Coolier - 新生・東方創想話

思念考~卵の中の幻想郷~前編

2009/05/17 23:35:45
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 それは現世にある数多の悲劇の一つでしかない。

 人であろうと、神であろうと、妖怪であろうと、逃げられぬ四苦八苦の一に過ぎない。

 これから逃げおおせる術を持つものはおらず、人妖須くは無常の世に噎び泣くほかないのだ。

 だが、選ぶことぐらいは出来よう。依り分け、分別し、程度を和らげる事ぐらいは出来よう。

 ヒトの業に悲涙し、カミの哀愁に同情し、己の愚に後悔する。

 それらを乗り越えた先に在るものこそ、現世で唯一の救済足り得るのではなかろうか。

 学び、選び、拾い、捨て、ようやく形作られたものが、まさしく己の真の姿なのだろう。

 しかし心せよ。

 選りすぐりの姿とは、容易には形作られぬ。執着とは拾うに難く、捨てるに難いぞ。















 ありきたりで終わらせるつもりはなかったのだが、新聞記事は適当なゴシップで埋められている。どうせ誰も彼も、適当にしか読んでいない弱小新聞であるから、締切がある訳でもなく、期待もない。そうだと解っていても、射命丸文は幻想郷を飛びまわり、ネタを集めて記事を書いた。

 頭を抱え、果たしてこれで良かったのだろうかと小一時間悩む。出来上がった原稿は確かに新聞の体裁こそ保ってはいるが、自慢できる程の衝撃的事件が載っている訳でもない。センセーショナルな事件があったとしても、裏が取れていないので記載出来ないのだ。

 友人が発行している新聞を手に取り、つらつらと眺め、出来に感心してからジレンマを催す。

 実に御山受けするネタであるし、定期的に発行出来ているし、購読者も多い。内容は確かな裏付けと正論によって埋められているので、反論する気も起きない。いやあ良い新聞だと納得し、ゴミ箱に投げ捨てた。

「そうじゃないんですよね」

 そうじゃないのだ。確かに、この新聞は良く出来ていて、非の打ち所がない。だが、面白くはないのだ。新聞に面白さなど求めても、偏向報道にしかならないのだが、そうではない。記事から伝わってくる『こういう事を伝えたかった』といった気持が感じられないのだ。すべてが形式化されていて、事実が淡々と載せられている。

 はて。

 それの何がイケナイのだろうかと、そう感じ始めたら最後だ。具体的な問いは、文々。新聞の存在意義を問うものであるから仕方がない。結局、射命丸文という妖怪は何を伝えたいのか。『そうじゃない』なんて気持ちは、それこそ矛盾したものなのではなかろうか。

「文さん、いらっしゃいますか」
「椛さんじゃありませんか。どうしましたか、こんな夜中に」

 山の峯に立つ射命丸の母屋に、一人の天狗が訪れる。深い思考に陥っていた文はふと顔を上げ、すぐさま対応した。妖怪が夜の生き物とはいえ、鳥目気味(観えない訳ではないが、暗中の人間程度の視界、妖怪故の誇張)の自分は夜が苦手である。故に鴉天狗といえば、いつも昼に飛びまわっている印象があるから、白狼天狗の犬走椛も弁えている筈だった。

 彼女は入口の簾を片手であげ、此方を覗きこんでいる。

「夜の見回りをしていたんです。そろそろお休みしているかと思ったのですが、明かりが漏れていましたから」
「はあ。忙しいですね。まあ一応新聞記者なので、夜は自宅で忙しいんですよ」
「お邪魔でしたか?」
「いえ。鴉天狗生について深く考えていたところです。つまり眠れず暇でした」
「そうですか、じゃあ私は見回りにもど……」
「待ってください待ってください」

 そういって、背を向けた椛の肩を捕まえ、部屋の中に引き込む。

「まあまあ、折角来たんですし、ゆっくりしていってくださいよ」
「文さん、少し眼つきが怖いです」
「イベントを期待して訪れたのでしょう。だからイベントを起こそうと思いまして」
「いりません、いりませんから、ああ」

 椛を椅子に坐らせ、何をするのかと思えば、文は戸棚から一升瓶を持ちだしてきた。これに不味いと気がついたであろう椛が早速逃走を計ろうとするも、鴉天狗の超スピードで出口を遮られる。椛は仕方無いと肩を落とし、大人しくなった。

「付き合ってくれても良いじゃない。私と椛の仲でしょう?」
「何さり気なく呼び捨てしてるんですか。普段から上下関係は云々なんていうのは、いっつも鴉なのに」
「ま、ま。種族や役職での上下ならそうだけど、年齢なら私が上なのだから、敬ってよ」
「鴉は狡猾ですね」
「犬が従順すぎのよ。はいこれ」
「……うう、隊長殿に怒られる」

 山が規律社会である事は、世間でもそれなりに有名だ。独自の社会と文化を保とうと思えば、どうしても決まり事と上下関係が必要になる。山の一大勢力である天狗はその中核を担っているのだが、天狗の中にも種族があり、派閥がある。基本、別種族同士は階級や役職関係なく敬うようにと言った御触れがある為、形式としての上下は無いのだが、天狗としては実質的にその実力と年齢がモノを言う。

 射命丸文は、いわば古株だ。出世欲さえあればこんな所には収まっていない天狗である。自分でもそのように自負している。口には出さないが、上の者に意見すれば、それなりに効果を期待出来る発言力もある。しかし、語るなら新聞で、というポリシーがあるし、まして御山の中枢機関になど近寄りたくないので、そのようにはしない。

「隊長殿には私から言っておくよ。確か山ン本狗三郎だね。彼の父上は、昔お世話したし」
「最近横暴なんです。普段ならこの時間は彼が見回りなのに、将棋が忙しいって何故か私が……」
「ほうほう。それでそれで」
「はい。隊長様に逆らうとは何事だーって弾幕撃ってきますし、ワガママで本当に困ります」
「『白狼天狗悲痛の叫び。山ン本狗三郎の怠慢』って見出しで良いですかね」
「えちょ、や、やめてくださいよ、そんな記事だすの」
「まあ。私は山のニュースに興味ないから、記事にはしないわ。とりあえず、山ン本隊長には一言言うけど」
「私の名前は伏せてくださいね?」
「ええ。その代わり」
「その代わり?」
「少し、私の悩みも聞いてね」
「はあ。文さんの悩みですか。鴉天狗が? 悩み?」
「実はね、新聞記者、辞めようと思って」
「――なんですって?」
「だから、新聞を辞めるのよ」
「文さんから新聞を取ったら何が残るんですが。妙なウザさしか残りませんよ?」
「ハッキリとモノを言う奴ね」
「辞める必要もないと思いますけど。そもそも誰も読んでないですし」
「うっ……ま、まあそだけど……。最近、どうも新聞に確かなものを見出せないのよ。何を書いても納得いかないし、書いているウチは『これだ!』と思っていても、書き上がるとなんだかおかしくて」
「情緒不安定ですねえ……」
「情緒なのかしら。ただ気に入らないだけかと思うけど」

 椛はふぅん、とだけ唸り、コップに注がれたお酒をグイとやる。あまりヒトに対して悩みや深い事情を話す事のない自分である。椛もそんなケッタイな相談を投げかけられて、どう答えて良いか悩んでいるのだろう。自分から相談しておいて、相手に答えを求めていない辺りが、質問者として失格であると言える。

 もう一口酒をやり、椛は口を開く。

「そういう場合は、まず何故新聞を始めたのかを思い出して、初心に帰るのが正しい思考方法だと思うんです。で、文さんは何故新聞記者になったんですか? 新聞なんて概念、そんな昔じゃありませんよね」
「あ、あー……」

 確かに、椛の見解は正しい。正しいが、非常に答え憎い話だ。思い出せば思い出す程、胸に蟠りが出来、モヤモヤしだす。新聞を辞めてどうなる、というよりも、新聞を書き始めてどうだったかを思い出せば、それなりの解答が得られるやもしれないが、出来る事ならば回想したくない過去だ。

 ハッキリと言えず、濁したように説明する。

「大切なものを失ったの。以前から新聞のようなものは書いていたけど、それを切欠に本腰を入れたわ」
「それはまた。なんか訊いちゃいけないこと訊きましたかね」
「いいの。すべて自業自得だったから。ともかくそれからは、真実を追い求めて、文字では嘘を吐かないと決めた。最初は辛かったけど、あとから楽しくなったわよ」
「その気持ちを思い出したら、また書けるようになったりしませんか」

「……難しい所ね。辞める後押しを貰おうと思って、打ち明けたのだし」

「そうですか。文さんの決めた事を、私が覆せるとは思えません。新聞を辞めた所で誰かが死ぬ訳でもなし、自由にしたら良いんじゃないでしょうか。読者としては少しさみしい気もしますけど」
「ごめんね、椛」
「何を謝っているんですか。そんな暗い顔しないでください。ほら、呑みましょうよ。きっとお酒が解決してくれます。いやはや、それにしても美味しいですねこれ」
「高いんだからそんなガバガバ……って、もう半分もない!!」
「おかあ……文さんも呑んでください」
「誰がお母さんよ」
「あぶぶぶ……言い違えただけです。子供が先生をお母さんと呼び間違えるのと一緒です」
「酔ってる?」
「にゃーん」
「犬でしょアンタ……」

 段々とグダグダになって行く椛に勧められてお酒を呑む。酷く落ち込んでいたものだが、椛を見ているとそれも和らぐような気がした。何故だろうかと考えるが、これと言った理由も見当たらない。後輩で気心が知れているから、とでもしておけばよかろう。

 きっと酔い潰れるであろうこの子を片づけたら、記事を書き始めようと考える。見出しはもう決めた。

「それにしても……大切なものって何だったんですか……? それって私より大切ですか?」
「何故基準が貴女なのかは知らないけど……。まあ、その、当時一番大切なモノだったわ」
「へえ……なんか少し……悔しいですねえ……」
「何言ってるだか」

 椅子の上で椛が膝を抱えて丸くなる。あのペースでアルコールを入れたのだ、幾ら天狗とはいえ回るのも早かろう。

 椛の肩に毛布を掛け、自分は作業机へと戻る。完成は朝方だろう。



 一、転調



「……じ、自重いたします。ど、どうか、ちち、父上には、ご、ご内密に……」
「もう三百年も生きてるんですから、少しは学びましょうね。ああ、小さい頃はあんなに可愛かったのに」
「はい、はい……すみませんでした……」
「そう言う事でお願いしますね」

 山ン本狗三郎は耳をピクピクさせ、しっぽをピンと張り、文の脅しにひたすら頭を下げた。彼は世襲で父の威光がある為、周りの者達はどうしても頭が上がらない。本人もそれを意識しており、我がもの顔で御山を闊歩していたが、射命丸文の前となると嫌でも頭を下げざるを得なかった。さかのぼる事五百年前、父である狗衛門が文のパシリをしていた名残である。

 弱い奴には強く、強い奴には弱くが鴉天狗のモットーであるから、一度下と位置付けられれば恐らくは末代までそうである。上のモノに対しては諂うが、腹に抱えているものはいつか出し抜こうという魂胆だ。これは狡猾な鴉天狗の性であって、別段と射命丸文が悪い奴であるという意味合いは含まれない。どうしても属性があり、各種天狗にも傾向がある、と言うだけである。例を上げれば、従順さがモットーであり、群れで生活する事を主とした、祖先がオオカミである白狼天狗では致し方がない状況だ。

「じゃ、父上にはよろしく言ってあげてください」
「畜生め……」

 とはいえ、若い。

「あ?」
「いえ、なんでも……」

 お気に入りの万年筆で、文花帖へと書き込みを加えてから空へと飛び立つ。今日は天気も良く、悪代官を成敗出来て清々しい。そろそろ雨季が迫って来るだろう頃合いだからして、束の間の快晴だ。普通に飛ぶ妖怪達のおよそ二倍の速度で空を駆け、何をするでもなく幻想郷をぐるりと回る。

「あー、それにしてもお腹が重い……あれかしら……あー……それにしてもなー……」

 ――文さんは何故新聞記者になったのですか。

 昨晩、辞めると告白し、そのように問われた。思い返せばそれ相応の理由があり、永い間続けてきたものである。新聞なんてものは、外の世界が近代化した後、聞きかじって手に入れた一種の娯楽でしかない。当時はまだ幻想郷も隔離前で、幻想郷に連なるような秘境にも簡単に出入り出来た時期だ。機械文明目覚ましくなって行く帝都にまで赴いて、手にしたものがそれである。結局は瓦版を新しい呼び方に変えただけだが、新聞というフレーズが好きだったのだ。

 幻想郷に新聞の概念を持ち込んだのは、他の誰でもなく自分である。そして文々。新聞は幻想郷最古の新聞社であり、もっとも売れていない新聞の一つでもある。そも、ほとんど売っていない。わざわざお金を払って読む、という輩は数人程度である。

 別にそれでも良かった。利益なぞ追求した覚えはない。発行部数に悩んだ記憶もない。ただ、いつの頃からか、新聞というものに対して空虚な想いを抱いていた事は確かだった。

 小脇には、今朝印刷した新聞がある。これを配って終わりだ。文々。新聞廃刊のお知らせもしっかりと記載されている。配れば、あとには引けないものである。

「うおっほん。あーあー、毎度おなじみ、文々。新聞でーす!」

 基本、山に配る数は少ない。それなりに楽しんでいる者もいたが、内容は大概、幻想郷の珍事件である。人間の起こすゴタゴタや、人里での出来事を好んで読む妖怪がいないのだ。食糧、もしくは障害物である人間が何をしようとも、妖怪の知った事ではないのである。たまに珍奇な出来事を起こせば、それはそれなりに評価されるし、天狗達も飛びつくのだが、一過性だ。どこかの動物園でレッサーパンダが立ち上がったり、柴犬が崖から降りれなくなったなどという事件と大差はない。

 しかし、射命丸文はそういった出来事を好んで記事にした。他の天狗が出来る事を、わざわざ自分がする必要もないといった、ある種の独自性を謳っているのである。伝統のブン屋、なんて肩書きは物珍しい奴だからこそ付くふたつ名であって、蔑称に近い。近いが、文はこのふたつ名を気に入っていた。

「霊夢さん、こんにちは」
「文じゃない。新聞ならとらないけど、くれるなら貰うわ」
「ええ、もらってください」

 早速神社に赴く。博麗霊夢はいつも通り、境内で怠惰に箒をかけていた。自分が記事のネタにしている中でも、登場頻度が高い人物であるから、真っ先に渡してそれ相応の敬意とする。

 彼女の起こす事件は確実に事実なのだが、毎度どうしても裏がとれない為に記事には出来ていない。彼女の事は『昔から知っている』し、この人物が虚言を吐くような奴でない事を把握していても、それは主観でしかなく、遠くから見た意見とは言い難い。写真の一つでも撮れれば良いのだが、生憎異変探知能力は巫女が数倍上手であり、気がついた頃には解決している。関わったであろう事件の首謀者に話を聞いても、毎度負けているであろうから、自分の負けた事実を喋ったりはしないのだ。

「……? 廃刊?」
「はい、文々。新聞約百年の歴史に終止符が打たれます」
「なんでよ?」
「なんで、と申されても……辞めるものは辞めるのです。然したる理由もありません」
「ふぅん。まあ、辞めるって言うなら私がとやかく言う問題じゃないかもしれないけど……」

 霊夢の目が自分を捉える。この目線が何とも苦手だった。まるで、自分の中身を覗くような、そんな印象があるからだ。

 ――酷く後ろめたい気分になってしまう。

 巫女故の技能なのか、はたまた天性の才能なのか、ほぼ確実に、博麗霊夢という奴は相手の核心部を突きとめている。あえて口にしないのは毎度の事だが、その『私にはわかる』というような空気を醸し出されると、反発したくなるのである。

「何か?」
「本当に辞めたいの? とても、私には見えないけど。大体、趣味じゃなかったの? あえて廃刊にする、なんて公言しなくっても、好きな時に再開すればいいじゃない。幻想郷で暇つぶしを無くすと辛いわよ?」
「え、あ、はあ。確かに、おっしゃる通りです……」

 しかし、口にされると、反論しようがないからこれも困る。彼女はトンチンカンな物言いをしたりするが、実際はかなり聡明だ。訳の分からない喋繰りに関しては自分も彼女の同列に存在しているが、これは相手の考えている事を読んでいるからこそであり、霊夢のように直感で本質を突くなんて真似はしない。

「じゃあ、なんで辞めるのよ。しつこい取材がなくなるのは有り難いけど」
「それが……自分でも、ハッキリしなくて。自分の記事を読み返して、他人の記事を読んで、そして、何かが違うと思って、けれども、何が違うのかサッパリわからなくて、しかし本質はそこではなくて……私って、何故新聞なんて書いてるのか、という話になって」
「あー、全然整理されてないわね。もしかして、何か焦ってるの? 天狗らしくもない。つまり、何書いても納得いかないからいっそ辞めちまおうって事ね?」
「貴女のつまりは的確です。反論の余地がありません」
「その新聞、もう配った?」
「いえ、まだ貴女だけですよ」
「なら、ちゃんと整理がつくまで、配るのをやめたら良いんじゃないかしら。きっと後悔するわ」
「……はて。妙に親切ですね。何か、ありましたか?」

 普段観察している博麗霊夢は常にタンパクで、他人に興味がなさそうな素振りが多い。恐らくは親友であろう霧雨魔理沙に対してであっても、対応が冷たいなんていう事はザラである。そんな博麗霊夢が、やけに文を気にするのだから、疑問に思っても仕方がない。

「だ、だって貴女、泣いてるわよ?」
「は、馬鹿な。確かになんでか視界が悪いですが、この巫女は何を……」

 霊夢に言われ、目元を拭う。一体何に悲しむというのか。

 天下の鴉天狗様が、鬼の責苦以外で泣くなんて、まずない事だ。

「あ、あれ……」
「涙目で現れて、心配するなってのも無茶だわ。妖怪が涙目よ? よっぽどの珍事件だわ」
「う、うそだあ……て、天狗が泣く訳ないじゃないですか。な、何も悲しく、な、ないのに……」

 自分の意図する所ではない事実が何処かにあるのか。泣いている現実を確認すればするほど、余計に悲しくなる。もう数十年は泣いていない自分が、子供のようにポロポロと涙を垂らすのだ。あんまりにも悲しくなり、とうとう鼻づまりまでしてきた。

 成す術が無くなり、その場にしゃがみ込んでしまう。膝を抱えて蹲り、ひくひくと嗚咽を漏らしながら、意味不明で理解不能な自分に悩む。新聞を辞めてしまう事が、そんなにも辛いものだっただろうか。長い長い生の中、たった百年程度しか続けていない新聞に対して、どれだけの思い入れがあっただろか。売れないし、売らないし、面白くないし、誰も読まないし、そんなものを辞めようと、自分にどれだけの不利益があるだろうか。


「う、うう……」
「とりあえず、ウチで休んで行く? このまま置いておくと、まるで私が泣かせたみたいだし」
「……ぐずぐず」
「はーやーく」
「はい、はい、あがりますから……」


 ※


 博麗家に上げられ、茶の間に坐らされる。霊夢はお茶を用意すると、自分の分だけ入れてよっこらしょと腰を下ろした。目で催促すると、じゃあ新聞代で、と言ってお茶とお菓子を寄こす。

 それにしても相変わらず質素な家だ。無駄なものがあまりない。調査による所、異変解決の代金は大体が八雲紫経由で出ており、それ以外は人里の細かい異変をグラム幾らの良心価格で引き受けている。腰は重いのだが、妖怪の事件となると動いてくれるそうだ。外界からの援助もある様子であったが、ここはルートが不明なままである。

 なんだかんだと賽銭がなくとも成り立つ神社らしい。質素なのは趣味だろう。倹約癖はありそうだ。自分とは大違いである。自分がどのように生計を立てているかと言えば、勿論ほぼ新聞ではない(広告費はあるが)。大手新聞の配達、妖怪や神様達の雑用を引き受けて日々の糧を得ている。

 山の神が採掘した金(守矢とは別種の製鉄神)が金本主義的貨幣価値を保障しているので、相場は安定している。山のお金と人里のお金ではレートは違えど両替可能だが、物価は山の方が高いので、山の者は大概山で稼いでる。当然、物々交換もだいぶ割合を占めている。

「ねえ、そのカメラ、結構古いわよね」
「はい。これで三代目ですけども、お気に入りです。昔は手に入らず苦労しました。今もですが」
「高そうね」
「二十円します」
「うわ。日本酒何升買えるのよ」
「お酒で換算しないでくださいよ。高級品って訳じゃありませんけど、日雇労働者には辛い出費ですね」
「生々しいわねえ。まあ、趣味にはお金をかけるものだろうから、本人が納得していればそれで良いのだけど」
「趣味……と言われると、違う気がするんです。確かに、写真を撮って新聞を書いても、一文にもなりはしませんが、趣味じゃないのです。ジャーナリズム、でした、最近までは」
「で、その建前が崩壊した訳ね」
「ええ、まあ……」
「そも、何故新聞なんて始めようと思ったの?」
「相応の理由はあるのですが、説明したところで何か答えが出るとは……」
「いいから話しなさいよ」
「……――」
「何?」
「い、いえ。ええ、はい。カメラが、そうカメラなんですよ」

 それは今から八十年前に遡る。幻想郷が博麗大結界に封じられて二十余年が過ぎた頃の話だ。

 人間と妖怪の間にまだ火種が残っており、何度となく小競り合いをしていた。元から隔離されている御山はそれほどでもなかったが、退魔師を名乗る輩や、坊主などが徒党を組んでやって来る事もあった。

 当時の自分と言えば、そんな争いを冷ややかに見つめているばかりで、参加する事は稀だった。こんな狭い場所で争って、何を得られるのか。そんな想いが強かったからだ。外では世界規模で覇権を争っているのに、幻想郷と来たら、千年前と変わらない事を続けている。どちらも同じと言えばその通りだったが、規模が小さすぎて盛り上がりもしないし、第一面白くなかった。

 この頃既に瓦版の拡大とも言える新聞らしきものは発行していた。こんな争いを続けてもしょうがない、なんて事を書いて、里近辺を拠点とする妖怪から怒鳴られた事もある。文字だけではどうしても伝わり難いものだった。

 妖怪は人を食うし、人は妖怪を封じ込める。そうやって続けていれば、狭いこの世界はあっと言う間に淘汰され、不毛の大地と成り下がるだろう。御山の総大将も、八雲紫を筆頭とする賢者も、頭を悩ませていた。博麗大結界を築いた巫女の二代目博麗は、どうにか和平に至ろうと協議を重ねていたものの決裂。どうしようもない厭戦気分が幻想郷を包みこんでいた。

 皆が皆を理解する。お隣さんとだって喧嘩するような奴等が、そんな高等な共和を得られる訳もない。だが、少しでも情報を共有し、理解出来るように促せば、多少の緩和にはなるのではなかろうか。自分はそうする役目を負っているのではないだろうか。そのような気が一応はあった。しかし、力が足りない。

 そんな折に、河童が拾ってきたカメラを目にしたのだ。

「私の御先祖様とか、もしかして知ってるの?」
「超美人でした。博麗はたしか血統を重んじては……いえなんでも」
「何よ……」

 知り合いの河城にとりは、これこそが必要だったんだと喜び勇んで修理した。彼女は穏健派であったし、人里に近い地方からやってきた河童であるから、ヒトとは争いたくないというのが本音であった。射命丸自身といえば、これからの未来を予想するに、どうしてもヒトが全滅させられる事態だけは避けたかったので、ほぼにとりと同意見であり、互いの利益が一致したのだ。片や情、片や計算であったが、そんな想いと打算こそが当時の幻想郷には必要不可欠だった。

 カメラはなんとか形になったが、しかし、大事なフィルムがどうにもならない。噂に聞いていただけの代物であるし、河童は知識が足りず、まして素材がない。どうにか外のフィルムを取り寄せられないかと悩んでいたところ……。

「まあた紫ね。あいつね、あいつなのね」
「はい。彼女も焦っていましたから、藁にもすがりたかったのだと思います。霊夢さんは見たことないでしょうけど、信じられない程くらーい顔してましたよ」
「ちゃんと写真撮りなさいよ」
「撮りましたよ。今度見せましょう」
「くくっ」

 ともあれ、状況収拾をつける為、こんな策でもないよりはマシ、として八雲紫がフィルムを調達してくる。折角なら新品のカメラもチョッパって来れば良いものを、何かと屁理屈をこねられて却下された。その代わり技術書を持ってくるという周到ぶりに、とりあえず河童だけは喜んだ。

「で、私が撮った写真がこれです」
「……古ぼけてるわね……子供の写真かしら。片方が妖怪、片方が人間ね。手を繋いでるのはなぜ?」
「何か気がついたりしますか」
「何が? で、これは何?」
「――これは私の黒歴史の一つなのですが……プロパガンダ写真です」
「プロパン?」
「作られた写真です。ここに写っているものは、真実ではありません。片方は知り合いの天狗の子、片方は博麗の娘です。貴女の二代前に当たります」
「……こんな所で親族の写真を見せられるとは思いもよらなかったわ。で、この写真が記事になったのね」
「はい。反応は上々でした。私は徹底的に当時の状況を批判、この写真を交えてありもしない人間と妖怪の友情を美しく丁寧に書きましたよ。ええ」
「……それで、どうなったの?」
「みんな、子供には優しいんですよ。美味しいですけどね、子供。可愛いです、やっぱり。あ、この五百年は食べてませんよ? 怒られるし」
「生々しい」
「あとは、世論を誘導しながら、和平に持って行くようにしました。数度のねつ造記事で、ええ、収まりましたよ、戦争」
「なら、よかったじゃない、というか貴女英雄じゃない」
「良くないんです。私は嘘を書きました。これが逆だったらどうです? 新聞が売れるからといって戦争を煽りまくった記事を書いたら、怒るでしょう?」
「そりゃ、まあ」
「……とはいえ、新聞とは何処からか援助を受けているものです。私もそうです。支援者は批判出来ませんし、もし記者があやしげな使命感に駆られてしまったら、客観性を欠いた記事になるのです」
「で、何故それから記者を続けていたのよ。嫌にならなかった?」
「なったからこそ、続けたんです。まあ、相変わらず支援者は批判出来ませんけど、幻想郷のあらゆる出来事を、客観視でジカに、生の情報を伝えよう、そうすることこそ新聞の本分だと、そう思って」

 一頻り喋り終えると、お茶を手にとり一口する。大きな溜息をついて、鼻を啜り、改めてカメラを手にとった。自分の近現代を象徴するものがこのカメラという奴であり、そして新聞なのである。

「……そうだった」
「何よ」
「い、いえ」

 すべて告白し終えてから、一抹の不安がこみ上げてきた。

 自分が新聞を辞めたと告知する事はすなわち……。

「贖罪だったのかしら」
「そんな難しいものじゃないんです。ただ、私は私に素直でありたい。良かれと思った事なれど、罪悪感は消せません。だからせめて、これからは正しい記事を書こう、と。御山に閉じこもったような記事じゃなくて、人と妖怪の間に入り込むような、そんな記事を」
「少し見直したわ。案外立派な信念持っているのね。このお菓子も食べて良いわ」
「はあ、じゃあ遠慮なく」
「しかし」
「ふぁい?」
「やっぱり、それが悲しかったんじゃないかしら。改めて口にしてみて、何か想うところはないの?」
「確かに『初心』を忘れてしまっていたのかもしれません、間違いなく、ええ」
「天狗も難しい生き物ね。もっと能天気に生きているものだとばかり思っていたから」
「貴女程能天気に生きられたのなら、さぞかし世界は明るいでしょう」
「憎まれ口叩けるぐらいなら、だいぶ良くなったみたいね」
「……とと、そうでした。まるで癇癪でしたね、お恥ずかしい所をお見せしました」

 そのように言い、わざとらしく頭を下げる。霊夢もそんな事は承知なのか、ハイハイと適当にあしらう。制御不能の感情はなんとか収まったので、一応は感謝しているのだ。受け取ってもらえるとは思っていないが。

 それにしても、と霊夢をチラチラと見ながら思う。彼女がこれほどこんなつまらない話に興味を持つとは思わなかった。あまり語りたくない事実だけに、話す方としては聊か辛いものがある。

 とはいえ、彼女の言葉を受けて、一応は納得するものだった。椛にも忠告された話であったが、改めて人間に言われてみれば、頷ける。それに、大っぴらに『辞める』と公言すると、余計な奴が介入してくるのではないかという不安も思い出される所である。

(思い出してよかった……もしこのまま公言していたら……)
「何よ、ぶつくさと」
「いえ。今日はこのあたりで。新聞は……茶碗の包みにでもします。あと、家の隙間を埋めるのに使いますかね」
「じゃあもう数部頂戴」
「ばらまかないでくださいよ?」
「まかないまかない」

 霊夢に数部手渡し、自分は改めて礼を言うと、そのまま山へと戻る事にする。空はまだまだ明るく、鴉天狗はこれから商売を始めるというのに、もう何もする気になれなかった。

「じゃあ、失礼します」
「嘘も大概にね」
「むぅ……なんです?」
「良いのよ。気にしないで」

 何か言いたげな霊夢であったが、それ以上は喋らなかったので、無視する事とした。どうせせっついても、しゃべらないものは喋らないのが博麗である。



 二、卵



 まるで、ぬるま湯に浸かっているかのような感覚。何もかも、己という概念すべてが母に収まり、恐れは無く、安堵し、外の世界を夢見ている。

 黄身でしかない己には、もう全てを考えるだけの力がある。

 それはどういった因果の元にあるものなのか。解りはしなかったが、きっと自分は天に選ばれた子なのだ。鳥の身でありながら、黄身の分際でありながら、今後開けるであろう世界に降り立つ、一羽の神だ。ヒトはモノは、自分を崇め奉り、頭を垂れ、貢ぎ、己の才に肖ろうと群がって来るに違いない。

 きっと箱庭に収まるべき存在ではないのだ。巣を飛び立ち、世界を見降ろし、その姿を尊ばれ、敬われるに違いない。ああ、一刻も早く、外へ、外へ。

 刻々とすぎる時の中、己と言うものは、想像し得る限りで究極的に超越した存在として世に生を受けるものであると、信じて疑わなかった。

 だがどうだ。このように驕る自分を見た神はどうだ。母はどうだ。

 この卵を、恐れたのではなかったか。

 夢にたゆたい、最早全てを手にした気でいた己に、やがて制裁が降る。その傲慢な意思を戒めようとでも言うのか、それとも、タダならぬ卵の気配に母が恐れ慄いたのか。

 温もりが消えて行く。

 焦りが芽生える。

 ……自分は育てる対象から外されたのだ。もう少しで掴む筈であった世に生まれるまでもなく、このまま生涯を閉じてしまう。

 もがく。

 己が腐れて、塵になってしまう前に。己が、他の子達の餌になってしまう前に。

 はやくはやく、ここから出なければ。

 硬い殻を蹴破り、いち早く誕生を迎えなければ……。

 ――早く!!



 ……。

「……ぬぐ……んっ……うんんぅぅ……」

 窓辺から日が差し込み、室内を不愉快に明るくする。目元に及んだ日差しを避けようと手で遮ったが、しかし一度覚醒した意識が再び深遠に落ち込む事もなかった。文は致し方なく起き上がり、大きく背伸びをする。

 大きな欠伸を一つキメて、だらりと脱力した。

 傍らを見やる。

 そこには薄黒くて、握りこぶし大の卵がある。

 頭をくるりと回して考え、ああそうだと頷く。『昨晩のもの』だ。ここ最近の情緒不安定とお腹の張りはこれであったのだと思いだす。

 鴉天狗というのは厄介なもので、妖怪として成熟すると卵を産む。鳥の怪の類故だろう。当然の事ながら、雄と交わった記憶などないので、これは無精卵だ。通常ならば、つまり他の女性型を取る鴉天狗は直ぐに『然るべきところ』へ持って行くのだが、文は卵を温め、一人で供養する癖を持っている。

「んー……」

 ベッドの横に設えてあるバスケットに卵を移し、何事もなかったかのように、文は大きな欠伸を一つした。

「ぬあー……」

 意味のない発声をし、もぞもぞとベッドから這い出ると、寝ぼけ眼のまま椅子にすわる。何故か少し冷たくて、どうしたのかと思って下を見やれば、自分という奴は真っ裸であった。何せ幾つになっても大して大きくならない小山が野ざらしになっており、幾つになっても濃さを増さない幻想の園が良く見える。

 はて、何か過ちを犯したか、では相手は誰だと思ったが、しかしそんなものはいない。卵を温めようとして、わざわざ全裸になったお陰だろう。

 鳥のクセに朝に弱いとは何事だろうか。そんな思いを心の片隅に置きながら、作業机へと赴く。そこには昨日作業途中で放棄したスクラップ帳があった。

 それを手にとり、ツラツラと眺めながら台所に出て、ガスコンロに日をつけてお湯を沸かし始める。いやはや、試作品として河城にとりから貰ったのだが、実に快適で怠惰になってしまいそうだ。この文明の辺境でお湯を沸かそうと思えば、一々窯に火を入れねばならないのだが、その必要が全くない。外の人間達はもっと便利な生活を送っているのだろう。そう考えるとうすら寒いではないか。何もかもが自動化され、自分一人では生きられないセカイになっているのではなかろうか。

 そんなどーでも良い事を考えながら、お湯が沸くのを待つ。急須に茶葉を入れようと茶筒に手を伸ばしたのだが、思わぬ軽さに持ちあげたその手が止まる。

「あちゃ、もう一杯ぶんしかありませんね」

 茶筒を振れば、心もとないカサカサという淋しい音が良く聞こえた。次いでだとして、台所も漁ってみる。床下の収納スペースを開いてみれば、見事に虚しい空間だけが広がっていた。ああそういえばと思いだす。どうしても『超限定古吟醸月世界』が欲しくて、食費を削ったではないか。しかも犬走に大盤振る舞いしてしまった。

 おしい人を無くした。三円もしたというのに。限定という言葉がいけない。限定という言葉がつくだけで、ありきたりなモノも凄まじい価値があるかのように見えるのだ。とはいえ、月世界は品質も高く人気であるし、その古酒が解禁となったのならば、やはり飛びついてしまうのが酒飲みだろう。

 思い返せば、あの犬走も次の朝にはケロリとしていた。やはり良いお酒だから、二日酔いしなかったのだろうか。後悔してもしきれない。

「文さーん、おはようございますー、起きてらっしゃいますか?」
「……あ、ああ、椛さんじゃありませんか。ノックも無しに家に入って来るなんてまったく躾のなってない駄犬ですね、なんなら私が調教しましょうか」
「まあまあ。所で何故裸で床に這いつくばってしかも泣いてらっしゃるんですか? 長い天狗生に飽きて、とうとうアブノーマルプレイにでも走ったんですか?」
「そうなんですよ。責任とってください、椛さん」
「いえ、私そう言う趣味ないので。とはいえ、スタイルは良いですよね、文さん」
「はあ。飄々としてますね……面白くもない。着替えるからちょっと待っててください。あ、もうお湯が湧きますから、二人分入れておいてくださいね」
「はいはい」

 まったく面白味のない反応をする椛に多少の失望を覚えながら、文はさっさと着替えを始める。白いブラウスに黒のスカート。いつも通りのいでたちだが、別に毎度同じ服を着ている訳ではない。鴉の行水と言われようと、文はどちらかと言えば綺麗好きである。これだけでも数着あるのだ。日常不変を意識している為、出来る限りは毎度同じ格好が良い。少し出かけるとなればおしゃれもするが。

 三面鏡の前に座り、ボサボサになった髪を梳かす。目の前には少し腫れぼったい顔をした美少女がいた。きっと何か辛い事があったのだろう、と同情し、それが自分だと気がついて少し憂鬱になる。

 肉体は超人的な妖怪であるが、精神は一度落ち込むとなかなか治るのが遅い。そこまで苦悩するような問題があったかと言えば、そうでもないのだが、普段ポジティブなだけに、ちょっとした切欠が気分を害する。

「文さーん、この、火の出る何か、どう止めるんです? にとり製品?」
「ボタン押してー、くださいー」
「ポチッとな」
「良くできました」
「えへへ」
「なんか、気分よさそうですねえ」
「はい。文さんのお陰です。隊長、すっかりおとなしくなって、一人で見回りするからお前たちはゆっくりしていってね、って言うものですから、今日はフリーなんですよ」
「はあ。だから楯も剣も無いんですか……で、フリーなのに何故ウチにくるし」
「こっそり警備隊の皆に文さんのお陰だって漏らしたら、みんなお礼を持ちよってきまして、で、私は配達しにきました」
「まあ。因果とはどこかで繋がるものですね。丁度困窮していたところです」

 腫れた目元を少しだけ化粧で隠し、まあこんなものだろうと頷く。台所の椛は、シッポをパタパタとさせながらいかにも上機嫌で居る。畏れ多くもオオカミの末裔であると言うのに、どうも小動物チックでならない。犬走家に関しては、きっと小型犬が祖先なのだろう。

「皆さんからのお礼は外のダンボールに詰めてありますよ」
「食べ物が良かったんですが」
「ええ、白菜とか人参とかそんなです」
「いやあ、ヒトは助けて見るものですねえ」
「私からはこれです。はい、月世界」
「……なんと。いいんですか?」
「お給料も出ましたし、なんだか文さん落ち込んでいるみたいでしたから、元気づけにと思って」
「椛さん、小型犬だなんて思ってすみませんでした」
「慣れてます慣れてます。とりあえず、もらってあげてください。ところで具合が悪そうなのは生理か何かですか?」
「一言多いですよね」
「慣れてます、慣れてます」

 椛が屈託なく笑うので、皮肉を言う気にもなれず、その場はお茶でお茶を濁した。小さい犬耳をあちこちと動かし、しっぽをぴょこぴょことしている姿は見ていて愛らしい。古参であり、風神の加護を受ける自分とこの白狼天狗が、いったいどこに共通点を見出し、良く話すようになったのだろうか。

 覚えている限りでは、六十余年ほど前であっただろうか。四季映姫曰くの、記憶の禊が行われる頃である。

「ところで、その手に持っているのは?」
「ああ、スクラップ帳ですよ。古い記事は紙が劣化するし、忘れたくないものは全て書き出して、これに収めているんです」
「見せて貰ってもいいですか」
「ええ、どうぞ」
「あ、これ、私の記事ですね」
「あ、ああ。そうでした。その辺りも整理していましたね」


 文々。新聞 第六十三期 弥生の十二

 記者、白狼と対峙す

 近頃は外の世界から幻想郷への流入が激しいと噂されており、その真相を探るために調査をしていたのだが、記者はまた違ったものに出会う事となった。幻想郷の歪が多く存在する場所は点々としているが、その中の魔法の森にて一匹の狼と遭遇する。体長四米はあろうかという銀毛も狼である。突如襲いかかってきた為記者はこれを撃退したのだが、どうやらこの狼もまた幻想郷入りした者だったようだ。(中略)
 話してみれば中々に言う事を聞く狼であったので、記者はこれを保護し、様子を見る事とした。外からの流入という事はつまり外の世情を良く知っているという意味合いを持つ。外の世界に関心のある読者方には興味の尽きない存在と言えるだろう。(後略)


「ネタ扱いですね」
「まあ、ネタでしたし」
「とはいえ、文さんはずいぶんと真剣にお世話してくださいましたよね」
「ああ……そういえば、そんな事もありましたねえ……」

 思い返せば、そんな日もまたあった。

 傷ついた狼が一匹、幻想郷へ迷い込んだのだ。牙をむき出しにし、焦げた全身を震わせながら自分を睨みつけたそれは、息も絶え絶えながらその高潔な精神を露わとしていた。明らかな大やけどは、一体どのように負ったものなのだろうか。何ゆえ、そこまで自分を睨みつけるのだろうか。

 怖いのかと問えば、ソイツは頷いた。ただ恐ろしく、どうして良いか分からずに震えて怯えて、本能晒すにしか生きる道がなかったのだと、そう教えてくれた。

 外でどのような迫害を受けたのかは知らない。だが、今お前がいる場所は全てが幻想と成り果てた地。そこに導かれたのならば、ではお前も最早幻想であろうと、そのように説いたのを、微かに覚えている。

 大地を揺るがすほどの咆哮。耳を劈き、心を滅多刺しにするような嘆きが、その夜には木霊した。

「文さん、どうしました?」
「――そういえば、椛さんは元々外の神でしたね」
「はあ。小さな祠に祀られていました。焼夷弾で燃えちゃって、そりゃ慌てた訳ですけど。それがどうかしましたか?」
「いえ。あんなに勇ましかったのに、今はただの狗だなと思いまして」
「賢い犬で良かったです。あのまま文さんについていったら、ただのペットにされそうでしたし。あの時の文さん、すごくかっこよかったんですよ。危なくコロっと行くところでした」
「照れますね」
「皮肉ですよ」

 他愛もない悪態を吐きつつ、そんな思い出を通して過去を回想する。ヒトも妖怪も天狗も、長かれ短かれ、歴史がある。辛い記憶、楽しい記憶、様々が詰まっており、一言で言い表す事は寿命の短い人間とて不可能だ。自分は人間の数倍も数十倍も生きており、そして相応の歴史がある。六十年ごとに薄くなるので、しっかりと書き記し残すのが常であるが。

「さて、私はそろそろ外に出ますけど、椛さんはどうしますか」
「あら、どこへ行かれるんですか?」
「日々の糧を得なければなりませんから、日雇に」
「それは困ります。これからお役所に行っていただかないと」
「へ?」
「射命丸太郎坊様が御指名です」
「……父上が?」
「ここに来た理由の一つがそれでした、いやウッカリ」

 ……。

 椛に対して抱いた友情の念が、過去の記憶の濁流と共に流されて往く。朝も早くから友人の憐憫に心痛めていたというに、これはどういう事だろうか。射命丸太郎坊といえば、名前の通り自分の父にあたる。しかも天狗で三郎とか太郎とか付いている輩は、須らく立場が上の者達だ。権現や大天狗とまでは及ばないが、御山のトップを務めている、所謂権力者の一人にあたる。

「詳しく」
「はい。この度御山防衛部に新しい部隊が一つ設けられまして、部隊長は誰が適任かという話になり、防衛部において立候補者なしの推薦投票が行われたんですが、なーぜか射命丸文が人気ナンバーワンで当選しました」
「ちょ、恣意的にねつ造でしょうそれ……というか何故繰り上げ式にしないんですか」
「民主主義を取り入れました」
「私の鴉権がないじゃありませんか」
「未成熟なんです。で、まあ大方軍事統括役の太郎坊様の差し金でしょうが、誰も不満の声はあげていませんから。私も大歓迎ですし、白狼警備隊のみんなも喜んでいますよ。今回のお礼はお祝いも含みます」
「……父上はいったい、何を企んでいるんでしょうか」
「一つに、適任者がいない。一つに、そろそろ無職の娘を働かせたい」
「最後が明らかに私怨です。素人の私に何をしろと?」
「時代が変わりましたから、人間との間を取り持てる人材が欲しいんだと思います。博麗にも近いでしょう?」

 なんとも、利用出来るものは利用しようという、合理的な意見にも聞こえるが、そこには私情が挟まった挙句当の本人の意見がまるで存在していない。父の元を離れてもう何百年となるのか。今更戻って自分の下で働けというのも横暴である。自発的に一個人としての生活を歩んできた自分が、組織に融け込める筈がない。

 それに、あまり役所や実家には近づきたくないのだ。顔もうっすらとしか覚えていない姉妹がいれば、いかめしくて忘れようにも忘れられないコワモテの父も居る場所など、空気に触れただけで鳥肌が立つ。

「出頭しなきゃダメでしょうか」
「指名手配されかねませんし、断るなら顔を出した後の方が良いんじゃないでしょうか」
「一理ありますね……ああ、なんで今更私なんかを……」
「これも転機と受け取ったらどうでしょ。新聞、辞めるんですよね?」
「曖昧なところなのですが……まあ、行くだけ行ってみます」
「早速?」
「早めに終わらせたいんですよ。しがらみとか、嫌いですから。それじゃあ」
「私もお暇します。がんばってくださいね、射命丸文部隊長殿」
「はぁ……もしかして……椛……お父上に……馬鹿だなあ私……」
「何か?」
「いいえ、貴女を叱ってもしょうがない。あんまりにもあほらしい口約束だったから、忘れていたんですよ」
「はあ……」

 朝から全く、悲喜交々でうんざりする。それでなくともまだ情緒も安定していないのに、急激な状況変化は精神衛生上宜しくない。これからあの親の顔を見るとなれば尚更だ。脚も羽(比喩)も重たいが、飛ばない訳にも行かない。一旦椛に振り返り、嫌そーな顔をお見舞いしてやる。しかしお犬様は満面の笑みだ。

 寝室から卵を持ってきて厳重に包み、腰に携える。一連の行動を見た椛に何事かと問われたが、余計な事を教えるのも面倒なので、適当に流す。

「行ってきます……」

 外に出て地面を蹴る。これほどに気分が悪いのも、はたして何百年ぶりか。


 ※


 八ヶ岳連峰から強制脱退させられた御山の一角であるこの妖怪山だが、山と言うよりは最早要塞か、城壁に覆われた都市と言える。火口を中心とした場合、東には住宅地、西には商店街、北には祭祀場他宗教施設、南は神様その他が住み分け、その山頂近くには最近守矢が引っ越してきた。幻想郷を横断する川の水源が一つあったのだが、そこは諏訪湖に沈んでいる。

 飽和状態とも言えるが、流石に妖怪有象無象が数千年と暮らす場所であるから生活基盤はそうそう揺るがない。ヒトっ気の少ない幻想郷において、妖怪山はその人口……妖口の大半を占め、種族の坩堝となっている。

 故にこの商店街も人里とは比べモノにならない活気に溢れていた。文の記憶(というよりも手記を読み返して思い出したもの)からすると、一度観光で訪れた江戸時代の大阪のようだ。アチラこちらで客を呼び込む声が聞こえ、罵声や怒声が響き渡っている。猥雑さといえば外の人里以上かもしれない。

 そんな喧噪に降り立った文は土地勘を頼りに目的地へと足を進める。それにしても、南はあれだけ穏やかだと言うのに、ここはまるで別世界だ。長く暮らしている自分でもこのギャップには毎度目を見張る。

 とはいえ、こんな賑やかな場所にもエアポケットのように人気が失せる場所があった。

 目的のお役所は傾斜に佇む商店街の一番奥にある。どっしりとした石造りの要塞は観るだけでも空気を重くするような異彩を放ってそこに坐している。厳めしい鉄柵の設けられた門の前に立つ。

 『防衛部本営』の文字が彫り込まれた木彫りの看板がこれまたドギツく、文はうんざりして大きな溜息を吐いた。建てる所を絶対に間違えていると、文は百年前から疑問視している。

 防衛部、というのは他でもなく、御山を組織する為に存在する部署の一角で、軍事を取り仕切っている。警察機構も組み込まれている為、その場合の名称は防衛部警察課だ。権力が集まりすぎてはいないか、という批判も無い訳でもないが、そもそも法律自体が緩いので、軽犯罪は私刑が主であり、相互の示談を求められている。一々細かい事まで取り締まっていたら天狗とて身体が持たない。組織化されていたとしても、所詮は妖怪を完全に統べるなど無理なのだ。故の緩さである。

 防衛部の設立は近代だ。それまでは力の強いものが法となり、天狗の掟を押し付ける形を取っていたのだが、人間や他勢力との争いが激化すると共に、どうしても組織化が必要になったのである。今でこそ薄暗く空気の悪い場所だが、一昔前は穏健派と過激派と反逆者と見物の妖怪でごった返していた。

 そんな事を回想しながら、文は門番の白狼天狗に話しかける。

「どちらさまで」
「射命丸太郎坊軍事統括殿の命により出頭致しました射命丸文です。お取次ぎ願います」
「お話は伺っております。どうぞこちらへ」
「恐縮です」

 門番に連れられ、本営内へと案内される。河童の技術で成り立っている強固な城だけあり、その造りは百年経った今でも衰えを感じさせない、言いかえれば冷たくて痛々しいほどの強烈な威圧感が存在する。石を隙間なく連ねて組み合わせた古式ゆかしい建造物であるが、節々に天狗達の念が籠っており、とても観光には向かない建物である。

 長く薄暗い廊下を進み、五階層からなる本営の最上階に導かれる。大きな扉は鉄製であり、人間如きどころか、並の妖怪一人では開けるのも苦労するような代物だ。門番と、扉の前に控えていた一人がこれを開けようとするのを制止する。二人は小首を傾げるばかりだったが、その理由は直ぐに眼前へと具現化した。

 文は取っ手を捕まえると、額に青筋を立てて力んで一気に押し開く。石の壁と鉄の扉が急激な摩擦で火花を散らし、不愉快な音を立てて開く。

「毎度おなじみじゃありませんが、文ですよ、父上のコンチクショウ」
「ふむ……」

 室内に踏み込むと同時に悪態を吐く。文の父は大きなガラス窓を背に、まるで後光でも浴びるようにしてどっしりと椅子の上に構えていた。その身の丈約三米。高位の修験着を纏い、蓄えた髭がその積年の実力を誇示しているかのようだ。誰もかれもが口をそろえて『化け物』と呼ぶであろう存在感を放ち、そこにある。次期御山統括。深山大天狗の右腕射命丸太郎坊である。

「いやいつ見ても父上はデカイですね。何を食べたらそうなれるんでしょうか。私も少し分けてもらいたいものです、その成長率を、この薄い胸とか、この薄いお尻に」
「……」
「なんとか言ってくださいな父上。超絶美少女射命丸文がわざわざ足を運んだんですよ。まったく勝手な取り決めしてくれるもんです。大方その厳めしい面で、他の天狗を脅したのでしょう。女性も多い職場ですしね。睨まれたら卒倒しますもん、普通。私はしませんけど、しませんけどッ」
「お前……」
「はいはい。早速お前呼ばわりですよね、ええ。これから適当に召使おうってヒトに対してお前ですよ。まったく傲慢なのはその図体だけにしてください父上」
「……誰だ」
「ずこー」
「……?」
「わ、忘れましたか? 否定したいですが娘です。娘の射命丸文です」
「いや、済まぬ。うちの文ちゃんがこんな超絶美少女だとは思いもしなかったでな」
「はあ。何せ数十年ぶりですから、忘れるのも仕方無いでしょう。私は忘れられませんが、その厳めしい顔。あとこの歳でちゃん付けするのやめてください恥ずかしい」
「娘はいくつになろうと娘だろう。例え千歳前後でも」
「そろそろ本題をください、父上」
「そうであったなあ」

 太郎坊は懐から何やら数冊取り出し、文へと手渡す。中を開けばそこには若い天狗の美男子が映っていた。

「へえ、美青年ですね」
「どうだ。幹部候補で将来有望だぞ」
「あら、此方は可愛らしい」
「その子は大天狗様の遠縁でな。家柄も保障されておるし、何より金持ちだ」
「……」
「……」
「父上!!」
「ふむ。嫁に行くつもりはないか……じゃあこっちしかないの」
「今更家に縛り付ける気ですか?」
「また違うのだが、まあ見ろ」

 肩を竦めた太郎坊は、恐らく身の丈に合わせて特注したであろう机の引き出しから書類を取り出し、文へと放って渡す。その内容といえば、契約書に相当するものと、仕事内容に関してのテキストである。ははあ、もう無理やり雇う気満々なのであるな、と文は溜息を吐く。

「防衛部警備課特務警備係長が肩書きだ。一部隊率いてもらう事になる」
「素人の私をどうする気ですか? 人材なら他にもいるでしょうに」
「お前ほどの古参となれば一握りだろう。適材適所だ」
「横暴ですね。職権乱用ですね。私は組織なんて加わるタマじゃありません」
「色々と調べたが……。お前の行為は天狗の御触れに抵触している。しょっ引こうと思えば何時でも可能だ。天狗の悪い噂を立てられると迷惑だからな。特に盗撮はなあ……一度、博麗の寝込みを撮影しただろう」
「う……」
「……八雲が怒ってなあ……可愛い娘を護るため、父上はわざわざ頭を下げたのだ……それは良しとして、その年でいつまでもぷらぷらしている気か? あろう事か射命丸を名乗る者が、なんでも屋とブン屋で生計を立てているなど、なあ?」
「そうはおっしゃいますが。下に労働力あってこそ社会は成り立つものです」
「良く商店組合の者から話を聞くが……射命丸文は確かに仕事をするが、私達では恐縮すぎて使いづらい……と」
「なら、こんな苗字捨ててやりますよ」
「家系の話ではなかろう? お前はお前自身で地位があるだろう。何せ千年天狗様だ。他の妖怪達など良い所五百年。挙句力も強ければ、怒らせたら何をされるか解ったものじゃない……そんな奴と働くなど、普通の妖怪は遠慮したい所だ」
「わ、私はそんな暴力を用いません。用いるとしてもスペルカードですし、気分が悪いからと言って吹っ掛けるようなチンピラじゃないんです」
「そういう問題でもない。お前は存在そのものが畏怖の対象なのだ。神とそう変わるまい?」
「ぐぬぬ……」
「……餓鬼地味た反応は、その少女体を取っているからだな。私に成長率を分けろなどと言うが、容姿の変化など容易かろう?」
「こ、この格好が気に入っているです」
「肉体の器に精神は同数しか存在しえんのだ。吸血鬼が何時までも幼い性格なのはあの格好を取るからであり、またお前も然りだ。ほれ、一度大人の姿になってみせよ」
「お断りします」
「残念だ」
「……」
「それで、やるのかやらないのか。やらないと言った瞬間、ここには警備隊が雪崩込んできてお前を拘束するが」
「全員ぶっとばしてやりましょうか。小僧どもが幾ら集まろうと、私には敵いませんよ」
「山の社会から追われたら、幻想郷にも居れぬぞ」
「暴力は振らぬと言ってから直ぐそれか」
「イライラしますね……」
「いかんな、やはり」

 コレを断った場合のメリットが無さすぎる。一応にも自分は山社会の恩恵を受けるモノであり、山を追われたら行く場所がない。幻想郷から締め出される可能性すらある。数百年野放しにしておいて、突然こんな扱いとは、酷く胸糞悪いものであるが、現状を抜け出す手立てが無さすぎる。

 ……。だが、これは本当に許容すべき事態か?

 自分を家に縛りつけたいのだろうか。思い返せば、そのような行動は何度も見受けられた。見合い写真を送りつけてきた事だって一度二度ではきかない。心配されているから、といえばそれまでだが、ここまで強制されて頷く馬鹿も居はしまい。それでなくとも、自分という奴はずっと一人で生きて来たのだ。

 ……。あんな約束を未だ覚えていて、しかも実行するなんて、頭に来る。

「話してください。冗談はもう要りません。私をどうする気です」
「――ウチで使いたいだけだ」
「ふん。なんですか、今の言い淀みは」
「やらぬのか」
「やりません。お断りします。どこかに与されれば、私は私でなくなってしまう。本当のものが見えなくなる」
「新聞は辞めると聞いたが?」
「やっぱり『あの口約束で』私を呼び寄せたんですか……反故します。従いません」


「……仕方あるまい。山ン本!!」「だから、天狗を幾ら集めても、私には敵いませんよ!!」


 太郎坊の掛声に応じ、鉄扉を押し開いて警備隊が乗り込んでくる。先頭に立つ者は老獪山ン本狗衛門警備長、そして以下は屈強な天狗達だ。あらゆる動物から長い年月を経て妖怪へと至った、とにもかくにも生きる事に特化した者達。どれも並の妖怪など即座に拘束し得る能力を持つ。

 山ン本が歩み出る。文とは昔馴染みだとして、説得の構えなのだろう。当然、文は応じる気も無い。

「文様、どうか太郎坊様に従ってはくれませぬか」

 重たく、低い声が室内に響く。妖怪に年齢などあってないようなものだが、山ン本も齢六百歳を超える大物だ。本来ならばもっと若い容姿で居られるだろうが、立場と役職の誇示、そして組織に示しをつけ、年長者の含蓄を湛える為に老人の姿を取っている。

 可愛らしい犬ころだったのにと、文は狗衛門を見て多少の失意を覚える。

「狗衛門。その容姿はあまり好きません。もう少し可愛くなりませんか」
「お戯れを。私は上に立つ者として、これで良いのです。文様。どうか下ってください」
「狗衛門。この父が私に何をしたのか知っていて、味方するんですか」
「……知りません。しかし、深い考えがあっての事でしょう」
「知っているんですね。昔から嘘が下手。直ぐ顔に出ます」
「……」
「ここを退いてください。私は帰ります。どうしても退けないなら……」
「ぐ……総員楯構え!!」

 狗衛門が即座に防御を指示する。文は腰から扇子を抜き、どっしりと床に足をつく。緩慢な動き、人を舐めたような隙。しかし、誰ひとりとしてこの動作を止めようとはしない。踏み込んだ瞬間に文の一閃が室内を吹き飛ばすからだ。止めるリスクを背負うぐらいならば、最初から防いだ方がまし、という事だろう。

 狗衛門は文の力量を知っている。この警備隊が、そもそも勝ち目がない事もだ。

「文、やめい」
「退けるのか、退けないのか。父上は下がっていると良いでしょう。貴方だって、私には敵わないんですから」
「くっ……」
「私は本気ですよ。このご立派な建物ごと、吹き飛ばしてしまったって構わない。出来ないと思いますか? いいえ、出来ますよ。父上。貴方の子というのは、そういう子なんですよ!!」
「文!!」
「アンタになんて『あげる』もんですか!! 魂胆見え見えなんですよ!!」
「違うッ」
「同じじゃないですかッッ!!!」

 室内の空気が射命丸文を中心に圧縮する。警備隊は引きずり込まれまいと歯を食いしばるが、如何せん文の狙いはその反発である。重たい筈の扉がまるで建付けの悪い木製扉のようにバタバタと跳ね上がり、設えてある家具の須らくが文へと引き寄せられ、渦を回り続ける。

 ガラス窓が堪え切れたのもそこまでだ。耳を劈くような音を立てて割れ散らばり、なおかつ渦へと引き込まれて往く。文がこれを解放した瞬間、本部警備隊が一溜まりもなくなってしまう。

「退け!! 三下共!!」

 あらゆる物を巻き込んだ渦が解放され、一迅の竜巻となって警備隊の真上を掠めて行く。全員が防御姿勢のまま楯を構えてやり過ごした結果に残ったものは、目標確保失敗という事実のみであった。

 ……。

 惨状と成り果てた統括室には、一種の虚無感だけが漂っている。文は割れた窓から逃げおおせたのであろう。狗衛門は太郎坊の安否を確認してから、頭を下げる。

「……面目ありません」
「解っていた事だ。山神一柱を、警備隊一つで取り押さえられる訳もない」
「如何しますか」
「如何も何もない。総員あげて確保だ」
「……して、父としては」
「可哀想な奴なのだ……あの娘は――防衛部本営にて射命丸文対策本部を設置する。警備隊召集」
「御意に」
「それと、彼女に連絡を」
「……はい」





 三、風神跋扈




 
 カァカァカァ。

       カァカァカァ。



 その鳴き声は誰が為のものなのだろうか。黒い翼をはためかせ、警戒しているのだろう。何を。外敵だろう。外敵とは何か。自分以外の何ものかだろう。何者とは何者か。恐らくはヒトなのだろう。

 やがて声は近づいて、自分に何かを与えてくれた。赤くて黒くて、鉄臭い何かだ。思えばあの頃は、腐敗した羅生門の前に巣を構えていたか。では、自分が食べていたものは、腐肉か何かなのだろう。新鮮な木の実や虫や肉は、皆姉妹達が貰っていた。

 母は人を避け妖を避け、餌を調達してくる。我が子を立派な鴉にする為。種を保存しようとする本能から、母は懸命に育ててくれる。自分はそんな中、明らかな差別の下にあった。

 だが、思えばそれが良かったのだろう。腐肉を食らう度に目覚めたような感覚を得、視界が広がり、世界が広がって行く。ただ幼くカァカァと鳴く姉妹達とは、根本的に異なった力を自覚する。

 思考する力がある。超越的な力の漲りを保有する。だが、あまりにも自分は幼く、そして所詮は鴉であった。

 やがて、母が帰ってこなくなる。

 人間に殺されたか。妖に殺されたか。原因など解らない。

 自分が知る世界とは、随分と違う現実だ。母はあれだけ、外は素晴らしい世界だと、卵に語ってくれたというのに。自分は真に受け、そして夢を見たというのに。しかし、愚痴など漏らしても、救われる事実など有りはしない。生きたければ食わねばならない。

 ……。姉妹達が衰弱して行く。餌が無く、飢えて、姉妹が姉妹を啄み始める。

 このままではやがて自分も、あのみすぼらしいくて汚らしい、骨になってしまうだろう。

 許容しがたい。認めたくない。

 ……。

 ……。

 ……。

 食わねば。

 ……。

 そして、更なる生を欲するなれば、飛ばなければならない。この巣をその両足で踏み越え、翼を広げ、大空へと羽ばたかなければ。

 飛ぶ。羽ばたく。そして落ちる。

 地獄の窯のような巣から逃れられたとて、今度は新しい地獄が待ち受けている。早く飛ばねば命がない。蛇、狸、狐、人間に妖怪に、外敵は山ほどいる。慣れない足で歩き、碁盤の目のような道を行き、羽根を何度もバタつかせ、空へ空へと意識を向ける。

 やがて辿り着いた場所で見たものは、腐敗した鴉の死体だ。黒い眼をぎょろぎょろと動かし、これは何であるかと賢い自分に問いただす。答えは直ぐ出たが、認めたくない現実であった。

「カァ」

 ただ、ひとつ鳴く。

「カァ」

 ただ、ひとつ啼く。

「カァ」

 ただ、ひとつ泣く。

 何故母は自分を産み、軽蔑しながらも育てたのだろうか。自分のみすぼらしい遺骸を見せつける為なのだろうか。絶対的な絶望を味あわせる為だろうか。

 だが、母上。

 自分は、違うものだから。

 鴉ではありえない、あまりにも敏感な感性が、あらぬ感情の去来を招く。

 ――強くならなければ。

 ――強くならなければ、決して残酷な現世で生き残る事は出来ない。

 空腹に負けぬ強い精神を。何者にも屈しない強い力を。どのような逆境があろうとも、生き残る術を。

 飛ばねば。まず、鴉として成熟しなければならない。

 ひょこひょこと力なく助走をつける。渾身の力を振り絞り、羽根へと集中させる。

 空を見上げる。民が干からびたこの都に、姉妹が姉妹を食うこの巣に、母が遺骸をうずめるこの地に、別れを告げねばならない。

 未成熟な体を目一杯に使い、恐怖を切り捨てる。疲れようが痛かろうが、構ってはいられない。この浮き上がる感覚をその身に刻み込み、遠くへ遠くへと、向わなければならない。

 ……。

 世界が小さくなる。自分が見ていた現実とは、おおよそかけ離れた美しいものが、眼前に広がっている。地の茶色に山の緑、空の青に白の雲。なんと、自分は小さい頃で悩んでいたのか。

 たったあれだけの箱庭に、一体どれほどの悲しみが詰まっているのか。皆も飛べばいいのだ。飛んで、見渡して、受け止めると良い。

「カァ」

 自分は……本当に小さいものなのだ。だから、強くならなければ。こんな腐った世界にあり、燦然と輝ける、神の如き存在にならなければ。不自由もなく、恐怖もなく、平穏に生活する為にも。


 ※


「……母上」

 ベッドの上で卵を抱え、息を殺し、ひっそりと夜を迎えた。あれだけの事をやらかした後だ、直ぐに追手が掛るかと思っていたが、天狗は影も形も見せていない。しかし、ここもしばらくすれば警察隊が取り囲むのだろう。あまり、長居は出来ない。

 もう手荷物は支度終えている。あとはこれを持って、いずこかへと飛び立つばかりだ。

 何故、あんなにも強烈に否定してしまったのだろうか。今になり、罪悪感がこみ上げる。

 椛が漏らしたのだろう。当然、恨む気はない。別段と、オフレコにするものではなかったし、廃刊のお知らせをまき散らす直前まで行ったのだ。誰も悪くはない。

 実家には寄りつかず、父を避けて生きてきた。迷惑はかけていない……とは言わないが、大した騒動も起こさず、自分が凶悪な妖怪である事を自覚し、大人しくして来たつもりだ。

 ……父は自分を心配しているのだろうか。

「……こ、こんばんは」
「誰ですか」
「……犬走……椛です」
「――入ってください」
「失礼します」

 卵を片手に持ったまま、椛を出迎える。椛は堪らなく申し訳なさそうに頭を下げたままだ。自分の事を責めているのだろう。元凶といえば間違いないが、彼女に悪気があったとはとても思えない。

「……この度は、その……」
「座ってください。あまり長い間は居れませんけどね」
「……」

 椛を椅子に坐らせる。文は真向いに座り、何も言わずただ、卵を手元で転がした。

「……私が、幻想郷に来た後の事です」
「……」

「右も左も解らない私に、文さんは……いいえ、文様は沢山の事を教えてくれました。オオカミの末裔とはいえ、心細くて、人が恐ろしくて、身の回りが全て敵に見えていた私に、文様は諭してくれました。母は人間に征伐され、父は戦火に散りました。ひとりになった私は、誰かが恋しかったんです。けれど、幻想の薄れた外の世界では、私の事など覚えていてくれる人もいない。最後には……唯一の拠り所であった祠も、人間の手で消え失せました」

 椛は俯いたまま、淡々と語る。文は何の感情も示す事なく、くるくると、くるくると、卵を回す。

「そんな私を、まるで妹か娘のように可愛がってくれた文様には、本当に感謝しています。私は……」
「解ってたわよ。今更弁解する事じゃない。私を監視していたでしょう」
「……流石ですね。文様を離れた後は、警備隊に組み込まれました。私が文様と知り合いであると知った太郎坊様は、私を抜擢しまして……」
「……私情で公権力行使とは、愚かすぎて溜息も出ない」
「……そう言われてしまうと、辛いですね……」

 椛の顔が上がり、自分を見つめてくる。その蒼い瞳は狼の鋭さと、冗談ではないという、真摯な態度を現していた。可愛らしい椛が見せる猛獣の片鱗であり、紛う事のない無言の契約だ。

 くるくると回していた卵を両手に収める。自分の娘のように可愛がった子が本当だというのだから、それは信じよう。ただ、父への不信感が消えたわけではない。

「……その卵は」
「私の『子』よ。決して生まれる事のない、『恐らくは』私の遺伝子のみで構成された卵」
「――持って行かなくて、いいんですか。鴉天狗には、専用の供養所があると聞きますが」
「……ふん。ヒトの卵を勝手にぶち割るような供養所になんて、誰が行きますか」
「ご、ごめんなさい……」
「――椛」
「は、はい」
「謝らないで。貴女は何も悪くない。私は、貴女を可愛く思っていますよ。ただ、従順なだけですよ、ね」
「あ、文様……」
「そろそろ行きます」
「ど、どこへ」
「外の世界です。どうせ、幻想郷には居られません」
「そ、そんな」
「仕方ありませんよ。じゃあどうします?」
「どうと、言いますと?」
「一緒に防衛部を叩きつぶすんです。当然、椛は囮」
「い、いやですよ。そんなことしたら捕まりますし、防衛部が潰れても、私無職です……」
「ははっ」
「わ、笑えませんよ!!」

 そんな、冗談と本気を交えた『冗談』を言いながら笑う。父にどのような思惑があるとも知らないが、少なくとも、椛においては何も悪いものなどない。自分をウンと好いてくれる、数少ない友人なのだ。上手く立ち回り、自然な振りをしていようとも、やはり、他の妖怪との差は感じてしまうものだが、彼女にはそれがない。

 屈託がなく、怯えがなく、純粋で、スレておらず、まっすぐだ。妖怪にしておく方が勿体ない程の人材である。飼えるのならば飼っておきたかった、などと多少の本気を交えて思うのだが、言ったら言ったで本当に付いてきそうなので、口にはしない。

「私は行きます。本当はもっと、早く出て行くべきだったんですから」
「……文様……」


「ありがとう。お酒、美味しかった」


 あらゆるものを積載した鞄を片手に、夜の空へと舞い上がる。木々をねぐらとする鴉達が、カァカァと喚き立てた。山の鴉達とは、もう長い付き合いだ。鴉天狗の中でも群を抜く自分を王と崇める者も少なくない。その声は悲痛そのものであり、引きとめるものだ。

 一匹の鴉が群れから飛び出て此方へと近づいてくる。その綺麗なフォルムは間違いなく、自分が一番お気に入りとしていた文々丸だ。

「お世話になりましたね」
「――カァ」
「短い間でしたが、マスコットキャラクター、ありがとうございました」
「……」
「引きとめてくれるんですか」
「カァ」

「でも、もう居れませんから」

 みんなばいばい。

 手を振る。酷い虚無感を覚える。しかし、今の自分にはそうする他になかったのだ。


 ※


 幻想郷から出るという行為は、皆が思っているより容易である。結界をぶん殴ってスキマを叩き起こすなり、博麗の巫女に頼るなりして出してもらえばいい。ただ、前者はめちゃくちゃにボコボコにされた後出されるケースが多い為推奨出来ない。後者を取った場合、博麗の機嫌による。それに夜は寝ている事が多いし、昼は昼で怠惰で働かない。とはいえ、安全度で言えば博麗だろう。

 文は音もなく真夜中の境内に降り立つ。

 なんだかんだと、彼女にはお世話になったものだ。いや、正確に伝えるならば、数代に及ぶ博麗にだ。

 彼女は幻想郷の体現。いや、そのものなのだろう。何度となく出会い、別れた。これほどに馴染み深いというのに、花の異変では初めてのような顔をされた。当然ではあるが、いつも淋しく思う。思いつつも、それで良かったと、安堵している。

 この郷は楽園だ。

 自分のようなバケモノを許容する素晴らしき場所だ。

 だが、その裏にひた隠された、いや、皆が見ないようにしている現実は、恐ろしく過酷である。

 自分は情報を集めるのが仕事であった。新聞にしているのは、確証が持てる部分だけ。もっともっと、幻想郷の少女たちの裏事情について、自分は詳しいと信じている。

 故、言いきれるものだが。

 博麗然り……八雲然り……西行寺然り……兎に角、上げて行けばキリがないほどに、言葉では言い尽くせない、酷い過去を抱えている。他人ごとながら、調べ、その真実に至り、何度涙したか知れない。それが偽善であろうとも、妖怪には似つかわしくない涙だとしても、射命丸文という奴は、どうしても、悲しかったのだ。

 だからこそ、この楽園は素晴らしい。

 だからこそ、ここを出て行くなんてマネはしたくない。

 愚かしい。意地を張って踏みとどまれば良いのに。しかし、それも出来ない。

 平穏無事であれば良かったのに。あの、本能からこみ上げる嫌悪感に、耐えきる事が出来なかったのだ。父に反目し、親しい友人たる狗衛門に牙を剥いた。自分がもっと大人ならば、違っただろうか?

 精神と肉体は同等数。恐らくは真実なのだろう。だが、そんな大人の格好をとってしまえば……自分はきっと、抑えきることが出来ない。己の深層に根ざす、絶対的なまでの価値観を、再現してしまいたくなるのだ。幼い頃から抱き続けた『何者にも犯されない幸せ』を実現しようと、動いてしまうだろう。

 ――――だが、そんなものを許容出来る自信など、毛頭ないのである。

 お見合い? 大人? 役職? 冗談ではない。自分は少女の姿で良い。これ以上は、恐ろしいのだ。

 ひとつ溜息を吐き、決心する。もうここには、自分は居られないのだ。

「……霊夢さん、起きてらっしゃいます……か……?」

 裏手の母屋に周り、寝室の雨戸に手をかけたところで――その手を何者かに止められた。

 ……。白い手袋。実体があるにもかかわらず、そこには手と、深く暗いスキマしか見当たらない。
 
「……なんのつもりですか、八雲紫さん」
「いいから、その手を雨戸から退けなさい」

 言われた通りに手を雨戸から退け、縁側から離れる。中庭にまで後方飛びし、即座に戦闘態勢を取った。穏便に済まされればそれで良いのだが、八雲紫の声は、視覚認識出来てしまうほどに、瘴気で黒い。

「盗撮なんてしませんよ?」
「……」

 隙間から導師服姿の紫が、ぬるりと現れる。月夜の晩に日傘をさしたその様相は滑稽であるが、金髪を靡かせて踊るように歩む所作は、度し難い程に妖艶で、尚且つおぞましい。


「霊夢に何をする気、虐殺天狗」


「……久し振りに聞きましたよ、その罵倒。で、何しに来たんですか」
「繁殖する意思もない鴉天狗が卵を産んだという面白話を見つけたから、糸を手繰り寄せたんですの。そうしたら貴女でしたわ。どうなる事やらと思っていたら、あのいけすかない太郎坊に恥をかかせたみたいじゃない」
「最初からですか」
「答えから言うわ。貴女を外には出せない。もし貴女が外に出て、外の人間を狩り始めたらバランスが崩れるもの。その精神状態じゃあね」
「ふん……幻想郷には迷惑をかけませんよ」

「ところがそうでもないのよ。人間は、特に変な人権意識の強い日本人は殺人に敏感だわ。失踪ならともかく、センセーショナルな虐殺劇でも演じてみなさい。警察さんが挙って現れるわ。そして貴女はそれを倒すのでしょう。事を荒げると私も外に出にくくなるわ。それに変なのが幻想郷に興味をもって調査しだしたら、嫌でしょう?」

「だから、私はそんなこと……!!」

「やらかしたでしょうが、幻想郷で、八十年前に」
「……あ、あれは……」

 八雲紫は、触れずして己の心に触れてくる。自分が完全に閉ざしている扉を、いともたやすくこじ開ける。

「内々に処理するから、出さないわ。幻想郷で一人静かに引きこもっていなさい。なんなら太郎坊に幽閉されるといいわ。それが一番安全、最善。貴女の父上はそのように配慮してくれているでしょう?」
「だ、誰が!! あんな父のところなんかに!!」
「鴉がけたたましい。夜に啼くんじゃないわよ――出来そこない」
「い、言わせておけば……!!!」

 彼女の瞳は、暗い。余裕面をこいた何時もの八雲とは似ても似つかない、妖怪そのものの暗さだ。明確な殺意が自分を滅多刺しにしている。こんな恐ろしい表情を作れるのは、本気の鬼かコイツぐらいなものだ。

 しかし、ここで引き下がっても、幻想郷にすら自分は居場所がないのだ。これでは八方塞がりである。どうか上手い事、この女を説得出来ないものかと思考を巡らすが、どれ一つとして『痛くない』方法が見当たらない。

「父上の差し金ですね」
「他に何があるのよ。卵を産んだ貴女が危険だって事は、御山の上層部は把握しているだろうし、私のようにあの事件にかかわった者なら、誰だっけ警戒してるわ」
「もうここには迷惑かけませんよ。だから出してください。それが最善です」
「数百年も暮らして、出した答えがそれ? 笑ってもらいたいの?」
「笑いたければどうぞ。私は出ていきます。別に霊夢さんじゃなくてもいい。貴女が開いてくれれば」
「御断りだし、喧嘩じゃ負けないわよ? それこそ野垂れ死ぬわ、貴女」

「――さっさと私を外に出せと言ってるの。こんなところ、ウンザリだわ!!」

「五月蠅い鴉ね……自分が自暴自棄で狂ってしまっている事が理解出来ないのかしら……もう歳だっていうのに、いつまでも子供ね。整理なさい。デメリットに目を向けなさい。頭の良い貴女が、まるで馬鹿みたい」
「この……ッ!!」
「そうか、思いだしたわ」

 ギリリと歯を食いしばり、眼前の目標に仇なさんとして、その腕を袈裟に振るう。人の目では到底捉えられない速度で薙ぎ払われた空気はそのものが不可視の斬撃となり、八雲紫へと襲いかかる。当の紫といえば、うんざりと言った面持ちで扇子を振るうと、会心の不意打ちをまさしく無効化した。


「『子供を護ろうとする鳥』だったわね。遮二無二になって襲いかかって来る様がまさにそれ。暴れて、大声を出して、決して効率的とは言えない行動を取る。貴女、自覚がないでしょう」


「黙れ!!」
「あまり大声を出さないで、彼女が起きる」
「くっ……そ、それなら逆に好都合です。今から飛び込んで行って、彼女を人質にでもとりましょうか……?」
「アッハハ!! 貴女にはそんな事『究極的に、絶対的に、罷り間違っても不可能』だし、残念ながら、人質をとられているのは貴女」
「足元みますね……まあ、そうです……が……?」

 紫はクスクスと笑い、扇子を持っている手をひと振りする。一体どのような手品なのか、そこにはあろう事か、自分の卵があるではないか。

 ――瞬間、凄まじいフラッシュバックで眩暈がする。

 その卵をどうする気だ。それは自分のモノであり、誰かが触れて良いものではない。父だろうが神だろうが化け物だろうが、如何なる者も、ただ唯一、射命丸文の卵だけには触れてはならない。ヤメロと声をあげようとするが、しかし震えた喉が音を発さない。

「や……」
「――卵? これが?」
「やめ……」
「―― 一体、この中には……何が詰まっているの。ただの無精卵ですって?」
「大人しく、大人しくしますから……や、やめて……卵は、だめ……言う事、聞きますから……卵だけはやめてください……わた、私の子なんです……私の子なんです……」
「少し答えてもらえるかしら。鴉の生態からいけば、繁殖期に受精しなかった卵が無精卵になる筈だけど……鴉天狗は違うのかしらね」
「私は……一人身です。交わった事なんてありません。でも、産まれるものは、産まれるんです……それが例え無精卵だとしても、私の子なんです」
「……根が深そうね」
「返してください……お願いしますから、返して……」
「……そう……『彼女』はあの時――これを割ったのね」

 前が見えない。暗いからと言う訳でもなく、このまま地面に居ながらにして墜落してしまいそうになる立ちくらみと、ぽろぽろと零れる涙でまるで視界がない。結局自分は何も出来ず、その場に尻もちをつき、めそめそと泣く他なかった。妖怪らしい瘴気を放っていたのも束の間に、数分も立たずして単なる小娘と成り果てる。

 紫はそんな文を不憫に思ったのか、泣きじゃくる妖怪が珍しかったのか、卵を握りしめる手を止めて文へと近づく。

「未だ許してはいないけれど、まあ、いいわ。ほら」
「……」
「でも、出せない。貴女は前が見えていないわ。ねえ、射命丸文。もう少し落ち着いて考えなさい」

 卵を受け取り、抱えて蹲る。酷い安堵感が押し寄せ、感情の波が引いて行く。決して孵る事などない卵は冷たく、生命の欠片すらも感じ取れない。この中に入っているものは、本当に価値のないモノなのかもしれない。だがそれでも手放せない。人間が常食する類のモノと言われようと、無意味な物体と言われようと、この世にこれほど大切なものは、他にないのである。

「――夜中に、ヒトん家の庭で……何しているの、アンタ達……」
「天狗が自暴自棄だったから、引きとめただけですわ」
「アンタが? 何時からそんなに優しくなったのよ」
「だって、この子ったら死にそうな程泣くんですもの」
「……あ、ああ。気持ちは解らないでも、ないわ……文」
「な、ぐずっ……なんですか……」
「なんか解らないけど、取敢えず上がりなさい。紫は帰りなさい」
「いいの? その子、卵の為なら何でもするわよ? 危険だわ」
「博麗の勘がごちゃごちゃ言ってるのよ。いいから帰って」
「なら、仕方ないですわ。貴女の勘は幻想郷の意思ですもの」

 情けなくも人間に手を差し伸べられる。とはいえ此方としても否定する意味がなかったので、有り難く頼る。

「紫」

 仕方ない、と頷いた八雲紫に霊夢が声をかける。霊夢はひとつ頷き、紫はふたつ頷いた。なんの合図だろうかと多少の引っ掛かりはあったのだが、今追及しても仕様がない話である。

「何かあったら私の名前を呼んで頂戴。たぶん藍が行くわ」
「アンタがこいアンタが」
「じゃあ、おやすみ――そうだ、射命丸文」
「な、なんですか、この鬼畜」
「現実を見なさい」

 返事はせずアッカンベーだけ差し上げた。彼女はクスクスと笑ってスキマに失せたが、相変わらず不気味な女である。卵に関心があるのか、はたまた父の差し金なのか。疑問は尽きない。

「ふぁっ……ふ……。事情も知りたいけど……説明は明日聞くわ……ねもい……ぐぅ」
「あ、ちょ、縁側で寝ないでください、風邪とかインフルエンザになりますから……ああ、寝ちゃうし……」

 ヒトの気も知らないで、楽園の巫女は向こうの世界へと旅立ってしまった。明日……とはいうが、明日が果たして来るのだろうか。夜襲の危険性はどうだ。そうなった場合巫女の安全はどうなる。自分もどうなる。卵はどうする。考えれば考えるほど、とても眠れたものではない。

 卵を鞄の中にそっと降ろし、巫女を抱きかかえて母屋へと入る。布団に寝かしつけると、改めて鞄を取り、そして警戒しながらゆっくりと、雨戸を締め切った。

「ここに籠城……ですかね。はあ……なんだって私は……もう……」

 部屋の端に自分のスペースを構え、そこで卵を抱えて蹲る。もうどうしたら良いのか、サッパリ何一つ思いつかないのだ。反省すればするほど、どれだけ自分が阿呆で馬鹿で情緒不安定だったのか良く解り、この歳になって自己嫌悪で死にそうになる。

 新聞を辞めたくなったり、泣いたりボケたり笑ったり全く一定ではなかったし、あまつさえ父親に反目し、しかも暴力で切りぬけ、防衛部に被害を出し……。

 卵を護っている最中は、どうしても歯止めが利かない。相手の意図するところと逆転したり、急激な変化を嫌った結果更にありえない選択肢を選んだりと、どうにもならない。そも、一年二年で卵のサイクルが来る訳ではないので、慣れないで終わるのが常だ。数十年に一度程度の『産卵』である。

 八雲紫言う通り……自分は鴉の延長線上にしかない。『恐ろしく強くて人間型をした鴉』が正しい。であるから、家畜でもない自分は、易々と卵を産んだりはしない。

 椛の言う供養所というのは、基本的に……つまり交わって、結果受精しなかった卵を供養するところだ。どの親も例え無精卵でも、ただ捨てるには精神が育ちすぎている為、施設が設けてあるのである。

 自分も一度、何も知らぬままに父の申しつけ通り供養所へ持って行き、酷い目にあった。

 考えれば、父も不思議な顔をしていたと思う。当時箱入りだった自分が一体、どこでどの雄と……と、徹底的に追及されたのを、覚えている。

「うう……」

 残念なのか、幸いなのか、自分という鴉は、人間でいえば処女である。

「……ぶつぶつうるさい……卵割るわよ……」
「や、やめてください……大人しくしますから……」

 暗い部屋の隅っこで、ああでもないこうでもないと考える。明日はどうなるのだろうか。博麗は、こんな安請け合いをして良かったのだろうか。

「……なんとかなるわよ……なんとか」

 うわ言のように呟く博麗の言葉は、妙な説得力がある。陰も陽も持ち合わせる幻想郷体現は、楽観視こそが最大の武器なのだろう。

 言霊だろうか。その一言が酷く安心出来た。誰がどのように自分を諭そうとも、決して意に介さなかったというのにだ。相変わらずすえ恐ろしい存在だと実感する。

 どうせ寝れもしないだろうが、目を瞑る。卵をお腹に入れて、体を横に倒す。狗衛門は、父上は、椛は、こんなおかしな鴉天狗を、どう、思っているのだろうか……。

「霊夢さん」
「……」
「……なんでもありません。御休みなさい」


つづく
つぎへつぎへ

※誤字指摘ありがとうございます。
俄雨
[email protected]
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コメント



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2.無評価名前が無い程度の能力削除
待ってたぜ
じっくり読ませていただきます
5.70名前が無い程度の能力削除
俄雨さんktkr
18.100名前が無い程度の能力削除
後編へごー
21.100名前が無い程度の能力削除
そういえば烏天狗って卵生でしたね
寿命の長い妖怪の社会を想像してみると見るとなんだか楽しいですね
社会があれば親兄弟があるわけで、どこの世界にも人間と似た部分があると考えると感慨深いです
後半も楽しみ
30.100名前が無い程度の能力削除
後半へ~続く(CVキートン山田
31.80名前が無い程度の能力削除
つぎへつぎへ
35.80名前が無い程度の能力削除
とりあえず誤字っぽいもの報告

・出来に関心→感心
・曲り間違って→罷り間違って

後半も期待して読ませて頂きます。
40.100名前が無い程度の能力削除
こちらもとりあえず誤字報告をば

・誰だっけ警戒してるわ → 誰だって警戒してるわ

ワクワクが止まらない・・・ッ!
41.100名前が無い程度の能力削除
xコンロに日    
 コンロに火
44.90名前が無い程度の能力削除
後編へ…
47.90名前が無い程度の能力削除
いい味出してる霊夢にwktk
49.無評価図書屋he-suke削除
おもしろい・・・
点は後半で

あと蛇足ですが
>黄身でしかない己には
固体として成長する胚は白身の部分では?
黄身は胚の栄養の塊だったはずです

・・・どうでもいいですね、水を差してすいません
64.100名前が無い程度の能力削除
2週目です
 
 自分も一度、何も知らぬままに父の申しつけ通り供養所へ持って行き、酷い目にあった。

 考えれば、父も不思議な顔をしていたと思う。当時箱入りだった自分が一体、どこでどの雄と……と、徹底的に追及されたのを、覚えている。


なるほどなぁ…
65.100名前が無い程度の能力削除
3週目?4週目かも?
何回読んでも面白いです

それと誤字で
・誰だっけ警戒してるわ → 誰だって警戒してるわ
がまだ修正されていません。
67.100名前が無い程度の能力削除
文ちゃんが処女懐胎なんてたまげたなぁ