Coolier - 新生・東方創想話

閃光

2009/06/30 05:24:48
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 夜は静寂の時だ。
 深い暗闇の中に身をゆだねていると、神経が研ぎ澄まされていき、自己の感覚がゼロへと漸近していく。
 存在を虚無へと近づけることで、逆に多くのことを得ることもあるだろう。
 瞑想というほど、大仰なことをしているわけではない。
 私、蓬莱人形は一日の疲れを深い闇の中へ投棄していた。そう、紙巻の煙として。
 アリスが怒るので火はつけていないが、シンと静まりかえった部屋のなかで一人そういう動作をすることが、ぜひとも必要だったといえる。
 私は請負人であり、その仕事は激烈を極めるので、少しでも弛緩する時間が必要なのだ。
 プライドもあるいは生存欲求もすべて、たゆんだ息として吐き出してしまう。そういった作業が膨らんだ風船のガス抜きのように必要なのだった。
 かたわらには、同業者の上海が瞳を閉じて寝入っている。私を含め、同業者たちは皆、雇い主であるアリスが寝入ると同時に人形棚に腰掛けるようにして眠りにつくのだ。
 私ももちろん例外ではなく睡眠をとることもあるのだが――
 今日はなぜか寝つけなかった。
 そういう日もある。べつにたいした理由はない。胸騒ぎのようなものを感じたのだ。夏の夜風に晒されて鋭敏になった神経がそんなことを思わせるのだろうか。
 上海は私に少し体重を預けるようにして眠っていた。私はゆっくりと彼女の身体を逆方向へ傾かせて、反対側で寝ているストローに体重を預けさせた。彼女は極端に無口な性格をしているから、上海が電車帰りのサラリーマンのように体重を預けていても何も言わないだろう。
 それから、私は空中を飛翔し、雇い主のアリス・マーガトロイド嬢のそばへと寄った。
 これもたいした理由はない。たまには雇い主の寝入っている様子をつぶさに観察しようと思っただけだ。そうすることによって彼女を護衛するという私の任務も果たせるだろう。
 手を伸ばせば届くほどの距離になってようやくアリスの顔が確認できる。
 アリスは見た目以上に幼く、いまの寝入っている姿はちょうど赤ん坊のように、両の腕を折りたたんだようにして頭の近くへやっている。説明しにくいが、図解すれば一発でわかるだろう。Wに近い形だ。寝息は緩やかで、乱れていない。
 私もようやく安心して、再び人形棚に戻ろうとした。
 そのとき――
 ふっと空気が揺れた。
 最初は勘違いかと思った。なにしろ、ここアリス・マーガトロイドの居所はいくつも結界が張り巡らされており、セキュリティレベルはかなりの高さを誇るからだ。具体的にはアリスらしい無関係の結界で覆われていて、それは物理的には脆弱ではあるが、ちょうど鳴子のように誰か侵入者がいればすぐに了解可能なものだった。
 それなのに、誰かの侵入を音もなく許すというのは、可能性として低い。
 しかし、私はすぐにその気配が勘違いではないことを悟った。ゆっくりとしたスピードで――、まるで羽毛のような柔らかな感触で扉がすっと開き、そこにのっぺりとした影が現れたのだ。私は息をのんだ。すべてのセキュリティが無意味であるとなれば、最終防衛ラインは私ぐらいしかいない。いまさら、他の同業者を呼んでいる暇はないだろう。
 しかし、私は私の限界を知っている。自分の力を過信するほど自惚れてもいない。
 しばらく、私はテーブルに身を落ち着かせ、影の主がどういう行動をとるか見守ることにした。
 影は足音を立てないようにゆるやかな動きをしていた。対する気配は隠しようもないほどに巨大だ。私ほどのプロになれば一瞬でわかる。抑えきれないほどの力量が感じられる。そのプレッシャーに並の者なら押しつぶされてしまうだろう。だが――、今の私はアリスの盾であり、盾でしかない。その盾が恐怖を感じることはない。
 影が大きくなる。アリスの顔を確認しているのだろうか。しばらく動きが止まった。
 月あかりでもあれば相手が誰であるかの確認ぐらいはできるのだろうが、残念ながら今日は新月である。
「……ん」
 アリスが寝返りを打つ音がした。
 影は少し驚いたのか、身じろいだ。小さな息遣いが聞こえる。アリスが眠っているのを確認してから、影はようやく再び動き出した。
 小さな動き。
 小さな影。
 思ったよりも、影は小さい。背格好から考えて、どうも少女のようだ。
 アリスよりもやや高いか、あるいは同じぐらいの背格好に見える。
 魔理沙だろうか。一番の可能性を私は考える。しかし――彼女にしてはどうも動きにのっぺりとしたものを感じた。ここから影までの距離はわずか三メートルほどではあるが、真の暗闇の前では、確認する術は無い。
 いよいよ影が迫る。
 もう少し、あと少しの距離。
 私はタイミングを計る。この身を盾にして任務を完遂する。たいしたことではない。いつもやっている。私が破損していても致命的なダメージを受けない限り、そしてアリスが死なない限り、私もまた死ぬことはない。逆に言えば、私のエネルギー源はアリスのほかにはないのだから、アリスの安全が第一だ。そこには情の入りこむ余地はない。
 冷徹な数学的な論理があるだけである。
 影がアリスの腕をとる。そしてそのまま身を傾けた。私は持てる力のすべてを使って、最速で空間を渡り、影とアリスの間に割って入った。
 そして来るべき『衝撃』を覚悟する。
 来る!

 むにゅにゅにゅにゅ。

 音にすればそんな感じだっただろうか。私の胸のあたりには影の――いや、少女の柔らかな唇の感触があった。
「ん?」
 影が声を出す。
『私の雇用主に手を出さないでもらおうか』
「あらあら、かわいらしいナイトさんね」と影。
「ん……、どうしたのぉ?」
 アリスが起きたようだ。こうなれば、第二派の攻撃に備えて、私も体勢を整えるほかない。
 しかし影は従順にも距離をとった。いや、油断しないほうがいいだろう。あいかわらず、とてつもないオーラのようなものを感じる。その殺気も威圧感も感じない、ただひたすらに巨大な存在感に私は圧倒されそうになる。
 アリスが身を起こした。それからぼーっとした瞳で影を見ていた。やがて、驚いた声を出した。
「お、お母さん! どうして」
 母親?
 しかし、見た目の年齢はほとんど同じに見えるのだが――まあいい。アリスが母と呼ぶのなら母と子という関係を結んでいるのだろう。
 雇用主の個人的な情報にはあまり立ち入らないというのが私の仕事上でのポリシーだ。
「アリスちゃんのことが心配で来ちゃった」
「い、いきなり来られても迷惑よ」
 アリスは狼狽した様子で、部屋の明かりをつけた。魔力の光りがともり、部屋のなかはぼんやりとした明かりに包まれる。
 ようやく影の主の全貌が明らかになる。
 白っぽい髪を片結いにしていて、紅い服を着た少女だった。清楚で包容力がありそうな顔立ちである。黄色人種ではない。アリスとの関係を考えれば欧米系統の血が混ざっているようにも思えるが、アルビノか何かなのだろうか。どう見てもアリスと同年代に見えるのだが、複雑な家庭環境なのだろうか。いろいろな疑問がうずまくがはっきりしていることもある。発音は綺麗な日本語で、彼女の能力の高さをうかがわせる。まとっている空気もどことなく高貴だ。
 アリスは不機嫌そうに寝癖ひとつない綺麗な髪をかきあげた。
「どうして幻想郷に来たのですか。神綺さまは」
 アリスの声には、一見してわかるほどとげとげしいものが含まれている。部屋の中の不穏な空気を感じて、同業者たちの幾人かは起きだしてしまったほどだ。
 自分の母親のことを名前で呼ぶというのも、考えるまでもなく拒絶の表れだ。その様子は概して言えば、思春期の少女が母親を拒絶するのとまったく同じであった。わからなくもない。アリスの立場で考えれば、一人暮らしをしていて深夜にいきなり親に押しかけてこられた大学生の気分だったのだろう。
 自由を愛する私としては、アリスに同情した。
 しかし、神綺は少女らしく屈託なく笑った。
「言ったでしょう。アリスちゃんが心配だったのよ」
「ちゃんと手紙で近況報告はしてるじゃない」
「そう――手紙。手紙で思い出したのだけど、アリスちゃんの手紙にあったとおり、自律人形の製作に成功したようね」
「ええ、まあ。まだ完璧じゃないけど――」
 アリスが私を手招いた。空中を浮揚していた私はふわふわと優しくテーブルの上に降り立った。
 雇用関係にはないが、礼儀ぐらいは私も知っている。
 服の裾を軽くつまんで一礼した。
「この子が蓬莱ちゃんね?」
「ええ、そうよ。って、お母さん……、もしかして名前全部覚えてきたとか」
「当然よ。アリスちゃんがこの子たちの母親だとすれば、私にとって、この子たちは孫みたいなものでしょう。孫の顔を見に来るというのもアリスちゃんに会いに来た理由のひとつ。でも本当は娘の顔が見たかったのよ。ただそれだけ。理由なんか無いわ」
「お母さん……」アリスは感じ入っているようだ。「と、ともかく、せめて来る前に連絡ぐらいはしてよ」
「お忍びできたのよ。なにしろ公務がいろいろと忙しくて……」
「今すぐ帰ってください。姉さんたちに迷惑がかかります」
「せっかくアリスちゃんに会いに来たのに、アリスちゃんは私を冷たく追い出すわけね」
 神綺はその場で膝をついた。よよと泣き崩れている様はなかなか扇情的ではあるが、さすがに幼稚園児でも演技だとわかるだろう。
「べつに追い出さないけど。お母さんはただの私人とはわけが違うのだから」
「いまはアリスちゃんのお母さんに過ぎないわ。それ以上でもそれ以下でもない」
「もう……、勝手なんだから」
 アリスはベッドから身を起こして立ち上がった。どうやら神綺を説得することを諦めたらしい。私はそもそもアリスの母親が何をしようと私の領分に反するわけではないので、黙っていた。今はなぜかわからないが、神綺に頭をなでられているが、その程度の接触で怒り出すほど私は子どもではない。小動物的な扱いをされることには慣れている。
「何か食べる? 用意するけど」
「んー。朝になったら何か食べるわ。夜に食べると太るわよ」
 神綺がアリスのおなかのあたりをぷにぷにとつついた。ヒャっと小さく悲鳴をあげてアリスが非難がましく神綺を睨む。
 しかし因果なものだ。私もよくアリスに頬をつつかれるので、このような馴れ合いはアリスの家の特色なのだろう。
 家といえば一つ疑問がある。マーガトロイドというのがアリスの名字であるとするならば、母親の名前は正確には神綺・マーガトロイドということになるのだろうか。なにか違和感を覚える。もしかするとマーガトロイドというのはミドルネームで、名字はいまだ明かされていないということもありえる。いずれにしろ、仕事に関係がない限り、先も言ったとおり個人の情報を得ようとは思わない。この世知辛い世の中で、知りすぎることは罪なのだ。
 私が神綺のお守りを適当にやっているさなか、アリスは自分の手足を使ってお茶を入れていた。いつもなら私たちに依頼するところだが、対象が母親だから自分でしたくなったのだろう。
 いま、アリスは背中を向けた状態だ。
 その状態でもあからさまに怒っていることがわかる。なぜ怒っているのか彼女自身も完全には説明がつかないのではないだろうか。おそらく、なにかしら自由が侵害されたと感じている部分があって、そういう部分とともに母親に甘えたいと思う部分もあり、両義的な感情がせめぎあっている状態だろう。
 すべて私の推測にすぎないが、普段クールなアリスにしては、明らかな動揺がある。
 不意に神綺がぽんぽんと毛布を叩いて優しげな声をだした。
「アリスちゃん。ひさしぶりにいっしょに寝ようか」
「お母さんは床で寝てください」
「久しぶりに来た母親に対して、そんな冷たいこと言うのね」
「ああもう。じゃあ、私が床で寝るから」
「いっしょのベッドで寝ましょうよ」
「……いやよ。恥ずかしい」
「そういえば、アリスちゃんは一番の恥ずかしがりやさんだったわね」
 神綺が懐かしそうに空中へと視線をやった。
 視線の先にあるのは過去の思い出だろうか。私の凄絶な過去に比べるとずいぶん甘い記憶のようで、神綺の目元は柔らかくなった。
「夢子ちゃんやサラちゃんたちが一緒に寝るって言い出したときも、アリスちゃんだけは恥ずかしがって一緒に寝ようとはしなかったわ」
「そんなことあったかしら……」
「それで、しかたがないからそのまま寝ようとすると、アリスちゃんがいきなり泣き出しちゃって困ったわ。一番寂しがりやなのもアリスちゃんだったのよね。あーかわいかったわぁ」
「やめてよ恥ずかしい」
 アリスは熟れすぎたトマトのように顔を紅く染めていた。透き通るような白い肌にはよく映える。
「いまでもかわいいわよ。もちろん」
「私も少しは成長しましたから」
「わかってるわかってる」
「もう。お母さんはいつまでも私を子ども扱いするんだから」
 ガチャンと少し乱暴にテーブルの上にティーカップを置く。神綺は両の手でそのティーカップを優しく包みこんだ。
「久しぶりに顔をあわせたのよ。アリスちゃんのことをいろいろとかわいがりたくなるのも当然でしょう」
「そうやってからかうから嫌なのよ」
「からかってないわ。こんなに愛してるのに」
「しれっと恥ずかしいことを言う……」
「ともかく、今日はアリスちゃんと一緒に寝るわ。ね? いいでしょう。お願いよ。お母さんの一生のお願い」
「嫌って言ってもどうせ無理やり寝るつもりなんでしょう」
「さすがアリスちゃん。もし断られたら、アリスちゃんが寝てるうちにこっそり添い寝しようと思ってたわ」
「わかったわ。今日だけよ。お母さん」
「やったー♪ アリスちゃん大好き」
 それで、神綺は新婚初夜の新婦のようにそわそわとしながらベッドにダイブした。
 そして、あっちへごろごろこっちへごろごろとまるで容赦を知らない猫のように動く。アリスもわりと猫度が高いと思われるが、神綺の場合はまるで子猫の動きだった。
「お母さん。せめて自重してください」
「やーね。久しぶりに親娘いっしょに寝れるのよ。こんなに嬉しいことは数千日ぶりなのに、自重するほうがおかしいでしょ」
「はしゃぎすぎです。お母さん」
「うふふ。おいでー。アリスちゃん早くおいでー」
「はぁ……。どうしてお母さんってこんななんだろう」
『親に愛されることは幸運なことだ。覚えておくといい』
 アリスがあまりにも嫌そうな顔をするので、つい声をあげてしまった。
「あらあら。いいこと言うわね。蓬莱ちゃん」
『言ってることがわかるのか?』
「もちろんよ」
『それはよかった。じゃあ、一つ言っておく。寝ている最中にアリスには手を出さないことだな』
「どうしてどうして」神綺が好奇心を刺激されたのか聞いてくる。「もしかしてアリスちゃんのことが好きなのね?」
『勘違いしないでもらおうか。アリスと私はビジネスの関係だ』
「面白い子ね。蓬莱ちゃんは」
 私と神綺が丁々発止とやりやってるのを見て、アリスは不思議そうな顔をしている。アリスは私の言葉をさほど理解していないのだ。そもそも他人に関して無関係であろうとするのが原因かもしれないが、私もそうなので発信するほうが悪いのかもしれない。コミュニケーションの不具合は結局は発信か受信かいずれかの問題に帰着する。だが特に問題とも感じていない。完全な意思の伝達がなくてもいままで仕事上の支障は無かったからだ。それにあまり雇用主に対して情が移りすぎるのも危険だった。信じていた女から裏切られることはこの業界ではよくあることだ。つい最近アニメで見た紅い服を着た泥棒も色気がたちのぼるような女によく騙されていた。
「どうしたのお母さん。蓬莱が何か言ってるの?」
「蓬莱ちゃんは、アリスちゃんが大好きだから一緒に寝たいんですって」
 困った女だ。
 私は紙巻を取り出し口にくわえ、窓の方へと視線をやった。
 真実はいつだって捏造される。紙のように存在感の薄い私であればなおさらだ。
 アリスは特に疑問に思うこともなく、神綺の言葉を額面どおり受け取ったようだ。
「蓬莱が一緒に寝たいって言ってるの? この子は人形のなかでも一番のあまえんぼさんだからしょうがないわね。でも、そうすると困ったことがひとつ」
「なーに?」
「他の人形たちと不平等になっちゃうじゃない。そうすると、みんなでいっしょに寝なくちゃいけなくなって、さすがにスペース的に厳しいわ」
「あらあら……、アリスちゃんも私と同じ苦労を体験しているのね」
 そう言って、神綺は子どもっぽく笑った。
「お母さんはみんながいっしょに寝たいって言ったときにどうしたの?」
「覚えてないの? 確か日替わりで割り振ったわ。みんなが公平になるようにね」
「そっか。それでも暑苦しかったでしょ。子どもが何人もいっしょに寝るなんて」
「幸せいっぱい」
「あっそ……」
 アリスは少しだけ顔を下に向けてから、なんでもないふうにティーカップを手に取り、キッチンの方へと持っていった。
 私は神綺のそでを引っ張った。
「ん。どうしたの蓬莱ちゃん」
『アリスは恥ずかしいという理由だけで他人の好意を拒むような娘ではない。気づいているかもしれないが――』
「そうね。たぶんアリスちゃんは私が迷惑すると思って、一緒に寝ないって言ったんでしょうね。でもそれは二人の秘密にしましょう」
『なぜ秘密にする必要がある? 子どもの好意に気づいていることをアピールしたほうがいいのではないか』
「秘密にしていたほうが趣きがあるじゃない」
『いいだろう。ただその代わりといってはなんだが、私の意思を捏造することはやめてもらおうか』
「あら、捏造なんてしてないわ。蓬莱ちゃんはアリスちゃんといっしょに寝たいと思ってるんじゃないの?」
『それについては、特に問題には感じていないだけだ。ただアリスへの意思伝達は私自身がおこなう。たとえ完全ではなくても、他人に干渉されるよりはマシだ』
「なるほど。気持ちは自分で伝えたいというわけね」
『そう考えてもらって問題ない』
「いい子ね」
 神綺は私を抱きしめてグリグリした。すでにこれで十回以上はギュッとされている。私の身体に配慮した絶妙な圧力だったので、私は黙っていた。その気になればおそらく一本の指でも彼女には破壊されてしまうだろう。実力差は言うまでもない。だからと言って私もされるがままというわけではないのだ。請負人は精神的に誰かに屈するということはない。
 それから、アリスと神綺と私はベッドをともにした。
 少し狭いのはいたしかたないところだろう。私の質量はそれほど大きくないので、ちょうど二人に挟まれる形になった。他の同業者としてストローも呼ばれた。ストローはいつものように無言のままこくりと頷いただけだった。その後の予定としては毎日二体ずつ一緒に寝ることにしたらしい。一巡するまでは続くだろう。まったくもって節度のない娘だと思う。
「ストローちゃんは無口ね。恥ずかしいのかしら」
 神綺がストローを抱き寄せる。ストローは嫌そうな顔ひとつしない。もともと無表情で、何を考えているかわからないところがある。
「ストローはあまりしゃべらないわよ」
「笑ってほしいわ。藁だけに」
「お母さん。さすがにそれは神様失格レベルのギャグ……」
 アリスが呆れ気味な声を出したとほぼ同時に、
『変数、笑うという行為が、よくわかりません』
 突然、ストローが途切れ途切れの消え入りそうな声を出した。非常に珍しい。驚くべきことだ。アリスも驚いている。ひとり神綺だけは柔らかな微笑みを崩さなかった。
「ストローちゃんは奥手みたいね。恥ずかしがりやのアリスちゃんのお人形さんだから当然かしらね」
 そう言って、ストローの身体を少しもちあげるようにして、視線を合わせる。
「ごめんなさいね。デリカシーのないこと言っちゃった。ストローちゃんは無理して会話しようとしなくていいし、無理して笑顔にならなくていいの。そんなことはしなくても、アリスちゃんはちゃんとストローちゃんのことを大事に思ってくれるから大丈夫よ」
「お母さんは私を恥ずかしさで殺す気ね。あー、嫌な汗がでてきちゃった」
 ストローは小さく首を振った。
『私はアリスに大事にされていると認識しています。しかし、アリスに対して私は有効なコミュニケーションツールを持ちません。通信規格の違いを、変数哀しいに該当すると判断します』
「好きって言いたいのに言えないのが哀しいの?」
『七割肯定します』
 確かにアリスは完全には人形の言葉を理解していない。逐一解析すればわかるのだろうが、理解の速度が足りないゆえにであると考えている。吐き出される情報が二進法で書かれた数列であるとしてそれを日本語に変換するのには時間がかかるというのと同じ理由で、私たちの会話も日常の時間において人間の言語に変換するのにはあまりにも時間が足りないということなのである。
 それが人形のプロトコル。ゼロとイチで構成された言語だ。
「お母さんは人形の言葉がわかるのね。私も時間をかければわかるのだけど、リアルタイムで会話するのはかなり難しいわ。ちょっと悔しい」
「母親であるからという理由で、子どものことを全部わかる必要はないわよ。わかってあげようとする気持ちは大事だけど。全部理解できると考えるほうが傲慢なのかもしれないわね」
「でも人形たちがSOSをだしているのに気づかなかったらと思うと怖いわ」
「それは母親はみんな感じていることよ。私だってアリスちゃんが魔界をでていくって行ったときに本当にそれでよいのかずいぶん悩んだわ。それでも結局アリスちゃんの意思を尊重したの。大丈夫、アリスちゃんならきちんと受け取れるわ」
 神綺は腕を伸ばして、アリスの頭を撫でた。アリスはくすぐったそうに目を閉じる。
 それから、神綺は腕の中にいたストローをアリスの胸元のほうへとそっと送り出した。私はしかたがないので、神綺のほうへと移動することにする。ストローはあいかわらず無表情だったが、ほんの少しだけ表情が柔らかくなったように感じた。
 いや――、それはあまりにも感傷的な表現だ。


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 夜が明けた。
「ゆうべはお楽しみでしたね」
 起きぬけに神綺がいまいちよくわからないことを言った。
「お母さんのギャグはいちいち古いのよ」
 アリスは呆れ気味にツッコミをいれている。どうやらアリスには伝わる話だったらしい。わからなくても特に問題はないと判断して、私はもぞもぞとベッドの中から飛び出した。
「さてさて、今日はどうしましょうかね。アリスちゃんの生活を見るのもいいけど……、たまにはアリスちゃんといっしょにイレギュラーなことをしたいなー」
「もう帰ったら?」
「そんなに私がいるのが嫌なのぉ?」
「生活を乱されるのが嫌なのよ。お母さんが嫌いなわけじゃないわ」
「しかたないわね。じゃあ少し周りの散策でもしてこようかしら」
「どこに行くつもりよ。お母さんほどの存在が周りに出かけていったら迷惑するでしょ」
 アリスの言葉は正しいと感じた。おそらく有象無象の妖怪たちにとっては、神綺がいるというだけでとてつもないプレッシャーを感じてしまうだろう。人当たりの良さがあるので、考えの足りない妖精たちなら騙されるかもしれないが……。
「大丈夫よ。ちょっとアリスちゃんのお友達のところに挨拶しに行くだけだから」
「もしかして霊夢や魔理沙のところに行くつもり!? やめてよ」
 いきなり親が友人の家に押しかけていくという想像にアリスの顔が蒼白になった。
「恥ずかしいの?」
「恥ずかしいに決まってるでしょ。最悪よ」
「でも、お母さんはあまりこっちにはこれないから、アリスちゃんのお友達によろしくしないと心配なのよー」
「私は大丈夫です! ひとりでちゃんと生活できますから」
「あら友達は多いほうがいいわよ。アリスちゃんは恥ずかしがりやさんだから、特にお友達が必要なの」
「友人の数で生活スキルが決まるわけじゃないでしょ。私にとってはそれほど友人はいらないのよ」
「そういう考え方自体が心配なのよ。ひとりで生きていくのはとても困難なことだから」
「私はそうは思わない。だって、ここでひとりで暮らしていけてるもの」
「ふぅ。困った子ね」
 神綺は肩をすくめてやれやれといった表情になる。アリスは金魚のように口をパクパクさせていた。よっぽど頭にきたらしい。
「もう、いい加減にして。夢子姉さんを呼ぶわよ」
「あ、だめ。それだけはだめよ。夢子ちゃんには内緒で来たから絶対に怒られちゃう」
「なら一刻も早く帰ってください」
「せめてあと数日はこっちに居たいわ。気をコントロールして戦闘力は抑えるから、こっちを少し散歩させて。ね?」
「戦闘力って……まぁ、散歩だけなら、私に止める理由はないけど」
「じゃ、でかけてくるわ。ここらのことはよくわからないから、ついふらふらとアリスちゃんのお友達のところに行ってしまっても事故だからね」
「お母さんは本当に自由人なんだから……。いっそのこといっしょに行ったほうがいいのかしら。それとも人形たちについていってもらおうかしら」
『私はアリスのそばにいるつもりだ』
「私のそばにいたいの?」
『アリスの護衛は私の仕事でもあるから当然だ。それに神綺に護衛は必要ない』
「やっぱり蓬莱が一番あまえんぼさんね」
『一度や二度、ベッドをともにしたぐらいで、勘違いしないでもらおうか』
 なれなれしい女である。ベッドには昨日の夜の体温がいまだ残っていたが、それとは裏腹に私の頭脳は冴え渡っていた。
 アリスの袖をつかんで、神綺のほうを指差す。
 どうせならお別れの挨拶でもしてやったらどうだ?
 その程度の軽い意味だったのだが、アリスは私のボディランゲージをまったく違う意味で捉えたらしい。
「わかったわ。それじゃあ、私もいっしょに行く」
 アリスは半ば諦め気味な声をだした。投げやりになるのは、えてして若い証拠でもある。鍛え抜かれた老兵ほど慎重だ。
 一方で神綺のほうはマイペースにアホ毛を揺らしている。
「親娘水入らずで散歩できるなんて、お母さん嬉しいわ。超嬉しいって感じぃ?」
「今日は調合するつもりだったのに」
「そんなの明日すればいいじゃない。短い滞在期間なんだから、お母さんといっしょに遊びましょう」
「母親と遊ぶほど子どもじゃないわ」
 そうは言っても、前言を撤回するというほどではない。アリスは外に行くための用意をしはじめた。私もぜひともつれていってもらうつもりだ。普通、外にでかける場合はアリスが数体の人形をランダムに選ぶことになっている。しかし今日は神綺というイレギュラーな存在がいるため、アリスの身に危険が及ぶことも考えられた。
 親娘どうしでまさかとは思うが、それだけ巨大な存在が近くにいれば巻き込まれることもある。また、親子どうしで仁義なき闘いをしていたSF映画を私は見たことがある。光る棒みたいなもので闘っていた。
「蓬莱ちゃんはアリスちゃんといっしょがいいみたいね」
「そうね。まぁ、この子は基本私にべったりだけど」
 人に媚を売るつもりはないが、私の研ぎ澄まされた生存本能が結果として媚を売っているように見えることもあるだろう。
 だとしてもそれはすべて誤解に過ぎない。アリスにわかってもらうつもりもない。雇用主が私を溺愛してようとも冷淡に接しようとも、私は私の仕事を機械的にこなすだけだ。
 アリスが創ってくれた私専用の外用帽子をかぶり、私は紙巻を口にくわえていつでも飛び出せるように準備を整える。
 ストローはあいもかわらず感情を感じさせない澄んだ目をしていた。
『いっしょに行くつもりか?』
『留保』
『迷っているのか?』
『十割肯定します』
 ストローの心境はよくわからない。人形は多かれ少なかれアリスの孤独を分化したかたちで引き受けている。その表れた方には違いがあるもののストローの場合のそれは、一言で言えば沈黙である。つまり、人形のなかで一番口下手なのがストローなのだ。したがって、同業者であってもストローの心情を理解するのには時間がかかる。
『どうして迷っている?』
 私はガラにもなく再度聞いた。
『私は呪い人形と等号で結ばれますから』
『いや、それは私もだが』
 声の中に困惑を混ぜた。
 そういうアクセントをつけないとストローは次の言葉を発することはない。CDラジカセと話していたほうがまだ和気藹々とした気分に浸れるだろう。
 これでも今日は多弁なほうである。
『呪われた人形と呪うための人形は不等号で結ばれます。あなたは呪いをアクセサリーとして足した人形です。私はベクトルが異なります。呪うための人形、誰かを攻撃するための人形です。等号、特攻するために創られています。等号、使い捨てなのです』
『だからどうした?』
 どうでもいいことだが、アリスに首を吊れと言われるのは私ぐらいだ。
 特攻する程度、どうということもない。
『誰もが好きで誰かを呪うことはありません。封印すべき忌み嫌われた感情です。それを代入したのが私であるとするならば、私はゼロであることにこそ価値があります』
『役割の違いで好き嫌いがわかれるわけもない。じゃんけんのパーとグーの違い程度の意味しかないだろう』私は薄く笑った。『それにその役割は絶対ではない。アリスと顔をあわせるのが気まずいというのなら、手始めに神綺の護衛でもしてみたらどうだ』
『六割肯定します……』
 脈絡から考えるに、しぶしぶ付き従うという感じだろうか。
 個人的には神綺に護衛は必要ないと思われるが、客人を護らないわけにもいかないだろう。ストローには言ってしまえばどうでもいい護衛対象を護らせて、私は確実に護らなくてはならないアリスを護衛するつもりだ。酷薄であると思われるかもしれないが、そんな感情論にはなんの意味もない。


 ---・- -・-・・ ---・- -・-・・ ---・- -・-・・ ---・- -・-・・ ---・- -・-・・ ---・- -・-・・


 神綺の足取りは羽のように軽い。
 アリスは子どもがフラフラとどこかへ行ってしまうのを心配する母親のような顔をしていた。
 まったくどちらが子どもかわからない。
 天衣無縫の神綺を御することなど叶わないはずであるが、アリスとしてはともかく誰かに会いたくなかったらしい。
 森の中だと魔理沙に会う可能性があるので、湖の方へと足を進めていた。そこには妖精が沢山すんではいるものの、妖精たちの記憶能力は概してすぐに蒸発する程度であるし、神綺の実力もよくわからないと思ったのだろう。さりげない誘導であるが、神綺はわかっているのか、太陽のような微笑を浮かべている。
「アリスちゃんとおでかけおでかけ」
「こんなところを文屋とかに見つかったら、一面記事まちがいなしね」
 アリスは盛大なためいきをつく。
 子の心、親知らず。
 神綺はさりげない動作で、アリスの手をとろうとする。
 しかし、私はその前に動いていた。いくら実力があろうとも動きを読めれば対処のしようはある。
 私は名の知れた格闘家のように、神綺の手のひらに降り立っていた。
『雇用主に近づきすぎるな。排除しなければならなくなる……』
「うー。でもアリスちゃんと私は親娘なのよ。手ぐらいつないでもいいでしょ」
『アリスが承諾すれば、いいだろう』
「アリスちゃんは私と手をつなぎたいわよね」
「い、いやよ。そんなこと」
「アリスちゃ~ん」
 神綺は瞳の中に涙をたくさん浮かべていた。アリスは頭に手を抱えて、逡巡すること約五秒。
「わかったわよ」
 ほとんど怒るようにして、神綺の手をとる。
「うふふー。アリスちゃんと手をつないじゃった」
「いちいち当たり前のことを報告するように言わない」
「いつのまにかこんなに大きくなったのね」
 アリスの手の大きさを自分の手で確かめるように握っていた。
 アリスの顔は熟れたトマトそのもの。いつでも出荷できそうなぐらいだ。
 湖にはたっぷり三十分ほどかかって到着した。
 もちろん徒歩である。飛翔して行くほうが短時間ですんだのだろうが、空を飛べば誰かの目にとまりやすいし、神綺の言うところの気のコントロールなるものも難しいということなのだろう。確かに六枚羽をはやしたアホ毛の少女が高速で移動する様など、考えただけでもぞっとしない。
 湖の近くには妖精たちが水面ギリギリを飛んでいた。質量は私と同程度。人間の腕のなかにすっぽりおさまるサイズで、抱き心地はなかなかのものらしい。妖精は大自然の化身であるから、妖精がたくさんいるということは自然が豊かである証拠でもある。
 水面には太陽の光が乱反射し、光の絨毯のように輝いている。
 光と戯れるように妖精たちが乱舞している。勝手気ままに飛んでいるように見えて、こちらのほうをチラリチラリと窺っているようだ。
 それも当然だろう。妖精は基本的には人見知りする。
 アリスは妖精たちのことを気にすることもなく、その場で花柄模様のビニールシートを広げた。
「ここらでいいんじゃない?」
「ここにはよく来るの?」
 神綺が興味深そうに聞いた。
「いいえ。用がなければでかけないわ」
「アリスちゃんは人見知りするタイプだからね」
「用事がないだけよ」
「用事がなければ来ないというのも哀しい話ね。アリスちゃんはもっと積極的にいろいろとしてみてもいいかもしれないわね」
「人形創りは積極的にやってる」
「それだけじゃなくて、ほら、いろいろとしたほうがいいんじゃない?」
「能力と時間はそれなりに考えて割り振ってるわよ」
「んー……でもね、無駄な時間もあったほうがいいんじゃないかなって」
「それも考えてるってば」
「ならいいんだけど」
 神綺はわずかに顔を曇らせる。基本的には陽気な性格のようだが、アリスのことになると心配性である。
 ただ、そうはいっても、自分で自分の性格をコントロールする術ぐらいは心得ているようで、顔つきからすぐに暗さを消した。
 神綺は立ち上がって、湖の方にゆったりとしたスピードで歩いている。ストローが後ろにしたがった。一応、私の忠言を聞き入れて、神綺の護衛をしているらしい。
 アリスと私はその場で待機。アリスが動かない以上、私も動く必要はない。
 幸いにも視界は開けているので、神綺が迷子になるといった事態は起こりえないだろう。
 神綺はふわふわと水面を浮かび、笑顔で妖精たちに近づいていった。妖精たちははじめは警戒していた。しかし、そこは神綺の天然っぷりとのほほんとした気質ゆえか、すぐに警戒を解いて、いっしょに遊びだした。ストローは反応が鈍く、うろうろとしているのみである。
 神綺と妖精たちはすぐにお決まりの――弾幕ごっこに興じ始める。
「お母さん。弾幕ごっこ自体は知っているみたいだけど、大丈夫かしら。力の加減とかちゃんとできるのかしら」
『気のコントロールはできるそうじゃないか』
 私はニヒルな笑いを浮かべた。
 ただし――というべきか。
 どうも外面上はニッコリ笑っているようにしか見えないようで、アリスは私の頭をすぐに撫ではじめた。
「そうね。お母さんは偉大な魔界の神様だもんね。その程度の力の強弱ぐらいつけられるわよね。それに、妖精は原則的には死なないわけだし」
『そういえば、そうだったな』
 アリスが言うように、妖精は原則的には死なない。
 というより、厳密には死なないと言うほうが正確だろうか。
 彼女達は自然の化身そのものであるから母体である自然が破壊されない限り、あっというまに再生する。個体差はあるものの、場合によっては一瞬(コンマ数秒程度)で、遅くても三日足らずで元に戻るといわれている。私が確認できた情報ではその程度の幅であるが、どこまでが信頼できる情報であるかは疑わしいともいえるだろう。なにしろ妖精が復活するポイントはバラバラであるから確認をとるのは非常に難しい。つまり、どことも知れない場所にまた自然発生するのだ。あえて確認をとる方法があるとするならば、死んだ妖精に話を聞くことであろう。
 ともあれ、はっきりしていることは、妖精の死は連続性を保ったままであるから、例えば、記憶や能力といったものも引き継いだまま復活するということである。
 外部的に見れば、これはもうほとんど死んでいるように見えないということで――
 ゆえに妖精は不死であるといった表現がなされることもあるのだ。
 神綺は楽しそうに妖精たちと戯れていた。
 弾幕ごっこのルールに従って、アホ毛を揺らしながら、六枚の光る羽を展開しながら、それなりの密度の弾幕を撃っている。
 妖精たちが避けやすいように、どうやらイージーモードらしい。
「お母さんもずいぶんと丸くなったものだわ。本来ならあれの数百倍ぐらいは撃てるもの。でも、霊夢ならともかく、妖精風情ではあれでも避けられない子がいるようね」
『そのようだな』
 私は紙巻を口にくわえながら、確認する。
 避けるだけの時間と能力はあるはずだが、妖精たちは被弾することも楽しいことの一つだと思っているのか、
 ぴちゅーん。
 というお決まりの効果音とともに、まっすぐで避けやすいレーザーに被弾した妖精たちもいた。
 その場で復活する場合とそうでない場合があるようだが、すぐに湖へと戻ってきて「一回休み喰らっちゃったー」などと軽口を叩いている。死んでも復活が担保されているからお気楽なものだ。言うまでもないことだが、人形には一回休みなどというものは存在しない。壊れれば、それまでである。悪くはない。そういったシビアさが私の魂を研ぎ澄ますのだ。
 二十分ほど経って、神綺が息ひとつ乱さずにこちらに帰ってきた。妖精たちももちろんひきつれてきている。
 アリスは来るものを拒む性格ではないから、そのまま黙って、家から持ってきた紅茶を魔法瓶からカップに注いで飲み始めた。
 神綺は腰のあたりにまとわりついていた手のひらサイズの妖精の頭を撫でている。
「仲良くなっちゃった」
「そう、よかったわね」
「みんな、また私と遊んでね。それと、アリスちゃんともよかったら遊んでね」
「また勝手な……」
「だって、アリスちゃんはすぐ一人がいいって言うんだもの」
「実際にそう思ってるんだからしかたないでしょう。私の性格。私の魂の在り方なのよ」
「私はアリスちゃんが心配なの。魔界では姉妹が多かったからよかったけど、ここは誰も護ってくれる人がいないから」
『請負人の存在を忘れてもらっては困るな』
 私は口を挟んだ。報酬を貰うためには少し存在をアピールしていたほうがいいと思ったからだ。
「そうね。この子たちがいるのはわかるのだけど、でも、もう少し外にも目を向けて欲しいのよ」
「私はちゃんと自分で考えて、いままでだってちゃんとやれてるじゃない。お母さんは黙っててよ!」
 アリスにしては珍しく、大きな声をだした。
 紅茶のカップは手のひらから零れ落ちて、ビニールシートを少し濡らした。
 妖精たちも脅えてすぐに霧散してしまう。
「ごめんなさいね。無神経すぎたわ……」
 神綺がしおらしい声をだした。
 アリスは当初の怒りはいまだ残存していたが、どうも罪悪感も顔をもたげはじめたらしい。
 哀しい顔になる。
 お互いにチグハグなコミュニケーションをしているようだ。同じ通信規格であるはずなのに、言葉の多義性と非対称性がベルリンの壁よりも高くそびえたっている。
 その日は結局、アリスと神綺は一言も口を開かないまま家路についた。
 ストローも無言であったので、アリスファミリーは私も含め、完全に沈黙状態である。


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 次の日。
 あいかわらず、アリスと神綺はぎくしゃくしていた。
 アリスは神綺を追い出すほどではないものの、仲直りのきっかけがつかめない状況らしい。
 神綺のほうも、昨日のことがこたえたのか、持ち前の朗らかさをうまく発揮できず遠慮がちに話しかけている。
 アリスは椅子に座り、ちまちまと同業者の作業着を縫っていたが、それは一種の拒絶のかたちに思われた。
 家の中は陽気で歪んだ視界のほかは、沈黙が支配している。ストローが自主的に引き上げ式の小さな窓を開けて、少し空気が入れ替わった。
 それが契機になった。
「それじゃあ。今日もどこかにでかけようかしら」
 ついに沈黙に耐え切れなくなった神綺が言った。アリスは机に座ったまま、視線だけをあげて神綺を見た。
「どこへ行くつもり?」
「博麗神社にでも行くつもりよ。でも安心して。アリスちゃんのことは特に触れないでおくからね」
「べつに気にしてないわ。お母さんの好きにすればいいじゃない」
 好きにすればいいと言いながら、言葉の中には薔薇のような棘が含まれている。
 そう言われてしまっては、神綺のほうもどうしようもなく、哀しそうな顔をしながら出かけていった。
 出かける直前にストローがついていくように進言したが、神綺はそれを押しとどめた。
「ストローちゃんはアリスちゃんについていてあげてね」
『このままでいいのか?』
 私も声をかけた。神綺は首を振るが、ただそれだけだった。
 親娘どうしでもままならないとは、世知辛い世の中だ。

 そんなアリスと神綺の親娘喧嘩とは別に、水面下では事件が進行しつつあった。

 それは一種の必然であったのだろう。神綺が神であるとすれば、神の悲しみはいったい何に相当するのか。
 考えてみれば解る話である。
 風が鳴っていた。
 いや、風が泣いていた。
 嵐の前触れである。やや季節外れの天候にアリスは空を見上げて不安げな表情になっている。上海がいつもの意趣返しのつもりか、アリスの頭のあたりを飛翔しつつ、人形の手で軽く頭を撫でていた。完璧な『いいこいいこ』である。
 上海の行動にアリスはふっと笑い、
「お母さん大丈夫かしら」
 と、いつもどおりの素直な声を出した。
『心配なら使いをだしたらどうだ?』
 と、私は言った。
「だめよ。あなたたちが嵐に巻き込まれたどうなるかわからないわ」
『防水加工しているだろうに』
「嵐の中を飛行するなんて、そんな愚かな行為をしてはだめ」アリスは本日何度目かの長いため息をついた。「はぁ。お母さんも神様ならこの程度のアクシデントぐらい見抜いてほしいのだけど」
『それこそ見抜いているだろう。そのうえで博麗神社に留まることを選んでいるのではないか』
「そうね。そっちが安全なら、それでもいいけど……」
 煮えきれない態度だ。
 要するにはアリスも神綺の子どもらしく、母親を精一杯心配しているということなのだろう。
 いよいよ風が強くなってきている。風がごぉとうなり声をあげている。天頂あたりの空は魔女の巻き髪のような黒い雲がとぐろを巻いていた。雨が降り始めれば、移動は困難を極めることになるだろう。
 ここから博麗神社までの距離は、全速力で飛行すれば約三十分といったところだが、途中で雨が降ってくれば最悪である。
 決断する時間はもうほとんど残されていないといってもいいだろう。
 ぽつり、ぽつりと雨音がし始める。
 私は小さく舌打ちした。どうやらタイムアップらしい。これからますます雨足は強くなるだろう。人形の身では家の中にじっとしているほかない。
「お母さんはお母さんでなんとかするでしょ……」
 アリスの声にはいつものような張りがなかった。
 二十分ほど経過すると、いよいよ雨がひどくなってきた。雨音が耳朶をうち、人形どうしのささやくような声も近くでなければ聞こえない。テーブルの上では、上海や倫敦その他数名の同業者たちが、ゴム輪を並べて、ケンケンパをしていた。一見すると楽しそうな遊びに見えるが、あれはれっきとした修練のひとつだ。
 集中力と跳躍力それと判断力を養う。それと同業者どうしの連体感をも生み出す。
 私も修練に参加するべきか、少し考えたが、今日はいまいち気乗りしない。
 私の理性はやるべきことを推奨している。
 同業者どうしの連帯感や家族の団欒などというものは幻想であるとはいえ、自分の生存確率を高めるためには無視することはできない。しかし気にかかることがある。
 最も危惧すべきは神綺のことである。
『アリスには素直さが足りない。頑固なところが似たのは上海だろうな……』
『聞こえてるわよ。蓬莱』
 上海がにらみつけてくる。
 やれやれ、女はいつも地獄耳らしい。私は肩をすくめてその場を立ち去るしかなかった。

 私がロフトに向かうと、そこにはストローがいた。
 ストローはぼーっとした表情で窓の外を見ていた。彼女はなにを考えているかわからないところがあるが、あえて推測するなら、私が護衛対象として指定した神綺の身を案じているのだろう。口下手ではあるが、彼女は私と違って酷薄ではない。
『神綺のことが気になるのか?』
『神綺は等号、アリスの母親です。母親である神綺はいま、アリスを心配しているのでしょうか』
『心配しているだろうな』
 少なくとも普通の母親であれば、心配するだろう。
『逆説、アリスと神綺は親娘であるのに仲違いをしました』
『だからどうした?』私は軽い口調で言った。『喧嘩ぐらい誰だってするだろう。親子で殺し合いをすることもこの世界では珍しいことではない』
『変数、不安に該当すると判断します』
『なるほど。アリスが我々を見捨てる可能性を恐れているのだな』
 あえて我々という言葉を使った。ストローと会話を続けるには、彼女のひ弱な心を鼓舞してやらねばならない。
『九割肯定します』
『考えてもしかたのないことだ。他人の心をいくら変えようとしても不可能なこともある。特にアリスの場合は、あまり人の言うことを聞かないところがあるからな』
『蓬莱は不安にならないのですか』
『不安で殺されることも多い。まずは自分を完璧に制御することだ』
『あなたはどうしてそこまで強くなれたのですか?』
『請負人としての役割がそうさせる』
『請負人とは、等号、アリスの人形ということですか?』
『そうではない。生まれたときはアリスの人形であったかもしれない。しかし、私は私の意志で請負人になったのだ。もう生存期間の半分以上続けている』
『あなたの強さを私にください』
『それは誰かに与えられるたぐいのものではないだろう』
 紙巻から口を離し、私はそっとその場をあとにする。私は教師ではない。ただの孤独な請負人に過ぎないのだ。だから教えることなど何一つなかった。ただ、自分の体験を素直に告白することぐらいしかできなかったのだ。
 それがストローの役に立ったかはわからない。しかし私がストローにできることは終わったように思える。
 私が所在なくベッドルームで身体を休めていると、突然、アリスの家の呼び鈴が鳴った。
 テーブルの上に突っ伏していたアリスは水をかけられた猫のように飛び上がった。
「まさか。お母さんかしら」
 アリスの言葉とほぼ同時に、私は家のドアに向かって飛翔した。さすがにドアを開ける勇気はない。アリスが判断するまで私はそばで待機する。
 アリスはそわそわした動きで、ドアの前まで歩いた。
「だれ?」
「私だー。魔理沙だー。いれてくれー!」
 怒号のような声が、雨音にまぎれて聞こえてくる。
 アリスは驚いていたようだが、すぐに扉を開けた。雨が侵入してくる前にすぐに閉める。
 しかし、びしょ濡れな魔理沙が部屋の中に入れば、必然的に床は濡れてしまう。
「誰でもいいから、タオル持ってきて」
『そう言うと思って、用意してきた』
「ん。蓬莱。ありがとう」
 ベッドルームの衣装棚にはタオルが常備されているのだ。私がいちはやくタオルを持ってこれたのはただの偶然にすぎない。
「いやー。きのこ採ってたらいきなり大降りになってくるとは思わなかったぜ」
 魔理沙はタオルでがしゅがしゅと髪を拭きながら、陽気に笑った。
 アリスは心配そうである。
「バカね。天候を読むのは魔法の基本でしょ」
「珍しいものが手に入ってな。ついつい夢中になってたから気づかなかったんだよ」
「本当に無鉄砲ね」
「勇気があると言ってくれ」
「ただの蛮勇よ。くだらない」
 アリスは上海が持ってきたタオルを手にとって、まだ濡れていた魔理沙の後ろ髪を拭き始めた。
「服も着替えたほうがいいわね。私の服でよければ貸すけど」
「おー、助かるぜ。どうせアリスのことだからやたらお洒落な服しかないんだろうけど、それで我慢してやるぜ」
「好き勝手言ってくれるわね」
 アリスは少し怒ったふりをする。
 魔理沙が来たことでどうやらいつもの調子を取り戻したらしい。私の危機感めいたものも薄らいでいくのを感じた。アリスに友人がいるというのはれっきとした事実であり、神綺の心配はやはり杞憂であると思えるからだ。もちろん神綺が言うことにも一理あるのだが、性急になんとかしなければならない問題とまでは言えないだろう。
 魔理沙はアリスの普段着をいたずら兎のような顔つきで着ていた。このような機会でもないかぎり、アリスが他人に服を貸すような事態はないから、興味深く感じたのだろう。ちなみにドロワーズもびしょぬれだったので当然着替えた。
 アリスの場合は、いわゆる真っ白なショーツなので、それを手渡された魔理沙は、いままでと違う感覚にとまどいと、なんとも言いがたい快感を得たようである。
「中はぴっちぴち。外はぶっかぶかだな。うはー。気持ち悪いんだか気持ちいいんだかわからないぞ」
「しょうがないでしょ。魔理沙のほうがサイズ的に小さいんだし……。ちなみにショーツは返さなくていいわ。あげる」
「子ども扱いしているみたいな言い方だな」
「魔理沙のほうが子ども」
「アリスのほうが子どもっぽいところあるけどな」
「うるさい。嵐の中迎え入れてやった恩を忘れたの」
「おー、アリス様。ありがとうございます」
 魔理沙がまったく心のこもっていない声をだす。アリスはチェシャ猫のようにクスリと笑った。
「魔理沙らしいお礼の言い方」
「言っとくが、私がお礼を言うことはけっこう珍しいんだぜ」
「知ってる」
「それにしても、アリスの服はアリスの匂いがするなー。すんすん。なんかくせになる匂いだぜ」
 魔理沙がアリスの服の襟のあたりをかいだ。
 匂いがよくわからなかったのか、それとも満足できなかったのか、アリスの服の長めのスカートをあろうことかたぐりあげてまで匂いをかごうとしている。
「バカ。やめてよ。そんなにしたら裸にして嵐の中に放り出すわよ」
「あー、わかったよ。アリスは本当、自分本位で困るぜ」
 アリスの身体がぴくっと反応し、小さく気味の悪い笑いをこぼした。
「ウフフミマサマニカッチャッター」
「ぎゃー、やめろー。さとりよりも強烈な精神攻撃しやがって。十歳までシャンプーハット使わなきゃ髪洗えなかったくせに」
「魔界に来ちゃった(はぁと)とか言ってたくせに」
「魔術書の上げ底でも勝てなかったくせに生意気な」
「魔理沙が生意気なのは変わらずね」
「神綺ママに抱っこしてもらわなきゃ寝れないって聞いたぞ」
「誰によ」
「夢子だよ」
「嘘よ。むしろ抱っこされないと寝れないのは夢子姉さんよ」
「あの怪力メイドが、そんなまさか」
「本当よ。メイドなのはフェイク。実は甘えん坊将軍の異名があるわ」
「バカな。あんなに強かったのももしかして……」
「そうよ。夢子姉さんの神綺様に対する溢れる愛情が、怪力補正となっていたのよ。実は姉さんたちを押しのけて自分がメイド長になったのも神綺様の愛情を独り占めするため」
「そういえば、攻撃するたびに、これは神綺様の分、これは神綺様の分とか言ってたような気がするぜ」
「よく考えてもみなさいよ。ここは私に任せて、神綺様は下がっておいてください、なんて、どこの死亡フラグよ。すべて愛がなせる業よ」
「確かにそんな気がしてきたぜ。じゃあ、夢子は本当はアリスをも越えるマザコン……」
「そう。夢子姉さんこそが真のマザコン。マザコンの中のマザコンなのよ。私なんて夢子姉さんに比べれば一面中ボスとラスボスくらいマザコン力数に違いがあるわ」
「絶望的だな。ははは」
「そうね。うふふ……」
 それからアンニュイなためいき。
 アリスが突然首を振った。
「そろそろ、夢子姉さんのイメージが崩れるのが怖くなってきたわ。今のは無かったことにしましょう」
「おいおい。いきなり現実に帰るなよ。ノリ悪いなぁ。夢子がどうなのかは知らないが、おまえのマザコンっぷりは周知の事実だぜ」
「嘘ばっかり言って。神綺さまは創造神なのよ。そこらへんの人間と同じような親娘関係なわけないじゃない」
「本当にそうかぁ? あの神綺が母親なら誰だろうがマザコンになっちまうだろ。甘えてしまえばいいと思うぜ」
「面倒くさいだけよ」
 今朝のことが思い出されたのか、アリスの顔が暗くなった。
 今までの冗談を言うような雰囲気ではなくなったので、魔理沙はすぐに気づいたようだ。
「どうしたんだ? 変だぜ」
「その――、おか……神綺さまがいらっしゃったのよ」
「ここにか?」
「そう」
「へえ。よかったじゃないか。親娘水いらずで」
「でも。私を子ども扱いしてばかりで、なんだか私の一人暮らしも否定されているように感じちゃって、ついつい喧嘩しちゃった」
 なにげないふうを装ってはいる。しかし、いつものクールなアリスとはまったく違い、か弱い年相応の少女のように思われた。
「まぁ、その、なんだ。私が口を出すことじゃないかもしれないけど、早く仲直りしたほうがいいぜ」
 聞くところによると、魔理沙は親に勘当されたらしい。
 その魔理沙の言葉だけに重みがあった。
 アリスは、しばらく床の一点を見つめていたが、
「そうね……」
 と、鉛のように重たい口を開いた。


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 アリスと魔理沙は静かな時間を過ごしている。
 雨の音はあいかわらず激しい。
 雷雲から一筋の光が走り、雲間を怪しく照らし出している。
 そのたびに、
『キャーイクサーン』
 と、電波人形なオルレアンが何事か言っているが、私にはよくわからない話である。
 それにしても、この天候にはうんざりする。
 家の中は比較的安全とはいえ、かごのなかの鳥になった気分だ。
 ストローはあいかわらず窓の外を見ていた。他の人形と修練に励むこともなく一心に空を見つめている。
 藁人形とはいえ、見た目は同業者たちとそう変わらない。メランコリックな表情で外を見つめる少女の姿態は、詩的な感じのする一枚絵のようだった。
『雨がやむまでは沈黙しているしかないな』
『……』
 本当に沈黙で返してきた。
 これではコミュニケーション自体が破綻している。しかし、それもしょうがないだろう。嵐のせいで湿度が高まり、人形のひ弱な身体には少しばかり不快な状況になってきた。もういっそのこと雨に濡れたほうがマシだと思えるくらいだ。そんな自暴自棄的な精神的薄弱さを見せてしまうのも、ひとえにやることがないためである。
 雨の世界で人形ができることは限られている。
 それに、ここ幻想郷においては極端にコミュニケーションツールが不足しているから、ほんの少し物理的に遮断されただけで、すぐに連絡のとりようがなくなるのである。
 もっとも、アリスの家に常駐している私にとっては、それでもさほど問題はなかった。いま、神綺と連絡が取れないせいで、ロンドンの霧のように心が晴れないのは例外的事象なのである。
 ストローが不意に、その場から動いた。
 ストローもやることがなく暇なのだろう。魔理沙とアリスがゆったりと紅茶をたしなんでいるそばを、ふらふらとした浮き方で、ロフトの方へと飛んでいった。
 とくにいつもと変わらない幽霊のようなストローだったが、私は仕事上の勘からなにか変だと思い、あとをついていった。
 時間にしては、だいたい二秒ほど遅れたほどであったのだが――
 ここではその二秒が致命的な遅延を生んだ。
 あろうことか、ストローは窓を開けて、嵐のまっただなかに飛び立とうしていたのだ。
『ストロー! なにをしている』
『確認です……』
『意味がわからない』
『説明している時間はありません』
 私が手を伸ばすよりも早く、ストローは飛びたってしまった。ものすごい風圧に私の軽い体は吹き飛ばされて、部屋の中央まで押し戻されてしまう。
 このままではストローの身が危険だ。
 私はどうするべきか半瞬ほど迷い、まずはアリスのもとに向かおうと思った。人形ひとりの力ではストローを見つけてもここまで戻ってこられるかわからない。
 三秒ほどの時間がもどかしい。階下に下りて、アリスの耳元まで近づく。
 私の早すぎる行動に、アリスと魔理沙が何事かと見ている。
 私はできるだけ簡潔に説明しようと努めた。
「ストロー、ソトデテッタヨ」
「は? なに言ってるの蓬莱」
『だからストローが外にでていったと言ってる』
「うそ!?」
 ガタンと音をたてて、アリスが椅子から飛び上がる。椅子は倒れてその場にひっくり返った。気にせずすぐにロフトへと向かう。魔理沙も付き従い、私は飛翔してその場に行く。
 ロフトはすでに惨憺たる有様だった。
 左右に開閉するタイプの窓からは容赦なく雨粒が入りこみ、床や壁を容赦なく蹂躙していた。幸いなことに窓からずいぶん離れていた洋服のハンガーラックはまだ濡れていないようだ。
 あとから来た上海他数名の同業者たちが、一丸となってハンガーラックを階下へ下ろした。
 アリスは腕を目の前に突き出して防御のかまえで窓へと近づく。私もアリスの後ろにしたがった。
「ここから出て行ったの? なんでそんなことを……」
『よくはわからないが、神綺のことが気がかりだったのではないか』
「どうするんだ。アリス」
 魔理沙が聞いた。
「探しに行くわよ。当然でしょう」
「この嵐の中をか。おまえさっき私に愚かだとか言ってただろ」
「ストローが外に出ていっちゃったのよ。早く見つけないと危ないじゃない」
 涙が混じったような声だった。スカイブルーの瞳には水滴が滲んでいた。
 アリスは目尻に涙をためて、魔理沙を睨んだ。
 魔理沙は両手を軽くあげてやれやれのポーズ。
「おーけー。おーけー。わかったよ。じゃあ、いっしょに行こうぜ」
「いいわよ。魔理沙はここにいればいいじゃない」
「ま、私も請負人の端くれだからな。こいつも行く気まんまんのようだぜ」
 魔理沙は私のことを言っているらしい。確かに命知らずなことだと思うが、もちろん私はストローのために行くのではない。あくまでアリスの護衛のために行くのだ。ひいては私のために行動するに過ぎない。
「蓬莱。あなたは家にいなさい」
『そういうわけにもいかない。それに迷ってる暇はないぞ』
 私に押し切られる形になった。アリスは少なくとも一番危険の少ないと思われる胸元へ来るように私を促した。やむをえない。風に飛ばされそうな状況である。私は服の間にもぐりこむ。
「じゃあ、他の子は絶対に外に出てはダメよ」
 アリスは上海をリーダーにして、彼女に一度統率権を渡した。上海は「シャンハーイ」と答え、ビシっと軍隊式の敬礼をした。上海の実力は同業者のなかでもトップクラスなので問題はないだろう。
 私たちは玄関から外へと出た。


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 すでにストローが外に出てから、五分ほどは経過しているだろうか。
 もしもストローが博麗神社のところに向かっているのなら、彼女の生存は絶望的だろう。この暴風雨のなかで三十分以上飛行を続けることは自殺行為に等しい。もしも空中を飛来している障害物のたぐいに当たれば、人形のやわな身体などボロ雑巾のように破壊されてしまうだろう。
 視界は考えるまでもなく最悪である。
 アリスの胸元に収まっている私ですら、暴力的な風雨に視界が閉ざされてしまっている。どちらに向かって飛んでいるのかよくわからない状況だ。
 音も聞こえない。
 風が絶叫しているかのような、
 すさまじい音の波。
 たった数メートル横にいる魔理沙の声もほとんど聞こえないほどだった。
「アリスー! なにか当てはあるのかー!」
「ないわ! 人形たちに発信機つけるほど悪趣味じゃないし!」
「じゃあ! しかたない! こっちを知らせるしかないな!」
 魔理沙が絶叫し、八卦路を懐から取り出す。
「待って! もしも間違って当たったら! ストローが壊れちゃう」
「わかってるって! ちゃんと考えてるぜ」
 魔理沙は八卦路の出力を最小限に絞って、それを上へと向けた。
 八卦路から魔法の光があふれ出す。
 いつもは極太のレーザーのようなマスタースパークだが、今回は違った。
 細くそして白い線が黒煙のような雲に突き刺さる。
 視界が最悪に近い今の状況でも、輝く白い線はかなり目立つ。
 あとは、この暴風のなか、ストローが来ることを信じて待つしかない。
 魔理沙とアリスは背中を預けあった。360度全体を見渡すにはこうするのがベストだ。私も視界が効くかぎり、周りを注視しつづける。
 一種の消耗戦のようだった。
 私の身体のなかのエネルギーはまだたっぷり残されているが、体の耐久度が追いつかないらしい。
 アリスも魔理沙もじりじりするような気分に、疲労が重なっているのが見て取れる。
 ストローはやはり博麗神社に無謀にも行ってしまったのか。沈黙を表象しているとはいえ、それは何も行動しないこととは異なる。行くか行かないかと問われれば、通常行かないだろうとは思えるのだが、なにしろストローは無口なので何を考えているのか正確にトレースすることはできない。
 アリスはおそらく――
 おそらく待ち続けるだろう。何時間でも何十時間でも。
 胸に近いところにいるせいか、アリスの鼓動が伝わってくる。
 心臓は早鐘を打ち、彼女が緊張しているのがわかった。不安も感じているだろう。
 ストローの姿は――いまだ見えない。
 不意に視界の隅に何かが高速で飛来するのが見えた。ストローではない。
 私は手のひらを突き出して、とっさに弾幕を張る。
 風に飛ばされた瓦だった。私の弾幕によって、瓦は直前で飛散した。
「ありがとう、蓬莱……」
 アリスの顔が青い。これ以上、ここに留まるのは、私たちにとっても危険かもしれない。
 決断を少女であるアリスに任せるのは忍びない。死とあさましさに常に触れている私こそが決断するべきかもしれない。無理にでもアリスを家のなかに押し戻し、ストローのことは諦める。
 しかし私のなかの砂糖菓子のように甘い部分が、その決断を拒んでいた。
 何分過ぎただろう。
 いや、何秒も過ぎてないかもしれない。
「そろそろ、帰りましょう……」
 と、アリスが力なくつぶやいた。
 魔理沙には聞こえない。聞こえるように言ったとも思えない。自分に言い聞かせるように独語したのだろうか。それとも、ひ弱な私のことを考えたのか。
 アリスが魔理沙の肩に手を触れて、帰ることを伝える。
 私の心の中を絶望が占めた。
 そこで――
 私はふと眼下になにか小さな粒が見えた気がした。
『ストローだ!』
 ストローはふらふらと下を飛んでいた。服はすでにぼろぼろで、飛び方には力が無い。
 私は首のあたりをグイと引っ張って、アリスに伝える。
 すぐに伝わった。
 アリスは暴風のなかを危険を顧みず、ジェットコースターのような勢いで突き進んだ。私の身体もいやおうなく重力に引っ張られる。アリスの服につかまってなんとか放り出されないようにする。アリスは両の手を伸ばして、ストローの小さな身体をかき抱いた。
 ミッション・コンプリート。
 とりあえず、ストローはまだ生きていた。
 悪運の強いやつだ、と私は思った。


 --・-- --・ ---・- -・・・ -・- -・ --・-・ ・--- ・・-・・ ・・ ・・- ・-・・・ -・・-・  ・-・-- -・--・ ・・-- 


 なんとか家に帰り着いたあと、アリスは一番損耗の激しいストローのメンテナンスをして、その後、嫌がる私に無理やり同じような処置を施し、それから魔理沙と二人で熱いお風呂に入って、ひとごこちついた。
 湯気のたちのぼるコーヒーを飲み、アリスは静かに怒気を発している。
 もちろん、対象はストロー。
 人形裁判が始まる。
「どうして勝手に外に出て行ったのかしら。ストロー答えなさい」
『確認のため』
「なんの確認よ。こんな嵐のなかを出て行って。危ないところだったのよ」
『逆説――、私は意思の伝達を優先しました。理由――、私は伝達不能状態を死と定義します。死の危険よりも伝達がなされないことを憂います。伝達不能性は死そのものを意味するからです』
「何を言っているのかいまいち要領を得ないわね」
『情報が伝達されないことが等号、死です』
 と、ストローはまるで他人事のように言う。
 アリスは目に力をいれて聞く。
「なんの情報よ」
『神綺の意思を私は受け取りました』
 と、ストローが淡々と述べた。
「お母さんの? いったいどうやって……」
『神綺はアリスがお友達といることを安心だと表現しました。今は博麗神社におり、嵐が終われば帰ってくるそうです』
「私が怒ってるから、嘘をついているわけではないわよね」
『伝達に不具合が生じている可能性を私は恐れています』
「もういいわ……。本当、心配したんだから。二度と危ないことをしてはダメよ」
『アリス。私は、あなたに自由であるように創られました。今はあなたの重力に捉えられていますが、逆説、飛び出したいとも思っているのです』
 ずいぶんとはっきりした物言いだった。
 それがストローなりの矜持だったのだろう。
 アリスは自らの人形が手のひらから飛び立っていくことに、怒りと悲しみと嬉しさがないまぜになった複雑な感情を抱いているようである。
「本当、どうして、こんなにみんな自分勝手なのかしら……」
 それはもう血筋のなせる業だろう。
 アリスファミリーはえてして全員が頑固ものである。

 それにしても――
 気になることがある。アリスもおそらく気づいていることだろうが、本当にストローは神綺の意思を受け取ったのだろうか。
 ストローが私と離れていた時間はせいぜいが十分かそこらだろう。
 どうやっても博麗神社に行ったとは思えない。
 確率的に高そうなのは、ストローが虚言を吐いたということである。
 嘘をつくというのは自由意思のなせる業であるから、当然自律人形である我々は全員嘘をつこうと思えばつける。嘘というのは一種のマスカレイドであって、メタレベルで意思をコントロールすることだ。要するには自分の後ろに自分がもう一人いるようなものだと思えばいい。
 しかし――それも否定するべきだろう。
 ストローが言ったことは、あまりにも嘘っぽい。その嘘っぽさが逆に嘘ではないように思わせる。それもまた嘘であることのブラフであるとも考えられたが、ストローの性格を考えれば、嘘ではないと考えるべきだろう。
 アリスが沈黙していた。椅子に座り、静かに呼吸している。
 一呼吸一呼吸がまるで長い溜息のように思えた。
「もしかすると、神綺さまは私を……」
 そこで言葉を切って、魔理沙のほうを見る。
「ん、どうした。そんな思いつめた顔をして」
「もしかして、神綺さまは私を監視しているのかもしれないわ」
「監視? なにを根拠にそう思ったんだ」
「ストローが嘘をついていないと仮定すると、どうやって神綺さまは私たちの様子を知ったのかしら。ストローの言葉によれば『お友達といるから安心』だったわね。それってどう考えても魔理沙のことなのよ。神綺さまは私の人形を孫のようなものだと言っていたわ。だから、人形は『お友達』にはなりえない」
「だからなんらかの魔法的な方法を用いて常時監視されているのではないかと考えたわけか」
「そう。私では神綺さまに魔法で勝てるわけないもの。気づかれないで監視することは可能よ。ストローに魔法でもかけてストローの目を通してみてたんじゃないかしら。それで――嵐のせいでなんらかの不具合が生じて、ストローを少しだけ博麗神社へと近づけた。そうよ、そう考えれば不可能じゃない……」
「監視監視ってなぁ。まあ仮にそれが本当だとしても監視っていうのは言いすぎじゃないか。せいぜい見守ってるって表現が妥当だと思うぞ」
「いやなのよ。たとえお母さんでも私生活を覗いてほしくないの」
「そりゃ、わからんでもないが。じゃあそういうことをしているのか、ストローに直接聞いてみればいいじゃないか」
「もうすでにストローは傀儡になっているかもしれないわ。本当のことを教えてくれるとは限らない」
「おまえ、自分の人形のことも信じれないっていうのかよ」
「信じれないわよ。だって、自分勝手に嵐のなかに出て行くような子に育てた覚えはないわ! ストローが何を考えているのかぜんぜんわからないのよ……」
 アリスの言葉を聞いて、ストローのいつもどおりの無表情の上に、わずかながら悄然とした感情が覆ったように見えた。
 伝達不能を死と同値であると表現しただけに、伝わらないもどかしさを感じているに違いない。
 ならもっと伝える努力をすればいいじゃないかとも思うのだが、ストローはどうやらアリスを試しているようでもあった。
 重力から抜け出したいという思いと、重力に囚われたいという思いの狭間で揺れているのだろう。
 望郷と探検。母への回帰と自立。
 孤独と愛。
 そういう二重性は人形にも存在する。
 アリスの中にもあるのだろう。アリス自身としてはどう思っているのだろうか。どういう状態であれば納得できるのだろう。神綺がまったく無視すればそれはそれで哀しいことだと思うはずだ。アリスは幼児ではないがまだ大人ではない。子どもには母親の愛情が必要である。他方で大人ではないが少女ではあるから、母親から自立したいと思っているのだろう。
 監視されたくないという言葉は率直な表現だ。
 魔理沙がコーヒーを一口含み、ニヤリと笑った。
「じゃあ、ちょっと考えてみようぜ。この嵐の中をどうやってコミュニケーションをとったのか。まず、神綺が実はずっと近くにいるってことはどうだろうな」
「神綺さまが近くにいるなら、直接帰ってくるわよ」
「ふむ。そうか。じゃあ、こういうのはどうだ。神綺がなんらかの使い魔のようなものを飛ばしてだな、ストローと出会う。そして会話する」
「その使い魔は嵐の中を飛翔する耐久力と、コミュニケーションが取れる程度の能力を備えていなければならないわけね。まぁ……それも考えられなくはないけど、そうすると神綺さまは使い魔のことをぜんぜん考えてないことになるわけね。人のことを考えてない薄情な人になるわ」
 アリスはあえて断定口調で話した。
「神綺はそういうやつじゃないって思ってるわけだな」
「ええそうよ」
 アリスは唇をとがらせる。
「だがなぁ。そうじゃないとすると――ほとんど不可能犯罪だぜ。ストローが魔法的に操られていないとすると、なんらかの接触はあったはずだ」
「接触。情報の摂取がなければ確かに伝達は不可能ね。でも神綺さまは幻想郷には来たばかりで誰かを使いに出すことは無理だし、自分で嵐のなかを突き進むほど愚かでもないわ。合理を尊ぶのは私そっくりだもの」
「さようでございますか。じゃあもうわからないぜ。情報が少なすぎてミステリーとしては失格だ」
「もともと現実がミステリーのように推量だけで解ける問題ばかりなわけないじゃない」
「まあ一番簡単なのは神綺が帰ってきたときに率直に聞くことだな。あいつは娘を溺愛しているから嘘はつかないだろ。性格的にもアリスよりはひねくれてないしな」
「誰がひねくれものよ……。でも、魔理沙の言うことも少しはわかる。お母さんは人当たりだけはいいから。さすがに神様やってるだけのことはあるかしら」
 と、そこで。
 アリスがふと何かを思いついたのか、身体を硬直させていた。
「いや、でも、まさか。そんな方法が……」
「おい、どうしたんだ」
「幻想郷はすべてを受け入れる。それはそれは残酷な物語だということを忘れていたわ」
「ん。まぁよくある文句だが、関係あるのか」
「神綺さまは、たった一日で妖精たちと仲良くなっていたのよ」
「ふぅん。それで?」
「妖精は――シナナイ」
 ぞっとするような声色だった。
 魔理沙もごくりと唾を飲むのがわかった。
「妖精は死なないのよ。すぐに復活するし、ぴちゅーんってなっても一回休みってなるだけ。だから――、こういうことじゃないかしら。神綺さまは博麗神社に行く途中で仲良くなった妖精たちも引き連れて行った。それから、嵐に出会った。そこで神綺さまは妖精たちを全員一箇所に集めて、伝達すべき言葉を覚えさせて、それから――それから」


「殺した」


「まさかだろ……」
 魔理沙は乾いた笑いをこびりつかせていた。人間は本当に恐怖したときは笑うしかなくなるらしい。
「妖精は死んでもすぐに復活するわ。その復活するポイントはランダムなの。だから多くの妖精を一斉にピチューンさせて、誰か一人でもここの近くに復活すればよかったの。ストローが見たのは妖精の一人がふらふらになりながらここを目指している姿だったわけよ。それで、ストローは外に出て、妖精に会った」
「いやいやその理屈はおかしいぜ。神綺はなぜ『友達といる』ということを知っていたんだ。まず、ストローが発信しなければ知りえないってことにならないか」
「確かにそのとおりね。でもそれは、簡単なことなのよ。妖精たちは数だけは多かったわ。ここを目指して来るように仕向ければ何十人かは辿りついたのかもしれない。ストローが見たのは、妖精の集団だったわけよ」
「妖精の集団ねぇ。だとすると、ストローはそのあと妖精たちを被弾させて博麗神社のほうへと送還したわけか……。それから神綺が取って返すように再び被弾させてランダムに飛ばすわけか。デスルーラだな、まさに」
「その方法では妖精が集まってくるまでに時間がかかるから、短い言葉しか伝えきれないし、回数制限もあるわけよ。だから神綺さまにしてはやたらと短い言葉になったのではないかしら」
「ふむぅ。一応筋は通っているように思うが、なにかひっかかるな」
「そうね。でも、仮にストローが神綺さまのコントロール下にないと仮定するとそれぐらいしか通信手段がないわ。妖精たちはぽやんとしているからお母さんの言葉にころっと騙されたのだろうけど、たとえ妖精たちの同意があったにしても、そんなことをしてほしくはない……」
「まだ決めつけるのは早いだろ。やっぱり神綺に聞いたほうがいいぜ」
「私は神綺さまも信じきれてないのかもしれない」
「おいおい。自分の母親だろうが! 甘えすぎなんだよ。おまえは」
「甘えてる!? 違うわ。お母さんもストローも自分のことばかりなんだもの。私のことを考えてるって言っておきながら、結局自分がしたいようにしているだけじゃない」
「自分勝手なのはおまえだろうが!」魔理沙が大喝した。「いい加減にしろこの甘えん坊」
「うるさい。魔理沙には関係ないでしょ」
「関係あるだろうが、おまえは私の友達だろ」
「うっ……」
 と、アリスが一瞬で顔を紅く染め、それからしおしおと勢いを失った。
「ありがと……」
 と、小さく声を出す。
「おう」
 と、魔理沙も小さく答えた。
 そろそろこのあまりにも無駄な問答を終わらせて、私はおやつの時間が到来しつつあることを彼女たちに知らしめようと思った。
 報酬の受け取りは、請負人にとって命綱に等しい。たかだかこの程度の問題で遅延して欲しくなかった。
 解決の糸口を与えてやろう。
 しかし答え自体を教えるわけではない。ストローとの関係をいたずらに悪化させることは望ましくないと考えたからだ。
「アリス……アリス」
「ん、どうしたの。蓬莱」
「ストロー、クチベタ」
「そうね。ストローは口下手ね。いったいどうしてこんなふうになっちゃったのかしら」
 これでも気づかないのか?
 アリスの脳みそはすでにさびついてしまっているのだろうか。
 老後の心配をしなければならないな。
 などと思っていたのは、幸いなことに数十秒ほどですんだ。
 すぐにアリスは気づいた。
「あ……、肝心なことを忘れてたわ」
「あん?」と魔理沙。
「ストローは口下手すぎて、妖精とは話せないのよ。湖上でもずっとうろうろしていただけだし、そもそもストローが妖精を使って伝達することが不可能なのよ。ああ、こんなことにも気づかないなんてどうかしてたわ。ストローのことを誰よりもわかってるつもりだったのに」
「まあ、そういうときだってあるさ。おまえに創られたものだからっておまえに所有されているわけじゃないからな。自由に生きてる」
「反省しなくちゃいけないわね」
「でも、それだと振り出しに戻っただけだぜ」
「わかったわ」
「わかったのかよ」
「うん。どうすればいいかわかったの。ストロー来なさい」
 アリスがストローを優しい声色で呼んだ。ストローはすぐにアリスのそばへと寄った。
「教えてくれないかしら。どうやってお母さんの言葉を受け取ったの?」
『アリスは私を信じることができないと言いました。私の言葉は伝達不能ということになります』
「私がまちがっていたわ。ごめんなさい」
 アリスはこれ以上ないほどに素直に、自然に頭を下げた。
 たかだか被造物に過ぎない人形に、心から謝ったのは、おそらくこれが始めてだろう。
 実際問題として、それが私の儚い人形生にどのような重要性を持つかはわかりようもなかったが、それで少なくともストローはコクリと頷いた。
 ストローは自分の胸に手を当てて、まっすぐにアリスを見つめた。
『私、等号、信号』
 ストローが言葉を発した瞬間、まるで魔法のように風の音が変わった。
 もうすぐ嵐は去りそうだ。
 アリスはストローを優しく抱き上げて、何も言わずに熱い抱擁を交わした。
 おやつにはもう少し時間がかかりそうであったが、私は黙って我慢することにした。幸か不幸か、私は孤独には慣れている。


 --・-- --・ ---・- -・・・ -・-・・ ・--・ ・・ ・- ・-・-- ・- -・--・ ・・-- ・-・・ ・-・


「いったい、どういうことなんだよ。勝手に家族団らん始めやがって。私だけ蚊帳の外か」
 魔理沙が少し拗ねていた。
「あ、ごめんなさい。考えてみれば、わりと簡単なことなのよ。この子たちの固有信号はゼロとイチで構成されているの。だから、例えばの話、この子たちにとっては、二進法的な文法で語られたほうがわかりやすかったりするのよね。ダイレクトな認識に直結しているわけだから」
「信号ねぇ。そんなこと私は知らないぞ。やっぱり無理なミステリーじゃないか。まったく金返せ」
「売ってないわよ。でも――撃ってはいるけど」
「つまりあれか。モールス信号の類か」
「そういうこと。お母さんは、ビームみたいな弾幕も玉のような弾幕も撃てるから、それで人形の固有信号と同様の文法で、こちらまで撃ち続けたのではないかしら。弾幕ならもしかしたら嵐の中も届くのかもしれない。だって魔理沙のマスタースパークもちゃんとストローに伝わったわけでしょう。きっとお母さんも、人形の誰かしらが気づくと信じてたのかしらね」
「それでストローが偶然気づいたと」
「ええ。でもストローは、ずっと窓の方を見てたわ。もしかすると何かしらコンタクトがあると信じてたのかしらね」
「どっちも信じていた、か。伝達なんてものは届くかわからんものを届くと信じて、ずっと撃ちつづけるようなものなのかもしれないな」


 -・-・・  ・・-・・ ・--・ -・ -・- -・--・ ・・-・・ --・-・ ・-・-・ --・-・ ・・ ・-・-- -・--・


 二時間後、神綺が意気揚々と帰ってきた。確か、アリスと神綺は冷戦状態だったはずだが、そんなことはもう忘れたかのように自然に振舞っていた。ちなみに魔理沙は神綺が帰ってくる前に、雨が上がった直後に退出した。親娘水入らずを邪魔したくないというのがその理由らしい。
 神綺は帰ってくるなり明るい声をだした。
「いやぁ。すごい雨だったわぁ。アリスちゃんが雷怖がってたことを思い出しちゃった。よっぽど嵐の中を飛んで帰ろうかと思ったわよ」
「そんなこともあったかしらね」アリスはプイと横を向いた。「忘れたわ」
「子どもが忘れても、母親はずっと覚えているものなのよ。だって、自分よりも大切なんですもの」
「正直、ちょっとうっとうしい」
「う。うう。アリスちゃんがいじめる」
「でも――、感謝してたりもするのよ」
 耳が紅く染まっていた。秋の紅葉のようだ。
「アリスちゃんがどんどん大人になって、さびしいやらうれしいやらで、どうしたらいいのかわからなくなっちゃう」
 神綺はアリスの頭を優しく撫で始めた。
 アリスは少々迷惑そうな顔をしているが、拒絶するほどではなかった。
「時間がかかるのよ。親娘だけど、他人だもの。お母さんの考えがわかるようになるには、まだ私には時間が足りないってことかもしれない。だから、もう少しだけ時間をちょうだい」
 神綺は何も言わずに、ただ頷いた。
 それだけでもう伝達は終わった。
「じゃあ、最後にひとつだけ。アリスちゃんに永久不変の魔法を教えてあげましょうね」
 神綺は人差し指を空中へと突き上げ、小さくウインクした。
「それはね、母は娘を永遠に愛し続けるということ。それだけはどんなときもどこにいても変わらないし、誰にも壊すことはできないわ。だって、お母さんはこの先もずっとアリスちゃんのお母さんだし、アリスちゃんは私のかわいい愛娘なんだからね」
「うう……、恥ずかしいセリフを禁止したい」
「そんなに恥ずかしがらないの。ほら、おいで」
 結局、アリスは母の愛の前に、こうべを垂れて屈服した。
 そのときストローが笑っているように見えたのは、お菓子を食べ損ねた空腹が見せる幻だったのかもしれない。


実を言うと、デスルーラを本筋にしようかと最後まで悩みました。
ちなみにデスルーラとはダンジョン等で、帰るのが面倒くさいときに死んで町とかに戻るテクニックを指します。
次は予定どおり橙の話。これはわりとシリアスになりそう。
その次は早苗さんのエロい話を書く予定です。
超空気作家まるきゅー
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コメント



0.2940簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
毎度毎度この蓬莱人形はかっこいい。
あと、各章の区切りの点と線でモールス信号かなと思ってたら、
本当にその通りで、最後の通信手段の説明の伏線だったと。
解読していくと割と面白かったです。
6.100名前が無い程度の能力削除
蓬莱かっこ良すぎ
12.100煉獄削除
この話の蓬莱はとても格好良いですよね。
神綺様が来訪してアリスと過ごしたり、ちょっと喧嘩してしまったりとか
ほのぼのをあり、ちょっと暗くなる場面もあったりして良かったですし、
蓬莱とストローの会話なども面白かったです。
14.100名前が無い程度の能力削除
面白かった。面白かったし、おはなしの作りがうまいよなあ。

それと「W」、実にわかりやすい。
17.100名前が無い程度の能力削除
相変わらず「はぁどぼいるど」シリーズはいいなあ!!
アリスたちの、不器用なコミュニケーションは読んでいるだけで癒されます。
家族とそして友達としての人形たち、神綺様、魔理沙もみんな無理していない感じで、まるで本当に蓬莱人形になって彼女たちと過ごしていたかのような錯覚さえ持ちます。
蓬莱を一人称にすることによって、シュールな感じを保ちつつ、アリスたちの会話の裏にある信頼感を上手く描写できていると思います。
本人たちにとっては口にするまでも無いことも、蓬莱のフィルターをかけると言葉にせざるを得ない、そんな余白を埋めるアナウンサーとしての蓬莱人形はやっぱりダンディで素敵です。
20.100名前が無い程度の能力削除
このシリーズの蓬莱大好きです。
今回新登場のストローも確固とした特徴があり、どのキャラも生き生きとしていました。
はぁどぼいるどな蓬莱の一人称のおかげでストーリーはシリアスなのに、
くすりと笑える素晴らしい作品だと思います。
21.100名前が無い程度の能力削除
感動醒めやらず、素晴らしい話でした。
デスルーラオチにならなくてよかったです。

ただ一番言いたいのは、
蓬莱の報酬おやつかよww
22.100名前が無い程度の能力削除
在り来りに人形は等号、愛玩される物として扱われる事が多い中で、
リベラルな考えを体現する蓬莱人形の描写に、甚だ感心するばかりです。
ストローは等号、藁人形という人を呪う為に作られる人形(ヒトガタ)であり、
大なり小なり負の要素が詰め込まれた人形であるかもしれないが、
好事家である魔界ファミリー筆頭の神綺様の天真爛漫な御心になら、
きっと受け入れてもらえるんじゃないかなアリス大好き
27.20名前が無い程度の能力削除
超空気作家さんの作品が大好きです。

論理と表現で惑わさせる作品をもっと作って
30.100名前が無い程度の能力削除
蓬莱やストローたち人形のキャラがしっかりしていて面白かったです。
個人的にアリスと魔理沙の友達トークがすごくツボでした。
35.100名前が無い程度の能力削除
・-・・・ -・・-・ --・-・ ・-・- ・-・・  -・ ・-・-- ・・ ---・- 
49.100名前が無い程度の能力削除
渋くてかっこいい……
まさにはぁどぼいるど蓬莱。
50.80名前が無い程度の能力削除
「友達といる」という事を神綺が知っていたと言う事は、ストローも神綺に向け
て弾を撃ち返したと言う事でいいのでしょうか?

神綺がモールス信号を撃ったと言う事は明記されていましたが、ストローからの
伝達方法が明記されていないのが、少し気になったので。

相変わらずいい内容で楽しめました。
51.無評価まるきゅー@書いた人削除
感想ありがとうございます。望外の喜び。モールス信号感想とか貰った人、たぶんここで初なんじゃなかろうか。縦読み感想も珍しい。ストローはもうここまで来るとほぼオリジナルキャラクターと同義だろうに、みなさんに受け入れられたようで一安心です。

50番さんの質問に答えます。弾を打ち返したのかという質問ですが、答えはその通りです。
ストローのがんばる姿を想像して欲しかったというのがあえてかかなかった理由。まあ冗長と説明不足の境界なので、すごく微妙です。書いたほうがよかったかもしれません。
ともかく感謝。
デスルーラ!
52.無評価名前が無い程度の能力削除
作中のモールス信号について訳していただけないでしょうか?
54.無評価まるきゅー@書いた人削除
そんなにたいしたこと書いてないので恥ずかしいのですが、一応上から順に
アリスダイスキ
スキ
スキ
アリスダイスキ
アリスハワタシヲドウオモッテルノ
キットツタワルトシンジテル

です。
あっさり看破されちゃったなぁ。うぐぅ。
56.100名前が無い程度の能力削除
デスルーラオチじゃなくて良かったぜ……
はぁどぼいるどシリーズはやっぱりいいですね!
57.100>>52削除
>>54ありがとうございます。

全文気に入りましたが、その中でも、途中の不穏なミステリ展開時に、ストローを信じてみることで乗り越えた場面がとても示唆に富んでいるように思えて印象に残りました。

アリスがヒステリックママにならなくて本当によかったです。
62.100名前が無い程度の能力削除
はぁどぼいるどシリーズ待ってました!
蓬莱の声が中田譲治とか小山力也で再生される俺はもはや末期。
他の人形達も見てみたいぜぇ…。
64.無評価まるきゅー@書いた人削除
とりあえず書式はこれでいいか。次はこれで行こう……。

というわけで、感想ありがとうございます。
デスルーラオチはミステリとしては良いですが物語としてはダメダメですよね。ここは物語を取るべき場面だと考えました。
というか、いつだって物語を優先するべきです。トリックだけでは面白味がなく、物語と混然一体となったときに始めてミステリ的な要素が活きてくるような気がします。


ヒステリックママ。ここが分水嶺かもしれませんね。愛情と自立はわりと対立もしつつ、わりと親和的でもあるような感じがします。アリスは母性的に書いたつもりです。蓬莱視点ですから。

62氏>その声渋すぎるw 見た目は少女なのでギャップ萌えというのはあるかもしれませんね。
他の人形についてはまだまだ名前アリのキャラクターがいるおかげでわりといけそうな予感はあります。
66.100名前が無い程度の能力削除
アリスのストローを心配する気持ちが、神綺さまのアリスを心配する気持ちと同じものだとアリスが気付くのはいつの日になるのでしょうね。
70.100りんご♪削除
はぁどぼいるどシリーズ大好きです!
蓬莱が相変わらずかっこよく可愛いのでニヤニヤしながら読んでました。
アリスの服を着た魔理沙も気になりましたが、風雨の中で背中合わせな魔理沙とアリスが個人的にお気に入りです。
デスルーラにぞくっときましたが、幻想郷ではやろうと思えばできちゃうんですよねぇ…。

湖でのアリスと神綺の最初の方の会話を読みながら、蓬莱が似たのはアリスのこういう部分かな、と思いました。
なんだかんだでアリスも人形たちの言葉が大分分かってきているようなので、これからがすごく楽しみです。
72.100名前が無い程度の能力削除
確かにデスルーラオチじゃなくて良かった!!
良い話です
74.70名前が無い程度の能力削除
え、なにこの蓬莱かっこいい
78.100名前が無い程度の能力削除
いい話だったが
オルレアンにはわろたww
85.90名前が無い程度の能力削除
こういうストレートな親子愛のお話、好きです。
89.100名前が無い程度の能力削除
人形たちの個性がよくでていて面白かったです。
魅魔様と魔理沙の話も見てみたいですw