Coolier - 新生・東方創想話

モズのはやにえ

2009/08/31 07:30:11
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 草木を踏み分ける音に反応して、口の端が妖しく歪む。鳥も鳴かぬ森の奥、こんな所までやって来るのは迷い子か物好きのどちらか。前者ならともかくとして、後者ならば思い当たるのは一人の人間と一匹の妖怪だけ。
 果たして現れたのは見窄らしい格好をした人間だった。木々の枝でそうなったのか、はたまた最初からそうだったのか。彼の着ている服は所々がほつれ、薄汚れた肌が晒されている。髭も無精に生え伸び、髪も山賊のように自由奔放だ。
 それでもレミリアの瞳は彼の本質を見抜いていた。髭を剃り、髪を切れば精悍な成人男性へ変わるだろう。腕っ節こそ不安はあるものの、生まれが生まれなら句を詠むだけで持て囃される世界に生きることが出来たはずだ。
 何とも惜しい男だが、過ぎ去った運命を変えることなどレミリアにだって出来ない。大人しく今の境遇を諦め、平民として生きる他あるまい。それを分かっているからこそ、ああいった見窄らしい格好になるのだろう。目の前で立ちつくす男を見ながら、冷静にレミリアは分析を続けていた。
 一方の男は、相変わらずのしかめっ面だ。此処へ訪れるのは初めてではなく、これで五度目ぐらいだろうか。最初こそレミリアの姿を見て驚いたものの、今では悲鳴をあげることもなく真正面から自分を見つめている。
 だが彼の視線に好奇心やら、恐怖の色はない。あるとすれば、それは同情。あるいは憐憫。
 なにしろ驚くだけ驚いた後で、彼の言った言葉が「痛くはないのか」なのだから今のレミリアがいかに哀れまれる状況にあるのか再認識することができる。
 身体を縫い止めるように、肩胛骨の辺りを貫き、大地に突き刺さる黒く長い杭。まるでモズのはやにえのように、レミリアの身体は大きな杭に縛りとめられていた。
「痛むのか?」
 無言に徹していたのが、痛みを我慢しているように見えたのか。男は心配げな顔で尋ねる。
 痛くないかと訊かれれば、痛くは無いと答えよう。例え実際は身体の中を釘が暴れ回っているような激痛があったとしても、決してそれを他人に悟られるような真似はしない。それが吸血鬼としての矜持であり、レミリア・スカーレットが生きる為に必要不可欠なものだった。
 ましてや、それを人間などに知らせる必要はない。言ったところで改善されるわけもなく、ただただ矜持が傷つくだけだ。
 レミリアは激痛の中で余裕の籠もった笑みを浮かべ、自らの痛覚を放棄しようと勤める。
「物好きね、あなたも。杭に刺された妖怪が、そんなにも珍しいかしら?」
「い、いや、俺は、その……」
 しどろもどろに、あたふたと。男は手を交差したり、頭を掻いたりと忙しい。
 最初はこんな滑稽な姿を人間如きに見られて屈辱を覚えていたが、それを表面化する事の方がもっと屈辱だからと隠していた。自らを吸血鬼ではなく妖怪と評したのも同じような理由だが、考えてみれば吸血鬼と言ったところで此処の人間には理解できないだろう。
 何せ島国。どうせ説明したところで、新種の妖怪だと思われるのがオチだ。
「名前もほら、まだ教えて貰ってない……」
 聞こえるか聞こえないかの小声で、男は未練がましくそう答えた。整えれば勇ましく、そうでなければ熊のような見た目の癖に、何ともなよなよとした性格をしている。それに毒気を抜かれたのか、最近ではこの格好を見られてもあまり屈辱に思わなくなってきた。
 こんな男に見られたところで、自分の何が変わるというのか。殺す価値が無い輩も数多く見てきたが、目の前の男はそのリストでも上位に入る。
 だからこそ、そんな奴に自分の名前を教えられるはずもない。
「自分の名も言わぬ輩に、払う礼儀なんて持ち合わせてないわ。それに、私の名前を知ることができるのは部下か敵のどちらかよ。生憎と、あなたはそのどちらにも相応しくない」
「お、俺は伝助」
「……人の話を聞かないのがあなたの長所なのかしら?」
 前言を撤回する必要があろう。例え眉目秀麗だろうと、この愚劣さは救いがたい。利用するだけされて、最終的には罪を被され死ぬ人間の典型だ。例え上にいたところで、この男に日の目は当たらないだろう。
 道理で、出会う運命も見えなかったわけだ。能力が衰えたのかと心配もしたが、この程度ならノイズで済ます事が出来る。もっとも、そのノイズが時には大きな事件を引き起こすのだが、今のところその予兆は見えない。
「それで、あんたの名前は?」
 レミリアの身体を貫く杭は、ただの杭ではない。特殊な礼装が施され、妖怪の類には決して引き抜くことが出来ない杭なのだ。触ることもできない杭に貫かれて尚存在することができるのは、ひとえにレミリアの力が強い故である。これを刺した坊主もレミリアが死んだものと思って何処かに消えていったぐらいだ。
 しかし油断していたとはいえ、まさかこんな辺境の地で危機的状況に陥るとは。自らの慢心を呪いたくなる。
 だが呪うだけでは解決しない。とりあえず、何とかしてこの杭を抜いて貰われなければならない。生憎と連れ添っているのはこの島国でスカウトした妖怪。彼女の根性ならあるいはと期待もしたのだが、触れることも出来なかった。
 やはり純粋な人間でなければ、この杭を引き抜くことは出来ない。だとしたら、目の前の男は丁度良い。簡単に騙せそうだし、何よりもレミリアに哀れみを持っている。お願いするのは屈辱的だが、誘導して抜かせれば矜持にも傷がつかない。
 しかしどうしても、この男に任せるのは不安があった。だからせめて他の人間がやって来ないものかと待っていたのだけれど、ここはよっぽどの辺境らしい。伝助という男以外、レミリアを見つける者は現れなかった。
 仕方ない。この男で妥協するか。
 レミリアは大人びた笑みを浮かべて、名前を口にする。
「紅美鈴よ」
 無論、本名など教えない。どうせ偽名だって、伝助には分かるはずもないのだ。
 案の定、伝助は大喜びした。口の堅かったレミリアが、とうとう名前を教えてくれたのだと勘違いしている。何ともおめでたい頭だ。あまりに喜びすぎるので、多少の罪悪感を覚えてしまうぐらいに。
「それで、あなたは名前を知った相手を助けようとは思わないのかしら?」
「痛くはないんだろ」
「痛くはないけど、自分では抜くことができないから困ってるの」
 伝助は腕を組み、むむむと頭を悩ませた。不思議な男だ。同情しているのなら、素直に言うことを聞いて杭を抜けばいいのに。
 それとも警戒しているのか。杭を抜いて自由にすれば、自分が殺されるかもしれないと。
 もしもそうだとしたら、レミリアの言葉など意味をなさない。いくら殺しはしないと言ったところで、そんなものが守られる保証などどこにも無いのだから。
「悪いけど、駄目だ。それは出来ねえ」
「殺されるのが怖いのかしら?」
「はあ? 誰が誰に殺されるんだ?」
 素っ頓狂な顔をする伝助。釣られてレミリアも表情を変えそうになり、慌てて余裕ぶった笑みを取り戻した。
「あなたが、私に」
「お、俺を殺すのか?」
「殺しはしないわよ」
「なんだ、脅すなよ」
 恐怖から一歩下がった足を、安堵の溜息をつきながら戻す。
「………………」
 理解不能だ。死を恐れての拒絶でないとしたら、一体何が彼の首を左右に振ったのか。尋ねるまでもなく、伝助は律儀に説明をしてくれた。
「俺には妻がいるんだが」
 その言葉に、片眉が僅かに反応する。こんな男にも妻がいたとは、世の中わからないものである。
「その妻が言うんだよ。そんな妖怪には会ったら駄目だし、触るなんて以ての外だって」
「でも、こうして会ってるじゃない」
「ぐ……だからこそ、最後の約束は守ろうと思ってるんだ。その杭を抜こうとしたら、どうしたってあんたに触っちまう。だから俺は頼み事を聞けない」
 愚劣で融通が利かないとは、最早救いようがない。レミリアは呆れた溜息を隠しもせずにつき、足下の雑草を踏みにじった。
「だったらあなたに用はないわ。どこへでも行きなさい。私と会わないように言われてるんでしょ、ほら」
 追い返そうとしても、伝助は未練がましくこちらを見ている。足は一向に外へと向かわず、レミリアの方に向けられていた。助けるわけでもなく、さりとて見捨てる様子もなく。妻の反対を押し切ってまで訪れた割に中途半端な彼は、一体何がしたいのだろう。
 ただ一つだけ確かなことは、伝助を利用する事は不可能だということ。優柔不断そうな態度の影に、レミリアは確固たる信念の光を見た。妻と約束したんだと語った時だけ、その光は伝助の瞳に宿る。
 おそらく、いや間違いなく。いかなる手段を用いても伝助がその約束を破ることはあるまい。一つ目の約束はあっさりと破っているくせに、何とも意味不明な男である。
 レミリアはそれっきり伝助を無視し、どうやって脱出するかに頭を悩ませた。
 鳥も鳴かぬ森の奥。沈黙を尊べば静寂だけが訪れる。
 気が付けば、伝助は消えていた。










 薄暗い森とはいえ、多少の光はココまで届く。その僅かな光量を頼りに、レミリアは昼と夜を判別していた。
「ようやく、吸血鬼の時間ね」
 しかし、だからといって杭を引き抜けるわけでもない。縛り付けられている以上、昼も夜も関係ないのだ。鬱蒼と茂った木々が、嘲笑うように葉枝を揺らす。虫も鳥も鳴き声を忘れた無音の中で、聞こえてくるのは植物の奏でる音だけ。
 標本のように縫い止められていなかったら、今頃は紅茶の味を愉しみながら耳を澄ませていたことだろう。所詮は聞く者の感情一つ。今は馬鹿にしているように聞こえても、平素の精神ならこれを音楽と評したかもしれない。
 いずれにせよ、自由になれば分かることだ。繰り返す思考が滑稽で、植物たちと同じように自らも自らを嘲笑う。
「余裕ですね」
 呆れが混じっているものの、顔を見ずとも誰だか分かる。付き合いこそ短いが、その出会いは衝撃的で、何より最近のことだった。
「何処へ行ってたのかしら、美鈴」
「辺りの様子を探りに行くついでに、食料の調達を。どうせ、しばらくは動けそうにないですから」
 美鈴も妖怪。この杭を触ることもできない種族の一人だ。
 あてどもなく彷徨っていたところを、強引に門番として雇った。簡潔に纏めればそれだけの事だが、実際に詳しく話せば長くなるだろう。
「腹立たしいけど、事実であることは間違いないわ。せめてあなたが人間だったら、話はもっと早いんだろうけど」
「私が人間だったら、多分ここにいませんよ」
「それもそうね」
 前掛けから零れたキュウリやらジャガイモを見て、レミリアは眉をひそめた。はて、あれらは野生で生えるものなんだろうか。訝しげな視線を美鈴に向けると、乾いた笑いが返ってきた。妖怪というより、タヌキやイノシシにでもなった気分だ。
 調理もせずに頬張る美鈴を見ていると、尚更その気持ちが強くなる。生憎とレミリアはしばらく何も食べずとも生きていけるほど生命力に溢れており、仮に空腹となっても人の血を啜ればいいだけの話だ。口に合いそうにない輩ばかりなら、美鈴の血を吸えばいいし。食料に関してはさほど困っていない。
 問題は、やはり。
 思考はいつだって同じ場所へと帰ってくる。
「そういえば、里でお嬢様の事が噂になってましたよ」
「噂?」
「ええ。森の奥に見たこともない西洋の少女の姿をした化け物がいて、串刺しにされているのに生きているんだとか」
 まさに見たままであるが、さて誰が噂を広めたのか。考えるまでもなく、思い浮かぶのは一人の男性。そういえば妻に報告したような話をしていた。おそらくその妻から里へ広まったのだろう。
 伝助以外にも誰か訪れないかと密かに期待していたが、この分だと望みは叶いそうにない。来るとすれば精々、噂が真実かどうか確かめようと考える馬鹿者ぐらいであろう。
 いや、馬鹿でも今はやってこない。
「ここ最近は妖怪の動きも活発ですからねえ。多分、みんな怖がって誰も来ないと思いますよ」
 だからこそ力ある坊主が彷徨き、こうしてレミリアは封じられることとなったのだ。死体にでもならない限り、此処へ来る者などいない。
「となれば、どうしたものかしら。まさか坊主共に抜かせるわけにもいかないし、あなたが里でお願いしても無理でしょうね」
「封じられている妖怪を解放してくれって言うようなもんですから。誰も協力してくれません」
「力強く言われても困るのよ、まったく」
 美鈴は自由に動ける。だから彼女を利用して、里の連中を操ることだって理屈では可能だ。だが、具体的にどうやって操るのかと問われれば返答に困る。これなら運命を操る方が幾らか楽だ。
 しかしその運命も、今はレミリアの味方をしてくれない。おそらく貫く杭が邪魔しているのだろう。レミリアの助かる運命が全く見えないし、その方向へ動かすこともできない。
 どうやら自力で、何とかするしかないようだ。
 いつのまにか完食した美鈴が、無造作に地面に寝転がる。
「ああでも、何かと交換したら協力してくれる人がいるかもしれませんね」
「貨幣の持ち合わせなんてないわよ」
「違いますよ。なんか、ここらでは外国の品物が人気だそうで。日常品みたいなものでも高値で売れるんです」
 ふむ、と唸る。あからさまに西洋の物だと分かる品物なら、幾つかレミリアは所有していた。外国品の需要が高まっているのだとすれば、それらを手放して協力させる事が出来るかもしれない。
 それなりに惜しいものではあるが、背に腹は変えられないと言うし、このまま天寿を全うするよりかはマシだ。頭を下げることは出来ずとも、このぐらいなら矜持も傷つかない。
 しかし、だ。果たしてそう上手くいくものだろうか。
 いくら値打ちものといえ、封じられた妖怪を解き放つような真似をそうそうするとは思えない。何か捻りを加えなければ、この計画は水泡と帰すだろう。
 レミリアは黙りこくり、しばし思考の海へと沈んでいった。
 対抗するかのように、美鈴は夢の海へと沈んでいく。
 とうとう船に乗り込み、大海原へこぎ出した所でレミリアは声を張り上げた。
「美鈴!」
「ふぁい!」
 寝ぼけたままで元気の良い返事を出すとは、侮れない妖怪だ。これで口元からヨダレが垂れていなかったから、もう少し評価してやってもいいのに。
「私の持ってる物を幾つか、里へ行って売って貰いたいの。ただし、なるべくなら金持ちからふんだくりなさい。たかだか日常雑貨とはいえ、このレミリア・スカーレットが所有していた物なんだから。二束三文で売り飛ばしたら肉屑にしてやるわ」
 半ば本気の脅しだったが、美鈴には効き目が無かったらしい。平気な顔をして、分かりましたと立ち上がる。
 ああ、やっぱりまだ寝ぼけているのか。
「何処へ行くつもり? 今は夜よ」
「ん……」
 空を見上げ、目を細める。木々が邪魔して夜空が見えないのに、何故か美鈴は納得したように頷き、再び横になった。この調子で、明日の朝までレミリアの命令を覚えているのか。
 気にはなったが、問題はない。仮に忘れていたならば、身体に叩き込めば良いだけの話。
 身体を杭に縛り付けられようとも、手足が届く範囲ならば仕置きの一つだって出来る。
 どちらへ転ぶか、楽しみにしながらレミリアは目を閉じた。
 吸血鬼だって、夜に寝るのだ。










 家の戸をくぐるのに、若干の躊躇いを覚えるのは今日が初めてではない。伝助は家の周りをウロウロと彷徨いながら、おっかなびっくり中の様子を探っていた。
 浮気性の友人がそうやって怯えているのを見て、馬鹿な奴だと笑っていた日が遠い幻のように思えてくる。まさか自分が似たような境遇に立たされるとは、誰が予想しえただろうか。
 だが、言い訳ぐらいはさせて貰いたい。なにも伝助は浮気をしていたわけではないのだ。無論、友人のように武将たるもの女の一人や二人は囲って当然だと、胸を張って頬を叩かれるつもりもない。
 ただ、ちょっと気になる妖怪の所へ足を運んだだけで。
「さっきから、何をしているのです?」
「ひぃっ!」
 背中へおぶさるような声に、伝助の身体が小さく跳ねた。平素なら風鈴が鳴くような声だと評するものも、後ろめたければ閻魔の評決にも聞こえかねない。錆び付いた歯車のように振り返り、予想通りの人物が立っていたことで顔が硬直する。
「ゆ、百合……」
 言わずもがな、伝助の妻である。押せば倒れ、吹けば飛ぶような薄幸の女性。厳めしくも熊っぽい伝助にどうして、かくも儚げな妻を娶ることが出来たのか。里では今でも不思議がる者が後を絶たないという。
 そんな百合の茎のように繊細そうな妻に、伝助は酷く怯えていた。世の中が腕力では渡っていけないと、この妻を娶ってから気付いたのだ。
 とにかく、伝助は百合に頭が上がらない。どうしてかと問われれば、俺が訊きたいぐらいだと返す。理由は分からない。だが、まるで親が子を諭しているかのように百合の言葉には従いたくなる魔力が秘められていた。もっとも、それが効果を発揮するのは伝助に対してのみのようだが。
 いつもより見窄らしい伝助の格好に、百合は半眼の目を更に細めた。
「また、あの妖怪の所ですか……」
 質問ではない。既に彼女の中では確定している。
 伝助は何も答えられず、すまないと謝るのが精一杯だった。
「謝るのでしたら、私の言うことを聞いて貰いたいものです」
「さ、触ってはいないぞ!」
「会っても欲しくないのですが」
「………………」
 不思議と従ってしまう百合の言葉であっても、伝助の会いたいという衝動を止めるには至らなかった。あるいは、だからこそ伝助はあの妖怪の所へ足繁く通っているのかも知れない。
 百合との約束を破ってまで、会いたくなる不思議な妖怪。
 好奇心なのか、はたまた同情なのか。それは伝助自身にも理解できない。
 ただ確実なのは、愛ではないということ。百合とあの妖怪を両天秤に掛けるのなら、躊躇うことなく伝助は百合を選ぶ。この世界で誰よりも、伝助は百合を愛しているという自信があった。
 しかし、気になるのはどちらかと問われれば。秤はどちらに沈むのか。
「どうして、そこまでして会いに行くのです。見た目は少女だそうですが、相手は妖怪。どんな危険があなたを襲うか、それを思うと気が気でいられないというのに」
「すまん……」
「それは、何に対して謝っているのですか? 会ってしまった事に対して? それとも、これからも会い続けるからなのです?」
 鋭いところを突かれ、伝助は答えに窮した。百合は静かに溜息をつくと、何も言わずに家の中へと戻っていった。どこか寂しげな彼女を見ていると、眠っていた罪悪感が目を覚まして暴れ出す。
 病気でもないのに胸が痛んだ。
「馬鹿な男だね、お前は」
 胸よりも大きな痛みが背中を襲った。叩かれたのだと気付いた時には、張本人が目の前に立っている。伝助と違って小綺麗な格好をしている彼こそ、先程の三股野郎にして伝助の悪友である。
 締まりのないニヤケ顔を張り付かせながら、雅でも気取るように両手を組んでいた。
「百合ちゃんほどの美人がいるのに、餓鬼の妖怪のとこに通うとは。なんだ、お前そっちの気でもあったのか。ええ、おい」
 ゲスの勘ぐりとはこの事か。しかめっ面を隠そうともせず、五月蠅いと睨み付けた。これで怯むようなら、何と大人しい友人か。
 むしろそれが笑いの種だったらしく、カカカと妙な笑い声をあげながらまた背中を叩いた。
「その妖怪の事は俺に任せて、お前は百合ちゃんの機嫌でも取ってなっての」
「うん? あの子に何か用でもあるのか?」
「いやまぁ、ちょっとな……」
 友人は辺りを見渡し、おもむろに顔を近づけてきた。吐息がかかるような距離に、思わず顔が引きつる。
「うちの商売、知ってるだろ?」
 友人の家は南蛮渡来の商品を扱っており、近辺だけでなく隣国にも名を知られる程の名家である。目の前の男を見ているとそう思えないのも無理はないが、少なくとも家は立派だ。
「だからひょっとしたら、その妖怪が何か珍しいもんでも持ってないかと思ってね」
 わざわざ南蛮船を待つよりも、その方が手っ取り早いのは分かる。しかし、どうやって手に入れるというのか。
「勿論、無理矢理でなんざ考えてないさ。相手は封じられているとはいえ妖怪。迂闊に近づいたら、俺なんか木っ端微塵よ」
 友人は肩をすくめた。
「お前が何か気に入られて品物の一つでも貰ってくれれば御の字だと思ったんだが、それどころじゃないようだしな。まぁ、ちょいと衰弱した頃に交渉でも行ってみるさ」
 伝助の見たところ、彼女は交渉に応じるような性格をしていない。利用できないと分かったら、あっさりと切り捨てるような奴だ。仮に友人が行ったとて、封印を解かされて終わりかもしれない。
 だが、伝助は止めることをしなかった。止めて聞くような友人でもないし、百合の機嫌をとることに忙しかったのだ。
 どうせまた行くのだから、せめて今ぐらいは機嫌を直して貰わないと困る。拒絶されたところで、伝助の気持ちが揺らぐことはなかった。










 絵に描いた餅を具現化する為に動き出したはいいが、まず困ったのは売る物の選別。西洋の品に馴染みがない国の人間のことだ、何を与えても喜んでも買い取るだろう。それこそ、よっぽど胡散臭いものでなければ拒否はすまい。
 そこは気にしていない。問題は、何を売るかということ。
 持ってきた品は売っても構わない物もあれば、売るくらいなら自滅覚悟で杭を引き抜きたくなる貴重品もある。無論、後者をこんな所で売り飛ばすつもりなど毛頭ない。
 しかし、前者はいかんせん数が少ない。今にも消えそうな小さな火にくべる薪は、多ければ多いほど効果があるのだ。
 頭を悩ませ、幾つかの品々を美鈴に手渡した。どこにこんな物を持っていたのか、いたく美鈴は気にしていたが至極どうでもいいこと。原理を説明したところで理解できるはずもないし。
「とにかく、これをお金持ちに売りつければ良いんですね」
「本当は商人辺りに売りつけたいところだけど、出来れば連中は相手にしたくないわ。なにせ、それで飯を食べているような奴らだし」
 少なくとも、美鈴はあまり舌戦が得意ではないだろう。海千山千の商人共の相手をするには、些かどころか遙かに役者不足だ。
「その点、金持ちは馬鹿が多くて楽だもの。大した目も持っていないくせに、不相応な物ばかり欲しがる。金は目を曇らせるわね」
 だからこそ利用できるのだが、自分の物がそういった奴らの手に渡るのはあまり気分が良いことではなかった。もっとも、価値の分かるような奴の手にも渡って欲しくはないのだが。
 我が儘な自分が顔を出す。だが、こうするしか仕方がない。
 子供の癇癪で乗り切れるほど、事態は簡単でも軟弱でもなかった。
 諦めの溜息を、地面に吐きかける。
「後は任せたわよ、美鈴」
「分かり……ん?」
 鋭い目つきが、藪の中に向けられた。かと思えば、瞬時に姿を消す美鈴。
 この反応速度は褒めるべきところかもしれないが、逃げ足だけ鍛えられても使い辛くて困る。まぁ、今回ばかりは逃げる事が正解なのだけど。
 藪を割って現れたのは、伝助というあの男だった。
 此処へ来る確率は半々だと思っていたが、どうやら賭には勝てたらしい。これでようやく、レミリアの計画が歯車を回し始める。そんな胸中の歓喜を露知らず、伝助は窺うような動作でおっかなびっくり近づいてきた。
 妖怪に対して恐怖心を持ったというわけでもあるまい。口の端が歪むのを抑え、レミリアは尋ねる。
「何をしに来たのかしら?」
 威厳は相変わらず、しかし若干の弱さを言葉へにじませた。水も食料も与えられていない人間のように、か細い声を装う。
 伝助は驚きの顔を見せ、慌てて駆け寄ってきた。
「ど、どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたも、見れば分かるでしょう。これだけ長い間封じられていたら、どんな大妖怪だって衰弱する。童にも分かる簡単な理屈よ」
 それを聞いて引き返そうとする伝助を、レミリアは制止した。
「ちなみに、私が食べるものは人間なのだけど。ひょっとして、それを用意してくれるのかしら?」
 予想通り、何か食べ物でも持ってくるつもりだったらしい。伝助は足を止め、沈痛な面持ちで振り返る。
「悪いけど、それは無理だ」
「でしょうね。元々、そんな事を頼むつもりなんて無かったわ」
「じゃ、じゃあ! 他に何か出来ることはあるか! 俺に!」
 しばし悩む振りをして、レミリアは口を開く。
「あなたに望むことなんて、何も無いわよ。強いて言うなら、また此処へ来てくれるかしらというぐらい。でも、一度は拒絶したのに来るぐらいだから頼む必要なんて無かったかしら」
 儚げに笑い、顔を俯かせた。その表情だけ切り取れば、深窓の令嬢と騙っても違和感はない。
 見惚れていた伝助は、はっと意識を取り戻し、首を縦に振る。
「助けることは出来ないが、来るだけなら大丈夫だ。百合も、きっと分かってくれるだろう」
 百合という名前に聞き覚えはないが、おそらく妻のことだろうとレミリアは推測した。そして間違いなく、許してくれないだろうということも。
 心の中でほくそ笑み、半ば呆れたような繊細な微笑みを顔に張り付ける。会って間もない男なれど、レミリアは確信していた。伝助は毎日のように自分のところへ来る。例え妻が止めたとて、今の彼を止める事は出来ないはずだ。
 それは何故かと問われれば、自分に惹かれているからだろうと答える。だが間違ってもそこにあるのは愛情ではなく、どちらかと言えば友情か親子愛に近いのかもしれない。人間風情が父親ぶるなど考えるだけでゾッとするが、利用できる物は利用するに限る。
 とりあえずは伝助を此処へ来させるという目的は果たした。今後は毎日のように来るだろうことに多少の面倒くささは感じたものの、それも脱出するまでの辛抱だと諦める。騙すのは吸血鬼の得意技ではないが、演技は淑女の嗜みであった。
 それを不言実行するように、レミリアは無理矢理に咳をする。心配そうに駆け寄る伝助を制して、今日の所は帰ってくれないかしらと優しい口調で告げた。しかし瞳からは有無を言わせぬ眼光を放ち、伝助の拒絶を封印する。
 しきりに此方を窺っていた伝助も、自分に出来ることが無いと知ったのか、悔しげな顔で頷いてから里の方へと戻っていった。その背中は寂しげで、捨てられた童のように同情心を誘う。
「あー、彼が噂の伝助さんですか」
 逃げ足だけでなく、戻る足の速さにも定評があるらしい。いつのまにか隣には美鈴が立っており、伝助の消えた方向を物珍しげな顔で見つめていた。
「噂というのは、やっぱり里で?」
「ええ、まぁ里に寄ったところですぐ耳にしましたよ。まぁ、古今東西妖怪に魅入られた者は敬遠されがちですが、あの人はなかなかどうしてそういう訳でもないようです。どちらかと言えば奥さんを放り出して浮気とは、良い度胸してやがんなという怒りを覚えた殿方が多いような感じでした」
 吸血鬼に対する畏怖より、浮気性への憤りが勝る事は腹立たしいがレミリアの計画にとっては実に都合の良い話だ。どれだけ基礎を組み立てたところで、最後の一つが乗らなければ永遠に完成はしない。百合という女が握っているパーツは最後の一つではないものの、それに繋がる重要な部分。
 妖怪に対する畏怖が薄れれば薄れるほど、この計画は成功しやすくなる。だからこのまま行けば全てが上手くいくはずなのだが、
「美鈴、さっきの命令。忘れてないわよね?」
「勿論です。明日までには全て売り尽くしてみせますよ」
 念には念をいれておくに限る。
 姿を消した美鈴を見送り、レミリアは己を貫く忌々しい杭を睨み付けた。
「あなたとも、もうしばらくの付き合いになりそうね」
 別れが何時になるのか、運命を覗くことが出来れば容易に分かる。
 しかし、今は不可能だ。それに興を削がれる。
 窮地と呼ぶには生ぬるい状況なれど、失敗すれば未来は明るくない。日々を退屈に送る吸血鬼にとって、スリルとは何事にも代え難い余興なのだ。いましばらく、このスリルを味わっておきたい。
 保証を捨て、不確定な未来を好む。それが運命を操る吸血鬼、レミリア・スカーレットの人生を愉しむ方法だった。










「おお、美鈴ちゃん。今日も何か持ってきてくれたのかい?」
「ははは、まぁそんなところです」
 レミリアに命令されてから早五日。馴染みとなってしまった店の主に、美鈴は苦笑した笑顔を返すのだった。
 なるべく愛想よく接しているつもりだが、自分が何をしているのか分からない現状。まるで店主を騙しているかのようで、ついつい罪悪感が笑顔の邪魔をする。そうとは露知らぬ店主だけが、快活な笑い声をあげながら並べた品物に視線を走らせるのだった。
 レミリアは商人を避けろと言っていたが、見ず知らずの女から商品を買うような物好きはいない。無理して路上で売ったり、金持ちの家へ訪問するよりも、大人しく商人に売りつけた方が遙かに効率的であった。
 無論、だからといって言い値で売り渡すつもりなどない。安く買いたたくのは商人の性。幾らか値を吊り上げさせて、最終的に算盤がはじき出した値段をレミリアに報告したところ、妥当であるとの答えも貰えた。
 それからは決まって、美鈴は同じ商人の所へ足繁く通っていたのである。
「へぇ、今日は銀の……これは食器かい?」
「ええ」
 銀には退魔の効果があるとされていて、どうして吸血鬼のレミリアが持っているのか不思議だった。ちなみに当人は、「飾る食器を使う馬鹿はいないでしょ?」と語っていた。
「なかなか珍しい物だから、そうだね、これでどうだい?」
 算盤の珠は、なかなか理想的な位置に動かされていた。しかしここで妥協していては、商人達の思うつぼ。ちょっとぐらい強欲でなければ、彼らと対等に戦うことなどできない。
「せめて、これぐらいはいくと思ったんですけど?」
「いやぁ、勘弁して貰いたいね。それだと商売にならないよ」
「じゃあ、これなら?」
 武術で鍛えられた指先が、年期の入った球をつまはじく。商人は難しい顔をしていたが、やがて破顔一笑。それでいいよ、と妥協してくれた。
「美鈴ちゃんはお得意様だからね。これぐらい色とつけておいても損はないよ」
 抜け目のない男だ。要するに、これからも何かあったらウチまで売りに来ておくれと言外に臭わせている。しかも今度はこっちの言い分も聞いて欲しいとまで、言っているように聞こえた。
 人情というは厄介なもので。そうまで言われたら、こちらも妥協したくなるというもの。もしもレミリアの物でなければ、間違いなく次回は商人側の言い値で売り渡していただろう。
 店先に並べられた銀食器を仕舞い込み、店の奥へと戻っていく店主。一人になった美鈴は、それにしてもと考え込んだ。
 一体、レミリアは何がしたいのだろう。
 あれから毎日のように伝助と会っている以外には、こうして美鈴にコレクションを売らせているぐらいで。到底、何か脱出の為にしているとは思えないし、これが脱出に繋がるとも考えにくい。
 いや、あるいは美鈴の考えが及ばないところで繋がっているのかもしれない。禍福はあざなえる縄のごとし。風が吹けば桶屋が儲かるのだ。
 こうした行為が積み重なって、あの杭を引き抜いてくれるのかもしれない。今のところ、その気配は全くないが。
「そういえば美鈴ちゃん、森の奥の妖怪について何か知ってるかい?」
 戻ってきた店主が、突然そんなことを尋ねてきた。すわレミリアとの主従関係がばれたのかと危惧したが、暢気そうな顔を見るにただの世間話なのだろう。素直に答えるわけにもいかず、美鈴は首を傾げた。
「森の妖怪と言われてましても、会ったことも無いですから」
「俺の友人に伝助っていう変わり者がいるんだが、そいつときたら奥さんをそっちのけで毎日のようにその妖怪と会ってんだよ。でだ、そいつが言うにはその妖怪。何でも最近、段々と衰弱してるときた」
 ああ、と心の中で相槌をうつ。そういえばレミリアは伝助と会う時だけ、妙に自分が弱々しく見えるような芝居をしていた。
「伝助の野郎は心配してたみたいだけど、俺はむしろ安心したね。どんなおっかない妖怪だろうと、弱って死んじまえば虫の死骸と一緒だ」
 店主の言葉に、美鈴はふと考える。
 もしも本当にレミリアが死んでしまったら、自分はどうしようかと。
 しかし、そんな思考はすぐに途切れてしまった。あのレミリアが、そうそう簡単に死ぬわけはない。仮に死んだとしても、それはその時に考えればいいこと。
 今はとにかく、彼女の命令を実行しよう。
 店主と別れを告げた美鈴。誰にも見つからないようこっそりと森に入り、いつもの獣道を踏み歩く。たった数日とはいえ、歩き慣れた道だ。迷うこともなく、串刺しにされた主の元へと帰還した。
 串刺しにされた主は頭から血を流し、ピクリとも動かない。
 まるで串刺しにされた虫のように、レミリア・スカーレットは息絶えていた。









 百合の人生は、決して順風満帆とは言い難かった。生い立ちから友人関係に至るまで、それは如実に現れている。半生を語るだけでそれが愚痴になると言うのだから、彼女がどれだけ茨の道を歩いてきたか想像するには難い。
 ただ百合には一つだけ、誰にも負けない武器があった。
 それは顔立ち。
 神も見惚れるとまで謳われた彼女の顔には、女も嫉妬を越えて見惚れてしまう。もしも彼女が名のある大名と出会ったならば、今頃は正妻の座を射止めていただろう。
 妻がある者は妻を捨て、金を持つ者は金を捨て。そうまで称される彼女の心を射止めたのはしかし、容姿も地位も財力すらない平凡なただの男だった。
 人々は口々に、あの女は気でも狂ったのかと正気を疑った。だがそんな雑音、百合にとってはどうでも良いことだった。とにもかくにも、伝助という男の隣にいられればいい。それだけが彼女の願いでもあり、そしてそれは見事に果たされたのだ。
 多少の老いでかつての美しさに陰りは見えたものの、いまだ彼女の美しさは健在。このまま二人は仲むつまじく、老いて死ぬまでそれは続くものと思っていた。
 だが、しかし。百合は運命をまたも呪う。
 彼女が愛する夫の目には、別の誰かが映っているのだ。それも人なら、まだ溜飲の下げ所があったものを相手は妖怪だというのだから腸が煮えくりかえって溢れ出そうな思いに至る。
 確かに、伝助は百合を愛している。その言葉を紡ぐ彼の目に偽りの色はなく、百合も疑ってはいなかった。だけど、その目は百合を見ていない。愛の矛先は百合に向けられていても、彼自身はその妖怪を向いているのだ。
 それが百合には我慢ならなかった。
 食事の度に、彼は言うのだ。妖怪がどうしたとか、今日は名前を教えて貰っただとか。それがどれほど百合を傷つけているかも知らずに、楽しげに彼は言ったのだ。
 さすがに最近は気を遣うことを覚え、百合の前では妖怪の話を控えている。だが控えるということは、裏でこっそりと会っている事に他ならない。このままでは、彼は妖怪に魅入られてしまう恐れがある。
 いや、ひょっとするともう魅入られているのかもしれない。百合は決断した。
 伝助に探りを入れたところ、その妖怪はかなり衰弱しているとのこと。女の細腕でも、今ならあるいは退治できるかもしれない。
 木の棒を握りしめながら、百合は伝助から聞いた道筋を辿って妖怪の所へと向かった。
 しばらく歩いたところで、道が嘘のように切り開かれる。その真ん中に串刺しになっていたのは、妖怪という単語が吹き飛びそうなほど弱々しく、儚げな串刺しにされた少女。
 一瞬、百合は戸惑った。こんなものが、夫を誑かしている?
 憎悪や嫉妬の心が曇る。しかしそれを追い払うように、少女が顔をあげた。
「ひょっとして、あなたが伝助の妻?」
 伝助と、妖怪は言った。親しげに。所有権を主張するように。
 気が付けば、百合は手に持っていた木の棒で妖怪の頭を殴りつけていた。
 鈍い痛みが手のひらを襲う。薄茶けた木の棒には、べっとりと紅い液体がこびりついていた。呼吸も荒い。
「人間ってのは野蛮ね……挨拶も満足にさせてくれないんですもの……」
 縛られているくせに、妖怪は見下すように百合を見上げる。宝石のように紅い瞳はしかし、弱々しく輝きを失っていた。
「それとも、私の勘違いだったかしら。伝助の妻は優しく美しい人物だと聞いていたんだけど、あなたはまるで真逆だもの」
 もう一度、木の棒で殴りつける。妖怪は口を閉じない。
「ああ、もしかして私の仲間なの。その鬼のような形相は、作ったものじゃなくて本性?」
 二度と喋らないように、後頭部ではなく顔面を木の棒で叩きあげた。
 それでも妖怪は言葉を紡ぐ。
「だったら忠告しておくわ」
 百合は思い切り、木の棒を振り上げた。
「あなたは伝助に相応しく」
「五月蠅い!」
 静寂の森の奥。響き渡ったのは、西瓜を潰すような鈍い音だけだった。










 悪い夢だと、誰かに言って欲しかった。
 妖怪なんだから、死ぬわけないだろと馬鹿にして貰いたかった。
 しかし願いは叶わない。いつものように現れた伝助が見たものは、まるで死んだように項垂れ、血を流す妖怪の姿。
 悲鳴じみた声をあげて駆け寄っても、彼女はうんともすんとも答えない。
 薬も医学も心得がない伝助。ただただ騒ぐだけで、何もしてやることができない。
 里の医者に診せようとも、彼らは妖怪を毛嫌いしていた。連れて行ったところで、満足な診察を受けさせては貰えないだろう。それどころか止めを刺されるかもしれない。
 だがこのままならば、間違いなく彼女の命は絶たれる。
 それでも一縷の望みにかけて、医者の所へ連れていこうかと思った。震える手が、彼女を縛り付ける杭へと伸びる。その気になればこの程度の物、一息で引き抜くことができよう。
 だが、伝助の手は杭を握りしめたまま動くことはなかった。
 彼の頭に思い浮かぶのは、愛する百合との約束。この妖怪を医者に連れていこうとするならば、確実に百合との約束は破ることとなる。たった一つ守り通してきた約束を、破ってもいいのだろうか。
 非常事態だ。命が掛かっている。そんな約束など守る必要などない。
 自分をいくら言い聞かせたところで、手はピクリとも動きはしなかった。
 それを咎める者はこの世におらず、伝助は冷たくなったレミリアを置いて、逃げるように家へと戻った。己を恥じるように、その目からは涙がこぼれ落ちていたという。










 百合から話を聞き、伝助の顔色を見て、確信に至った。どうやら本当に森の妖怪は死んでしまったらしい。
 男は風呂敷包みを抱え、森へと足を運んだ。
 薄気味悪い森だと普段は近づかなかったものの、今では宝船の中を歩いているようで小気味良い。不気味な静けさも、こうしてみると趣があって良いではないか。現金な自分に苦笑しながら、男は目当ての場所までたどり着いた。
 確かに、一見すると妖怪は死んでいるように見える。本来なら串刺しにされた時点で人間なら死んでいるのだが、そこは妖怪。頭から血を流していても、油断するにはまだ早い。
 慎重に、慎重に、男は歩を進めた。
 そして妖怪の側に米粒を放り、隠し持っていたネズミを放つ。もしも意識があるならば、これで何らかの反応が返ってくるはず。男の放ったネズミは疑いもせずに米粒のところへ走り、そのまま回収にあくせくと汗を流していた。
 どうやら、近づいても大丈夫なようだ。
 男は安堵しながらも、それでも慎重に妖怪へと近づく。商人たるもの、最後の最後まで油断してはいけないのだ。
 手が触れられる距離に近づいても、妖怪はピクリとも動かない。もしも死んだふりをしているのなら、男の命などあっという間に刈り取られる距離だ。それでも動かないのだから、本当に絶命したのだろう。
「まったく若い……ってのは見た目だけか」
 独り言を呟きながら、改めて妖怪の外見を観察する。
 男の目的は彼女の衣装。血で汚れているとはいえ、これを剥いで売ったら大金に化けてくれることだろう。西洋品を売りさばいている彼にとって、彼女の存在はまるで串刺しにされた金のようなもの。
 これを見逃す手はない。美鈴という少女のおかげで品揃えも充実し、人気がますます高まっている今こそが好機なのだ。
 男は衣装に手をかけたところで、はたと気が付いた。
 このままでは服を剥ぐに剥げない。どうしても杭が脱がすのに邪魔をするのだ。
「仕方ねえなあ……」
 体力は使いたくないのにと愚痴り、男は思いきり杭を引き抜いた。肉の感触が手にも伝わってきたのが気味悪く、捨てるように杭を放り投げる。
 そして今度こそと向き直ったところで、男は気が付いた。妖怪の姿が消えていることに。
「ゲスに礼を言いたくはないけど、一応は礼節として言っておこうかしら。ありがとう、そしてさようなら」
 頭が掴まれた感触を最後に、男は意識を手放した。










「あの、お嬢様」
 木から飛び降りた美鈴が、心配そうな声をかけてくる。殊勝なところもあるじゃないかと思ったら、彼女の目は何故か頭を掴んだままの男に向けられていた。
「その人、殺してないですよね?」
「当然でしょ。下手に目立って面倒なことになったら、紅魔館に帰るのが遅れるもの」
 人死にが出れば、また坊主が戻ってくるだろう。真っ向から立ち向かえば負けるつもりはないが、下手に倒せば今度は徒党を組んで襲ってくるかもしれない。
 それすらも敵ではないのだが、面倒くさいことに代わりはなかった。蟻を踏みつぶすのに疲れることはなくとも、その数が百を超えれば手間になると同じ事だ。ましてや、相手はレミリアを確実に追ってくる。夜も眠れない日々に苛立ちを覚えることはないものの、日中に眠れない日々には是非ともお別れを告げたい。
 無造作に男を放り投げる。土まみれになりながら、藪の中へと消えていった。手加減はしたはずだから、死んではいないだろう。
「ああ、それにしても五体満足に動かせるというのは気持ちいいわね。美鈴、ちょっと一戦交えてみる?」
「ご冗談を。杭に刺されても生きてる人とは戦いたくありませんよ」
「そう? 残念ね」
 半分は本気の提案だったが、断るのなら無理をしてまで戦う必要はない。こんな所からは早く立ち去って、血でまみれた衣装を替えたいところだ。
「噂ではあの坊主は北に行ったみたいですけど、どうします?」
 だから美鈴の話にも首を左右に振る。こんな目に遭わせた糞坊主には腹を立てているが、わざわざ追って叩きつぶしたいとも思わない。いずれまた出会った時には確実に殺すけれど、それよりも早く天寿を全うするだろう。
 左右の腕を解すように回し、戯れに放ったグングニルが木々の天蓋を吹き飛ばす。
「あら、もうすぐ夜なのね」
 空は茜色に染まり、吸血鬼の時間が近いことを知らせてくれた。
「それにしても、本当に桶屋が儲かるとは思いませんでした」
 美鈴の言葉が理解できず、眉が釣り上がる。しかし、迂闊に意味を問うことはできない。
 敢えて何も言わずに、彼女の言葉の先を待った。
「段々と弱っていく様を見せて、嫉妬に狂った妻をおびき寄せる。後は死んだふりをしていれば、昨今の西洋品ブームで浮かれた商人がお嬢様の衣装や品物を追いはぎにやってくると」
 衣装を剥ごうとするのなら、やはりどうしても杭が邪魔になる。それこそがレミリアの狙った目的だ。まさか、ここまで上手くいくとは思わなかったが成功しすぎて困ることなど滅多にない。
「まぁ、少し考えれば誰にだって思いつくことよ」
 あくまで保険の為に仕掛けていたことだが、結局使う羽目になった。あの時、伝助が杭を引き抜いてくれていたら話はもっと早かったのだが。そうそう上手くはいかない。
「お嬢様って、案外小細工好きですよね」
「……それは馬鹿にしてるのかしら?」
 半眼に閉じた目を向ける。冷や汗を流しながら、美鈴は滅相もないと手を振った。
 確かに目的の為なら策を弄することも多いけれど、小細工が好きなのだと言われたら立つ腹だってあろう。
「良いわ。せっかく晴れて脱出できたんですもの。今日のところは大目に見てあげるけど、次の失言を許すほど私の心は寛容ではないの。気を付けなさい」
「わかりました」
 真剣な顔で頷く美鈴。だがおそらく、すぐにまた失言するだろう。
 制裁はその時に済ませればいい。
「さて」
 手の感触を確かめるように開閉を繰り返し、夜に変わりゆく空を見上げた。
「最後に、行くところがあるわ」
「えっ、どこですか?」
 当然とも思える美鈴の質問に、答えを返すつもりなどない。どうせ、ついてくれば分かることだ。
 レミリアは伝助に見せたような微かな笑みを携え、不本意ながら滞在させられた森を後にする。未練など全くないが、何故か心に小さな隙間が空いたような錯覚を覚えた。











 戻ってきた伝助の落ち込みようを見て、百合はようやく確信に至った。あの妖怪は間違いなく死んだのだと。
 胸の内に嬉しさがこみ上げてくるものの、それを表に出すことはしない。いくら憎き相手が死んだとはいえ、夫が悲しみにくれているのだ。そこへ嬉しげな自分が出ていくなど馬鹿にしているとしか思えなかった。
 ここは彼を慰めて、早く忘れることを祈るだけだ。
 百合は水でも汲んでこようと腰をあげ、そして戸口に居てはいけない奴を見た。
 身体中のゼンマイが、軋みをあげて動きを止める。脳裏に浮かぶのは頭から血を流し、動かなくなった妖怪の姿。杭に貫かれた哀れな妖怪は、あのまま朽ち果てていくものだと思っていたのに。
 どうしてここに。杭もなく、歩いてくるのだ。
 ようやく動き出した百合は、声もなく腰を抜かした。
 妖怪はそんな彼女に一目もくれず、壁に向かって蹲っていた伝助の方へと歩いていく。気配に気付いた伝助が顔をあげ、百合と似たような表情を見せた。
「お、お、お前……!」
「どうしたの? 妖怪でも見るような顔ね」
 小馬鹿にするような口調で、そう言った。
「私を見捨てたあなたに恨み節でもぶつけようかと思ったけれど、その哀れな姿を見ていたらその気も失せたわ」
 妖怪の態度は、どこか愉しんでいるようにすら見える。しかしそれとは対照的に、伝助は顔色を変えて小刻みに震えるのだ。彼の口から漏れるのは、すまないという単語だけ。何があったのか、想像には難くない。
「もう二度と会うこともないでしょう。じゃあね、人間。愛する妻を放っておいて、浮気なんかするじゃないわよ」
 澄ました顔でそう言いながら、妖怪が家の真ん中を土足で踏み歩く。自分の側を通る時、思わず百合は小さな悲鳴をあげてしまった。
 すると妖怪が足を止め、こちらを見ながら言ったのだ。
「どうしたの? 何でそんなに怯えているの?」
 心の底から愉しむように、妖怪は百合を見下した。
「あなた、私に何かしたのかしら?」










 合流した美鈴が開口一番に言った台詞は、見栄っ張りの一言だった。
「お嬢様、伝助さんじゃなくてあの奥さんを馬鹿にする為に行ったんでしょう。あの台詞、そんなに言いたかったんですね」
「それも有るけど、最後にあの男を一目見たかったのも事実。この私に逆らい続け、最後まで思い通りにならなかった人間は久しぶりだもの」
 それでも一応は保険をかけておいたのだから、心のどこかでは絶対に思い通りにならないと分かっていたのだろう。
 あるいは、奇跡が起こることを期待していた節もある。どうしてそこまであの男に期待していたのか、それは分からないけれど。
 知るつもりもない。どうせ、二度と会いはしないのだろうから。
「なるほど。ところで、お嬢様」
「うん?」
「どうしてグングニルを構えられているのですか?」
 手の中で眠る紅い槍を見つめ、表情が引きつる美鈴に視線を戻す。
「どうしても何も、私言ったじゃない。二度目の失言は許さないわよって」
 まさかこんなにも早く制裁の機会が巡ってくるとは思わなかったが、早いなら早いで構わない。不届きな従者には、早くところ主従の重みを知って貰わないと困るのだ。
 投擲の体制で構え、レミリアは告げる。
「さぁ、逃げるなら早く逃げなさい。そこでも良いけど、凄く痛いわよ」
「そ、そんなぁ!」
 抗議の声をあげつつも、しっかりと逃げる辺りはさすが紅美鈴。賞賛に値するけれど、手心を加えるつもりは一切なかった。視界の悪い森の中へと逃げる美鈴を、レミリアの目はしっかりと追っていた。
 たかが木々の百本や二百本。グングニルの敵ではない。
 投げれば確実に木々をなぎ倒し、美鈴の元へと届くだろう。
 それを分かっているからこそ、彼女も必死で逃げるのだ。
「今度はあなたが串刺しになる番よ!」
「や、八つ当たりだー!」
 否定はしない。代わりに槍を与えておいた。
 さて、彼女はどうやって脱出するのか。
 それを考えるのも、また一興だとレミリアは笑う。
 子供っぽく残酷な吸血鬼は、今日も日々を愉しんでいた。
 
 
 
 レミリアと美鈴の出会いについては、作品集62の『鈴の灰』で書かれています。
八重結界
http://makiqx.blog53.fc2.com/
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コメント



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6.100謳魚削除
お嬢様と美鈴隊長の「ゆるゆるシリアス道中記」、ご馳走さまでした。

相も変わらずオリ脇役さん達の存在感が凄まじく丁度良く御座い。
25.100名前が無い程度の能力削除
やえけっかいさんはさかしいな
30.90名前が無い程度の能力削除
シリアスなのかホラーなのかミステリーなのか……? ちょびっとだけ入っているギャグが余計に混乱を招きやがります。
なんだか狐につままれたような気分になりました。
31.90名前が無い程度の能力削除
絶妙な微妙さの妙。

でも地の文の雰囲気というか、シリアスなのかそうでないのかが若干分かりづらいです。
自分はそういう文が好きな方なので全然アレなのですが、最後のエピローグ部はもう少し分かりやすく明るくなって欲しかったです。

きっとお嬢様は「風を吹かせる」段階で最後に言うセリフを何通りか考えて一人でニヤケたりするんだろうなとか思って悶えてました。
33.100名前が無い程度の能力削除
おぜうさま可愛いなぁ。子供っぽいところと悪魔なところがうまーく入り混じってて。嫁さんの執着心も良い味出してます。
シリアスとかギャグとか境界引くこと自体が野暮、なんて当たり前なようで忘れがちなことを思い出させてくれた点も含めこの点数で。
43.100名前が無い程度の能力削除
やや、なんか見覚えのある雰囲気の二人だと思いましたが、やはりあの続きでしたか。
相変わらずオリキャラの使い方が上手いです。
57.100名前が無い程度の能力削除
グレイトォ!
58.100名前が無い程度の能力削除
この流れ、次は吸血鬼ハンターでも出てきますかね!
70.100名前が無い程度の能力削除
\おぜぅさま/
76.100削除
商人が杭を引き抜いた瞬間、思わず某ノートの持ち主のような笑みを浮かべてしまいましたww
いやさすが八重結界さん。文章力もさることながら構成、キャラ立ちの上手いこと。見習いたいものです。
多少遅ればせながら、楽しませていただきました。