Coolier - 新生・東方創想話

人魚姫のスペルカード

2009/07/05 14:06:33
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 その扉が、食事以外で開かれることはない。だからフランドールは、紅魔館の住人以外をまったく知らなかった。
 扉を越えてやってくるのは、いつも同じ顔のメイド妖精。それに咲夜やパチュリーがたまに顔を覗かせるくらい。まるで、出る予定のない囚人だ。
 フランドールは思っていた。この部屋こそが、きっと世界の全てなんだろうと。
 勿論、部屋の外にもまだ知らぬ世界が広がっていることは理解している。だがそんな事実を認めたところで、ただ空しくなるだけだ。どうせ、ここから出ることなどできない。だったら、この部屋こそが世界の全てだと思うようにしよう。
 いつからか、そんな後ろ向きな事を考えるようになった。だけど、おかげで寂しくはなかった。だって、この部屋こそがフランドールの世界なのだから。世界から外に出る必要など有りはしない。
 そんなフランドールの考えも、紅魔館のしきたりも蹴破って乱入してきたのが霊夢と魔理沙。制止するパチュリーも踏み越えて、フランドールの部屋の扉を開け放つ。
 初めて見る他人。スペルカードルールだけは教え込まれていたので、その流儀に則って戦うことができた。そして見事に敗北してしまう。
 悔しくもあったけど、嬉しさの方が大きい。永遠に繋がることがないと思っていた、外との繋がりが出来たのだから。
 だけど。漫画や小説の中でよくあるように、フランドールは知ってしまった。いや、自覚してしまった。
 自分がとても、寂しい少女であるということに。
 そして、誰からも必要とされていないことに。
 その事に気が付いた時から、フランドールの手の中にはスペルカードが握りしめられていた。霊夢や魔理沙との弾幕ごっこで使ったスペルカード。二人が来る以前から、いつのまにか持っていたもの。
 フランドールは無意識にそれを発動させた。かつての自分が、そうしていたように。
 まずは禁忌、クランベリートラップから。










 雨が窓を弾く音。
 雨が煉瓦を叩く音。
 騒々しさは嫌いだが、不思議とこの音は耳に優しかった。
 どうしてかしら。
 アリスは窓の外を見遣る。今朝方から降り出した雨は、まだ止む気配を見せない。
 曇天が陽光を遮り、昼だというのに廊下のあちこちにランプが灯されていた。オレンジ色の灯りが、真紅の絨毯を別の色に染め上げる。たっぷりと湿気を含んでおり、踏むたびに絨毯との摩擦を感じた。
 これでは掃除も大変だろう。メイドでもないのに、アリスはそんな心配を覚えた。
 白鳴一閃。
 ふと窓の外を見るも雷の痕跡はなく、巨大な岩を動かしたような音だけが耳に届いた。
 遠い田か畑にでも落ちたか。雨で煙る山をしばし見つめ、再び歩みを進める。いつまでも空の具合を確かめているわけにもいかない。自分は招かれた客なのだ。招いた側を待たせては、あちらもこちらも迷惑する。
 誰もいない廊下を歩き、図書館を目指す。
 紅魔館へ来ることは滅多に無かったとはいえ、こんなにも誰とも会わない所だったろうか。歩きながらアリスは疑問に思っていた。
 出会うものといえば、ランプが作り上げた自分の影ばかり。咲夜やレミリアはいざ知らず、妖精メイド達すらいないというのは、いくらなんでも異常すぎる。あるいは、これこそが自分を招いた理由なのかもしれない。
 パチュリー・ノーレッジとは、さほど親しいわけではない。会えば会釈するが、そもそも会わない間柄だ。呼ばれた時は、何の冗談かと手紙を疑ったほどである。悪戯好きの妖精が、騙そうとして送ってきたのかと勘ぐった。
 結果として、その手紙は本物で、パチュリーがアリスを呼んでいるのも事実であったが。それはそれで不気味である。
 図書館へと通ずる階段を降り、不意に襲ってきた衝撃で足を踏み外しかける。ずれたカチューシャを直すのは、館に入ってこれで四度目だ。まるで地震のような揺れが度々館を襲い、その度にアリスはカチューシャを直している。
「一体何なのよ……」
 警戒をしていたから滑らなかったものの、もしも一番目の揺れが階段を降りている時だったら確実に転けていた。吸血鬼の館で階段から転けて大怪我だなんて、魔法使いを名乗ることが恥ずかしく思える。
 幸いにも、それは未然に防げたわけだが。
 慎重な足取りで壁に手をつき、確かめるように階段を降りる。湿度はますます上がり、不快指数も鰻登りだ。図書館だけでなく、通路も湿度対策して欲しかった。まだまだ冬の残滓も残っているというのに、アリスの顔には数滴の汗が垂れている。
 大方、あの魔女は外に出ないから図書館以外の対策には興味がないのだろう。いかに他人を招く事が無いのか、窺い知れる。
 階段を降り、廊下を右に曲がる。ここは地下に当たる部分らしく、窓が一つもない。雨の音は遠ざかり、ランプの灯りも心なしか弱くなった気がする。それで不安になるようなアリスではないが、あまり気味の良いものではない。吸血鬼の館としては合格かもしれないが、やはり人を招くような環境でない事だけは確かだ。
 壁や天井を眺めながら、廊下を歩く。
 と、また館が揺れた。しかも、今度は何かを破壊する音まで聞こえてくる。察するに、震源地は地下か。
 アリスの脳裏に、一人の吸血鬼の姿が浮かんだ。勿論、レミリアの方ではない。地下に閉じこめられているという、フランドール・スカーレットの方である。
 彼女が何をして閉じこめられているのか、詳しくは知らない。
 ただ、何か理由があっての幽閉されているのだろう。そうでなければ、あまりにも理不尽だ。
 その理由は何か推測してみたが、全てを破壊する能力。そして狂気に取り憑かれたような気が触れた性格。箱入り娘にしておくには、これ以上ないほどの条件が思い浮かぶ。
 他の箱入り娘と違うことがあるとすれば、大事なのは中にいる娘ではなく周りの方だという事か。雨を降らせてまで、パチュリーがフランドールを外に出さなかった理由も理解できた。
 魔理沙の話によれば、大層美しい金髪の少女だと言う。人形を作るものとして、出来ることなら一度会って容姿をこの目に焼き付けてみたい。そういった衝動に駆られることもあったが、やはり命は惜しい。
 今はだいぶ大人しくなったと聞いたのだけど、この揺れを感じるに、どうやらただの噂でしかなかったようだ。
 震源地から離れるように、アリスは進む。逃げているわけではない。単に図書館が震源地から離れていただけだ。ならば近ければ進むのかと問われても、きっと離れていただろうけど。
 連続する石造りの壁に、突然大きな扉が現れる。
 アリスの三倍はあろうかという扉だ。魔女というのは何とも派手好きな種族だと呆れもしたが、よくよく考えてみればパチュリーに限って大きさで見栄を張るような事はしない。
 これぐらい大きい方が本を運ぶのに便利なのだろう。あれは花より団子を食べるタイプだ。アリスとは正反対だから、よく分かる。
 いきなり入るのも無礼だろうと、扉を三度叩く。
 返事はない。まさか呼んでおいて誰もいないのか。
 だがパチュリーに限ってそれはない。あれが外に出ることなど、そもそもそちらの方が稀だ。
 どうしたものか。
 試しに扉を押すと、あっさりと開いた。見た目の割に、軽い扉だ。元々重量がなかったのか、それともそういう魔法が掛けられているのか。物体の重さを軽くするなんて、そう容易く出来る魔法ではない。
 もっとも、あの魔女は難しい魔法を欠伸のようにやってみせ、どうでも良い事に使っていたりする。
 ひょっとしたら、長年の夢である自立人形の完成も、パチュリーならば一年も掛けずに成功させてしまうかもしれない。他人が完成させた所でアリスには全く関係の無い話ではあるが。別に一番乗りの栄誉や特許が欲しいではない。自分が完成させたいのだ、この手で。
「パチュリー?」
 扉を押し開ける。途端に不快指数は滝のように下がり、代わりに懐かしい古本の匂いが漏れだしてくる。灯りの数も廊下より増え、手のひらの皺も今なら数えられそうだ。
「アリス・マーガトロイドが呼ばれて来たんだけど、いないの?」
 果ても天井も見えないほど広い図書館。総面積を考えるのも馬鹿らしいくらいの広大な空間に、アリスの澄んだ声が響き、空しく消えていった。
 こんな広い場所で声を出して何になるかと思うけれど、相手はパチュリー。例え遙か果ての方にいても、声を聞き取れるようになっているのであろう。そうでなくては、声を出した自分が馬鹿みたいだ。
 いやしかし。アリスは思った。
 パチュリーが人を招くという事を、そもそも前提に置いたりするだろうか。見たところ、この図書館で働いている魔法は全て本を管理する為のものばかり。来客用に気を遣った部分など、欠片も感じられはしない。だとすれば、誰か来ても気づけない事は大いにあり得る話だ。
 アリスは天井を見上げた。
 だとすると、まさかこれからこの広大な敷地を飛び回り、パチュリーの姿を探さないといけないのか。不思議なことに図書館で揺れを感じることはなかったが、だからといって探すのが楽になったわけではない。
 しばらく無駄に広い図書館を眺め、くるりと踵を返した。
「帰るわ」
「せっかちな魔法使いは大成しないわよ」
 背中越しに、掠れた少女の声がする。病弱さゆえか、その声には相変わらず張りがない。
 このまま無視して帰ってやろうかとも思ったが、どうせまた使者が来るのだろう。一々追い返すのも手間だ。仕方なくアリスは振り返り、しかめっ面を更にしかめた。
「酷い顔ね」
 半眼の眼はくぼみ、目を逸らしたくなるような濃い隈が見える。食事もまともに摂っていないのか、頬は僅かに痩けていた。普段から押せば倒れそうな華奢な体つきをしていたが、今は吹けば飛びそうだ。どれだけ籠もっていれば、これほど酷い有様になるのか。想像もつかない。
 持病の喘息も拗らせているのらしく、何度も咳をしながら本棚に寄りかかった。側に控えていた小悪魔が、大丈夫ですかと背中をさする。
「酷いのは顔だけじゃなかったようね。まったく、そんなになるまで何をしてたってのよ」
「ゲホッ、ゲホッ……ああ、もう大丈夫よ小悪魔。それより、椅子とテーブルを此処に持ってきて頂戴。そう、此処に」
 アリスの質問には答えず、小悪魔に指示を出すパチュリー。
 わかりましたと小悪魔が頷いて、テーブルと椅子を取りに行ったところで、ようやくアリスと顔を合わせた。
「わざわざ呼んで悪かったわね」
「悪いと思うなら呼ばないで貰いたかったわ、ってのはさすがに言い過ぎかしら。でも、一応私も暇人じゃないのよ。それだけは分かって貰いたかったわね」
「誰もあなたを暇人だなんて思っていない。忙しいのは承知の上よ。……ケホッ。でも、それを承知した上であなたに頼らざるを得ない状況が出来上がった。本来なら、まぁ私が全て解決すべき事案なのかもしれないけどね。どうにも、私の専門分野じゃないんですもの。レミィは魔女を万能屋か何かと勘違いしている節があるみたいだけどね、ケホッ」
 溜息を漏らしたのは、言葉の節々に咳が混じって聞きづらかったからではない。
 どうやら面倒事らしい事件に、自分が首を突っ込んでしまった事に対する呆れからだ。魔女が頼ってきた時点で気付くべきだったか。
「要するに、あなたじゃ手に負えない事件が起こったってことね。それも察するに、館が揺れている事と関係している」
「……だから、私に頼られるのよ」
 口調から察するに、あまりパチュリーも頼りたくはなかったのだろう。
 だが、事態の解決を最優先した。したからこそ、自分では手に負えないと判断した。だから解決できそうなアリスを頼ったのだ。
 恨むなら魔女とパイプを繋げた自分を恨むべきか。関係性が皆無であれば、さすがに使者を寄越したりはしないだろう。
 パチュリーは小悪魔が持ってきた白亜の椅子に座りながら、同じく用意されたテーブルに一冊の本を広げる。勧められて、アリスも腰を降ろした。
「まどろっこしい舌戦をしたところで、互いに利益は無いわ。単刀直入に言うわよ」
 広げられたものは本ではなく、何かを記したノートのようだ。
 真っ白なページに、日付と時間と場所が書かれている。これで事柄があれば日記帳だと思うのだが、生憎とそれ以上は記されていなかった。
 パチュリーはノートの一行目を指さしながら、青白い唇を開く。
「これは妹様が癇癪を起こして暴れた日付と時間、それと被害のあった場所よ」
 テーブルに広げられたフランドールの被害状況。
 館を揺らしていた振動。
 そして呼び出されたアリス。
 三点から導き出される答えはあまりにも唐突で、あまりにも理不尽すぎる。そんなこと、アリスには何の義理もないし解決すべき手段も知らない。呼ばれた事自体が間違いだと主張したかった。
 ノートを閉じて、パチュリーは言う。
「推察の通り。あなたには妹様の癇癪を止める方法を探って欲しいのよ」
 耐震の魔法が施された図書館なのに、床が揺れたような錯覚を覚える。
 アリスは思った。
 もう二度と、魔女の誘いには乗るまいて。









 自宅へ戻るや否や、大きな溜息を漏らす。
 心配そうに上海人形が見上げてくるものの、それも所詮は自分でやらせていること。どこか空しさを感じて、全ての人形を停止させた。
 これで色々と不便にはなるが、どの道しばらくは此処の掃除をする必要もない。何体かは動かす必要もあるだろうけど、それは此処ではなく図書館での話。人形として運ぶのだから、いずれにせよ停止させた事は間違いではなかった。
 などと自己弁護している暇はない。
 こうして帰ってきたのはパチュリーへの説得が成功し、晴れて解放されたからではなかった。見事に依頼を受け、泊まり込みの準備をしに戻ってきただけのこと。図書館に泊まらなくてはいけない程の仕事を受けたのは、これが最初できっと最後になるだろう。
 己の判断に再び溜息を零す。
 フランドールには何の義理もない。勿論、パチュリーにもレミリアにもない。
 だから本来ならば断っても全くおかしくはなかった。例え貴重な魔術書を渡すと言われても、きっと断っていただろう。
 だとしたら、何故。
 自問自答の末に出てきた答えは、結局のところただの好奇心であった。
 パチュリーの話によれば、フランドールの癇癪は今に始まった事ではないらしい。それはパチュリーが紅魔館に訪れるよりも遙か昔からずっと続いていた。その度にレミリアが相手をして、地下室へと押し戻していたのだとか。
 霊夢や魔理沙と出会ってからは、その発作も頻度が少なくなっていったというが、最近になってまた頻発するようになったそうだ。
 アリスが頼まれたのはフランドールの相手ではない。そもそもそれほど腕に自信があるわけでもないし、そんな依頼だったら躊躇わずに断った。
「最初は私もただの癇癪だと思っていたわ。でもね、よく観察してみて分かったのよ。妹様の暴れ方には規則性があるってことに」
 そう言ってパチュリーはノートを捲った。暴れた日付の次に出てきたものは、幾つかのスペルカードの名前。見覚えのあるものもあれば、始めて見たものもある。
 唯一覚えのあるものの共通点を挙げるとすれば、全てフランドールのスペルカードということか。とすれば、残りもフランドールのスペルカードなのだろう。
 隅から隅までノートを凝視する。しかし、これだけでは説明不足が過ぎる。怪訝そうに眉を跳ね上げ、顔をあげた。
「これがどうしたの?」
「妹様はね、いつもこのスペルカードを同じ順番で繰り返しているのよ。私が察するに、おそらくはそこに何か秘密があると思うの」
 ただのスペルカードであれば、この時点で反論もあろう。何しろスペルカードというのは、当人が作り上げたものなのだから。完璧な順番の組み立てが出来上がったのならば、それを繰り返し使ったところでおかしくはない。アリスだって新しいスペルカードが出来るまでは、いつだって同じ順番で使っていた。
 だが、フランドールの場合は事情が違うのだという。フランドールはスペルカードを作っていないのだ。
 いや、正確には意識して作ったわけではないらしい。幻想郷に来てしばらくしてから、いつのまにか持っていたそうだ。そんな事があり得るのか疑問に思うけれど、スペルカードの全容はまだ完全に解明されたわけではない。無意識のうちに作り上げるということが、無いとは言い切れないのだ。
 自立人形を製作する傍らとはいえ、それなりにスペルカードの研究はしてきた。主な目標は気に入らない魔法使いを弾幕ごっこで倒す為だったが、おかげで自然と詳しくなれた。どこかでその噂を聞きつけたのだろう。パチュリーが呼び寄せた理由にも、これで納得がいった。
「だけどいくら無意識に作ったからといって、規則性があっても不思議はないんじゃない?」
「そうかもしれない。でもそれを、無意識に使ってるとしたらどう?」
 輝きを失ったパチュリーの瞳はしかし、力強くアリスを捉える。
「それに、意識的に使ったとしてもそこに何からの規則性が紛れ込む可能性は高いと思うけれど。あなたや私のスペルカードだって、分析すれば心理が見えるかもしれないわよ」
 否定はしない。アリスも同じようなことを考えたことがあるのだから。
 椅子に深く腰掛け、天井を見上げる。外では雨が降り続き、家の中は相変わらず薄暗い。書物だけでなく、カッパも持って行った方がいいかもしれないわね。僅かに濡れた裾を擦りながら、アリスはそう零した。
「目の前に誰も空けた事のない箱があれば、空けたくなるのが人の道理だけど……」
 探求心も好奇心も衰えてはいない。
 ただ、果たしてそれだけが理由なのだろうかと疑問に思う。自己分析で至る道が悪路でしか無いことを知りつつも、この依頼を引き受けた本当の理由を考えてしまう。
 自分のことも分からないのかと嘲笑う奴もいる。
 アリスからしてみれば、他人よりも自分の方が分からない。他人の無意識は引き出せばいい。
 しかし、自分で自分の無意識を引き出す事は出来ないのだ。反応とは即ち、相手が引き出すものなのだから。無意識を引きずりだす為にはどうしても、誰か自分以外の相手が必要なのだ。
 だからこそ、自分というものが分からない。
 そう考えれば、自己分析ほど無意味なものはない。自分で自分の無意識は引きずりだすことができないと言ったではないか。会話ならともかく、自問自答では答えが出ない。
 それでも、欠片程度のヒントなら引きずりだすことが出来る。
「親近感、ね」
 何が似ているのかまでは分からない。ただ、アリスはフランドールの話を聞く度に何故か親近感を覚えていたのだ。勿論、アリスは癇癪を起こして家を破壊したりしないし、気が触れているわけでもない。種族も違うし、年齢も違う。共通点など探す方が難しい相手なのに、どういうわけか親近感を覚えるのだ。
 だからなのかもしれない。助けてあげたいと思ったのは。
 暇だったわけじゃない。アリスの元へ衣装を製作して欲しいという依頼がきており、いまだに完成していないのだ。スケジュール的にも、そろそろ着手し始めないと厳しい。
 だからこれが魔理沙や霊夢相手の話だったら、冷たくあしらっていただろう。それぐらい、自分で何とかするのが常識でしょ、とか言って。フランドールだからこそ、助ける気になったのか。
 顔を手で覆う。冷たい手の感触が、温かかった目の周りから体温を奪った。
 考えていても仕方がない。これからは、もっと別の事について思考を巡らせていかなければならないのだ。親近感については、全てが終わってからゆっくりと考えよう。衣装の方は、遅れそうだと後で連絡を入れれば良い。そう思い、アリスは立ち上がる。
 何はともあれ、とにかく準備をしなくてはならない。食事や飲み物は用意すると言っていたし、紙やペンもふんだんにあるという。ならば持って行かなければならないのは、魔術書、魔導書、専門書。そういった書物と、幾つかのマジックアイテム。
 立ち上がった所でアリスは後悔する。
「ああ、どうして人形を停止させたのかしら」
 一人で準備するには、骨の折れる作業だ。せっかちな自分にあきれ果てながら、再び人形に命を吹き込んでいく。
 家を出発したのは、それから数時間後の事であった。










「もう一度確認するけれど、これが妹様のスペルカードの順番よ」
 支度をしている間に書き写したのか。ノートに書かれていた内容が、そのまま大きな方眼紙に写されていた。

禁忌「クランベリートラップ」
禁忌「レーヴァテイン」
禁忌「フォーオブアカインド」
禁忌「カゴメカゴメ」
禁忌「恋の迷路」
禁弾「スターボウブレイク」
禁弾「カタディオプトリック」
禁弾「過去を刻む時計」
秘弾「そして誰もいなくなるか?」
QED「495年の波紋」

 つい先程見たばかりだが、これだけでは何を示しているのか全く理解できない。しかし、これからそれを理解しようというのだ。前途多難さに頭痛を覚える。
「あら、これは?」
 方眼紙の横に、短冊の形をした紙切れが二枚ほど置かれていた。そこにもスペルカードらしき名前が書かれている。
「ああ、これも妹様のスペルカードよ。本当にごく稀だけど、こちらのカードと入れ替わることもあるの」
「入れ替わる?」
「そう」
 パチュリーは二枚の短冊に手を伸ばし、それぞれをある場所に置いていく。『クランベリートラップ』のところへ『フォービドゥンフルーツ』。そして『過去を刻む時計』の位置に、『禁じられた遊び』を置く。
「そういえば、天狗の新聞で見たことがあるわ。この二つ」
「ああ、そういえば天狗が撮影していった事もあるわね。一応は他のスペルカードも出ていたんだけど、それは見たことがあるって使わなかったらしいわ」
 天狗らしい話である。
「それにしても、随分と妙な位置に置いたわね。フォービドゥンフルーツはともかくとして、禁じられた遊びは禁忌なのに禁弾のところにだなんて。まぁ、禁じられた遊びも名前だけ考えれば禁断だから禁弾にも繋がるんでしょうけど」
 しかし、見れば見るほど頭が混乱する。たかだかスペルカードを並べられただけで、一体何をどうすればいいのか。規則性を見つけようにも、せいぜい頭の一文字が全部禁の字だということぐらい。
 パチュリーが誰かに助けを求める気持ちがようやく分かった。藁にもすがる思いとは、まさしくこのことなのだろう。
「ただ一つだけ確かなのは、これを解いて出てくるのはソロモン王の遺産なんかじゃなく、妹様のメッセージだということ」
「私は前者でも構わないんだけど、おそらくはそうでしょうね。問題はそれが何かということよ」
 しばらく二人は方眼紙を眺め続けていたけれど、それで何かが解決するわけでもなし。すぐに視線を逸らし、パチュリーは魔術書に、アリスは心理学の専門書に目を通し始めた。
 外ではいまだに雨が降り続いているらしく、しばらく止む様子はない。おかげであまり多くの資料を持ち出すことは出来なかったものの、大概はこの図書館にある。無駄に広いわけではないのだ。小悪魔に頼み、五分と掛からず目的の本が届けられた時は大層驚いたものだ。検索用の魔法が設置されているらしいが、どういったものかは分からない。事が済んだ後、訊いてみるのも一興だろう。
「ん?」
 ページを捲るアリスの手が止まる。釣られるようにパチュリーも手を止めた。
「どうしたの?」
「そういえば、カゴメカゴメってどういう意味なの? 他のは大体理解しているつもりだけど、そんな単語は聞いた覚えがないわ」
「ああ、それは英語でもフランス語でもないもの。日本語をカタカナにしただけよ」
 そう言いながら、パチュリーは本から視線を外す。
「確か子供の遊びだったと思うわ。カゴメカゴメと言いながら、鬼役の子の周りを囲んだりするの。詳しいことは説明できないから……そうね、小悪魔」
「はい!」
 図書館には似つかわしくない元気な声で、小悪魔が飛んでくる。
「かごめかごめに関する資料を集めてきて。ただし日本以外の書籍は国に応じて一冊ずつ。選別はあなたに任せるわ。ああそれと、出来ることなら解釈ではなく由来に詳しいものがいいわね」
「わかりました!」
 敬礼すらしそうな勢いで飛んでいく。初めて会った時はあんなに声を張り上げる子じゃなかったのに。どうしたというのか。それに、パチュリーもどことなくおかしい。先程まではあれほど咳き込んでいたのに、今は長文を喋っても苦しそうにしない。
 アリスの怪訝な顔を見て、パチュリーが顔をあげる。
「修羅場が来ることを察知しているんでしょうね。あの子は、そういう時ほど元気になるのよ。そして私も、強引にでも喘息を抑えている。普段ならもっとマトモに喋るんだけど、調べものが思うようにいかなくて。ここ最近は調子が悪かったの」
「弊害がくるわよ」
「承知の上。でも、出来ることなら早期解決と行きたいところね」
 それはアリスも同じこと。だらだらと時間を引き延ばすつもりはない。
 やがて小悪魔の持ってきた資料に目を通し、気になった部分を新品のノートに記していく。魔法に関する大事な事であれば、それ相応の羊皮紙やら何やらに記すが、メモ程度のものを一々大事に書き記す必要などない。
 幾つかの要点を写し、アリスは筆を置いた。一気に書いたせいか、若干右腕が疲れている。このところ筆を握っていなかった。そのツケがやってきたのだろう。
「それにしても、このかごめかごめっていう歌。聞いた限りでは、フランの置かれている状況とよく似ているわね」
「まぁ、スペルカードは基本的に武器だから。あなたが剣を持って戦わないように、妹様が自分に関係のないものを作るはずがないわ」
 言われてみれば、納得の説明だ。地下室に閉じこめられたフランドールの作るスペルカードなのだから、似たような状況の歌を名前に冠してもおかしくはない。ただ、フランドールは鳥などという生やさしい生き物ではないように思えるが。
「しかし、どうしてあの子は能力を使おうとしないのかしら?」
「ん?」
「だってそうでしょ。いくらあなたが魔法を使ったところで、フランの能力なら壊すことが出来る。でもそうしないという以上、何か目的があって能力を封印しているとしか思えない」
 パチュリーは目蓋を閉じた。
「あるいは出ても意味が無いことを知っているのかもしれないわね。妹様が館から出たところで、何処にも行く当ては無いのだから」
 フランが館から出ることは脱出ではなく出発なのだ。さしたる目的が無いからこそ、地下室を壊そうとしないのか。あり得る話ではある。
「そもそも、あの子を閉じこめたのは誰なのよ? そういった経緯も詳しく知らないんだけど」
「ああ、悪いけど私も詳しく知らないわ。レミィも妹様に関してはあまり話したがらないし。美鈴もあれで古い付き合いだから何か知ってそうだけど、絶対に口は割らないでしょうね。義理堅いから」
「じゃあせめて、あなたが知ってる範囲の事を教えて頂戴」
 一拍の間をおいて、パチュリーは口を開く。その僅かな時間で何を思ったのか。紅魔館とは無縁のアリスには、察することもできない時間だ。
「元々、レミィの父親は産まれたばかりの妹様を殺そうとしていたらしいの。でも、レミィがそれを止めた。そして殺す代わりに頑丈な地下室を作って幽閉させたと聞いているわ」
「それはまた、随分と極端な父親ね」
「まぁ、気持ちは分からなくもないけどね。だって、妹様は産まれてすぐに自分の母親を殺しているのだから」
 淡々と告げられた内容に、思わず息を呑む。何気なしに語ってはいるが、それは簡単に流せるような話ではない。
「……身体が弱くて、出産に耐える事が出来なかったわけじゃなさそうね」
「吸血鬼が出産で子供を産んでるのかどうかすら分からないけど、少なくともそうで無いことは確かね。妹様は産まれてすぐに、己の手で母親を殺した。どうしてそんな事をしたのか、当人は全く覚えてないそうよ」
 アリスだって、産まれたばかりの記憶があるかと言われれば、無いと答える。子供の頃の記憶というは、自然と失われていくものなのだ。ましてや、それが産まれたばかりとなると。脳を切り開いても分からないだろう。
「なるほどね。それなら確かに殺そうとする気持ちも理解できるけど……」
「まぁ、本心では躊躇う気持ちもあったんでしょうね。そうでなければ、たかだか五歳の娘の提案を受け入れたりはしない。レミィの幽閉という案は、切っ掛けでしか無かったと思うわよ。推測だけど」
 これで話は終わりだとばかりに、パチュリーは再び本を読み始める。これ以上詳しい事は知らないし、訊かれたところで答えるつもりは無いということだろう。
 あるいは、フランの経歴を辿れば何か分かるかもしれないと思っていた。だがしかし、他人の歴史など謎を増やすだけの存在でしかない。その事を痛感した。
 メモ帳に『フランが母親を殺した理由』の一文を加えつつ、アリスは専門書へと戻る。










 紅魔館に救護室というものはない。咲夜が初めて住み始めた時は、それが大層不思議だった。これだけ生傷が絶えない職場だったら、救護室は絶対不可欠なのではないか。館の主にそう尋ねたのは、住み始めて一日も経たない頃だった。
 館の主ことレミリアは、淡々とその質問に答えた。
「だって妖精メイドは死なないし、美鈴は勝手に治療するし、パチェは動かないし」
 反論の余地がなかった。美鈴だけの為に救護室を作るわけにもいかないのだ。もっとも今は咲夜も含めて二名だが、それにしたって利用者が少なすぎる。救護箱で事足りる以上、二人の願いが叶えられることは当分無い。
「くぅっ! ちょっと咲夜さん、痛いですって!」
 傷の多さに比例して、治療の手つきも荒くなる。必要以上に消毒液をかけられた美鈴が、歯を噛みしめながらそう言った。
「我慢しなさい。責めるなら、こんなに傷だらけになったあなた自身を責めることね」
「そんな事言ったって、私は前衛なんですから。後衛の咲夜さんより傷が多いのは当たりまえっ!」
 無駄口を叩くなとばかりに、また必要以上の消毒液が美鈴の患部を襲った。地下室の前の廊下だから誰もいなかったものの、こんな姿を妖精メイドに見られでもしたら、メイド長には変な趣味があると噂が立ってしまうだろう。そんなのは御免だ。
 幸いにも、妖精メイド達は頻発するフランドールの癇癪に怯えてあまり姿を現さないのだが。
 腕に足に胸に背中に、至る所に出来た傷口の消毒がようやく終わる。咲夜が五分で終わったのに対し、美鈴は三十分も掛かった。
 まったく、いくら前衛だからといってあまりにも傷が多すぎるのではないか。しかし、考えてみればあるのは傷だけで致命傷はどこにもない。相手がフランドールということを鑑みれば、むしろ褒めてあげるべきなのかもしれない。
 ただ美鈴を直接前にすると、褒め言葉が禁句のように出てこないのだ。きっと前世で何かしらの因縁があったのだろう。そうでなければ、まるで自分が褒めるのが苦手な恥ずかしがり屋のように思えてくる。
「咲夜さん?」
 手の動きが止まった咲夜を、心配そうな顔で見つめる美鈴。何故か咄嗟にナイフを握りしめた咲夜は、躊躇うことなくそれを投げた。美鈴の頬を掠め、ナイフは石の壁に突き刺さる。
 頬から血を垂れ流しながら、彫刻のように美鈴が固まる。咲夜も倣うように動きを止めて、再び消毒液とガーゼを手に取った。
「まったく、また傷をつくって……」
 美鈴の顔はいたく不満そうだった。
「それにしても、最近は頻度も増えましたね。前は一ヶ月に一回ぐらいだったのに、今は三日に一回ですよ」
「日記みたいに飽きてくれれば楽なのだけど。まぁ、そういうわけにもいかないでしょ」
 本来、妹様の制御役はパチュリーの仕事だった。しかし度重なる暴走により、いい加減根元から何とかすべきだとパチュリーは言った。そして、今は図書館で対策を練っている最中だという。おかげで、こうして咲夜と美鈴に制御役のお鉢が回ってきたのだ。
 門番はどうせ有っても無くても大差ない。黒い魔法使いの訪問率を見る限りでは、そう言い切れる。だが、メイド長というのはなくてはならない存在なのだ。自分で言うと烏滸がましいが、咲夜がいなければ紅魔館の生活の八割は滞る。だから出来ることなら妹様の制御役を辞退したいところだったけれど、美鈴一人にやらせるのはあまりにも酷。だから仕方なく引き受けはしたが、そろそろ業務の方にも支障が出始めている。
 その証拠に、滅多にはここへは近寄らないレミリアが姿を現した。
「咲夜、随分と手間取っていたようね」
「お嬢様、どうなされたんですか?」
 コウモリの羽をバサリと広げ、難しい顔でそれを撫でる。
「湿気のせいかしら。どうにも飛行能力が落ちたみたいで、タオルか何かで拭いて欲しいのよ」
「わかりました。美鈴、後の事は任せたわよ」
「はい」
 壁や扉の修繕。やるべき事はまだまだあったが、それなら美鈴一人でも問題ない。消毒液を手渡し、立ち上がる咲夜。絨毯の湿気のせいか、膝のあたりが少し冷たい。レミリアの羽のついでに、膝も拭いておこう。そう思い歩き出そうとしたところで、立ち止まる。
「お嬢様?」
 レミリアは動かず、ただじっとフランドールが住む地下室への扉を凝視していた。睨むでもなく、悲しむでもなく。表情が読み取ることの出来ない無表情で。
 咲夜と美鈴は顔を見合わせる。
「咲夜、美鈴。フランは相変わらずだったかしら?」
 レミリアはどういう答えを望んでいるのか。分からないまま咲夜は、思ったことをそのまま話す。
「暴れられているのを相変わらずと言うのであれば、相変わらずでした。ただ、段々と周期が短くなっているのが気がかりです」
「まぁ、それはパチュリー様に任せるしかないですけどね。私たちは最前線で頑張るだけですよ」
 心配するなとばかりに、朗らかな笑顔を浮かべる美鈴。ああいった笑顔が出来れば、きっと自分もレミリアを安心させることが出来るだろうに。浮かべられるのは、どうにもぎこちない笑顔ばかりだ。
「ああでも、そういえば……」
「何?」
 美鈴は複雑そうな顔で言った。
「何だか妹様、ちょっと寂しそうでした」
 戦っている時のフランドールを思い出す。射竦められそうな鋭い眼光。鼓膜を揺さぶる狂った哄笑。とても寂しそうな奴のする行動ではない。
 だけど、そう言われると寂しそうに見えたような気もする。どこがそうなのか、指摘されると言葉に困るが。あくまで感覚的なものなのだ。
 咲夜の直感は、暴れるフランドールを寂しそうだと捉えていた。
「寂しそう……ね」
 また無表情で、扉を見遣るレミリア。一体、彼女は何を思っているのか。それが分かるのならば、きっとフランドールの心だって理解できる。
「ならばいっそ……」
 雨が廊下に落ちるほどの、小さなレミリアの声。側にいた咲夜には、その声が確かに聞こえた。
「お嬢様?」
「行くわよ、咲夜。いい加減、羽がべたついて鬱陶しいのよ」
 質問を無視するように、力強い足取りで歩き出すレミリア。まるで先程の呟きを否定するような、そんな風の行動にも思える。
 咲夜はふと美鈴を見た。肩をすくめられる。おそらく彼女も聞いたのだろう、レミリアの声を。そして同じく、分からないと答えたのだ。
 何もかもが分からない事尽くし。そんな中で自分たちに出来るのは、きっと分かるまで前線で頑張ることぐらいだろう。
「待ってください、お嬢様!」
 それと、主の羽を拭うぐらいか。咲夜は慌てて駆けだした。










 窓や時計が無いと、時間の感覚は狂う。何時間調べ物をしていたのだろうか。それすらも、把握できない。
 読み終えた本を積み上げ、小悪魔に仕舞って貰うよう頼む。嫌な顔一つせず、小悪魔は重そうな本の山を抱えて書棚の山へと消えていった。なかなかどうして。人形に負けず劣らずの働き者らしい。
 背伸びをして、身体中の筋肉を解す。一日中椅子に座って調べ物をした事は、今日が初めてではない。
 だからといって、慣れるような事でもなかった。疲れる時は疲れる。ついでに肩を揉みほぐしながら、マッサージ用の人形も連れてくるべきだったと後悔した。何体か人形は持ってきているものの、いずれも整理整頓に特化したものばかり。それにしたって、このだだっ広い図書館では何の役にも立たない。
 だが、仕舞いっぱなしというのも可哀想だ。後で調整がてら、少しばかり動かしてあげるのもいいだろう。
 椅子から立ち上がり、酷使していない脚の筋肉にも労働を与える。働かせすぎるのも問題はあるが、休ませすぎるのも良くはない。人形も筋肉も、調整が大事なのだ。
 休憩に入ろうとするアリスとは裏腹に、パチュリーはまだ本から目を離さない。元からビブリオマニアの気があるパチュリーにとって、こんな作業は苦でも何でもないのだろう。しかし、それにしたって休憩は必要だと思うのだが。
 戻ってきた小悪魔を、丁度良いと引き留める。
「悪いんだけど、ここってお風呂はあるのかしら?」
「お風呂ですか? 一応、メイド妖精が使っているものならありますよ。私もそこに入ってますね」
 運動したわけでもないが、こういう疲れた時はお風呂に限る。たかだか湯にどんな魔力があるのか知らないが、風呂は身体と頭の疲れを取ってくれる高度なマジックアイテムなのだ。これを欠かす理由はない。
 あれだけの大所帯。風呂の一つや二つはあるだろうと、着替えやタオルを持ってきて正解だった。一々家まで戻るのも億劫だし、それに紅魔館の風呂というにも興味がある。トランクから替えの服やら下着を取り出し、タオルでくるむ。シャンプーやリンスも忘れていない。専用のものでないと髪が傷むのだ。難儀な髪だが、割と気に入っている。
「今の時間は誰が入ってるの?」
「そうですね……妖精メイドは好きな時間に入るので分かりませんけど、少なくともお嬢様は入っていないと思いますよ。あと、咲夜さんや美鈴さん達も」
「そう。なら、いいわ」
 館の主と混浴するのは気がひけるし、メイド長相手だと神経を使う。そして一番最悪なのが美鈴だ。あれと入ると、色々な意味で敗北したような気になるだろう。裸体を見たわけではないが、服の上からでも大体分かる。
「ところで、パチュリーはいつ入るの?」
「………………………」
 素朴なアリスの疑問にパチュリーは答えない。三歩踏み込めば頬が触れる距離だ。聞こえないわけはない。
 後ろにいた小悪魔が困った顔で事情を説明する。
「実はですね。パチュリー様はその、あまりお風呂に入られない方で……」
「まさか、シャワーも浴びないとか言わないわよね」
「……そのまさかでして」
 眉間に皺が寄る。風呂に入らないというのは、割と外国ではよくある事だ。かくいうアリスも、最初はどうして毎日湯を張っているのか不思議に思ったぐらいだ。それは分かる。
 しかし、シャワーも浴びないというのは、いくらなんでも問題だ。
 研究者の中には、こういったタイプが稀にいる。没頭しすぎるあまり、食事も入浴も忘れるタイプだ。さほど汗を掻くように見えないし、今まではそれで何とかやってこれたのだろう。
「まったく、あきれ果てたわね。ほら、行くわよ」
「は?」
 読んでいた本に栞を挟み、強引に閉じさせる。パチュリーは怪訝そうな顔でアリスを見上げた。
「は、じゃないわよ。お風呂よ、お風呂。これから一緒に頑張ろうって人が、シャワーも浴びてないなんて我慢できないわ」
「そんなの私の勝手でしょ。構わないで、好きに入ってきていいのよ」
「知らなかったら入りに行ってたわ。でも駄目。もう知っちゃったから、あなたはお風呂に入ります。これはもう決定事項よ。小悪魔!」
「はい!」
 まるで旧知の間柄のように、見事なコンビネーションでパチュリーを担ぎあげる。魔女としては一流でも、体力は普通の人間より劣るパチュリーが抵抗など、できるわけがない。何やらむきゅーむきゅーと叫んではいたが、それを無視して二人はパチュリーを大浴場へと運び込んだ。
 幸いなことに、先客は誰もいない。これならゆっくりと浸かることができそうだ。
「小悪魔、パチュリーの事は任せたわよ」
「はい、お任せ下さい。それではパチュリー様、脱ぎ脱ぎしましょうねぇ」
「ちょっ、小悪魔! いいわよ! そんなことしなくて、ばっ、違っ、そこは違う!」
 大混乱のあちらは放っておいて、アリスも服を脱ぎ始める。装飾の多いパチュリーとは違って、アリスの服は割合構造がシンプルだ。だから幾つかのリボンを解くだけで、簡単に脱ぐことができる。
 首もとのリボンを解き、ケープを取り外す。編み上げブーツを脱ぎ捨て、適当なところに並べておいた。そして腰のリボンに手を掛けたところで、ふと隣に目を遣る。まだまだ戦いは始まったばかりというところだ。
 腰のリボンを解き、藍色の衣装を脱ぎ捨てる。白のシャツを脱ぐあたりで、さすがにちょっとした抵抗を覚えたが、無理矢理脱がされているパチュリーよりはマシと開き直った。黒のハイソックスを脚から外し、残るのは上下の下着のみ。自分から入ろうと言った以上、ここで逃げ帰るわけにいかない。
 考えてみれば、他人と入るのは久方ぶりのことだった。そこに、些かの恥ずかしさを覚えている自分がいる。
「いいっ! 下着ぐらいは自分で脱ぐから!」
「ええー、水くさいですよパチュリー様。ここまで来たら一蓮托生です」
「それは何か意味が違う気が……って手をかけるな! 手をかけるなぁ!」
 しかしながら、あれと比べればやっぱりマシだ。思い切って肌を晒し、小悪魔との激しい戦闘を繰り広げている間に身体へバスタオルを巻き付けた。まぁ、これなら多少は恥ずかしさも紛れる。
 一方のパチュリーも身体にバスタオルを巻いてはいるが、その目尻には涙が浮かんでいた。小悪魔がほくほく顔なのに対し、随分と明暗の分かれた主従である。
「……鬼」
「人形使いよ。それにしてもあなた……」
 アリスの視線が注がれる先は、バスタオルでも隠すことのできない双眸の膨らみ。まるで白い山岳地帯のように、覆われてなお主張を止めようとしない。
「着やせするタイプだったのね」
 パチュリーはのぼせたわけでもないのに顔を赤らめ、小走りで大浴場へと走っていった。アリスもそれに続く。脱衣場に残された小悪魔は、脱ぎ散らかされたパチュリーの服を片づけながら、笑顔を絶やすことはなかったという。










「だからね、根本的なアプローチの仕方が間違ってると思うのよ」
「でも、鍵となるのがスペルカードである事に間違いはないわ」
「それはそうでしょうね。ただ、スペルカードの名前をじっと見てても答えは出ないってこと」
 濡れた髪にドライヤーを当てながら、アリスは背もたれに体重を預けた。雷の魔力を応用しているおかげで、電力のない図書館でもドライヤーが使用できる。その事はありがたかったが、事態に何の進展も見られないおかげで素直に喜ぶ気になれない。
 湯船に浸かった二人だったが、最初は気まずそうに距離を置いていた。しかし、一度フランドールの話になれば、場所など関係なく熱い論議を始める。危うくのぼせそうになるまで、二人は湯に浸かりっぱなしだった。
 そして風呂から上がり、図書館に戻ってきても論議は終わらない。湯上がりに良いからと小悪魔が置いていってくれたハーブティーに口をつけながら、二人はテーブルの上のスペルカードとにらめっこを続けた。
「やっぱり二枚ずつあるスペルカードがキーになってると思うんだけど」
「そう? これはフランの意識をスペル化したものなんだから、枚数の多さは関係ないんじゃない? それに代替えできるなら、意味は同じでしょ。私はむしろ、QEDの方に注目すべきだと思うわ」
「Quod Erat Demonstrandum。証明終了ね。一体、何を証明しているのか」
「それが分かれば全部理解できそうなものだけど……」
 溜息をついて、ハーブティーを啜る。喉の奥を温かい感触が通り過ぎ、鼻腔に心地よい香りが漂ってきた。気持ちは落ち着いたけれど、事態は一向に進展していない。
「駄目ね。完全に思考が膠着してる。あなたが私を呼んだ気持ちが、改めてよく分かったわ」
 恋の迷路ならぬ、思考の迷路を彷徨っているような気分になる。入浴で気分転換を図れるかと思ったが、そうそう上手くはいかないらしい。パズルで行き詰まっているのとは訳が違うのだ。
「かといって、もう呼べる人材なんていないわよ。薬師に弱味を見せるのは嫌だし」
「あら、私にはいいの?」
「あなたは単純だから。私たちに危害を加える意志がないことは簡単に分かる。だけど、八意永琳は何を考えているのか分からないゆえに、いつ私たちに牙を剥けるのか推測できない」
「だからなるべく弱味は見せたくないと。でも、そんなに分かりやすいかしら、私」
 額に張り付く前髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、どうかしら、とパチュリーは答えをはぐらかした。歯切れの悪い返事に、好奇心が矛先が変える。しかし、これ以上の寄り道は時間の無駄。追求はまた今度にしておこう。何だか、終わってからの予定も山積みになっているような気がして、少しばかり気が重い。
 髪を乾かしたアリスは、また資料の山に向き直る。合わせるように、パチュリーも本の山を処理すべく手を伸ばした。
「余所の連中に弱味を見せるのが嫌なら、美鈴や咲夜に意見を訊くってのはどう?」
 ふと思いついた事が、アリスの口から零れ出る。膠着した状況を解決するのは、いつだって第三者なのだ。仮にやっていたら無意味な提案だが、やっていないのならば試す価値はある。パチュリーは本に伸ばした手を止めていた。
「そういえば、あの子達には何も訊いていなかったわね」
「だったら、少しぐらい意見を貰うのも有りなんじゃない?」
「それもそうね。小悪魔、咲夜と美鈴を呼んできて」
 元気の良い返事と共に、小悪魔が図書館を出て行く。全く気にしてはいなかったが、そもそも今は何時だったのだろうか。夜遅くだったとしたら、かなり迷惑な提案だ。もっとも、例え夜中の三時でも自分とパチュリーは咲夜達をたたき起こしただろう。そういった意味では二人とも似ており、根本的な部分では魔法を志す者なのだ。
 しばらくして、小悪魔が二人を連れてきた。あまり眠そうにしていないところを見ると、今は深夜ではないのか。それとも単に二人がまだ働いているだけだったのか。いずれにせよ、今はそんな事関係ない。
「何が御用でしょうか、パチュリー様」
 楚々とした声で咲夜が尋ねる。後ろにいる美鈴は、不思議そうな顔でテーブルのスペルカードを見ていた。
「別に大した用じゃないわよ。ただ、ちょっと二人の意見も聞いてみたいと思っただけ」
「私共の意見ですか? あまりお役に立てるとは思いませんが」
 役に立つ立たないは関係ない。とにかく今は、外部の意見が欲しいのだ。仮にそれが全く役に立たなかったとしても、何かの切っ掛けになる可能性はある。むしろ二人が望んでいるのは、そういった切っ掛けなのだ。
 パチュリーはテーブルのスペルカードを指さして言った。
「これをどう思う?」
「どうと言われてましても……」
「妹様のスペルカードだなあ、ぐらいにしか思いませんねえ」
 さすがに毎度毎度戦っているだけあって、それぐらいは分かっているらしい。まぁ、二人とも紅魔館の人間なのだ。知っているのはある意味で当たり前と言えよう。
「このスペルカードを見ていて、何か思ったことはない?」
 もう少し突っ込んだ質問。しかし二人は困った顔で、互いに顔を見合わせた。
「咲夜さんは何か思いつきました?」
「そうね、残念ながらこれだけでは何とも言えないわ。あなたは?」
「私も同じですね。せめてスペルカード自体の絵があれば、また何か印象が変わってくるのかもしれませんけど」
 美鈴の発言に、アリスの眉がピクリと動く。そういえば文字ばかりに注目していて、肝心のスペルカード自体にはあまり傾注していなかった。現に幾つか、どういう形状の弾が出るのか分からないものがある。ひょっとしたら、鍵はスペルカードの弾の形状にあるのかもしれない。
 同じ事を思ったらしく、パチュリーはすぐさま小悪魔を呼び寄せた。
「今すぐ伝令用の水晶玉を持ってきて。天狗に繋ぐわ」
「驚いたわね。天狗とも通信ができるの?」
 送信用の水晶玉と受信用のマジックアイテムさえあれば、基本的にいつでも会話は出来る。だから天狗と会話が出来ること自体はさほど驚くべきことではない。だが人の事は探りたがるくせに、自分たちの事はあまり漏らさない天狗が受信用のマジックアイテムを持っているという事は、アリスにとって初耳だった。
「気まぐれで出るかどうかを決めるのが難だけど、まぁ今のところ不都合は無いわ」
「ふうん」
 アリスも天狗と関わりが全く無いわけではない。今度、機会があったら自分の家からも通信が出来るようにしてみようかしら。密かにそんな事を思った。
 持ってきた水晶玉に魔力を通し、パチュリーは天狗に呼びかける。運が良かったのか。すぐさま反応があった。
「あやややや、これはこれはパチュリーさん。こんな夜中に何か用です?」
 水晶玉の中に文が現れる。目蓋を擦りながら欠伸を噛みしめていた。若干眠そうだ。
「妹様のスペルカードを以前に調査していたわね。あの時に撮っていた写真を全部貸して頂戴」
「新しいのしか撮ってなかったんじゃないの?」
「古いのも一応は撮ってたわ。ただ使わなかっただけ」
 小声でパチュリーが返す。なんとも、ちゃっかりした天狗だ。
 文は眠たげに目蓋を降ろしながら、頬を掻く。
「いやはや、急にそんなことを言われましても。大体、せっかく私が苦労して撮った写真ですから。そう、おいそれと他人に渡すことは出来ませんよ。ふわぁ……眠っ」
 それだけ眠いのなら、どうして応答したのか。謎だ。
「対価が欲しいということ?」
「別にそういうわけじゃないんですけど、まぁそうですね。だったらレミリアさんの一日を密着取材させて貰えるのなら、お渡ししても構いませんよ」
「無理ね。取材だけならともかく、一日中張り付かれるのをレミィが我慢できるわけないわ」
「じゃあ、この話は無かったことに。もういいですか、私、眠いんです」
 そう言って通信を終わらせようとする文。パチュリーも、それを引き留める様子はない。
 このままでは大事な鍵を逃してしまう恐れがある。仕方ない。アリスは水晶玉に顔を近づけた。
「ちょっと待ちなさい、天狗」
「おや、アリスさんもいらっしゃったんですか。それはそれはご苦労なことです」
 微妙に受け答えがおかしい。眠さがそうさせているのか。この分だと応答した理由も、眠かったから何となく程度のことなのかもしれない。
「ですがもう交渉は決裂しましたから、今更あなたが出てきても……」
「あなたじゃ埒が明かないわ。天魔様を呼んで頂戴」
「……は?」
 眠そうにしていた文の眼が、覚醒したように見開かれる。それは隣にいたパチュリーも同じ事。天魔は天狗達の頭領なのだ。いわば文の上司の上司。そう簡単に呼び出していいものでもないし、呼び出せるものでもない。
 すっかり眠気の覚めた文が、呆れた顔で首を振る。
「何を馬鹿なことを。天魔様を呼ぶ理由はないし、よしんばあっても無視されるのが関の山です。大人しく諦めた方が良いですよ」
「私は天魔様と話があるの。いいから、取り次ぎなさい。そうしないと、あなたも色々と困るかもしれないわよ」
「……いやはや、まさかこの年になって脅されるとは思いもしませんでした」
「それで、呼んでくれるの?」
 文はいつものように微笑んで、わかりました、と頷いた。あの様子だと脅しに屈したわけでもなく、単に好奇心が刺激されただけなのだろう。まぁ、理由はどうでもいい。とにかく、この場に天魔さえ現れてくれればアリスの勝ちだ。
 しばらくして、水晶玉に厳めしい顔の天狗が姿を現した。その顔は天狗の頭領というより、鬼の総大将という方が適任かもしれない。
「我に何用だ?」
「お久しぶりです、天魔様。こんな夜分遅くに申し訳ありません。早速ですが、一つばかりお願いがあるのです」
 天魔は表情を微動だにさせず、雷のような声で答えた。
「文から話は聞いている。だが、それは我の管轄ではない。頼み事があるのなら、直接文に……」
「ばらしますよ」
 たったの六文字。それだけで、岩のように不動だった天魔の表情が歪む。心なしか、汗もかいているようだ。
「出来ることなら同好の士として、こういった手段は使いたくありませんでした。ですが、どうしても写真が必要なのです。だから、こんな卑怯な手を使っています」
「むぅ……」
「お願いします、天魔様。あなたの命令ならば、写真を渡すぐらい簡単に実行させることが出来るでしょう?」
 そう言いながら、アリスは胸のリボンを揺らした。
「わ、わかった。文に写真を渡すよう命じる」
「ありがとうございます。ああ、それと例のアレですが。出来上がるのは来月になりそうです」
「そうか、わかった。頼むぞ」
「はい」
 そうして、通信が終了する。少なくとも天狗の頭領が了解してくれたのだ。これで、明日には写真が届くだろう。アリスは椅子に腰を降ろし、心の中でもう一度天魔に謝った。アレの代金は、少しばかり色を付けておくことにしよう。
「驚いたわ。まさかこんなにあっさりと了解してくれるなんて」
「まぁ、人は誰しも弱味を持っているものよ。私はたまたま、あの人の弱味を知っていただけ。ちょっと、後味は悪いけどね」
 それもこれもフランドールの謎を解くためだ。
「咲夜に美鈴。もう行っていいわよ。あなた達のおかげで、ちょっとは前進しそうだから」
「そう言って頂けるのなら、お答えした甲斐があったというもの。後で眠気覚ましのハーブティーをお持ちいたします」
「頼んだわ」
 丁寧にお辞儀をし、二人は図書館から去っていった。小悪魔は水晶玉を仕舞いに、また何処かへ消えていく。辺りに誰もいなくなってから、パチュリーは見計らったように口を開いた。
「衣装ね」
 アリスは何も答えない。
「同好の士と言っていたから、おそらくはあなたのような服装かしら。つまり天魔は、そういった服装を集めているか、あるいは着るのが好きだと。そして、あなたに特注の衣装を発注している」
 澄ました顔で、アリスは溜息をついた。
「確かに大っぴらに言える事じゃないわね。天狗の頭領たる天魔に女装癖があるだなんて」
 答えを求めた言葉ではないのだろう。そう言って、パチュリーはまた資料に戻った。
 アリスは心の中で、三度目の謝罪を浮かべる。
 こちらの謎は、あっさりと解かれてしまったようだ。










 アリスが訪れてから数日の時が経った。
 しかし色よい結果はいまだに得られず、フランドールの癇癪は日を追う事に激しく、間隔を狭めている。そうした激務の中で真っ先に被害を被ったのは、他ならぬ最前線で働いていた二人だ。
 咲夜が重傷という報を聞き、レミリアは館の廊下を全速力で飛んでいた。幾人かの妖精メイドを撥ねた気もするが、そんな事に構っている暇はない。地下への階段も飛び越えて、僅か数十秒でフランドールの部屋の扉まで辿り着く。
 そこには壁に背を預け、ぐったりと項垂れる咲夜の姿があった。右手には刀で斬られたかのように、縦一文字の傷が開いている。美鈴はそれをこなれた手つきで縫い合わせていき、しばらくしてからようやく出血も治まったようだ。
 妖怪である美鈴と違い、人間である咲夜は重傷を負うだけで場合によっては死に至る。幸いにも今回には免れたようだけど、このままではいつ命を落とすかわからない。
「咲夜の具合は?」
「今はちょっと気絶して貰ってます。咲夜さんなら大丈夫だと思ったんですけど、傷口を縫う時に暴れられたら困るので」
 眠るように目を瞑っているのは、気絶しているからか。レミリアは密かに安堵の溜息を漏らした。
「私も咲夜さんも油断していたわけじゃないんですけどね……」
 悔しげに、美鈴が呟く。彼女の役割は前衛であり、いわば咲夜を守る立場の妖怪だ。それがこうして咲夜に傷を負わせてしまっているのというのは、美鈴にとっても非常に悔しいことなのだろう。
 一体、どうしてこんな目に遭わないといけないのか。相手は紅魔館に攻め入ってきた妖怪軍団ではないのだ。ただの妹、フランドール。妹を相手にこれだけの被害を出し、多くの者が心も体も痛めている。このまま閉じこめていれば癇癪も治まるかと思っていたが、むしろ益々酷くなるばかりだ。
「もう、限界ね」
 その一瞬だけ、レミリアは悲しげな声で呟いた。ここが分水量。決断するなら、今しかない。
「美鈴、咲夜が目を覚ましたら伝えなさい。もうフランの相手をする必要はないと。ああ、勿論あなたも」
「えっ?」
 突然の通知に、美鈴が驚いた顔でレミリアを見遣った。地下室で眠っているであろうフランドールの事を思いながら、レミリアは淡々と告げる。
「次にフランが癇癪を起こしたら、私が相手をするわ。本気で」
 美鈴の顔色が変わる。確かに、これまで何度かレミリアもフランの相手をしてきた。大概それは姉妹喧嘩の範疇で終わるものだったけれど、ただの一度もレミリアは本気を出したことがない。当然だ。こう見えても多くの吸血鬼を屠ってきたレミリア。こと吸血鬼が相手であれば、本気を出せば負けることはない。おそらく、妹相手だろうと。
 そのレミリアが本気を出すという。それは即ち、一つの事を意味した。
「お嬢様!」
「私は先に戻るわ。目を覚ましたら、ちゃんと伝えなさいよ」
 制止の声を無視して立ち去る。後に残された美鈴は、ただただその後ろ姿を眺めることしかできない。
 唯一の希望があるとすれば、それはパチュリーとアリスのみ。彼女らがフランドールのメッセージを解読し、癇癪を治めることが出来るのならば。全ては上手くいく。咲夜の手を握り、美鈴は祈った。
 魔女と人形使いの成功を。










 勢いが弱まったとはいえ、雨はまだまだ降り続いていた。梅雨の時期でもあるまいし、随分と長く続く雨だ。ひょっとしたら、パチュリーあたりが降らせているのかもしれない。フランドールが万が一にでも外へ出ないように。
 しかし、それにしては里の方でも雨は続いている。フランドール対策ならば、あちらまで降らせる必要はない。だとしたら、やはり単なる自然現象なのか。はたまた、アリスの知らない異変がおこっているのか。
 パステルブルーの傘を畳み、煉瓦の道に水滴を落とす。赤茶けた煉瓦は、このところ本来の色を見せていない。
 気分転換もかねて、里へ買い物に行っていたアリス。上手い具合に、今日は里で本の市も行われていた。あわよくば、そこで何か資料が無いと思っての外出。その成果は、まずまずといったところだろう。何冊か、有益そうなものを手に入れてきた。
 傘を妖精メイドに預け、図書館へ戻る。数日前は入っただけで驚いたその広さも、今では慣れ親しんだもの。むしろ、自分の家が小さく思えてしまうから感覚というのは不思議なものである。扉を開き、図書館へと入った。
「あ、アリスさん」
 入るや否や、小悪魔が深刻そうな口調でアリスの名前を呼ぶ。いつもの快活な笑顔はどこにもなく、難題を押しつけられて今にも泣きそうな表情があった。心なしか、パチュリーの顔も暗い。自分が出ている間に、何かあったのか。
「悪い知らせよ。期限が決まったわ」
「期限?」
 ダラダラやるつもりはなかった。だが、だからといって期限切れで終わらせるつもりもない。
「どういうこと?」
 もっともな質問に、苦い表情でパチュリーが答える。
「咲夜が重傷を負ったわ。それで、次に妹様が癇癪をおこしたら全てを終わらせるつもりだとレミィが言ってきたの」
「……そう」
 従者に重傷を負わせたとなれば、当主としても主としても決断を下さねばなるまい。姉としての立場だったら、まだまだ庇ってやりたいだろう。今までもそうしてきたのだ。傷を負ったとて、咲夜は死んでいない。フランドールの命を奪うには、まだまだその理由が弱すぎる。
 だがしかし、命は奪われてからでは遅いのだ。咲夜が殺されない限り、フランドールに処分を下さない。そんな馬鹿な事、レミリアが許すはずもなかった。だとすれば、この決断にも納得がいく。何かあってからでは遅い。ならば、いっそ早い内に。
「それで、次の癇癪はいつぐらいになりそうなの?」
「さあ。ただ、最近は間隔が狭まってきているから、最悪なら明日にでも」
「明日まで、ね。何とも、急に難易度が上がったじゃない」
 とても笑える気分じゃないのに、口元には挑戦的な笑みが零れる。空元気も元気のうちだと、身体は本能的に知っているのだろう。
「それじゃあ、とっとと作業を再開させましょう。私たちには、それについて悩んでいる時間もないのよ」
「そうね」
 テーブルの上にはスペルカードの名前だけでなく、文から届いた写真も広げられている。おそらく、これで揃うべき資料は全て揃った。後は答えを導き出すだけ。必要なのは頭脳であり、推察力である。
「QEDでも、目を瞑って避けられるぐらい研究はしてるんだけどね……」
 だからといって、代わりに前線で頑張るわけにもいかない。美鈴達には美鈴達の役割があるように、アリスにはアリスの役割があるのだ。
 アリスは椅子に腰を降ろし、買ってきたばかりの本達に目を通した。









 頬の冷たさで目を覚ます。
 目蓋の向こうでは、視界が九十度傾いていた。いつのまにかテーブルを枕に、寝ていたらしい。積み上げられた本の傍らに置かれた懐中時計を手に取る。里への買い物のついでに、自宅から持ってきていたのだ。
 時刻はもうすぐ朝の八時。五時ぐらいには意識があったから、三時間ほど寝ていたのか。このところ徹夜も続いていたとはいえ、何もこんな切羽詰まった時に寝なくてもいいのに。自分のことながら、そんな不満が湧いて消える。
 向かい側では、本を持ったままパチュリーが船を漕いでいた。平素なら寝かせてやるところだが、今は緊急事態。欠伸をかみ殺しながら、ノートの切れ端を丸めてぶつける。額に当たった。
「むきゅ……」
 変な鳴き声をあげて目を覚ます。時計の時刻を見せてやると、すぐさま視線を本に戻した。
「何か思いついた?」
 縋るようなアリスの質問に、パチュリーが首を振る方向は左右。同じ質問をされたなら、アリスもきっと同じ仕草で返事をするだろう。
 パチュリーの見立ててが正しければ、今日中にでもフランドールは癇癪を起こす。その時が、アリス達の制限時間。レミリアを止めようにも、おそらく二人がかりでも止まらない。だから出来ることと言えば、こうして必死に本を読んで謎を解くことぐらいである。
 しかし、それも芳しい成果は得られていなかった。本に書いてあるのは、あくまで補助的な知識ばかり。間違っても、答えは載っていない。だから何冊読もうと、結果として遠回りしていることは否定できないのだ。どれだけ読もうと、最後は自分たちの頭で考えなくてはならない。
 アリスもパチュリーに倣い、もうすぐで読み終わりそうだった本を手に取る。紙をただ合わせただけのような、薄っぺらく粗末な本だった。いや、そもそも本と呼んでいいのかすら疑問だ。
「それ、何?」
 素朴な疑問だ。
「市で買ってきたのよ。何か手がかりがあるかと思って」
 市で売られているのは、何も製本されたものばかりではない。中には自家製のものだったり、写本のようなものも売られている。
「ふーん、それで手がかりはあった?」
「駄目ね。なかなか鋭いところに切り込んでいるけど、所々が虫食いのように論説がおかしくなっているし。そもそも、これ上巻だけなのよ」
 これこそが市の最大の弱点である。靴ならともかくとして、本はよく上下巻の片方だけが売られているのだ。もっとも、片方しか無いからこそ市のような所で売っているのかもしれない。
「せめて下巻があれば、何か分かるかもしれないんだけど」
 また市に戻って、下巻を探すのは一苦労だ。それにおそらく売られていないだろう。上巻と下巻を纏めて買うことは、砂漠に落ちた砂を探すのに匹敵するほど難しい。
「だったら小悪魔に調べさせるわ」
「え?」
「だってそれ、ひょっとしたら写本かもしれないんでしょ。なら、原本の下巻があるかもしれないじゃない」
 ああ、と見えない天井を仰ぎ見た。
 盲点というにしても、あまりにも不注意が過ぎる。ちょっと考えれば分かることを、どうして実践しなかったのか。時間は今や、湯水のよう垂れ流していいものではないのだ。
 パチュリーは小悪魔を呼び寄せ、アリスは持っていた本を手渡す。これの下巻を探して頂戴と言われて、小悪魔はすぐさま飛び立っていった。自分たちが疲れているのと同様に、小悪魔も疲れているはずなのに。あの元気はどこから出てくるのだろう。少しばかり羨ましかった。
 そうして数分後。申し訳なさそうな顔で、小悪魔が戻ってくる。
「すいません、探したんですけどありませんでした」
「そう。ひょっとしたら個人で発行したものか、あるいはまだ発行されていなかったのかもしれないわね」
 残念そうにパチュリーが呟く。
「あ、でも代わりにこれをお持ちしました」
 テーブルの上に置かれたのは、質素な作りの本。表紙には何も書かれておらず、薄茶色がますます印象をぼやけさせていた。
「これは?」
「お渡しされた本の原本です。何かの役に立つかと思いまして」
 書き写す際に、手を抜いて幾つかの文章を飛ばすというのは割とよくある事だ。だから上巻とはいえ、原本があるのはありがたい。
「助かるわ、ありがと」
 アリスのお礼に、小悪魔は顔を綻ばせる。彼女を見ていると、自分も従者を雇いたくなるから不思議だ。もっともアリスには人形がいるわけだけど。
「それで何か分かるかしら?」
「さあね。見つかったら儲けもの程度で考えないと、外れたときにショックが大きいわよ」
 今更自己防衛をして何になるのか。そういった声も頭に響くが、意図的に無視しておく。今はとにかく、読むことが先決。
 しかし、読み進めるにつれアリスの失望感は増していった。確かに抜けている記述は幾つもある。だがそれは殆ど補足的なものや、読み飛ばしても構わないレベルのものばかり。大事なところは何一つとして抜けていない。
 おそらく原本の余計な部分を飛ばして、誰かが書き写したのだろう。比べてみれば、市で売っていた方が完成度は高いかもしれない。
 読み終えたアリスが本を閉じる。薄汚れた背表紙を見ていて、ふと、ある事に気が付いた。そういえば、この本の作者は誰なんだろう。表紙にはタイトルも無いし、著者名もない。せめて作者がわかれば、その人に直接話を聞くこともできただろうに。早々、世の中は上手くいかないらしい。
 溜息をつきながら、何気なく背表紙を捲る。
「ああっ!」
 またしても失念していた。表紙に何も書かれていないから、きっと奥付も無いのだろうと錯覚していた。思い出せば、目次はちゃんとあったのだ。奥付があったとて、不思議ではない。
「どうしたのよ?」
 眉を潜め、パチュリーが身体を乗り出してくる。アリスは震える指先で、著者名を指さした。それを見たパチュリーも、アリスと全く同じ顔で固まる。
 もしも最大の失念があるとすれば、真っ先に彼女を訪ねなかった事だろう。
『古明地こいし』
 無意識を操れる彼女ならば、フランドールの深層心理にも気づけるかもしれない。自分たちで突き止められないのは残念だが、たかだか矜持の為にフランドールの命を賭ける必要もあるまい。二人は矜持のために命を見捨てるほど、気高い魂を持っているつもりはなかった。
 すぐさまパチュリーは小悪魔に命じる。何としても古明地こいしを探すのだと。
 一応、地霊殿にも連絡役のメイドは送っておいた。だが、話によれば彼女はいつも何処かをフラフラしているらしい。そうそう上手い具合に地霊殿に留まっているとは考えにくい。
 だが、早朝だったのが幸いした。こいしは地霊殿で就寝しており、すぐに紅魔館へ向かわせるとの返事が返ってきたのだ。
「これでようやく終わりかしら」
「何とも締まらない最後になりそうだけどね」
 二人は安堵の溜息を漏らし、こいしの到着を待った。顔からは隠しきれない疲労が溢れ、全身が泥の沼を歩いているように重い。だがまだ気を抜くわけにはいかないと、最後の精神力でもって正気を保っている状態だ。
 おそらくレミリアの期限が無くとも、今日あたりに二人とも倒れていただろう。もっとも、それも全ては杞憂に終わるのだが。
 こいしがやって来たのは、それから一時間後のことであった。寝起きをたたき起こされたのだろう。目は虚ろで身体の重心が定まらず、どことなくふわふわしている。寝癖も酷く目についた。頼っておいて言うのも何だが、本当に大丈夫だろうかと心配になってしまう。
 濡れタオルを渡し、その間に小悪魔が寝癖を整える。顔を拭いたこいしは、ようやく目蓋をくっきりと開いてくれた。
「んん……おはよう」
 まるで今起きたような挨拶だ。いや、本当に今起きたのかもしれない。適当に返事をして、それよりも、と並んだスペルカードを見せる。今は一刻一秒を争う時なのだ。寝ぼけ眼を擦りながら、こいしはスペルカードに目をやった。
「このスペルカードを見て、何か気付かない?」
 テーブルに並べられた十枚のスペルカード。

禁忌「クランベリートラップ」
禁忌「レーヴァテイン」
禁忌「フォーオブアカインド」
禁忌「カゴメカゴメ」
禁忌「恋の迷路」
禁弾「スターボウブレイク」
禁弾「カタディオプトリック」
禁弾「過去を刻む時計」
秘弾「そして誰もいなくなるか?」
QED「495年の波紋」

 そして残された二枚のスペルカード。

禁忌「フォービドゥンフルーツ」
禁忌「禁じられた遊び」

 何度も何度も睨めっこをして、連戦連敗している十二枚の猛者達。こいしは彼らを試すようにじっくりと見つめている。残念ながらアリス達は、これらのスペルカードから何かしらのメッセージを解読することは出来なかった。
 幾つかの案は出た。例えば、禁忌の五枚が五芒星となり、禁弾の三枚がその中で三角形を象る。そして秘弾とQEDが対極の位置に並ぶ。だが、結局のところそれで何がしたいのか分からない。かなり迷走した時期の、アイデアの一つだ。
 攻撃的なスペルカードが多い部分に注目した時期もある。それであるいは、これらは全て拒絶を意味するものなのではないかとも思った。だが『禁じられた遊び』や『過去を刻む時計』あたりで思考に詰まる。果たして、それらも攻撃的な意味を持つのだろうかと。それに、それでは順番に意味が無くなる。パチュリーもアリスも、フランドールのスペルカードにおいて最も大事なのは順番だと確信していた。
 しかし、どうしてこの順番じゃないといけないのか。そこまでは分かっていない。
 だからこそ、こいしに望みを託したのだが。顔をあげたこいしは、平常通りのあっけらかんとした顔で口を開く。
「悪いけど、何も分からなかったよ」
 口には出さなかったけれど、二人とも同じ事を思った。馬鹿な、と。彼女は無意識を読むことができるのではなかったのかと。
 だがしかし、ふと思う。あるいは、無機物だから分からないのではないかと。さすがのさとりも無機物の心は読めないように、こいしも無機物に籠められた無意識までは読むことができないのではないか。
 はたして、それは正しかった。
「そうね、無機物に込められた無意識ってのは確かに私でも読めないわ。直接会ってみないことには始まらないわね」
「だったら妹様の所へ案内するわ」
 席を立とうとするパチュリー。それをこいしが止めた。
「多分、無駄足だと思うな。このスペルカード、その妹様って子のなんでしょ。だったら、行っても私は無意識を読むことはできない」
「どういうこと?」
 こいしはテーブルに置かれていた自分の本を取り上げた。
「これにも書いたと思うけど、スペルカードってのは人の心なの。だから、もしも何かの想いをスペルカードに込めたんだとしたら、当人に会っても無意識に想いは残ってないでしょうね」
「つまり妹様の心境を悟るには、スペルカードに込められた想いを解読するしか無いってこと?」
 こいしは頷く。
 せっかくこれで全て上手くと思っていたのに。期待しないでおこうと言いながら、案外自分が大きな期待を込めていた事に気がつく。こいしが無理だと知って、こんなにもショックを受けているのだから。
「ただ……」
 傷ついている二人を気にせず、こいしは続ける。
「私の無意識は何か気付いているかもしれないけどね」
「あなたの無意識?」
「そう、私の無意識。お姉ちゃんが自分の心をさとれないように、私も自分の無意識は分からない。もしも知ろうとするのなら、このスペルカードのように何かの形にして出さないといけないんだけどね」
「勘弁してよ、これ以上スペルカードを増やすのは」
「別にスペルカードだけが心を映し出すわけじゃないよ。極端な話をすれば、髪を掻き上げる仕草だけでも充分に無意識を探ることはできる。だからそうね……」
 筆をとり、ノートに走らせる。真っ白だったページに、数十冊もの本のリストが書き込まれていった。見覚えのある名前もあれば、聞いたことのないものもある。これが一体どうしたというのか。アリスは首を傾げた。
「出来たわ。はい、これ」
 怪訝そうな顔のパチュリーに手渡す。
「これは?」
「このスペルカードを見ていて、ふと頭に浮かんだ本のリスト。まぁ要するに、私の無意識を具現化したものだと思ってくれたら良いよ。それを読んだら、多分このスペルカードに込められた意味も解読できるんじゃないかな」
 俄には信じがたい話だ。しかし相手は無意識を操る妖怪。こと無意識に関してなら、アリス達のよりも圧倒的に詳しい。その彼女が言うのだから、素直に従った方が得策か。いずれにせよ、既に万策が尽きかけていたのだ。他に何か有効な案があるわけでもない。パチュリーは小悪魔にリストを渡し、すぐさま持ってくるよう命じた。
 こいしは一息つきながら、朝食にと取っておいた栄養補助食品を齧っている。どうやらアリスの朝食は抜きになったらしい。報酬だと思えば安いものかもしれないが、せめて一言欲しかった。
「いよいよ時間との勝負になってきたわね」
 疲れた顔なのに、パチュリーの口調に澱むところはない。まだ諦めていないようだ。無論、アリスもそれは同じこと。力強く頷いて、小悪魔の到着を待つ。
「さて、私はもう帰るわね。ここにいても、やることなんて無いし」
 そう言って、こいしは帰ろうとする。出来ることなら留まって何かアドバイスが欲しいところだが、彼女の言葉が正しければ、いても有益な言葉はくれないのだろう。ここは素直に見送るのが吉だ。
 去り際、こいしは何気ない仕草でアリスの肩を叩いた。
「あなたも頑張ってね」
「? ええ、勿論よ」
 頑張ってと言うなら、パチュリーもそうである。これはアリス一人の作業ではないし、頑張るのは二人同じことだ。それなのに、どうしてアリス一人に言ったのか。疑問は尽きない。
 だが、そんな事を考えている暇はない。小悪魔がリストの本を持ってきたところで、アリスの意識は積み上げられた本に向かった。
 透明な制限時間が来ないよう、祈りつつ。アリスは一冊目の本を開ける。










 大きな揺れが眠りを追い払う。
 気味が悪いくらいに、あっさりと目蓋が開いた。昼というのに。いまだに晴れることのない雲が日を覆っているからだろうか。レミリアは嘆息をついた。
 咲夜から報告を待つまでもない。この揺れで、全てがわかる。
 予想通り、段々と周期が狭まってきているようだ。この分だと、最悪の場合には一日で何度も癇癪を起こすかもしれない。そうなれば、もう紅魔館の業務は行き届かなくなる。それに、咲夜達の生命も危ない。
 だからといって、毎度自分が出て行くこともできなかった。手加減して戦うのも、それはそれで疲れること。一日で何度も出来るようなことではない。
 自分の選択が間違っているとは思っていなかった。百回同じ立場に立っても、百回同じ答えを導き出していた。そのことに対する後悔はないが、ふと思うことはある。もっと昔に違った選択肢を選んでいたら、これより幸せな今があったのではないかと。運命を操る吸血鬼としては、何とも皮肉な台詞だが、そう思わずにはいられない。
 月夜の晩。優雅な仕草でお茶を飲むレミリアの傍らで、無邪気にはしゃぐフランドール。咲夜と美鈴がそれを微笑ましく見守り、パチュリーや小悪魔達も談笑に加わる。何とも幸せな風景だ。
 無論、フランドールも四六時中癇癪を起こしているわけではない。大人しい時を狙えば、そういった光景を再現することも可能だろう。だが、それはハリボテじみたガラスの再現。いつ爆発するかもしれない爆弾と、楽しくお茶会なんて出来るわけがない。
「もっとも、あの子を爆弾にしてしまったのは私なのかもしれないけれど……」
 最初から気が触れていた事は事実。だけど、それを隔離させてしまったのもまた事実。
 別の対処法をとっていれば、今頃は普通の吸血鬼になれていたかもしれない。思考が何度も同じところをループしているようだ。フランドールが関わると、いつだって結論が抜けて無限回廊に迷い込む。
 いい加減、決着をつけなくてはならない。
 ベッドから降りたレミリアは、既に覚悟していた。
 己の手を、妹の血で染めることに。










 血相を変えた小悪魔を見て、二人は悟った。
 とうとう、制限時間が来てしまったのだと。
「い、妹様が!」
 それを裏打ちするように、詳しい状況を説明する小悪魔。ついにフランドールの癇癪が始まり、レミリアも同時に目を覚ましたという。咲夜がいまだ重傷のため着替えさせる者がおらず、支度に手間取っているものの、あと十分もあればフランドールの部屋に辿り着くのは濃厚。
「つまり、残りはあと十分」
「辛いわね……んんっ」
 溜息をつくアリスに、喉を鳴らすパチュリー。
 テーブルに積み上げられた本は、まだまだ山と呼ぶに相応しい。リストは半分も消費されておらず、当然のことながら真相には辿り着いていない。ただ、漠然と何か答えに近づいているのは感じ取っていた。こいしの無意識が具現化したリストだというのも、あながち間違いではなさそうだ。全てを読み終えれば、何かしらの答えには辿り着けるだろう。 ただ、あまりにも時間が足りなさすぎる。せめて、もう少し早くこいしの事に気が付けていれば。悔やむ気持ちが湯水のように湧きだしてくる。
「私にも無意識を読む力があったら良かったのに……」
 思わず、アリスの口からそんな言葉が漏れだした。馬鹿な考えだと、頭を振る。
 対するパチュリーは何かを考えるように顎に手をのせ、確かめるように呟いた。
「……待って。このリストはいわば、あの子の無意識が具現化したものなのよね」
 少なくとも、こいしはそう言っていた。
「人は大事な核心ほど、心の奥底に隠したがる。これが彼女の無意識だというのなら、核心は最後の部分にあるんじゃないの?」
 パチュリーの言葉にはっとする。もしかしたらリストの最後の一冊こそが、こいしの伝えたかった核心なのではないか。
 テーブルに置かれたリスト。二枚重ねになったページの最後の部分を二人は探す。だが探すまでもなく、それは簡単に見つかった。なにしろ、その一冊だけ特別扱いされているように、他の書籍と三行ほどの間が空けられていたのだから。
 誰もが知っているお伽噺。だからこそ、ここで登場する意味がわからない。
 二人は眉間に皺を寄せ、題名を口にした。
「人魚姫?」
 鈴の音のような声と、ガラスを叩いたような声が交錯する。
 人魚姫がどんな話かは読まずとも知っていた。王子に恋をした人魚姫が、声と引き替えに足を手に入れるのだけれど、結局思いは伝わらずに泡となって消えるというお話。幼い時に何度も読んだ。その度に、どうしてあっさりと人魚姫は身をひいたのだろうかと子供ながらに不思議がったものだ。
 だが、その人魚姫がどうして再びここで現れるのか。共通点と言えば、せいぜい人魚姫とフランドールが若干似ていることぐらいか。片や、声を失い王子様に自分を主張することができない人魚姫。片や、声の代わりにスペルカードで自分を主張しているフランドール。こうして並べてみると、さほど似ているわけでもなかった。
 フランドールが人魚姫だというのなら、物語は最初の段階で破綻している。あれが素直に身をひくたまだとは思えない。
 その瞬間。これまで積み重ねてきた知識と経験の種が、閃きの花を咲かせた。不安定に組み立てられていた塔が、突風に押されて綺麗に直立したような感じである。
「そうか、物語よ!」
 アリスの叫びに、パチュリーは何のことだか分からないとばかりに怪訝そうな顔を向ける。しかしすぐに意図を察し、スペルカードに視線を移した。
「人魚姫が声を出せない人魚の物語だとしたら」
「このスペルカードは声の代わりに紡いだフランドールの物語」
 残りは十分もない。しかし闇の中でゴールが見えた。
「小悪魔! 美鈴に何とも時間を稼ぐよう言って!」
「は、はい!」
 糸口が見えた事を察したのだろう。明るい顔で小悪魔が出て行く。美鈴がどれだけ時間を稼いでくれるか分からないけど、とにかく今はやるべき事をやるだけである。二人はテーブルに並べられたスペルカードに向き直る。
 これまで何度も目にして、何度も挫折してきた文字の海。荒れ狂う高波のように思われたそれは、今や静かな湖に等しい。
「まずは禁忌『クランベリートラップ』」
 一枚目のスペルカードをアリスが掴んだ。
「直訳すればクランベリーの罠ね。甘酸っぱい罠。最初は警告か何かを含んだ意味だと思っていたけど」
「写真の弾も総合して考えてみれば、このスペルカードが意味することはただ一つ。出産ね」
「未だ産まれぬ者にとって、この世はとても魅力的な果実。是が非でも手に入れたいものだけれど、その果実はとても酸っぱいもの。フランドールにしてみれば、あるいは産まれてきた事自体が苦痛だったのかもしれないわね」
「禁忌『フォービドゥンフルーツ』も同じ意味でしょう。アダムとイブを人間にした、ある意味では出産の果実なのだから」
 そして手に取るのは二枚目のスペルカード。
「禁忌『レーヴァテイン』。この世に生まれ出た妹様がまず最初にとった行動は、狂気を伴った攻撃。そういえば、妹様は炎の槍で母親やその周りの吸血鬼を殺したそうよ。幸いというか、レミィはそこにいなかったらしいけど」
 さしもの吸血鬼とて、炎の槍で貫かれては生き残るのも難しい。
 だが、これだけでは殺した理由が分からない。一応は産まれてきてしまった事に対する怒りから振るったのではないかと思ったが、それにしたって確信はほとんどなかった。あるいは、この疑問だけは今回の事件とは全く関係のない話なのか。
 だとしても、アリスのすべき事に変わりはない。その動機に思いを侍らせるのは、全てが終わってからにしよう。
「とすると次の禁忌『フォーオブアカインド』は迷いということかしら。四重にもなる自分という存在のぶれ。ひょっとしたら多重人格を表現しているんじゃないかと思っていたけれど、そういうわけでもなさそうだし」
「さすがに此処は推測の域を出ないわね。一連の考えが正しければ、迷っていたということなんでしょうけど」
「そしてフランドールはあまりに危険で気が触れている為に、出口の無い牢獄に囚われる羽目になったと。それが禁忌『カゴメカゴメ』」
 遊びだったら、いつかは終わりがくる。だが、フランドールのかごめかごめが終わりを迎える日はまだ来ていない。フランドールは今日も暗い地下室で、後ろ正面が誰かも知らず、終わりが来ることを願っているのだろう。
「地下室に閉じこめられた妹様が望むことは、そこからの脱出。禁忌『恋の迷路』。そういえば、このスペルカードだけは露骨に出口が示されていたわ。おそらく、これが妹様の希望でもあるんでしょう」
「癇癪さえ治まれば、今すぐにでも出して貰えるわよ」
「そうね。ええ、きっとそう」
 力強くパチュリーも頷く。何十年も彼女が外に出ないよう見張り続けていたのだ。フランドールに対する思いは、アリスよりも何倍も強い。
「次は禁弾『スターボウブレイク』。これもレーヴァテインと同じで狂気や攻撃という意味かしら」
「閉じこめられて、さりとて願いが叶うわけでもなし。妹様の攻撃性が増したとしても、おかしいことじゃないわね」
「狂気を持っていたがゆえに閉じこめられたが、それが更に狂気を増幅させた。何とも皮肉な話ね」
 自分が同じ立場におかれたら、一体どうするだろうか。自分だったら何もせず、ただ漠然と終わりが来る日を待っているのかもしれない。
「そして禁弾『カタディオブトリップ』。これも攻撃的なスペルカードだけど、おそらくはただの攻撃ではないんでしょうね」
「弾を見る限りでは、この五つの弾幕が手を表しているんじゃないかと思うの。すなわち、これは拒絶」
「閉じこめられて暴れて、それでも誰も構ってくれない。それじゃあ拒絶するのも当たり前ね」
 自らの行いを後悔しているのか。パチュリーが重い溜息をついた。
「だけどそれでも環境は変わらない。攻撃性の後に訪れるのは自虐。もしもフランドールが自らを責めていたとしたら、禁弾『過去を刻む時計』『禁じられた遊び』が示す意味は、後悔になるわね」
「だとしたら秘弾『そして誰もいなくなるのか?』は不安でしょうね」
 そして残されたスペルカードは一枚のみ。
「Q.E.D」
「495年の波紋」
 これが証明終了を意味する事は、初めから分かっていた。だが何の証明を終えるものなのか、それが分からなかったのだ。
 だが今の二人になら理解できる。
「証明が終了したのは妹様の人生。495年の波紋とは、波紋のように揺れ動いてきた妹様の495年間」
「だとしたら、彼女が癇癪を起こしている理由は!」
 アリスの中で、線が一つに繋がった。
 わざわざ己の人生をスペルカードにしてまで、フランドールが伝えたかったこと。いや、望んでいること。それが物語を追っていって、ようやく分かったのだ。
 きっとフランドールが証明して欲しいのは、己の物語を解き明かすことだけじゃない。それよりももっと、大事なものを証明して欲しいのだ。だからこそ、こんな強引な手で誰かに向かって問いかけている。
「こうしちゃいられないわね。行くわよ、パチュリー」
「え、ええ……ゲホッ! ゲホッ!」
 立ち上がろうとしたパチュリーだったが、咳き込みながら椅子にもたれかかる。
「悪いわね。どうも、限界が来たみたい」
 元々、無理をして元気に振る舞っていたのだ。いつかはツケが回ってくる。それは初日にアリスも忠告していた。だからこれは、来るべき時が今日来ただけのこと。
「そろそろ小悪魔も戻ってくるだろうし、私の事は構わなくていいわ。それより、早く妹様を止めて頂戴。見張りの作業にも、いい加減疲れてきたところなの」
「分かったわ。だからあなたは、そこで少しでも休んでなさい」
 ふらふらと椅子に座り、テーブルに崩れ落ちる。アリスとて、実はいつ倒れてもおかしくないぐらい疲れていた。今だって、気を抜けばすぐにでも倒れられる。敷き詰められた赤い絨毯は、寝心地もさぞや良いのだろう。
 そんな誘惑をはね除けて、アリスは地下室へと向かった。
 不器用な方法でしか、想いを伝えられない吸血鬼の為に。人形使いは答えを持って、歩き出す。










 壁に叩きつけた美鈴へ、トドメとばかりの蹴りをお見舞いをした。小さな体躯から想像できない破壊力が、壁に放射線状の罅を入れ、美鈴の胸骨を余さず砕いた。なかなか粘った方だったが、これでもう美鈴も動けまい。
 壁にもたれかかり、ぐったりと項垂れる。口元から大量の血が垂れ、人民服のような衣装もボロ切れのようになっていた。
「まったく、あなたが守るのは此処じゃなくて門でしょうに。余計な時間をくったじゃない」
「ははは……それが私の目的ですから」
 これだけされて、まだ意識があるとは。見上げた根性である。もっとも、だからこそ門番として雇っているわけだが。己の目が間違いでなかったことは証明されたが、優秀すぎるのも考えものである。
 勝つという一点において美鈴は圧倒的に劣っているものの、粘るという部分ならばおそらく紅魔館で一番だ。それを依頼したのが誰かは聞くまでもないとして、果たして粘ったところで意味があるのか。
「でも、これでタイムオーバー。こうやって悩み苦しむ日も、今日で終わりよ」
「残念だけど、あなたの苦しみはまだまだ続くわ。私が終わらせないもの」
 背後から、絨毯を踏みしめる微かな音が聞こえてくる。美鈴の粘りは無駄ではなかったようだ。
「王子様のご到着かしら?」
「私はただの魔法使いよ。暴れん坊の妹に鏡をお持ちしました」
「吸血鬼は鏡に映らない」
「鏡は私よ。姿は言葉で伝えるわ。ただし左右は逆にならないけどね」
 彼女がここに来た以上、もうレミリアの出番はない。情けない姉が出来る事といったら、黙って道を譲るくらいだ。
 普段ならそんなこと、矜持が許さない。だけど、これはレミリアが招いた結果。甘んじて受け入れなくてはならない責任がある。
「ちなみに、あなたという鏡は私をどう映すのかしら?」
 横切っていくアリスへ、そんな質問をぶつける。
「妹に冷たく、冷酷で、思いやりの欠片もない姉かしら」
「そう……」
 何かを期待しての問いではなかった。何を言われても、反論することはできない。ただ、どうしてだろう。心の何処かが傷ついているのは。
 やはり自分で思うのと、人から言われるのでは全然違う。去りゆくアリスの背中を見つめ、レミリアは人知れず溜息を漏らした。
 地下室の扉へ手を掛けるアリス。そのまま入っていくかと思ったが、入り際、振り向いてこう言った。
「ただし、あなたを映す時だけは全てが逆になっているんでしょうね」
 そしてアリスは地下室へと消える。残されたレミリアは気絶した美鈴を横目に、苦笑する。
「気障な魔法使い」
 しかしその顔は、どことなく嬉しそうだった。










 天井は遙か高く、図書館ではないにしろ部屋としては異例の広さを誇っている。地下室というから湿っぽいイメージを持っていたのだが、気になるほどではない。ここにもパチュリーの魔法が使われているのだろう。生活する上では、さほど苦にならないような部屋だ。
 一歩踏みだし、妙な違和感を覚えた。足をあげると、半身が焼かれた熊のぬいぐるみを踏みつけていた。黒く焼かれた部屋の中にあって、半身だけで済んでいる彼はまだマトモな方である。天蓋付きのベッドも、揃えられた絵本も、例外なく焼き尽くされていた。
 無事なものと言えば、当のフランドールとアリスだけ。もっとも、油断すればアリスも彼らと同じ運命を辿ることになる。
 飛んできた弾を防御しようとして、人形を忘れてきた事に気がついた。慌てて回避するが、服の一部が持っていかれた。今更取りに帰るわけにもいけない。このまま、やるしかないだろう。
「どうやら、誰もいないのにスペルカードは進んでいたようね」
 フランドールを中心にして放たれる、波紋のような弾の群れ。
 QED「495年の波紋」
 今はまだ距離があるから、誰にだって避けることができる。だがフランドールへ言葉を伝える為には、この弾をかいくぐって、直接彼女の所まで行かないといけない。それだけの技術、かつてのアリスなら持ち合わせていなかっただろう。もっと他の案を考え、少なくとも正面突破だけは避ける。
 だけど相手がフランドールならば、話は別だ。
 毎日のようにその弾幕を研究し、目を瞑っても浮かび上がるほど見続けてきた。ことフランドールのスペルカードに限るなら、この幻想郷で誰よりも避ける事が上手いと豪語できるだろう。
 問題は身体が思うように動いてくれるか。いくら頭で分かっていても、身体がついてこないのでは意味がない。
 それだけが気がかりであったけれど、だからといって止めるという選択肢は無かった。
「ああ、もう。今になってこいしの台詞が理解できたわ」
 あなたも頑張って、とこいしは言った。何を頑張るのか。それは、きっとフランドールと同じ事。こうして一生懸命になっているのも、おそらくは親近感が大部分を占めている。それは最初から分かっていたが、何処に親近を覚えていたのか分からなかった。だけど、ここまで来ればもう理解できる。
 似ているではないか。何よりも一番、自分という存在の事を分かっていないところが。
 多くの人間は、まずそんな事を考えない。そして、そんな事で不安にならない。だが、その生い立ちゆえかフランドールは考える。そしてアリスも。
 果たして、自分という存在は何なんだろうかと。自分は何のために生まれてきたのだろうかと。
 しかし、そんな漠然とした疑問に明確な答えなど出るはずがなかった。
 その苛立ちをフランドールは攻撃に変え、アリスは殻に籠もることで防御した。
「もう、少しは遠慮ぐらいしなさいよね!」
 弾をかいくぐり、回避しながら、フランドールに少しずつ近づく。複雑にも思えたパターンは既に解析済みだ。定石に則っていけば、避けること自体は難しくない。
「そこで待ってなさいよ! あんたの欲しい言葉は、私が一番よく知っているんだから!」
 レミリアはフランドールを閉じこめた。
 パチュリーと小悪魔は、そんなフランドールを出そうとしなかった。
 美鈴と咲夜はフランドールを認めてはくれたけど、狂気に囚われたフランドールは拒絶した。
 結局のところ、フランドールの狂気を認めてくれた人はただの一人もいないのである。それが、フランドールの核になる部分だと知りながら。誰もが狂気を避けて、拒絶した。
 それではいくらフランドールを認めたところで、彼女の芯を認めた事にはならない。人も神も吸血鬼も、誰かに認めて貰わなければ歪んでしまう。それは色々な形をとり、外の世界へと放出されるのだ。フランドールの場合、それはスペルカードとなって放出された。
 それが一層、彼女の狂気を際だたせる。
 悪循環だ。悪循環だけれど、誰かが断ち切らないといけない。この流れを。
「くっ!」
 弾が服を掠める。今度は皮膚にも少し当たった。焼け付くような痛みが神経を焦がす。怪我が増えるにつれ、弾の密度も上がっていった。やはり身体が思うようについてこない。せめて人形があればと後悔するけど、あってもどうせ怪我はした。ならば、いっそ思い切って飛び込むのも悪くない。
 そんな考えに気をとられすぎたか、左から訪れる弾を忘れていた。避け損なって、左半身を衝撃が襲う。
 咄嗟に防御はしたものの、たった一撃で身体はボロボロ。気を抜けば、今すぐにでも受け身をとらずに倒れてしまうだろう。だから元から精神力だけで立ち向かっていたアリスにとって、その痛みは逆に良い目覚まし代わりとなってくれた。
 自分を寂しいと思っているフランドール。本当はそんな事がないのに、思考の迷路が彼女の出口を歪ませた。
 それはアリスも同じこと。考えるのは大切なことだけれど、考えすぎると思考は澱む。だからきっと、フランドールは産まれる前から考えすぎたのだろう。聡明すぎるゆえに彼女は、産まれる前から歪んでしまったのだ。
 どうして母親を殺したのかは、今になっても分からない。ただきっと、殺して喜びがあったわけではないのだろう。これも推測に過ぎないが、フランドールの後悔の中には母親を殺した事も含まれていると思う。
 だがこればかりは、当人に聞いてみないと答えは出ない。どれだけ考えたところで、本人の言葉に勝る心情は無いのだ。
 ふらつく足を押さえ、立ち上がる。
 ここに至る道は、考えなければ辿り着けなかった。フランドールの心情を理解し、その隠れたメッセージを考えることだけが、この場所に立つ為の条件。
 でも、もう考えは必要ない。答えは出ているのだから、後はそれをぶつけてやるだけ。
 答え合わせをするまでもなく、それが正解だと確信している。
 だから、とにかく、今は前へ。
 アリスは気力だけで飛び、再びQEDに挑みかかる。今度は何も考えない。無意識で、彼女のスペルカードに立ち向かう。
 左から、右から、正面から。規則的に襲ってくる弾幕を避け、少しずつアリスはフランドールに近づいた。
 そして見つけた。波紋と波紋の僅かな隙間。フランドールへ至る、ほんの少しの隙間。
 微かに空いたその隙間めがけて、アリスは思いきり飛び込んだ。
 左右の肩が弾に当たるが、そんなことは気にならない。
 波紋を抜けて、力の限りフランドールを抱きしめる。温かい感触と、柔らかい身体。これが狂気をばらまく少女だなんて、誰も信じることができそうにない。
 でも、誰かがそれを認めなければならない。そうしなければ、彼女は永遠にひとりぼっちだ。
 アリスは顔を近づけて、フランドールに囁いた。
 彼女と自分が最も欲しかった言葉を。
「あなたは、そのままでも良いのよ」
 たったそれだけ。
 たったそれだけの言葉で、フランドールの腕が降りる。
 狂気を含めた存在を認められ、ようやくフランドールの波紋が止まった。長きに続いた癇癪が、ひとまずの終わりを迎えた瞬間だった。
 全てが終わった。
 安堵感に包まれたアリスは、そのまま意識を失っていく。
 着地のことなど、頭になかった。










 布団の感触を味わったのは、実に何日ぶりだろう。目を覚まして思ったのは、見覚えのない天井についてでなく、己の過酷さを浮き彫りにするような感想だった。
「あら、ようやく目を覚ましたようね」
 隣からパチュリーの声が聞こえてくる。寝たまま首を動かせば、何故かパチュリーも同じようにベッドへ横になっていた。部屋の中に拵えられた二つのベッド。魔法使いと魔女が、その全てを占拠している。贅沢だという見方もあるが、脆弱だという罵りも免れない。
「やっぱり、あなたもダウンしてたのね」
「そういうあなたも」
 アリスは何もフランドールにやられて意識を失ったわけではない。過度の労働と睡眠不足が祟って、気絶するように気絶したのだ。だとしたら、それ以上前から調査を続けていたパチュリーが倒れるのも道理である。むしろ、よくぞ今まで保ったと褒めてあげたい。綿飴のようにふわふわの枕に頭をうずめ、真紅の天井に溜息をはきかけた。
「こんなにも無茶をしたのは、一体何年ぶりのことかしら」
「私だって、倒れるまで無茶したのは久々よ」
「そうは見えないけど」
「病弱な奴ほど、ギリギリの調整が上手いのよ」
 なるほど、思わず納得してしまった。
「ところで、此処は?」
 見たところ、紅魔館の一室であることは間違いない。問題は誰の部屋であるかだが。無駄に広い紅魔館のこと。贅沢な内装の部屋が、普通に空き部屋であるかもしれないから怖い。
「ああ、私に用意された寝室よ。だけど私や小悪魔は図書館で寝泊まりしてるから、実質はただの仮眠室ね。いつのまにか、ベッドも二つに増えていたし」
 これほど豪奢な調度品で拵えた仮眠室で、寝られるものなどいるのだろうか。妖精メイドなら案外気にしないだろうけど、メイド長や門番は利用するはずもない。アリスとて、平時なら遠慮する。気がひけるではないか、こんな所で寝るには。
 ただ、今だけは思う存分に布団の柔らかさを堪能することにした。そもそも身体が思うように動かないので、選択肢は残されていないのだが。
「そういえばフランドールはどうしたの?」
「ああ、妹様なら元気にしてるわよ。あれからは癇癪も治まったみたいだし、レミィも感謝してたみたいよ。まぁ、私は寝てたんだけど」
 パチュリーの話によれば、アリスは三日ほど寝続けていたらしい。ちなみにパチュリーも同じぐらい寝ていたそうだ。
「まぁ、結果が出たならいいわよ。これだけやって、全て無駄でしたなんて終わり方。読者じゃなくても怒りたくなるしね」
「王子様じゃなくて魔法使いが助けてる物語だもの。今更、怒る読者なんていないわ」
 もっともである。苦笑を零し、アリスは再び目を瞑った。
 三日間の睡眠をとっても、まだ若干の眠気はある。下手に残して、明日からの生活へ影響を与えるつもりはない。ここで一気に寝ておいて、普通通りの生活を取り戻さなくては。パチュリーもそれっきり何も言わず、部屋に心地よい静寂が訪れた。
 すぐに壊れたが。
「アーリス!」
 全てを破壊する少女は、静寂を打ち壊すのもお手の物だったらしい。扉を蹴破らん勢いで入ってきたフランドールに、目を丸くする。
「あっ、目を覚ましてる。おはよう、アリス!」
「お、おはよう」
 話しぶりから察するに、ここへ来るのは今日が初めてのことではないらしい。これだけのテンションで入室していたのに、今までの自分は起きることが無かったのか。我ながら、よく寝たものだと感心する。
 フランドールは小走りに絨毯を踏みしめ、断りもなくアリスのベッドにダイブした。
「ちょっ!」
 止める暇もない。女の子一人分の重量が、アリスの上にのしかかってきた。ベッドも軋んで悲鳴をあげる。
「いきなり何よ……」
「ねえねえ、あれってアリスが言ってくれたんでしょ」
「あれって何が?」
「私は私のままで良いって台詞」
 あああれね、と頬を掻く。あの時は興奮状態で、実は自分でも何を言ったのかうろ覚えだった。ただ、自分が最も欲しい言葉をぶつけた事は覚えている。それがフランドールの心にも届いたのだろう。だから、こうして無邪気な顔でダイブしてきたのだ。
「私ね、とっても感動したの。だって、今まで誰もそんな事言ってくれなかったから!」
 狂気の混じらない嬉々とした笑顔で、うっとりと手を合わせるフランドール。初めて餌を貰った雛も、こんな風に陶酔するんだろうな。アリスはそんな事を思った。
「だからね、私決めたの! アリスをもう一人のお姉ちゃんにするって!」
 扉の向こうで、誰かが倒れる音がした。あまりに大きな音だったので、おかげで唖然とする暇がなかった。
「あのねフランドール」
「フランで良いよ」
「じゃあフラン。悪いけど、私は吸血鬼でもないし、スカーレットでもないわけ。だからあなたのお姉さんにはなれないのよ」
「でも、映画や漫画では赤の他人を姐さんとか兄貴とか呼んでるよ?」
 どんな娯楽を与えられていたのだろう。ふと、隣のパチュリーを見ると目を逸らされた。お前か。
「あれはまぁ、特殊な環境なのよ。とにかく、あなたには既にお姉さんが一人いるわけだから。私がそこにノコノコと割り込む事はしたくないわけよ。分かる?」
「えー、でもあいつあんまりお姉さんっぽくないし」
 口を尖らせるフランドール。どう説得したものかと悩んでいたら、またしても扉が開いた。
「あいつ呼ばわりとは感心しないわね、フラン」
 威厳に満ちあふれた台詞を伴って、入室してくるレミリア。しかし帽子は何故か廊下に落ちていたし、羽は小刻みにぷるぷる震えている。おそらく、先程倒れたのはレミリアなのだろう。どうして倒れたのかは、推測するまでもないが。
「ああ丁度良かった。お姉様から言ってあげてよ、アリスは私のお姉ちゃんになりなさいって」
「オネエチャン? 聞き慣れない生命体ね」
「あはは、お姉様馬鹿だー。お姉ちゃんってのは、要は私のお姉様ってこと」
「ぎゃおー!」
「レミィ。あなた、最近困るとすぐそれね。気に入ったの?」
 急に賑やかになったので気になったのか、咲夜や小悪魔もやってくる。その後ろからは美鈴もやってくるが、すぐに咲夜に追い返された。大方、まだ業務時間だったのだろう。それにしても、全く普通通りの姿であった。恐るべき回復速度である。
「お嬢様、妹様。ここは一応仮眠室ですので、言い争いなら別の部屋でするべきかと思います」
 咲夜のもっともな一言に、レミリアは言葉に詰まり、フランドールは不満そうに頬を膨らませた。それでも納得はしてくれたらしく、大人しく部屋を出て行く。
 去り際。
「助かったわよ、我が親友と気障な魔法使い」
 とレミリアは言い残し、
「ありがとねー!」
 とフランドールはお礼を述べた。
「それでは失礼します」
 と咲夜も退室して、
「何かあったら呼んでください」
 と小悪魔も続く。
 後に残されたのは、パチュリーとアリスの二人だけ。再び部屋に静寂が戻ってきた。
 アリスは元から、静寂を好んでいる。だから静かなのは有りがたい限りだけど。いつもとは違って、少しばかりの寂しさも覚えた。
 長く騒がしいとこに居過ぎたのだろう。喧噪とて日常になってしまえば、失われて寂しくなるものだ。しばらく元通りの生活をしていればすぐに鬱陶しいものへ変わってしまうのだろうけど。
 アリスは乱れた掛け布団を整えながら、ゆっくりとベッドに体重を預ける。
 フランドールの事は片づいた。全てが万事これで終了というわけではないけれど、もう癇癪を起こすことはないだろう。代わりに、これから色々とアリスが大変な目に遭いそうだけど。それはまた、それで自らが決めた道なのだ。愚痴を零しても、後悔するわけにはいかない。
 それに、予感がしていた。
 いつの日か、自分の核心も認められる日が来るのではないかと。その核心が何なのか、それを認めてくれるのは誰か。全く分からない。未来を予測する能力はないし、無意識を読む力があっても自分の無意識を知ることはできないのだから。
 自分を観察できるのは、他人だけ。だから殻に籠もっていたアリスは、今ままで誰にも観察されてこなかった。しかし、これからはそうもいかないだろう。
 フランドールがこれで解放してくれるとは思えないし、レミリアも変な対抗意識を燃やしそうだ。
 もう、一人でいることなんて出来ない。だからきっといつか、自分の無意識も暴れてしまうんだろうなあ。
 アリスは苦い顔で、笑みを零した。
 隣ではパチュリーがいつのまにか寝息を立てている。この魔女とも、長い付き合いになりそうだ。何となく、そんな気がした。
 ふと、アリスは窓の外を見た。
 長らく降り続いた雨は、いつのまにか止んでいたようだ。
 
 
 
 
 
 
 
 雨上がりの空には笑顔がよく似合う。
八重結界
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コメント



0.5550簡易評価
4.100りゅのヒト削除
あーもうテスト前だというのにもう!!
あなたの作品は読者を物語の世界に引きずり込みすぎる!!www

そうして誤字?もとい文法的におかしかったものをいくつか(なんか私が言うのも気が引けるな……

<この決断にも納得がいく。何があってからでは遅い。ならば、いっそ早い内に。
何『か』あってからでは?

<いつ爆発するかもしれない爆弾と、楽しくお茶会なんて出来るわけがない。
んー、ここは微妙なところ……
『いつ』とつけるのならば『いつ爆発するか分からない』となって
『かもしれない』をつけるのならば『いつ』はいらない気がします。

うわ、なんかめちゃくちゃ偉そう……
ごめんなさいです……

本当にすばらしい作品でした、ありがとうございます。
5.無評価名前が無い程度の能力削除
誤字報告
>推測したみたが
推測してみたが
9.100名前が無い程度の能力削除
天魔様自重しろww
11.100名前が無い程度の能力削除
凄く良かった。
17.100名前が無い程度の能力削除
文法的におかしいとは思わなかったが、後書き読んで「かもしれない」ってどこにあったかなーっと思って探したら33個もあってコーヒー吹いた。
いや、キャラが推測する話だから違和感はなかったんだ!

弾幕を掘り下げて設定を考察していくのは東方らしくてよかったです。
一瞬でQEDされた天魔様の謎ww
21.100名前が無い程度の能力削除
ずっと読んでたいと思う程引き込まれてました。
ニヤニヤしてヒヤヒヤしてやっぱりニヤニヤ。
そして地味に報われて無いレミリア
24.100名前が無い程度の能力削除
やはりというかなんというか、アリス自身の「生い立ち」や闇の部分は明かされないのですね。
色んな説や過去考察が混在するキャラだから敢えてぼかされたのだと思いますが。
ただ、読んでいてふと頭を過ったのは外界における社会問題に関わるあの説でした。
本当にとても良いお話でした。次回も楽しみにしています!
25.100Taku削除
 自分の存在意義を見出せなくなっていたフランのスペルを繋ぎ合わせると、こんな物語が導き出されるのですね。
 そして、フランの495年の歴史の流れを知った上でのアリスたちの出した結論、お見事でした。
 素晴らしい作品を、ありがとうございました。
28.100名前が無い程度の能力削除
ああ可愛いなぁ・・・もうっ
32.100奇声を発する程度の能力削除
感動しました。
33.100名前が無い程度の能力削除
このあとのフランとアリスがどう付き合っていくのかすごく気になる

天魔様の秘密はきっとその場にいた射命丸にもばれていたことでしょう
天魔様\(^o^)/
35.100名前が無い程度の能力削除
良いお話でした。
次回作も期待っ!
39.100喚く狂人削除
どれだけ良いと思っていても、その思いをコメントとしていざ文章に起こそうとすると、手のひらで掬った水のようになってしまうのです。
ですから、100点で代えさせていただきます。
ありがとうございました。
47.100名前が無い程度の能力削除
アリスがフランの姉ですか。
無茶苦茶ツボにはまりました。
可能ならば後日談等読みたいですね。

面白い作品を読ませていただきありがとうございました。
50.100名前が無い程度の能力削除
ここまで引き込まれたSSは久々だ。
56.100名前が無い程度の能力削除
八重さんが真面目な話…だと…?許せる!
60.100名前が無い程度の能力削除
天魔様最高だぜ!
とても素晴らしかったです。
81.100名前が無い程度の能力削除
良い話だった。
アリスとフランのその後が気になる。
82.100名前が無い程度の能力削除
いいお話でした。
妹様の意味深なキーワードを上手く表現していたと思います
85.100まるきゅー@読んだ人削除
なぜアリスなのか。
そこがこの物語の一番の謎だったんですが、読みすすめるうちにどんどん違和感がなくなってくる不思議。
ともかく戦慄しました。
一番巧いと思ったのは間の取りかたというか、謎の解き明かし方ですね。
引っ張り方が巧かった。
86.90名前が無い程度の能力削除
自分で自分の何処が異常なのか分からない。
分からないから怒り、誰かを攻撃してしまう。
そして誰もいなくなる。
そんな悪循環を断ち切るのはやっぱり王子様のキスですよね。
アリスはお姉さん役として、ますます人気だなあ。
101.100名前が無い程度の能力削除
全体的に素敵でした。

特に、
>結局のところ、フランドールの狂気を認めてくれた人はただの一人もいないのである。
この一文に目から鱗という感じで。
フランドールというキャラクターを実体を伴う感覚で理解できたような、なんかそんな感じです。
うまくいえないけど。
すばらしい小説をありがとうございました。
117.100名前が無い程度の能力削除
感動しました。(TOT)b
123.100幻想削除
ぱねえ
129.100名前が無い程度の能力削除
久しぶりに読ませていただきましたが、やっぱりすごい。


こんなにも素晴らしい作品をありがとうございました。
134.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。