上にその目が声を聞いている。第三の目はお忍びの身ということもあって服の下に隠されているのだが、その能力が一般に言う視覚にそのまま当てはまるかと言われれば、きっと違うのだろう。こうしてしっかりと、心を読まれている。
「そんなことはないですから安心してください。いや、がっかりしてくださいかな? 要は見栄を張る相手が増えると厄介だと言いたいんですよね」
「雑にまとめてくれちゃって……まぁ、うん。あってるよ、大体。だって……わたしってひとりっ子だしさ。妹なんて、どう接したらいいのやら」
 お手上げのジェスチャーをして、ため息をついた。
 手持ち無沙汰になったパルスィは、支払いを済ませているさとりをぼーっと見つめてみた。出会った頃より少し痩せたな、と感じる。彼女のここ最近の激務ぶりを見ては無理もないところだ。
 地底と地上の交流を復活させた、地底側の立役者。多くの肩書きを持つさとりの、最新のものがそれである。彼女の部下が暴走して地上侵略を目論んだ一件から転じて、ここまで体勢を立て直せたのは、ひとえに彼女自身の才覚あってのことだろう。さとりが打ち立てた『地上への帰還』という題目は、それなりの展望はあってもどこか鬱屈していた地底世界に瞬く間に広がった。内外からの批判は当然あったが、それまで以上に地底の結束は強まったように思う。
(実際わたしとさとりも……)
 パルスィの思考がふっと横道に逸れた瞬間、さとりがわざとらしい咳払いをした。
「セクハラはやめてください」
「ちょっと油断しただけでしょ……」
 うっかりさとりと深めた結束のことを思い出してしまっていた。
 断じてわざとではないと心中で強調しておく。
「ん、んん。ところで、妹さん――こいしさん? こいしちゃん?」
「好きに呼んでいいと思いますけど」
「こいしちゃんって、どんな娘なの?」
「それは……」
 その問いはただの、誤魔化しのようなものでしかなかったのだが――
 思った以上に時間をかけてから、さとりは返答してきた。支払いを済ませて店員からケーキの入った紙箱を受け取り、店を出て数歩。白い吐息が、風に融けて消えていく。
 まだまだ続く冬の寒さの中、ようやく彼女は口を開いた。
「覚ではない覚」
 それがどういう意味なのか、パルスィには測りかねた。どう反応したものか考えあぐねていると、さとりもさもあらんと苦笑いを浮かべた。
 わかりやすく説明しましょう、とさとりはずれた眼鏡をなおす真似をした。一応変装のつもりらしいのだが、効果のほどは疑わしい。
「わたしたち――といっても、わたしと妹のふたりしかいないのだけど――覚の、一番の特徴は?」
「心を読むこと。思考から記憶、感情。定義のあいまいなものを含めて結構な領域をカバーするわね。それが?」
「こいしは、それをしない覚なの」
「――うん?」
 彼女自身釈然としていないような、さとりのそんな物言いに――
 突然のクエスチョンにこともなげに答えちゃうわたし凄い! の顔のまま、パルスィは固まった。





「敵を迎える準備は万端といったところね」
 つまりは応接室の掃除に飾り付け、お茶とお菓子の準備といった程度のことではあるが。
 椅子の上に登って部屋を一望しながら、わたしは満足げにうなずいてみせた。これでいつ何時、姉と水橋某が出先から帰ってきても大丈夫だ。
「敵ってことはないでしょうに」
 姉のペット、火焔猫燐が大量のクッキーが盛られた皿を抱えて部屋に入ってきた。人工太陽の点灯時刻よりもはやくからこき使って手伝わせたため、若干眠そうである。彼女の担当は掃除と飾り付け、そしてお茶とお菓子の準備だ。わたしは全体の指揮をとっていた。
「お、いいにおい。味見していい?」
「食べながら言われましてもー」
 スパイからお菓子作りまでなんでもこなせる小器用な彼女、通称お燐はペットの中でも特にわたしたち姉妹と仲が良い。わたしとは年齢が近いので昔はよく遊び相手になってもらっていたし、近頃は地霊殿で姉の秘書も勤めているので、まさに『公私ともに』という表現がぴったりである。
「そんで、なんで敵なんですか」
 お燐もクッキーをつまみながら、ぞんざいな敬語で聞いてくる。お燐の名誉のために注釈しておくと、こういう態度なのはわたしの前でだけだ。姉と働いているときはちゃんとそれらしい振る舞いをしている。
 地霊殿で働くようになったからと事務的に応対されるより、昔と同じ、友達同士としてつきあってくれると嬉しい。わたしのそんなお願いを、燐は姉に内緒で聞いてくれているのだ。
 だからわたしも、お燐に対してはちょっとだけ口が軽くなってしまう。
「だっていきなり家にいたんだもん。不気味だって」
「その理屈から言うと、こいしちゃんが現れるときは大抵が不気味ってことになりますね」
「わたしだっていきなりプライベートな空間にお邪魔はしてないでしょ!」
「うーんめちゃくちゃされまくってるのにこの答えはな……」
 お燐は何故か不服そうだった。それは黙殺して、わたしはあの水橋の気に入らない点をどうにかひねり出そうとこめかみをぐりぐりする。
「あとほら、なんか目つき悪いじゃん?」
「それは確かに思いますね。さとり様とふたりで並んでると、小悪党が揃って悪巧みでもしてるのかなー、みたいな!」
「……お燐、お姉ちゃんのこと嫌いなの?」
「えっ?! いや違いますよ? さとり様のことは尊敬しています。けど実際働いてみると上司としては微妙かもってだけです」
「そんなこと言ってると、もしものときに言われちゃうよ。『秘書のやったことです』って」
「あの方のジョークはほんと笑えない」
「冗談を言うタイプじゃないのに無理してんだもんねー」
 お燐とは、いつもこんな感じだ。最近とくに流行っているのが姉の陰口だった。わたしはともかく、お燐はあとで思い出し笑いとかしたら姉に折檻を受けるのではないだろうか? とたまに心配になる。すぐに忘れるけど。
 ちらりと時計を見ると、約束の時間までもう少しといったところ。未明からの準備が功を奏して、あとは約束の時間を待つだけとなっているため、まだのんびりできそうだった。
「こいしちゃんの邪魔がなければ昼前には全部済んでましたけどね」
 などとお燐がぼやくのを聞き流しながら、わたしは改めて椅子に座りなおす。
「まーだかなー。敵」
「また言ってるし。どんなやつかも知らないんでしょう?」
「んーそうなんだけど……お燐は知ってる?」
「水橋パルスィですか……」
 ぬーん、とお燐は顎にしわを寄せた。この様子だと、そんなにいい感情を持っているわけではないらしい。これはなんだか、ちょっと意外かも。お燐は誰とでも仲良くできちゃう妖怪なんだと思っていたから。
「あたいとは出会いが最悪だったからなぁ。素直に接するのがムズかしいんですよね」
「ふうん」
「地底大使館で一緒に働いてるお空だったら、もうちょっとよく知ってると思いますけど」
「あ、懐かしい名前だね。元気にしてるの?」
 お空というのは、お燐と同じく姉のペットである霊烏路空のことだ。その身に神を宿した地獄烏で、今や地底のみならず地上でも指折りの力を持った妖怪であるらしい。以前は地底のゴミ処理場・火焔地獄で働いていたが、ちょっと前に彼女自身の希望で地上へ行くことになってしまったため、わたしとは長いこと会っていなかった。
 彼女は地底大使館に配属から間もなく、間欠泉センターへ出向したとかなんとか。地底だけでなく幻想郷全体に次世代のエネルギーをもたらすため、日々神の力の研究に励んでいるらしい。わたしが知っているのはそのくらいだ。
「手紙からはそんなに変わった様子はないですけど」
「へー手紙なんてもらってんだ。お空からってことはつまり、イコール、ラブレターじゃん」
「そ、そんなんじゃあ! 違いますよっ!」
 お燐は可愛らしく頬を染めて怒った。否定しなくても、ふたりの大まかな関係は周知の事実なのだけど。どちらかと言えばお燐が鈍感で関係が進まなかったのが今までだったが、ふたりの環境が引き離されてからはどうなっているのやら。
「い、今は水橋の話をしましょう! あたいのこととかどーでもいーんで!」
「そだね。別に後でいくらでも聞けるし」
「うぐ」
 わたしから逃げられる妖怪は存在しない。お燐もそれは身に沁みてわかっているので、がっくりとうなだれたままうめき声をあげるのみだった。
「はぁー。なんでこんなことに……おのれ水橋……!」
「敵でしょ?」
「敵ですね! 敵ですけど……でも――」
 お燐がもう一度、種類の違うため息を挟んだ。
「おふたりを見ていて思うんです。たぶんですけど、あの水橋は、さとり様を大事にしてくれるんじゃないですかね」
 それは、嫉妬や寂しさ、諦観、ちょっとした憤り……いろんなものが入り混じったため息だった。地霊殿で働くペットたちの多くがそうであるように、お燐も姉に拾われたみなしごである。そんな彼女からしてみれば、母親を余所者に奪われるようなものだろう。
 わたしにもわかる……気がする。
 わたしもたぶん、似たようなことは考えている。似たような、ことは。
「であればまぁ、あたいから文句を言うのも筋違いだよなぁ……さとり様自身も、なんでかあいつのこと好きみたいですし」
 渋面のまま、ふっと笑うような仕草を見せるお燐。割とおとなっぽい意見を持っているようだ。実際歳上でもあるけれど。
 たしかにわたし自身、お燐のように納得するのが普通なんだと思っている。当事者同士が納得しているなら、横から口を挟むことなんてないに決まっている。
 が、それは承知の上で、はっきりさせておきたい。
 いや、させておかなくちゃならない。
 だって、他の誰でもない、わたしのおねえちゃんのことなのだから。
「そりゃ、好きあってもいなきゃ、ど……どうせぃ……なんてしないでしょうよ。わたしが気になっているのはその好きっていうのが……」
 わたしが膝の上でぎゅっと拳を握り締めたとき、控えめなノックの音が聞こえた。
 それは、わたしにとっては戦いを告げるゴングに等しい激しさで耳を打つ。お燐と視線を合わせると彼女は小さくうなずいて、扉を開けるべく席を立った。





「えーっと……改めまして、お招きありがとう――こいしちゃん?」
「いーえいえー、水橋さんとは一度は会っておかなきゃいけないと思ってましたからー」
 パルスィにとっていずれ義妹となる少女のその笑顔は、なんというか、剣呑であった。普通に微笑んでいるだけなのに、攻撃的な空気が見え隠れしている。今回はお茶会という名目ではあるが、こいしに呼び出しを受けたようなものだ。いったい自分は、彼女のどんな不興を買ったのだろう――パルスィは目を逸らし気味に空咳をする。謎のプレッシャーに押し潰されてしまいそうだった。
「わたしのこと、さとりさんから聞いてる? 水橋パルスィです。あー……」
 つい言いよどんてしまい、こいしがきょとんと首を傾げる。なんと続けたものかもじもじしていると、隣のさとりから肘打ちが来た。容赦のないことだが、たしかにこんな出端から進退窮まっていてどうする、と気合を入れ直す。
「さとりさんとは、結婚を前提におつきあいさせていただいております」
 冷静に考えると自分よりだいぶ歳の離れた娘になにを言っているんだと思わなくもないけれど、姉妹の両親は既に亡く、他に言う相手もいない。ならば、他の誰をおいてもこいしには自分の立場をはっきりさせておかなければならないだろう。
「ふ――あははは!」
 そんな決意のこもったセリフだったのだが、こいしには笑われてしまった。
「水橋さん緊張しすぎだってー。べつにとって食おうってわけじゃないんだから、楽にしてよね。ふつうに喋ってくれていいよー」
「あ、そ、そうかしら。ごめんなさい」
「ぷはは、全然なおってなーい」
 けらけらと笑うその顔からは、とげとげしさが幾分か薄まっていた。場を和ませる冗談のつもりで言ったわけではないのだが、緊張していたのはお互い様だったのかな、と親近感が湧く。パルスィはようやくほっとした気分で紅茶に口をつけた。
(もっとおしとやか系の子を想像してたけどけっこう違うなぁ)
 こいしを盗み見ながら勝手なことを思う。
(さとりの目元は眠そうにぽやっとしていることが多いけど、この子はきりっとしてる感じだなぁ。姉妹そろって色白だなぁ、覚妖怪というのは美白の種族なのかなぁ。髪の毛ふわふわだ……触りたいかも。わたしちょっと見すぎかな。さとりに笑われる)
 目の置き所に困っていると、お茶を給仕して回っている火焔猫燐の存在に気づく。部署は違えど同じ地霊殿で働く同僚ということになるが、そんなに近しい間柄ではない。というか事務的な会話以外したことがないくらいである。燐がさとりの秘書見習いになって顔をあわせる機会が増えたので、正直その都度気まずい思いをしていた。当然、今はもっとだが。
(なんか全体的にアウェイ感あるな)
 前門のこいし、後門の燐。
 脇に汗をかいているような感覚があった。とはいえ、この程度でうろたえるパルスィではない。自分で思っていた以上につっけんどんな性格だったパルスィは、かつては職場でさえ毎日を敵地で過ごしていたようなものだ。それに比べればなんだって大したことはない。
 燐にだけわかる程度に会釈をして、こっそり声をかけることさえ余裕でこなせる。
「ありがとね、燐」
「ん、ドーモ。お客さんはくつろいどいてくださいな」
 燐はそつなく愛想がよかった。燐ともなにか話すきっかけが欲しいと思ってはいるが……今日はまず、こいしが優先だ。将来の義姉としてこいしから振られた話題は完璧に答えねばならない。
「それにしても水橋さんって物好きー。お姉ちゃんみたいな無愛想なののどこがいいの?」
「……言われてるわよ、さとり」
 さっそく逃げてしまう自分の情けなさに泣けてくる。
 いきなり言うのは……ちょっと恥ずかしい。
「うるさいです。しばきますよこいし」
「だって無愛想じゃん。こんな機会、あと三百年はないと思ってたよー」
「お客様の前で礼儀がなってない子はお姉ちゃん嫌いです」
「このふたりいつもこんな?」
「いつもより若干こいし様がはしゃいでおられます」
 燐はやれやれ顔でため息をついて、退室するかと思いきやそのまま空いている席に座った。普通は主と給仕とは相席しないものだが、姉妹はそのことに触れるようなことはなく、罵り合いを続けている。普段通りのことだとすれば、姉妹にとっては燐も家族のようなものなのかもしれない。
「今日は特に同席しろとこいし様がおっしゃるので……どんな意図があったか知りませんけど、ありゃもう忘れてそうですね」
「はぁ、なるほどね」
 表情に出てしまっていたのか、当の燐から補足された。普段の仕事ぶりもそうだが、細かいところまでよく気がつく火車である。
「……と、ほらほらさとり。こめかみに青筋立てて怒らなくたっていいでしょ」
「いえそんなには怒っていません」
 ここまで容易く挑発に乗るさとりは初めて見たというレベルだが、彼女は認めようとしなかった。
「わたしのどこが怒っているように見えるというのですか」
「いやまー顔はいつも通りだけど……」
「ほらぁ、やっぱ無表情で無愛想なんじゃん」
「こいし……」
「怒ってる怒ってる、どうどう」
 ほとばしる怒りのオーラを浴びながらパルスィはさとりを宥める。向かいでは同じように、燐がこいしをたしなめていた。
 姉妹そろってブレーキ役が必要らしい。
「ふふ。なんていうか、ちょっと意外だ。さとりがこんなだと」
「こんなとはどんなですか。わたしは姉として、こいしの面倒をちゃんと見なくちゃいけないんです」
「それそれ。あんたの姉っぽいとこ、わたしは知らなかったなって思った」
「こいしのいないところで姉ぶっていたら変でしょう」
「そうかな。今度妹っぽく振舞ってみようか? お・ね・え、ちゃん!」
 さとりがむせて紅茶の霧を吹いた。不意を突き、読心の手が及ぶ前にさらなる衝撃を与える。成功率はお察しだが、まれにこういった楽しい現象を起こせるのでパルスィは好んで仕掛けていた。
 薄笑いを浮かべながらさとりを眺めていると、生ぬるい視線を感じた。
「お姉ちゃんがいちゃついてるとこ見るのって、こう、きっついなぁ……」
「あたいからすればお母さんみたいなもんなんですからね。もっと辛いですよ」
「あんたたち……あ、ごめんさとり。つい、いつも通り」
「へええ。あれがいつも通りなんだ」
「ああああああ」
 二次災害に見舞われたさとりは両手で顔を覆ってテーブルに突っ伏してしまったが、実際、いつも通りだ。母屋の三階、奥まった場所に位置するこの応接室は、古明地家にお邪魔しているときによく入れてもらっている。大きな窓があって人工太陽の光がよく差し込み、遠目には年季の入りすぎた旧都タワーも望めるほど景色がいい。つまり、こんなふうに和気あいあいとお茶を飲むには適した部屋というわけだ。
「わたしに飛び火させておいてなにが和気あいあいですか!? 他に思うことがあるでしょう!」
 ややくぐもった声でさとりがうめいた。まだ突っ伏している。
 さとりの場合は普段偉ぶっているからこういうときに思わぬダメージを受けてしまうのだ。まさしく因果応報である。
「もっとうろたえるパルスィが見られると思ったのに」
 が、反省の色は見られなかった。言われたパルスィからすれば苦笑いする他ない。
「あんたがわたしのことをどう思ってるか、なんとなく察しちゃう一言だなぁ」
「いやでも、あたいもちょっと驚きですよ」
「なにが?」
「普段というか仕事してるときの水橋さんは、もうちょっとダウナーというか、クールじゃないですか」
「それってお互い様じゃない?」
 燐の方はパルスィに対してのみ、という気はするが伏せておく。
「……そこはほら……し、仕事中だし場をわきまえてっていうか……」
 ちょっと素に戻って複雑そうに苦笑いを浮かべる燐。パルスィにあわせて空気を読んでくれているようだ。苦労してそうな奴である。
「とにかく、失礼ですが、さとり様の前だとそんな顔もするんだなと」
「なんて答えりゃいいのそれ……」
 どんな顔だと気になったが、敢えて問いただしはしなかった。含み笑いをする燐の、その表情が少し違って見えたからだ。つられて口元をほころばせたところで、パルスィは本来の目的のことを思い出す。
 以前よりも燐の態度が軟化していて驚く一方、こいしの方はまだまだ未知数。どうにかして将来の義姉としてポジションを確立していきたい。
「ねぇ、こいしちゃんは」
「あ! 忘れるとこだった。結局水橋さんがなんでお姉ちゃんのこと好きなのか聞けてないんだけど?」
 今度はこちらから仕掛けるかと口を開いたところで、こいしが若干食い気味に叫ぶ。
「なんか今、話そらそうとしてなかった?」
「い、いや、そんなことはないです。でもさとりの魅力はさとりの一番近くにいあるあなたの方がよく知ってるんじゃないかしら」
 ちょっと白々しいが、隣にさとりがいるのでそういう質問は答えにくいことこの上ない。もちろんさとり自身はパルスィのそんな思考を読んでにやにやしているに違いないが。
「……一番近くじゃ、ないよ……」
「え?」
 こいしが一切表情を変えないまま、小声で言った。同席している他のふたりを見ると、なにやらぼーっとした顔であらぬ方向を向いていた。聞こえなかったのだろうか?
 こいしが、姉たちに特に反応することなく、明日の天気の話でもするかのように気楽に続けてくる。
「うーん。ラチが開かないなぁ……もうちょっと素直に答えてくれない? 水橋さん」
 一瞬前までなかった違和感が、目の前にあった。
 姿形が変わったわけではない。ただ子供が喋った、いま起きたことはそれだけだ。
 それだけなのに――内なる自分が、警戒しろと叫んでいる。
(……こんな、子供を……?)
 衝動と認識の差異が戸惑いを生む。
 無意識――を頭から無理やりかき出されたかのような感覚を喉の奥で味わいながら、パルスィはあえぐように言葉を搾り出した。
「なにを、言ってるの、こいしちゃん」
「まだるっこしいやりとりはやめよ? ってことだよ」
 こいしは意外に慣れた手つきで自分のカップに紅茶をつぎ足した。パルスィのカップにも同じようにしながら、こちらの目をじっと覗き込んでくる。そこに封じられた感情を推し量れぬまま視線を逸らすと、こいしの傍らに第三の目が浮かんでいるのが見えた。さとりとは違う色の異能のまなこは閉じられたまま、何も語ることはない。
「……さとり? 燐?」
 先程から様子がおかしいふたりは、なにも答えなかった。まったく聞こえていないのだろうか? さとりは手元を、燐は壁にかかった時計を見たまま、ゆるく呼吸やまばたきを繰り返している。
 パルスィは――特に異常はない。こいしの声も聞こえるし、周囲の様子を確認することもできる。それ以上は、試してみなければわからない。
「呼びかけても無駄だよ。ふたりはちょっとこっちに注目できないようにしてあるから」
「ど、どういうことなの?」
「それがわたしの能力なんだよ。お姉ちゃんから聞いてないの?」
 さとりから聞いたのは。
 古明地こいしが、覚ではない覚ということだ。第三の目を自ら閉ざして読心能力を失い、ふらふらと目的もなく放浪するだけの妖怪となった。同時にひとつの物事に傾注することができなくなり、その度合いは社会的な生活に支障をきたすほどだという。それは読心の代わりに手に入れた、別の能力ゆえの弊害だと――
「そうか。無意識を、操る……!」
「せいかーい。今日はかなり効いてるね。ま、そんなことどうでもいいんだけど」
 こいしはカップを片手に立ち上がり、燐の頭を撫でながら続ける。燐は、当然と言うべきなのか、なんの反応も示さない。
「水橋さんは、覚種族の能力だって当然知ってるわけだよね」
「……ええ」
「近づいただけで心の中身を暴き出す、救いようのない力だよ。わかってるんだよね」
「もちろん……」
 慎重に答える。少女の顔にかすかな嫌悪の色が滲んでいた。彼女の無意識に絡め取られてから、初めての変化だった。
 第三の目を自ら閉ざしたというだけあって――かつて自身も持っていたはずの能力を嫌っているらしい。
 その心情には、パルスィにも覚えがあった。かつて自分の中の感情をうまくコントロールできず、さとりと対立したことがある。その暴発のトリガーとなったのは、読心能力に対する反発だった。
「それなのに、お姉ちゃんの婚約者? どういうことなのはこっちの台詞だよ。どうやって第三の目を欺いて、お姉ちゃんを騙してるの」
 いつの間にか、完全に敵を見る目で睨まれていた。
 パルスィは自身の能力によって、姉をとられまいとする嫉妬のようなものをこいしから感知していた。それ以外のなんらかの感情もあるのだろう。だが、パルスィにわかるのは嫉妬に類するものだけだ。
 とりあえずはこいしをなだめて落ち着かせようと、パルスィは両手を上げて敵意がないことを示した。
「わたしは、あなたのお姉ちゃんを騙してなんていないよ」
「ウソ。心を覗かれて平気な顔してるやつなんて、お燐みたいに拾ってもらった恩があるか、なんにも考えてない奴だもの。水橋さんはお姉ちゃんを騙しに来てるんだからなんにも考えてないってことはないよね」
「それならもちろん、前者の方だよ。地霊殿で働かせてもらってるからこれまで生活してこれたわけで」
「ペットじゃない職員なんて山ほどいる……! そんなのが理由なんて信じないよ。ほんとのことを言いなよ……怒るよ?」
「ほんとのことっていうのは?」
「お姉ちゃんを騙してる手口のことだよ!」
「だ、騙してないったら……」
 話題がループしてしまっている。どうやらかなり強硬に自説を信じ込んでいるようだ。アプローチを変えなければ。
「えっと。どうしてわたしがさとりを騙すの?」
「はぁ? 聞いてるのはわたしなんだけど?」
「まぁまぁ、ちょっと考えてみてよ。ね」
「んー……むむ」
 促すと、こいしは拳を口元に当てて唸った。案外あっさり応じてくれたところに、やはり子供らしい素直さがうかがえる。
「それは……お金目当てとか……なんでしょ! うちは地底で一番裕福なおうちなんだから!」
「確かにさとりの経済力は物凄く魅力……」
「言質が取れた!」
「しまったうっかり! 違う違うよ、それもあるってくらいだよ」
 アラサー妖怪の素直な本音は子供には伝わってくれないらしい。嘘をつかないほうがいいと思ったのだが。
「もう十分な気がするけど、じゃあ、政治犯だな! お姉ちゃんをふん縛って地霊殿になにかを要求する気とか!」
「世直しはさとりがここのところ頑張ってるから、不満なんてないんだけど」
「それもそうか……」
 さすがに姉の偉業は知っているのか、こいしが少しクールダウンしてきた。
「い、いや、こんな程度で丸め込まれないもん! あとはなにが狙いなの?」
「あーわたしに戻ってきちゃったか……うーんと……」
 ちら、と横目でさとりを見る。今だに手元を見てぼけっとしていた。やろうと思えばこの隙になんでもできるのだから、この能力は凶悪に過ぎると思えた。使い手が子供というのが不幸中の幸いである。
「今のさとりは無意識状態で、こっちのことがなにもわからないと言ったわね?」
「え、うん。あっ……さてはお姉ちゃんのかわいそうな体目当て? 最低……最悪……!」
「んなわけあるか! その発想はなかったよ!」
 床から這い上がりつつ(椅子から転げ落ちてしまった)、突っ込みを入れる。
 さとりと結婚したいのだから、体……というかさとりが目当てと言われれば、そうかもしれないが。今度はさすがに口に出すのは自重した。
 苦笑いをどうにか封じ込めようとしていると、パルスィは不意にこいしの視線の低さに気づいた。自分自身も決して上背のある方ではないが、こいしはさらに頭半分ほどは小さそうだ。体つきもなだらかなAラインである。
「こいしちゃんも大差なさそうに見えるけど……」
「!! えっちな目でこっち見ないで!」
「なにこれ疲れる」
 よくわからない展開に頭が追いついてこない。
 段々、お互いの声が大きくなってきている。これでなんの反応も見せないのだから、さとりも燐もしっかりとこいしの支配下にあるのだろう。パルスィは念のためさとりの頬をぺちぺち叩いてみたが、やはり意味のあるリアクションは見られなかった。
「さあ! いい加減吐いちゃいなさいよ……あんたの企みってやつをおお!」
 正直恥ずかしいが、こいしの問いに答えるなら今しかない。それに、彼女の不信感を払拭しないままでは、収まるものも収まらなくなってしまう。
 こいしの背後に敵意がオーラと化して燃え盛るようにゆらめいて見えるのは、おそらくは自分の妄想に過ぎないが。それでもこの少女から逃げてはならない。
(この子の姉になるんでしょ、パルスィ!)
 自分の胸に手を置き、吸い込んだ息を全て吐き出すように、こいしへとぶつける。
「――わたしは! さとりのことが好きなだけなの!」
「なっ……」
 大声に驚いたのか、こいしがびくりと身をすくめる。怒りと興奮に染まった中にも、彼女の子供らしい表情が垣間見えた。
 こちらの主張はさっきから変わっていないが、こいしの言うパルスィの企みも事実無根の言いがかりなのだから、他にどうしようもない。
 どうか伝わってくれと願い、もう一度繰り返す。
「わたしは、さとりが、好きなの」
「そん……そんな言葉だけじゃ、信じられないって言ってんじゃん。だったらなんでお姉ちゃんが聞いてるときは言えなかったの?」
「ごめんなさい……さとりの前じゃ、こんな明け透けには言いづらくて」
 こいしが負けじと言い返してきた。姉にも通ずるところのある真摯さの宿ったその眼差しは、まぶしくて直視するのが辛いくらいだ。パルスィは自分が少女であったころでさえ、こんなに輝く瞳でなにかを見つめたことはなかっただろう。
「でもね、こいしちゃん。誓って言うけど」
 内心でのみ苦笑し、そんな益体もない想いを振り払う。
 たしかに昔は大切なものがなにひとつ見出せていなかった。
 この心を震わせるものは嫉妬だけだった。
 けれど――さとりと出会って、きっと変わった。さとりを知ることで、さとりに知られることで、輝いているのは今このときなんだと言い張ることができるようになった。
 さとり。
 さとりのことを思うと、自然と言葉が連なっていく。パルスィは、この感動をできるだけそのまま、さとりの妹へ伝えたいと思った。
「わたしはさとりを騙すようなことは絶対しない……できないよ。だって、今はただ、さとりと一緒になることしか、考えていないから……」
「……うぅ……」
 戸惑ったように、こいしは一歩後ずさる。
「それを知ってもらうためにも、わたしたち、もっとお話しよう? 今日はそのために呼んでくれたんでしょ?」
 パルスィは、その一歩を詰める。
 ささくれ立つような空気はもう既に霧消していた。こいしに支配された空間はとうになく、パルスィは自由にこいしへと歩を進めていく。
「……お姉ちゃんのこと、ほんとに、好きなの?」
「もちろん、わたしはさとりのこと、本当に愛し……うん?」
 ふっと、視界の端でなにかが動くのが見えた。と同時に、ひとつの疑問が湯気のように沸き立つ。
 彼女に支配された空間がない――ということは。
 つまりそれは、どういうことなんだ?
「パルスィ、なにを、言ってるんですか……?」
 すぐ隣から、耳慣れた声。ギギギと何故だか急に油の切れた歯車のようにしか動かなくなった首を巡らすと、さとりがもう顔を隠すことさえ忘れた様子で、こちらを見ていた。
 向かいのこいしの隣にいる燐もほぼ同様だった。元々髪が赤いから、もう全体的に頭部が赤い。
「……あーいや、おふたりが、なんかラブラブっぽいのは察してましたけど、えーと、ああ、なんだその……」
 場をつなごうとした燐の言葉が上滑りしたまま曖昧に消えていった。
「り……燐。ど、ど、どこから?」
 あまりにも断片的な問いかけだったが、燐は的確にパルスィの意図するところを拾った。
「なんかさとり様が好きなのーとか叫んでたとこから……」
 結構最初だった。というかもう最初としか言えないタイミングだ。
 ギギギと首を元に戻し、こいしと目を合わせる。こいしは何も言ってはくれなかった。
「あの……ちょっと……こいしちゃん? 無意識が、解けてた……ぽいんですけど」
「…………」
「これむしろわたしが騙されてるよね?! ねえ、なんとか言って――」
「…………」
 無言のこいしの手から、ティーカップがこぼれ落ちた。分厚く柔らかい絨毯の上に落ちた陶器は割れはしなかったが、その中身を余さずぶちまける。こいしはそのことにまるで無関心な様子でとことこと歩みだし――
 そのまま応接室から出ていってしまった。
「こ……こいし様っ!?」
 ただならぬ空気を察して、燐もこいしの後を追って部屋を飛び出していく。
 あとには、この場で起きた全てのことに取り残されたさとりと、パルスィだけが残った。
 さとりがまだ血が上ったままの顔をぱたぱたと扇ぎながら、ぽつりと言う。
「……パルスィ、今の、なんだったんですか?」
「わからん……うまく伝える自信ない……」
 転がったままのカップを拾い上げながら、パルスィは嘆息をつく他なかった。
 こちらの気持ちはわかってもらえたのだろうか? さすがに問題解決には程遠いが、パルスィのさとりに対する思いが何分の一かでも伝わっていれば、と思う。
 嫉妬の気配が遠ざかる。これはそのまま、こいしが応接室を離れていっているということを意味していた。
(あの子は……わたしに嫉妬して、突っかかってきた? でもなんとなく、それだけじゃないような……気もする)
 パルスィが感知できるのは嫉妬心だけなので、ではそれはなんだと問われれば答えようもないのだが……ことをあまり単純に見てはいけないのかもしれない。
 このことは、忘れないでおこう。
 未だにもじもじしているさとりを見ながら、そう思った。





 わたしの第三の目は、もうずっと長いこと、閉じたままだから。
 姉のように心を読むことはできない。
 そんなわたしなのに、あの妖怪が、うそいつわりのない本当の気持ちを言ったんだと理解できてしまっていた。
(違う、第三の目なんて関係ない……誰だってわかる。あんな顔、されたら……)
 どくんどくんと脈打つ動悸が、呼吸を弾ませる。
 胸を押さえても抑えきれない制御不能の感情が荒れ狂う。
 あの妖怪――どこの馬の骨とも知れない水橋パルスィが、姉のことを愛しているというのなら、じゃあ実の妹のわたしは、なんでどうして――
「こいしちゃん!」
「ひゃっ」
 大声で呼ばれ、思考が遮られた。慌てた様子の燐が追いかけてきていた。
「どうしたんですか? 普通に話してたと思ったら、急に出てっちゃうなんて」
「……あ、うん……なんでもないよ」
「なんという生返事でしょ……水橋さ、いえ、水橋になんか気に入らないところでもあったんですか?」
 感情の機微にはにぶいくせに、こういう勘は利くのがお燐だ。ざくりといきなり痛いところを突かれてしまった。わたしがなにも言えないでいると、彼女は大きく息をついて、幼子にするように『めっ』とひと差し指を立てた。
「いつもだったらまぁ、あたいだってうるさく言いやしませんよ。でも今日は、水橋さんはこいしちゃんが呼んだお客様でしょう。ちゃんとお相手しないなんて失礼ですよ!」
「うん……そうだよね……」
 こうして面と向かって叱られるのなんて、ずいぶん久しぶりだった。わたしは急に自分がかっこ悪く思えてきて、しゅんと肩を落とす。
 水橋パルスィが叫んだとき、これまでどうにか目を向けずにいられたものを、見せつけられた。そんなふうに思ったのだ。
 だから、いつもの無意識のふりをして、その場から逃げ出してしまった。
 自分から呼びつけた敵を前に逃げる。わたしは結局、ずっと昔と同じく、弱いままの子供でしかないのかもしれない。
 じくじくと、胸が痛む。
「んぅっ……」
「おっと。こいしちゃん? ……もうー、今日は甘えん坊だなぁ」
 ふらついた足がもつれて、目の前のお燐に抱きついてしまう。やさしい匂いのするその胸にしがみつきながら、こいしはこっそりと鼻をすすった。こういう音をお燐が聞き逃すわけはないんだけど、それでも一応。
「あーあ。お燐が、わたしのお姉ちゃんだったら……ごめん。なんでもない」
「そうですね。ほんとはさとり様に甘えたほうがいい」
 ドキリと心臓を跳ねさせたわたしの背中をぽんぽんと撫でながら、お燐は微笑んだ。わたしがすごく勝手なことを言ったのに、それがなんでもなかったかのように。妖怪ができてるんだな、と感心する。
 わたしはやむなく評価を改めた。
「はぁ……」
「…………」
「お燐て鈍いのは自分のことだけなんだね」
「あーれー? なんであたいこの状況で貶されてるんだろう。わからない全然わからないです」
 その暖かな体温からやんわりと逃れながら言うと、お燐はちょっと怒った顔で拳をバキバキ鳴らした。
「お燐、ごめんね。今日はまだ甘えてもいい?」
「この状況でよくおっしゃる」
「お姉ちゃんと水橋に謝っておいて」
「へいへい、了解ですよっと」
 お燐は投げやりに手を振り、すいと踵を返した。まるでなにを言われるかわかっていたみたいだ。お燐はやっぱりすごい妖怪なのかもしれないと思った。
 いや、どうだろう――お燐が聡いんじゃなくて、わたしがわかりやすいだけかもしれない。そうだとすれば、やっぱり口惜しいけれど。
「あ……お燐?」
「今度はなんですかい」
「さっき、わたしが見えてたの?」
「そりゃあ、まぁ……じゃなきゃ声をかけられないじゃないですか」
 不思議そうな顔をしながら答えると、お燐はさっさと行ってしまった。彼女にわけのわからない問答をしかけてけむにまく遊びをよくするので、それと思われたのかもしれない。
 ただ、わたしは紛れもなく『誰からも見られない・悟られないモード』、つまり無意識に潜む能力を発揮していたはずなのだ。だから、呼びかけられて大いに驚いた。
 ……まぁ、わたしの能力は実際それほど自由に使えるものでもない。その発現はただでさえ不安定だし、どこまで効果が及ぶかもわからない代物だ。ぼんやりした思考のままではうまく使えるはずもないか、と自分を納得させる。
 それにしても。
 自業自得とはいえ、気まずいことになってしまった。今日はもう休むとして、明日からまたどこか遠出しようかと既に思っている。ほとぼりが冷めるまでは、そうしておいた方がぎくしゃくせずに済むわけだから……
 何度も繰り返してきたことだ。今回も、わたしは特に考えもなくそうするだろう。あるいは、そうなってしまうだろう。





 中途半端に終わってしまったお茶会から、明けて翌日。
 早朝、『日の出』から間もない時間。
 パルスィはスリッパ音をぺたぺた響かせながら古明地家の廊下を歩いていた。目的は玄関の郵便受けだ。夜気が去ったばかりの冬の朝は厳しく冷え込んでいるが、近頃はどうにも二度寝ができなくなってしまっていた。
 地底の盟主たる古明地さとりほどではないにせよ、駐山地底大使を務めるパルスィの日常も多忙だ。地底妖怪たちが地上へ進出し始めてからというもの、休みらしい休みはなかったと言っていい。
 駐山とあるように、パルスィは地上に高く険しくそびえ立つ『妖怪の山』の麓に間借りした地底大使館で働いている。旧縦穴の管理官に過ぎなかった自分が文字通り日の目を見るときが来たと、転属を命じられたときははしゃいでいた。
 確かに栄転ではあった。それは間違いない。
 だが、地上でパルスィを待っていたのは、そんなイメージがどうでもよくなるほどの忙殺の日々だった。
 まずは山の天狗と平地の人間たちの板挟みにあいながらの談合だの会議だのが連日連夜の荒行もかくやと続く続く。要職の務めとして、それらの合間を縫うように、地底妖怪が知らない地上の千年に及ぶ歴史と直近の情勢の資料を読み込まなければならなかった。
 耐え切れずに視察という名目で外出すると、最小緩衝領との異名を持つ紅魔館の主に半ば拉致され、恫喝および恫喝まじりの密談(『地底は住みよい土地だそうだな?』)を持ちかけられる羽目になった。
 久々の日光に日射病になりかけながら大慌てで大使館に逃げ帰れば、待っていたのは『間欠泉センターが爆発した』との報せと『つきましてはもっと頑丈な建物をつくるためと、高価な機材を扱う専門スタッフの配備のためにたくさんいっぱいお金ください。おくう』と裏に走り書きがされた、目を疑うレベルに超々高額な見積書。同じ請求が『妖怪の山』にも届いていたと聞いたときは本当に卒倒した。
 よくノイローゼにならなかったな、と顧みて思う。地底と地上の交流が復活して間もない過渡期にあったからこその忙しさではあったが、来春どうにかようやく任期を満了できそうだった。正直二度とやりたくない。後任のあても幸い見つかっているので、じきに引き継ぎ作業をはじめられるだろう。
 前置きが長くなったが。
『妖怪の山』における講和宣言の後、パルスィとさとりは一週間ほどの休暇を無理やり押し付けられることになった。もちろんパルスィは嬉々としてそれを受け入れた。
 が、早起きする意味もないのに目が覚めて、布団の中でもぞついているのも落ち着かなくて、ただなんとなく、這い出てきてしまったというわけだ。休むのを渋っていたさとりの方が今もぐっすり眠っている。
「休みを暇に感じるのって、なんかワーカホリックぽいな」
 ぼやきながら玄関まで辿りつき、新聞受けから葉書や封筒などそっくりそのまま持ち出す。古明地家に届く郵便物は、やはりそれなりに庶民には縁のないものが多い。例を挙げればきりがないが、私信ひとつとっても宛名をよくよく見ると幻想郷の閻魔だったりするので、昔は触るのも恐れ多いと思っていたものだ。
 長ったらしい複雑な名前を持つ幻想郷の閻魔は、さとりとは学生時代から付き合いがあるらしい。
 パルスィは噂に聞いたことがあるだけで会ったことはない。が、手紙のやりとりは覚えているだけでも結構な回数を数える。ひょっとしたら、いずれ執り行う予定の式に現れてスピーチなどをなさるのかもしれない……
 嫌な予感にぶるりと震え――たところで、廊下の角から足音が聞こえてきた。さとりも起きてきたのかなとあくび混じりに思っていると、果たして現れたのはその妹のこいしの方だった。
「おはよう、こいしちゃん」
 昨日の別れ方のせいでなんとも気まずいが、それを呑み込むおとなっぷりを見せつけるべく、さらりと飽くまでも何気なくにっこり言い放つ。
 こいしは、一見して身支度を整えて、出かける準備を終えているようだった。
「え!? あ、うそ、なんで」
 その上でこの慌て様である。見てはいけないものを見てしまったかのような、昨日とはまた別の微妙な空気を感じる。
「……もしかして家出とかするつもりだった?」
「いや、ていうか、なんで?」
「あーわたしは早起きの癖が抜けなくて」
「そうじゃ、なくて。えっと、ご、ごめんなさいっ!」
 なにを聞かれたのかも判然としないまま、こいしはひどく動揺した様子で元来た方向へ走り去ってしまった。かぶっていた帽子を落としたのにさえ気づかなかったようだ。
 呆気にとられるも、パルスィはふっと息をついてむなしさをやり過ごした。
「おーう、天鵞絨ですねこれは」
 帽子を拾ってみて、何故か丁寧語で感想がまろび出る。上等な黒い生地に黄色のリボンがあしらわれており、お洒落でかつ縫製もしっかりしていた。こいしの衣装とも共通したデザインを見るに、オーダーメイドなのだろう。さすがは古明地家のお嬢様だ、と感心してしまった。さらさらとした手触りのそれにふさわしくない埃をはらってやり、郵便物と一緒に小脇に抱えて居間に戻る。
 隣接している寝室のベッドをそっと覗いてみると、さとりはあどけなくも見える寝顔を半分だけ枕に埋めて、微かに聞き取れるほどの寝息を立てていた。体を横に倒しているのは、彼女の眠るときの癖だった。
 休みの日程をだいぶ消化してきたこともあって、寝苦しそうな感じではない。日によっては苦悶の形相でうなされているときもあるのだから、休んで正解だろう。
 こういうことを、さとり自身は認めたがらないけれど。
「……あなた、最近心の中が自由過ぎますよ」
「あ、おはよ。ごめんね、起こしちゃった?」
 さとりがのそのそと毛布を押しのけると、ピンクのパジャマ姿が露わになった。
「あなたがわたしをわからず屋のように言うので……」
(実際そうでしょうが)
 反射的な思考に対して、すかさずむっとした様子でさとりが睨んでくる。ただでさえ寝起きのきつい目つきでこれをやられると、さすがのパルスィもちょっと怖い。
「あーっと……さとり? これなんだけどー」
 逃げるように、こいしのかぶっていた帽子を差し出す。さとりはなにか言いたげな様子をひとまず飲み込み、小さなあくびを挟んでから気だるそうにそれを受け取った。
「ああ、……こいしの。これは……」
 さとりは帽子をじっと見つめる。撫でたりひっくり返したりして検分したあと、小首をかしげた。なにかが納得いかないようだ。
「どうしたの?」
「いや、懐かしい……気がしたんですけど……なんだったか……」
 寝起きで頭がしっかり働いていないのかもしれない。パルスィがそう思うと、さとりがまたじろっと視線を向けてきた。わたしが寝ぼけるなどありえません、と堂々と嘘をついてから、さとりはまたあくびをした。
「これがどうしたんですか」
「ん……つい今さっきすれ違ったんだけど、わたしの顔を見たらめちゃくちゃ動揺して、どこか行っちゃったの」
「それで、そのときにこれを落としたと……ふむん」
「というかさ、こいしちゃん早起き過ぎない? 遠足にでも行くのかな」
「どうでしょうね……」
 実の妹の話――なのだが、さとりはあまり興味がなさそうに見えた。もしくは、まだしっかり覚醒状態になっていないのか。
 さとりのこんな様子は昨晩もあった。こいしが応接室を去った直後、要領を得ない説明をするパルスィに『あの子は思春期が長いですからねぇ』などとのんびりお茶を飲むその姿は、仲良く姉妹喧嘩をしていたときとかけ離れたものに見えた。こいしのあんな様子が頻繁に見られるものだとしても……なにか、不自然なものを感じる。
 それを口に出すべきかどうか、迷う。が、脳裏でさえ明確な言葉にできないでいるうちにさとりが着替えを始めたので、パルスィはそっと寝室を出た。なにを今さらと思われるかもしれないが、彼女は着替えを見られるのが恥ずかしいらしい。
「あ、手紙とか取ってきたから、机に置いとくね。閻魔ちゃんからも来てた」
「ふぁーい」
 扉越しに声をかけると、くぐもった声が返ってくる。たぶん、また眠りかけているのだろう……
 やれやれと肩をすくめながらソファにどかりと腰かけ、新聞を広げる。休みの過ごし方にケチをつけても喧嘩の種にしかなるまい。
 一面の見出しは、なかなか物騒なものだった。違法薬物シンジケートの摘発、多数の構成員と数トン単位の粉末を押さえたとのこと。逃亡中の者は草の根分けてでも探し出して根絶やしにする……と現場に直接踏み込んだ地底警衛兵たちのリーダーである星熊勇儀がインタビューに答える様子が写されていた。写真では左腕を三角巾で吊っているが、このガサ入れのときに折られたのだとすれば、とんでもない手練れがいたものである。
 開拓のごく初期から地底に姿を現した違法薬物にまつわるあらゆる物事は、この地底に残った最後の難題だと言われている。地の底に追いやられたばかりの妖怪たちが過去を懐かしむために常用していた例はかつて後を絶たなかったし、地底の情勢が落ち着いてからは別の問題に絡みつき――地霊殿は、それを今も解決てきていなかった。
 それは、どこででも起きうる出来事が原因となった。
 厳しい生活の中でも妖怪たちは絆を育み、その延長上にある普遍的な営みをもって新たな生命を生んだ。
 小さな命は祝福され、妖怪たちは喜んだ。
 しかし、やがて地底という限られた空間に、当然の限界が訪れることになる。
 食糧難。雇用の不足。住居を持てない妖怪が増えた。それらは自ずとより合わさって、治安の悪化という最もわかりやすい結果に帰結した。
 結局は、見通しの立たないまま始めざるをえなかった開拓のしわ寄せが、ここに至りあらわになったということだ。非難の矛先を向けられた地霊殿は、一応の解決策を打ち出した。
 土地がなくて起こった問題ならば、土地を広げてやればよいという馬鹿馬鹿しいほどに単純な着想のもと、地底拡張事業は始まる。これが最も貧しかった地底開拓中期のころだ。長い忍耐の時代を耐え、地底の諸問題はゆっくりと解決に向かっていた。
 一方で、地底拡張事業の過酷さは、もともと存在した大空洞を利用しての地底開拓以上のものだったと言われている。情勢が安定しつつあったとはいえ、まだまだ労働者にまわせる手当ては乏しく、事故も多かった。
 苛酷な環境に見合う対価を得られないのならば――それを自ら補うように違法薬物を求める労働者たちが多数現れたのも、当然と言う他なかったのかもしれない。
 地底に薬物が根付いた経緯はこんなところだ。
(やめやめ、こんなつまんないこと考えるのは。仕事中だけでたくさんだって)
 頭を振って、思考から薬物のことを追い出す。現状では手当ても増えているし、少しずつ薬物シンジケートも壊滅に追い込まれつつある。必要以上に思い悩むことなどない。
 ぱらぱらとページをめくっていると、今度は芸能欄に目が止まる。さとりが贔屓にしている地底一強アイドルの土蜘蛛、黒谷ヤマメの地上ライブツアーの様子が大きく報道されていた。
 二週間ほど前の地底地上間交流正常化記念式典での活躍も記憶に新しい彼女だが、もう新たな一歩を踏み出しているらしい。ライブの観客たちを魅了してやまない満面の笑顔の写真が目立つようにキャプションされている。その溌剌とした容姿と圧倒的なパフォーマンスに噂が噂を呼び、巡業は順調極まりないとのことで、なんとも景気のいい話である。
 とはいえそれは、地底全体においてもそうだった。地上という巨大な取引相手が現れたことで、地底の経済は史上類を見ないほどの好景気を迎えているのだ。現金なもので、住民たちはかつての鬱屈していた時代のことなどなかったかのように、日々を精力的に過ごしている。こうした紙面という世界の末端からさえもそれが見て取れた。
(ほんの二、三年でとんでもなく変わったな……わたしも、地底も)
 くっくと喉の奥で笑う。
 思いついてしまったのだ。あの人間に感謝しなければならないと。
 この変化は、地底と地上双方からの尽力があったから成し得たものだけれど――それでも、きっかけとなったのは彼女だ。地上から来たのが博麗霊夢でなければ、きっとこうはなっていなかった。あんな生き方をしている奴が地上にいたんだと思うと、地底でふてくされているのが馬鹿馬鹿しくなる。
 そんな彼女の影響を一番強く受けたのが、さとりと空なのだろう。
 ただパルスィは、瞬時にそんなことまで考えて、黒谷ヤマメの写真に目を止めたわけではなかった。あの人間のことは思考の隅に追いやり、改めて、紙面にまじまじと目を近づけてみる。
「この娘、なんか見たことあるんだよなぁ……」
 もちろんアイドルとしてのヤマメは、地底で暮らしていれば見ない日などない。彼女は常になにかしらの雑誌で特集を組まれていたり広告に起用されたりしているからだ。今後は地上でもそうなっていくかもしれない。
 そういうことではなく、パルスィはずいぶん昔に旧縦穴で迷子になっていた子供を職務の一環として見つけてやったことがあって……その子供がたしか、土蜘蛛だったような気がする。そして、黒谷ヤマメにはその子供の面影がある、ような……
(まぁそれが偶然アイドルだったなんて主張したら、笑われるか)
 自分の思い出の中ですらあやふやなのに、確かめる方法を考えるのも馬鹿らしい。さっさと忘れよう。
 一応経済欄も見ておくか……とやる気なく新聞をめくっていると、突然音を立てて扉が開いた。寝室のものではなく、廊下から繋がっている入口の方のだ。
 勢いよく開けた割に、当の乱入者自身はそろりとその影から顔を出した。
「うわ……やっぱり見られてるよ……」
 否応なく目が合う。ついさきほどと同じく苦々しい表情を隠しきれていないこいしが、そこにいた。言っていることはよくわからないのだが……
 間抜けな顔を晒しつつも、パルスィは言うべきことを思い出した。
「……おはよ。さっき帽子落としてったよ……あ、ベッドに置いてきちゃっ」
「失礼しました!」
 扉が力強く閉められた。廊下から、こいしがばたばたと駆けていくけたたましい音が遠ざかっていく。
「たー……」
 あまりのすばやさに言葉すらついていけなかった。
 もう読む気の失せた新聞をたたみ、パルスィは喉の奥でうなる。
(やっぱこれは、あれかな)
 昨日の別れ際に、今日の二度に及ぶ逃走。
(嫌われちゃったかな)
 パルスィの主張についてどういう受け取り方をしたかはともかく、パルスィという一個の妖怪に対しては、そういうことになるのではないだろうか。
「前もって覚悟しておいてよかった……な、うん」
 どうせ今日も休日だから、ちょうどいいといえばちょうどいい。これ以上関係がこじれる前に、仲良くなるきっかけくらいは掴みたかった。
 なんだかんだでさとりも起きてこない。寝室を見に行ってみると、なんとか着替えだけは済ませたらしい未来の妻はまたベッドの中に戻って眠りこけていた。
 毛布を首元までかけなおしてやって、パルスィも身支度を始める。
 さとりがこの調子で、それに妹への態度もなんだかおかしい。誰か別のつてを当たらなければならないだろう。
 幸い、心当たりがひとつだけあった。





 能力が弱まっている。昨晩から変に思ってはいたが、どうもそういうことらしい。
 わたしは地霊殿から離れてあてもなく歩きながら頭を抱えていた。
 絶好調のときでも図抜けて勘の鋭い奴には見つかったことはある。
 例えば、かつて地底に住んでいた伊吹童子。
 例えば、こないだ地上で会ったばかりのめでたい色の人間。
 彼女らはそれぞれ地底地上を代表すると言っていいほどの力を持っていたけれど、水橋パルスィにそこまでの凄みを感じるかと問われれば、それははっきりと『ノー』だ。昨日の時点ならば無意識をがんじがらめにして腹踊りでも裸踊りでもさせられただろう。その程度の妖怪だった。
「……お燐はともかく、あんなのに見つかってるようじゃ話にならないよ。あんなしょぼくれたヤツに」
 なにもこんなときに、とわたしは唇を噛む。わたしの能力はこの世でわたし以外の誰にも使えない能力。それはつまり不調をどうにかする方法を誰も知らないということだ。姉も、今は亡き母も。もっと遡っても、たぶん無理だろう。種族の異端者たるわたしは、力の使い方を先達に学ぶことができない。
 能力が弱まること自体はよくあることだ。けれど、本当に間が悪い。
「こんなことならパスポートとっとけばよかったな。ああもうっ」
 嘆息とともに、路傍の石を蹴り飛ばした。パスポート、即ち出底許可証は申請に数時間、受け取りに数週間かかる。わたしの無精が原因なのだから、石に蹴られる謂れはないけれど。
 今回わたしは家出に向かう先に地上を選ぼうとしていた。前は山登りしかできなかったから、今度はもっと別のところを観光して、ゆっくりと頭を冷やそうと思っていた。だが、無意識を頼みに出入底管理局を誤魔化せないなら強行突破は不可能だ。姉にも迷惑がかかってしまうだろう。
「はぁ。これじゃほんとにただの妹妖怪だよ……」
 服の裾から伸びた管の先、第三の目はずっと閉じたまま。さらに無意識も使えないようでは、もう否定できる材料がない。仮に地上に行けたとしても、あの巫女には会いたくないところだ。
「あーあー。どうしよ。帰るしかないけど……やだなぁ」
 カラカラと音を立てて転げていく石を追いながら、わたしはぶつくさと独り言を漏らす。なにを言ったって誰にも聞こえないから、癖になってしまっているのだ。どうせ裏ぶれた通りで付近には野良猫一匹たりといない。気兼ねなく声も出せるし、石も蹴れる。
 爪先に強く当たって跳ねた石が、偶然ちょうどいい高さに浮いた。わたしは軽くステップして、鋭い蹴り足を閃かせると、石はかなりの勢いですっ飛んでいく。さすがに危ないかなと思っていると、まさにそこを狙ったようなタイミングで、通りの角から何者かが姿を現した。
「あ、あぶな――」
 思わず声をかけようとして、そのときにはもう間に合いそうもないとわかっていた。逃げるか謝るか、迷いさえしながら身を固める。
「ん? うわ」
 しかし、その何者かはわたしの的外れな逡巡を杞憂に変えた。軽く放られたボールをキャッチしたみたいな、その程度のなんの気なさで、視界の外から飛んできた石を掴み取ってしまった。
 安い染料で赤く染まったくるくるの巻き髪に、奇妙な黒衣を着た女だった。不調なりに気を張っているつもりだったが、うろたえるわたしとはっきり目が合った。もうまるで能力が機能していない。
 女の不機嫌そうなその顔立ちは美しいと言える部類ではあるが、なによりもその鋭い目つきが堅気ではない雰囲気を際立たせている。お嬢様育ちのわたしとは全く縁がない部類の、危険な空気だった。できることなら今すぐ回れ右して走り出したいくらいの……
「お嬢ちゃん」
「あ、わ、はい」
 が、今そんなことをすれば、もっと怒らせてしまうかもしれない。なんの妖怪なのだろう……? 一見して判別できるような特徴はなかった。わたしは震えながら次の言葉を待つ他ない。
 すると、その女はにこりと快活に笑った。
「ダメでしょ、危ないことしちゃ。わたしは『偶然』大丈夫だったけど、ふつうケガするよ? こんなのが飛んできたらさぁ」
 女がわたしの手を取り、わたしが蹴った石を押し付けてくる。
「あ、ご、ごめんなさい。だ誰も、いなかったから、えと」
「いいよいいよ、別に脅してるんじゃないからさ。今度から気をつけて? って話」
 ぽんぽんと気安くわたしの頭や肩に触りながら女は笑った。近づかれると、香水のきつい香りが鼻腔を刺激する。わたしは自分がどこにいるのか不意に気づいた。この一帯は、地底でもまだ治安の悪い地域だった。いつもは誰にも見られないから、足の向くまま往きたいところに行く。けれど、それは危険なことだったと、今はっきりと理解した。
「じゃあね。かわいいお嬢ちゃん」
 女はそう言って背を向けた。わたしは焦ってつまずきながら、その反対方向へと向かう。この区画から離れるというよりも、あの女から離れたい一心で。
「ねえ、やっぱりちょっといい?」
 そんなわたしの背にぞっとするような声がかかる。いや、女は普通の声音で話している。ただわたしが、それを怖いと思った。
「お嬢ちゃんに見覚えがある気がするんだよねぇ。わたしの気のせいかな。いやナンパとかじゃないよ?」
 肩越しに顧みた女は、わたしと同じような姿勢でこちらを見ていた。嫌な目つきだった。こちらをなめまわすかのような。言い知れぬ不気味さに総毛立ち、手の中に押し付けられた石を取り落としてしまった。
 ぎょっと目を疑う。
 石は、落ちる前から、真っ二つに割れていた。
 わたしは、女の問いに答えず走り出した。今なら逃げてもそう変なタイミングではない。
 もう一秒たりとそこにいたくなかった。後ろを振り返ることなく、全力で駆ける。
 女は追ってこなかった。そして、その路地にひとり残された彼女の呟いた言葉をわたしが知ることもまた、なかった。
「……かわいかったし、ナンパでもよかったんだけどね。あの子……あんなのがいたんだなぁー……」





「はぁ、それであたいのとこまで押しかけてきたわけですか。こんな朝もはよから」
 そう言って呆れたように息をつく燐は、いつもの三つ編みさえ結わえていない状態だった。ゆるくウェーブのかかった赤い髪が珍しいグラデーションに波打つのを見ながら、パルスィは苦笑いを浮かべる他ない。
 ここは、地霊殿の数ある職員寮の中のひとつで、さとりのペット上がりの妖怪たちが固められている棟だった。さとりの秘書見習という地位まで上り詰めてきた燐も、数百年来変わらず住処としている。
「きれいに片付いてるわね」
「そりゃーまぁね。いつ何時、不意のお客さんが来るかわからないしねっ」
 世辞を言ったわけではなかったが、どうもそう受け取られたらしい。几帳面な仕事ぶりの燐のこと、それはその通りなのだろうが。
 実際、世辞ではない。八畳ほどの部屋を軽く見回しても、脱いだ衣類が散乱しているとか、本を平積みにして隅にのけてあるとか、そういうわかりやすい散らかり方はしていない。二段ベッドの下のほうは使われていないようだが、そこにだって埃ひとつ……
「あ、ここ、もしかしてお空のベッド?」
「そうだけど。よくわかったね」
「あの子と話してると、よくあんたの話題が出るから……たしか前は一緒に住んでたって」
「…………」
「え、あれ? わたしなんか変なこと言った?」
 燐が急に顔をしかめた。同時に嫉妬の気配を感じ取ったとき特有の感覚が、パルスィの背を撫で上げる。
 ここで話を切り上げられたらと怯えおたついていると、燐は自分を落ち着けるように大きくため息をついた。そして、いじいじと髪の毛に指を絡めながら、唇を尖らせる。
「べつにーなんでもー。水橋さんは、あいつと一緒に働いてるんだなーと思っただけー」
「配置を決めてるのはわたしじゃないので悪しからず」
「……わかってますって。あいつ……お空は自分から地上に行ったんだもんね」
 霊烏路空が地上の間欠泉センターに出向してから、もうそれなりの時間が流れている。暴れることにだけ目を向けていたヤタガラスの力を、別のことに生かせないか――そして、それを地底と地上双方の発展に繋げることはできないか。とある経緯から彼女の思いを初めて聞いたときは、パルスィも驚いたものだ。さとりから聞かされていた空の印象とはまるで違うその姿に、地底の明日を背負って立つ気概を見た。今にしてみれば過言だったかもしれないが、とにかくそのときその時点ではそう思った。
「いろいろ問題はあるバ……奴だけど、がんばってるよ、あの子は。よく研究施設を破壊するけど。ありえんレベルでカネを要求してくるけど」
「ですよね? フフ。あたいも、恥ずかしながらあいつに影響されて、使い走りからより上等な使い走りになろうとがんばってるわけです。今のところは、ですけどね!」
「聞かせたい部分が全然まったく聞こえてないみたいね」
 燐に皮肉を言うのも筋違いなので、とりあえず私見は引っ込めておく。
「最近会えてないの? ここのところは、燐も地上に出る機会が多かったと思うけど」
「それがさぁ、妙に間が悪いんだよ。話せたのは式典のすぐ後だけで、それ以降はもうさっぱり。休みったって立場上さとり様の身辺から離れられないし、あいつはあいつでなんかもう研究にのめり込んでるし……おまけに手紙にゃ河童と仲良くなったとか書いてくるし……!」
(河城さんのことだな)
 かけている勉強机にどかっと拳を振り下ろす燐には敢えて言うことでもないが、裏表のない素直な空は、地上ではほとんどアイドル扱いを受けていた。とぼけた性格の割に華のある見てくれをしているのがその理由の半分ほどを占めている(とパルスィは確信している)。高く伸びた背に若干ワイルドな黒髪ストレート、すっと通った鼻梁。カカシのように黙って立たせているだけなら物凄まじく有能そうに見えるのだ。そのまま蝋で固めてやりたいとまで思っているのはパルスィくらいだろうが。
 河城にとりは、空ファンの中でも特に仲良く空と仕事に打ち込んでいる姿を見ることが多い。地底と『山』という出自の違いはあれど、お互いに出向の身ということで話が弾むようだった。部下を監督するのも管理職の勤めであるので、こういうことはパルスィもそれなりに知っていた。
(フォローしといてやるか)
 いつの間にやら空に肩入れしている自分に気づきながら、パルスィは燐をどうどうとなだめる。
「でも、さっきも言ったけどさ、あの子はほんとによくあんたの思い出話をしたがるんだよ?」
「ほう」
「例えば『山』でのサバイバル訓練に無理やり参加させられたときなんだけど」
「あッ、ちょっと」
「同じよーな訓練で子供のころのあんたと一緒に遭難したって話を……」
「うわあああああ! なに話してんのあのばかはぁ! 知らないそんなの! やめろ!」
「下手を打って派手に血を出しちゃったあんたが弱気になったときに、飛び出た辞世の句が」
「やめてくださいお願いします!」
 燐が頭を抱えて転げまわった。予想以上の反応だった。
「もおおおおほんとばか! これだからひとりで地上に行かせるなんて嫌だったんだ!」
「でもおかげで、火焔猫燐が」
「フルネームで呼ぶなぁ!」
「燐が……」
 言いかけて、思いついた。
「……お燐が、案外かわいいとこもある奴なんだと知ることができた。それまではさとりの側にいるくそ生意気な猫としか思ってなかったのにね」
「むっ……」
 あだ名で呼ばれてむずがゆそうにする燐は、やはり今までにない表情を見せていた。パルスィも少し照れが混じってしまったという自覚があった。
 ああ、こういうこと、なのだろうか。
 昨日のお茶会で、他でもないこの燐が言っていたのは。
「あのさ、わたしとお燐って、最初に会ったのがわたしを捕まえに来たときでしょ?」
「そーなるね。水橋さんが暴走してたときね」
 パルスィがまだ旧縦穴の管理という閑職についていたときの話だ。博麗霊夢に敗れて自暴自棄になり、暴れていたパルスィをさとりが直々に捕らえにきて……燐もそこに帯同していた。あの一件のせいで、パルスィは燐とお互いにぎくしゃくしてきたのだと、なんとなくではあるが察していた。
 空や燐たちさとりのペットは、さとりのことを本当に大切に思っているのだ。
「わたしとさとりの間では、もうとっくに解決してる話なんだけど……いやいや、言い訳かこれは。ごめんなさい。あのとき、さとりにひどいことして。わたし、どうかしてた」
「もーいーよ、そんな話」
 燐はそっぽを向いて言った。
「水橋さんがさとり様を幸せにしてくれるんなら、いいよ」
「責任重大だ」
 くすと吹き出すと、燐はさらに背を向けて、しかしこらえきれなかったように肩が震えている。澄ました顔のパルスィだが、その実は若いころに経験してこなかった青春の香りにたじろいでいた。
(いい歳こいて恥ずかしいなぁ。顔あっついわ)
 この雰囲気を普通に受け止めている燐はまだまだ少女だなぁと若干羨ましくも思った。
 ちょっと茶番じみたやりとりになったが、これくらいで済ませてしまって良いのだろうかと不安にもなる。地霊殿から禁錮刑をくらったのは別として、燐の心情を思えばやったことに対しての罰としては軽すぎる。パルスィはあのとき――さとりの第三の目を踏み潰そうとしたのだから。未遂に終わったのは、燐がその身を挺してさとりを守ってくれたからだ。それこそさとりを幸せにしてやることでしか、報いることはできないと思う。
 燐は過ぎた話としてくれたが、楽しい新婚生活を送れるようにしっかり考えておかないとな、と決意を新たにするパルスィだった。
「お茶でも淹れようか。水橋さんはお客さんだし」
「パルスィでいいよ、お燐」
「さとり様の前でもかい? 遠慮しとくよ」
「ほーんと生意気ねぇ」
「いちいち呼び分けんのって案外面倒なの知らない?」
 燐はにやにや笑いながら部屋を出て行った。職員寮では風呂トイレ給湯室などが全て共同スペースになっている。パルスィはむしろそれが嫌で寮に入らなかったのだが、燐はそういった部分を楽しんでいるようにも見えた。
(お空もそうだったのかな……そうだ。この話も、お空にしてやらなきゃね)
 あの地獄烏が近頃仕事に打ち込んでいるのは、ここらである程度の成果を出しておきたいからだと言っていた。その理由はまとまった休暇を得たいからだとも。パルスィが勝手に想像するに、それは燐とも関係のある話だと思う。燐についてのことなら、なんだって喜んでくれるだろう。
 そこそこ長いこと気にかかっていた、燐との微妙な関係はこれからなんとかなりそうだとして。
 あとは、目下のことだ。
 燐がお茶とともに戻ってきて一息入れたあと、それを切り出す。
「それで、こいしちゃんのことなんだけど」
「あ、そうだった。昨日のことだよね。あのときは突っ込んで聞けなかったけど、こいしちゃんとなにかあったの?」
「わたしがさとりを騙そうとしてるって思ってるみたいで……」
「結婚詐欺師みたいな?」
「たぶん。でもそこは信じてもらうしかないし」
「それで愛の宣誓を……?」
「うん……」
 いやらしい笑みを浮かべた燐が、一応程度の控えめ加減でつついてくる。
 パルスィは咳払いをして真面目な空気を呼び戻した。
「あのとき、さとりとお燐は、こいしちゃんに無意識を操られていた」
「……それは、たまにやられるね。昨日もかぁ」
「で、その間に、わたしにどうやってお姉ちゃんを騙してるんだ? って」
「は? あぁ、そういうことか。それならあたいも気になってた」
「いや騙してないよ?! お燐までなに言うの」
 燐が訳知り顔でうなずくのに驚く。また『さとり大好き』とでも言わせたいのかと勘ぐるが、燐は真面目そのものといった様子である。
「ああいや、騙してるって思ってるわけじゃないよ。なにせ、さとり様が騙されるわけがない。心が読めるんだからさ」
「まぁ、そうだね」
「だから不思議なのは、水橋さんの方なんだよ。その……嫌なんじゃないの? 全部なんでもわかっちゃう相手と一緒になるの。浮気とかたぶんできないよ」
「しませんそんなこと」
 思わず牙を剥いて睨むと、燐はさもおかしそうに笑った。パルスィにはそんな目論見などあるわけがないし、そもそも自慢ではないが浮気をできるほど知り合いがいない。もっと自慢できないが、たぶん浮気を敢行する甲斐性もないと思われた。
「わかってないっすなぁ、そういうやつが一番するんすよ。ウヘヘ」
「ウヘヘはないわ……そのしゃべり方やめなさい」
「うーっす」
 考えてみればこの燐は自分にとってつきあいのある中で最も年若い妖怪ということになる。こいしとどう向き合うかという問題を相談するには適任だが、実際いろいろ感覚が違うな、と今更実感してしまった。
「もういい? 答えても」
「ごめんごめん、お願い」
「嫌じゃないよ。まぁ、今は」
 思い出すのは、ずっと昔のことだ。
いつ終わるとも知れなかった開拓を終えて、地霊殿で働くことが決まったとき。
 パルスィは古明地さとりという妖怪を、初めて見たのだ。燐と同じように秘書見習いとして母の後をついてまわるさとりは、今よりも幼いちっぽけな少女に過ぎなかったけれど。
 地底に来てから忘れかけていた嫉妬の種が芽を出したのは、そのときだった。
 同期として地霊殿に迎え入れられながらの待遇の差は、さとりの立場を思えば無理からぬことではあったけれど、それでもパルスィはさとりに嫉妬心を抱いた。
(そして、それと同時に、こうも思った……わたしとあいつとは、違う世界に生きてるんだって)
 そう思うことで、多少は心穏やかでいられた。けれどその分、ゆっくりと澱のように堆積し続ける嫉妬の塊に押し潰されつつあったことに気づけなかったのだ。
 さとりが手を差し伸べてくれるまでは。
 胸に去来する思いに囚われたのは一瞬のこと。燐が促してくる前に、続きを言った。
「さとりは、別に第三の目だけで生きてるわけじゃないって、もう知ってるからね」
「へえ、どういう意味?」
「心がいつも正直とは限らないってこと」
 さとりを違う世界の妖怪と思い込むことで心の平衡を保っていたパルスィのように、地底に追いやられた妖怪たちは皆がそうだ。明るく振舞っていても、その表情には影がある。逃れた先で慰めあうのは惨めだとうそぶいていても、どこかでやはり無理をしているのだ。
 心は簡単に嘘をつく。隠した傷がまだ治らなくてぐずぐずだから、それをかばうために。
 さとりは、パルスィとの確執を経て、そのことを理解したのだという。本心なんて、自分にだってわからない。ただ本心らしきものを、そうと信じるしかない。全く信じるに値しない、あやふやにすぎるものを。
「なんか話が抽象的じゃないですかね」
「だったら、こういうのはどうかしら。わたしたちもこうして話をしてるとき、その言葉だけで相手のことを判断するわけじゃないでしょ? 声の調子とか、表情とか雰囲気とか目そらしたなとか、そういうの全部で相手との距離を測ってるもんなのよ。さとりはその材料が、わたしたちよりひとつ多いというだけ」
「心を覗かれてるのは変わらないんじゃん」
「じゃあお燐は、あいつのそばにいるのが嫌?」
「んなわけないでしょ」
「なんで?」
「それは当たり前だし……」
 燐ははっとしたように目を見開いた。腕組みをして考え込んで、ぽつりと言った。
「そういえば、なんでだろ? 市井のやつらがみんな嫌がってるから、そっちの方が普通かと思ってたけど……自分のことは考えてなかったな」
「さとりのことが好きだから。わたしはそうなんだけど。お燐もでしょ?」
「水橋さんさぁ……」
 組んでいた腕を解き、りんごのようになった頬を両手で覆う燐。わたしがやったら鼻で笑われる仕草だな、とパルスィは思った。
「すごく恥ずかしいこと言ってるの自覚してます?」
「恥ずかしいポイントって年齢で変わるんだろなぁ……」
「は?」
「なんでもない。歳食うと案外言えちゃうもんなの」
 昨日からこんなことばかりでもう慣れたというのもある。
 照れた様子の燐はあたふたした手つきで三つ編みをつくり始めていた。こうやって正面から気持ちを言えないでいるうちは、空との仲も進展しまい。
 空へのアドバイス(『直球でいけ』)を考えながら、パルスィは話を元に戻す。
「わたしがどうしてさとりのことを好きなのかってのが、なんか重要なの?」
「……たぶんね。こいしちゃんは……さとり様のことを怖がってるから」
「さとりを、こいしちゃんが?」
 燐は真面目な顔になって頷いた。三つ編みを片方だけつくったまま放置したのが少し気になるが、捨て置く。
「うん。だから、どこの誰とも知れなかった水橋さんが、いきなりさとり様とおつきあいしてるなんて聞いて、混乱したんだと思うよ」
「ちょっとちょっと、待って待って。そこじゃなくて」
 そこだけ聞けば特に気になるところはなかったのだが。
「さとりとこいしちゃん、仲が悪かったの? 昨日はそんなふうには」
「あー仲が悪いとまでは言わないけど。昨日みたいにキャッキャしてるときもあるんだけど……」
 昨日のお茶会では。脳裏にすぐさま仲良く喧嘩をする姉妹の姿が浮かんでくる。
 生意気な妹と、妹にかき回される姉の、ほほえましい光景。姉妹とはこういうものなのかと、パルスィはのん気に感心してさえいた。こんな団欒の中に入っていけたらとも思っていた。
 燐が、パルスィの目を覗き込んできた。じろじろと無遠慮に見つめられて、パルスィは身を引き気味に困惑する。
「あの、なに? 言いかけてやめるのはこの世で許されない悪のひとつだと思うんだけど……」
「いやぁ言っていいのかなぁーって思って。でも言うしかないか。水橋さんがさとり様と結婚するんじゃ、遅かれ早かれ気づくかもしれないし……それに」
 燐の瞳が細く眇められ、パルスィから視線を外す。見つめ合う気まずさに気づいたのかと思ったが、こちらもなんとなく直感する。燐は地霊殿の方角を見たのだ。
「どうやら、こいしちゃんの力が薄れているみたいだしね」
「そう、なの?」
「かもしれないって程度だけど、心当たりはある。だから今のうちに話しておくよ」
 片三つ編みを思い出したのか、燐は余った髪を手ぐしで梳きながら言う。逡巡の色を滲ませた仕草が、普段理知的な彼女をどこか落ち着きなく見せていた。それにしても燐はやはり、姉妹のことに詳しい。ちょっと妬ましいではないか、と生来の性根がじりじりと嫉妬心を焦げ付かせている。
「さとり様は、もしかしたら、こいしちゃんに――」
 燐の話は、長くなるだろうか? もちろん時間に余裕はまだまだあるが、なんとはなしに気になって、机の上の置時計を見た。正午に近い。さとりももういい加減起き出してきているかもしれない。そんなことを気にしていた。
「――操られているかもしれない」
 その言葉を、聞くまでは。





 裏口の扉をそろりと開けながら、わたしは素早く視線を走らせる。見渡せる限りには誰もいない。ひとまずほっと一息つきつつ、わたしは我が家に足を踏み入れた。そんなに遠くへ行ってもいないのに、もうくたくたである。それというのも、あの女から逃げ出した後、すぐに地霊殿に帰ってこれたわけではなかったからだ。
 街の中で、誰かの視線を避けて歩くということがどれほど難しいかを思い知った。
 万が一にもあの女に見つかるわけにはいかなかったし、他の何者だろうと、しばらく関わり合いになりたくなかった。背後で足音がすれば走って逃げ、前を歩く者がいればそれが豆粒ほどの大きさであっても角を折れて逃げ、その先で我に返って挙動不審な自分に赤面するのはただの自意識過剰かもしれないが――そうやって誰もいない道を選んでいるから、自然と家路も長くなってしまう。
 自分が情けない。力が戻ればこんな思いをしなくても済むのに。
(……いるのかな。お姉ちゃんは)
 第三の目を意識する。自分の腕を見て腕だと認識するのと同じで、他にどう思うこともないのだが、目蓋が閉じているという感覚はあった。もし無意識を操る力が失われたことで第三の目が開くようなことがあれば、わたしは二度と姉の前に立つことはないだろう。今のところ、それは杞憂だ。
 問題は、今のわたしは確実に姉の無意識をコントロールできていないことだ。それがなにを意味するかを思えば、やはりわたしは姉に会いたくない……でも、帰ってくる場所は、ここしかない……
 葛藤とか矛盾とか、そういったものを忘れることができないのも、力を失った副作用か。舌打ちでもしたい気分だった。
 裏口から入れるのは、当然倉庫だ。日用品や食料の備蓄を置いておくのに使われていて、姉の用事があるような場所ではない。まだ客分だろう水橋もこんなところに立ち入らないのではないか。このままこっそりと自室へ立てこもろう。能力が戻るまで。
 倉庫に来たのは、立てこもりの間の食料を確保するためでもあった。後ろでに扉を閉め、缶詰でもあさろうかと倉庫の奥を覗き込む。その際に手をついた棚が、ぎしりと軋んだ。
「……こいし……?」
 その物音に、思わぬ反応があった。
 缶詰を両手に抱えた姉、古明地さとりがそこにいた。
 そういえば。姉たちが休暇をとるにあたって、家政婦ペットたちも暇を出されたと聞いたような気がする。そして姉は家事ができない。当然食事の用意もだ。
(それで缶詰か……)
 姉のことを笑えた身ではないのだが、視線が交錯する一瞬、わたしはそんなことを思った。
「こいし……なんだか久しぶりね。あれ……昨日……?」
 わたしの顔を見た途端、姉はよろけて抱えていた缶詰をばらばらと取り落とした。記憶の混濁を起こしているようだ。無理もないが。
 わたしは足元に転がってきた缶詰には目もくれず、姉に背を向けた。
「こいし……! 待ちなさいっ」
 立ち去ろうとするが、手を掴まれた。姉の焦った声はひどく懐かしかった。
「あなたはいったいどれだけの間、わたしの無意識を操っていたの?」
 明晰な姉は、瞬時に自分がどういう状態に置かれていたかを洞察したようだった。
 その焦りの中に混ざっているのが、怒りなのか悲しみなのか、わたしには判断がつかない。第三の目が閉じているからだ。なのに、よくない感情が秘められているということはわかる。
「まるであなたを数百年ぶりに見たような気さえしている。少しなら話したことも覚えてるけど、それさえ夢の中の記憶みたいに思えるの。いつから? いえ……どうしてなの?」
「……おねえちゃん……」
「わたし……が、悪かったの? わたしが――あのひとを」
「やめて」
 わたしは姉が言おうとしている言葉を鋭く察知した。聞きたくない。聞いてはいけない。
 聞いてしまえば。
 もう二度と。
「お母様を殺――」
「やめてよっ!」
 振り返りざま、わたしは姉を思い切り突き飛ばしていた。姉は悲鳴をあげながら棚に叩きつけられ――ここからは、予想できていなかった。無情にもその上に収納されていたものが落ちてくる。古い食器が割れる耳障りな音が響き、もうもうと埃が舞った。わたしはそれを、呆然と見つめていた。こんなことをするつもりじゃ、なかったのに。
 ひどい有様になった倉庫の中、姉がどうにか身を起こした。
「い……痛……っ」
 姉の額から、一筋の血が流れた。
 その瞬間、我に返った。なんてことをしてしまったのだろう。おねえちゃんはすぐに立ち上がろうとしたが、くぐもったうめき声をあげて、また倒れた。
 転ばされた拍子に、足をくじいたようだ。
「ご……ごめ……お、おねえちゃ……」
 おねえちゃんに謝ろうとしたけれど、なにかに締め付けられたかのように喉がひきつって言葉にならない。ごめんなさいとか、わざとじゃないのとか、とにかくなにかを言おうとして、なにも言えないでいるうちに、わたしは。
(え?)
 おねえちゃんが視界から消えた。いや、違う。消えたのではない。
 わたし自身が、背を向けたのだ。
 そうなってしまっていた。あるいは、そうしてしまっていた。
「こいし、まって……」
 おねえちゃんの呼ぶ声がする。背後で、三度倒れる音がした。痛んだ足で無理に歩こうとしたのだろう。
 おねえちゃんを助け起こしたいと思っているはずなのだ。けれどわたしはただ機械的に、足を交互に前へ前へと踏み出すだけ。
 わたしは自分への失望に打ちひしがれながら、こんなときだけ、無意識になっていた。





 職員寮から地霊殿へ帰ってきて、パルスィは複雑な気分でそのひさしを見上げていた。
 燐から聞いた話は、まるで知らないことばかりというわけではなかった。
 例えば、さとりの母がおぞましい悪事に手を染めていたこと。
 ふたりで過ごすようになってからのとある夜に、さとりのほうからぽつぽつと寝物語に打ち明けられたそれは、普通の話といえば普通の話ではあった。優秀な為政者が時を経て、私情のために権力を使う誘惑に屈したというだけの。見方によってはその行為にはいくらか正当性もあったのだろうが、彼女はそれを世間には隠匿していた。間違っても根回しを怠るような性格ではなかったらしい。
 彼女にとって誤算だったのは、己の傀儡であると思い込んでいた娘がまっとうな倫理観と、実の母親と真っ向から対立する気骨とを備えていたことだった。
 覚種族の欺瞞を暴けるのは、同じ覚種族だけ。自分がしなければならないとなれば、さとりはそれができてしまう妖怪だった。しかし、誤算はさとりにもあった。母を失うということが地底にとって――そして他でもないさとり自身にとって、どういう変化をもたらすのか。母の悪事が明るみに出るまでは確かに傀儡に過ぎなかったさとりには、考えが至っていなかったのだ。
 さとりは実の母を手にかけ、その地位を引き継いで地底の支配者となった。以降の数百年は、地底に緩やかな停滞の日々が訪れた。穏やかで、ゆっくりと内側から腐敗していくような、なにもない時間が流れた。
 博麗霊夢が現れて確かに時代は変わった。けれど、変われなかったものもある。
 母の血を浴びたその瞬間を、さとりはどうしても忘れられないという。
『あのとき流れた血が、わたしの中にも確かに息づいているのを感じるの。ねぇ、わたしのパルスィ……あなたは馬鹿みたいって思うかもしれない。だけど、聞いてもいい? わたしがもし、あのひとのようになってしまったら――わたしを殺してくれる?』
 満たされないから、満たされるように求め合って、泥のように眠りに着く。そんな熱の中でさえ、さとりにはどこか自罰的な部分が見え隠れしていた。親殺しの罪を抱えた彼女は、母の代わりにどれだけ地底を発展させても自分が報われることはないと信じ込んでいたのだ。
 そんなさとりが、どうしてかパルスィに自分の孤独を分け与えてくれた。
(いびつな感情、だけど、わたしはその言葉が嬉しかった……嬉しかったんだ)
 さとりの欠損をわたしが埋めてあげたいと、そう思った。
 パルスィがさとりにプロポーズをしたのは、その直後のことだった。
 知らない話は、ここからだ。さとりが母を誅すにあたり、己の他にもうひとつ、ないがしろにしてしまったものがある。
 妹、こいしの存在だ。
 満足な引継ぎもされないままその地位だけを得たさとりは、新たな立場に忙殺されることになった。
 燐と空は、折悪しくも地霊殿で働くようになって間もない時期だった。生じた混乱の中に現れた暴徒との戦いでそれぞれ頭角を現すが、結果的に前線から離れられなくなった。
 母は――長らくこいしに会うことがないまま、さとりの手にかかって死んだ。
 つまりは。
 こいしを顧みる者が、誰もいなかった、ということだ。少なくとも数ヶ月を、こいしはひとりで過ごす他なかったという。
 母が姉の手によって殺されたなどと聞かされた娘は、いったいどんな反応をすればいいのか。パルスィには想像もつかない。けれどおそらく、泣くにしても怒るにしても、ひとりでは難しい。今よりも幼い時分のこいしではなおさらだ。感情をぶつける対象も見つけられないまま、母との思い出もあったはずのこの屋敷で、こいしはなにを思っていたのだろう。そうした心の軋轢がこいしの精神になんらかの影響を及ぼしたのは疑いない。
 そしてさとりや燐がどうにか急場を切り抜け、こいしと再び対面したとき。
 既に、その異変は起きてしまっていた。
「あのときこいしちゃんをほったらかしにしたのを、あたいたちは悔やんだよ。仕事なんて全部放り出して、そばにいてやるべきだったってね。でも、こいしちゃんが思ったよりも元気で安心もしたんだ。第三の目が閉ざされてることに気づくまでは」
 後ろから追いついてきた燐もまた、物憂げに中空を見つめている。地霊殿に戻って、さとりを交えて話をしたほうがいいと言い出したのは彼女だった。
「さとりがこいしちゃんに無意識を操られだしたのも、そのころ?」
「そうとしか考えられない。そのときのさとり様は第三の目についてなにも言わなかったし……あたいやお空もたぶん、この話をしないように無意識へ暗示をかけられてたんじゃないかなって思う」
「今はぺらぺらしゃべってるようだけど」
「きっとこいしちゃんの能力が弱まってるんだよ。さとり様だってこいしちゃんのことを全く気にかけていなかったわけじゃない……ただ、長いこと意識してるのが難しいんだ。だから話せるうちに全部話しておきたい」
「いつの間にか、ずいぶん切羽詰った話になってきてるわね」
「ああそうさ、数百年前から切羽詰ってたんだよ。だってのに……あたいの大切なおふたりのことなのに、ずっと……なんにもしてやれなかった」
「……巡り会わせが悪いんだとしたらさ……神様ってのはずいぶん意地悪なもんだよね」
 燐を慰めたつもりだった。地上に実在する俗っぽい神たちではなく、概念としての神に非難を向けた。が、燐は力なく首を振った。
「そう思いたいよ。けど、せめてあたいだけでも、あのときこいしちゃんを見ていてあげられたらって、どうしても思っちゃう。……でも、ありがとね、水橋さん」
「ううん。とにかく今は、さとりとこのことについて話そう」
 無意識を操られている、というのをどう認識させればいいのか。また、その結果がどうなるかは予想できないでいるパルスィだが、それでも当事者の協力なしには事態が二進も三進も行かない。
 覚悟を固めながら合鍵で玄関の扉を開けると、その刹那に、屋敷の奥のほうから大きな物音がした。重いものが倒れたような音と、なにかが割れたような――
 パルスィが驚きに身を固めている一方、燐の反応は迅速だった。ふっと視界の端でなにかが揺らめいたと思った瞬間、もう既に物音の発生源へ駆け出している。慌てて追っていくと、古明地家のあまり近づかない区画である調理場のさらに奥、倉庫に行き着いた。
 開け放たれた扉から、惨状が覗いている。迷わず飛び込んでいった燐が『さとり様!?』と喉を絞られるような声で叫んだ。またぎくりと身を竦めつつ、パルスィも続く。
 棚の中身を余さずぶちまけたようなガラクタの山のそばで、さとりが倒れていた。
 ざぁ、と血の気が引く音が聞こえた。
「さとり様! これはいったい……なにがあったんですか?! さとり様ぁっ!」
 燐がさとりを助け起こしながら叫んだ。さとりは意識が失っているようで、燐に揺さぶられても反応が鈍い。力なくうな垂れた頭から、ぽたりと水滴が落ちる。
 いや、水滴ではない。血だ。パルスィは燐の肩を強く掴んで止めた。
「お燐、待って。頭を怪我してるみたい……揺らさないで」
「えっ!? あ……ほんとだ……」
「息はしてる。この血はどこから……?」
 そっと――さとりの髪の毛をかきわける。額より少し上の位置に小さな裂傷が見られた。パルスィはハンカチを取り出して、傷口にあてた。まだ出血が続いている。押さえて止めなければ。
「ここ押さえてて。わたし、医者を呼んでくる」
「はい……あ、いや! あたいが行ってきます。さとり様が目を覚ましていちばんにあたいがいたんじゃ、部下に情けない姿を見せたって思うかもしれない。水橋さんのほうが安心するだろうし」
「……そうかもね。交代する」
 さとりの頭をパルスィの膝枕に落ち着け、燐は立ち上がった。
「あの……水橋さんが冷静で助かったよ。じゃ、すぐ呼んでくるから」
 そんな言葉を残して小走りに走っていく燐を見ながら、パルスィは苦笑いを浮かべた。たぶんパルスィのほうが先に倉庫に入っていたら、取り乱していたのは自分のほうだっただろうと思ったのだ。近くに取り乱している奴がいると、自分はかえって冷静になれることもある。
 膝の上のさとりの顔を覗き込む。こいしの指摘どおり、古明地さとりは表情に乏しい。
 だが、なんとなくわかる。悲しそうだ。なにかあったのかもしれない。さとりにこんな顔をさせるようななにかが。
(襲われたわけではない、と思う)
 もし強盗なりテロリストなりに襲われたのなら、この場には燐が残ったほうが適当だっただろうが――地霊殿は、不審者を古明地家まで素通りさせるような間抜けぞろいではない。さとりにしたって生半な妖怪では太刀打ちできないような実力者である。覚妖怪は不意を打たれて手傷を負うような存在でもない。
(……不意を打たれるとしたら……いや)
 パルスィはため息をついた。さとりが目覚めればわかることもあるだろう。
 ひとまずパルスィのわかる範囲では、命に関わるような怪我はなさそうだ。こちらもあとは医者に任せるしかない。
 パルスィは空いている片手でさとりの頬を撫でた。出血のせいか、少し青ざめている。弱ったその顔を見ているだけで、少し胸が苦しかった。そんなわけがないと半ば確信しつつも、もしさとりが目を覚まさなかったらと脈絡のない思いが浮かんでは消える。静寂と悪い想像に耐え切れず、震える喉が言葉を紡いだ。
「あんまり心配させないでよ」
 ぎゅっと閉じた目じりに、触れるものがあった。
「……泣かないで、ください。わたしは大丈夫ですから」
「さ、さと……! 起きてたんなら、はやく言いなさいよバカ!」
 パルスィは慌ててさとりの手を振り払って、目元をこすった。
「……あなたのふとももが気持ちいいので、声をかけそびれまして……」
「真っ青な顔でバカ言ってんじゃ――!」
「いっ、いたた。頭に響くので、あまり大声は」
「ごめん……いや自業自得じゃ……」
 釈然としないものも感じたが、それでも安堵は大きかった。また涙腺が緩みそうになっている。
「……いま、お燐が医者をつれてくるからね」
「あらまぁ、大げさ」
「大げさなもんですか。このハンカチもう使えないわ」
 じわりと血の熱を帯びた布切れは、なんたる不幸か、お気に入りのブランド品だった。さとりのためなら惜しくはない。惜しくはないが。
「はぁ。で、なにがあったの? このありさまは」
「これはその」
 問われたさとりは目に見えてまごついた。なんとなくさとりの表情を読めるレベルに達したパルスィでなくともわかるぐらいはっきりと、目を泳がせている。言いにくい事情がある、ということだろう。
 まさかとは思ったが、どうやらそういうことのようだ。
「こいしちゃんと、なにかあった?」
「あの子は悪くありません」
「語るに落ちてるって……」
 焦点も定まらないくせにこいしをかばうのはとてもはやかった。こいしのことを考えていたのだ。確信していると、さとりがじとっとした目でこちらを睨んだ。
「あなた、いつから覚妖怪になったんですか」
「話を逸らさないの。といってもまぁ……お医者が先か」
 どたどたと騒がしい足音がふたり分、聴こえてきている。倒れていたさとりを発見してから五分そこそこといったところを考えると、本当にはやい。さすがはお燐、とパルスィは驚嘆する。
 燐にほとんど宙吊り状態で連れてこられた医療担当ペットは目を白黒させながらも、さとりの出血を見るや職務を思い出し、適切な治療を施していたようだった。





 自室へ戻ってきたわたしは、ぐちゃぐちゃになった頭を持て余したまま、姿見の前に立ち尽くしていた。鏡に映る自分の姿は弱々しく儚げで、今にも消えてしまいそうだと思った。
 そっと、第三の目を両の手のひらに乗せる。特に変わりなく、いつもと同じように閉じたままの状態だった。
 おねえちゃんの無意識を掌握していたのは、わたしにとってそれが必要だったからだ。
 そうしなければきっと、今まで数百年もの間ずっと避けてきた話をしなければならなくなる。その予感は正しかった。
 薄々はわかっていた。とっくに気づいていたことだ。
 でもそれを確認してしまえば、わたしの居場所はほんとうにどこにもなくなってしまう。
(だから……目を瞑ったままでいられたら、それが一番いいんだよ。今は……今はまだ)
 閉ざした目蓋の裏側に、血を流すおねえちゃんの姿が焼きついていても――
 卑怯者のわたしには、他にどうすべきかが、わからない。





 医者に安静を申し付けられたさとりはぶちぶちと文句を言っていたが、病室の警護をしていた燐を呼ぶと、途端にきりっとした態度で強がりを口にした。
「たまには病院で一から十までお世話をされるというのもいいものね」
 医者を含めて誰も突っ込まなかったが、さとりは仕事以外では普段からそんな感じだ。
 大した怪我ではなかったさとりから必要な話を聞き出したパルスィは、再び地霊殿に戻ってきていた。こいしを放っておけない、という見解が全員の間で一致した。さとりの近くには燐がいれば大抵の妖怪は追い払うことができる。ならば、パルスィはその間に必要なことをすべきだ。
 一旦さとりの寝室に寄ってから、こいしの部屋へ向かう。大まかな場所は聞いてきたが、普段は全く近づかない一角にあるため少々自信がない。が、古明地家の母屋は迷うほどの大豪邸というわけでもなかった。
 パルスィはさほど時間もかけずにこいしの部屋を発見した。丸っこい文字で『こいし』と書かれたネームプレートがかかっている。
 部屋の中を通して薄暗い廊下へ、人工太陽の光がわずかに漏れ出していた。
(あれ。開いてる?)
 鍵をかけて立てこもられていたらどうするか考えあぐねていただけに、拍子抜けである。これはこれで、こいしの不在という可能性も出てきた。パルスィは中途半端に開いた扉の隙間からこっそりと中を窺った。
 かわいらしい女の子の部屋そのものという感じの空間の中、ベッドに寄りかかるこいしの姿が見えた。寝ているわけではないようで、たまにもぞもぞと身じろぎをしたり、鼻をすする音が聞こえてくる。
 うかつにもこいしが泣いているところに来てしまったようだ。
(これじゃ、逆に入れないよなあ)
 音を立てないように、長く細くため息をつく。出直そうかとも考えたが。
 パルスィはしかたなく、開きっぱなしの扉に軽く拳を二度打ちつけた。
「……こいしちゃん、いる? 今朝落とした帽子、持ってきたんだけど」
「…………」
 声をかけると、はっきりとした静寂が部屋を満たす。こいしの意識がこちらに向けられたのがわかった。
「えっと。さとり、そんなにひどい怪我じゃなかったよ」
 返事はなかったが、続けることにする。
 こいしに突き飛ばされて怪我を負ったさとりだが、それはそもそもさとり自身が不用意にこいしのトラウマに触れてしまったからだという。だからこいしは悪くない、というのがさとりの主張である。さとりはこの世でたったひとり、こいしの心だけは全く読むことができない。だからこいしに限っては不意を打たれて突き飛ばされもするし、妹の尾をそれと知らず踏みつけてもしまうのだ。
 ……こいしの無意識を操る能力は、さとりに対抗するためのものなのだろうか?
「さとりがね、もしこいしちゃんがそのことを気にしてるんだったら、全然気にしないでいいからって。あー……あいつ退屈してると思うからさ……一緒にお見舞い行かない?」
 猫なで声になり過ぎない程度に優しい話し方を意識する。が、やはり返事はない。
 なにを言ったらいいのか。パルスィは真剣に頭を抱えた。
(自分に置き換えてみるか)
 自分だったら、そっとしておいてほしい。さとりを突き飛ばして怪我をさせて、何時間もしてないうちにさとりの前には出られない、気がする。混乱した顔を見せてお互いに不安になってしまうだけかもしれない。今日は見舞いに引っ張り出すのは諦めて間を置いてやったほうが、こいしの心の整理もつくか。自分の考えをどれだけこいしにあてはめていいかは疑問だが。
「あのね、こいしちゃん」
 しつこく語りかけるのも逆効果だろうから、今日はこれが最後だ。
「こいしちゃんは、もしかしたらさとりのことを信じられなくなってるのかもしれないけど……」
 パルスィにとっては愛しい女だが、こいしにとっては母を殺した姉だ。そんな存在をどう思えるのだろう。結局こいしの身になって考えることなんて、こいし以外の誰にもできないのではないか。それを可能にするのは覚種族の心を読む能力だけだ。
 こいしにはそれも通じないし――当然、パルスィは覚ではない。
(だからつまり……普通にやるしかないじゃない。わたしはわたし。水橋パルスィなんだから)
 どんな状態のどんな相手だからどうする、ではなく。
 自分が自分だから、どうしたいか。答えは明白だ。さとりとこいしには仲のいい姉妹でいてほしい。例え昨日見たものがいつわりの姿であったとしても、パルスィはそう思ったのだ。
 伝えたいことを伝える。言葉はそのためにある。
「……気が向いたらでいいから。一度、さとりとちゃんと話したほうがいいと思うよ」
「水橋さん」
 台詞の終わり際には既に去りかけていたので、パルスィは慌てて立ち止まった。
 こいしのその声は少しかすれてはいるが、直前まで泣いていたとは思えないほど平静なものだった。無意識を操る能力は彼女自身に及ぼす影響もあるという。ならば、今のこいしは話ができる状態のこいしなのだろうか。
「……こいしちゃん。よかった、しゃべってくれないかと思った」
 扉からそっと部屋をのぞきこんでみると、こいしはベッドから降りて、ふかふかとした絨毯の上に立ち尽くしていた。こちらに背を向けて、どんな顔をしているかはわからない。
「入ってこないで。そこで話して」
「あわわ、ごめん」
 後ろに目でもついているのか、部屋に入ろうとしたパルスィはぴしゃりと言われてしまった。
「えとぉ……こいしちゃん、お見舞い」
「水橋さんはおねえちゃんのどんなところが好きなの?」
「んなっ、なな、なに、またその話」
「ここにはおねえちゃんはいないよ。答えられるでしょ」
 声は平静に――だが冗談やごまかしの一切を拒絶するような言い方だった。剥き出しの刃を突きつけられたも同然だが、それを避けることは許されないらしい。
 とはいえその切れ味は、もうパルスィの恐れる類のものではない。いや、実のところ、最初からそうだったのだろう。無意味な遠回りをしてしまったな、と苦みを舌に感じた。
 答えは、するりと口から出てきた。こいしの望むものであればいいが。
「わたしと似てるところ……かな」
「……どこが。全然わかんないよ」
「昔の生き方を後悔してるところ、とか」
「昔?」
「そう、昔の。わたしは橋姫っていう嫉妬を操る妖怪なんだけど……まぁその、ろくでもないことしかできない能力でしょ。地底送りになったのもそのへんが理由で、さ」
 地上時代は自由でいられたころの懐かしい思い出であると同時に、心の奥深くへ隠さざるを得なかった記憶の恥部でもある。子供に楽しく話して聞かせられるようなことは、なにひとつとして存在しなかった。
 手の中のこいしの帽子を弄びながら、パルスィは過去に思いを馳せた。今とあの頃と。大した違いはないのかもしれない。ただ、すねの傷を隠すことだけは、うまくなってしまった。
「わたしたち地上生まれは、みんな若いころアウトロー以外の何者でもなかった。けど、そんなのが身を寄せ合って、こうしてなんとか社会をつくりあげて、あなたたちが生まれて……おとなを演じなきゃいけなくなると、それを認められなくなっちゃったんだ。馬鹿みたいな話でしょ?」
 乾いた笑みを浮かべるが、こいしにはぴんとこない話だったようだ。なんの反応もなく、続きを待っている。秩序とモラルを求めてあがいた時代を、地底生まれの世代は知らないのだ。
「わたしとさとりは、そのことをこっそり打ち明けあったの。ずっと誰かに泣き言を言いたかった。そしたらさとりが、わたしたち似てますねって……」
「負け犬同士で相憐れんで、傷のなめあいってわけ?」
「かっこわるいかな」
「うん……」
「だよね」
 傷のなめあい。ひどくけなされたものだが、確かに他に言いようがない。
「でも、それがわたしたちなんだ。お互いに欠けたものがあって……わたしもあいつもそれと同じものはたぶん持ってないんだけど、別のなにかででもそれを埋められたら……今より幸せ。に、なれるかも」
 照れ隠しに、最後は笑ってしまう。これもまた都合のいい開き直りに違いない。さとりとの間柄は、最初は本当によくわからなかった。ただ弱さやずるさを共有できる相手としては短く、親しい友達としてはさらに短く、想いを伝えあってからは数ヶ月も経っていない。こいしや燐に比べれば、長いつきあいとはとても言えない。
 けれど、それでも。ひょっとしたら、もしかしたらと――思うのだ。
 さとりのことを、自分よりも大切にできるかもしれないと。
 歪んだ自意識のためでなく。
 愛を守るために生きることが、できるかもしれないと。
 すん、と鼻をすする音。微妙な沈黙に波紋を広げるように、こいしがぽつりと言った。
「……おねえちゃ……じゃなくて……水橋さんが」
「ん? わたしが?」
「い、いや……水橋さんとおねえちゃんに、欠けてるもの、って?」
「うーん……なんだと思う?」
「ちゃんと答えてよ、真面目に聞いてるのに」
「わたしも真面目だよ。じゃあ……」
 改めて、考える時間を得られたようだ。
 姉に興味がないわけではない、というのは考慮の材料となる。
 昨日からこいしには同じようなことを問われ続けている。さとりをどうして好きなのか。さとりのどんなところが好きなのか。さとりに欠けているものはなにか。
 それを聞きたいのは、なんのためだ? パルスィのどんな思いを知れば、こいしが納得するのか――
(あ……)
 閃きは、一瞬。
 パルスィは不意に気づいた。
 こいしが知りたいのは、パルスィのことではないのだ。パルスィはずっと自分のことを聞かれているのだと思っていたから、今の今まで思い至らなかった。
 これは確かめておかなければならない。閃きが消え去る前に、パルスィは問う。
「じゃあ、こいしちゃんはさとりのこと、好き?」
「…………」
 返答はなかった。これでは答えにくいかと、聞き方を変えてみる。
「嫌いってわけじゃ、ないよね」
「…………」
 結果は変わらなかった。だが、聞こえていないわけはない。この無言こそが、問いに対してのこいしの反応なのだ。
 こいしの姉に対する感情。きっとそこに、なにかが隠されている。
 パルスィは核心に迫ろうと、さらに踏み込む。
「違うよね。じゃあ……好きになりたい、けど、怖い?」
 その刹那に。
 数歩分の距離があったはずのこいしが突然、目の前に現れた。
(いま、無意識が――)
 わずかな間、完全に掌握されていた。一見して激怒しているとわかるこいしを見て、そうと確信する。
 こいしの手が素早く伸び、パルスィの胸倉を掴んだ。その動きにはわずかに迷いのようなものを感じたが――昨日のお茶会のときとはまた違う怒りに染まった瞳は、思わず後ずさりしてしまいそうなほどに鬼気迫るものだった。
「……ふぅ、ふーっ……はぁっ……」
 深く呼吸を繰り返すこいしは激情を押さえようとしながら、なおも溢れ出す怒りに燃える瞳を滾らせていた。
「あんた……あんたなんかが、わたしとおねえちゃんの……なにがわかるっていうの……?」
 その瞳からぽろりと涙が一滴こぼれたとき、パルスィは自分のミスを悟った。
「わたしの、おねえちゃんだぞ! わたしより知ってるみたいに……言わないでよ!」
 こいしは振り絞るように叫んで――パルスィの手から乱暴に帽子を奪い取り、部屋を飛び出していった。
 とっさに引き止めようと伸ばした手が躊躇い、中途半端に空を切る。自分で泣かせておいて『待って』なんて都合のいい言葉を、言えるはずがなかった。
 着想を得て、焦ってしまったのか。パルスィは壁に背をあずけると、その手を拳に固めて自分の頭に打ちつけた。痛いは痛いが、こいしを泣かせた罰には全く足りない。
 こいしの現状を思えば、自分の気持ちがどうにしても、すぐに止めなければならなかった。こいしの能力はなんの因果か失われた。今朝もパルスィに見られて驚いていたし、燐によれば昨晩も様子がおかしかったという。つまりこいしは、誰にでも認識される普通の妖怪に戻っていて、かつ第三の目は閉ざされたままという状況にある。今のこいしから目を離すべきではないし、できれば屋敷から出さないほうがいいと、さとりは言っていた。
 こいしはさとりの妹。狙われる理由はいくらでもある。
 今すぐ危険が及ぶということも考えにくいが、泣く子供を放っておいていいわけもない。
 パルスィは両の手で頬を叩いて気合を入れると、こいしを追うべく走り出した。





 勢いが良かったのは地霊殿を出るまでで、一度ペースダウンしてしまうと、あとはもうとぼとぼ力なく歩くだけだ。今日は……こんなふうに誰かから逃げ出してばかりだ。おねえちゃんはなんとか避けられているのに、それ以外の要因がわたしの安息を妨げている。能力喪失と、水橋パルスィ。どちらかひとつだけでも解決すれば、もうひとつもなんとかなるはずなのに。だが現実に力はますます弱まっているように思えるし、水橋パルスィも何故かわたしにちょっかいを出してくる。
 ぎゅっと引き締めた口の端が痛いくらいだった。
(地底から、出ていけなくって……うちにも帰れなくて……なんでこんなに、自分のことみじめに思わなくちゃいけないの)
 風に吹かれて目を瞑り、自然と足も止まる。どこにも行けないのに歩いてたってしょうがない。少しでも視線の少ないところを求めて建物と建物の隙間に入り込み、壁に背をあずける。わたしはそのままずるずると腰を下ろした。こんなはしたない姿を見つかれば、少なくともお燐には怒られる。おねえちゃんには……もう怒ってももらえないかもしれないな。自分を皮肉って精一杯笑おうとしたが、できなかった。
 わたしは目元をこすった。冷たく乾いた涙の感触が不快だった。
 水橋から取り返した帽子を深く被り、まぶたに手のひらを押しつけ、視界を闇に閉ざす。
 羞恥心で、この身が引き裂かれてしまいそうだ。水橋の言葉に激高したことと、そしてわたしの心情を昨日今日会ったばかりの水橋に言い当てられたこと。水橋がどこまで察したのかはわたしの知るところではないけれど。
 今まで遠ざけていたものが全て自分に帰ってきている。いつかは起こることだったのかもしれない。そのときのことを考えることさえ後回しにしてきたから、こんな今があるのだろうか。
 わたしは肺の中の空気を残らず吐き出すようなため息をついた。
「消えちゃいたいな。わたしの力なら、それができるはずだったのに」
「あぁらら。見つけたと思ったら、なんかさみしいこと言ってるね、サトリちゃんったら」
「……!?」
 不意の声に、わたしはぱっと顔を上げた。誰もいないことを確認した。なのに、背の高い何者かが、すぐそこに立っていた。人工太陽の逆光を負ったシルエットの輪郭に、赤い髪が見える。そいつが路地に一歩ずつ入るにつれて、少しずつその容貌が明らかになる。くるくると巻いて持ち上げた奇妙な髪型。不気味な黒衣。それに、軽薄な喋り方。
 覚えがあった。
(昼間の……!)
 ぞわりと悪寒が走る。せっかく逃げおおせたのに、また会ってしまうなんて。自分の不運を呪いたくなる。
 女はわたしの顔を覗き込むと、大げさに驚いたような仕草を見せた。
「ていうか、泣いてたの? カワイイ顔がもったいないよ、サトリちゃん。笑って笑って」
 わたしは無言で立ち上がり、女のいない方へ歩き出す。予期しない遭遇に慌てる元気さえ既になかった。
 歩幅の違いか、女はすぐにわたしの前に回り込んできた。左右のどちらにも逃れられないように、両手を広げている。威嚇のようにも思えた。わたしはやむなく足を止めた。
「無視はひどいんじゃない? わたしと目も合わせられないくせにさ」
「……どいて、ください……」
「はぁ?」
「どいて……なんなんですか、あなたは……」
 精一杯声を張っているつもりだが、蚊の鳴くような声にしかならなかった。そのくせ、鼓動は走っているときみたいに暴れ始めている。なんの助力もなしに知らない誰かと話すのは、こんなに緊張することだったのか。鼻の奥にツンとくる何かを感じながらと荒れそうになる呼吸を整えていると、女は焦れたようにため息をついた。
「もっと大きな声で喋んなよ、サトリちゃん」
「さ、さっきから――」
「ん?」
 耳に手を当てて、馬鹿にするように体を傾ける女。いい加減むかむかきていたわたしは、大きく息を吸った。肺の中身を残らずぶちまける、そんなイメージで。
「さっきから、なんなんですか! おねえちゃんと勘違いしてるんですか……!」
 思った以上の大きな声になったことは、女の呆気にとられた顔でわかった。水橋に対してよりもずっとましに怒鳴ってやれたと思う。暗い満足感が胸を満たすが、女のぽかんと大口をあけた間抜けな顔が――じわりと笑みの形に崩れていく。その変化はわたしを凍りつかせるのには十分なほど不吉さを孕んでいた。
 わたしは、なにを言ってしまったのだろう。
「……ねえ。お嬢ちゃんのおねえちゃんってさぁ……古明地さとり?」
「えっ……?」
「昼間から。ずっと。後をつけてたよ。サトリ妖怪なのは、見ればわかった。じゃあやっぱ、古明地の家となんか関係あるのかなと、思ってね」
 わたしは、はっとして服の裾から伸びている第三の目を背中に隠した。今からではなんの意味もない――ただ女の笑みを大きくさせただけだ。
(そういえば……最初こいつ、見つけたって……?)
 混乱の中、わたしは地面が揺れるような感覚を味わっていた。昼間から尾行……? 嘘だ。あんなに周囲を警戒しながら帰ってきたのに、そんなことできるわけがない……けれど、今のわたしに断言できることなんて、毛ほどもない……
 まさしくご機嫌といった様子で、女は独り言のように語り続けている。
「地霊殿に入ってったから、まぁその時点で半ば確信してたんだけどね。やっぱりそうなんだ」
 わたしがどうとも答えていないのに、女は勝手に得心してしまっている。
 昔――気が遠くなるほどの昔。お母さんに言われた覚えがあった。ひとりで出かけてはいけない。家の外には悪い妖怪がいっぱいいて、みんなが可愛いこいしを狙っているから。どうしてこんなことを今になって思い出すのか。
 目の前の悪い妖怪はついに満面の笑顔となって、わたしを見下ろしていた。
「いつまでもお嬢ちゃんじゃあ呼びにくいからさ、名前を教えてくれる? 古明地、なにちゃんかな?」
「わ、わ、わたしに、なにをするつもりなの?」
 自分でも笑ってしまいそうなくらいに声が震えていた。
「……大体予想はついてるでしょ……んふふ。わたしもね、お嬢ちゃんを見つけるまでは、どん詰まりだったんだ。簀巻きにされて地底湖に沈められるくらいは覚悟してた……けど、お嬢ちゃんがわたしにちょっと協力してくれれば」
「い、いやだっ」
 反射的に、力なく首を振る。その瞬間、わたしは頬を打たれ、バランスを崩して倒れてしまう。わたしはなにが起こったかわからず目を白黒させ、女は相変わらずにこにこしている。
 頬の強烈な痛みを抱えたまま呆然としていると、女に襟を掴まれて無理やり立たされ――再度、頬を打たれる。どうでもいいことだが、先ほどと反対側だ。鼻が詰まったような感覚を覚えたときには、再び倒されていた。
 熱いなにかが鼻から垂れてくる。それは唇に触れて鉄の味を舌に残した。血だ。
 悲鳴をあげる間もなく、今度は脇腹に女のつま先が突き入れられる。いちいち立たせるのが面倒になったのか、その後は二度三度と踏みつけられ、わたしは亀のように体を丸めて耐えるしかなかった。
 恐ろしいのは、女がやはり笑顔のままだったということだ。
(どうしてこんなことをして……そんなふうに笑っていられるの……)
 猛烈な嘔気をどうにか胃に押し込めていると、涙が滲んでぼやけた視界の中、女が地面からなにかを拾い上げた。黒い帽子。わたしの帽子だった。いつの間にか落としてしまっていたらしい。
「かわいいお帽子だねぇ。で、協力してくれる気になった?」
 女は帽子から軽く埃を払うと、あろうことか、それを自分の頭に乗せてしまった。上背のあるあの女のてっぺんに置かれては、わたしがどれだけ背伸びをしたところで届かないだろう。だが。
「……っ……」
「ん? だーから、もっと大きい声で」
「かえして……かえせ!」
 わたしは低い姿勢から、思い切り女に体当たりを食らわせた。それでも女は多少揺らいだ程度だったが、少なくとも面食らったようではあった。
「なに? 急に元気になっちゃって」
「うるさい……かえしてよ、この!」
 女にすがりついたまま、しゃにむに腕を振るう。偶然でもなんでも、女の頭を一撃できれば帽子が落ちる可能性もある。その一心で突き出した腕を掴まれ、逆手にねじり上げられた。今度こそ、わたしは悲鳴をあげた。ぎりぎりと念入りにねじられ追い詰められて、路地裏の壁に強く押し付けられる。
「やれやれ。まだまだお願いしなきゃいけないみたいだねぇ」
「うっ……ぐううぅぅっ……」
「乱暴にするのも好きだけどさぁ、お嬢ちゃんみたいな綺麗な子は、最初くらいは綺麗なまま楽しみたいんだよね。だから、おとなしくして欲しいな」
 おぞましい言葉だった。意味はよくわからないが、優しさのようなものの根っこに邪悪さが透けて見えていて、それを隠そうともしていない。というよりも、その悪意をわたしに悟らせたいのかもしれない。拘束されていなければ、唾でも吐いてやりたいところだった。淑女としてはあるまじきことだが。
 だが、わたしがいくら暴れても女はびくともしない。激痛に喘ぎながらでは、悲鳴もあげられない。
(たすけて……誰か。お燐。おねえちゃん……!)
 心で念じたところで、それは誰にも聞こえない。
 おねえちゃんですら、それを知ってくれはしない……
 嗜虐心に満たされた楽しそうな声が、どうしようもなく耳障りだった。
「はいそれじゃあ最初からいくよー。あなたのお名前は?」
「ひとに名前を尋ねるときは」
 女を遮るように、第三者の声が。
 聞こえるがはやいか、関節の軋む激痛に泣き声をあげるわたしの目蓋の裏に、緑色の光が瞬いた。その瞬間に拘束が緩み、わたしは地面にくずおれる。ねじられた腕をかばいながら顔を上げると、我が目を疑った。
 くすんだ金髪に、きれいな――緑色の瞳。
 どこかしおれた雰囲気の。
 水橋、パルスィ。
「まずは自分からでしょ。礼儀知らずのクソガキ……!」
 初めて見るような険しい顔で、水橋は土煙の中に倒れた女を睨んでいた。どうやら弾幕を使ったようで、水橋の傍らにはまだいくらか緑色の光弾が準備されている。それらは水橋が手を振るとまるで手品のようにかき消えた。
「ふう。っと……こいしちゃん!」
 水橋は胸に手を置いてほっと一息つくと、こちらへ駆け寄ってきてわたしをぎゅっと抱きしめてきた。突然の温もり。散々蹴り転がされたところを締めつけられて痛みがぶり返しもしたが、わたしはむしろ水橋の慣れない感触の方に戸惑う。
「こいしちゃん!」
「わっわっ、ちょ、なん」
「大丈夫? ああ……怪我してる! 痛いよね? もう大丈夫だからね。うまくいってよかった。大したもんでしょ、わたしも」
「水橋さん――」
「よくこいしちゃんだけ避けて撃てたなぁっと――あ、ちょっと焦げて……か、かすったかな?」
「水橋さん、後ろ!」
 叫んでも間に合いそうにない。そう思ったわたしは、得意げな顔の水橋を逆に抱きしめて引き倒した。あの女と違ってとてもあっさりと倒れてくれたが、おかげで女が投げてきたゴミ箱(?)を回避することができた。
 女は首や肩を回して体の調子を確かめている。水橋の弾幕がどの程度当たったかわたしは見ていなかったけど、傍目にはそれほどダメージがあるようには見えなかった。水橋自身も『マジかよ』みたいな顔になっていた。
「お姉さんみたいな年増も実は好きなわたしだけどさ」
 弾幕の痛痒を感じさせない、平坦な口調で女が言う。
「先に貶されたのはわたしだし、敢えて言わせてもらうね。引っ込んでろよババァ」
「まだ痛い目に遭いたいの? さっさと帰るべきよ、あなた」
 水橋がわざとらしく拳を組み、指の関節をバキバキと鳴らす。仕草は頼もしいが、妖怪としてのわたしの肌感覚からして――水橋は残念ながら女に勝るような妖怪ではないように感じる。弾幕を通してその力の一端をもう知っている女も同様なのか、威嚇にまったく怯むことなく、鼻を鳴らした。
「虚勢を張らなきゃいけないおばさんはかわいそうだねぇ。とはいえ……駐山地底大使の水橋パルスィが出てくるなんて、その子はやっぱり古明地の家の子というわけ?」
「……答える必要ある?」
 水橋は、わたしをかばうように前に出た。
「あなたこそ、所属してた組織が潰されたって今朝の新聞で見たばかりだけどね――バウンサーの朽桁(くちげた)アリア」
「わたしを知ってるの?」
「そんな馬鹿みたいに目立つ格好をしてる犯罪者、他にいないわ」
「あらそう……まー別に組織に忠誠とかは、ないんですよ。仮にあったとして、星熊童子と戦えなんて言われりゃ、逃げるしかないでしょ」
 女――朽桁アリアはふっと肩をすくめた。
 アリアの言う星熊童子とは、地底最強の戦士の名前だ。おねえちゃんの古い知り合いで、わたしも会ったことがある。そんな存在と張り合えるほどの能力は持たないようだが、今のわたしや水橋にとっては、大してプラスになるような情報でもなかった。
「もっとも、そのせいで警衛兵たちだけでなくシンジケートのお歴々からも狙われてるのは確か。だから、わたしの代わりにその子の身柄を渡してお目こぼしを願うつもり」
「んなこと聞かされて黙ってると思ってるの?」
「これでもう無視できないでしょ? あんたもだよ、水橋パルスィ。あんたも交渉材料。自由になれたら地上にでも高飛びして、また適当に用心棒しながらたまーにあんたたちのことを思い出してあげるよ」
 ゆっくりとした足取りで、アリアがこちらへ向かってくる。急ぐ必要はない、と自信に満ちたその表情が語っていた。
「こいしちゃん、隠れてなさい」
「た、戦う気なの?」
「こんな若造、半ひねりよ」
 水橋は強気になにかの構えをとった。弾幕を扱うのに必要なポーズというのは、妖怪によってあったりなかったりするのだが、水橋の場合はなんとなくノリだけでやっているものと思われた。
 わたしは足をひきずるように、言われたとおり物陰に隠れる。たった数メートルを這うように移動しただけで体のあちこちが悲鳴をあげていた。もう逃げるのは難しい。
 水橋が、アリアを倒してくれなければ――この急場を切り抜けることはできないのだ。
 不安でもなんでもやってもらうしかない。
「あの帽子を」
「…………!?」
 ドキリと、心臓が跳ねた。水橋はわたしを背にしたまま、決然と言い放つ。
「ちゃんと取り返してきてあげるからね」
 同時に、水橋の右手に赤の、左手に青の炎が激しい音とともに現れた。さっきは緑だったのに意外とカラフルな弾幕を使うんだ、などと最初は間抜けなことを考えたが、すぐにその力の密度が全く違うことにも気づく。間に合わせや牽制で放つものでは到底実現しえない規模の弾幕を予感させていた。対峙するアリアのみならず、傍観するわたしさえも圧倒するかのような――
 即ちそれは、戦うために名づけられた弾の群れ。
 想いと力の具象、スペルカード!
「恨み念法『積怨返し』――」
 宣言とともに、赤と青、二色の炎弾が互い違いの放射状に広がり、次々に着弾する。狙いは不正確だが、威力はなかなかのものだ。一瞬で周囲から水分が飛ばされ、空気が干上がってしまったほどだ。わたしは喉の渇きを自覚し、唾液をぐっと飲み下す。石造りの建物が多いから引火の心配は低いのかもしれないが、戦いが長引けばどうなるかわからない。
 そんな弾幕の標的となったアリアは――飛び交う炎弾を避けたり弾いたりしながらも、そのゆったりとした歩みをまるで変じさせていなかった。
「やれやれ、弾幕使いか。さすがは地霊殿の偉いさんだ」
「知ってたのは名前だけってわけ?」
「リサーチ不足は認めるよ。ただまぁ――」
 炎の嵐の中、アリアがついに水橋の目の前に迫る。このまま弾幕を撃ち続けるのは得策ではない。というより、あの距離では弾幕を捨てての接近戦は避けられないだろう。拳足の間合いで、ふたりが対峙する。
「こうやって近づ……うっ?!」
 アリアの手が素早く閃き、水橋の顔面を狙い――慌てて引っ込めた。水橋が両の手に炎を灯したまま、攻撃を受けようとしたからだ。掴まれてしまえば片手が潰されるのは必定だ。おそらくしてやったりの水橋は、その隙をついて炎弾を再び大量に撒き散らして、アリアに後退を強制させた。たったの一歩で体勢は立て直されたようだが、さらにその隙が、水橋にとっては十分なチャンスだった。
 次に生み出された火球は、それまでよりも二回りほど大きなもの。
 水橋は赤と青のマーブル模様を描いて燃え盛るそれに拳を叩き込み、まっすぐに弾き飛ばした。
 火球が炸裂し、その場で炎と熱風が渦を巻く。炎の中心にいるはずのアリアはよく見えないが、これを食らえば無事ではいられまい。
(凄い……! 至近距離でも弾幕を捨てずに……変化させたっ)
 わたしは驚きとともに水橋の評価を改めていた。なかなか見られる発想ではない。弾幕に適さない距離で、飽くまでも弾幕を生かす。そういう類のものだろう。少なくともわたしは、無意識にさえそんなことをしたことがない。
 普段は力を抑えていたのか、それともわたしの洞察力があてにならないものであったのか。今はどうにも後者に思えてならないが、とにかく水橋はわたしが見た以上の能力を持っているようだった。一般的に妖怪は歳を重ねるほどに力を増していくものだが、それは普段から力を維持するような訓練や瞑想といったものをこなしているのが前提となってくる。
 燐から聞いた話では水橋パルスィは役職通り文官に過ぎず、戦闘訓練をしているところは見たことがないらしい。となればこれは、地底追放紛争や開拓黎明期を乗り越えてきた妖怪の地力ということになる。
 ああも暗殺者然とした妖怪と――互角以上に戦うほどの。
「よっし! おととい来やがれってなものよ」
 水橋はわたしの方へ勢いよく振り返り、ぐっと拳を握ってガッツポーズを見せた。炎が燃え尽き、アリアが被弾直前までいたところはアスファルトの舗装がすっかり剥がされて、焦げた地肌をさらけ出していた。
 わたしも素直に賞賛せざるをえない。
「み、水橋さん、すごい!」
「わたしが本気を出せばこーんなもんよ!」
 物陰から這い出て、水橋に駆け寄る。お互いに窮地を脱して興奮してしまっているのか、さっきまで喧嘩していたことも忘れて意味もわからずばしばしと二の腕を叩き合う。水橋の少しねじくれた笑顔が、なんとなく、水橋らしいのだろうと思った。
「どう? 大したもんでしょ、今度こそ」
「うん……! わたし水橋さんのこと、もっと弱っちい妖怪だと思ってた」
「もうちょっとオブラートに」
「まさか跡形もなく消し飛ばしちゃうなんて」
「これが嫉妬の炎の力ってこと……ん? え、跡形もなく?」
「だって、なんにもないけど」
 指をさした先は、焦土と化した着弾地点。焼け焦げた死体や、得体の知れない肉片みたいなものはない。別に見たいわけでもないから、なくていいんだけど。
 水橋はその『なんにもない』を見た途端、頭を抱えて叫んだ。
「しまった。こいしちゃんの帽子!」
「あ」
 そうだ。わたしは帽子をとられたから、危険も承知の上でアリアに突っかからざるをえなかったのだ。
「ご、ごめん! ごめんなさい! わ、わたし、なんとかしようと夢中で!」
 あれは、大切なもの。かけがえのないものだ。戦う前は水橋もそのことをなんとなく察していたようだけど、一瞬の交錯の中ではすっかりと抜け落ちてしまっていたらしい。あれだけ火の玉を景気よく飛ばしていたのだから、戦いが違う結末を迎えていたとしても帽子は焼けてしまうような気もする。
 なんにしても、今はそんなことを気にする余裕はなかった。後で怒るかもしれないけれど、助けられたばかりで癇癪を起こすのはかっこ悪い。
「……水橋さん、今はいいよ。助かっただけで、全然……」
「で、でもわたし――」
「お帽子の心配なら、必要ないよ」
 平謝りする水橋がぐるんと白目を剥いたのと――
 燃え尽きたはずのアリアの声がしたのは、同時だった。力を失って倒れる水橋の影から、黒ずくめのアリアが入れ替わるように立ち上がった。
 そして、あの嗜虐の笑みをべったりと顔面に貼り付けたまま、自分の頭を指差す。
「ちゃあんと。ここに。ありますからぁ」
「そんな……!」
 わたしの帽子が健在どころか、その髪も服も焦げてすらいなかった。
 水橋は、アリアを二度も出し抜くことができた。
 なのに――まるで通じていなかったなんて。
 わたしは地に伏せた水橋を揺さぶった。
「水橋さん……水橋さん!」
「意外とやるんだね、大使さんのくせに。器用で驚いたよ。驚いただけだけど」
 悠然と言って、アリアは倒れたままの水橋を蹴り転がし、仰向けにひっくり返す。そして、うめき声もあげないその様子を見て、鼻で笑った。
「んふふ。しっかり気絶してるね。じゃあ次は、えー……こいしちゃんだったね。そう呼ばれてたよね? こいしちゃんの番だよ」
 わたしの目の前が、すっと暗くなった。人工太陽の光からわたしを隠すように、アリアが立ちはだかっていた。
 この後。きっと意識を失って、どこかへ連れ去られて。想像できるのはそこまでだった。
 そこから先は、どうなるのかわからない。遠くから喧騒が聞こえてくる。誰かが騒ぎを聞きつけて、警衛兵に通報をしたのかもしれなかった。だがそれもおそらく、間に合わない。
 過ぎていく一秒一秒がとても長く感じられる中、わたしはなにもできないままただ呼吸を乱していて――やがて、首に打撃を受けて、意識を失った。















 不快感が、鼻をくすぐっていた。腐りゆく甘い果実のような臭気を嗅いで水橋パルスィが思い出すのは、かつて住んでいた貧しい村のあばら家だ。思い出したくもない地上時代のこと。どこかで拾ったか奪ったかした食べものがいつの間にか傷んでしまって、それでもひとまずは口に入れていた。舌に感じたあの酸味と痺れを今でもやすやすと思い出せるのは、それらが生涯で最も慣れ親しんだものであったからだ。
 パルスィは嘔吐した。かつて生きるために尊厳を捨てたこと。強者に媚びへつらい、弱者を踏みにじった。屍肉を食らい汚穢をすすってでも生にしがみついた。だからこそ今まで生きてこられたのだが――疲弊した心は今もなお潰されそうになって叫んでいる。どうかしていた、あれは自分ではない、なかったことにしてくれと、泣き喚いている。
(……なんで、こんなことを思い出してる?)
 胃酸混じりの唾液を吐き捨て、口の端を拭おうとしたパルスィは、思うように動けないことに気づいた。体をよじるたびになにかが食い込んでくる。
 縛られて――いる。薄闇の中、自分に巻きついている蛇のような縄が見えた。かなりきつく締め上げられていて、どうやらこれのおかげで夢見が悪かったのだろう。状況がわかれば、いつものことだった。さすがに嘔吐は珍しいことだが。
 さとりに会いたい。パルスィは大きく長くため息をついた。すぐには叶いそうにない。
「……そうか。わたし、朽桁アリアにやられて……捕まったんだな」
 どれくらい意識を失っていたかはわからないが、その直前のことを思い出した。倒したはずのアリアの声がしたと思った瞬間、後ろから殴られて……それでこの様というわけか。
(油断というか、本職には適わないというか……くそ、言い訳にもならない)
 朽桁アリア。シンジケートの用心棒、凄腕の殺し屋で、シザー・レストとも呼ばれている。いつでも取り出すことの出来る、便利な鋏。殺されなかっただけマシなのだろうか。それは微妙なところだ――地上外交の要職にある自分が交渉材料にされれば、影響は自分の命のみに留まらない。
(でも今は……そんなことよりも……)
 パルスィは目をこらしてあちこちへ視線を向ける。ここがどこかを確認したいのだが、首を動かすのさえ億劫になるほどの頭痛を抱えながらでは、それが限界だった。
 十畳ほどの部屋の中、のようだ。パルスィはその四隅のひとつに、縛られたまま横たえられている。窓はなく、部屋の中央には燭台に置かれた蝋燭の頼りない火が揺らめいていて、さらにその向こう――パルスィの対角線上に、小柄な何者かが、ロッキングチェアーに座らされている。薄暗くて顔を伏せてはいるが、この状況で見間違えるわけもない。
「こいしちゃん……!」
 呼びかける。答えはない。眠っているのか、それとも……? パルスィは奥歯を痛いほど噛み締め、なんとか動こうとするが、四肢が虚脱してまるで動くことが出来ない。ただ意識を飛ばされた程度でこうなるとはとても思えなかった。
 パルスィが体調の急激な変化を訝しく感じ始めたとき、不意に部屋の扉が開かれた。
「うわっなにこのにおい……あぁ……吐いたの。勘弁してよー」
 鼻を覆いながら、アリアが部屋に入ってくる。パルスィが倒れているあたりの惨状を見て、辟易とため息をついていた。
「そろそろ起きるかなぁと思ってきたらこれかぁ。ちょっと嗅がせすぎたかな」
「……嗅がせただと? いったい、なにを」
「ん? そりゃ、これですよ」
 アリアはこともなげに煙草を吸う真似をしてみせる。
 そんな仕草をされれば思いつくものもあった。
「ハシーシャン――アサッシンか……反吐が出るわ」
「大使さんにはバッドがきつかったみたいだね。ほんとに出してるし」
 ククク、と服薬暗殺者は喉を鳴らして笑った。
「お互い知ってたのは名前だけか。なんか面白い」
「ふん。考えてみれば、当たり前ってわけね。シンジケートの一員なら……」
「売り物に手をつけるのはわたしくらいだけどね……!」
 心底どうでもよかった。
 嫌悪に顔を歪めるパルスィに対して、アリアは薬の効用か、路地裏で戦ったときよりも機嫌がいいようだった。
「でもさ、弾幕使いを封じるにはいい手段でしょ。縛ろうが腕へし折ろうが、弾幕をつくるにはそんなに関係ないもんね。でも今の大使さんみたいに、葉っぱでへべれけにされてたら、どう? どうどう? ぷっ、あーははははは!」
 病的な哄笑が、部屋の中を反響する。頭痛がひどくなるような笑い声だ。パルスィはアリアをにらみ殺さんとばかりににらみつけるが、アリア自身はこちらを見てもいなかった。
「弾幕は強ーい精神力が生み出す超能力や魔術の一種で、さらに空間をデザインするセンスが必要不可欠なんだよね! わたしはどっちもないけど、つまり、心が強い奴が強いんだ! でも! 精神は肉体の影響を受ける! 必ずね! 心と体は別個のものじゃあなくて、ひと繋がりのメビウス! だーから今の大使さんはなんにもできない木偶ちゃんなの!」
「近所迷惑だから、叫ぶのをやめたらどう?」
 妄言を無視してなんとか口を挟むと、アリアはぴたりと笑うのを止めた。一転して酷薄な真顔になって、ゆったりした喋り方を取り戻す。
「ここね。わたしがなんも仕事してないときにヒモやってる子の部屋なの」
「あっそう。それで?」
「音楽やってる子でね。この部屋は完全防音」
「そりゃいいとこに泊めてもらっちゃって、申し訳ないな。あいさつさせてよ」
「かわいい子だよ。今は実家に帰ってるけど。写真見る?」
「やっぱり興味ないわ」
「残念」
 アリアは垣間見せた奇妙な情熱はどこへやら、平坦な調子で肩をすくめると、一旦部屋を出てまたすぐに戻ってきた。バケツとモップを抱えている。
「……? なにしてんのあんた」
「こういうのは掃除しとかないと怒られるんでねぇ……」
 淡々と言って、おぼつかない手つきでモップを動かすその姿には、呆れるほどに普通の生活感を漂わせていた。パルスィにはそれもまた反吐の出るような光景に思えて、自分でもよくわからない苛つきが胸に押し寄せる。が、自分の吐瀉物を見ずに済むならと黙ってその様子を見守るだけにした。
「これでよし。えーと、こいしちゃんはっと。よく効いてる……のか、当たりどころが悪かったのか……」
 掃除を終えたアリアはパルスィから離れ、こいしの様子を見てから、また部屋を出て行った。
 パルスィはため息をついた。気分が悪い――大麻を吸わされたことよりも、狂気に嘲笑われたことよりも、同居相手を気遣う茶番じみた行為が、ただただ気持ち悪かった。
 アリアはパルスィとこいしを手土産としてシンジケートに敵前逃亡の許しを乞い、あとは地上へ逃げると言っていた。つまり、ここには戻ってこないつもりのはず。だったら部屋が汚物にまみれていようが死体が転がっていようが構わないではないか。
 床は片付いたが、口の中に残る酸っぱい臭いに再び嘔気を催していると、またしてもアリアが部屋に現れた。本当に足音もなにも聞こえない。防音は確かなようだ。
 アリアはまたバケツと、今度は水差しを抱えていた。
「忙しないわね。用事はいっぺんに済ませなさいよ」
「いやぁ、そのままじゃ気持ち悪いと思って」
「ああ?」
「吐いたのあんたでしょ。うがいくらいしなよ」
 アリアはそう言うとパルスィの上体を起こして、水が飲めるような体勢をとらせた。
(ほんとになんなんだこいつは……)
 差し出された水差しから、冷たい水が注がれる。ついつい言われた通りにしてしまい、口をゆすいだ水を傍らに置かれたバケツに吐き捨てた。アリアは煙草に火をつけて、こちらをなんの気もなさそうに見ている。
「はぁ……あんたさぁ、いったいなんのつも――ふぐっ!?」
 突如、視界いっぱいにアリアの顔が広がった。柔らかく、不快な感触――くちづけをされている。そう思ったのも束の間、鼻をふさがれ、舌に唇を割られて、熱いなにかを口の中に流し込まれる。その塊のような気流は肺まで到達し、思わず咳き込もうとするのだが、アリアにしつこく口を塞がれて、どうすることもできない。
 二度、三度と同じことを繰り返され、パルスィはまっとうな空気をもとめて喘いだ。
「――っは、あ、んぁ……!」
「――――」
「ん、あぁ……い、やっ!」
 振り乱した頭が、アリアの顎を捉える。がつんとした衝撃が返ってきて、パルスィは再び倒れてしまった。激しく咳と呼吸を繰り返し、混乱した頭を整えようとする。命ばかりか貞操の危機もあるということは、失念していた。
「情熱的だね」
 アリアは特に痛痒を感じさせずに、ただ舌なめずりをして見せた。真っ赤な舌がパルスィの唾液に濡れて、蝋燭の光をやわらかく反射させていた。
「……ぐ……! これ、また……!?」
 目覚めたときよりももっとひどい異質な感覚が、体に生まれていた。肺から体へ、そして脳へと、熱とともに何かが広がっていく。受け入れがたい高揚と、それと同じだけの嫌悪感。動悸は激しくなり、焦点が定まらず、視界が揺れている。のみならず、倒れているのに床も揺れている気がする。平衡感覚がおかしい――耳鳴りがする。まるで全身が、得体の知れないなにかに犯されているかのようだ。
 つまりは、これは別にパルスィの貞操が狙われていたわけではなく――
「そう、こんな感じだ」
 アリアの声に、また静かに狂気と熱が宿りかけていた。
「弾幕使いを封じるには、やはりこれがいい」
「くた……ばれ……クソアマ……」
 息も絶え絶えに搾り出された言葉は無視され、アリアはパルスィに背を向けた。脇に抱えていた帽子――こいしのものだ――を頭に乗せて、パルスィを一瞥さえもせずに部屋を出て行く。
 パルスィは怒りと不甲斐なさから衝動的に弾幕を放とうとした。が、まぶたの裏に激しい光が瞬くほどの痛みが脳髄に走り、やがて失神した。
 しんと静まり返った暗闇の中。
 蝋燭の炎だけが、静かに揺らめいている。















「お母さんっ! おねえちゃーんっ!」
 わたしが大声を上げると、一緒に毛布の中で寝こけていたお燐とお空が面白いくらいにびっくりして飛び上がった。ふたりとも普段だったら向こう三日はこれをネタにするくらいの傑作な間抜け顔だったが、今のわたしにはどうでもよかった――玄関から遠目に見える通用門が開き、お母さんとおねえちゃんが現れたからだ。
 今日はわたしの誕生日だ。一秒でもはやくみんなとパーティーをしたかったから、お燐とお空が止めるのも聞かずに、外で待っていた。気を利かせたお燐が毛布を持ってこなければ早々に風邪を引いて熱を出していただろうけど。
 びっくりしたのはお母さんとおねえちゃんも同じのようだ。最近になってお母さんの仕事を手伝うようになったおねえちゃんはともかく、鉄面皮のお母さんが目をまん丸にしてわたしを見ている。その珍しさが、またわたしを無性に嬉しくさせた。
 力の限り飛びついたわたしを、お母さんとおねえちゃんはしっかり受け止めてくれた。
「……あなたは。まったく、いつになったらお淑やかにしてくれるのかしら」
 口調だけは叱るように、お母さんが言う。
「お母様の言う通りです。わたしのベッドに火のついた爆竹を投げ入れる遊びからは卒業してくれたのでしょうね」
 お母さんの喋り方を真似し始めたおねえちゃんは、こうやっておとなぶったことをよく言いたがるようにもなった。わたしが口を尖らせて反論しかけると、それよりも早くお母さん自身がぼそっと(でも、聞こえるように)言った。
「誰がこいしにそれを教えたのか覚えていないようですね」
「わたしとさとり様でーす」
「お空っ、お、お母様っ」
 顔を真っ赤にしておねえちゃんがうろたえると、みんなが笑った。
「さあさあ、そろそろパーティー始めましょうよ。お館様、あたい準備してきます」
「お願いね、お燐。頼りになるのはあなただけです」
「へへー」
「お母様ぁ~……」
「甘ったれた声を出さない! お燐を手伝ってきなさい」
「は、はいっ」
 お母さんにお尻を叩かれたおねえちゃんは、慌てすぎて何度も躓きながらお燐を追いかけていく。やれやれなんてため息をつきながら、その目は優しい。おねえちゃんへの厳しさは期待の裏返しなんだと思う。わたしは厳しくされるのはやだなって思うけど、ちょっとだけ羨ましいような気もする。
 わたしも、お母さんに叱られながらお仕事についてまわるような日が来るのだろうか?
「お館様、お荷物お持ちしますね」
「ええ、よろしく……あ、いえやはり今日は……」
「どうしたんです? 遠慮なさらずっ!」
 わたしが少し先のことを考えていると、お空がお母さんから鞄を奪い取っているところだった。お空はいい子なんだけど妙に強引なときがあって、お母さんすら手を焼いているペットである。孤児院の中で随一の才能を持っていなければとっくに放逐している、と普段から冗談めかして言われているくらいだ。
 それはさておき――鞄をとられてバランスを崩したお母さんは、逆の手に隠すように持っていた紙箱を取り落とした。カラフルなラッピングと綺麗なリボンで彩られたその正体に気づいたわたしは、地面に転がった紙箱に飛びついた。
「お母さん、これ! プレゼントでしょ!? ねえ、開けていい!?」
 額に手を当て天を仰ぐお母さんに、構わず抱きつく。お母さんはしばらく腕を組んで眉間に皺を寄せていたが、そのうち諦めたのか、ため息をついた。
「段取りもなにもあったものじゃないですね……まぁその……なんです……」
 途中まで言いかけて、お母さんがくちごもる。視線をさまよわせ、落ち着かない感じだ。不思議そうにその様子を見ていたお空が『閃いた!』みたいな顔をして、お母さんをつついた。
「お館様、照れずに言っちゃいましょうよ……痛ッ。え? なんでたたくんですか」
 お空のこういうところは本当に凄いと思う。見習いたくはないけど。ささやかなサプライズを破壊されたお母さんは、お空のお尻も叩いてパーティーの準備へと追い払った。
 ふたりきりになると、お母さんはわたしの髪を手櫛でとかした。毛布に包まっている間に癖がついて、跳ねてしまっていたようだ。そのままぽんぽんと頭を撫でられ、わたしはそれが妙にくすぐったくて、目を細めて笑った。
「こいし、誕生日おめでとう。あなたが今日まで大過なく育ってくれたことを嬉しく思います……プレゼント、開けていいですよ。さとりとわたしから、お祝いのしるしです」
「お母さん……ありがとう。大好き!」
 わたしはもう一度お母さんをぎゅっと抱きしめてから、箱にかかったリボンを解き始める。お母さんが微笑みながらわたしを見守っていた。
「ものを選んだのはさとりなのだけど……どうも飾り気のない箱に入れてきて……間に合わせで悪いけど、わたしが包みました」
「え!? 破いちゃったよ!」
「いいですよ、気にしなくて」
 せめてということで破れたラッピング紙をできるだけきれいに畳んだ。
 そして、いよいよ箱の蓋に手をかける。箱は軽い。いったいおねえちゃんはなにを選んでくれたんだろう。内心ドキドキしながら、わたしは蓋をそっと開けた。
 サラサラの手触りが心地よい、漆黒のベルベット。立体的な丸みを帯びた楕円形から広がるつばは、お洒落におとなびたラインを描いている。一見地味にも映るけど、わたしの好みど真ん中の、帽子だ。
 大興奮のわたしは鼻から息を吹き出しながら、ぴょんぴょん飛び跳ねてしまう。
「か……っこいい!」
「背伸びした感じですが、あなたによく似合っていると思いますよ」
「うん……うん! お母さんありがとう! おねーちゃーん!」
 ラッピング紙とリボンと帽子をいっしょくたに抱えたまま、わたしはお屋敷の中へ駆け込んでいく。背後ではお母さんがやれやれと呆れ混じりのため息をついていたけれど――おねえちゃんにもありがとうを言わないといけない。
 おねえちゃんはお燐に指示されてテーブルを拭いているところだった。おねえちゃんは家事ができないため、キッチンで手伝えることがない。わたしもだけど。しょぼくれていたおねえちゃんは、わたしが息を切らせて走ってくるのを見て、ふっと微笑んだ。
「もう開けてしまったの? 気に入った?」
「すっごく! おねえちゃんが選んでくれたんだよね。ありがとう!」
「よかった。誕生日おめでとう、こいし……ねえ、かぶってみせてよ」
「うんっ!」
 おねえちゃんにラッピング紙とリボンを預けて、わたしはおねえちゃんから一歩離れた。
 帽子を頭にのせて、その場でくるりとターンする。ひるがえったスカートを押さえるようにポーズをつけて静止すると、おねえちゃんは『ふーむ』とうなって腕組みをした。わたしの周囲をぐるぐると回り、しゃがんだり背伸びしたりして、様々な角度から検分を始める。
「ちょっとまとまりすぎてるなぁ」
「えーっ、変なの? 鏡を持ってきてよ!」
「いや変じゃないんだけど……おっ、閃いた」
 おねえちゃんの頭に電球が輝いた(ような気がした)。その手がすっと伸び、つばに隠れて見えない頭の上で、なにやらゴソゴソと簡単な作業が行なわれる。そしてわたしの声が聞こえていたらしく、これどうぞ、とお空がキャスター付き姿見を押してきた。お空はどこでなにをしていたのだろう……? 一瞬だけ気になったが、わたしはそんな些事よりも鏡に映った帽子の変化に目を奪われる。
 深い黒の中に、鮮やかなレモンイエローのリボンがあしらわれていた。明るいアクセントがより一層黒を際立たせる。このリボンは、お母さんが箱にかけてくれたものだ。元のかっこよさを少しも損ねていないのに、お母さんに指摘された背伸び感が全くなくなっている。
「いいですね。完璧です」
 ニヤッと悪役っぽくおねえちゃんが笑う。
「おお……いいですね、ええと……かなりいいですね」
 適当なコメントが思いつかなかったらしいお空だが、褒めたい気持ちは第三の目を通して伝わってくる。
「ちょっと! 結局誰も手伝ってくれてないじゃないですか! こいしちゃんを祝う気あるんですか――っとと……」
 おたまを振り回しながらキッチンから出てきたお燐は、わたしを見てはっと口を押さえた。ばつが悪そうに赤くなった頬をかいて、苦笑いを浮かべる。
「失礼しました。あの、すっごくカワイイですよ!」
「騒がしいですね……お燐もいっしょになって……全く……」
 部屋着姿のお母さんが現れて、また静かにため息をついていた。でも、そんなお母さんも帽子にかけられたリボンに気がつくと、表情はそのままに目を瞬かせた。お母さんが驚いているときの仕草だ。
「こいし、それは……」
「おねえちゃんがかけてくれたの」
「そう……さとりも機転が利くようになったのかしらね」
 お母さんの呟きは小さく、お燐にお空ともども怒られていたおねえちゃんには聞こえなかっただろう。意図せず漏れたに違いないそんな言葉を、わたしはちゃんと聞いていた。
 帽子に手をやり、リボンに触れた。
 ふたり分の思いが込められた、大切なもの。
 今この瞬間を楽しい、幸せだって感じる。
 ずっとこのまま。
 ずっとこのままで――いられたらいいのに――





(……そんなことありえないって、わかってはいた……はずだけど……)
 夢の独白の続きを、現実の思考になぞらせる。わかっていた気になっていただけなのは、間違いなかった。今でさえ夢と気づきながら、その夢をずっと見ていられないかと、どこかで期待していたのだから。
 なんにしても目を覚ましてしまった。バッドエンドを迎えたとして、現実にはまだ続きがある。当たり前のことだけど、舌打ちをしたい衝動に駆られた。
 どことも知れないこの薄暗い部屋の中は、不気味な臭気が漂っている。鼻をふさごうとして腕が動かせず、縛られていることに気づいた。足も同じで、椅子の肘掛けや脚部に固定される形で縄がぐるぐる巻きになっている。ずっと座らされたままでいるせいなのか、背中と腰が痛んだ。
 ただ奇妙なのは、それらのことがひどくわずらわしいはずなのに、頭が妙にふわふわしていることだ。体の不自由な感覚は確かにある。でも、それが自分のものではないみたいだった。昔、こっそりと参加したパーティーでお酒を飲んだときのような酩酊感が、近いといえば近いのかもしれない。
 とにかく気がつくとぼけっと中空の闇を眺めていて、どうも思考が定まらない。だが、理性が生じさせる焦燥が、わたしに状況を確かめようという気をなんとか起こさせた。
 全く明かりがないというわけではなかった。部屋の真ん中に今にも燃え尽きそうな蝋燭がオレンジ色の光を投射している。だがその程度では部屋の中に置かれているものはほとんどシルエットのようにしか見えず、なにがなんだかわからなかった。目で見てわかるものはほとんどない。
 体を揺すってみると、わずかに軋むような音を立てて滑らかに椅子が傾いた。揺り椅子だ。全方向に揺れる凝ったつくりのもののようだった。あまり激しく動いてひっくり返ってしまうと、床と接地するのが自分だけになってしまいそうである。
「こいしちゃん……?」
 することもなく椅子をぎしぎし揺らしていると、闇の中から声がした。
「水橋さん? どこにいるの?」
「ここ……縛られて床に転がされてるから……見えない、かもね」
 わたしがいるのは部屋の隅っこの方で、水橋の声は蝋燭を挟んだ反対側から聞こえてくる。なにか大きいものの影と一体化してしまっていれば、確かに視認しづらいか。
「こいしちゃん、体はなんともない……? 平気……?」
 水橋は自分こそ体調がおかしそうな声音にも関わらず、わたしの身を案じていた。
「ちょっとぼーっとするくらいだけど……他は特には」
「……そう……じゃあ、相性がいいのかもね。いや、悪いのか……はは」
 乾いた笑い声。わたしはなんの話をしているのかわからなかった。
「朽桁アリア。わたし……たちを、ここに拉致してきたあいつだけど」
「ちょ、ちょっと。ほんとになんの話を――」
「あいつは服薬暗殺者だったの。わたしたちは、そんなやつが常用する薬を……吸わされてる……」
「……くす、り?」
「特殊な……馬鹿げた訓練、で。薬の効用を自分の力に転化する……体質と技術を……それがないわたしたちは、こうして、意識を朦朧とさせるような……」
「しっかりしてよ、水橋さん」
「……ごめん、なさい。要は、最悪な状況、てことよ」
 確かめようと思っていたことを、水橋は一言でまとめてくれた。
 わたしと水橋はこの部屋に監禁されていて、おまけに薬とやらで心身に異常を来たしているらしい。わたしの自覚は薄いが……薬の作用だと言われれば、そんな気もしてくる。得体の知れない薬物を使われてしまったなら、体の見えない部分でなにが起こっているかわかったものではなかった。要は最悪、と水橋が言った通りということになる。
 わたし以上に薬の影響が出ている水橋には悪いと思ったが、他にもいろいろと聞き出した。どれだけ眠らされていたかはわからず、部屋は防音で、何度か様子を見に来ているアリアはむかつく薬中のクズで……とつっかえつっかえながらも恨みたっぷりな話の中で気になったのは、水橋が弾幕を使えそうにない、と無念そうに言ってきたことだった。
 忘れていたわけではないけど、わたしもそうだった。水橋がさらに恨み節をまくしたてているのを一旦無視して、無意識の力に呼びかける。水面に小石を投げて波紋を走らせるようなイメージ。その波は胸の中心から体の隅々へと円を広げていく――そして、なんの反応もないまま勢いを衰えさせ、消えた。
(……駄目、か)
 がっくり来る、というわけでもなかったのは、内心の諦めがあったからだろうか。水橋に気配を感づかれた朝から何度も何度も試してきたことだから、自分がなにも変わっていないのに能力だけ復活するなんて、ちょっと都合が良すぎる。
(……でも……じゃあ、能力が消えてしまったというのなら……それは、わたしのなにかが変わってしまったから……なの?)
 状況をひっくり返してのその疑問は常に心の中にあったように思えた。それが今、ようやく形となってわたしの前に現れたのか。
 わずかな前進。とはいえ一歩にも満たない。肝心の答えを思いつかないからだ。なにかが変わったようには思えない。ただ、なにもしていないうちに不調になった。それがわたしの認識だ。
 ため息をつく。水橋も、いつの間にか黙っていた。悪態を吐きつくし、眠ってしまったのかもしれない。
 重たい沈黙が部屋の中に満ちて、そのとき、蝋燭の火がかき消えた。
 完全な闇が訪れた。
「地下……かもね。ここ」
「え?」
 不意に、水橋が独り言のような呟きを漏らした。起きていたらしい。
「……あてずっぽうだけど……なんとなく、真っ暗になったときの雰囲気が、そうかなって。防音室って地下につくるのが普通だと思うし……」
「そう……なの?」
「目的を考えれば、ね」
 そういうものなのか。防音室の目的……音を外に漏らさないようにすること? 地上階の壁にあれこれ細工をするより、最初から地下を利用するほうがいい、ということなら道理はわからなくもない。
 なにか続きがあるのかと思って構えるが、地下室どうこうについてはそれきり水橋が口にすることはなかった。黙っているのが怖くて、言ってみただけなのかもしれない。
 なんとなく、わたしが無視したみたいになって、沈黙は気まずいものとなって部屋の中にわだかまる。
「……助けは、来るかな」
 取り繕って今度はわたしから話しかけた。口に出してから地雷っぽい話題だなと思った。
「……お燐は、わたしたちが行方不明になったことをもちろん察してるはず……」
「お燐……そういうとこ凄いよね」
「捜索はされている、それは、確実。でも……ここを突き止めてくれるかは……ちょっとわからない。あのジャンキーが――わたしたち、の……拉致を……どれだけ目撃されているかに……よる」
 わたしと水橋が気絶させられた後のことを、ちょっと想像してみる。完全に力を失った体というのは、持ち上げようとするにはだいぶ重くなってしまうと聞いたことがある。朽桁アリアはかなり背が高かった。お空と同じくらいか、それよりは少し低いか。わたしは同年代の平均よりだいぶ小柄で、水橋はわたしよりは大きいとはいえおねえちゃんと同じ程度。比較的運ぶのが楽そうな組み合わせではあるが……気を失う前に、既に騒ぎになっている気配があったことを思い出す。
「全く見られなかったってことはないと思うけど……」
 それこそわたしのような能力を持っていれば、話は別だけど。
 水橋は気力の限界が来たのか、返事をしてこなかった。ただ大きな呼吸を繰り返しているのが聞こえてくる。今度はわたしが無視された形となって、沈黙がまたやってきた。
 わたしは手足を突っ張ってみた。なにか――奇跡でも偶然でも、複雑な力が絡み合って縄が緩みはしないかと期待しての試しだ。もちろんそのどちらも起こらない。
(できること……なにもないのかな。待つ以外に。でも、待って……それでどうするの?)
 助けが来るとして。想像してみる。ほとんど存在を知られていないわたしはともかく、水橋は地底でも要職を勤めているから、救出部隊はそれなりの規模で組まれる。というか、おねえちゃんとの婚約関係のこともあるから、まず間違いなく出てくるのは星熊童子だろう。あの鬼が本気になれば、片腕でも地底の全戦力と渡り合うと言われている。朽桁アリアが戦いを避けるのは当然だ。もしまた星熊童子が現れれば、アリアはやはり逃げるしかない。
(助けが来るなら、必ず助かる。でも……問題は)
 問題はその後だ。
 わたしは、自分の身勝手さに震えた。
 救出されれば、わたしはおねえちゃんの元へ連れて行かれる。そのことに、ここで目覚めてから初めて焦りを感じたのだ。
 そして。
 助けが来なければ……わたしは少なくとも……おねえちゃんから離れていられる……
(わたし……正気なの?)
 このまま無意識の力が戻らないのなら。
 助けなんて来ないほうがいい。
 そんなことを、本気で考え始めていた。
 わたしは取り返しのつかないものを、天秤にかけようとしている……










 朦朧と途切れそうになる意識をどうにか繋ぎ止めるべく、パルスィはできる限りの激しさで首を振った。また、眠りかけていた。
 時間の感覚はとっくになくなっている。何度も大麻を嗅がされ、昏睡と覚醒を繰り返すうちに、どれだけの間ここに閉じ込められているかは完全にわからなくなった。だが、朽桁アリアの次の動きがまだないことを考えれば、一日かそこらしか経っていないのではないかと推測できる。アリアが組織との接触に手間取っているのだとすれば、まだ希望はある。星熊童子に潰走させられた組織は、普段よりも厳重慎重に潜伏しているはず。敵前逃亡の裏切り者が近づくのは容易ではない。
 とはいえもちろん、小休止などで戻ってきたアリアが再びこちらの様子を見に来れば、また無理やり大麻で意識を飛ばされる恐れはある。
(これ以上……体力を失う……前に。なんとかしないと……)
 チャンスは少ない。いや、最後かもしれない。燐が助けに来てくれるのが一番手っ取り早いが、そんな奇跡をあてにするほどパルスィは楽天家ではなかった。
 体をゆすってみて、まずは自分の調子を確かめる。
(さっきよりはマシ……か。なんとか動くくらいなら)
 芋虫のように体をうごめかせて、無理やり上半身を起こす。手足が縛られている状態ではほとんど意味はないが、寝そべっているよりは寝入りにくい。
「こいしちゃん、起きてる?」
「…………なに?」
「こんなときになんだけど、なんか話さない?」
「はぁ……?」
「わたしは、今すぐあなたを地霊殿に帰してあげたい」
 こいしが息を呑む気配が、した。
「でも、気を抜くと眠ってしまいそうなの。だから眠気覚ましに、なんでもいいから……せっかくふたりきりだしさ」
 空元気を絞るように、なんとか明るく言う。こいしは小さくため息をついた。それを隠したかったのかもしれないが、パルスィには聞こえていた。
「わたしは、そんな気分じゃないよ……」
「そっか。参ったなぁ」
 パルスィは頭上を仰いだ。完全な闇の中では見えるものはなにも変わらない。どこを見たところで黒に塗りつぶされている。
 目をつむっているのとそんなに変わらない。
 けれど……だからといって目蓋を閉ざしたままでいれば、不意に現れた光さえも見落としてしまう。
「じゃあ、わたしの独り言でも聞いててもらおうか」
「え……?!」
 なにも見えないかもしれない闇を、見続けるために。
 パルスィは思いつくままを言葉に変えていく。
「水橋パルスィ、地上生まれ。年齢は、だから、あー……地上生まれです。さとりと同じくらいだよ……うん。それで、貧しい人間の里で人間に混じって暮らしてた。昔の地上は、昔の地底に負けないくらい、ひどいところだったよ」
 ほんの少し間をとり、反応を見る。呆れているのか、苛立っているのか、またため息が聞こえた。
「わたしも、悪いことやひどいことをいっぱいしてた。んで……あるときヘマをして、人間に捕まっちゃって……『妖怪の山』を追われて地底へ逃げることになった鬼に、労働力として売られたの。奴隷ともいうかな」
「……ひどいね」
「まぁ自業自得かな……鬼のことだったら、命を救われたともいえる。人間に殺されずに済んだのは鬼のおかげ。そのときはそんな殊勝なこと全く考えなかったけどね」
 独り言に反応してくれたこいしに気をよくして、パルスィは微笑んだ。
「実際死んでてもおかしくないくらい、最初はひどかったから。ずっと農地を作ってたんだけど、地上とは違う環境で試行錯誤をしながらだから、うまく行かない年も多くて……辛かったな」
 地上時代は思い出したくないことで埋め尽くされているのに対して、地底に移り住んできた初期の開拓時代はよく思い出せないことが日々のほとんどを占めている。苦しい生活に変わり映えが無さ過ぎて、そう錯覚しているのだと思われた。
「それでも次第に、地底は豊かになっていった。食べ物に不自由しなくなって、毎日服を着替えられるようになって、鍵のかかる家に住めるようになった。わたしはかなり末期まで農地にいたから、地霊殿で仕事までもらえた。でも、なんでかな……暮らしはよくなったのに……全然、心が満たされたような気がしなかったんだ」
「それは、わかる気がする……」
 また、ぽつりと反応を返ってくる。
 パルスィは暗闇の中に、こいしの儚げな姿を幻視した。
「わたしも、わたしもそう思うことがあるの。大切なはずのものを大切だって思えない。水橋さんもなの?」
「今は違うよ。いろいろあって荒んでたわたしを、あいつが救ってくれたから」
「だから、おねえちゃんのことを好きなの?」
「あいつがわたしのことを認めてくれたから、わたしは自分のことを少しだけ好きになれた。そうさせてくれたあいつが愛おしい。でもそれは……そうだな……わたしたちがお互いを理解しようと本気で向き合った結果なの」
「なにが……言いたいの」
「こいしちゃん。今度はわたしが聞いてもいい? ひとつだけ」
「…………」
「こいしちゃんは――無意識を操る能力を、いったいなにに使っているの?」
 核心に、踏み込む。
 これをもっとはやく聞き出さなければならなかった。だが一方で、こんな状況でもなければうかつには聞けない。
 パルスィの予想が正しいなら、これこそがこいしの逆鱗だからだ。
「……こいしちゃんは何度もわたしに、あいつを好きな理由を聞いたよね。でも、わたしの理由をどれだけ聞いても――こいしちゃんがあいつを好きになれるわけないよ」
「……やめて……」
「第三の目を閉ざして得たその力で、あいつから逃げ続けるのなら、なおさら――」
「もうやめてよぉっ!」
 悲鳴のようなこいしの声。パルスィは唇を引き結び、それに耐えた。
「なんなの! どうしてそんなこと言うの? わたしはなんにも言ってない! 昨日今日会ったような水橋さんが、なんで……!」
「門外漢が適当なことを言ってるのは認める。でも、わたしは今もこいしちゃんの質問に答えてるつもりだよ。どうすればこいしちゃんがさとりのことを好きになれるか」
「だから、そんなこと、言ってない……!」
「わたしには、そう聞こえたんだ」
 こいしの行動には、妙な矛盾を度々感じていた。
 遠回しな質問でさとりの美点をどうにか聞き出そうとしたこともそうだし、お茶会のときはさとりと楽しそうにはしゃいでいたのに、翌日にはさとりを突き飛ばして逃げている。補足として、そのときは既にこいしの能力は失われ、さとりは無意識を操られた状態から脱していた。
(さとりに近づきたいけど、素のさとりにはそうしたくない……『好きになりたいけど怖い』んだ。ちょっと……歪んでる。地底らしいといえば、らしいけど)
 こいしの怒声を聞いて、段々と頭が冴えてきている。もちろんそのために怒らせたというわけでもない。話がここまで転がってきたのは偶然に過ぎない。
「なんでなの……」
 こいしはぐすぐすと鼻をすすりながら言った。
「わたしはそんなにわかりやすいの? 馬鹿みたいだよ……」
「それは違う」
「えっ……」
「素直ないい子だってことでしょ。わたしやさとりなんかより、素敵だよ、そういうとこ」
 もっと自分らしく表現するならば。パルスィは内心でおかしさをこらえた。
 妬ましい。
 いつかはきっと失われてしまうその純粋さは、例えようもなく美しかった。
 子供に嫉妬している自分こそ馬鹿らしい――だがこれも言い換えれば、つまりは妖怪橋姫としての調子が出てきているということだ。
「ねぇ、こいしちゃん。さとりを操っていれば、さとりはずっと、こいしちゃんに都合の悪いことはしないだろうね。でも、それだけじゃ、仲良くなんてなれないよ」
「うぅ……」
「ほんとのさとりに会いに行こう。こんなとこ、さっさと抜け出してさ」
「で、でも、わたし」
「なんにも変わらないかもしれないし、やっぱり怖い思いをするかもしれないけど、でも見えてくる光だって、あるかもしれない。こんな――ふうに――」
 黒一色の視界の中に、ゆらりと緑の色彩が揺蕩う。ほんの少しだけ闇が押し戻されて、雑多な部屋のシルエットがぼんやりと見えた。
 嫉妬の炎は、緑色に燃えるといわれている。
 こいしへの他愛もない嫉妬から得た力を、火球へと転化したのだ。
 橋姫たる水橋パルスィの、醜い感情を源泉とする、ろくでもないことしかできない力。
 だが、今――その感情、その力があってこそ、この火球は燃えている。
 こいしに微笑みかけたところで、火球に力を吸い取られ、パルスィの意識が一瞬途切れる。体勢が崩れて、頭を床にぶつけた。
「水橋さん、それ……!」
「いってぇ……はは。なんとか、つくれた。これで……縄を焼き切る」
 吹けば消えそうなほど弱々しいが、あとはもう持たせるしかない。今の体力では火球のコントロールも怪しく、見えない結び目を焼き切るには、いくらかの火傷を覚悟しなければならないだろう。
「……つっ、……ああ……!」
 パルスィは熱さと痛みに喘ぎながら、なんとか両手の自由を取り戻した。これだけで随分と楽になった気がする。すぐに足の縄も焼き落とすが、未だに四肢は虚脱していて、立って歩くのは無理そうだ。
 明かりを頼りに、パルスィは地を這う。こいしの元へ。
「水橋さん、わたし……」
「うん」
「…………」
「いいよ、ゆっくりで」
「……おねえちゃんが、怖い」
「……そうなんだね」
「知ってるの? おねえちゃんがお母さんを……その……」
「あいつや、燐から聞いた。でもそれは」
「わたしだって、それくらい知ってる。あのときみんなが心の中で思ってた……おねえちゃんが、お母さんを、こ、殺してっ、地位を奪ったって……!」
 その声は、かすかに震えていた。
 部屋の中央、蝋の溶けきった燭台を通り過ぎ、こいしまでの距離はもう何メートルもないのに、それさえもどかしい。一瞬でもはやく、こいしのそばへ行ってやりたかった。
「そんなわけないって、わたし信じてたのに……知ってたのに。お母さんにもおねえちゃんにも、誰にも会えないでいるうちに……わたしも、段々、そうなんじゃないかって、思えてきて……」
 覚妖怪はかつて権力の奴隷とまで揶揄された存在だった。鬼や天狗たちによって暗闘の手段として扱われ、知ってしまった暗部とともにその生命を絶たれた者も少なくはない。覚妖怪の生死に政治的な駆け引きが絡むことは、地上生まれの妖怪にとっては当たり前のことだ。
 当時のこいしが有象無象のそうした思考に晒されたのも、容易に想像できる。
「わたし、ちょっとでもそんなこと思っちゃった自分が嫌で……それで……」
「第三の目を、閉じた?」
「……心の声なんて聞きたくない……って……思ったから……」
「こいしちゃん……」
 パルスィはようやくこいしのすぐそばまで辿りついた。縄の結び目へ慎重に火球を近づけながら、苦い味のする唾液を飲み下す。
「あいつがお母さんから地位を奪ったのは、紛れもない事実……でも、あいつだって好きでそんなことしたわけじゃない。お母さんとある製薬会社との後ろ暗いつながりとか、昔お燐やお空も住んでた孤児院での失踪事件――」
「わ、わたしが」
 さとりをかばうパルスィの言葉を、こいしが強く遮った。
「わたしが怖いのは、そ、そこなの。理由があるなら、おねえちゃんは誰だって殺せるんだ。数少ない同族でも。あんなに尊敬してたお母さんでも。きっと、わたしでも!」
「そんなこと!」
「それに気づいたら、もう信じられなくなっちゃった……」
 声の震えはおさまっていた。だがそれは、少女が発したものとは思えないほどに枯れきってもいた。
 確かに――さとりは理由さえあれば、こいしを殺せるだろう。
 さとりが母から地位を奪ったのと同様、否定はできないことだ。さとりは、自分がしなければならないとなれば、それをする妖怪だ。自分の確固たる天秤があり、ゆえにそのバランスをとることにいつも苦心している。地底の指導者としてのさとりの一面だ。
 さとりを外からも見られる視点を持つパルスィには、感情面の問題はさておくとしても、一応の納得はできる。
 けれどこいしにとっては、さとりとの関係はあくまで姉妹に終始する。理由の有無など関係なく、その殺意が自分にも向き得るというだけで、こいしの精神的な負担は常識にあてはめづらいものとなったのだろう。
 こいしの抱える絶望の一端に触れたパルスィは、うなだれるしかなかった。自分では、こいしを慰められないかもしれない。諦念が胸をよぎる。
「でもね、おねえちゃんよりも、もっと信じられないのは…………わたし」
「……うん?」
「おねえちゃんを見限ったなら、地霊殿を出てどこへでも行けるのに……それをしない、わたし。だってわたし、そうしたら本当に独りになっちゃうから……だから」
 縄が焼け落ちる。
 自由になった手で、こいしは顔を覆った。
「……だからおねえちゃんの無意識を操っていたの。わたしが信じられたおねえちゃんでいてくれるように」
 パルスィは――全身の力を総動員して――立ち上がり、こいしの細い手首を掴んだ。
 抵抗はなかった。力の緩んだ手を軽く引くだけで、隠された顔が露わになる。
 さっきのような泣き顔を期待した。だが、こいしは全ての感情を欠落させたかのような面持ちで、まっすぐにパルスィを見返していた。
「ねえ、水橋さん。こんな卑しい話って、あるのかな」
「こいしちゃん」
「わたしの影響下にないおねえちゃんを見たとき……頭が真っ白になって……わたし、逃げようとした……無意識の――うちに。もう普通のおねえちゃんと話すことなんて考えられもしないの。昔のことばかり懐かしがって、今のおねえちゃんのことなんて知りたくないの……ねえ、わたし、おかしい……?」
「こいしちゃん……!」
「…………どうして、水橋さんが泣くの?」
 自分の頬を濡らすそれに、気づいていないわけではなかった。だが、目元を拭うには腕が足りなかった。
 パルスィはぞっとするほど冷たいこいしの体を抱きしめながら、こらえきれない嗚咽に肩を震わせる。何故と問われれば、実のところ明確に答えられない。ごくわかりやすい悲しみから説明の難しい憐れみや憤り、無力感、他にも、名前のつけられないどろどろの感情が、胸の中からあふれだしていた。
 涙は自分のうちにしまっておけなかった感情の膿だ。それが透きとおった水の色をしているのは、この地底に許されたわずかな奇跡なのだろう。なんの意味はなくとも、それでも奇跡は奇跡だと――パルスィは信じたかった。
「わたしも……っ」
 裏返りそうになる声を必死に抑えるように、腕に力をこめる。
「自分の身勝手さに、幻滅したことがある……こいしちゃんのそれと、きっとまるっきり同じではない、んだと思う。でも……理解できる部分も、あるんだと思う」
 強いてこいしの問いに答えるなら、これは自己憐憫の涙だ。
 自分を想って流した涙に過ぎない。
 でも、こいしがもしも、自分と少しでも同じ心細さを感じているとするなら。
 パルスィは、こいしの側に寄り添える自分でありたいと思った。
「卑しくないよ。おかしくないよ。もっとひどいことを考えるときだって、あっていいんだよ。誰もかもが、強く生きられるわけじゃないんだよ……」
 望んだとおりに生きられれば、誰しも悩みなど抱くことはない。自由に振舞い、自由に死ぬ。地底妖怪はかつて、そんな不文律に従って地上を闊歩し――そして、この地の底に来ざるをえなくなった。
(わたしたちは、望んだとおりに生きられなかった者たち……だけど……)
 誰かが望みを通すことで、別の誰かは望みを握りつぶされる。この世のどこにでもある仕組み。自然の食物連鎖の中にも。社会の階層構造の中にも。勝者がいて、敗者がいる。
 勝者は強く生きればいい。その権利がある、と思う。
 ではパルスィたち敗者は……どう生きるべきなのか。地底に辿りついてからの千年は、それを模索する日々でもあったはずだ。掴もうとしてはすり抜けていく答えを求めて、果て無き思考を重ねてきた。
 そのあまりに淡い一端を、胸の底からすくいあげるように。
 パルスィは唇を震わせた。
「それはたぶん、特別なことじゃない。わたしもさとりも、お燐やお空も、他のいろんな妖怪たちも、自分の弱さと毎日戦ってるの。辛くても怖くても、自分から逃げ出したら、あとにはなんにも残らないから。そんなのは、わたし、絶対嫌だから……こいしちゃんは、どう? 今のままで、いいの……?」
「わたしは……」
 こいしが、目を逸らす。逡巡の気配をかすかに感じる。
「……わたしには、無理だよ……こんな気持ちと戦うなんて」
「大丈夫、きっとできるよ」
「できないよ……! わたしひとりで、どうすればいいのかもわからないのに」
「ひとりじゃないでしょ。さとりやお燐が助けてくれる」
「わたしの好きなように操っておいて、今さら助けてなんて言えないよっ」
「じゃあ、……わたしだ」
「えっ……?」
「わたしが助けてあげる。わたしはこいしちゃんに操られたことなんてない。そうでしょ?  それにさ」
 パルスィは、確かな笑みを浮かべてみせた。
 泣き笑いのような顔でみっともなかったに違いないが、自分の皮肉っぽい造作の中に精一杯の優しさをこめて、こいしの額に額をくっつける。
「わたしも――こいしちゃんの、おねえさんだから」
 見つめあったこいしの瞳が揺れていた。
 単なるさとりの妹としてではなく、自分の家族だと思って見るこいしは、不思議な感情を心中に呼び起こさせる。
 パルスィはそれを愛に似ていると直感した。
 だが、一方的だ。この感情を、こいしが受け入れてくれないのなら。
 内心固唾を飲んで、パルスィはこいしの目を逸らさず受け止め続けた。
「ほ、ほんとうに」
 こいしの足を戒める最後の縄が焼け落ち、火球が手元に戻ってくる。
 淡い緑に照らされた幼い顔が、くしゃりと歪んだ。
「助けてくれるの……っ」
「うん」
「い、今のままなんて、嫌だよぉ……!」
「そうだね。わたしも」
「こんなところにいたくない……うちに帰りたい」
「大丈夫だよ。一緒に帰ろう」
「お……おねえちゃんを」
「……うん」
「おねえちゃんを、ちゃんと好きになりたいっ……」
「――――」
「わたし、いいのかな。おねえちゃんを、好きに、なっても」
 胸をきゅっとしめつけられるような切ない感覚に襲われ、パルスィはまた泣きそうになった。口にしてしまえば単純なことだ。誰とて懇願されれば笑って快諾するに決まっている――あまりに害のない、純粋無垢なおねがいだった。
 ただそれだけ。
 たったそれだけのことを言えずに、こいしはひとりでいたのだ。
「――いいんだよ」
「また、適当に言ってるの……?」
「違うったら。根拠はある」
「聞かせてっ」
「もちろんいいよ」
 パルスィは再びこいしの手を引いた。促されて立ち上がったこいしは、不思議そうな顔でこちらを見上げている。最も素が出る表情だからか、パルスィは『似ている』と思った。言うまでもなく、こいしの姉、さとりにだ。
 パルスィはさとりから有形無形の多くのものを与えられたのだと感じている。
 その最初のひとつを、今、パルスィ自身が架け橋となって、こいしへと伝えることができる。
 ほんの数年前の自分は、こんなことを全く予期できていなかったに違いない。
 どうとでも変わるのだ。浮けば喜び、沈めば落ち込む。その繰り返しを受容すれば、またなにか変わっている。
 それを、これからのこいしも知っていくのだろう。
「でも。それは地霊殿に帰ってからにしよう。あの殺し屋がいつ戻ってきてもおかしくないんだから」





「せーのぉ!」
 重たい扉をふたりで押し開け、飛び込んできた光に目が眩んだ。
 わたしの残ったふたつの目さえも潰れてしまうのかと心配にもなったが、慣れてみればただの廊下になんてことない照明が灯っているだけだった。いったいどれだけの間、あの真っ暗闇の中にいたのだろう……
 周囲を確認すると、わたしと水橋さんが閉じ込められていた部屋は、この階の最も奥に位置していたようだ。等間隔で四つの部屋が並ぶその向こうに階段があり、他に別の階へ行けそうな通路は見える範囲には確認できない。
「……よし。行こうか」
 水橋さんはあの女がいないかを気にしていたようだ。
 ここに留まる意味はないので、とりあえず進む。
(下りの階段がない)
 階段室の中に入れば当然すぐに見て取れることではあるのだが、わたしは小さく驚いた。
 水橋さんのあてずっぽうは正解で、どうやらここは地下らしい。謎の勘の冴えに感心して横目で様子をうかがうと、彼女は油断のない顔で階段をにらんでいた。
(水橋――パルスィ)
 今もってわたしは、この妖怪のことをほとんど知らない。そもそもが出会って間もないにしても、それ以上に、知ろうとしなかったからだ。
 水橋さんは今のおねえちゃんを好きになれる部分を知っている。そのことだけに気をとられて、水橋パルスィという一個の妖怪のことが目に入らなかった。勝手に語られた半生の他は、片手で数え切れる程度のことしか知らない。
 嫉妬を操る橋姫。地霊殿の官吏。それでいて、意外と荒事にも慣れている。
 おねえちゃんの婚約者。
 ということはつまり、近い将来には、わたしの義理の姉になる。最後の一点については、全く考えが至っていなかったことだ。
 家族が増えることがあるなんて。
 水橋さんの背中を追いかけながら、わたしはそんな思いを持て余していた。
(義理の……姉だから)
 違和感の大きいそれを咀嚼するように、心の中で唱える。
(わたしを助けてくれる……?)
 普段なら、肩をすくめて冷笑のひとつでも浮かべていただろう。けれどどうしてか、息ひとつ吐くのさえ苦しくて、そんなことはできそうもなかった。
 わたしは、信じたいのだ。未だによく知らない水橋さんを――本当の家族さえ信じられないのに。
 そんな浅ましさを、わたしはずっと嫌悪してきたはずだった。経緯がどうだったとしても、他者を否定したのはわたし自身だ。なのに、差し出された手を掴みたがっている今のわたしは、まるで餌を期待する野良犬みたいじゃないか。
(わたし……ひとりでも大丈夫って思ってたのは、勘違いだったの?)
 半ば以上自分でも答えのわかっている問いだ。あるいは、無意識のわたしだったなら、そうではなかったのだろうが。
 前を行く水橋さんの手が、概ね規則正しく揺れている。
 わたしを待っていると思える一方で、突き放されているようにも感じられる。そんなわけないと頭でわかっていても、わたしの迷いが水橋さんへの感情を濁らせている。
 水橋さんはわたしの手をとってくれた。今度はわたしからそうすればいいだけなのに。
(簡単なことなのに)
 だからこそ、もし拒否されたらという想像に怯える。最初の一歩目を躓けば、あとのことが何もかもわからなくなってしまう。
 水橋さんは優しいひとだ。わたしにいい印象を持っていたとは到底思えないのに、こんな状況でもわたしを十分以上気遣ってくれる。
 水橋さんをこうさせたのがおねえちゃんだと言うなら、おねえちゃんもそうなんだろう。昔わたしが思っていた通りに。
 そのことを認めるのは、勇気が必要だ。
 歩み寄れなかった数百年は全くの無駄で――
 わたしが、無責任な噂に踊らされただけ。
 心を閉ざす前に、ただの一度でもおねえちゃんと話ができていたら、おねえちゃんを信じ続けていられたのかもしれない。
「こいしちゃん?」
 呼ばれて、数歩先にいたはずの水橋さんが目の前にいることに気づいた。
「どうしたの? 気分悪い?」
「……ちょっとだけ……」
 足元の揺れるような感覚を嗅がされた薬のせいにして、わたしはか細くうめいた。
 水橋さんはわたしの肩にそっと触れてきた。暖かい気持ちを感じさせるような手つきだった。
「ごめん。もう少しだけがんばって。ここで足を止めるのは危険だから」
「うん……」
 そのまま、水橋さんに支えられるようにして歩き出す。そのペースも若干ゆっくりになっている。気を抜けば泣いてしまいそうだった。
 わたしは、信じてもいいのか。
 自分の卑しさを、許してもいいのか。
 意固地な気持ちを捨てて、変わっても、いいのか。
 階段を上ると、拍子抜けするほどあっさりと外に出られた。人工太陽は消灯し、変わりにわずかな常夜灯だけが道を照らしている。建物を見上げてその全貌をうかがえば(やはり暗くて見にくいのだが)、どうということもないマンションだった。凝ったデザインでおしゃれな雰囲気がある分、使いにくそうな間取りになっているに違いないと一目で見てとれた。が、あえてそうした不便さを好んで選ぶ者もいるのだろう。
「わたしの住んでたボロアパートとは比べるまでもないな。あぁあぁ妬ましい」
 暗い笑みを浮かべる水橋さんの独り言にはなんと答えたものかわからなかった。
「ここ、どのあたりなの?」
「うーん……こういうチャラいマンションがあって、旧都タワーからは離れているようだから……スウィートウォーターかグリーンオアシスか。もう少し歩いてみないとわからない」
 水橋さんのあげた地名は、どちらも旧縦穴近くに存在する居住区だ。古い区画で、なんにもない時代から無理やりきれいな響きの名前を与えられていたのが、段々とそれらしく開発されていったという経緯を持っている――らしい。カタカナで表記されるのも地上との差別化を図ったものだとかなんとか……とにかく、もしここがそうなら、近くにはレジャー用の保護森林や湖もあるはずだが、半月ほど前に泥酔した鬼が半ヘクタールほどを吹き飛ばしたおかげで現在は立ち入り禁止になっている。
 目印にはなるか、とわたしがきょろきょろと周囲を見回していると、水橋さんは続けて言った。
「悠長に歩いてる時間があればだけど……」
 一瞬前までと、なにが変わっていたのか。
 わたしはそれを水橋さんのその声で知った。
 低く抑えられた言葉にこめられた、明確な敵意。わたしがそれに驚いて視線を元に戻すと、石畳の道に立ち並ぶ常夜灯の下、血まみれの妖怪が幽鬼のように立ち尽くしていた。
 くるくると巻いていた髪は乱れ、元の染料に血が混ざって黒い斑点を見せている。余裕ぶっていた顔は精彩を欠き、目も虚ろ。黒衣もぼろぼろで、その裂け目からのぞく素肌には浅くない傷がある。
 変わり果てた朽桁アリアの姿だった。
 わたしがなにより気になったのは、アリアが奪っていったわたしの帽子を持っていないことだった。
「あんた、なんなの、その様は」
「ひっどいよねぇ。でも、まだツキに見放されたってわけじゃ、ないんだ」
 長く、深いため息の後、アリアはへらっと両手を広げた。
「交渉はね、失敗したんだ。組織の皆さん、思ったより怒ってて……つか、信用なかったのかな? こりゃ直接あんたらを渡すしかないって思って必死に逃げてきた」
「それで、今からわたしたちに逃げられて、あなたはリンチに遭って死ぬ。ツキなんか欠片も残ってないわ」
「いやぁ? その直前で捕まえた。これをツイてると言わずに、なんて言いますか」
 水橋さんの挑発を笑って流し、アリアは懐から煙草とマッチを取り出した。そのまま滑らかな手つきで着火、毒煙を深く深く吸い込む。水橋さんによれば、アリアはその毒性を自分の力に変えるという。しかし、止める隙もなかった。
 一息で根元まで吸い切り、アリアは煙を吐き出した。幸いにしてこちらは風上のようで、煙はアリアの後ろへ流れていく。
「ふぅーっ……ま、確かに体はガタが来てる。でもそっちだってグロッキーのロートルに、なんにもできないガキ。わたしをやれるの?」
「無理かもね。でも騒ぎを起こせば鬼が来る。この子を守るためなら、このへん全部ぶっ飛ばすくらいのことはさせてもらう」
「はっは。大使さんはもう殺そうかな」
 アリアは煙草を指で弾いて捨てた。そして、ぐらりと大きくよろめきながら、無造作に一歩を踏み出す。押せば倒れてそのまま動かなくなるのではないか、と感覚が誘惑してくる。だが、アリアがその身にまとっている不吉さが、わたしにそれをさせない。弾幕使いですらない妖怪の威圧感とは到底思えなかった。
(……今は、わたしも違うか)
 無意識の力を失ったわたしもまた、弾幕使いではない。
 なんにもできないガキ――その通りだ。
 今、必要としているのに。
 無意識は応えてくれない。
 わたしは水橋さんの様子をうかがった。先に負けた一戦を思い出しているのか、青ざめた顔でアリアを注視している。
 いや。水橋さんの目がすっと細められた。そして、誘拐される前にも見たのとは少し違う構えをとった。怯えや恐れのない、言ってみれば『覚悟が決まった』かのような佇まいだ。こんなのは、初めてだ。
 戦う妖怪の横顔に、気高さを感じる、なんてことは――





(殺そうか、だと?)
 足の震えが止まり、頭が冷めていく。麻草に浮かされた体が細胞ひとつひとつに至るまで平静を取り戻していく。パルスィは、半身に構えて足を肩幅より少し広く開き、わずかに腰を落とした。自分自身を評価して、決して強者ではないという自覚がある。
 ただ、戦う中で身に馴染んだものもある。測ったわけでもないが、当時と寸分違わぬ姿勢であると確信していた。
 当時。すなわち一千年前、地底追放紛争。鬼が敗れ、『妖怪の山』の勢力図が大きく塗り変わった。戦いの隙間を縫うように生きたパルスィだが、それでも厄介ごとからは逃れ得なかった。
 不毛な半生だったと顧みて思う。恨まれるはずもない者から恨まれ、殺す必要もない者を殺した。死ぬ寸前の目には何度もあったし、耐え難い恥辱を味わったこともある。
 だが。
(あんな時代を生き抜いて今殺されるなんて間抜けは、絶対ごめんだってのよ……!)
 その中で培ったものが、自分とこいしを救えるかもしれないというのなら、悪くはない。
 足をひきずるように、朽桁アリアが向かってくる。おかげで前の一戦に輪をかけてその歩みは遅いが、当然油断すべきではない。弾幕で消し飛ばしたと思ったのに、パルスィは完全に意識の外から気絶させられた。普段の動きがゆっくりなのは、本来の素早さを隠すためだ。あるいは隠さないまでも、その落差を武器としている。
 この戦いにおいて、相手の無力化を瞬時に判断できない弾幕は信用ならない。
 この手で決着をつけなければ、必ず裏をかかれる。
(さとり……あなたの強さを、わたしに貸して)
 生きて帰るために。
 こいしを守るために。
 そのために、朽桁アリアを――殺す。
「逃げなさいこいしちゃん!」
 手短に叫び、パルスィは地を蹴った。こいしが一瞬戸惑い、それでも駆け出していく気配を察して、安堵する。いくらなんでもこいしを守りながらでは戦えない。それに、自分が誰かを殺す姿を、見られたくはなかった。
 パルスィは自らアリアとの距離を詰める。わざわざ暗殺者のペースに合わせて戦うことはない。呑まれるなと念じて腕を振り上げた。
 普通なら、既に弾幕の間合いではない。
(普通ならな!)
 パルスィはとにかく素早く爆発するだけの光弾を作り出した。ほとんど正面衝突するようなタイミングで、アリアというよりもその足元の地面を狙って叩きつける。余裕があれば、目を剥いたアリアを指差して笑っていただろうが、自分も爆発に巻き込まれながらではさすがに難しかった。
 パルスィは踏みとどまったが、アリアは中途半端に回避しようとしたことが祟り、仰向けに倒れた。大したダメージでないのは自分でも身にしみてわかっている。パルスィは間髪を入れずに、アリアに馬乗りになった。拳を固めて、アリアの顔面を打つ。がつんとした衝撃と痛みが拳から肘へ抜け、しびれを腕に残す。不快な感触だ。こんなことは慣れっこだったはずなのだが――いや、今は感傷は後回しだ。奇襲が成功したのだ。ここで倒しきらねば!
 逆の手でもう一撃。同じ衝撃と痛みとしびれ。また逆の手でもう一撃。さっきよりもよほど痛い。また逆の手でもう一撃。
 パルスィはぎくりとした。拳が受け止められている。
「鍛えてもないお手々で頭を殴る。シロウトさんだね」
 蚊に刺されたほども堪えていない、平静で軽薄な声音だった。
「はは。どっか痛めてんじゃないの。ほらほら」
「ぐっ――ああああああ!?」
 受け止められた拳が、とてつもない力で握り締められた。パルスィは苦悶を喉から搾り出しながらも空いた手を叩きつけようとするが、アリアの貫手が脇腹に埋め込まれるほうが早かった。鋭い痛みに思わず上体が仰け反り、今度はその背中に膝蹴りが突き刺さる。パルスィはアリアの上から投げ出されてしまった。
(くそ!)
 無様に地面を転がりどうにか立ち上がる。
 血まみれのアリアもまた、よろけながら体を起こしているところだった。現時点で深手を負っているのは明らかにアリアの方だ。そのアリアが悠然と構えているのに対して、パルスィは早くも激しく息を乱して鉄火場の緊張に喘いでいる。殺すと決めただけで殺せるなら苦労はない。
 なにかもっと……決定的な隙を探らなければ……勝てない。
 アリアがこらえかねたように笑った。
「んふふ。いいね、必死な顔。いちばん魅力を感じる。あの子はそういうの、してくれそうにないからね」
「あんたの女のこと言ってんの? もしこいしちゃんのこと言ってるなら――」
「こ・い・し、ちゃんの話だよ、もちろん。キレーでかわいいけど、それだけの拗ねたガキじゃん? 甘やかされて育って、つっまんねえ遊びして喜んでんでしょうが。そういうのをぐちゃぐちゃにしてやるのも実は好きなわたしですけど」
「――――」
 血管を流れるマグマが、脳髄へ駆け上がる。
 パルスィをそれをそのまま叩きつけるように巨大な炎弾を放った。膨大な熱と光が炸裂し、眩んだ視界の中を、不穏な影が横切る。
 気づいたときには正面から喉を締め上げられていた。踵が浮いている――片手で、半ば宙吊りにされている。パルスィは両手の指を突き立てて逃れようとするが、アリアの白い腕はびくともしなかった。
 アリアはにこりと酷薄に微笑みながら、空いた手の示指を振ってみせた。
「うふふ。怒っちゃった?」
「うぐ……ごぼっ! ぐげほっ」
「うん? なにかな? ああしゃべれないのか」
 圧迫されていた気道と血管が、同時に緩む。パルスィがひとしきり咳き込み、口の端から唾液を垂らすその様を、アリアは楽しそうに眺めている。油断しているのは間違いないが、こちらも打つ手がなかった。
「勝手に、決めつけるな」
 酸欠に苦しむ脳が、血の塊のような言葉を吐かせた。
「なにを」
「あの子のことをだ! こいしちゃんは、おまえなんかに蔑まれるような子じゃない」
「そりゃどうかなぁ。資産家の娘のくせして家出かますような甘ったれでしょ」
「今がそうでも、この先いくらだって変わる」
「苦し紛れだね。成長の先に無限の可能性なんてものはないんだよ? わたしもそーだし、あんたもそーでしょ。今から他のなにかになれると思うぅ? 逆だよ……成長するってのは、自分の不可能性を伸ばしていくことさ。今の自分以外の自分を丹念に潰していくんだよ! そうして誰もが可能性の成れの果てになるんだ。哀れだなぁーわたしたちは!」
 また薬の巡りがよくなってきたのか、アリアは狂ったように笑い出した。
 妄言の最中にも、拘束を脱するほどの隙はなかった。どうしようもないまでの無力さが、歯を軋ませる。それでも投げ出すわけにはいかない。
 頼れるものが他になく、パルスィは弾幕を意識に上らせた。
 が、その瞬間に無慈悲な殴打がその頬を襲った。脳裏に思い描いた弾幕が消える。
「来るって感覚が、わかるんだ。でなきゃ、殺し屋なんてできない……弾幕使いは、必ず油断する。わたしたち、よりも、致命的なところで。そこを狙うのが、コツよ」
 一息ごとに顔と言わず腹と言わず打たれながら、パルスィは意識を失うまいと努めた。なにもせず寝そべっていたときよりは、よほど楽な作業だ。
 眉間に力を入れていると、笑顔のアリアと目が合った。意外そうに、口角が下がる。
「……まだ、そんな顔できるかぁ」
「あんたが妬ましくってね。二秒で考えつくようなセリフで悦に浸れるあんたが」
「……大使さんさぁ、マジでうざいよ。友達いないでしょ」
「少しはいるさ」
 アリアは苛立ちを隠さずに舌打ちし、パルスィを路面に叩きつけた。蹴り払われた足は折れたかもしれない。悲鳴を上げかけたが、胴を踏みつけられて、それさえ果たせない。体の内でのたうちまわる苦悶と激痛に痛めつけられながら、パルスィはされるがまま、アリアに担ぎ上げられた。
「予定変更するわ。あんたは後。こいしちゃんを先にする」
「なん――」
 言い終わるが速いか、アリアは高く跳躍した。背の低いマンションの屋上に立つと、そのまま隣接する家屋の屋上や屋根を伝うように、かなりのスピードで駆けていく。反射的に身をよじりかけるが――迂闊に暴れてアリアの拘束から脱したとしても、今のコンディションではとっさに飛行術が使えるかどうかは怪しい。辛うじてその程度の打算は働いた。
 満身創痍の体と、通用しない弾幕術。
 手駒は頼りない。アリアに打ち勝つために、どう戦うか。なんだっていい。誰かの真似であろうと、どんな悪辣な手であろうと。意識を混濁させながらも、パルスィはそれだけを考え続ける。
 こんなに勝ちを欲しているのは、この世に生まれて初めてかもしれなかった。





 わたしはでたらめに道を選んでいるうちに、工業区に足を踏み入れていることに気づいた。工業区とはもちろん青果や食肉、綿花などの加工や、地底拡張事業の副産物である製鉄が盛んに行なわれている地域を指すが、いま重要なのは、そこが地霊殿の北西にある地域だということだ。
 目指すべき方角はわかった。あとは、体力と気力の勝負だ。
 疲労と気だるさに満ちた体に鞭打って走っていると、頭の中の余計なことが、砂のように抜け落ちていく。
 意識できることを全部取り去ってなお残るもの。
 そういうものをどう呼べばいいのか、わたしは知っている気がする。
 ずっと見ないふりをしてきた。呼びかけにも、答えなかった。
 わたしの力はそのためのものだった。
 自分に目隠しをするための仮初めの無意識。
 それが失われて顕わになったのは、見覚えのある輪郭だ。
(おねえちゃん)
 姿形を知ってはいても、その中身に触れる勇気がなかった。
 水橋さんのことを知って、もう触れてはいけないのではないかと、不安にもなった。
 今、確かに触れたいと思っている。
 この心を欺瞞する全てのものが剥がれ落ちた今ならば、そう思える。
 わたしが避け続けてきた、本当の無意識――
(おねえちゃん……!)
 勝手に独りになったけど、あれからずっと、ほんとは寂しかった。
 ふわふわしたまま漂って、どこでなにしてたって、楽しいことなんてひとつもなかった。
 もうこんな思いはたくさんだよ。
 わたしと一緒にいてよ、おねえちゃん。
 でも……どうしてお母さんを殺したの?
 知りたい。
 知らないから、怖い。
 だから知りたい……!
 おねえちゃんのこと、教えて!
(でなきゃ、もう、これ以上、一歩も進めないっ!)
 そのためには、あの殺し屋から逃げ切って、地霊殿に帰らなければならない。
 できるのか。自分が問う。わからない。だが、この機会をくれた水橋さんのためにも、わたしは絶対に足を止めない。
 既に走るというほどの速度ではない。倒れかかる体をなんとか倒れまいと突っ張った足が、辛うじて前に出ている。それくらいの状態だ。
 肉体が求める休息は魅惑的だが(それが冷たい地べたに横たわることだったとしても)、わたしはそれに逆らい続けた。なにか差し迫ったきっかけでもなければ、ここが無理のしどきというものだ。
 だから、わたしが足を止めたのは、虫の知らせとか第六感とか、そういうものでしか説明できない。
 瞬間、頭上を影が過ぎる。飛来したそれはどすんと重たい音を立てて一度跳ね、ごろごろと何周か転がってから止まった。
 見覚えのある、くすんだ金髪。ぼろぼろになった水橋パルスィだった。
「くっそ……結局投げ捨てられるんなら、さっさと暴れとけば……」
「みっ、水橋さん!」
 不鮮明なうめき声を漏らす水橋さんを助け起こす。命に関わる深手は負っていないようだが、ただ一箇所、右足があらぬ方向に曲がっている。白い足と、どす黒く変色したその箇所のコントラストを目の当たりにして、ぞわりとわたしの肌が粟立った。
「やーあ。ごぶさた」
 気楽なあいさつとともに暗殺者が現れる。水橋さんと違ってわかりやすく血みどろの傷だらけで、いつ倒れてもおかしくなさそうなのに、異様なまでの陽気さでへらへら笑っている。大麻が効いているのは疑いのないところだ。
 わたしは周囲に目をやった。昼ならば話は違うのだろうが、深夜の工業区では騒ぎを起こしにくい。妖怪たちの多くは隣接する居住区に暮らしているからだ。今いるのは僅かな当直や夜勤の警備員くらいのものだろう。そうした者たちが都合よくこの場に現れるようなことは、残念ながらなかった。
「大使さんがあんまりむかつくもんだからさぁ、先にこいしちゃんを殺しに来たよ」
 朽桁アリアのねばつく視線が、わたしの身を這い回る。
「ずいぶんとまぁ、こいしちゃんが大切らしいよ。だから大使さんの目の前で、こいしちゃんを壊す。楽しそうじゃない?」
「もう黙ってなさいよ、変態」
 水橋さんはひどく喋りにくそうに言ってから、べっと唾を吐いた。血の泡が浮いたその中に、欠けた歯らしきものが混ざっていた。
「こんな調子なんだなぁ。もう葉っぱなんか関係なく弾幕も作れなさそうなくせして、よくまぁ強気でいられるよ」
「あんたを倒すのは弾幕じゃない。わたし自身のこの手だ」
「……そんな強がりを潰すために、こいしちゃんの前まで来たんだよ」
 アリアの目がすっと細められる。口調に苛立ちの気配が混ざった。アリアは気づいているだろうか。自分が思っているような余裕を演出できていないことを。
 だが、言っていることは正しい。水橋さんは心身ともにいたぶられていい加減に限界だろう。まともな弾幕がつくれるようなコンディションではないはずだ。
 もう、頼れない。
 あとは、なにもできない自分だけだ。
 無意識に愛想を尽かされた無力な覚妖怪。
 わたしはひきつった泣き声を漏らしそうになる喉を押さえ、水橋さんを見た。
 水橋さんも、わたしを見ていた。
 まだ諦めていない。緑の目がそう語っていた。どうしてそんな目ができるのか、わたしにはわからなかった。静かで暖かな、強い光を宿した、緑の目。
(……まだ、なにかできるの? この状況をどうにかするような、なにかがあるの?)
 アリアがずるずると足を引きずりながら、進んでくるのが見えていた。もう何歩かで、わたしたちに手が届く距離だ。考えをまとめる時間は少ない。
「……わ、わたしを殺したら、組織とかいうのから、逃げられなくなるんじゃないの!?」
 やぶれかぶれで叫ぶ。アリアは鼻で笑い、歩みを止めることもなかった。
「見たいんだよ。可能性とかいうつまんねぇもんをブッ壊されたときの、大使さんのかわいい顔がさぁ……大使さんだけでも交渉材料としちゃ上々だし……だから殺しても構わないんだ」
 わたしは気圧されて息を呑んだ。
 水橋さんは、もうなにも答えなかった。わたしが触れている肩や背中にぐっと力がこもるのがわかった。傷だらけの体で、しかけるつもりだ。勝算なんて、ないに違いないのに。
 また、泣いてしまいそうになる。水橋さんは嘘偽りなくわたしを助けてくれたのに、わたしは無力を理由に勝手に諦めようとしている。わたしは最低だ。
 ほんとうにおねえちゃんのことを知りたいのなら、こんなところでなにもかも投げ出していいわけがない。
 水橋さんを助けて、一緒に地霊殿に帰る。
 そのためには。
(なにができる……!?)
 なにか――なんでもいい。無意識の力なんかじゃなくたっていい。
 鋭く敵の喉をえぐる、お燐の格闘術でも。
 及ばぬ力を補う、水橋さんの弾幕術でも。
 だが、今のわたしにそんなものは望むべくもない。
 奇跡は起きない。願いは叶わない。祈りは届かない。
 望めば裏切られ、無惨なしかばねを晒す。
 諦めが、再び心をじわじわと侵食してくる。
 視線が下がり、震える無力な自分の手と――地に転がった無力な第三の目が見えた。
 それをそっと包みこむようにして、わたしは泣き言をこらえる。
 なにもできない。
(おねえちゃん――)
 未だに輪郭でしかないその姿が。
 わたしを見た。そんな……気がした。
 体が総毛立つ。
 なにもできない。
 本当にそう?
 いいや、違う。
 できることがひとつだけ、ある。
「……せよ」
 わたしはずっと昔の記憶を辿って、その文言を得た。
 水橋さんは驚き、アリアは怪訝そうに眉をひそめ、わたしを凝視する。この場の全ての視線が突き刺さる。だが、もう身は竦まない。もっと強い想いがわたしの背を突き上げていた。
「なん……だ……?」
 ただならぬ予兆を察知したアリアの、その足が止まった。
 わたしは、手のひらを掲げた。
 第三の目。覚妖怪の象徴。
 お母さんが与えてくれた愛のかたち。
 おねえちゃんを信じられなかった――罰のしるし。
 数百年ぶりに蠢動する第三の目が、重たいまぶたを押し開こうとしている。
 この身に宿る血の霊性が、解き放たれようとしている。
「想起せよ、汝が悪夢を」
 初めて口にする、その高揚。
 これこそはおねえちゃんの――お母さんの――覚妖怪の、決戦の言葉!
 第三の目が爛と見開かれ、稲妻のような妖光を放った。妖光はアリアの目を灼き、その視界を奪う。不意に真っ暗闇の中に追い込まれたアリアは心の平衡を崩し、無秩序な思考を噴出させた。
 第三の目はそれらを感覚として捉え、わたしの脳内で像を結ぶ。
 悪罵と殺意にまみれたアリアの思念は、邪悪の一言だ。やっぱり他者の頭の中なんて、見るものじゃない。だが今は、アリアのトラウマをえぐり出す方が先だ。
「想起せよ――『テリブルスーヴニール』……!」
 わたしには、看破したトラウマを弾幕にするような器用なことはできない。おねえちゃんやお母さんのように、覚妖怪としての訓練を積んでいないからだ。それでも、トラウマを目の当たりにしたアリアがわずかにでも動きを止めてくれれば――
 炎と土砂の竜巻――のようなものがアリアを包み、その全身を打ち据える。爆風と土煙があがり、アリアの絶叫が空を叩いた。その瞬間、正視できないほどの悪意が膨れ上がり、わたしは思わず第三の目を逸らしてしまう。トラウマの支配がなくなった瞬間、アリアの手がわたしの首を鷲掴みにした。
「クソガキが! つまらねえもんを見せてくれやがったな! これがサトリ妖怪の力ってやつか……いや、そんなことはどうでもいい。てめぇはこのままくびり殺すっ!」
 アリアの見せた気だるさも優雅さも、麻草に酔った姿さえも、演技に過ぎなかったのかもしれない。そう思わせるほどの激昂ぶりだった。アリアがなにを見たのか、実のところわたしにははっきりとわからないのだが、数百年ぶりの読心に見よう見まねの催眠術としては抜群の出来と言っていいだろう。正気を失ったアリアの血走る目を見て、そう思えた。
 みしみし、と首の骨が軋む音がする。このまま頚椎ごと首を握りつぶされるまで、あとどれくらいなのか。不安でないと言えば嘘になるが。
 今このとき、わたしが念じるのは、たったひとつだけだ。
(やっちゃえ、水橋さん――!)
 土煙の中からゆらりと現れた水橋さんが、アリアの背後を狙って拳を繰り出す。
 いつ飛び出していたのかはわからない。けれど、必ずなにかをしてくれるだろうと信じていた。
 不意に、宙吊りになっていた体が投げ出された。思わぬ解放に肉体は歓喜したが、アリアがわたしに背を向けている。つまり、完全な奇襲をした水橋さんに正対していた。まだひとつ、狂気の底に冷静さを隠していたのか。わたしは水橋さんの名を叫ぼうとした。だが、言葉も思考も、追いつかない。
 アリアが拳を易々と回避する。そして、上半身を振り子のようにして放つ渾身の肘打ちが、水橋さんの胴に叩き込まれた。
 瞬間。
 その体が、緑色の残光とともに弾け飛んだ。
 ありえない感触を味わった暗殺者は驚愕に目を見開き――
 それがそのまま、朽桁アリアという妖怪の死に顔となった。
 水橋パルスィの手刀が、アリアの胸部を貫いていた。胸から突き出た腕を伝って、まるで蛇口のようにごぼごぼと血が流れ出している。
 苦悶にひび割れた形相のアリアが唇を震わせるが、声にならないようだ。妖怪は、命に関わる複数の臓器を破壊されて、なおも生きていられるような存在ではない。
「……わたしやおまえがどうだったって、こいしちゃんには関係ない」
 水橋さんが、虚空を見つめながら、言った。
「大きな葛篭と小さな葛篭だ。可能性も、不可能性も……選ぶのは、こいしちゃんなんだから……」
 ずるりとアリアの体が滑り、そして地にくずおれた。自分のつくった血の海に沈むその様は、まるで極彩色の命の夢だ。二度と目覚めることのない、永遠の夢。暗殺者の最期としては……たぶん、普遍的なものなのだろう。わたしにとっては、わたしや水橋さんに害意を向けた悪い妖怪でしかないのに、その死には一握の寂寥を覚える。
 水橋さんも、そのすぐそばにぺたんと座り込んでしまった。全身痛めつけられて無事とはとても言いがたいが、どうにか生き延びた。その安堵で、腰が抜けてしまったようだ。
 わたしも似たようなものだ。足から力が抜けてしまって、もう動けそうにない。けれどそれでも――当面の危機を脱した。考えるべきことが他にいっぱいあるんだろうけど、せめて今だけは、この虚脱感に身を任せていたかった。
 第三の目を、そっと持ち上げる。まぶたはひどく重く感じるが、まだ開いている。
 そのまなこに水橋さんを映してみようか、と誘惑に駆られたけれど、やめた。きっとおねえちゃんのことを考えているんだろうなと、思ったからだ。第三の目はやがて疲れたように涙をひとしずくだけ地に落とし、そのまぶたを閉ざした。
 わたしはまた誰の心も読めない、いびつな覚妖怪に戻った。
「ねえ、今の……どうやったの?」
 ため息をひとつついて、わたしは水橋さんに話しかけた。
「割れた風船みたいに弾け飛んだように見えたけど」
「……そういうスペルカードだよ。分身にいっぱい弾幕を入れておくの。今のは入れなかった……ていうか入れられなかったんだけどね。余力なくて」
 疲れきった口調だが、ちゃんと答えてはくれた。
「ごめんね、こいしちゃん」
「ん……なんで?」
「殺しの片棒を担がせた」
 水橋さんは恥じ入るように目を伏せた。わたしが水橋さんを助けるために、アリアを攻撃したことか。謝罪の理由は、正直よくわからなかった。そうしなければ水橋さんはともかくわたしは死んでいた。でも、水橋さんみたいな優しいおとなにとっては、わたしにさせるべきでないことをさせてしまったという認識になるのだろう。
 わたしはいいよそんなの、と首を振った。
「だって、わたしを助けてくれたんでしょ」
 その言葉を聞いて、ようやく水橋さんは苦笑いを浮かべた。
 しばらくして、騙し騙し動けるようになると、わたしは水橋さんに肩を貸して、家路についた。
 地霊殿に帰る。
 おねえちゃんが待つ、地霊殿へ。















「しりとりでもしよっか」
「水橋さん、何度目? もうやめて」
 古明地こいしの声はいかにも辟易としていて、思わず話しかけたことを後悔するレベルではあったが――
 他にやることもない入院生活二日目の午後、検査の時間さえまだ時計の針が二周ほど必要な時刻。潰すには巨大に過ぎる暇を、水橋パルスィは持て余していたのだ。
 あの晩、地霊殿に帰り着くことはなかった。変死体が発見された真夜中に血まみれでうろつくふたり連れとして通報され、警衛兵に捕らえられたのだ。パルスィたちは嫌疑をかけられながらも一応は安堵し、緊張の糸が切れて気を失った。
 パルスィの怪我のこともあり、すぐに病院送りにしてもらえたのは僥倖だった。そこからは変死体が朽桁アリアだと判明し、となれば当然シンジケートを追う星熊勇儀に話が通り、パルスィたちの身元はそのあたりで証明された。
 勇儀から連絡を受け、さとりと燐がやってきた。普段は頼りになるふたりが揃って取り乱す姿はそれなりに見応えのあるものだったが、ひとしきりの無事を喜び合うと、若干気まずい空気が流れた。
 さとりとこいしは互いからわずかに視線を逸らし、言葉を探していた。お互いに、もう避けられない対決であると、悟っていたのだろう。その糸口を見つけてしまえば、もう後戻りはできない。パルスィは、燐と視線を合わせた。燐はすまなそうに首を横に振った。姉妹に任せる他ない。
 短くはなかったその沈黙を打破したのは第三者、看護士の鶴の一声だった。
「面会時間終了です」
 パルスィはほっとしてしまったのはひとまず置いておくとして、さとりとこいしはどう思ってそれを聞いただろうか。
 出直します、と言い置いて出て行こうとする姉の背へ、こいしは言った。
「……聞きたいこと、あるから……」
「…………」
「また、来てよ」
 さとりはうなずき、そして病室を後にした。燐も従って退室し、あとにはパルスィとこいしだけが残された。パルスィはさとりのフォローにあれこれとこいしに話しかけたが、反応は薄かった。話し声が外に漏れていると看護士に叱られたため、パルスィは渋々布団をかぶった。こうももやもやさせられて寝られるものかと思っていたが、まだまだ休息を欲する体はあっさりとパルスィから意識を刈り取った。
 明けて翌日、案外おいしい病院食を食べたり検温とかされたりしつつ、ふたりでさとりを待っている。
 これが今までの経緯だ。
「水橋さん会話のレパートリーなさすぎ……友達とかと普段なに話してるの……」
「うぐっ……確かに仕事の話ばっかりしてるかも」
「……ていうか、いるんだよね? 友達」
「だから! 少しはいるって! わたしそんな孤独に見えるの?!」
「邪魔するぞ」
 パルスィがどよんとした空気をひきずったこいし(こんなときもさとりにそっくりだ)になじられていると、警衛兵がノックもなしに現れた。
 赤い一本角が目立つその鬼は、パルスィたちの身元を保証してくれた星熊勇儀だった。パルスィとは仕事でたまに顔を合わせていて、こいしとは昔からの知り合いだという。勇儀はさとりの旧知なので、当然といえば当然だ。
「ずいぶん元気そうだな。取り調べを再開してもいいのか?」
「なんだ、星熊童子か。さとりかと思った」
「なんだとはなんだ、全く。せっかく見舞いに来たってのに。ついでだが」
「誰か他にも入院してるの?」
「いや、骨折の調子を診てもらったんだ」
 勇儀は左腕を軽く振って見せた。もう三角巾で吊ってもいなければギブスも外れている。さすがは不死身の鬼族、治癒も並外れて早いらしい。
「大使様のは、まだだいぶかかりそうだな」
「まぁ怪我したのが一昨日じゃあね……」
 勇儀につられて、パルスィは自分の体に目を向ける。
 右足の骨折は言うに及ばず、あの暗殺者の胸に大穴を開けた右手もあちこち骨が折れていた。一番目立つのはそれらだが、他にも細かいあざは数え切れない。自分では見えないが顔も結構腫れてしまっているのが腹立たしい。
 こいしは骨折がない以外はパルスィと大差なかった。が、大麻を吸わされたのは確かなので、検査のために入院を余儀なくされている。
 こいしがこの程度で済んでよかった。パルスィは珍しく嫌味のない顔で笑った。
「名誉の負傷です。妬ましいでしょ」
「い、いやぁ? うん、よくやった……とは思うよ。奴にはわたしも逃げられてるんだし」
「……あなただったら……」
「うん?」
「あ、いや……こいしちゃん、ちょっと仕事の話をしてくるね。童子、外へ……」
 怪訝そうな勇儀を病室の外へ誘い出す。こいしは相変わらずどよんとしたままそれを見送るのみだった。
 病院の屋上に出る。人工太陽の光がまぶしい。ちなみにここまでは、松葉杖にしがみつくようにして移動するパルスィを見かねて、勇儀が運んでくれた。ゴミ袋でもかつぐような抱えられ方には不平もあったが、階段を上るのに毎度難儀しているのに比べれば、その程度は呑みこめた。
 勇儀が風になびくシーツを眺めながら、煙管とマッチを取り出す。
「ちょっと。院内禁煙」
「ん? ちゃんとここに灰皿が設置されているが……」
「むむ……先生方もストレスあるんでしょうね」
 風下にいるうちは黙認することにした。
「それで?」
「……わたしが殺したあいつ……なにかわかった?」
「ああ。身よりはなかったが、同居相手に話を聞けた」
 ぴく、と眉が動くのを自覚する。あの暗殺者が気遣っていた女のことだ、と思い至ったからだ。
「泣かれはしなかったし、いつかこうなるだろうとは思っていたそうだが……まぁ複雑そうには見えた。それで――」
 朽桁アリアは、元は地底拡張事業の従事者であり、奴隷も同然の扱いを受けていたという。坑内崩落の際に自分の死を偽装し、以後は地底の社会の隅を這うようにして生きてきた。比較的寿命の短い妖怪たちの間で混血が進んだために種族不明の妖怪に成り果て、自分の力を引き出せなくなったという手合いだそうだ。地底時代も一千年続けば、そう珍しい話でもなかった。身体的形質はあやふやになり、幼いうちに家族と離別すれば自分の中にどんな能力が眠っているのか知ることさえできない。自然と力を発現する者もいるが、しない者の方が多かった。
 そして、そんな妖怪が一線級の暗殺者として活躍していたというのは他に類を見ないことだ。これからそんな事例も増えていくのかもしれない。新たな時代の、うねりのひとつとして。
「あの晩アリアがあんたと出くわしたとき、既に大怪我をしてたと言ってたな。けどまぁ、相手からしてみりゃ痛み分けもいいところだ」
「相手?」
「シンジケートさ。隠れ屋敷の奥深く、万全の体制で裏切り者を制裁しようって待ち構えてたのに、死者九名の大騒ぎだ。重軽傷なんて数えるのも馬鹿らしい。実を言えば、その騒ぎがあったから奴らを一網打尽にできたんだがな」
「ふうん……」
「だからまぁ、なんだ。気に病むことはないんじゃないか」
 見透かされていたのか、と内心驚く。
 パルスィは石膏と包帯で固められた自分の右手を見た。
 一千年ぶりに命を砕いたその感触は、さほど特別なものではなかった。果物に使い慣れた包丁を入れるときのような、なんでもない手触りだとしか思わなかった。
 そんなものを、すっかり忘れてしまったきり、そんなことはもうできないと信じていたのだ。
「あなただったら、殺さずになんとかできた?」
「どうだろ。力の加減を誤って殺っちまってたかもな。逮捕術とかそういうのがうまいのは、やっぱ燐だな」
 勇儀は煙管を口から離し、紫煙を吹き出した。煙は風になびいて細く千切れ、地底の空気に拡散していく。平和になったこの時代において今なお殺しに長けた妖怪は、そんな素振りを見せもせず、呑気そうだ。
 聞いてもよさそうかな、と勝手に空気を読んで、パルスィは問う。
「星熊童子は、殺すのは嫌じゃないの?」
「大抵のもんは嫌だね。宴会とか酒飲むことに比べりゃ」
「わたしはやっぱり昔から嫌だった……と思う……」
「殺したのを後悔すれば許されるってもんでもないだろ」
「…………」
「さっきも言ったが朽桁アリアは一昨日死ななきゃ今日も誰かを殺してたような妖怪だぞ。殺して感謝こそされても、恨まれはしないさ」
「あいつを待ってるひとがいた」
「そりゃあんたにもだろ。五分の条件で戦ったに過ぎん」
「そうだけど……」
「それに、こいしちゃんも守らなきゃいけなかった。あんたの方が勝つべき理由が多かった……足し算で考えればそうなるが、これで満足か?」
 パルスィは眉間に皺を寄せた。意外と口の回る星熊童子に対して反論が出てこない。
 警衛兵に言いくるめられる外交官……かなり微妙だ。専門家に挑もうというのがそもそもの間違いではあるが。
(わたしの迷いなんて、とっくに通り過ぎちゃってるんだろうな。こいつは)
 じろっと睨んでやると、勇儀は口元だけで微笑した。
「……地底の治安維持に関わって一千年、わたしだってちょっとは考えも変わった。だが守らなくちゃいけないもんがあるってことは、許しちゃいけないもんもあるんだよな。それがぶつかりあっちまえば、やっぱり命のやりとりは仕方ないんじゃないか」
 善も悪もなく戦うことに全てを懸けていた、鬼という種族。地底追放紛争での敗北を喫して最も変化を迫られたのが、彼女たちなのだろう。負けてなお戦いから逃げず、地底時代を守り続けてきた。それだけが戦いに触れる手段だったのかもしれない。それ以外に生きる術を知らなかったのかもしれない。でも、その果てに見出した矜持は、鬼たちだけの特別なものだ。
 その目は少し遠くを見ていたけど、気楽なものも窺える。
 なかなかに妬ましい、とパルスィは思った。
「わかりましたよ、もう。どうせわたしは誰かに殺しを正当化して欲しかっただけですよ」
「そこまで言うか。あんたらしいけど」
 パルスィは手すりに身をあずけ、眼下を一望する。
 前庭の花壇の近く、車椅子に乗った老妖怪を囲むようにして子供たちが歌っている。
 昔のパルスィなら鼻で笑って唾でも吐いていたところだが、今はああいうのもいいなと思う。いつか自分もさとりやこいしとあんなふうになれたら幸せだ。自分が血にまみれることでその可能性を守れたとすれば、パルスィはもうそれ以上は求めない。
「あとは、さとりに慰めてもらいます」
「あっそう」
 勇儀は白けた顔で煙管を灰皿に叩きつけた。
 話はそろそろ終わり、というジェスチャーだ。パルスィはもう一度、あの微笑ましい光景を目に映しておこうと前庭を見た。
「あれ……お燐?」
 見舞いの品や花束を抱えた燐の赤い頭が、病院へ向かってくるのが見えた。こちらに気づくと軽く手を振り、院内へ入っていく。パルスィは手を振り返したポーズのまま、呆然とつぶやいた。
「ひとりで来たのか……さとりは?」
「あいつなら、今日はなんか忙しいって言ってたけど」
「うぇぇ?」
 思わず奇声が出てしまった。
「休みの間に仕事が溜まったとかなんとか……聞いてないのかい」
「いや、全然……でも今日はこっちに来るはずで……あ、まさか。そうに違いないな。まったく、さとりったら」
「話が見えんぞ」
「説明は後で。星熊童子、ちょっと地霊殿に――いや待てよ」
「だからひとりで話を進めるなっつーに」
「隠れ屋敷」
「あん?」
「シンジケートの隠れ屋敷に案内してくれる?」
「……は?」
 勇儀はぽかんと大口を開けた。
 時刻はまだ正午をいくらか過ぎた程度。絶対今日中にあれを見つけて、さとりの尻を叩いてやる。パルスィは鼻息荒く『ほらはやく』と勇儀を促した。





 水橋さんと勇儀さんが話とやらをしに行ってからしばらく、花束で顔を隠した何者かが病室に現れた。赤い三つ編みお下げは隠れていないので、正体は明白だったが。
 そいつはぬけぬけと無理のある低い声で問いかけてきた。
「ふっふふふ。だーれだー?」
「お燐」
「わかんないかー。いい子のこいしちゃんにはヒントをあげちゃおうかなーどうしようかなーん」
「いらない、お燐でしょ」
「なんですかもー、ちょっとはつきあってくださいよ!」
 ベッドの上でにべもないわたしの態度に、半泣きのお燐の顔があらわになる。
「退屈してるだろうから、ちょっとした変化を演出しようと思ったのに」
「どいつもこいつもってのが本音だよ」
「いやいややさぐれすぎですよ」
 泣き真似をやめたお燐は花瓶に花を生け始めた。淡いピンクのガーベラ。無難なチョイスだが、飾り気のない病室にはいいアクセントになる。周囲が無機質なものだらけな分、かすかに香る花の匂いがわたしの心を和ませた。
 花瓶をよく見えるようにチェストの上に置き、お燐はベッド脇の丸椅子に腰掛けた。
「どうですか、調子は」
「ちょっとだるい……かな。大麻とかいうの、二度と体に入れたくない」
「もちろん、そうしてください。故意であっても、故意でなくても」
「故意でないのはどうしようもないんじゃん?」
「そういう状況にならないようにしてください、ということです」
 お説教の気配をびりびり感じる。もちろん昨日みたいにおたついている方が珍しいんだけど、不機嫌なそぶりを見せれば今日も回避できるかと期待していた。その考えは甘かったと言わざるをえない。お燐は怒っているんじゃあないけれど、とても優しい顔をしてるんだけど、それがなんだか、逆にわたしの胸に突き刺さる。
 がさっと音がして、わたしは顔をあげた――顔を伏せていたことに、いま気づいた。お燐の目を直視できていないのだ。お燐は紙袋からりんごとナイフを取り出しているところだった。
「今回のこと、こいし様に非はない」
「…………」
「わけないのは、わかってますよね。誘拐それ自体ではなく……自ら、危険な地域に近づいた」
 昨日半日をかけて警衛兵に説明した、わたしが誘拐されたときの状況。ちゃんとお燐に伝わっているらしい。
 お燐はナイフの刃をりんごに添え、音もなく皮を剥く。
「無意識のやったこと、とおっしゃいますか?」
 しゃべり方が、友達のそれではない。かつてわたしのお母さんから申し付けられた、わたしの世話役としての燐だ。親しくはあっても友とは呼べない。
「お燐は……いつからわたしに操られてるって、気づいてたの」
「はっきりいつとは言えません。けど、薄々と……こいし様の現状を誰とも相談する気が起きないということと、こいし様の身につけた能力を結びつけることは、簡単でしたから」
 わたしの能力。言葉にしてしまえば単純なものだ。
 無意識を操る能力。そして、それに付随するいくつかの能力。
 それらの本質は、どれもが姉を遠ざけるために機能することにあった。
 心を閉ざすことで読心を阻んだ。無意識に潜むことで存在を隠した。接触してきた者の無意識を操ることで、擬似的にその精神を支配した。
 わたしと姉、そしてそれ以外の全ての無意識を操ることで、わたしは姉を避け続けてきたのだ。
「嫌いにならないで」
 口をついて出た言葉に、お燐は目を丸くした。そして、それ以上にわたし自身がびっくりしている。無意識に? いや、きっと今までは、むしろ無意識のうちに言わずにおいた言葉だっただろう。
 それを言えたのは、水橋さんのおかげで思い出したからだ。
 呼べば答える声もあるということを。
「わたしがどんなになったって、お燐はお姉ちゃんと同じくらい、離れたくなかったの。ごめん……ごめんなさい……」
「…………」
 お燐は黙したままりんごとナイフを脇に置いた。なにを言うか迷っているのか、単に間をとっているだけか。なんにしても、その数秒はとても長く感じられる。
 懸念がひとつあるのだ。
「あたいは」
 お燐は丸裸になったりんごを眺めながら言った。
「今もこいし様に操られているんですか?」
 わたしが操ったお燐の無意識は、わたしと姉の関係について詮索をしないという一点だけだ。姉の無意識はかなり徹底してわたしに都合のいいようにしてきた――そうでもなければ恐怖に耐えられなかった――が、お燐はそれと比べれば影響は少ないはずである。
 ただ、わたしは今回のことで自分がどれだけ不安定な力に頼っていたかを思い知った。
「わからないの……」
 正直に答える。
「少し前からずっと、力を使おうとしても使えないの。でも第三の目を閉ざしたあの日から、わたしが特に意識しなくたって、みんなは大なり小なりわたしの影響下にあった……今のお燐がわたしの望んだお燐でないなんて、わたしには……保証できない」
「……ふぅん。なるほど。それじゃあ」
 お燐はうんうんとうなずきながら軽い調子のあいづちを打つ。妙に思えて伏せていた目線をあげると、お燐の両手をこちらへ伸ばしているところだった。反射的に避けようとしたが遅く、その手はやわらかくわたしの頬を包んだ。そのまま、タコ顔になるまでむぎゅうと挟みつけられる。
「ふぐぐ……な、なん……お燐??」
「それじゃ……こんな真面目な空気の中でこーんな――」
「ふぐぅー!」
 頬をつままれてむにむに引っ張られながら、わたしはうめき声をあげる。頬を放されたと思えば、なんとお燐はがしりと肩を組んできて、わたしの頭を無造作に撫で回した。わたしが目を白黒させていると、お燐は今度は猫の姿になって、わたしの頭にへばりついた。ばしばしと猫パンチを繰り出し、わたしの髪の毛をならし始める。
「にゃーんにゃーん」
「ちょ、ちょっと……なに言ってるかわからないよ、お燐……!」
「にゃーにゃー……あ、そうだった」
 鳴きながら変化し、元に戻るお燐。わたしにのしかかる形になっておいて、すまし顔で憎たらしいくらい平然としている。
「こんな真面目な空気の中でこんなふざけたことしちゃうのが、こいしちゃんの思い通りのあたいかもしんないんですか。わけわかんないですわ」
「は……えっ? どういう意味……なにが言いたいの?!」
 混乱するわたしをよそにお燐はベッドから降り、再びりんごとナイフを手に取った。ここからどうするのかと思っていたら、剥いた皮を入れていた紙袋をチェストに敷いて、まな板代わりに荒々しく切り分け始めた。
「なんでも思い通りになるなんて、思い上がりですよ」
 ざくり、と。それはお燐がりんごを切った音でしかないのに。
 確かに心の中でなにかが切られた。そう思った。
「こいしちゃんはこのりんごをそのまま食べるかすりおろして食べるかだって、選べませんよ。こいつは明日アップルパイにしてきますからね」
「ふ……ふふ。あはは。なにそれ」
「こいしちゃんがお馬鹿なことを言うもんだから、今日は食べさせてあげません」
「じゃあ切らなきゃいいのに」
「……やっぱり、切っちゃった分くらいは食べましょうか」
 決まり悪そうに、お燐は頬をかいた。わたしは笑いながら、自然と笑っている自分のことに気づく。お燐はわたしの言いなりなんかじゃないと、信じられた。
 その後、人工太陽の消灯まで、いつもみたいに楽しくお喋りをして過ごした。
 お燐と出会ってから今日までの、いつもみたいに。





 隠れ屋敷の捜索を終えて、パルスィは地霊殿に戻ってきた。杖をつきながらの歩行はそれだけで難儀なものだが、医者からは飛行術の使用を禁止されている。飛んでもわかりっこないだろと医者に言ったところ、なんと採血して調べれば簡単にわかるものらしい。ただでさえ病院脱走中でお叱りは避け得ないものの、それくらいは甘受しようと思って、かつんかつんと杖を鳴らしている。
 勇儀はデスクワークに戻る、と虚ろな目をして帰路の途中で去っていった。長いことつきあわせてしまって今さら申し訳なく思ったが、成果はあった。パルスィは小脇に挟んでいた箱を抱えなおした。
 玄関は開いていない。倉庫につづく勝手口とはまた別の通用口を合鍵で開き、パルスィは帰宅を果たした。
「おかえりなさい……」
「うわああああああ!」
 暗闇からの声にパルスィは飛び上がった。そして着地をしくじり、不運なことに右半身から地面に倒れこむ。折れているのは手足とも右だった。
「ぐあああ……! いっ……いだい……!」
「驚かせてしまいましたか」
「もっとすまなそうにしなさいよ!」
「すいません」
 仰向けになったパルスィの目に映ったのは、上下が逆さまになった婚約者の姿だった。柱の影で膝を抱え、うろんな眼差しでパルスィを見ている。ひどい顔だった。まさかそんなわけもなかろうが、一晩中そこにいたのではないかと思えてくる。それくらいの憔悴ぶりだ。あるいは誘拐・監禁されていたパルスィよりも。
 パルスィは体を起こした。肘と膝で這い、さとりの隣に座る。
(おかえり、か)
 違和感を感じなかったことに、逆にひっかかりを覚えた。けれど、もう本当に違和感などあるわけがないのだ。
 地霊殿で、さとりが迎えてくれた。これ以上に帰ってきたと思える瞬間はない。
「今日は黒か、というのはなにに対する感想なんですか?」
 浸っていた感動をぶち壊しにする婚約者に苛立ちを覚えないでもない。パルスィは咳払いをひとつ挟んで誤魔化し、お説教の口調で言う。
「あんた、なんで病院来ないのよ」
「わたしのパンツ見て喜んでる婚約者がなんか嫌で……」
「見えたもんはしょうがないでしょうが!」
 パルスィは隣の馬鹿女に頭突きを叩き込んだ。あとは別に喜んでないと言ってやってもよかったが、普通に傷つきそうなので口には出さないでおいた。
 痛みに悶絶してさっきのパルスィにそっくりの姿勢で倒れたさとりは、そのまましばらく起き上がってこなかった。怪訝に思っていると、くすん、鼻をすする音が聞こえた。
「……わたし、ずるい女です」
「まぁ……うん……知ってるわ。ていうか」
「そして、ずるい姉です……」
「……それはどうして?」
 うざい女の間違いだろと半ば本気で突っ込みかけるも、姉妹の話とわかったのでまたも口には出さずにおく。喧嘩になりかねない。
「こいしの力が戻れば、あの子がまたわたしを操って、お母様の話をせずに済むんじゃないかって、思ってるんです」
「確かにずるい」
「あぅ」
 ストレートに同意されるとは思っていなかったのか、さとりは動揺した。
「でもそうね、当たってるかもよ。こいしちゃんもいよいよ逃げ道がなくなったから、あんたと会う覚悟を固めた。その逃げ道がまたできれば……」
 こいしの様子を思い出しながら、言外のなにかを含ませる口ぶりで言う。さとりは第三の目をこちらに向けていなかった。
「あの子、わたしのこと……その、なにか言っていましたか?」
「ますますずるいぞ、おねえちゃん」
「ううううう」
 倒れたままさとりは頭を抱え、足をじたばたさせている。地底の支配者がなんともみっともない駄々っ子のような姿だが、はたと気づいた。自分が今言った通りだ。
 ほんの少し前までは知らなかったさとりの一面。
 こいしの姉としてのさとり。
 姉妹の時間が止まってしまったまま、強くなることができなかった。不意に開いた傷口の痛みに、為すすべなく涙を流している。
 直接パルスィの心を見ることさえ恐れて、姉は妹に背を向けようとしている。
「ねぇ、好きだよ、さとり」
 妙なタイミングで妙なことを言ったという自覚は、後からついてきた。体を横たえたままこちらをうかがうさとりと目が合い、『あ、いや……』と曖昧に誤魔化す。さとりは癇癪を起こす機を逸して、釈然としない顔でパルスィの隣に座りなおした。
「あなたのこと、段々よくわからなくなってきました」
「たぶんマリッジブルーだから気にしないで」
「わたしの? あなたの?」
「さぁね。でも、わかったなんて言えるのは、ほんとはそんなに多くないんだと思うよ」
「……そうなの?」
「ああこれもそこまで深い意味はないから……」
 わけのわからないことを言ってしまったせいでどんどん深みに嵌っていっている気がした。ここまでお互いに暴投ばかりの会話は、何気に初めてだった。パルスィとしてはさとりを安心させてやりたいのだが、なにを言えばそれを与えられるのかがわからないのだ。さとりの伴侶としてはまだまだ経験不足である。
 精進せねばなるまい。
 少し考えてから、また口を開く。
「わたしさ、病院から抜け出してきてるわけだけど、世間的には鬼の取り調べからも脱走したことになってるんだよね。無辜の市民を殺害した容疑の……まぁ無辜の市民では全くなかったんだけど」
「……え。はぁ……」
 さとりの吐息に困惑したような響きが混じって聞こえた。そんなさとりに、パルスィは包帯まみれの右手を掲げてみせる。
「この手で朽桁アリア……犯罪者を殺したよ。そうじゃなきゃ、止められなかった。あんたの気持ちも、またちょっとはわかったのかもね」
 さとりは再びその目を潤ませた。感情的な姿をたくさん見せられて、また好きだと言ってしまいそうだった。さとりの肩にもたれかかるようにして、その衝動を鎮める。
「……すいません。こいしのために」
「それだけじゃないよ。自分のためでもあるし……あんたのためでもある。そうでしょ」
「はい……あなたに会えなくなるなんて絶対に嫌です」
「なら、帰ってこれてよかった……あんたの場合、こいしちゃんにこんな簡単には、言えないよね」
 ふたりで過ごす暗がりの中で聞いた話を思い出す。
 さとりが母を殺したのは、理不尽な犯罪に巻き込まれただけのパルスィとは事情も経緯も違う。だが、当時妖怪としての絶頂期にあった母と相対したさとりは、その命を奪うことでしか止められなかった。その状況だけが近似している。
 もちろんどうしたところでさとりが母を殺した事実は変わらない。さとりは何も知らないこいしから母を奪ったことに負い目を感じているのだ。
「それでも……こうやって、生きてて顔をあわせれば、わかることもあるじゃない。あの子に会う理由は、それじゃ駄目なの?」
「……自信がないんです。本当のことを知れば、優しいあの子はきっと傷ついてしまう。そのときわたしは、こいしになにも言ってあげられないんじゃないかって……」
 さとりは膝に顔をうずめた。かすかに震えているようでもあった。
 姉妹というだけあって、やはり似ている。先のことを想像し過ぎて、独りで不安を抱え込む。自分にも思い当たるふしはあるから、類は友を呼ぶ、といったところだろうか。それならそれで、気持ちを汲んでやれることもあるだろう。
 さとりとこいし、ふたりのことを思う。
 不思議なくらいにすんなりと、胸の中の想いが言葉になった。
「……ね、さとり。どんな言葉だろうと、こいしちゃんはそれを待ってるんだよ」
「…………」
「わたし、あんたのことずるいとこもある奴だって知ってるけど……でも大切なものを放り出すほどずるくないってことも、ちゃんと知ってる。もうちょっとくらい泣いてていいから……そしたら、こいしちゃんのとこに行ってあげて。フォローはするからさ」
 顔をくしゃくしゃにして涙をこらえるさとりを強く抱き寄せる。その涙を自分だけのものにしたかった。パルスィはさとりの髪に唇で触れ、頬に指を這わせる。愛しさを伝えるのにできること、その全てを知りたい。きっとその全てをかけてでも、さとりに届けたい想いに足りない。それでも。
 さとりの静かな嗚咽だけが耳を打つ。
 薄明かりの中、いつの間にかまどろんでいた。すぐそばにあった体温がそっと遠ざかったことでそれを知った。
 目元をこすりながら、傍らに立って身づくろいをするさとりに呼びかける。
「……行くの? わたしも……」
「怪我してるんだから、休んでいてください。病院にはわたしが連絡をしておきますから」
 言われてみれば、確かに折れた手足がじんわりと熱を帯びているように思える。だがそれよりも、パルスィはさとりの青ざめた表情の方が気になった。
 独りで立ち上がり、こいしのもとへ行くつもりではあるのだろう。しかし、こいしのことや母のことはさとりのトラウマと言うべき事柄だ。足取りが重いのも無理はない。
 やはりついていってやりたいが……逆に歩行に難儀する自分がもたもたすれば、さとりの決意に水を差しかねないか。
「うーん……じゃあそこの箱だけでも持ってってよ」
 パルスィは少し離れた場所に転がっている箱を指差した。さっきさとりの不意討ちをくらったときに放り出してしまっていた。
「なんですそれは」
「こいしちゃんに渡して。喜ぶと思うからさ」
「……わかりました」
 さとりはひょいと箱を持ち上げる。予想外の軽さに少し拍子抜けしたように見えた。そして箱の表面に書かれた押収品ボックスという文字に目を留め、眉をひそめた。
「これ、なんなんです?」
「いいから行ってきなって。頼まれごとでもあったほうが、行きやすいでしょうが」
「それはまぁ……そうですけど……」
「がんばれ、おねえちゃん」
「むー……」
 通用口が開かれ、冷たい夜の空気が流れ込んでくる。天候が妖怪の手によってコントロールされている地底では予報外の雨や雪は降らないが、寒さ自体は地上より厳しいものがあった。暖を取らなければ風邪を引いてしまいそうだ。松葉杖を引き寄せて立ち上がり、さとりと視線を合わせる。
 合わせ鏡の瞳に互いを映す。お互いに素直な感情表現は苦手だけれど、今日だけはこれ以上言葉の必要ない夜だ。ふたりはどちらからともなく、小さく笑った。
 最後にパルスィへ一瞥を残して、さとりは地霊殿を出て行った。
 古明地姉妹が間もなく対面することで、その関係にどんな変化が訪れるだろう。パルスィはなおもその場でぼんやりと考えていた。そんなに悪いことは起きないんじゃないかとは思っている。だが、それでも変化は変化だ。
 どうあっても今まで通りではいられない。間違いが正されるのか、それとも正しい形など最初からありはしないのか。
 墓に埋めて隠したつもりの弱さと醜さを暴き、自分の中の変化を受容したとき。
 初めてそれがわかる。
 そして、そんな儀式が済んで、自分が当事者でなければ、変わらないことを選ぶことも出来る。
 さとりは自分の婚約者で、やがては最愛の妻となる。
 こいしは自分の義妹で……これから良い関係を作っていけたらいい。
 誓いを立てるその日を思うと、心が弾んだ。





 カーテンの隙間から差し込む常夜灯の薄明かりだけが、病室を照らしていた。
 面会時間を過ぎても、消灯時間を過ぎても、姉は現れなかった。
 お燐はそんな姉を罵りながら退室していき、病院を脱走した水橋さんを追跡・捕獲する計画を立てようと看護士たちがばたついていたのもだいぶ前の話で、わたしは静かな部屋に独り、ベッドの上の大きな枕にもたれかかっている。
 思えばこの数百年は、ずっとこんなだったと言えるのかも知れない。
 自分の操る姉やお燐に寄り添うに過ごしながら、その全てはガラスの向こう側の出来事でしかなかった。時間が過ぎ、季節が巡って、姉もお燐も変わっていくのに、わたしだけが過去に取り残されている。
(もう……逃げたくない。でも……なんて声かければいいんだろう)
 かつての姉はわたしのお願いなら、かなり無理をしてでも聞いてくれていた。だがそれもわたしの知る姉の話だ。今夜にしても、来るか来ないかさえ、不安だ。朝からずっとそればかり気にして、水橋さんがいなくなっていたのにも気づかなかった。わたしを助けると言っておいて、ひどい裏切りである。
 胸騒ぎが止まらなくなってきた。裏切り者はともかく、今からでもお燐を呼び戻したい。二人きりでの対面はまだ時期がはやいような……
(って、こんなこと考えてると)
 悪い予感は望まない結果を引き寄せる。
 控えめなノックの音が聞こえた。医者や看護士たちは、呼ばない限り今夜はもう来ない。面会時間は終了している。誰も来るはずがないのに、現れる何者か。
 姉に決まっている。
 わたしが返事に窮しているうちに、もう一度、扉が鳴った。
 黙っていれば、このままやり過ごせるだろうか。そんなことが、ちらりと脳裏を過ぎる。
「……入って」
 迷いを断ち切り、声を張り上げる。朽桁アリアを怒鳴りつけたような声にはならなかったが。
 扉が開き、姉がその姿を現した。姉はベッドサイドまで二歩を残す距離まで来たが、うつむき加減で、目が合わない。でも、わたしが目を逸らしたときには、わたしをきっと見ている。文字通りに視線で探り合う数秒の交錯があり、昨晩をそのまま繰り返すような気まずい沈黙が室内に立ち込める。
 今度は時間切れもない。お燐も水橋さんも、看護士さえ現れる理由がない。
 完全な姉妹ふたりの水入らずだ。前言を撤回して窓からでも逃げようかと勘案していると、姉の頭に巻かれた包帯に気づく。
 わたしが……負わせた怪我だ。
 姉はなにも言わない。わたしは、姉のことを考えた。
 わたしに数百年も無意識を操られていた姉は、その間のわたしに関する記憶はものすごく曖昧なはずである。いるかいないかも定かではない、夢の産物のような、そんな存在が突然『現実』に現れ、声をかけたら逃げられた。混乱するのも当然だ……
 今もまた、同じことを恐れているのではないか。
 触れては融けゆく雪のように。
 わたしがまた、夢の中へ消えてしまう。
 そんなことを。
 それは、わたしの、こう思っていて欲しいっていう願望に過ぎない。それを押しつけるのは、結局、今までとなんにも変わらないのかもしれない。本当に進歩のない、嫌になるくらい弱いわたしだ。
(でも)
 顔を上げる。
(だけど)
 見る――姉を――おねえちゃんを。震えていた。
 目元の隈と、涙の痕。一目見て泣き腫らしたとわかる顔。
 わたしと同じくらい弱そうな女の子が、目の前で途方にくれて、今にも泣き出しそうだった。
「おねえちゃん」
 わたしから呼びかける。
 わたしから歩み寄らなければならないと思った。
「ちゃんと来てくれたんだね。わたしそれだけで嬉しい……でも、ひとつだけ、絶対聞かなきゃいけないことがあるの」
 ゆっくりと、おねえちゃんも顔を上げた。涙をこらえたまま、口元を引き結んでいる。なにを聞かれるかなんてわかりきったことだ。わたしがおねえちゃんを拒否しなければ、それはとっくに明らかになっていたのかもしれない。地霊殿の倉庫で出くわしてしまったときに――あるいは数百年前に。
 目と目が合い、視線が絡まりあう。たったそれだけのことがずいぶん懐かしい。胸の奥でつかえそうになる言葉を、わたしは必死に喉から押し出す。
 きっと聞いてくれる。そう信じる。
「今度は逃げない、ちゃんと聞くから……だから……聞かせて、おねえちゃん。どうしてお母さんを……殺したの……」
 静寂に消え入りそうな声だったが、おねえちゃんの耳には届いたのだろう。
 おねえちゃんは大きな深呼吸を繰り返した後、答えた。
「あなたにどんな嘘をつくか……道中、そればかりを考えていました」
「……嘘は、思いついた……?」
「いいえ。普通の妖怪よりは、嘘をつくのもつかれるのも慣れてるはずなんですが。どうもやはりわたしは……不器用なようです。こんなときに限って、ありのままをあなたに伝えるしかないって、思っています。あれから何百年も経つのに」
「おねえちゃんは、きっとわたしも知ってることを言うんだと思う……でも……わたしはそれを、おねえちゃんの口から直接聞かなきゃいけなかったの」
「わたしも同じね。あなたに伝えなきゃいけないと確かに思っていたはずなのに、それを無意識のせいにして避けていた」
「わたしたち……いっぱい、間違ったんだね」
「ええ」
 微笑みあう、というわけにはいかなかったけれど。
 注ぎあう眼差しに温度が生まれる。それは断絶の前と全く同じではない。
 きっと同じにはなれない。
「わたしたちのお母様はある製薬会社に資金を流し、孤児院の子供たちを使って非合法の投薬実験を繰り返していました」
 欠落し、失われたものがあるからだ。
「孤児院はそのためにつくったと……もともと身寄りのない子供ならば、突然いなくなったとしても、文句の出所は少なく済むと……」
 それを、わたしは。
 わたしと、おねえちゃんは。
「そう言ったお母様を許せなかった」
 別のなにかで、埋めることができるのだろうか?
 水橋さんと、おねえちゃんの間のように。
「……信じられるかしら。こいし……わたしたちのお母様の、真実を」
 おねえちゃんの強い視線がわたしを射抜いた。
 孤児院とは、かつてお燐やお空もその幼少期を過ごしていた施設だ。そこでの計画的な失踪事件は数ヶ月、あるいは数年に一度ほどの頻度で行なわれ、犠牲者を増やしていた。お燐たちがわたしの世話係として引き抜かれる前後でさえ、それは続けられていた。
 孤児院のペットたちに順番をつけたいわけではない。
 もしもの想像で憎しみを増やすなんて、馬鹿げている。
 それでも心に波打つその感情を、わたしは否定できないでいる……
 ぞくりと、肌が粟立つ。力の予兆を感じたのだ。
 失われていたはずの無意識の能力が、急激に膨れ上がる。どうして今になって、という問いはもう浮かばなかった。タイミングとしてはむしろ、今しかないくらいだ。わたしが心の底から逃げ出したいと思うときは。
 再びおねえちゃんの前から、わたしは消失する?
 あるいは、今度こそおねえちゃんを完全に支配して、古い記憶の牢獄へ監禁する?
 どちらもが魅力的で、安易な逃げ道に思えた。
 わたしの力をもってすれば、どんな選択でもそれを咎められる者はいない。わたしの全身が淡く発光する。もういつでも、力を発動してしまえる状態だ。決別の光に照らされたおねえちゃんは、なおも表情を変えなかった。
 おねえちゃんの第三の目が、わたしを見つめていた。
 映された断絶から逃げることもなく。
 わたしの第三の目もまた、閉ざされているが故に、わたし自身をずっと見つめている。
 他のなにものも映せなくなったその瞳は、自分がどうしようもない卑怯者だと知っていた。力ない笑みが我知らず口元を歪め、光の明滅が波を激しくする。虚ろな力に満ち満ちた全能感は、白状すれば、とても懐かしく思えた。
 光が、ひときわ強く瞬いて――――





 そして、消えた。最後の二歩をわたしから詰めて、目を見開いて呆気にとられたおねえちゃんの手をとった。その震えを無理やり押さえ込むように、強く強く握り締める。
「信じるよ」
 わたしは言った。
「わたしの見てたものだけが全部じゃないって、やっぱり知ってたんだ。でもお母さんと……おねえちゃんだけはそうじゃないって思いたかった」
 自分の知っている綺麗で心地いいものだけが全てなら、この世はなんと楽なものだろうか。なにもかもが自分の手の及ぶ範囲にあって、触れるものは丸く柔らかいものだけ。そんな世界があったとして、それは無制限の愛情を持つ誰かがいる間だけのものだ。
「わたしが見ようとしなかったものをちゃんと見るよ。すぐには難しいかもしれないけど……お母さんのこと、話してくれてありがとう、おねえちゃん……」
 おねえちゃんはしばらく目をまん丸にしていた。わたしの言葉がよほど予想外だったのだろうか、何度かなにかを言おうとして口をぱくぱくさせてもいたけど、すんなりと言葉が出てこないようだ。
 結局、おねえちゃんは目を伏せて、こんなことを言った。
「もっと……なにか……恨み言を言われるかと思っていました」
「言ってもいいのかもしれないね。でも、言わない……おねえちゃんだって、辛かったはずだもん」
「……こいし――」
 おねえちゃんは、わたしを強く強く抱きしめた。
 もう離すまいという想いが、その熱から伝わる。
「――ありがとう」
 わたしとおねえちゃんは、それから看護士さんに見つかるまでの間、今までのことを話し合った。お母さんのこと、お燐やお空のこと……それから、水橋さんのこと。その馴れ初めや逢瀬についてたずねると、おねえちゃんが気恥ずかしそうに早口になるのが面白くて、わたしは特に水橋さんのことをたくさん質問した。
 第一印象では、頼りなさそうなへらへらした女に過ぎなかった。でも、じっくり話してみるとおせっかいでちょっと強引で、意外とおとなで優しい。悪い妖怪とだって逃げずに立ち向かって――ぼろぼろになりながらも、わたしをちゃんと助けてくれた。水橋さんが自分で言った通りに。
 まだ出会って数日だが、評価はひっくり返って悪くない。あのお茶会の一応の目的を思い出してみるに、わたしの裁定はそんなところだった。
「そういえばさ……その箱、なんなの?」
「あ。忘れていました」
 ベッドの縁に腰掛けたおねえちゃんの膝の上にずっと乗っていて、妙な存在感を放っているその箱。押収品ボックス、とぞんざいに書きつけられた小ぶりなダンボール箱。まさか見舞いの品が入っているわけではないと思うが、他に想像もつかないそれに、わたしはようやく突っ込みを入れた。
「出がけに、パルスィに渡されたのでした……あなたに届けて欲しいものだそうなんですが、中身は確認してませんでした」
「やっぱりわたし宛なんだ……でもこれって……」
「ええ、書いてある通り、警衛兵の押収品入れのようですね」
 警衛兵と言われて思い出すのは、やはり勇儀さんだ。そういえば昼に来てくれて……水橋さんと一緒にいなくなったきりだ。ぼーっとしていてまったくお構いもせず、今さら申し訳なく思った。
「まぁ、開けてみようか」
 わたしは何の気なく箱の封を剥がし、その蓋を開けた。
 中身を見て、わたしとおねえちゃんは、思わず顔を見合わせた。
「水橋さんって、不思議なひとだね」
「……ええ、本当に」
 水橋さんは、これがわたしたちにとってどんな意味を持つのか、知らないはずだ。
 なのに今、これがこの場所に存在するのは水橋さんの気遣いであるらしい。
 地底の夜のような漆黒と、そこに流れた星の軌跡みたいなレモンイエローのリボン。
 わたしたち家族が一緒だった最後の誕生日に贈られ、以来ずっと、わたしが愛用している帽子。それが、その箱の中身だった。
 朽桁アリアに持ち去られ、その後アリア自身が紛失していたはずのものだ。いったいどこから探し出してきたのか、説明して欲しくないような赤黒い汚れが少しついている。それでも間違いない。間違いようがない。これはわたしの帽子だ。おねえちゃんとお母さんが贈ってくれた、わたしの……
「覚えてる? このリボンをかけてくれたときのこと」
「もちろんです」
「わたしが見てたお母さんも……嘘のお母さんなんかじゃないって、それだけは……信じてもいいのかな」
「……そうね」
 おねえちゃんは目元をぬぐった。
「そうよね。わたしたちのお母様だもの。ずっと……たとえ今からでも……せめてわたしたちだけでも……」
 結局、おねえちゃんを責めるようなことを言ってしまっている。それはわたしがゆずることのできない最後の楔として、おねえちゃんの心に突き立った。意地を張っているわけではない。おねえちゃんとのこれからの関係を続けていく上で、それは必要な溝なのだ。
 おねえちゃんや、お母さんから逃げないために。
 もう誤魔化さない。
 無意識に理由を押しつけたりしない。
 これから果てなく続く未来へ、果てなく立ち向かうための――わたしなりの意思表示だった。





エピローグ





 ……そうはいっても、おねえちゃんは多忙の身だった。
 一晩では話し合いが終わらないからといって毎日毎晩話し続けるわけにもいかず、おねえちゃんは仕事漬けの日々に戻っていった。文句は言いたいが、今度こそ言えない。おねえちゃんは休暇を延長してくれて、それでもなお足りなかったのだ。
 ただ、今度は約束をくれた。
「仮に『妖怪の山』と一触即発、戦争勃発の危機になってたとしても、必ず戻ります。まずは一週間後、その次はその五日後に予定が空きます。それで……」
「あんたさぁ、わたしとの予定組むときより、よっぽどマジよね」
「当然です」
「そりゃそうなんでしょうけど……なんかなぁ」
 話し合いには水橋さんも同席してくれていた。大半は思い出話になるので、水橋さんは茶々を入れることもできず退屈だったに違いないが。喧嘩になりかけると仲裁してくれて、損な役回りを引き受けさせてしまったなとも思う。まぁ裏切りの前科もあるし、わたしを助けるという約束は今も失効していないはずだ。水橋さんがわたしの義姉になるつもりがある限りは。
(……仲いいんだもんなぁ)
 ふっと息をつきながら、わたしは自室を出て、母屋の玄関までやってきた。
「あ、こいしちゃん。お出かけですか?」
 勤務中のはずのお燐が声をかけてくる。なにかの小包を抱えているので、おねえちゃんの忘れ物でも取りに来たのだろう。
 いつの間にか誰の前でも構わずこいしちゃん呼ばわりだけど、話し方は丁寧だ。おねえちゃんは特に反応なく、わたしもそれに違和感を覚えなくなってきていて、お燐との関係もなにか少し変わったのかな、と実感が生まれる。
「うん。ちょっと地上まで」
「ほうそうですか……って地上!? ちょっとで済みますかそんなん」
「一週間後には合わせて帰ってくるって。もうあんまり無茶はできないしさ」
 わたしの無意識を操る能力は、未だ本調子を取り戻すには至っていない。あのごたごたしていた何日間かよりは多少マシ、といった程度で落ち着いてしまった。結局は自分の力を自分で否定したのだから、力の方からそっぽを向かれてしまったのだって、わたしは受け入れるべきなのだろう。
 けれど、わたしが名実ともに単なる妹妖怪になる日が近づいてきているというのは、なんとも微妙な気分である。
「ちゃんと護衛つけてるんですか? 道中ふらふらっと予定外の寄り道とかやめてくださいよ? 地上に行くときは必ず大使館に顔を出すってこないだ約束したの覚えてます?」
「あーあーもー覚えてるってー」
 お燐がわっと言葉の洪水を浴びせかけてくるので、わたしは耳をふさいで対抗する。
 誘拐事件に遭ったあとで、それでも外出しようというのだからもちろん当然なのだが、おねえちゃんやお燐はだいぶ口うるさくなってしまった。わたしがこんなに辟易としているのだから、ふたりがもう本当にわたしの思い通りになっていないのは間違いない。
「大体、なんだってまた、地上なんですか。遊びたいならサブタレイニアンランドとか行けばいいじゃないですか」
「ランドは独りで行ったら悲惨だよ……」
「じゃあ暇こいてる水橋さんをお供につけましょう」
 水橋さんは退院したもののまだ復帰はできておらず、地霊殿のおねえちゃんの部屋にずっと泊まりこんでいる。骨折で筋力が落ちたので、今日は朝からリハビリのために病院に行ったきりだ。まったくもって暇ではないし遊園地に行けるような状態でさえないのだが、これはお燐とのいつもの軽口のバリエーションに、水橋さんが入ってきてしまったということである。
「……それもやだ。水橋さん、なんか優しすぎて逆にきもいときあるし」
「気を遣い慣れてないとこはありますよね。普通にしてれば結構まともに見えるのに、残念さんですなぁ」
「そうですなー」
 声を潜めて笑いあいながら、わたしは水橋さんがくしゃみをしている姿を想像した。
 その姿を見た姉はそっけなく『大丈夫ですか』などと言いつつも、水橋さんの首にマフラーを巻いてあげていた。
 これは想像だけど、似たようなシーンはこの数日で何度も見た。
 そういうのを、わたしは、凄く羨ましいなって思った。
「それに……」
「なんですか?」
「どうしても隣の芝は青く見えちゃうんだよね」
「ええと……つまり?」
「わたしって初恋もお燐だったしさー」
「ほぁっ?!」
 お燐がこぼれ落ちてしまいそうなほどに目を見開く。いつだったかみたいに傑作の表情をしてくれた。わたしの他に誰も知らないこの事実を、今の今まで暖めておいた甲斐があったというものだ。わたしは笑いながら玄関を開け放ち、駆け出した。
「ちょ、え、そんなん初耳……ていうか隣のって……! あたいとお空はまだそんなんじゃ――」
(自分でまだって言ってんじゃん)
 後ろでわけのわからない喚き声をあげている四つ足妖怪を無視して、地底の空を見上げた。人工太陽がまばゆく照らすその先には地上がある。わたしがどこの何者とも知られていない場所が。
 全部を新しく始めるなら、そういうところがいいに決まっている。
(全部を。例えば)
 走りながら、わたしはあの帽子を深くかぶった。
 水橋さんが見つけてくれた、わたしたち家族の思い出。
 水橋さんのことを思うと、ちょっとだけ胸がドキドキする。でもそれ以上に、水橋さんを見つめるおねえちゃんの横顔が、鼓動を加速させる。
 その鼓動が静まるころには、ふたりの邪魔はできないな、と自然と納得してしまう。
 だから。
(例えば、そうだ……わたしも恋がしてみたい。水橋さんみたいな、素敵なひとと)
 わたしがこんなことを考えるのは、やっぱり珍しいことだ。
 知りたいことをひとつ知れて、また次のことを知りたいと思っている。
 疑心暗鬼に怯えているよりもずっといい。
 晴れやかな気分で、わたしは強く強く地を蹴った。



 読了感謝します。
 前作からとんでもなく時間が空いてしまって連作として書いているのに致命的だなとは思いますが、今回もまたシリーズ設定をふんだんに使用して書かれております。初見の方には是非一度、通してご覧いただけると作中の不明な点が少なくなるかと思います。
 次回はもう少し短めの話をお燐主役でいくつか書きたいと思っています。
 ご意見ご感想をお待ちしています。
エムアンドエム(M&M)
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コメント



0.770簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
パルスィさん頑張った!面白かったです!
あとりんこいって珍しくね?もっと書いてください!
3.100奇声を発する程度の能力削除
この感じ凄く良い
とても面白く良かったです
4.90名前が無い程度の能力削除
姉妹に気ぃつかいーの、からかわれーの、キモいとか散々に言われーの、拉致監禁脱出戦闘でズタボロになりーの…
パルパルはお燐のさらに上を行く苦労人やな
紅魔館拉致(また拉致)のエピソードも知りたいですな
5.100名前が無い程度の能力削除
貴方の作品を待っていました。大変面白かったです。続きも楽しみです。
7.100絶望を司る程度の能力削除
とても面白かったです!
9.100名前が無い程度の能力削除
パルスィがステキすぎる
14.100名前が無い程度の能力削除
パルスィファンタズムの頃と比べると、パルスィは大分落ち着いて包容力みたいなものが出てきたなぁ。
お燐主役の短編も期待して待っています。
15.90名前が図書程度の能力削除
仕事、恋愛、家族、サスペンス、バイオレンス
エンターテイメントに欲しいものが詰めに詰め込まれ、それでいて話の流れが破綻していない
質のいい邦画を見たあとのような感覚です
16.100名前が無い程度の能力削除
とても面白かったです。パルスィかわええな。次回作楽しみにしています。
19.100名前が無い程度の能力削除
長文ながら大変楽しめました
20.100名前が無い程度の能力削除
お燐がいい味出してますなこいしちゃん呼ばわりなのが実によい
23.無評価エムアンドエム(M&M)削除
今回も長い長い作品を読んでいただいて重ねて御礼申し上げます。
>2さん
パルスィ主人公は二度目なのでパルスィパートはすらすら書けました。
りんこいの予定は…ちょっと未定ということで、すいません。
>3さん
ありがとうございます、受け入れていただけて幸いです。
>4さん
書き出してみるとなかなか散々な目にあっていますね^^;
今後は地上の話も増えるので紅魔館の話も出てくると思います。
>5さん
覚えていただいていて光栄です。また頑張ります。
>7さん
ありがとうございます。今回は書いている期間が長すぎて
他人が読んだらどう思うか全く想像できなくなっていたので安心しました。
>9さん
パルスィに対する反響が多くて嬉しいです、ありがとうございます。
>14さん
さとり様とパルスィの馴れ初めは、今回はひとまず間接的に書いてみました。
告白前の最も盛り上がる時をいつか直接書きたいです。
>15さん
ありがとうございます。バイオレンス部分で子供(こいしちゃん)に暴力を振るうことに
なったので、そのあたりは冷や冷やしながら投稿しました。いい塩梅だったならこちらとしても
一安心です。
>16さん
僕もさとパルもっと増えて欲しいです。次回作もがんばります。
>19さん
前作よりちょっと少ないくらいの分量かなぁと思いながら書いていたら、いつの間にか
だいぶ増えてしまっていました。次回はもう少し読みやすい長さを心がけます。
>20さん
お燐は毎度書いてるうちに予想外のことをしてくれるいいキャラだと思います。
今後シリーズ後半の主役として活躍する予定です。
>簡易評価の皆様
たくさんの評価をありがとうございました。
評価のひとつひとつを励みに、これからも精進していきたいと思います。
25.無評価名前が無い程度の能力削除
タイトルから軽いドタバタコメディかと思って読み始めたら想像以上の超大作でした。
計算はしてないけど薄い文庫本くらいあるのかな?文章量
でも飽きの来ない読みやすく魅力的な文章だったので、一週間かけてこつこつ読み進めました。

シリーズものだったというのはあとがきで初めて知りました。それだけ私のような初見でもたのしめるように工夫して書いてあるのでしょうね。

こいしちゃんがとにかく愛おしかったですね。はい
ティーンエイジャーな不安定感というか
逆にパルさともいい感じで大人感が出てました。見た目がみんな少女だから精神年齢を書き分けられるのは東方創作では重要ですがなかなか難しいことです。それを自然と描写できてるのには敬服しました。

次回作も楽しみです。それまでに過去の作品をじっくり読ませてもらいますね。
26.100名前が無い程度の能力削除
↑評価忘れ
30.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです
パルスィってば意外と巻き込まれ体質…?