Coolier - 新生・東方創想話

その揺らめきは妙なる貪り 三(完結)

2009/12/07 20:17:30
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本SSは、

「その揺らめきは妙なる貪り」「その揺らめきは妙なる貪り 二」

の続編となります(上記二作は共に作品集92)。




玄助は、ごく当たり前の百姓として、ごく当たり前の農村に生を享けた。


 成長し大人になると、玄助は、婚礼を挙げた。
 両親は既に亡かったが、村の娘を見初めたのだ。しばらく後には子も授かった。
 男の子が二人に女の子が一人で、農村の家族としては、むしろ少ない方と言えるかもしれない。しかし、彼は幸福だった。日々の労働――つまりは農業であるが――は厳しかったが、べつだん生活が極端に窮乏するという事も無ければ、家に帰れば妻と子供らが待っている。彼らの笑顔を一目見るだけで、彼の疲労はたちまちどこかへと吹っ飛んで行ってしまったものだった。彼の先祖が農業を営み、百姓としてその血を絶やす事が無かったように、彼もまた、百姓として平穏な一生を終えるものだと思っていた。


 ある年のことである。
 その年は、冬がいつもより長かった。
 例年、三月に差しかかる頃ともなれば雪もようよう溶け始め、白い原の下よりフキノトウも顔を出す。梅の花の咲く頃の次には四月に桜が咲き、次第に陽光も強まり夏が気配を忍ばす五月となるはずであった。
 しかし、春は来なかった。
 五月になっても雪が延々と降り積もり、日によっては吹雪に見舞われる事さえも。
 百姓たちは、困惑した。そうする事しかできなかった。
 晴れ間を見ては、男衆が老若を問わず寄合を開いて対策を討議したが、結局これといった案は出なかった。せいぜい備蓄の食料を無駄にせぬように……と、確認し合うのが関の山だ。


 
 少しずつ、人々の間には飢餓が蔓延し始める。
 周辺の村々へ救援を要請するという対策も講じられたが、降り続く雪は道さえも完全に閉ざしていた。
 村は、外部から隔絶された陸の孤島になった。
 食い物が底をつき、牛馬に与えるだけの飼料も無い。
 備蓄されていた諸々の野菜に、米を始めとして稗や粟などの穀物、死んだ家畜の肉……およそ食い物と名の付く物は瞬く間に消費され、後には一粒の種も残らない。
 食料の欠乏が深刻化すると、老人や病人など体力の無い者から先に飢え、死んでいった。
 家族全員が餓死したものの、寒さのあまり死体が凍りついて数週間も腐敗しなかったという家もあった。


 
 玄助の家もまた、飢えていた。
 
 まず子供たちが死んだ。
 決して身体が弱いというのではなかったが、それでも死の手は気紛れにくじを引いたのか。
 年老いた玄助と妻だけが、残された。
 死体は家の隅に放置された。埋葬しようにも吹雪のために家の戸も開けられぬ。迂闊に外に出ればそのまま凍死しかねない。子らの死体と対面するたび、二人の心は暗澹たる思いに支配された。痩せ細ってほとんど骨に皮を張り付けただけの状態になり、腹だけは内臓が詰まってボコリと膨れている。子らの眼が眠るように閉じられていたのは幸いであったと言えるだろう。開かれたまま何も見ない死体の瞳は、生き残った者に不安を与えるだけだったから。
 もはや着物を代えたり、髭を剃ったり髪を梳くだけの手間も、二人は厭うようになった。寒さのあまり裸になるのも怖ろしく、風呂にも入れぬ身体は垢じみて悪臭を放っている。何も喰わぬのに髪は脂ぎって、振り乱したようなザンバラになっていく。歯も磨かぬから、次第に白と黄色のまだらに染まっていた。歩くでもなく話すでもない。ただ生きているだけの彼らは、ただ飢えの一念に思考を乗っ取られ、まともに考える事も不可能に近かったのである。
 けれど部屋を見回すたび、玄助には飢えを解消するための方策がたった一つだけ閃いた。
 が、“それ”を行おうと提案しても、痩せ細った身体を震わして頑強に妻は拒んだのだった。
 日増しに募っていく飢餓と渇望…………黒い情念が、降り続く雪よりも怖ろしく、玄助の正常を苛んでいった。


 
 ……彼は肉を手に入れた。
 それを喰った時、「美味い」と思った。こんな美味い物を喰ったのは初めてだと、涙さえ流しそうなほど、求め続けた食い物に撫で尽くされた官能は熱を帯びた。
 ――――傍らには、屠殺された牛か鶏のように散らばった三人分の骨と、涙を流しながら言葉にならない呻きを発する妻の姿があった。けれどその声も、少しづつ小さくなっていったようだ。



 それから。
 玄助は、ついに一人になった。冬は、まだ明けなかった。
 四人分の骨には、かつて血だった黒い染みがこびり付いている。ひょっとしたら悪臭を放っていたかもしれない。蝿がたかって蛆が湧いていたかもしれない。しかし、今の彼にはどうでも良い事だ。冬が終わるまで、春がやって来るまで、こうして生き繋ぐ事さえできればそれで良い。彼は、もう何度目になったか解らない作業に取り掛かる。錆びた鉈を振り上げて、残りわずかな肉をこそぎ落とすのだ。
 もう、慣れた。躊躇いも戸惑いも無い。
 これが終われば食い物が手に入るのだから――。




 雪が溶け始めた頃、幻想郷から一つの村が消え去った。
 妖怪に襲われた訳でもないのに、全ての村人が死んでいた。
 死体はみな痩せ衰え、草鞋や土さえ食んだ形跡があった。
 村に有ったある民家では、ばらばらになった四人分の骨と、黒く染まった鉈を取り落として横たわった、一人の男の死体があった。かッ……と見開かれた彼の眼は果たして何を虚空に見出していたのであろうか。あるいは、近づきつつある死を予見して、来るな来るなと自身の生を誇示していたのかもしれぬ。

 
 それは博麗の巫女が『春雪異変』を解決してから、僅かに、数日後の事であった。

 
――――――


 浄玻璃の鏡が空間に放つ白い光が薄れると、後に残ったのは、無機質な照り返しを繰り返す床だけであった。
 その場の三人――四季映姫・ヤマザナドゥ、小野塚小町、玄助――は、誰一人として口を開こうとはしなかった。ただ、沈黙だけがあった。しかし地獄の火より遠ざかった閻魔の目前、断罪の炎熱よりなお激しく燃え続けるものは、玄助という人間が飢えに耐えかねて、死んだ家族の肉を喰ったという厳然たる事実であった。
 閻魔の持物の一つである『浄玻璃の鏡』とは、先の如く映姫が自ら言ったように、映し出された死者の生前の行状を露わにする。正真正銘、神の力によってもたらされる真実に間違いなどあるはずはなく、『白黒はっきりつける程度の能力』の無謬性は、まさしくこの道具に負う所が大きいのであろう。


 だから、なおさら不可解だった。
 眼の前には食人に手を染め、挙句、最後は餓死してしまった男が居るという事が。


 映姫は腰かけていた椅子より音もさせずに立ち上がり、目を細めて玄助を見つめた。高所より見下ろす死人の姿は、生前、人喰いの大罪を犯した者と同一の人物であるとは到底思えないほどに矮小だった。玄助は両手を腰の前で組むと、紐を結びでもしているかのように指を転がした。顔はただ俯いて、地面へと視線を落としているのか、それとも何かを考えているのか。垢じみた皮膚が鏡に映し出された映像よりもさらに茶色くなっているように感じられ、映姫の小さな肩は戦慄いた。無意識のうちに強い力を込めて握りしめられた悔悟棒は、今しも折れんばかりに湾曲している。
 唇が震え、ほんの少しだけ開かれた所から歯列と舌先が覗かれる。顎を形作る彼女の身体器官の全てが無言のうちに鳴動し、早く、早く告げよと急かしていた。
 この男は、大罪人だ……と。

「――――玄助」

 と、映姫が言う。
 不気味なまでに静まり返っていた広大な部屋の静寂が一瞬、破られ、名を呼ばれた玄助が顔を上げる。髪の毛の下の両目は、どろりと濁った死人の物に違いなかった。生に執着し、火花でも散っているのかと解釈されるほどにギラギラとした妄念に満ちた、鏡に映し出されていたものとはどう見ても違う。どこまでも、死の世界に引き入れられるだけの要素の塊でしか有り得なかった。

「あなたは、人を……飢えに耐えかねて妻子の死体を喰いましたね」

「ええ、そうです」

「自らもまた人でありながら、物盗りでもなく、女を犯すのでもなく。ただ飢えのために人の道に悖る行為をはたらいた」

「…………ええ、そうです」

 映姫によって指摘が為された時、玄助は“躊躇った”ようである。
 それが何によるものなのか、そこまでは映姫の慧眼をもってしても判じかねるものがある。が、喉の奥に何かが突き刺さった様な言い知れぬ不快を彼女は覚えた。玄助が言葉を濁しかけた様子は、言葉には出さないながら、心中に悪辣な思いを秘めて閻魔を嘲弄しているように見えたのだった。もしもそうだとすればとんだ不届き者である。神を侮辱するなど許されるものではない。けれども映姫にとってそれ以上に怖ろしいのは、嘲弄だけでなく、もっと具体的な――言うなれば、相手の思考に刃を吐きたてる様な危うさを自分が感じたという事実であった。


 ――――私が、玄助を恐れている?
 ――――死者を裁く絶対の権限を与えられた、この四季映姫・ヤマザナドゥが?


 その感情が、現実を合理化するために形作られたものであるのかは、映姫にも解らなかった。
 否。解りたくも無かった。解った瞬間、閻魔である彼女自身が、揺らめいて消えてしまいそうな恐怖を感じたのだから。

「雪と氷に閉ざされて窮乏から免れえなかった。その点は同情の余地があります。しかしながら……」

 額を滑る大粒の汗を、閻魔は自覚する。身体がいやに熱い。遮断されているはずの地獄の猛火が、まるで自分の血肉に取って代わったみたいだと、彼女は考えた。それでもなお、何とか職責を全うするだけの冷静さを取り戻すべく、言葉を継いだ。

「あなたは、堕ちてなお『人間』です。『人間』は、最後まで『人間』のままで居るべきだったのではないでしょうか」

「閻魔様の言ってる事、おれには、よく解りませんな」

 ふッ、と、玄助は笑った。


 肩さえすくめて、彼は明らかに嘲笑を見せていた。
 彼岸における審判への嘲笑。眼前に立つ閻魔への嘲笑。何より、人を喰ったことが咎めだてされていることへの嘲笑――幾つかの感情がない交ぜになり、鎌のように吊りあがった唇から黄色い歯が見せつけられた。ニタニタと笑む、その不気味な様子に映姫は少しだけ眉をひそめる。今まで何千という死者の魂を裁いてきた。しかし、こうまであからさまな侮蔑の表情は何人に対しても見出し得なかったのである。

「閻魔様。幾つか、言いたい事があります」

「……何でしょう。発言を許可します」

 再び悔悟棒を強く握り締め、戦慄に震える目蓋が映姫の視界を塞ぎかけた。眩むほどの未知なる現実が、彼女の正常な認識を浸食し始めていた。その情景を作り出した張本人――玄助が、笑みを押し留めて、静かに……極めて静かに口を開いた。幼い子に寝物語をするが如く、一人の夜に自問を図るが如く。

「おれはね。いま、ひどく苛立っている。かつて生きていた事にも。まして、いま死んでいるという事にも」

「――何ですって?」
「苛立っている、と、言ったんですよ。おれは飢え死にした家族を喰った。閻魔様の仰る通り、生きるためにね。けど、同時に気が付いたことがありました。きっと、それは閻魔さまでさえも知らないことなんだと思う」

「気が付いたこと?」

 餓死した家族の肉を喰って、それでなお悪びれることもなく神をも嘲弄し、挙句、苛立っているなどと――御し難い男である。だからこそ、不気味である。そして、いつしか引き込まれるように玄助の薄汚れた表情に見入っている四季映姫・ヤマザナドゥ自身でさえも、男の言葉に一抹の儚い肯定を与えてみたいというあるまじき好奇の心が湧きあがって来た。この男が、いったい何を目論んでいるのか、と。

「人間はね。あんまり“綺麗すぎる”んですよ。もっと正しい言い方をするなら、自分たちが“綺麗だと思ってる”んだ。生きるってェことが何の条件も無しに許されて、自分たちは許されたことを行う権利を持った綺麗なものだと考えてる。しかし、ね、閻魔様よ。そんなのは、おれにとっちゃ嘘っぱちも甚だしいんです。生きるってのは……本当は美しいことなんかじゃねえんだ。もっともっと汚らしくて、嫌になるくらい自分勝手なものなんですよ。他の連中を踏みつけにしないと生きてはいけない。生きていてはいけないんです」

 玄助が、息を吐いた。
 はァ――と、老いた呻きが発された。しかし、それは、まるで嗚咽のようにも思われた。
 気がついてはいけない真実に気が付いてしまった、嗚咽のようにも。


「……だから、おれは苛立ってるんです。生きるのはあまり汚らしい。けれど、死ぬのは全てを片っ端から崩しちまうんです。だから、苛立ってるんです」

 ――――玄助の告白は、終わった。 
 罪人の沈黙と、閻魔の焦燥だけが残った。


 見開かれた少女の両眼が、爛々と燃え盛った。断罪の火焔をそのまま嵌め込んだかのように、視界の全てを焼き尽くす気を放ちながら玄助たった一人を見つめ続けていた。


 映姫の両眼に義憤が宿る。

 
 今まで幾千幾万の悪人を地獄に叩き落としてきた、閻魔のみが持ち得る正義の怒りである。
 玄助に対してもまた、その槍にも等しい眼光があらん限りと注がれ始め、もはや一声を発すれば直ぐにでも獄卒が駆けつけて地獄の猛火に突き出すことが可能であった。
 腹のうちより沸々と、映姫の熱情が立ち上がり始める。 
 裁かねばならぬと思った。
 詭弁を弄するこの男を、今すぐに地獄へ送らねばならぬと思った。
 猛々しく暴れ回るその感情は、しかし、理性的な振る舞いを是とする彼女らしくないものである。しかし、これ以上は無いという程に理解しても、自分の思考を制御できなくなりかけている事に映姫はあえて反抗しようとしない。自身の眼前には、地上の倫理に背く大罪人が立っている。これを裁かずして、何が閻魔と言えるものか。

「玄助よ。あなたの言葉も、確かに一面の真理ではあるでしょう。しかし人を食むのは『妖怪』の領分。『人間』は、『人間』を喰らうべきはないのです。『妖怪』は『妖怪』の、『人間は『人間』の――それぞれの矜持を保ったまま、最期を迎えなければなりません……!」

 口ぶりに宿る怒りが、再び執務室の沈黙に作用した。
 ほんの一瞬だけ破れられた静謐は、早口になった映姫を中心としてその姿を取り戻し始め、諭されるように叩きつけられた玄助は、また下を向いて指を弄び始めたようである。


 映姫が、倒れるようにガタリと椅子に座り込む。全身の力が抜けたような様子で、二、三度荒い息の下にクラクラと昏倒しかけた。ずれた帽子を片手で直し、少女は再び立ち上がった。
 悔悟棒を片手で握り締め、刀剣の切っ先を突きつけるように玄助を指し示す。そして、さも興奮を抑えきれないとでも言いたげに、断罪が言い渡されるのであった。

「判決! この度の審理において、玄助は、食人の罪により有罪。地獄に収監され獄卒による懲罰を受けた後、餓鬼道への転生刑を言い渡します。刑の執行は三日後。……その間、しっかりと悔い改めなさい。それがあなたにできる善行です」

 朗々たる宣言が響き渡ると、その場の誰もが再び言葉を失った。玄助でさえも、はじめよりも更に無言の度合いを増していた。
 けれど、その表情だけは雄弁に物語っている。引き攣った頬が自嘲を浮かべ、誰に見られて咎めを享けても構わぬという風に曝け出されていた。


 やはり、誰にも解ってはもらえないのか――とでも言いたげに。
 

――――――


「そろそろ時間だ。出なよ」

「ああ」
 
 片手に大鎌、もう一方の手にロウソクを持った小野塚小町が、牢獄の中に座る玄助に命じた。


 四季映姫・ヤマザナドゥの裁判によって有罪という判決を命じられてから、既に三日が経過していた。つまり、本日、玄助は牢より引き出されて刑罰に服する事になるのだ。


 じめじめと、半地下の牢獄はぬかるみのように湿っていた。壁も、床も、漂う空気でさえも。息を吸い、吐くだけで肺に生ぬるい水が入り込むような錯覚を覚えざるを得ない。水中に居ないのに溺れてしまいそうな程、臭い水の味が口中に広がっていく。
 ロウソク程度では気休め程度の明かりにしかならないが、それでも暗闇を照らすのにはどうにか足りる。黄色い光に照らされた所々には、苔なのか黴なのか判別しかねるような緑と黒の混合が張り巡らされ、まるで未開の原野が広がっている光景である。小町はここに来る過程で足を滑らせて転倒しそうになり、転ぶまいと慌てて手を壁に突いたのだが、触れた拍子に緑のものが手のひらで擦られてボロリと剥げた。……おかげでバランスを崩しかけ、転ぶのを防ぐための行動でかえって派手に転んでしまうという不測の事態の一歩手前まで進んでしまったのだが。


 小町のロウソクは、もう中ほどまでに縮んでしまっていた。溶けたロウが受け皿に溜まり、白い子山を形作っている。彼女は、それを見る度、奇妙な感慨に襲われる。まるで、この溶けかかったロウソクが玄助の今後を暗示しているような気がするのである。彼は既に死者だ。だからこれは寿命のロウソク――などいった陳腐なものではない。で、あるにもかかわらず、だった。

「ちょっと待ってなよ。今、扉を開ける」

 鎌とロウソクを地面に置き、小町は懐から一束の鍵を取り出した。金属製の輪に十近くの鍵が通され、まとめられている。そのの中から最も錆び具合のひどいものを選び出すと、これもまた錆びかかった鉄の鍵穴へと差し込まれる。
 金物の触れあう音と錆びの擦れる音が同時に響き、牢獄の扉は軋んだ。


 裁きへの道が熱に焼かれているのなら、地獄への道は冷たさに苛まれている。身体を動かす度ごとにひやりとした冷気が顔に触れ、死神は不快を思う。扉が人が通れるくらいになったのを確認すると、玄助は促されるまでも無く立ち上がり、出入口を潜る。
 死神と死人が、三日ぶりに相対した。

「反省……したかい。玄さん」

 鍵を懐にしまい直すと、小町は再び鎌とロウソクを手に取った。
 明かりの高度が上昇し、向き合った二人の顔が明々と照らし出される。ロウソクの矮小な光に照らされて小町の目に写った玄助は、映姫の前で見せたあの矮小さよりもさらに小さくなり果てていたようであった。光が巨大な化け物と変じて、哀れな人間を取って喰おうとしている光景にも思える。

「ああ、したね。たァっぷりしたねェ」

 薄明かりのもとの人喰い人――玄助はおどけた。


 やはり、かつて渡し舟の上で見せたあの無邪気な笑みだ。薄汚れたみすぼらしい格好はそのままで、むしろ僅か三日とはいえ留置されていたせいで余計に汚れているように見える。


 二人は無言で歩き始めた。
 地獄に通ずる門は別の場所にある。小町に与えられたのは、玄助を地獄まで導く仕事である。
 草履が石造りの床を踏みつけ、その都度、乾いた音が湿った静けさを刺していた。
 玄助の先を歩く小町は、彼を振り向く様な真似をしなかった。振り向いてはいけないと思ったのである。別れが辛くなる――だとか、そんな理由ではない。誰に言われた訳でもない不文律のためだった。恐怖でも哀惜でもない掟を、小町は自らに課していた。


 玄助の口は、反省をした、と言った。
 小町には、それが本当なのか判らなかった。きっと四季様にも判らないだろうな、と、彼女は思う。きっと、この世界の誰にも、玄助の真意を読み取る事は叶わないのだろう。彼は『人間』を捨てた。同族を喰らうのは禁忌だ。果たして『妖怪』は同族を喰らうだろうか? 少なくとも、小町が知っている限りでは、ない。『妖怪』も喰わない同族を、玄助は飢えから喰った。それも美味そうに。
 大罪人であるという事は、すなわち大悪人であるという事をも必ずしも意味してはいまい。


 一つの罪の元には何百何千もの解釈が生まれる余地がある。行動はただ行動のみで、そこに元来ある意味は存在しない。
 では玄助の人喰いはとは何なのか。人が、人を喰らうということは。
 何らの変哲もないという事に感謝するだけの余裕を、どれほどの人が持ち得るというのだろうか。
 それは、ある意味で特権である。
 自覚しないだけの人生は、もしかしたら不幸なのかもしれないのだ。


――――――


「“生きたい”なんて思える事は、“死にたい”って願うよりも、本当の本当はよくある事なんかじゃねえのさ」

 地獄へと続く道は、歩くだけでもただならぬ熱が全身の感覚を焼こうとする。むろん、炎が漏れ出さぬよう分厚い壁と扉で隔てられてはいるが、それでも幾分かは遮断しきれずに道に在る者の肌を熱するのである。しかし、熱を感ずる理由は地獄が目前という物理的な理由だけではなかったであろう。扉一枚隔てた先は、もはや現世でも彼岸でもない。閻魔の威厳も生ぬるいというほどに苛烈な懲罰の独壇場だ。地獄の鬼の怖ろしさたるや、実際に刑罰を受けた訳でもない小町でさえも朧気な恐怖に心臓が暴れ、汗が染み出てくるのである。


 そして――これから、炎の獄に繋がれようという玄助が、先を歩く小町に声をかけた。唐突と言えばあまりに唐突だった。驚いて小町は振り向く。うつむいた男の顔は、伸びきった顔に隠れて見えなかった。ただ噴き出た汗に濡れた両の耳の形だけが、不思議と印象深い様に思われた。


 ……まさか、玄助の言葉はこの期に及んでの言い訳でもあるまい。あるいは地獄行きを遅らせるための適当なお喋りか。だとしたら、自分は聞き届けてやるべきか。それとも一顧だにせずにさっさと地獄の門を開くべきなのか。

「なんだい。いきなり。……玄さん、そろそろお前さんとも、お別れだってのにさ?」

「だからだよ。最後に、おれの話を少しだけ聞いておくれよ。死神さん」

 死刑になる罪人でも、最後の一服なんかは許されるもんだろう、と、彼は笑う。


 なあ――死神さん。
 玄助は、顔を上げて確かにそう言った。


 『こまっちゃん』でも『船頭さん』でもない。まして『小野塚小町』とも呼ばれない。
 ただ、『死神さん』と呼んだ。


 小町の視た玄助の表情は、ただ、救われていた。人を喰った大罪人が、誰に赦された訳でもないのに、常人では辿りつけないものを確かに手に入れたと、安らかに訴えているようだ。何て顔をするんだ――と。地獄行きの罪人なら、もっと悲しんだり、怖がったり、あるいは開き直ったりすれば良いのにと小町は考えた。そうでもしないと、落ちる地獄というやつはひどく“快適”なのである。燃え盛る炎は生前の悪行を償わせるためにある。それなのに……そんなに“何でもない”ような顔をしていちゃあ、地獄だって極楽と大した違いは無いだろう。


 小町は、そう言いたかった。しかし言えなかった。何故かは彼女自身にも解らない。
 玄助の言葉に耳を傾ければならないと思った、まるで、彼の最後を記憶に留める事が自分の責務であるかのように、だ。

「“生きたい”なんて思える事は、“死にたい”って願うよりも、本当の本当はよくある事なんかじゃねえのさ」

 男は微笑んだ。
 不気味なものでも気持ちの悪いものでもない。心底からの、自分に関わる全ての者を“おれは赦す”と主張する微笑であった。口を開いた玄助は、また、ゆっくりと言葉を紡ぐ。映姫による審理の時に見せた、あの自問するような口ぶりで。

「生きるか死ぬかの瀬戸際ってものに出会わなけりゃあ、皆が皆、ソレを忘れっちまう。他人は、な、俺のことを人喰いの人非人だとか、化物に成り下がった気違いだとか言うかもしれんが、もしそんな事を言う連中が居たとしたら大事なことを遠ざけてる。人間は、他のものの命を……死を喰わないと生きていけないって事を忘れようとしてやがる。いや、知ってはいたけれど、必死になって目を逸らそうとしてたんだろう」

「死を喰わないと――?」

「そうさ。そんな所に、人間も妖怪も大きな違いはありゃァしねえんだ。領分がどうだとか、閻魔様は仰ってたが……生きるってのはもともと汚らしいモンさ。本当のことに気が付いた時、受け容れられるかどうかは知らねえけどな」

 玄助は、もう、何も言わなかった。
 両手を突き出して、早く自分を地獄に落とせと言いたげに顎で扉を指すのみだ。

「もし、本当にそうだとしても、お前さんは間違ってるよ」

「ン……そうかね」

「そうさ。あたいは、頭が良くないから上手く言えない。けど、きっとそんなのは間違ってる」

 小町の声は震えた。
 微細な嗚咽が口蓋を刺し、舌がもつれ始めていた。歯は打ち鳴らされ、連動するように目は潤み始めていた。視界が少しずつぼやけ、玄助の姿も地獄への道も何もかもが等しく消え去ろうとしていた。彼女は言い知れぬ寂寥の中にあった。怒りとも哀しみとも違う、荒野にたった一人で立つような、限りの無い寂しさが心に入り込んでいた。


 許容は、つまるところ諦めの別名だ。
 玄助の語る言葉は本当に正しいのかもしれない。しかし、それを受け容れるという事は自分自身を構成する重要な『何か』に汚物を塗りつけるにも等しいものだと思えて仕方が無かった。


 小野塚小町は未だ受け容れたくはない。
 目の前の哀れな男が諦めても、甚だしく残酷な真実を提示されても受け容れたくはない。
 彼女だけは、まだ、諦めたいと思わない。


 
 地獄の扉まで歩み寄ると、そのまま体重をかけて両手で押し込む。すると焼けた鉄のような熱さが両手のひらに伝わり、開きかけた扉がギシ――と空気を軋ませる。そのまま扉はゆっくりと開き、黒々とした火焔と熱気によって歪められた地界の姿が仄見える。

「さよならだよ玄さん。行きな」

「ああ……」

 抵抗するでもなく、従容として玄助は歩き出した。小町を追い抜き、一度入れば出る事の叶わぬ地獄へと。

「玄さん。……お前さん、どうして、私に人を喰ったなんて事を教えようと思った?」

 最後になった後ろ姿に、小町は訊いた。
 玄助の歩みがフト止まり、手を微かに震わせていた。ア、ア、と呻く声が響いた。まるで赤子のように不明瞭ではあったけれど、それは、ただあらゆるものを感じようとする純粋な意思の表れだったのかもしれない。
 
「さあ。ねえ。今となっちゃあ、おれにもよく解らないよ。でも、強いて言うなら……あの時だけは、“苛々してなかった”んだろ、きっとな」

 玄助は、小町を振り返らなかった。


――――――


「彼女にも、本当に困ったものですね」

 朽ちかかった廃屋を前に、四季映姫・ヤマザナドゥは溜息をついた。


 村全体に住まう人が居なくなってしまった――つまりは廃村だ――ため、小柄な彼女の見上げる廃屋以外にも、村内にはたくさんの家々が残されてしまっている。そのいずれもが大なり小なり疲弊し、壊れかけ、崩れていた。かつての大雪と吹雪の影響が、今に至るも持続しているのだ。怖ろしいといったら、ない。


 人が居なくなったので手入れも何もされなくなった村内の農道には小石や雑草が散らばり、もはや獣道と言っても差支えは無さそうである。事実、彼女はここに来るまでに数匹の獣が群れているのを見た。遠くからだったので上手く判別できなかったが、おそらく野犬か狼の類であろう。人が居なくなったので、獣たちにも里は警戒する必要の無い場所になったのである。


 映姫は、家の玄関を潜った。


 どこに行ったものか戸板は外れ、土間には土と埃が一杯に吹きこんでいる。野ざらしになった柱も板も黒く汚れ、夜に来れば洞窟と見紛うばかりの真っ黒さ。


 …………その中に、白いものが散らばっている。
 傍らには錆のような黒い染みがこびり付いた一丁の鉈が転がり落ち、今の今まで何かの作業に使ってきたように汚れが走っていた。その鉈を取り巻くように、おそらくは五人分あるであろう白骨が鎮座する。そのうちの四人分は既にばらばらになり、どれが誰のどの部分の骨なのか、一見しただけでは判別できなほど混合されていた。互いに混ざり合った骨を中心とし、沼か池のように汚れが溜まり、かつてここで“凄惨な行為”があったことを想像させた。
 唯一、人としての原形をとどめている骨は空っぽの眼窩を空中に向けていた。何を見ているのか。最期の瞬間に何を感じていたのか。映姫には、いくら考えても解らなかった。


 この村は、危険だ。
 この家だけが特別に悲惨ではあったものの、他の家でもみな例外なく死体が散乱し、飢えて死んだ者たちの霊が吹き溜まっている。何も知らぬ人間が迂闊に足を踏み入れれば、あっという間にとり殺されてしまうだろう。


 ――なるほど。西行寺幽々子の書簡は、“そういうこと”だったのである。


 今後、白玉楼と会談を行い、何らかの形で対策を協議すべきであろう。

「今度、幽々子に会う機会があったら、思いっきりお説教をするべきでしょう、やはり……」

 場合によっては、悔悟棒で頭をひっぱたいても良いかもしれない。自分たちの側に責があるとすれば、家臣である犯人半霊の庭師でも反抗的な態度は取らないだろう。
 これからの予定について頭を痛めながら、少女はぼろぼろの家を出た。


 ふと見上げた空は、かつて『彼ら』が渇望した、寒さとは全く無縁の陽気に包まれていた。


――――――

 
 揺れる渡し舟は、大柄な小野塚小町一人が寝っ転がるだけで、他の者が入り込めるような余地はなくなってしまう。ウトウトとしかけた死神の視界は転倒し、半分は舟板、もう半分は繋留された舟の向こう側の地面に咲き乱れる彼岸花を捉えていた。


 不思議な光景であった。


 三途の河を渡るべく存在する舟の上は、つまり既に『死』の領域である。対する彼岸花は限りなく死に近づきながら、同時に自身の『生』をこれ以上も無いというほどに誇示しているかのようである。本来なら、相容れない二つの属性が限りなく近く隣り合っている。互いに互いの顔を見る事の出来ない関係は、果たして背中合わせとも呼ぶべきか。概して生は死に気付かず、死は生を忘却させる。いま爛漫に咲き誇る美しい花も、近いうちに散り滅びるのだ。最高潮に湧き上がる生命の謳歌は、同時に遥か彼方に控える死の第一段階に過ぎないのである。


 小町に、とくべつ花を愛でる趣味があった訳ではないが……職業柄、大輪に咲く花を見かける度、そんな感傷めいた事を考えてしまう癖がついていた。

「こら小町! ……あなたという死神は、また昼寝ですかっ!」

 ――が、そんな繊細な思考も、上司からのお小言の前には容易く粉砕されてしまう。見かけはほとんど子供と変わらないのにどこからそんな大声が出るのか、と小町はあらためて映姫の説教に感嘆する。突如として響き渡った閻魔の声に、ほとんど眠りに導かれていた小町は覚醒せざるを得なかった。


 思わず「きゃんッ!」と悲鳴を上げて起き上がると、対岸に立つ四季映姫・ヤマザナドゥの引き攣った微笑を見つめてしまった。

「いや、その、四季様。これはですねぇ……」

「まったく。何度言っても改善されないのだから」

 必死に言い訳や都合の良い口実を探そうとする小町だったが、今度は別の理由で驚くことになった。“あの”映姫が、自ら地面に腰を下ろし、座り始めたではないか。普段ならこの後しつっこくお説教が続き、小一時間は拘束されるというのに。映姫は無造作に足を投げ出すと、悔悟棒を傍らへと静かに置いた。スカートの裾から白く細い脚が見える。幻想郷中を飛び回り、人々に説教をして回る健脚だ。予想外過ぎる行動に、小町はポカンと映姫の顔を見つめることしかできなかった。

「なんですか、小町。人の顔を穴が空くほど見つめて」

「あ、いえ。何て言うか、四季様が御自分から休憩なさるなんて、と思って」

「あなたは私を機械か何かと勘違いしているのですか? この四季映姫とて、休息が必要なのです」

 映姫はまた微笑する。
 幼い子を愛でる様な、優しい笑みだった。そういえば、と、小町は映姫の経歴を思い出す。この閻魔は、元・地蔵菩薩だったのだ。閻魔という怖ろしげな地位にばかり意識が向いていたが、本来は子供を守護する慈悲深い神様である。もしかしたら、この笑顔こそが彼女の本当の姿なのかもしれない。


 半身だけを起こしていた小町は船上で立ち上がり、そのまま映姫の横へと一跳びに跳躍した。
 自身もまた上司の隣に腰を下ろす。大柄な小町と小柄な映姫。二人が並んでいる様子は、遠目に見るとまるで親子である。


「四季様。“例の村”の視察ってのは、終わったんですか?」

「ええ。たったいま無事に、ね」

「そう、ですか……ところで」

「何です」

「四季様だって空が飛べるんだから、わざわざあたいの渡し舟に乗って現世にまでやって来る事はなかったんじゃないかと思うんですけど」

「何を言っているのですか。小町がちゃんと船頭としての仕事をしてるか、確認の意味合いもあったのですよ」

「げッ……! マジですかそれは」

「私は大抵の場合、マジでものを言う女です」

 何だか鼻息も荒く、どこか自慢げに映姫は腕を組んだ。小町にはその姿が、外見相応の可愛らしい様子に見えて可笑しみを誘う光景に思えてしまった。ついくッくッと笑いがこぼれ、隠すべくもなく映姫にバレてしまう。

「――って、何を笑っているのですか! 失礼な……」

「す、すいません! でも何か、可笑しくって」

 はあ、と、映姫は溜め息をつく。
 この上司は何かと言えばやけに溜め息をつく。そのうち過労で倒れてしまうんじゃないのか、と、漠然とした心配も無いではない。




 ――そのまま、いくらの時が流れたか。
 太陽は少しだけ傾いて、二人が合流した時よりほんの僅かに気温が下がったようでは、あった。それでもなお、閻魔と死神は互いに隣り合い、時に他愛の無い話を交わしながらいつ果てるともない『休憩』を続けている。


 唐突に、小町が言った。さして重要な話という具合でもなく、さりとて瑣末な事態を報告するでもないといった様子で、極めて当たり前のように。

「“あの男”は、最後、妙に落ち着いてましたよ。何だかひどく安らかで、これから暖かい眠りの中に落ちていくみたいに、地獄の扉を潜ってった」

「私は、彼のような男を好きません。あれの語る言葉は、あまり邪悪に過ぎる。人でも妖怪でもない。ただ、本能のままに生きる野獣です」

 映姫の眼がス――ッと細められた。どこも、何も見ていない様に、嵌め込まれた眼の珠が朧な現世と彼岸の境に溶けるようであった。しかし、不思議と嫌悪は無い。もはや過ぎ去った過去を云々しても仕方が無いといった風に、理性が全てを傍観しようとしていた。

「なんだか随分とヒドく言うんですね」

「審理の際に小町も聞いていたでしょう。人間には人間の、妖怪には妖怪の領分があります。それをあえて侵した彼は、その時点で救い難い大罪人でした」

「大罪人、ですか。たとえ飢え死にしそうな状況でも、そう言えますか?」

「飢餓に耐えかねても、人間には矜持がある。矜持で腹は膨れませんが、誇りを捨てるべきでもありません」

 それを言う映姫の声は、ひどく震えていた。
 あらゆる事象に絶対的な基準を設け、揺れ動く事など絶対に有り得ない閻魔の声が、である。せめて言葉だけでも、彼女は普段通りの色を出したかったのかもしれない。何故なら、それが四季映姫・ヤマザナドゥの抱く『矜持』の形だったから。

「四季様でも――曖昧な物言いをする事が、あるんですね」

「あらゆるものは、全て、常に、揺れ動きます。あるものは移ろい、またあるものは打ち捨てられる。故に普遍的な絶対を与えられたものは無いのでしょう。それでもなお探し出す事のできる絶対とは、すなわち人の心のみ」

「人の心?」

「万象に何も宿ってはいないのなら、それに意味を持たせるのは人の役目です。人が望み、人が思うことによって善は生まれ、悪もまた生まれる。しかし、持たせられた意味もまた個によって違うもの。全ては揺らめきのもとにある、と言える。そう、私は思います」

 全ては揺らめきのもとにある。
 小町は考えこんだ。
 足下に咲く彼岸花の赤色も、裏を返せば死に向かって流される血の赤色だ。事象そのものはどんな者でも観測できるのだろう。しかし、それを見たものが何を思うかは解らない。飢えた時、自分より先に死んだ同胞を見て何を思うか。

 かわいそう? 
 埋葬したい? 
 ざまあみろ? 
 それとも、腹が減った?
 
 三者三様、十人十色。そんな月並みな言葉では全く足りないくらい、人を取り巻くものは千々に乱れ分裂している。思う事は、揺らぐ破片を手にとって眺める事と同じなのかもしれなかった。

「ことさら語られたあの邪悪さにおいて、目前に迫った“死”とは、自身が生きるために必要欠くべからざるものだったのかもしれませんね。玄助にとって、他者の死を喰らって自分の生を続けるという行為、つまり、彼の人喰いは……おそらく、その揺らめきは妙なる貪り――だったのでしょう」
 
 一瞬、小町は視界が何かに塞がれたような錯覚を覚えた。それは、脳髄を噛み破られるような快感だった。振動する肉体の芯が熱を帯び、戦慄と歓喜が同時に湧き上がって来た。


 揺れ続ける。
 事象は揺れ動き続ける。すべてあるものは、すべてある人のもとにのみ意味を持たざるを得ない。
 今はもう居ない玄助も、あるいは隣に座る映姫も――そして何を考える事も出来ない自分自身も、その眼に映るものに対して投ぜられた意味を読みとる。読み取らなければならない。何故なら、そうする事だけが、彼女たちを彼女たちたらしめることができるからだった。


 飢えて家族を喰らい、その果てに地獄に落ちた男が居た。
 そして彼に断罪を下した者が傍らに居る。
 小野塚小町にとって、それは単なる事実だ。
 何を導き何を感じるのか。今の彼女には、未知数だった。


「私はそろそろ戻ります」

 と、映姫は悔悟棒を手にすると立ち上がり、スカートにくっ付いた土や草を片手で払いのけた。
 小町もまた慌てて立ち上がると、上司を送るべく舟に乗りこもうと映姫の一歩先に出るが、

「ああ。帰りは一人で飛んで行きますから、構いませんよ」

 と、制された。たしなめる様な声音には、どこか不安の滲んだ色がある。

「それからサボりの件。今日は特別に見逃してあげますが、次からはいつも通りにビシビシいきますからそのつもりで。解りましたか?」

「げッ……! マジですかそれは」

「ですから私は大抵の場合、マジでものを言う女です」

 苦笑する小町に背を向けて、映姫はニコリともしない。


 そのまま川べりまで数歩近づくと、彼女の周囲に生えた大小無数の草花が鳴動し始める。どこからともなく吹き渡って来る風は、浮遊するあらゆる魂魄を、現世でも彼岸でも……まして地獄でもない、どこか遠くにまで押し流してしまうようだった。映姫の身体から不可視の霊力が放出され、羽も翼も持たない少女の身体は、実に容易く宙へと居場所を移す。


 見上げる小町の昏い感情が、映姫への最後の問いかけをしなければならないと命じていた。立ち入ってはならないことではないかと思いながらも、ひりつく彼女の喉は、それのみが唯一の潤いであるかのように、問うていた。

「四季様! 四季映姫・ヤマザナドゥ様! あなたは、“最後まで”『矜持』を保つおつもりですか? 四季様の言う、四季様ご自身の『矜持』ってヤツを?」

「――――愚問ですね。閻魔の地位と四季映姫の名にかけて、私は“最期まで”全うしてみせますよ。私自身の『矜持』を」

 少しだけ早口で、映姫は言った。
 吹き渡る風の音が小町の耳を聾し、空中から下りる響きはかき消されかけていたけれど、それでも死神には確かに垣間見たような気がした。四季映姫の求めるもののごく一端を。


 映姫は、小町を振り返らなかった。


――――――


 目蓋の上を這う奇妙なくすぐったさの正体が、蝿とも蟻ともつかない羽虫の類である事に、小町の意識はようやく気が付いた。眠りの最下層へと埋没していた意識はたったひとつの瑣末な現実に無残にも引き上げられ、極楽と見紛う怠惰の園は終わりを迎えた。あくびと涙にぼやける視界が、どこか作り物じみた青い空と世界の果てまで炎上させている光景を連想させる彼岸花の原を見出し、死神の指は朧な感覚を頼りに目蓋を目指す。


 額から滑るようにして到達した目蓋の上を幾度か叩くようにすると、柔らかいとも硬いとも思える歪な粒が掴み取れた。


 ようやく開ききった瞳の元にそれを持ってくると、どうやら一匹の羽虫である。ちょっと力を入れればすぐにでも潰れて中身が飛び出てしまうだろう。子供じみた嗜虐の一念が心に兆す。ちょっとした気紛れにでも――と。

「いや……やっぱ、止めだ!」

 誰に言うともなく呟くと、小町は寝転んだまま指の力をフト緩めた。
 途端に彼女に拘束されていた羽虫はもがく様にして指の間から逃れ出、空中で何度も旋回しながらどこかへと飛び去っていく。
 

 小町は半身を起こした。
 頭を掻き掻き、寝ぐせなどついて居ないかと不安げな表情を作る。傍らに視線を走らせると、仕事道具の大鎌は健在だ。最近は、きちんと手入れを欠かさないおかげで往時のツヤに輝き、切れ味も戻って来ている。まことに喜ばしいことでは、ある。
 ゆっくりと立ち上がると、ずっと眠りこけていたせいで全身の関節が固まっているらしかった。バキバキ、ポキポキと大小様々の軋みが関節を唸らせ暴れ回る。
 もう一度しゃがみ込むと、鎌を手にとって肩にかけた。


 この道具は飾りである。しかし、象徴でもある。
 生が死を喰わねばならぬように、死もまた生を取り込まねば存続できない。
 しかし、最後まで矜持を保たねば、存在の価値は薄れてしまう。


 小町には、そのどちらが正しいのかは解らなかった。どちらも正しいようでいて、同時にどちらも覆せぬ過ちを犯しているような不安が潜むように思えるのであった。


 それでも、と、彼女は思う。 
 それでも、見据えなければ何も見えない。何も見出せないままうろたえるのは、小野塚小町の性には、最も合わない。
 ひょっとしてさっき逃した虫にも、いつか『哀しみ』を自覚する時がやって来るのだろうか?
 自身の喰らってきたものに気が付いて、生に疲弊するその時が?


「ま……力の限り必死に生きた魂を“向こう側”に導くとなりゃ、死神の冥利にも尽きるってモンさね」


 誰でも、何でも、構わない。
 いずれ自分だけの『答え』も見つかるだろう。
 それまでは、昼寝をしたり、舟を漕いだりするだけだ。
 
 どういう訳かは解らないけれども、いつになく晴れやかな気持ちになって――。



 死神は、もう一度だけ、大あくびをするのだった。


(完)
ここまでお読み下さって、ありがとうございました。


最後なので白状してしまいますが、当SSは、武田泰淳という作家が発表した戯曲「ひかりごけ」に触発されたものでした。元ネタの詳細に関しては省略させていただきますが、『食人』という題材を取り扱ったのはそれが理由だったりします。七割くらい勢いで書き始めたので、いま思えば色々と粗い……。
と言うかよく考えたら、初投稿で三話に分割とか無謀も甚だしいというものですが、それでも読んで下さった読者の皆さまには感謝してもしきれません。

次作は、永琳×輝夜で病んだ忠誠を書いてみようかと思っています。
今度は一話に収まる、はず。


最後に、改めて。
ここまでお読み下さって、本当にありがとうございます!
こうず
http://twitter.com/kouzu
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コメント



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3.80E.C削除
興味深いお話でした。元ネタは存じ上げませんが、生死に関係する内容に惹かれました。

個人的に東方プロジェクトの“幻想郷”という設定をあまり意識せずに原点から、閻魔・罪・地獄などについて考えてみました。

人は何故生きるのか?・生きているのか? “何もわからない”、そう考えたときに基準・決まり・起きて・法律…etc、などが生まれたという感じのものをよく聞きます。

閻魔・地獄などは死後の世界、輪廻(食物連鎖みたいな感じ?)により魂(概念がよく分からない;)?生死それぞれの世界をクルクルまわると宗教的に考えられていたイメージが強いが、その中で、まぁ同じ迷いながら生きている者を踏み台にしてきた奴を簡単に輪廻?させていいのか、迷うことをやめ、考えることもやめた者を簡単に“生”の世界に戻してよいのか、という考えから地獄で罰を与え、反省させてから転生させる。…

人が来世を信じるなかで罪≒閻魔≒地獄という存在(基準)が必要だったんかな?
恐ろしいしかし何か分からないと、いったものを~妖怪とか言ってみたりしてた感じ…
 まさに幻想
   

「まぁそんな感じだったのでは…、しかしやはり基本は“分からない”…。

でもこれらを定義にして、罪という言葉はどんなものを指してきたのか考えてもるのも有りかな?」




PS:最後に。自分はこの作品について想像≒妄想を掻き立てられる、そんな作品…と、感じました。
5.100名前が無い程度の能力削除
粗くても、読者を考えさせるためだと思えば!
12.90コチドリ削除
ひかりごけ事件やアンデスの聖餐に代表される、食人が禁忌となった時代の人喰い。
自分ならその極限の状況下でどのような選択をするのだろうか? などと考えながら作品を読ませて頂きました。
矜持を抱いて死ぬのか、生き抜くことこそが矜持なのか。
裁く者と裁かれる者、そのどちらにも私は共感を覚えます。
作中で語られた『全ては揺らめきのもとにある』という言葉、真に至言であると感心しました。

それにしても人によっては取っつき難いテーマと文体なのかなぁ、投稿から一年以上を経た今になって読んでいる
私が言えた義理ではないのですが、この作品がこの点数にとどまっているのはかなり疑問だ。
登場人物達の台詞や地の文に使われている語句一つとって見ても、なんというか作者様がとても真摯にそれを
吟味して選択されているように感じて、とても好感が持てました。
逆にあまり考えずに勢いで書かれているのだとしても、やっぱりその文章センスに対して好感を抱くかな?

とにかくこれから時間を見つけては作者様の過去作を拝読させて頂きたいと思っております。
ありがとうございました。
13.無評価コチドリ削除
参考程度までに

>溶けたロウが受け皿に溜まり、白い子山を形作っている→白い小山
>では玄助の人喰いはとは何なのか→人喰いとは何なのか
>自分たちの側に責があるとすれば、家臣である犯人半霊の庭師でも→これは諧謔なのかな? 春雪異変の犯人の片棒を担いだ的な
17.100保冷剤削除
これはもう白旗です。なにといわず飲み込むしかない作品。