Coolier - 新生・東方創想話

今はもうない

2009/12/03 23:13:16
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     ✚✚✚









 最近、首が痛くなることが多い。
 そんなに捻ったりしたかしら?




     ✚✚✚



 朝、私はベッドの上で目を覚ます。
 そうだということを認識したのは、実は一度目が覚めてから既に三十分も経過した今で、その間、私は何度となく目を覚ましては寝て……と繰り返していた。
 寝起きが悪いのは、私の特徴。個性は大事にしないとね、といつもの言い訳を頭の中で繰り返しながら、私はようやく重い瞼を持ち上げた。
 ただ、毎回そうも言ってられない理由が、いつもの通り台所でかちゃかちゃと音を立てているのに、すぐに私は気付いた。

「めーりぃ……」

 そう、小さく名前を呼ぶ。寝起きは口も思うように動かない。呂律が回らないから普段から呼びにくい彼女の名前が、なおさらおかしなモノとして空気を震わせた。
 すべての原因は私ではなく、この寒さにある。冬は寒いのが現実というもので、こればかりは今まで現れたどんな偉人でも変えることは出来なかった。その結果として、私は布団から出ることが出来ない。布団から出られないということは、すなわち二度寝することを意味しているのだ。
 だから、私は寝ます。おやすみなさいメリーさん。
 心の中で呟いて、私は布団の中に逆戻りし始めた。

「あ、蓮子? やっと起きた?」台所からようやく返事が返ってきた。
「起きた。今からもうひと眠りします」
「するな」

 もぞもぞと布団を頭まで被りなおそうとしていると、早起きの得意な同居人、メリーがそれを引っぺがしてきた。思わず飛びついて離れまいとするが、今の私の力では覚醒しきったメリーに敵うはずもなく、布団を掴んだまま床へと転がり落ちてしまった。
 冷えた空気が、身体を撫でる。思わず全身に鳥肌がたってしまい、私はぶるりと身体を震わせた。

「ひゃあぁぁ、寒い……」メリーを恨めしく睨みながら、私は悲鳴を上げた。
「変な声出さないの。……ほら、朝ご飯食べる?」
「いただきます」

 しかし餌―――もといご飯を出されれば、私とて従わずにはいられない。やれやれ、とテーブルに座り、箸を右手に持っていただきます、と手を合わせてから目玉焼きにそれを突き刺した。半熟らしく、やわらかくとろけた黄身がゆっくりと零れる。

「メリーはもう食べたの?」
「うん、私はね。誰かさんが遅いから」
「だって今日は休日じゃないの」
「貴女はいつも遅いでしょう?」
「基準が違うのよ、基準が」

 醤油取って、とメリーに調味料置き場を指さし、受けっとってからすぐに私は卵に垂らした。彼女は塩しか使わないし、私は醤油しか使わない。なんてバランスの悪い同居者なんだろう、といつも感じるが、私はこの状態に満足しているからそんなことはどうでも良かった。

 マエリベリー・ハーンというのが、彼女の本名。私にはいくらか発音しづらいので、愛称として“メリー”と呼んでいる。愛称で呼ばれるなんて幸せだな、と私はしょっちゅう感じるのだけれど、実際に私に愛称が付けられたら気持ち悪いだけかもしれない。
 うさみん、れんちゃん、×××―――。……想像するだけで吐き気を催しそうになるので、これは楽しい遊びではないことがすぐに分かった。
 結論、私は蓮子、だ。

「ほれえ、ひょうはほうふうほ?」
「“それで、今日はどうするの?”ね。頬張りながら話さないでよ、みっともない。……昨日話さなかったっけ? 特別に大学行かなきゃいけないって」
「あれ? そうだっけ」私は急いでご飯を呑みこんだ。「あぁ、例の物好きな教授だっけか。そういえば呼ばれたような気がしなくもないわ」

 物好きな教授、というのは、私たちの活動に何かと興味を持っている、なかなか美人な女性のことだ。通っている大学の教授の一人だということ以外は実はまったく知らなくて、興味もないから調べたことすらない。いつも白衣を着ているから、科学や化学、あるいは医学系なんだろうと曖昧な推測だけならメリーと幾度かした。

 私たちの活動、というのは、つまりオカルトサークルのことだ。秘封倶楽部、という名称で細々と活動している我らがサークルは、実のところ私とメリーの二人しかメンバーがいない。もともと、二人が出会って、それで出来たサークルだから当たり前と言えば当たり前なのだが、他のサークルなんかからは、結構訝しそうな目で見られたりすることもしばしばある。
 中には私とメリーとの関係を怪しいものだと思っている人もいるらしい。「蓮子さんとはうまくいっているの?」などと嫌味な目でメリーに訊ねる人ともたまに出会う。その蓮子さんの目の前で言うことはないと思うのだが。
  確かに、いつも一緒にいるし同居もしているわけだから、その気持ちは分からなくも、ない。もちろん違うが。

 秘封倶楽部は他のオカルトサークルとはいろいろと違う。挙げられることは基本的に「活動場所が定まっていない」とか「予算がちっともない」とか、マイナスなところがほとんどだが、唯一かつ、非常に重要な点で優れている、と自負しているのが“実践派”であるところだ。

「今何時、蓮子?」
「朝からそんなこと訊くのね。太陽は見つめたくないんだけどなぁ」

 す、と目を細めながら窓の外の太陽に目をやる。そこから得られる時間は、

「午前十時二十三分、ね」
「どうも。半には出た方が良いわ。準備しておいてね」
「はぁい」

 大きく伸びをしてから、私は着替える為にクローゼットへと向かった。メリーは早々に食器の片付けを始めている。

 私の眼は、星を見れば時間が分かり、月を見れば場所が分かる、というおかしな能力を持っている。メリーは気持ち悪いというし、実際私も気持ち悪いと思うからあーだこーだとは言えないけれど、あるものはしょうがない。それに、メリーの方がもっと気持ち悪い目を持っているのだ。

「メリー、今日は何か夢見たの?」
「そりゃ毎日見てるわよ。覚えていないだけで」
「じゃなくて、別世界の話」
「あぁ、……今日はなかったわね」

 なんと彼女は、この世界に存在する、あらゆるものの境界線を見ることが出来るのだ。どのように見えるのかは聞くだけだからいまいち分からないのが現実だが、空間に隙間があるように見えるとかなんとか、そんなことを言っていた気がする。
 そして、メリーの能力はそれだけには留まらず、その境界線を越えてしまうこともある。大抵は夢の中で越えてしまい、その先で拾ったものを現実世界に持ってきてしまうなどということがしばしばあるが、質量保存を考えるとメリーの越えているのは夢の中ではない、ということになると最近は考えている。

 ではどこを越えてどこに行っているのか? それについての推論が、幻想郷、と呼んでいる世界のことだ。簡単に言うなら、別世界が世の中には存在していて、メリーが越えているのはその世界とこの世界の境界線だ、ということ。多世界解釈は昔から幾度となく繰り返されているけれど、今の時代になって本当に別世界に行ってしまう人が現れた、となれば大騒ぎになるに違いない。
 もちろん、私のひそかな思考遊戯を誰かに渡そうなんて思っていないから、この考えは誰にも話してはいないけれど。

 とにかく、私たち秘封倶楽部の最近の活動は、主に世界中に張り巡らされている境界線、もとい結界を暴くことにある。いつか夢見た、別世界への入り口がどこかにあると信じて、メリーの示す方向へとひたすら走りまわっているのだ。

「準備できたよ、メリー」きゅ、とネクタイを締めてから、私は彼女に呼びかけた。
「ん。それじゃあ、行きますか」

 水の流れる音が止まり、すぐにメリーが台所から現れた。ようやく覚醒した目でその姿を眺める。
 いつもの紫色のワンピースに、いつもの帽子。そしていつもの金髪……っと、これが変わっていたら私は彼女を不審者と間違えてしまうだろう。

 私は床に落ちていたハットを拾って、軽くはたいてから頭にかぶせた。寝癖はこれでばれない。メリーには散々やめろ、と言われているが、時間がないのだからしょうがない。そんなことをいうのなら、私に時間を作って欲しいものだ。

「じゃあ、出発?」
「出発。何で疑問形よ。……それで、今日の予定は、宇佐見さん?」
「教授に会う。話をしたり聞いたりする。以上」
「その後はどうするか、っていう話よ」メリーは呆れ顔で振り向いた。
「そうねぇ……、図書館にでも寄る? もしくは帰って蜜柑食べるか、鍋にするか、あるいはなにか美味しいもの食べに行くか」
「その時になってから決めようか」
「それが一番だわ」

 ばん、と勢いよく玄関の扉を開けて、外へと足を踏み出す。冷たい風が身を裂き、私はまた小さく悲鳴をあげてしまった。
 もう夏のように高くは昇らない太陽を睨みながら、どうせ夏は高く昇る貴方を恨むんでしょうね、と私は口元を歪ませる。
 今は冬。
 そろそろ、人間も冬眠できるようになりたいものだ。





     ✚✚✚



「あぁ、いらっしゃい」

 部屋に入ると、教授は紅茶を飲みながら私たちを迎えてくれた。脚を組んで椅子に座ったまま、ほわりと上がる湯気の中で微笑んでいる。肩まででそろえた赤毛をくるくると指で弄びながら、ティーカップを口につけて一口だけ啜った。

「えっと、……結局なんて呼べば良いんですか?」私は訊いた。
「私たち、まだ先生の名前聞いてないですよね」すぐにメリーが続ける。

 ん? と教授は首を傾げた。それからすぐに指を口元に当てて、「内緒」のポーズをとる。理由は分からないけれど、訊くな、ということらしい。興味がある訳ではないので、私はそれで良しとした。メリーはいくらか釈然としない表情ではあったが、黙って椅子に座りなおしている。

 この教授知り合ったのはいつだったか、正確には覚えていない。約一年前だったような気はするのだけれど、それが十二月だったか、十一月だったか……あるいは一月だったかすら記憶にないのだ。それだけ印象に残らなかったということなのかもとは思ったが、さすがに私はまだ十代だ。そんなことを忘れてしまうのには何かしらの原因があるのではないか、と思ったこともある。
 こうやってしばしば気にするようにはしているのだが、気付いたら結局考えるのをやめてしまっている。考えるのが好きな私なのに、やはりこれは不思議な現象だった。

「それで?」教授は顔一面に興味の色を滲みださせながらメリーに詰め寄った。「最近は、どんな活動したのかしら?」

 教授を一言で形容するなら、子供みたい、というのが一番分かりやすいのだろう。
 彼女の興味は主に私たちの―――秘封倶楽部の活動にある。その中でも特にメリーの能力に興味津々らしく、いったんその話に入ると私の方など見向きもしないで話しだすこともよくある話だ。そも、私はメリーのおまけのような扱いを受けているのも事実で、私が呼びかけないと存在に気付いてくれないことすらあったりするのだ。なかなかに失礼だとは思っているが、教授の能力に対する指摘などは実に的確なものばかりで、私の思考遊戯の為に非常に役立っているから、私は特に気にしないことにしている。

「そうですね……」メリーはいつものように唇を指でなぞりながら空を睨んだ。「最近で一番おもしろかったのは、もう一回夢の世界に飛んでいってしまったこと、かしら」
「この前は真っ赤なお屋敷と竹林の話だったわね」教授が笑顔で相槌を打つ。
「ええ。もう蓮子には話したけど、今回行ったのは、暗い森だったわ。辺り一面に何かが立ちこめていて、居るだけで気持ちが悪くなってくる森で……」

 先日、私を早朝に叩き起こしたときにした夢の話を、メリーは教授に繰り返した。こんなにいろいろなことを彼女にばらしてしまうと、私の遊びが無くなってしまうと幾度か危惧したことはあったが、どうやらこの人は完全に趣味でこの話を聞いているそうで、名声だとかそういうものにはまったく興味がないらしいということが分かってからは、逆に自分の得になるからと喜んでここへ来るようになった。

 そのことが少し不安だったころ、彼女のもとへ来ている生徒の一人に、あの人は何か過去に賞取ったりしたの? と訊いてみたことがある。その生徒は苦笑してから、「昔は、変なことを学会で発表して追放された変人だったみたいだよ。ある時期から急に研究とかぱったりやめちゃったみたいだけど……」と答えてくれた。それによって私の教授に対する好感度が少し上昇した。

 変人は好き、というのが私の基本的な考えだ。変人は一般人とは違う思考回路を持っているから。当たり前のことだが、一般人と話していてもつまらないだけの私にとっては、とびきり変な人との方が気があったりするわけだ。秘封倶楽部が良い例、とも言える。メリーに話したら、私は変人じゃないわ、なんて怒られそうだけれど。

「……道も何も分からないから、ふらふらと彷徨っていたら、ふいに後ろから声をかけられたんです。振り返ったらたくさんの人形で……!」

 メリーの話は続く。そう、このくだりは確か、金髪の人形遣いに会った時の様子だ。バリエーションというものがないのか、メリーは前に話した時と話し方をまったく変えていない。

「……メリー?」私は堪え切れなくなってつい口を挟んでしまった。教授はそれにとても驚いたようで、肩をびくっと跳ねあげてからこっちを見た。やはり忘れていたか。「同じ話し方だと私が退屈するじゃない。なんか捻りを加えてよ、捻りを」
「えー」そういうメリーは不満顔だ。「じゃあ蓮子は耳塞いでいるのが良いわ。これが一番話しやすいんだもの。簡潔な方が先生もお好みでしょう?」
「あはは……」頬を膨らませた私に、教授は苦笑を向けた。「ま、まぁ、私は簡潔な方が良いかしらねぇ」
 ほら! と勝ち誇った顔で胸を張る相棒をひと睨みし、「じゃあ話が終わるまで寝ちゃいますよぅ、だ」と呟いてから私は目を閉じた。

 確かに気にしていないとは言ったけれど、メリーを独り占めされてしまうのは、少しだけ悔しい。有限実行。本当に寝てしまおうかと私は考えた。
 口を尖らせて目を瞑った私を気にすることなく会話を再開したメリーは、



 ぷつん。



 ―――暗転。





     ✚✚✚



 ―――明転。

「今年は大晦日どうしようか?」店で棚を前にして鍋の材料を選びながら、メリーが訊ねてきた。「去年は博麗神社まで頑張って行ったよね」
「うぅん、そうねぇ」メリーが持っている買い物かごに蜜柑を一つ放り込み、私は続けた。「今年はのんびりしたいかなぁ。去年はひどい目に遭ったから」

 去年の大晦日―――あれは悲惨だった。私のナビゲーションとメリーの結界に触れる感覚だけを頼りに神社のあるという山を登っていったのがそもそもの間違いだったのだ。確かに無事神社にたどり着くことは出来たし、初日の出も拝めた。しかし、誰もいない神社で初詣をして、しばらく結界探しやら何やらをして、いざ帰ろうともなれば異変に気がつくのは必然というわけで。
 麓の結界なんて曖昧なものが多いから、当然帰れないわけだ。現在地が分かってもしょうがない。

 あれからどうにか麓に辿り着くまでの苦労は半端ではなかった。美少女が二人……迷ったのが繁華街でなかったのが救いか、と今なら笑うことが出来るけれど、あの時はそうもいかなかった。大袈裟だが、生きるか死ぬかで随分と下らない話をメリーと繰り返した覚えがある。

「今年は大人しくしますか、それじゃあ」メリーが私に苦笑を向ける。
「私たちらしくないんだけどねぇ。さすがにトラウマかしら」

 はぁ、と溜息をついて、私たちは店の天井を見上げた。
 ゆっくりと回転し続けるプロペラを軽く睨みつけてから、私はメリーの顔に視線を戻す。なんとなく私は、同じく苦い笑みをたたえたその頬に人差し指をうずめてみようと手を伸ばした。当然のごとくひょい、とかわされ、指は空中で行き場を失ってしまう。

「……なによ」
「多分、感触が気持ちいいと思ったの」
「あ、さっき先生に言われたこと覚えてる?」私を無視して、メリーは話した。「余り結界に関わり過ぎないほうが良いかもしれないってさ」
「んー? 多分寝てたから聞いてないわ。でも、結界に関わるなっていうのはいただけないわね」
「そのせいで去年の大晦日にひどい目に遭ったわけですけど」
「それはそれ、これはこれ。過去の過ちを繰り返してたら人生、全然進みやしない」
「じゃあ今年も結界探しの旅に?」
「行くのかぁ……」

 こう返されては、私はどうしようもない。結局のところ、教授の話を引用してきたけれど、彼女も結界を暴きに行きたいのだ。その向こうに私を連れて行ってくれないことは確かに困るが、夜の世界を二人で歩いているときの気分の高揚は他では決して味わうことの出来ないものだ。
 それが、私が秘封倶楽部で、彼女もまた秘封倶楽部である理由。

「では、」店の自動ドアをくぐりながら、私はメリーの方を向いた。「私が何か調べておきましょうかね」
「よろしくね、私の相棒さん?」

 そう微笑む彼女を見て、つられて私も微笑んだ。
 吐く息が白く、夜の街を染めていく。

 ひとまず私たちは、自分たちの住んでいる暖かい部屋を目指して歩き出した。


「さぁて、鍋が楽しみだわ! こんなに寒い夜にはね!」

 ふと気付くと、メリーが私の肩に手を回していた。
 少しだけ恥ずかしくなって、私は彼女の方を向く。

「……まったく、」



 ぷつん。



 ―――暗転。





     ✚✚✚



 ―――明転。

「あら、メリーさんじゃない?」
「宇佐見です。宇佐見蓮子。先生は私とメリーの区別もつかないんですか」
「……あぁ、ごめんなさい。貴女とメリーさん、いつも一緒だから、ついつい呼びやすい方を呼んじゃったのよ。ほら、蓮子さんとは余り話さないから」

 町の図書館の二階。静かな空間の中で私は何故か教授に話しかけられた。いつもの白衣ではなく、真っ赤な私服だ。小脇に大量の本を抱えている。
 今までもよくここには来ているが、教授を見かけたのは初めてだった。最近になって来るようになったのか、あるいはたまたま出逢うことがなかっただけなのかは分からないが、その本の量から彼女も相当な読書好きだということが分かった。

「先生はここで何を?」私は気になって訊ねた。
「少し、調べものをね。研究じゃなくて、趣味の話だけど」
「……お時間ありましたら、訊ねたいことがあるんですけど、」
「構わないわ、もちろん」教授は即答した。「じゃあ、あっちの席でいいかしら」

 彼女の指し示した席の方へ足を進めながら、私は教授が抱えていた本をタイトルを盗み見ようとしたが、動きながらだと少しばかり見にくい。かろうじて「精神学」とか「解離」という言葉が見えたが私にはいまいち分からなかった。精神学、というからにはメリーの方が詳しそうな事柄だ。

「それで、訊ねたいことというのは?」
「いや、大したことじゃないんですけど」私は椅子に座りながら話した。「この前話したときのことなんですが……、結界に関わりすぎない方が良いというのは、一体どういう意味なんですか?」
「あぁ、そのこと。メリーさんから聞いたのね?」教授はどん、と数冊の本を机に重そうに置き、「ちゃんと話したわけじゃないから不思議に思うのは仕方がないわね。……まぁ、実を言うと私も貴女たちのいう“結界”に関わったことがあってね。メリーさんのように向こう側へ行ったこともあるわ。質量保存を考えれば、彼女の言うように夢の世界、ではないということも良く分かる。蓮子さんは既にそう考えているんじゃない?」
「え、えぇ……」私は教授が同じ考えに達していたことに少しだけ驚き、向こう側へ行ったという発言にその数倍も驚いた。「それで、先生は関わり過ぎてしまったんですか……?」
「簡単にいえば、そういうこと」教授はゆっくりと頷く。「その時は私にも、助手兼相棒がいたのよ、丁度貴女たち秘封倶楽部のように。でも、まぁ……、そうしてその世界を旅しているうちに、その相棒を失ってしまったわけだけれど」
「…………っ」

 一瞬、メリーがいなくなる、という言葉が頭の中でよぎる。そんなことがある訳ない、と思いながらも、私は教授の顔を強く睨みつけた。その表情はいたって普通だ。
 彼女の話が本当であるという事実はどこにもない。けれど、その“相棒”のことを話したときの教授の表情は余りにも感情に欠けていて、それが逆にリアリティを持っていた。

 そのまま、無言で教授と私は見つめあった。探るような目つきに私の意味のない焦燥感が刺激され、口の中がどんどん乾いていく。
 私は呼吸がおかしくなってきて、視界に光の粒が散り始めるのを感じた。

 メリーは……、いなくなったりは、しない。

 昨日、結局大晦日はどこかに行こうと話してしまったことを私は悔やんだ。
 もちろん、悔やんでも何も起きはしない。言ったことが帳消しになる訳ではないし、ましてや望み通りの方向に事が進んでいくはずもない。
 それが分かっているから、私は自分の口を無理やりこじ開けて、

「―――蓮子!」

 す、とふいに私の右にメリーが現れて腰を下ろした。手には本を数冊持っている。冷や汗をかいていた私の顔を心配するように眺めてから、メリーはその顔を教授の方に向けた。

「先生は、ここに良く来るんですか?」
「え、あ、そうよ、メリーさん」突然の登場に驚いたのか、教授は目を白黒させた。「そしたら蓮子さんがいたものだから、話しかけてみたの」
「そうなんですか。蓮子と何か話してたようですけど、なにか失礼なこととか言いませんでしたか?」
「失礼ね」私は右を向いてメリーを睨みつけた。「私はいつだって丁寧な物腰で接しているに決まってるじゃ―――きゃあっ!」

 ふいに、私の後ろを歩いていた人が両手に山積みにしていたらしい本が頭上に落ちてきて、私は椅子から転げ落ちてしまった。
 すみません、とその人の謝る声が聞こえたが、大量の本が顔の上にも積もっていて、その顔を見ることは出来ない。痛みに耐えながら身体の上の本を払いのけ、私は上半身を起こした。申し訳なさそうにしているその人に「大丈夫です」と笑いかけ、左から差し出されたメリーの手に引き起こされる。

「ちょっと、大丈夫?」
「へーきへーき。こんなことでへこたれてなんていられないわ」

 緊張の糸がプツンと切れたように身体が一気に楽になり、私は椅子に座りなおしてから大きく伸びをした。どっと疲れが押し寄せてきて、一週間分の体力を使ってしまったような錯覚に陥る。

「あー、もう。結構真剣な話題だったのに、メリーが来たから気が抜けちゃったじゃない」

 あはは、と口の端を吊りあげる。話の内容を知らなかったメリーは怪訝そうな表情で首を傾げ、


「―――気が抜けられちゃ、ちょっと困るんだけどね」

 ぞっとするほど、冷やかな声。

 椅子から立ち上がった姿勢で、教授は氷のような眼差しを私たちに向けていた。

「ここまでやったら、仕上げが残っているのよ」
「……何の、話ですか?」再び先程のような緊張が戻ってくる。彼女の言っている意味がさっぱり分からなかった。
「きっと貴女たちは結界を暴くのを止めないでしょうから、大切な相棒が幻想に消えてしまう前に……ね」教授の顔に僅かに影が差した。
「…………メリーは消えません」

 私はそう断言した。実際は不安でたまらない。夢の話をするたびに、毎回不安になっていたことでもあるから。
 いつの間にか、この場からメリーは消えていた。

「貴女と同じ症状の患者を、私は一人だけしか知らないわ」教授はそう話を始めた。「もちろん他にもいるのでしょうけど、私はそういうことには疎いから」
「何の話をしてるんですか……?」同じ質問を繰り返す。急過ぎてさっぱり分からなかった。「私が患者だって?」
「ここまで異常なパターンだとはっきり言えないけれど、解離性同一性障害というのがそれの一般的な名称ね。分かりやすく昔の言い方に言い換えれば―――」

 教授は大きく息を吸って、嫌な記憶を吐きだすかのように、その言葉を口にした。


「―――多重人格障害、ね」



 ぷつん。



 ―――暗転―――明転。



「まだ逃げちゃ駄目よ、宇佐見蓮子!」

 消えかけた意識が、教授の声で呼び戻される。宇佐見蓮子、宇佐見蓮子。私の名前が、強引に意識をこの場にとどめたかのようだった。

「メリーが、人格……そう言いたいんですか?」
「これを聞いて」教授はポケットからイヤホンを取り出し、私の耳に当てる。「一昨日貴女たちが来てくれたときに録音した、私たちの会話よ」


『……えっと、……結局なんて呼べば良いんですか? 私たち、まだ先生の名前聞いてないですよね』

『なんか捻りを加えてよ、捻りを。…………えー。じゃあ蓮子は耳塞いでいるのが良いわ』


 イヤホンから聞こえる会話は、三人のものではなかった。
 教授と、私。二人だけ。
 いや、それも違う。
 これは、この声は―――私の声じゃない!

 そう気付いたと同時に、私は猛烈な吐き気を覚えた。世界がひっくりかえるような感覚が、全身を襲う。目がちかちかしてきて、先程の緊張とは比べ物にならない程の汗が身体中から噴き出した。

「分かったかしら? ずっと言わないでいたのはもちろん、症状を正確に把握するためだけど、ね」
「……これ……この声、」
「えぇ、そう、貴女の―――宇佐見蓮子の声じゃないでしょうね、たぶん。私は蓮子さんの声がどんなものか知らないから」
「……これ、メリーの?」
「マエリベリー・ハーン、貴女の相棒」教授は私から目をそらしてから、どこからか手鏡を取り出して私に突きつけた。「貴女が、宇佐見蓮子という名前の人格なのよ」

 映る顔は、焦りと恐怖に歪んだ、
 金髪が綺麗な、
 笑顔の可愛い、
 この世の結界を、見ることができる―――、

 そんな、貴女だった。


「―――い、いやあああああああああああっ!」



 ぱりん。



 ―――暗転。





     ✚✚✚



「岡崎君、悪戯が過ぎるよ」

 錯乱して意識を失ったマエリベリー・ハーンが静かに連れて行かれるのを眺めていた夢美は、背後から声を掛けられて振り返った。そこではよく見知った精神科医の髭面が、不満げに夢美を見つめていた。

「あぁ、先生。私に任せてくださったのは貴方でしょう? 元同じ患者として彼女に気付かせる……確かにやりたいといったのは私ですが」
「それはそうだが、やり方が意地悪だね。あんな言い方しなくても、君ならもっといいやり方ぐらい考え付いたはずだろう」
「あれは、少し特別なんですよ。……私と同じで。先生も私には荒療治したじゃないですか」
「それは、」医者は顔を僅かにしかめて、「君が幻想に友人を置いてきたというからだ。解離性などという前に、私は妄想癖を疑ってしまったくらいだよ」
「現実で、幻想なんですよ、先生? あの世界で私ははっきりと独りであることを指摘されてしまって……訳の分からないまま戻ってきてしまった。だから、あの子はもう、」コツコツ、と夢美は自分の頭を軽く叩く。「ここにはいなくなってしまったわけです」

 やれやれ、と医者は重々しく頭を振った。マエリベリー・ハーンのいなくなった跡を見つめながら彼は溜息をついて、

「あれは、私がちゃんと引き取るが……、彼女の場合、原因は何だと思うかね?」
「さぁ?」夢美は首を横に動かした。「私の場合もまだ分かりませんし、それは彼女の場合もまた同じことでしょう。強いて言うのであれば、幻想に、」
「幻想?」
「そう。分からないけど、きっとそんな病気も存在するのではないでしょうか?」

 そう言って、医者のしかめっ面に微笑みかける。彼はうぅんと唸って、そのまま黙り込んでしまった。

「……ところで」医者は顔を上げて夢美を見た。「彼女の人格交代の頻度はどれくらいだったんだね? そこから見ているのではいまいち分からなかったが」
「それはもう、異常な頻度でしたよ。瞬きする間もないくらい」夢美は笑った。「彼女の中では二人が会話しているのですから。こちらから見たら演技力抜群の独り芝居です」
「ふむ……まるで君と同じだな」
「それに、彼女の目にはしっかりと相手が映っていたのですから。そして宇佐見蓮子の方も同じ。互いが人格だと知らずに、高度な関係を築いていたというわけですね」
「……マエリベリー・ハーンを相手にするのは、骨が折れそうだな」医者は再び溜息をついた。
「仕事なんですから、頑張って下さい」机に置いた本を手にとって、夢美は言った。「あぁ、それと……、“蓮子”の人格は、苦痛に対する防衛機能も備えているようですよ。私の助手が倒した本は右側から来た。“蓮子”の話し方を見るに、メリーが現れたのは右側。倒された“蓮子”が手を差し伸べてもらっているような演技は左手だった。メリーの苦痛は、おおよそ“蓮子”が受け取っていると考えて良いでしょう。本程度で入れ替わるくらいですからね」
「参考にしておくよ。それにしても鋭い観察眼だ」
「職業柄、とでも言っておきましょうか」
「君は物理学じゃなかったか?」
「可能性―――私が求めているのは、常に可能性なんですよ」

 いつだったか―――、
 幻想の世界へ行ったときの事を夢美は思い出した。
 あらゆる可能性をすり抜けて、相棒が人格ではなかった可能性さえも通り越して、幻想の医者に病を指摘された。
 相棒は夢のように消えてしまって、そう簡単に消えるものじゃないはずだ、とこの医者の下へと転がり込んで。
 結局分からずじまいのまま、ある日独りで会話をする少女を見かけた。既にその子は病院の患者で、「大学」といってあの病棟を指差して―――、

「ではその可能性に、一つ問いかけをしよう」
「何でもどうぞ」
「“蓮子”はマエリベリー・ハーンのために消えてくれるだろうか?」
「未知数です」

 夢美はバッグから白衣を取り出して、医者の方へ放り投げた。彼は受け取りながら、夢美の言ったことに目を白黒させる。

「そもそも、“消えてくれる”という言葉を使うこと自体がフェアではないので、正確な数値は出せそうもありませんね」

 では私はこれで、と言って、夢美は彼に背を向けた。
 何も言ってこない。
 彼は答えを知っているからだ。
 夢美が言ったのと同じく、それは未知数だということを。


 図書館から出ながら、夢美は彼の言ったことを頭の中で反芻した。

 ―――“蓮子”は消えるか?

 それは完治するか、ということが言いたいのだろうが、この病気において完治というのはもう一つの意味が考えられる。人格が一つに戻ることだけではなく、複数が存在した状態でも、日常生活に支障をきたさなくなることだ。

 どちらかの人格が消滅を否定したなら、消えることは難しい。特に、“蓮子”が否定した場合は非常に困難になるだろう。そこから先は、自分のすることではない。

「…………さて、」

 呟いて、赤くなった西の空を見上げた。辺りを歩く人の影が長く伸びているのを見る。

 マエリベリー・ハーンは、今頃何を想っているだろうか?
 しばらく現れることのない、秘封倶楽部の友人のことを?
 秘封倶楽部の、楽しい日々の記憶を?

 何が真実で、何が偽りか。
 存在しないということが偽りだというのは、どう考えても間違いだ。
 幻想は、確実に存在していて、世界のどこかを蝕んでいる。


 何を願っているのだろう?

 何を想っているのだろう?


「…………ね、ちゆり」

 今はもうない、幻想の相棒がやわらかく微笑む姿を夢美は想起する。


 いつかの首の痛みを思い出して、

 今なら彼女に逢えるのではないかと、岡崎夢美は後ろを振り返った。




















幻想に消えたちゆりが、魔理沙に憑依しt……!
という電波を受信した訳ではないので悪しからず。


どうも、久々に現れたと思えばまた蓮子をいじめてしまったぜろしきです。蓮子が好きなのに。好きな子をいじめる小学生的なアレですか。

何か言うとぼろが出そうなので、二つだけ。

・そりゃ首も痛くなりますわ
・だからちゆr

以上です。

読んで下さってありがとうございました。
ぜろしき
[email protected]
http://ergoregion.web.fc2.com/
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コメント



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6.70名前が無い程度の能力削除
そんな結末もあるんだなぁ…と
7.90url削除
苦いけど面白かったです。
教授は一度相棒を失っているから指摘できたんですね・・・。
11.90名前が無い程度の能力削除
うおお・・・これは面白かったです。全部一人芝居なんだと思うと最初の会話から切なくなるんですがw
医者から言わせてもらえれば最初から相棒なんて存在しないよ、ただの人格障害だろJKってことになっちゃう
んでしょうが、かつてはきっといたんですよねそこに。ひょっとしたら今も傍に・・・

幻想の存在になっても傍にいる可能性はありますよね!信じなければ幻想は存在できなくなっちゃうから
今の教授には見えないだけで、蓮子もちゆりも実体はなくなったけど相棒に憑依してるんだよ!と主張したいw 
ああでもちゆりの場合は教授じゃなくて某魔法使いに憑依しry
12.100名前が無い程度の能力削除
岡崎さんの病は治療不可能なレベルまで進行しています
ご家族の方にはこれ以上いかなる投薬・カウンセリングを行っても効果が無いということを理解して頂きたく…
19.90名前が無い程度の能力削除
うあ、すごく良い話だ。
ひだり、みぎ、こころ、からだ。
現実の合間に潜む幻想を探しに行きましょう。
21.無評価ぜろしき削除
コメントがたくさんあって幸せです。ありがとうございます。
コメ返し。

>>3さん
怖いと言われると喜びます。失くしたものは探さない方が良いかもしれません。

>>7さん
例えばこんな秘封倶楽部。

>>urlさん
カカオ○パーセント。ちょっと苦いかもしれませんが、私は苦いチョコレートの方が好きです。

>>12さん
一度読み直すと切なくなれるかもしれません。ただの痛い子メリーさん。
こんな秘封倶楽部もアリかな、と。歪んだ世界は書いていて楽しかったりします。
ちゆりは(恋符「マスタースパーク」

>>13さん
……思います。彼女の支離滅裂な発言の中から抜粋して、これを解離性同一性障害の“幻想症候群”と呼ぶことになったわけでありますが、残念ながら治療法は皆無であり、丁度現れたもう一人の患者と合わせて……

>>20さん
首痛い首痛い。
あっちみてこっちみて、貴女がいない。
28.100名前が無い程度の能力削除
何というかおもしろい話でした。
背筋の寒くなる話はちょっと苦手な方なんですが。

ほっぺたつつこうとしてかわされた、という描写も伏線なんでしょうね。
そりゃつつけんわ、っていう。
29.70名前が無い程度の能力削除
なるほどなあ。面白い考え方だと思います。