Coolier - 新生・東方創想話

暗がり夜想曲

2009/06/17 19:02:46
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 チルノは頭の痛みのせいで目を覚ました。薄暗がりの中、見覚えのない場所に柔らかいベッドの上で自分が寝ている。
彼女は上半身だけで起き上がると部屋のあちこちを見渡した。ベッドの横には見慣れない金細工の美しい小さな机がある。その上に蝋燭がたった2本だけ置いてあった。1本は弱々しく燃えていて、もう1本は消えていた。
 部屋にはホルマリン付けの妖怪が閉じ込められているビンや、剥製にされた妖怪などが幾つかあった。それらがぼんやりとチルノの視界に入ってくると、彼女は気分が悪くなって再び頭を枕に沈めた。

 「あら、目が覚めたのね」
突然、部屋の隅の辺りで気配の無い声がした。薄暗い部屋のせいなのか、相手が何処にいるのかチルノには分からなかった。
「あんたがここに運んでくれたの?」
チルノが薄暗がりの方へ向かって尋ねた。
「そうよ。館の壁の前で、頭に血を流して倒れていた貴女をね」
腐った床がギシギシと音を立てて、誰かがベッドに近づいてくる。
「ああ、あたし、風に吹き飛ばされたのよね。あんまり覚えてないけど―――え、じゃあここはあの館の中なの!?」
チルノは上擦った声を出してベッドから起き上がった。すると、声の主であろう女が傍にいた。女の顔には少し不満そうな表情が浮かんでいる。あの館と言ったときのチルノの表情が一瞬、強張ったのを見逃さなかったからだった。
 あの館というのは妖精たちの噂話の定番の一つ、湖の傍にある紅い壁の館のことを指している。吸血鬼が夜な夜な生き血を啜っているという噂が流れてからは誰もが敬遠するようになった、呪われた館のことであった。しかし、館に住んでいる人々が噂を知っているはずもなく、女はチルノの態度が不思議だった。
「あの館かどうかは分からないけど、ここは湖の傍にある紅魔館よ」
女は誇りをもって館の名前を述べた。
 食器の擦れる音と共に、暗がりの部屋に良い匂いが漂ってくる。
「あたし、熱いの駄目なのよ」
「あら、確かに氷の妖精には毒よね。ごめんなさい」
女はそう言って、一度引っ込めたティーカップを再びチルノの前に出した。葉っぱの匂いはとても薄くなって、あれほど出ていた湯気が消えていた。
「今度は大丈夫よ。冷たくしておいたわ」
女の言葉に、チルノは恐る恐るティーカップに手を伸ばした。触れてみると、陶器の無機質な冷たさが伝わってくる。それを手に取ると一気に飲み干した。
「なんで急に冷たくなったの?」とチルノは聞いたが、女は微笑むだけで何も言わなかった。
ティーカップを女に返すと、チルノはベッドの傍にあったカーテンを引いた。薄暗い部屋が明るくなるのかと思いきや、窓には月が映る。それもやけに紅い月だった。淡い紅色に染まった部屋で、チルノはしばらく窓の先を見ていた。
 そこには月に照らされた紫色の草原があった。そよ風に煽られた夏草の透き間から、虫や蛙の声が聞こえてきて、今にも草の青い匂いがしてきそうだった。
「もう夜なんだ……」
チルノは呟いた。冷たい紅茶の感触が、今頃になって腹を重く満たしている。
「頭の傷は大丈夫?」
女が机の上にあった蝋燭のもう一本に火を点けながら、寂しそうな顔をするチルノに言った。二つの蝋燭が溶けて優しい炎が部屋を温かくする。すると、チルノの表情にも心なしか夜の暗さが遠のくのだった。
「大丈夫よ。こう見えても丈夫なんだから」
「それは良かったわ。明日の昼頃には此処から出してあげる」
蝋燭の炎が踊って、椅子に腰を下ろした女の顔に濃い影が落ちる。
「今からじゃ駄目なの? あたし、湖に帰りたい」
「駄目。頭の傷は結構深いのよ。しばらく安静にしてなさい」
女の瞳の深く青色に光る部分が小さな妖精の青い目を見詰めた。釘を刺すかのような鋭い眼光に、チルノは目を逸らすと、それ以上何も言えなかった。

 風が窓の奥に広がる夜陰を流している。夏草の擦れる音や虫の鳴き声などが月明かりに照らされて、辺りは騒然としていた。
「もしかしてこの館には吸血鬼がいるの?」
チルノはずっと気になっていたことを、やっと口に出した。噂の真意が気になったのはもちろんであったが、目の前の女が吸血鬼ならば、なんだかほっとするような気がしたのだ。すぐさま銀髪の艶やかな女は微笑んで答えた。
「ええ、とっても我侭な可愛い人がいるの。それに―――」

 女の話を要約すると大層立派な吸血鬼のお嬢様がこの館には住んでいるという事だったが、噂とは余りにもかけ離れていて本当にそんな吸血鬼がいるのかと疑問に思えるほどであった。しかし、女の青色の瞳が生き生きと輝きだして口は饒舌になっていくのを見ていると、チルノもなんだか楽しくなって、そういう吸血鬼が本当にいるのだという気分になってくるのだった。
「でも、貴女をここに匿っているのは内緒よ。お嬢様はこういった事を好まれないの」
女が肩をすくめながら言った。
「こういった事ってのは、妖精を助けるとかそういう事?」
「まあ、そんな所かしら」
冷めた紅茶を啜りながら、女は嬉しそうに続ける。
「それに、従者が隠し事をするのを嫌われるの。当然と言えば当然だけど」
挑戦的な口調であった。
 すっかり体を起こしたチルノは、足もベッドから出すと、女と向かい合って座っている格好になった。自分の後ろにあるカーテンが浮くとそれが背中に当たってくすぐったかった。窓の隙間から風がわずかに漏れていたのだった。蝋燭の炎も揺らめいて、妖精と女の二つの影が部屋の壁を舞台に喜劇でも演じはじめそうだった。
 「ところであんたの名前、何ていうの?」
不躾にチルノが聞いた。
「館の住人からは咲夜と呼ばれているわ」
女は少し考えてから、奇妙な答え方をした。
「ならあたしは何て呼べばいいの?」
チルノが悪戯っぽい笑顔を女に向ける。
「咲夜でいいわよ。妖精さん」
咲夜は笑った。
「わたしはチルノよ。氷の妖精で、とっても強いんだから」

 二人の遅い自己紹介が終わると、チルノは妙な遊びを思いついた。咲夜の話によれば館のお嬢様は大変可愛らしい姿で、まるで子供のようだという。なんとなく自分にそっくりのような気がしたのだった。
「ねえ咲夜。あたしがここを出て行くまでお嬢様とメイドごっこしようよ」
この唐突な提案に、咲夜は思慮深い顔付きになった。
 外では風が強く音を立てて、館の壁や屋根を撫でている。それに混じって庭の方で何かが倒れる大きな音がした。咲夜は立ち上がると、チルノの後ろにあるカーテンを引いて外を眺めた。
「ああ、まただわ。あの石像良く倒れるのよ」
溜息を混じらせて、咲夜はうんざりといった様子だったが、何かを思いついたように不適な笑みを浮かべた。チルノも窓を覗いてみた。夏草が千切れそうなぐらい揺れていて、その先には立派な石造りの台座だけが見えた。横から咲夜が覗き込むように言った。
「いいわ。その遊びやりましょう。でも―――条件が一つ。決してこの部屋から出ないこと。どうかしら?」
「うーん…… 分かったわ」
チルノは少し悩んだふりをして、咲夜の出した条件に了承の返事をした。
 この時から妖精はお嬢様になった。従者を一人お供に連れて、彼女はこの部屋に絶対王政を敷くのであった。
「それでは、お嬢様。従者が気になっている事を一つ申し上げてもよろしいでしょうか」
咲夜はわざとらしくお辞儀を1回ほど間に入れた。
「言ってみなさい」
チルノはベッドの上で、女王になったかのように踏ん反り返っている。
「庭で横倒しになっている石像の件でございます。私めが元に戻して参ろうと思うのですが、許可を頂きたいのです」
「許可します。―――あ、外すごい風だけど大丈夫なの?」
チルノは少し心配そうな表情を浮かべた。
「お心遣い痛み入ります。ですが、ご安心ください。すぐさま直して参ります」
自信たっぷりに咲夜は扉の前まで行くとドアノブを回した。傷んだ木が悲鳴を上げて、扉は開閉した。再び扉が悲鳴を上げると咲夜が部屋に戻ってきた。チルノは唖然とした。扉が閉まってから再び開くまでに、呼吸を一回したかどうかさえ分からなかった。
「ただいま戻りました。石像は目立った損傷も無く、元の場所に立てておきました」
咲夜はやはりお辞儀をすると、続けて言う。
「再び倒れないように補強もしておきましたので、今後はこのような事はないかと思います」
 チルノは返事を忘れて、すぐさまベッドの傍の窓に顔をへばり付けた。月に照らされて、台座に乗った石像が直立不動の様子で夏草を見下ろしていた。窓にへばり付いているチルノの後ろでは、咲夜が狡猾な笑みを浮かべている。
「ホントだ! 戻ってる! ねえ、どうしてなの? ―――っと、どうして、なのか、説明して、貰えるかしら?」
チルノは振り返りながら、咲夜にぶつけた純粋な質問を途切れ途切れの上品な命令に改めた。部屋に散らばる妖怪の剥製や、ホルマリンを泳ぐ妖怪、血が噴出している箱等の部屋の住人たちが、心のなくなった魂でチルノの言葉遣いに関心した。
 咲夜の顔はいつの間にか従者の精悍とした顔に戻っている。
「私、足が速いんです。ですから、急いでお庭に向かいました」
「お嬢様、である私を馬鹿にするつもりかしら? だとしたら、石像を持ち上げるのに時間が、掛かるはずだわ」
たどたどしい言葉を必死に繋げながらチルノは喋った。
「私、腕っ節も強いんですよ」
咲夜は石像を持ち上げる様子を身振り手振りで示した。床の腐った部分がギシギシと音を立てる。
「なるほど」
チルノは何度も頷くと、大したものだと褒めた。新米お嬢様の言葉に答える代わりに、咲夜は従者らしく深々とお辞儀をした。その肩は小刻みに震えている。
 それからこの優秀な従者の提案で、部屋を掃除する事となった。薄暗がりのせいで汚さが隠されていた部屋は、刻刻とそのベールを剥がされてゆく。
 いつの間にか朝から吹いていた風が止んでいた。
「お疲れ様でした」
咲夜は空になっていたはずのポットから、冷たい紅茶を注いでチルノに差し出した。
「ありがとう。お嬢様というのは、大変な、身分なのね」
チルノは喉を鳴らしながら飲む。動いた後の飲み物の美味しさが彼女の小さな体に染み渡った。
咲夜はポケットから銀時計を取り出して時間を確認すると、燃えている二つの蝋燭のうちの片方に息を吹きかけた。白い筋が揺ら揺らと天井に昇る。
「では、私はこれで失礼致します。仕事がありますので。また、明日のお昼頃にお迎えに参りますわ」
咲夜は俊敏なお辞儀をすると扉の方へ行ってドアノブに手をかけた。そこでまた振り返ると、咲夜は念を押すように言葉を付け加えるのだった。
「もう夜も深けておりますので、おやすみくださいませ。それと、この部屋から出てはなりませんよ。約束ですからね」
チルノは頷いた。

 窓の風景は代わり映えのない、あいかわらずの月とその他で構成されていた。紅い月の光に当てられて、チルノは口を大きく開いて両手を広げた。その目は月の光に喜びを感じて狂ったようにギラギラとして、背中の氷の羽は蝙蝠の羽のように鋭い曲線を描いている。咲夜が心から従っている吸血鬼に、自分はなれるのだろうかとチルノは想像を膨らましては楽しそうに演じるのだった。
 蝋燭がほとんど流れ落ちたせいでちかちかと炎が消えては灯り、薄暗がりの部屋を点滅させている。
そのせいか、扉のドアノブが心臓の鼓動のように一定のリズムで妖しく光っていた。
 吸血鬼に扮装しながらも、チルノは落ち着かない様子で部屋をぐるぐると廻り続けている。
その頭の中では咲夜の言葉が反復していた。
―――部屋から出てはならない。
 蝋燭の炎が完全に消えると部屋が月の光で狂気の色に染まった。チルノの青い瞳が紅い月光と交じり合う。
 お嬢様である自分が従者である咲夜の言う事を素直に聞いてばかりで良いのだろうか、とチルノは思いついたようにドアノブに近づく。握ってみると、思った以上に冷たい感触が手を緊張させた。回すと乾いた音が響く。部屋の空気が流れていく。音も立てずに扉は閉まる。すると暗がりの部屋には誰もいなくなった。


 館の廊下は淀んだ空気に満たされていて、壁に掛けられた幾つもの蝋燭が妖精のお嬢様を暗闇の先へと案内している。吸血鬼が何処にいるのか想像もつかなかったが、チルノは好奇心に勝てずに歩き始めた。すると、何かの叫び声が微かに響いて彼女は歩く速度を緩めた。耳を澄ますと獣のような甲高い声が暗闇の奥から届く。
 廊下は一本道であった。何度も後ろを振り返りながらチルノは一歩、また一歩と自分の心に巣食う恐怖を踏みつけていく。
吸血鬼の館に相応しく血のように紅い絨毯を一匹の妖精が進むほど、雄叫びは何かしら意味のある言葉に変わりつつあった。
―――ここから出して!
突然の言葉にチルノの顔がギクリとする。彼女は足を止めた。長い絨毯が続く廊下の壁が一部無くなっていて、その暗がりの中からカビの臭いが漏れ出していた。
 声はそこから発せられている。どうやら地下に続いているようで、下に伸びる階段が薄らとあった。チルノはどうするか思案した。が、絶え間ない絶叫のせいだろうか、何故か急ぐ自分の足に翻弄されて彼女は黒い階段を落ちていった。
 真っ暗闇の中に濃い湿気が充満している。壁に手を滑らせながら、チルノは見えない螺旋構造をくるくると潜った。狭く造られているせいで、彼女の蒼い羽が少しずつ砕けては氷の結晶となり、それがポロポロと落ちて階段に当たって弾けると綺麗な音を作り出した。この音が奥から伸びてくる叫び声に反射して、儚い不協和音を唱えている。
 チルノの額から汗が滴る頃、ぼんやりとした橙色の光が先に見えてきて、彼女は少なからず安堵した。
 蝋燭の炎によって大きな扉が白く染められている。水滴が水溜りに落ちて、水面に映る淡い暗闇が歪んで広がる。チルノは扉を三度、優しく拳で叩いた。叫び声が消える。水滴が二回落ちた後に、扉が乱暴に揺れた。驚いてチルノが跳び下がると、その拍子で左足が水溜りを踏みつけて辺りに飛沫が散った。
「何すんのよ!」
チルノは扉の向こうに声を尖らせた。
「誰なの? もう、私を此処から出してよ…… ねえ、もう十分でしょう!」
扉の向こうにいる何かが叫び返す。
しゃがれた声だったが、以前は透き通るような伸びる声の持ち主だったのだろう。発音がとても綺麗で上品だった。
「あたし―――私はお嬢様よ!」
チルノは胸を張って答えた。が、何の返事も返ってこなかった。
 静まった地下の空間は蝋燭の炎が煌煌と輝いているにも関わらず、その温かさを失っているようだった。静けさを打ち消すかのように、チルノは拳を振り上げて何度も扉を叩いた。すると震えた声が扉の奥から聞こえてきた。
「お姉様なの? 本当に? 今日は月でも紅いのかしら? そのせいか私、今は気分がいいのよ。ねえ、何をしに来たの? 扉をあんまり強く叩くと壊れてしまうわよ。ふふ、壊してくれるのかしら。ねえ、壊してくれるんでしょう? ねえ、何をしたいの?」
「黙らせに来たのよ。廊下にまで声が響いてて五月蠅いの。だから静かにして貰えないかしら」
「ふふ、嫌よ。此処はとても暇なのよ。真っ暗で誰もいないわ。でも私、今日は気分がいいのよ。だって何百年ぶりかしら、お姉様が此処に来てくれるなんて。もしかしたら初めてなんじゃないかしら? ほら、やっぱり月が紅いんでしょう? 私も見てみたいわ。とても気分が良いものなんでしょうね。それに、いつも思うのだけど、お姉様の姿を思い出せないの。でも、とても尊敬しているのよ。だって私のお姉様だもの。だから静かにするわ。もう叫ばないわ。ほら、私は良い子でしょう。だって貴女の妹だもの」
不満をぶつけるような喚き声が、次第に子供が甘えるような口調に変わっていく。それから、厚い扉を挟んだ一方的で奇妙な会話がしばらく続いた。戸惑う妖精を引き止めるかのように、扉の奥からその声が途切れることはなかった。
 この扉が開かないことを願いながら、チルノは約束を取り付ける口調で「また、会いに来る」と言い捨てると、急いで階段に戻った。後ろの方から「次は月の下で」と、嬉しそうなしゃがれ声が届いた。チルノはその声には振り返らずに、逃げるように螺旋階段を上っていった。すると、階段の底から歪な笑い声が追ってきた。チルノは暗闇に引き込まれそうになるのを必死に駆けた。
 静かになった廊下では月光が肩で息をする妖精を照らしている。チルノは新鮮な空気を思いっきり肺に入れては出した。乱れた呼吸が落ち着く。しかし身体の揺れは収まらなかった。心臓が不安そうな鼓動を刻んでいた。
 それでもチルノはあの暗がりの部屋に戻ろうとは思わなかった。彼女はボロボロになった自分の羽を優しく撫でると、静かになった廊下をもはや振り返ることもせずに突き進むのだった。


 蝋燭の照らす薄暗がりの絨毯が先まで伸びて、時たま風の切り裂くような音が何処とも無く廊下に響いた。辺りの淀んだ空気は何百年も前から此処にあった様に重く圧し掛かり、まるであの世までの一本道のようであった。
 いつからあったのだろうか。この場の雰囲気とは不釣合いな本が落ちているのをチルノは見つけた。純白で金色の刺繍が上品な本は一つや二つではなく、まるで何かの足跡のようにずっと先まで絨毯に落ちている。
 廊下に月光が入り込む。大きな窓をチルノが通り過ぎると、再び蝋燭の煌く薄暗い廊下の上には白い本が続いていた。
「こんばんは」
静かな声だった。薄暗がりの廊下の端に、ぼんやりとした丸っこい輪郭が現れる。一瞬、ビクとしつつもチルノは目を凝らしながら近づく。すると、ぶかぶかの服を着た女が椅子に座って本を読んでいるのが見えた。
「こ、こんばんは」
チルノは挨拶を返したが、それから女は何も言ってくる気配がなかった。女が本を捲ったときに鳴る乾いた紙の音が聞こえるだけであった。
「何をしているの?」
沈黙に耐えかねて恐る恐るチルノが聞いた。
「本を読んでいるのよ。ところで貴女こそ何をしているのかしら?」
女の透明な紫色の視線は、ボロボロの氷の羽に向けられている。言葉を詰らせた妖精は「貴女は吸血鬼ですか」と苦し紛れに、しかし丁寧に聞き返した。すると女は「自分は魔女だ」と答えて、心を見透かすような視線を本に戻した。それ以上、会話を続けるつもりがないようであった。

「パチュリー様、全ての本を設置しましたよ」
紅い髪の間から蝙蝠の羽を生やす従者が、椅子に座った魔女の後で暗闇を脱ぎ捨てながら言った。
「さすがに仕事が早いわね。ご苦労様」
魔女がその従者に労いの言葉をかけながら続けた。
「さてと、じゃあちょっと二人とも下がってて」
魔女は持っていた本を閉じると、椅子から立ち上がって廊下の中央まで歩いた。二人と言われて、従者がはじめてチルノの存在に気づいたような顔をする。チルノは従者の視線を避けるように廊下の端まで下がった。
 絨毯に無造作にばら撒かれた白い本が一斉にパラパラと捲れはじめた。しばらくすると、紙の乾いた音に少しずつ別の音が混じってきた。それは水が弾けるような軽い音であった。その音の割合が強くなるにつれて、外では雨粒が落ち始めた。幾つもの大粒の雨が館の壁にぶつかって虚しく弾けると、その音が廊下にまで反響して本の乾いた音が掻き消されていく。
「お疲れ様でした。居間で紅茶でも入れてもらいましょう」
赤毛の従者が椅子を持ち上げながら、主人である魔女に言う。その後、すぐさまチルノの方を向いて「貴女はどうするの? というか、貴女何者なのかしら?」と明らかに不審者を見る目線を送った。
「私はお嬢様よ」
チルノは胸を張って答えた。
「え、レミリアお嬢様なんですか?」
従者が困惑した声を出した。チルノは首を傾げると、やはり胸を張って答えた。
「いいえ、私はチルノお嬢様よ」
外の雨音が三人のいる廊下にまで大きく響いている。従者は助けを求めるような視線を魔女に送った。すると魔女は呆れるように溜息をついた。
「……うちの悪戯好きのお嬢様はこんなに可愛らしく変身できないわよ。たぶん湖の妖精じゃない?」
魔女の姿がみるみるうちに暗闇に溶けていく中、尚も歩きながら彼女は早口に続けて言うのだった。
「それにしても貴女、妖精に騙されるなんて純粋にもほどがあるわ。もう少し疑う事を知りなさいね」
バツが悪そうな従者はチルノに一瞥をくれてやると、主人を追って暗闇に消えていった。
 チルノもそれに遅れずに二人の後を付いて行った。廊下は一本道なのだ。

 魔女と従者が並んで歩いて、その少し後ろの妖精が続いて階段を上がっていくと再び紅い絨毯が廊下に敷かれていた。前方では椅子を持っている従者が、咳をする主人を気遣いながら歩いているようだった。
 蝋燭の炎を幾つも通り過ぎた頃、チルノは手に汗を握っている事に気づいた。空気がひどく強張っているようだった。
「ねえ、吸血鬼の所へ行くの?」
チルノは前に向かって尋ねた。壁に掛けられた蝋燭の炎がふと、一つ消えて白い筋が立ち上る。
「そうよ」
振り返りもせずに魔女が答えた。すぐさま赤毛の従者が何やら小声で主人に話しかける。
 その様子をぼんやりと眺めていたチルノは突然、早足になると二人を追い抜かした。従者の「待ちなさい」という言葉が後ろから追ってきたのを無視してチルノは紅い絨毯を進む。廊下の奥、暗闇を切るように光が差しているのを彼女は見たのだった。

 そこでは大きな扉が開いていた。中からは光と混じって紅茶の良い香りが廊下にまで漂っていた。食器の擦れる音が聞こえてくる。と同時に、チルノは足を止めた。この先に居るであろう吸血鬼が恐ろしいのではなかった。此処には咲夜がいる。紅茶を入れる音と共に、今にもあの精悍な声が聞こえてくるような気がして、なんだか部屋に入ってはいけないような気がしたのだ。
「今日の紅茶は何色かしらね?」
声が扉の中から廊下に小さく響く。気品があって癖の無い綺麗な発音、それでいて子供っぽい声色だった。吸血鬼の声だろうとチルノは思った。以前にも似たような雰囲気の声を聞いたことがあった気がしたが、それを思い出す前に別の声が聞こえてそちらに心を奪われた。
「庭で取れた苺のジャムと、それに合いそうな幾つかの葉をブレンドしたものです。お口に合うと良いのですが」
咲夜の声だった。やはり小さく廊下に響いた。
 チルノはその声に惹きつけられる様に、扉から漏れる光の方へ身体を近づけていく。光が顔の半分まで当たると、眩しくて反射的に目を瞑った。彼女が薄らと目を開くと部屋の中には咲夜と吸血鬼らしき少女がいるのが見えた。少女は椅子に座っていて、その傍に立っている咲夜がケーキのようなものをテーブルに置くところだった。
 次第にチルノの目が光に慣れてくる。部屋にはたくさんの蝋燭があって、それが金細工の置物などに反射して辺りを強く照らしていた。そのせいか、廊下の薄暗がりからこの部屋に入る時にはひどく目が痛くなる。眩しくて直視することができないのである。ひどく不便であった。しかし、これが館の主を外敵から守る手段の一つだとチルノは知る由もない。
ただ、この空間が自分には好ましくないと彼女は思った。
 本物のお嬢様はケーキを美味しそうに食べて、紅茶を楽しそうに啜る。口に付いたものを咲夜がナプキンで拭き取る。一連の動きはまるで映画のようであったし、その一場面を切り取れば絵画にもなりそうだった。チルノはただ呆然とその様子を廊下から見ていた。部屋からの強い光が妖精の足元に濃い影をつくっている。
 妖精と従者の奇妙な遊び―――お嬢様とメイドごっこはあの薄暗がりの小さな部屋を出た瞬間に終わっていたのだと、チルノは今更になって気づいたのであった。

 チルノは笑っていた。

 自分が滑稽に思えたからではなかった。噂とは異なる本物の吸血鬼を、実際に見る事ができて嬉しかったのでもなかった。ただ何となく面白くて、楽しくて笑ったのでもなかった。なぜなのか自分でも分からなかった。それでも笑い声は金色の部屋に響いた。
 チルノは笑いながら、その青い瞳からは涙を零していた。金色の大きな部屋にいる二人の様子がぼやけて見える。涙を拭うと、吸血鬼と咲夜がこちらを見ていた。咲夜は驚いた様子で、吸血鬼は見下すように、扉から顔を覗かせる妖精に視線を向けている。チルノはすぐさま扉を離れて薄暗がりの廊下を走った。途中、魔女と赤毛の従者を押しのけて、来た道を戻っていく。なぜか再び涙が零れてきて視界がゆがむ。しかし、階段を下りても彼女は止まることもなく走り続けた。あの薄暗がりの小さな部屋に戻らなければ。
 廊下では未だに幾つもの白い本がパラパラと乾いた音を響かせている。その速度は以前よりもゆっくりとしていて、透明な誰かが本を読んでいるのではないかと勘違いしてしまいそうだった。
 チルノは急に頭が痛くなって、その部分に手を触れる。すると、ひんやりと冷たい液体の感触が伝わってきた。頭の傷口が開いたようだった。走ると余計に痛みがひどくなる。彼女はそれでも前に進むために歩いた。あの薄暗い小さな部屋に戻れば、またお嬢様になれるのだと思って、歪みはじめた絨毯を踏みつけてゆく。吸血鬼のことは、もうどうでもよかった。自分はあんな風にはなれない。
 館の数少ない窓の一つが雨が流れる暗闇を映し出していた。月は雨雲に遮られている。頭が割れそうになってチルノはそこで立ち止まった。蝋燭の近くに寄ると、血の付いた手を眺めていた。すると、目の前に白い布が差し出された。
「言ったでしょう。傷が深いって」
チルノは一瞬、頭の痛みを忘れて声の方に視線を上向けた。蝋燭に橙色に染められた咲夜の顔が呆れたような表情をみせている。
「ごめんなさい……」
自然と言葉出てきて、チルノは涙をポロポロと落とした。白い布を受け取ると、頭の傷む部分に当てる。彼女はうつむいた。その鼻からは鼻水が、目元は涙のせいで腫れている。咲夜はそこに新しい白い布を当てて、優しく包むように妖精の顔を拭いてやりながら言った。
「お嬢様は貴女の首をご所望されているわ」
妖精の砕けた氷の羽が、蝋燭の炎で少しだけ溶けているようだった。チルノは頭を持ち上げると、咲夜の青色の瞳をその青い瞳で見詰めた。咲夜の表情は、蝋燭の炎のせいで濃い影が落ちていて、良く分からなかった。
 突然、傍の窓ガラスの割れる音が廊下に響いた。そこから風がうねる様に入り込んできて、廊下に連なる幾つもの蝋燭の炎を消していく。暗がりになった廊下で、本の乾いた音に混じった雨音が忍び寄ってくるように大きくなってゆく。その雨音のずっと奥の暗闇から、あのしゃがれた笑い声が聞こえてきた。品のある子供っぽい笑い方がひどく奇妙であった。
 チルノは真っ暗闇の中、見えない咲夜の顔を見詰め続けている。
 暫くすると雨雲から月が顔を見せた。割れた窓から入り込む月光が、暗がりを溶かして妖精と従者を照らしている。雨音は嘘のように消えてしまった。月が再び雲に隠されて辺りが真っ暗になると、そこでは音一つしない全くの静寂が流れはじめた。
読んでくださってありがとうございます。
コメントや批評、悪かったところなどを教えて下さると嬉しいです。
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コメント



0.190簡易評価
2.10名前が無い程度の能力削除
とりあえず設定だけでもちゃんと知っといてください。
どこがおかしいかと言われれば「全部」としか言いようが無いレベルです。
4.60名前が無い程度の能力削除
設定などなどおかしいところはあるが、文章力は高いと思う。
とりあえず設定文章等を読むことをお薦めします。
5.70名前が無い程度の能力削除
他の方も言ってらっしゃいますが、目の色が違う等の設定ミスが気になりました。

ただ文章の雰囲気は素晴らしく、読んでいて引き込まれるものがありました。
次回期待しています。
9.無評価削除
コメントどうもありがとうございます。
ああ、設定間違えまくってるんですね。
読む人が一番萎えそうな事をしてしまった…… 本当に申し訳ありません。
次からはもっと設定とか理解して書こうと思います。

あと、目の色を設定に沿って変えました。ご指摘どうもありがとうございました。
12.100名前が無い程度の能力削除
え・・・設定とかの次元じゃない気がする・・・・・・想像力に敬礼 美しい文だった
13.100CARTE削除
素敵な表現がたくさんありました。フランに対するチルノの恐怖が一番お気に入りです。レミリアがチルノの首を所望したあとどうなるのか、想像も膨らんで面白かったです。