Coolier - 新生・東方創想話

おけのなかにいる 後編

2009/09/19 02:48:00
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□  
  
 そして今日も、私は洞窟の入り口を見上げながら桶の中に収まっている。
 この洞窟に入ってから早十年近く。目立った事も無く、ただ静かに時間だけが流れていく毎日。
「……」
 でも、私は何も変われていない。思い出を過去に変えるつもりだったのに、日々その想いは高まっていくばかり。食欲も湧かず、さりとて飢餓から死ぬ事もない。妖怪というのは、本当に強く、そして不便に出来ているように思えた。
 そういった事を、最近になって知り合った黒谷・ヤマメという土蜘蛛の少女に話したら、「そこまで過去に拘るなんて馬鹿みたい」と笑われてしまった。
「でも、そういうのって凄く素敵だけどね。……けどまぁ、流石の私も恋の病までは操れないねぇ」
 そう言って微笑む彼女は、沢山の友人のいる明るい妖怪だ。病気を操る力を持っているらしいけれど、彼女はそれを無闇に使ったりはしない。そんなヤマメがどうして嫌われたのか、私には理解出来なかった。
 そんな私を前に、彼女は不意に真剣な表情に戻ると、
「あ、でも、キスメは嫉妬には狂わないでね」
「嫉妬、ですか?」
「あれは恐ろしいものよ。……公家の娘を鬼にしてしまうぐらいにね」
 言いながら、ヤマメは遠く洞窟の底を見る。彼女が言うには、この先にある橋には橋姫と呼ばれる女性がいるらしい。彼女は元々人間であったものの、嫉妬に狂い、生きながらにして鬼へと変わってしまった存在なのだそうだ。
「相手を想う気持ちは素晴らしいけど、行き過ぎは駄目って事ね」
「……解っては、居るんですが」
「難しいよねぇ。それは私も解るけど……でも、一応心には留めておいて」
 優しく微笑んで言い、そしてヤマメは糸を辿ってするすると洞窟の底へと消えていった。
「……」
 嫉妬で鬼に変わってしまった人間が居るように、悲しみで何かに変わってしまう事もあるのだろうか。
 解らない。でも、もしかしたら、私はもうそういった妖怪に変化しているのかもしれなかった。
 と、そんな事を思っていると、視界の端に違和感が生まれた。それはこの洞窟の闇と同じように深くて暗い、瞼を閉じた先にある闇――
「ルーミア?」
「あれ、キスメ?」
 問い掛けにあっさり答えが返ってきたかと思うと、すぐにその闇が晴れ、意外そうな顔をしたルーミアが現れた。彼女は「地下都市に居ると思ってた」と目を丸くしながら言い、けれどすぐに嬉しげに微笑むと、
「久しぶり。やー、入り込むのに結構手間取っちゃった。神社の近くだから結界は無いと思ってたんだけど、しっかり張ってあってねー」
 と、何気無くとんでもない事を言う友達に、私はその状況の不味さに半ば混乱しつつ、
「な、何やってるの! 入り込んじゃ駄目じゃない!」
「バレなきゃ大丈夫!」
「ねぇ、その自信はどこから来るの……?」
 元気に言い切るルーミアの姿に少々呆れるのを感じながら、私は改めて洞窟の入り口へと視線を上げる。
 この洞窟は博麗神社の近くにあるものの、その境内からは離れている。だから結界はその効力を遺憾なく発揮している筈なのだ。けれどルーミアはそれを突破し、この場所にまでやって来てしまった。
「……ここまでするなんて、ルーミアは友達思いなんだね」
「まーね。でも、一番の目的はキスメに逢う事だよ?」
 そう言って、最も古い付き合いであるルーミアが微笑み……そして、彼女は珍しく真剣な表情になると、
「私がこんな事を言うのは、キスメに悪いかもしれないけど……感謝してるんだから。もしキスメに介抱して貰えなかったら、きっと私は空腹で死んでただろうし」
「それは……」
 言い掛けて、止まってしまう。
 私は、彼女に何を言おうと思っているのだろう。
 もう四十年近くも前のあの日、一本杉にぶつかって倒れていたルーミアを助けていなければ、私の人生は大きく変わっていた。けれどそれは、緋一との恋も、蒼太との別れも、萌黄との出逢いも無かったという事になる。
 結果的に私は一人ぼっちになってしまったけれど、しかしそこに、暖かで幸せな日々は確実に存在していた。だから、
「私こそ、ルーミアには感謝してるよ」
「でも、ごめんね。……本当、今更謝ったってどうにもならないのは解ってるし、私には何も返せないけど……」
「そんな事ない」
 実際、家族の元から逃げ出した後の私は、生活能力が完全に無くなってしまっていた。生きる気力が沸かず、当然のように何かを食べようという気分にもならない。そんな私を元気付け、立ち直らせてくれたのはルーミアだったのだ。
 時が経ち、変化していく世界に目を向けられるようになったのも、彼女が側に居てくれたからこそだった。
 確かに、幸せだった日々を崩壊させた切っ掛けはルーミアにある。けれど、それを修復する努力を怠ったのはこの私だ。だからルーミアに対する恨みは無い。
「それに私は、ルーミアから沢山のものを――」
 貰ったから。と、そう言葉を続けようとした刹那、視界の外れに何かが映り、私は思わずそちらへと視線を向けていた。
 そこには、私へと微笑む古明地・こいしの姿があって、
「――あれ?」
 瞬きをした瞬間に、彼女の姿は忽然と消えていた。もしかして錯覚だったのだろうか。
「どしたの?」
「なんでもない、けど……」
 思わず周囲へと視線を向けながら曖昧に答える。けれど、あれは錯覚や幻ではなかった筈だ。確かにあの瞬間、私の目の前にはこいしが居た。でも、その姿には少し違和感があった。
 一瞬だったからこそ、強く印象に残っている違和感。一体何が引っ掛かっているのだろうと、私は不思議そうな顔をしているルーミアを前に考え……はたと気付いた。
 眼だ。こいしの第三の眼が閉じていた。それが私の錯覚でなければ、その瞼はきつく閉ざされていて、そこから伸びる管も足首にしか繋がっていなかったように思える。姉であるさとりと同じように、彼女のそれも第三の眼から複数の管が伸びていたというのに。
 そう、あれはまるで、自分の心へと繋がる管を断ってしまったかのようで――
「ん?」
 と、不意にルーミアが声を上げた。そしてその視線が洞窟の奥へと向けられる。こいしの事を考えていた私も、思わずそれに釣られるように視線を落とし……そこに、数多く灯る炎が見えた。
 段々とこちらへ近付いてくるそれは、鬼火だろうか? ……いや、違う。あれは松明だ。恐らく、地下都市に暮らす鬼達がやってきたのだろう。
 不味い事になった。普段は地下都市から出てくる事の無い彼等が、こんなところにまで上がってくる理由は一つしかない。
「……ルーミア、早く地上に戻って」
「え、なんで?」
「貴女が地上の妖怪だからよ! 地下に住む鬼という妖怪は、何よりも約束を大事にするらしいの。だから彼等はそれを破ってここにきたルーミアを――」
 ただでは許さない。そう告げようとした言葉は、足元から聞こえて来た陽気な少女の声によって掻き消された。
「おっと、逃げようったってそうはいかないよ!」
 洞窟の中に反響する大きな声。それを伴って現れたのは、私と同じぐらいに小柄な、けれど立派な二本角を持った鬼だった。沢山の鬼を引き連れた彼女は、手に持った瓢箪を一口呷ると、その中身を美味しそうに飲んでから、
「約束ってのは守る為にあるんだ。それを破ったってんだから、相応の覚悟はあるんだろ?」
 楽しげに言う顔は赤く、明らかに酔っ払っているのだと解る。けれど彼女が啖呵を切った以上、この場は全て彼女に任されているのだろう。
 どうしよう。そう思う私の隣で、ルーミアは普段と変わらぬ調子で、
「そーなのかー。でも、私はそんな約束知らないよ」
「地上の妖怪は旧都へ立ち入らない。それがアンタ達と交わした約束だ。だから知らぬ存ぜぬは通用しないよ。それを破ったからには、相応のケジメを付けて貰わないとね」
「まだ地下都市じゃないわ」
「そこは誤差ってところだねぇ」
 そうして鬼の少女は楽しげに笑い、もう一口瓢箪を呷ると、改めてルーミアを見据え――威風堂々、名乗りを上げた。
「私は萃香。伊吹の萃香。アンタは?」
「ルーミア」
 あっさりと答えてしまったルーミアに、萃香と名乗った少女は期待に満ちた表情を浮かべ、
「外国の妖怪か。強いのかい?」
「強いよ」
 太陽の光すら届かぬこの洞窟の中は、原初の闇に支配されている。だからそう、ルーミアにとってここほど強く力を発揮出来る場所は無く――咄嗟に彼女を止めようとした時には、全てが遅かった。
 ルーミアは楽しげな笑みを浮かべたまま、まるで磔にされた聖者の如く両腕を伸ばし――
 
 刹那、全てが消え失せた。


  
 笑い声。
 怒鳴り声。
 打撃音。
 破砕音。
 混乱。
 錯乱。
 何も見えない、闇。
 ルーミアがその濃度を下げない限り、闇は一切の光を遮断する。
 鬼達も、まさか完全に視界が奪われるとは思っていなかったのだろう。一瞬にして場は混乱へと陥り、けれどその根源であるルーミアを捕らえようとする動きは止まらない。ありとあらゆる場所で鬼が暴れる気配が生まれ、逃げ回っているのだろうルーミアを捕らえようとする。
 その動きの中で、私は一切動く事が出来なくなっていた。ルーミアを助けたいという気持ちはあるものの、襲い来る恐怖に体がすくんで動かなくなってしまったのだ。
 と、不意に近くで数人の男達が声を上げた。様々な音が飛び交う中、それは明らかに私を狙うといった言葉だった。目の前に迫ったような気がするその気配に、私は無意識に桶を上昇させ――その瞬間、桶へと強い衝撃が走った。
 鬼の打撃を受けたのだろう。凄まじいその威力に桶は呆気なく壊れ、私の体は成す術なく闇の中へと落下していく。
 落ちる。
 落ちる。
 落ちていく。
 空に浮かぶ事は出来る。けれどこの闇の中でどうやって逃げ回れば良いのだろう。
「――ッ」
 絶望、そして死への恐怖に支配された頭に、これまでの走馬灯が浮かんだ。
 それは、愛する家族との幸せな記憶。
 どんなに自分に言い訳をしても、決して過去にする事が出来なかった暖かな思い出。
 でも、もう二度と取り戻せない。
「……」
 ならばいっそ、このままこの人生を終わらせても良いのではないだろうか。罪を重ねてきた私が極楽へ行けるかどうかは解らないけれど、でも、もうこの世で緋一と再開する事は出来ないのだ。
 未来には進めず、さりとて過去には戻れず、ただ無為に時間を過ごしていくだけの毎日。
 そんな日々に意味は無い。だから――
「私……」
 ……そんな風に思ったところで、私は、自分がもう限界なのだと知った。
 この状況から助かったとしても何も変わらない。現実はどうやっても覆らず、だからといって、これからも死んだように生きていくのは苦痛でしかない。
 もう嫌だ。
 頑張るのは、止めにしよう。
「……緋一」
 極楽で、貴方と再会出来ますように。
 そうしたら、昔と同じように蒼太と一緒に宴会をしましょう。そして、いつかやって来る萌黄を、みんなで――
「――」
 
 ――直後、頭に強い衝撃を受け、私は意識を失った。








 目を覚ますと、まず視界に入ったのは障子張りの襖だった。でも、私にはそれが何なのか理解出来ず、横向きに寝ていた体を無意識に起き上がらせようとして、
「痛っ」
 動かした右腕に痛みが走った。見ればそこには着物の切れ端のような布が巻かれていて、肩から肘辺りを覆い隠している。それでもどうにか起き上がってみると、自分がどこかの民家に寝かされていたのだと気付いた。
 私の居る部屋の隣、襖を隔てた向こう側に囲炉裏を中心に構えた部屋があり、その先は土間になっているのが見える。けれど襖が完全に開かれている訳ではないから、隣の部屋が具体的にどんな造りになっているのかは解らない。
 と、混乱した頭でぼんやりとしていると、戸を開いて一人の男が家の中へと入って来た。
 一体誰だろう。
 緋一だったら良いな。
 そう思いながら男の顔を見ると、緋一だった。彼は酷く慌てた様子で私のところまで駆け上がって来ると、ぼぅっとその姿を見上げる私を抱き締めてくれ、て――え?
「……うそ、でしょう?」
 息苦しいほどに強く抱き締められる。
 筋肉質で大きな体はそのままで、けれど耳元からは嗚咽が聞こえた。
 でも、私には何が何だか解らない。
「……なん、で? だってもう緋一は、私の夫は……」
 呆然と呟く私に答えたのは、誰でもない愛する夫の声で、
「嘘じゃない。俺は、ここにいる」
「……緋一?」
「俺だ。キスメ」
「……」
 思考が完全に停止する。
 心が激情に翻弄される。
 どうしたら良いのか解らない。
 目の前の現実を、心の中の冷静な私が否定する。
 けれど私は、この状況に卒倒しそうなほどの喜びを感じていた。
 今すぐ緋一を抱き締めたい。でも、そうしたら何もかもが泡沫のように消えてしまう気がして動けない。
 嗚呼、一体何なんだこれは。
 私は緋一に逢いたいとずっと望んできた。でも、それが無理だって事は解っていたのだ。だからもう全てを諦めて、死を受け入れて……。
 ああ、そうか。つまり私は死んだのか。だから、こうして――と、そう思ったところで、
「――貴女はまだ生きているわ。キスメ」
 聞こえてきたのはさとりの声。久しく逢っていなかった、今は地霊殿の主である彼女は、見た事の無い少女を引き連れ、開け放たれたままになっている玄関に立っていた。
「そして、彼は貴女の夫である緋一さんで間違いない。それは私が保証するわ」
「で、でも、だって、あの人、は、」
「落ち着いて」
 真っ直ぐに私を見つめて、諭すようにさとりが言う。
 そして彼女は、その事実を口にした。
「緋一さんは人間ではないの。彼は――

 ――彼はね、『鬼』なのよ」

「……お、に?」
 それは妖怪の中で最も強い力を持ち、義に厚く、だからこそ人間に失望してしまった者達の名前。
 私はさとりに向けていた視線を緋一へと戻し、震える声で問い掛ける。
「……おに?」
「……ああ」
 深く頷いて、緋一が体を離した。
 それに悲しさを感じながらも、私は彼の顔を呆然と見上げる。涙の残るそこに嘘は無く、それでも私は問い掛けていた。
「じゃあ、貴方は本当に緋一なの?」
「そうだ」
「ここは、極楽じゃないの?」
「違う。現実だ」 
「……」
 おずおずと手を伸ばし、彼の手に触れる。
 その厚い胸板に触れる。
 その頬に触れる。
 その体を、抱き締める。
「……」
 薄い生地の洋服の下には筋肉質の体があって、そこにある数々の傷の位置を指先は覚えていた。
「……」
 そして今度は、『いつもの』ように、彼に優しく抱き締められて。
 何もかも、一緒で。
「ッ、――!」
 ぼろぼろと涙が流れ出すのを感じながら、まるで子供のように泣き声を上げる。

 愛する人が、そこにいた。



 声にならない。何も考えられない。ただ必死で緋一にしがみ付きながら、声を上げて泣きじゃくる。
 悲しかった。苦しかった。辛かった。謝りたかった。離れたくなかった。ずっと一緒に居たかった。私はしゃくり上げながらそう呟き……一つ一つの言葉に頷いてくれる緋一の存在に、また涙が溢れ出す。
 その感情の高鳴りが収まり、どうにか自分で涙を拭えるぐらいの余裕が戻ってきたのは、それからかなり時間が経ってからの事だった。
 鼻を啜り上げながら、緋一の背中に回していた手を離し、私達の間にほんの少しだけ間を作る。そして私は、改めて愛しい夫の顔を見上げた。
 彼は少しだけ皺の増えた、けれどあの頃と何も変わっていない優しい笑みを浮かべていて、それが嬉しくて堪らず、私はそのままその腕の中に戻ろうとして――視界の端にさとりの姿を見付けた瞬間、まるで時を止められたかのように動けなくなった。
「……」
「……」
 赤い顔をしている彼女と無言で見つめあい、次に第三の眼とも目が合って、更にはその隣に立つ黒髪の少女の酷く気まずそうな視線に気付く。刹那、私は自分の顔が一気に熱くなっていくのを感じ――その視線から逃げるように緋一の腕の中へと隠れた。嗚呼、恥ずかしい……!
 泣きじゃくる姿を見られただけではなく、感情の箍が完全に外れた心の声まで聞かれてしまったのだ。それは裸を見られるよりも恥ずかしい事だった。
 でも、まださとりで良かったとも思う。彼女との付き合いはまだ一年ほどしかないけれど、その人となりは良く解っている。だからこうして恥ずかしい場面を見られても大丈夫……ではなかった。やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。
「ねぇキスメ。そうは言うけれど、私だって恥ずかしいのよ?」
 声に顔を上げると、真っ赤な顔で気まずそうに私を見るさとりの姿があった。見慣れないその姿は、まるで恋する少女のようでとても可愛らしい。と、そんな場違いな事を思って、私はその理由にようやく気が付いた。
「そう。そこまで強く想われたら、流石の私だって当てられるわ。……全くもう」
 恥ずかしげに言って、さとりが私達から目を逸らす。目の前で二人分の心を、感情の発露を思いっきり見せ付けられたのだ。相手の心を読む事に慣れているとしても、どうしても影響を受けてしまうのだろう。
 緋一もそれに気付いたのか、さとりへと小さく頭を下げ、
「すみません、さとりさん。こうしてキスメに逢えたのも、貴女のお蔭だというのに」
「い、いえ、別に構いません。……失礼な言い方ですが、こうなるのは事前に予測していましたから」
 そうして深く息を吐くと、さとりは改めて顔を上げ、同時に第三の眼が一つ瞬きをした。
 その様子に緋一も、さとりの隣に立つ少女も特に驚かない。酷い見分け方だけれど、二人とさとりは知り合いなのだろう。
「ええ、そうよ。私が地霊殿に住み始めて数日後に、緋一さん達と出逢ったの」
 それは丁度、私が洞窟へと下りた日の事だった。
 地霊殿の運営が始まり、鬼達はさとりを宴会に招いた。盛大に開かれていたその宴会は、誰も彼もが陽気に酒を呑んでいて……けれどその中に、一人浮かない顔をしている男が居た。
 どうやら仲間に無理矢理引っ張って来られたらしく、その心の中に楽しげな色は全く無い。それどころか、彼の心は強く深い悲しみに満ちていていた。
 とはいえ、その場に集まった鬼達の中には、幻想郷の外からやって来た、つい最近まで人間を信じていた者達も多かった。それを鑑みるに、人間に裏切られて傷付いているだけなのだろうと、さとりはそう判断し、その男から意識を外そうとして――
「『キスメ』と、そうはっきりと考えているのが解った。一瞬勘違いかと思ったけれど、それを確かめる為にも、私はその男に――緋一さんに話を聞いたの」
 結果的に、それがさとりの能力を鬼達に知らしめる事になったらしく……と、そう話を聞きながら、頭の中に嫌な想像が浮かぶ。けれど、鬼は陽気な種族だというし、きっと大丈夫な筈だ。そう思いながらさとりを見ると、けれど彼女は悲しげに首を横に振るだけだった。
「……そして私は、緋一さんがキスメの夫である事を知って、地下へ降りてきているかもしれない貴女を探し始めた」
 でも、見付からない。だって私は、地下都市へ入ってすらいなかったのだから。
 そんな中で日々は過ぎていき……そして今日、地上からルーミアが現れた。
 あの場にやってきた萃香という鬼は、自分の体を霧のように霧散させる事が出来、その力を使ってヤマメや橋姫を宴会に呼ぼうとしていたらしい。だからルーミアが現れた事にも気付いたのだという。
「突然の侵入者に、萃香と共に宴会をしていた鬼達も一緒になって向かって行って……そこで、貴女を見付けたの」
 そうして私は、この家に運び込まれたのだ。でも、どうしても気になる事があった。
「ルーミアはどうなったの?」
「ルーミア? ああ、『あの宵闇の妖怪』ね。大丈夫よ。彼女はすぐに負けてしまって、そのまま地上へ送り返されたわ。その弱さでは何も出来ないと判断されたみたい。鬼は大らかだから、明日にはそれが酒の肴になっているでしょうね」
 ルーミアは普通の妖怪よりも力が強く、闇を生み出す事も出来るけれど、純粋な強さで言えばそれほどではない。本人には不服だろうけれど、それが功を奏したのだろう。
 私はさとりの言葉に安堵の息を吐き、けれど『鬼は大らかである』という言葉をあっさりと告げるさとりの強さに何も言えなくなってしまう。そんな私を敢えて無視するように、さとりは説明を続けた。
「酒の肴という意味では、キスメも一緒よ。地下都市に住む鬼達は、洞窟の中間付近でぶら下がり続けていたキスメの事を全く知らなかったのだから」
 とはいえ、一部の妖怪はヤマメから話を聞いて『釣瓶落としの妖怪が居る』という事だけは知っていたらしい。けれど人口の大半を占める鬼達がそれを知らないのでは意味が無い。
 だから私はルーミアと共に襲われる事になり――
「キスメを助けて下さったのは、ヤマメさんという土蜘蛛だったんだ」
 そう緋一が呟く。いつものように洞窟に巣を張っていた彼女は、突然大手を振ってやってきた鬼達に驚き、そしてルーミアとの戦闘の一部始終を遠くから見届けていたのだという(好戦的な彼女だけれど、流石に鬼に混ざって戦う気にはならなかったらしい)。
 そんな時、闇の中から私が落ちてきた。
 洞窟の壁にぶつかって意識を失っていた私は、彼女の糸に受け止められた事で致命傷を負わずに済み、そしてすぐに地下都市へと運ばれたのだそうだ。
「そこでさとりさんがヤマメさんを見付けて、手当てを受けたキスメをここに運んで下さったんだ。ヤマメさんは、お前が負った傷から感染症が発生しないように術を施して下さった後、住処へと戻って行った。
 その見送りをして戻ってきた時に、キスメ、お前が目を覚ましたんだ」
 だからあの時、家には誰も居なかったのか、そう納得する私を前に、さとりが隣に立つ少女へと目配せをした。そして一歩外へと踏み出し、
「大まかな部分はこれで伝えられましたし、私は一度お暇します。また後日、キスメの様子を窺いに来ますね」
「ま、待って!」
 微笑んで帰って行こうとするさとりの背中を引き止める。
 私に関する事情は解った。でも、さとりに――古明地姉妹に対する事はまだ何も聞けていない。詳しい事はここで話せないとしても、この場で聞いておかなければならない事が一つだけある。
「こいしは、元気にしているのよね?」
 心に浮かぶのは、決して錯覚ではなかったこいしの姿。
「……そう。あの子はキスメに逢いに行っていたのね」
 そう呟いて振り返ったさとりは、悲しみと辛さの入り混じった表情で私を見つめ、
「私が甘かったの。私達への感情は、地上も地下も変わらなかった」
「そんな……」
「……そしてあの子は、他者から嫌われないよう、自ら第三の眼を閉ざしてしまったの」
 第三の眼は相手の心を読み、そしてその眼から伸びる管はさとり達の心にも繋がっている。それを閉ざしてしまったという事は、その心を閉ざしてしまったのと同じだった。
「今のあの子は誰の心も読めず、かといって誰の心にも留まらない無意識の存在になってしまった。……でも、あの子を、妹を嫌わないで欲しいの」
 その言葉は私に対するもの以上に、この場に居る緋一達への言葉でもあるのだろう。私達が頷き返すと、さとりは儚く微笑み、
「では、私はこれで。……また一緒にお茶を飲みましょう。私はいつでも、地霊殿に居ますから」
 その言葉と共にさとりが歩き出す。同時に、彼女の隣に立っていた少女もそれに続き――しかし不意に立ち止まると、私へと少々鋭い視線を向けた。
 いや、違う。彼女は、まるで大切なものを横取りされてしまったかのような、拗ねているかのような表情をしていた。私にはその意図が解らず、戸惑いながらも、それでも彼女へと視線を返す。
 美しい娘だと思う。腰まで伸びた緑の黒髪に、すらりとした体。女性的でありながらも決して弱々しくない、芯の通った立ち姿。そして、頭の両脇から伸びる立派な美しい角が、彼女の種族を示していた。
 けれどその表情が、少しずつ不安げなものに変わっていく。
 私は、その不安げな眼差しを知っていた。
 確証は無い。ただの予想でしかない。けれど今この瞬間を逃したら、私は取り返しの付かない失敗をしてしまうという直感がある。
『何を恐れているの?』
 冷静な自分が言う。嗚呼、そうだ。今更何を恐れよう。『違ったらどうしよう』などと、何を馬鹿な事を考えているのだろう。
 愛しい我が子の顔を忘れる親なんて、居ないのだから。
「――萌黄」
 途端、少女の表情が一変した。私の言葉に眼を見開いたかと思うと、すぐにそれが泣きそうになり、けれど涙を見せる前にぷい、と背中を向けてしまった。
 いや、涙を見せたくない、というよりも、戸惑いの方が大きいのだろう。私達は、もう四十年以上も離れ離れになっていたのだから。 
 私は緋一に支えられながら立ち上がると、土間に立ち尽くしている萌黄のところへと歩いて行く。あんなにも小さかった私の娘は、今や私よりも背が高くなっていた。
 彼女が私の事をどう思っているのかは解らない。いや、目の前で消えてしまった母親に、決して良い思いは抱いていないだろう。
 それでも私は、湧き上がる想いを止められなかった。
「……ただいま、萌黄」
 拒絶されても良いと覚悟を決めて、その細い体を抱き締める。途端、萌黄が驚いたように体を震わせ……けれど決して嫌がりはしなかった。私はそれが嬉しくて、申し訳なくて、強く強く娘を抱き締めながら、再び涙を流したのだった。

■  

 そうして、萌黄がさとりを見送りに行き……改めて緋一と二人きりになると、途端に何を話して良いのか解らなくなった。
 謝らなければならない事、そして聞きたい事が山ほどある。なのにそれが上手く言葉にならない。それは緋一も同じなのか、私の顔を見ては何か言い掛け、けれどすぐに俯いてしまう。同じように私も緋一の顔を見上げ――そこでようやく、彼の頭に立派な二本の角が生えているのに気が付いた。
「……あなた、その角」
 思わず呟いた言葉に、「あ、ああ、これか」と緋一が自身の角に触れ、
「蒼太と暮らしていた頃は、妖術で角を隠していたんだ。……そういえば、お前にこれを見せるのは初めてだったな」
「そういえば、萌黄にも立派な角が生えていましたね。でも、子供の頃のあの子には……」
「鬼は成長が遅い種族だからな。角も長い時間を掛けて生えてくるんだ」
「そうだったのですか」
 そうして話し始めてしまえば、私達は過去のあの頃のように自然と言葉を交わす事が出来た。
 それに決心が付いたのか、緋一は改めて私を見つめ、
「……詳しい話は、さとりさんから聞いたよ。キスメが俺の事を人間だと思っていたように、俺と蒼太もお前の事をずっと人間だと思っていたんだ。だからこそ、俺は自分が鬼だと言い出せなかった。お前に惚れていたのは、本当だったから」
「それは私もです。ああして暮らしている内に、私は自分が人間になったように思えたのですから。でも……」
 隠し事を抱えていた私達のところへ、何も知らないルーミアが現れた。
「お前が消えてしまった後も、俺はお前が人間だと信じていた。あれはただ、あの妖怪にたぶらかされたんだと、そう思っていたんだ。だから俺は、必死の思いでお前を探し始めた」
「探して、くれていたのですか?」
「当たり前だ。お前の居ない生活など、俺には考えられなかった」
 けれど私は、緋一達に嫌われる事を恐れて逃げ続けていた。彼が私を人間だと思っていた以上、空を飛んで山を越えたりしているとは思わなかっただろうし、もし探している方向と私の進んだ方向が一緒だったとしても、その足取りが一致する事は無かっただろう。
 過去を思い出しているのか、緋一は悲しげな表情を浮かべ、
「幼い萌黄を連れて、色々な場所を廻った。けれどそれが五年、十年と過ぎていく内に、もうお前は生きていないんじゃないか、と思うようになってしまった。それでも俺は諦められず、お前を探し続け……そんな時に、この旧都に暮らす鬼達と出逢ったんだ」
 人間に失望していた彼等は、緋一達を地底界へ――そこに築かれたこの地下都市へと誘ったのだという。
「最初は断っていたんだ。けれど、『もうキスメは生きていないかもしれない』という想像が足を引っ張った。それに、もしお前が生きていたとしても、俺はこうして年を取るのが極端に遅い。何十年も前に別れた男が、その当時と全く変わらぬ姿で現れたら恐れられるに決まっている。……何より、萌黄にこれ以上淋しい想いをさせたくなかった。だから俺は、萌黄を連れて旧都へと向かったんだ」
「ごめんなさい、私のせいで……」
 私が逃げ出してしまったせいで、家族の生活は全て壊れてしまったのだ。それなのに萌黄があんなにもしっかり育ってくれたのは、ひとえに緋一のお蔭だった。
 だからこそ、私は自身に対する怒りで涙が出そうになる。それをどうにか堪えながら、緋一へと頭を下げようし――けれど、再び彼に抱き締められた。
「言うな。俺もお前から嫌われたくなくて、逃げ出していたようなものだったんだ」
「あなた……」
 蒼太が生きていたならば、『お前等は似たもの同士だな』と笑うだろうか。そう思ってしまうほどに私達は同じ事を悩み、逃げ続け、けれど愛し合っていた。その事実が嬉しく、そして悲しい。
 何も恐れる事など無かった。ただ一言『自分は人間ではない』と告白するだけで、私達はあの別れを経験せずに済み、萌黄にも淋しい思いをさせずに済んだのだ。
 そう思う私を解放すると、緋一は改めて私の正面に腰掛けなおし、おもむろに着物の袖を捲り始めた。そして軽く肘を曲げ、そこにある傷跡を私に見せると、
「俺が鬼であるとお前に言い出せなかったのには、理由がある。それがこれだ。……この傷は、そして蒼太を殺したあの呪いは、人間から受けたものだったんだ」
 ――それは、昔々の物語。
 ある山奥に赤鬼と青鬼が暮らしていた。二人は仲良く日々を暮らしていたが、けれど赤鬼にはある考えがあった。
 それは、人間と仲良くなりたい、というもの。しかし彼は鬼であり、どうやっても人間に受け入れては貰えなかった。
 そんな時、青鬼がある提案をしてきた。それは自分が人里を荒し、赤鬼がそれを追い払う事で、『赤鬼は良い鬼なのだ』と人間に理解して貰おうというものだった。
 結果、その作戦は成功し、赤鬼は人間に受け入れられた。だが、赤鬼は気付いていなかった。人間は、決して青鬼を許していなかったという事に。
 赤鬼が人間達と触れ合っている間、青鬼は人間達に追われ続けた。
 そして遂に追い詰められ、退治されてしまった青鬼は瀕死の重傷を負い……赤鬼がその事実に気付いたのは、久方ぶりに青鬼の家へ訪ねに行った時の事だった。
 そこには、傷が癒えるのを耐えていた青鬼と、彼が残して行こうとしたのだろう手紙が一つ。
『――どこまでも君の友達、青鬼』
 それを読んだ赤鬼は嘆き悲しみ、けれどそれを人間達に見られてしまった。赤鬼の事を仲間だと言ってくれた人間達は、赤鬼の話も聞かず、彼を敵だと切り捨てた。
 いや、人間達は赤鬼の事を信じていたのだ。だからこそ、裏切られたと思い込んでしまったのだろう。
 そして人間達は武器を持って赤鬼へと襲い掛かり……青鬼を護る為、赤鬼はその暴力を一身に受け続けた。
「……そして赤鬼と青鬼はその土地を離れ、遠く離れた山奥で樵として暮らし始めた」
 けれど、演技だったとはいえ、一度親友である青鬼を――蒼太を失い、そして人間との絆も一瞬で失ってしまった緋一は、相手に裏切られる辛さを、恐怖される苦しみを誰よりも知っていた。それなのに、彼は私を助けてくれたのだ。
 だというのに、私は緋一を裏切ってしまった。そこで得た絶望は、私のそれとは比べ物にならないほど深かったに違いない。
「私が素直にならなかったばっかりに……」
 謝っても謝りきれない。そう思う私を前に、しかし緋一は優しく微笑み、
「俺がそうだったように、キスメも『嫌われたくない』『恐れられたくない』という気持ちから正体を隠していたんだろう? なら、それは立派な理由だ。謝る事は無い」
「で、でも!」
「良いんだ」
 そうして、再び抱き締められる。今度は強く、離さないと言わんばかりに。
「……宵闇の妖怪がやって来た夜、俺には恐怖があった。あの時、俺はすぐにでも相手に立ち向かえた。けれどそれは、俺の正体を知られる可能性にも繋がる。俺は、お前に恐れられたくなかったんだ」
 だが、
「あの時、こうしてお前を抱き留めていれば良かった。恐れられる事よりも、失う事の方がずっと恐ろしいのに、俺にはその『別れ』が想像出来なかった。俺達は何があってもずっと一緒に暮らしていけるのだと、そう思い込んでいたんだ。その結果、俺は大切な家族を失った。……謝るのは、俺の方だ」
「ですが、私は――」
「キスメ」
 耳元で響く声に、思わず言葉を止めてしまう。対する緋一は私への抱擁を解くと、しっかりとこちらを見つめ、その言葉をくれた。
「俺達は夫婦だ。俺は、今でもそう思っている」
「緋一……」
 過去を悔いるのは止めにしようと、その目が語っていた。私はそれに答えるように、彼の胸へともたれ掛かる。
 だってそう、私達は奇跡的にもこうして再開し……そしてまた、再び一緒に暮らしていく事が出来るのだから。
 



 


 ――そうして、百余年。
 私は、桶の中に居た。
「……」
 見上げる空は遠く高く、眼下には暗い闇が拡がる。冷たく湿った空気が全身を包み込み、思考が少しずつぼやけていく。
 人によっては不快かもしれないその空気は、私にとっては胎内に居るのと同じようなものであり、そのまま眠ってしまいそうなほどの安堵を感じる。恐らくそれは、釣瓶落としとしての性なのだろう。
 そんな事をぼんやりと考えながら、私はそっと目を閉じ――その瞬間、目の前がぱっと明るくなった。
 驚きながら目を開くと、そこには青白く冷たい幻想的な輝きがあった。鬼火と呼ばれる、触れた者の精気を奪うその炎は、けれど私にとっては馴染み深い愛しい揺らめきだ。
 何故ならばこの鬼火は、愛する娘が生み出したものなのだから。
「何やってるの、おかーさん」
「あ、萌黄。お母さんね、つい入ってみたくなっちゃって」
 頭上から響いてきた呆れ交じりの声に笑みを返しながら、私は入り込んでいた井戸から外に出た。そんな私の様子に苦笑していた萌黄は、私と一緒に出てきた桶に少し驚いた顔をしながら、
「新しく掘った井戸の調子が良いのは解るけど、勝手に釣瓶を大きくしちゃ駄目だって決めたじゃない」
 この井戸はつい最近掘られたもので、近所の皆で一緒に使う共同の井戸でもある。とはいえ私は釣瓶落としであり、井戸の中というのは種族の特性上どうしても入ってみたくなってしまう場所だった。とはいえ、流石にそれはご近所様の迷惑になるからと、釣瓶を勝手に大きくしないよう家族会議で決めたのだ。
 でも、私には秘策があった。
「それは大丈夫。この桶は自前のだから。ご近所さんの迷惑にならないよう、ちゃんと事前に準備しておいたの」
 偉いでしょう? そう少し胸を張りながら言ってみると、愛娘は大きな溜め息を吐き、
「全くもう」
 呆れと共に呟いて、そのまま私のおでこをぺちりと叩いた。
「あうっ」
 普通に痛い。同時に娘に手を上げられたという衝撃で思わず涙が浮かびそうになってしまう。そんな私を前に、萌黄はもう一つ溜め息を吐くと、
「もう。これじゃあどっちが親か解らないじゃない」
 そう苦笑と共に呟いて、そっと私を抱き締めてくれた。背の高いこの子は桶の中に座っている私を十分抱き締める事が出来て、そしてその胸は暖かく柔らかい。
「……実の娘に対して羨ましいなんて思ってないからね」
「成長が遅いだけなんでしょ?」
 そう言って、屈託無く萌黄が笑う。その言葉に文句を言いたくなりつつも、私はそっと彼女を抱き返した。
 鬼である緋一の血を色濃く受け継いだ萌黄は、女の鬼らしい女性的な体へと成長した。私に似ているのは少々童顔に見えるその目つきと緑の黒髪ぐらいだろうか。四十年ぶりに再会した時はまだ成長途中だったようで、今では大人の色香漂う素敵な女性になった。
 が、しかし、母親である私は百年前から――というよりも生まれた時から何一つ変わっていない。私は人間の感じる恐怖心や想像力から生まれた妖怪だから、一度その姿が形付けられてしまった以上、その外見も変化する事がないのだ。
「まぁ、私は良いけどね。おかーさん可愛いし」
「も、萌黄の方がお母さんよりも可愛いのよ?」
「はいはい、解ってるわ」
 そう言って頭を撫でてくれる萌黄は、もしかすると私を妹のように感じているのかもしれない。そこに少しは『母の威厳』を挟み込みたいと思うのだけれど、上手くいかない毎日だ。
「お母さんなのに……」
「はいはい、解ってるから」
 そう優しく呟く萌黄を、ぎゅっと強く抱き締める。何気無い事だけれど、私にはそれが何よりも嬉しかった。



 桶を元の大きさに戻すと、私は萌黄と一緒に自宅へと戻った。
 少し前に屋根に開いた大穴――旧都に現れた人間と、勇儀との弾幕ごっこによって空けられてしまったもの――は綺麗に塞がれ、張り替えた畳に腰掛けると、藺草の匂いが鼻をくすぐる。
 あの時の騒ぎで被害を受けたのはうちだけではなく、けれどそれ以上に重要な事が灼熱地獄跡で起こっていた。
 と、私と同じ事を考えていたのか、萌黄が少々不安げな声で、
「でも、まさかあのお空が神様を飲み込んでいたなんてね」
 それは、灼熱地獄跡から間欠泉が噴き出した事から始まった異変の事だ。
 あの日現れた二人の少女は、ヤマメのところへ遊びに行っていた私を吹き飛ばし、祭りの事を皆に伝えていたヤマメを昏倒させ、パルスィの嫉妬を難なく回避して旧都に入ってみせた。そして、宴会を開いていた勇儀と勝負しながら地霊殿へと進むと、そのままさとりやお燐の相手もし……最終的には、灼熱地獄跡で調子に乗っていたお空すらも倒してしまった。
 詳しい話を聞けば、彼女達は人間だったらしく、私は地上の人間がそこまで強くなったのかと恐ろしくなった。
 何年か前に妖怪の賢者から親書が届き、スペルカードルール自体は旧都にも広まっていた。とはいえあれは弾幕を使った勝負であり、私はともかく、勇儀やさとりが負けるとは思わなかった。
「でも、勇儀姐さんはそうは思ってなかったみたいだよ」
「勇儀が?」
「うん。それにね、『萃香が戻って来ない理由が解った』って笑ってた」
『緋一の嫁』として旧都の鬼達に認識されてからこちら、私は様々な鬼とも交流を持つようになっていた。
 というか、実際には一目置かれている状況にある。その理由は『地霊殿の主を恐れないから』というもので、正直うんざりしているのだが……中にはそうではない者達も存在していた。
 それが萃香や勇儀といった、過去に四天王と呼ばれた女達。『アンタの一途な生き方に惚れた』とかなんとかで、それ以降宴会に誘われたり家に招いたりと交友を深めていた。
 だから萃香が地上へ向かった時は驚いたし、戻ってこない事にも不安があった。けれど、人間の巫女が携えていた珠から、勇儀は地上に居る萃香と少し話をする事が出来たらしい。そうした上での判断なのだから、きっと萃香は地上でも楽しく過ごせているのだろう。
 とはいえ、それは私には無い精神力だと思う。というより、忌み嫌われながらも生き長らえて来た者達の多いこの旧都で、こんなにも打たれ弱いのは私ぐらいだろう。
「……萌黄は、地上が気になる?」
「んー」
 彼女は思案するような、それでいて私の様子を窺うような意地悪な目付きでこちらを見る。淋しい想いをしてきた反動なのか、百年以上経った今も、萌黄はこうして私を試そうとする。けれど、それを真っ直ぐに受け止めてやれないぐらいに私は駄目な親だった。
 だってそう。喪失の恐怖は、親としての成長を簡単に塗り潰す。
 対する萌黄は、そんな私の手をそっと握ると、
「――私はどこにもいかないわ。だからそんな泣きそうな顔しないでよ、おかーさん」
 そう言って萌黄が苦笑する。私は「ごめんね」と小さく呟いて、それでも萌黄を抱き締めた。
「子供扱いしないでよー」と小さく彼女が講義の声を上げるけれど、私にとって萌黄はいつまでも『子供』なのだ。それは年齢を重ねても変わらない、唯一のものだった。
 そうして愛娘を抱き締め続け……どうにか落ち着いたところで、玄関の戸が開いた。
 見れば、そこには仕事から戻ってきたのだろう緋一の姿。彼は私達の様子に不思議そうな顔をして……と、萌黄が緋一を手招きし、そのまま私は二人に挟まれる形で抱き締められた。
 ちょっと苦しい。
 でも、これが、私が再び取り戻す事の出来た幸せだ。この幸せを感じられる事を強く喜びながら、私は家族の暖かさを感じ続けた。



 夕飯後、私達一家は旧都の外れへと向かっていた。その途中に見えてくる地霊殿に何気なく視線を向けていると、緋一が同じように地霊殿を見つめ、
「そうえば、さとりさんの様子はどうだったんだ?」
「元気そうでしたよ」
 地上から二人の人間がやって来てから数日後。詳しい事情を知った私は、さとりの様子を見に地霊殿へと向かったのだ。
 そこで私が見たのは、姉へと一生懸命に話をしているこいしと、それを優しい表情で聞いているさとりの姿だった。どうやらこいしは地上で件の人間と戦ったらしく、彼女はその時の様子を姉に話して聞かせていたのだ。
 その様子に私はすぐに帰ろうとしたのだけれど、お燐に見付かってしまって、そのままさとり達と一緒にお茶を頂く事になり……正直、私は第三の眼を閉ざしてしまったこいしと何を話して良いのか解らなかった。この百年、さとりとは良く逢っていたけれど、こいしはその姿を時折見掛けるだけで、昔のように話をする事は無かったのだ。
 けれど彼女はそんな事を気にする様子も無く、私にも地上の、そして自分を負かした巫女と魔法使いの話をしてくれた。
 その様子は、第三の眼を閉ざしてしまう以前の彼女と変わらないもので……だからきっとこいしは――いや、彼女達古明地姉妹は大丈夫だと、そう感じたのだった。
 そうでなければ、妹の事で深く悩んでいたさとりが、あんなにも幸せそうな表情を浮かべる事はなかっただろう。
「そうか、なら良かった」
「ええ、本当に」
 私達一家がこうして再会出来たのは、全てさとりのお蔭なのだ。彼女には幸せになって欲しいと、心から思う。
 ……というか、改めて考えてみると、私は恐ろしくもあるあの人間達に感謝しなければならないのかもしれない。
 こいしの事もそうだが、二人の少女が旧都に現れた事で、地上と地下に交流が出来ようとしている。旧都への出入りも自由になったという話も聞いたし、今度は正式にルーミアを旧都に呼ぶ事も出来るだろう。
 何せ彼女とは百年以上逢っていない。もしかしたら、彼女は私の事を忘れてしまっているかもしれないけれど……それならば、また一から仲良くなって行けば良い
 今ここに居る私は、ルーミアと出逢えたからこそ存在しているのだから。
 そんな風に思いながら、私は愛する家族と共にゆっくりと夜道を歩いて行く。
 見えてきたのは、巨大な墓所だ。旧都で亡くなった妖怪を弔う為に作られたここに、立派な墓がある。それは蒼太の、彼を埋めた場所の土を新たに埋め直した墓だった。
 私達は彼に今日一日の報告をして、その場で手を合わせる。
 さとりが私達を再会させてくれた恩人なら、蒼太は私と緋一を結び付けてくれた恩人だ。彼の死から百年以上経った今でも、その感謝を忘れる事はない。
 そうして一日最後の日課を終えた私は、右に緋一、左に萌黄の手を取って、帰り道を歩き出す。
 その途中、ふと、過去に『幻想』という言葉を教えてくれた金髪の少女の事を思い出した。
 この旧都という場所は、言ってしまえば幻想の中に封じられた幻想だ。そういったものさえも受け入れた幻想郷は、見方を変えれば残酷な場所とも言えるのだろう。
 でも、私はそれを残酷だとは思わなかった。
 何せここは失われた幻想の楽園だ。そうやって幻想郷が全てを受け入れてくれたからこそ、私はこうして生きていられて――こうして愛する家族と再会し、失ったと思っていた生活を取り戻す事が出来たのだから。


 さぁ、一緒に帰ろう。
 手を繋ぎ、歩幅を合わせ、暖かな幸せに満ちた我が家へと。












end

  
  
参考文献 『泣いた赤鬼』/浜田廣介著 


*おけのなかにいる!*
という事で、キスメさんのお話でした。長いお話でしたが、楽しんで頂けたなら幸いです。
 
宵闇むつき
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コメント



0.1840簡易評価
2.90名前が無い程度の能力削除
確かにあの童話のまんまじゃないか。
全く気付けませんでしたが読み返して納得。一本とられました。

波瀾万丈のキスメのおんな一代記。最終的にみんなが笑顔で本当に良かった。きっと蒼太も笑ってますよね。
あなたの作品から漂ってくる優しさにいつも癒されます。ご馳走さまでした。
3.100名前が無い程度の能力削除
よかった
うんよかった、キスメメインの名作なんて初めてよんだきがする
4.100煉獄削除
キスメの話、面白かったです。
緋一たちとの出会いや別れとか、その後もずっと互いを想い続けていたり、
地底に行く話やキスメの心情などとても見応えがありましたし、幸せな家族姿も良いものでした。
12.100名前が無い程度の能力削除
自分の中のキスメのイメージとかけ離れているのに、何故か納得できるお話でした。
緋一と蒼太だ赤青ってのは気付いてましたが、まさか童話とは……

ルーミアがツボでしたねwww
15.100名前が無い程度の能力削除
蒼太の死ぬ時のセリフで妖怪なんじゃないかと思ったけど
赤鬼、青鬼にやられた
18.100名前が無い程度の能力削除
キスメメインの長編は初めて。ここまでレベルの高いものを読ませていただき、ありがとうございました!
19.100名前が無い程度の能力削除
言われてみりゃあの童話か。一本とられた。
ただ空気読めないこと言うと、鬼さんロリコ・・・
前編は幼女のビジュアルが頭から離れなかったw
20.100名前が無い程度の能力削除
まさかの赤鬼青鬼。
またルーミアやさとりとの交流など滅多に見かけないような組み合わせなのに
読んでて違和感を感じないテンポのよさ、そしてすばらしいハッピーエンド。
実に面白かったです。

娘より幼い人妻だと…許せるっ!
23.100名前が無い程度の能力削除
泣いた赤鬼かー、言われてみるとまったくそうだ。
すごく楽しませてもらいました。
24.100名前が無い程度の能力削除
いいお話でした。
名前にその意味を含ませていたとは…
26.100名前が無い程度の能力削除
赤鬼と青鬼。なるほど、確かに童話の通りでしたね。
幼妻物語ごちそうさまでs(怪奇「釣瓶落としの怪」
29.100名前が無い程度の能力削除
楽しませてもらいました!
32.90名前が無い程度の能力削除
まさかのハッピーエンド。
鬼二人があんまり気持ちいい奴で感動した。
ルーミアもいい味出しすぎ。
34.100名前が無い程度の能力削除
いいよなぁ、こういうお話大好きだ。
桶から出て歩いているキスメさんを想像するだけでご飯3杯はいけます。
とにかくグッジョブ。
35.100名前が無い程度の能力削除
自分の中でのキスメ像を180度ひっくりかえすような
新鮮な感じでした。
42.100名前が無い程度の能力削除
キスメちゃん、ずいぶんとまぁ知的な子だったんだね。めっちゃ良い子だし
ああ本当に、ハッピーエンドで良かった。

名前が赤と青……!上のレス見てやっと気付いた。
43.100名前が無い程度の能力削除
キスメSSと言ったら?と聞かれたときの回答が出来上がりました。
こんな素敵なSSを読ませていただいて本当にありがとうございました。

それにしても泣いた赤鬼とは…。
退魔師と妖怪のコンビなんじゃないかなとか思ってたので、いい意味で裏切られました。
44.100名前が無い程度の能力削除
物語とは人物が起こした行動によって紡がれるもの。

物語の為に人物を書き起こせば、それはただのご都合主義と謗られても文句は言えない。

そうした傾向の強いオリキャラ話が、眉を顰められやすいのも当然の話。

そうではあるがしかし、この物語は素晴らしい。

登場人物たちが世界観の中で息づき、実に生き生きと描かれている。

話を書くために用意されたキャラクターは居らず、その世界に生きる人物として描かれており、オリキャラとはいえ読んでいてとても引き込まれる。

また、情景描写や人物の心情などの書き物としての基礎力も十分高く、ドラマチックな展開と相俟って読む者を惹き付けて離さない。

最後まで白けることなく、充実した時間を送らせていただきました。

大変完成度の高い物語で、読み切ってしまうのが惜しくなるほどでした。

この上質な作品との出逢いに乾杯を。
47.100名前が無い程度の能力削除
良かった。ハッピーエンドで本当に良かった。
オリ設定ばかりなのにあっさりと受け入れてしまいました。
あまりに作品が上手なのでこれが公式でもいいやと思ってしまうぐらい。
少なくとも私の中で曖昧だったキスメのイメージはこの作品で固まりました。
素晴らしい作品をありがとうございます。
49.100名前が無い程度の能力削除
いいお話でした。
50.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい
57.100絶望を司る程度の能力削除
やば、泣きそう。ハッピーエンドで良かった。
61.100クロロ削除
いい話だった。結構分量あるのに手が止まらず一気読みしてしまうくらい面白かった。