Coolier - 新生・東方創想話

夾竹桃

2009/10/23 20:15:50
最終更新
サイズ
74.11KB
ページ数
1
閲覧数
2125
評価数
71/185
POINT
12340
Rate
13.30

分類タグ


 高い断崖から落ちるよりも恋に陥る方が危ない。
           ――プラウトゥス「トリヌンムス」

 戦争でも恋愛でも、手段は選ばない。
           ――J. フレッチャー, F. ボーモン「恋人の進歩」

 火のない所に煙はなく、思わせぶりのない恋はない。
           ――「フランスの諺」

 現実とは突拍子のないものである。一秒先の未来も判らない。
           ――twin 「夾竹桃」

 若き血潮の滾る時、天下太平の世が崩れん。
 九寸五分の恋、信疑の境に堕ちるが、其の二。

 例えば斯様な物語。





一.





 近来紫が好く尋ねて来るのを、霖之助は決して好く思ってはいなかった。それも来訪の理由を尋ねる度に、彼女は含ませ振りに「遊びに」などと云って微笑むものだから、一応道具屋の店主をやっている身としては、甚だ迷惑に思われるのである。この熱い日々もさざ波の如く消え去って行こうという微妙な時節の間に挟まれて、それでも鳴り止まぬ蝉時雨にいい加減辟易しながら、霖之助の心境は果てしなく憂鬱であった。

「君は遊びにと云って此処に訪れるが、何かした試しが無いじゃないか」
「遊びの意味を狭義的に捉え過ぎなのではなくって?」
「僕が考える遊びの定義がこれ以上広がるものならば、是非にご講義願いたいものだね」
「そんな面倒な事を誰が好き好んでするのかしらね」

 紫はそう云って霖之助を馬鹿にせんばかりに笑って見せた。その歪む口元を、この夏に一体何度目にしたのだか、霖之助には既に判らない。兎角沢山見た心持ちがする。そうしてそれを見過ぎた為に、その微笑の意味が自分を馬鹿にする類のものであると決め付けてしまった。実際彼女のその笑みは、そういう場面以外に出て来た試しが無い。

「今でこそ穏便に話しているが、その内僕の不満が爆発するとも限らないよ」
「あら、一体何故不満が爆発するのか、逆にご講義願いたい所だわ。こんな美人を捕まえて」
「どんな酔狂でも君を捕まえようとはしないだろうね。何より胡散臭くっていけない」
「女が美しく在る為には、胡散臭くなった方が丁度好いのよ」

 紫はそう云ってまた笑う。霖之助は最早云い返す気にもならなかった。幾度自分が憎まれ口を叩いても、彼女にはそれを憎まれ口として受け止める風がない。それどころか、受け止める前に他の憎まれ口で打ち返して来る。これでは問答に埒が明かぬのも道理である。霖之助は抵抗する気力も半ば失せ掛けている自分が情けなくなった。

「全く自分本位な考え方だ。素直な女性の方が可愛らしいに決まっている」
「霖之助さんはその方が好いのかしら。でも素直な私をお考えになって。きっと寒気がするに違いないから」
「ははは、まるでその通りだ。可笑しなくらい、その通りで笑えて来る」

 霖之助は自分の云う事に対して一々素直に反応する紫を頭の中に想像して、顔を顰めた。全くぞっとしない話である。例えば霖之助が美しいと云った折に顔を赤らめられては堪らない。その時にはきっと、自分までもが何だか気恥ずかしい気分になって、言葉に窮してしまうに違いない。霖之助はそう考えて苦笑した。

「実のところ、霖之助さんには理想の女性像なんてあるのかしら」
「少なくとも君と比べたら、それは程遠い所にあるだろうね」
「あら残念。少なくともそこらの女には負けないつもりだったけど」
「負けないだろうさ。物理的な話なら」

 これ以上にない皮肉を云ってやったつもりだが、霖之助の予想した通り紫は微笑を湛えるばかりであった。全く底知れぬ笑みである。霖之助はその微笑を湛えながら、本心で彼女が何を考えているのだかまるで判らない。時には彼女の考えを模索してみようと思った折さえあるが、その時には急に恐ろしくなって止した。彼女の真意を隠す闇を切り払う事が、とてつもなく愚かしく恐ろしい事の如く思われたからである。

「つまらない」

 蝉時雨の絶えない店内を、不意に静寂が包み込む。その言葉を発端にして、後は波紋の広がるように静けさが広がり、霖之助は一種妙な心持ちになった。蝉時雨は相変わらず五月蠅く鳴り響いているのにも関わらず、先刻とは店内の雰囲気が一変してしまった。そうして何より驚いたのは、突拍子もなく発せられた紫の言葉である。何を以てそう云ったのだか、霖之助には皆目見当も付かぬ。元より彼女の真意が察せられぬのは、先述の通りであったけれども、その言葉はあまりに理不尽なものであったから、酷く自尊心が傷付けられた心持ちがしたのである。

 霖之助は思わず紫の方を見遣った。店と居間との境に身を置き、優雅に扇子なぞで自身を扇ぐ様は先刻と何も変わりがない。が、発せられた言葉は口の中へ戻る事もなく、霖之助に届いている。つまらないと云った彼女の表情は不自然なほど平生の如く在り、霖之助はその異質さに臆した心持ちになった。それだから強い言葉を吐き捨てる事も出来ず、ただ「え」と情けない限りの声を出してしまい、それに気付くや否や穴に入りたいくらいに恥じ入った。

「何だか私達と来たら、皮肉や憎まれ口ばかり云い合って。まともに話しあった試しが無いわ。だからつまらないの」

 紫はそう云って横目に霖之助を捉えた。美しい睫毛が影を落とす金色の瞳に見詰められると、霖之助は先刻感じた恥も相まって、勝手な事を云うなと開こうとした口を、閉ざさざるを余儀なくされた。蝉時雨が殊更五月蠅く耳に付く。晩夏の日照りは変わらず熱い。細められた女の眼が、彼を非難するように視線の矢を向ける。

 ふと紫が唇の重なる合間から、赤い舌をちらりと見せる。それが外気を喜ぶかの如く、上唇と下唇を行き来した後、光沢を柔らかな肉へ塗り付けるが如く、淫靡なる鈍さを以て下唇を端から端までつと滑る。そうしてその赤い舌が端に到達すると、上唇にて同様の仕草が繰り返される。霖之助は近頃その仕草を好く目にする。そうしてそれを見せ付けられる度に、胸の奥で太鼓が大きな音を奏でる心持ちがする。そういう時、彼はすぐに目を逸らすのが常であった。

「今日はお暇するわ。――そうね、茶葉を下さるかしら。藍がもう切れたと云っていたから」

 やがて紫はそう云いながら立ち上がると、霖之助に向かって例の微笑を浮かべた。霖之助は従うより他にない。迷惑な客人から香霖堂のお客様と変わった紫に、店主たる彼が呆けている訳には行かぬ。

 そうして茶葉を取って来ると、霖之助はそれを無言で渡す。紫は金を渡してありがとうと云ったきりである。それ以上に言葉を発する事も無いまま、黙って店を出て行ってしまった。後に残された霖之助は、何処か茫然としながらその去って行く姿を見送っていたが、やがて我に返ったとみえて、誰も居ない店内で殊更誰かに見せ付けるが如く、大仰な溜息を吐いた。蝉時雨の五月蠅い晩夏の昼時、照った太陽が実に煩わしい好天気の事である。

「ああ、全く、やっていられないな」

 霖之助は恨めしげに呟いて、安楽椅子に背を預けると、薄暗い店内の薄黒い天井を見上げて、再び大きな溜息を吐いた。そうして誰に聞こえるともなく消えて行く嘆息の名残が、何故だか鬱陶しく思われて、傍にある書に手を伸ばすと、大して面白そうな顔をするでもなく、文字の羅列を読み解いて行くのであった。





二.





 翌日、彼女にしては珍しく、新しく発行された新聞を手に持たない射命丸文が訪れた。霖之助が手荷物を持たぬ文を目にするのは久方振りの事である。昨日と変わらぬ好天気が目に眩しい昼時に、霖之助は昨日とは題名の変わった書に栞を綴じて、それを机に置いた。本の表紙は劣化が激しく、掠れた文字は到底読めるものではないようである。

「今日は手荷物も下げず、一体どうしたんだい。尤も昼刊を届けに来ただなんて云われたら参ってしまうが」
「それも斬新で好さそうですね。でも、生憎今日は暇を潰しに来たんです」
「暇潰しに使われるようになってしまったら、香霖堂も末と云う他ないね」
「まあまあ、私に始まった事じゃないですし、此処は一つ寛容に受け止めて下さい」

 あははと明るく笑う文を見て、霖之助も苦笑した。尤も近来遊びと評して度々香霖堂に訪れるあの大妖も暇潰しと何ら変わりは無いなと思ってみると、この文の来訪も大した事ではないと思われて来る。結局そんな思考に達してしまうのがやはり情けないけれども、霖之助は憂えても何も変わるまいと、溜息を一つ落とすだけに止まった。

「それで、暇潰しと称して一体何をするのか、お聞かせ願おうじゃないか」
「何をすると決めてやって来たのなら、わざわざ用件を聞かれた時に暇潰しだなんて云いませんよ」
「成程、それもそうだ。しかしそうなると此処でなくとも他に行く宛てがあったろう」
「神社には行ってみましたけど、追い返されました」
「また余計な事でも口にしたのではあるまいね」
「まさか。私は平和を愛する新聞記者ですから」

 甚だ信用に足らぬ事を云って、文はまた笑った。それにつられて霖之助も笑う。何だか自然の時である。霖之助は心中で今日と昨日とを比べてみて、その差異にまた可笑しくなった。紫の居る時は、何だか平静で居られた気がしない。苛立ちだの戸惑いだの、面倒な感情ばかりある。してみるとこういう一時も悪くはないな、と霖之助は思った。

「しかしですね、暇潰しとして此処に来る以上、私にも変化があった訳でして」
「ほう、何だか悩んでいる風じゃないか。何か厭な事でもあったかい」
「いえ、悩みと云うほどでもないんですが、記事になるような話の種が見付からなくて」
「ははは、どうやら東西奔走する新聞記者も、当たって然るべき壁に当たったと見える」
「そう考えた方がまだ気楽です。ところがそうは問屋が卸さない」
「まだ何かあるのかい」
「記事の種が、有るにはあるんです。ただ、その場所が問題で……」
「君にも踏み込めない領域があったとは驚きだ。何時ものように飄々と乗り込めば好いじゃないか」
「現実的な話、命を落としかねない相手ですから。私だって命は惜しいんです」
「そんなに厄介な相手なんて、君からすれば指で数えるくらいのものだろう」
「その指で数えるくらいの相手なんですよ。というより、私達とは規格からして違いますからね」

 文はそんな事を云って、さも悲しげにおよよとやって見せた。霖之助からすれば他人事には相違ないので、彼はそんな彼女の様子を怪訝な目で見ているだけであったが、その内文の云う相手が気になりだした。元より退屈な日々に飽き飽きしている所であったから、文の冒険譚の予告も暇潰しにはなるだろうと考えたのである。

「その相手とは誰なんだい。紅魔の主か、はたまたその妹か、でなければ冥界の姫君か――」
「違います、違います、まあその方達も厄介に違いありませんけど」
「ふむ、規格からして違うというからには冥界の姫君かと思ったが、――となれば永遠亭の」

 霖之助がそう云うと、文はあからさまに落胆したように肩を落として溜息を吐いた。と云ってもあまりにその様があざといので、やはり霖之助は苦笑するしかなかったが、考えてみれば確かに厄介な相手だと密かに同情した。

「ああ、実に厄介な相手だね。で、どちらだい」
「薬師の方です」
「それならまだ好いじゃないか。話を聞く限りじゃ、あそこの姫君は我儘が過ぎるらしいから」
「それが一筋縄じゃ行かない相手なんです。お金まで払って得た折角の種なのに」
「それはそれは、騙されたと思った方が好いかも知れないね。どうせあの嘘八百の兎だろう。どんな嘘を吹き込まれたのだか」
「何だか怪しい薬を作っているとか。詳細は判りませんが、材料を見た限り実に妖しいと」
「どうせ眉唾な話だよ。判ってみれば何て事はない、風邪薬だなんて云われるんじゃないか」
「そうなんですけど、実際に会ってみると、あながち嘘とは云えないから弱ります」
「もう会ったのかい。それで何と?」
「買い手の所望で詳しい事は話せませんとばかり。まるで聞く耳を持ってくれやしませんでした」
「そうなると実に難儀な話だ。あれの口は例え金塊を山ほど積んでも割れないだろう」

 すると文は再び深い溜息を吐き出した。新聞記者も難儀する時世になったものだ、と霖之助は気楽な気持ちでその様子を見ながら、果たして実際の所どんな薬を作っているのかを想像してみた。が、そうなると恐ろしいものしか思い浮かばない。彼もその薬師と話した経験はあるが、その時の底知れない笑みと来たら、何処ぞの大妖に引けを取らない胡散臭さが見て取れた。それで途端に文の境遇が憐れに思われたものだから、霖之助は一つ慰めてやろうと思い立った。

「まあ、機会を探す事だよ。彼女にも隙のある時があるかも知れない」
「仮にあったとして、その機会を無駄にすまいと飛び込めますか?」
「無論僕には無理だ。罠である可能性もある訳だから」
「何だか励まされているのかどうか判りません」
「あはは、それは悪かった。しかし、例えばその妖しい薬とやらを買い手に渡す瞬間なんてどうだい」
「成程。買い手が普通の人なら、造作もない事ですね」
「そうだろう。そうなると、後はその買い手が常人である事を願うばかりだ」
「仮にその人も尋常じゃなかったらどうしますか」
「一か八か生きるか死ぬか、藪を突いて出るのは蛇か話の種か、賭けてみるのも人生さ」
「そんな殺生な……」

 そこまで話すと、文は以前と同様に笑って見せた。どうやら光明が差したと見える。霖之助は我ながら彼女を激励するには絶好の言葉だったな、などと自身を評価して満足しながら微笑んだ。やがて瞳に好奇の光を輝かせ、記者然とした風采に戻った文は、漲るやる気を持て余したかの如く立ち上がって、霖之助を見遣るとおどけた風に頭を下げた。

「どうも、暇潰しのつもりが思わぬ助言を頂く結果になりまして、ありがとうございました」
「僕の方こそ、思わぬ暇潰しになった。次の文々。新聞の発行を楽しみにしているよ」
「好い記事を書けるように努力します。それでは」

 鼻唄など唄いながら、上機嫌で文は去って行った。暑い日々が続くので開け放している玄関の先に、黒い羽が舞っている。万が一の事があっても、空を翔ける速さは幻想郷一と豪語する彼女ならば逃げ切れる事であろう。霖之助はそんな安堵を感じながら再び書を手に取る。客人の気配は無く、今日も五月蠅く蝉が鳴いている。霖之助は幾らか上機嫌にその鳴き声を聞きながら、自分も鼻唄の一つでも唄ってみようか、と思って止した。何より性に合わぬし、その上柄にも合わないと来れば唄う必要は無し、よしんばそうしたとて誰かが不意に訪れて来るとも限らない。霖之助はそう考えると、静寂の内に浸りながら、黙々と題名も判らぬ書の項を捲って行くのだった。





三.





 天高く伸びる竹がそこかしこに立ち並ぶ林の中は、網の如く張り巡らされた葉の天井に陽光を遮られて薄暗い。そんな中に巨大な屋敷が佇む様は、酷く不似合いである。その上人気のないその屋敷の裏に、二人の女が話している様は、殊更不気味に見える。二人は何やら商談の最中にするような会話を交わしている。

「全くこんな薬を何の為に使うのだか。想像するだけで怖いわね」

 銀色の髪を結える女はそう云って笑い、透明な瓶を陽光に僅かに差し込む細い陽光に翳して、一寸振って見せる。これもまた中に入る透明な液体が、水音を僅かに奏でていた。

「ちょっと悪戯に使うだけよ。何も誰かを殺す訳じゃないわ」

 そう云って紫は意味深長な笑みを浮かべて、永琳の持つ瓶に目を向ける。光を反射する液体は無暗に輝き、その効用を見た目だけでは悟らせない。万人が水だろうと答えそうな平凡な色をした液体は彼女が期待した通りのものである。紫は如何にも妖しげに唇を歪ませて見せた。

「まあ私にはどうでも好い事ね。売値は先日伝えた通り」
「ありがとう。一応聞いておくけど、効果の程は」
「私が保証するわ。但し、あまり多く服用させない事」
「肝に銘じておきますわ。それじゃ、御機嫌よう」

 二人は品物と金とを交換すると、早々に別れを告げて異なる方向へ歩き出した。永琳は家の中へ引っ込む心積もりのようである。紫も――紫は帰路とは違う道へ進み出した。藪の茂る見通しの悪い、到底道があるとは思われぬ場所である。しかし彼女には進む事に躊躇する気色がない。まるでそこに道があるかの如く、真直ぐに突き進んでいる。

「お行儀の悪い子にはお仕置きが必要かしら。ねえ、逃げ出そうなんて考えない事よ」

 誰にともなく向けた言葉は、微かに藪をがさりと云わせた。それを見て紫の唇は意地悪く歪む。音なき威圧の波が、竹林に静謐をもたらした。すると、観念した風に両手を上げた女が、藪の中より現れる。紫はそれでも表情を変える事なく、顎先を動かして見せて、言外に弁明を要求する。けれども隠れて二人の様子を窺っていたその女に、弁明の余地があるはずもない。ただ一言だけ「申し訳ありません」と云ったばかりである。

「私達のやり取りを盗み見なんかして、一体何を企んでいるの?」

 紫は眼前に立つ女を非難する立場にある者としては、不自然なほど柔らかな声音で問い掛ける。笑みを象る顔は怒りなど微塵も表してはいない。けれどもその女は安心する事など出来なかった。むしろ冷たい汗が背を伝う。喉元に死神の鎌が突き付けられているかの如き緊張感が身を縛る。

「此処の薬師が妖しい薬を開発していると小耳に挟みまして、ちょっと気になったんです」
「へえ、興味深い話ね。一体どんな薬を開発していると聞いたの」
「詳しくは判りません。それと"貴方が受け取った薬"が何なのかも毛頭判りません」

 そう云うと文は紫の眼の奥を覗き込むように見詰める。対する紫は品を定めるかのように文の様子を見詰めている。二人は暫時無言のままに向き合った。竹林に潜む生物が全て息を殺しているかの如く思われる。風の凪いだ晴れの日に、竹林の囁き声が木霊している。文はこんなに長閑な好い日和だというのにも関わらず、自らが極寒の地に裸で佇んでいるかのような心地がした。

「まあ、そういう事ならお気の毒ね。私が受け取ったのはただの風邪薬だから」

 紫はそう云って、文から視線を逸らすと、闇の狭間へと消えて行った。残された文は大きく溜息を吐くと、彼の女の重圧から解放された安心感で、膝が折れてしまう所であった。途端に生命の息吹きが感じられるようになった竹林の中で、彼女は暫く動けぬまま、その場に立ち尽くしていた。





四.





 夏の陽射しに目を眩ませながら、額に滲む汗を拭い、青々と生命力を漲らせる緑葉の如く輝く髪の毛を掻き上げると、早苗は一息を吐いた。手には一冊の書物を持ち、彼女は今に鼻唄でも唄いそうなくらいには嬉しそうな表情で、足取り軽く長き道を延々と歩く。行くは乙女の道である。東風谷早苗は魔法の森の横手にある道を歩んでいる。

 やがて行く先には一軒の建物が見え始めた。所々に老朽化の目立つ、出来の悪い店である。すると早苗は一層足取りを軽くして、意気揚々と歩む足に喜色を伝え、緩む頬をどうかこうか引き締めようと苦労しながら、世の太平を疑う事なく「香霖堂」と書かれた店の玄関の前に立つ。彼女は此処に立って一寸深呼吸をするのが常で、その点に関してはこの店に訪れる者らしくない人間であった。そうして気息を整え、準備は万端とばかりに、戸を二三度叩く。

「御免下さい」

 早苗がそう声をかけると、間もなく中よりがたがたと聞こえて来て、早苗は髪だの衣服だの、乱れはありはしないかとこの時になって慌て始める。これは常々繰り返される早苗の失敗であり、浮足立つ彼女には気付けぬ反省点である。やがて戸ががらりと開け放たれると、穏やかな笑みを象った男が、夏らしくない厚手の着物姿で現れる。

「いらっしゃい。何時も思う事だが、そう気にしなくとも髪も衣服も整っているさ」
「あ、その、今日は風の強い日ですから、どうしても気になって」
「草木が囁くばかりさ。何も大木が薙ぎ倒されるほどの嵐である訳はあるまい」

 男の意地悪な言に、早苗は心持ち赤らんだ頬を微かに膨らませて見せた。女が身嗜みを気にする理由は明白である。それに気付かぬ男は鈍感と称して初めて尋常である。早苗は一度露見した乙女心を隠す事なく男に見せ付ける。

「私、つくづく苦労人だと思います」

 女の言葉に男は首を傾げた。元より女はそれを承知していたので、男に気付かれぬように小さく溜息を吐いたばかりである。そうして男より先に店内へと踏み入ると、お邪魔しますと云い残してさっさと居間へ上がってしまった。男は苦笑するばかりである。千慮の内に一も二も失くしている事には気付いている様子がない。けれども浮き世を達観するかの如き風体は、何もかもに気付いていながら何もしない、賢人のようで愚人のような、酷く曖昧なものである。

「君も随分書に染まったようだ」

 男は女の後に続いて居間へと上がり、そんな事を云った。書に染まるは人である。書が染まるは文字である。天上界には目を遮る物はないが、文字が浮かぶ。地平の霞む砂漠は陽炎が揺らめくばかりであるが、文字が浮かぶ。それが人を介して書となるのである。しかし女にはそんな男の持論を理解した様子はない。

「書に染まるって、何だか不思議な云い回しですね。まるで詩人みたような」
「成程、詩人か。しかし何時も一つ所に留まっている詩人が居るとは思えないな」
「あははは、全くその通りですね。すると詩人と云うよりは――」
「毎日のらりくらりの――まあ、別に怠けものと云われても構わないがね」

 女の言の先を継ぎ、男は冗談めいた笑みを零す。女はそれで笑った。白の袂に隠れる口元が、ふふと音を立てる。この女は素直の女である。信に足りて疑を必要としない実直な女である。男は彼女と居る時は、疑の女と時を共にするよりかは幾らか気楽である。それだから普段なら口にしないような冗談もすらすらと流暢に出て行く。

「でも、書に染まったと云うよりは、まあ染められたと云った方が適当でしょう」
「元を辿れば人の為す結果には違いない。書が勝手に動き出す道理もないだろう」
「それじゃ、やっぱり私は森近さんに染められたんですね」
「そう云うと何だか響が好くない。染められた代りに、恥じらいが些か減ったとみえる」

 それで女は笑い、男は困ったように首を振って見せた。気安い雑談が終わると、次に早苗は持って来た書を卓袱台の上に出す。これは森近さんから借りたもので、早苗は度々彼から書を借りては、それを読み終えると香霖堂に訪れる。そうしてその書の感想をお互いに述べ合っている。早苗にとって、その時間は代替するものがないほど貴重な時間である。森近さんも――森近さんはどうだか判らない。しかし、彼は書の話になると途端に弁舌になる。そして、書の話を交わす相手は早苗以外には居ないのである。

「今回も、また好い本をお勧めして下さって」
「それはどうも、勧めた僕としては嬉しい限りだ」
「馬鹿な私には難しい話ですけど、何というか、読み終えてみると、九寸五分の恋の意味が判ったような気がします」
「奇遇だね。僕もこの小説を読み終えた後には同じ感想を持った。ただ、九寸五分の恋に陥った人は意外だった」
「そうですね。切ないお話なんですけど、作者が世を達観しているかのような――そんな印象を受けます。簡単に云うと捻くれ者、と云うよりは、森近さんみたような人が書いたんでしょうね」
「あははは、確かにその通りかも知れない。元よりそういう類の人でなければ、この作品は書けないだろう。だからと云って、僕にこれが書ける道理はないが。逆に、作者の思いに溢れる小説は、往々にして読み終えてみると恥ずかしくなる。まあ、素直な恥じらいというか、丁度昔の君みたように」

 森近さんはそう云って笑った。早苗は顔を赤くしている。けれども森近さんに云われた事を好く考えてみると、全くその通りである。かつての自分を文にして表してみたらと想像すると、成程恥ずかしい。早苗はそんな事を思いながら、対座する森近さんの姿を上目使いに見遣って、素直なままに恍惚と潤む瞳に映すと、自分も乙女の一人なのだと自覚しない訳には行かなかった。

「確かに、私は九寸五分の恋なんて出来そうにないですけど」
「そんな事はない。誰であれ、自分の喉元に九寸五分の恋が突き付けられている事に、いずれ気付く」
「やっぱり詩人みたようですね」
「ぐうたらな詩人が居るものなら。しかし、僕は書に書いてある事をなぞらえているだけさ」
「例えばどんな事ですか」
「例えば、――僕も九寸五分の恋は紫色だと思う。但し、恋を切ると紫色の血が出るとも、また恋が怒ると紫色に光るとも思わない。恋は人を惑わそうとした時、初めて紫に滲む。そうして初めて九寸五分の恋になる」

 森近さんはそう云って難しい顔をした。素直な早苗には、森近さんの云う所の意味は判らないが、ただ凄そうだとばかり単純な感想を覚えて、へええと感心した。森近さんはそれで構わないとでも云うかの如くいるけれども、やはり顔付は難しい。九寸五分の恋に恐れを抱いているかの如き表情である。――紫は彼の女の名前である。





五.





 夢の内に居る心地である。白き糸に金箔を塗り付けたが如く思われる髪の毛は、背を流れ腰に至り、揺蕩う波の如く揺れている。魔力を秘めたる金色の瞳が動く時、振り返らんとする男は数多なれど、面と向かい対座する男は、我のみは呑まれぬと拒むが如く、さと動く瞳の動きより目を逸らし、つと動く蛇の如き赤き舌に眼を凝らす。ぬらりと光る唾液の広がる様は妖艶なれども、尚抗う男は呻吟するより他になく、その呻きを盗まれまいと足掻く様は、自覚を以て滑稽である。やがて女は舌を引っ込める。口中に戻りし蛇の舌は、瞳の魔力と代わり、男に微醺をもたらし夢の深きへと誘い始める。手に持つ湯呑の熱きに気付き、濃緑の鏡の中に映りし我を見て、男は漸くにして忘我の境より這い出でる。

「何をそんなに難しい顔をしていらっしゃるの」

 夢見の中に響く言の葉は刃となって、幻影を切り裂き浮き世を現した。男は意表を突かれ、「あ」と声を上げてしまう。己の愚かに気付けど、男に「あ」を引っ込める事は出来ぬ。扇子の内側にて、歪む唇の艶めかしい様が、男の脳裏にありありと浮かぶ。女は狡猾である、或いは天邪鬼である。男の「あ」を救済する気は毛頭無い。

「……少し呆けていたようだ。夏の暑さに中てられたかな」
「何を人間みたように。暑いのなら、まずその暑苦しい服をお脱ぎになれば宜しいのではなくって」

 ふふと微笑む女は、男を小馬鹿にして得意である。男は云い返す言葉を持ち得ない。好いようにやられている。疑の女と共に過ごすと、やはり塵労を伴うとみえて、既に男の表情には憔悴が窺える。並みの憔悴ではない。詩人であるが故の憔悴である。紫の名を持つ女は安き心は我に在りとばかり、男を翻弄している。

「君は遊びに来たと云って、結局何もしないで、一体何が面白くて此処に来るんだい」
「貴方が面白いから以外の理由は無いわ。それが不服なら、面白い話の一つでもして差し上げますわ」
「是非に頼もうじゃないか。男女が二人、無為に過ごす事ほど滑稽な有様はあるまい」
「それじゃ夫婦と称されるべき人々は皆滑稽ね。尤も、私には関係のない事だけれど」

 女は再び扇子の内に表情の半分を隠して笑う。そして男が言葉を返すより早く、物語の火蓋を切った。

「清姫というお話を知っているかしら」
「詳しくは知らないが、嫉妬に狂った清姫が、蛇と化し、恋する坊さんを殺したという話だろう」
「ええ、そのお話。この清姫という娘は面白い女性で、会ったばかりの坊さんに夜這を仕掛けたの」

 女はそう云ってけらけらと可笑しそうに笑った。道成寺の鐘の中で焼き殺された安珍を哀れむ気色など微塵も無い。好いた男に裏切られた清姫に同情する気色など毫も無い。男は眼前に座す女が、執念のあまり蛇となり、安珍を追った清姫よりも恐ろしく思われた。

「だけど清姫の意中の人は、そんな清姫を恐れ、お詣りの帰りに必ず立ち寄ると嘘を吐いて逃げてしまう。当然の如く怒り狂った清姫は、安珍を追い求めて裸足のまま家を飛び出し、色々な人の袂に縋っては安珍の行方を尋ね、遂に安珍を見付け出す。けれども、その時の清姫は既に尋常の人ではなく、鬼の如き表情で、あまりの恐怖に安珍は彼女に呪文を唱え、逃げ出してしまう。そうして大きな川を渡って、道成寺という寺の僧に助けを求めると、鐘の中に身を隠してしまった」

 女は尚も楽しそうに話している。男も黙って話を聞いている。静かなる座敷の中で、外より聞こえ来る騒がしい蝉の鳴き声が、赫奕として輝く太陽を恨むが如く、頻りに届く。

「それから清姫は遂に全身を蛇と化し、泳いで川を渡り、道成寺の門を叩きに叩き、安珍の隠れる鐘へと辿り着く。そして鐘に巻き付くと、焔を撒き散らして、鐘ごと安珍を焼き殺す――私からすれば不思議でしかないけれど、本気で他人を好きになると、そんな事が出来るようになるのかしらね。思いの届かぬ不毛さを知って尚、そうするのはやっぱり滑稽だわ」

 話し終えて、女はくつくつと喉を鳴らした。あの仕草がまた男の前に現れる。舌の這う唇がぬらりと光り、男を惑わさんと舌が口中へ引っ込んで行くのを、男は明らかに見た。

「何と評しても、結局は不毛な事だろう。所詮は物語でしかない。僕達の前に清姫が姿を現す事はないんだから」
「あら、私はもっと浪漫的な感想を貰えると思っていたけれど、案外霖之助さんも現実的な人なのね」
「聞き手は語り手によって感想を変えるものだ」
「それじゃ、私は下手な語り手だったのかしら」
「そうとは云ってない。君が現実的な感想を云うから、僕もそれに合わせただけだ」

 女の言動は一々男を弱らせる。男はそれが癪で仕様がない。けれども相手を説き伏せようという気概はなく、またそうする勇気も持ち得ない。語り手が疑の女であればこそ、男の体たらくは致し方のない事である。

「しかし、浪漫的な答えと君は云うが、僕はそれでも、安珍のようにはなりたくないと答えるだろうね」
「ふふふ、霖之助さんにも怖いものがあるなんて、面白い話をするつもりが、却って面白い話を聞いてしまったわ」
「僕とて怖いものはある。むしろこの世の中には怖いものばかりさ。君とて一つぐらいはあるだろう」
「さあ、あるかも知れないけれど、――ちょっと思い付きませんわ」
「どうだか。恐ろしきを隠そうとするのは、臆病の裏返しと云っても、決して間違いではないからね」
「そうすると、私は臆病者なのかしら」
「その可能性も無きにしも非ず――と云いたいところだが、実際考え付かないな」

 そうして二人は笑った。すると刹那の間に蝉の鳴き声が消え失せる。夏の熱き陽射しが降り注ぐ中、香霖堂には冷ややかな風が流れ込み、異様な変化の中で、男は居住いを正した。何だか妙な心持ちがする。厭な心持ちとは行かぬ、ただ女の穏やかに見える様子と、外界との差異が妙とだけ思わせている。

 愛情の対極にあるは憎悪である。清姫は愛を成し憎と転じた愛憎の権化である。蒼天を染める赤き焔の黒々と変わる時、道成寺より響く憐れなる叫びの鐘の音は、憎きに溺れ、愛しきに塗れるものの怨恨を幾らか和らげど、微かな灰となりし安珍の無念は想像に易い。なれば女の問いは安珍の遺した言である。清姫の叫んだ言である。女の口を割って出でる赤き舌の悍ましいのは、それが縁由なればこそである。

「……例えば仮に、霖之助さんが安珍だったら、どうするのかしら」

 男は黙す。清姫の赤き舌が逼迫する。鐘の内に蔓延る闇が視界を閉ざす。夏の日は高く大地を焦がせど、天下に座す男の心持ちは薄ら寒い。太平を疑わぬは信の女である。太平が元より脆いものと心得ているのは疑の女である。男はそのどちらとも付かぬ。ただ世の流れに身を任せ、身に迫る流木を避けるのが男の処世術なのである。

「御免下さい」

 その時、二三度香霖堂の戸を叩く者が居た。立て付けの悪い玄関の戸は、叩かれる度にがんがんと騒がしい音を立てる。男はあなやと我に返り、女は袂より取り出した瓶を戻す。現世に蝉の鳴き声が舞い戻り、夢見に陥る男が目覚めし所は、例の如くある居間の中、遊びと称して遣って来た女の対面である。

「どうやら客人のようだ。話は後にしよう」

 男はそう云って席を立った。女は「ええ」と答えたばかりである。新たな客人は未だがんがんと戸を鳴らしている。応対に出た男の前に姿を現したのは素直の女である。

「こんにちは。今日は私が森近さんに本をお勧めしようと思いまして」
「それは珍しい。別の客も居るが、好かったら上がって行くと好いよ」
「別の客? どなたかいらしてるんですか」

 男は居間を顎先で示す。そこには扇子を片手に、自身を扇いでいる女の姿があった。早苗は図らずも顔を顰めた。霊夢や魔理沙ならばいざ知らず、そこに居るのは紫である。早苗とは似ても似付かぬ、全く対極の位置に分類されるべき女である。

「それじゃ、失礼しても好いですか」

 早苗は以前と比べて幾らか強くなった。ただその強さは意地から来るものである。この時も早苗には深い思索から生まれた打算があった訳でもなく、ただ素直なままに尋ねただけで、そこに悪意は毛頭ない。霖之助もそれを知っているからこそ、早苗の言葉を案外に思った。けれども、この時ばかりは早苗の強さに感謝しない訳には行かなかった。

「こんにちは」

 二人が居間に差し掛かると、紫が笑みを湛えながら早苗に云った。扇子を片手に持ちながら、横目に早苗を捉えるその姿は、やはり底知れぬ思惟に満ちていて、早苗の考えの及ばぬ領域のように思われる。霖之助とて同様である。紫の考えを見通す事は、天上界に鏤められた星の数を叶える事よりも尚難しい。

「……こんにちは」

 挨拶を交わして、三人は一つ所に集まった。紫はそれを厭う素振りさえ見せぬ。だからと云って流暢に喋り出す訳でもなく、ただ扇子で自身を扇ぐばかりである。霖之助は早苗が持って来たという書に興味を示している。一寸見せてくれと云って、早苗から書を受け取った。表紙の文字は手書きで書かれ、紙は新しく書の題名を陽射しの下に明らかに浮かび上がらせる。霖之助は一瞬渋い顔をした。しかし、幸いな事に早苗がその一瞬の変化を目にする事はなかった。

「八坂様がお話してくれた話を、私が文章にして纏めたんです。森近さんも知っていると思いますけど、もしかしたら具体的な内容は知らないと思って、――清姫という話なんですが」

 早苗は楽しそうにそれを話した。霖之助は「あらすじは知っている」とだけ答え、詳細は知らないと云った。そうしてちらと紫の様子を窺った。そこには赤き舌がある。唇を端から端へ伝う艶めかしい動作がある。意地悪く歪められた唇の意を悟らぬはずがない。霖之助の眼光は自然と鋭くなった。

「どうかしましたか?」
「いや、何でもない。早速読ませて貰っても好いかい」
「はい、勿論」

 早苗は感情に従って満面の笑みで答える。霖之助は尖った眼光を丸めねばならぬ。

「それじゃ、私はそろそろ失礼しますわ。お二人の邪魔をする訳にも行かないし」

 紫はわざとらしい口調でそう云って立ち上がる。霖之助は一寸紫を見遣ったばかりである。早苗は元より何を云うべきか心得ていない。ただ紫と霖之助のやり取りに目を丸くして、一抹の不安を覚えた。そうしてそれが、八の字を描く眉に表れてしまうのを必死に隠そうとする。が、そんな時にも平生を取り繕わなければならないので、それを見る霖之助の眼には、殊更可笑しく映った。その内霖之助の視線に感付いたとみえて、えへへと恥ずかしげに笑いながら「風が」と云い掛ける。男は「今日は風が凪いでいて、殊更暑いね」と続ける。

「意地悪なら止して下さい……」

 語尾を小さくさせながらはにかんだ早苗を見て、霖之助はあははと笑った。が、その笑みの底には気持ち悪い感じがある。紫の謀略が此処に働いているのだと思うと、尚更厭である。霖之助は努めて平生を装い、手作りの書面に目を通し始めた。先刻耳にした内容が目の内に飛び込んで来る。その度に厭な心持ちは膨れ上がるばかりであった。





六.





 大いなる神の懐に至るまで一塵の隔たりもなく、大海に浮かぶ船の白帆の如き雲が悠然と流れている。飄々として信もなく疑もなく、ただ青く澄み渡った蒼穹の、燦々たる太陽の恩寵を受けながら、紅白の巫女が降り立った。広き懐に収めるは我のみと、傲り高ぶる気色もなきままに、堂々たる巫女は言外に語る。神の懐に入るには畏れ多いと一方の巫女は言外に語る。二人は人里から帰って来た所である。

「しかし、物好きが高じてこうまでなるとはね」

 霊夢は境内の内に降り立つと、手荷物を提げて母屋に向かう。早苗はその後ろを追いながら、心外なと云わんばかりに刻み足で霊夢の隣に並ぶと「物好きな訳じゃないです」と云った。霊夢はからからと笑っている。

「まあ、私は何も云わないわよ。他人の恋路を邪魔する者は、馬に蹴られて何とやら――って云うしね」
「何だかそう云われると、馬鹿にされているみたいです」
「応援してるのよ」
「本当ですか?」
「本当」

 霊夢はそんな事を云って、一寸早苗を顧みると、彼女をからかうかの如く片頬に笑みを浮かべ、逃げるように母屋の方へ走り出す。早苗は彼女なりの激励なのだろう程度に考えて、彼女の後を追って歩く。

 やがて二人は居間に落ち着いた。蝉時雨は喧しく思われるが、時節の趣を凝らしている。それを楽しむ事の出来る早苗の心境は穏やかである。書見という趣味が高じて見聞の広がった結果であろうが、彼女の心境はそういう小難しい理屈を抜きにして存在している。対して霊夢は煩わしい様子で、頻りに蝉が五月蠅いと愚痴を零している。早苗もその度に耳を凝らすと、また違った風流を感じられますよと宥めているが、彼女には一向にその効果が窺えなかった。

「しかしまあ、こんな暑い日に惚気話を聞かされると、ますます暑くなるようだわ」
「惚気話なんて――そんな事はないんですけど」

 わざとらしくうんざりした風を装って、霊夢は早苗の淹れた茶を喉に通す。早苗はそんな霊夢の言葉に頬を赤らめつつ、年頃の羞恥を、じわりと肌に浸透して来るような夏の暑さの中に滲ませる。霊夢にはそれが面白いようで、幾らか畏まる早苗を見ては、あははと笑っている。

「もう、からかわないで下さいよ。大体霊夢さんは――」
「はいはい、判ったから。わざわざ説教をしに来た訳じゃなし、何か聞きたい事でもあるんじゃないの」

 そう云われると、早苗には元より云い返す言葉がない。話頭に上がり掛けた説教を押し込めて、彼女は幾らか云い難そうに俯いた。案外にもその様が深刻に見えたので、霊夢は怪訝な眼差しを向けている。そうして散々逡巡した後、早苗は漸くにして口火を切った。

「あの、八雲さんの事についてちょっと尋ねたい事があって」
「紫の事? 何でまた、あんたがあいつの事を」
「いえ、少し気になる事があるんです。一人で考えても埒が明かないから、霊夢さんに聞いてみようと思ったんです」
「そういう事なら聞いてあげるけど、私だって紫の事は判らないわよ」

 霊夢の意外な返答に、早苗は思わず「え?」と口にした。

「お二人は異変の解決の為に協力した事もあると聞きましたが……」
「協力したからって、お互いの事を知った訳じゃないわ。あの時は、たまたま利害が一致しただけよ」
「でも付き合いも長いんじゃないですか?」
「それもどうだか。大体、紫は誰に対しても自分の胸の内なんか打ち明けやしないから」
「そうなんですか。……何だか、私が思っていた通りの方なんですね」

 早苗はそう云って、一人得心したように頷いた。

「多分、あいつと知り合った奴で、同じ事を聞いたら口を揃えて云うわよ。"胡散臭い奴"って」
「あははは、きっと私達じゃ考え付かない事を考えているんでしょうね」
「大方誰かをからかって遊んでやろうか、企んでるのよ
「霊夢さんはあるんですか、からかわれた事」
「そりゃあるわよ。それこそ退治してやろうと思うくらいには」

 嘆息混じりに云う霊夢を見て、早苗は苦笑する。そうして大よそ予想通りだったと思った。あの誰よりも飄然としている紫の、底知れぬ笑みを知っている者がいるなどと聞いても、きっと信じられないに違いない。他者の考えの及ばぬ領域に紫は居る。それは誰彼も踏み込む事の出来ぬ領域である。早苗は好き好んでその領域に足を踏み入れたいと思わなかった。それどころか、空恐ろしくて近寄れもしないだろうとさえ思われた。

「まあ、何をされても気にしない事ね気にしたって仕様がないから」
「好く自分に云い聞かせておきます」

 そうして二人の紫に関する談義は終わった。後は取り留めのない雑談に花を咲かせるばかりである。早苗と霊夢はそういう平穏な時間を好んでいる。霊夢は元より、早苗とて進んで波乱の中に飛び込みたいとは思わない。

 しかし、それが既に誤りである事を早苗は知らずにいる。彼女は既に波乱の中に居る。飛び込む前に、波乱は足元を洗い始めている。その事に気付かぬ早苗は、何の覚悟もなしに事件の只中に立たねばならぬ。人を惑わそうと、恋は紫色に滲み始めた。九寸五分の恋は、何時か男が口にしたように、早苗の喉元に近付いている。

 ――色相世界の崩れる時、人は吃驚して空を見上げる。空は晴れていようと曇っていようと、雨を降らせようと雪を降らせようと、空である。空のみは崩れる時がない。安きを与え、太平を悟らすのが空である。故に人は空を好む。絵画に描き、文字にして、偽りの空を創り出す。しかし黄昏時の空は尋常ではない紫である。そうして世の曖昧はことごとく紫である。紫が空に広がる時、人は初めて色相世界に疑を持ち出すのである。

 ふと早苗は外を見た。晴れ渡る空よりぽつりと落ちる雫が一滴、地面を穿つ音が聞こえた心持ちがした。早苗は「狐の嫁入り」と小さく声に出す。次いで霊夢も外を見る。一滴は瞬く間に二滴となり、三滴と続いては無限に帰着する。誰かが「雨ね」と云った。

 現実とは突拍子のないものである。一秒先の未来も判らない。





七.





 海と例えるばかりでは飽き足らぬ。万物の根源たる色が黒ならば、夜空を映す海もまた、生命の根源とされて間違いない。天上界は宵闇に染まり、数億年彼方の――数兆年彼方の――数京年彼方の光が、太陽の寵愛を受けて天下に眩く降り注ぐ。詩人に届かねば無為に成り果てる悲しき光の一抹を受けるは、詩人と称され詩人でない男の怜悧な眼差しである。眼孔深くに死生の光は浸透し、男は何処かで瞬く妖星を忌み、またその光を浴びる己を忌み、己を欺く疑を忌み、果てに己が過去の書を忌み嫌う。そうして物語る我を忌むのである。――霖之助は原初の海の下に佇んでいる。

「こんばんは」

 湯浴みに火照る身体を冷ましていた霖之助の前に、紫は姿を現した。鈴虫の頻りに鳴く傍らで、弧を描く唇の艶めかしい様が、昼間より殊更艶めかしく映る。しかし、霖之助は諦念の気息を盛大に吐き出すばかりである。

「君の非常識には慣れたつもりだが、せめて玄関を通して来たらどうだい」
「だって足が付くでしょう」
「足が付いて困る心積もりなら、帰って頂きたいものだね」
「足が付いても何ら困りはしないけど――兎も角ご一緒しても宜しくて?」
「好きにするが好いさ。何と云われても帰らないのは承知している」

 霖之助はそう云うと濡れた銀の髪の毛をがしがしと掻く。それが余りに激しいので、乾き切らぬ水滴が二三粒飛ぶ。紫は満足げに微笑んだ。夏の暑き日々に何度も見た笑みである。しかし然るべき場面でない。霖之助はその笑みから自分を馬鹿にする響きを感じ取らなかった。故に妙に思われる。紫色が色濃くなる。

「好い夜ね」
「一人眺める夜も、案外に好いものだったが」
「皮肉のおつもり? だとしたら――」

 二人の言はことごとく気紛れからの所作である。何と思索する暇もない。思い浮かんだ姿形がそのままに現れたようである。けれども次ぐ言葉を切った紫の意中は定かでない。元より定める事も出来ぬ。気紛れなのは男ばかりで、女の胸の内にはどんな策略が組み立てられているのか判然としない。

「だとしたら、何だい」
「やっぱりどうもしませんわ」
「釈然としないね」
「それで結構、明々と開かすのは性分じゃないの」

 霖之助の瞳は右に揺れ、左に揺れ、真中に戻ろうかと迷い、左に落ち着く。霖之助の左隣には紫が座っている。扇子を広げ、口元を隠し、好い夜ねと云ったものの空を見上げてはいない。また条々と煙る緑も映してはいない。世界を映していない。幻想を捉えている。霖之助はそんな事を考えて、夏の夜の、案外に冷たき風に身震いした。

「しかし、こんな夜に手土産も無しとは」
「お望みならば、すぐにでも用意するわ」
「じゃあ酒の一つでもお願いしようか。何だか今夜は酔いたい気分だから」
「珍しいのね。お相手は私で好いの」
「他に誰かが居る訳じゃないだろう。無論一人酒でも構わないが」

 紫は小さく笑った。そうして闇の狭間に手を突っ込んで、何かを探している。

「こんな物しかないけれど」
「充分だ。これとて上等な酒じゃないか」

 闇より引き抜いた手には酒瓶がある。何でも蓬莱泉という酒らしい。隣で紫が幻の名酒なのよと話している。霖之助はへえと云っている。何時の間にか二つの猪口が、縁側の板の上に並んでいる。そうして酒の注がれた中に、月がそれぞれ浮かんでいる。

「それじゃ、特に目出度い事も無いけれど、敢えて云うならこの夜に。――乾杯」
「それだと何だか詩的なようだ。――乾杯」

 二人は手に持った猪口を掲げて、互いに乾杯を口にすると、酒を喉に通す。湯浴みに火照った肌の冷える頃、熱き酒が肺腑に染みる。霖之助は一気に猪口の中身を飲み干すと、ほうと熱き息を吐き出した。三つの月は二つになる。

「全然詩的でもないわ。本当に、目出度い事でもないから、敢えてと付け加えたのよ」
「何だか判然としないな。目出度くはなくとも、何かあるような口振りじゃないか」
「だって、何か起こりそうな夜ですもの」
「まあ何だって構わないが、君は飲まないのかい」
「そうね、飲もうかしら。これじゃ不公平なようだから」
「何も不公平じゃないだろう。妙な事を云う」

 霖之助はそう云って眉を顰めた。紫は妖しい笑みを浮かべている。霖之助の知らぬ笑みである。他人を馬鹿にするとも、他人を陥れるとも付かぬ。けれども何だか厭な感じの笑みである。霖之助はもう一杯とばかり猪口に酒を注ぎ、一思いに飲み干す。月は未だに二つのままである。増えず、減らず、紫の猪口からは月が消えぬ。

「随分上等な酒だ。加えて強い。何だか頭が覚束なくなって来た」
「酩酊するには、まだ早いんじゃなくって」
「覚束なくなったものは仕方がない」

 段々視界が朧になって来る。月光が漫然と広がり、微茫たる白の靄を拡散させている。霖之助はふわふわした心地になって、一寸左を見遣った。紫は空を見ず、条々と煙る緑を見ず、世界を見ず、幻想を見ず、霖之助を見る。扇子がぱちんと閉じられる。唇を這う赤き舌が、靄の中で明らかに映る。紫色が濃くなる。模糊たる意識に九寸五分の恋が過る。

「ねえ、何時か話した事を覚えているかしら。――親切と愛想の違い、乙女の恋、酷い人と云った事。面白い人と云った事。まるで昨日の事のようだわ」
「覚えているが――それが――どうかしたかい」
「我ながら、本当に回りくどい事をしたと思うわ。その気になれば、造作もない事なのに」

 紫は心持ち霖之助との距離を詰める。二人の間には一寸ばかりの隔たりを残しているのみである。すると、夜気を孕む冷たき指先が、霖之助の頬を滑る。首筋を撫でる。赤き舌が視界の中でぬらりと蠢く。そうして気付けば居間の中に居る。全き天の、巨人の宝石箱は、途端に薄汚い天井に変わる。静謐なる夜の中、男と女の息遣いばかりが明瞭である。

「何か、盛ったろう」

 霖之助は朦朧たる意識の中でそう尋ねた。紫はそれを肯ずるが如く微笑したばかりである。

「何を盛られたか、気付いていない訳じゃないでしょう」

 紫はそう云って、血が通っていないと思われるほど青白き手の平を、霖之助の頬に宛がう。男の身体に流れる血潮は、ことごとく沸騰している。物凄い勢いで管を血流が駆け抜けている。しかし意識だけは途絶える事がない。頭の中に棲む理性と本能の内、理性のみが眠らされている。本能と命名されし獣は後先を考えぬ。男は獣である。しかし手足を捥がれている。獲物を見付けど何も出来ぬ。腹が減り、背と腹がくっ付くかの如くなろうと、動く事が出来ぬ。獣は生きながらにして殺されている。しかし確かに死んではいない。ただ近付く獲物を噛み殺そうと光る白い牙だけが、己が苦渋を、己が欲望を表するが如く、鋭く尖っている。

 居間に横臥する男の上を、紫が支配する。視界には黄金を織り込めた糸が揺らめいて、鼻先を擽る。すと伸びる鼻梁の下に、鼠を見付けた蛇の、ちらちらと動く赤い舌が錯落と映る。雪で作った白粉に覆われたが如く思われる五指の繋がる手の先に、細くしなやかな手首がある、肘がある、肩がある、身体がある。身体からは香草を絞った汁の、甘やかなる匂いがしている。女の両手は男の両頬を挟み込み、近付く顔の、金色の瞳が炯炯と光る中に、陶然たる男の顔が情けなく映っている。

「――」

 声帯を失った男には、自らの意思を伝える術がない。しかし、元よりその意思は判然とせず、元来あった意思の消え去る中に、新たなる意思が芽生え、成長し始めた。男は明らかにそれを自覚する。故に自ずからなる意思を絶ち切らんと、抵抗を試みる。が、象の行く手を蟻が阻む事の出来る道理はない。象は気にせず前へ行く。蟻の成す行列を乱し、数多の蟻を踏み潰し、我の行く手に邪魔は無しと、ただ己が進みたい方向へと歩く。ただ現実と違うのは、象が蟻に関心を持っている事のみである。

 欲に溺れ、淫楽の世に身を投げ出すのは愚者である。けれども、極楽を騙られ淫楽の世に堕とされる者とて愚者に変わりはない。賢者は初めから全てを知っている。初めから全てを知っているから、他人と関わる事がない。しかし、始点のないものは始まらぬ。故に賢者は元より存在する事がない。またいざ賢者にならんと望む者も、この世には居らぬ。霖之助はそんな事を考えている者である。すると彼を詩人と評した誰某の言葉は、間違いではないようである。

 淫楽の世には淫風が吹き荒び、酔狂なる者共の集まる遊郭に溢れている。秩序なき酒池肉林の世界では、ただ快楽だけが追究される。また快楽が人の最も望むものである。淫楽の世の人々は一様に、黒々として禍々しい毛皮を身に纏い、欲を求める者共の眼は黄色く色付き光っている。そして快楽に沈み、溺れて死んだ者から獣と化して行く。その獣が誰彼をも喰らわんと欲し、口の周りを赤く染め、荒廃した大地を闊歩しているのが、淫楽の世の放埒なる有様である。

「夏の夜の夢だと思って頂戴。恨まれるのは結構だけれど、忘れられるのは……」

 云いかけた言を切り、紫は笑った。差し出がましい口を聞いた後は気まずくなる。紫はそれ以上何も云わなかった。快楽の土石流に押し流される男は、泥に濁った水の中で何をも見れぬ。ただ身を叩く石の痛さのみが鮮明に感じられる。淫楽の世の痛さとは快楽の事である。獣に喰われし者は、快楽の中で死に至る。

 静かの世には色が無い。二人の様は黒白で描かれた絵画のようである。滾る情欲の熱に浮かされて、男は熱き呼気を吐き、力の入らぬ手の先に、畳を捉えて爪を立てる。忍従の証左か、快楽に溺れし者の理性の堰か、どちらとも付かぬが、確かに苦しんでいる。

 女は悦び喘ぐ。天と地の、決して接する事のない世の理を解き、天蓋の落ちる世の崩壊の音を聞く。落ちる天蓋は黄昏時の紫に染まり、昼夜の潰える世の先に、離愁を想い憂う様は美しい。朧なる視界が判然としていれば、堅牢なる檻の中に閉じ込めた男の心は、ひらりと現世に現れたやも知れぬ。しかし、もしもと続く話ほど不毛なものはあるまい。二人はただ溺れるばかりである。詩人である男は、この様を閑花素琴なる春を打ち壊せし冬の猛吹雪の如くと思う。疑の女と評されし女は夏の夜の夢幻の如くと思い、思われたいと願う。信と評されし女は今宵の事件を知らぬ。

 疑が信に成り変わる様を男は知らぬ。女の「だとしたら」と「忘れられるのは……」に続く同じ解を推測する事も出来ぬ。男の見る色相世界は滲む紫に覆い隠された。九寸五分の恋は顕現を成す。眇然たる幻の明らかになる時、初めて女の心中を窺い知る事が、星月夜を数える事よりも容易になる。それを男が悟らぬは女の責に他ならない。恋々たる思いに喰われし者の愚かは、輪廻を渡り何遍と繰り返された愚行であるけれども、虎口に近付きたくなるは人の性である。近付き過ぎれば虎の牙を拝見する事になる。賢者がそれを知らぬ訳はない。作者は先刻、賢者は元より存在する事がないと説いた。なれば至極簡単な道理であろう。――やがて、果てた二人の世界は闇に鎖される。
































「……ごめんなさい」

 残された言は大空裏に届く壁を築き上げた。
 足がかりのない大理石の、氷面の如き壁である。
 男はこれを登る術を持たぬ。打ち壊す術など尚持たぬ。通り抜ける術など元より存在しない。
 遥々と見せ掛け近くにあった道の先が、今はない。……





八.





 清姫を読み終えた男は、虚ろな眼差しで安楽椅子に腰掛けている。夢の淵から這い上がった頭は、元来の意味を成さぬ。男はただ薄ぼんやりと香霖堂の店内を見渡しながら、浮かんでは泡の如く消えて行く思考を続けている。初秋に差し掛かろうという時節に、差し込む薄暮の光は、男の銀の髪を赤く染め、殊更危なげな様相を呈している。眼鏡に映る浮き世の光景に、男は眼を向けていながら何をも見ない。男は夢から目覚めて尚、夢見の中に居る。

「御免下さい」

 そうして香霖堂には客人が訪れる。霖之助はただ玄関の方を見遣り、入って来た人影を相変わらずぼんやりと眺めるのみである。入って来た新聞記者は、自慢の翼を畳みながら霖之助の下へと歩む。

「いやはや、とんでもない目に遭いまして。やっぱり何か出そうな藪を突くものじゃないですね」

 文はそう云って苦笑する。溜まった塵労が窺える笑みである。

「どうかしたのかい」

 男はそう答える。しかし文の言葉に興味を寄せた風ではない。ただ目の前に現れた謎を、無意識の内に解明しようとする。けれども謎が解明出来たとて、何が変わる訳でもないのは、既に自ずから自覚している事である。

「いえ、貴方の云う一か八かに賭けてみたつもりなのですけれど、やっぱり藪を突いて出たのは蛇でした。全く大変な目に遭いましたよ。人間――私は妖怪ですけど、やっぱり邪な気持ちで何かをしても、それなりの代償があると痛感させられました。先日お話しましたが、現れたのは規格外の方でしたよ」

 はあ、と一息吐いて、文は目に見えて疲れた風に云う。霖之助は先日文と会った時の事を朧げに思い出したばかりである。そう云えば文の云っている事を話したような心持ちもする。が、元より夢の中に居る者は、全てを茫洋と捉えるのみである。霖之助にはこの瞬間の出来事ですら、幻の如く思われる。

「一体誰が出て来たのだか」
「何だか今の私じゃ、名前を出すのも憚られるんですが――例の薬の買い手は、あの妖怪の賢者様でして」
「はははは。それは一番厄介な者が出て来たね」
「ええ、そりゃもう。隠れていた所を易々と見付けられて、あの時は死ぬかと思いました」

 男の笑い声は浮き世に疲れ、隠遁を考え始めた者の如く乾いている。目ざとい文は、少し変だなと思う。しかしそれを指摘されるのは、男の最も厭う事である。が、文がそれを理由に指摘を避ける理由は無い。

「何だか憔悴しているように見えますが、何かあったんですか」

 男は初めて夢心地でない反応をする。途端に虚ろな瞳は生気を帯びて、しかし平生よりは幾らか鋭く文に向く。怜悧な眼差しの鋭くなる時、男の視線は誰彼をも貫こうと睥睨する。口は多くを語らぬが、彼の場合は仕草が多くを語る。記者である文に何かを感付かれたなら、それは男の失敗に他ならない。

「別に何も無いさ」
「そうですか。以前と比べると、随分尋常と懸け離れているように……」
「何も無い。香霖堂は相も変わらず閑古鳥が鳴くばかりだ」

 文の言句を無理矢理叩き切るのは、男の犯した一番大きな失敗である。厭でも現実は彼の言を受けて進む。天狗は怪訝な眼差しで男を覗き見る。鋭き眼差しの中には確かな怒りの色が窺える。男の領域に踏み込もうか、踏み込むまいか、此処で文には迷いが生じる。けれども爆発するまいと思っていた爆弾が爆発するのは恐ろしい。文は一寸考えた後、不安定な爆弾から離れる事を選んだ。男は何時爆発するとも知れぬ、剣呑な不発弾である。

「何だか私が訪れるにはあまり時間が好くないようですね」
「何故」
「何故って、自覚していないのでしたら、尚好くない」

 男の何故は、何時かの「あ」と同等の失態である。愚行に愚行を重ね、自棄を起こすのは最も愚かな事である。それを男が知らぬはずがなかったが、普段の冷静さから程遠い所に居る彼に、それを悟るのは難しい。目に見えない物を見ろと命令されるのと同じくらい無茶である。だからこそ、彼は自らの内に揺らめく青き怒りの灯火に気付かぬまま、ただ苛々とした心持ちを文にぶつけている。

「何があったのかは存じませんが、八つ当たりは勘弁なので、今日は失礼します」

 そうして文は、霖之助の返事を聞く間もなく香霖堂を出て行く。霖之助は一人、愚かな己を恨む。東西南北に渡って散らばった割符の破片が揃おうとしているにも関わらず、最も重要な破片が見付からぬ。霖之助の集める破片は、全てが揃って紫の字を成す割符である。しかし、最後の一つは疑の女が握っている。決して手放さないよう、厳重なる封を施している。男はそれを知らぬ。知らぬからにはどうする事も出来ぬ。が、霖之助に夏の夜の夢を夢として終わらせる気は毫もない。だからこそ、曖昧模糊たる記憶の情景に、苛まれ続けているのである。

「ああ、全く、やっていられないな」

 男はそう零した。知らぬ内に自身へと向けた、嘲りの言である。





九.





 この物語の内にある世界を数えた時、三つに留まるが最も適当であろう。
 一つは妖怪の山の頂きの、神の社にある。何よりも尊い夢を胸に抱き、桜花爛漫たる春の中に、青の色彩を滲ませ、第一義の元に動いているのが、信の女の世界である。第一義には二人を於いて他には何もない。ただ時折紫色が世界に滲む。第一義が危うくなる。信の女はこの現象を最も厭い、最も恐れている。紫色が判然とこの世界に躍り出る時、作者は信の女を憐れと思う。

 また一つは鬱蒼と草木の茂る、暗澹たる森の界隈にある。疑心に暗鬼が付け込んで、知らぬ間に暗き穴の底へと誘い、やがて紫色に覆い隠された空の元に現れる、色即是空を真理と定めたる夏の夜が、愚かなる男の世界である。この世界の第一義は酷く曖昧である。全てに輪郭がなく、物事を判然と映すのを拒んでいる。ただことごとくが紫色に染まっている。苦尽甘来の来る未来は、遥か遠くの妖怪の山の頂きにある。故に作者は、この男を既に憐れんでいる。

 最後の一つは何処にあるのだかまるで判らない。ただ時折、他の世界に介入して来るのがこの世界の在り方である。紫色はこの世界である。またこの世界が紫色である。畢竟この世界は紫で構成されている。紫色の世界には靡かぬ者がない。皆が紫色に靡き、惹かれ、堕とされて、天からは愚者の煩悶が降る。しかし、一人だけは天より堕ちぬ。この世界では堕ちぬ者を何より厭う。天に縋り付く者を叩き落してやりたくなる。作者には疑の女を憐れむべきかどうか判らない。

 りんと鳴る清浄なる世の音に耳を傾けしは我である。行く男の背に憐憫の送り火を託すが我である。賢人を騙り愚を語るは我である。りんと鳴る澄んだ音色を知る由なく動くのが、三つの世界である。我はこの世界の行く末を知らぬ。また予想する事も出来ぬ。が、冒頭に示した我の言が真理なれば、逢着の場所を知らぬ我は幸せかも知れぬ。しかし、我は逢着の場所を描かねばならぬ事を何より不幸と思う。のみならず、描かねばならぬ使命を呪う。この物語は、此処で終わって初めて幸せである。が、吹き荒れる風に翻弄されし過去の世の、結末を気にする一人が我であるならば、此処にそれを描かぬ道理はない。故に苦渋の決断を迫られた我の、歯を食い縛る忍従の音を、此処に記す事を赦されたく思う。が、それでも尚、我はこの段落を蛇足と思って疑わない。

 三つの世界には同様に九寸五分の恋が現れた。十寸に至らぬ剣呑なる恋の切先が、それぞれの世界にその面を見せている。信の女は夢を胸に抱き、妖怪の山を下る。愚かなる男は何処に行かんとしているのか判らない。疑の女も――疑の女は、ただ一人誰にも知られぬ場所で、文を書いている。やがて、香霖堂の扉を叩く者が現れる。


「御免下さい」

 例の如く控えめな声量で、早苗は玄関の戸を叩きつつ云った。勝手に入らぬは香霖堂の客に非ず故、早苗は霖之助に逢う為にこの戸を叩く。二つの世界は此処に交わる。男の世界を染める紫色が、何時出るとも知れぬ。

「ああ、君か。前に貸した書でも返して貰いに来たのかい」
「それもありますが……」

 顎先を咽喉に向けて引っ込めて、早苗は上目使いに霖之助を見遣る。先日早苗の元に天狗が訪れた。その時に、早苗は霖之助の様子が何やらおかしいと耳にした。目の前に立つ霖之助は、成程様子がおかしいと見える。

「まあ、取り敢えず上がって行くと好い。立ち話も疲れるだろうから」
「あ、じゃあ、お邪魔します」

 霖之助の言葉は、早苗を労るものの類ではないように思われた。疲れているのは霖之助である。早苗は心の内にそう思うと同時に、小さな胸に芽生えた一抹の不安が、急に重量を増した心持ちがした。九寸五分の恋が、ひらりと脳裏を掠めて去る。霖之助の後ろ姿を見れば、その背中が酷く憐れに思われる。早苗は二三度頭を振った。緑の髪の毛が左右に揺れる。霖之助は後ろを振り返る兆しも見せぬ。二人の間に「風が」のやり取りは出て来ない。

「森近さん」

 居間の卓袱台を挟み、向かい合って座ると、早苗は霖之助の名を呼ぶ。霖之助は目を早苗に向けたばかりである。

「何かあったんですか」

 早苗は素直な女である。気にした事を上手く隠す術を持たぬから、思った事をそのまま口にする事が出来る。それが疑の女にすら成し得ぬ荒業である事には毛頭気が付く気色がない。ただ霖之助は気付いたようである。真率なる早苗の眼を見詰め、霖之助は云い難そうに眉を顰める。卓袱台の上に置かれた清姫の表紙が、無意味に目の中に入る。霖之助は黙すより他になかった。「何か」を問われても、霖之助の身に起こった「何か」を説明する事は出来ぬ。

「……教えて下さらないんですね」

 早苗の素直は攻撃的になる。霖之助は心の内に焦燥を感ずる。早く早苗の矢を防ぐ盾を持たねば、大変な目に遭う予感がする。吹き荒れる風が再び彼の身に吹く心持ちがした。早苗は続く矢を放たんと口を開こうとする。霖之助は努めて先手を打たねばならぬ。

「何も無いよ。本当に」

 霖之助の言は実体を持たぬ。根拠のない説明は相手に不信を与えるばかりである。故に盾は盾の意を成さぬ。

「本当にって……」
「何だい」
「私から見ると、どう考えても尋常の様子とは見受けられません」
「当人である僕が何も無いと云ってるんだから、何も無いと思って差し支えはないじゃないか」
「でも……」

 早苗は一寸躊躇った。彼方の夢と消えつつある「でも」が、再び出て来る。

「森近さん」

 「でも」に続く言葉は遂に早苗の口中にて消え果てる。直前の言を打ち消して、早苗は再び霖之助の名を呼ぶ。物憂げに細められる瞳が、不思議そうに丸くなる。早苗は下唇を噛んだ。云わんとして云えぬは早苗の不手際である。またそれを隠せぬは不手際を超えて失態となる。早苗はつんと熱くなる鼻の奥に気付かぬ振りをする。

「何だか今日は、様子がおかしいね。何かあったかい」

 放ったはずの矢は、的に中らず、巡り巡って早苗の元に射返される。素直の女は盾を持たぬ。返された矢を甘んじて受けるより他にない。けれども、その矢が痛痒を与えるか与えぬかの境目は、霖之助によって左右される。そうして早苗の放った矢に痛痒を感じなかったからには、早苗の心持ちは自然と寂しくなる。

「いえ、私には何も……」

 頭頂より流れる髪を、肩の上に掛け、胸元に流し、蛇を模す髪留めにて纏める一つの束を、早苗は指先で弄ぶ。霖之助は早苗の苦悩を知らぬ。或いは知らぬ風を装っている。早苗は前に出るより他にない。

「八雲さんと、何かあったんでしょう」

 此処で初めて、霖之助の表情には判然と動揺が映る。早苗は当然の如く、平生を装う男の顔が、明らかに揺れ動く様を眼にしてしまった。信の女の世界には紫色が躍り出る。憐れな早苗は、己が運命を呪わぬ訳には行かぬ。胸の内に、己にさえ気付かれぬよう封を施し錠を掛け、閉じ込めた疑念の塊は、遂に幽閉されるを拒み、早苗の小さな胸の中から飛び出でる。

 尊い夢を抱きし女は、遅疑を捨て、太平なる過去に吝嗇なる思いを抱かぬまま、素直の元に九寸五分の恋の切先に向かって猛進する。飛ぶ血潮は青か、赤か、紫か。天が下に生まれ落ちた時より続く女の道の、自ずからなる分岐の間に身を置いて、女は眼を瞑る。

「あの時の、告白に対するお答えは、まだ判らないままですか」

 過去に愛を告白された者がある。自らを定義付ける事が出来ず、ただ判らないと云った者がある。自己を馬鹿な男と評した者がある。それから時を数えて一年と幾月が経った今も尚、男には然るべき答えが判らぬままである。のみならず、男は自らの定義さえ付ける事が出来ないでいる。世の曖昧を表す紫色に中てられて、己が色さえ忘れている。

 男の見る色相世界は既にして崩れている。吃驚して空を見上げれば、そこには黄昏時の空が広がっている。その時に、悠久の時を数えて、何処へかを目指さんと進む雲は眼中より外れてしまった。が、その間にも春の彩りは舞う、夏草は色褪せる、紅葉は散る、立ち枯れた木には雪が積もる。時計は男を慮って停止する事なく、秒針を刻み続ける。そうして雲煙過眼を潔しとしない容赦無き過去の問い掛けは、今を以て太平なる世の崩れ去る内に、繰り返された。

「……」

 男は黙す。耐え難き苦痛はこの身にない。眼前に座す女の喉元を貫く恋の切先が、何より痛かろうと思う。願わくば静邃なる世に、一人座して書見に埋没していたかった。けれども、書面に綴られたる文面は、何時の間にか紙を離れて現実に存在していた。仄かに紅の差す頬に、滲み出したる恋の凝固した姿は、自身すら掴めぬ者には酷く眩しい。故に男は黙す。黙然と過ぎる時を見詰める。庭先に眼を向けようと思えども、窓が映る前に女の姿が視界を占める。

 答えられぬ訳はない。答えようとすれば如何なる答えも出す事は出来る。一思いに切り捨ててしまえば好かろうと、紫色が囁き掛ける。しかし、そこに疑の女の謀略が働いていると思ってしまえば、それまでである。真なる答えは、自ずから心の内に、蓮の葉の如く漂っている。けれども疑の女からもたらされた答えは、蓮の葉の上に置かれ、蓮の葉をことごとく覆い隠してしまっている。なればまた、夏の夜の真偽を知らぬ男に答えが返せぬのも致し方がない。

 その理屈を敷衍すれば老獪なる男と称される。女の心を毀損する。薄紅の唇が震え始める。男は黙す。「風が」のやり取りを今出すのでは遅過ぎる。しかし、霖之助が答えぬのは、早苗を傷付かせまいという的外れな料簡からではない。霖之助が答えぬ理由は、それよりも複雑である。難解にうねる迷宮から脱した時に、初めて男は答えるべき言の葉を見付け出す。その為には夏の夜の謎を解かねばならぬ。紫色を解明しなければならぬ。が、それを早苗に話す訳には行かぬ。霖之助の佇む迷宮の分かれ道には、どちらにも行き止まりが待っている。

「私は、今でも……」

 赤く色付く耳朶が、目尻より流れ出す雫が、目元に宛がわれる白き手が、「今でも……」の先を紡ぎ出す。燦々たる太陽の光を浴びる緑の髪の毛は、窓より吹き込む風に揺られて靡く。いっその事この男に抱き付き、己が心を断ち割って、溢れんばかりの恋情を、その顔に浴びせ掛けられたならと思う。切なき恋の一滴を拭い取ってくれたならと思う。しかし、彼女の目元を拭うは、自身の白き手である。込み上げる嗚咽を制そうと、四苦八苦するのは早苗である。男は手を差し伸べぬ。男は世を達観するばかりでなく、早苗をも達観している。

「……御免なさい」

 やがて、早苗は白日の下を駆け出した。早苗の世界の太平は打ち崩されようと、世は蝉時雨の響き渡る内に、巨大なる入道雲の広がる下に、颯々と吹く夏風の熱き中に、空々漠々たる空の元に太平である。大地を濡らすは滲んだ紫から落ちる雫である。九寸五分の恋に貫かれ、吹き出した血潮は紫色である。そうして早苗は翔ける。男は黙す。――幻想の郷は太平である。





十.





 しめやかなる雨を窓の外に映し、廂から落ちる雨垂れの、草木に打ち付く長閑なる光景を背に、疑の女は座している。眼前に置かれる小机には、黒檀の硯の中に墨汁が波を立て、その横には真白な紙が一枚ある。女は手に毛筆を持ち、墨汁に浸して墨の滴るそれを、音もなく紙の上に滑らせる。紙の上を無尽に走る筆は、雲煙飛動の趣を凝らし、俄かに形作られる文字の数々は、自ら意を見出して女の眼の内に映る。

 疑の女以外に誰も居らぬ奥座敷は、雨音を受けて殊更優雅である。金色の髪は畳みの上に流れ、筆は紙面を滑り、女の眼には、夏の夜の幻がある。水面に映る月を掴まんとするのは猿である。幻想の夜に浮かぶ幻月に、詩を詠うは人である。両者の愚かには然程の差もない。無きものに思いを馳せる様は、届かぬ人を追い続ける清姫と同様の悲劇である。なればまた、夏の夜の幻を共にした二人の男女は、悲劇の主人公と称されて間違いはない。

 やがて、閉ざされた襖の向こうに、廊下を軋ませる足音が聞こえて来る。疑の女は流暢に動かしている筆を止め、正面を向く。奥座敷の襖の前にて止まる足音は、疑の女の領域の境目たる襖を開け放つ。

「おや、紫様が手紙を書くなんて、一体何時以来の事ですか」
「そんなに書いていなかったかしら」
「ええ、尤も私の見ている範囲では」

 奥座敷へ足を踏み入れた者は、疑の女の従者である。頭に生える耳を帽子の内に隠しているが、黄金の毛並みを誇るかの如く輝く九尾は、自然のままに見せている。頭隠して尻隠さずの滑稽を笑う者は、皆この尾の前に平伏す。頭を隠してくれるなと懇願する。黄金の毛並みの美しきは、隠す必要もなく綺麗である。しかし、下衆の考えに縛られぬ疑の女の従者は、尚も頭隠して尻隠さずである。笑う者は天を巡り地を巡って探しても居ない。

「それで、どうしたの」

 主は従者に問う。邪魔を排する意は汲み取れぬ。

「少しばかり、紫様の様子が気になりまして」

 従者はまず、手柔らかに話を切り出す。主が要領を得るはずもない。黙って従者を見詰めている。従者は次ぐ句を紡がねばならぬ。しかし困る様子はない。主は聡明に育て上げ過ぎたかと思う。このままでは、誰彼の侵入を拒む領域を、盗み見られるやも知れぬ。

「近頃は、奥座敷に籠ってばかり居られますから」
「たまには、物憂く時を一人で過ごしてもおかしくないわ」
「数日前までは、頻りに御出掛していらしたでしょう」
「気が変わったと云えばそれまでだわ。私の気紛れを知らぬ式ではないはずよ」

 従者は僅かに微笑んだ。主は微笑みの意を解さぬ。ただ解さぬ様子を開かすつもりはない。

「お節介とは、重々承知しておりますが、こう毎日お部屋に籠り切りでは、お身体に障ります」
「主の意向に掣肘するのは、従者の不心得ではないの」
「生憎、主のお身体を気に掛けるのは、従者の務めと心得ています」
「暖簾に腕押しね。そろそろ用件を云ったらどう?」

 欄間を跨げと云った主の言は、従者に難なく躱される。溜息を吐いて、広い袖口に両手を入れる従者を見ると、主は筆を置く。書きかけの紙には影が差す。雨はぽつと鳴る。

「用件は、先刻申し上げました通り。たまには橙にお顔を見せてやって下さい。寂しがっていますから」
「判ったわ」
「――それと」

 従者は返した踵をそのままに、肩越しに主を見遣る。しかし「それと」の先は容易に出て来ない。主は焦慮する。不可侵の領域は「不」の字を取り除かねばならぬ。千慮の内にある一失は自らの従者にあった。首を返して庭を見る。丁寧に手入れの施された庭園に草木が煙っている。伸びる梢に緑葉が、露を滴らす。驟雨の過ぎ去る時は未だ来ない。天に走る稲妻の、一条の紫色は、天上界を危ぶませる亀裂である。不意に露見しかけた只人の知らぬ世を、悟らす訳には行かぬ。

「いえ、此処からは従者の不心得でしょう」

 従者はそう云うなり、苦笑すると欄間を跨ぎ廊下に出る。

「狡賢くなったわね。私に似たのかしら」

 一礼して、襖を閉めようと手を掛けた従者にそう云うと、主は乾いた笑みを零す。蝉時雨の五月蠅い晩夏の昼時、照った太陽の実に煩わしい好天気の日に浮かべた笑みとは明らかに違う、寂寥なる笑みである。従者はそれに気付かない。誰彼をもそれを悟る事はない。全ては書きかけの手紙の文面に、または主の心の内にのみある。

 従者の去った奥座敷には、再び雨音と筆の滑る音が響く。夏の夜の幻は、女の瞳の内に明らかに映る。夏は逝く。秋が来る。――散った花弁を戻す事は出来ぬ。疑の女が執筆する手紙は花弁である。送り出されれば、二度と帰って来る事はない。ただ大地に積もる花弁は、華々しい時代を、見る人に感じさせるばかりである。

 やがて、稔の季節を飛び越して、疑の女には寒々とした冬が来る。それから来たる春に、散っては舞う桜の一片に、疑の女が何を思うかは謎である。もしかしたなら、それは叶う事無き恋心の片鱗であるのかも知れぬ。

 この物語の不幸は此処にある。決して交わる事のない運命の糸の上を、危うき足取りで落ちまいと歩む二人の男女は、足元を気にするあまり他の運命を見る事なく進み続ける。そして、その様子を傍観する女が一人居る。三つの世界はそうして交わり、その不幸を、暗闇の中に灯した蝋燭の火の如く、明らかに浮かび上がらせるのである。

 やがて、執筆を終えた紫は窓の外を見る。雨は止む。心は病む。身は重くなる。夏の夜の幻なる夢を見て、赤き舌が唇を這いずる。「御免なさい」と、もう一度だけ繰り返した。





十一.





 夏の景観は秋へと移り変わりつつある。夜半の空気は既に肌寒い。以前のように、縁側に座って火照る身体を冷ましている訳にも行かぬ。霖之助は居間に胡坐を掻きながら、窓の外に聞こえる蟋蟀の鳴き声に耳を澄ます。夏の残滓の消えて行く様が、宵闇の中にあるかの如く思われる。しかし、それを証明する明らかな根拠はない。霖之助はただ、酷く長いように思われた夏が、気付けば過ぎ去ろうとしている事に、漸くながら気付いた折である。

 すると、不意に店の方から物音がする。靴を床に擦るような音である。霖之助は不思議に思って立ち上がると、蒼然たる月明かりの下から脱し、店の方を窺い見る。予想――というよりかは期待と云った方が幾らか適当である。霖之助は雑然として薄暗い店の中を見渡した時、胸の片隅に煙る期待の火を、ふと消された心持ちがした。店には誰も居らぬ。ただ雑多な物の埃の臭いがする中に、香草がぷんと匂う心持ちがする。

 しかし、男は期待の火を消すまいと、店の灯りを点ける。燐寸を擦って、蝋燭の先に火を移すと、靡く焔が店内を不気味に照らし出す。物から生まれる影は、焔の揺らめく度に不明瞭な輪郭を動かしている。霖之助は眼を凝らして店内を再び見回した。人影はおろか、生物の気配すらしない。聞こえるのは己の息遣いばかりである。

 やがて、霖之助は「馬鹿馬鹿しい」と心の内に呟いた。期待が成就したからとて何が出来る訳でもない。何も起こらぬ方が都合は好い。ただ霖之助の意思を離れて、期待に弾む胸だけは、未だ可能性を見出そうと高鳴っている。――この物語の中で一番曖昧なのは霖之助である。何時か――翻弄の予兆である風が、荒れようとひゅうひゅう鳴っている時、彼の女は男をこう評した。

「本当に曖昧な境界の持ち主ね」

 聞こえたか、聞こえぬかは判然とせぬ。ただ男は現今に生きる己を、彼の女が云ったように評した。故にもたらされた錯覚かも知れぬ。しかし真偽を見極める事は出来ない。聞こえたか、聞こえぬかも判らぬその言は、それこそ幻想のような代物である。

 己を知らぬ者が、他者を理解出来るはずがない。これは恋に於ける方程式の一つである。解を求める事は永久に成し得ぬ。元より哲学者以外にこの方程式を持ち出せる者はいない。哲学とは詩と同格に位置する学問である。そうして、霖之助は詩人と評された事がある。曖昧な境界とは男の心を表した言である。二つの批評は、恋という命題の下にイコールで繋がっている。敢えてこれを解けと云われれば、作者は九寸五分の恋という回答を呈するつもりである。

 ――そうして、居間に戻った霖之助の眼には、果たして一枚の紙が入った。封筒も何もないままに、卓袱台の上へ無造作に置かれている。手に取って見ると、差し出し人の名がない。ただ宛て名には「森近様へ」とだけある。

「居るのかい」

 返事はない。男は手に持つ手紙に眼を落とす。開いてみると、達筆な文字が並んでいる。読むか読まぬかは問題ではない。読んでどうするかが問題である。霖之助はそれを考えると、何だか恐ろしくなって来る。しかし、読まねば始まらぬ。霖之助は卓袱台の前に座ると、慎重に手紙を広げ、その文面に眼を通し始めた。

「拝啓――時候の挨拶は割愛させて頂きます。元より私と貴方の間柄に、そんなものは必要ないでしょう。尤も、私の名すら割愛していますが、貴方に私の名が判らないはずはありません。自惚れでなく、確信を持って私はそう云えると自負しております。過程を経てから成るべき結果を、何より先に求めたのは、他でもない私達なのですから。名を割愛したのは、身を以て思い知った、この慚死すら厭わぬ思いを、貴方に悟らすまいとして取った苦肉の策なのです。

 かと云って、全く過程が無かったと云えば、嘘になります。私達の間には、確かに明確なる経緯の道が、過去を振り返る眼の先に延々と続いています。出発点は何処にあるのか、それは私にすら判りかねます。少なくとも、私は知らぬ間にその道を歩んでいました。そうして気付けば、貴方の道と私の道とが、運命と名指されて、交錯していたのです。

 辛うじて自覚出来る始まりは、去年の秋でしょう。愛想の大切さを、貴方に説いたその時が、私に自覚出来る範囲の限界です。それ以上はどんなに考えようと判りません。もしかすれば、それより前にこの道はあったのかも知れない。けれどもそれは、今になって考え始めても意味のない事でしょう。結果を求めた私は、結果を知り、その末にこのような手紙を貴方に送り届けたのです。言訳と転じておかしくない言を、恥も承知で晒し出せるほど、私は無鉄砲な女ではありません。

 どうして、と貴方は今頃考えているでしょうか。ともすれば狂悖とも取れる私の行動を、或いは恨み、或いは訝しみ、或いは憎んでいるのかも知れません。しかし、そのいずれに対しても、私は弁明する気概は毛頭ありません。私は結果のみを此処に記す心積もりです。私が何を思ってあのような行動に及んだのか。私の思索を辿り、深き根の先にあるその答えを、貴方に教えるつもりはありません。それは結果を語るこの手紙の中に、確かに浮き上がる事でしょう。行間を読み、底意を探る事が批評家の仕事なら、貴方の中に自ずからなる仕事は、如何にして貴方の内にある疑問を解明するか、という事にあるのですから。それを意地悪と思うでしょうか。もしくは天邪鬼と? ――私は元よりそういう妖怪なのですよ。

 結果を総じて、出来得る限り短く纏めれば、この手紙は一言だけで終わってしまいます。しかし、それは些か真白な紙を彩るには寂し過ぎるので、閑文字と思って間違いのない文を、書き連ねて行く事にします。なので、これより先には、暫くの間、無駄な文が続く事になりましょう。別に読んで下さらなくて結構です。私が結果を求めたように、貴方も結果だけを求めて下さって差し支えはありません。――私は恥を知って念を押します。この先に続くのは、取るに足らない退屈な話なのです。

 風に倒れぬ木を見れば腹が立つ。水に流れぬ木片を見れば腹が立つ。決して倒れぬ大木ならば、決して流れぬ大岩ならば、尋常の事と受け入れる事も出来ましょう。しかし倒れて、流れて然るべきはずのものが、動かずにその場に留まり続ける事は、酷く心持ちが悪くなります。――この文を解釈するに、貴方は私を傲慢だと思うに違いありません。何より当人がそう自覚しているのですから、そう思われるのが普通でしょう。

 或る日、決して倒れず、決して流れぬ存在を見付けました。そんな物には頓着する事はありません。元より見る為だけに存在するようなものですから、私にとって、それは自然を眼にする事と同義なのです。しかし、自然は唐突に崩されました。決して倒れぬと思っていた大木が、吹き荒れる風に煽られて、その逞しい幹をみしりと軋ませた音を、私は誰より先に感じました。自分が起こした風には微動だにしなかったにも関わらず、新たに吹き出した風は、梢ばかりでなく、容易くその幹さえも呻かせたのです。

 その様を見せ続けられて、挙句に自分が起こした風を避けられようものならば、腸の煮え返る心境は想像に難くありません。一度晒した醜態は、同じ醜態を晒させて、初めて報復と成す。それはつまり、更なる嵐の下に、大木を薙ぎ倒す事でした。それは造作のない事です。やろうと思ってしまえば、即座に実行する事も可能です。けれども、それは大木の幹を真中から圧し折り、二度と回復しない凄惨なる結末を生み出してしまいます。それならばどうするべきか、――大木を、その根ごと引き抜いて、大地の上に倒してしまえば好いのです。

 準備は簡単で、実行とて簡単で、目的に障害はなく、結果はすぐに私の手元に現れました。大木は見るも無残に押し倒されて、根を引き抜かれたその姿は、思っていたよりも虚しく思われました。まるで中身の判らない箱を、何ともなしに壊してみたら、思いの外大事な物が中より現れた時のような喪失感です。己が愚を、最も後悔する瞬間を、稚児でもなく、賢者と謳われる私が犯してしまったのは、現実が私にもたらした最高の皮肉でありました。

 これが得たかったのか、と問われれば、そうと答える訳には行きません。ならば何を得たかったのか、と問われれば、常と変わらぬ太平と答えるより他にありません。己が愚は承知していましたが、そうする以外に方法はなく、武器であったはずの器用さは、不器用に成り果てました。素直という性質に、羨望の念を覚えたのは、後にも先にもこの時以外にありません。それまでの私は、無暗に自己を開かす無様なものとして、素直という性質を捉えていたのです。

 私はそれから、倒れた大木を眼にすまいと、金輪際その大木には近付かぬと誓いました。見れば悲しくなります。失ったものの大きさに、絶望してしまいそうになります。けれども見なければ、切なくなります。――貴方は私を笑うでしょうか。柄にもなく悄然たる有様を彷彿とさせるこの文に、失笑を漏らしているでしょうか。私とてこうなる事もあるのです。

 さて、手紙はもうじき終わりになります。賢者と謳われた者が取るべき責任は取ったつもりです。真に失礼ながら、その責任を責任として捉えられる事はないかも知れません。しかし、それを訴える相手は、もう大木には近寄らないのです。また動く事の出来ない大木に、その相手を見付ける術も無いのです。嵐は過ぎ去りました。後に残るのは雲の吹き飛ばされた快晴の空です。大木に吹く風を遮ろうと企む悪党は消えました。

 身勝手なのは承知しています。それでもそうしたのは、未だ残る一塊の矜持故なのです。ただ、一抹の未練だけを残して行く事を、どうかお許し下さるよう、願っております。

 最後に、この手紙の内容を纏めた一言を綴り、この手紙の締め括りとさせて頂きます。
 ――御免なさい。」

 霖之助は手紙を読み終えた途端、窓を開け放って外へ飛び出した。静かなる夜の内には虫の鳴き声以外に聞こえる音はない。霖之助は辺りを見回す。が、何処を見ても暗澹たる森が広がるばかりである。

 一片の未練は手元に落ちる、夏の夜は彼方の幻と消え、男の見る色相世界に紫色が晴れて行く。霖之助は鮮やかなる色を忌み、一枚二枚と重ねた過去を、一思いにばら撒きたくなった。そうして一枚でも届けば好いと思う。さらばと捨て切れる過去ではない事を今更ながらに思い知る。愚かなる男は、曖昧なる境界を何より憎む。彼の女を憎む道理はない。霖之助には清姫になる素質もない。が、打ち遣られる事の切なる思いは、百の針を一度に身に受けるが如く痛い事を知っている。

 剣呑なる美しさに勝る美はない。謎めくもの以上に人を惹くものはない。何時しか剣呑なる美に魅せられて、謎めく迷宮に誘われ、男を惑わささんとする魔力に抗う事の無意味に気付いた時、男は漸く出口を見付ける。幾度と行き止まりに突き当たり、最早脱する事は叶わぬと、諦めるよりも早く結果は現れてしまった。道を塞ぐ壁が破壊され、別の出口が不意に出来上がってしまった。のみならず、出た先には何も無い。未練の一片が、静かに蒼穹より舞い落ちるばかりである。それを僥倖と見るか不幸と見るか、滲む紫に溺れる男を見れば想像に難くない。

 ――やがて、生まれながらにして曖昧なる男は、天が下に声なく哭す。





十二.





 さながら、一枚の油絵の如く、色鮮やかな葉が、妖怪の山を一面に飾る。秋の深まる時節、紅葉の趣を凝らす山々の裾野は、陽光を受けて更に鮮やかに見える。紅の紅葉、黄の銀杏は、山を登る苦行に耐えし男の上へ梢を伸ばし、散る葉は斜面に降り積もる。斜に差す光の煌めく一点には銀の髪がある。峻峭なる山に似付かぬ服を、構わず土の上に擦りつつ、男は進む。九寸五分の恋に貫かれし男は、山を登っている。

 落ち葉の散らかる境内に、女は箒を手に持ち立っている。荘厳なる神の社の御前に、物憂げなる面を地面に向けて、燦と注ぐ陽光を背に受けし巫女は、神の前に手を付き、恋の前に跪いた憐れなる女である。境内の回りを、赤に黄にと色濃く染める木々の連なる外に、誰かが近付いているとは夢にも思わぬ。小さき胸に抱えた夢が、現実に躍り出るとは元より叶わぬ事と思う。九寸五分の恋に貫かれし女は、境内を掃く。

 稚児の修行に励む様は微笑ましい。小机の上に頬杖を突き、秋の陽射しを屋根に遮られる下で、女は二又の尾を持つ化け猫と、九尾を持つ化け狐の修行を眺めている。九尾が何やら二又に云う。威勢の好い返事がする。御札を出し呪文を唱える。術は出ない。煙が出る。女は惜しいと思って笑う。九尾は優しく二又の頭を撫でる。平穏なる光景に物憂く間隙などあるべくもない。そら、と思うと二又が此方を向いて、愛嬌の香を放つ笑みの花を咲かす。手を振り微笑を湛えれば、仄かに頬を染めて、再び御札を出す。九寸五分の恋に貫かれし女は、式を見る。

 雲なき蒼穹の下に、それぞれの世界は動く。動く世界には事件が起こる。男が山を登る事も、信の女が掃除を続ける事も、疑の女が修行を眺める事も、全ては事件の一つである。そして個々の世界が交われば、大事件となる。やがて大事件は妖怪の山の頂きに起こる。世界は大きく揺れ動く。ただ無限に広がる空だけが変わらない。全てを内包する世界は、常に変わらず太平である。

「東風谷さん」

 小さき肩には人の憂いが集まる。そうして肩は落ち、悄然として境内を掃く早苗は、驚いて後ろを振り返る。額に汗を浮かべて立つ男は、振り向いた早苗の顔を真直ぐに見ている。

「どうして……」

 俯く顔は、再び地面を見詰める。顎を喉に向かって引いて、ちらと男の様子を窺えば、男は静かに歩み寄って来る。早苗は臆した。男の歩を進める理由は、一つしか思い当たらぬ。

「答えなければならないと思った」

 男はそう云って歩みを止める。早苗とは数歩の距離しか離れていない。早苗は「はい」と云った。突然来たる事件に対応する勇気は用意していない。放たれるのが矢であるならば、それを防ぐ術はない。早苗は顔を上げた。素直の眸を真直ぐに向けた、後悔の念を捨て去った者の表情である。精悍なる顔付の霖之助は、震える眸の内に自身の姿を見出した。

 ふと後ろを見る。登って来た山の高きが知れる光景が、眼下に広がっている。見える家屋は粒と化し、木々は針となって天を突いている。霖之助は全てを見渡したような心持ちがした。この幻想の郷の何処かにある彼の女の家が、此処からなら見付けられるのではないかとさえ思った。全ては数瞬の内の出来事である。霖之助は早苗に向き直り、箒を胸に抱えて震える手を見、緊張に引き締まった唇を見、恋情を映す眸を見る。

「すまないが――」

 颯々と風が吹く。紅葉やら銀杏やらの葉を攫っては、二人に吹き付け、蒼穹に向かって吹き飛ばし、男の言をも攫って行く。辞世の句には程遠い。が、男の言葉にはそれと同等の重量がある。九寸五分の恋と称されるべき重量がある。選んだ道の先には、取っ掛かりの一つさえない断崖の絶壁がある。落ちれば助かるまい、けれども進まねば仕様がない。懊悩煩悶を幾度と繰り返し、男が選んだのは、そういう道である。

 涼しき風は、楚々たる早苗に男の言を届ける。恋と人生はままならぬ。若き早苗が玄人の考えに至るにはまだ早い。ただ彼女は素直なままに涙を流す。恋の散華を眼にし、素直の露を滔々と男の眼前にて流す。堪えんとする嗚咽は、口中に留まる事なく響き、早苗は袂で目元を拭い、必死に笑顔を作ろうと苦労する。望んだ結果の一つがこれであるならば、悲喜の涙は喜に属さねばならぬ。

「ありがとう、御座います……」

 霖之助は「礼なんて」と口にしたばかりである。早苗は止めどなく流れる涙で、曇る視界の中に、しかと霖之助を捉える。滲んだ画の中で、霖之助はただ早苗を見詰めている。手は差し伸べていない。溢れんばかりの恋情は、心より湧き出て眼より流れる。断ち割る事は憚られた。早苗は霖之助の心の片隅を察するくらいには成長した。なれば男の足に枷を与える事などしてはならない。故に涙を拭うは自身の手である。これが曖昧なる男の下した決断である。



 個々の世界に風は吹く。荒れて嵐へ転じる風は、全て恋と称して間違いはあるまい。男はこの風に惑わされる。信の女はこの風に夢を映す。疑の女はこの風に無聊を託つ。――これら全てが九寸五分の恋と、その結末である。























――了
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.5280簡易評価
6.100名前が無い程度の能力削除
貴方の妖艶なる文章は谷崎文学を思わせる。
11.100名前が無い程度の能力削除
すばらしい
文句なしの100点です
13.100名前が無い程度の能力削除
蛇足ではあるかもしれないと思う。
それでも僕としては100点以外は無い。
18.100名前が無い程度の能力削除
とかくこの世はままならぬ
20.100名前が無い程度の能力削除
切ない… なんとも救い難き恋の話
21.100名前が無い程度の能力削除
二度三度と読み返したくなる話で、とても良かったです。
22.100名前が無い程度の能力削除
散らば散れ 咲く日もあろう 山桜
25.100名前が無い程度の能力削除
メタ視点の文体が、何とも言えない魅力を引き出していました。
掛け値無しの100点です。
26.100名前が無い程度の能力削除
選ばない事を選んだか……
三人に、幸あらんことを
28.100名前が無い程度の能力削除
どうしてこうなった・・・どうしてこうなった・・・
29.100名前が無い程度の能力削除
前作のオチを
「実は重度の窃視症だった紫が紆余曲折の果てにイチャイチャする二人を見てハァハァしてる超絶ハッピーエンド」
と脳内で補完していたのにィィィィ。

それはともかく、前作のタイトルが出てきたところで興奮しました。
30.100名前がありそうで無い程度の能力削除
此処までの長文、良く頑張った!
34.100名前が無い程度の能力削除
境界は曖昧なまま…ですね。
とても素晴らしかったです。
36.100名前が無い程度の能力削除
素晴しい。次回作にも期待。
37.70名前が無い程度の能力削除
理解力の乏しい俺には難しすぎる内容でした。
もう少しわかりやすいと助かる。
でも雰囲気はよかったと思います。
38.100名前が無い程度の能力削除
早苗は悲恋が似合う…のか?
40.100名前が無い程度の能力削除
文章が濃密すぎて少しばかり読むのがつらかった。
もうちょい簡潔な文章にしても良かったのでは……と思うところが。


とはいえこの語彙と言葉の美しさは驚異的。
話もとても面白かったので100点をば。
ゆかりん……
41.100名前が無い程度の能力削除
何だこの読んだ後の寂寥感は…。
43.100名前が無い程度の能力削除
あぁ、うん、寂しい。
44.100名前が無い程度の能力削除
切ねぇぇぇ…ハッピーエンドも読みたいなぁ。
46.100名前が無い程度の能力削除
現人神も、妖の賢者も半妖も、募る恋には抗えぬ。
47.100名前が無い程度の能力削除
切ないのぅ
50.100名前が無い程度の能力削除
早苗を振ったのは、紫の事が気になっていたのか・・・。それとも何か他の理由が
あったのか・・・。
56.100名前が無い程度の能力削除
恋って難しい…
57.100名前が無い程度の能力削除
 そんな…俺のジャスティスが…orz

いやーそれにしても切ない
58.100名前が無い程度の能力削除
霖之助と早苗のBADEND以外の話も読みてぇ
59.100名前が無い程度の能力削除
何という結末…!
62.100名前が無い程度の能力削除
見事。
作品を書ききったことに、感謝と寂寥を。
65.100名前が無い程度の能力削除
とても楽しめました。
綺麗にまとまって、まさにTrueEndでした。
ただ描写量のせいか、結局紫は悪印象のままでしたが……
後、長さ・構成も綺麗に起承転結になってるので、投稿は4分割の方が良かったかも。


紫の「身は重くなる」を邪推したのは自分だけ?
67.100名前が無い程度の能力削除
いやーなるほど、「生まれながらにして曖昧なる男」ですか
どこをみても、言葉が綺麗だ
69.100名前が無い程度の能力削除
霖之助…へタレじゃないんだろうし、そこまで優柔不断でも無さそうだけど…でもモヤモヤが残るなぁ、霖之助の決断には…
73.100名前が無い程度の能力削除
台風一過といった感じでしょうか。
後に残るのはかつて詰まれた煉瓦の染み、そこに何もなくとも色は消えずしこりとして残り続ける……
思わずうへえ、と声が漏れてしまいそうでした。
74.100名前が無い程度の能力削除
自分の語彙の乏しさに、こうも嘆く日が来ようとは
75.100名前が無い程度の能力削除
切な過ぎるねぇ…
あと文章が少し難しく感じるかな。
76.100名前が無い程度の能力削除
豊富な語彙の量と美しい文体にただただ圧倒されました。
悲恋の結末に一直線に向かっていく物語の勢いも凄い。

ゆかりん「負けるのが癪だったので薬盛った後、既成事実作っちまったorz
とりあえずとんずらこきました。フヒヒwwwサーセンwwwww
やっべ、藍にバレてんじゃん」

紫視点で内容を要約すると、前作から一貫して
『ヘタレ女の切ない恋愛失敗談(笑)』
に終始しているのは何気に上手いと言わざるを得ない。
77.100名前が無い程度の能力削除
幸せな終わり方じゃなかったけど、綺麗で美しい終わり方でした。

こんな風な侘び寂びのある文章こそ日本文学ともいえます
難しい言葉こそ分からない理解力のない私ですが、頭の悪い文章を羅列した小説が世に出回る中、本当に新鮮でした。
文句なしの100点満点です
80.無評価noggin削除
キョウチクトウ(wikipediaより)
強心作用を持つが、強力な毒草。
花言葉は、「油断しない」。

短刀の如き九寸五分の恋。
突きつけられる方はたまったもんじゃねぇ。
81.100ノギン削除
また忘れてた
82.100名前が無い程度の能力削除
あなたは悲恋の話を書くのがお好きなようだ
早苗さん、かわいそうだぜ
83.100K-999削除
ちゃんと自分の口から早苗さんに答えを告げたのはとてもいいと思います。
なあなあで済ませるよりもよっぽどいい。少なくとも私はそう思います。
86.100名前が無い程度の能力削除
読書の秋にふさわしい作品をありがとう。
87.100名前が無い程度の能力削除
男らしいかどうかは別として、
最終的には霖之助らしい判断だと思いました。

相変わらず、語彙と表現が素晴らしいです。
確かに表現のくどい部分もあります。が、
それを補うだけの内容でした。
最後に、良い物を読ませて頂きありがとうございました。
89.100名前が無い程度の能力削除
ただただ描写の美しさに感動させられた。
92.100名前が無い程度の能力削除
ため息しか出ない
93.100名前が無い程度の能力削除
ゆかりんが不器用すぎてもう・・・
94.100名前が無い程度の能力削除
気高いだろう紫に卑怯な手段を選ばせるほど想われている霖之助に嫉妬!
98.100名前が無い程度の能力削除
感嘆
103.100名前が無い程度の能力削除
秋に始まり秋に終わる、か。
素敵な作品ありがとうございました。
104.100名前が無い程度の能力削除
なんという・・・
ごちそうさまでした
105.無評価名前が無い程度の能力削除
最後の最期まで、侭ならない・・・。
これは悲劇か、あるいは喜劇か、それとも悲喜劇と呼ぶべきか・・・。

完結、おめでとうございます。そして、ありがとうございました。
106.100名前が無い程度の能力削除
点数を入れ忘れました。すいません
118.100名前が無い程度の能力削除
難しい表現で構成された文体に一瞬、画面を閉じようとしたけれども
何故かはよく分かりませんが、最後まで読みました。
ここまで読ませるのは東方の魅力か、それとも作者の力量か。
121.100名前が無い程度の能力削除
こ、こうなっちゃったか・・・
寂しくて綺麗なお話ありがとうございました。
122.100名前が無い程度の能力削除
これが文体の妙ですね.
高等遊民が目指した「キスイヤ」ともいう.

とても好いものありがとうございました.
123.100名前が無い程度の能力削除
豊富な語彙や巧みな表現にまず圧倒されました。
文学作品を読んでいる感覚に陥りましたねぇ。
一つだけ思ったことは、最後の部分に、ややあっさり感を感じました。
そこまでに至る話の流れだけに、拍子抜けとも言えるような感じがいたしました。
しかしその点を考慮しても、100点以外には有り得ないだろう、そんな作品でした。
次回作を楽しみに待っています。
127.100名前が無い程度の能力削除
星での早苗さんのヒャッハーなノリを思い出して苦笑し
霖之助の理不尽さにイライラし
紫の煮え切らない態度にもムラムラし

それでも100点以外は考えられない
132.90名前が無い程度の能力削除
もう紫は霖之助に会う気は無いのでしょうか。
三方一両損…で済ますには激しくまた寂しい結末でした…

100点のつもりでしたが早苗さんに手を齧られた気がしたので。
本当この二人は上手く行かんなぁ…
139.100名前が無い程度の能力削除
良かったです。相変わらずのtwinワールドで安心しました。
142.100名前が無い程度の能力削除
愛憎紙一重。
愛情の対極は無関心だと思う
146.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
147.無評価名前が無い程度の能力削除
たまらないねえ。たまらない。
150.100名前が無い程度の能力削除
愛しさと切なさと
151.100名前が無い程度の能力削除
なんという悲恋・・・
156.100名前が無い程度の能力削除
恋々と逝け、ですか。
熾烈であった恋心の残り香は、恋々とせずに消ゆることはない。
跡は心にいつまでもあり続ける。
その跡が癒える日は来るのでしょうか。
いや、余りにもこの恋心は熾烈だった。
その日がくることは、無いでしょうね。
158.100名前が無い程度の能力削除
届かないものに手を伸ばし、何も掴めずこぼれ落ち。
落ちて転がり崩れ逝く。せめて散りゆけ紅い花
159.100名前が無い程度の能力削除
霖之助で恋愛物となると結末は予想通りだったのですが、そこまでの流れが素晴らしいと思います。
そして途中で筆を置かず、最後まで書ききったことに私は心根からの感謝を送りたい。
160.100名前が無い程度の能力削除
不憫…余りに不憫だ…
何処で間違えたのか。
元よりこうなるべくしてなったのか…
164.100名前が無い程度の能力削除
美しくも儚く散ってしまうような切なく綺麗な物語だと思いました。こんな言葉でしかこの物語を表せない自分を 悔しく思います。
165.100名前が無い程度の能力削除
相変わらずの美しさ、素晴らしかったです。

自分には、早苗との出会いをきっかけに霖之助の中で紫への思いが生まれたように思えました。
しかし、それに終わってから気付く曖昧系男子。

前作と併せ、本当に素晴らしい作品でした。
170.100名前が無い程度の能力削除
ああ・・・無常
172.100名前が無い程度の能力削除
こういう時なんて言っていいかわからねぇ・・・・
179.100名前が無い程度の能力削除
何回読んだか分からないけど、その度に切なくて泣きそうになる…
186.100dai削除
恋々と逝け、……グッときました。
恋とはままならないものですね。
187.100絶望を司る程度の能力削除
ぐは……………