Coolier - 新生・東方創想話

幻想の紅

2010/01/12 01:38:51
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ぐしゃり。

暗く静かな図書館に音が響く。

あくまでも静かな、身体のうちに篭るような嫌な音が。



「あいたた。あちゃー、やっちゃったわね」



図書館の主人、パチュリー・ノーレッジは頭を掻き、首を傾げながら慨嘆する。

だらりと力なく垂れた腕。血でべっとりと濡れた服の袖から染み出すように、ぴくりとも動かないその指の先からは、赤黒い液体がぽたりぽたりと際限なく落ちていく。膝下に形を成しつつある赤色の水溜りは床の上をゆっくりと滑り、まるでそれ自体がひとつの意思でも持っているかのように、粗野な焦げの残る木板の裂け目の内にどろりと流れ込んだ。

その様を恨めしげに見つめ、パチュリーは机に凭れながらよろよろと立ち上がる。痛みに顔を顰めつつもすぐさま目の前に書かれた小さな魔法陣に向かい、動かない左腕を押さえながら何ごとかの呪文を低い音調で呟いた。







★☆★☆★







ぱち…ぱち…



部屋の奥に据え付けられた暖炉の炎は赤々と揺らめき、綺麗に重ねてくべてある薪は時折音を立てながら崩れていく。ぼんやりと照らし出されたテーブルの上に置かれた陶器のティーカップは、白い湯気をゆらゆらと吐きながら、踊る炎に合わせて黒い紅茶の水面を滑らかに揺らす。

ひゅう、と溜め息をついたレミリア・スカーレットは、何度か目を瞬かせて窓の外に視線を遣った。雪混じりの寒風が先程からしつこく窓ガラスを叩き、その冷たい氷のような手で館の屋根や切妻を毟り取ろうとしているようだ。がたがたと窓枠は震動し、風の強さに悲痛な叫びを上げている。たまにガラスにへばり付く雪の欠片も、すぐに強風の煽りを受けて再び闇の中へと投げ込まれていく。窓の向こうは暗黒で、普段ならそこにある筈の闇夜を照らす月の姿も、永遠の彼方に燃える星辰の煌めきも見えなかった。



「つまらないわねー」



気怠げに視線を暖炉に戻し、レミリアは白いティーカップを摘み上げて口に運ぶ。その真紅の瞳には、先程より僅かばかり勢力を落とした炎の明かりがゆったりと輝いていた。



「仕方ありませんわ。今冬は一段と酷くなるという話もありますし……ですから雪が止むまでしっかり体をお休めになられて下さいね」



レミリアが紅茶を飲むのを見て嬉しそうに幽かに微笑んで、彼女の斜め後方に控えた十六夜咲夜が答えて言う。

一人で生活するのには少々だだっ広いこの部屋にいるのは二人。起きてからずっと椅子に座ってだらだらしているレミリアと、その従者として傍に仕える咲夜である。



「まあ、言われなくてももう充分休んでるんだけどね。だって5日も続けてこの天気じゃない。パチェにでも雪を止めてくれるように頼んでみようかしら」



ぶすっとした表情で咲夜の方へ振り向くレミリア。中世の骨董品然とした黒檀の椅子がぎしりと軋み、彼女の心を何とはなしに撫でた。



「そうですわねー、あ、そう言えばパチュリー様は今丁度面白い実験の途中らしいですよ。お嬢様も見学に行って来られてはいかがですか?」



人差し指を綺麗に整った顎にあてて少し考える仕草を見せ、あ、と思い出したように咲夜は言う。オレンジの暖炉とランプの明かりの下でもその色を変えない、透き通るような銀髪がふわりと跳ねた。八重歯の覗く口の端を歪め、ほう、と頷くレミリア。



「パチェのとこかあ、ま、どうせ暇だし遊びに行ってみ……む?」



そこまで話したところで、レミリアは突然ぴん、と背中に生えた立派な蝙蝠の翼を伸ばし、何か嫌なことにでも気付いたかのように顔を顰めた。そして素早く椅子を飛び降り、流れるような動きで窓の方へと体を向ける。



「?……どうなされました、お嬢様?何か窓の外に?」



いきなりのことだ、さしもの咲夜もレミリアの行動の理由には心当りがないらしく、少し驚いた調子で主人に尋ねた。だが、何らかの事態を予想して、次の瞬間には全身の神経を研ぎ澄まし、完璧な臨戦態勢に入っている。



「ん、あなたには聞こえないのね、この不愉快な……雑音が。これは、何か厭なのが居るわ、この屋敷に」



「あはは……流石ね、この気配に気付くとは」



レミリアの言葉を遮るように響く、この部屋にはいない筈の何者かの声。それは確かにレミリアの背後の空間から響いている。ぼんやりと光を放つテーブルの上のランプが仄かに明滅した。さらには窓を叩く風の音が不意に高くなったような気がする。



「パチェ?」



背後に突如として出現した気配に驚いて振り向くレミリア。しかしそこに立っていた人物の姿を認めると、気が抜けたように長い息をつく。その様子は咲夜も同じで、いつの間にやら構えていた数本のナイフを素早く懐に仕舞った。



「くくく……まあ、まだここには来ていないみたいね」



くぐもったような調子で微笑みつつ、パチュリーは長く垂れた紫の髪を掻き上げた。まるで滝のように美しく流れるその先端は、ちろちろと燃える暖炉の光を受けてピンク色に揺れている。



「む、パチェ、脅かさないでよ。下手したら無事じゃあ済まなかったわよ。それにしてもこの変な気配……何かあったの?」



口を尖らせてパチュリーを咎めるレミリア。この二人は古くからの友人であると同時に、同じ館に暮らす家族でもある。言わばお互いに勝手知ったる仲であった。



「紅魔館に侵入者よ。それもかなり厄介な。私一人の力では太刀打ちできないから……レミィ達にも力を借りようかと思って、ふふ」



「……なんでそんなに無駄に笑ってらっしゃるんですか、パチュリー様」



何故だか楽しそうなパチュリーの様子に違和感を覚えたのか、半ば呆れたように尋ねる咲夜。よく考えると、普段にも増して今のパチュリーはテンションが高いように見える。



「いやまあ、緊張感とか演出出来るじゃない」



「要りませんよ、そんなもの……って、パチュリー様、その腕、どうなされたのですか?」



「そ、そんなものって……ま、別にいいけど……これ?これはさっきちょっと怪我をね」



ほら、と布で吊った左腕を指で示しながら冷静に言葉を紡ぐパチュリー。しかし咲夜からばっさりと切り捨てられた事にはいささかショックを受けたようで、先程に比べ僅かに声のトーンを落としている。



「パチェ!それは例の侵入者から受けたの?」



レミリアは明らかに苛立った様子でパチュリーに詰め寄る。背中の翼もいつしかぶるぶると震えていた。



「ああ、これは身から出た……ああいや、まあ、うん、そう。ちょっと迎撃に失敗して……」



苦笑しつつ少しどもりながら、今一度自分を納得させるようにパチュリーは答える。ちらと見た窓の外の暗黒に、思考ごと吸い込まれそうな錯角を覚えた。



「全く、門番は何をしてたのかしら……でもあなたが自分で戦うなんて珍しいわね」



「あいつらは門から入って来た訳じゃないし、仕方ないわ。まあ、今回は……久々にちょっと体を動かしたくてね」



今はまさに強烈な吹雪に曝されているであろう館の正門の方向へ視線を遣り、次いでレミリアに向き直って言う。



「そう。まあ、あなたが無事で良かったわ。でも……私の親友を傷物にした落とし前は付けてもらわないと。よっしゃ、咲夜、館の掃除よ!パチェ、敵の詳細は分かるの?」



右拳でぱん、と左の掌を打って息込むレミリア。咲夜はこくんと頷き、背筋を伸ばして表情を引き締める。



「傷物って、また何か誤解を招くような表現を……侵入者だけど、詳しいことまでは分からないわ。ただ……」



パチュリーはすっと目を細めて、自分の中で内容を噛み締めるようにそこで一旦言葉を切った。普段はどちらかと言えば青白い彼女の頬に、興奮からかほんのりとした朱が差している。



「ただ……?」



「相手は人じゃあないわ。完璧な化け物よ。姿は、表現したくもないけど……私が見た限りでは……蛆虫みたいな感じだったと思う。まあ、多分大丈夫だろうけど、油断はしないように、ね」



油断した結果がこれよ、と布でぐるぐる巻きに包まれた腕をぽんぽんと叩いてみせる。



「はは……出来れば会いたくない感じの方たちみたいですわね」



「気にしない気にしない、なんとかなるって。化け物なんて身近に良く見知ったもんだし。じゃあ、さっさと片付けちゃいましょうか。あ、パチェ、あなたは休んでなさい。その腕じゃ色々と大変でしょう?」



レミリアは全身に力を巡らせるかのように大きく背伸びをし、首を前後左右に倒す。暖炉で定期的に薪が爆ぜるのに混じって、こきこき、と小気味良い音が響いた。



「……申し訳ないわね。じゃあ私は図書館で敵について少しでも情報を集めてるわ。出来ることは少ないかもしれないけど、何か気になることがあったらすぐに連絡を」



「うん、了解。あ、咲夜、あなたは一度フランのところへ行って外に出ないように伝えといてくれる?後、外のことは頼むと、美鈴にも伝言をお願い。ただ、充分に気をつけるように」



「は」



軽く頭を下げたパチュリーに頷いてから、咲夜に指示を与えるレミリア。

次の瞬間には、既に咲夜の姿は部屋の中から消えていた。後には短い返事の声が残るのみである。



「ところでパチェ、」



軽い足取りで部屋を出て行こうとドアノブに手を掛けたところで、くるりとパチュリーの方へ振り向くレミリア。



「その侵入者って……どこから来たんだろ」



首を傾げる。



「あはは、実はちょっと召喚魔術に失敗しちゃって」



「……やっぱり」



てへ、とわざとらしいポーズを取って頭を掻くパチュリーに、額を押さえて嘆息するレミリアであった。







★☆★☆★







かつん、こつん。



静かな靴音が廊下に響き、一足また一足と闇に吸い込まれていく。申し訳程度に設えられた照明があるとは言え、夜間、紅魔館の廊下はお世辞にも明るいとは言えなかった。規則的に取り付けられた燭台がぼんやりと灯り、真っ暗な窓ガラスへと薄紅色の壁や床をゆるやかに映し出す様は、見る者にどこか恐怖感さえ感じさせる。



「ふう」



レミリアは階下に降りる階段の前まで来て立ち止まり、辺りの様子を見回した。当然と言えば当然のことだが、そこには誰もいない。懐中時計が指し示すのは午前二時過ぎ、館に勤める妖精メイドも眠りこける正真正銘の丑三つ時である。しかし、だ。この奇妙な気配だけは確かに、常にこの身に感じるのだ。それがどこからのものなのか、はっきりとは分からないが、まるで背後に寄り添うようであり、同時に館全体を覆っているようでもあった。それは全く正体不明の気配に違いなく、流石の吸血鬼レミリアも、背中を冷たく這い上る嫌悪感にぶるりと身を震わせる。

と、折りしも窓枠の一つががたんと音を立てて揺れた時。



(あ~、あ~、本日は晴天……いや、吹雪なり……よし、こちらパチュリー。今ちょっと魔法でそちらに思念を送ってるのだけど、レミィ、聞こえるかしら?)



「ひゃぁっ!?」



突然レミリアに話し掛けて来る呑気なパチュリーの声。自身の思考に直截流れ込むような、お世辞にも気持ち良くはない感覚である。これはパチュリーの魔法なのだろうか。



「……うん、聞こえてるわ。何かあったの?」



一瞬きょろきょろと辺りを見回したレミリアだったが、すぐに状況を把握してパチュリーに言葉を返す。

ひんやりとした汗が一筋、白皙の頬を流れ落ちた。



(……良かった、まだ接触していないみたいね。敵の位置が分かったわ)



パチュリーは少し声を落とし、強調するように言った。ふと目を落とした階段の踊り場に立つシダ状の観葉植物が、薄闇の中で得体のしれない深い緑の葉を広げ、ある種異様な空間を形成している。



「へえ、早かったじゃない。で、どこにいるのよ」



まだパチュリーと部屋で分かれてから5分も経っていない。彼女がどんな手を使ったのか分からないが、素直に感心するレミリアだった。



(私の予想では一階……食堂あたりにいるわ。それも大物が)



「予想って……なんでそんなにアバウトなのよ」



呆れたような顔をしつつも、一階と聞いて慎重に階下へ降り始めるレミリア。ぎしぎしと木造の階段の軋む音が不気味に響き、館内のごく僅かな距離を何倍にも感じさせる。



(まあ……一種の占いみたいなものよ。ちょっと追跡魔法を掛けたの。確実、とまではいかないけど、例え少しでも分かることがあれば安心するでしょう)



「逃げ道を作ったな」



(ぎく)



「ま、信頼してるからいいんだけど。簡単にはいきそうにないとは言っても、私の力をもってすれば……それだけ分かりゃあ充分だし」



階下まで到達したレミリアは二階とは明らかに違う空気を感じて身を震わせた。近づいているのだ、紅魔館に侵入した謎の存在に。不気味に淀んだ冷気に顔を歪め、疲れたように首を回すレミリア。その先にいるものの異常さが、それだけではっきりと伝わってくる。

急がなければならないのだ。



(……申し訳ないわね。こんなことに付き合わせて。実際のところ相手はかなり……厄介みたいだし)



パチュリーの声の調子が二段ほど落ちた。



「ああ、別に気にしないで。友達はお互い助け合うものよ。それに……何事もなければ文句もないでしょう。この気配……相手のヤバさは私も分かってるから、ま、必要とありゃあ全力も出すよ。ただ、パチェ……」



冷たく重い空気の中を食堂の方へ向かうレミリア。風の流れもないのにどこからか黴びたような臭いが漂ってくる。肌に絡みつく厭な空気は時に冷たく、また時には不自然に生暖かかった。



(どうしたの?)



心配するようなパチュリーの声。しかし、レミリアにはなぜか先程より少し聞き取りにくくなったように感じた。



「そう言えば、一体何を喚び出そうとしたの?そもそもあなたが失敗するなんて余程のものじゃない」



取り敢えず気になっていた疑問を尋ねてみる。レミリアとて数百年の間生きてきて、ある程度は魔術的な方面にも造詣が深い。詳しい召喚対象を聞いておけば、少しは問題の存在も特定出来るかもしれなかった。



(……)



「……パチェ?」



突然黙りこくるパチュリー。いや、と言うよりレミリアの脳に直截注がれていた思考の流れがぴたりと途切れてしまった、と表現した方がいいだろう。聞き返すレミリアの言葉も、今や独り言として廊下の隅の闇に、暗くうねる窓の外の風雪の喧騒に、溶けるように消えていく。意識を飛ばす術ともなれば相当な精神力を使うに違いないだろうが、いくらなんでも切れるのが早すぎる。一抹の不安を覚えるレミリア。一度素早く図書館まで様子を見に行った方がよくはないだろうか。



(門を開きたかった)



「うわっ?」



いきなりだった。

突如として堰を切ったようにパチュリーの声が頭の中に響いてくる。そこには先程感じた聞き取りにくさはない。吹雪の音などより余程はっきりとした力強い声だ。まるでもう一人のパチュリーが自分の脳内に存在して、思う様言葉を発しているかのごとくであった。



「……急には止めて欲しいわ、全く。心臓に悪い」



(現在過去未来全ての時空へ通じる門にして鍵……)



「?……何を言って」



(彼は一にして全てのもの……)



淡々と紡がれるその言葉は、まるでレミリアを無視しているかのように響く。そして当然と言えば当然だが、彼女にはパチュリーが一体何を話しているのか全く理解出来ていなかった。その声には感情がなく、深井戸に落ちた小石の着水音のように幾度も幾度もレミリアの心の中で反響する。そしてその言葉は遂に鋭く冷たい氷の刃となって彼女の精神を刳りに掛かった。しかし、まるで大音量を身体の中で掻き鳴らされてでもいるかのような、狂気じみた理不尽な感覚に、レミリアが激しい嫌悪の念を覚え始めた時、その”声”はぴたりと止んだ。



「はあ……はあ……、何だったのかしら、今のは。やはりパチュリーに何か……」



怒濤のごとく流れ込んでいたパチュリーの思念は完全に途絶え、レミリアの心に静寂が戻ってくる。しかし先程のことがもたらした影響で、未だ彼女の精神の水面は少なからぬさざ波を残していた。異様な感覚、それもどちらかと言えば悪意に満ちた情念だ。やはりパチュリーに何らかの事態が起こったのかもしれない。不快な胸騒ぎは一向に治まらず、ざり、と頭を掻いたレミリアは図書館へ向かうのを優先することに決めた。しかし、ここで問題が一つある。図書館がある地階への階段は問題の食堂の先なのだ。このルートで図書館へ向かうには必然的に侵入者が潜んでいる可能性のある食堂の前を通過しなくてはならない。



(少し急ぐか……咲夜には廊下で飛ぶなって言われてるけど、この際仕方ないわよね)



蝋燭の柔らかな光に美しく映える翼を広げ、レミリアはとん、と軽やかな音と共に飛翔した。空中でその機能を確かめるように二三回翼を羽撃かせると、そのまま身体を傾けて一気に加速する。地下への階段は廊下の突き当たり、今レミリアがいるところから一つ先の角を曲がって暫く進んだところにある。このスピードであればすぐだな、と思いながら、レミリアは衝撃で窓が割れないよう注意しつつ飛行していく。



(ここが一つ目に気を付けるところ……)



意外な程あっさりと曲がり角まで到達し、慎重に周囲を確認しながら突き当たりを曲がる。依然として感じる不気味な、憎しみの塗り固められたような強烈な気配がその存在感を増している。この近くにいるのはきっと間違いではないだろう。レミリアは数秒間その場に滞空して進路をじっと凝視した。しかし、そこには目に見える異常は何もなく、ぼんやりと燃える燭台の灯りのみがあり、廊下は何事もなく向こうまで続いているようだ。食堂は20m先、そこさえ突っ切れれば一先ずは地階への道が確保できる。



(食堂は気になるけど……この際無視して一っ飛びで地下へ行く……フランのこともあるし、侵入者は後回し)



爛々と熱く輝く真紅の瞳を細め、廊下の向こうの目標をしっかりと見据える。そして、次の瞬間にはレミリアの身体はもう空中を滑り出していた。徐々に速度を上げ、すぐに食堂の前に差し掛かる。レミリアはちらりと横目に開いたドアから部屋の様子を確認したが、吸血鬼の卓抜した視力をもってしてもそこに何かいるようには見えなかった。ここではなかったのか、と彼女がほっとしつつも前を向いた時、



がしゃん!!



ガラスの割れる音が勢いよく響き渡った。あまりに突然のことに一瞬自らの飛行の風圧で窓が割れたのではないかとレミリアは動転した頭で思ったが、まるで意思をもっているかのように廊下に吹き込み、巨大な竜巻となって彼女に押し寄せてくる吹雪に明らかな悪意を感じ、急いでその場で血色の防御壁を張る。しかし、風と雪の強烈な力にいとも簡単に打ち砕かれて、渦をなす雪と郡の塊へと吸い込まれていく。一瞬まるでこの竜巻が薄紅色に変色したような気さえする。目を見開いたレミリアはすぐさま10m程後退し、この襲撃者の正体を見極めんとぎょろりと前方の空間を睨み付けた。

初めこそ分からなかったが、少し離れてみるとその様子が僅かながらも分かるようになる。カーテンをばさばさと揺らしながら吹き込み轟々と渦巻く雪の中に、レミリアは忌まわしい、およそ生物たるものの範疇を越えた醜悪な塊を見た。舞う雪に見え隠れしながらもそこに確かに存在するそれは、まるで獲物を待ち伏せる大蛇のように、ぶにぶにしたゼリー状の不潔な白い身体を誇るように、レミリアの視線の先に鎮座している。言うなればその怪物は一匹の大蛆だった。どこか黄色味がかった光沢を放つ体表面からは不気味な分泌液が流れ出して床を汚し、半ば透けて見える体内では名状しがたい赤や黒の物体が醜く脈打ち、蠢いている。身体の先端の頭と見える部分はレミリアの方へ向き、歪んだ造形の得体の知れない表情を晒していた。



「く……」



強烈な嫌悪感に吐き気さえ覚えたレミリアは、これ以上この化け物を見る気にはなれなかった。先程パチュリーが残した謎の言葉を思い出し、この存在の前に気が狂ってしまいそうな気さえするのだ。そして、大蛆は未だにレミリアをじっと観察するように眺め、次の動きを見せようとしない。

レミリアには、それがどうしようもなく許せなかった。



「神槍『スピア・ザ・グングニル』」



静かに呟いて右手にありったけの力を収束させる。たちまち揺らめく灯火の燐光を集めたように、レミリアの右手には槍状の真紅の光が顕現した。

右脚を一歩引き、構える。

狙いを定め、一閃。全身の力と共に、視界の隅に陣取る醜悪な蛆虫に赤光の裁きを放った。



しかし、その瞬間。

レミリアは見た。

神槍の輝きに紅く照らされた蛆虫の不気味な貌が、悪意に充ちた醜悪な表情に歪められ、だらしなく開いた口から粘質の唾を飛ばし、まるで彼女を嘲笑うかのような耳障りな音を漏らしたことを。その音はすぐに轟音と雪風に掻き消されてしまったが、暫くの間レミリアの心に滑り込み、その上を気持ち悪くぬらぬらと這っていたのだ。



「……やった、の」



舞い込む雪は先程よりもかなりその勢いと量を減じている。紅い光槍と共に飛び散った化け物の醜い残骸と体液の残滓が、そこかしこでこぽこぽと音を立てながら目にしたくもないような冒涜的な模様を描いていた。



(はあ……また咲夜に怒られちゃうかしらね……)



割れたガラスの破片がきらきらと煌めき、生理的な嫌悪感に一度身を震わせたレミリアは、出来る限りソレを見ないようにふわふわと廊下を移動する。勿論床に足を付けて歩く気になど全くなれなかった。ずるずると動く肉片を見つければ、片っ端から潰していく。余りの悪臭にちりちりと脳が焦げるような感覚を味わいながら、レミリアはゆっくりと途中の食堂を今一度覗いてみた。そこには目に見える異常は何一つなく、ガタガタと風に叩かれる窓の音が聞こえるくらいだ。ずっと背後に付き纏うように感じていた不気味な気配は今や、殆ど気にならないくらい弱いものになっている。これで終わりか、と嘆息するレミリア。だとすれば、パチュリーもフランも無事でいるのだろう。

部屋から目を外したレミリアは依然として浮遊したまま廊下を進む。もう、そこに動いているものは何もなかった。明日は大掃除ね、などと疲れた頭で考えながら、風に削り取られつつある化け物の肉片と粘液の上を通過し、今度は何の妨害もなく地価へと続く階段の前に到達した。

と、不意にしゅうしゅうと水分が蒸発するような音を聞いて、レミリアは見開いた目を驚きと共に廊下の向こうに遣った。

赤を基調とした七色の油じみた不潔な蒸気が、化け蛆の残骸から立ち昇って消えていく。同時にその肉片はまるで存在意義を失ったかのように溶け、その希薄さを増していった。



「……」



立ち昇った蒸気が廊下の壁や天井へと染み込むように消えていく様は、レミリアにとって決して心地良いものではない。蛆の欠片が空気に溶けていく不快な音は、館の廊下で、そして何より彼女の心で、幾重にも重なり、混じり、反響して、まるで何事かを伝えようとしているかのようにうねりながら近付いてくる。

耐え切れず背を向けたレミリアは、急いで階段に飛び込んで、黒ずんだ段差を二三足飛びに駆け降りていった。しかし、地下へ入り、完全にあの音が聞こえなくなってからも、レミリアの心臓は激しい脈動を止めない。

彼女の網膜にははっきりとあの光景が、化け物の表情が焼き付いていたし、その耳にもあの憎しみと悪意に満ちた音声が残っていたからだ。



《……》



背後で化け物の声がいつまでも囁き続けていた。唇を噛み、頭を振るって無理矢理に呼吸を整えたレミリアは、図書館へ歩き出そうとして、誰かが自分の目の前に立っているのに気付く。はっとして顔を上げると、それは青白い顔をしたパチュリーだった。



「パ、パチェ!?大丈夫だったの?」



落ち着くような気もすれば、妙な違和感も覚えたが、取り敢えず彼女は無事だったようだ。



「じゃ、私は少し外に出て来るわ」



刎ね付けるようでいて抑揚のない、冷たい声音だった。そしてそのまま滑るように、話すことすら拒絶するように、するすると一階への階段を上がっていく。

しかし、先程の出来事からどこか人恋しくなっていたレミリアは、特に重大な疑問を抱くことはない。いつもの素っ気なさに拍車が掛かったか、くらいにしか考えていなかったのだ。とは言え、多少の対応の違いや場違いなパチュリーの言葉には首を傾げる。



「ちょ、ちょっと!じゃって何よ、じゃって!それに外はあの天気じゃない!大体、もう侵入者のことはいいの?」



「別に……レミィは部屋に戻ってて」



既に上り終えられた階段の上からパチュリーの虚ろな声だけが響いてくる。そしてレミリアは一階部分の階段の隙間で、彼女の華奢で力無い腕がぱさぱさと振られるのを見た。



その瞬間、レミリアの背に戦慄が走る。

パチュリーは左腕を怪我していたのではなかったか?

そもそも、彼女が大図書館から出て来たのであれば、あの重い扉が開く音は私の耳に聞こえただろうか?



レミリアは猛然と飛び上がり、段差を踏むこともなく一瞬で一階へと到達する。しかしそこには誰も、あの化け物の死骸も含めてさえ、いなかった。その上、完全にパチュリーの気配はこの位置で絶たれているのだ。

まさか、と一抹の不安を抱いたレミリアは、今度は地下へ、図書館へと取って返した。その彫刻が施された重厚な、ともすればレミリアの身長に数倍はしようかという大扉の前で立ち止まり、息を飲む。もしかしたらここに、今回の騒動の元凶がいるかもしれないのだ。レミリアはあくまで慎重に、いつでも飛び退ることが出来るように気を付けながら、ゆっくりとその扉を押す。



ぎい……



古ぼけた蝶番が呻くように軋み、図書館と廊下の空間をゆっくりと繋げる。眩しささえ感じる魔法の照明に目を細めたレミリアは、林立する書棚の中央に置かれた机に腰掛ける一人の少女を見た。背後に扉が閉まる重低音を聞きながら、目を見開く。



「あら、レミィ。早かったのね。ここまで来れたってことは既にもう片付いたのかしら」



そこには、布で吊った左腕を邪魔臭そうに机に乗せ、分厚い本を開いて調べ物に勤しむパチュリーの姿があった。少し離れた位置の床に、血に汚れた円と三角形を組み合わせた単純な魔法陣が書かれている。



「パチェ?貴方さっき外に出ていったんじゃなかったの?」



「?……何を言ってるの?私は貴方の部屋で分かれてからずっとここにいたわ……それにしても、さっきはすまなかったわね、通信が途中で途切れちゃって。何と言うか、腕の痛みが酷くてね。で、私に何か訊こうとしてたんでしょ。確かそこで途切れたわよね?」



詰め寄るように捲し立てるレミリアの様子に違和感を覚えつつも、早口でそこまで話してから一呼吸置くパチュリー。掠れるような声であったが、そこには確かな暖かみがあり、生来の呑気さが見え隠れしている。また、図書館にたゆたう古びた木の匂いや年を経た本の香りがどこか懐かしく思われて、レミリアは少しずつ自分の心が落ち着いてくるのを感じていた。



しかし。

どうしようもない、何とも言えない怖気のようなものが、つうっと背を伝う。

さっき見たモノは、一体何だったのか。







~了~
レミィ「ところでパチェ、実際のところ何を召喚しようとして失敗したの?」

パチェ「ああ、ウサギよ。ウサギ。召喚って言うか、近くの山から空間移動させようとしただけだけどね。だってほら、可愛いじゃない」

レミィ「え?」



★☆★☆★



かなり久し振りにこちらに投稿させて頂きました。

今回はなんとなくホラーっぽい雰囲気のものを書いてみたくてこうなったのですが、なかなか上手くはいかないものです。だいぶ中途半端になってしまったので、気力が続けば続きなど書くかもしれません。

こんな作品でも、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
gaoth
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コメント



0.630簡易評価
10.100名前が無い程度の能力削除
続編、期待して待ってますっ。
11.70名前が無い程度の能力削除
なかなか面白かったです。
14.80ずわいがに削除
敢えて“何か”はわからない……ふふっ、面白いじゃないですか(ガクブル
15.100名前が無い程度の能力削除
クトゥルフテイストが出ていて中々面白かったです
レミリアが見たパチュリーはもしかして千の顔を持つあの方ですか?