Coolier - 新生・東方創想話

幸福な現実

2009/08/10 22:45:21
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 狐の思い出。

 私は夢を見ているのでしょうか。小さくうずくまった私の目の前に現れたのは大きな日傘をさした一人の少女でありました。その美しく儚げな容姿に、少女趣味と呼ぶのでしょうか、たくさんの飾りが付けられた日傘は似合っておりました。
 けれどその美しい傘は、ひどく汚れておりました。いえ、その少女自身が泥にまみれているのです。たくさんの傷が彼女を痛々しく見せているのです。どれもこれも私のせいでした。
 日の光を浴びて花に囲まれているのがよく似合うような少女は、雨に打たれる私に傘を差し出しているのでした。その傘は日傘でしたので、あまり意味はないようにも思われましたが、大変うれしく思いました。
 いえ、駄目なのです。きっとこれは罠なのです。知っています。私は。
 逃げなくては、と思い体を起こそうとしましたが、うまく力が入りません。傷が痛みます。いえ、違います、それは。もっと根本的に何か違って。
 手が、私のものではないのです。足が、私のものではないのです。体が、私のものではないのです。全てが、どこかずれているような、あやふやな感覚。
 ふい、と水たまりが私の視界に入りました。いいえ、水たまりに移った私の姿が、見えたのです。私はたいそう驚いた顔をしていました。なにしろ生きていて一番驚いたことがあったのですから。 
 水たまりに移った私は人の形をしていました。頭からは見慣れた耳が生えてましたが、それでも私は確かに人でありました。私を憎み、私が憎んだ人の姿に、私は変わっていたのです。これは何の因果かと私は驚いて、そして。
 私はぐんにゃり、とほほ笑みました。微笑み方が私はよくわからなかったので、ひどく歪な笑みでしたが、私は笑えたのです。なぜ笑ったのかもわかりませんでした。
 しとしとと降る雨のなか美しい少女も微笑みました。
 私は夢を見ているのでしょうか。それでもいいと私は思います。なんせそれはとても素敵な夢だったものですから。


 *  *  *


 八雲藍は、はっと目を覚ました。薄い闇の向こうに見える天井は、いつもと同じで見慣れているものだった。少しくすんだ色をしたその天井に、橙が怖いと泣いていたことを思い出す。
 その微笑ましい姿を思い出すと同時に、なんだかとても安心して、ほろほろと涙があふれ出た。慌ててぬぐうも、その涙は止まらない。昔の夢を見ていたのだ、と藍は思う。
 最近昔の夢をよく見るようになった。昔は月に一度程度だったのに、最近は週に二、三回ほど見るようになった。その原因は身にしみてよく分かっている。
 大きく深呼吸すると、涙は幾分かおさまったように思えた。二度三度と繰り返し深呼吸することで、気分も大分落ち着いて周囲に気をかけれるまでに落ち着き。規則正しい小さな寝息が耳に届いた。橙のものである。
 静かに上体を起こし、ぴんと黒い猫の耳が伸びた橙の頭を優しくなでる。柔らかい感触を少し楽しんでから、そっと立ち上がる。「ん……」と小さく橙がむずかったが、すぐにまた静かに寝息を立てだした。

「もう少し寝ていなさい、橙」

 聞いていないと分かりながらも、藍は優しく呼びかける。
 すっ、とふすまを引いて部屋から縁側へと出る。四方のひさしに、四角く囲われた空はまだ紺色だった。満月と半月の中間くらいの月が、小さくきらめいている。
 十数秒ほど月を見上げて、視線をおろした。中庭では自由きまま蔦が蔓延っている。橙と一緒に蒔いた花の種はきっともう埋もれてしまっているのだろう。いくら拾ってきたものとはいえ、なんだか少し申し訳ないような、かわいそうな気もした。
 草履をそろえて置き、静かに中庭に降りると、ぐにゅりとした感覚が草履を通じて伝わった。夜中の間に雨が降ったのだろう。水たまりがあちらこちらに出来ている。
 しゃがみ込んで水たまりをそっと覗きこむと自らの姿が映っているのが見えた。今は帽子をかぶっていないので、金色の耳が髪の毛の間から飛び出している。表情はひどく穏やかだった。
 ぱしゃん、と足で水を跳ねるとその顔はうにゃりとゆがんだ。その波紋が収まるのも待たずに藍は立ち上がる。空を見上げると東のほうがうっすらと明るんでいるような気がした。

「朝ごはんを、作らないと」

 誰に言うでもなくつぶやいて、藍は縁側に上がり、足音を立てないように静かに廊下を歩く。
 台所は廊下のつきあたり。からから、と扉を開けると、まず目に入るのは小さなちゃぶ台だろう。藍は、橙が蹴とばしてしまうからテーブルがいいと言ったのに、紫の趣味でちゃぶ台になったのだった。
 けれどそんなちゃぶ台にも、もう愛着がわいてしまった。使い古された道具は神になるというが、ならばその日は近いのかもしれない。などと考えて小さく笑う。
 笑ったところで、答えるように鳥の声が聞こえた。どうやら世間一般でも朝と言える時間が近づいてきているらしい。
「よし」――小さくつぶやいて腕をまくる。米を炊き、みそ汁を作り、魚を焼く。朝食が和食なのも、紫の希望であった。
 間もなくして、いい香りが台所に充満してきた。藍は満足げにうなずいて、皿に盛り付け、ちゃぶ台に運ぶ。

「うー」

 配膳を済ませた藍の背後から小さくうめき声が聞こえた。橙である。あまりにもいいタイミングで来た橙に藍は少し驚く。もしかしたら魚が焼ける匂いにつられてきたのかもしれなかった。
 ぐしぐし、と目をこする橙はひどく眠そうだった。尻尾も耳もへにゃん、と力なく伏せている。
 そんな橙に藍は優しく微笑んだ。一歩二歩、近づいてその頭をなでる。ふにゃ、と橙はほほ笑んだ。そのしぐさはまるで猫のようだ、いや、猫なのだが。
 
「橙、早いね」

「にゃあ」

「もう目が覚めた?」

「にゃんにゃん」

 ぐしぐしと目をこする橙の言葉は人の言葉になっていなかった。だいぶ寝ぼけてしまっているらしい。なんだか仕草もいつもよりも猫らしいように思える。
 藍は苦笑して、橙の額を軽く小突く。ほんの小さく悲鳴をあげて、橙は目を白黒させた。その様子を見て藍はくすくすと笑った。

「おはよう、橙。朝ごはん出来てるよ」

「おはようございます、藍さま。紫さ……」

 そこで橙は口を閉じた。眉はハの字になり、目が少しずつ潤んでいく。そのままの表情で橙は藍を見上げた。
 いまにも泣き出してしまいそうな橙を見て、藍は笑って見せようとする。けれど口の端はうまく上がらないし、目を細めることもできない。
 先ほどまでの穏やかな様子とは百八十度違う、憔悴したような表情。息が詰まる。膝を床につく。

「あ……ああ……」

「ら、藍さまごめんなさい。ごめんなさい。泣かないで」

「え……ええ。気にしないで、橙。大丈夫、大丈夫だから」

「藍さま、あの」

「大丈夫。さあ、橙。朝ごはんにしようか」

 元気な風を装って藍はちゃぶ台のほうへ体を向ける。橙も慌ててうなずき。ちゃぶ台につく。
 二人の瞳には、二人分の食事しか載っていないちゃぶ台が映っていた。


 *  *  *


 八雲紫が消えてからそろそろ三カ月が経つ。
 消えた理由はよく分かっていない。手紙一つ残されていなかったのだ。幻想郷の住人は大方異変を解決しているのだろうと思っている。藍もその一人だった。
 けれど紫が消えてから一月たったあたりで藍の心に疑念がよぎった。
 二カ月でそうは思えなくなっていた。
 三カ月たった今。藍は不安に押しつぶされそうになっていた。紫がいないだけでこんなにも弱ってしまうものなのかと自分でも驚くほどに、藍は参っていた。
 沈んだ気持ちを紛らわすつもりで、近頃は橙と暮らすようにしているが、それでもいつも通りというわけにはいかなかった。

 こんなことでは、と思う。
 ただ主が留守にしただけでこんな風になってしまうなど、なにが八雲紫の式神だ。こうやって人の姿をしていることがひどく馬鹿らしく、申し訳なく思えた。
 
(ああ駄目だこんな風に思っていては)

 どうしようもない悪循環。気分もなんだか陰鬱としている。ここ最近ずっとこの感じは続いていた。橙につらく当たることが増えたような気がしなくもない。愛おしい橙にそのようなことをしている自分なんて大嫌いだった。
 違う。これじゃ。駄目。わかってるくせに。やめよう。こんなこと。そうだ、本でも読めば気がまぎらわれるかもしれない。


 本を読むのは昔から好きだった。何一つ人としての知識を持たない藍に紫が勧めたのは、とにかく本を読むことだった。知識が増えるのも嬉しかったし、自分の知らない誰かが、本という架空の世界の中を縦横無尽に駆け巡るのを見るのはとても楽しかった。
 読んだ本について紫と語り合うときは、自らの尊敬する彼女と世界を共有できたのがうれしかった。橙に自分が好きな本を紹介すると、なにかを受け継げるような気がして、幸せだった。
 けれど今日はなぜだか、本を開いてもあまり楽しい気分になれなかった。その本が、自らが一番とまではいかなくともかなり好きな本であったのに、だ。

 その本のあらすじは単純だった。どこにでもあるような恩返しの物語である。
 昔一人の男に命を救われた狐が、人間の女に化けて彼のもとを訪れ妻となるという話。その狐は、彼に嫁ぎかいがいしく男の世話をした。
 男は狐を愛し、狐は男を愛したが、ある日その愛は崩れ去ってしまう。男が浮気をしてしまうのだ。そのことに絶望した狐は、そこで自らの命を絶ってしまう。
 家に戻った男は、狐の亡骸を見て、自らの愚かさを知った。自らの愚かさを知ったその男はそこで――命を 絶  っ   て


 …………。
 ………………。
 紫様が返ってこないのはきっと私を忘れて他の誰かにうつつを抜かしていらっしゃるからです。
 紫様とはいえ間違いを犯してしまうことはありますもの、ええそうなのです。自らの愚かさに気付かないことだってあるはずなのです。です。
 ならばその愚かさを気づかせてあげなければならないのです。私は紫様にたくさんのことを教えてもらったのですから今度は私が紫様に教えてあげるのです。
 ここに私はいますよって。忘れないでくださいって。私は待っているのです。忘れないでください。忘れないでくださいって。紫様に言って教えてあげるのです。
 ならばどうすればいか。そんなことはわかりきっています。わかりきっているでしょう?
 そうなのです。だから私は。
 私は――。私は夢を見ているのでしょうか。


「藍さまっ!」


 橙の言葉で藍は我に返った。目の前にはたくさんの本が散らばっていた。埃が舞っていてとても気分が悪いと藍は思う。後で掃除をしなくては。
 そこまで考えたところで藍は緩くかぶりを振った。自らが現実から逃避していることに気づいたからだった。
 藍は、自らの首にペーパーナイフの刃を向けていた。まるで今にでも首を描き切らんばかりに。ごくり、と生唾を飲み込んで、藍はペーパーナイフをおろす。かすかな温かさから、橙が背中にしがみついていることがわかった。
 すぅ、と息をすって気分を落ち着ける。もしも橙が来てくれなければ今頃どうなっていたことだろうか。それを考えると自然と冷や汗が頬を伝った。

「藍さまやめて下さい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 そんな声とともに小さく嗚咽が聞こえてきた。どうやら橙は泣いているらしい。涙声でただただ謝り続ける橙の言葉を聞いていると、藍自身も泣いてしまいそうになった。
 そういえば最近橙がよく謝っているような気がする、と藍は思う。続いて、私のせいなのかもしれない、と嘆く。

「……大丈夫だよ、橙」

「大丈夫じゃないですっ。藍さま最近ずっとぼーっとしてて……」

「いや、大丈夫だから、ね。気にしないで」

「嘘です。藍さまはどうして橙に嘘をつくんですか? 私は藍さまの式神です!」

 橙がぐすん、と鼻をすすった。そして藍の背中から離れ、向かいに回り込んできた。赤くはれ上がった眼で藍を正面からのぞきこんでくる。
 まっすぐな瞳だ、と藍は身じろぎをする。すべてを見透かしてしまいそうな純粋で無邪気な瞳だ。
 ふっ、と藍はほほ笑んだ。否、ただほほ笑んだだけではない。その目には葛藤や悩みなどがうずまいているようにも見えた。

「あのね、橙。私は時々……自分が夢を見てるんじゃないかと思うことがあるんだ」

「夢……ですか?」

「そう、あの寝る時に見るやつ」

 すっ、と目を閉じる。
 もしも今この時が夢であるというのならば現はいつか。それは紫と出会う前だろう。小汚く汚れた狐であったあのころ。道行く人に石を投げられ、そしてそれに慣れてしまっていたあのころ。
 いや、今が夢であるはずがない。藍は自分で自分の考えを打ち消す。今は現実に違いない。
 だって。

「でも、ここに橙は本当にここにいますよ」

 でも。


「じゃあどうして紫様はいないの?」


 ぽつん、と藍はつぶやいた。とても小さな声だったのに、ぴくりと橙の耳は動く。
 焦ったような表情をしながら、橙はしどろもどろで何か言おうとした。

「あ、それは……」

「やっぱりこれは夢なんだ。夢なんだ。きっと橙も今に消えてしまうに違いない!」

 バン、と勢いよく机をたたくと、橙がおびえたように一歩引いた。が、藍は気にも留めずに、ぶつぶつとまだ何かをつぶやいている。

「藍さま……」

 橙がまた泣き出しそうな声でつぶやく。
 藍の瞳からぽたりと涙のしずくが落ちた。


 *  *  *


「馬鹿みたい」

 藍は小さくつぶやいた。今部屋には一人しかいない。橙と話す気分になんて、到底なれるはずもなかった。

「馬鹿みたい」

 暗い部屋の隅っこに体育座りをしていると、何だか世界に自分一人しかいないような錯覚が起きた。一人きりというと昔を思い出すけれども、自らの手にはきちんと五本の指が付いていた。
 いっそ夢であればいいのに、と少しだけ思ってもいた。橙にあんなひどいことをしてしまった。きっと橙はひどく傷ついていることだろう。
 ――あの子はとってもいい子だから。私なんかとは比べ物にならないくらいに。
 
「馬鹿みたい!」

 吐き捨てて、ぎゅ、とひざに顔をうずめる。じわじわと涙が服にしみこんでいくのがわかった。
 この温かみが、憎らしい。自分が生きている証拠のようで藍は軽い吐き気を催した。気分が悪い。
 
「……一人になんて、なりたくない」

 振り絞った声はひどく弱弱しいものだった。思わずこぼれた自らの本音に、藍は驚く。
 藍は自分が強いつもりで生きていた。大切なものを得て強くなったと思ったら、むしろ弱くなってしまってるようだった。
 人になればただただ幸せになれると思っていた自分を藍はなじる。こんなにも自分は今苦しんでいるじゃないか、と。あのままでいたならばこんな気持ち知らずに済んだのに、と。

(全部嘘ならいいのに。全部夢ならいいのに)

 冗談みたいな祈りだった。
 いつもこれが現実であることを祈っていたはずなのに、今はそれが嫌だった。

(全部嘘ならいいのに。全部夢ならいいのに)

 ぐにゃりと世界がゆがんだ。くるくるとすべての色が混じりあって深い黒に近づく。
 はっと、気づいたとき藍は得も言われぬ寒気を全身に感じた。
 

 *  *  *


 狐の思い出
 痛いのです。痛いのです。身体中が痛いのです。
 石を投げつけられたら痛いことくらい誰にでもわかるはずなのにどうしてあの人たちは私に石を投げつけてくるのでしょうか。私が悪いのでしょうか。私はただただ生きようとしているだけなんです。
 ずきん、と足が痛みました。また石を投げつけられたんだとわかりました。二歩ほど進んだところで足が大きくもつれました。私はパタリと倒れてしまいます。
 しとしとと降り注ぐ雨はとても冷たくて傷口にピリピリとしみました。泥水と血の混じったその水は汚水と呼んで差し支えないでしょう。その水がぐちゅぐちゅと私の毛皮を濡らしていきます。金色だったはずの毛皮はもうその色を失っていました。
 誰かが救ってくれればいのに、と私は祈ります。ぴちゃり、と小さく水たまりの中でもがいても何にもなりません。やせ細った体が信じられないくらいに重いのです。
 数だけは多い尻尾はただみすぼらしいだけでしかありませんでした。この尻尾が嫌われる原因だと知っていながらも私は切り落とすことすらできないのです。それほどまでに私は臆病ものでした。
 誰かが笑う声がします。「妖狐が死ぬぞ!」それは楽しそうな、うれしそうな声でした。私がその人をうらやましく思ってしまうくらいに。
「人をだましてきた悪い狐が」
「天罰だ。天罰がやっと下ったんだ」
「俺はこいつに親を殺されたんだ!」
 ……この人たちは何を言っているんでしょうか。私は悪者じゃない! 私は悪者じゃないのに!
 ただ少し尻尾が多いだけじゃないですか。ただ少し妖術が扱えるだけじゃないですか。ただ少し他の狐と違うだけじゃないですか。
 …………。
 もういいのです。あきらめました。私は一人ぼっちです。ええ、一人ぼっちです。
 ああでもせめて。
 私にどうか幸せな夢を。
 あ、めのまえが、くら、く、なってきて


 *  *  *


「藍! 起きなさい藍!」

「……へ?」

 藍を深い闇の底から引きずりあげたのは少女の声だった。優しくて、落ち着いた声。その声に藍はなによりもまず、深く安堵した。
 安堵して、ゆっくりと体を起こす。体はもう冷たくないし痛くもない。足を怪我しているわけでもない。五体満足だったし、そばにだれかがいる。とにかく幸せだった。
 
「っ……紫様!」

「そうよ、紫様よ」

 藍が言うと、紫は不敵な笑みを浮かべた。自らを敬称付きで呼ぶ様子に、藍の顔がほころぶ。

「紫様っ……本物……ですよね?」

「藍は偽物の私に会ったことがあるのかしら?」

 くすくす、と笑って紫は藍の頭をなでた。心地よいような、くすぐったいようなその感覚に藍は目を細める。

「ねえ、藍。橙から全部聞いたわ」

「……ごめんなさい」
 
 藍は黙ってこうべを垂れた。その謝罪の中には、八雲紫の式神たるものが、取り乱してしまったことに対する恥ずかしさもいくらか含まれたいた。きっと叱られてしまうだろう、と藍は思っていた。
 けれど、そんな藍に対して、紫は小さく微笑んだ。もちろんそのほほ笑みは藍には見えないのだが、優しげな気配を感じ取って、藍はおずおずと顔を上げた。
 紫はそんな藍のほほに手を当てる。どうやら涙をぬぐっているらしかった。藍は顔を赤くして一歩下がり、ぐしぐしと目の周りをこすった。そんな藍の様子を見て、紫はさらにくすくすと笑う。
 そのまま何秒か笑い、ふっと、まじめ顔になった。そしてその表情で、藍に対して頭を下げる。

「謝るのは、こちらのほうだわ」

「……え?」

「たくさん不安にさせて、ごめんなさい、ね」

 その言葉に、藍はしばらく動きを止める。
 けれどすぐに、なんでもないように言葉をつむぎ出した。いつものように穏やかな、波風を立てないような笑顔を意識して。

「いえ、そんな、不安になんて」

「嘘おっしゃい」

 が、しかし紫にぴしゃりと切り捨てられてしまう。そんなに嘘をつくのが下手なのだろうか、と藍は小さく落胆する。

「ねえ、藍。でも一つだけ言わせて」

 ぐい、と紫が藍の体を引っ張った。想定外の力に、藍はあっさりと体制を崩してしまう。
 ぽふん、とその体が紫の腕の中におさまった。とん、とん、とリズムよく紫の手が藍の背中をたたく。自らを包み込む安心感に、藍は全身を預けてしまいそうになった。
 紫から紡ぎだされる言葉はひどく優しく甘く、鼓膜でゆっくりととろけていく。聞いているだけで幸せだと思えるくらいに心地よい。

「私を誰だと思っているの? 巷で噂のスキマ妖怪よ?」 

 ふふん、と得意げに紫は笑う。


「夢と現の境界なんて、あってないようなものなのよ」


 ああそうか、と藍は思う。
 自らの仕える八雲紫はこういう人だった。
 一つも子供みたいにわがままで、親バカなところも少しあって、気がつけばいっつも寝ていて、人をからかうのが大好きで、どうしようもないこまったさんで、そのくせ能力だけは人一倍強くて。
 そして――誰よりも優しくって、だれよりも強くって、みんなのことを大切に思っている。


 あの日、自分に傘を差し出したのは誰だっただろう。
 あの日、自分に微笑みかけてくれたのは誰だっただろう。

 この世が現実でありますようにと祈っている自分がいた。
 夢なら覚めないでほしいと思っている自分がいた。
 けれども、そんな必要は、どこにもないのだった。


 八雲藍はここにいる。
 それはどうしようもない現実だった。
二度目まして。
今回は乱射魔……じゃないや藍しゃまに頑張ってもらいました。
なんだろう……登場人物を病ませたい症候群?


追記
たくさんの評価大変うれしく思います。
誤字の方修正させていただきました。
報告、ありがとうございました。
夢努
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コメント



0.670簡易評価
4.90名前が無い程度の能力削除
鬱なストーリー展開でしたが、いい話でした。
八雲家は最高ですね!
10.40削除
誤字報告
>?せ細った

締まりのあるバッドエンドにも読み取れますが、実際のところはどちらなのでしょうか。読んでいて面白かったです。

視点についてですが、一人称から始まったのでそのままで通すと良いと思います。
13.70名前が無い程度の能力削除
最強の妖獣と呼ばれようとも、やはり寂しいのですね…