Coolier - 新生・東方創想話

10^-15の旅人 -前編-

2009/07/14 06:36:40
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穢れ無き白き球。

時の流れを忘れた光溢れる幻想の都。

彼女はそこに居た――








    









青く穢い球が一枚の硝子を挟んだ向こうに映り込む。
口付けたティーカップは既に熱を失い、口内に不快な苦味のみを残して通り過ぎていく。
苦みに顔をしかめながら、砂糖とミルクを追加する。

視界の端から端までを覆い尽くすガラス張りの窓にもう一つ、私の視界に映り込む者が在った。
黒く美しい長髪を伸ばし、清楚な佇まいで私と同じ物を見上げる少女。

動きを見せなかった彼女が、手を上に伸ばした。
窓硝子を拭く手間を増やすもんじゃない。 指紋で眺めが悪くなるじゃないか。

心の中で舌打ちをする。
しかし少女はその手をどこまでも伸ばし、青い球を掴もうとあがいていた。

馬鹿な事を。
そんな事をしても、永劫に手は届かない。
教養の高い彼女にしては愚かな行動だ。

軽蔑の意思を以て彼女を睨みつけても、彼女は動きを止めたまま空を見上げている。
その様は、まるで永遠の中に囚われた罪人の様に見える。





「××」





私が彼女の名を呼ぶと、彼女は肩を跳ね上げさせてこちらに視線を移した。
怯えた眼差しを浮かべていたが、声を掛けたのが私だと分かると一転、安堵の溜め息を吐いてこちらへ向かってくる。

それでいい。
どうあっても手の届かない物に、いつまでも執着する必要は無い。





「ごめんなさい。 ちょっと考え事を……」

「こんな所に居たら体に障るわ。
 あまりここには来ないで頂戴」

「……」





どうやら彼女の望む返答では無かったようだ。
私の忠告に、彼女は無言で立ち去ってゆく。

やれやれ。
ドアはきちんと閉めて行く様に教えられなかったのだろうか。

開け放たれたドアを占めた私は一人毒づきながら、診察台へと足を進める。
髪を纏めていたゴムを取り外し、くたびれた体を溜め息と共に椅子へと放り投げた。

銀に染まった髪が重力を受けて静かに浮かび上がるのが、さざ波の様に感じられた。
体重を受け、小さく軋む椅子の音が毛羽立つ心を幾分か落ち着かせてくれる。

耳が痛くなる程の静寂の中、目を瞑り、一人思考する。
毎日顔を合わせる彼女の事を。

彼女は頻繁に此処を訪れ、あの青い星を眺めては溜め息を吐き、自室に戻る日々を繰り返している。

全く、よく飽きもしないものだ。
あそこには穢れと死の臭いしか無いというのに。





「……貴方、また来てたの」

「あら、こんにちは八意さん」





そこに声が放たれる。
冷たく、何処か機械的な声で私に話し掛けてきたのは八意××。
先程ここを離れた姫様の教育係だ。

眉を顰めて話し掛けてくる辺り、あまり私に対して良い印象を抱いていないのは想像に難くない。
椅子を飛び上がり、彼女と入れ替わる様に移動する。





「貴女、一体どういうつもりかしら?
 言っておくけど、彼女に何かしたら……分かるわよね?」

「勿論よ。
 私も死んだ方がマシな目には遭いたくないもの」

「そう……ねえ貴女、一つ聞いても良いかしら?」

「ええ、どうぞ?」

「……やっぱり良いわ。
 聞いてもしょうがない事よ……」





あの天才八意××が、口籠り、心底不安そうな表情で私を見詰めている。
あまり感情を露にしない彼女が、自分には裸の感情をぶつけているのだ。

実に愉快だ。
思わず口の端が吊り上がる。


勿論彼女は、無思慮な私を睨みつけてくる。
彼女の黒い瞳が、私の紅い視線と交わった。

永遠か須臾か。
一体どれほどの時が流れたのか分からぬ程、私達は互いを見詰め合っていた。

彼女の視線の奥にあるものは、警戒、殺意。
本当に、これ程分かりやすい感情も珍しいものだ。

小さく笑みを漏らして、彼女から視線を逸らした。





「ごめんなさいね、不快な気分にさせて。
 また来るわ」





思ってもいない事を口に出すのは、意外と心苦しいものだ。
しかし、彼女が気を緩める気配は無い。

どこまでも完全な従者として有り続ける。
だからこそ、彼女は美しい。

それを私は良く知っていた。





「出来れば永遠に会いたく無いんだけどね」

「あら、御挨拶ね。 私の存在は貴女にとっても有益だと思うんだけど……」

「例えそうだとしても、貴女の存在を許す訳にはいかないわ」





切れ長の瞳を更に細め、傍らに携えた弓をこちらに構えて威嚇する彼女の姿は、全く以て美しい。
一切の無駄が無い構えに、恍惚の表情すら浮かび上がってくる。

知らず、笑みが面に込み上がってくるのを抑え、私は彼女に背を向けた。
これ以上彼女の機嫌を損ねて矢を放たれても、堪ったものではない。

どちらにしろ、私はあの姫の居ない空間に用など無かった。
扉を開き、去り際に顔だけを向けて別れの挨拶を残す事にした。





「またね、”永琳”」

「さようなら」





全く、嫌われたものだ。
閉じかけた扉から返ってきた言葉は、無味乾燥に毒でも塗した様な声色だった。

閉じた扉の向こうでは、きっと眉間に皺でも寄せているに違いない。
きっと考えている事はこうだろう。


あの月の姫を、どうやって、守るか。

誰からか。
勿論、私から。

××、××、××。
全く、過保護なのだ。 あの従者は。

しかし、それでも私は彼女に付きまとわなければならない。
それが私の役割なのだから。



長い長い、一面ガラス張りの廊下を、私は一人歩いて行く。
さて、今頃彼女は何処に居るのだろうか?


コンクリートに反響するたった一つの足音に僅かばかりの独占欲が満たされるのを感じながら、私は彼女の行きそうな場所を思い出していた。










――










あれからどれだけの月日が流れただろうか。
彼女は今日もまた、黒い空に浮かぶ球を眺め続けている。

そんなに気になるのなら行ってしまえば良いのだ。
全てを捨てて行ってしまえば、こんな生気の感じられない腐った場所の事など須臾の内に忘れてしまうに違いない。

少なくとも、私はそうした。
それを言えば、彼女は決心してあそこへ向かうだろうか。





――いや、それはありえない。

  何故なら彼女は何一つ自分で行う事が許されていないのだから。





月のお姫様、と言うのは大変な仕事だ。
心の拠り所としてそこに在り続けなければならない。
逆に、”そこにある”以外の事をしてはいけないのだ。

余計な事をして反感を買えば、民は彼女を見捨てるだろう。
反対に善き行いをしても、彼女を食い物にしている者達が動き辛くなるだけだろう。

だから、彼女の生活は何一つ不自由しなかった。
逆に、我が儘を言う事以外は何もさせて貰えない。

”自由”を対価に得た物は、そんな下らない物なのだ。
それが永遠に、朽ち果てるまで繰り返される。

気が狂わないのが不思議だ。
いや、もう狂っているのかもしれない。

それもここに居ては気が付かないだろう。
この白い球こそが、狂い死ぬほど紅い色をした球だと、誰も口外してはくれないのだから。

だから、狂いきる前に早くあそこに行った方が良い。
それを、私はさせない。

彼女はここで死ななければならない。
それが彼女に残されたたった一つの仕事なのだから。



誰が決めた。
他でもない、私が決めた。




私が彼女の死を定め、彼女は安寧の中で死を迎える。





なんと素敵な事なのだろうか!
自分の生まれ育った所で、皆に涙を流されながら、死ぬのだ!





彼女が死に逝く日を夢想している、ほくそ笑んでいる。

嗚呼、私はなんて醜いのだろうか。
やはりあの穢れた球に足を降ろした時から、私の体には穢い物が溢れんばかりに纏わり付いているのだろう。

穢い事がこんなにも素晴らしい物だったなんて。

彼女に自慢してやりたい。
あそこは何も無いゴミ溜めみたいな所だと耳元で囁いてやりたい。

だけど、そうしたらあそこへ向かってしまうかも知れない。

いいやそんな事は無い。
絶対に大丈夫だ。

蓬莱の薬でも飲めばまた話は違ってくるだろうが、彼女は未だ普通の月人だ。
殺せば死ぬし、砕けば散り逝く。

あそこへ向かう途中でスペースデブリとなって空間を彷徨う事になるのが関の山だろう。
彼女もそれを分かっているからこそ、行動に移らない。

本来は能動的な彼女の事だ。
放っておけばいずれあの薬師に蓬莱の薬を作らせ、服用してしまう可能性もあっただろう。

しかし、それは許さない。
彼女には、いつまでも”穢れ無き大地に御座す高貴なる姫君”として在って貰わなければ、私の目的が達せないのだ。

事実、彼女は私が此処にくる以前に何度か薬師に接触しようとしていると聞いた。

だからこそ私は彼女に頼まれても居ないのに付き従い、貴き姫君を”見守って”いるのだ。
此処最近はようやく諦めたのか、




「いつまで待っても八意殿は来ませんよ、姫」

「……分かってるわよ」





振り向き見せるは涙などでは無く、整った目鼻立ちを醜く顰める勇猛な表情だった。

嗚呼、なんと恐ろしい。
それだけの威勢があれば、私の事など歯牙にも掛けずに行動すればよろしいのに。

口元を抑えて戯けてみせるも、彼女は警戒心をより一層強めるだけだった。
今日はこんな所だろうか。
やはり彼女は無言で、私の隣を通過していった。


一人残された私は、先程まで彼女が立っていた場所に立ち尽くす。
見上げる先には、彼女が見ていた光景が広がる。

黒い、暗い、何も無い空間にたった一つ浮かびあがる、青くて穢い美しい球。
あそこには穢れと、死の匂い、そして無限の可能性しかない。

穢れ無きこの地に用意された、たった一つの可能性なんか比べ物にならない程の、数多の可能性。生命の取捨選択。

果たしてこの白い球に用意されているのだろうか。
生も死も超越した、腐った桃源郷に。






「あら、永遠はお嫌い?」

「いえ、大好きよ。
 塵は塵に。 球は球に。
 移ろわない物ほど美しい物は無いわ」

「詭弁ね。
 貴女も怖いんじゃないの?
 ”変化”が」





いつの間にか口に出していたのだろう。
音も無く入り込んだ家主は、私の言葉に随分な返事をくれた。

私の隣に立った彼女は、私と視線の延長線上を交差させた。

見ずとも分かる。
彼女とは短い付き合いではないのだから。





「コーヒーでもどう?
 飲んだらすぐ帰りたくなるわよ?」

「あら、今度は何を入れたのかしら?」

「この間作った新薬よ。
 自分で試す事も出来ないし、丁度良いわ。
 貴女なら平気でしょ?」

「ええ、せいぜい血を吐いてのたうち回るだけだわ。
 もしかしたらドロドロに溶けちゃうかもね」

「もしそうなっても”私は”平気よ。
 いえ、貴女も平気ね。
 どうせ飲む気は無いんでしょう?」

「良く分かってらっしゃる。
 じゃ、私は彼女を追わないといけないから」



「またね、”永琳”」

「さようなら」





彼女との歓談を終え、私は通路へ躍り出る。
相変わらず誰も居ない、静かな空間が広がっている。

良くこんな所に居て生きてられるものだ。
いや、もう死んでいても変わらないのかも知れないわ。

息の詰まる様な静寂に溜め息を一つ漏らし、薄暗い道を進んで行く。
すると、目の前に見覚えのある黒髪が見えた。





「……××?」

「あ……。
 な、なに? どうしたの?」





振り向いた彼女に、目を丸めてしまう。

泣いていた。
あの普段は気丈に振る舞い、悩みなど何も無さそうな彼女が。

別に何を思った訳でもない。
ただ気付いた時には彼女に近づき、白くか細い腕を掴んでいた。
手に広がる熱が、加えている力の大きさを伝えてくる。





「どうしたの、××?
 話してごらんなさい?」

「…………」

「口に出さないと、何も伝わらないわよ?」

「……!
 ……うん」





目尻に溜まる涙を拭ってやり、人気の無い所まで連れて行く。
と言っても、この近くで最も安全だと言い切れる場所は、八意の私室くらいのものだ。

彼女の家は駄目だ。
プライバシーなどと言う洒落た物は、あの檻には存在しない。

例え自由に歩き回っている様に見えても、彼女が出歩く事を許されている場所はほんの一握りなのだ。
彼女の家の彼女の部屋、八意の自室、数えてみれば片の手ですら事足りる。

確かに物には不自由しない。
だが、生を送るには余りにも不自由過ぎる。

だから此処には生が感じられないと言うのだ。
傷の付かない永遠など、何の価値も有りはしない。

あくまで彼女には、人間らしい一生を送ってもらわねばならない。
その為なら、私はどんな犠牲も厭わないだろう。





「失礼するわ」

「あら、また来たの……姫?」





珍しく、八意が動揺するのが見て取れた。
だが今はそんなどうでも良い物に構っている余裕は無い。

私が彼女の手を引き詰め寄って行くと、何も言わずに椅子から立ち上がり、彼女を座らせた。
目線で感謝の意を伝えても、彼女の表情は強張ったまま動かない。





「私はコーヒーを淹れてくるわ。
 暫く彼女をお願い」

「え、ええ……」





勝手知ったる何とやら、とでも言うべきか。
隣室に移り、コーヒーを慣れた手順で淹れていく。

準備が出来て戻る頃には幾分か落ち着きを取り戻したのか、彼女の瞳から雫は消え去っていた。
俯く彼女の隣に立ち、湯気の立つカフェオレを無言で差し出す。

八意にも差し出すが、手の平を向けられた。
仕方なく、私は茶色い液体に口を付けた。

私と八意は静かに、彼女が自分から口を開くのを待ち続ける。
彼女は青い球を見上げたまま口を閉ざしていたが、やがて小さく、独り言の様に呟きを漏らした。





「……結婚」

「え?」

「……結婚するの。
 次にあの球が満ちた時」





彼女の言葉に、心臓が跳ね上がる。
手を伝う茶色い液体の熱が、熱傷と引き換えに私の理性を引き戻した。

結婚。

失念していた。
彼女の家柄からすれば、それも至極当然だというのに。





「明日はその為のお見合いの日。
 見た事も無い殿方がやってくるの」





政略結婚。
その言葉が私の頭を過った。

愚かしい事に、出生率が減少の一途を辿っている月の都に於いて、高貴な血筋を持つ者同士の政略結婚という風習は未だ根強く残っていた。
そうして権力を増大させていくという腐ったライフゲームが、遥か昔から繰り返されているのだ。

馬鹿馬鹿しい。
結婚相手を自分で選ぶ事さえ許されないと言うのか。
これでは青い球の民と同じではないか。

隣を見れば、八意の固く閉じられた口内から歯軋りの音が聞こえてくる。
自分の可愛い教え子が、何処の馬の骨とも知れない相手に娶られるやも知れないのだ。
心中穏やかではないだろう。

だが、八意が最も憤慨している相手は。
そんな事を勝手に決めた彼女の親は勿論だろうが、それを伝えずに居た彼女に対してだろう。

彼女は再び俯き、黙り込む。
それを覗き込む様に、八意がしゃがみ込む。

表情は険しく、彼女が視線を逸らす様子が髪の躍動で感じ取れた。





「××、貴女どうして言わなかったの。
 言ってくれれば私がどうにでもしてあげたわ」

「…………」

「何か言いなさい、××!」

「……ねえ、どうして貴女は私にそこまでしてくれるの?
 貴女は私の教育係、ただそれだけでしょう?」

「……それは」

「私が欲しいの? だったらそう言ってくれれば良いじゃない。
 私、貴女の事は嫌いじゃないわ。 いつも一生懸命に私の事を考えてくれてるの、知ってるのよ。
 私は貴女の教え子よ? そこまで馬鹿じゃないわ。 貴女が求めるなら、いつでもこの身を差し出すわ。

 だから、ねえ……どうにかしてよ……!」





彼女の言葉が、最後の堰を切ったのだろうか。
流れ落ちる様に放たれた言葉は止まらず、溢れ出してゆく。

完全に自暴自棄になっている。
私はその様子を傍観していた。

彼女の気持ちは痛い程分かる。
何の気も無い男に言い寄られるなど、我慢出来る方がおかしいのだ。

紺と赤の二色を纏った八意の衣服が彼女の雫で滲んでいく。
彼女を抱きしめようともせず、腕をだらしなく垂らし続ける八意の姿に苛立ちが募っていく。

だが、この機会を利用しない手は無い。
彼女の啜り泣く声の中、私は静かに二人に近づき、声を放った。





「だったら、お見合いする気を無くしてしまえばいいじゃない」

「……え?」





私の言葉に、彼女はおろか八意さえもが怪訝そうに眉を顰めた。
全く、この従者は彼女の事になると途端に視野が狭くなるのだから。

わざとらしく笑顔を形作ると、彼女達の表情は訝しみから興味へと変わっていく。
そうだ、そうこなくては。





「耳を貸しなさい。
 私が良いアイデアを教えてあげるわ」

「……良いわ、聞かせて頂戴」






先程までとは打って変わり、凛とした表情で八意が私の視線を直視してくる。

本当に、転がり行く玉の様に表情の変わる人だ。
これも彼女のお陰なのだろうか。
そう思うと、僅かばかりの嫉妬心が首を擡げてくる。

だが、こんな感情を抱いても詮無い事は理解している。
無関係な思考を切り離し、私は二人の耳元へと顔を寄せていく。

ここは八意の結界の中なのだ。
心配する必要など、万に一つもありはしない。

しかし、念には念を入れる必要がある。
二人の耳元で計画を聞き終えた私の瞳には、二人の希望に満ちた笑顔が映り込んだ。










――










そして青い球が半分より少しだけ顔を覗かせた晩。
彼女の屋敷へと物々しい行列が幾つも訪れる。

喧噪に包まれる屋外に顔を覗かせる。
どうやら見合いの人数は4人の様だ。

どれもこれもパッとしない。
これならば馬の骨の方がまだ使い道が有りそうだ。

振り向くと、そこには見合いの支度を終えた彼女が静かに座している。
化粧をした彼女は成る程、これはどの様な宝にも勝る美しさを放っていた。

彼女に近づき、落ち着かせる様に肩に手を乗せる。
深呼吸をさせると、幾分か表情を和らげてくれたようだ。

充分に手入れが行き届いた黒髪を手櫛で梳いてやる。
気持ち良さそうに目を細める彼女の姿に、思わず笑みが零れた。





「――ねえ。 貴女はいったい誰なの?」

「うん? そうねえ、私は月の兎よ。
 ほら見て、目が真っ赤でしょう?」

「嘘ばっかり。
 本当に兎みたいね」

「でしょう? 人参だって食べちゃうのよ」

「あらそれは凄い。
 私、人参なんか大っ嫌いよ」

「貴女は兎になれないわね」

「人間にもなれやしないわよ。
 兎は籠の外で暮らしてるしね」

「違いないわ」





私が鼻で笑うと、彼女は不満そうに私を睨んできた。
暫し無言で見詰め合う。





「……っぷ」

「くっ、ふふふ……」





そして耐えられなくなり、笑ってしまう。

なんて魅力的な少女なのだろう。
ますます彼女を手放せなくなってしまうではないか。





「姫、そろそろ時間です」

「あ……」





従者の声に、彼女は顔色を陰らせた。
彼女を落ち着かせる様に、肩に手を置く。





「――良い、××。
   この計画は貴女に懸かっているわ
   私の言った通りに、ね」

「分かってるわ。
 大丈夫……」

「よろしい!」

「いたっ……!
 何するのよ~……」



気合いを入れる様に肩を強く張ってやる。
痛みに涙を浮かべながらこちらを睨みながらも、彼女の顔から陰りは消え去っていた。





「……それじゃあ、行きましょうか」

「ええ、かならず上手くいくわ」





そう。
不安なんか感じる必要は無い。





「次にあの部屋で会う時も、きっとまた独身ね」

「ええ、その時はまた一緒にコーヒーでも飲みましょう」





次に会う時は、きっと貴女は誰かの伴侶になっている筈なのだから。










――










私は今、従者に扮して彼女の右隣に座っている。
彼女の左隣には、八意が。

この場に居るのは彼女、私、八意。 そして4人の男達。
会わせて7人が漆塗りの長机を挟み、対面するように座っている。

男達はと言えば、雁首揃えて彼女の事を見つめていた。
品定めする様に、舐め回す様に。

体中をナメクジが這ったってこんな不快な気分にはならないだろう。
今すぐにでも細切れにして、兎達の薬搗きにでも混ぜてやりたいくらいだ。





「――本日は、よくぞお越し頂きました」





男達が囁き合う中、彼女が静かに口を開いた。

厳かで、凛とした態度だ。
それだけで、男達は口を噤んでしまう。

ここが公の場でなければ、私は腹を抱えて笑い出していただろう。
実に滑稽だ。 この一瞬を切り取って永久に保存してやりたい。

口元を袖で抑える私を、小太りの男が濁った瞳で睨みつける。
ふん、三下めが。 せいぜいふんぞり返っているが良い。





「まずは、突然の無礼をお詫び致します。
 折角お越し頂いたというのにこの様な事を言うのは余りにも失礼だとは思うのですが……。

 私は、此処に居る誰とも結婚する事はできません」





彼女の放った発言に、男達の間に動揺が広がる。
その様子に、私は口が歪むのを堪えきれなかった。

心底嫌だと言う事もあるのだろう。
それにしても、こちらまで嫌悪感が感じられる迫真の演技だ。

これも次の台詞に繋げる為の定石ですらないというのに。





「私の為に遥々お越し下さった事は、とても嬉しく思います。
 しかし私は、あなた方がどれ程私の事を思って下さっているのか分かりません。
 もし本当に私の事を好いておられるのならば、次に言う物を持ってきては頂けないでしょうか」





姫の言葉に、男達の間に喧噪が広がる。
彼女の腰を机の下で小突くと、深呼吸と共に次の言葉へと移った。





「貴方は、月のイルメナイトをお持ち下さい。
 期限は一週間後です」





先ほど私を睨んだ男が、脂汗を掻いて狼狽えている。

そう、これが私の提案した策である。
男達に無理難題を吹っかけ、結婚を諦めさせる。

そうすれば、彼女の世間体は多少悪くなるだろうが、結婚をせずにいられるのだ。

もう一度、男へと視線を移す。
彼女の告げた難題に狼狽えた男の顔と言えば、笑いを押し殺すのに精一杯にさせられてしまう。

当然だろう。
イルメナイトは月の表側にある。

結界の外へ出る為には、もう一人の月の姫に許可を得なければならない。
月面戦争以降、出入りを厳しく制限されているのだ。 許可など到底得られる筈も無い。
ましてやこの程度の身分の男など。

まず、無理であろう。
次の男へと目を向ける。





「貴方は、エイジャの赤石を私にお見せ下さい。
 こちらも期限は一週間後です」





細身の男は顔面蒼白になり、手を振るわせた。

彼の様子に、喉が震える。
太陽の力を受けた聖なる石は、天照大神に愛された青い球にしか存在しないのだ。
そして、あの広大な世界の何処にあるかは分からない。

そもそもあの地に降りると言う事は、即ち穢れを持ち帰ってしまう危険性があるのだ。
目の前の少女と引き換えとするには、余りにも支払う対価が大き過ぎる。

この男も見込みは無い。
次だ。




「貴方は、ミステリウムを。
 期限は同じく一週間後です」





鼻の下に髭を蓄えた男は、頭を抱えて顔を紅潮させている。

ミステリウムと言えば、月の都でも未だ存在を検証中の物質である。
如何に優れた科学者と言えど、こればかりは見つけ出す事は出来ないだろう。

しかし、私は若干の焦りを覚えていた。
まさかここまで頼りない男達ばかりだとは。

これだけ居れば、一人は難題を解く者が現れてもおかしくは無い筈だ。
溜め息と共に、次の男を見やる。





――思わず、目を見張ってしまった。


視線の先に映り込む男は、これまでの無茶苦茶な難題を聞いても身じろぎ一つしていなかった。
背筋を張り、凛とした表情で姫君を見詰めている。

この男ならば、あるいは……。





「最後に、貴方には……」





そこで彼女は、息を飲んだ。
一瞬の静寂が辺りを包み込む。

3人の男達は、姫君が口を開くのを息を殺して見守っていた。
ここから先の出来事は、お前らには関係の無い事だと言うのに。





「――蓬莱の薬を、私の元にお持ち下さい。
   期限はやはり、一週間後です」





彼女の言葉に、八意は目を見開く。
何か思う事があったのだろう。

気付かない振りをし、男へと目を向けた。
中々に胆の座った男は、狼狽えるでも汗ばむでもなく、ただ背筋を真っ直ぐ伸ばし、口を開いた。



「かしこまりました。
 必ずや、貴女の元に献上しましょう」



彼女の言葉を聞いて縮こまるどころか、その男は笑みすら浮かべながら答えを返した。
男の浮かべた自信は、果たして虚勢だろうか。 それとも確固とした算段からくる物なのだろうか。

彼女へと視線を向ける。
話が違う。 そう言った目で私を見詰めてきた。

不安そうに眉を垂らしてこちらを見る彼女を安心させる様に、そっと耳打ちをする。





(大丈夫よ。 あんなの虚勢だわ)

(でも、もし万が一……)

(考えてもみなさい。
 蓬莱の薬を作るには、貴女の力が無ければ困難を極めるわ。
 あの八意だって自力で作り出すのは難しいでしょう)

(……そ、うね。 ありがとう)





私の言葉に安心したのか、彼女は再び人形の様な面持ちで正面を見据える。

何処までも真っ直ぐ。
そこにはどの男達も映らない。

ここに集まった男達など、自分の隣に置くに値しないのだ。
彼女の佇まいを見た男達は、自然とそう思わされたのだろう。
暫し不快な低音で唸りをあげた挙げ句、すごすごと退散していった。

恐らく二度と此処に姿を現す事は無いだろう。
それだけで、自然と気分が高揚してくる。

しかし、隣に座る姫はそうは思ってくれない様だ。


目の前には、一人の男が残っていた。
何を言うでも無く、ただ姫の事を見詰めていた。

停滞した空気が場を重苦しく縛り上げる。
呼吸音すら五月蝿く感じる、この部屋の中。

新たな言葉を紡いだのは、隣に座る黒髪の少女だった。





「……あの、まだ何か?」

「いえ、ただ……どうして、あの様な事を申されたのか、気になりまして」

「え?」





男の言葉に、彼女は首を傾げる。
気にする事無く、男は言葉を続けた。





「貴女の仰られた事は、遠回しな拒絶です。
 あの男達はそれに気が付かなかった様ですが、私は違います。
 以前貴女をお見掛けして以来、夜も眠れぬ時を過ごしてきました」





男は姫の目を見詰め、そう言った。
姫へと目を向ければ、頬を僅かに紅潮させている。
男の話は終わらない、止め処無い感情を全て叩き付ける様に、彼女に愛の言葉を吐き続けた。





「貴女から出された蓬莱の薬を持って来いと言われた時、正直膝を折りかけました。
 この月に於いて、あの禁薬を手に入れる事がどれほど困難であるか、言うまでも無いでしょう。
 ですが、私は必ず、貴女の前に蓬莱の薬をお持ち致します。
 今暫く、御待ち下さい」





そう一気呵成に告げると、男は一礼の後に退散していく。
なんとまあ、真摯な男だろうか。

先ほど見た時に感じた自信、あれは精一杯の虚勢だったのか。
男は女の事を分からないと言うが、私にしてみれば男の方こそ分からない。

よくもこんな難題に立ち向かおうと思ったものだ。
だが、それでこそ彼女の伴侶となる資格がある。





「……ふぅ、疲れたぁ」

「お疲れ様。 良く頑張ったわね。」





襖が閉まり、足音が遠のいた事を確認すると、彼女は張り詰めた緊張の糸が切れたのか、深い溜め息を吐いた。
肩を叩いてやると、弱々しい笑顔を返してくる。





「はは、すっごい怖かったぁ~。
 もうお見合いなんて懲り懲りよ」

「そりゃあそうよ。
 第一印象で判断する男達に碌なのは居ないわ。
 ……でも、最後の男は良かったんじゃない?」

「え……?」

「ふふ、耳まで真っ赤よ。
 あんな事言っちゃって、内心後悔してるんじゃないの?」

「そ、そんな訳ないわよ!」

「照れるな照れるな」





面白いほど顔を真っ赤にした彼女は、私の事を力無く叩いてくる。
そう、それで良い。 そのまま何の心配もしないで待っていると良い。

全ては青い球が満ちた頃には終わっているのだから。





「お疲れ様、我が儘姫」

「あ、××まで、も~……」




その時、戯れる私達の間に声が割り込んできた。
左へと目を向けると、見合いの最中はずっと黙りを決め込んでいた八意が彼女の頭を撫でていた。

撫でられる彼女の姿と言えば、まるで子供の様だ。
つい、声に出して笑ってしまう。





「あ……も、もう、二人とも……知らないっ!」





どうやら冗談が過ぎたらしい。
堪忍袋の緒が切れたのか、彼女は床を可愛く踏み鳴らしながら部屋を飛び出してしまった。




東洋造りの室内に、私と八意だけが取り残される。
庭を流れる川の音が心地良い等と場違いな事を考えながら、私はただ座り続けた。
決して八意を見る事はなく、しかし意識をそちらへと向けながら。





「――どういうつもりかしら」





案の定、彼女は私へと話しかけてきた。
思惑通りに事が運んでいく楽しさに腹の底で笑いながら、八意へと返事する。





「あら、何の事かしら?」





私の耳に、八意の舌打ちが聞こえてきた。
下品よ、と返し、また冷笑を向けてやる。

次の瞬間には、彼女の顔が私の視界全体に広がった。
顎から伝わる感触と首の痛みに、無理矢理顔を動かされたのだと分かった。





「私は蓬莱の薬なんか作らないわよ。
 絶対にね」





射抜く様な視線に、私は視線を逸らす事さえ出来なくなる。
彼女はそれだけを告げると、部屋から退出して行った。





「――ふぅ、全く。 いつになっても永琳は相変わらずねぇ……」





ヒリヒリと焼ける様な痛みが残る頬を抑えながら、天井の木目を仰ぎ見た。
人工的に作られた川のせせらぎも、加工された木材で作られた天井も、私の心を安堵させる事は無い。

これから私が行う事は、私が犯した罪の中で二番目に大きな物になるだろう。
いや、もしかしたら最も罪深き事になるかも知れない。

天井との睨めっこを存分に楽しんだ私は、静かに立ち上がり、”彼女”の元へと向かう事にした。









――










相変わらず薬品の臭いが充満する診療室。
外からは兎達の喧噪が聞こえる中、私は椅子でカルテと睨めっこをしている人に音も無く忍び寄った。





「わっ!」

「うわっ! ……って、何の用よ?」





目の前に座った銀髪の薬師は、目を丸くして驚いている。
砕けた表情に思わず笑いが零れてしまう。






「あはははは! さっきの永琳の表情ったら、ふふ……。
 あ、ごめんごめん。 いえ、ちょっと貴女に用があってね……」

「う、五月蝿いわよ! だからその様を聞いてるんじゃない!」

「あはは、ごめんなさい……で、お願いがあるんだけどね……?
 蓬莱の薬、作ってもらえないかしら?」

「!」





蓬莱の薬。
この単語を聞いただけで、彼女の表情が鋭い物へと変わる。

あまり良い思い出が無いのは、私が一番良く知っていた。
彼女の運命を大きく変えた、呪われた禁薬。

それをもう一度作れと言っているのだ。
生半可な理由では納得してくれないだろう。





「……訳は、聞かせてもらえるんでしょうね?」

「勿論よ」





にこりと笑みを向けた後、私を睨み続ける彼女の耳に近づき、私の目的を告げた。
嘘偽りの無い、全てを。

聞き終えた彼女が私に向けた視線には、後悔と憐憫が一つの壺に入り交じった様な、悲しげな感情が含まれていた。

昔の事を思い出したのだろう。 
痛々しい表情を吹き飛ばす様に笑ってやっても、表情は晴れない。




「協力、してくれる?」

「……分かりました」





久々に聞いた、彼女の敬語。
恐らく遠い昔、彼女に初めて出会った時に挨拶されて以来かも知れない。

私は満足げに頷き、彼女と共に実験室へと入り込んでいった。










――










太陽が役目を終え、今にも眠りに就こうとする逢魔時。
一人の男が溜め息を吐きながら物思いに耽っている。





「――しかし、蓬莱の薬か……一体どうした物やら……」





あれから何日経っただろうか。
今日見上げた青い球は、今にも満ちようかとしていた。

古めかしい牛車に揺られながら籠の外を見やる男の姿は、正直様になっていた。
だが、残念だがこればかりは彼の手には負えないだろう。
蓬莱の薬を作れる者、作れる条件は限られているのだ。

それこそ八意くらいしか精製する事は出来ないと考えても良い。
それも一、二週間やそこらで精製できる代物ではないのだ。

だからこそ、私は笑いが止まらないのだ。
すぐにでも言ってやりたかった。

貴男の望む物は、ここにあると。
だが、すぐには言ってやらない。

こんな美人が隣に居るのだ。
それに気付かない男に使う気なんか、これっぽっちも持ち合わせてはいない。





「はぁ……。
 ん? だ、誰だ!? ……女?」





それから暫くして、ようやく男は私の存在に気が付いたようだ。
懐に入れていた刀を取り出し、私に向けようとしていた。

だが、私が女だと気付くとすぐに手を止めた辺り、やはり私の見立てに狂いは無かったらしい。
まぁ、本来の意味でのフェミニストかどうかは怪しい所だが。





「こんにちは。
 先程はどうも」

「……先程?
 ……もしやあの時の?」





男は暫く私の顔を凝視していたが、ようやく思い至ったらしい。
素直に関心した。 私など、この男以外に居た3人の事など、とうに記憶の片隅からすら追い出していたのだから。





「……どうやって入って来たのかは、聞かない。
   何の用だ?」





落ち着きを取り戻したのか、男は私に向けて姿勢を正した。
どうやら理論的、合理的に物事を判断できる能力もあるらしい。

ますます気に入った。
かつて地上で見た”ある人”を彷彿とさせるそれに、私は僅かに残っていた逡巡を切り捨てる事ができた。





「貴男にお渡ししたい物がございます」

「……私に?」





怪訝そうな顔でこちらを見る男に、腰の後ろに置いていた壺をそっと差し出した。
暫し壺を見詰めていた男は、はっと何かに気付いた様な顔になり、私の瞳を真っ直ぐに覗き込んでくる。





「……もしや、これは!?」

「一口、舐めてみます?」





私の言葉に、男は俯き黙り込む。
頬を見れば、一雫の汗が垂れているのが気が付いた。
何を考えているのだろうか。

逡巡。 罪悪。 葛藤。 誘惑。

何でも良い。
棚から零れ落ちた牡丹餅は、放っておけば腐ってしまう。
ならば、次に取るべき行動は一つではないか。





「――――本物、なんだな」





男の問い掛けに、私は笑顔を浮かべて会釈を返した。










これで、私のやるべき事が一つ終わった。










「うう……む?」





今頃あの男は私が居ない事に驚いているだろう。
私は男の狼狽を一人夢想しながら、夕刻の街道を後にした。









――










「――ちょっと、一体どういう事!?」





消毒液と珈琲の香りに包まれた私の遊惰な時間が、心地良い騒音に寄って乱される。
見上げていた青い球は、美しい『玉』となって私達の事を見下ろしている。

久しぶりの診療室の中、手に持ったカフェオレがまた冷めてしまうなどと見当違いの事を考えながら、彼女の方を振り向いた。





「あら××。 おめでとう。
 正式な挙式はいつになるのかしら?」

「ふざけないで!」





次の瞬間には、甲高い音が室内に響き渡っていた。
赤く腫れた頬を抑える事もせず、僅かに溢れたカフェオレに口を付ける。

ああ、やっぱりコーヒーは甘い物に限る。
一人息を吐く私に、彼女はもう一つの紅葉をくれた。





「あの男が持って来た薬、貴女が用意したんでしょう!?
 誤摩化す事だって出来やしない! これじゃあ私……本当にあの男と……!」

「大丈夫よ。 あの男は真剣に貴女の事を想っているわ。
 私が保証する」

「……っ! 貴女の保証なんて!」





再び振り上げられた手を、私は刮目したまま目で追った。
これは贖罪なのだ。 甘んじて受けてやる。

伸び切った右手が今にも振り下ろされんと広がりきる。
しかし、それが私に償いをさせてくれる事は無かった。





「あ……」

「××、あっちに行ってなさい」





彼女の手首が、何者かに止められた。
誰か、など考えるまでもない。





「あら、タイミング良かったわ八意さん。
 お陰で痛い思いしないで済ん――」





言い終わる前に、私の発言は遮られた。

私は今、八意を見下ろしている。
だが、決して気分の良い物では無かった。

何故なら彼女の手が、私の体を持ち上げているのだから。





「私の質問に三つ答えなさい。 
 嘘は許さない。 沈黙も許さない。
 自白剤でも何でも使ってやるわ。

 一つ、”蓬莱の薬を渡したのは貴女か”。
 二つ、”どうやってあの薬を入手したか”
 三つ、”あの薬を使うつもりか”。

 さあ、答えなさい」





言い終えると、私の体を放り投げる様に手放した。
久しぶりの呼吸に咳き込む中、八意はあくまでも冷徹に、私の事を見下ろしている。
流石に、今回ばかりは洒落にならないだろう。





「……ええ、あの男に蓬莱の薬を渡したのは私よ」

「続けなさい」

「あの薬はね、ふふっ、”この世で最も腕の立つ薬師”が作ったのよ」

「それは誰?」

「今、私の目の前に居るわ。
 でも決して、貴女じゃない人よ」

「……っ!」





私の返答に、彼女の視線が一層強くなる。
彼女の殺意だけで、私は倒れ伏してしまいそうになってしまう。
それを必死に堪えながら、私は彼女の最後の質問に答えた。





「そして、三つ目。
 私は、決して、あの薬を使わない。 使わせない。 絶対に。
 命だって賭けて良いわ」

「…………」





欺瞞だ。

そんな事、彼女はとうに気付いているだろうが。



私は逆に彼女に問い掛ける様な視線で、彼女を覗き込む。
先日を彷彿とさせる睨み合いが続く。
やがて見詰め合いになり、最終的には視線が別れを告げた。

同時に視線を逸らし、私は立ち上がる。
彼女は振り向き、ドアノブに手を掛けていた。





「……もし何かあってみなさい。 死んだ方がマシだと思わせてあげるわ。
   あの男もね。」

「あの人は大丈夫よ。 絶対に彼女を幸せにしてくれるわ。
 だって、”私が選んだんだもの”」

「っ! 貴女やっぱり!」

「なんで貴女が怒ってるのかしら?
 もしかして本当に姫に懸想でもしてたのかしら?」

「……っ!
 黙りなさい!」










――嗚呼、分かっていた筈なのに、どうにも割に合わない役回りだ。





再び一人になった室内、洗面所から流れ落ちる水が赤く染まっていった。
鼻の穴にガーゼを詰め込みながら、私はふと鏡に映った自分を見詰める。

月の光を反射した様な銀色の髪に、兎の様に紅い瞳。

まるで道化だな。
そう自嘲する。

どうやら男は上手くやったらしく、後から職人が請求に詰め掛けたり、偽物とすり替えられるなんてことは無かった様だ。


今の所、全ては上手くいっている。

このまま、後数年か数十年か。
或いはもっと短いかも知れない。

いつしか私の計画が花開く事を願い、私は二人の……いや、一人の後を追い、部屋を退出した。










――










あれからひと月もせずに、月の姫君と男の結婚式が執り行われた。
勿論私の元に招待状が来る事はなく、こうして遠目から二人の晴れ姿を眺める羽目になっているのだ。

近づこうにも、あの薬師の警戒があり忍び込む事も出来ない。
本気で怒らせると恐ろしいという事は知っていたが、今も射殺さんといった気配をこちらに向けているのには、流石に悪寒を覚えてしまう。

双眼鏡越しに睨み付けてくる八意に手を振って挨拶を終えた所で、私は本日の主役へと目を移した。

嗚呼々々なんともまあ、満更でも無いと言った表情をしていることで。

どうやらあの男もあの男で相当に頑張ったらしい。
顔中に散らばった傷痕が、彼の苦労を物語っていた。

見詰め合って頬を染める様は、見ているこちらまで照れてしまう。

全く、御馳走様というものだ……。





「――――?」





その時、私の近くで物音がした。
何かと見てみれば、一匹の玉兎が小銃を抱えて茂みから式の様子を窺ってるのが目に入る。

囁き声の様子から、近くに数匹の仲間が居るようだ。
こんな目出たい席に、こんな無粋な護衛が居るだろうか。
しかも、守るべき対象へと武器を向ける護衛なんて。





「ハロー、兎さん」

「っ!?」





私と同じ色の瞳がこちらに向けられる。
それと同時に、鼓膜を破らんばかりの破裂音が響き渡る。

何事かと自分の体を見下ろせば、心の臓付近から紅い流れが絶え間無く溢れているのが目に入った。
久々の、懐かしさすら感じる焼ける様な痛みに、私の意識は次第に遠のいていった。





「――嗚呼、全く。 久々に死んじゃったじゃない」





そして私は戻ってくる。
今考えている事といえば、紅く染まったモンペの替えをどうしようか、などと行った瑣末事である。
目の前で腰を抜かしている兎の料理法等ではない。





「今すぐ帰るんだったら、何もしないけど……。
 パーティに参加したいんだったら、私の行きつけの”バー”までご招待するわよ?
 無事に船を渡り終える自信があるなら、ね」





話は変わるが、兎という物は元来臆病なものである。
自分が怖ければ逃げ出すし、その為には平気で仲間も見捨ててしまう。
そんな兎を、私は一匹知っていた。





「ひっ! て、撤収ー!」





どうやらこの兎は仲間思いな部類だったらしい。
彼女の叫び声を合図に、辺りに散らばっていた僅かな気配が一瞬にして霧散する。

私は茂みの中で一人、溜め息を吐く。
クリーニング代は彼女達に請求しても良いのだろうか。

構うものか。 護衛料と慰謝料だと思えば安い物だ。
血が固まりかけたモンペに嫌悪感を感じたまま、私は静かに茂みの外へと目を向けた。

静かな、しかし厳かな龍笛の音色が、私の心に染み入る。
先程の無粋な兵器の立てる音とは比べ物にならない、比べるのも烏滸がましい程に完成された音色に、私は暫し聞き入った。





「随分優しいのね」





不意に、私の耳元に囁きが訪れる。
紅い瞳だけを右に動かし、私は言葉を返した。





「……あら、良いのかしら?
   愛しい姫様はあちらよ?」

「そういう態度じゃなければ、貴女も招待したのだけれどね」





そう言って現れた人物は、本来あそこに居る筈の人間、八意××。
矢を番えている事から、今日は彼女の護衛も兼ねているらしい。
気が付けば、冷たく輝く矢じりが私の頭部へと押し当てられている。





「もう少し近づいてから一網打尽にしようとしていたのに、ぶち壊しだわ」

「生類、特に兎は憐れみの心を以て接してあげないと。
 ここは月よ? 罰が当たっちゃうわ」

「怖いわね。 その結果が貴女かしら?」

「原因に言われると一層愉快ね」





そう。
あの兎は、恐らく今回の式に乗じて姫を暗殺する為に仕向けられたものに違いないだろう。

月の都で最も高い死亡率は何か?
それは暗殺である。

月人は、基本的に寿命が無いに等しいのだ。
普通に考えれば、放っておけば人間は増える一方になる。

それを防いでいるのが、計算され尽くした人口統制である。
子を儲けようと思ったら届け出を出し、厳密な審査の末に認められて、ようやく許可が下されるのだ。
人口を増えすぎず、減らしすぎず。 管理の行き届いた人口管理で、月の都はほぼ一定の人口密度に保たれているのである。

だが、人口は減るのだ。
上流社会のしがらみから生ずる、暗殺、謀殺によって。

人口が減らない以上、社会的地位はどうしても一定の人間に固定される傾向にある。
下の者達はそれを打開する為、上位に位置する者を引きずり下ろす必要があるのだ。

だが、長年に渡る工作に明け暮れた、いわゆる政治的駆け引きに長けている人物の粗を曝け出す事は、下手をすれば自分の地位すら危うくなる。
共謀したとしても互いのリスクを増す事はあれ、分散させる事は無い。

ならばどうするか。

簡単な話である。
死人に口無しだ。

蓬莱の薬が忌み嫌われているのは、この部分も関係するのだろう。
八意等の特別な者を除き、永遠の命を手にした者は、実質的に永遠に同じ地位に収まると言っても過言ではない。

そんな者が増えたら、世界は一部の者のみによって動かされる、エゴイズムに支配された世界となるだろう。
だからこそ、蓬莱の薬は嫌われるのだ。





「姫様ったら幸せそうねえ。
 まあ、まだ微妙な感じだけど?」

「私、縫合も得意なのよ。
 試しにその唇で実践してみせましょうか?」





互いに顔を合わせる事なく、会話は進む。
視線の先は、互いの系譜を寄合わせた二人が、きっと幸せそうな顔を浮かべているだろう華々しい晴れ舞台。





「ねえ、この服の替えが欲しいんだけど、用意してくれない?
 モンペももう血なまぐさくなっちゃって嫌よ」

「……しょうがないわねえ。 ほら、ついてらっしゃい」





溜め息と共に、弓矢が下ろされる音がする。
私の前へと歩み出た八意は、指で来い来いとジェスチャーをしながら先へ進んで行く。





「あら、良いのかしら?
 私は貴女のお邪魔虫よ?」

「透明なケースに入れて飼えば扱いも容易でしょう?」





彼女の返事に、私は目を丸くした。

全く、何処までが計算されていたのだろうか。
彼女が浮かべた久々に彼女らしい、本当に憎たらしい微笑みに、私は苦笑いをしながら付いて行く。

茂みを乗り越え、整備の行き届いた道路を踏みしめ、やっと辿り着いた、そびえ立つ門構え。
しかし、どれだけ待てど扉の開く気配は無い。





「何してるの? 早く来なさいよ」





戸惑っていた私の耳に、八意の声が聞こえた。
顔を左へとやれば、先程まで居た筈の彼女の姿は無かった。





「違う違う、こっちよ」





声のする方へと顔を向け、漸く納得する。
成る程、確かに今は式の最中だ。
こんな立派な門を開けてしまえば、彼女達の儀式に水を差す事になる。

私は静かに浮かび上がり、門の上へと飛び乗った。





「気を利かせるのも立派な従者の仕事よ」

「つまり、私の管轄外ってことね」





恐らく自分で見ても相当に憎たらしいであろう笑顔と共に、横に立つ八意に言葉を贈る。
しかし、私は彼女から報復される事は無かった。

何故かは彼女の視線を追う事ですぐに分かった。





「――――っ……」





思わず、息を飲んだ。

八意に連れられて会場に入った私は、荘厳な雰囲気の中執り行われる誓いの儀式に圧倒されてしまう。
誰もが静かに二人を見守る中、私も二人……いや、彼女へと視線を向ける。

純白の衣装に身を包んだ彼女が、静かに盃に口付け、それを男へと手渡す。
彼女の振る舞い全てに、一時とは言え私は心を奪われていた。










――










――――それから式が終わるまで。
    惚けていた私には細かい事までは覚えていなかったが、彼女の姿だけは酷く鮮明に脳裏に焼き付いている。
    複雑そうではあったが、それでも人並みに幸せそうな、彼女の横顔が。






――――私も、もし結婚していたら……。










「――護衛、ご苦労様」





詮無い妄想に耽っていた私を、聞き慣れた声が引き戻す。
後ろを振り向いてみれば、八意がティーカップを両手に微笑んでいた。





「本当に、綺麗だったわねぇ……」

「貴女もそろそろ結婚したら?」





ティーカップを手渡しながら呟いた八意に、感謝代わりの毒を返す。
案の定、八意は不貞腐れた様な表情を浮かべた。

しかし彼女は何を思いついたのか、椅子に座った私の背中越しに手を回すと、私の耳元に顔を近づけてきた。





「じゃあ、私達も結婚しちゃおっか……?」





艶を含んだ甘い囁きに私は総毛立ち、慌てて椅子から飛び退いた。
冷や汗を垂らしながら八意を睨み付けると、彼女は目元に気味の悪い三日月を二つ浮かべながらこちらを見ていた。





「!? あ、アンタやっぱり一回りしちゃってるんじゃないの!?」

「冗談よ冗談、寧ろこっちから願い下げだわ」





そう言うと彼女は私に近づき、一発のデコピンをプレゼントしてくれた。

やられた。
思わず、額以外の場所も赤くなる。

彼女が結婚した事で吹っ切れたのだろうか。
鬱屈した感情が全て解放された後の様な、清々したといった表情をしている。

もし私が男だったら、放っておかないだろう。
彼女が本来持っていたのであろう、怜悧な中に垣間見えるあっけらかんとした明るさは、私の良く知る人物に近い物だった。





「……あー、ゴホン。
 で、そのー……彼女は?」

「”顔も見たくない”ですって。
 うふふ、残念ねぇ~」

「五月蝿い!」





訂正、私の良く知る人物よりも全然子供っぽい女性だったようだ。
私の頬を嫌らしい笑顔で突いてくる八意の手を払い、私は部屋を飛び出した。

何処へ行くのでもない、腹いせにだ。
だが、私は一つ大事な物を彼女の部屋に忘れた事を思い出し、直ぐさま踵を返す事になった。





「……あら、お帰りなさい」

「…………んっ。 御馳走様」

「御粗末様」





悔しいが、彼女の入れたカフェオレはとびきり美味しいのだ。










――










それから数ヶ月。
私は彼女に謝罪する機会を得られぬまま、ひたすらに彼女の護衛を行っていた。

案の定、二人が籍を入れてから”その手”のお客様が正に千客万来と言った様子で御訪問なさっている。
私は彼女達に気付かれない様に、そのお客様方にお帰り願っているのだ。





「……ほら、こんな物騒な物出すから。 溶けちゃった」

「ひ、ひえぇ~!」





掴んだ武器を宙に放り投げ、目の前で溶かしてみせる。
これだけで、大抵の”お客様”は走って去っていくのだ。

命まで取らない理由は、生類憐れみというのは半分本当だが、もう半分は報復があった場合に面倒だからだ。
逃げ去った兎達がどうなるのかまでは責任を持てないが、恐らく何処かに隠れてそのまま綿月家にでも拾われる事だろう。
あそこの兎好きも何処かの薬師に負けず劣らぬ物だ。





「――ご苦労様。 こっちも片付いたわ」

「まさか殺してないでしょうね?」

「まさか。 ちゃんと”あそこ”に逃げる様に仕向けたわよ」

「……流石、兎馬鹿」





手に付着した金属片を叩き落としていた私の背中に、八意の声が掛かる。
今日は数が多かった為、彼女にも手を借りたのだ。

幸い彼女も兎には並々ならぬ情熱があるのか、確りと綿月姉妹の元へ逃げ込む様に仕向けながら追い払ったらしい。
悪いのは兎達ではない。 それを命令する人間なのだ。





「……貴女、このままで良いのかしら?」

「気を使うのね」

「姫の機嫌が悪いのよ。
 良く食べた物を戻したりしてるし」

「……! それって!」

「ええ。 ”おめでた”いわよね」





八意は私に背を向けたまま、軽い口調でそう言った。
確かに最近は、頻度の増えた刺客を追い払うのに付きっきりで彼女の事を疎かにしていた。

だが、いつの間にそこまで……。

いや、しかしよく考えればそれも当然だった。
彼女達は既に婚姻しているのだから。





「どうしても、っていうなら、取り持ってあげてもいいわよ?」

「冗談。 悪いけど、時間だけはたっぷりあるものでね」

「そう。 でも、彼女には無いのでしょう?」

「っ!?」





八意の放った何でもないと言った一言に、私は振り返らざるを得なかった。
飄々とした仕草の中に、僅かに含まれる殺気。
既に懐かしいと表現してもいいそれは、私に指向性を持たせて放たれていた。





「まぁ、どの位かは大体分かるけどね。
 せいぜい50年。 いや、60年と言った所かしら」

「……ええ、そうね。 ”下”ではそんなもんだったわ。 いえ、もっと短いかも知れないわね。 彼女は箱入り娘だから。
   で、どうするの? 私を殺す? それとも、前言ったみたいにもっと酷い目にあわせてみる?」





両の手を挙げ、上に持ち上げるジェスチャーを見せる。
彼女の表情は変わらない。





「……一つだけ聞かせて」

「何?」

「”姫は納得されているのですか?”」

「……”いいえ、納得しております”」

「……そう」





私の返答を受けた八意は素っ気ない態度で振り返ると、そのまま屋敷へと戻って行く。
彼女の姿が完全に見えなくなるまで見届けた私は、静かに薮の中へと消えようとした。





「ああ、そうそう」





踵を返し、この場から立ち去ろうとした瞬間、先程姿を消した筈の人物が私に話しかけてくる。
思わず転びそうになった。





「あぶな……今度は何よ?」

「もう後一月もすれば、姫は臨月を迎えるわ。 姫が最も無防備になる瞬間。
 ”敵”はその瞬間を見逃さないでしょうね」





八意の言葉に、私の心臓がドクリと跳ね上がるのを感じた。

臨月。
新たな生命が誕生する為の、最も重要で最も緊張する期間だ。

その瞬間、下手をすれば出産中を、狙うというのだ。
全く、黒幕は人物はどんな下衆なのだろうか。

もしかして姫に振られた腹いせついでに、あの三人の誰かが謀っているのではないか?
だが、確証が得られない以上、この様な事を考えていてもしょうがない。

私に出来る事は、彼女が出産の時を迎えるまで、なんとしても守り抜く事だ。





「へえ、結構長くなるわねえ。
 あとそれは”依頼”と受け取っても良いのかしら? ”依頼”には”報酬”があるものだけど?」

「ええ。 衣食住の保証と、出産後の姫との仲を取り持つわ」

「それだけ?」





私は悪戯娘が浮かべる様な笑みで、彼女の顔を覗き込む。

聡い彼女は私の意図を組んでくれたのだろう。
同じ様な笑みを浮かべると、私の額を指で小突く。
赤くなった額を抑えた私に、彼女は”いつもの笑顔”で、破格の条件を提示してくれた。





「それと、毎日のカフェオレも」





ああ、そうこなくっちゃ。
彼女の淹れる珈琲は格別美味しいのだ。





「その依頼、謹んでお受けしますわ」










     ~ 続 ~
えー、お久しぶりです。 毛玉おにぎりです。

ここまでお読み頂けた皆様、宜しければもう少しだけ、私の幻想に付き合って頂けると嬉しいです。
では、後編でお逢いしましょう。
毛玉おにぎり
[email protected]
http://kimagurenagaya.web.fc2.com/
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