Coolier - 新生・東方創想話

桜の下でいつまでも(上)

2009/04/28 03:18:32
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 桜の下でいつまでも
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――おほ前にかしこまりゐてみ歌がたり聞く思ひなり櫻散りつつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 op.
 
 桜の森の満開の下――。
 花が吹き散らされていく――。
 肌で何とか感じられる程の穏やかな微風にも、桜の花びらは大きく揺られ、はらはらと儚く地面に落ちる。
 花は枝先で咲き誇っている時よりも、散りゆく刹那の方が、何事にも代え難い大切なものに思えるのは、その儚さの中に己の姿を重ね見ようとするからだろうか、と阿求は思った。
「咎重き桜の花の黄泉の国――」
 既に見慣れた桜の花のアーチの下、ふと、思い浮かんだ歌が口から零れる。
「――生きては見えず、死しても見えず」
 その阿求の物想う口調の中に何を見出したのか、隣を歩く慧音が深い笑みを浮かべた。
「興味深い歌だ。それは一体、誰が詠んだ物なのかな」
「詠み人知らずです」
 そして、少し考えた後、阿求は首を振る。
「――そもそも何処で耳にした歌なのかも記憶が曖昧です。稗田家の古い書物の何所かに書いてあったのか――それとも、誰かに教えて貰ったものか」
「いずれにせよ含蓄の深い歌の様に思える――。特に、事件が終わった今となってはね」
「ええ、生きていても死んでいても見えないもの――それはつまり存在していないという事でしょう?」
 阿求は沈んだ声で云った。
「都合の良い幻想ですよね――桜の花の黄泉の国だなんて」
「まぁね」
 慧音は淡々とした声で答えた。
「見た事も無いあの世の姿が、人々に様々な想像をさせ、何かを期待させるのだろうが――死というのは、やはり唯の死だよ。在り来たりで、あり溢れている。何も特別なものではない」
「特別なものではない――?ええ、慥かにそうなのかもしれませんが、でも、そうは思いたくもないのが人間でしょう。自分が死ぬ事によって、何かを変えられたり、許されたり、救えたりするのなら――やはりそうしてしまうのではないでしょうか」
「成程。だから、『咎重き』なのかな。来世や浄土なんて死後の幻想が、人を彼岸へと誘う訳だ。生きている現在より、死んだ後の未来の方が素晴らしいものに思える――と。そして、だからこそ――人は西行妖なんてものにつけ込まれたんだ」
 ああ、と阿求は呻く。
「西行法師がその下で入滅した桜の樹が妖怪と化し人を死に誘い、人の精を吸い上げてますます力を付け、さらに多くの人を死に誘い――ですね。そうか、あの樹は、それを見た者の見たいものを見せるのでしたね」
「あの樹は、例えるなら鏡の様なものだ。その人の心の願望を映し出し、死へと誘うのさ」
「慧音さん。でも――」
 ふと思い当る節があり、阿求は慧音へと尋ねた。
「元々西行法師が寺にあった桜の下で入滅しようとした理由というのも、その樹が特別綺麗だったからですよね」
 大変美しい桜があったから、その下で死んでみたくなった――。
 すると桜はその人の生気を吸い、妖怪と化した――。
 妖怪と化した桜は、その魔性の魅力でさらに多くの人間を死に誘ったが――。
 妖怪と化する前から、やはり桜は人を誘っていた事に変わりは無い。
 ――だとしたら。
「桜というのは妖怪になろうがなるまいが――どっちでも同じなんじゃないでしょうか」
 そうだね、と慧音は頷く。
「桜とは、常に人を彼岸へと誘うものなのだろう。妖怪化していようがいまいが関係無い。生まれ付いてのあやかしの花なのかもしれない」
「危ないですね」
「危ないよ。だが、そもそも桜は人に見せる為に咲き誇っているのではない。見た人間が偶々狂わされると云うだけだ。だから、桜からすれば迷惑な話でもある」
「そういう考え方も出来ますか。悪いのは、惑わされる人間の方だと」
「良い悪いという問題ではないだろうさ――。ただ、我々の方も知っておかなければならないだろうね。美しい薔薇に棘がある様に、美しく咲き誇る桜には美しいだけの理由があるという事を」
 阿求と慧音が足を止める。二人の眼の前には、森の中でも一際立派な、桜の樹があった。
 左右に大きく張り出した枝の所為で、両手を一杯に広げた人間にも見える。それは下から見上げれば、見る者を包み込もうとする圧迫感すらあった。
 しかし樹は既に死んでいた。枯れ樹となって、其処に立っているだけだった。
 恐らくは――もう二度と咲く事はないだろう。
 根元には小さく新しい祠が建てられている――。
 二人は膝を揃えて腰を下ろすと、その前で暫しの間、黙祷を捧げた。
 花びらの落ちる音が聞こえそうな程の静寂。
 やがて面を上げた阿求が、そう云えば――、と呟く。
「慧音さんには何時の段階で真相が分かっていたんですか?もしかして、遺体が最初に消えた時に全部分かってましたか?」
 まさか、と慧音は肩を竦める。
「私はそれ程利口じゃないよ。実際、寺の庫裡から本が消えているのに気付くまで、事件の本当の深刻さにさえ気付かなかった」
「何だか悔しいですね。私なんて自分から首を突っ込んでおいて、最後まで振り回されっ放しでしたし」
 慧音が苦笑しながら云った。
「ああいうのは少し離れた方がよく見えるんだ。阿求も下手に関わらず、何時もの通りに、屋敷で紅茶を愉しみつつ、噂にだけ耳を欹ててでもいれば、途中で真相に気づいた筈だよ」
「それはどうでしょうね――。事件については、未だに腑に落ちない事だってあるのに」
「何もかもを知ろうとする必要は無いし、知らない方が良い事も世の中には多い。それに今回の事件は起きてしまった時点で、もう手遅れになっている――そんな種類のものだったから、知った所でどうにもならなかったと思う。正直、私には荷が重過ぎたよ。況してや、私は拝み屋でも探偵でも無い――唯の歴史家なのだから」
「心中お察しします。私も大分疲れました――。収穫もあったのでトントンだとは思ってますけどね」
「収穫?」
「ええ、今回の件に首を突っ込んで一番良かったのは――妹紅さんと仲良くなれた事――かな?なんて思います」
「それは私にとっても大きな収穫だな」
 慧音が微笑む。
「尤も、遅かれ早かれそうなるとは思っていたがね。転生を何度繰り返しても、縁とは決して切れないものだ」
「ええ、その点についてだけは、転生なんてモノを創った方にも感謝しないと」
 阿求は再び大きな桜の樹を仰ぎ見、ほうと息を吐いた。
「私――妹紅さんの所へ行って来ます。きっとまだ本堂の方でしょう?」
「だろうね。縁側に腰掛けて、一人で桜が見たいらしい」
「ふふ、何か思う所があるのでしょうか?春になれば、散っては咲き、散っては咲き、と終わらない輪廻を繰り返す桜に、己の存在を透かし見て――」
「ああ見えても繊細なんだ。よく誤解されるが」
「ええ、知っています。だってあの子は――」
 一際、強い風が吹く。
 地面に落ちた花びらが巻き上がり、薄桃色のカーテンが辺りを覆う。
 阿求は笑みを残し、本堂の方へと歩いて行く。
 慧音はその後を追わず、阿求の後ろ姿が消え去るまで見守ってから、再び桜の森を見上げた。
 空を覆い尽くす花びらで、天蓋まで白い。
「この桜の下でいつまでも――か」
 耳朶に残る女の声。
 ――いつまでもお待ちしております。
 ――いつまでもいつまでもお慕いしております。
 慧音はごつごつとした桜の幹に顔を寄せ、耳を押し当てると、もう一度あの声を聞こうとした。
 しかし聞えるのは風の音だけで――もう誰の声もしなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 1.密僧の良寛
 
 良寛は、真言を微かに響く声で、疾く、何度も繰り返し唱えている。
 ――帰命不空光明遍照大印相摩尼宝珠蓮華焔光転大誓願。
 これを十回二十回と繰り返すと、言葉の一字一句が形を崩し、意味が失われ、音そのものとなる。それが狭い室内にうわんうわんと木霊するのを聞いていると、まるで自分が分離してしまったかの様な錯覚を覚えると良寛は常々思っていた。
 真言を唱えている自分と、それを見詰めている自分だ。
 真言を唱えている自分は、棺に入れられ、顔に白布を被せられた新仏を前に、背筋をぴんと伸ばし峻厳な表情で眼を瞑り、一心不乱に経を読んでいる。それを見詰めている自分は、忙しなく室内の気配を探り、早く今夜の通夜が終わらないものかとそんな不敬な事を考えている。
 本来一つのモノの筈なのに、二つに分かれた己がお互い同士を認識している不可思議な感覚。丁度、人が死んで魂が抜ければこんな感じなのかも知れぬと思う。
 ――今、七人いるな。
 衣擦れ、啜り泣き、鼻を噛む音、畳を踏む音。振り返って確認するまでも無い。眼を瞑れば、耳は普段よりずっと冴える。音だけでも判別は可能だ。
 時折、思い出したかの様に抹香が鼻を突く。幼い頃から嗅ぎ慣れた匂いだった。着ている袈裟には勿論、体そのものにこの匂いが染み付いているに違いない。
 ――という事は、私の肉は抹香臭いという訳だ。人喰い妖怪も嫌がって、噛み付けすらしないだろう。
 そんな他愛も無い繰り言を一人心の内で呟きながら、自然と、意識は目の前に寝ている新仏の方へと向いた。
 ゆっくりと薄目を開け、横たわる少女の姿を確認する。
 その幼い体は、最後に見た時の姿勢のまま、棺に横たわっていた。ただ、すやすやと眠っている様にも見える。このまま目覚めて、起き上がってくるのではないか――と、そんな気もするが、少女の経帷子から覗く肌は白く蝋の様で、静脈が蒼く浮かび上がっていて、ぴくりとも動かず、どうしようもないほどに――死んでいた。
 年の頃は七歳余り。
 鈴という名の、里の茶屋の一人娘で、風呂場で溺れ死んだという話だった。
 どうも親が少し眼を離した所為で起きた不慮の事故だったらしい。
 運が悪かったとしか云いようが無いが、親がもう少し注意していれば防げる事故ではあった。そういう意味では、死んだ少女よりも、これからも生きていかなければならない両親の方が辛いかもしれない。
 ――死人の方が陽気だよ。
 ふと、随分と前に、慧音より聞いた言葉を思い出す。
 正確には冥界の住人は陽気だとか、そういう話だったかも知れない。肉体を失う事で執着が断たれるからだと説明されたと思う。
 ――幽霊は祟ると云うが、実際はそんなに湿っぽくは無い。いや、勿論、陰気な幽霊もいるし、そういうのに纏わりつかれると厄介なのだが、心を強く持てばそれ程恐ろしくは無い。本当に怖いのは、生霊、亡霊の類だろうな。
 慥か慧音はそう云っていた。
 幽霊、生霊、亡霊――。
 ――それらはどう違う。
 良寛にはその差が理解できない。
 幽霊というのは死んだ人間のなるものだろう。だから幽霊も亡霊も似たようなものなのではないか。そう漠然と考えている。
 本来、仏法は幽霊を認めてはいない。
 何故なら仏法に於いて、魂とは肉体を仮の宿とし、輪廻転生を繰り返す不滅の存在であると規定されているからだ。その魂が六道を輪廻し続ける以上、この世に留まる幽霊という存在の出番はない――筈なのだ。
 しかし、幻想郷には当たり前の様に幽霊は存在する。
 良寛も幻想郷の住人として、幽霊の存在は大いに認める所である。見た事もあるし、触れば冷たいと経験で知っている。
 しかし真言坊主としての良寛には――幽霊は理解の範疇を超えた存在である。何故、死んで迷い出てくるのか。何故、大人しく輪廻の輪に入らないのか。それ程までに悔いや未練とは強いものなのか。或いは、人は死んでまで、そんな風にこの世に何かを残せるものなのかとさえ思う。
 ――死ねば終わり。残るのは死体だけではないか。
 良寛は少女の遺体を目の前に、殊更、強くそう思う。
 死んだら仏様だと幾ら言葉で取り繕った所で、所詮、死体はモノである。生きた人間とは在り方を異にする存在だ。良寛は葬式の度に呼ばれ、多くの人の死骸に接してきた立場だからこそ、余計にその思いが強い。
 そしてそんな風に考える自分を、我ながら醒め切った認識だと、そう分析していた。
 坊主ならば、仮令相手が死体であっても、一端の人間として認めなければならないのではないかとは思う。だが、そう思ったところで、結局、死体はやはり死体だという認識を覆すことは出来ないでいた。死人の肌の異様な蒼白さ、死後硬直でぴんと固まった四肢、時間と共にきつくなる死臭。そういう細かい負のディティールが、生前のその人の人格を糊塗してしまう所為に違いなかった。
 だから正直、申し訳ない気がした――。
 仏僧としての良寛は、心の底から、死んだ人間を悼み、往生を願い、成仏を祈ってはいる。未だに修行の至らぬ身。己の未熟さを承知しながらも、死者の安楽を想う気持ちに嘘はない。
 しかし、そこまで思っていても尚、死体だけは――やはりモノだとしか思えなかった。死者の魂を悼みながらも、同じ心でその容れ物の方を忌んでいる。魂という不滅の存在を尊ぶ傍ら、肉体という限りある存在の方を卑下している。
 ――何時かは滅びる体より、不滅の魂の方が偉いのではないか。
 ならば幽霊は生きている人間よりも偉いのだろうか。
 しかし、そもそも幽霊の何たるかがきちんと理解できていない良寛には判断できない。
 ――慧音先生に聞いたら、教えてくれるだろうか。
 きっと教えてくれる筈だ。暇を見つけ、慧音に聞いてみようと、そんな葬儀とは全く関係の無い事を考え、少し気が晴れるのを感じた。
 ふと。
 みしり、と畳みの軋む音がする。
 その音で良寛はふっと我に返った。
 夜も更け、近在の人間は皆焼香を上げて帰ってしまったのだろうか、背後の気配は随分と減っていた。そろそろ引き揚げ時の様だ。
「――まかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん――」
 余韻を利かせ、すっと音を切る。
 静まり返った室内。
 女のすすり泣く声だけがする。
 葬式特有の沈んだ雰囲気。
 勿論、誰も楽しくなんて無いだろう。葬式が楽しいという奴がいるならば、是非ともその楽しめるコツを教えて欲しいものだと良寛は思った。
 しかし、楽しくないから葬式はやらないという人間はいない。少なくとも良寛は会った事が無い。坊主である良寛が会った事が無いと云う事は、幻想郷の人間は死人が出れば当たり前の様に葬式をしているという事になる。しかし、かと云って熱心な仏徒が里にいるという訳でもないのだ。習慣だから、惰性だから、皆葬式をやっているというだけなのだ。
 ――坊主等、葬儀屋と変わらんか。
 自分のやっている事が酷く無意味に思えて、良寛は嘆息する。
「和尚様」
 と、ふいに背後から呼び掛けられた。
 良寛は座ったままゆっくりと声の主の方へと向き直る。
 室内には良寛と、亡くなった少女の両親しか居なくなっていた。狭い筈の部屋が、随分と広く感じられる。
「――鈴は、極楽へと行けましたでしょうか」
 泣き腫らした顔で、亡くなった娘の母親の静がそう尋ねた。隣の父親の徳次郎は無言のままうな垂れているだけで、見る影も無い程やつれている。
 良寛は有りっ丈の威厳を込めた表情と声で真摯に答えた。
「はい。優しく賢い、良い子でしたでしょう。きっと閻魔様も御慈悲を掛けて下さる筈です。だから、来世ではきっと幸せに過ごせましょう」
「そう云って頂けると――あの子も浮かばれます。それに――私が死んだら、あの世で――」
「会えるかも知れません。それに縁があれば、またこの世で再び相見える事もありましょう」
 この手の質問に答える時、良寛は少なからず疾しい気持ちになる。
 何故なら、魂の輪廻は、どうしたって人の意思でどうにか出来るものではないし、次に転生すれば人として生まれるかも分からない。仮に再び出会った所で気付く事も無いに違いはないのだ。嘘は吐いてないとは云え、繰り言をのたまっている事に変わりは無い。人の死は今生の別れだ。それが真実なのだ。しかしそんな乾いた事実を、残された人間に告げても誰も救われはしない。
 だから結局、小手先の言葉で煙に巻くしかない。
 それがどうにも良寛には辛かった。
 沈黙が降りる。
 やがて、息苦しい空気の中、良寛がおずおずと話を切り出した。
「それで仏様の事なのですが――明日、うちの寺の御墓へ埋めるという事で宜しいでしょう」
 明日の葬儀の段取りについてだった。
 神妙な空気に包まれていた部屋の空気が、ふっと緩んだ気がした。生々しい、事務的な話題になった所為だろうか。しかし、放っておけば死体は腐る。子が死に、どれだけ親が悲観に暮れていようが事後処理の話は避けられない。
「勿論、希望があれば好きな場所にお墓を立てて頂いても宜しいです。私に一言云ってくれれば供養はしますので――」
「それは――もう少し先延ばしにできませんか」
 静の反応は鈍い。
「ふむ、しかし云い辛い事ですが――仏様は余り長く持ちませんよ」
「せめて明後日まで引き伸ばせませんかね」
 良寛は眉根を寄せ、少し困った事になったぞ、と思った。
 幼い娘の亡骸を手元に置いておきたい気持ちは分かるものの、まだ寒い冬とはいえ死体が傷むのは時間の問題だ。だがしかし、娘が死んだばかりで心の整理が付いていない状態で、さっさと埋める算段を決めろと強くも云えない。
 良寛は坊主頭を撫でながら頭を傾げた。
 さて、どうするか――。
「――和尚様」
 それまで黙っていた徳次郎が顔を上げる。
 ジッと良寛を見詰める顔は、鬼気迫る幽鬼の如き表情だった。
「和尚様に法力は御座いますでしょうか」
「ほ、法力ですか――」
 良寛は訝しく思いつつも、赤銅色に焼けた厳つい顎を撫でながら、ううんと唸った。
「未だ至らぬ、修行中の身です。なので例えば、弘法大師の様に霊水を掘り当てろ、手長足長を退治しろ、一晩で寺を建てろと――この様な事は無理ですな」
 微笑み、やんわりと云った。
 それでは、と眼の下に隈を作った徳次郎が膝を摺り寄せて近寄ってくる。
「死人を生き返らせる事などは――出来ますでしょうか」
「なんと――仰る」
 これには流石の良寛も呆気に取られた。
 見れば、静の方も大きく眼を見開き、自分の夫のその歪んだ顔を見詰めている。
 ――正気、なのか。
 良寛は男の眼を覗き返し、その真意を汲み取ろうとした。
 男の眼にあるのは――暗い悲しみの光だった。
 何処かで見覚えのある眼。
 何の事はない、葬式の度に死なれた家族は皆こんな顔をしている。
 この男と同じく、愛する人を失った時の自分も、きっとこういう眼をしていたに違いない。
 胸が苦しくなった――。
「――それは無理ですよ」
 何とか、そう呟く。
「死んだ人間の魂は三途の川を渡り、彼岸で閻魔様の裁きを受けます。裁きを終え、冥界にまで行った魂を現世に呼び戻すなど不可能な事」
 しかし、と徳次郎は良寛に掴み寄る。
「和尚さんの寺には死人を蘇らせる――そういう術が伝わっていると、そういう話を聞いた事があります」
 男の眼は――やはり真剣だった。
 莫迦な、と良寛は叫びそうになる。
 ――もし、そんなものがあったら――本当にそんなものがあったら――。
 一瞬、胸の奥に渦巻いた暗い思いを押さえ込み、良寛は大きな手でそっと男の体を押し退け、諭す様に云った。
「何かの――間違いでしょう。仏様は輪廻転生と、そこからの解脱の道を説きます。それはつまり繰り返される生と死が前提となっているのです。人は死ぬのは当たり前。諸行無常という言葉はご存知でしょう。変わらぬものはありません。その様な教えを説く寺に、人を蘇らせる邪法など伝わっている筈がないでしょう」
 でも私はッ、と徳次郎は再び嗚咽し、その場に蹲った。
「私の所為なんです!鈴が死んでしまったのは、私が一寸眼を離してしまったから何ですッ!だから俺はこの子に謝りたい。莫迦な親で悪かったと一目見て謝りたいんです。ねぇ和尚さん無理でしょうか――何なら――私の命と引き換えでも良いんですよ」
「何と引き換えにしても――死んだ人間は戻りませんよ」
 娘の遺体を前にして泣き崩れる父親の姿が、自分の古傷を抉る。良寛はその痛みに耐えながら、何度も何度も云い訳する様に、無理だと繰り返す。
 まだ心の整理がついておりませんので、と男の妻は悲しそうに云った。
 お察ししますと良寛は無難に答える。
 そして、後片付けを手伝いの者にさせますのでもう休んだら如何でしょうか、と提案すると、その場を逃げる様に立ち去った。
 
 
 外に出た良寛は庭に面した縁側へと腰掛けた。
 心が酷く乱れている。
 ――死人の相手をするよりも、生きている人間の情の相手をする方がずっと大変だ。
 良寛はぶるりと体を震わせた。冬が漸く去り、ようやく春の気配が感じられる頃合いだったが、まだまだ冷える日は続く。況してや夜の寒さは相応に堪える。
 良寛は僧衣の懐を探り、煙管と煙草の葉を入れた缶を取り出し、かじかむ手で葉を煙管へと詰めていく。一瞬、こんな寒い夜に外へ出ているのが酷く莫迦莫迦しくなって、屋内へと戻ろうとも思ったが、さっきのやり取りを考えると途端に億劫な気持ちになり、結局、庭に留まる事に決めた。
 マッチを磨り、煙草に火を付ける。煙を深く吸うと、少し気分が落ち着いた。
 それにしてもと良寛は思う。
 ――まさか死んだ子を蘇らせてくれと懇願されるとは思ってもみなかった。
 恐らくは、娘が死んだ事による一時の錯乱だろう。数日経てば正気に戻るのではないだろうか。人間とは上手く出来ているもので、どんなに辛い事でも、時が経てば必ず忘れる様になっている。それに比べれば、一つの感情を保持し続ける事の方がよほど難しそうだ。将来に対する希望や憧れ、ある一人の人間に傾ける感情――生の方向なら愛情、負の方向ならば憎悪――そういうものは何時までも持ち続けるのは難しい。
 ――忘れる事で救われる事もあるのか。
 そんなどうでも好い事を考えながら、気を紛らわそうとしていた。
「良寛さん」
 ふいに篭った聞き取り難い声で名が呼ばれた。
「惣七か――」
 良寛は煙管を吹かしながら、ちらりと声の主を見た。
 一人の青年が、ゆらりゆらりと体を揺らしながら、こちらへ近付いて来る。細身の体躯に、黒の作務衣姿。しかし彼は良寛の下で修業する坊主等ではなく、里で庭師を生業としている。作務衣姿なのは単に仕事をしやすいという理由からだろう。
 惣七は良寛の前に立つと、おっとりとした声で云った。
「大体終わりましたよ。中でまだ佐馬介が明日の野辺送りの用意をしてますが、それが終われば今日は仕舞いです」
 惣七が庭に置いてある手押し車を指差す。それは惣七が庭師の仕事の時にも使っているもので、今夜は通夜に必要な道具を運んで来るのに使ったのだ。
「済まないな。忙しいのに、手伝わせちまって」
「人手が足りないんじゃ仕方ありません。今から寺に帰るには遅すぎるでしょう。今夜は泊めて頂けるそうなのでご好意に甘えさせて頂いたらどうでしょうか」
「ふむ、そうするか」
 寒い夜、惣七は薄い作務衣の上に羽織を着ているだけの格好で、至って平気そうな顔で突っ立っていた。
「呆っとしてないで隣に座れ」
 はぁ、と惣七は曖昧な返事をすると良寛の隣に座った。良寛が座れと云わなければずっと立ったままだったに違いない。惣七はそういう男だった。
「先程、慧音様が来られていました」
 惣七が白い息を吐きながら、そう云った。
「慧音先生が?どうして?」
「焼香を上げに来られたのでしょう。里の人間は大概来ていますし」
「そうか――そうだよな」
「お経を唱える時はもっと集中しろ、と慧音様が帰り際に仰ってました。見てくれだけは一人前だが、まるで上の空で、あれじゃまだまだ修行が足りない――と」
「見抜かれていたか――。やはり慧音先生だけには敵わんなぁ」
 思わず口元がにやついた。
 良寛は慧音の事を『先生』と呼ぶが、良寛自身は里から離れた寺で育った為、実際には寺子屋で彼女から教えを受けた事は無い。しかし慧音は先代の住職――つまり、良寛の父親と多少の付き合いがあり、さらに何度かは、彼女が寺に長く逗留していた事もあるので、良寛にとっても顔見知りだった。そんな良寛にとっての慧音に対するイメージとは、美麗衆目にして博覧強記の才媛――そして、融通の利かない頑固者にして教師。故に、尊敬と少しばかりの皮肉を込め、『先生』と呼んでいた。
 良寛が暫し昔の思い出に浸っている間、隣の惣七は云いたい事を云ってしまったからなのか、口を噤んで、呆っと庭に生えた樹を眺めていた。
 良寛は惣七がまだ子供だった時分から知ってはいるが、歳が親子ほどに離れているし、惣七が元々物静かで無口な為、二人の間に盛り上がれる様な共通の話題など無かった。それでも良寛は、この何処か一種独特の雰囲気を持つ青年の事を好もしく思っていたし、腹を割って話をしてみたい――そう常から思っていた。
「なぁ惣七よ」
 冬の寒空の中、煌々と輝く三日月を眺めながら呟いた。
「今から『八つ目』でも行くか。あそこなら、この時間でもまだ開いてるだろう」
 良寛は手で猪口の形を作り、それをぐいっと傾ける仕草をした。
 まさか、と惣七は薄く笑う。
「僕は下戸ですよ。ご存知でしょう。呑みに行くなら佐馬介と行けば良い」
「それはそうなのだが――」
 お前と呑みに行きたいんだ、と男に面と向かって云えず、良寛は頬を指先で掻き、年甲斐も無く照れた。日に焼けた赤銅色の厳つい顔なので誰にも照れた様にはとても見えないのだが、それがこの坊主流の無骨な照れ顔なのだった。
 惣七が云う。
「それに通夜が終わったからと云って、明日は朝から本葬をやって野辺送りでしょう。ご家族の方が、離れを貸してくれるそうなので、そちらで早く寝た方が宜しいと思います」
「生意気を云いやがる。寝不足だろうが、酔っていようが葬式くらい出来る」
「そんな事を云っていると、罰が当たりませんか」
「何が罰か。極悪人が唱えようが、大師様が唱えようが、陀羅尼や光明真言の有難さは変わらん」
 信心は格好じゃ無いんだ、と良寛が云うと、お前の読経は格好だけだと慧音様に云われた所でしょう、と惣七がすぐさまに切り返した。
「お前さんにも敵わねぇな」
 苦笑いしながら煙管の灰を地面に落とし、懐紙を取り出して煙管を包むと、懐に戻した。
「ああ、そういや――」
 良寛は先程の、茶屋の主とのやり取りを思い出しながら、云った。
「ここの旦那が妙な事を云っていた。何でも、うちの寺に死人を蘇らせる術があるとか無いとか――」
 惣七の横顔がぴくりと震えた。
「死人を――」
「そんな莫迦な事はあるかいと思ったが、どうにも引っ掛かる。旦那は何処で、拙僧も知らぬそんな噂を聞いたんだか――」
 ぬぅと良寛は低く唸り、首を傾げる。
「そんな術が――本当にあるのですか?」
 惣七の問い掛けは率直だった。
「あるものか」
 良寛は即答する。
「なまじあったとしても、そんなものは邪法もいいところよ。陰陽道やら神道の流れを汲んでいるならまだしも、うちは密教の寺だぞ。真言唱えて、死者をあの世へ送り届けるのが仕事なのに、どうして死人を蘇らせる必要がある?ほらもし、蘇った人間が死んだら、また葬式をせにゃならんだろう。そうすると、二度手間、三度手間になる。どうしてそんな風に、わざわざ仕事を増やす事をせねばならんのだ」
 惣七はからからと笑った。
「全く良寛さんらしい。こんな御坊さんに御経を唱えてもらったら間違えて地獄にでも行ってしまいそうだ」
 良寛も釣られて渋い笑みを見せる。
 葬式の夜に、葬儀のあった場所で、余りに不謹慎な二人だったが、それは逆に、葬式特有のやるせない気分から来る諧謔でもあった。
 その証左に、二人はすぐに押し黙った。
 沈黙が、冬の寒さを余計に感じさせる。
「――人はどうして死んでしまうのでしょうか」
 ぽつりと惣七が云った。
 良寛はその問いに託された、惣七の余りの純粋さに笑い出しそうになるのを懸命に堪えた。
 人は何故死ぬのか――。
 そんな事は決まりきっている。
「生きているからだろうな。生きている以上、生まれてきた以上は、いつかは死ぬ。諸行無常という奴だ」
 黙然と惣七は頷き、再び問う。
「人が死んだらどうなりますか。やはり、生まれ変わるのですか」
「そうだ。魂は肉体を離れ、六道を輪廻する」
「魂とは――何です」
「魂ってのは――肉体に宿る、不滅の存在だ。死ぬと、肉体から離れる」
「幽霊という事ですか」
「――幽霊とは、少し違おう」
 しかし、具体的にどう違うのかは、やはり良寛には説明できない。
「つまり、死んだ人間は幽霊ではなく、魂となり、一度あの世に行った後、この世に戻ってくる――それが、転生なのですか」
「そう――だろうな。彼岸へ行き、閻魔様の裁判を受け、その結果によってはこの世に戻ってくる事もある」
「つまり、戻ってこない事もあると?」
「極楽浄土――所謂、天界へ行けば、天人となり一端は輪廻の輪から外れるな。しかし、天人も不死では無い。天人五衰という言葉がある様に、何時かは再び輪廻の輪に加わる定めにある。また、地獄に落とされると責苦が待っているが、それも然るべき期間を過ぎれば、再び輪廻の輪に加えられる」
 無論、良寛は死んだ事が無いので、全ては知識によるものでしかない。いや、輪廻転生が事実だとすれば、この場でこんな事を話している良寛の魂も、一度は死に、閻魔の裁判や、冥界行きを体験している筈である。ただ、良寛自体にその記憶は無く、想像しかできない。もしかすると一度くらいは、天界に行った事はあるのかもしれないが、むしろ良寛の場合、地獄行きになった己の可能性の方が容易に想像出来た。
 惣七は尚も問う。
「つまり、天界に行こうが、地獄に行こうが、必ず生まれ変わって来る――と、そういう事ですか」
「そうだな。転生は未来永劫続く。望む、望まずに限らずだ。生の初めに暗く、死の終りに昏しと弘法大師も仰っているだろう。人間というのは、その由縁や動機も分からぬままに、延々と生まれて死ぬ事を繰り返しているのだ」
「それは――何だか虚しくありませんか」
「一切は空だ。虚しいと云えば、虚しかろう。だが、今生きている我々にすれば、この生こそが全て。一心の趣を談ぜんと欲うに、三曜の天中に朗らかなり――と、これも大師様の言葉だが、要は心の持ちようという事だ。また、死なずとも涅槃に至れば、生きながらにして仏になれよう。之を即身成仏と云う」
 はぁ、と惣七が息を吐いた。
「驚いたな。良寛さんが本物の御坊さんみたいだ」
「よく云う」
 良寛は渋面を作りながらも、笑った。
 惣七も微笑むと、暗い夜空を見上げながら呟いた。
「――世の中がそんな風に作られているのには感謝すべきなんでしょうね」
「何故だ」
「ほら、何度も生まれ変わっていたら、何時かは由子に逢えるかもしれない」
 良寛は体を強張らせ、そっと自分の顔を撫でた。
 ――先程の御両親と同じだ。
 由子は、惣七の妻だった女性だ。昨年、風邪を拗らせたのが原因で呆気なく逝ってしまった。良寛も彼女の事はよく知っているので、夫である惣七と同じくらいに深く嘆き、悲しんだ。
 恐らく惣七は――と良寛は思った。永遠の輪廻の内に、亡くした大事な人間に逢えるかもしれないという事に希望を見出そうとしている。
 だがそれは――恐らく幻想だ。
 無論、良寛とて、来世で再び、愛しい人間に逢えるなら、それに越した事は無いと思う。再びあの由子に逢えるというのなら、どんなに嬉しい事かとも思う。
 しかし、現実には、輪廻転生すれば記憶は全て失われる。生前に縁のあった者同士が、擦れ違った所で絶対に気付きはしない。生きている人間には、死んだ人間の魂の行方は分からない。坊主にも分かりはしない。もしかしたら、神にさえも。人が死んで遺すモノは死体だ。その死体も、埋めて、土に還ってしまえば、もはや生者の記憶の中でしか、死者は遺らない。しかし、その記憶も転生によって失われるならば――結局は何も遺らないという事にはなりはしないだろうか。
「もし仮に、お前が来世で由子に逢えたとしても――それはもう由子じゃないだろう」
 良寛は慎重に言葉を選んでそう云った。
「何故ですか。由子の魂は由子でしょう。もし生まれ変わっているのだとしたら、やっぱりそれも由子でしょう――例え、姿がどんなに変わろうとも」
 惣七は何の躊躇いもなくそう云い返した。
 良寛はその率直さに、眩しいものを見る様に眼を細めながら、ああ、そうかと一人納得した。
「――お前みたいな奴が、本当は坊主をすべきなんだろうな」
 己は不純だと良寛は感じた。坊主という役割をこなすには、余りにも懐疑的で、理に走り過ぎている。
「何云ってるんですか。僕はただの庭師です」
 一方の惣七は、良寛の心象など露知らず、再びからからと笑った。
「お前と話せて良かったよ」
 良寛が空を見え上げると、白いものがはらはらと落ちて来た所だった。
「雪か――道理で冷える筈だ」
 良寛は立ち上がると、片付けも終わったろうし今日は終いだ、と告げた。
 
 
 
 
 2.稗田阿求
 
 暦の上では既に春。
 しかし現実には、まだまだ冷える毎日が続き、冬と表現した方がまだ塩梅が良いのではないかと思える、そんな微妙な気候だった。
 阿求は僅かに開けた障子の間から屋敷の庭先を見詰め、物思いに耽っていた。その手には小振りなティーカップが握られている。カップと揃いのティーポットからはアッサムの香りが流れ出て、部屋を満たしている。室内に置かれた喇叭型の蓄音器からは、阿求の大好きな幺樂団の奏でるレトロなメロディが、音量を抑えめに、低く微かに流れている。
 時刻はまだ昼前。阿求は悶々と、どうやって今日という日を過ごそうかと思案しているのだった。
「――以前にもこんな風に中々春が来ない事がありましたっけ」
 何年か前の異常気象を思い返し、稗田阿求は一人ごちた。
 あの時は五月になっても春は来なかったが、ある日を境にぱったりと冬は終わった。
 あれも実は異変の一種で、裏では博麗の巫女が動いていただとか、そんな風に噂では聞いている。
 ――もしかすると、今年も自分の預かり知らぬ処で異変が起こっているのかもしれない。
 そんな風に考え、少しドキドキする。
 生来好奇心が強く、物珍しいモノには強く心が動かせられる性質である。この寒空の下、何か大事件が起きている――或いは起ころうとしている、という空想は酷く阿求の気持ちを昂らせた。
 しかし――
「くしゅん」
 と、可愛らしくクシャミ一つし、阿求は我に返る。
「あー、寒い。風邪をひきそうですね。これは」
 どうやら寒風に当たり過ぎたらしい。阿求はぶるりと体を震わせ、振袖の上から羽織った袢纏の前を抱きすくめる様にして合わせ、渋々ながら障子を閉めた。
 たかが風邪。
 しかし患ったのが阿求となれば、周囲の人間は大いに狼狽し、上から下への大騒ぎとなる事を彼女は知っている。
 阿礼乙女は、何故か、生まれ付き寿命が短く設定されている。例に漏れず、阿求も体があまり丈夫な方ではない。故に、ちょっとした風邪が命取りともなりかねない。過去の御阿礼の子は大抵三十手前で亡くなっているが、十代で逝去した者もいる。九代目である阿求が二十を超えられるという保証はそもそも無いのだ。正直、何時、何が原因で逝っても不思議ではなかった。
 ――何時死ぬのか分からないのは誰だって同じなんですけどね。私より幼くして死んでしまう子もいるのに、どうも私だけが特別視されて困ります。
 先も里で幼い娘子が亡くなった処である。鈴、という名の、里の茶屋の一人娘だった。阿求はその店で、頻繁に紅茶の葉を買っていたから、鈴の事はよく知っていた。風呂場で溺れただとか、そんな不幸な事故だと聞いていた。阿求も彼女の通夜に顔を出し、どうしようもないやるせなさを味わなければならなかった。
 ――阿求お姉ちゃん。
 生前、彼女は店を訪れた阿求をそんな風に呼んでいた。可愛らしく、幼子独特の屈託のない笑みで。
 そんな彼女も、今はもうこの世にはいない。それを考える時、阿求はどうしようもない胸の苦しさと、生きる事の不条理さを感じ、気が滅入らざるをえなかった。
 ――でもそうやって、人は独りで死んでいくしかないものなのです。
 何時、何処で、どうやって死ぬかだなんて、神様でも無い限り分からない。生まれ落ちてすぐに死ぬ者もいれば、百まで生きて大往生する者もいる。寿命は最初から運命という形で決まっているのかもしれないし、決まってないのかもしれない。少なくとも阿求には分からない。ただ間違いなく云える事は唯一つ。人が死ぬのは当たり前だという事だけだった。
 ――皆は、自分は死なないと思っているのでしょうか。
 大抵の人間は死ぬ事を他人事だと思っている。少なくとも、死への覚悟とでもいうべきものが欠けていると常々阿求は感じていた。
 尤も、阿求は自分の寿命があとどのくらいか、ある程度予想がつくという特殊な境遇にあり、いつの間にか死ぬ事への覚悟――或いは、寛大さというのを身につけていたからこそ、自分はそんな風に感じられるのだとも理解していた。「普通」に生まれていれば、大方の人間がそうであるように、本当に死ぬその日まで、自分の死を他人事の様に、何処か遠くのものの様に思っていたに違いなかった。
 だから、どちらかといえば、日常のあれやこれやに常に死を透かして見る、阿求の考えの方が異端なのかもしれない。
 ――どうせ人は自分を基準にしてしか考えられませんから。
 そして、阿求はそんな事を思う時、自分が悩める哲人か、はたまた仙人か天人にでもなった様に、世間を遠巻きにして眺める観察者の気分になるのだった。
「――まぁ今が楽しければ、何でもいいんですけど」
 やもすれば悲観しそうになる思考を遮り、阿求はいつもの落下地点へと己の心を導いた。
 阿求の目下の目標は、毎日を楽しむ事。生まれ付いての寿命が一般人の半分以下ならば、その人生の密度を二倍、三倍にして、より有意義な人生を送る事。これに尽きる。
 なればこそ、この無為な思索の時間を他に充て、今日という一日も充実したものに変えなければ勿体ない。
 阿求は気分を入れ替える為に、息を大きく吸うと、じめついた気分と一緒に吐き出した。
 回転するレコードの針を上げ、音を止める。急にシンと静まりかえる室内。冷えたカップとポットを手にすると、軽い足取りで自室を出た。
 居間へと行く途中、阿求は廊下より庭を眺めた。阿求にはすっかりお馴染みの、里の中でも一二を争う程大きな稗田の屋敷に相応しい広い庭だった。
 今日はその庭に、枝の剪定をしたり土に肥料を混ぜたりと、植木の世話をしている作務衣姿の青年の姿が見えた。
 庭の片隅には、彼が押して来たと思しき手押し車が見える。荷台には、梯子や鎌や鍬や鋤や、さらには肥料を入れているらしい大きな桶――人が入れそうなほど――などが沢山積んである。青年は遠目にも軋む様な細い体をしていて、果たしてあんな体で、あんなに大きな荷車を押せるのか等と、他人事ながら少々気になった。おまけに青年の動きは緩慢で、如何にも鈍臭い。しかし、青年は何だか楽しそうだった。ニコニコと嬉しそうに笑いながら、樹のごつごつとした地肌を撫でている。
 ――まるで樹と話しているみたい。
 何となくそんな気がした。この幻想郷でなら、草木と話す男がいても不思議ではない。
 青年が振り返り、ふと阿求と目が合う。
 阿求は突如として、じろじろと不躾に見ていたのを咎められた様な気分になり、顔を赤くした。青年は動揺する阿求を見詰め、少し首を傾げた後、軽く頭を下げた。阿求も慌ててそれに倣い、頭を下げると、そそくさとその場から逃げる様に居間へと向かった。
 ――あの顔、慥か。
 阿求は記憶を辿り、あの青年の名前を思い出そうとする。
 ――惣七さんでしたっけ。
 数か月前、稗田家の庭を手入れする者を雇い入れる為に募集した所、上白沢慧音より紹介された人物だった。
 ――彼はちょっとした事情で仕事を休んでいる間に、同業者に仕事を取られて、職を失ってしまった。腕はいいからこの屋敷で使ってやって欲しい。
 慧音がそんな事を云っていた様に思う。
 とは言え、慧音の直接の知り合いでは無く、実際は慧音の知り合いの知り合い――というところらしい。しかし、確かな素性の者だと慧音は太鼓判を押してくれたので、阿求が庭師として雇い入れたのだった。だが、自室に引き籠って本を読んだり書いたりしているのが殆どの阿求が顔を合わす事はこれまでほぼ無かった。
 ――今度会った時はちゃんと挨拶しないと。でもあの人――。
 阿求は自分の記憶を探った。
 一時間前、一日前、一ヶ月前、一年前――。
 刻々と流れ去る出来事も、眼にしてさえいれば、その全てを阿求は憶えていた。
 短い寿命と共に、歴代の御阿礼の子が継承して来た能力――直観像素質――求聞持の力。
 阿求は大量にある記憶の情景から、最近のものを引っ張り出し、先程の青年が件の亡くなった娘の通夜にもいた事を思い出した。しかもどうやら御悔みを云いに来たというより、葬儀の手伝いをしている風だった。
「――もしかしたら、副業で、葬儀屋さんでもやっているのかしら?」
 機会があれば慥かめてみようと心に留め置き、何か目新しい事は無いかと心躍らせながら、台所でカップとポットを洗うと、その足で居間へと足を踏み入れた。
 使用人たちの話声が耳に入る。
 その内容に思わずぎょっとして足を止める。
「――昨年はこの時期、由子さんが亡くなったでしょう。今年は鈴ちゃん。季節の変わり目に死人が出やすいってのは本当なのかしらねェ」
「その鈴ちゃん。消えた仏様、まだ見つかっていないそうですよォ」
「やァねぇ、まるで神隠しみたい」
 ――何?
 泰然自若とした気分が吹き飛ぶ。
 何だか、冷や水を浴びせられた様な気分だった。
 稗田家は、大きな家を切り盛りしていく為に、奉公人や使用人を何人か置いている。居間で不穏な会話をしていたのはそんな人達だった。仕事の片手間に行われる井戸端会議の話題の一つなのだろう。
「どうかしましたか、阿求様」
 居間の入り口で立ったままの阿求を見つけ、その中の一人、中年の女性が声を掛ける。使用人の中でも古参の一人。阿求が生まれる前より稗田の家に仕える女性で、今や家族同然である。中年を迎えた今では顔の輪郭がすっかり丸くなってしまっていたが、阿求には今でも細面だった頃の若い彼女の顔を思い出すことが出来た。
「いえ、別に。今日は冷えますね」
 阿求は動揺を押し隠し、何でも無い様に微笑んで見せると、自分の席へと座った。奉公人達は他の仕事があるのだろうか、話を中断すると、すぐ様に何所かへと消えて行った。
 広い居間に、阿求一人が取り残される。
 ――鈴ちゃんの仏様――死体?
 阿求は落ち着かない気持ちで、先程の言葉を反芻する。
 ぶるりと体が震えた。阿求一人しかいない広い居間は相応に冷える。着物の裾を合わせ、火鉢を手前に引き寄せ、少しでも暖気を取ろうとした。
 ――死体の神隠し?
 頭の中で繰り返す。思考が中々纏まらない。
 ――死体が――消える?
 しかし、それは考え様によっては、当り前の事ではないのか。人はいつだって、死体を焼いたり、埋めたりして、眼につく所から消そうとするではないか。何故なら、死体は忌みものだからだ。それが文化的という事であり、死者を想うという事なのだ。
 いや、しかし――今のはそういう意味ではない。死体が消える、というのは文字通りに、死体が行方不明になったという事なのだろう。
 ――なんとまぁ罰当たりな。
 阿求は眉根を寄せて、大変遺憾だ、けしからん、といった風な表情を作った。
 しかし、内心では全く逆――野次馬根性とでも云うべき、下世話な興味がむくむくと起こっていた。
 これは、きっと――何か――大変な『事件』なのだ。
 我慢できず、阿求は先程の奉公人が居間へと姿を現した時、傍へと呼びよせて聞いた。
「すいませんが、先程していた話を詳しく聞かせて頂けませんか。偶然、耳に入って気になったので――」
「はぁ、話――ですか」
 奉公人は人の良さそうな顔を傾げる。
「死体が消える、というお話です」
 奉公人は柔面を強張らせ、それは――と云い淀んだ。
 云い難い事なのだろうか――きっとそうなのだろう。何せ、死体が消えるというのだから、本当だとしたら酷く不謹慎な話だ。
 しかし先程、暇潰しで話していた時は、居間の外にいた阿求に聞えるほど大きな声で話していた。それは、ちょっとした世間話としては、話の内容の不謹慎さというのが返って良い刺激になるからだろう。噂話は下劣であればあるほど愉しいものだ。そして、そう思うのは彼女に限った事では無く、誰にでもある事だった。また逆に、話の不謹慎さ、下劣さをよく知っているからこそ、こうやって改まって話せと云われれば躊躇してしまうに違いなかった。
「やはり――その、厭なお話なのですか?」
 阿求が水を向ける。
「罰当たりな話ですよォ。お嬢様がまだ御存知なかったとは思いませんでしたが――」
 巷ではもう有名な話なのだろうか。阿求が知らなかったのは、頻繁に家を出てあちこち訪ねたりしないのと、そもそもそんな噂話をわざわざ持って来る様な酔狂な知り合いが居ない所為だろう。
 奉公人は暫く逡巡していたが、やがて人目を憚る様に、小声で切り出した。
「――先週、茶屋の娘さんが亡くなったのをご存知でしょう」
「鈴ちゃんでしょう?勿論、知っていますよ」
 阿求は顔を顰めた。
 物凄く厭な――予感がする。
「何でも、通夜の次の朝。親御さんが起きてみると、娘さんの仏様が家ん中から消えていたそうですよォ」
「消えて――?」
「まるで煙みたいに」
 阿求は悩ましい表情を作った。
 驚くべきか、悲しむべきなのか――。
 いずれにせよ、この様な時にどんな顔をすればいいのか、普通の人はどんな反応を示すのか阿求は知らない。
 結果、微妙に困った顔をして、首を傾げる事しか出来なかった。そして鸚鵡返しに聞く。
「――煙みたいに消えた?仏様――鈴ちゃんの遺体が?」
「ええ。妖怪の仕業だろうって誰かが――」
「妖怪――ですか」
 何だか大変な事になっているな、と阿求は漠然と感じた。
 現代の妖怪は、積極的に人間を襲わない様になっている筈だ。お陰で人間の側も妖怪に対して昔ほど警戒心を持たなくなった。それは良い兆しだと阿求は思っていた。本来、覆される事の無い『喰う―喰われる』の関係を超えた新しい在り方を築けるかもしれないからだ。閉ざされた幻想郷で生きる者同士、いがみ合っては立ち行かないだろう。共存できるならばそれに越した事は無い。
 だが、そういう現状の流れに逆らう様に、人間の死体を持って行く妖怪がいるという。
 若しかしたら、かなり由々しき事態なのかもしれない。
 そして、妖怪が人を攫う最大の理由は――。
「それは――やっぱり食べる為なのでしょうか」
 と、阿求は極当たり前の事を云った。
「さぁどうでしょうねェ。私は妖怪じゃないんで分かりませんが」
 と女性も至極当たり前の事を云い、皆はそうじゃないかと云ってます、と付け加えた。
 生きている人間を襲ってはいけない。
 ならば――死んだ人間なら良いだろう。
 そういう事なのだろうか。
 阿求はさらに顔を顰めた。
「それで、どうしたのですか、慥か――野辺送りは翌日に――」
「お経を上げて貰って、形だけはいつも通りにやって供養はしたそうです。どうも、あまり騒ぎが大きくなるといけないので、御遺体が消えたのは秘密にしていたそうで」
 あの墓まで運んで行った棺には遺体が入って無かったのか、と阿求はその時の情景を思い起こして一人納得する。遠眼からでは、まさか棺が空だとは、教えて貰わなければ誰にも分かるまい。
「そんな事が――。結局、御遺体は戻って来たのですか?」
「いいえ。そんな話は聞きませんねェ。妙なもんで、御両親があまり仏様を取り返すのに乗り気じゃないそうです」
「何故です」
「母親の方が変な事を口走っていましてね。娘は天人になったのだとか。羽化何とか――」
「若しかして、羽化登仙ですか。天人になるって事は――」
「そんな難しい言葉は私しゃ知りませんでしたが――ええ、そんな事を云ってるみたいですねェ」
「――それで、結局どうなったのですか。鈴ちゃんの遺体は――」
「戻って来はしませんよ。天人になったっていうのは、どうにもピンと来ませんがねェ。妖怪に食べられたってのなら、あり得る話でしょう。何せ、近頃はすっかり平和になっちゃいましたが、此処らは一昔前だと妖怪が人間を攫って食べるなんて当たり前だった土地じゃないですかァ。何を今更。それに娘さんは取って喰われた訳じゃないでしょう」
「そうですね――。妖怪に殺された訳じゃありません」
 死体はモノだ。魂はとっくにあの世へ旅立っているし、どう転んだって蘇りはしない。放っておけば腐って異臭を放つ穢れモノに過ぎない。だから人は、暗くて冷たい土の下に埋めるのだ。
 そして、そんな罰当たりな事は、仮令、頭で思っていても誰も口に出さないのだろうが、どうせ埋めてしまうだけなら、それが代わりに妖怪の胃に収まろうが――大した違いは無いのかもしれない。
 話はそこで終わったのか、奉公人は、それではまだ仕事がありますので、と頭を下げると去って行った。
 居間には再び阿求一人が取り残される。
 静かな部屋の中、火鉢の中で炭の弾ける音がする。
 人の死体が――あの娘の遺体が消えた。
 ――阿求お姉ちゃん。
 あの子の体が――。
 ――信じられない。
 それは――何だか、やはり大変な事のように思える。
 一大事件だ、と。
 しかし、その割には里では大騒ぎをしている様には思えない。さっきの奉公人がそうであったように、ひそひそと噂話として語られている程度という気がする。
 もっと大騒ぎしてもいいのではないか、と阿求は思う。
 何せ、人一人の死体が消えてしまったのだ。
「――でも」
 所詮は――死体なのだろうか。
 生きている人間が妖怪に食べられたという類の話ではないのだ。自然、危機感も薄くなる。だから、死体が消えたという事件の反応としては、この程度のものなのかもしれない。
 それに実際、消えた娘の両親でもない、当事者以外の人間としては、それ以上の反応の示し様がないのだろう。下手に横から騒いだ所で、事態は一向に解決も改善もしない。せいぜいが野次馬となって、世間を煽る程度しかできまい。
 いや、そもそも――本当に妖怪の仕業なのだろうか。
 仮に妖怪でないなら、一体何者が死体を盗っていくと云うのだ。
 阿求は、自分は恐ろしい事を考えているという気がした。
「――人が?」
 妖怪が食べる為に死体を持って行く、というのならまだ話は分かる。しかし、人間が死体を盗むのに合点行く理由があるとは思えない。それとも、世の中には阿求の知らぬ死体の使い道でもあるのだろうか。
 或いは――あるのかもしれない。
 阿求は急に部屋の気温が下がった様な気がして、背筋を得体の知れないモノが這い上がって行く感触を覚えた。
 ――たぶん、自分は今、とても厭な事を考えている。
 阿求は妖怪の仕業であってくれればいいな、と心の中でそう願っている。
 或いは、それは人としては正常な感性なのかもしれない。人間の遺体を蔑ろにするという悪徳を、人が冒したとは思いたくない。だから、人外の仕業だと決めつける。穢れを外部の所為にする。
 しかし、同時に、そういう事を考える自分が厭だった。
 ――例えば、慧音さん。
 馴染みの歴史家の顔を思い浮かべ、考える。
 ――慧音さんは半分は妖怪だ。でも、あの人がそんな事をするとは思えない。
 上白沢慧音は聖獣白澤の血を引くと云われる半人半妖の存在でありながら、里に住まい、日々歴史の編纂などをしている。その点、阿求とは同業とも云え、親交は深い。
 その彼女が妖怪だからと云って、人の遺体を盗んで行くかと云えば、そんな事は決してないだろう。
 尤も、慧音は半人半妖というレアケースであるから、単純にそうだとは云えないかもしれない。
 しかし、それ以外でも、阿求が求聞史記の編纂の折に知り合った妖怪達が全て凶悪で、人と見れば襲い掛かってくる存在かと云えばそうでもない。価値観の違いはあれど、殆どが、きちんとコミュニケーションさえすれば、話の通じる相手だった。
 そんな風に、妖怪に関して、一般の人間より詳しい阿求だからこそ、単純に妖怪の所為にする風潮に違和感を覚えるのだった。
 ――とりあえず、慧音さんに会いに行ってみようかな。
 今から行けば、夕飯までには帰って来れるだろう。
 ――慧音さんに会いに行って、話を聞いて、それから――。
 それから、そうだ、事件を解決する為に、何か行動をするのだ。
 解決の為の、行動。
 ――推理して――現場検証とか?
 ――まるで小説の中の探偵みたいに。
 その想像は阿求の中でどんどんと膨らみ、それまでの沈みがちだった気分を一転して昂ぶらせた。
 不謹慎ながら――、と逸る気持ちを抑えながら阿求は思った。
 ――不謹慎ながら、段々と楽しくなってきましたよ。
 丁度、『幻想郷縁起』の執筆も一段落して、残りの貴重な時間をどう使うか悩んでいた所である。次の転生の準備の為に、色々としなければいけない事もあるが、今すぐ取りかからなければならないほど切羽詰まってはいない。謂わば、阿求にとって最初で最後の、人生の余暇というのが今なのだった。
 それに――と阿求は思う。
 これが本当に妖怪の仕業ならば、縁起に新たな一頁を加えられるかもしれない。そういう期待もあった。だとすれば、それこそ阿求の本業である。事件に首を突っ込んでも、文句を云われる筋合いは無い。誰にも云わせない。
 しかし、本当は――この寒空の下、自分の知らない場所で事件が起きていて、それに飛び込んでいけるかもしれないというこの状況が、阿求には愉快でならなかったのだった。
 
 
 
 3.歴史家の慧音
 
 上白沢慧音は、実に愉快そうに滔々と語った。
「――よく考え違いされるが、『正史』イクォール『正しい歴史』という意味ではない。むしろ俯瞰して歴史を見れば、『正史』と名付けられたものほど、嘘や誇張が罷り通っている資料も珍しいと云える」
 場所は、里にある慧音の自宅の、普段ならば寺小屋の授業に使われる一番広い部屋である。しかし、広いとは云っても、元々慧音の住処自体が一人住まいに相応しい手頃な大きさでしかなく、さらに室内には教室として使う為に、無理に文机が何個も並べられている事もあり、大の大人が十人も集まれば一杯になってしまう程度の大きさしかない。
 そんな部屋に、今は二十人近い人間が、老若男女を問わず集まっていた。
 定期的に行われる慧音主催による勉強会――歴史の講義を聞くためである。
 手狭い空間に慧音の声が響く。
「そも『正史』とは何なのだろうか。狭義の意味では、権力者によって編纂された公式の――主に政治体制を主軸とした歴史の流れという事になるだろう。しかし、大抵の権力者というものは、自分に都合の良い様に歴史を後世に伝えようとするもので、故に正史には過分に偽の情報が混じらざるを得ない――。だが、そもそも歴史の編纂作業というのは、集権国家による国を挙げての一大事業であり、権力無くして歴史編纂そのものが不可能な訳で、なればこそ、事実の改竄もある程度の必要悪と割り切り、資料を読み解く際には、書いてある事をそのまま鵜呑みにせず、常に客観的な視点を保つ事を心掛けなければならない。さて、それでは広義での意味の『正史』とは何かと云うと――」
 こつこつと慧音は教壇を指先で叩いた。
「これこそが、皆が一般的に思い浮かべる歴史――何時、誰が、何をしたか。どういう国ができ、どういう風に発展し、どうやって滅びたのか。或いは、何某の人物は如何にして偉業を成し遂げたか――等などだ。云い方を変えるなら『一般的に皆がそうだと認識し、諒解している過去の出来事』と云ったところだろうか。これは大抵、残された資料を元に、後世の歴史家達が研究を重ね、『大凡こうではないか』と思われる過去の出来事を纏めた『正統な歴史』とも云える。多数の人々の手によって研鑽されたものの為、一握りの権力者達によって作られたものよりかは客観的であり、幾分かは真実に近いだろう。しかし、この方法での歴史編纂にも欠点はある」
 慧音が喋る度に頭が僅かに上下し、それと同時に艶やかな長い髪が揺れた。
「一つは、歴史編纂の根拠は、残された資料に依る為、資料として残っていない出来事はそもそも『起こらなかった事にされる』という点だ。まぁこれは、人が百年足らずしか生きられず、後世の人間は、数百年前の出来事を知るにも、残された資料に頼るしかないので仕方なくもあるのだが――。もう一つは、歴史的出来事を伝える媒介として最も頻度が高いであろう口伝が、歴史を客観的に見る為の資料として、実際に文字として残されたものより、どうしても精度が低くなるという事だ。口伝による情報伝達は、伝言ゲームがそうである様に、世代を経る事に確実に劣化し、その内容の正確さを欠いてくる。これはどうしても避けられない事だ。だから、普通の歴史学者は、口伝の類を元にして歴史の編纂を行ったりはしない――まぁ参考程度にはするかもしれないがね」
 それでは――と慧音はよく通る声で、皆を睥睨しながら云った。
「それでは、口碑伝承の類が全くの無価値かと云えば、決してそうではない。それらは歴史的資料としての信用度が低い故に『歴史』として語られる事はないかもしれないが、共同体の間に残る『伝説』、或いは『巷説』という形で立派に機能するのだ。これを『正史』に対して『稗史』と呼ぶ」
 集まった人々は、話に熱中する慧音を食い入るように見詰めている。ほう――と誰かが溜息を吐いた。講義の内容にではなく、慧音の凛とした佇まいと、整った形の唇から漏れる、熱をもったその声色にだろう。
「いずれにせよ、後世に伝え残す事にこそ意義がある。文字にも残されず、語り継がれる事もなかった出来事とは、長い長い時間の中では泡沫の様なもので、すぐに忘れ去られてしまうのだ。忘れ去られた歴史――と云う奴だな。そういうのはよくあるんだ」
 慧音はこの世の秘密を教える伝道者の様な崇高な表情で、一堂を見回した。
「だから――書き残したまえ、語りたまえ、諸君。歴史とは単なる過去ではない。現在を語る事こそが、次なる歴史へとなっていくのだ。残されない事は、決して後世には伝わらない。歴史の紡ぎ手は常に私達なのだ。ゆめ、それを忘れぬように――」
 そして、満面の笑みを浮かべる。
「ご静聴有難う。今日の講義はここまでだ。何か質問があれば私の所に来る様に」
 それまでの沈黙が破り、がやがやと室内が騒がしくなる。
 ――慧音様の御話は本当に有難いなぁ。難しくてちっとも分からんが。
 ――んだんだ、有難や、有難や。
 慧音に手を合わせて去っていく老人達。
 ――やぁー、やっぱり慧音様は目の保養になるなぁ。
 ――声でかいって!聞こえるって。
 何だか幸せそうな表情で去っていく若者達。
「おーい、誰か質問する者はいないのかー」
 満面の笑みのまま凝り固まった慧音が呼び掛けるが、皆一様にそそくさと帰って行く。
 出席率は決して悪くないものの、本来の目的を果たしているかは甚だ疑問なのが、慧音の主催する歴史学講義なのだった。
 慧音は去って行く人々が視界から消えると、口をへの字に曲げ、大好物を後で食べる為に置いてあったら家族にいつの間にか食べられていた時の様な酷い仏頂面をした。
「――あの、すいません」
 突如、慧音の背後より声がする。
「何だ?どんな質問なんだ?何でも答えてあげよう」
 再び満面の笑みになる慧音。素早く振り向いた視線の先には男と女がいた。
 男の方は一目で僧と分かる出で立ちをした巨漢。
 女の方は浅黄色の着物を身につけた幼さの残る小柄な娘。
「何だ――お前達か」
 慧音はあからさまに肩を落とし、再び口をへの字に曲げた。
 自分の顔を見て落胆されるという、失礼極まりない眼に遭いながらも、巨僧は丁寧に頭を垂れた。
「慧音先生、どうも御無沙汰しております――」
 慌てて、隣の少女もそれに倣う様に頭を下げる。
「どうも、御無沙汰しています。慧音さん」
 慧音は坊主を一瞥するとわざとらしく溜息を吐いた。
「良寛、御無沙汰も御無沙汰だ。慥かお父上が亡くなられる直前、晋山式で会ったきりだろう。もうかれこれ四五年にはなるんじゃないか。その間に挨拶も全く無しで、お前の存在なんてすっかり忘れていたよ――それに阿求」
 と、次に慧音は少女の方を見遣る。
「私の講義なんて終ぞ聴きに来た事のない君が珍しく現れたと思えば、こんな大男と一緒に、一体何の用だい。少なくとも、私の講義目当てという訳でもないだろう?話を聞いた処で、どうせ自分の知っている事ばかりだから、と君はいつも云うが、偶には里の人達と、机を並べて、同じ目線で勉強してみるというのも良い経験になるだろうに――。ふむ、それにしても私の生徒達と来たら、さっき見ていた通り面白半分で聞く者が殆どで私はほとほと閉口しているんだ。講義自体に興味を持ってくれるのは大いに結構な事なのだが、あれでは馬の耳に念仏だ。左耳から入った事が一瞬で右耳から抜けていく始末だ。正直云うと、私は時折講義中に、衝動的に豆腐の角にでも頭をぶつけて死にたくなる事があるくらいだよ」
 珍しく饒舌に一気に捲くし立てると、次に慧音はたちまち沈黙し、深い溜息を吐いた。そして、阿求と良寛を交互に見詰めると、いつまでも立ってないで、そこら辺に座ったらどうだと云った。
「特に、そこの体の厳ついのが部屋の真ん中に立っていると、圧迫感が生まれて息苦しいんだ。ぼさっとしてないで座れ」
 坊主は急かされて、慌てて腰を降ろす。それを見て、よしと頷いた慧音だったが、すぐに再び渋面に戻る。
「むぅなんて事だ。お前、座っても場所を取って邪魔で仕方ないじゃないか!莫迦者。木偶みたいに腰を降ろしてないで、立て!座るな」
「ど、どうすれば」
「そこの庭に面した縁側で信楽焼の狸みたいに大人しくしていろ」
 結局、巨漢の僧は部屋の隅、縁側へと追いやられた。
 阿求は、普段の慧音からは想像し難いその暴挙を眺めながら、自分はちゃっかりと座布団を引っ張って来て、腰を下していた。
「慧音さん、実はですね。今日来たのは話があって――」
 急く様に話し始める阿求を慧音は手で制する。
「とりあえず、お茶を淹れよう」
「あ、私が用意しましょうか?」
「客人にそんな事はさせられん――おい、良寛、お前が淹れて来い。台所は向こう。茶葉は見える所に置いてある。湯呑は好きなのを適当に使うといいだろう」
「せ、拙僧がですか?」
「拙僧がですか、じゃない。さっさと行け」
 はぁ、と気の抜けた返事をしながらも、云われた通りに台所の方へ坊主は向う。その後ろ姿が視界から消えてから、阿求は囁く様に尋ねた。
「あの方――慥か、数日前の鈴ちゃんのお葬式をした和尚様ですよね。どういう御関係なんでしょうか?さっき入り口で会って、慧音さんに用があるらしいので一緒になったのですが――」
 慧音は眼を微かに細め、笑った。
「昔、あいつの師父にあたる人にある頼み事をされて、一夏ほど寺に逗留した事がある。師父は仏僧として立派な人でね。私も珍しい漢籍や古書を見せて頂き、色々と勉強をさせて頂いた。あの男はその人の一人息子で、あの頃はようやく一人前になったばかりと云った感じだったかな。尤も――あの頃から比べて、今は立派なのかと云えば怪しそうだが――。まぁ兎に角、奴の師父――先代の住職から、宜しく頼むと私は頼まれている。差し詰め、手のかかる教え子の一人の様なものだ」
 と、これまたらしくない意地悪な笑みを浮かべた。
「それは――何時の事なんですか」
「かれこれ十年ほど前だよ」
 そうなのですか、と阿求は何となく釈然としない思いで頷いた。
 十年前と云えば阿求はまだほんの子供の頃である。慧音の見掛けの歳から考えれば、十年前と云えば、慧音もまだまだ子供だった筈である。
 いやしかし、そうではないのだ――。
 上白沢慧音には半分妖怪の血が流れている。所謂、半獣という奴で、慧音がそういう存在であるのは、阿求だけではなく、里の者なら皆知っている。半人半妖なので、人より寿命が長く、成長も遅いと聞く。だから、見掛けだけで云えば、この十年間、慧音は殆ど変っていない。
 ――だったら、慧音さんは何時生まれたんだろう。
 阿求は稗田家の主と云う立場上、歴史家である慧音とは浅からぬ交流があり、それを通じて彼女の人となりを知っているつもりでいる。生真面目で礼儀正しく、他人に親切で、面倒見が良いので皆に好かれ、頼りにされる人物。やや頑固すぎる処が玉に瑕だが、それも自分に厳しく、何事にも真摯な性格の裏返しだと思えば可愛いものだ。
 しかし、一度、慧音の過去に目を遣れば、阿求は余りにも彼女について知らない事が多いのを自覚せざるを得なかった。
 何処で慧音が生まれたのか、何時里にやって来たのか、それとも元々里に住んでいたのか、何故半妖になったのか。必ず答えはある筈なのに、阿求は何一つとして具体的には知らない。慧音が里にいて、交流がある事が当たり前すぎて、そういう部分を意識して考えた事が無かった。
 よく考えれば、異常な事でないだろうか。『幻想郷縁起』の作者であり、阿礼乙女である阿求が触れられない過去の歴史が目の前にあるというのは――。
 その点に関しては、阿求は一つの推測を立てていた。
 慧音が自らの能力を発揮し、自らの歴史を隠蔽している、という可能性である。
 だとしたら、何らかの意図があっての事に違いなく、それは出来れば触れるべきものではないという気がした。勿論、全部阿求の推測であり、一方的にそう勘ぐっているだけで、聞けば普通に教えてくれるかもしれない。が、それを聞くに値する機会が無く、真相はいまだに闇の中である。
「良寛の奴、やけに遅いな」
 慧音の呑気な声で、阿求は我に返った。
「ええ、どうしたんでしょうね?余所の台所だから勝手が分からずに困っているのでしょうか」
 阿求は取って付けた様な返事をしながら思った。
 ――兎に角、今は目の前の事件だ。慧音さんの事は何時かきっと分かるだろう。
 その『何時か』ができれば早いものになる様に阿求は祈るしかない。
 暫くし、良寛が盆に湯呑と急須を載せて帰って来た。
「やけに遅かったな」
 慧音の揶揄する声。邪険な風ではなく、あくまでもからかう様な口調だ。
「申し訳御座いません。ここの台所を使うのは初めてだったものですから」
 そんな事を云いながら、良寛が茶を差し出した。
 湯気の立つそれを受けとると、慧音は一口飲んで、静かに微笑んだ。
「――何だ。美味しいじゃないか」
「独り暮らしですから、飲みたければ自分で淹れるしかありません。厭でも手慣れます」
 阿求も一口含み、これは慥かに美味しいと思った。
「ふむ、どうやら紅茶党の阿求も満足しているようだぞ。大したものじゃないか」
 阿求の表情を読み、慧音が云った。
 それ程でも御座いません、とあくまでも謙遜する良寛だったが、褒められた嬉しさは隠し様も無かった。
「本当に美味しいな、これは」
 と、慧音は急須より二杯目を注ぎつつ、唐突に
「それで、消えた死体の事だが――妖怪の仕業だと一口に云っても、妖怪も色々といる。多少の知識なら披露できるが、必ずしもお前達の満足のいく答えを教えられる訳じゃないぞ」
 と云った。
 阿求も良寛も、茶を啜る手を止め、呆気に取られた顔で慧音を見詰める。
 慧音はそんな二人の驚きを気にも留めず、よく通る声ですらすらと続けた。
「死体で先ず思い付くのは、『このんで亡者の肝を喰うと云』と今昔続百鬼でも書かれている魍魎だろうな。典型的な死体喰いのイメージだと一番これが近い。ただ、実際の魍魎というのはもっと抽象的で、複雑な存在でね。古い所為もあり、色んな要素と混同されている。時には水神とも同一視されたり、木石の精だと云われたりね。それに魍魎というのは既に埋葬された遺体を掘り出すというのが通例だから今度の様に新仏が埋められる前に消えるというのなら魍魎の仕業とは少し考え難い。死体関連で云えば、そうだな――後は火車なんかが」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
 阿求が慌てて、止めに入った。
「一体何の話をしているんですか!?」
「何って――お前達はこういう話が聞きたくて私の所に来たのだろう?」
 憮然とした口調で慧音が云う。
「それとも本当にまったりと世間話でもしたくて来たのかな」
「――そうじゃありませんけど」
 云い淀む阿求を見て、慧音はふんと鼻を一つ鳴らした。
「『死体の神隠し』だろう?茶屋の娘の仏様が消えてしまったと云うじゃないか。それとも私がその事件を未だに知らないとでも思っていたのかい?この狭い里で、世間の目下の話題と云えばそれだ。知りたくなくても、否応無く耳に入ってくる」
 と、じろりと良寛の方を見て、意地悪く笑った。
「聞いたぞ。事件現場に居合わせたそうじゃないか。お前があの場に居合わせたのは、果たして幸運なのか、不運なのか――。兎も角、死者を弔う人間が、肝心の仏様を見失うなんて前代未聞だ。それともまさかお前、葬儀をするのが面倒で、葬儀自体を無くしてしまおうと、仏様を何所かに隠したんじゃないだろうな」
 良寛は大袈裟とも云える身振りで、まさか、と否定する。
「滅相も無い。葬儀が面倒なのはいつもの事。いちいち葬儀を取り止める為に、仏様を行方不明にしていたら切りが御座いません――それに、あの夜、あの家から死体を運びだすなんて事自体、誰にも無理で御座いましょうよ」
「ああ、その噂も聞いたよ」
 慧音の戯れる様な調子は引っ込み、真面目な表情になった。
「密室だったそうだな――まるで探偵小説じゃないか」
 と、そこで喋るのを止めると、再び茶を啜り始めた。
 ずるずるずる――。
 平穏な昼下がりの居間に、呑気な音が響く。
「あの――密室というのは――?」
 阿求が恐る恐るという風に聞いた。
「文字通りの意味さ」
 慧音は素っ気なく答える。
「阿求の好きそうな小説なんかに出てくるアレだよ。好事家達はロックド・ルーム・マーダーなんて呼ぶんじゃないのかい?尤も今回はマーダーじゃないがね」
「というか、元々死んでいるのが消えたんですよね――って、すいません、不謹慎ですね。しかしそれは置いておいて、どうして今度の事件に密室が出てくるんですか?」
 慧音は眉を寄せて、ふぅんと呟いた。
「聞いてないのかい――消えた仏様は、所謂『密室』の状態から姿を消したんだよ、忽然とね。詳しい事は、その男に聞く事にしようじゃないか。他でもない当事者だ」」
 良寛は困った顔をして、頻りに禿頭を撫でながら呟いた。
「そうですな。先ずは仏様が消えた朝の状況からお話しましょうか。その時、私はまだ寝ていて、最初に異変に気付いたのは佐馬介の奴でした――」
 
 
 ――体を強く揺すられ良寛は眼を覚ました。
「良寛和尚、起きて下さい。何やら妙です」
「――むぅ、佐馬介か」
 目を開くと、実直そうな顔の青年がこちらを覗き込んでいた。昨夜の通夜を手伝わせたもう一人の方の男である。
 薄暗い室内。目覚めたばかりの良寛の意識は前後不覚に陥っている。
 一瞬、周囲の光景が、何時も通りの寺の庫裏の自室でない事に違和感を覚えたが、やがて帰りが遅くなった事から、離れを借りて泊まらせてもらった事を思い出した。
「今何時だ」
「夜明け過ぎという所でしょう。それより今、母屋の方から妙な声が――」
「声だと?」
 ううん、と横で寝ていた惣七も眼を覚ましたらしく、大きく伸びをする。
「――どうしたんだい、佐馬介」
「分からん。しかし、母屋の方で何かあったらしい。叫び声の様なものが――」
 と、突然、魂切る様な凄まじい叫びが外から聞こえた。
 人の声とは思えぬ、怪鳥染みた声色だった。
 三人の男は互いに顔を見合わせると、離れの扉を開けて、外へと走り出た。
「雪だ」
 外の光景を一目見、誰ともなしにそう呟く。
 寝際に降り始めた雪はすっかりと積もり、一面を白銀の世界へと変えていた。
 男達は躊躇いも束の間、母屋の方へと走り出した。離れから母屋はすぐ目と鼻の先にあり、距離など殆ど無いに等しいのに、雪の所為で酷く移動し難い。何より、草履が雪の中に突っ込み、足先が冷える。
 良寛は母屋へと近付きながら、綺麗に積もった新雪に足跡一つ無い事を無意識の内に慥かめていた。
 母屋の周辺も、降り積もった雪が荒らされたり、汚されたりした跡は無い。その事に強い印象を抱きながら、母屋へと辿り着く。
 辿り着いた母屋は全ての雨戸が降ろされ、きっちりと閉め切られていた。
「大丈夫ですか!?何かありましたか?」
 良寛が外より声を掛ける。
 反応は――無い。
 遠慮がちに、雨戸を叩き、もう一度声を掛ける。
 やはり反応は無い。
「さっきの声、女の人のでしたよね」
 惣七が云った。
「静さんでしょうか。真逆、早まった真似をしたんじゃ――」
「やめろ、惣七。不謹慎だ」
 すぐさま佐馬介が窘める様に云う。
「だけど、中から何の反応も無いというのはおかしい。静さんだけじゃない。徳次郎さんだっている筈なのに――」
 良寛は兎に角、中に入るのが先決だと思い、雨戸を引いたが、しかし内側に突っかえ棒でも噛ませているのかびくともしない。
 良寛は唸る。
「困った。何処か開いている場所を探すしかないようだ。拙僧は玄関へ廻ろう。二人は裏口へ」
 良寛は雪に難渋しつつ、玄関口へと廻った。
 しかし、此処も内側から施錠され、びくともしない。
「良寛です!叫び声が聞こえましたが、大丈夫でしょうか!?開けて貰えませんか!」
 強めに玄関扉を叩きながら、大声で叫ぶ。
 相も変わらず、反応は無い。
 ――どうなってやがる。
 良寛はいよいよ不安になって来た。
 これだけ外から声を掛けたら、普通は気付くのではないか。
 内から叫び声が聞こえたのだから、起きていない道理は無い。だとすれば、出るに出られない事情でもあるのか。
 ――本当に早まった真似をしていなければいいが。
 他に開いている場所は無いかと母屋の周りを一周しながら、元の場所に戻って来ると、同じく途方に暮れた二人の姿があった。
「良寛和尚、駄目です。裏口も窓も全部閉まっている」
「致し方ない。雨戸をぶち破るか」
 良寛の言葉に二人も頷く。
 巨僧は大きく息を吸うと、二人の男達と共に、雨戸に肩から体当たりしようと構えた。
 と――。
 カリカリカリ、と雨戸の内側を何かが引っ掻く音がした。
 ――なんだ。
 そして――。
 ギギギ、と軋みを上げて、ぴたりと閉じたままだった雨戸が内から開いた。
 戸の僅かな隙間から黒い塊が飛び出してくる。
「おう」
 良寛は驚いて身を竦ませる。
 黒い塊は雪の上を転がる様に出てくると、三人の男達を見詰め、にゃあと鳴いた。
 艶々とした毛並みの黒猫だった。緑色の目をしている。
「――どうかなされたのですか。何かありましたか」
 続いて、女の声がした。
 振り向くと、開いた雨戸の隙間から茫洋とした静が顔を覗かせていた。
 寝間着姿のままで、しかもその着物が大きくはだけ、白い肩が丸見えになっている。
「な、何かとは――先程、悲鳴が聞こえたものですから――大丈夫なのですか?何か妙な事が起こったり等は」
 良寛が尋ねる。ああ、と静は眼を大きく見開き、云った。
「ええ、さっき私、驚いてしまって、思わず叫び声を上げてしまいました。そんなに大きな声でもなかったと思うのですけど――起こしてしまいました?」
 酷く現実感の希薄な物云い――。
 まるで他人事の様な様子――。
 ――異常だ。
 何も無かった訳が無い――。
 ――何があった。
「驚いた、とはどういう事ですか」
 佐馬介が怪訝な顔をして聞いた。
「ああ、その――本当に不思議なんですよ。どうしてこんな事になったのかさっぱり分からなくて――でも――」
「つまり――何があったんですか?」
 静に答えを急く様に、今度は惣七が聞いた。
 それが――、と静は、とても、嬉しそうな顔で云った。
「――鈴がいなくなってしまったんです」
 ――いなくなった?
 そりゃどういう意味なのかと良寛が尋ねるより早く、佐馬介が雨戸を大きく開くと、御免と一言云い、母屋の中へと足を踏み入れた。
「待て、佐馬介。お前どうするつもりだ!」
 惣七が叫ぶ。
 佐馬介はその声を無視して、母屋の奥へと消えて行く。
 惣七が慌てて後を追う。
 良寛も後を追おうと思い、背後に視線を感じ、一度振り返り後ろを慥かめた。
 黒猫だ。猫がこちらをつぶさに見詰めている。良寛はその存在に、これから起こる不吉な影を見たような気がした。
 その思いを振り切る様に頭を振ると、暗い室内に足を踏み入れた。
 通夜の後らしく、微かに抹香の匂いが鼻を突く。
 みしみしと狭い廊下を軋ませながら良寛は、鈴の仏様を安置してあった客間へと入る。
 何だかこの部屋だけが、やけに寒い。
 中では先に着いていた佐馬介と惣七が、棺を覗き込んだまま凍りついていた。
 良寛も棺の中をひょいと覗き込む。
 当然ある筈の死体は――。
 そこには無かった。
 からっぽだった。
「――おいこりゃ一体どうなってる!?」
 良寛が叫ぶ。
 どうなっていると問い掛けても、答えられる人間がいるとも思えなかったが、やはりそう云わずにはいれなかった。
 どうなってるんだ――、と。
 佐馬介は意外と平静なのか、或いはそう装っているのか、何時もと変わらぬ口調で云った
「昨夜、慥かに納棺しました――それが消えてます」
「どうして消えてるんだ」
 隣で、恐る恐ると棺を覗き込んでいた惣七がこれまた当然の事を聞いた。
 佐馬介は答えない。答えられる筈も無かった。
「――妖怪じゃあないんですか」
 部屋の隅から男の声がした。
 ――茶屋の旦那――徳次郎さんか。
 男は、膝を抱え、蹲って、顔を伏せている。やがて億劫そうに少し顔を上げると、暗い眼で一同を見廻していた。
「妖怪の仕業でしょうに――。キャシャだとかカシャン坊だとかいう妖怪は――死体を盗って食うというじゃないですか」
「――キャシャ?いや、しかし、妖怪の仕業だとしてもですな――」
 良寛は周りを大きく見廻した。
 ――何処から入ったのだ。この母屋は閉め切られていたのだぞ。
 それとも妖怪だから、そういう事は無関係なのだろうか。
「あなた、何を云っているのですか――妖怪の仕業だなんて」
 静がいつの間にか客間の入り口に立っていて、大きな声で叫んだ。
「あの子は天人なったのですよ!天人になって、天界に行ってしまったに違いありません!」
 そして、天井を指差した。
 客間の天井近くの壁には――慥かに明かり取り用の小さな窓が開いていた。
 ――ああ、だからこの部屋はこんなに寒いのか。
 納得すると同時に、良寛は笑い出しそうになった。
 この母親は、死んだ自分の娘は、背中に羽でも生やして、あの小さな窓から出て行ったと云いたいのだろうか。
 鈴の大きさなら、あの窓の隙間を通る事は出来るだろう。もし本当に羽が生えていればだが。
「――兎に角、探した方がいいでしょう。仏様がないのでは葬儀も出来ない」
 佐馬介は、異様な雰囲気の中で実に常識的な事を云った。
 しかし――。
「必要ありませんッ!!」
 静は激高した。
「あの子は天界に行ったのです!天界に行って、末永く、幸せに過ごすのです。だから探す必要も――」
 静が何か云っている。
 部屋の隅では徳次郎が、妖怪だ妖怪の仕業だと、しきりに呟いている。
 ――天人だ、妖怪だと――この親子は。
 良寛はふいに現実感が失われるのを感じた。
 まるで白日夢でも見ているかの様に、自分が分裂していくのが分かる。
 一方の自分は、この状況を何とかせねばと必死に考えている。
 もう一方の自分は――。
 何とも愚かしい事に、無性に煙草が吸いたいと、ただ――そう思っていた。
 
 
 
「天人に火車とはね――面妖な」
 慧音はもう何杯目になるのかも分からない茶を飲み干しながら呟いた。
 神妙な面持ちで阿求が尋ねる。
「あの、すいませんが、お話に出て来た惣七さんという方は、もしかして稗田の庭を見て貰っているあの方なのですか?」
 良寛が答える。
「ええ、拙僧の昔からの馴染みでしてね。葬儀の手伝いなんかをして貰っていますが、本職は庭師ですな。奴さんは――実は、昨年、妻を亡くしましてね。暫くの間、仕事に手が付かなくて、そうこうしている内に、雇先を無くしてしまいましてね――。腕はそこそこいいので、何処か雇ってくれる所は無いかと慧音先生に相談した処――」
「私が阿求に話を持って行ったという訳さ」
「ふぅん。それにしても――煙の様に消えたとは聞きましたが――ホントに忽然と遺体が消えるなんて」
 常軌を逸していて、どうにも阿求には実感が湧かなかった。
「本当に密室だったんですか?何処かに抜け道があったとかそういう可能性は――」
「どうですかなぁ。見える範囲の他の扉や窓も施錠されていたようですし、あの状態で外から入ろうと思えば、無理矢理に抉じ開けるかでもしない限りは無理でしょうな。唯一開いていたのが、客間の天井近くにある明り取り用の窓ですが、あれは小さすぎて、子供でも無い限り通るのは無理でしょう」
「扉を傷つけずに外す方法は?この辺の家屋に一番多い種類の引き戸なら、例え突っかえ棒を噛ませていても巧くやれば外せない事はないでしょう?」
「まぁ――多少荒っぽくなりますが、不可能ではないでしょう。しかし相当音がする筈です。深夜に扉を外そうと物音を立てたら、誰かが気づく筈です。私や傍で寝ていた者達、家の中の者も無論です」
「本当に他に出入りできる様な所は無いのですか?隠し扉や抜け口があったり、縁の下から潜れば部屋に入れるとか――」
「いやいや真逆。忍者屋敷でもあるまいし。茶屋と云っても、只の民家なのですし」
 ううんと阿求が考え込む。
「しかし、完全な密閉された空間なんてありはしませんよね。只の民家なのならば尚更です。扉や窓には至る所に隙間があります。だとしたら――古典的な方法ですが、糸を使えば――」
「糸をどうするんだい?」
 慧音が興味深げに聞いた。
「ええ、糸をですね、予め突っかえ棒に括り付けておいて、外からそれを引っ張れば扉を開けられるようになるでしょう」
 慧音はその考えを笑い飛ばす様な真似はせず、尤もらしく頷いた。
「成程、遺体を持って行った何者かは探偵小説的な手法を実践したという訳だ」
「でも、自分で云ってても信じられない気分なんですけど。余りに莫迦莫迦し過ぎて」
「ふむ。私には密室だなんてよく分からないモノに固執する必要は無いと思えるがね。少し考えてみれば、扉や窓を外から開けずに中に入れるもっと手軽な方法もあるじゃないか。ほら、例えば中の人間に直接招き入れて貰うとか」
「中の人に?」
 阿求は怪訝な顔をし、当たり前の事を聞いた。
「どうやって?」
「深夜の来客を装ったのか、何か取引を持ちかけたのかもしれない。現時点では茶屋の御両親は二人とも来訪者あった事を我々に告げてはいないが、それも何か理由があっての事なのかもしれない」
 くすくすと阿求が笑う。
「慧音さんのその考え方もとっても探偵小説的ですよ」
「現実的かは兎も角、密室という不可解な状況について悩まなくて済むという点で、私はこの考え方を支持するよ。ただ、この方法では雪の上に跡が残りそうなもんだ」
「ええ、そうでしたね。雪が降り積もったのでした。つまり、現場は母屋と雪という二重密室の構造になってたんですね。でも、雪が積もり、止んでしまう前に何者かは母屋を訪れたとは考えられませんか?」
「可能性としては勿論ある。すると、通夜が終わった時点から、早朝までの間か。雪の降っていた時間が分かれば、もっと絞り込めそうなもんだが――」
「幻想郷中の人妖のその時間帯のアリバイでも慥かめますか?ふふっ、でも例えば、飛んで行くだけでも雪の上に跡は残りませんよね。なら、雪の事は余り深く考えなくても良いのではないですか?」
「それを云うなら、そもそも事件当初、数人の人間が現場にいたとは云え、事件解決の証拠となる様なモノを見落としていないという可能性は否定しきれない。さらに、それらしいものを見ていたとしても、人の記憶なんて曖昧で、過去に遡って捏造されるなんて事は日常茶飯事なので早々当てになるもんじゃ無い。おまけに、雪なんてのは今となっては溶けて何も残ってないので慥かめようが無い。だから、今のところ確実にこうだなんて云い切れる事は何一つ無いよ」
 慧音が投げ遣りな言葉に、阿求は溜め息を吐く。
「事件の境界条件がまるであやふやですね」
「いいかい、阿求。過去とは常にあやふやなものなんだ」
 慧音が断言した。
「例えば歴史においても、完全に保存された過去の状態というのは理想だが、現実にはそうそう在り得ない。だからこそ我々歴史家は僅かな痕跡を掻き集めて、組み立て直し、何とか整合を付けて尤もらしい形にしようとするのさ。今度の事件にしても似たようなものだろう。今の処、『遺体が消えた』という現象が一番目に付き、そこにばかり注意が行っているが、実はそれも事件の一部分に過ぎず、もっと別の側面があるのかもしれない。我々の思いも寄らぬ側面がね――」
 慧音は念を押す慎重な口振りでそう云うと、再び茶を啜り出した。
 ずるずるずるずる――。
「ところで――慧音先生。徳次郎さんが云っていた妖怪――キャシャというのは何ですか」
 沈黙の中、ぽつり、と良寛が声を零した。
「ああ、それは丁度さっき私が説明しようとしたんだが、阿求に止められてしまって云いだせなかったな」
 こほんと咳払い一つすると、嬉しそうに語り出した。
「キャシャというのは火車の呼び方のバリエーションの一つだ。火車は、生前悪行を成した者の遺体を葬儀の途中に盗み去り、さらにはバラバラにしてばら撒くという。その姿は、燃え盛る車輪そのもの、或いは、燃え盛る車を引く猫の妖怪という記号で表される事が多い。正体については諸説あり『平家物語』では牛頭鬼、馬頭鬼だとされているし、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』では地獄からの死者だと書かれている。また、遺体を盗んでいく妖怪の話は『奇異雑談集』や『本草綱目啓蒙』、それに『諸国百物語』にも見られる。場所によってはカシャン坊なんて云い方もするが、まぁ要するに死体を盗んでいく専門の妖怪さ」
「今度の事件には打ってつけの存在ですよね」
 へぇと阿求が感嘆を上げながら呟いた。
 しかし、そうだね、と慧音は頷きながらも得心の行かない表情で云った。
「ただ、私には火車がわざわざ里の中まで赴いて、死体を持って行く理由が分からないな。伝承通りに生前悪行を成した人間の遺体を盗みに行くというのならまだしも、相手は年端もいかない子供だぞ?そんな幼子が、死後、遺体を盗まれる程の悪行を成したとも思えないし、そもそもリスキー過ぎないかい?今の幻想郷の情勢だと、下手に人間に手出しすれば大事になって退治されかねない」
「私は妖怪の行動に尤もな理由を求めるのも、何だかなと思いますけどね。でも慥かに密室の状況とは相容れない存在ではあります。うーん、じゃああっちはどうです?静さんが云っていた『羽化登仙』の話」
「天人になって窓から出て行ったって話かい?それも可笑しな話だと思うよ。天人というのは、生前の善行や徳が認められて、死後天界に呼ばれるものだ。例外的に、親族の功績が称えられ生きたまま天人になるケースもある事にはあるがね。しかし、それはかなり特殊なケースだ。鈴の場合は、やはり幼い子供だったから、天界に行く程の善行や徳を備えていたとも思えない」
「純真無垢な子供だったからこそ、妖怪に狙われる事も無いし、天人になる事もない、と?」
「そうだね。この世への執着や未練も少ないから化けて出るとも思えないしな」
「いや、それが慧音先生。あるのですよ」
 良寛が口を挟んだ。
「鈴の幽霊が彷徨い出て来ているという噂が――」
「鈴の幽霊だと?」
 その話は慧音も知らなかったらしく、湯呑を置くと眉を顰めた。
「はい。遺体が消えた夜から、毎夜毎夜、里の中を人魂がふわふわと飛んで行くという話です」
 慧音が苦笑する。
「そこまで行くと最早怪談だな」
 阿求が云った。
「もしかしたら、鈴ちゃんが自分の遺体を見つけて欲しくて彷徨い出てきてるとか」
「鈴の亡霊という事かい?しかし、亡霊だともっと確りとした姿を取るだろうし、何らかの目的がある筈だから、それを我々にアピールすると思うんだが――。例えば、両親の枕元に出るとか、もっとメッセージ性があっても良さそうなものじゃないかな。なのに、ふらふらと里の中を彷徨っているだけとは――本当にそれは鈴の霊魂なのかな」
「違うんですか?」
「うーん、例えば、事件とは何の関係も無い通りすがりの幽霊――。いや、事件直後からなら、やはり無関係では無いのかな。それに毎夜毎夜と決まった行動を取るなら幽霊とは少し考え難いか――」
「しかし、慧音先生。行方不明の鈴の仏様に結びつく様な手掛かりと云えば、今はそれだけですからな。調べてみる価値はあるかもしれません。ただ、肝心の御両親が捜す気力がない状態で、第三者の拙僧達があれやこれやと首を突っ込むのはお門違いなのかもしれませんが――」
 良寛が苦渋を滲ませながら云った。
「本気で探すつもりか、良寛」
 慧音が聞いた。鋭い目線だった。
「見つけた処で感謝されるとは限らんぞ。特に母親の方は、娘は天人になったと思い込んでいるのだろう?死体が見つかるというのは、そうではなく、娘はやはりただ死んだだけという事が分かるという事だ。真実を知る事で必ずしも幸せになれる訳じゃあ無い。夢を見ている方が幸せなことだってあるだろう」
「承知しております。しかし、拙僧には今の御両親がとても幸福な状態だとは思えないのです。静さんにしても、娘の死の痛みから逃れる為に、天人なんて理屈を持ち出している様にしか思いませぬ。客観的に見てそうではないのに、本人だけが必死に幸せだと思い込もうとしているのは、一番不幸な事で御座いましょう」
「救ってやるつもりか、あの二人を、坊主として」
「救いなどそんなおこがましい事じゃありません。謂わば、乗りかかった船ですから――」
 ふぅん、と慧音が神妙に頷く。
「お前がそこまで云うなら私は止めはしない。微弱ながら力や知恵も貸そう。それで、仏様を見つける具体的な方策はあるのか?」
「件の幽霊。実は、彷徨いながら何処かへと向かっておるのです。そのどこに向かっているのか――実はそれも既に分かっています」
「後を付けたのか?」
「はい。佐馬介の奴が。それで場所と云うのは――」
 良寛が云い淀む。
「何処なんですか?」
 阿求が身を乗り出す。
「それが――私の寺らしいのですよ。正確には寺の裏山ですが」
 ほう、と慧音が眉を顰める。
「寺のある山と云うと――竜池山か」
「りゅうちさん?」
 阿求が鸚鵡返しに聞く。その様子に慧音は笑みを浮かべる。
「そう、竜池山だ。幻想郷の歴史には通じていても、地理の方は専門外だったかな。尤も、里の古老でも、あの山がそう呼ばれていた事は知らないだろうさ。さっき云った様に、私はあの寺の来歴を調べた事があったからね。山の名前はその時に知ったんだ――。しかし、あの寺の裏側と云うと――墓場になっている筈だったな。そんな処に幽霊らしきものが向かっていると。しかも毎晩――」
「今夜辺り、墓場で張り込もうかと思います」
「危険だな。山の聖域の内側とは云え、正体不明の存在を、そんな人気のない処で待つなんて」
 慧音が難色を示す。
「無論です。だから代役を頼もうかと」
「誰にだ」
「今頃、佐馬介が頼みに行っている筈です。竹林に住んでいるという妖怪退治の専門家に――」
「妹紅か!」
 慧音の顔がパッと輝く。そして、にんまりと微笑んだ。
「それは良い考えだ。あの子ならちょっとやそっとの事は平気だ。平気どころか、どんな事があっても、死ぬ事だけはないからな」
「妹紅さんって――あの健康マニアの焼き鳥屋さん?」
 阿求の言葉に、そうだそうだ、と慧音が笑う。
「『幻想郷縁起』の執筆の時に阿求は会っているんだったね。今度、正式に紹介しよう。とても良い子だよ。きっと阿求も好きになる」
 阿求は少し考える素振りを見せた後、にこりと笑みを浮かべた。
「ええ、お願いします――。私、是非、妹紅さんに聞きたい事がありますから」
 
 
 その後、良寛が再び茶を沸かし、休憩を挟むと、それを飲みながら、三人は話を続けた。
「ところで――その、慧音先生――幽霊と亡霊というのはどう違うのですか」
 ふいに良寛が意を決したかの様な緊張した面持ちで尋ねた。
「先の通夜の時、ふと気になりましてね。これまで深く考えた事は無かったのですが、それらはどう違うのかな、と――」
 慧音はジッと坊主を見返した後、しらっとして云った。
「幽霊というのは読んで字の如く『幽かな』霊の事さ」
 坊主は慧音の視線に気押されながらも尚も問う。
「幽かっていうのはそりゃ一体どういう意味ですか。霊魂というのは、永遠にして不滅の存在でしょう。幽かだったり、そうでなかったり――そんな事があるのですか」
「何を云っているんだ。例えば神社に祀ってあるのは神様の御霊だ。神様の魂は人間より大きいから、分割して分社に祀ったり出来る訳さ。それに、人間の魂だって大きさの違いはあれ、分割可能だし、変化もするだろうさ」
「むう」
 困惑する良寛を見兼ねた阿求が助け船を出す。
「良寛和尚、幽霊とは気質ですよ。死者から出るものとは限りません。また人間から出るとも限らないのです。樹や石から幽霊が出る事だってありますよ」
 しかし、良寛にはいまいちピンと来ない様だった。坊主頭を撫でて、厳しい顔をさらに強張らせる。
「拙僧にはどうも判り兼ねますな。幽霊とは死人から出るモノ。ならば、それは魂と同じではないのですか?」
 違うよ、と慧音が素っ気なく云った。そして、にやりと笑う。
「霊と魂は別の存在なのだよ、良寛。仏法では、霊も魂も区別しないどころか、そもそも幽霊という存在を規定していないから分かり難いかもしれないがね」
「仏法に幽霊はいないのですか?」
 阿求が意外そうに聞いた。
「ああ。仏法の本懐は、輪廻転生の輪から抜け出す事にある。つまり繰り返される転生が前提な訳だ。だから、冥界にも行かず、その辺をふらふら彷徨っている幽霊を勘定に入れると不味い事になる」
「教義的に矛盾するからですか?」
「そうだな。それとも逆に、幽霊なんてモノはいてもいなくても、仏法の本質とは矛盾しないから、あえて無視しているとも考えられる」
 はぁ、と良寛が息を吐いた。
「――霊と魂は違うのですか」
「良寛和尚が分からないのも無理はないでしょう。一般の人でも霊と魂の区別なんて余りしませんよ。私は『縁起』執筆の折に勉強しましたが」
 阿求が云った。そんなものかもしれないね、と慧音は頷くと、じろりと坊主を睨んだ。
「いいか、良寛。今から説明してやるから、よく聞いておけよ。幽霊とはそもそも読んで字の如く『幽かな』霊だ。純粋な気質だから、どちらかと云えば精霊などに近い。だから没個性的で、自我が殆ど無い。だからな、良寛。例えば私が死んで幽霊になったとしても、それは上白沢慧音の幽霊とは云わないんだ。そもそも『誰某の幽霊』というのは言葉自体が矛盾している」
「それはそうでしょう。御釈迦様も死後の魂の自我を否定しております」
「そうだな。魂は不滅だが、自我はそうではない。そこは仏法とも矛盾しない。しかしこれが亡霊、生霊となると話は別だ」
「それ等は――違うのですか」
「違うよ。例えば、上白沢慧音の霊がある夜にお前の枕元に出てきたとしよう。よく講談なんかに出てくる、呆っとした半透明のヤツだ」
「それは怖いですね。枕元に出てきて夜な夜なお説教ですか?」
 阿求が口元を綻ばせて笑った。全くで、と良寛も鹿爪らしく頷く。
 慧音は口をへの字に曲げて云った。
「二人とも茶化すな。いいか?霊は出たが、私はまだ生きていたとしよう」
 はて、と僧侶が首を傾げる。
「まだ生きているのですか?生きているのに幽霊として出てくると?」
「だから、これは幽霊じゃないんだ。幽かではない。ちゃんと生前の姿と自我を持っている」
「ああ、そうでしたな。魂と霊は違うのでした――となるとそれは――」
「『生霊』だ。本体は生きている。逆に、この時既に私が死体であればこれは『死霊』、或いは『亡霊』だ」
「それだけの違いなのですか?」
「それだけだよ。霊が怨んでいれば、その霊の本体の生死に関わらず『怨霊』と云うし、悪意を持っていれば『悪霊』だ。必ずしも生死は関係無い」
「崇徳天皇や菅原道真の様なケースですね。二人とも死んだ後、怨霊と化したと云われますし。時に、前者は天狗、後者は雷神と同一視されました」
 阿求がさらりと補足する。
「うん。後は将門公もそうだな。また逆に、後代になってから神と見做される場合もある」
「『神霊』ですね。神社できちんと祀られると怨霊も神様になる、と」
「しかし祀り方が悪いと神霊は力を失う。例えば、卑近な例では博麗神社もそうだ。あそこはすっかり人が寄り付かない魔境になってしまい、神霊も力を失った。宗教と同じだよ。信仰する者、参拝する者がいなければすぐに廃れてしまう」
 はぁと良寛は曖昧に返事をした。分かった様な、分からない様な、曖昧な表情である。
 慧音は渋面を作り、まだ何か分からない事があるのか、と問い質した。
「そうですな――魂と霊が別のものだというのは大凡理解できたと思います。そして霊とは気質だというのも分かります。それでは、我々が普段、魂と呼ぶものは何なのでしょうか――」
 慧音は静かに眼を閉じ、腕を組んで呟いた。
「例えばだな――道教だと三魂七魄というだろう」
「道教――ですか」
 また随分と話が飛ぶものだ、と阿求は思った。
「『魂』というものを説明するのは難しい。何故なら言葉を使う限りは、必ず限界があるからだ。だが、それを差し引いても三魂七魄説というのは『魂』というあやふやなものを機能的に説明しようとしていると思う――」
 と一旦、ここで慧音は言葉を切り、眇眼で阿求と良寛を見詰めてから続けた。
「三魂は精神を、七魄は肉体を支配する。魂魄が何で構成されているかについても諸説ある訳だが、ここでは一番代表的なモノを取り上げておこう。魂は天魂、人魂、地魂の三つから成り、魄は喜び、怒り、哀しみ、懼れ、憎しみ、愛、欲望の七つで出来ているとするという説だな。そして人が死ぬと、陽性の三魂は天に還り、陰性の七魄は地に還る。三魂は体を抜け、七魄は肉体の方に残るという感じだ」
「それは『魂』がバラバラになるのをイメージすれば良いのですか?」
 阿求が合いの手を入れる。
「まさにそうだ。三魂七魄が揃って始めて一人前の人間だ。仏法でいう『魂』は、実は道教でいう三魂七魄で構成されていて、死後バラバラになる。このバラバラになった欠片が『霊』だ。『魂』の一部分でしかない霊が幽かであれば幽霊。魄の内、憎しみが世に残ればこれは『怨霊』――うん、我ながら良い喩えだな」
 くすくすと阿求が笑った。
「仏法と道教の折衷ですか。都合の良すぎる説明ですよ。御釈迦様に叱られます」
「あくまでも喩えだよ。それに、この手の喩えは仏法などでも常套手段だ。ほら、例えば仏法の教えに五蘊説があるだろう」
 ええ、と良寛が隣で頷く。
「色、受、想、行、識ですな。五蘊とは、肉体と精神を五つの集まりに分けたものです。部分が合わさって一人前の人間という説明は、慥かに道教の魂魄説と似ているかも知れません。でもやはり『魂』の説明とは違いましょう」
 そりゃあそうなんだが、と慧音は頭を掻きながら云った。
「五蘊説で注目すべきは、魂魄説と同じく、肉体を勘定に入れている所だと思う」
 話がまた飛んだと阿求は思った。
「でも慧音さん、道教でいう魄は、肉体を支配する霊的な存在でしょう?肉体そのものとは違うじゃないですか」
「いいや、違わないよ。魄というのは肉体に宿る訳だから、肉が朽ちれば、やはり魄の方も朽ちるんだよ。だから肉体と殆どイクォールだと考えて良い。五蘊説で云えば色が肉体に当たる」
「余計変じゃありませんか。どうして『魂』を説明するのに肉体が出てくるんですか?」
 慧音は口元に微笑を浮かべた。
「そりゃ肉体も『魂』の一部だからさ」
「体も魂の――?どういう意味ですか」
 阿求は、慧音に巧妙に話の誘導されている気配を感じつつも、すっかり夢中で質問の手を休める事が出来なくなっていた。生来の旺盛な好奇心の所為である。
 例えばそうだな――、と慧音は手の中で湯呑を転がしながら呟いた。
「例えば、阿求は先代の御阿礼の子の事を、そのまま自分の事の様に思えるかい?」
「先代ですか――。うーん。その頃の記憶なんて殆どないし、自分という気はしませんね。よく知っている他人という感じの方が強いと思います」
「さて、それはどうしてだろう。転生とは、体だけを変えて魂を受け継ぐ事だ。阿求という人間の本質は、初代の稗田阿一、さらにはその祖である阿礼と同じ筈だ。だけど、君にとっては必ずしも『自分』では無いと云う」
「阿求として、後天的に学んだ社会的経験の所為じゃないでしょうか。生まれた時代によって習俗も異なりますし。後は性別とか――。歴代の御阿礼の子には男性もいますからね。女である私とは重ならない部分もあるでしょう」
「つまりは――魄が違う」
「魄が――ああ、なるほど」
 慧音の云わんとする事が阿求には見えてきた。
「体が違うと――それだけで別人なのですね」
「そうだ。幾ら本質としての魂が同じでも、体が違えば、それは別の人間だ。器に注がれた水は、器に沿って形を変える。それと同じで、肉体という内と外に区切られた境界線――その中に閉じ込められた霊という気質は、やはりどうしても入れ物である魄の影響を受けない訳が無い。例えば人は、腹が減れば何か食べたくなり、怪我をすれば痛いと感じ、眠たければ横になる。さっき、魄は喜び、怒り、哀しみ、懼れ、憎しみ、愛、欲望の七つで出来ていると説明したが、これらは全て肉体に直結する感覚ばかりだ。そして、まさに問題はそこなんだ。肉体に宿る精神――魄とは、肉体の欲求とは無縁でいられない。だから『魂』とは何なのだと云われれば――肉体と精神を含む全て、生きているその人そのもの、その人がその人である事を足らしめる境界条件全てだとしか云いようがない。言葉ではこれ以上の説明は無理だろう」
 阿求は自分の事を考えた。
 御阿礼の子として生まれた為に、長くは生きられぬ己の人生。それが阿求という存在に大きな影響を与えている事は間違いない。だから今の阿求が阿求であるのは、他でもないその短命な――悪い言葉で云えば、不良品の――そういう体を持って生まれたお陰でもあるのだ。
 ――精神と肉体は、結局、離れられないのか。
 それでも良寛は十全には承知できないのか、腕を組みながら呻く様に呟いた。
「――しかし慧音先生、やはり『魂』に肉体が入るのは納得いきませんな。それだと死んだ人間――死体はどうなりますか」
 慧音は笑う。
「仏法的に云えば、肉体は魂の仮宿か?私は別にそれが間違っているとは思わないよ。死んだ人間は慥かに抜け殻。モノだよ。だから死体は人ではないという主張は分かる。だが、それを云うなら死んで抜けた霊の方だって、最早、人間では無い。例えば死んだ人間に逢いたいからと冥界に行って、ふわふわと浮かぶ幽霊に逢ったって仕方ない訳だろう?」
 阿求は、それはそうかもしれないと思った。
「それは幽かだからですね。幽霊は純粋過ぎるから、自我も個性も薄い。何より肉体が存在しない。私達が、死んだ人間――親兄弟、恋人なんかに逢いたいと思うのは、再び逢って、その手を握り抱きしめたい、声を聞きたいという想いがあるからでしょう。相手が幽霊では、それも出来ません――でも『亡霊』だとどうなります?死んでいても、何処ぞの亡霊嬢の様に、生前の姿や自我を保っているのもいるでしょう」
 慧音が悪戯っぽく微笑む。
「亡霊は死体が残っているだろう?つまり道教で云う処の『魄』がちゃんと保存されている。死んでいながら、躯との関係が完全に切れていない。故に生前の自我も姿も保っていられる。そして、だからこそ亡霊は本体が弱点でもある」
「へぇー、その説明、巧く出来てますね」
「だろう?そしてそんな風に、やはり個人が個人であるには、肉体が絶対に必要なんだろうな」
「そうなの――ですか」
 良寛は己の分厚い掌を見ながら云った。慧音が力強く頷く。
「そうだよ。だから輪廻転生だけを考えるならば、転生の主体である霊という永遠不滅の気質だけを説明すればいいが、『魂』そのものを説明するならば肉体も方も欠かせない。何故なら『魂』とは生きている人間に宿るものだからだ。生きているという状態を説明するのと然程違わないさ」
「――はぁ、難しいですねぇ。何となく、云いたい事は分かりますが」
 阿求が呆けた声で言った。
「さぁ――ところで、そうだな。例の事件に少し関係のある事なのだが――阿求は以津真天という妖怪を知っているかい?」
 突然、慧音は話題を変えた。
「イツマデ――ですか?」
 阿求は漸く思い出す。密室だ、幽霊だ、と他の話にすっかり夢中になっていたが、元々妖怪の事を聞くつもりで来たのだった。
 当の慧音は普段以上に知識を披露できるのが余程嬉しいのか、弾む様な声で云った。
「そう。以津真天だよ。阿求なら知っているだろう。『太平記』にも出てくるアレだ」
「『太平記』?ああ――怪鳥の話ですね」
 歴史物語なら阿求の得手とする処である。良寛も心当たりがあるのか、膝を打った。
「弓で妖怪を退治する話でしたな。慥か――源頼政が」
 いやいやと阿求が首を振る。
「良寛和尚、惜しいけど、違います。頼政は『平家物語』の鵺の方です。『太平記』の怪鳥を射落としたのは隠岐次郎左衛門広有ですよ。ほら、十二巻『広有射怪鳥事』の」
「阿求が正解だ。『広有、いつまでいつまでと鳴し怪鳥を射し事、太平記に委し』だな」
「でも、慧音さん。その怪鳥が一体何か――」
「うん。以津真天には諸説あるが、一般的に死体から出てくる妖怪だと云われているんだよ。それも、飢饉や戦などで命を落とした人間達の屍が埋葬される事も無く、無残にも放置され続けたような場所にね――。きちんと埋葬されずに行き場を失った霊や、屍を見捨てられた事に対する恨みや憎しみの気持ちが凝り固まり、怪鳥の姿となって、毎夜毎夜、いつまでいつまでと鳴くのさ。いつまでというのは『何時まで』という意味だ。一体何時まで遺体を放置するのか、何故きちんと埋葬してくれないのかとそんな気持ちを籠めて以津真天は鳴く訳だ」
「それで?」
「そして、以津真天は死体――自分の屍を食べるんだ」
「死体を――食べる」
 ざわり、とうなじを撫でられる気配がした。
 死体から現れ、死体を食べてしまう妖怪――。
 そんなものが本当にいるのなら、今度の事件も――。
 鈴子の死体から出たその妖怪が、食べてしまったのなら――。
 いや、と阿求は心の裡で膨れ上がろうとする妄想を押さえ付け、否定する。
「――でも、慧音さん。『太平記』に出てくる怪鳥は人を襲ったりはしなかったでしょう?況してや、死体を食べるなんて話は無かった筈です」
「そうだね」
 流石は阿求よく気付いた、という風に慧音は笑みを浮かべる。
「以津真天という妖怪自体の初出は『太平記』だが、あれはそもそも後醍醐天皇の建武の新政を暗に批判した創作話だから、『太平記』の以津真天は空想の産物の様なものさ」
「空想の産物?という事は、そんな妖怪は実際に居ないと――?」
「うーん、ところがそうでもないんだ。大きな飢饉や戦争時に、人がたくさん死んだ場所に現れてはいつまでいつまでと鳴く怪鳥の話はあちこちに伝わっている」
「どういう事なんでしょうか?」
「正史として語られる以津真天と、稗史として語られる以津真天って事だよ。正史としての以津真天は太平記のそれ。稗史として語られる以津真天は民間伝承のそれだ」
「――難解ですな」
 ぬぅと坊主が唸る。慧音は肩を竦めた。
「分からないなら、分からないでいいよ。要するに私が云いたいのは、死体という忌物は妖怪を生み出すというケースがあるという事だ」
「本当にあるのですか?拙僧は仏様と顔を合わせるのはしょっちゅうですが、そんなものを見た経験はありませんが――」
 あるさ、と慧音は云い切る。
「例えば、陰摩羅鬼というのがいる。蔵経をして『初て新たなる屍の気変じて陰摩羅鬼となる』という奴だ。一説によると、埋葬されながらも、供養が足りなかった死者の霊が変じたもので、寺に現れ、経文読みを怠けている僧侶の所に現れるのだそうだ」
「――怠け者の僧侶の元に」
 阿求の視線は自然と良寛に吸い寄せられる。良寛は居心地悪そうに、空咳一つした。
「幸いにも経文読みは欠かした事は御座いません」
「それは結構な事だ。さて、さらには『物部大連守屋は仏法好まず、厩戸皇子に滅ぼされる。その霊一つの鳥となりて、堂塔伽藍を毀たんとす。これを名付けて、寺つつきといふ』。或いは『藤原実方奥州に左遷せらる。その一念雀と化して大内に入り、台番所の飯を啄みしとかや。是を入内雀と云』とある」
「啄木鳥に雀ですか――両方、鳥ですね」
 当たり前の事を云う阿求に、そうだ、と慧音は頷き返す。
「陰摩羅鬼も鳥の姿をしていると云われる。尤も、こちらはもっとグロテスクな姿で描かれる事が多いがね」
「ふぅむ、成る程。分かりましたぞ」
 良寛が渋い声で云った。
「それらの妖怪に共通する事は、死人の霊、若しくは念が化けて鳥になったという事ですな」
「うん、賢い賢い。霊と鳥というのは昔から相性が良くてね。本邦以外でも、古代のエジプトでは死者の霊は鳥の姿になるとされた。もしかすると、『飛んでゆく』というイメージが被さるかもしれない。場所によっては、鳥葬が尊ばれるのも無関係ではないだろう。また鳥は不死性、永遠性とも関連付けられ、転生のシンボルとなる事もある。何度でも蘇る火の鳥がその一例だ。それにほら、春の異変の事を憶えているかい?」
「春の異変と云えば、あの花が咲き乱れていた――ああ、あの時に大量発生した霊も慥か鳥の形を――」
「そうだ。かように、霊と鳥とは切っても切れない関係にある。さて、ここで先程の三魂七魄や五蘊の説明が生きてくる」
 そうか、とぽんと阿求は掌を撃った。
「死んだ人間の魂はバラバラになって、霊という気質になり、それが恨みや憎しみから化けるのですね。鳥の妖怪に」
「正解だ」
 慧音がニコリと微笑んだ。
「以津真天の場合も似たようなものだろう。亡霊にも死霊にも成り切れなかった霊が凝り固まり、怪鳥の姿を取るんだ」
「でも少し変じゃありませんか?死体から生じるというのは分かりますが、その死体を食べてしまうなんて。その死体というのは要するに自分の体なのでしょう?」
「いや、それ程奇妙な話でもないよ。そもそも以津真天は遺体がきちんと埋葬されない慙愧の念から生まれる訳だから、自分の死体を食べるという事は、自分自身で埋葬する様なもんだ」
 ああ、と阿求が感心した声を上げた。
「自分で鳥葬にしちゃうんだ」
「若しくは、無残に腐りゆく体を人目に晒したくないから、自分自身で片付けてしまおうとするのかもしれない。いずれにせよ、死体のある所には普遍的に現れる存在だから、妖怪というよりも、一種の怪異、或いは、現象という見方も出来るかもしれない」
「死体があると現れる存在――。ははあ、やはり慧音さんはそう考えているわけですか。つまり、今度の茶屋の遺体消失事件は、鈴ちゃんの遺体から以津真天が生まれて、その体を食べてしまったと――。でも、鈴ちゃんは新仏でしたし、ちゃんと葬儀は行われようとしてたんですから、怪鳥になって恨み出てくる理由が無いでしょう?」
 慧音はしれっとして答える。
「私はそこまでは云ってないよ。勿論、阿求の云う様な考え方は可能だ。死んだ娘が以津真天になって、死体を食べてしまえば死体は消える。そして、例の一箇所だけ開いていた窓から出て行ったのだとすれば、密室の謎は消える。しかし、どうして娘が以津真天になったのだとか、新たな謎が生まれてくる事になる。結局、暇潰しにあれこれ考えを巡らせるのも面白いが、所詮は机上の空論だ」
 慧音の素っ気無い物云いに、阿求はがくりと肩を落とす。
「それはないでしょう。散々ややこしくて長い話に付きあったというのに――」
 むぅと慧音は眉根を寄せて、心外だな、と呟いた。
「別にお前達に、頼んで付きあって貰っていた訳じゃあないぞ。そもそも今回の事件に関係のありそうな妖怪について意見を聞かせてくれと云われたから、喋ったまでだ。それに最初に断っただろう。必ずしもお前達を満足させられるような事を教えられるとは限らないと。話しが長いだの、ややこしいだのと文句を云うなら、最初から聞かなければいいんだ」
「そりゃそうなんですが。良寛和尚も何か云ったらどうですか」
 いや、拙僧は――と巨僧は頭を撫でながら云った。
「霊やら魂の講釈をして頂いて、感謝しております。どうやら、まだまだ学ばなければならない事が多い様ですな」
「ほら見ろ、阿求。この坊主の方が余程心得ているじゃないか。稗田家の当主ともあろうものが、礼の一つも云えない等と――」
 ぶつぶつと慧音は呟きながら、立ち上がると、縁側へと近付き、おもむろに庭へと面した障子を開いた。
 赤い夕陽が、パッと室内を照らす。
 ここへ来てから随分と時間が経っている事に阿求は初めて気付いた。途中で、休憩もとらずに半日近く話し込んでいた計算になる。それだけ、自分が話に夢中になっていたという事なのだろう。何だかんだで、自分も楽しかったのだと阿求は今更気づく。
 慧音は室内の空気を入れ替える為か、障子を開けたまま、庭の方を見て立ち尽くしていた。
 冷たい風が入って来るが、長い間、閉め切った部屋にいた阿求には涼しく感じられる。
 暫くの沈黙の後、俄かに決心した様に慧音が呟いた。
「念の為に、二つ三つ調べ事をしてみるか――おい、良寛」
 慧音が坊主を振り返りながら云った。
「事は急いだ方がいいだろう。今から寺へ行く」
 こくりと良寛は頷く。
「無論、構いません。しかし寺に来てどうするつもりなのですか――。」
「今度の事件に関わりがあるかもしれないものに多少心当たりがあるんだ――。それで、阿求はどうするつもりなんだい?」
 今度は阿求を見た。
「え?私ですか」
「このまま引くつもりは無いんだろう?」
「まぁそうなんですけどねぇ」
 阿求は、遠足を明日に控えて楽しみで堪らない子供の様に口元を綻ばせた。
「とりあえず明日は茶屋に行ってみようかと思います。現場検証ってやつです」
「成程。名探偵が無事真相に繫がる様な発見をしてくれる事を期待しよう」
 慧音は真面目な表情でそう云うと、再び庭へと眼をやった。
 その横顔は夕日に照らされていて、紅い。
「――何だか今年は春がやってくるのが遅いな」
 慧音の呟きに、阿求はふと云い知れぬ不安を感じた。
 しかし、その予感は余りに漠然としすぎていて、心の何処を探ってもその正体は掴めそうにも無かった。
 


 
 4.竹林の妹紅
 
 遠く離れた里で慧音の邸を阿求と良寛が訪れていた頃、迷いの竹林の奥深くにある妹紅の住まいを訪れる者があった。
 妹紅は迷惑とも困惑ともつかぬ表情で、その訪ねて来た男を上がり框で出迎えながら、どうしたものかと真剣に思案していた。
 男の名は佐馬介と云うらしい。
 目鼻立ちはくっきりとしていて、実直そうな雰囲気を纏っている。洒落た絣の着物を着ているが、その袖から見える手は分厚く、日に焼けていて、農作業を生業としているのではないかという予感を妹紅に抱かせた。実際、佐馬介は里から少しばかり離れた場所にある小さな集落に住んでおり、そこで畑仕事をしていると語った。
「近くに寺がある以外は何もない辺鄙な土地でしてね。でも、傍に小さな小川が流れていて、土と水がいいので良い作物ができます」
 だから里から遠く、妖怪に襲われる危険や不便さを抱えながらも、その土地を離れないのだという事なのだろう。
「今日、此処へ来たのは、貴方にお化け退治をお願いしたいからなのです」
 佐馬介の要件とはそれだった。
「お化け退治――ねぇ」
 妹紅はうんざりとした調子で呟いた。
 と云うのも、妖怪退治の類いの話を持ってくる輩は、佐馬介が初めてではなかったからだ。それどころか、あらゆる種類の奇妙奇天烈な人間が、他でもない妹紅を目当てに竹林の奥に入ってくる事が度々あったのだ。
 やれ長生きの秘訣を教えろだの。
 やれこの健康グッズを買えだの。
 やれ美味い焼き鳥を売ってくれだの――。
 しかもこの連中、迷いの竹林を甘く見てか、軽装で無警戒に入ってくるのが殆どであり、また例外無く道に迷っていた。そもそも、この秘境に無防備に足を踏み入れるのが間違いなのだ。妖怪に襲われたり、野垂れ死んでも文句は云えまい。自業自得だ。だが、竹林に住んでいる妹紅にとって、自分の生活圏内で行き倒れが出る事は迷惑千万この上ない。無関係な連中だが、ありもしない妹紅の焼き鳥を買いに来て死なれても寝覚めが悪い。
 そうして結局、仕方なく――助けている。
 別に、報酬が出る訳ではない。否、最低でもお礼くらいは云われるし、時には何か物を押しつけられる事もあるが、全部断っている。だから報酬が出ない、のではなく、報酬を受け取らないというのが真実だろう。
 貰える訳が無かった。
 善意でやっているのでは無く、ただ目の前で死なれては後味が悪いという、妹紅の勝手な都合でやっているだけなのだ。
 それでも助けられた方は感謝をする。さらにお礼は要らないと云うとますます有難がられる。
 不思議なものだと妹紅は思った。世の中、善意から人を助ける連中もいるが、そういう人が必ず感謝されるとは限らない。その癖、自分の都合でやっているのに感謝される妹紅の様な人種もいる。しかし、感謝なんて要らないから、頼むから静かに暮らさせてくれというのが本音だった。
 そして今も、突然の来訪者により、妹紅のささやかな日常が脅かされている。これは由々しき事態だ、と妹紅は思った。
「阿求様の本には、妖怪退治を生業にしている忍者集団の末裔なのだと書いてありましたが。ほら、何とか忍法火の鳥とかいう」
 妹紅には冗談にしか聞こえなかったが、佐馬介の真面目な表情を顧みるに本気なのだろう。
 何より、妹紅には思い当たる節がある。
 いつ頃だったか、稗田阿求という少女が訪ねて来た事があった。
 幻想郷に関する本を書いているのだとその娘は云った。妹紅の事も是非載せたいから、色々教えてくれ、と。
 当然、妹紅は渋面をし、断ろうとしたのだが、あろう事か、阿求は慧音の紹介状を出してきた。
 ――もし、妹紅さんが嫌がるようなら、これを渡せと慧音さんが――。
 慧音の頼みなら仕方ない。そうして、妹紅は阿求の問われるままに幾つかの質問に答えた。自分が不老不死である事――そうなった経緯は黙し、必要な事を最低限だけ。その時に、阿求が忍者集団の事について言及していた様に思う。そんなものを知らない妹紅は、何それ、とあしらったのだが――。
 ――あの娘の書いた本か。
 いや、慥かに、妹紅は阿求の質問をはぐらかす為に、健康マニアの焼き鳥屋を自称したりもしたが――それを真に受けて、本当に訪ねて来る莫迦がいるとは普通は思わない。さらに、忍者云々については阿求の妄想である。しかし、元は阿求の妄想でも、現実の妹紅にとっては迷惑この上ない影響が出ている。それは問題だった。
 妹紅は口を不満そうに突き出し、内心で唸り声を上げた。
 しかし、佐馬介は妹紅の剣呑な雰囲気には無関心そうで、淡々と事情を話し出した。
「事の始まりは里の茶屋で、娘が亡くなった事です」
「んん?」
「風呂場で溺れ死んだのだとか。まだ幼かったですから、そういう事もあるでしょう」
「――事故って事?」
「そうですね。不運と一言で片付けるには余りにやりきれないでしょうが――。実際、親御さんは自分達を責めています。特に父親の方が――」
「人が死ぬのは何時だって突然だよ。人が死ぬのは当たり前なんだ。殺されたというのでもない限り、それは誰の所為でもないし、誰の所為にも出来ない。況してや、自分の所為にするなんて――それは只の自己憐憫だよ」
 妹紅は自分でも訳が分からないまま、一息に言葉を吐いた。
「慥かに――人が死ぬのは突然です」
 佐馬介はやや驚きの表情を見せた後、ある種の感慨を込めて頷いた。
「運命というのはどう巡ってくるか分かったもんじゃありません。それは妹紅さんの云う通りでしょう。だけど、あの父親が娘の傍にいれば防げた事故ではあるのです。彼が悔いているのはその一点でしょう」
「だけどそうはならなかった。だから娘は亡くなった。それだけが事実だよ。もし、なんてのを云い出したら切りがないよ」
 喋りながら、妹紅はそんな事しか云えない自分に段々と嫌気が指してきた。
 妹紅のこれまでの境遇がそうさせてしまったのか。生きるだの、死ぬだのという話をする時、どうしても妹紅は攻撃的になる。
 妹紅は別に生きたくて千年にも渡る長い時を生きて来た訳でも無い。単に死ねなかっただけの話である。その癖、一方では長く生きて来たという自負がある。だから、そういう感情は普段では殆ど意識する事は無いのだが、他の人間が人生観や生き死にを語る時、必ず反発心が心の底からぐぐっと鎌首をもたげてくるのだ。それは要するに――百年も生きていない奴には分かるまい、という感覚である。
「それで――真逆、その茶屋の娘が幽霊にでもなって化けて出た訳?」
 妹紅は自分自身のつっけんどんとした態度に厭気を覚え、話の矛先を変えようと質問をした。
 佐馬介は少し考える素振りをを見せ、それもまぁありますが――と云った。
「順を追って説明した方が良いでしょう。先ず、娘の遺体が消えたのです」
 佐馬介はまたもや真面目そのものの口調で答えた。
「はぁ?消えた?消えたって、何処に消えたの!?」
 妹紅は唖然とする。
「文字通り、娘の遺体は忽然と姿を消しました。何処へ行ったのか皆目分かりません。不思議な話ですが、俺もその場に立ち会ったので間違いありません」
 と、佐馬介は経緯を掻い摘んで話した。
 寺の和尚の頼みで通夜の手伝いをした事――。
 次の朝、遺体が消えていた事――。
 しかも、遺体が消えたのは密室からだったという事――。
 ――さては妖怪の餌食になったか。
 それが妹紅の第一印象だった。さらに密室というのも――何とも莫迦莫迦しいが――妖怪の仕業であればどんなに奇怪な状況であっても不思議ではないだろう。
 佐馬介の話は続く。
「そして、遺体が行方不明になって少し経った日から、真夜中の里の中で奇妙なものを見たと噂されるようになりました。ぼうっとした薄灯りが里の中を彷徨っているというのです」
「へぇ、ミステリの次は怪談なんだ」
「昨夜、俺は寺の和尚さんの命でその後を付けました。すると光は寺のある山まで行き、そのまま山奥へと消えて行きました。恐らく――今夜辺りにでも、そこで待っているとその正体も掴めるでしょう。それを貴方に頼みたいのです、妹紅さん」
「寺か――何処の?」
「桜寺です。あそこの裏山は墓になっているのですよ」
「墓――」
 寺ならば墓くらいあるだろうと妹紅は思った。寺というのは大抵葬儀を行う施設だからだ。本来の修行の場としての寺は違うのかもしれないが――。
 しかし、桜寺というのは――。
 妹紅の疑問に対し、佐馬介は尤もだという風に答えた。
「知らなくても無理は無いでしょう。あれは里から外れた場所にある、古い襤褸寺ですよ。山には桜ばかり植えられています。春になれば桜が奇麗でね、誰ともなくそう呼んでいます。何の捻りも無い命名でしょう」
「はぁ、桜ねぇ」
 桜と聞いて、そう云えばそろそろ桜の季節だな、と妹紅は今更の様に思う。
 竹林の中は季節感に乏しく、暑い、寒い、筍が取れるかどうかくらいでしか四季を感じられない。
「そこの墓場は兎に角古い。森を切り拓き、地面を適当に均した場所を墓地にしている。だからそんなに立派なもんでもないですよ。墓石も疎らに立っているだけだし、穴掘って、土被せて、後は自然任せです。卒塔婆の代わりに、古い桜の樹があっちこっちに立ってるって次第で。俺の家族も皆、あそこに眠っています」
「それが――」
 それが一体どうしたのだと妹紅が云おうとした時、佐馬介は意外にも鋭い目付きで妹紅を見ながら云った。
「あそこに真夜中に行くのは考えただけでも恐ろしい。怖いのですよ、妹紅さん、俺はね」
「そりゃ夜中の墓場は怖いだろうけど」
 いや、と佐馬介は否定する。
「幽霊が出るだとか、妖怪が出るだとか、そういう怖さじゃないんです。そもそもあそこの寺山には幽霊なんて出ない。妖怪も近寄らない」
「どうして?」
「聖域だからですよ。誰が作ったのか知りませんが、ぴたりと綺麗に結界を張ってある。だから妖怪の類は厭がって近寄らない。おまけに里から離れているから、普通の人間も近寄らない。墓参りの時に時々、誰かが訪れる事はあってもね。だけど墓参りだって昼間の内にするでしょう。だから、夜にもなるとあそこは誰も――何もいない筈なんです」
「お寺の和尚さんがいるじゃん」
「そりゃそうですが、和尚さんがいるのは寺の境内の中でしょう。その裏に広がる山となると、そこはもう人の住む領域じゃないんで」
「危ない?」
「むしろ、危ういという感じでしょうか。外部から遮断され、隔絶された場所――。閉じた函の様なもんでしょう。悪いモノは外から入る事は出来ないが、同時に、外に出る事も出来ない。あれはたぶん――そんな場所です」
 ふむ、と妹紅は少し想像を巡らせた。
 山中の異界――。
 ――なら、何が起こっても不思議ではないのか。
 慥かに、一般人が夜中に乗り込むには向いた場所では無い。その点、妹紅なら打ってつけと云える。そういう意味では的確な人選とも云えなくは無い。
 しかし――。
「でも、そういう事件を解決するには専門の巫女もいる。私では無く、あいつに頼めばいいんじゃないの?」
「ええ、神社の巫女は異変解決の専門家だと聞きますが、自分はその人の事をよく知りません。それに引き換え、妹紅さん。貴方の事なら、里の人からよく聞きます。迷いの竹林で人助けをしている『いい人』だと。だとしたら、人間として信用できます」
 いい人か、と妹紅は笑い出しそうになるのを堪えながらさらに聞く。
「でも、私がそれをする事によって、私にどんな得があるって云うの?私は慈善活動家なんかじゃない。生憎と時間だけはたっぷりとあるけど、でも、わざわざ縁の薄い里の事件に首を突っ込みたがる程、野次馬でも物好きでも無い」
 佐馬介は暫く黙った後、慎重に答えた。
「その点については、ただ申し訳無いと思っています。私は消えた鈴の仏様を見つけてやりたいと思っているだけなのです。その為の消えた鈴の遺体を追う手掛かりは今の処、これしかありません。しかし、深夜に、しかもあの山の中で張り込みをするなんて、俺では出来そうにもない」
「だから、私にしろって訳ね。そうやって私はアンタの慈善活動の片棒を担ぐんだ」
「とんでもない。そんな大層なもんじゃありません」
 佐馬介は口元を僅かに歪めて笑った。
「むしろ、これは自分の為なんですよ。自分の罪滅ぼしの為に、鈴というあの娘の遺体を見つけてやるというだけです。だから動機としてはむしろ不純でしょう」
「罪滅ぼし――ねぇ」
 自分が手伝った通夜の当夜に仏様が消えた。関わりになったからには、きちんと落とし前を付けなければ寝覚めが悪いという事なのだろう、と妹紅は思った。
 その気持ちは妹紅にも共感できる。要するに、妹紅が竹林で迷った人間を保護する理由と同じなのだ。自分に非がある訳では無い。しかし、一端それに関わってしまったのなら――やはり助けない訳にはいかない。
「それにやはり御両親の事も心配です。あの二人にこそ、娘の遺体を取り戻し、葬儀を改めてやってやる必要があると思います」
「どうして」
「死者と別れる為の儀式ですよ。生と死の境界線をきっちりと区切ってやる。それがきちんと出来ていないから、あの二人はおかしくなっている。恐らく、これからもっと酷くなるでしょう」
 大したものだ、と妹紅は思った。
 この男は、利己的な理由だと断りつつも、ちゃんと事件は解決するつもりでいるらしい。
 しかもそこに妹紅を巻き込むつもりでいるのだ。他でも無い、乗りかかった船を見捨てる事は出来ない『いい人』の妹紅をだ。
 だからある意味、佐馬介のお願いの仕方は、妹紅の性格に付け込んだ卑怯な頼み方と云えるかもしれない。
 だが同時に悪い気もしなかった。この男だって、深く関わりあいになる必要も無いのに、消えた娘の死体捜しに精を出しているのだ。この男もまた『いい人』なのだろう、と妹紅は思った。
「ああ、はいはい。分かった分かった」
 本当を云えば、男の話を最初に聞いた時から、結局はこうなるだろうなという予感はしていたのだ。
「引き受けた。早速、今夜にでもその寺に行ってみるよ。やる気は湧かないけど、暇潰しには餓えてるんだ。お化け屋敷に行く様なもんだと思えばどうって事ないでしょう」
「有難う御座います」
 佐馬介は初めて本当の笑みらしきものを見せた。笑うと人懐っこい感じなる。結構いい男じゃないかと妹紅は思った。
 その後、佐馬介を竹林の出口まで送って行き、自分の住処に帰った後、妹紅は独りで考えた。
 ――妖怪さえも近付かない聖域に、幽霊が。
 それは本当に――。
 幽霊なのだろうか――。
 そう云えば、佐馬介は『妖怪退治』でも『幽霊退治』でも無く、『お化け退治』だと云っていた。
 『お化け』というのは――何なのだろう。
 兎に角、行けば分かるだろう。
 行って、待っていれば、その正体は掴める。
 何の事は無い。
 一晩我慢すれば良いだけだ。
 
 
 佐馬介に教えられた通り、人里から数里離れた場所を目指して、ひとっ飛びする。
 下方に広がる景色は、里から離れる程に民家は疎らになり、山の辺りまで来ると、殆どが手付かずの自然ばかりになる。
 しかし、それでも田があり畑があり家があり、人の住んでいる気配がある。
 やがて一際大きな山が見えた。麓には杉林が、頂上に近付くほど枯れ樹が目立つ。恐らくは、桜の樹の山になっているのだろう。
 そして、麓からは冥界寺を思わす長く細い石階段が伸びており、その先には古色蒼然とした寺の本堂の屋根が見えた。
 妹紅は境内には降り立たず、直接、裏に広がる枯れ樹の森へと着地した。
 周囲を見回すと、成程、墓場らしく、卒塔婆や墓石がちらほらと見える。
 ――何だ。至って普通の場所じゃない。
 もっと変な――具体的にどうとかは考えていなかったが――場所だと思い込んでいたのに、妹紅は肩透かしを食らった様な気分になり、幾分か落胆した。
「こりゃあ楽勝だわ」
 しかし、陽も完全に落ちて、暫く経ってから、妹紅は早くも後悔する事になる。
 夕方から吹き始めた空っ風は、陽が落ちると冷たい夜風となり、妹紅の髪を撫で、頬を撫でて、服の隙間から入って来た。
 下に普段より余分に着込み、ストールを首に巻いて来たのだが、その程度では夜の山の寒さは防げそうにも無かった。
 火が欲しいと思うが、見張りをするという今夜の目的上、そういう目立つ様な真似は出来ない。
「――こ、これは失敗した――かも」
 寒さでかちかちと歯の根が震える。
 ただ一晩、うたた寝でもしながら、適当に見張っていれば事足りると高を括って、山の寒さというのを甘く見過ぎていた節がある。何だか、狭い自分の住処にある、ボロい煎餅蒲団がやけに恋しかった。見張りなんて切り上げて、もう住処にまで戻ってしまおうかと思ったが、いよいよ冷えて来ると、この場から動くのも億劫になって、結局、妹紅は老木の一本に背を預け、持参した毛布から頭だけ出して被り、只管ジッと寒さに耐え忍んでいた。
 この場合、凍死する事の無い体を持っている事は、本当に幸せな事なのだろうか、とふと思う。
 ――死んでしまえば、寒くは無い。寒いという事は生きている証拠だ。そして、生きている事を実感するのは、私にとっては大切な事だ。
 じわじわと寒さが染み込んで来る。
 ――嗚呼、生きている。
 しかし、妹紅が寒空の下で震えている今、きっと里の方には、温かい夕食を囲む家族や、仲睦まじく過ごす恋人達がいるに違いなく、それを考えると、今日も生きている己を慥かめる、健気な自分が惨めに思えて来る。
 妹紅はやるせなさを覚えつつ、鼻を啜り、白い息を吐くと、空を見上げた。
 月は墨色の雲に隠れていて、何処にも見えない。今何時なのかと月の位置を見れば、大体分かるのではないかという期待があっさりと外れ、妹紅は軽く舌打ちする。
 時間の感覚はとうの昔に狂っていた。凍える寒さが、そして変化の無い闇夜が、妹紅の感覚を曖昧にしていた。
 深い闇の中、眼を凝らせば、古い墓石、朽ち掛け卒塔婆――そして、ごつごつとした地肌を見せる裸の桜が薄ぼんやりと見えてくる。
 ――ホントに桜の樹ばかりだ。
 長い時間、ここにいて、ようやく妹紅にもこの山の異様さが理解出来て来た。
 例えば、桜。とてもこれが天然林だとは思えなかった。誰かが植樹したものなのだろう。しかも、樹齢から顧みるに十年二十年というスパンではあり得ない。百年か、もっと以前から植えられているに違いない。
 そして、墓標。最初、来た時は、随分と墓石が少ないもんだと思ったのだが、よく見るとそうではないのだ。よくよく周囲を観察してみると、地面のあちこちに苔生した石があちこちに転がっているのが見える。さらによく目を凝らすと、そこには文字が彫ってあったりするのだ。つまり、墓石が風化し、崩れて、自然へと還って行っているのだ。だとすれば、相当数の死人がこの墓場には眠っている事になる。案外、妹紅が腰を降ろしている、お尻の下にも埋まっていたりするかもしれない。
 卒塔婆も同様で、無造作に突き立てられたまま放置され続けたのか、書かれた文字が、風雨によって読めぬほど滲んでいるのはまだマシな方で、古いものは完全に朽ちて無くなっている。
 長い時間を掛け、この場所自体が朽ちて、少しずつ山に取り込まれていっている――そんな印象を妹紅は受けた。
 それは悪い感覚では無い。
 土に埋められた死者は、肉も骨も自然へと還り、この山と――この桜の森と一体になるのだ。その静謐さは、妹紅には羨ましくすらある。
 物音一つ無い、静かな夜だった。蟲の声も、夜鳥の声もせず――時折、吹く風が老木の枝を揺らす音だけがする。墓場というのだから、幽霊の一匹や二匹いるのかと想像していたが、佐馬介の言葉通りにそれすら姿は無い。
 全てが静止してしまったかの様な気配。
 ――死体。
 ふと思い出す。
 死体が里で消えたという事を。
 ――食べられてしまったのだろうか。
 死体を食べるという観念が妹紅の心の奥底に沁み渡り、闇の中で、記憶の沼底をゆっくりと攪拌する。
 ――人の死体を食べる――。
 浮かび上がって来た虚無感が、唐突に妹紅の古い記憶を呼び起こす。
 ――あれはもう何百年の前の事だ。
 前年の冷夏から続く、春夏の旱魃、秋冬の台風という異常気象に見舞われた年、都は空前の大飢饉に襲われた。
 先ず最初に、街から米が一粒も残らず消えた。次に、雑穀や雑草が姿を消し、更に――冗談の様の話だが――犬猫が街から姿を消した。そして、そういう何とか食べられそうな物も無くなった市井の人々は、水で空腹を紛らわせたが、その水も旱魃の所為で慢性的な不足という有様で、泥水を啜って何とか耐え凌ぐという始末だった。そういう不衛生な状態は、病を蔓延らせ、栄養不足も祟って、大勢の餓死者に加え、大勢の病死者も出た。
 そして、都は――この世の地獄になった。
 夫が、愛する妻に残り少ない食料を食べさせ、自分は食べずに先に餓死する。
 親が子を想い、子に食べ物を与えてやり、自分は食べられずに餓死をする。
 そして、残された妻は、子は、泣きながら途方に暮れ、自分の愛する肉親の死体を――都の外へ捨てに行く。
 死者をいつまでも家屋の中には置いておけないからだ。
 上野、北野、柴野、平野、萩野、内野、そして、蓮台野――。
 都の四方に広がる野原は、古来より葬地だった。飢饉の折、当然の様に、都を囲む埋葬地では、処理が追いつかずに死体で溢れ返った。更に飢饉が酷くなると、街の外まで死体を運ぶ事も儘ならぬ様になり、ついには路上に死体が捨て置かれるのが当たり前になってしまった。きっと人々の中で、死体は忌みモノだという感覚が狂ってしまったのだろう。非日常の世界に属する死体も、溢れかえれば、それは最早、日常の光景である。鞍馬や叡山では毎日の様に祈祷が繰り返されたりもしたが、状況は悪くなる一方で、信仰に対する不信もあり、ついに世の末が来たか、と盛んに囁かれた。
 そんな風に、人心は荒廃し、病鬼が跳梁跋扈し、仏も神も見えず、厭世感が漂う頃――。
 妹紅は都を出て、余所へと移ろうと、奥嵯峨の方面へと徒で移動していた。
 時は既に夕暮れ近く。左右が森に囲まれた狭い辻という事もあり、周囲は既に暗くなり始め、さらには薄ら寒さが、徐々に肌の内へと忍び込んで来ていた。自然と急ぎ足になるが、この所、まともな食事に有り付けていない為、空腹が酷く、足元が覚束無い。ふらふらと定まらぬ視線を前方に漂わせていると、体を折り畳んだ様にして、倒れている人間が眼に入って来た。妹紅はそれには気付かぬ振りをして、横を通り過ぎる。
 ――臭い。
 妹紅は頭の編み笠を深く被りなおし、服の袖で鼻を押さえ、黙々と歩く。死んでから随分と経ってはいる様だった。恐らくは、妹紅と同じ様に、都から出て行く途中で行き倒れた人間なのだろう。そういうのが、道中に点々と転がっている。都の中に充満した死が、此処まで伸びてきているのだ。
 そうして――暫く歩いた後、森を突きぬけ、唐突に視界の開けた場所に出た。
 陽が暮れる、その際。
 地平線に沈む太陽が、妹紅の眼前に広がる光景を、赤々と色鮮やかに照らし出した。
 それを見て、ああ、と妹紅は気の抜けた声を発した。
 人が――沢山、死んでいた。
 積み重ねられ、折り畳まれ、無数の死者が、其処に捨てられていた。
 被せられた茣蓙から、青く変色した足だけを突き出して死んでいるものもあれば、うつ伏せになって倒れたままの姿で、死んでいるのもある。
 男がいる。女もいる。子供も。老人も。中には、変な液体を沁み出させながら、ぐずぐずに崩れ、もう男なのか女なのか区別がつかないのもいる。
 蟲に集られているのもいる。遠めに見ていても、ぶんぶんと蠅の羽音が聞こえてきそうだった。
 鴉に啄まれているのは、既に柔らかい部分から食われ、骨まで見えている。
 そうやって、死者が汚臭と腐敗を撒き散らしながら、白く濁った眼玉で、空中を見詰めている姿は、虚無以外の何物でもなかった。
 遅まきながら、ようやく妹紅は自分が都から西へと抜ける途中で、道を誤ったのだと気付いた。何処かで辻を曲がり損ねたのかもしれない。
 ――此処は化野か。
 見知っている地理から想像し、妹紅はそう判断した。
 化野は、都の周辺に広がる埋葬地の一つだ。他の場所では、土葬にする事が殆どで、伝染病で亡くなった者のみを火葬にするのが通例である。ただ、化野だけは例外で、無縁仏が多く、まともに弔う者もいない所為か、風葬にされる。風葬と云えば、聞こえはいいが、早い話、死体を捨てて置く、という事である。今、都を襲う飢饉の余波を受けての事なのだろが、それにしても死体が多過ぎ、何より、此処には、死者を弔う丁重さや畏怖の念は微塵も無く、まるでモノを扱う様に、平然と死者が並べられている。
 ――余りに酷い。
 妹紅はそう思う。
 骨砕け筋破れ。
 色相変異し思量し難く。
 腐皮悉く解く青黛の貌。
 膿血忽ち流る爛壊の腸。
 眼の前に広がる虚ろな光景に、ごっそりと自分の中の何かが持って行かれる気がした。
 死臭が香り、眼に沁みる。
 心が――酷く虚しい。
 強い死の気配に、胸が押し潰されそうだった。
 眼の前で、沢山の鴉が死体に集り――人の形をしたものを、その長い嘴で啄んでいる。
 その黒々とした眼は、光を跳ね返さず、表情が読めない。まるで、妹紅の痛みや絶望さえ飲み込む虚空の様だった。
 何処を見ても死体死体死体の山――そして、人の死肉を貪る烏の群れ。
 何て圧倒的な虚無的な光景――。
 ふいに、眼玉を穿られて、舌をべろんと口より付き出したまま果てた男が妹紅に云った。
 なぁ君もこっちに来ないか。死んでしまえばもう痛くないよ――。
 臓物を食い尽くされ、落ち窪んだ腹で白いあばらを曝す女が云った。
 死ぬとこんなにも楽になるなんて、生きている内には思いもしなかったわ――。
 青白い顔に真っ青な死斑を浮かべた顔で子供が云った。
 もうお腹も空かないんだ。だから、ひもじい思いもしなくて済むよ――。
 妹紅の口元から乾いた笑いが零れ出る。
 ――生憎だけど私の体は死ねない様になっているんだ。あんた達とは一生お友達にはなれそうにないよ。
 おお、おお、それは可哀想に――。
 永遠に生きていくなんて、なんて辛い事なんだろう――。
 ――そう、なんて辛い。
 ――だけどそれでも私は――。
 
 
 酔った様に、ぐるりと世界が反転する。
 鼻孔に違和感を覚え、妹紅は覚醒した。
 色濃く残る、過去の記憶と入り混じった悪夢。
 死体、鴉、無力さ、虚無感――。
 一時的な精神的なショックから、妹紅は自分が一体何処にいるのか、何をしているのか認識できなかった。
 夜。森。墓。此処は――。
 ――そうだ、山の中で見張ってて。
「なんて夢を見てたんだ私はッ!」
 いつの間にやら、寝てしまっていたらしいと漸く気付き、己を叱咤する。
 どのくらい眠っていたかは判然としないが、夜の暗さから考えるに、夜明けまではまだまだありそうだった。
 寝入る前と変わらず、辺りは静かで、しんしんとしている。寒さも相変わらずだった。
 ただ、鼻から息を吸い込むと、微かだが、甘い――香りがする。
 ――何の匂いだ。
 御香の様にも思えるが、寺で使う様な香とはまた別のものだろうとしか妹紅には判別は出来ない。
 その発生源を求め、あちこちと眼で追うと、森の奥の方で、一瞬だけ揺れる淡い光が見えた。
 妹紅の心臓が跳ね上がる。
 里の中に出るという幽霊の噂――。
 その行き先は寺の裏山だという――。
 ――あの灯りが――そうかッ。
 被っていた毛布を跳ね除け、立ち上がると、すぐ様に光の方向へと走り出した。
 暗闇の中、立ちはだかる様に並ぶ桜の古木の、地面を這う根や、頭を刈り取ろうとする枝を掻い潜りながら駆ける格好になる。だが、住処の竹林と比べればまだ樹と樹の間隔が広い分、走り易いと妹紅は思った。しかし、慣れた竹林と勝手が違う点は、この山を妹紅が訪れるのは初めてであり、地理については殆ど分からないという事だった。
 全て同じに見える桜の樹。
 直進できない為、右に左へと迂回する度に、変わる景色。
 ――さっき見えた灯りは――何処だッ。
 ひゅっと息を吐き、足を止め、周囲を窺う。
 広がるぬばたまの闇――。
 月は陰り、灯りも無しでは足元すら覚束無い。正直、よくここまで扱けずに走って来られたものだ。
 ――見失った。
 いや、それどころか、ここが本当にあの光が見えた場所かすら判然としない。全くの見当違いの場所まで走って来たという可能性もある。
 ――火を使おうか。
 いや、とすぐに否定する。みすみす相手に自分の居場所を教える必要は無い。
 ――さっきの光は――。
 亡霊幽霊の類いではあり得ない。
 もっと身近で在り来たりな――恐らくは提灯か何かの手灯りだろう。
 だとしたら、その灯りを使っていたのは。
 ――人間かッ。
 妖怪ならば夜目が効くから灯りなど必要としないだろう。
 だったら、さっきの灯りの主は、妹紅と同じ人間という事になる。
 じわり、と背に冷たい汗が流れた。
 きっと里に毎夜毎夜現れる光は幽霊などでは無く、単に人間が提灯の灯りを片手にこの山を目指していたというだけの事なのだろう。それが、里での事件と重なり、怪談染みた噂へと発展しただけなのだろう。
 無論、それが『誰か』というのは妹紅の知る処ではない。
 一体何が目的なのか見当も付かなかったが、こんな時刻にこんな場所に繰り出す時点でまともな用事である筈は無い。
 妹紅は小さな溜息を吐くと、今度は慎重な足取りで歩き出した。
 相手が人間であれば、まだ遠くまで移動していないだろう。或いは、妹紅の接近に気付き、灯りを消して、その辺りに隠れている可能性もある。
 捕まえて、問い質す――。
 それが最善であり、その他に選択肢は無い、と妹紅は判断した。
 相も変わらず、いんいんと沈んだ闇が無間に広がっている。
 妹紅は冷たい夜気を吸い、足音を忍ばせて歩く。
 ――真逆、こんな場所でかくれんぼをする羽目になるとは思わなかった。
 先程の香りはすっかり拡散してしまったのか、土と森の香気以外には特別何も感じられなかった。
 と、不意に風が吹き、蕾だけを付けた枯れ枝が音を立てて揺れた。同時に、雲に切れ間が出来て、森の中をさっと月光が射した。
「あ――」
 森の中で、そこだけが円周状に拓けて、広場の様になっている場所があった。
 その円の中心に、一本だけ桜が立っている。
 周囲の樹より、一回り以上大きく、左右に大きく張り出した枝の所為で、両手を一杯に広げた人間にも見える。
 妹紅は不可解な物を見たという気がしたが、すぐに意識はその樹から離れて、先程の灯りの主に戻った。
 いつの間にか、雲は再び月に隠れ、森は暗闇の中に戻っている。
 ばさり――。
 妹紅が慎重な足取りで、広場を横切ろうとした時、その物音は背後から聞こえた。
 ばさり。
 ――羽根音?
 ばさり――。
 ――おかしい。何だか変だ。
 妹紅はゆっくりと後ろを振り返った。
 そして、羽根音の主の正体を、目視で確認し――瞬間、凍りついた。
「な――ッ」
 冴え渡る月光の下。
 その朧げな明かりに照らされて大きな一匹の鴉がいた。
 妹紅と眼があったそれは、暗闇の中でも目立つ真っ黒い、大きな羽を広げ、くわぁと鳴き声を上げる。
 さらに――。
 鴉の足元には人が倒れていた。
 否、倒れているというよりも――それは死んでいた。
 だから、人の死体があった、と云う方が正しいのかもしれない。
 妹紅の視線はその死体に強く引き付けられた。口元を押さえ、込み上げてくる酸っぱいものを我慢しながらも、視線を外す事が出来ない。
 死体は、既に腐りつつある様で、腐臭が濃い。また猛禽に蹂躙された所為で、顔の造作どころか、男か女かでさえ定かでは無い。
「なんで――ッ」
 そして気付けば死体は一つだけではなく、地面の陰影に紛れて、一つ二つ三つと死体が並んでいた。
 ふっ、と我知らず、口から乾いた笑いが零れた。
 不思議な事に、いつの間に現れたのだとか、どうやって出て来たのか、などと云う疑問は一切浮かば無い。
 ただ、妹紅はそれを見て――何もかもが虚しくなってしまった。化野で多数の死者を見た時と同じく。
 憂鬱で、死んでしまいたかった――。
 虚無感で、押し潰されそうだった――。
 妹紅は無意識の内にあとじさった。
 ――夢を――まだ夢を見ている?
 だとしたら何処からが夢なのか。
 墓場で見張りをしている途中で眠り扱けて、その続きを見ているのか。
 それとも墓場で見張りをしている、という状況そのものが夢だったのか。
 だとしたら夢は何処からが夢であったのか。
 妹紅の中で、現と夢の境界が激しく揺らいだ。
 さらにあとじさり、何かに蹴躓いて、尻から転んだ。
 妹紅が蹴躓いた『何か』は血塗れになってうつ伏せに倒れていた。
 男だった。
 男が死んでいた。
「――――っ」
 その顔を見て、妹紅は危うく悲鳴を上げそうになる。
 男は――。
 ――つ、つきのいはかさッ!
 忘れる訳がない。間違える筈も無い。調岩笠は千年以上前に妹紅が殺した男だ。
 その男が目の前に転がっているのは幻覚以外にあり得はしない。
 しかし、幻覚だ、幻覚に違いない、と理性を懸命に宥めながらも、眼の前の異常事態に対応する為に、体はどんどんと興奮物質を垂れ流し、逃げ出す為の準備をしている。妹紅の意思とは裏腹に、体は叫び声を上げたくて、さっきから引っ切り無しに肩を震わせている。
 相も変わらず、妹紅の中に恐怖は微塵も無かった。しかし、体の方はそうでは無かった。危機を感じ、本能による行動を取ろうとしている。怖いと云えばそれが怖かった。自分自身のコントロールが利かなくなるのが堪らなく怖かった。だから、必死に堪えた。ここで叫べば、間違いなく自分の中で箍が外れる。眼の前の異常を――自身の狂気を認める事になる。
 ――気を慥かに持たないとッ。
 眼を閉じて、視覚情報を遮る。
 次に、早鐘の様に打ち鳴る自分の鼓動に耳を傾け、息を整える事に集中する。
 唾を何度も飲み込み、幾らか気分を落ち着け、自分に云い聞かせる。
 何も無い――。
 全部幻で、眼を開いたら至って普通の夜の森の風景が広がっている筈だ。
 筈――。
 しかし――もし違ったら?
 本当に死体が転がっていたら?
 厭な予感を押し殺しながら、妹紅はゆっくりと眼を開き、周囲を見渡した。
 ――何も無い。
 立ち上がり、お尻に付いた泥を叩き落としながら、思わずほっと息を漏らす。
 しかし――。
「あれは――」
 ふと視界に入って来た。大きな桜の樹の下に人が立っているのを。
 遠目にも男と分かる。何だか時代錯誤な恰好をしている。
 その男に一度視線を向けると、今度こそそのまま動けなくなった。足は棒立ちになり、首も動かず、瞬きすら忘れて釘付けになった。
「どうして、こんな―――事が」
 頭の中が真っ白になり、ありえないと思いつつも、妹紅の理性は眼の前の事態を受け入れつつあった。
 何故なら、妹紅の見た狂気は、否定するには余りにも甘美で、そして惨過ぎた――。
 自然と足が男の方へと向かう。
 頭の中は陶然とし、胸の奥から愛しさが込み上げてくる。
 ――何を話せばいいのかな。
 近付きながら、ふと、そんな呑気な事を思う。
 ――と云うか、私の事まだ憶えてるのかな。
 あれから千年以上が過ぎ、妹紅は随分と変わってしまった。体も心も両方だ。
 ――でも私は忘れてなかったんだ。
 遠目から見てもすぐに分かった。
 どくどくと胸が高鳴るのを感じる。
 傍により、妹紅が微笑む。
「嗚呼――父様」
 男も振り向くと、優しく微笑んだ。
「行こうか」
 何処へ?と問う前に、妹紅は頷いていた。
「うん、行こう」
 男が手を伸ばす。
 妹紅はその手を取ろうとして、自分の手の中の違和感に気づいた。
 ぬるりと濡れている。
 真っ赤に染まっている。
 無意識の内にずっと強く強く握りしめていた所為で、いつの間にか爪が皮膚を破っていたのだ。
 その血を見た途端、急に傷が痛みと熱を持ち始めた。
 肉体の苦痛が否応無いリアリティーを思い出させる。
「――や、やだッ!!」
 妹紅は声を荒げて、無我夢中で眼の前の幻を掻き消すように手を振った。
 眼の前が暗くなる。


 妹紅は――。
 暗い森の中で、独りぽつねんと佇んでいた。
 最初見た時と変わらず、薄暗い月光の下、広場になった場所に大きな桜の樹が一本佇んでいるだけである。
 何処にも異常は見当たらない。
 異常なのは妹紅自身だった。
 息は上がり、びっしりと汗を掻いている。
 掌を見ると、既に治りかけていたが傷と、血に濡れた跡があった。
 恐らくは――、と妹紅は一瞬の内に事態を把握した。
 ――あの香だ。
 幻覚を何かを見せる香だったのだろう。そうでなければ説明が付かない。
 妹紅は怒りを込めた眼で周囲を見遣り、気配を探った。
 だから、がさがさ、と大きな音が頭の上から聞こえた時、妹紅は素早く飛び退ってその場から離れていた。
 風も無いのに、妹紅を嘲笑うかのように大きな桜の樹が揺れる。
 太く伸びた桜の枝――。
 そこにはいつの間にか、長く鋭い爪を突き立てて留る――怪鳥の姿があった。
 妹紅は唾を飲み込み、その異様と相対する、
 毒々しいまでの極彩色の羽根で彩られた二枚の翼。長く後ろに垂れている尾羽も同じ色をしている。
 細く長く、鱗に覆われた体は、まるで蛇の様である。
 そして――その頭部は、人の顔をしていた。
 白く、端正な美しい――女の顔。大きな黒眼と、朱でも引いたかのような紅い唇をしている。
 恐らくは、ずっと妹紅の様子を観察していたのだろう。
 妹紅の無様な姿を――。
 妹紅は怒りと共に樹上を睨みつける。
 樹の下から見上げる妹紅と、樹の上から見下げる怪鳥の視線が交差した。
「――お前の仕業なのか」
 妹紅は絞り出す様に問う。
 里で起きた事件も――。
 この巫戯蹴た幻覚も――。
 妹紅の問いに、女の顔をした怪鳥は首を傾げた。
 その仕草が――その表情が、妹紅の心の琴線に触れた。
「――私はお前を知っている」
 そうだ。怪鳥の顔には見覚えがある。
 誰だ。誰かに似ている。妹紅の知っている誰かに――。
 しかしすぐには思い出せない。
 唐突に。
「――いつまでいつまで」
 と、怪鳥が鳴いた。いや、鳴いたというよりは妹紅への問い掛けの様だった。
「いつまで?」
 怪鳥が翼を広げ、みしりと枝を揺らしながら、さっと空中へと身を投げ出す。
 そして、何度か妹紅の頭の上を旋回すると、去り際に悲しそうな笑みらしきものを浮かべ、暗い森の中へと消えて行った。
 視界から完全に消えるまでの間、毒気が抜かれた様になり、妹紅は一歩も動けなかった。
 闇の中に再び静けさが戻る。
 森の中に拓けた広場には、妹紅唯一人が取り残されていた。
 まるで夢の世界に迷い込んだ気分だった。深夜の山奥で人らしきものを見た事も。幻覚を見させられた事も。
 妹紅は広場の中心で、一本だけ聳え立つ、大きな桜へと近付き、見上げた。
 ――さっきの怪鳥は。
 あれも幻覚だったのだろうか。
 仮に実在の存在なのだとすれば、あれは妖怪の類に違いない。
 しかし、だとしたら灯りの正体は一体何だったのだろう。
 全くもって分からない――。
「本当に――これじゃまるでお化け屋敷だ」
 出て来たのは幽霊や妖怪の様な実態の在る脅威では無い。
 なのに、危険を感じさせるものばかりだった。それは丁度、擬似的な恐怖を体験する為に、作り物のお化けをありったけ詰め込んだお化け屋敷に似ている。
 お化け――。
 ――もしかしたら佐馬介さんはこの事を知っていたのかな。
 ほう、と妹紅は消沈した溜め息を吐く。
 ――さて、とりあえず慧音に相談しよう。それから――。
 パンッと妹紅は自分の頬を叩く。
「お化けの正体――絶対に見極めてやる」
 
*この作品に過激な京極成分が含まれています。蘊蓄アレルギーの方はご注意下さい。
*オリキャラとか出てます。
*長いのでお茶と茶菓子をご用意下さい。
*読書は一日二十四時間まで。

大凡の人、はじめまして&お久しぶりです。
注意書きとか先頭に書けよって事なんですが、さぁ読むぞー!って時にいきなり注意書きもあれなんでこの位置です。ゴメンナサイ。

東方で京極ミステリーをやったらどうなるかなーって感じの作品です。
一応、ミステリーなので犯人とか黒幕とか(密室もあるよ!)推理できるようにはしてあります。一応ですが。

というか世間じゃ桜の季節終わっててしょぼーんですよ。


追記。
誤字など直しておきました。
ご指摘ありがとうございます。
毛布の描写の矛盾とかは…自分でもありゃありゃー?
このヴォリュームだとやっぱり完璧とはいかないものですわー。
桐生
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コメント



0.820簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
な、長い……じっくり読ませていただきます。
誤字報告みたいなものをば。

>樹齢から顧みるに十年に十年というスパンではあり得ない。
「十年二十年」、かと思いました。
3.無評価名前が無い程度の能力削除
嗚呼、生きているに盛大に吹いた。
これがやりたかっただけちゃうんかと。

誤字脱字
奉公人を→奉公人が        井手達→出で立ち又はいでたち
本気なのだろう→句点抜け     厭気が覚え→厭気を覚え又は厭気が差し
そもそもあのこの寺山→あそこの  付き出したまま→突き出したまま

表記ぶれ
眼玉と目玉   枯れ木と枯れ樹
あえてなのかも知れませんが、近い場所にあるので少し引っかかります。
5.90名前が無い程度の能力削除
>そもそもあのこの寺山には幽霊なんて出ない
このは余計かと
6.無評価名前が無い程度の能力削除
>せめて毛布くらいは持ってきておくべきだっただろう
直後の「持参した毛布」、少し後の「被っていた毛布」と描写が矛盾しています。
16.100忍成隆裕削除
これはいい京極堂。
続きもじっくり読ませてもらいます。
24.100名前が無い程度の能力削除
いやいや、コイツは凄い作品ですわ
少なくともこの導入に関してはほぼ完璧な京極テイストで、しかも東方から剥離しないように上手い説明をつけて融和させている
続きも一気に読んじゃうぞー