Coolier - 新生・東方創想話

リボン ~むすんでひらいて

2009/12/23 05:41:40
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 射命丸文はペンをかじりながら、机の前で原稿と向かい合っていた。
 もうやがて同じ姿勢をとって二時間が過ぎようとしている。いい加減体が疲れてきたが、それ以上に精神的に堪える。
「……駄目だわ」
 そのまま机に突っ伏す。
「書けない」
 木の机に額をぐりぐりと押しつける。
「書けない~っ」
 最近は大天狗になにやかやと用事を押しつけられ、その分普段の仕事が滞り、結果的に家に帰るのが遅くなり、記事を書く時間が取れないでいた。
 今も時計を見ると、やがて一時になろうとしている。文は経験上知っている。夜も深いからとこうして机の上でぼーっとしていると、たちまち夜の中に朝の清冽な空気が混じり込む。そこから日の出まではすぐだ。
 朝になれば同僚の天狗のところへ顔を出さなければならない。組織に属している以上、仕方のないことだ。
 だから今のうちに書いておかねばならない。
 それはわかっている。
 だが、そう考えれば考えるほど、焦りが文をせき立て、正常な思考能力を奪い、ますます書けなくしていた。それがわかっているからさらに焦るという、どうしようもない悪循環だった。
 新聞を書こうと思い立ってからどれだけの月日が流れているのか、文自身あまり思い出せない。昔の記録を見ればわかるかもしれないが“いつから”というのにはあまり興味が持てなかった。それよりも、目の前の文章を書きあげる快感を、早く全身に浴びたくて仕方がない。
「もう……寝ようかなあ」
 調子がいいときはこんなではない。
 考えるよりも先にすらすらとペンが動き、事件を創り出す。取材とは、文の餌だ。貪り尽くすと、縦横無尽に物語が動き出す。そのとき、文は至高の悦びを感じる。
 だが、そんなことは稀にしか起こらない。たいていが、この夜の拡大版か縮小版だ。
 冷めたお茶をひと口啜り、乾いた唇を舐める。外では冬の月が冴え冴えと白い光を投げかけている。窓を開け、手を出す。
 光は、冷たかった。
「よし!」
 文は思い立って、窓から飛び立った。いつ衝動的に飛び出してもいいように、文の部屋の窓は広い。
 空を駆け抜ける。マフラーを巻くのを忘れたから、首筋に冷たい風がびゅんびゅん吹き込んでくる。それがむしろ心地いい。
 たちまち自宅は小さくなる。妖怪の山を一望できる距離まで飛びあがった。空気が薄くなった気がする。肌がたちまち冷え込む。
「さて、と」
 周囲を俯瞰する。
 下の方を鼠くらいの大きさの巫女が飛んでいた。魔法の森へ向かっている。跡をつけようかと思ったが、巫女が向かう方からは血の臭いがかすかにしてきたので、やめた。そういう血生臭いことに、今は興味がない。
 視線を森から山の麓へ転じる。
 ひと筋の黒い煙が、闇夜に上がる。
 それは、文の天狗としての絶大な視力をもってしても辛うじて判別できる程度のものだった。なにしろ、黒の背景に黒だ。それでも彼女が感づいたのは、視覚以上に、肌の感覚のせいだった。
 鳥肌が立っている。
 ほんのわずかな、もう煙と呼ぶのも危うげな、糸のような気体。
 そこに濃密なカタマリを見た。
 また、乾いてきた唇を舐める。次の瞬間には飛行を開始していた。


 それは小さな神社のいたるところに醜く散らばっていた。
 緑の髪をリボンで結った少女が、目を閉じて、一心に回っている。
 鍵山雛は、己がまき散らした厄を回収していた。
 彼女にこれを見られてしまったら、自分は恥ずかしさのあまり消えてしまうかもしれない。そう雛は思った。消える……文字通りの消滅だ。信仰や目的をなくした神は、時としてこの幻想郷ですら消滅する。
 頭に、ある映像が焼き付いて離れなかった。それは背中だ。
 決して振り向かない、彼女の背中。
 雛の周囲は濃密な厄で覆われていた。さっきまで神社にたむろしていた鳥や妖精たちも、いつの間にかいなくなっていた。その黒い瘴気は、既に妖精や小動物の目にも見えるほど濃くなっていた。今の濃度なら、妖精や小動物はもちろん、並の妖怪でも近づけないだろう。近づけば吐き気と目眩、原因不明の疼痛に襲われる。まるで病んだようになる。
「おやおや、誰かと思えば、あなただったのですか、厄神様」
 そこへ天狗の少女がフリルのついた黒のミニスカートを翻し、軽々と降り立った。文はにこにこと笑いながら、回り続ける神に声をかける。無心に、ただひたすら厄をからめとっていた雛は、声を聞いてぴたりと動きを止めた。それから興味なさそうに、声の主に視線を向ける。
「あら、天狗の記者さん」
「これはまたずいぶんと集めましたねえ。ほら、こんなにねばついている」
 厄を手のひらですくい取ってみせて、手を振って散らす。
「しかもここ、ひとんちじゃないですか。何考えてるんですか、神様」
「ここが私の神社だ、とは考えないの? 私も神よ」
「あなたの神社ぐらい知ってますよ。そして、ここが誰の神社であるかもね」
 文は思わせぶりに微笑んだ。雛を試すかのような、不敵な微笑みだった。
「プライバシーもへったくれもないのね」
「変な言葉知ってますね。まあそれはどうでもいいんですが」
「私もどうでもいいわ。あなたに聞かれることはすべて」
「そう言わずに。こんな夜中、ひとの神社で何をしていたんですか」
 文花帖を出して、ペンを取る。
「厄を拾っていたの」
「親切ですね。さすがは鍵山雛。人間にも優しいと評判の神様です」
 ペンを取っているものの、文にメモを取る様子はない。文花帖をぱらぱらとめくっているだけだ。雛は文の挑発には応じない。
「あなたの厄の一部が今さっき、空へ上がりました。回収し損ねたんでしょうかね」
 文は、自分の言葉が雛に与える効果のほどを観察した。雛はすました顔をしている。熟練の職人が、丹精こめて作り上げた人形のように整った顔だ。人形といっても、目鼻立ちのくっきりした西洋のものとはまた違う。牡丹のように柔和で、可憐で、どこか不可解な顔立ちだった。
この落ち着き払った綺麗な顔をゆがめてやりたい。
 文は、ふとそう思った。そうなると自分でも止められない衝動が、体の中から突き上げてくる。
「遠目からは目立ちません。まるで凧の糸のように細い煙でした。ですが、私には見えました。見ただけでわかりました。あの厄は」
 ずい、と顔を近づける。雛の頬に赤みが差す。
「神をも斬れる厄でした」
「そう」
「あれを見たときゾッとしましたよ。あの煙を製錬して、剣を作ってごらんなさい。そしてそれをふるってごらんなさい。たとえばそう、山の二柱といえ、あの剣で斬られてはただではすまないでしょう」
「そう」
「私たちだってそうです」
 文は雛の腕をつかみ、地面を蹴った。一瞬で地上を離れ、夜空を昇る一筋の厄に追いつく。文は目を輝かせて、その糸の集まりのような煙に、指をぎりぎりまで近づけた。
「あなたたちが走るでしょう。飛ぶでしょう。何かものを蹴ったり、投げたりする。風を起こし、弾幕を放つ。そういったすべて、私たち天狗にとってみれば何もしていないに等しい。あなたたちが一日、休み休み飛んでいる間に、私たちは万里を駆ける。あなたたちがふぅっと息を吐いてそよ風を起こす間に、私たちは台風を起こす。あなたたちの弾幕は線香花火、私たちは、大花火。そんな私を、あなたは切り裂けるんです」
「どうしたの。今日はいつにもまして奇矯な言動ばかりね。何かいいことでもあったの」
「興奮しているんですよ。あなたにこんな力があったなんて。私は今まであなたのことを過小評価していたようです。運が悪くてかわいそうな人から厄を吸い上げて、それを再分配する、社会主義者のようなことばかりしているかと」
「あなたに私が普段やっていることを理解してもらうつもりも、評価してもらう必要もないわ」
「そうはいきませんよ」
 文は雛の腕をつかんでいた手を離し、肩に腕を回し、強くひき寄せる。
 お互いの息がかかる距離まで、顔が近づく。
「いったい何が、あなたの力の源なんですか」
 その問いに、雛は顔を歪めた。
 唇を噛んだ。
「……知っているくせに」
 文の背筋をぞくぞくと快感が駆け抜ける。初めて見る雛の表情だった。
「あはははっ」
 文は笑った。雛は文を両手で突き飛ばし、距離をとる。ふたりは黒い煙を挟んで向かい合った。白い月光が斜めから差し込むと、煙はいっそう禍々しく見えた。
「秋の神様が今どこでどうしていらっしゃるかには、興味ありますか」
 雛はもう、白を切るのも馬鹿馬鹿しくなった。
「あるわ」
「よかった、本音が聞けました。ねえ、もっと話を聞かせてくださいよ」
「あなたの下卑たのぞき見根性も大したものね」
「これはね、お互いのためでもあるんですよ、厄神様。あなた、誰かに話したくてしょうがないでしょう。今のあなたの鬱屈、熱情、絶望を。ただ、誰もあなたの気持ちをわかってくれないか、それともあなたの気持ちをわかってしまっては困るひとばかりか」
「ぬけぬけと」
「いいんです。ひととはそういうものなんです。自分が何かを感じたら、それを誰かに語らずにはいられないんですよ。だから話すんです、だから書くんです」
「私の暴露本なんて、楽しめるのはあなただけでしょうね」
「それでいいんですよ」
 文はふわりと雛に身を寄せる。もろに黒い煙の軌道上だ。進行方向に異物がやってきたため、煙は文にまといつく。
「ちょっ……危な……」
「読書なんていう、ひとりよがりで閉鎖的で身勝手な行為は、読み手がひとり、書き手がひとり、それだけいれば成立するんです」
「何考えてるのっ、いくら天狗とはいえ、そんな厄にどっぷり……」
 雛はそこまでしか言えなかった。
「ちょっと黙っててください」
強烈な突風を正面から浴びた。一瞬思考が吹き飛ぶ。
 葉の激しいざわめき、枝の折れる音、そして唐突な衝撃。雛は地面に大の字になっていた。辺りには折れた枝やちぎられた葉が散らばっている。
「うっ……く。いったいあの天狗、何を考えているのよ」
 地面に墜落した衝撃で息苦しかったが、他に痛みはない。こうまで距離を離されては、はるか上空の厄を払ってやることはできない。文の人格については雛も色々と思うことはあるが、厄神という自分の役柄上、他者にまとわりついている厄を払ってやれないのは気持が落ち着かなかった。
「まあ、自業自得よ。私は知らない」
 そう言い捨てて、自分の神社へ戻ろうとした。
 そのとき、下の方から火の灯りとざわめきとともに、人間の一団がやってきた。
 先頭には、果物で飾りつけられた帽子をかぶった少女がいる。彼女だけが人間でない。秋の、それも豊穣の神だ。
「あ、雛さん」
「穣子……」
 雛の顔を見ると、途端に穣子は後ろの人間たちを振り返った。
「みんな、ごめん、友達が来たから今日は見送りここまででいいわ。今日は呼んでくれてありがとう、また行くから」
 すると、人間たちから不満の声が上がった。
「え~そりゃねえぜ神様。せっかくだからよ、神社まで行ってお参りまではさせてくれよ」
「そうですよ、でないと来年の収穫のご利益が落ちてしまいそうな気がします」
「神付き合いも大事でしょうけど、ね、ちょっとだけ、いいじゃないですかお参りまでは」
「うう……しょうがないわね。ごめんなさい雛さん、もう少し待って」
 困った顔をしながらも、穣子はまんざらでもないようだった。
「いいわよ気にしなくて。私もこれから帰るつもりだから」
「そうなんだ。えと……姉さんを、待ってたんだよね」
 雛は無言だった。穣子は、それを肯定ととった。
「多分今夜も帰ってこないと思う」
「そう」
 知っている。
 雛は知っていた。
 だから腹立ちまぎれに、神社に厄をばらまいた。一瞬後には恥じて、すぐに回収したが。
「私、どうしたらいいのかな」
 穣子は言う。
 そんなことを私に聞かれても困る、と雛は言いたかった。
 私が聞きたいくらいだ。
「おぉい神様よぉ、今からみんなで感謝の言葉捧げるからちょっとこっち来て座っててくれよぉ。主役がいねえと始まんねえよぉ! あんた神様だからいいかもしれんが俺ら人間は寒ぃんだよぉ」
「はいはーい、すぐ行くから待っててよ! まったくもう、酔っ払いどもめ、少しは静かにできないのかしら」
「大人気ね、穣子」
 雛が微笑むと、それにつられて穣子も苦笑した。
「まあね、便利な神は何かと引っ張り回されるのよ。というより、人間にとって便利な存在を、神と名づけているだけなのかもしれない。危害を加える者は妖怪、ってね。まあ、私も神。あの子たちの信仰心で喰っていってるようなものだから、持ちつ持たれつよ」
「それじゃあ、ここで。私は帰るわ、穣子」
「おやすみなさい、雛さん」
 寒々とした夜中に盛り上がる秋神社を背に、雛は自分の神社へ戻った。
 お供え物や、厄を宿した人形が新しく置かれていたが、今夜は何もする気になれなかった。お供え物に混じって、手紙が置かれてあった。
〈厄神様へ〉
 とある。封を解くと、相手は予想通りだった。
〈お暇でしたら明日、酉の刻に河童に声をかけてください。『天狗から蓄音器の修理を頼まれた』と言えばわかります。かしこ。射命丸文〉



 河城にとりは脚立に乗って、天井にライトを取りつけていた。がらんとした部屋だ。まだ何の準備もされていない。明日にはにとり特製のライトが華々しい光を部屋中に投げつけるだろう。それを想像すると、にとりはワクワクが止まらなかった。
「ネーター、ネーター」
 その声とともに、扉の開く音がする。
「ずいぶんとむちゃしたねえ。いったい何だい、それは」
 にとりは取りつけ作業を中断せずに、声だけをかける。
「ごらんのとおりですよ。って、そっち向いたままじゃ見えないですか」
「見なくてもわかるよ臭いで。それぐらい。そんなにまともに厄をかぶっちゃって。いくら天狗でも体壊すよ」
「いやあ、特攻した甲斐がありました。期待通りです。体壊しても本望です」
「あんたが期待した通りのものを得るなんて、そいつはすごいね。でも、誰がそれだけの厄を一気に被せたんだい。鍵山の神様にここまでの力はないだろうに。他に誰かいたっけねえ……」
「ふふ、やっぱり見なくちゃわかりませんね、にとりさん。百聞は一見に如かず、ですよ」
「どうだかね……っと、終わりっ」
脚立から飛び降りて、そこで初めてにとりは振り向いた。文の全身にまとわりついている黒々とした厄を目の当たりにする。
「ありゃりゃ、確かにこれは、鍵山の神様のだ。あのひと、こんなに力があったんだ。ちょいと見誤ってたね」
「でしょう。そう言ったら怒られましたけどね。それはそうと今日はお願いがあってきました」
「また仕事の依頼かい? ここんところ重なるね。私は天狗専用の便利屋じゃないんだ。今日はこの部屋のセッティングだけで勘弁して欲しいんだけど」
「最近あなたがた河童が先頭に立ってやっている、新エネルギーの開発事業、一部の山の妖怪から反対者が出ているって聞きましたが」
「反対しているわけじゃないよ。少なくとも八坂の神様に面と向かって反対できる奴なんていない。いたとしてもほんのわずか、一握りだし、そういう連中はそもそもこんな小さなことで諍いを起こしたりしない。反対している連中は、単に河童が気に喰わないだけさ」
「気になりませんか?」
「うるさいとは思うよ。静かにしてほしいともね。核エネルギーってんだ、こんなおもしろいモノそうそうないよ。私たちじゃないと、この面白さを十全に活かせないって。なんてったってまず分子の分裂の構造からして……」
「静かにさせてあげましょうか。そのうるさい妖怪たち」
「えっ」
「ですから」
 文はうっすらと笑った。
「今から私がするお願いごとの、お返しですよ」
 にとりは、文の笑みに完全に呑まれた。これだから天狗は油断ならない、と思う。
「そ、そりゃあ、静かにしてくれるんなら、それがいいけど。あんたの頼みは」
「これを、アミュレットにしてください」
「これって?」
「だから、これです」
 文は自分にまとわりついている厄を指差す。
「こんなに切れ味が鋭く、重く、純度が高い妖気、そうそうないですよ。これを炉に流し込んで、熱して、溶かして、鋳型に収めてアミュレットにするんですよ。私はできません。そんな高熱を作ることも鋳型を用意することもできません。でもあなたならできそうです。どうですか」
 にとりは背負ったリュックを下に降ろして、無言で中を探る。やがて鼠色の棒を取り出すと、文に向かって突き出し、くるくるとまわし始めた。すると綿菓子のように、黒いものが棒にまとわりついてくる。にとりはそれを目の前にかざした。
「へえ、こりゃあ……凄い純度だ。うん、私の技術で、なんとかできないこともないか。それにしてもこんな厄をかぶったままで、よく平気でいられたもんだよ。やっぱり私たち河童とは体の作りが違うねえ」
「好奇心のなせる業ですよ。気になることがあると、それしか考えられなくなる。というか、あなたも同類でしょ」
「ふうん、まあ、一緒にされても困るけど、そういうものかもね。とりあえず製錬せんことには出来具合も見当つかない。ちょっと時間かかるから、明日の宴の後でもいいかな」
「ええ、いいですよ。今日明日、ってわけじゃないので」
「わかったよ。とりあえず、厄だけ集めておくよ」
「助かります。正直、これ体にまとったままだとさすがにキツイので」
 にとりは棒をいくつも取り出し、それに厄を次々と巻き取っていった。文も自分で棒を操って、作業を手伝った。
「明日の宴には、あなたは参加するんですか」
 なんでもないことのように文は言った。にとりは一瞬作業の手を止め、また巻き取り始める。
「私はいいよ。今回、裏方だから」
 巻き取り作業は三十分ほどかかった。二十本近くになった木の棒はかさばるので、バッグには入りきれない。バッグから別の折り畳み式の袋を取り出し、それに入れる。こうして極力外気に触れないようにして、後日製錬するのだ。文は礼を言って去っていった。にとりは残って作業を続ける。部屋の四隅に香を置いた。これに火を灯すと、酩酊を誘う光と匂いが生まれる。あまり吸い過ぎると判断力が低下する。火がついていない状態でも、長時間吸うと危険だ。手早く設置だけを済ませていった。



 そう簡単に河童が見つかるものか、雛は半信半疑だった。見つからないならそれでもいいと思った。
 今日は友引だった。朝から山の方々で厄に引っかかった。人里の方にも出向いた。昼にいったん自分の神社に戻って休憩したとき、午前までに予定していた周回コースをまだ半分しか回り終えていなかった。
 普段なら夕方、日が暮れ始める頃にはあらかた仕事は終わる。ところが、する作業の悉くが滞り、気づいた頃には夕方どころか、山はすっかり夜の色に染まっていた。
 おそらく酉の刻はとっくに過ぎ、戌の刻に入っているだろう。
 帰り道、神社の傍の川を通るから、そこだけ覗くことにした。誰もいなかったらそのまま帰って寝る。
川辺にはまるで当たり前のように河童がいた。こちらに背を向けて、川面に屈みこんで何かをしている。その後ろ姿、ツイテンテールのお下げ髪と帽子に見覚えがあった。
「にとり?」
 声をかけると、少女は振り向いた。
「雛っ……遅いから、ひょっとしたらと思ったけど。やっぱり来ちゃったのね」
「来ちゃ、まずかったかしら」
「ううん、そんなでもないけど。雛、これから行くところが何なのか知っているのかい?」
「何も。私は、今日、あなたに会うことすら予想していなかったのよ。あの記者が何を考えているかなんて、まったくわからないわ」
「でも、想像はついている」
「さあ」
「だから、誘いに乗ったんでしょう」
「そうね」
「……いいよ。乗って」
 にとりは川の上を歩き、中ほどで立ち止まった。雛に手を差し出す。雛はにとりの手を取る。そのままふたりは、川の表面をすべっていった。川の流れを逆行して、上へ、上へとのぼっていく。ふたりのすべる速度はぐんぐんあがっていく。
「どこへ、行くの」
「天狗の隠れ家。昔からあるところさ」
 にとりは、平静な口調を保とうとしていたが、失敗していた。語り口の端々から、そううかがい知ることができる。
 川は蛇行し、川幅が狭くなっていく。巨大な岩や、複雑に枝同士が入り組んだ木々がそびえる。人間は無論のこと、獣や妖怪でも慣れたものでなければ通ることすら難しい。山は険しくなる一方だ。
「ここだよ」
 にとりは川面から飛んで、地面に降り立つ。雛も後からふわりと着地する。にとりは、密集した木々の隙間をひょいひょいと器用に塗っていく。妖怪ならぬ神の身である雛にとっては、だんだん進むのが厳しくなってきた。
 不意に目の前に壁があった。見上げると、切り立った崖になっている。
「あそこ」
 にとりが遥か上方を指差す。絶壁に小さな穴が空いていた。ふたりは飛んでそこまで行く。
 途中、何人かに追い越された。修験道者のような格好をした者たちだった。雛はその通り過ぎていく何人かの横顔を見たが、みな、男も女も、息を呑むような色気をまとっていた。
「天狗……」
 彼らは崖のわずかな突起を足場にして、軽々と上っていく。にとりと雛の飛行速度より早い。先程にとりが指示した穴へ入っていく。
「天狗の集まりなの」
「まあ、妖怪もいるけど」
「何をするの」
「宴だよ」
「宴、ねえ」
「嫌なら帰るかい?」
「いえ」
 そうこうしているうちにふたりも崖に穿たれた穴にたどりついた。そこから奥へ通路が伸びている。はじめ剥き出しの岩だったが、すぐに木の板で舗装された通路になった。
 突き辺りに扉がある。通路は左右にも伸びていた。
「入口はここだよ。じゃあ、私はこれで。せっかくだから楽しんでって」
 にとりは右の通路へ行く。
「あなたは参加しないの」
「するよ。裏方で」
 ドアノブをひくと、室内の空気が漏れ出てくる。その瞬間、雛は理解した。
 生ぬるく、甘ったるい空気が肌にまとわりつく。
 青白い照明が、部屋の隅々にまで弱々しい光を投げかけている。ぱっと見たところ三組が、それぞれ寄り添って会話をしていた。クロスのかかった小さなテーブルがいくつかあって、どれにも簡単な料理とグラスが乗っている。
 ひと組はソファーに座って寄り添い、談笑しながらお互いの体を軽く触り合っていた。別のひと組は今まで話していた会話をぴたりとやめ、無言で見つめ合っていた。いましも何かがはじまりそうな、不穏な空気だった。また、別のひと組は……
「ああ、来てくれたんですね」
 かすかに室内の空気を震わせる緩やかなピアノの音にまぎれて、聞き覚えのある声がした。それは昨夜聞いたときの声よりも、粘っこく雛の耳に残った。もっと声を聞きたい、と思った。
 振り向くと、文が朗らかな笑みで、皿とグラスを持っていた。
「ほら、せっかくだから食べましょう。おいしいですよ、このアスパラガス。ベーコンとチーズがいい感じです」
 皿を受け取る。そのとき、中指と薬指の先に、文の爪を感じた。それだけで、彼女が目の前にいるということを今までにないほどリアルに感じる。この部屋の雰囲気がそうさせているのはわかっているが、止められなかった。
 確かにアスパラガスはうまかった。普段より負担のかかった仕事、慣れぬ山中の移動が重なり、雛自身が思っていたより体は疲れていた。うまみが体中へ広がっていく。
「何、飲みます」
 文はそう言いながら、傍のテーブルに置かれている瓶に手を伸ばす。
「人里からのお供え物だと日本酒とか焼酎ばかりでしょう。たまには別のも」
「そうでもないわ。私の神社は人里でもはぐれ者が来やすいみたいで、外から手に入れたのか、変なお酒を置いていく人間もいる」
「おや、では意外に色々と知っていらっしゃるんですね」
 瓶を傾ける。雛は、ごく自然に文の首を見た。昨夜見たときより、リボンがゆるんでいた。ここの室温が高いからだろうか。首と襟の隙間が広がっている。
多分そこに手を入れても文は何も言わないだろう。
 そう、自然に考えてしまった。慌てて、雛は首を振る。
「はい、どうぞ」
 文は雛の心中を見透かしたかのように、少し首を傾げ、酒の入ったグラスを差し出した。
「私も酒は詳しくありませんが、あなたの髪の色を選んでみました」
 グラスには鮮やかな緑が広がっている。口に含むと、熱い塊が喉から胃へ落ちていく。
「こんなお店が妖怪の山にもあったのね」
 雛は囁くように言った。何となくはきはきとしてしゃべるには気まずい雰囲気があったし、大声を出す必要などまったくないほど、文は近くにいた。
「ええ。山の神様も黙認しているようです。まあ、昔からあるお店ですし、あの二柱とて昔から外で色々なものを見てきている。おそらく心当たりがあったのでしょうね。すぐにわかってくれました」
「ここ、広いのね。いったい何人ぐらい……」
「雛さん、そういう、つまらない話をしにきたのですか」
 文は雛に寄り添うように立っている。別の組が絡み合いはじめた。雛はそれを横目で見る。
「音が……」
「ええ、気配りが細かいんですよ」
 ピアノの音に、少しずつ、別の音が混ざっていく。腹に響くような低い音。
「太鼓……に似ているけど少し違うわね」
「ドラムです。電子音の」
 さっきから視界がちらつく。青白いはずの照明が、一瞬、赤や黄になる。はじめ、錯覚かと思っていた。頻度が上がっている。ひとの動きがコマ送りのように見える。
 感覚が、惑乱される。
「これ、河童の仕業……」
「ええ、優秀なエンジニアです」
 文は雛の額に、こつんと自分の額をつける。雛は手を伸ばし、文の肩を触った。ひきしまった、均整のとれた体格だとわかる。それなのに、ふとした瞬間手のひらが沈み込んでしまいそうな柔らかさがある。
 ドラムは間隔が短くなってきた。煌びやかな光が次々と目に飛び込んでくる。別のひと組が、絡み合う。
「場所を変えますか?」
 ここでもいい、と思ったが、文にリードを任せることにした。文の手が雛の手を取る。その瞬間、雛は文が激しく昂っているのを理解した。文のとり澄ました態度や、落ち着いた物腰からではない。手のひらを湿らせた汗のねばつきが、何よりも雄弁に語っていた。
 文についていくと、部屋の奥に扉があった。
「別に小部屋が用意してあるんです。何もないところですけどね。その方がさっぱりしていていいでしょう」
 文の声と、汗と、腹に響く電子音と、視界を幻惑する色彩が、雛をも昂らせた。
 何もかもどうでもいいと思った。今は、目の前で背中を見せている少女を貪りたい、ただそれだけだった。

   ***

 雛の意識は、水面に浮かんでは沈む木切れのように不安定だった。
 かしゃり
 何か機械と機械が噛み合うような音がした。今までのおぼろげな意識の浮上と違い、こんどははっきりと醒めた。
 肌寒い。
 服は着ているが、あちこちが乱れたり、破れたりしている。体はぐったりとして動かない。まだ体の各所に甘い痺れが残っている。
 かしゃり
 また、音がする。同時に光が雛の目を射す。
 音の方を見て、雛は事態を理解した。文がカメラのレンズ越しにこちらを見つめている。
「文、何しているの」
 雛の声を聞くと、文はカメラから顔を離した。髪は乱れたままで、襟もとの黒いリボンはほどけ、鎖骨が見えている。スカートにも折り目や皺がついていた。半ば口を開き、ぼんやりと雛を見つめている。
「綺麗なので、つい」
 ただそれだけ言うと、再びレンズ越しに雛を侵す。
 雛は不思議と、怒りを感じなかった。文はそうすべき状況で、そうしているだけだという気がした。
 また、カメラが瞬きをする。このあられもない姿が記録される。そう感じたとき、雛は心ならずも体が震えたのを知った。
 恐れや恥ではなく、期待と快楽によって。
 慌ててそれを打ち消す。だが、頭で打ち消そうとしても、体と心は忘れない。
「いい顔していますよ」
 文は言う。雛はその声に誘われるように、様々に体を動かした。より楽な姿勢、より見られて気持ちの良い姿勢へ。体は勝手に動いていく。
「ああ、そう……いい……! いいですよ。雛、とても素敵です。そうそう、そうやってこちらを見るのです。その目、あぁ……そうです」
 文は唇を舐める。雛も、唇を舐める。文は雛へ近づくと、肩をやさしくつかみ、そして有無を言わさず倒した。雛の両脇に両膝をつく。膝立ちで、高みからレンズを向ける。
「ほら今、泣き、笑い、汚されてゆきなさい」
 雛の頬を撫で、それから喉を下から親指でそっとなぞる。雛は頤をそらす。そうすることで、より長くなぞってもらおうと。
 自然と声が漏れる。
「……永遠にしてさしあげましょう」



 それからどうやってこの部屋まで来たのかわからない。自分の足で歩いたのか、誰かに運ばれたのか。ただ、気づいたときには、雛はベッドに寝かされていた。今までのけばけばしい配色が嘘のように、この部屋は地味だった。ベージュや白、茶系の色ばかりだ。単調さを避けるように、カーペットやカーテン、額縁つきの絵、スタンド、棚、置物などあったが、どれも控えめで、自己主張しようとしない。
 身につけているものはネグリジェだけだった。ワンピースのドレスは見当たらない。リボンだけが畳まれて、枕もとの一段高くなったところに置かれている。
 あの放蕩の部屋で疲れた者たちがここへ骨休めに来るのだろうか。
 たとえば今の自分のように……そう雛は思う。自嘲とともに。
 あれほど自分が没頭するとは思いもしなかった。意志でも理性でもない、もっと即物的な感覚に、雛は翻弄された。むせ返るほど濃密な文の匂いがよみがえる。今この場に匂い立つかのようだ。錯覚とわかっているはずなのに、胸が苦しくなる。
 右の人差し指と中指を、そっと自分の鼻先、次に唇に触れさせる。
 一秒か二秒、我を忘れて、物思いにふける。
「気分はどうですか」
 ノックもせずに、文が現れた。自分の指を唇にそえたまま、雛は文を見た。指をひっこめる暇がなかった。
「おや、お邪魔でしたか」
「別に」
 指を唇から離す。それから、諦めたように笑った。
「考えてみれば、あなたに隠すようなことはもう何もないわね」
「そんな風に思われるのも困りますね。隠してもらわなければ秘密は暴きようがない」
「秘密なんてないわ」
「そんなことありません。あなたは魅力的です。魅力は常に秘密めいています」
 文は雛のベッド脇に立つ。両手で盆を支えている。
「和風と洋風、どちらにしようかと思いましたが」
 湯気の立つカップを、差し出す。
「レモンティーにしてみました。濃い目です。結構酸っぱいですよ」
「遊んだおもちゃのケアは欠かさないのね」
「もう。だからそんな風に取らないでくださいってば。私はあなたに興味があった。あなたも、まあ私に興味がないわけではなかった。まんざらでもなかったでしょう? たまには、普段と違った経験をすることもいい刺激になると思いますよ。視野も広がりますし。あまり深刻にとらえることではありませんよ」
「静葉も」
 雛の呟きに、文は口を噤んだ。
「あの子としたのかしら。こんなこと」
 数時間前か数分前かはわからない。とにかく、さっきまでの自分と文の姿が想起される。自分と静葉、あるいは静葉と文を入れ替えて、想起してみる。しっくりこない。というより、頭が想像を拒否していた。
「さあ、それはどうでしょうね。ひとさまのことは、その当事者間でしかわからないものです。さあ、レモンティーおいしいですよ。飲んでください」
 文に勧められるまま、ひと口啜る。
 目に見えて、雛の顔が驚きに染まる。
「これ……」
 文はにんまりと笑う。
「ねえ、おいしいでしょう」
 レモンの酸っぱさと、蜂蜜の甘さが体中に広がっていく。疲れ果てた体に心地よい。そして、飲んでみて初めて、自分がいかに水分を消費していたかを実感した。いかに、渇いていたかを。かなり熱めだったレモンティーを、気づいたときには飲み干していた。
「お代わり」
「はい、ただいま」
 文は空のカップを受け取り、盆に載せて退室した。すぐにまた持ってくる。今度は一気に飲まず、少しずつ味わって飲んだ。その様子を隣で、にこにこしながら天狗が見ている。
 これがいわゆる“後戯”というものだろうか。
 そんな考えが雛の頭をよぎったが、すぐに打ち消した。たとえそういう品のなさを文が持っていたとしても、思いついた段階で雛も同類となってしまう。無論このことを文に問い質すことなどできはしない。
「ごちそうさま」
 カップを文に渡す。ここらで切り上げようと思った。リボンに手を伸ばしながら尋ねる。
「ところで、私の服はどこ?」
「え? 洗濯中です」
 当たり前のように文は言った。
「なぜ」
「なぜって、結構汚れちゃいましたよ。お酒とか、料理とか。……」
「……そう。でも、ずいぶん用意のいい店ね。洗濯までするの」
「私は河童の洗濯屋に頼んではいませんからね。きちんと自宅でしますよ」
「え? 店の洗濯を請け負っているの。あなた、新聞記者でしょう」
「ええ、文筆を糧としています。というのは願望混じりの嘘で、実際は天狗社会のサラリーマンのひとりに過ぎません。ちなみにあの店の洗濯なんてしてません。それこそ河童の仕事です。なんだかさっきから話が噛み合っていませんね」
「ここは、どこなの?」
「妖怪の山。もっといえば、私の家です」
 ようやく、雛は合点がいった。



 河童の工場は、山の麓に近い川辺に建っている。妖怪の山を流れる川の中でもひときわ川幅が広く、水量が多いところだ。わりあい人里に近いこともあって、里から遠出してきた人間がうっかり迷い込むことがしばしばある。最近は対策としてカモフラージュの研究もされている。工場はいくつかの棟にわかれている。たいていの棟は地下室もあるので、上から見たよりもずっと工場の総面積は広い。文はその中でももっとも規模の大きな棟に入っていった。
「こんにちは」
 文が扉を開けると、にとりはゴーグルをかけ、机に向かって作業しているところだった。
「ああ、天狗さん、こんにちは」
 文の方を見ないまま、にとりは応えた。
「やっぱり。溶鉱炉の方にいらっしゃらなかったのでこっちかなと。それにしてもお仕事が早くてびっくりです。こっちにいらっしゃるということはもう出来上がりかけってことですよね」
「まあね。今仕上げのところさ」
「お邪魔でしたかね」
「ちょっとね。あと二十分してからまた来てくれるかい」
 文はおとなしく工房から出た。廊下で待ちながら、周囲を見る。同じような扉が間隔を置いて、廊下の両側にいくつか並んでいる。全部で十部屋あるらしい。様々な設備が完備された個室だ。それぞれの部屋では、名うての職人たちが腕を競って新たな道具を作っている。河童が技術開発に力を注ぐ種族とはいえ、誰も彼もがこんな環境の整った部屋を使えるわけではない。そう、河城にとりは、河童の中でも特に腕を認められた少女のひとりなのだ。
「いいよ」
 十分ほど経ち、扉が開いた。中に入って完成品を見た文は、思わず感嘆の声を漏らした。
 黒光りする金属の花弁を、手のひらに乗せる。そうすると、この金属の装飾品がいかに小さいかがわかる。だが花弁の一枚一枚に精巧な模様が施されていた。
「これは……牡丹ですか」
「いや、花っぽくみえるけどリボンだよ」
「誰のですか」
「厄神様だよ。いちいち聞くんじゃないよ」
「そうですね。河童の細やかなサービス精神、お見事。いや、ほんとこれは見事です」
「チェーンは普通のにするよ」
「ええ、そうしてください」
「あんたさあ、護符じゃなくて、ただ飾りっぽいものが欲しかっただけじゃないの」
「まあそうですが、それだとありがたみがないでしょう」
「そりゃそうだけどね。ま、実際、これは相当な効力を持つと思うよ。並の厄は寄せ付けない」
「インフルエンザウィルスをインフルエンザワクチンで防ぐようなものですからね」
「ああそうそう、お代だけど」
「もう済ませてきました」
 文はあっさりと言った。
「へ?」
「例の、山犬たちの一派でしょう? ひょっとして違いましたか」
「いや、合ってる」
「ですよね。工場の隣で集会とか、トイレ壊すとか、結構悪質だったんですねえ。今日、ちょっと顔出して話をつけてきました。もう、あまりあなたたちにちょっかいはかけてこないと思います。」
「あ、ああ、そう……ならいいよ。ありがとさん」
「いえいえ、こちらこそ立派なジュエリー、ありがとうございます。会議を抜けてきたんで早々に退散します。それではまた」
 そう言って文は去っていった。にとりは、しばらくの間誰もいなくなった部屋にぽつんと立っていた。やがて、呆れたように呟いた。
「はっやいねえ……」



 天狗の会議は遅くまでかかった。もうすぐ午後十一時になろうという頃、ようやく文は家に帰り着いた。
 台所の食卓にご飯と味噌汁が置いてあった。無論、文が用意したものではない。激烈なまでに冷めていた。文は台所から寝室の方へ顔を出す。
「鍵山さん、起きてますか?」
「起きてますわ」
 電気の消えた部屋のベッドが、もぞもぞと動く。雛が上半身を起こした。
「あれ、新手の嫌がらせですか?」
「勝手に材料と道具、使わせてもらったから。丸一日何も食べないと、次の朝がきついのよ」
「いや、それはいいのですが」
「余ったから、あなたの分も用意しておいたわ。でも保温する術が思いつかなかったから」
「……絶対わざとでしょ」
「服を返してほしいの。下着だけじゃ、外に出られないし、第一寒いわ」
「ないなら作ればいいじゃないですか。神にとって服も表象、すなわち身体の一部」
「その身体の一部が天狗の狼藉によって囚われている。そのこと自体が、私をここに縛りつけているのよ。こうしている限り私に新しい服は作れない」
「おやまあ」
「あなた、私に恨みがある……わけではないわよね」
「無論です。というか、そんなにあなたに不快な思いをさせましたかねえ」
「不快じゃない。不可解なだけ。多分、私の何かに興味を持って、それをつつき回しているんでしょうけど。あまり長く続くようだと、迷惑ね。私にも生活があるから」
「うーん、うまく真情を吐露できるか自信がありませんが」
 明かりの消えた寝室に、文は踏み込んだ。何のためらいもなく、ベッドに膝をつき、雛の胸元に顔を寄せ、そのまま体重をかける。雛は逆らわず、上体を再びベッドに横たえる。文は鼻の頭で雛の鎖骨、喉、頬、耳、髪、とたどっていく。そうして、右手で自分の胸元を探り、黒光りするアミュレットを取り出した。
「ほら、これはあなたです。こんなに綺麗で恐ろしい。だから興味を持ったんです」
「好奇心は叶えられた?」
「まあそこそこに」
「だったらもういいでしょう」
「お嫌でしたか?」
「嫌いではないわ。あんなよかったのは初めて。気が向いたらまたお邪魔するわ」
「それはよかった」
 文は心底安堵のため息をついた。彼女は、雛にとって不快なことを何ひとつしたくなかった。雛の髪をかき上げ、生え際に唇を寄せる。雛の吐く息が、文の喉元をくすぐる。
「でも、こうしていても何も産まないと思うの。お互いに」
「それはそうでしょうねえ」
「不毛よ」
「何かいけませんか」
 髪に口づけしながら、リボンを指に絡める。
「いいじゃないですか、たったひとりの相手だとか、真実を共有するだとか、死ぬまで一緒とか、死んでも一緒とか。いえいえ、否定するわけではありませんよ。けど、そういう関係だけが正しいことだと主張するのはどうでしょうねえ」
 雛はくっくっ、と喉で笑った。
「あの子たちは、正しいと主張したことなんて一度もないわ。正しくあろうと思ったことだって、きっとない。自分たちの、欲望のままに……」
 雛の口に、文の人差し指が当たる。雛は口をつぐんだ。
「好き、というのはたった一瞬で十分です。あとは全部嘘になってもいい」
 文は雛の頤に指をかけ、上を向かせた。

   ***

 最後の緩やかな波が、やがて来た。艶のあるうめきがひと時、双方の口から漏れる。あとはもう、昂りが訪れることもなく、呼吸は穏やかになっていった。
 それでも長い間、お互いを触り合っていた。
 やがて、文は身を起こした。
「厄神様は朝、早いですか?」
 声が少し枯れていた。
「だいたい、日の出と同じくらいかしら」
 答える雛の声も似たようなものだった。
「わかりました」
 文は寝室を出て、仕事部屋とも趣味部屋とも呼べる、文々。新聞製作のための部屋に入る。そこの棚に、雛のドレスはあった。両手で棚から出し、顔を埋もれさせる。丁寧に畳んで、台所の机の上に置いた。
 それから冷えたご飯と味噌汁をかき込んだ。マフラーを巻いて外に出た。
 夜空を飛び回った。
 日が昇ってからもしばらくそうしていた。目がチカチカして来たので家に戻ると、もう誰もいなかった。暖かいご飯と味噌汁だけがあった。



「文さーん、いますかー」
 その声の主は、生真面目にノックを繰り返していた。文は全身の気だるさを振り払えぬまま、辛うじて上体を起こす。窓からは空の真上に陣取った太陽の光が降り注いでくる。
「ぅぐ……あ……」
「文さーん。もう、入りますよ」
 そういって、扉が開かれる。きびきびとした足音がこちらに近づいてくる。
「文さ……うわ、なんですか、まだ寝てらしたんですか」
「も……みじ。なんですかいきなり」
「いきなりも何もないでしょう。今日は文さんが白狼天狗に研修する日じゃないですか。ご自分で指定されてたでしょう」
 犬走椛は勢いよく文の布団を剥いだ。薄物一枚をまとっただけの文の姿に、一瞬固まる。首にさげられた飾りが、他の部分の無防備さをさらに強調していた。
「そう……でしたっけ」
 ぼんやりした頭で、少しずつ過去を掘り返していく。すっかり忘れていた。
「そ、そうですよっ。遅れたら強制幻想風靡だって言ってたの、文さんですよ。もうっ。さっさとご飯食べていきますよ」
「ご飯は……食べました。朝」
「それから寝たんですか」
「ええ、まあ」
「もう。昨夜何があったか知りませんが」
 そう言って、椛は二度、鼻をすんと鳴らした。
「……何があったか知りませんが」
「ふふふ」
 文は嫣然と微笑むと、途端に起き上がり、衣類棚からシャツとスカートを取り出し、たちまち身なりを整えた。
 きゅっ、と胸元の黒リボンを結ぶ。
「椛、あなたにはまだ早い」
「いいですよ早くて」
「ネタを探すつもりが、ネタに喰われてしまいました。もうこのネタについては何も書けません。本望です」
「そうですか」
「嘘ですよ。悔しいです」
「はあ」
「私はいいネタがないか探していたんです」
「はあ……」
「私はですね、ネタがないと書くものがなくて、それで淋しくて死んでしまうのです。それが鴉天狗という生き物の宿命なのです」
「へえ、寡聞にして存じ上げておりませんでした」
「だって世界はすっかり私を置きっ放しにしているんですよ。日と月と星が巡り、火水木金土を経て、春夏秋冬一日一分一秒、一瞬間に至るまで世界は休まず転がり続けているのです。永遠にね。書かなければ、私の身の置き所がありません」
「そうですか、そう思ったことはありませんよ」
「ありませんか? 変ですね、あなた。椛は変です」
「一生懸命お仕事して、誰かに認められて、ひとに感謝されて、家にかえってゆっくりご飯を食べて寝る。それじゃいけませんか」
 文は、ずいっと椛に顔を近づけた。
「い・け・ま・せ・ん」
 そしてぷいっと顔をそむける。
「あなたとは話が合いませんね、椛。さあ、行きますよ。飛ばしますから置いていかれないように」
「ちょ、自分で遅れておいて……ま、待ってくだ」
 窓を勢いよく開け、床を蹴る。
 風に愛されているかのように、少女は誰よりも速く空を翔ける。





 地底に酒を呑ませる店が新しくできたらしい。
 旧地獄街道まで足を延ばせばそんな店は掃いて捨てるほどあるが、今回できたのは地上にほど近い橋のたもとだった。ここから橋を渡って上方へ飛べば、遅い者でも一時間で地上へつく。
 地上との交流がほとんどない地底の者にとっては、家から出てこの辺りに来るまでが一苦労だ。しかも他に何があるわけでもない。普通なら店を建ててもこんな辺鄙なところには、誰も来ないはずだった。
 それでも評判になるのは、訪れる者がいるからだ。
 雛は橋の前で着地した。向こう側に一軒家が見える。橋を中ほどまで渡ると、人影が見えた。
 金色の髪に、尖った耳、紫の縁取りがついた茶色の上着に、青いスカートを身につけている。氷の結晶のように美しい声が、少女の唇から漏れた。
「ようこそ、私はパルスィ。あの店の店主よ」
「私は雛……何も連絡はしていなかったはずだけど」
「それだけ発散していたらわかるわ」
 そういって、少女は身をひるがえした。あとをついていくと、そのまま店の中に案内された。
 中は薄暗い。カウンター席に座る。
「何にする?」
 カウンターを挟んで、パルスィがか細い声で尋ねてくる。
「お酒」
 雛は即答する。
「……何か適当に持ってくるわね」
 雛の無体な注文に怒るでもなく、パルスィはカウンターの奥に引っ込んだ。雛は視線を落とし、カウンターの木目模様をぼんやりと眺めた。何か、生暖かい息が吹きかかった気がして、顔を上げた。
目が合った。緑色の目がふたつ、宙に浮かんでいた。雛が顔をそらすと、目はすぐにそちらにまわりこんできた。
「これか……」
 地底の橋の酒屋。そこでは、ひとは自分の嫉妬心と向き合わされるという。
 緑色の目は雛の知る誰かの目になる。目のまわりに浮かぶ緑のもやが、やがてひとの形へ変わっていく。雛は思わず目を閉じる。目の前にかたどられた少女が誰か、わかってしまった。深呼吸する。心を落ち着けて、目を開こうとする。
「無理して直視する必要もないわよ」
 声の方を向き、目を開く。いつの間にか、パルスィはカウンターに戻ってきていた。ガラスコップに透明な液体が入っている。雛はそれを飲み干す。ただの水だった。
「あなたの横にいるその子が、妬ましいの? 憎いの?」
 雛の視界の端に、緑色をした少女の手が見える。それ以上、顔を横へ向けることができない。自分の醜さと直面してしまうから。
「あなたが求める誰かを、その子がとったの? それとも、はじめから手に入らないものを、その子のせいにした?」
 雛は唾を飲み込む。パルスィは、つぅ、と目を細め、左手を突き出した。人差し指と中指、中指と薬指の間に、緑色の目が収まる。
「まあ、どうでもいいけれど。もういいわよ。あなたが妬むその子の姿は、そこにはもうない」
 パルスィは雛が空にしたコップに、目玉をふたつ入れた。目玉は溶けていく。
「どうぞ」
 パルスィがうながす。雛はうなずき、緑の液体に満たされたコップを傾けた。
「他人の嫉妬は蜜の味」
 パルスィが歌うように言う。透き通った冷たい声で。
「じゃあ、自分の嫉妬は? これも蜜の味。しかも、他人のよりもっと甘く、痛く、舌に残る」
 雛は長い時間かけてそれを飲みほした。パルスィは表情をほとんど変えず、しかしどこか楽しそうに、その様子をずっと眺めていた。
「ごちそうさま」
 雛はコップを置いた。
「お代は?」
「頂いたわ」
 パルスィは唇を三日月型にした。





 人々が川辺に腰をおろし、それぞれに紙で作った人形を流していく。
 流し終えた人々は肩の荷をおろしたように、家族と、あるいは友人と、あるいはひとりで、それぞれ帰途につく。
「あーあ、好き放題流しちゃって」
 その川の上流の岩場にあぐらをかいて、にとりはぼやいた。手に何本もきゅうりを持っている。
「こりゃあ責任重大だね」
 そう言って傍らの雛を見る。雛は、最後のきゅうりをかじって、咀嚼している途中だった。
「まあ、いつものことよ」
 きゅうりを飲みこむと、雛は宙に浮き上がった。ゆっくりと回り始める。
「私が全ての厄を背負うわけでもなし」
 旋回に伴い、リボンが、髪が、襟が、スカートが翻る。
「私は、やれるだけのことをやるだけよ」
 下流の方から厄が上ってくる。にとりはそれらを踏まないようにして、岩から降りた。
「じゃ、お暇するわ、雛。今度みんなで飲もうよ」
「そうね。次はあなたも一緒に。それに、もう少し穏やかなところでね」
「ははは……そだね」
 にとりがしばらく距離を取ってから振り返ると、さっきまでいた辺りには、厄が雨雲のように集まっていた。
「ひええ、やっぱりあの神様、なんだかんだいってタフだねえ」
 そして、背後のクヌギの木を振り返る。冬だというのに、この常緑樹は盛大に葉を茂らせていた。
「そう思うだろう? 気にし過ぎているのはあんただけかもね、天狗さん」
 枝葉が、少し揺れた気がした。
もうすぐ冬コミですね。
今からどこを回るかワクワクです。
年内にこれを書き終えられてよかったです。
今年は、半年近く書かない時期があったのでその分を少しでも埋めたいですね。

エロとは
「語るべきか、語らぬべきか、それが問題だ」
いったいどちらがよりエロいのか!?
追加差分は別所にて。
野田文七
http://blogs.yahoo.co.jp/alfettaalfetta/MYBLOG/yblog.html
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コメント



0.1180簡易評価
4.90名前が無い程度の能力削除
あぁもう、艶やかで色っぽくて美しい
……なんで日の出てるうちに読んじまったかなぁ……はぁ……
5.100名前が無い程度の能力削除
なんだこの…こみ上げるなんだ…その…そう…
エロス……ふぅ…
8.100名前が無い程度の能力削除
これが…エロスという芸術か…
12.100冬。削除
エロスという意味がよく分かる作品でした、……ふぅー……。
14.90名前が無い程度の能力削除
手に入れられないからこそ、エロティックさは欲望として私達を離さない。
記述しない方が想像力を掻き立てられてより艶やかですねえ。
17.80名前が無い程度の能力削除
恋しい静葉の外伝?ですか。
最近向こうとこっちの境界が曖昧になってきたなぁ……
19.100名前が無い程度の能力削除
艶っぽくて粘っちりしてますねぇ。
深夜に照明落として読むと更に趣があって美味。
20.40名前が無い程度の能力削除
書かないからこその深さ・・・なのでしょうが私には全然でした。
心情描写が少ないと私のような者にとっては、[?]、とこのマークしか出てこないのです。
キャラの行動全てが不可解で奇妙なものに見え、何もかもが唐突過ぎて展開にも話の内容にもついていけません。
万人受けする作品と言うのは無いのでしょうが、私の感性としてはこの点数になります。
偉そうな事を書いてしまいましたが別に作者様が嫌いなわけじゃないのですスミマセン。
22.100名前が無い程度の能力削除
分からないなりに面白かったです。
27.100名前が無い程度の能力削除
さて、あそこに行くか
28.無評価野田文七削除
みなさんコメントありがとうございます。
東方の少女たちでどういうエロ身体表現ができるかやってみたかった。
だいぶ好き放題書き散らしました。
この小説を読んで素敵な冬の日を過ごすことができた人が
ひとりでもいれば書いた甲斐がありました。
文の服を観賞用に買った甲斐がありました。

>>17さん
一応、あれを見なくても差し支えないようには書いたつもりですが……
こいしも出てこないですし。
まあ書いている時は思い切り念頭に置いてたのは確かです。

>>20さん
ぐぁ、全然ですか。
肌に合わない、といってしまえばそれまでですが
こちらとしても、「わかってもらう」つもりで書いた以上、わからないといわれるのは問題です。
文の行動がすべて自明のことであるという前提で書いたのが、今回の失敗の原因かもですね。
キャラの心情描写はやりすぎるとくどくなるので、簡潔にしないといけないですがそれが難しいです。

>>22さん
あれ? わからなくて……いいのか。
いや、よかないか。
とにかくありがとうございます。

>>27さん
ノシ
30.60名前が無い程度の能力削除
エロティックで素敵。
35.20名前が無い程度の能力削除
心情、機敏といった流れが判りづらい
雰囲気を楽しむのもちとつらい
40.100つつみ削除
エロを主体にしてエロだけでないのはやはり文章がしっかりしているということなんですね。