Coolier - 新生・東方創想話

重創話

2009/04/10 17:14:49
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博麗霊夢  博麗神社の巫女。人間。他に、幻想郷における異変の解決を生業としている。妖怪と見るなり退治にかかることが多いため、彼女を恐れる妖怪は多い。空を飛ぶ程度の能力。


十六夜咲夜 悪魔の棲まう洋館、紅魔館のメイド長。当人は人間なのだが、常に妖怪の味方をする。謎が多い。時間を操る程度の能力。


八雲紫   古参の妖怪のひとり。神出鬼没で人情に欠ける。境界を操る程度の能力。


レミリア・スカーレット 紅い悪魔と呼ばれる童女のような吸血鬼。紅魔館の主。運命を操る程度の能力。


霧雨魔理沙 魔法使い。人間。霧雨魔法店経営者。異変の解決に一役買うことが多い。手癖が悪い。魔法を使う程度の能力。


パチュリー・ノーレッジ 紅魔館に棲む生粋の魔法使い。百年以上生き、そのほとんどを本を読むことに費やしてきた。紅魔館の頭脳と言って差し支えがない存在。一日の多くを図書館で過ごしている。人間に劣るほど身体が弱く、喘息持ちである。もっと外出するべきである。図書館から本を盗みだす霧雨魔理沙に頭を抱えることが多いが、そのときが一番生き生きとしているかもしれない。魔法を使う程度の能力。


紅美鈴   紅魔館の門番。妖怪。人当たりが良く、恐れられる紅魔館において、最も人間や妖精に親しまれている存在であると言える。氷精と一緒にいることが多い。気を使う程度の能力。


伊吹萃香  お祭り騒ぎの大好きな鬼。博麗神社にいることが多い。密度を操る程度の能力。


小悪魔   紅魔館の図書館で給仕をする力の弱い悪魔。名前はない。後先考えずに行動することがある。パチュリー・ノーレッジの下で働くことが多い。







   1


 賽銭箱の底を覗くと、十六夜咲夜が茶を入れていた。


   2


 咲夜は視線を感じて振り返った。

 厨房の入り口から博麗霊夢が不自然な格好でこちらを見ている。客人としてやってきたのか、はたまた侵入したのか、どちらなのかは判断がつかなかった。前者ならすぐに用を聞かねばならないし、後者ならば懲らしめてやらねばならない。だが、咲夜はその場を動くことができなかった。既視感――それも十二分(じゅうにぶん)に真実味を帯びた――にあったばかりの者のように、身体を硬直させていた。霊夢は厨房入口の右端から直角に顔を突き出している。その入り口の端と霊夢の頭の位置関係は、まっすぐに生えたキノコを宿している腐った大木を、大地に対して垂直に立て直したかのようである。目を見開き、口を大きく開けた、やや傾げ気味のその巫女の顔はどうにも間抜け面であった。だがあまりにも奇妙なその構図のせいで、くすりとも笑うことはできない。

 ややあって、咲夜は厨房を出た先にあるはずの廊下が妙に明るいことに気がついた。まるで、廊下が館の外に備え付けられたものであるかのようだった。

 咲夜は己の目を疑った。

 厨房入り口の向こうにあったはずの廊下が消え失せている。

 毎日ひとりで館の仕事をしているのに、館の構図を誤るはずはない。いままで一度足りとも間違えたことはない。さらに付け加えるのならば、厨房を出た先が廊下ではなく陽の光の照らす屋外など、この紅魔館においてはあってはならないことである。しかし入り口を出た先はどう見ても屋外であった。まるでリアリティのない様子であった。

 あれは、天井――神社の天井の裏?

 咲夜はようやく働き出した頭で、そう思った。まだ混乱していることは確かであった。厨房入り口の向こう、霊夢の頭の向こうに、ありもしない神社の天井の裏が見えているのだ。

 やがて厨房の入り口は蓋をされた。

 蓋?

 蓋だって? 厨房の入り口に、蓋? そんな馬鹿な。

 しかし、確かに咲夜は霊夢の手に持たれた蓋――並んだ木の枠でできた蓋。その枠越しに霊夢の手が見えた――を見たのである。

 厨房が蓋をされた。もちろん比喩などではない。言葉通りなのである。

 咲夜は現実味のない閉塞感を覚えると同時に、上下左右の平衡感覚が己の身体のうちで崩れてゆくのを感じた。

 真正面に厨房の入り口を見据えていたはずなのに、あの霊夢の顔は見上げる位置にあるかのように見えたからであった。

 身体の真正面にあるものを見上げる。そんなことはあり得ない。あっていいはずがない。


   3


 だが確かに咲夜は霊夢の顔を見上げていたし、霊夢は咲夜を見下ろしていた。同時に、咲夜は霊夢の顔を真正面にとらえてもいた。つまり咲夜の平衡感覚は崩れているようでいて、実質完全に機能していたといえる。

 方向感覚の狂いを感じたのはなにも咲夜だけではなかった。霊夢にしてもそうである。いや、方向感覚の狂いを感じたことなど霊夢にとってみれば二の次である。咲夜は霊夢の顔が厨房の入り口のおかしな位置にあったということに驚いていたが、霊夢にとってはそれどころではない。そんなことは些細なことだと言える。

 霊夢は、常に開いておくものだと教え込まれたかのように、ぽかんと口を開けたまま閉じようとしない。賽銭箱のなかを蓋越しにのぞき込む。だが、返しのせいで底を見ることはできない。当たり前だった。もしも返しがなく底が見えてしまったのならば、誰にでも賽銭の勘定ができてしまう。

 いや、でも……。

 霊夢は、そうすれば返しが透き通るとでもいうかのように、蓋のうえから目をこらして底を見ようとしていた。もちろん見えるはずはない。

 やがて諦めた霊夢は、両のこめかみを指で軽く揉んだ。

 そうだ、そんな馬鹿なことが起こるはずはない。



 つい先ほどのこと。

 霊夢は賽銭箱の蓋を開けた。賽銭が多少なりとも入っていないかという淡い期待、今日も入ってはいないだろう――このことに関してだけは諦観とした気持ち――、その相反する両者を同時に抱えたまま蓋を開けた。開ける直前、それと開けた瞬間までは、賽銭への期待と諦めといったふたつの思いしかなく、他のことはまったく頓着しなかった。つまり霊夢の頭のなかには「賽銭の有無」しかなく、他の知識に関しては、その一瞬限りはすべて抜け落ちていたのである。「賽銭があるか、ないか」それだけだった。湯気のたっていない茶を湯のみで出され、口を近づける瞬間に思う「熱いか、熱くないか」というのと似ている。そして、賽銭箱の底にあるべき「賽銭の有無」はどこにもなく、その代わりに十六夜咲夜がいたのである。しかも彼女は茶を入れていた。

 なんということか。賽銭箱には十六夜咲夜が住んでいる! いいや、賽銭箱の中身は紅魔館――咲夜がメイド長として働くあの紅き館――の厨房だった。

 そんな馬鹿な。

 そう、そんな馬鹿なことはない。あるいは馬鹿なことはあったのかもしれないが、それは一時の気迷いであったのだ。おそらく疲れているのだ。霊夢は認めたくないことを目にしたときの定石でまとめようとした。そう、わたしは疲れている。疲れているのならば、多くの見えないものを時として見てしまうし、聞こえないはずの音を聞いてしまう。疲れているのならば、仕方がない。

 ああそうか、幻覚を見たのだ。もしかすると、無意識にあのメイドの淹れた茶を飲みたいと思っていたのかもしれない。そのせいで幻覚を見たのだ。


   4


 異変を起こした犯人は八雲紫である。

 ここで犯人を提示してしまうのは如何なものかと、あるいは思われることであろう。だがここで犯人を提示したところで、これからの物語――物語といっていいものなのかどうかはわからないが、ともあれ異変だということには変わりはない――にはなんの影響もない。予備知識が備わるだけであり、物語は彫像のように微動だにしない。むしろ、話の途中で「おそらく犯人は彼奴であろう」といった推察をされる恐れがあるほうが、物語の進行上の妨げになるかもしれない。あるいはならないかもしれない。そもそも、犯人についてはすでにお気づきである方も多いことであろう。

 幻想郷には妖怪、妖精、人間、獣人、外来人、幽霊亡霊仙人神様エトセトラエトセトラと数多くの雑多な種類がない交ぜになって棲んでいる。それだけ多くの種がいるのだから、力の優劣ができてしまうのは当たり前のことである。考えてもみれば、少ない種でさえ、生物というものは力の優劣をつけたがるものだ。

 その力の優劣が幻想郷内で働き、仮に勢力図のピラミッドが作られているとする。すると頂点として挙げるべき存在が何人か、あるいは何匹か(数え方などすでにどうだっていいだろうと判断し、以後は「何人」とする)がいるのだが、そのうちのひとりが八雲紫そのひとである。八雲紫は幻想郷におけるキーマンであり、その重要性は先ほど登場した博麗神社の巫女である博麗霊夢に迫る。幻想郷に対する見方を変えれば、博麗霊夢よりも重要であるといえる。八雲紫がいなくては幻想郷は成り立たず、彼女がもし消えるとするとこの素敵な世界は崩壊するだろう。

 彼女の能力。

 境界を操る程度の能力。

 水面がなければ湖は存在せず、稜線がなければ山や空は存在しない。八雲紫はそういった境界を操るのだ。その能力は底が知れず、創造と破壊の能力でさえあり、いってしまえば神の能力に近い。その能力によって、彼女は空間の裂け目をつくり、別の場所へと移動することができる。物理的な場所だけでなく、絵のなかや夢のなか、物語のなかでさえ移動することができると言われているが、本当にそこまで出来るのかどうかは甚だ疑わしい。

 ともあれ、八雲紫はその能力を用いて博麗神社と紅魔館を繋げたのである。より詳しく記すのならば、博麗神社の賽銭箱と紅魔館の厨房、そのふたつの境界――賽銭箱の内側と厨房の出入り口――を操ったのである。従って、賽銭箱の内側には紅魔館の厨房が存在するように見え、厨房の出入り口より外には神社が見えるのであった。むろん、それらは内側と外側に見えているだけであり、そこに存在しているわけではない。賽銭箱も厨房も移動をしているわけではないのだ。もしも十六夜咲夜が厨房の窓から外を眺めたのならば、いつも通りの紅魔館の庭が見えたことだろう。しかし、境界それ自体は繋がっているため、もしも博麗霊夢がその気になって賽銭箱のなかに飛び込めば、紅魔館の厨房で十六夜咲夜の淹れた茶を飲むことができたであろう。そしてもちろん、今回の異変において八雲紫が操った境界はこれ限りではない。この悪趣味なアトラクションは他にもいくつか用意されている。

 さて、如何なる理由で八雲紫がこんなへんてこな境界を操ったのかと言えば、そこには紅魔館の主である紅い悪魔――十六夜咲夜の主――レミリア・スカーレット嬢が関係している。レミリア・スカーレット嬢が境界を操るようにと八雲紫を頼ったのだ。このレミリア・スカーレットという五〇〇年を生きる吸血鬼は、人間である十六夜咲夜には親睦を深めている同族がいないということを哀れに思い、このような仕掛けを考案したのだった。ここで説明しておかなければならないが、レミリア・スカーレット嬢は五〇〇年という歳月を生きてはいるが、未だに子供なのである。姿だけでなく、考え方まで子供なのである。つまり、このような仕掛けしか考えつかなかったのだった。曰く、何度も顔を合わせていれば親密になるはず。

 実行犯が八雲紫ならば主犯はレミリア・スカーレット嬢である。さらに付け加えるのならば、この幼い吸血鬼に心添えした者がいる。紅魔館に住まうパチュリー・ノーレッジ様と紅美鈴という者たちなのだが、このふたりがどういう理由で忠告をし、いったいどうやってレミリア嬢を言いくるめたのか――それらは話の進行には関係のないものであるため、これ以上の追記はしない。別の機会があれば記そうと思う。

 さて、ここまでこの異変の概要を説明してきたが、まだ異変の核心はついていない。

 今回の異変の核心。それはなにも、賽銭箱と厨房が繋がってしまったことではない。それだけならば些細な問題――賽銭を投入すれば厨房に金銭が落ちてくる――と言えよう。問題は、このようにして操られた境界が他にもいくつか存在し、挙句、その境界は移動をするのである。境界が移動するといったいどういったことが起こりえるのか。それは、後ほどの物語のなかでその現象が起こるはずなのでここでは省略をする。なぜ境界が移動するようになってしまったのか、それはレミリア嬢が八雲紫に境界を操らせた後になってから、このふたりが事もあろうに口喧嘩をしたせいであった。童女のような考え方のレミリア嬢が、いったいどうやって八雲紫を怒らせたのか、なぜ怒らせたのか……これも省略させていただく。これまでいったい何度この言葉を使ったかはわからないが、やはり言わせていただこう――この話の進行には関係がないからだ。

 怒った八雲紫は、腹いせと多少の好奇心から、境界を移動式のものにした。あの憎き幼い悪魔の頼みごとを破棄することは簡単だったが、そうすることでプライドは傷つくことだろう。だから、頼まれたことはきちんとやり通すことにした。サービス精神あふれる八雲紫は、レミリア嬢の願いに移動式という悪趣味な飾り付けをしたのであった。

 提供する情報は、今のところはここまででいいだろう。


   5


 十六夜咲夜はおそるおそる扉に近づいた。閉められた瞬間――いや、蓋をされた瞬間と言うべきだろうか――、向こう側から確かに木の枠でできた蓋が見えたのだが、いまでは今まで通りの紅魔館厨房のドアに戻っている。咲夜はノブに手を添えてゆっくりと回した。ドアはすぐに蓋へと変貌し、霊夢の顔がふたたび現れるのではないか、そんな思いが頭を過ぎり、咲夜はノブを回しただけでドアを押すことはできないでいた。

 だが躊躇ってはいられない。咲夜は、レミリア・スカーレットが厨房のドアを開け、本来その外にはあるまじき陽光を浴び、苦しむ姿を想像した。今この状況を冷静に判断できたならば、厨房の出入り口は賽銭箱となっているのだから、賽銭箱のなかにレミリアが入り込まない限りそんなことは起こりえない。だが、咲夜は動転している。あり得ない状況に気が気でなかった。意を決してドアを押した。

 ドアの向こうはいつもと変わらない、紅魔館の暗い廊下であった。


   6


 まだ朝である。一日は始まったばかりである。

 幻覚を見たのだと決めつけた霊夢は、賽銭箱から離れた。ひとまずはなにも見なかったということにした。そう、幻覚さえも見ていない。いやいや、本当は賽銭箱さえ開けていないのだ。そういうことにしておこう。

 気が立っていた。静めるために茶が飲みたかった。そういえば咲夜は茶を入れていたようだったが……。おっといけない、なにも見ていないのだった。

 霊夢は神社の裏手に回った。庭に入り、縁側から敷居を跨ぐつもりであった。だが庭に入った霊夢は硬直した。

「おーい、来てやったぜ」

 おりしも霊夢の古くからの友人である霧雨魔理沙が、箒に乗って霊夢の頭上から庭に降り立った。だが、硬直している霊夢は反応しない。

「どうしたんだ?」

 不信に思ったのだろう。茫然自失といっても過言ではない状態の霊夢を見た魔理沙は、そう問いかけた。だが、霊夢から視線を外し、縁側の敷居を跨いだ先にある居間のほうを見た魔理沙は、霊夢が呆然としている理由を理解した。

 居間がないのである。

 代わりに、魔理沙のよく知る場所があった。紅魔館の図書館だ。パチュリー様に言いつけられたのであろう、多くの本を運ぶ小悪魔の姿が見えた。

 魔理沙は居間があったはずの空間を指さし、鯉のように口をぱくぱくとさせた。

 頭痛のときにひとがそうするように、霊夢は顔をしかめて頭を抱えた。

 ここは幻想郷である。なにが起きてもおかしくない――霊夢はそう認めることにした。そこはさすがに博麗神社の巫女であった。


   7


 ここからが大変である。

 ありとあらゆる境界を通じ、博麗神社と紅魔館が繋がっていたのだった。しかも、ふたつの建物を繋ぐ境界は移動式である。あるときは箪笥の引出しと紅魔館の数少ない窓のひとつが通じ、あるときは鳥居とレミリア嬢の自室が通じ、あるときは和式便所と館の門が通じた。コーヒーカップのなかから現れた伊吹萃香が、コーヒーの熱にやられて火傷をしたこともあった。

 神社側としては霧雨魔理沙がその異変を面白がった。行きたいときに紅魔館へ行けて、好きなように図書館から本を盗みだせるのである。ただし、神社から紅魔館へ行ったとしても、図書館へたどり着くまえに他の境界を通じて神社へ逆戻りしてしまうことは多々あった。また、紅魔館側は館の主であるレミリア・スカーレット嬢そのひとが面白がってしまった。もともとは己の従者のためにしたことであったのに、その当人は迷惑を受けているにも関わらず計画者が遊んでしまっている。元も子もない。レミリア嬢が喜ぶ理由として、やはり外に出ずとも神社へ遊びにゆけることが大きい。レミリア嬢は博麗霊夢のことを慕っていた。だが、ときたま神社の境内のなかであっても屋外に出ることがあり、咲夜をハラハラと心配させた。レミリア嬢は吸血鬼であるが故に陽光を苦手としている。

 楽しむ者がいれば、苦痛に感じる者もいる。表裏一体、当たり前の話だ。特に、博麗霊夢と十六夜咲夜のふたりにとってはいい迷惑である。だが、それでも紅魔館は神社に比べるとまだマシなほうであった。敷地が広いのであまり大騒ぎにはならない。神社は大変である。紅魔館で雇われている妖精メイドがふらふらと迷い込んできては、家のなかを荒らしまわして帰ってゆく……そんなことはしょっちゅうである。信じられないことに、霊夢が居間で夕食を摂っているときにゴミ箱から霧雨魔理沙が本を抱えて現れ、続いて同じ場所から現れたパチュリー様から逃れるために箪笥の引出しに逃げ込んだこともあった。霧雨魔理沙は逃げる際、ついでだと言わんばかりに霊夢の夕食をつまみ食いしていった。こう見るとパチュリー様も被害者のひとりに見えたが、そんなことはない。魔理沙を追いかけているときのパチュリー様は生き生きとしているのだ。良いことである。運動不足の解消になってくれればいい。パチュリー様は閉じこもってばかりで身体を動かさない。もうすこし外に出てほしい。だいたい、喘息を恨んでいるくせに体力をつけようとしないとはいったいどういうことなのだ。

 話が反れたが、つまり、迷惑を受けているのは概ね霊夢と咲夜のふたりだけだと言って間違いはない。


   8


 博麗神社の居間。昼間であった。

 ふすまを閉め、窓を閉じ、周囲の戸という戸をすべて閉じ、ゴミ箱に蓋をし、当たり前の話だが箪笥の引出しをすべて閉めた。ありとあらゆる出入り口を締め切っていた。

「おそらく紫の仕業だと思うの」

 博麗霊夢はそう言った。ゴミ箱の蓋のうえに重石代わりの己の身体を乗せている。蓋をするだけでは向こう側から開けられてしまう可能性があるのだ。

「わたしもそう思っていたわ」

 十六夜咲夜はテーブルを前にして座り、霊夢に出された茶をすすった。すすった後で、すぐに湯のみを手でふさぐ。コーヒーカップから石が飛んできたことがあったので、湯のみから紅魔館の主が現れても何らおかしいことはない。そういうことを考慮してか、茶は冷めたものだった。

 霊夢と咲夜は迷惑を一方的に受けている身として落ち合っていた。隠れて合うのだというのに、時間が昼間だというのは幻想郷らしい。

 ここで、この異変の首謀者であるレミリア嬢の計画の第一歩は、こうなるであろうと図らずとも成功したと言える。だが、当の本人はそんなことなどすでに忘れているし、霊夢と咲夜のふたりが、さてこれから仲良くなるのかといえばそれはまだまだ計りかねる。

「こんなことが出来るのは紫くらいしかいないものね」

 霊夢は、己もまた冷めた茶の入った湯のみを手で蓋をしたまま、わざとらしく肩をすくめた。

 幻想郷を愛し、護る立場の者がどうして異変など起こしたのだろうか――咲夜は霊夢がそう感じているのだろうと、彼女の肩をすくめてみせる動作で悟った。同時に、これは幻想郷内の異変というよりも紅魔館と博麗神社のみに影響を与えるものであり、立場が違えば博麗の巫女が解決に足を向けるほどのものではないのだと考えた。なにより、異変が起これば言葉通り飛んでくる霧雨魔理沙が、解決するどころか異変それ自体を楽しんでしまっているのだ。

 しかし、このふたりにとってみれば、異変は異変である。解決すべき邪悪な相手なのである。

 十六夜咲夜も異変の解決に手を出したことがあった。だから、霊夢と手を組むことに抵抗はない。このときばかりは、妖怪よりも人間の味方をしてまず間違いはないだろう。

 ふたりは顔を近づけ、紫を懲らしめる策を練ることにした。》






   ※


 そこまで書いた小悪魔は、書面から顔をあげた。目をつむり、まぶたを揉む。それから首を回して緊張しきっていた筋をほぐした。

 自室にいる小悪魔は机のうえに書面を置き、椅子に座っている。

 今のところ話は順調に進んでいる。作ったプロットから幾度か脱線はしたものの、まだ軌道修正が効く範囲である。多少、省略してしまったり、私情を交えてしまっていたが、後ほど加筆や修正をすればいい。なんとなれば、まだ書き始めたばかりなのだ。

 小悪魔は、「八雲紫とレミリア・スカーレット嬢が起こす異変」という材料をもとにひとつに短い話を想像し、書きとめていた。八雲紫が博麗神社と紅魔館のいくつかの境界を操り、思ってもみないような場所と繋がってしまう、というところから始まる話だった。

 この話は、ここからが面白くなるところなのだ。小悪魔はアイディアをまとめたメモ帳を開いた。彼女は今日一日の仕事を終えたあと、以前まで書き続けていた話をエンディングまで書ききった。主人公はある程度の幸福を手に入れたし、小悪魔自身もある程度の幸福を手に入れた。それはとても素晴らしいことであった。そのあと、今まで練っていたプロットを記した書面を眺めているうちに新しいものを書き出したくなっていた。そして、つい書きはじめてしまった。それから、冒頭からここまでずっと書き通しできたため、一種の躁状態になっていた。今なら何日でも書き続けられるような気がした。

 小悪魔が供給となるならば、需要はいない。ただの趣味だ。図書館の隅に、こっそりと己の書いた小話をすべり込ませている程度である。むろん、魔理沙に盗まれたことは一度としてないし、パチュリー様に気付かれた様子もない。

 さて、これから八雲紫を懲らしめる場面である。これが楽しみだった。あの妖怪を懲らしめる手口はまだ考えていなかった。ここはあえて考えていないのだった。なぜならば、ストーリーを書いているうちにキャラクターたちが自然とアイディアを運んでくれるはずであり、前もって考えておくよりもキャラクターたちの行動に身を任せたほうが楽しいからである。

 小悪魔は一度伸びをした後で作業を再開した。


   ※







   9

 八雲紫はなかなか見つからなかった。そもそも、どこに棲んでいるのか不明な妖怪なのである。冬の季節が近いため、もしかすると冬眠に入っているかもしれない。そうなると厄介であった。

 だが霊夢と咲夜のふたりは、そんなことなど百も承知であった。ふたりは着々と準備をすすめた。》





   ※


 小悪魔は書いた。書いて、書いて、精根尽き果て、気付かぬうちに書面のうえに顔を伏せって眠ってしまうまで書き続けた。

 目が覚めたときには、己がいったいどこまで書いたのか把握できなかった。霊夢と咲夜が紫を追い詰めたところまで書いたような気がするのだけれど……。

 小悪魔は一度あくびをしてから、書面に目を通してみることにした。


   ※






《だった。霊夢は井戸のなか――いや、紅魔館の咲夜の自室というべきか――に身を投じた。瞬時に天地が90度ひっくり返った。井戸へと足から身を投じたはずなのに、咲夜の自室の床に腰と背中をしたたかにうった。この異変で初めて、霊夢は操られた境界をくぐった。瞬時に身体が別の場所へ行くなどという、とんでもない体験をしたのだがあまり感慨はなかった。

「さあ、はやく」

 咲夜がそう言い、霊夢に手を差し伸べた。

「ええ」

 霊夢はその手を取って立ち上がると奥歯を噛みしめた。

 まったく、とんでもないことをしてくれたものね、紫。

 部屋の入り口を開く。まだそこは、神社の居間であった。

「よかった、間に合った」

 ふたりは居間へと足を踏み出した。》






   ※


 霊夢と咲夜のふたりは紫を見つけ出すまでにいくつかの困難を乗り越え、ある程度の信頼を築きあげる。だが、ふたりは互いにその信頼をあくまでもクールに扱う。――途中でつい眠ってしまった小悪魔ははっきりと思いだすことはできないが、その行程を書くのはとても楽しかったという記憶があった。なんとなれば、その行程を書きたいがためのこの作品であったのだ。確かな信頼を築くが、他から見ればまるで赤の他人のふたりのよう。格好いいではないか。築き上げる前と、築き上げた後の会話や仕草の微妙な変化、心情の変化……それらを、あまり深くは書かずにそれでも読者にひしひしと伝えることができるような、そんな作品を目指した。問題はなにかといえば読者がいないことである。読者をちゃんと想定して書いたものの、誰かに読ませるつもりはないし、読ませたいとも思っていない。読ませたくないわけではないが、ただ書いているだけで楽しいのであった。

 八雲紫の能力からなる異変。それが話の題材に読まれがちであろうが、テーマではない。いわば、その能力――境界を操り、自由に破壊と創造をし、空間だけでなく物語にまで移動してしまう能力――は壮大な飾りであり、自由度の高い扱いやすい道具であった。この能力は作品を作るうえで非常に便利なため、それ故に今までは扱ってこなかったが、これからは利用させてもらうのがいいかもしれない。

 小悪魔は見直しの意味も含め、続きを読んでいた。あまり睡眠はとれておらず、ややもすれば仕事の時間となるのだが、それでも小悪魔は作業を中断しなかった。

 物語は作ったプロット通りに進んでいた。いま、まさに霊夢と咲夜のふたりがあらゆる困難を乗り越えて傷つきながらも八雲紫と対峙しているところであった。


   ※






《なのだが、仕置きをするにしても、最後にはやはり弾幕しかなかった。スペルカードを用い、相手に勝利する。それが幻想郷のルールであるのだ。だが、そのルールに則るにしても八雲紫の能力は非常に厄介である。攻勢に出るにしろ、守勢に出るにしろ、その能力ひとつでこちら側が不利になることはまず間違いがなかった。

 霊夢はちらと咲夜を見た。つかの間、咲夜と霊夢の目が合う。その間にいったいどれだけの情報交換および意思の疎通があったのかは誰にもわからない。本人同士でさえすべてを把握しきっているかどうか、傍から見れば疑わしい。なんとなれば、それはほんの些細な時間、一瞬の出来事であったからだ。

 やがて咲夜は頷き、微笑んだ。霊夢も微笑みを返した。ふたりで笑顔を見せあったのはそれが初めてのことであった。だが当人は気付きもしない。それくらい自然な笑みであった。

 その笑顔につられたのだろうか? 八雲紫までもが口の端をつりあげて笑みをつくった。薄らと開いた口のなかに純白の堅牢な歯と、ぬらぬらと艶めかしい舌が見えた。

 さあ、仕置きの時間だ。

 三人それぞれが、ほとんど同時にそう思った。》






   ※


 三人それぞれが、ほとんど同時にそう思った。

 この文は、小悪魔がプロットをつくる過程で、絶対に入れようと考えていた文章であった。もしかすると入れ忘れていたかもしれないと怪しんでいたが、ちゃんと入っていたようだった。それにしても、当初考えていたほどはこの言葉に効力がなさそうだった。いや、ほとんどないといってもいいようでさえある。あまり目立ちそうもない。残念だ。

 ここから、小悪魔の知能にあるSF的創造力が働く。八雲紫は境界を操り、幻想郷の外にあるという世界の物質を呼び出して主役のふたりを襲う。それは時に生々しくグロテスクであり、時におそろしく幾何学的な機械であった。

 ふたりは必死に紫と闘う。

 小悪魔はふたたび読み返しはじめた。


   ※






《 そして、ついに八雲紫の膝が折れた。

 紫の持つすべてのスペルカードを、霊夢と咲夜は見切ったのだ。紫が膝を地につけた途端に咲夜の姿が消えた。次の瞬間には自分たちを苦しめた相手の首筋にナイフの刃を当てた咲夜が、その相手の背後に立っていた。咲夜は時を止め――もはや体力の限界が近付いており、もう二度と止めることはできそうもない――て近づいていたのだった。

「逃がさないってわけね」

 紫は観念したかのような表情で苦しそうな笑みを浮かべ、そう言った。咲夜は答えない。

 霊夢は両手に札を構え、ふたりに近づくためにゆっくりと歩き始めた。咲夜が捕えているとはいえ、油断できない相手である。

「いったいどういう了見でこんなことをしたのかしら」

 霊夢はそう言った。

 今回起こった異変を改めて思い返す。神社と紅魔館の境界が操られてちょっとした賑やかな動乱となった――初めのうちは、ただそれだけのように見えた。だが違った。霊夢と咲夜のふたりが事件を慎重に調べていくうちに、神社と紅魔館の騒動によって隠されていた本当の異変が明かされていった。それは幻想郷の存在を危険に脅かすものだった。

「お嬢様は大変お怒りです」

 咲夜が言った。至極静かな物言いであったが、霊夢は咲夜の尋常ではない怒気を感じた。

 八雲紫は咲夜に顔を見せず、だが相手にも感じられるようにわざとらしい笑みをつくり、

「子どもは扱いやすいのよ」

 と言った。

 ゴッ――と硬質な物体が柔らかいものを砕くような音が響いた。

 咲夜が紫の後頭部をナイフの柄で殴り付けたのであった。

 紫は頭(こうべ)を垂れた。ややあって、額のあたりから頬にかけて赤々としたドス黒い血が流れ始めた。次いで前髪や、耳のあたりからも血が滴りはじめる。

 しばらくのあいだ、静寂が訪れた。が、やがて紫が顔をあげた。その表情はまるで能面のようであり、正面にいた霊夢には感情を読み取ることができなかった。

「まるで茶番ね」

 次の瞬間、八雲紫の姿がふッと消えた。

 霊夢と咲夜のふたりは、紫が空間の裂け目に飲み込まれる様子をしかと見た。だが、あまりの素早い行動にどうすることもできないでいた。

 紫はまんまと逃げおおせたのであった。》






   ※


 あれ?

 小悪魔は小首を傾げた。

 おかしい。なんで八雲紫が逃げたんだ?

 本来ならばここで事件の真相を明かすはずなのである。

 八雲紫の異変を起こした真意とは、哀切的であり、他にどうすることもできなかった……そのような話としてまとめ上げるはずだったのだ。読み手を感傷的にするようなものとするはずだったのである。

 話の流れとしても、ここで逃げるのはあまりに唐突すぎる。物事はきちんと順序立てて進めなければならない。

 なんで八雲紫は逃げだしたんだ? どうしてこんな風に書いてしまったんだ?

 小悪魔は続きを読み始めた。


   ※







   35

 ところ変わって紅魔館。図書館。

 ここで小悪魔という娘が登場する。ここでは初登場である。そう、ここでは。

 小悪魔は後先考えずに行動することが多いのだという。自分でそう書いているのだからきっと間違いないだろう。

 今回、彼女は確かに後先考えずに書いていた。書いて、書いて、書きまくっていた。背後に、頭から血を滴らせた妖怪がいることにも気付かずに書き続けていた。小悪魔の背後にいる妖怪は、つい先ほど、事件を解決しようとしていた正義感あふれる二人組から逃れてきたばかりであった。

 その妖怪の計画は失敗した。紅魔館に棲む幼い吸血鬼を利用した計画だった。どうしてその計画を実行したのか、当人はハッキリと覚えていない。だが、実行してしまったからには後には引けなかった。

 そう、計画は失敗した。

 だが修正することはできるのだ。》






   ※


「ひッ」

 小悪魔は書面から顔をそむけた。

 こんなことは書いていない。絶対に書いていない。書くつもりもなかった。自分自身を出そうなどと考えたことなどなかった!

 次いで、小悪魔は今気づいたかのように、ハッと後ろを振り返った。嫌な予感があった。嫌な想像をした。だが背後にはもちろん誰もいない。当たり前だ。そんな嫌な想像が起こり得るはずはないのだ。

 この「35」の話の内容通りに八雲紫が背後に立っているなどということはあり得るはずがない。

 そう、この八雲紫は物語のなかの人物なのだ。小悪魔自身が書いて生み出した人物だといって差し支えがない。しかも、それは空想上での話である。

 小悪魔は怖々と続きを読み始めたが、背後の床に血の跡がついているということなど、もちろん気づいてはいない。


   ※






《 だが修正することはできるのだ。

「ひッ」

 小悪魔は書面から顔をそむけた。

 こんなことは書いていない。絶対に書いていない。書くつもりもなかった。自分自身を出そうなどと考えたことなどなかった!

 次いで、小悪魔は今気づいたかのように、ハッと後ろを振り返った。嫌な予感があった。嫌な想像をした。だが背後にはもちろん誰もいない。当たり前だ。そんな嫌な想像が起こり得るはずはないのだ。

 この「35」の話の内容通りに八雲紫が背後に立っているなどということはあり得るはずがない。

 そう、この八雲紫は物語のなかの人物なのだ。小悪魔自身が書いて生み出した人物だといって差し支えがない。しかも、それは空想上での話である。

 小悪魔は怖々と続きを読み始めたが、背後の床に血の跡がついているということなど、もちろん気づいてはいない。》






   ※


「えっ、ちょっと」

 小悪魔の身体は凍りついた。己の先ほどの行動が、まるで文章に書かれていたかのように、今まさに書面に記されている。どうして現実の出来事がここに書かれているのか。

 背後の床を見たいと思った。座っていた椅子を引いて背後が見えるように体の向きを変えた。

 いや、やっぱり嫌だ。見たくない。

 もし書面通りならば床に……。床に血痕が。

 小悪魔の視線がゆっくりと下方へと落ちる。

 駄目、見てはいけない!

 だが視線は重力の影響を受けたかのように自然と落ちてゆく。

 いや! 見たくない!

 いやだ……。

 目を閉じた。必死の抵抗だった。

 やだ、やだ、やだ……。

 抵抗は無駄に終わった。小悪魔は眼を開いた。

 血痕はなかった。

 小悪魔は深呼吸をした。おおきく吐いた息が震えている。いつの間にかに身体が痙攣してしまったかのように、小刻みに震えていた。いったいいつから震えていたの? わからない。歯の根が合わずカチカチと音をたてた。図書館は静かだった。

 図書館?

 なんで図書館にいるの?

 小悪魔は悲鳴をあげた。

 自室にいるはずだった。自室で書いていたのだ!

 小悪魔は恐怖に泣いた。歯を鳴らしたまま、吐息を震わせ、鼻をすすった。両目から涙がとめどなく溢れた。怖くて怖くてたまらなかった。しばらくのあいだ、静寂な図書館のなかですすり泣く声だけが響き渡っていた。





 ひとしきり泣いてしまえば、ある程度は落ち着いた。考える余裕ができた。そうだ、血痕はなかった――もう一度確認する気はおきないが――のだ。書面に書かれていたことは確かに今の状況と似ているが、現実のものではないのだ。そう、似ているだけだ。

 血痕はなかった。血痕はなかった。なかったのだ。これは現実。物語は現実ではない。当たり前だ。血痕がついたのは物語のなかだ。現実とは違うのだ。

 小悪魔は続きを読むことにした。今は、他にどうすることもできない。


   ※






《 ひとしきり泣いてしまえば、ある程度は落ち着いた。考える余裕ができた。そうだ、血痕はなかった――もう一度確認する気はおきないが――のだ。書面に書かれていたことは確かに今の状況と似ているが、現実のものではないのだ。そう、似ているだけだ。

 血痕はなかった。当たり前だ。だが、それは本当に現実だろうか? 本当に血痕はなくなったのだろうか? そう、確かに血痕はなくなっている。だが、血痕はそれまで床にあったのだ。ならばどうしてなくなったのか。

 わたしが拭きとったからだ。

 背後で小悪魔をじっと眺めているあいだ、わたしは考えていた。これからどうするか。どういう行動をとるべきか。たしかに博麗霊夢と十六夜咲夜から逃げおおせることはできた。だが、ここにもそのふたりはいるし、もしかしたら別の存在が襲ってくるかもしれない。どうしてこんなことになってしまったのだろうか? わたしは幻想郷を誰よりも愛している。その自負がある。幻想郷を崩壊させようなどとそんな考えはもったことがないはずだった。だのに、異変を起こしてしまった。いや、起こすように命じられたと言うべきか。それもこれも、今目の前で眠りこけている、小悪魔という娘のせいだ。この娘がわたしを自由に動かし悪者に仕立て上げた。そして、危うく博麗霊夢と十六夜咲夜に退治されるところだった。

 わたしは小悪魔が目を覚ます前に己の怪我の止血をし、床に垂れた血を拭き取った。頭がまだずきずきと痛む。この痛みも、小悪魔が十六夜咲夜を動かしてつけた傷からくるものなのだ。

 小悪魔は不思議に思うだろう。どうしてわたしが自分の想像の物語から抜け出したのかと。その答えは簡単だ。小悪魔自身がそうさせたのだ。

 わたしの能力。境界を操る程度の能力。創造と破壊の能力であり、空間を移動する。そう、物語の移動も可能なのだ。

 小悪魔が自分自身でそう書いたのだ。

 さて、これからどうするか。

 じっとしているわけにはいかない。この館には幾人もの妖怪が棲んでいるし、十六夜咲夜もいる。だが館の外も安全ではない。博麗霊夢がいる。そして、この世界の八雲紫もいるはずだ。逃げなくてはならない。この幻想郷の外の世界へ。






Fin




  》







 そこまで書いた小悪魔は、うーんと唸って伸びをした。次いで肩を揉むと、自然とあくびが出た。

 自分自身を作品に出してしまった。

 もちろんはじめから出すつもりであった。だが、自分を出すというのはどうにも抵抗があった。美化したくはないし、あまり格好悪いのも書きたくない。だからなるべく本物の自分らしい「小悪魔」を出した。

 小悪魔は「小悪魔が『八雲紫が異変を起こす』という作品を創作するが、その作中から八雲紫が移動してきてしまう」という話を書いていた。創作することにあまり気のすすまない作品ではあった。自分自身を登場させなければならないし、登場人物が多い――そのために人物紹介などというスペースを作り、パチュリー・ノーレッジの項目だけ詳しく記すなど嫌らしいこともした――し、わざと作中に簡単な私情を挟んだりしたし、なによりややこしい。

 この作品は「八雲紫が異変を起こす」というパートと、「物語中の八雲紫が出現する」というパートに分かれている。設定付けをした八雲紫の能力は「物語を移動する」であるため、「物語中の八雲紫が出現する」というパートも現実ではなく物語であると示唆する必然性があった。そのための情報をどこかに提示しようかと小悪魔は考えてはいたが、そうすることでこの作品がひどくチープになってしまうような気がしていた。だから敢えて極端なことは書かなかったのだが、問題はなかっただろうか? そのことが書き終えた後での一番の不安の種であった。

 いろいろと後腐れはあったが、これくらいの長さとアイディアならば長編になるはずもなく、ただの短編であるため加筆・修正は楽にできるはずだ。だが、今は書き通しできたため精根尽き果てている。また今度にしよう。

 小悪魔は図書館で作品を書いていた。

 そういえば作中では、いつの間にかに自室から図書館へと移動させられていたんだっけ。

 そんなことをふと思う。そのとき、なにかが気にかかった。だが、その正体を掴めない。

 小悪魔は小首を傾げ、本棚へ向かった。本棚のうち、最も目立たない場所に小悪魔が創作した作品が並んでいる。そのうちの一番端に今書いたばかりの作品を追加した。が、慌てて並べたばかりの作品を手にとった。気にかかったことの正体がわかったのだ。小悪魔は急いで項をめくった。

 なぜ、物語中の小悪魔は自室から図書館へ移動したのか?

 自分で書いたはずなのに、わけがわからなかった。

 移動させる理由がない。移動させて、いったいどうするつもりだったのだろう? なにより、移動させる予定はなかったはずだ。

 つかの間、小悪魔の頭をある想像が過ぎった。

 いや、そんな馬鹿なことがあるわけない。

 小悪魔はその想像を否定しようとした。そうだ、そんなことが起こるわけはない。なんとなれば、ここは現実なのだ。物語ではない。

 そのとき、悲鳴があがった。

 聞いたことのある声であった。

 小悪魔は何の疑いも持たずにその悲鳴の主を心配して飛び出した。

 いったいいつからそこにいたのだろうか。悲鳴をあげた人物は小悪魔に背中を向けた姿で、机を前に椅子に座っている。悲鳴はすでにおさまっており、今では背中を丸めて泣いているようであった。手に何か書類のようなものが握られているのだが、それがいったいなんであるかはわからない。

 小悪魔は目を疑った。

 悲鳴をあげた人物のその姿は、小悪魔であった。

 むろん、それは本棚のほうから飛び出した小悪魔ではない。悲鳴をあげたのは、椅子に座ってすすり泣く人物であった。その姿も小悪魔なのである。

 まさかこれは。いや、そんな馬鹿な……。

 小悪魔――飛び出してきたばかりの小悪魔――は一歩、二歩と後方へさがった。先ほど否定しようとしたばかりの嫌な想像が、いま一度頭のなかで蘇った。

 いやだ、そんなこと認めたくない!

 小悪魔はパニックを起こしかけた。目の前ですすり泣く自分と瓜二つの人物と同じように、泣いてしまいたくなった。ぺたりと床にしゃがみ込んで時間が立つまでずっと泣いていたらどんなにか楽になるだろう。だが、そうしたところで事態は良くなるわけがない。悪くなる一方に決まっていた。なんとなれば、もし想像した通りの事態が起こっているとするなら、目の前で泣く人物は強制的に連れてこられたのであり――きっと、彼女は背後を振り返ったばかりなのだ。そして自分が移動した覚えのない図書館にいることに気付き、それで悲鳴をあげたのだ――、次に身の危険を案ずるべき者は他ならぬ自分であった。

 小悪魔は創作した物語から現れたもうひとりの自分から目を離さないまま、ドアのほうへと後ずさる。もうひとりの自分のすすり泣く声が、静かな図書館に響き渡る。小悪魔は音を立てないように気を配った。もしもうひとりの自分に見つかったら、どうなってしまうかわからない。まして、彼女を連れてきた張本人に見つかることが最も避けたいことであった。

 なかなかドアに辿り着くことができない。小悪魔は焦れそうになった。が、やがて、とん、と背中が図書館の硬質なドアに当たった。小悪魔は神の助けを得たとばかりにサッと身をひるがえし、ドアを開けて図書館の外へ飛び出した。






 飛び出した先は博麗神社であった。

 博麗の巫女が目を丸くしている。

 周りを見渡した小悪魔は己が賽銭箱から出てきたのだと知った。どうしてすぐにそれを知ることができたのか。……わたしが一度作り上げたからだ。

 やっぱり、予想――嫌な想像――は当たっていたのだ。

 わたしも物語の一部だったのだ!

 博麗霊夢の横手に八雲紫が現れた。彼女は後頭部を片手で抑えたまま、ニヤニヤと邪悪な笑みを浮かべていた。

 現実はいったいどこにあるの?

 小悪魔は目の前の妖怪にそう問いかけようとした。だが紫が先に口を開いた。

「霊夢。異変が始まったわ。解決なさい」

 八雲紫はそう言った。






  》




あとがきに代えて。

 たくさんのご感想ありがとうございます。
 拙い文章であったとは思いますが、最後まで読んでいただいてありがとうございました。
 どこまでが物語なのかは皆様のご判断・ご想像にお任せしたいと思っております。個人的には「ゆかりんに殴られるところまでが幻視」が思わず笑ってしまいましたので、推したいです。
 また、誤字の修正もさせていただきました。ご報告ありがとうございます。
くつした
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コメント



0.2220簡易評価
2.90煉獄削除
ちょっと怖いよ………。
前半、咲夜さんと霊夢が異変解決に乗り出したり実は小悪魔が
物語を書いていたというのは凄く面白かったのですが
その後が凄いことに…。
この『話』もまた誰かに書かれたものなのでしょうか?
面白いお話でした。

脱字の報告
>時におそろしく幾何学的な機械あった。
『機械であった。』ではないでしょうか。
6.100名前が無い程度の能力削除
かっこいい紫様が見れてよかった。
7.90名前が無い程度の能力削除
何かこんがらがってきた…
どの部分が現実で、どの部分が物語なのか…
12.100名前が無い程度の能力削除
くつしたさんがゆかりんに殴られるところまで幻視
15.100名前が無い程度の能力削除
ちゃんと付いて行けたとしたら、紫に異変を起こさせた原因である「現実」の小悪魔を「物語」の中に引きずり込んで、「物語の中の物語」の中の霊夢に退治させた…これが紫の言う修正ということでOK?
【[(物語)物語]現実】

「物語の中の物語」から「物語」に出てきた紫
「物語」から「現実」へ出された小悪魔
「現実」から「物語の中の物語」に引きずり込められた小悪魔

物語と現実の境界を曖昧にする文章ですごいやゆかりん!
16.90名前が無い程度の能力削除
一気に読ませる魅力がありました。
20.100名前が無い程度の能力削除
おもしろいっす
21.100名前が無い程度の能力削除
途中からリアルポルナレフ状態に陥りました。
面白かったです。
24.80名前が無い程度の能力削除
なんとなく合わせ鏡を想像してしまったり
25.90フクロウ削除
気になって全部読んでしまいました。
とても面白かったです。
ただもうどっからどこが現実は分からなくなりましたが、多分それが狙いでうしょね。
まんまと引っ掛かってます。
30.100名前が無い程度の能力削除
おお、怖い怖い
小悪魔がもっと邪悪な紫を書こうとしなくてよかった
33.100SNK削除
読者をも曖昧にするとはさすが紫。
34.80名前が無い程度の能力削除
小悪魔さん地の文はもっと簡潔にしたほうが読みやすいっスよ。
37.100#15削除
ジャンル的にはホラー?

非常によく出来たストーリーでしたが、好みが分かれるかもしれませんね。
私は好きですが。
39.100名前が無い程度の能力削除
どこまでが現実でどこからが物語なのかわからなくなってくる。
46.100名前が無い程度の能力削除
思わず引き込まれてしまいました
48.100名前が無い程度の能力削除
すごいのひとこと
57.100 削除
これは・・・この作品は、凄い。凄いとしか言いようがない。あっという間に飲み込まれてしまった。こんな凄い作品を創造できるなんて、あんたいったい何者なんだ?
60.100名前が無い程度の能力削除
すげえな、タイトルがまた良い。