Coolier - 新生・東方創想話

ダンスホール・前編

2009/05/25 00:42:38
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#0

 紅魔館は、十六夜咲夜のものだ。
 遠く深い森の奥に、湖を前にして佇む、夢に出てくるような真っ赤な洋風のお屋敷があって、そこが紅魔館。十六夜咲夜はそこで働く住み込みメイドの一人で、だから当然、館の主は別にいる。彼女が仕える、羽根の生えた悪魔。幼く小さなスカーレットデビル。だがスカーレットが君臨するあの紅い館それ自体、あれはもうすっかり十六夜咲夜のものになってしまった。彼女以上に、あの数百歳の建物と深く語らっている者はいない。今この時の紅魔館を、常に最も正しく把握しているのは彼女だ。彼女の身体。彼女の仕事場。彼女の今日一日の成果。彼女が刻む、日々の記憶装置。暗い館の中に見つかる、深海の光のような無数のきらめきは、彼女のものだ。埋もれていた光沢を暗がりから拾い出して、手をかけて蘇らせ、日々明かりの加減を維持している。彼女の患者。彼女の作品。彼女の研究主題。彼女のお洒落道具。彼女の抽象的自画像。彼女が紅魔館だ。帰る場所。もう一つの現身。彼女が描き、彼女が配置し、磨いている。今日も。
 十六夜咲夜の生まれる前から、紅魔館は存在したかも知れない。それは今の紅魔館の前身にすぎない。紅いレンガはあった。柱も絨毯もティーカップも。吸血鬼たちの住む巨大な棺桶。埃を腹の中に溜め込んだ、虚ろな建築。そうしてそれは、今となっては殆ど飴細工の材料と同じで、引き延ばされ、均され、曲げられ、壁の一枚一枚がかつて味わったことの無い光を浴び、またかつて蓄えたことのない暗闇を宿していく。彼女の時間を操る力が、館の中の空間をも操って、廊下を迷路に変え、広間を出現させ、こうして誰も知らなかった紅魔館がまた増えていく。紅魔館という言葉の意味は、以前とはまるで変わってしまった。それは生き物の名前になってしまった。十六夜咲夜の手が、隅から隅まで、毎日新しい命を与える。少しづつ姿を変えながら、何百年も前の輝きを灯したままで。以前はそうではなかった。彼女が現れる前はおそらく違っていた。
 おそらく、と言うのはつまり、私は十六夜咲夜以前の紅魔館を正確には知らない。私が会ったときから、既にあの少女は芸術家で、紅魔館は生きた工芸品だった。私がこの館で生活できているのは、実を言うと彼女のおかげで、彼女無くして私がこの館にいることはありえない。もしこの十六夜咲夜という季節がこの地から失われることになったなら、私もほぼ同時にこの地を去ることになるだろう。
 悪魔がいつものように彼女の名前を呼ぶ。あの声が館の中から館に向かって語りかければそれで用事は済んでしまう。紅魔館は、彼女だから。声の主は、果たして解ってやっているのだろうか。この館にこうして住まうこと自体が、彼女との交感なのだということ。たとえ彼女の姿が見えずとも、日々の紅魔館の姿を子細に享受することで、彼女の声色や顔色や香りと同じくらいに具体的な意味を見出せるに違いないのだ。おおよそ見渡せる範囲で、彼女の手と関わりない部分が、この館に僅かでも残っているのだろうか。館の妖精たちがひそひそ話しをしている、その声を聞く度に感じるのは、壁や柱、それらを構成する粒子、館が内包するこの空間、そういったものたちがどんな小さな声もあまさず記憶して、それは声ならぬ声として、やがては彼女へと伝わってしまうのではないかという畏れ。細部を熟知する者へは、細部からの返礼があるものだ。紅魔館を熟知して、十六夜咲夜が歩く。規則正しい足音が聞こえてくる。それは、紅魔館が規則正しく彼女の靴裏を叩いていく音でもある。忠実なダンスのパートナー。常に十六夜咲夜がリードする。紅魔館は十六夜咲夜のものだから。
 時折、私は彼女の最期を想像する。十六夜咲夜が絶え果てる時。いつか、きっと夜だろう。その夜、その一瞬を境に、ふいにたちまち、彼女の力は失われ、その瞬間から、紅魔館は身を震わせてそれを自らに言い聞かせる。館の奥底に鳴る心臓が破裂する。内々に秘められ、途方もない迷路の中に凝縮されていた、物質が、時間が、空間が、催眠術から解き放たれる。悲しく目を開かせ、十六夜咲夜の力のもとに猶予されていた一切に、一息に裁定が下される。刹那に吐き出された何もかもが、何もかもとぶつかり合う。すべての間取りという間取りから、中心が奪われる。館の中にいたなら、きっと全てがスローモーションに見えるだろう。家具や絨毯や壁、紅魔館の内臓が、つたなく踊りせめぎ合う。衝突音、何かがまた得体の知れない何かに押し潰されていく音、痛みをともなう高音、一瞬の間に生み出された音の群れが、ひとつの咆哮となって出口という出口から吹き出し、窓ガラスを千々に粉砕する。館の断末魔が周囲の空気を震わす。巨体をわななかせて、紅魔館は自らの命を、その最期に証明する。図書館から溢れ出した獰猛な魔導書が、唸り声をあげながら、この世のものならぬ閃きを従えて駆けまわる。数えきれない食器が雪崩をうって耳障りに歌う。ティーカップが、思い出とともに砕け散る。そうして慌ただしく輪郭を変えていく紅魔館は、より紅く、火柱になって湖を染め、湖は夜空を照らし、昼とも夜ともつかない時間の中、有限な命の、だからこそ価値を見出されなければならなかった存在の、その終焉を伝える。紅く紅く、いつまでも。




#1

 先生のお腹のラインが、寝息と一緒に、ゆっくり上下している。外からの明かりが、もつれ重なったカーテンを経て、横になっている先生の身体に模様を描きながら柔らかく降り注いでいる。ここには、先生の寝息だけ。他は、ときどき数台のランプが鳴らすパチリという小さな音が聞こえるくらい。私と先生のまわりを、岩と土と本が取り囲んでる。数台の棚の中にじっと黙ってたくさんの背表紙がならんでいる。ちょっと前に外で、小さな動物の四本足が草を踏む音が聞こえた気がした。今は静かで、もう立ち去ったみたいだった。でもじき、そう経たないうちに、目を覚ました鳥の羽音や鳴声が湧いてきて、先生を起こしてしまうかも知れない。そろそろ夜明けを過ぎたようだから。でも人間の出す音は聞こえてこない。ここは遠く離れた場所だから。人間たちには忘れられて、捨てられてしまった場所だから。
 突然、変な音がした。先生の放屁音だった。そういえばこの人も人間だったっけ。見ると、薄目を開けてこっちを見ている先生が、「……失礼」眠たそうに目をこすりながら声を出した。
「起きてたんだ」「いや、まだ……」「さっきね、動物の足音してたよ」「動物か」
 先生が緩慢に身体の向きを変える。向こうにあるランプの逆光になって、顔の輪郭が黒く見える。高い鼻。かけっぱなしで歪んだ眼鏡。見た目だけは柔らかそうな無精髭。
「本当に? 動物だったのかな」
 先生の声は、喉が震える回数が数えられるんじゃないかと思うくらいにガラガラ声。
「私はいつも……見ないけどな、ここに来るときは」
「そ。じゃ気のせいかも」
 何となしに目を合わせて、意味無く笑ってみせると、先生のぶあつい手がこちらにやって来て、私の頭をぐしぐし撫でた。
「先生、最近お魚食べた?」
「なんで」
「ん、オナラのにおいで」
「あ……あー、失礼したね」
「お気になさらず」
「失礼した。申し訳ない。お嬢さん」
 口の端で苦笑いを作ってみせている。男の人の身体は、歳をとると色んな音がうるさく鳴るように出来てるに違いない。だけど先生はイビキなんてかかないし、オナラだって普段は滅多にしない。ふうと溜息をついて、先生は身体の上の薄汚れたまま何重にも重ねた毛布を、うぞうぞ動かして、どうやら寝てる間に持っていってしまった分量を、私の方へと流し戻してくれているらしい。
「動物の足音じゃないかも知れないな。人間かも知れない……
 ほら、前に言ってた、アスペンの林。あそこの連中かも知れない」
「どこだっけ、それ」
「逢い引きしてるんだよ、そこで、よく。若い男と若い女が。内緒で林で落ち合うんだそうだ、こっそりと」
「こっそり落ち合って、なに? 歌ったり踊ったり?」
「まあ、要するに、あんなことやこんなことを。程度の低い戯れごとや絡み合いでも、まわりの環境さえ良い具合に整っていれば、まるで大したことみたいに、神話の再現みたいに見えてくるのさ。蛍や星や葉っぱの下で、絡み合ってる男女の姿があって、それを何かがひそひそ遠巻きにして見てる。あの野山のざわついた静けさや、もう遠のいてしまった人間の節操や、夜行動物達の視線が、じっと。ああでも、あそこに動物なんて住んでなかったっけ。そういえばこのあいだ、男が一人死体になって見つかったそうだ」
「その林って、ここから何キロも離れてるんでしょ。林の中で迷子になって、ここまで歩いてくる?」
「ああ、そうか、それはないな。そこの丘陵と、それから小川も越えた先の先か、あの林は。まだずっと浅い場所だ。ここはもっと離れてる。昔は違ったが、今じゃ誰も来ない。獣すらほとんど見ない」
「そう、ここまでは誰も来ない。先生と私だけ」
 どうもまだ頭がちゃんと起きてないらしい。ぼそぼそ、うだうだ、起き抜けの先生は大体いつもこんな感じだ。なんとなく無意識のうちに、私も先生のボサボサ頭に手を伸ばしていた。頭蓋の大きさを計るみたいにして指を這わす。
「先生、またあの夢見た?」
「ああ」
「私も」
 先生は睡眠中、夢は見ないか、決まって同じ夢を見るかのどちらからしい。そして、どうしてか不思議なことに、この人の側にいる時には、私もそっくり同じ夢を見る。
「燃えてたね。あの火はずっと燃え続けるのかな」
 それは、夜空の下で、大きなお屋敷が火に包まれている夢だった。赤く赤く燃えている屋敷の前で、私は立ち尽くしている。火の輪郭を探す絵描きみたいに、そこに立ち続ける。窓から転がり落ちたと思しき大きな家具が、幾つか動物のようなシルエットでそこいらに転がっている。それらも、炎の明るさで、真っ赤に染まって見える。地面も、きっと私の瞳も、顔も、髪の毛も、赤かった。いつまでも、いつまでも、屋敷は燃え続けている。
 鳥の声。朝霧の中、飛び立つ音が聞こえた。先生はもぞもぞと動き出す。しばらくしたら、今日もここから出て行ってしまうのだろうか。いつまでもここにいたって良いのに。先生も本当はずっとここにいたいよと言ってくれる。いたいだけ、いてくれて良いのに。私たちの小さな洞穴。出入り口のまわりには、緑の迷路。本当に、植物で迷路が出来ている。かつてはどこかに正しい通路のある、ちゃんとした庭園だったのだろうけど、今では好きに伸びた緑が氾濫して、くぐったり越えたりをしないと解けない迷路になってしまった。そこを抜けると、目の前に黒こげになった大きなお屋敷。夢に出てくるあの場所がある。この洞穴のある場所は、昔はそのお屋敷の庭の一部だった。古いお屋敷の、入り組んだ庭に、知られずに隠された洞穴。いつからどうしてここにあるのか、誰にも分からない。
 昔、幼い先生と私は、一緒になって眺めていた。今でも夢に出てくるその景色を。あのお屋敷が火柱になって燃え続けるのを。二人だけで、いつまでも、眺めていたんだ。




#2

 山や森や荒野、そうした人間の領域の外の世界に漂う静寂というものには、大きな存在感がある。言葉が止まって沈黙が降り立ってからようやく姿を現すようなものではない。会話の最中であっても、諸々の後ろに立って、事態をじっと眺め続け、居合わせた者を威圧し続ける、逞しい静寂とでも呼べるようなものが、自然の中には確かにある。ここ紅魔館の一室も、そんな逞しい静寂が沈黙を得て顕在化し、部屋の中の二人を包み込んでいた。
「……ごめんなさい、よく聞こえなかったわ。今、なんと言ったのかしら、咲夜」
 レミリア・スカーレットが尋ねる。従者である十六夜咲夜が答える。
「仕事を、辞めさせていただきたいのですが」
 もうちょっと言い方があってよさそうなものだとレミリア・スカーレットは思った。お暇を…とか、お遑を…とか。いやしかし、そんなことは今はどうでもいい。
「辞めるって、それは、どういう……ことかしら?」
「わたしの仕事って何でしょう」
 質問を質問で返され、レミリア・スカーレットは大いに困惑する。
「大事な仕事よ。私にとっては。私にとって大事なことだし、あなたにとっても大事なことじゃなかったのかしら?」
「いえ、その、単に、わたしの仕事というのはどういうものでしょうか?」
「メイドじゃないの? …………違うの?」
 レミリア・スカーレットは訝しげな表情を浮かべる。何を確認したい? 何故そんな自分についてのことをいちいち主人に喋らせるんだ、こいつは。無礼な従者だ。
「料理をして、掃除をして、洗濯をして、紅茶を煎れて、そういうのがあなたの仕事じゃなくて? 咲夜、大丈夫?」
「そうです、お料理、お掃除、お洗濯、そういうものを、申し訳在りませんが辞めさせていただきたいのです」
 口を開け、言葉を出せず、再び閉じ、レミリア・スカーレットはしばらくぱくぱくし、細い指で空を切りながら、要領を得ないジェスチャーを試みている。
「つまり」
 トン、と指で膝を叩く。まるで何か合点がいったかのような仕草だった。
「こういうことかしら、あなたは今ならべたような仕事を辞めて……いや、できれば辞めたいと」
「ええ、仰る通りです」
「今言ったような仕事に限って辞める」
「ええ」
「いい、分かった。大丈夫、分かったわ」
 レミリア・スカーレットの細長い指とその先についた爪が空中をせわしなく舞って、事態を整理しようともがいている。
「すいませんお嬢様。唐突に過ぎました。説明させてください」
「その一言を待ってたわ、咲夜」
「てっきりお気づきとばかり思っていたのですが」
「ええ任せて」
「ここ数週間、わたしはそれらの仕事を、直接にはやっていませんでした」
「あらそうだったの」
「この館の妖精達を、少しばかり訓練しました。彼女達にも向き不向きがあるようで、適材適所に配置して、チームを組ませて、得意そうな仕事を教えてみました。数週間前から、この館は彼女達が回しています。一応わたしがチェックしていますが、もう任せてしまって問題ないように思います。どうでしょう、この数週間、これまでと比べて、なにかご不満がありましたら……」
「あなたが最後にチェックして、それから私に通してたんでしょ? だったら変わるわけないじゃない」
「ええ」
「わかったわ。要するに……」
 頼りなくふわふわしていたレミリア・スカーレットの両の掌が、ひしりと合わさった。
「咲夜は今までの仕事をそいつらに任せて、メイドを辞めて……その、えっと、なんと言ったかしら……
 そう、侍従ね! 侍女だったかしら? レディーズメイド? それになるわけね。ああ、もう、咲夜がいきなり辞めるなんて言い出すから、無駄に驚いちゃったじゃないの。それじゃあ、これからはもっとずっと一緒にいられるわけね。私の身の回りのお世話専門になるのね。まあ、あんまり始終くっ付かれてもあれだけど。ああ、驚いた。話はそれで終りね」
「お嬢様」
「あ、でもね咲夜、私の紅茶だけはあなたが煎れること。分かった?」
「…………はい」

 紅魔館の図書館。レミリア・スカーレットはこの図書館の主パチュリー・ノーレッジに向かって、ぶつぶつ語りかけていた。今、十六夜咲夜の姿はここには見えない。だが紅魔館の中では、十六夜咲夜に何をどこまで秘密にできているのか、誰にも分からなかった。しかし今更そんなことを気にしても仕方が無いと心得ているレミリア・スカーレットは、先程の十六夜咲夜との会話の内容について喋り続けた。パチュリー・ノーレッジは本のページに目を落としながら黙って聞き続けていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「暇できる時間が欲しくなったのかしらね。随分人間らしくなってきたじゃない」
「咲夜は人間だものね」
「いいえレミィ、あなたがあの子に、人間の名前を与えて、人間としての運命を与えて、人間向きの仕事を与えて、人間にしたのよ。最初にここにやってきたのは、私の知る限りの人間ではなかったわ。人間から生まれて、人間の血を持っていたとしてもね」
「まあ、言われればそんな気もするわね。獣だか怪物みたいだった。人間も妖怪も区別なく餌食にしてたわね。あの頃の咲夜に比べて、今の咲夜はちょっと切れ味不足だわ」
「そういうものよ。人間らしくなるに従って、きっと力も弱まってくるはず」
「そ。残念。私は怪物の咲夜も好きだったんだけど」
「勘弁して。あんなのの相手はそうそうしてられないわ。あなただって持て余すに決まってる。今あなたと咲夜が一緒にいられるのは、人間の咲夜だからよ」
「だって、いざってときに怪物より使えなさそうじゃない、人間になっちゃったら。ま、咲夜はどっちにしろ優秀だから、別にいいけどね」
 向こうの壁まで光が届かないくらいに、暗く広大な図書館の、その天井を、本を数冊抱えて飛び回っているのは、パチュリー・ノーレッジの使っている小悪魔だった。どうしてそうひっきりなしに本の場所を動かしていなければならないのか、レミリア・スカーレットは毎度のように訝しんだ。
「レミィ、今私が読んでるこの本、これは以前は読めたものじゃなかったわ」
「まあ、そんなにつまらなかったの」
「面白すぎたのよ。ページの内容がぐるぐる変わったり、機嫌が悪いと表紙も開けなかったりね。だけど、ある特定の配置で、特定の本とならべてる間に、力が若干弱まって、こうして読めるようになった。まあ、完全に力を失わせたりしたら本末転倒なのだけれど」
 レミリア・スカーレットはまわりを取り囲む本棚の群れを眺める。この全てが、そんな風にして編み込まれた配置なのだろうか。
「この図書館がどれだけ広大であっても、私が読書に浸れる時間がどれだけ長大であっても、それは本との関わり方の選択肢の広さを保証するものじゃない。限られた状況の中でしか、特別な価値を持ち得ないものは、そこかしこにあるわ。限られた状況の中でしか、人間が人間としていられないように」
 パチュリー・ノーレッジの目が、レミリア・スカーレットを見据える。
「限られた状況の中でしか、悪魔が悪魔としていられないように。最近、運命を操る力を使ってみた? そうでなくても、何か悪魔らしいことをしてる?」
 レミリア・スカーレットは答えなかった。
「同じ棚に置いちゃいけない本なんてたくさんあるわ。隣同士に置いたりはできないはずの組み合わせを押し通して、ひどいことになってしまった話なんて、たくさん。私なら、もうちょっと配置に気を使うわね」
 言うとそれきり、パチュリー・ノーレッジは再び黙ってしまった。レミリア・スカーレットが出て行くと、ページを捲る音と、小悪魔の羽音だけが、図書館の中に取り残された。




#3

 どれだけ前の話になるだろう。打ち捨てられ忘れられたこの場所に、かつてのあの少年が、今の先生が、白髪まじりになって初めて戻って来た時、汚れた服と、洗っても剃っていもいない顔と、疲れた靴を引きずって、国を逐われた王様みたいな趣きだった。頭よりも高い灰色の草の壁をかき分けて、分け目に足先をねじ入れるようにして、靴の下でシュルシュルと走る蛇を無視しながら、猛然と進んでいく先生の額には、ひび割れたような皺が幾つも刻まれて、その下にある眼差しは彫像のようにじっと前だけ睨んでいた。そうして辿り着いた先に、黒い館の大きなシルエットが怪物のように現れた時、思わず吼え声でもあげたのかどうか、私には知れないが、きっとそれくらいの驚きをもって、物心ついた時からそこで暮らし、最後に炎の中で黒く変わっていく姿を生涯にわたって何度も反芻した、因縁の館との再会は成ったのだろう。放棄され忘れ去られた建物というのは、一つ風が吹くだけで、あらゆる音をあちこちに響かせるようになる。住人を失って初めて得た声で、ずっとここで叫んでいた。生き物に生まれ変わったかのような音響と、昔のままの懐かしい細部の造形とを兼ね揃えた黒焦げの建物の、もう上がれなくなくなったその三階建ての、その足元に、先生は腰掛けた。何をするでもなしに。
 やがて夜が来る。遥か遠くの水の音も耳を澄ませば聞こえてくるような、それでいて常に無数の音に囲まれているような、奇妙な静けさ。木々の匂い。小さな火と、輝く煙に照らされ、一人佇む先生の姿は、きっと滅び去った世界を懐かしむ最後の生き残りのように見えただろう。その頃には、私も何となく誰かがこの廃墟のまわりにやって来たということには感づいていた。洞穴から頭を出して、遠くから焚き火を眺めたりはしなかったが、穴の中からでも何となくの気配は察していた。それでもまだその時には、自分とは関わりない狂人が、自覚が在るか無しかで、ここを死に場所にするために迷い込んで来たんだろうとしか思わなかった。
 先生は懐に持って来ていた僅かの他には、食べ物を得る術は無かったようなので、実際のところ、ここで死ぬ手筈だったのかも知れない。数日間をここでやり過ごせたのは、先生の真人間らしからぬ履歴のひとつだ。一人きりの、言葉の消えた世界。黒い南極。氷の代わりに瓦礫に包まれた、この世の果て。何日目かに、雨が降って来た。そういう時には、遠慮無しの雨粒で全身を叩かれる代わりに、煤けた屋根の下に入って、木炭を通過した雨水を、ボタボタと身体のどこかで受けていた。腰を下ろし、雨音の終りを延々待ち続けながら、かつて暮らした館の残骸の内側から、かつての庭の残骸を望んだ視線は、その先にある絡み合った植物の塊に、子供の頃に遊んだ庭園の面影を発見する。
 雨は降り続ける。身体のあちこちにはタイミングをずらしながら雨水が落ち続ける。先生は身動きもしないで、目の前だけ見つめ続けた。雨風と廃墟が作る音のこだまに囲まれながら、思考は遠く静かに過去を掘り起こしていた。記憶の中の庭。迷路の道順。順路の先。そこにあった古い思い出。目は眼前の緑の塊を捉え続け、かつての姿と重ね合わせる。音に囲まれながら待ち続ける。身動きひとつせずに。やがて、ひときわ大きな拍手のような雨音が鳴り止むと、重たそうに輝き出した緑色の迷路へ向かって、先生はまっすぐに歩き出した。
 この時点で身体は相当に疲れていたはずで、この上、枝や蔦と格闘して、緑の壁に圧迫されながら、前後左右の分からない空間で息絶えることは、普通の人間ならば避けようとするだろう。けれどその時の先生には全く迷いがなかった。迷路の出入り口の、最初の一叢を片付けるのには手間取ったが、一旦内部に入ると、思いのほか楽だった。迷路の形は思ったより保たれていた。緑の中を進む。緑のトンネルをくぐる。かつてこうして、ああ、そうだ、ここを走った。ここだ。足を躓かせ、頭を打って、またすぐ起き上がる。走り出す。ほら、ここだよ、ここだ。記憶を辿り追いかける足が、踊るようにもつれる。誰もついてこない。僕の足は日に日に速くなっていって、ほら、今日の足は誰より速い。誰も追いつかない。何も追いかけてこない。通路の奥、誰も知らない抜け穴、ここじゃない、ここに壁は無かった。枝葉を身体に目一杯まとわりつかせながら、突き破る。疾走する。緑が濃さをくるくる変えながら流れていく。誰も追いつけない。ついてこない。急げ。今のうちに、ほら、もうすぐ秘密の場所だ。あの秘密の隠れ家に行こう。あの匂いと、あの静寂の中に駆け戻ろう。身体の蔦が邪魔だ。壁が邪魔だ。壁から伸びる意地悪い枝が邪魔だ。捕まる。手と枝が、枝と枝が、絡まる。不意に目の前が暗転し、位置を見失う。足が空を切る。速力のままに世界が回る。鈍い音がして、痛覚は後からついてくる。やがて天地が戻ってくる。時間が穏やかに追いついてくる。
 そうして、先生は、かつての少年は、再びこの洞穴に辿り着いた。見るに耐えない姿になっていたのは、私も先生も同じだった。美醜を知覚する視線に長いこと会っていなかったので、外見を気にかける必要がなかった。だから最初、私を見た先生は、全身を痙攣させたみたいになっていた。知らない間に、私はよっぽど怖ろしい姿になっていたのかも知れない。だが私の五体が、これはかつて知っている眼球からの、かつて浴びたことのある視線であると認知すると、もうそれで、次の瞬間には何もかもが解決していた。外見というものは、私みたいな存在と、先生のような人間とでは、意味合いが違う。私はこの洞穴に封印された一匹の悪魔だった。
 ヒューヒューと深く苦しげな吐息が、先生の喉から聞こえていた。やがて、自分の吐息を聞きながら、他には何の音も無いことに気付いたようだった。聞こえるのは自分の吐息だけ。表情がかわる。そう、これは、懐かしい静寂だ。この場所だ。ここは……
「……ってない。変わってない。なんにも」
「そうね」
「きみも。あの時のまま」
 少年のように笑う。年老いた唇の端が切れる。こんにちはお坊ちゃん、お久しぶり。どうしたの、ひどい格好。
 私ができる限り優しい笑顔を作ると、お坊ちゃんは、先生は、心底落ち着いたようにして、くったり眠りに落ちた。地上からの光線が、もつれたカーテンを経て、柔らかく降り注いでいた。




#4

 流れる水の運命。湖畔の中に澱む運命。機会さえ得られれば、再び流れ出すはずの運命。移りゆく葉色のいずれ枯れゆく運命。引力につなぎ止められる運命。摩擦力を保持する運命。命ある者としての運命。人に害為し怖れられる、悪魔の運命。道具を手に取り相争う、人間の運命。運命というものに、幸せな運命とか不幸せな運命とかいう区別は無いのだ。運命を操る程度の能力を有するレミリア・スカーレットはそう心得ていた。運命とは、古く強い、見えざる手の織り成す仕事だ。その手が、万物をこの世に引きずり出して、留まらせる。そうでなければ、万物は存在を維持することができない。運命を背負うことを放棄すれば、全てのものは霧散してしまうだろう。そういうたくさんの古い手が、古い掟が、この世を作っている。永遠を生きる吸血鬼であり、大きな力を持つ悪魔でもあるレミリア・スカーレットは、それら、運命を織り成す古い手の存在を感じ取ることができた。運命を操る能力とは、そのたくさんの手のひしめく間に自らの手を直接割り込ませて、意中の対象を自分以外の手から引き離し、新たな掟を背負わせる術のことだった。手の動きを先読みし、状況を動かし、あわよくば望みの方角へと着地させる。力ある悪魔なればこそできる技だった。
 あの十六夜咲夜を人間へ戻したのも、その力だった。十六夜咲夜が、紅魔館にいる唯一の人間で、白く細いなりをしているからといって、悪魔が無垢な小娘を籠絡したなどと考えてはいけない。レミリア・スカーレットの力が、あれをようやく人間らしい人間へと戻したのだ。吸血鬼以上に血に取り憑かれた怪物を。時の歪みの中で揺らめく獣を。あの宿業の塊を。レミリア・スカーレットの目と手が、血の匂いの中から、十六夜咲夜の年相応の姿を見つけ拾い上げた。十六夜咲夜を自分の側に置くために、その中に流れる人間の血に訴え、人間本来の運命へ立ち帰らせ、そうしてその気性を鎮める他に、とれる方法は幾つも無かった。だがたとえ新たな運命を手に入れたとしても、その者自身に宿った業というものが消えて無くなるわけではない。今の十六夜咲夜があれほど自分の仕事や紅魔館という建築に対して情熱を傾けてきたのは、主人や館のためばかりでなく、自分を保つためでもあった。
 紅魔館へ来る前から、十六夜咲夜は既に吸血鬼が生きるために行う程度の荒事は一通り経験してしまっていた。だから、たとえば紅魔館の台所仕事を任せる場合でも、レミリア・スカーレットは遠慮を覚える必要がなかった。そしてある時、こんなことがあった。紅魔館の門に、人間の女の子が一人泣きながら歩いて来た。こういう場所で迷子になって、よく妖怪の餌食にならなかったものだが、このまま放っておいて無事で済むとは思えず、紅魔館はその人間の子供を一時的に迎え入れた。ずっと置いておくわけにも、この土地と交わした契約上の都合で、むやみに迷い子を食べてしまうわけにもいかず、人間の里に探りをいれたところ、既にこの付近で行方知れずになった女の子のことは話題になっており、捜索も行われていたので、さほどの労無く人里へ帰すことができた。両親に抱かれ人里へと向かう女の子の姿を遠くから眺めながら、確か、その時は星の明るい夜だったが、レミリア・スカーレットが傍らの十六夜咲夜の顔をふと見上げると、そのそっけない表情の中に浮かんだ微細な動揺の色を、もうこの先、二度と忘れることができなくなってしまった。それは深呼吸一つで洗い流される程度の動揺ではあったが、なにかしら決定的な意味を物語っているように思えた。あの子供がいた短い期間のうちに、十六夜咲夜との間に少しの会話でもあったのか、今こうして帰っていく後ろ姿を十六夜咲夜はどんな気持ちで眺めているのか、正しいところをレミリア・スカーレットは計りかねたが、人間になってしまった十六夜咲夜が、人間ならざる十六夜咲夜であったなら感じ得なかった感傷を、あの親子連れに見てしまっていることは確かだった。それでも十六夜咲夜はあくまで十六夜咲夜であって、その人生のいかな場面にもああいった人間関係は存在せず、代わりにあるのは呪われた過去の記憶で、頭の中では今日これからの紅魔館での仕事の段取りが踊っており、その調理場で待っているのは血抜きを済ませた人間の肉塊なのだ。十六夜咲夜の表情を見て、レミリア・スカーレットは思った。運命に、幸せな運命も不幸せな運命もない。だが、運命と別の運命との関わりにおいては、その限りではないのかも知れない。十六夜咲夜を人間に戻したことで、ふたつの不幸が降り立ったのではないか。ひとつは、その他の多くの人間と、十六夜咲夜との間において。もうひとつは、十六夜咲夜とレミリア・スカーレットとの間において。レミリア・スカーレットは、紅魔館の料理番をしていた妖精達に、しばらくの間は十六夜咲夜に人間の調理をさせないようにと指示を出した。しばらくの間とはどのくらいの期間のことなのか、言った当人にも分からなかった。あれから随分と時間が経った。今、調理場で料理を作っているのが誰なのか、レミリア・スカーレットはわざわざ知ろうとはしなかった。
 もうひとつ、昔話がある。十六夜咲夜がメイドとして務め出してまださほど経っていない時期のことだった。ある時、パチュリー・ノーレッジが、紅魔館の中に人里で作られた生活用品が日増しに増えていることを発見する。誰もそれらを新調した憶えが無く、状況から、十六夜咲夜が誰にも知られず人里から持ち去った品々であると考えるのが自然で、事実そうだった。しかし人間である十六夜咲夜にはきっと必要な品々であろうしこのまま大目に見れば良いというレミリア・スカーレットの言葉を、パチュリー・ノーレッジは信じられないという表情で糾した。紅魔館が、身内の窃盗を見逃し続けるわけにはいかない。正論だった。結局、十六夜咲夜には金を持たせて、盗ませる代わりに買物に行かせることにした。その道程、十六夜咲夜の歩幅からはいつになく感情が読み取れて、その足取りは遅かった。後ろから幾らかの距離をとって密かに、レミリア・スカーレットが妖精達を引き連れ歩いていく。ある程度人里が望めるまでに近づくと、畏れられるべき吸血鬼がもうその先を付いて行くわけにはいかず、十六夜咲夜の後ろ姿が、人間達の喧噪の中へと孤独に消えていった。レミリア・スカーレットは人里を高台から見下ろしながら帰りを待ち続けた。人間達の家が連なる様を見て、レミリア・スカーレットは思った。この景色を眺めるのが人間の目であれば、この家のひとつひとつ、窓のひとつひとつ、道のひとつひとつに、親密さを感じ、特別な感情に打たれるのかも知れない。自分の暮らす紅魔館が日の下に開腹して、幾重にも広がっているようなものだろう。人間ならば、この景観や音響や背後にある歴史に、圧倒されるのかも知れない。だがそれは悪魔であるレミリア・スカーレットには分からなかったし、十六夜咲夜にも分かり得ない感覚であるに違いなかった。十六夜咲夜とは、そういう人間なのだとレミリア・スカーレットは知っていた。人里から混濁して聞こえてくる種々の喧噪が、妙に哀しく聞こえて来て、今そのただ中を歩いているであろう十六夜咲夜の心中を思った。不滅であるはずの自分の心臓が、キリキリ痛むのを感じる。咲夜、こんな落ち着かない、哀しい場所、さっさと引き上げて帰ろう。はやく帰って来い。はやく私の側に。だが、自分の側が哀しい場所ではないという保証は何処にも無いと、レミリア・スカーレットは静かに自覚していた。




#5

「子供の頃、ここで何度も話したっけ。こっそり隠れて」
「そうね」
「誰にも内緒で、いろんなことを。秘密の話を」
「そうね。懐かしい」
「どんなことでも、君に話すと安心できたから」
 蛇や兎の巣穴みたいに、地面に空いた洞穴。出入り口まわりは、雨が入らないように一応の傾斜がつけてあって、閉じられる板の蓋と、おざなりなカーテンもあった。狭い空間を、剥き出しの土の壁の代わりに、本棚がぐるりと取り囲んでいる。昔はそれぞれが違う色だったはずの本の背表紙も、いつしか全て砂色に統一されている。この場所に久しぶりに灯りが射したから、分かったことだ。
「正直言って、長いあいだずっと君を、子供が見た幻だと思ってた。あの頃の僕は空想の中の友達に助けられて生きていたんだって」
「いるわよ、ちゃんと」
「なにもかもが不確かになる。人間っていうのは、君等とは違って歳を取るから。思い出はどこまで本当だったんだろう、昔、大きなお屋敷に住んでた? 本当に? 今でも時々怖くなる。いるね、君は。ここに、確かに」
「いるってば」
 先生は、突然ボロボロになった姿で帰ってきて、それからすぐ死んでしまったりは、しなかった。ここには人間に分けてあげられるような食べ物は何もなかったけれど、力の無い生き物から命を奪ったり、逆に命を保つのを少し助けたりするくらいの術は、生まれつき私は心得ていた。それでも先生が無事にまた人里に帰って行けるのかどうか、定かでなかったけれど。
「僕は君をなんて呼んでたかな。君、で良かったっけ」
「そうよ、お坊ちゃん」
「君は少しも変わらないな。きれいなまま。何故だろう」
「さあ。でも嬉しいでしょ?」
「昔、子供の頃、君の髪に触ってもいいかって尋ねたっけ」
 先生は本を読む時にはいつも、指の先で次に捲るページの端をぱつりぱつりと弾く癖がある。目線を本へと戻して、また読み進める。今の先生の服装はそれほど上等じゃないけど、再会した時ほど劇的な格好でもない。あの日以来、先生はどこか遠くの村だか町からこの洞穴までを、人目を忍んで行き来するようになった。神経も心臓も、そこはかとなく弱そうな、儚そうな人だけど、脚力だけは人並み以上のようで、先生はこうして今日も無事にここに来てくれる。
「もうそんなに時間が経ったのね」
「充分に経った」
「そうね。ほんとにね。だって、あの頃のあなた、こんな可愛い子供だったじゃない」
「君はずっと、ここにいたままか」
「そうせざるを得ないもの」
 何度か往復するうち、洞穴の隅に積んであったちょっとしたガラクタの山から、先生はランプを発見した。それを磨いて、油を注して、吊るして、光を灯した。重たくてゴツゴツしたランプなのに、光は少ししか採れないので、三つ程を上に吊るさなければならなかった。そのうち何かのきっかけで頭の上に落っこちて来て、もしかしたら先生を死なせてしまうかもしれない。すぐにカンカンに熱くなる金属で出来ていて、先生が背伸びして本棚の上の本を取ろうとすると、たまに髪の毛からチリチリと煙が上がっているのが見えた。
「本の呪い……だったっけ」
「本の封印。本に捕まえられてる。この中のどの本かは知らないけど。いつかずっと先、それが時間切れになって解けるまで」
「そうだった。子供の頃にも聞いたな。でもよく分かってなかった」
「私ね、あなたが若いままの姿でやって来ても、あなたのずっと先の孫の孫がやって来ても、多分どっちでも驚かなかった。時間がどれだけ経ったかなんて数えてられないもの」
「ずっとこの中?」
「最後の夜に、二人で燃えるお屋敷を見てたの、憶えてない?」
「憶えてる、憶えてるよ」
「あの辺りまでなら歩いて行けるけど。でも長くは出られない」
 ランプを吊るして初めて点灯した時に、先生は、灯を点けるとこの本たちが痛むだろうかと心配した。いいのよ、こんなの、と言って私が棚にある背表紙を足蹴にすると、先生は驚いたようにそれを制した。私には、どうせ読めない。私にとってはただの鎖と一緒だけど、先生はそれを棚から取ってこうしてたまに読んでる。何種類かの、変な文字で書かれた本も読める。そうして時々、私にも読み方を教えようとする。
「……あの夜の火事でみんな死んじゃったな。頭のおかしい母親も、父さんが死んだあとでどこからか湧いてきた親戚達も、みんなみんな。そのおかげで、それなりに苦労したけど」
「私、あの火事の夜のことだけなんでかはっきり憶えてる。忘れていいことはみんな忘れてしまうようにしてるんだけど」
「神話とか古い読み物に、モーリュの花というのが出てくる。君は見たことある? 神様の薬草」
「なんの話?」
「若い頃に、その種を買ったんだ。怪しげな連中から」
「その手のものが好きだったっけ、お坊ちゃんは」
「君の影響かな。子供の頃に君みたいな、黒い羽根の生えた友達がいたんだから」
 もうとても坊ちゃんと呼べた見た目ではない彼に、何て呼ぼうかと私は聞いた。すると、最近は人から先生と呼ばれていると答えた。だから私もそう読んでいる。私にとっては字を教える先生だった。ちっとも覚わらないけど。かつてのお坊ちゃんはついに浮浪者か何かに落ちぶれてしまったのかと思ったけど、そうでもなかったらしい。
「その手の本も沢山読んだ。実在するかどうか分からない変な品も沢山手に入れた。結局、モーリュの種は一体幾つ手に入れたかな。種の色形、みんなそれぞれ違うんだ」
「全部偽物じゃないの?」
「ああ、そうかも知れない」
「わりと楽しく生きてきたみたいね」
「結局、僕だけがここから逃げ出したみたいになってしまって、それは気に病んださ。でも、ここであの連中と暮らしてても碌なことにはならなかった。
 そうして、町で暮らしながら変なものを買い集めて、想像してた。これがあれば、いつかの洞穴の友達も、あそこから救い出してやれるんだろうかって」
 この人って、町では一体なんの先生をやってるんだろう。
「燃える屋敷を毎晩夢に見て、若い頃はそれなりに罪の意識と戯れもしてた」
「罪の意識? なあにそれ」
「暇つぶしになる」
「悪趣味ね」
「まあね。
 ……変わらないな、ここは。変わったのは僕だけか。こんな小さい子供だった」
「そうね。懐かしい」




#6

 食器の音。たくさんの陶器が、互いを壊し合わない程度に気を遣いながらもぶつかり合う明るい音が、ホールから聞こえてくる。調理室から漏れ出す良い匂いが廊下を巡る。いつものごとくにレミリア・スカーレットの気まぐれな一声からパーティーの用意が始まって、数日を経てようやくもうじき、準備万端一切が整う。寝室で、レミリア・スカーレットの頭へとパーティー用のドレスがかぶせられる。視界が塞がれ、まわりが見えなくなっても、すぐ側の十六夜咲夜のことは体温で感じられる。十六夜咲夜の心臓。十六夜咲夜の血流。十六夜咲夜の人間の首筋。口の中で牙がもたげて上がってくる。駄目だ、落ち着け、吸血鬼。
 十六夜咲夜がランドリーメイドやハウスメイドの領分を妖精達に明け渡して以降、いつもにも増して長く視界の中に留まり続けるその白い首筋が、レミリア・スカーレットの気を苛むようになっていた。それもあって、パーティーでもしましょうかと、気まぐれな口調で言い出した。そうなれば、またいつものように十六夜咲夜は仕事に追われるはずだと思っていた。だが二、三の指示を出しただけで、十六夜咲夜は残りの仕事を妖精メイド達に任せてしまって、実際それでちゃんとパーティーの仕度は回っていくので、レミリア・スカーレットの思いつきは無駄になった。
 パチュリー・ノーレッジに言われた通り、レミリア・スカーレットはここのところ運命を操ることがなくなった。理由は、単に気分の問題なのかも知れないし、それ以外なのかも知れない。人間と悪魔が間近で暮らす不自然。配置の問題。べつに生きるのに不可欠な能力でもなし、日常生活を先回りで操作してわざわざ退屈にする必要も感じない。だが、生身の手足のように、能力だって使わなければ細くなっていく。自分が吸血鬼であり悪魔でありレミリア・スカーレットであることを確認する必要があるのも確かだった。ある時、操ろうとした。日々の生活の中で、些細な運命を。運命の形を捉え、一瞬で掌中に納めようとした。だが、出来なかった。何故だろう。目の前にいる人間の影響なのだろうか。だとしたら、十六夜咲夜と関係のないところで、十六夜咲夜と関係の無い運命を操るんだったら、それならまだ出来るのだろうか。どこかの縁遠い運命を、どこかの日に操る。その日を決めておこう。
 儀式の日だ、とレミリア・スカーレットは思った。知恵ある生き物には必要なのだ。自分達にとっての世の中とはつまりこういう場所だと、自身に言い聞かせるための儀式。気まぐれから始まるこのパーティーも、紅魔館における儀式だ。吸血鬼も人間もたくさん儀式を持っている。以前に近くまで歩いて行った人里には、あそこには墓地がどれだけあったっけ。人間が墓に入るまでの儀式、あれはなかなかよく出来てる。息絶えた身内を、いつもは寝ないような場所で横たえて、蝋燭を灯して側で過ごし、時間とともに気持ちを納得させて、その後は焼くか埋めるかするのだ。必要な儀式だ。動物みたいに、気持ちに任せて死体をずっと腐るまで抱え続けているようなことを許しては、心が持たない。人間は生き死にに取り囲まれて日々を過ごしているから。それが人間が背負う運命であり、掟だ。掟を履行するために、儀式というものがある。
 レミリア・スカーレットは、自分の服を整えている十六夜咲夜の首筋を再び眺めた。今そこに牙を立てて食らい付いて、成すべきことを成すならば、自分は吸血鬼としての儀式を果たしたことになるんだろうか。吸血鬼らしい吸血鬼ということになるんだろうか。幾つもの果たさないままの儀式が、掟が、それを後押しする。十六夜咲夜と暮らし始めてから数年間。履行されなかった儀式。履行されなかった掟。頭の中で。行動の中で。積もり積もった幾つもの小さな不履行。吸血鬼としての不履行。負債を支払ってしまうならば、早い方がいいのだ。さっさと。
 この咲夜に何があったとしても、人間の掟の中には帰してやらない。たとえ病気になっても、人里の医者の手なんかに渡さない。喧しい役立たずの人間なりの道理を唱えるだけだろうから。死んでしまっても、人間の墓になんか絶対に入れない。あんなにも嫌って怖がっていた人間達のただ中へ、きれいにすっぽり納めてしまって、じゃあ人間は人間同士あの世で仲良くなんて、そんな都合良く気味の悪い妄想を振り回すことなんてできるものか。咲夜がどういう奴なのか良く知ってる。そうでなきゃ、咲夜の主人失格だ。それなのに、十六夜咲夜は人間だった。日に日に人間になっていく。人間の運命が私達の仲を苛んで、いずれ私達を一緒にいられなくするかも知れない。十六夜咲夜をどこまで苦しめるんだろう、人間というやつは。牙を立てるなら、すぐに立てるべきだった。一度も人間の運命なんか与えないまま、まだ獣の咲夜に牙を立てるべきだった。たとえ穏やかな関係ではいられなくても。すぐに持て余すとしても。
 人間と吸血鬼の運命の重なり合う、この小さな足場の中でしか、レミリア・スカーレットは十六夜咲夜と共にいられない。この小さな足場で二人して立っている。今はまだ、こうして窮屈に立っているしかない。この関係を変えてしまったとしたら、どれくらいの数の後悔に襲われるか分からなかったが、ひとつはっきり形になって見えている後悔は、何故もっと早くに済ませてしまわなかったという後悔だ。十六夜咲夜がレミリア・スカーレットの服装の仕度を終えて、部屋を後にしようとする。
 レミリア・スカーレットは何故だか焦っていた。この焦りがどこから来るのか、自身にも分からなかった。もしかすると、運命を覗く力が閉ざされている今でも、どうしても感じられてしまう兆候があるのかも知れない。視界を塞いでいたとしても、食器の音や、料理の匂いがここまで届いて来るようにして、何かの仕度が、今にも準備万端に整いつつあるのを感じるのかも知れない。恐ろしげなものの期限が迫っているのかも知れない。
「咲夜」
 部屋の戸に手をかけた十六夜咲夜が足を止めて、レミリア・スカーレットと目を合わせる。
「今日のパーティーにはいかないわ。出らんない」




#7

 そうして、子供の頃から悪魔と友達だった少年は、大人になってついに魔法使いになってしまったらしい。先生は複数の金属を組み合わせた大きなペンダント、魔術師が使うような形のそれを片手に持って、本棚の前をぐるぐる歩いている。
 以前に先生は、ここに何種類かの種を持ってきて私の前に並べた。そのしばらく後に、何種類かの植物の芽を私の前に並べた。育ったから持ってきたらしい。で、今度は何種類かの花を持ってくるんだそうだ。私も先生も、種や芽を見てもどうも確信が持てなかったので、結局、たくさん咲いた中から本物のモーリュの花とやらがあるのかどうかを見定めねばならないらしい。
 先生は、スッと棚から本を取ると、それを開かないまま、別の本と場所を入れ替えた。また歩いて、別の棚で同じ作業を続ける。
「何してるの?」
「下準備だ。多分、本の配置からして結界のひとつになってる」
「じゃ、それを並び替えれば外へ出られるの?」
「勿論、それだけじゃ足りない。このどこかに、“主犯” が一冊隠れてる」
 先生はぐるぐる歩き回っては、背伸びしたりしゃがんだりして、本の上にペンダントをくっつけては、何かを計るような仕草を繰り返していた。
「あらゆる物にはそれぞれ背負ってる掟がある。大昔にできた法律だ。人間が作ったものじゃない。人間よりもっとずっと古い、強い掟がある」
「で、本の並べ方にも掟があるわけね」
「そう、文字やシンボルの掟が、書物にも関わってくる。並べ方次第じゃ魔法陣や結界だって作れるらしい。東洋の修行僧が、よくない物を遮るためにそういう結界を作るというのを聞いたことがある」
「よくないもの、ね」
 先生は黙々と本を動かして回っている。私はぼんやりと、視線を上に泳がせた。熱そうなランプが揺れている。パチッと音がした。先生の足音がこの空間をぐるぐる回っていて、なんだか踊ってるみたいに聞こえた。
「君らや僕達みたいな一応の知恵ある生き物は、世界のことをそれなりに理解してると思ってる。しかし実際に理解できているのは、世界の掟だ。水はこう流れる、雲はこう流れる、それが僕達にとっては世界そのものだ。ある時、誰も知らない大昔に、何者かがその掟を作った。それまでは、水も、草木も、日差しや雲も、隣に住んでる友達のようなものだった。今日は機嫌が良いな、今日はいつも通りの機嫌だ、しまった機嫌を悪くされたかな、あいつは昨日まで人間だったのにあっちの家に引っ越してしまった、きっとそんな風に」
 先生の足音は時々早まったり、遅くなったりを繰り返しながら、ときどき躓いたように本を取り損なったりしていた。先生のほうを見ると、時々手で空中の何かを追い払うような仕草をしている。ぶんぶん飛び回ってるのは蠅だろうか。
「それが、ある時、掟が定まって、いろんなものに名前が付けられ、水は水のように、草は草のように、石は石のように、人間は人間のように、そういう取り決めが交わされた。おかげで世界は随分と解りやすくなった。理解できるものになった。そうして、自分達の領分とそれ以外が区別されるようになり、万物にはそれぞれ相応の運命がさだめられた」
「昔はもっと世の中好き勝手が通ったわけね」
「神話の世界じゃあ人間と人外の間に、幾らでも子供が作れたりね。でもある朝ふと目が覚めたら逆らえない掟が出来てて……」
「みんなバラバラにされちゃったんだ。気の毒にね」
 先生はなんだか少し早足になっていた。動作を躓かせる回数が増えた気がする。さっきからランプがパチパチとうるさい。ふと気が付く。蠅の飛ぶ音なんて、どうして思ったんだろう。見回しても、蠅なんて洞穴の中のどこを見たって飛んでない。先生の方を見ると、まだ手で何かを払う動作をしている。
「今でも多少なら掟を揺るがすことだってできるさ。子供の頃ね、よく読んでる本の中に、見たことのないページがあらわれたり、いつも読んでたページが消えたりしてた。本が好きな子供だったら、きっと誰もが経験してることだろうけど、あれはね、掟を動かしてる見えざる手のどれか一本が、気まぐれに子供をおちょくって、本の掟をちょっと揺るがせてみせたのさ。人間の目だって、あれは星だ、あれは鳥だと思ってそれを見ることで、星はより星らしく、鳥はより鳥らしく空に浮かばせるくらいの、そんな程度の力はあるんだそうだ。まあでも、人間の眼差しなんかがその物に染み入れる割合はほんの僅かだ。あらゆる物を根っこで支配してる別の掟がある。もっと強い力が。それに対抗できるくらいの強い力を持った者なら、掟の中に手をつっこんでなんとかできてしまうかも知れない。でも人間程度じゃそこまでは無理だ。人間がもっと大事を起こしたいのなら、掟を揺るがしたり助長したりする力がどうして発揮されるのか、研究して、法則をよく知る必要がある。そうして編み出された術がきっと魔法とか呼ばれて……」
 本棚のどこかが大きく軋みをあげた。空中を振り払おうとして、先生が本を一冊落とした。フッと明かりの加減が変わる。ランプが一つ消えてしまったからだ。
「……機嫌を悪くされたかな?」
「先生」
「分かってる。なにも飛んでないよな、蠅も蚊も」
 妙に張りつめた空気が洞穴に漂っていた。見えざる手の気配とは、こんなだろうか。棚の継ぎ目やガラクタの山が、思い出したようなタイミングでパキリと音を鳴らし、思考を妨げた。先生の顔の汗を見て、掟とやらにちょっかい出すのも楽じゃないんだなと思った。頭上のランプを見上げて、
「あれは降ろした方が安全かな」
 少し苦笑いしながら先生は言った。
「ねえ、なんで私をここから出そうとしてるの。そりゃ出たいけど。封印が解かれて自由になったら、私は悪魔なんだから、どんなことするか分からないわ」
 先生はランプを取り外しにかかった。
「僕は子供の時分、君に救われたと思ってる。君がいたから自由を手に入れられた。君という相談相手が、仲間がいなかったら、一人では何もできなかった。今更、言うまでもないことだけど」
 ランプの灯が一つずつ消され、その度に洞穴は暗さを増していった。
「あの火を付けたのは、屋敷を焼いたのはね、僕なんだ」




#8

咲夜。
今日のパーティーにはいかないわ。出らんない。ちょっと一仕事やっつけてしまわないと。それが手間取りそうだから。でも済ませてしまわないといけない。
咲夜、あなたも出られないわ。手伝いが要るの。そこにいて。
じっとしてて。聞こえなかった? いいからそこにいて。
いいから、そこでじっとしてなさい、十六夜咲夜。
もうパーティーの取り回しとか、咲夜がいなくても大丈夫なんでしょ?
ねえ咲夜、これから、あなたに話をしないといけない。これから話す事は、運命を操る者の喋る言葉じゃない。ただ、一匹の吸血鬼が喋ってるだけ。
けど、たとえもうこの問題に関して、私はただの一匹の吸血鬼に過ぎないとしても、この事に関して、頭で考えること以外にやりようが無くっても、それでも、そんな私にだって道理は分かる。理屈は考えられる。考えて……考えて……
分かるでしょ、咲夜。
私達がいつまでも一緒に、幸せに、これからもやっていくために、とれる方法は、きっともうそんなに多く無い。ひとつのやり方でカタがつくなら、さっさと済ませてしまおうじゃないの。どうやってやりすごそうか、じゃない。今から通り過ぎてしまえばいい。いつかきっとこうしよう、じゃない。いつかじゃなくって今がいい。今でいいの。今あなたは私の前に立ってるわね、うん、確かに。私は咲夜の目の前にこうして立ってる。だからそれで充分ね、そう、こんなことは、これから先もいくらでもあるだろうし、昨日までだって毎日あったことだけど。咲夜は、いつも毎日、私の側に立ってるから。でも今じゃなくったっていいだろうなんて、そんなことはもう二度と考えないことにした。
運命が、私に何か禁じてることがあるかと言えば、なんにも無いわ。大丈夫、大丈夫だから、じっとここで聞いていなさい。本当はこんな当たり前の、当然のこと、とるべき行動、そんなのは、口にも出さずにさっさと済ませてしまいたかった。だって、ほら、私と咲夜の仲じゃない。だけど、それでも口に出して言わないといけない。だって、そうしないと、もしかしたら、ひょっとして、咲夜は、そんな必要ないのに、
怖がってしまうかもしれない。そんな必要無いのに。
咲夜が本気で怖がって逃げたら、私はもうお前をつかまえてられない。大丈夫、怖がることなんてないからね。咲夜は臆病者だから。他の奴等はなんて言うか知らないけど、とっても臆病者だから。名前を付けてやった時もそうだったっけ。怪我を負ったまま、毛を逆立てて唸り散らす馬鹿な獣みたいだった。咲夜が臆病なせいで、私はいつも一苦労だけど、だけど気に病むことなんてないからね。
今から私が言って聞かせてやるから。名前を付けた時みたいに。もうお前の歩いてきたような怖い道や、窮屈なルールは、ここから遠い遠い場所に行ってしまうんだって。私がずっとついていてやるって、そう言ってやる。
そうして、今から話すのは、私達が、ずっと幸せにやってくための話だからね。今から言った通りにすれば、私達はずっと一緒にいられるの。素敵でしょ。今、私とお前との間にあるのは、どのくらいの距離かしらね。難しい話をしてるんじゃなくて、見たままの話をしてるの。何歩くらい? 私から、咲夜まで。私の牙から、あなたの首筋まで。
ああ、大丈夫。動かなくていい。咲夜は歩かなくていいから。じっとしてて。私が、歩いて行く。咲夜にちゃんと見えるように、小さい子供でも数えられるくらいに、一歩ずつ、ゆっくり歩いて行ってあげる。咲夜が、意味も無く怖がったりしないように。私は無理矢理は嫌だし、どうせあなたに無理矢理は通用しないものね。
どこにも、歩かなくって良い。咲夜の体はそこで、ただじっとしていてくれれば。頭の中だけで、私と一緒に一歩ずつ歩いてくれれば良い。歩いてくれるでしょ。私の牙と、咲夜の首筋までの距離が無くなってしまうまで、そこで一緒に数えてて。そうしてくれれば、その距離が無くなってしまえば、私達は、本当に、ずうっと一緒にいられるんだから。いつまでも隣にならんで暮らせるんだから。いつまでも、いつまでも、いつまでも、
ほら、すぐね。
どれだけゆっくり歩いていっても、たかが数歩のことだから、ほんのすぐ。
どうしてもっと早く、お前の側に飛んでって捕まえてやれなかったんだろ。ああくそ。
なんて顔してるの咲夜。ああでも、そうね私だって、きっと変な顔してるでしょ。お互い様ね。いつも見ないような顔でしょ。私にだって、何かを怖がる時はあるわ。うん。私は滅多にものを怖がったりしない。知ってるわね、そんなことが、そうそうこの私にあるはずがない。私は運命だって怖がらない。だっておかしいでしょ、自分の描いた絵や言葉が、どれだけ不細工な酷い出来に見えたって、その紙切れを怖がるなんて、馬鹿みたい。私にとっては運命なんてそこいらの紙切れと同じで、そんなものを怖がったりしない。
私は運命を怖がったりしない。
私は自分の運命を怖がったりしない。
私はお前の背負ってる運命を怖がってるんじゃない。
私は、ただ、どうしてだろう、咲夜が怖い。誰より。
咲夜。
まだお前はそこに立ってるわね。いい子、咲夜。
大丈夫。ほら、ほらこんな近くまで。たどり着いた。どうして目を見ない? ほら、私が、視線を、合わせると、ほら、目をそらす。おい。へへへ。ねえ、こんなに近くに顔を合わせてると、まるで咲夜はどっかの小娘みたい。ほんとに、ただの小娘ね。これがほんとにあの時の獣なのかしらね。こんな人間一匹が、どうして私とこんな風に関わるんだろ。私の目を見なさい、咲夜。生きた見本だから。こんな時に、こんな気持ちの時に、吸血鬼の目がどんな色をしてるのか。こういう、落ち着かない、変な気分の時に、こういう時に、どういう、ああ少し服が汚れるかも、だから、ねえ、咲、
咲夜。いるんでしょ。まだ部屋の中にいるわね、咲夜。どこ咲夜。いるんでしょ、どこ、咲夜。何度も呼ばせないでよ、咲夜、咲夜、咲夜
……咲夜
…………




#9

 信じられない長い時間をこの洞穴の中で過ごしてきて、それでも日光や月光の下で家を住み替えたり連れ合いを替えたりしながら生きる人間たちと同じくらいに、考えたり忘れたり思い出したりを繰り返しながら、ただそれでもひとつだけ、自分の名前だけはじっと抱きかかえるみたいにして覚えていた。私のただひとつの約束事。私の命綱。秘密の鍵。誰にも明かさずにしまっておかなければならない。この洞穴がどうしてここにあって、私がどうしてここに封じられたのか、もう覚えていない。もといた場所が、魔界なのか、陰府なのか知らないけど、しかしとにかく何時かはそこに帰ろう。故郷に戻ろう。そのための鍵が私の名前だった。口から、頭の中から、それが漏れ出すことのありませんように。私の名の持つ魔力が薄まって、意味を無くしてしまいませんように。それだけを怖がっていなくてはならない。そういうことだったので、私はお坊ちゃんにも名前を明かさず、ついでだが私もお坊ちゃんを名前では呼ばなかった。それが、私たちの洞穴のルールだった。
 洞穴の中は真っ暗になっている。外は嵐が吹きすさぶ夜だった。
「もっと静かな日を想像していたんだが」
 先生が呟く。想像していた日というのはつまり、準備が万端に整う日のことだった。先生は花は一種類しか持ってこなかった。どう考えてもこれが本物のモーリュだと言う。その花と、その花の醸し出すものを感じて、私もそうかも知れないと思った。他に、古い紙、紐、その他の工作道具。先生は“主犯”の本のありかを大分前に特定できていたらしいが、私には教えなかった。勝手に喧嘩をしてしまうと不味いからだという。暗闇の中で、先生が器用にその本を解体していく音が聞こえる。灯りを消してあるのは、文字も何も見えないほうがこちらに分が良いからだという。プツリと紐を切る音が聞こえて、その後、切り離されたページと思しき丸めた紙を、先生は私の手に握らせた。もう片方の手にはモーリュの花。先生はまた長い時間をかけて、用意した材料で本を復元する作業を終えると、小さな声で囁いた。
「君は、自分の名前を憶えてるね」
「ええ、だけど駄目。誰にも教えられない。それだけは」
「大丈夫、頭の中で唱えてくれるだけでいい。僕がいいと言うまで」
 私はその通りにした。ふと手元が眩しくなってあたりが照らされた。先生が見えない早業で火を付けたのだろうか、切り離されたページが燃えている。あっという間に火は大きくなって、手元にまで届いた。
「熱かったら……」
「大丈夫」
 私は手の中で紙が灰になるまで、頭の中で自分の名前を繰り返していた。
「いいよ。終りだ」
 先生は、ランプを灯した。ぼんやりと明るくなった洞穴の中は、拍子抜けしたような空気が漂っていた。外は相変わらずの嵐。洞穴の中も特に何も変わった感じはなかった。
「後は?」
「これで終りだ」
「本当に? 上手くいったの?」
 先生は、じっと黙って外の音を聞いていた。
「この天気じゃ、今日は確かめられないな。雨が上がったら……」
 私は続きを聞かずに、よっこらと立ち上がると出入り口の蓋を蹴り上げた。

 雨は直線で打ち付けた。稲光りが射すと、夜空が灰色に膨れあがっているのが見えた。空気が冷たい。すぐに身体中どこも水浸しになってしまう。迷路の外まで私が先生の手を引っ張って行った。雷が入り組んだ暗がりを洗うように照らし出すのを見て、夜しか知らない者に昼間がどんなものかを説明するなら、静かな落雷が延々続くようなものと言えばいいのだろうかなどと考えた。一瞬だけの眩しい視界と、その後の暗転。はっきりしない足場の上、泥濘を削るように足を這わせながら漸進していった。
 やがて周りを取り囲む植物の壁の気配が消えると、目の前に、巨大な屋敷の剥き出しの骨格、それが雨に打たれる音が、一塊になって現れた。強風。雷鳴。耳の間近で弾ける雨粒の音。その後ろに、はるか遠くから運ばれてきた途方もない雨音の群れ。
「どこまで行くんだ」と先生が聞いた。いつの間にか私の手は先生から離れて、足は早歩きになっていた。どこまでだろう。私が囚われの身でなくなったことは、どこまで歩けば証明できるんだろう。蹴躓きそうになった身体を、先生の腕がささえる。先生がおずおずと先の足場を確かめながら歩き出す。すぐに私が追い抜いて、またつんのめって転びそうになったところを先生に抱きかかえられた。嵐の音に包まれて、方向がわからなくなって、それでも歩き続けた。髪の毛がぴったりと頭中に貼り付いて邪魔だった。雷が落ちる度に、そこらへんを見回して、なんとなくの位置を確かめながらも止まらず歩いた。後ろの先生を振り返りながらも進み続けた。何度目かで振り返った時、先生が駆け寄って来て腕を掴んだ。
「もうこのくらいにしよう、今日は一旦……」
 先生の後ろで、稲妻のギザギザが眩しく瞬いた。それに照らされた遠く小さな黒い四角形が、あの屋敷の屋根だと分かって、ああ、いつの間にかこんなに歩いてたんだと、私はようやく立ち止まった。実際、こんなに歩く必要はなかった。もうちょっと前に分かっていた。でもどうにも不安だったから、こんなところまで歩いてきてしまった。遅れて雷鳴。空気が震えた。こんなところまで簡単に歩いて行けた。いいんだろうかこんなに簡単で。ああでも、歩いてこれたんだ。信じられない長い時間を洞穴の中で過ごしてきた。つい、今しがたまで。風が吹いて、髪の水を吹き飛ばして、同時にそれ以上の水量を打ち付けた。変に気持ち良かった。
「……今日は一旦戻っ」
 私は先生に飛びついていた。
 嵐にかき消されないように先生の懐の中に、頭をくっつけて喋った。
「お坊ちゃん、あなたって、本当に、本当に、魔法使いになっちゃったのね」
 靴底のつま先越しに伝わる土の感触が、急に新鮮なものに変わったような気がした。なんて夜だ。お腹の底から、変な震えがこみ上げてきて、私は雨の中で笑い出してしまった。
「ああ、もう、ひどい格好。びっしゃびしゃ。ごめんなさいね付き合わせて」
 肩を揺らせて笑いながら、フラフラ歩き出して転びそうになるところを、先生の手が捕まえる。
「上手くいったのか」
「ええ。あなたって似合うのね」
「なにが」
「濡れ鼠が」
 身体の奥から漏れる吐息は妙に重たく震えているのに、五体は全然軽かった。見えない鎖が吹っ切れたことを自分に確認するため、少しだけ飛び跳ねてみようかと思って、けど足元が水浸しだったので止めようと思ってそれでもやっぱり飛び跳ねた。先生の腕を掴んで引っ張ってやった。私がよろめくままに、先生もよろめく。
「先生」
「ん」
「ダンスは苦手?」
 見ると先生の顔も仕方なさそうに笑いだした。ああこの人は、どうしてこんな無防備な顔して、ねえ、私もうなんにも縛るものも無くなって自由になった悪魔なんだよ? あなたみたいな人間一人くらい、その気になればいつだってどうにか出来ちゃうのに、ねえ、こんなに側に来て、大丈夫? ねえ怖くない?
「ダンスは、苦手だ。大の苦手だ」
「その首に巻いてるの、素敵ね。格好良い。なんて言うんだっけ?」
「ネクタイ」
「頂戴っ」
 適当に引っ張ると、シュルシュルと取れてしまった。なんとなしに、自分の首にぐるりと回してみる。さっきのほどけ方を思い出して、ああでもない、こうでもないとやっていると、先生の手がひょいと端を取った。
「これはね、こうして、こちら側の端は後ろに回して、また、表側に持って来て…………
 ……後ろから、首の根っこのところから、ちょっと、こう、首をあげて…………
 ……ほら、これで、ああちょっと形が崩れてしまったけど…………」
 三回もキスしてやった。
「……似合ってるかな、多分。暗くて全然見えないけど」
 私たちは洞穴に戻ると、ずぶ濡れになったまま身体を寄せ合って、その夜は同じ夢の中、館が燃えていく光景を一緒になって、いつまでもいつまでも眺めていた。




#10

 パーティー会場になった大きなホールは、付近の妖怪や妖精が沢山招かれて賑やかだった。妖精メイドの仕事ぶりは、いつもの十六夜咲夜の手慣れた動きに比べると若干ぎこちなかったが、あたふたと一生懸命に働く様子が微笑ましさを誘って好評のようだった。珍しく主人より先に一人きりで十六夜咲夜が会場に現れ、しばらく所在無さげにしていたが、後に遅れてレミリア・スカーレットも姿を現した。二人は目を合わせなかったが、しかし自然と、身体に染み付いた距離と間隔と速度で隣合って歩き出した。中央に立ったレミリア・スカーレットが煌々と響く声で砕けた挨拶と乾杯の音頭を済ませると、会場のそこかしこで料理が忙しく切り分けられ始めた。
 館の主らしい振る舞いで、顔見知りの妖怪や妖精達と一通りの言葉を交わすと、レミリア・スカーレットは適当な椅子に落ち着いた。
 招かれた面々の表情は、どれもみんな眩しかった。それぞれの会話に明るい火が焼べられて、一本一本の燃える松明のようだった。腰掛けたままのレミリア・スカーレットの周りを、料理と、笑い顔と、お酒と、空になった食器類が、お祭りの行列のように、代わる代わるぐるぐる回っていく。視線だけが、松明の合間をあてもなく歩き回る。耳に届く音を、ひとつひとつの声に切り分けていけばまさにパーティーの賑わいに違いなかったが、身を引いて一塊の音まま自分の頭に浴びせかけると、打ち付ける飛沫のようでもあった。
 そうして呆けているうちに、見知った一団と目が合った。紅魔館の近辺で暮らす妖精達。付かず離れずの足取りでこちらのテーブルへとやって来たので、レミリア・スカーレットは、紅魔館の主らしい声色と目つきを努めて取り戻し、彼女等の挨拶に応えた。
 見ると、その中に頬を膨らましてむくれている顔がある。
「ほら、チルノちゃん、いつまでもそんな顔してないで……」
 妖精の一人が嗜めたのは、レミリア・スカーレットも顔を知っている氷精だった。
「なによ、あたいはべつに、もうぜんぜん気にしてなんかいないわよ」
 幼い顔が、視線を落として、子供特有の頑なな腹の立て方を見せている。
「あらら、どうかしたのかしら、そこの氷精?」
「あ、すいません、この季節になるとよくあることなので……」
「ふん、レティがわるいのよ。あたいのこと子供扱いしてっ」
 この近辺に去来する冬には名前が付いていて、それがレティ・ホワイトロックだった。今も、大人しそうな少女の姿になって、この妖精達の一団に加わっている。暖かくなってきたが、まだ冬は続いていたらしい。けれど、今年はもう長くないだろう。
「レティったら、会う人会う人みんなに、チルノのことよろしく、よろしくって、まるであたいが一人じゃ暮らしていけないみたいじゃない。そうやってレティが言うたびに、あたいはもうレティがいなくなっちゃうんだって、わかっちゃうじゃない」
 レミリア・スカーレットは手の中のグラスを静かに揺らして聞いていた。
「けどチルノちゃん、仕方無いことなのよ。季節が変わっていくのは……」
「……あら、そうなの? 本当に? それって仕方の無いことなのかしら?」
 不意にレミリア・スカーレットが割って入った。
「ねえ、レティ・ホワイトロック?」
「は、はい」
「そんなにその氷精のことが心配?」
「はい?」
「そんなに心配なら、もう少しだけ長く、一緒にいてあげられないのかしら。それも掟?」
「ええ、私は冬の……」
「分かってるわよ、分かってる。でもね」
 レミリア・スカーレットは堅く笑っていた。息の詰まりそうな笑顔で。声は不穏に昂っていた。得体の知れない暴力の匂いを感じて、妖精達は不安げに表情を強張らせていく。
「でもね、そうだ、そうよ。それが冬の妖怪の運命だとしても、私なら運命を変えてしまうことだってできるわ。どう、レティ・ホワイトロック?」
 妖精達がぎょっとして、緊張に身を固まらせるのが分かった。
「……お嬢様」
「咲夜は黙ってて。
 ……どうなの、レティ・ホワイトロック。」
 レティ・ホワイトロックはしばらく固まっていたが、やがて唾を飲み込んで、おずおずと話し出した。
「確かに、チルノちゃんのことは大事に思っています。でも、ですが、もし、冬に生きる妖しでなくなったら、私が私でなくなってしまいます。私は冬の妖怪です。私は私、チルノちゃんはチルノちゃんとして、ちゃんと自分の生き方、自分の領分を大事にしているからこそ、良い友達でいられるんだと思っています。
 きっと、チルノちゃんも分かってくれるはずです。そうでしょ、チルノちゃん」
 チルノが黙って頷いた。
「領分? そんなもの、本当に大事なことなのかしら、レティ・ホワイトロック?」
「大事なことです。私にとっては。冬という運命の下で生きていくことは、私なりの誇りです」
「そう。誇り。誇りね。ハハ。誇りだって、咲夜。どう思う? ねえ」
 レミリア・スカーレットが震える手でグラスを口へと運んだ。それは転がり落ちて、口元や、首まわり、ドレスの布にワインを撒きながら、スカートのひだをころころと降りていった。瞬時にレミリア・スカーレットの身体を抱え上げた十六夜咲夜は、周りに軽く礼して、その場から消え去った。ワインを引っくり返してしまった主人の粗相に、メイドが素早く対応しただけだと、誰しもが思った。汚してしまったドレス姿を隠すために素早く消え去ったのだと、誰もが思った。すぐに正面から抱きかかえられて、レミリア・スカーレットの表情は、誰にも見られることはなかった。不安げにひしゃげた、まるで子供が泣くのを堪えているような顔は、会場の誰にも見られることはなかった。

 寝室へとレミリア・スカーレットを運んできた十六夜咲夜の手は震えていた。ポロポロと決壊し始めた目を、十六夜咲夜は見ることができなかった。「大丈夫ですよ、大丈夫」視線を合わせないまま、据わらない声で静かに繰り返す。クローゼットを開け閉めして、勢いよく指を何度か挟んだが、表情は固まったままだった。落ち着かない手つきで、いつもの主人を扱う手つきと比べるといささかぞんざいにも見える手つきで、レミリア・スカーレットの小さな身体を抱え上げたり降ろしたりしながら、寝室の中を右往左往する。幼い主人は、されるがままだった。十六夜咲夜はレミリア・スカーレットの口元を拭う。首まわりを拭う。濡れた頬を何度も拭う。大丈夫ですよ、大丈夫。まるで子供みたいにバンザイさせて、汚してしまった衣装を脱がせる。その手つきの全てが、なんだかいつもより遠慮を忘れて、動揺していて、どこか乱暴で、けれども指の間からは慈しみが溢れ出していた。それは丁度、人間の親が我が子を扱う手つきに似ていたが、この部屋にいる二人のどちらとも、そんなものを間近で見たことも、関わりを持ったことも無かった。不意に、忙しく動いていた十六夜咲夜の手が止まった。
 寝室の中の、声が、物音が、空気が、静止した。レミリア・スカーレットの腕がすべてを抱きしめて時間を止めた。まるで、そういう仕草を初めてする子供みたいに、不格好におずおずと、両手を正面に伸ばして、十六夜咲夜の身体を抱きとめていた。十六夜咲夜はそれでもう一言も発せなくなって、黙ってしまって、動けなくなって、部屋の中は、レミリア・スカーレットのどうしようも情けない泣き声だけになってしまった。十六夜咲夜も、また不器用に馴れない動作ながら、震える手でレミリア・スカーレットの頭と背中を優しく包んだ。
「……大丈夫ですよ、大丈夫、大丈夫、大丈夫」
 壊れたように、その言葉しか知らないみたいに、それしか言わない十六夜咲夜の声は、まるで自分に言い聞かせているみたいに震えていた。
 館の廊下を伝って、パーティー会場の音が聞こえてくる。ずっと遠くのざわめき。食器の鳴る音。歌う声。いつもの紅魔館のパーティーが回っている。十六夜咲夜と関係無しに。十六夜咲夜をここに置いたまま。回っていく音楽、笑い声、何度目か分からない乾杯の声。わいわい、がやがや。とりとめなく、終わりなく。

 レミリア・スカーレットは翌日の晩に目を覚ました。枕元を見ると、置き手紙のようなものがあった。目を擦りながらベットから起き上がると、服も替えないまま、寝室のドアを開いて、とぼとぼと館の中を歩き回った。館の中は妙に困惑した空気が流れていて、そして、何故か、とても狭く感じた。全てのものがこじんまりとして縮んで見えた。妖精メイドは誰かを探しまわって館中を飛び回り、レミリア・スカーレットと出くわし、ぎょっと驚いた顔をする。黙々と歩いているうちに、後ろから、どう声をかけていいのか分からない妖精メイドの群れが付いて歩いていた。しばらくしてようやく、この日初めて、レミリア・スカーレットに妖精メイドの一人が恐々と話しかけて、行方不明者の名前を告げた。
「そうみたいね」
 一言だけ答えて、レミリア・スカーレットはまたとぼとぼ寝室に戻ると、ベットに腰掛け、封を開けないままの置き手紙をずっと眺めていた。

 こうして、紅魔館から十六夜咲夜は失われた。
後編に続きます。
カササギ
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コメント



0.1570簡易評価
3.無評価名前が無い程度の能力削除
> ちゃんとバーティーの仕度は回っていくので、
バーティー → パーティ?

細かいようですが誤字報告をば。
6.無評価カササギ削除
ご指摘、どうもありがとうございます。訂正させていただきました。
10.90名前が無い程度の能力削除
この雰囲気はやばい
16.80名前が無い程度の能力削除
創想話の隠れた名作だと思う
もっと評価されるべき
淡々とした文章とその雰囲気がすごくいい
17.無評価名前が無い程度の能力削除
まるで海外小説を翻訳したような綺麗でどこか文学的な香りのする文章と雰囲気ですごく好み
32.100名前が無い程度の能力削除
なんだこれ。夢中になって読んでしまった。
37.100名前が無い程度の能力削除
普通に小説買ってきて読んでる気持ちで読んでました
こんな雰囲気すきだ
38.100名前が無い程度の能力削除
読んでいるだけで自然と頭に浮かんでくる語り
ただただ、素晴らしいとしか言いようが無い

後編に行ってきます