Coolier - 新生・東方創想話

スタンド・バイ・ユー

2009/11/03 22:09:13
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      一

「ねえメリー、デートに誘われるならどこがいい?」

 口にしていたポッキーが、ぺきりと折れてベッドに落ちた。
 講義が休講になった金曜の午後、私は蓮子の部屋で、ベッドに寝転んで蓮子の蔵書を漁っていた。何しろ私たち秘封倶楽部は、メンバー合わせて二名の非公認サークル。大学内に所定の溜まり場を持てるわけでもない。というわけで、集会場所は専らどちらかの家か、行きつけの喫茶店なのだった。
 そんなわけで、気付けばすっかりと過ごし慣れた蓮子の部屋で、私はそのベッドを占拠しつつ、本棚にあった薄井ゆうじの『くじらの降る森』を読んでいたところだったのだが。

「……なに、急に?」

 私は思いきり訝しんで相棒を振り返った。相棒はゆっくりと、自前で淹れたコーヒーをすすりながら、いつもの猫のような笑みを浮かべる。

「深い意味は無いわよ。ちょっとした好奇心」

 指を振ってみせる蓮子に、私は肩を竦めてひとつ息を吐き出した。

「本屋。もしくは図書館」
「案の定すぎて面白味に欠ける答えねえ」
「蓮子にそんなことを言われる筋合いは無いわよ」

 寝転がっていた姿勢から起きあがって、私は椅子に腰を下ろす蓮子に向き直る。

「でもメリーの場合、本屋や図書館はデートの行き先としては不適切だと思うわ」
「あら、どうして?」
「だって、相手のことより面白い本を探すことを優先しちゃうでしょ?」

 ぐ、と思わず私は呻く。それはまあ、確かにそうかもしれないが。

「大丈夫よ」
「そう?」

 反駁した私に、蓮子はどこか楽しげに笑った。

「本の話が出来ない人とは、付き合う気はないもの」
「メリーのマニアックなミステリ談義についていけるような、いい人が見つかるといいわね」

 そんなことを言う相棒が読んでいるのは、山口雅也の『奇偶』だったりするわけだが。

「別にそんなマニアックなつもりは無いんだけど」

 読んでいる本のラインナップの濃さなら、蓮子の方が上だろう。リバイバルブームのミステリならともかく、佐藤哲也だの深堀骨だの青木淳悟だの、今どき誰が読んでいるというのか。

「若者よ、書を捨てよ街に出よう」
「寺山修司? 書を捨てて漫画のキャラの葬式した人じゃなかった?」
「あしたのジョーぐらい読みなさいよ、メリー。どうせラストシーンしか知らないでしょ」

 図星である。というか、そんな古い漫画まで網羅している蓮子こそどうかと思うが。

「蓮子ならそこは、書を捨てよ不思議を探そう――じゃない?」

 その鼻先に指を突きつけて、そう言ってみる。
 蓮子は楽しげに目を細めて、「惜しいわねメリー」と指を振った。

「不思議なことを探すには、文献だって必要なのよ」
「そしてまた、燐光堂で怪しげな古書をふっかけられるんでしょ」

 部屋の片隅に放り出されている古びたハードカバーを見やる。いつぞや、蓮子が燐光堂から買ってきたオカルト関係の古書である。私もぱらぱらと読んでみたが、果てしなく胡散臭いという印象しか浮かばなかった。鯨統一郎の与太話の方がまだ信憑性がありそうである。

「いいじゃない、この世の情報の九割がゴミだとしても、残り一割から求めるものを精査していく過程もまた楽しいんじゃない」
「何の法則だったかしら、それ」
「スタージョンの法則よ。『あらゆるものの九割はゴミである』」
「誰?」
「ちょっと、シオドア・スタージョンを知らないとかメリー、それでも読書家? 『時間のかかる彫刻』とか『輝く断片』とか『一角獣・多角獣』とか、あの宝石のような短編群を読んでないとか勿体ないにも程があるわ!」
「聞いたこともないわ」
「そこに揃ってるから貸してあげるわよ、というか貸すから読みなさい。でも八十年前の貴重な古書だから大事にしてよね?」
「……復刊されてないの?」
「民間月面ツアーが実現すれば、SFの名作も色々復刊されるかしらねえ。嘆かわしきは――」
「宇宙開発の停滞に伴うSFの衰頽については前にも聞いたわよ」

 いつも通りの益体のない会話は、やはりいつも通りにあらぬ方向へ脱線していく。結局何の話だったのかよく解らなくなるのがお決まりのパターン。というかこれ、何の話だったか。

「だいたい、実現したところできっと高価すぎて庶民には手が出ないと思うけど」
「民間月面ツアー? まあ、それは仕方ないわ。どんなものでも大衆化が進むまでは割に合わないものよ。気軽にデートに利用できるようになるのは二十二世紀の話でしょうね」
「いいわね、月面デート。静かそうで、ゆっくり落ち着いて本が読めそう」
「宇宙に行ってまで何を読むのよ?」
「そうね、『ミクロの決死圏』とかいいんじゃないかしら」
「アシモフは知ってるのね、メリー。というか何その宇宙に喧嘩売るセレクト」
「夏は冷房を効かせた部屋で鍋料理が至高ですわ」

 じゃあ今晩は鍋にする? と蓮子が笑った。闇鍋以外なら、と私も苦笑を返す。
 それから、蓮子に気付かれないように心の中だけで小さくため息をついた。
 目の前の相棒が何を思ってあんなことを聞いてきたのかは定かでないけれど。
 ――本の話ができない人とは、付き合う気は無いもの。
 その言葉の意味するところに、果たして目の前の相棒は気付いているのやら。
 やっぱり、私は蓮子のように何でもお見通しとはいかないのである。





      二

 鍋なんて、冷蔵庫にあるものを適当に放り込んだっていいのだろうけれど。
 肝心の冷蔵庫の中身がほぼ空では、さすがにどうしようもない。

「で、何の鍋にしようか? きりたんぽとか?」
「鶏肉がいいわね、ヘルシーで安いもの」

 そんなわけで、陽も傾きだした夕方。私と蓮子は部屋を出て、近くのスーパーマーケットに買い出しに出向いていた。市内一の安さを売りにしている店は、これから夕飯の支度をするのだろう主婦やその子供たちでそれなりに賑わっている。
 ポイントカードの使用を薦める歌詞の単調な曲が延々と流れ続けるスピーカーの脇を通り過ぎて、カゴを片手に適当に野菜を見繕っていく。白菜、ネギ、舞茸。もちろん今どき天然ものなんて手に入らないのだから、全部格安の合成品である。

「メリー、椎茸ダメだったわよね?」
「あれは人間の食べるものじゃないわ」
「そこまで言わなくても。まあ、ダシは舞茸でいいわよね」

 出汁はともかく、丸ごとの椎茸とか狂気の沙汰だと思う。なんでそんなに嫌うのよ、と蓮子は笑って椎茸を目の前で囓ってみせたが、本当に勘弁してほしい。人間、どうしたって我慢のできないことのひとつやふたつあるのだ。

「あとはお豆腐と、紅生姜、紅生姜♪」
「鍋に紅生姜は止めなさいってば」
「えー、いいじゃない」

 嬉々として紅生姜をカゴに放り込もうとした蓮子の腕をむんずと捕まえる。牛丼を紅生姜で埋め尽くすぐらい紅生姜を愛しているこの相棒、油断すると何にでも紅生姜を放り込み始めるのも何とかしてほしい。

「あ、メリー、鶏肉確保しておいてよ。安いやつ」
「はいはい」

 私を追いやって紅生姜を買い込むつもりだろうか、と警戒してみたが、まあ結局食べるのは蓮子なのだ。肩を竦めて、私は精肉売場の方へと向かう。
 学生には到底手の出ない値段の牛肉を、主婦がカゴに放り込んでいくのを横目で眺めながら、パック詰めされた鶏肉の値段を見比べている、と。

「ういちゃん、何か食べたいものはある?」
「……なんでも」

 小さな女の子の手を引いて、こちらに歩いてくるのは見覚えのある人影だった。
 人形を大事そうに胸元に抱えて、どこか憮然とした表情で手を引かれるその少女も、以前に蓮子のマンションで見かけた子だ。

「あら、こんばんは」

 向こうもこちらに気付き、優雅な微笑みとともにそう声をかけてくる。私はぺこりとひとつ会釈して、それから手にしていた鶏肉のパックをその場に戻した。どうにも間抜けだ。
 蓮子と同じマンションの住人で、花壇の管理人でもあるところの風見優花さん。手を引かれているのは、風見さんがよく世話をしている、薬屋ういちゃんだ。

「ういちゃん、ご挨拶は?」
「……こんばんは」

 風見さんが穏やかに諭して、ういちゃんはこちらにぺこりと頭を下げた。どうやらあまり機嫌は良くないようだ。不機嫌な子供の相手は尚更苦手なので、私は苦笑しつつ風見さんに向き直る。

「宇佐見さんとお買い物かしら?」
「まあ、そんなところです」
「仲が良くて素敵ね」

 微笑んで、それから風見さんは「じゃあ、ういちゃんの好きなハンバーグにしましょうか」と合い挽き肉を手に取る。「はんばーぐ?」と顔を上げたういちゃんに、「そう、ハンバーグ。ケチャップでお花も描いてあげる」と風見さんが言うと、ういちゃんの表情がほころぶ。
 そんな微笑ましい様子を眺めつつ、私はもう一度鶏肉のパックを手に取った。ざっと並んでいるのを確認してみたが、おそらくこれが一番安いはずだ。計算はあまり得意でないので確証は無いが。

「はんばーぐ、はんばーぐ♪」

 いつの間にか機嫌を直したらしく、ういちゃんはじゃれつくように風見さんの足元ではしゃいでいる。手にした人形が乱暴に振り回されてちょっと不憫だ。
 そんな様を優しげに見つめる風見さんの視線はどこまでも穏やかで、手を繋ぐふたりの姿を見ていると、やっぱり親子なのではないか、と思えてしまう。ういちゃんの苗字は薬屋なのだから、無論そんなはずはないのだが。

「あ、それじゃあ私は――」
「ええ、宇佐見さんによろしく」
「……ばいばい」

 人形の手を振ってみせるういちゃんと、風見さんに頭を下げて、私は小走りに蓮子の元へ戻った。まだ野菜コーナーに居た蓮子に声をかけ、カゴに鶏肉を放り込もうとして、案の定紅生姜がカゴに増えているのに気付き、私はため息。まあ、鍋に入れなければ何でもいいか。

「精肉売場で、風見さんとういちゃんに会ったわ」
「あら、それは奇遇ね」

 蓮子はさほど興味も無さそうに言う。まあ、同じマンションに住んでいれば、同じスーパーで出くわすのもそんなに珍しいことでもないかもしれない。

「本当に親子みたいね、風見さんとういちゃんって」
「私もしばらくの間はそう思ってたわよ。ういちゃんのご両親はほとんど見たこと無いしね」

 ういちゃんの両親は忙しい人で、休日もほとんど家に居ないらしいという話は以前蓮子から聞いたことがあった。その間の世話を風見さんがしているのだから、ふたりが親子のように見えるのもあるいは仕方ないのかもしれないが。

「幼稚園からの送り迎えも風見さんがしてるみたいだし。案外ういちゃんも、風見さんのことをお母さんだと思ってたりして」
「それは流石に……」

 でも、あるいはそういうことも有り得るのかもしれない。忙しくて滅多に自分の世話をしてくれない実の母親と、自分にいつでも優しく接してくれる風見さんと――。
 私は首を振る。よその家の事情に興味本位で想像を逞しくするなんて趣味がいいとは言えない。全くそのへんは、この相棒の悪影響と言う他ない。いや、蓮子が井戸端会議に興じる奥様方のようだというわけではないが。

「そういえば、未だにメリーのご両親には会ったことないわね」

 タレを手に取りながら、ふと思いついたように蓮子は口にした。

「ふたりとも本国にいるもの。日本は遠いわ」
「年末年始は帰省してたんだっけ、メリー」
「時差ボケに苦労いたしましたわ」

 本国はさすがに遠いし、両親もそう暇でもないのだから、なかなか向こうが京都に来るというわけにもいかない。まあ、いずれは両親も慣れ親しんだ京都に戻りたいとは思っているようだが、父親の仕事のこともあるし、いつになるのやら。

「だいたいそれを言ったら、私だって蓮子のご両親には会ったことないわ」
「あら、そういえばそうだったわね」

 蓮子は東京の出身である。京都生まれの京都育ちの私だが、東京には行ったことが無かった。卯酉東海道が出来て片道一時間で行けるようになったとはいえ、首都機能を失って久しい今の東京は、狭いわりには人口が多いだけの田舎である。敢えて観光に出掛けるような場所でもない、というのが大方の京都人の認識だ。

「蓮子のご両親って、やっぱり蓮子に似て変人なのかしら?」
「ストレートに失礼ねメリー。いや、実際うちの両親は変わってるけど」

 おちょくるように言ってみたら予想外の返事がきた。この相棒をして《変わってる》と言わしめるとは、どんな人たちなのだろう。ちょっと興味が湧く。

「それはちょっと気になるわね。どんな人たちなのかしら」
「はいはい、じゃあ鍋つつきながら、うちの両親の奇天烈エピソードでも披露して差し上げますわ。常識に囚われない人たちなのよねえ、どっちも」
「つまり、この親にしてこの娘あり、と」

 私の言葉に、蓮子は心外だと言わんばかりに肩を竦める。

「あらメリー、非常識を非常識として受け入れ認識するためには、何よりも常識が欠かせないのよ? 常識に立脚しない非常識なんて、目玉焼きが作れない人の創作料理に等しいわ」
「宇佐見蓮子は変人である。蓮子は自分が常識人だと思っている。自分が変人であると思っている変人は居ない。ゆえに、宇佐見蓮子は変人である。――美しい三段論法の完成だわ」
「メリーってときどき平気な顔して酷いこと言うわよね」

 嘆くように大仰に天井を仰いでみせる蓮子に、私は苦笑しながらそのカゴから余計な紅生姜をこっそりと抜き取ることにした。





      三

 京都府立植物園といえば、百五十年以上の歴史を誇る全国でも有数の植物園のひとつである。
 前時代的な庶民的娯楽に対してわりと厳しい京都では、若者向けの娯楽施設自体数は多くない。自然と、いわゆるデートスポット的なものも寺社仏閣であったり、あるいは植物園あたりに落ち着く形になる。
 要するに、府立植物園は今現在の京都市内では、定番のデートスポットのひとつであり。
 何の因果か、日曜日。私はそこに、蓮子とふたりでやって来ていた。

「ねえ、蓮子」
「なに? メリー」
「なんで私は今、こんなところで蓮子と並んで歩いているのかしら」
「そりゃあもちろん、デートだからよ」

 そんなことを言って、蓮子は私の手をわざとらしくきゅっと握ってきた。
 握りしめられた手のひらの感触がひどく気恥ずかしくて、私は思わず蓮子から視線を逸らす。
 ――ねえメリー、今度の日曜にデートしない?
 蓮子が突然そんなことを言い出したのは数日前だ。蓮子のことだからどうせまた廃墟探索かオカルトスポット巡りだろう、というか即ちそれは秘封倶楽部の活動に他ならない。そう思って「はいはいどちらへ?」なんて軽く返したというのに。
 周りを見回してみれば、それらしき組み合わせをいくつも見かける。若い男女ペアで歩いているのはまず間違いなくそうだろう。同性同士でも二人組だとその可能性は高い。今どき同性婚だってマイノリティとはいえそれなりに市民権を得ているのである。

「……蓮子の誘いだから、絶対に廃墟探検か何かだと思ったのに」
「あらメリー、そっちの方が良かった?」

 別にそういうわけではない。ただ――明らかにそれと解るカップルたちに紛れ込んで、自分が蓮子と手を繋いで歩いているというのが物凄く気恥ずかしいという、それだけの話だ。

「なんで、敢えてここなの?」
「だから、デートだからに決まってるじゃない」

 飄々と笑って蓮子はそう言う。その真意が私には読めない。いや、蓮子の考えていることなど、私には解らないことの方が多いのだけれども。

「……秘封倶楽部の活動じゃないの?」
「メリーってば、何度も言ってるじゃない。デートなんだってば」
「誰と誰の?」
「私とメリーの」
「どうして?」
「私が誘ったから」

 ――なんで、私を誘ったの? わざわざ、デートなんて名目をつけて。
 そう聞きたかったけれど、言葉は口の中で空回りしてしまって、結局私は何も言えなかった。
 蓮子はいったい何を考えているのだろう。誰かとデートをする予行演習でもするつもりなのだろうか? ――蓮子に果たして、私の知らないそんな相手がいるのだろうか?
 そんな想像に、胸の奥が疼くのを感じて、私は顔を伏せた。
 蓮子の交友範囲は広い。その関係の一部しか私は知らないのだ。一年以上の付き合いになるのに、考えてみれば、私は蓮子のことなどほとんど知らないのかもしれない。
 宇佐見蓮子。秘封倶楽部のメンバー。私のマイペースな相棒。
 いつも一緒にいるといっても、二十四時間一緒なわけではないように。
 私の知らない蓮子がいて、蓮子の知らない私がいる。
 そんな当たり前のことに、どうして胸の奥が小さく疼くのか――。

「メリーは、お気に召さなかったかしら? やっぱり図書館の方がいい?」

 植物園の門の前で、蓮子はそんなことを言い出す。
 私はひとつ苦笑して、それから塀の向こうに顔を出す木々を見上げた。

「いいわよ。地元過ぎて入ったことなかったし、たまにはね」
「――オッケー、そうこなくっちゃ」

 蓮子は明るく声をあげ、それから私の手を引いてチケット売場の窓口へと歩き出す。
 手を引かれて歩きながら、私は今日何度目かのため息を、胸の奥で押し殺した。
 ただ、握りしめられた手の少し汗ばんだ感触に、心臓の鼓動が平時より微かに早くなっているのは、押し殺しようのない事実だったのだけれども。



 ともかく。
 インドア派の本の虫とはいっても、私だって一応、これでも曲がりなりには年頃の女子であり、綺麗な花を眺め愛でるのがそうそう嫌いなはずもない。
 風見さんが手入れしている蓮子のマンションの花壇もなかなか立派なものだが、さすがにこちらは植物園。あちらこちらに咲き乱れる花の華やかさは、目の休まる暇もなかった。

「わ、メリー、見て見て。これは凄いわ」
「本当、絨毯みたい。――レッドエンペラー、ですって」

 真っ赤なチューリップが、絨毯を敷いたかのように一面に広がっている。赤い皇帝、とはまた、チューリップという可愛らしい花には似つかわしくない物々しい名前だ。

「ねえ、この上に寝転がってみたくならない?」
「花が潰れるだけじゃない、それ」

 そりゃそうようねえ、と蓮子は肩を竦める。全く、何を言っているのだか。

「チューリップの花言葉って、何だったかしら」
「色によって違うわよ。確か白なら《失恋》、黄色なら《実らない恋》だったかしら」
「……カップル向けの花言葉じゃないわね」
 もうちょっと可愛らしい花言葉だった気がしていたが、気のせいだっただろうか。
「そうでもないわよ、メリー。ちょうどこれみたいな赤いチューリップの花言葉は――」

 足元のレッドエンペラーなるチューリップを見下ろして、それから蓮子はこちらを覗きこむようにして一度、あの猫のような笑みを浮かべた。

「《愛の告白》、ね」

 しかしそれは、蓮子の声ではなかった。私は蓮子と顔を見合わせ、それから声の主の方を振り返る。果たして、思いがけないと言うべきか、予想通りと言うべきなのか。

「――風見さん? と、ういちゃん」
「こんにちは。奇遇ね」

 いつものようにういちゃんの手を引いて、風見さんは優雅に微笑んだ。
 ういちゃんはどこかきょとんとしたような顔で私たちを見上げていたが、その向こうに広がるチューリップ畑に目を輝かせて、「ちゅーりっぷ!」と歓声をあげる。その手の人形が、振り回されてばたばたと揺れた。

「あ、こんにちは……」

 虚を突かれた感が抜けないまま、私たちはどこかぼんやりと挨拶をする。風見さんと植物園、取り合わせとしては何の違和感もないのだが、さりとて出くわすとは思わない。いや、見られてまずいところに割り込まれたわけではないにしても――。
 ……見られて問題のあるようなことを、そもそも蓮子としているわけではない、うん。

「まっかー」
「そーね、真っ赤っかね」

 しゃがんでチューリップを覗きこむういちゃんに、蓮子が応える。一面に広がるチューリップ畑を「ほえー」と見つめるういちゃんは、普段マンションで見ている花壇とは根本的に規模の違う花々の数に圧倒されているようだった。

「……風見さんは、よくここに来るんですか?」
「ええ。あの子を連れてくるのは初めてだけれど、ね」

 何となく問うてみると、風見さんはういちゃんの方に目を細めてそう答えた。
 さいた、さいた、チューリップのはなが、と楽しげに歌い出すういちゃんに、並んだ、並んだ、赤白黄色、と蓮子が律儀に応えていた。子供の相手をしているときの蓮子は楽しそうで、私には真似出来ないなあ、と相棒のそんな姿を見ながら思う。

「――本当は、私じゃないはずだったんだけど」
「え?」
「いいえ、何でもないわ」

 呟くような言葉。私が振り向くと、風見さんは苦笑するように小さく首を振った。

「そちらは? デートかしら?」
「……単に、遊びに来ただけです」
「あらあら」

 見透かすような風見さんの問いかけに、私は一瞬口ごもってしまう。返せた言葉には、風見さんは愉快そうに笑うばかり。顔が熱くなって、私は意味もなく視線を巡らす。

「それなら、お邪魔はしない方がいいかしらね」
「――いいえ、せっかくですからご一緒しましょう」

 私は反射的にそう答えていた。何というか、蓮子と手を繋いでふたりで、というのはどうにも気恥ずかしすぎる。風見さんとういちゃんが間に挟まってくれれば、もう少し精神衛生的にも状況の改善が見込めるはずだった。

「あら、よろしいのかしら?」

 試すような風見さんの視線に、「いいんです」と私は目を逸らしながら答えた。





      四

「もう、メリーってば」
「なに?」
「デートだって言ったじゃない」

 軽く半眼でこちらを睨みながら、蓮子はそんなことを言う。
 後ろを仲良く手を繋いで歩いていた風見さんとういちゃんは、また花壇の前で足を止めていた。それを振り返って、私は小さく肩を竦めた。

「――そろそろ、種明かしぐらいしてくれてもいいんじゃない?」

 私がそう聞き返すと、「え?」と蓮子は首を傾げる。この相棒は、この期に及んでとぼける気か。私は首を振った。

「わざわざデートなんて名目で私をここに連れ出した理由よ」
「理由って言われても、ねえ」
「ここに結界の裂け目の噂でもあるの? それとも別の何か?」

 目の前の相棒の考えていることは、私にはいつだって計りきれないのだ。
 秘封倶楽部の活動ならそう言えばいい。別に私だって、蓮子と一緒に結界の裂け目を探したり、怪しげなスポットを探検するのが嫌いなわけではないのだ。
 いや、正直に言えば、それが大学生活の楽しみにすらなってしまっている。
 その理由はといえば――結局のところ、この宇佐見蓮子の存在、それに尽きるのだ。
 だからこそ、今の蓮子の考えていることが、私にはさっぱり解らないのだ。
 私とデートなんて、いきなりそんなことを言い出して――何がしたいのか。

「だからメリー、何度も言ってるじゃない。今日は秘封倶楽部の活動じゃないって」

 心外だと言わんばかりに大げさに肩を竦めて、蓮子は答える。

「――じゃあ、なに? 誰かと植物園デートの予行演習?」

 知らず、声は刺々しいものになっていたのだと思う。
 私の表情に、蓮子は目をしばたたかせて、それから――不意に笑い出した。

「あははっ、なにメリー、ひょっとして――やきもち妬いてくれたの?」
「――――っ」

 虚を突かれて息を飲んだ私の頬に、蓮子の手が伸ばされた。
 身を竦める私の髪に、そっと撫でるように触れて、蓮子は目を細める。

「メリー、何を誤解してるのだか知らないけど、ね」

 私の眼を覗きこむようにして、蓮子は囁くように言った。
 境界の見える私の眼にも、蓮子の心の境界は見透かせない。そのことが――もどかしい。

「今日の私は、メリーとデートしたくて、メリーをここに誘ったのよ。それ以外の理由なんて何も無いわ。――うららかな日曜日を、親愛なる相棒と一緒に過ごしたかっただけよ」

 その言葉の、虚実の境界を見透かせたら、きっと私の心臓は楽になれたのだと思う。
 だけど私の眼にそれは見えなくて、だから私は、早鐘を打つ心臓が送り出す血液のせいで真っ赤になった顔を、蓮子から逸らすことしか出来ないのだ。

「……蓮子の言うことだから、それでも裏がありそうにしか聞こえないわ」
「あら酷い。メリー、私が今までメリーに嘘をついたことがある?」

 咄嗟に言い返そうとして口ごもる。――蓮子ははぐらかすことはあっても、嘘をついたことはたぶん、無い。少なくとも、私の記憶している限りでは。

「せっかく入場料も払ってるんだし、妙なこと勘繰ってないで、楽しまなきゃ損じゃない?」

 いつもの猫のような笑みを浮かべて、蓮子は人差し指で私の額を小突いた。
 その触れた指先の感触も妙に熱くて、私はただため息をつくしか出来ないのだ。

「ついでに言えば、メリーがわざわざやきもちを妬くような相手なんていないわよ?」
「妬いてないわ」
「ホントに?」
「なんで私が蓮子のことで、そんな――」
「私は、メリーがやきもち妬いてくれたのなら、ちょっと嬉しいけどね」

 ――だから、どうしてこの相棒は。
 そういう、反応に困る言葉を、さらりと何でもないように口にするのか。

「ほらメリー、向こうの温室、行ってみない?」

 と、私に背を向けて、蓮子はそれから右手を差し出した。
 ――なんだかんだ言っても、結局のところは。
 その差し出された右手を掴む瞬間が、やっぱり私は幸せだったりするのである。





      五

 温室の手前には、小さな池があった。池の表面は、大きな蓮の葉に覆われている。

「さいてないの?」
「そうね、蓮の花はこれから、夏になると綺麗に咲き誇るわ」

 池の淵の手すりに手を掛けて、ういちゃんがそこを覗きこむ。傍らで風見さんが「危ないわよ」と軽くたしなめなていた。
 蓮といえば、隣の相棒の名前にも、その一字が入っている。

「蓮って確か、ものすごく古い実からでも花を咲かせるのよね」
「古代蓮ね。二千年以上前のだって発芽するそうよ」
「気の遠くなりそうな話ねえ」
「メリーなら、二千年ぐらい寝て過ごしても平気そうに見えるけどね」

 結局、いつものようにそんな益体もないことを言い合っている。そんな私たちに、傍らで風見さんが楽しそうに微笑んだ。

「メリーさん、蓮の花言葉はご存じ?」
「え? ……ええと、何でしたっけ」
「《雄弁》よ」

 蓮子を見やって、風見さんは笑って言う。私は思わず噴き出した。なるほど、それは蓮子にはぴったりの花言葉だ。名は体を表す、とはよく言ったものである。

「そうね、《沈着》とか《清らかな心》とかもあるし、私にぴったりでしょ?」
「自分で言う?」
「我が心はお釈迦様のように清廉潔白ですわ」
「おしゃかさま?」

 ういちゃんが首を傾げた。「そう、お釈迦様。おしゃかしゃか」と蓮子が笑いかけ、その語感が気に入ったのか「しゃかしゃかー」とういちゃんが笑う。

「お釈迦様といえば、そこの温室にはムユウジュがあるのよ」
「ムユウジュ?」
「ああ、釈迦が生まれたのがムユウジュの下でしたね」

 風見さんの言葉に蓮子が答える。菩提樹の下で悟りを開いたのは知っているが、ムユウジュというのは初めて聞いた。宗教には縁が薄いので仕方ない、と思うことにする。

「釈迦の母マーヤが、ムユウジュの花を手折ろうと手を伸ばしたら、その脇腹から仏陀が生まれたのよ」
「神話とかの世界って、どうしてそう変な生まれ方をするのかしら」
「イブはアダムの肋骨から生まれ、釈迦は母の脇腹から生まれ、キリストは処女懐胎。やっぱり特別な存在は特別な生まれ方をしないといけないんじゃない?」
「でも脇腹から生まれるって、想像してみるとホラーよね」
「普通の人間の出産だって、生で見れば結構ホラーじゃないかしら?」

 ういちゃんが話についていけず、きょとんと目をしばたたかせていた。というか子供の前でするような話でもない。私たちは苦笑して、それから温室の方へ向かった。
 外も春だから、温室の中が特別暖かいということはない。けれどその中に足を踏み入れると、やはりどこか外とは違う空気を肌に感じる。温室の中に生育している植物の雰囲気に影響されているのだとは思うが。
 日本の寒暖に耐性のない南国の植物が、所狭しと茂る温室。普段は見かけない植物たちに視線を巡らせながらその通路を歩いていると、「あ、これだわこれ」と蓮子が声をあげた。
 見上げれば、頭上に垂れ下がるようにオレンジ色の花が咲いている。玉のように寄り集まって咲く花弁のない花は、どこか紫陽花を思わせた。
 プレートには《ムユウジュ(無憂樹)》と書かれている。憂いの無い樹。お釈迦様がこの下で生まれたのだというなら、要するに安産という意味合いなのだろう。

「インドでは街路樹として植えられ、また仏教の寺院でもよく栽培されている。結婚・出産にまつわる幸福の木としても愛好されている――だって」
「インドではそこらじゅうでお釈迦様が生まれてるのねえ」
「メリー、その発言は色々と深読みしたくなるから危険よ」

 望むらくはこの場に熱心な仏教徒のいないことである。

「ゆー?」

 と、ういちゃんがプレートを見ながら、何か首を傾げていた。「ん、どしたの?」と蓮子が覗きこむと、「んー」とういちゃんは手にした人形を弄びながら首を捻る。
 そんな姿を何となく見つめていた私は、それからふと――そんなういちゃんに向けられる、風見さんの奇妙な視線に気付いて、眉を寄せた。
 風見さんは何か、憂いのようなものを秘めた視線で、ういちゃんを見つめている。
 無憂樹の下には不釣り合いな風見さんの表情の意味は、私には解らず。

「なまえ」

 ういちゃんが、不意にそんなことを口走った。

「わたしのなまえ。ゆーじゃなくて、ういだよ」

 そのプレートを指差して、ういちゃんは言う。
 プレートに記されているのは、その樹の名前――《無憂樹》。
 蓮子が一瞬眉を寄せて、それから何かを納得したように息をついた。

「ああ――ういちゃんの名前、この字なのね」
「うんっ」

 ういちゃんは頷く。それで、ようやく私にもういちゃんが何を言いたいのか理解できた。
 薬屋うい。その名前は平仮名だとばかり思っていたが、そうではなかったのだ。
 憂と書いて、《うい》。――薬屋憂。それが、彼女の名前なのだ。





      六

 温室を出て、ベンチで一休みすることになった。
 風見さんが買ってきたソフトクリームを、ういちゃんは口を汚しながら美味しそうに舐めている。その口元を拭ってあげているのは風見さんではなく蓮子だった。私、蓮子、ういちゃんの順で並んで座っていたら、風見さんがどうしてか私の隣の方に座ったのだ。
 蓮子が買ってきた缶コーヒーを飲みながら、風見さんにちらりと視線を向ける。無憂樹のところで、風見さんがういちゃんに向けていた視線の意味。それが《憂い》だとするならば、その向けられている先は、その字を名前に持つ少女のことだ。

「……あの、風見さん」

 向こうから何か話を振ってくるかと思ったが、風見さんはただ沈黙していて。仕方なく、私は自分から口を開くことにする。

「ういちゃんの名前って――平仮名でも《初》でもなく、《憂》なんですね」
「……ええ」

 どこかため息のようにそう頷いて、それから風見さんはゆるゆると小さく首を振った。

「メリーさん。……貴女はどう思うかしら? 《憂》と書いて《うい》と読ませる名前」
「――――」

 口ごもった私に、風見さんは「正直に言ってくれていいわよ」と苦笑する。

「……あんまり、いい意味じゃないですよね。ちょっと不思議です」
「そうよね。――私も同感なの」

 幸せそうにソフトクリームを頬張るういちゃんを見やりながら、風見さんは目を細める。

「あの子のご両親とは親しくしているけれど――どうして娘にそんな名前をつけたのか、そればかりは私にも解らないの。憂鬱の憂、なんて、いい意味には受け取れないでしょう?」

 確かにそうだ。《憂》の字の入る単語でいい意味の言葉は、ぱっと思いつかない。
 無憂樹が幸福の木であるにしても、「憂いの無い」という字面なのだから、どっちにしたところで《憂》の字の孕む意味はいい意味ではあり得ない。

「今はまだいいのだけど。あの子が自分の名前を漢字で書くようになったとき、その字の意味を訊かれたら、私は何て答えればいいのかしら。――私が悩むことじゃないとは思うのだけど、いつも世話をしていると、どうしても、ね」

 風見さんがういちゃんに向ける視線は、実の親と見紛うほどに優しく、温かい。
 けれど、やはり風見さんは実の親ではないのだ。だから、実の親のつけた名前の意図が分からない。《憂》という字。それを子供に名付ける意味。

「あの、ういちゃんのご両親は――」
「ああ、誤解しないで。忙しい人たちだけど、あのふたりがういちゃんを疎んでいるとか、そういうことは無いはず。少なくとも、わざと悪い意味の名前を子供につけるような人たちじゃないわ。――だからこそ、不思議なのよ」

 缶コーヒーを飲み干して、私は春の陽光を見上げた。脳天気な青空は、穏やかな陽気を地面に振りまいて、ゆるやかに時間の流れを刻んでいる。

「……ひとつ、思いつくことはあるんですけど」

 思い出したのは、最近読んだ本に出て来たフレーズだった。

「あの、ういちゃんがいつも持ってる人形って、風見さんが?」
「え? いいえ、あれはういちゃんのお母さんが、寂しくないようにってあげたものだそうだけど――」

 その答えに、私は頷いた。――ああ、やっぱり、そういう意味か。

「ええと、これが正解かどうかは解らないんですけど」

 一応、そう前置きしておく。確証は無い。だけれど、想像は出来る。
 いい意味の思いつかない《憂》という字に、名前としての意味を持たせるならば。

「以前読んだ本に、こんなフレーズがありました。『優しいって字はさ、人偏に『憂い』って書くだろう。あれは『人の憂いが分かる』って意味なんだよ、きっと。それが優しいってことなんだ』――って」
「あ――」

 はっとしたように目をしばたたかせて、風見さんは手のひらにその字をなぞった。

「逆に言えば、《憂》の隣りに人編を置けば、《優》になるんですよね」
「――だから、人形を持たせた?」
「そういうことなんじゃないかと、思います」

 忙しくて、なかなか隣にいられない母親は。
 せめて、その隣に人形を置くことで、彼女の名前の意味を示そうとした。
 隣に人がいれば、《憂》は《優》になる。

「誰かがそばにいるとき、優しくなれる――そんな意味の名前なんじゃないでしょうか」

 私の言葉に、風見さんはひとつ、大きく息を吐き出した。

「――どうして気付かなかったのかしら。私の名前にも《優》の字はあるのに、ね」

 風見さん――風見優花さんはそう呟いて、それから「ありがとう」と目を細めた。

「確証は、無いですよ?」
「いいのよ。――素敵な意味を見つけられたなら、それが答えだわ」

 風見さんは立ち上がると、アイスクリームを食べ終えたういちゃんの方へと歩み寄る。ういちゃんは口元を拭うのもそこそこに、ベンチから飛び降りて風見さんの足元にじゃれついた。
 その髪を優しく撫でて、それから風見さんは私たちに向き直る。

「それじゃあ、私たちはこのあたりで。――おふたりはまたごゆっくり」

 あまりお邪魔しても悪いから、と微笑む風見さんに、私は思わず苦笑を返した。

「ほら、ういちゃんも、ばいばい」
「ほえ? ばいばい?」
「そう。ふたりのデートのお邪魔は、これ以上しちゃいけないわ」
「でーと?」

 きょとんと目をしばたたかせるういちゃんに、私と蓮子は顔を見合わせて。
 それから私は、今度は自分の方から、蓮子の腕に自分のそれを絡めた。

「ええ、そうよ。デート中なの。ね、蓮子」

 私の言葉に、今度は蓮子が「ま、ね」とだけ答えて視線を逸らす。
 その顔が赤くなっていたように見えたのは――気のせいではない、と思う。たぶん、きっと。





      七

「伊坂幸太郎の『ラッシュライフ』だっけ?」

 風見さんたちと別れて、それからふたりで手を繋いで、ぐるりと植物園を一周し。
 それなりにデートらしきものを満喫した、帰り道でのこと。蓮子が不意にそう言った。

「え?」
「風見さんに言ってた話よ。人の憂いが云々ってやつ」
「ああ――そうね」

 隣にいた蓮子にはやはり聞こえていたらしい。あのとき口を挟んでこなかったのは、空気を読んだのか、特に補足することでもなかったからか。

「まあ、メリーにしては気の利いた回答よね。隣に人がいると、優しくなれる――なんて」
「私にしては、ってどういう意味かしら」
「気にしない、気にしない」

 からからと笑って、それから蓮子はふっと目を細める。
 その視線は、いつもの何もかもを見透かしているかのような眼差し。

「……私のあの答え、間違ってたのかしら?」
「ううん、正解、ということにしておいていいんじゃないかしら。《憂》なんて『憂鬱の憂』としか説明しようの無い字、敢えて名前につけるなら、《優》の字と絡める意味ぐらいしか私も思いつかないもの」

 帽子のつばを指で弾いて、蓮子はそれから目深に被り直す。

「でも、人形が人偏の代わりっていうのは、ちょっと苦しいと思うけど」
「……じゃあ、どういうことなの?」
「別にどういうこともないわよ。人形は特に、ういちゃんの名前とは関係が無いんだと思うわ。ういちゃんの名前に加えられるべきは《人》であって《人形》じゃないもの」
「それじゃ、隣にいる《人》は――」
「そこはまあ、ご両親――というか、お母さんでしょ。名前からしてもね」

 蓮子の言葉に、私は眉を寄せる。そこで蓮子は、「あ、そっか」と手を叩いた。

「メリー、ういちゃんのご両親の名前は知らないんだったわね」
「――聞いてないし、ポストには苗字しか書いてないわ」
「じゃあ、クイズ。ういちゃんの名前が《憂》なのは、彼女のお母さんの名前の字を考えれば理由がきっと解るわ。――さて、彼女のお母さんの名前の字は何でしょう?」

 私は眉を寄せる。そんなことを言われても、何をヒントに考えろというのか。

「ヒントは《人偏》よ。ういちゃんの名前に足りない部分」

 人偏。人偏のある漢字なんていくらでもある。《優》だってそのひとつだ。
 まさか母親の名前が《優》だなんてこともないだろうし――。

「――あ」

 そこで、私は思い至る。人偏は、ういちゃんの名前に足りない部分だ。
 その足りない部分を、母親が隣にいることで埋められるのだとしたら。

「お母さんの名前は――人偏を取っても、意味の変わらない字?」
「はい、正解」

 指を鳴らして蓮子は言い、私も納得して頷いた。
 自分の名前から余っている人偏を分け与えて《優》になる。
 人偏を取っても、意味が変わらない漢字は、確かにあった。

 倖。
 ――人偏を取っても取らなくても、その意味は《しあわせ》。

「でも、ちょっと変わった名前ね。なんて読ませるの?」
「《みゆき》だったと思うわよ」
「じゃあ、むしろ人偏が無い方が自然に読めるわね」

 そんなことを言いながら、私は左の手のひらに《優》の字をなぞってみる。
 それだけで、なんだか心がほっとしたような気がして。
 左手を一度ぎゅっと握って、私はその手で、蓮子の右手を掴んだ。

 いつか、ういちゃんが自分の名前の意味を尋ねるとき。
 母親は、自分と娘の名前を並べて、その仕組みを教えてあげるのだろう。
 憂いではない《憂》――《優しいの憂》の、その仕組みを。
 某平沢さん関連のスレで見かけた書き込みが元です。
 もう一ひねり加えてみましたが元の切れ味には及ばないという罠。
浅木原忍
[email protected]
http://r-f21.jugem.jp/
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コメント



0.2790簡易評価
3.100名前が無い程度の能力削除
うい(憂)ってなんでだろと思っていたらメランコリーだからか
優花さんとういちゃんでほのぼの
二人の関係も進展しているようでなにより
次回も楽しみにしています
6.90名前が無い程度の能力削除
>>10…と思ったら、本当にそうだったw
ういちゃんがかわいくて和みますね
蓮子とメリーも接近していて今後どうなるのでしょうw
このシリーズ大好きですので今後も楽しみにしています
7.100773+1削除
文庫での出会い話から回を重ねる毎に甘くなっている……
素晴らしい!蓮メリちゅっちゅっ!

そして相変わらず文学ネタが凄い……もっと小説読もうかな……
10.100名前が無い程度の能力削除
メランコ=憂からすてきなエピソードに至る発想が凄い

でも、別人とわかっていても風見さんの出るシーンは心臓がドキドキしていやな汗が出る・・・
14.90名前が無い程度の能力削除
「うい」の何処にメランコリーって意味があるのかと思っていたらそうゆう事でしたか……納得
お二人も少しずつ進展しているようで何よりw
相変わらずこのシリーズは面白いですね、次も期待してます
25.100名前が無い程度の能力削除
「うい」が「憂」でメディスン・「メランコリー」ってのはそうだと思ってたけど、実際の所こんな名前付ける親いないよなぁ~…って思ってたらまさかそこを補完されるとはっ!?
コレを書いた浅木原さんは勿論なんですが、何より実際にありそうで「親ってすげぇな~」と思ってしまいましたw
>>10 俺の中の風見さんはオリジナルでも優しいんだぜ!!w
28.100名前が無い程度の能力削除
メリーと蓮子の関係にドキドキ。風見さんの優しさにドキドキ。憂ちゃんの名前の秘密にドキドキ。
心臓がどうかなってしまいそうです。
36.100名前が無い程度の能力削除
え…
牛丼に紅生姜こんもりって変なの…?(´・ω・`)
37.100名前が無い程度の能力削除
話が進むごとにだんだんちゅっちゅ要素が多くなってきますなww
心の変化の仕方がどうにも現実にいる人間っぽくて好きですw

>>36
変です。ついでを言うと焼きそばが紅生姜に侵食されることになる私も変です。
39.100名前が無い程度の能力削除
おおー、これは見事にひねった話。漢字の成り立ちからこうも話を展開させるとは。
秘封の二人はもちろん、人間版メディスンも幽香も良かったです。
42.90名前が無い程度の能力削除
優花さんが美人過ぎて死ねる。
ただやはりというか、作者氏当人が仰っている通り、
おそらく元ネタであろう>10の鋭さは別格である。
よくサラっとあんなことが言えるもんだ。
51.100名前が無い程度の能力削除
心温まる話だ。
52.100名前が無い程度の能力削除
蓮子が何の魂胆もなくデートに誘ってるわけがないと最後まで疑わなかった(失礼)
メリーの気持ちが分からんでもないw最後まで読んで思わず「ほんとにデートだったんかい!」と
突っ込んでしまったしw

憂の名前の由来はお見事だなあ・・・多忙な両親が疎んでつけたものを優しく解釈してあげたのだと
思って疑わなかった(失礼)
心温まったけど自分の猜疑心に嫌気が差したw
54.100名前が無い程度の能力削除
ホントよく考えられてるなあ、と感心しまくりです。
優花さんとういちゃんは見てて和みますねー。
そしてメリーと蓮子の愛が止まらない。
56.100名前が無い程度の能力削除
いま、こうやって子供の名前に真心を込めて名付けられる親がどれほどいる事か……
音を漢字に無理やりねじ込んだ奇抜な名前が蔓延っていて、子供の未来を憂いています。
そんな教訓すら感じさせるほど素晴らしいSSでした。