Coolier - 新生・東方創想話

十六夜咲夜の瀟洒なロスタイム

2009/02/25 17:53:25
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リリーホワイトが今か今かと春の訪れを待ち侘びる季節、幻想郷の二月。
その寒空の下を冷たい空気も気にせずしとやかに闊歩する女性がいた。
それは紅魔が誇るメイドの長、十六夜 咲夜その人である。
咲夜は片手に今日の朝食を入れたバスケットを持ち、時間を止めて紅魔館の中から門へと向かっていた。
別段急いでいるわけではないのだが、時間を止めると風が吹かないので寒い季節にはなかなか便利なのだ。

「……はぁ」

そして時間を止めた空間で、咲夜は誰にも聞こえない溜め息をついた。
その目と鼻の先には、うつらうつらと立ったまま器用に船を漕ぐ門番の姿がある。

「職務怠慢ここに極まれり、ね。まあ、少しくらいは猶予をあげようかしら」

咲夜は自分の世界の中でそう独りごちて、頭上に向けて一本のナイフを投げ放った。
続けて咲夜が指をパチンと鳴らすと、解放された時間とともに銀の刃が高々と空に舞い上がる。
やがてナイフは重力に従い、相変わらずうとうととしたままの美鈴に研ぎ澄まされた刃先が迫り――

「いたあああああい!!!!」
「おはよう、美鈴」

まるで地底から湧き出る間欠泉のごとく、美鈴の頭からどぴゅーと血が噴き出た。

「痛たたたた! い、いきなりななな何をするんですか咲夜さん!」
「駄目じゃないの美鈴。熟睡するのは貴女の勝手だけど、危険が迫ったらちゃんと目を覚まさなくちゃ」
「じゅ、熟睡って……私、たった今ちょっとまどろんだだけというか……昨日から夜勤で全然寝てないというか……」
「あら、昨日の夕方から少し休憩時間をあげてたはずだけど?」
「きゅ、休憩って言っても2時間かそこらだったじゃないですか。
 しかもそのうち一時間以上は妹様の遊び相手をさせられてたんですよ……これじゃ休むどころか疲れる一方ですよ」
「言い訳なんて聞きたくないわ。口答えをする暇があったら、もっとしっかり門を守りなさい」
「そ、そんなぁ……最近毎日こんな調子だから体がボロボロなんですよ……!
 そんなことより咲夜さん……早くこのナイフを……抜いて……」
「じゃあ美鈴、今日も一日お勤め頑張るのよ」

不自然なほどに優しい笑顔を美鈴に見せ、咲夜はそのまま館内に向けて踵を返した。
その背後で懇願虚しく放置された美鈴がばったりと倒れ込む。
咲夜はそこでようやく美鈴の頭からナイフを抜いてやり、倒れ込んだままの美鈴をしばらく見つめて、
どうせすぐに復活するだろう、とやっぱりそのまま館内へと戻っていった。







そんな日常のやり取りからしばらくして。
時間を止めて館内の清掃を行っていた咲夜は、窓の外にいる不審な人物に気がついた。

「(誰よ、あいつ……)」

フリルまみれの赤っぽい衣装に緑色の髪。
見たこともない謎の少女が中庭の辺りに浮かんでいる。
時間を止められる咲夜にとって侵入者の排除は造作もないことだったが、レミリアやパチュリーの知り合いでないとは限らない。
一応声を掛けてみようかと、咲夜は時間を解放し、くるくると回っている謎の少女に接近した。

「ちょっとあなた……こんな所で何してるのよ」
「あっ、見つけた!」
「……はい?」

相変わらずくるくると回ったままで、その少女は歓喜の声をあげた。
……というか、それは探してるつもりだったのか。

「いけない、自己紹介が遅れちゃったわ。
 私は厄神の鍵山 雛。あなたに厄を持ってきました」

ようやく規則正しい横回転を止め、雛と名乗った少女は白い歯を見せつつにっこりと笑ってみせた。
しかしそれとは対照的に、咲夜の眉間にはしわが寄っていた。

「(どこから突っ込めばいいのかしら……)」

この雛という少女は、どうやら自分の客だったらしい。
いつからここにいて、その目的は何なのか。
それに『厄を持ってきた』とはどういうことか?
咲夜の頭にはいくつも疑問が浮かび上がったが、考えていても始まらない。
とにかく一つずつ疑問を解決することにした。

「あなた、どうやってここまで入ってきたの? うちには門番がいるはずなんだけど……」
「あら、ちゃんと頭を下げたら通してくれましたよ?」

小首を傾げる雛を見て、咲夜は心の中で舌打ちをした。

「(あの役立たず……)」

怪しい奴をそんなに簡単に通してどうする。
ただでさえ侵入者の排除がおろそかなのに、見たこともない人物をほいほい通していては門番の意味がないではないか。
――後でお仕置きね。
無意識にそんなことを考えていた咲夜は、雛がじいっと自分の顔を見つめていることに気が付いた。

「あなた、今……何を考えてましたか?」
「……別に」

まるでいつかの女優のような台詞で、咲夜はぷいとそっぽを向いた。
しかし、雛はさらに深く追及してくる。

「隠してもムダです。
 今、あなたが厄を振り撒こうとしたこと……私にはお見通しよ!」

びしっ!!と人差し指を突き立てながら、雛が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
その額に、さっくりとナイフが生えた。

「い、痛いじゃない! いきなり何するのよっ!」
「いや、なんとなく……」
「なんとなくで人に向かって刃物を投げ付けるなんて……! さすが厄ピラミッドの頂点に立つ人間は違うわ」
「厄ピラミッド?」

聞き慣れない単語を耳にして、咲夜の片眉がつりあがる。

「あなたは食物連鎖のピラミッドを見たことがあるかしら?
 消費者・生産者・分解者の三項目で構成されている、自然界の厳しい掟……
 それと同じように、幻想郷の中にも厄の勢力図があるの。
 厄を被る者、厄を与えるもの、そしてその間に位置する者。
 それを表したのが『厄ピラミッド』よ!」

雛は「どうだ!」とばかりに胸を張ってみせた。
しかし頭にナイフを生やした神様に言われても、はっきり言って何の威厳も説得力もない。

「……なんか胡散臭いわねぇ」
「あら、信じられないっていうの? 仕方ないわね……あなたには特別に見せてあげる。
 幻想郷のトップシークレットをね……!」
「……!?」

ふわりと地面に着地して、雛はきょろきょろと辺りを見渡した。
そしてやや広い砂地を見つけると、適当に落ちていた棒を拾い上げ、そこにがりがりと何かを描き始める。

「(これは……)」

地面に何か模様のようなものを描く雛を見て、咲夜はパチュリーの実験に付き合ったときのことを思い出した。
何かを召喚するときにパチュリーが好んで使う模様。
それは、六芒星の魔法陣。
その描き出しに形が似ているのだ。

最初に大きな円を描いて、それから三角形を一つ描いて、
三角形の中に線を2本引いて、その線の間に文字を書き込んで……?

「……何してるのよ」
「あ、今みんなの名前を書いてるからちょっと待ってね」

額のナイフが双子になった。

「ひ、ひどい! もう少しで書き終わるんだから、それくらい待ちなさいよ!」
「いや、もういいわよ……
 まさか直接地面に書くとは思わなかったわ」

どうやらコイツはかなり頭が弱いらしい。
氷精や夜雀を彷彿とさせる行動を見て、咲夜はそう判断した。
そうと決まれば、これ以上付き合ってやる道理はない。

「一瞬でも期待した私が馬鹿だったわ……
 悪いけど、私はあなたの妄想に付き合ってるほどヒマじゃないの。
 遊び相手が欲しいんなら他を当たってくれるかしら?」
「うぅ、だから違うって言ってるのに……私はあなたにコレを届けに来たの!」

呆れ返った表情を見せる咲夜の目の前に、雛は何か黒い玉のようなものを取り出した。
両手に乗せられているそれは大きなボールのようだったが、よく見るとわずかに揺らめいていることがわかる。

「何? それ」
「これは『厄玉』という厄の光の塊よ。これにはいろんな人妖の厄が詰まってるの」
「人妖……? いつから八百万の神は妖怪の味方になったのよ」
「以前は人間だけの厄を集めてたんだけど、この間博麗の巫女に会ってから考えが変わったの。
 どうも苦しんでるのは人間だけじゃないみたいだからね、試験的に不幸な妖怪の厄も集めてみたのよ」
「……まぁ、一理あるわね」

確かに霊夢を見れば、人間が妖怪を尻に敷いているようにも見えなくはない。

「それで、なんで私がそれを貰わなきゃいけないわけ?」
「さっきも言ったけど、あなたは『厄ピラミッド』の頂点にいるの。
 つまり振り撒く厄の量が被る厄の量よりも遥かに多い、ということよ。
 そしてあなたみたいな人がいる限り、幻想郷における厄の格差社会は決してなくならないわ。
 それで、厄を受けた者たちがどんな思いをしてるのかをあなたに体験してもらおう、ってわけ。
 十六夜咲夜と博麗霊夢。あなたたち二人はもう少し、他人の痛みを知るべきよ」
「……余計なお世話よ」

雛の口から魔理沙の名前が出なかったことに咲夜は一瞬疑問を覚えたが、
その代わりに霊夢が自分と同列に並んでいることを知ってすぐに納得した。
成る程この厄神の査定は丸っきりデタラメでもないらしい。

「厄の格差、ねぇ……。私としてはそれなりに一生懸命働いてるつもりだけど」
「それじゃ、仕事が辛いと思ったことは?」
「無いわね。ただの一度も」
「ほら見なさい。そういうのは厄を被ってるとは言わないのよ。
 例えばメイドのお仕事だって、喜んでやる人もいればイヤイヤやる人もいる。
 ただ仕事をしてるだけでは厄を受けてるとは言えないわ」

先ほどまでとは打って変わって真剣な表情で説明を続ける雛。
しかし咲夜は意に介さない様子で、やれやれとため息をついた。

「全く、馬鹿らしい……」
「何ですって?」
「厄を受けるだかなんだか知らないけど、元はといえばそういう連中に力が無いのが問題なんじゃない。
 それなのに何で私が人の分まで不幸にならなきゃいけないのよ。
 苦しんでる連中はいつまでも苦しんでれば――」
「いい加減にしなさいッ!!」
「!?」

突然、雛が怒声をあげた。

「あなたは優遇されてる自分たちの幸せをわかってないのよ!
 そう……持たざるものはいつだって権力者に迫害されるの。やり場のない悲しみ、怒り、そして苦しみ……
 それらを全て背負い込んで、それでも毎日を一生懸命生きてるの!
 だというのに、あなたは軽々しく苦しめばいいだなんて言って……!
 外の世界にはリアル大貧民で苦しんでるプロ野球チームもあるのよッ!!!」
「お、落ち着きなさいよ」

熱弁をふるう雛の様子には鬼気迫るものがあり、流石の咲夜も気圧された。
そんな様子を見て満足したのか、雛は改めて黒い球を見せ付けるように持ち出した。

「ふふん、少しは私の言いたいことがわかったみたいね。
 どう? 大人しく厄を受ける気になった?」
「あー、はいはい。わかったから早くやって頂戴」

咲夜は投げやりにそう言って、わざとらしく降伏のポーズをつくってみせた。
訳の分からない理論に従うのは釈だが、時間を無駄にするのはさらに都合が悪い。
雛は観念した様子の咲夜を見て、両手に乗せた厄玉を捧げるようにして掲げてみせた。

「それじゃ、今からこの厄玉をあなたにぶつけます。
 日頃の行いを悔いるといいわ、十六夜 咲夜!」

咲夜の名前が呼ばれると同時に、黒い玉が高々と空中に舞い上がる。
黒い光の残像を残しながら、空中を縦横無尽に駆け巡る厄玉。
ひとしきり辺りを旋回したところでようやくその動きを止めると、暗い光の帯が咲夜めがけて急降下してくる。
そしてそれは、全く恐れる様子もない咲夜の額に接近し――

「痛っ!」

ご~ん、と頭にぶつかった。

「よし、これで『契厄』はおしまいよ」
「な、なんで光のくせに固体なのよ……」

まさか物理ダメージがあるとは思わず、咲夜はしゃがみ込んで頭を抱えた。
だが微かに聞こえた主人の声に、咲夜はすぐにぴんと背筋を伸ばした。

「……お嬢様が呼んでるみたいね。それじゃ、私は急ぐから」

そして雛の返事を待たないまま、咲夜は即座に時間を止めた。

「全く、時間の無駄だったわ」

少しだけ痛む額に手の甲をやりながら、咲夜は気だるそうに主人の元へと歩みを進め始めた。
いくら咲夜の時間が無限とはいえ、時間が有限である人物に付き合うのには少なからず時間がかかるのだ。
ましてやそれが頭の弱いいわゆる⑨と呼ばれる部類の相手だと、さらに時間をロスすることになる。
最初に姿を見たときに排除しとけばよかったか、と咲夜は考え――

「ふぅん、あなた随分余裕があるのね?」
「!?」
「急がなくちゃいけないとか言ってたくせに。変なの」

当たり前のように声を掛けてくる雛を目の当たりにして、驚愕に目を見開いた。

「あ、あなた……どうして動いてるのよ!?」
「え? え? そ、そんなこと聞かれても……生きるため?」

あらゆる意味で見当違いな答えを返す雛。
しかし周りをよく見てみれば、風に揺れる花たちも忙しなく飛び交う小鳥の群れも、何もかもが動いている。
咲夜はそこでやっと、危機的状況に気がついた。

――時間が止まっていない!

「あらあら、早速厄が降りかかったみたいね」
「ちょ、ちょっと、冗談じゃないわよ!」
「ごめんなさい、私これから博麗霊夢にも厄を届けなきゃならないから……
 それでは、失礼致しました~」

咲夜が抗議する暇もなく、雛がくるりと空中に浮かび上がる。
すると雛の姿は幻のように消えてしまい、咲夜が慌てて伸ばした右手は空を切った。

「ど、どうするのよ……これ」

もはや自分の世界だけでなくなった言葉を呟いて、咲夜は呆然と立ち尽くした。
しかし咲夜が考え込む暇もなく、その耳に再び自身を呼ぶ声が聞こえる。
咲夜は仕方なく大急ぎでレミリアの部屋へと向かうのだった。







「お嬢様、お呼びですか?」
「ええ、呼んだわ。それも3回も。
 主人をこんなに待たせるなんて、咲夜……あなたなかなかいい度胸してるじゃない」
「……申し訳ありません」

咲夜を出迎えたレミリアは、お気に入りのソファーに踏ん反り返って少し不機嫌そうな様子をしていた。
一瞬言い訳をしようか考えた咲夜だったが、それでさらに機嫌を損ねる結果になってしまっては意味がない。
心の中で雛を全力で呪いながら、咲夜は黙ってレミリアのお小言を聞くことにした。

「……まぁいいわ。今回だけは大目に見てあげる。とにかく、今すぐ紅茶を用意しなさい」
「か、かしこまりました」

咲夜は焦った。
いつもならこう言われた時は、時間を止めて即座に紅茶を用意している。
しかし、今は時間を止められない。
かと言って普通に部屋を出ていくのは、普段の自分と比べて不自然すぎる。

「……? 何してるのよ、まだ?」

やや怒気の込もった声で、レミリアが催促する。

――ええい、仕方がない。

咲夜は伝家の宝刀を抜くことを決心した。

「あっ!! あんなところに空を飛ぶ巫女がっ!!」
「なんですって!」

レミリアが振り向いた隙をついて、咲夜は間髪入れずに部屋を飛び出した。
十六夜咲夜、猛ダッシュ。
時間を止められない以上こうするほか何も手段はないのだが、
事情を知らないメイドたちに好奇の目で見られるのは少し恥ずかしかった。

「お待たせしましたっ!」

ポットを片手に再び部屋へ戻ってくるまで、その間わずか56秒。
恐らくNEW RECORDと考えて間違いないだろう。
以前の記録は99:99:99だし。
それだけ急いで部屋に戻って来ただけあってレミリアは、

「……何を遊んでるのかしら?」

やっぱり、怒っていた。

「どうしちゃったのよ、咲夜。
 まさか時間が止められなくなった、なんて言わないわよねぇ……?」
「え、えーとですね……」

――まずい。
非常にまずい。
お嬢様、無茶苦茶怒っていらっしゃる。
頬杖をつく腕にも自然と力がこもっているようで、ほっぺの肉が大変面白いことになっている。
……なんて考えてる場合じゃなくて!

咲夜はわずかな時間で必死に頭を回転させた。
そして言い放った言い訳が、これ。

「……いつも時間を止めて楽をしてばかりなので、た、たまには時間の大切さを学ぼうかと!」

その瞬間、まるで咲夜の能力が復活したかのように空気が凍り付いた。
この言い訳、自己採点して13点。
それを聞いたレミリアは、口元に薄く笑みを浮かべて立ち上がった。

「なぁんだ、そういうことだったの」

レミリアに手をつかれたテーブルが、ばきりと音を立てて砕ける。

「つまり咲夜は、主人の希望より自分の気分転換のほうが大事なのね……?」

こめかみにびきびきと浮かび上がる青い交差点。
レミリアは顔面蒼白となってうろたえる咲夜の手首を掴み、そのまま部屋を出た。

「お、お嬢様……どこへ!?」

半ば引きずられるような形になりながら、咲夜は必死にレミリアに呼び掛けた。
しかしレミリアは咲夜を無視してずんずんと廊下を進み、足早に階段を降りていく。
レミリアが向かったのは、地下にあるフランドールの部屋だった。

「あれっ、お姉さま?」
「いい子にしてたみたいね、フラン……ご褒美をあげるわ。咲夜が弾幕ごっこで遊んでくれるって」
「ほんと!?」
「ちょ、ちょっとお嬢様……」

レミリアは強引に咲夜をフランドールの部屋に押し込むと、扉を閉めたのち魔法で固くロックをかけた。
間髪入れず部屋の中から激しくノックの音が聞こえてくる。

「お嬢様!? 開けてください、お嬢様!」
「ふふ……五・七・五で助けを求めるなんて、余裕あるじゃない」
「ねえねえお姉さまー、咲夜なんだか嫌そうだけどいいの?」
「久しぶりにフランと遊ぶから恥ずかしがってるだけよ。
 さぁ、遠慮はいらないから思い切りやったげなさい?」
「うんっ!!」

魔法に守られた扉の向こう側から元気のいい返事とともに轟音が聞こえてくる。
同時に悲鳴もあがった気がしたが、レミリアは当然それを無視した。

「あははっ、さんざん私をコケにした罰よ」

まさか本当に時間を止められなくなっているとは知らず、小気味良さそうに笑うレミリア。
あちこち真っ黒になった咲夜が部屋から助け出されたのは、それからおよそ半日後のことだった。







「……くや。起きなさい、咲夜」
「ん……」

まるでRPGの始まりのような問いかけが、眠っていた意識を呼び覚ます。
薄く開いた瞳に映ったのは見覚えのある天井と、自らを覗き込む主人の顔。
咲夜は気が付くと、いつの間にか自分の部屋のベッドへと運び込まれていた。

「う……私は……?」
「もう、しっかりしなさいよ。
 美鈴がなかなか戻ってこない咲夜の様子を見に行ってね、フランの部屋の前で倒れてたところを助けてくれたのよ。
 ボロボロになってたみたいだから、メイド服は新しいのに着替えさせたわよ」
「……すみません」

咲夜は我が身に起こった出来事を思い出して、あまりの恐怖心にぞくりと悪寒がするのを感じた。
昨日の弾幕ごっこは凄まじかった。
加減を知らないフランドールの弾幕を避け続けるのは、生身の人間にとっては並大抵のことではない。
今までも大真面目に勝負をしたことはあるが、さすがに命を懸けたことはなかった。
最終的に部屋の隅に追い詰められて、視界の全てをフランドールの弾が埋め尽くして――
当たりどころが悪かったらと考えると、咲夜は九死に一生を得たような心持ちだった。

「咲夜……あなた随分疲れてるみたいね。
 そんな調子じゃ紅魔館のメイド長をやるのは無理があるでしょ?」
「はい……」

咲夜は心配気なレミリアの声を聞いて、素直に頷いた。
恐らくレミリアも自分がここまで酷くやられるとは思っていなかったのだろう。
時間を止める力が元に戻るまでは、どこかで体を休めたほうがいい。
ここは、お嬢様の言葉に甘えて――

「だからね、今日は美鈴と交代しなさい」
「……はい?」

レミリアの言葉の続きを聞いて、咲夜は間抜けな声を出してしまった。

「だから、今日は門番とメイド長を交代しなさい、って言ってるのよ」
「し、しかし……」
「あら、遠慮することないわよ……したいんでしょ? 気分転換」
「うう……そ、それは……」

ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、レミリアが意地悪そうに問い掛ける。
どうやら昨日のことを未だに根に持っているらしい。

「ほらほら、わかったらとっとと門へ行きなさい!」
「は……はいっ」

レミリアに一喝され、部屋から追い出されるようにして咲夜が門へと向かう。
その姿が部屋から見えなくなると同時に、それまでレミリアの命令で隠れていた美鈴がひょっこりと姿を現した。

「お嬢様、いいんですか?」
「ふふ、いいのよ美鈴。あの娘最近図に乗ってたみたいだからねぇ、たっぷり苦しめてやらなくちゃ。
 ……力がなくなってる、今のうちにね」
「力が……?」
「ああいや、なんでもないのよ。
 力がっていうのはメイド長としての権限が無くなってるって意味だから。
 そんなことより美鈴、あなたは私とお茶にしましょう。準備をしてきてもらえるかしら?」
「はぁ……」

気のない返事を返しながら、美鈴は開きっぱなしの扉から小さくなっていく咲夜の背中に目をやった。
門へと駆けていく上司の様子はいつもと比べるとどこか頼りなく見える。
その姿がなぜか普段の自分とダブって感じられて、美鈴は小首を傾げるのだった。







一方で館外へと追いやられた咲夜は、当然予測できたであろう事態に困窮していた。
当たり前すぎる独り言が思わず口を突く。

「さ、寒い……」

一陣の風が吹き、咲夜のスカートをふわりと持ち上げる。
露わになった白い腿を擦り合わせるようにして、咲夜は寒さに耐えた。
よりによって最も寒い時期に外勤をさせられているというのに、考えてみれば防寒具を何も持っていない。

「め、美鈴って結構苦労してたのね……」

美鈴は普段からどこかチャイニーズな衣装を身にまとっていて、とても防寒対策をしているようには見えなかった。
普段から太極拳などという謎の動きをしているのは、じっとしていると寒くて仕方がないためなのだろう。
……もちろんシエスタは別だが。
今まで有無を言わさず美鈴に罰を与えてきた自分を省みて、咲夜はちょっぴり反省した。

「……あながちあいつの言うことも間違ってないのかしら」
「あらあら、お呼びかしらメイドさん?」
「!? 厄神!」

ぽつりと独り言をつぶやいた咲夜の目の前に、再びくるりと雛が舞い降りる。
咲夜は今にも殴りかからんばかりの勢いでまくし立てた。

「よくものこのこ現れてくれたわね……! あんたのせいで私の生活はメチャクチャよ!」
「そりゃそうよ、私がそうなるように仕向けたんだもの」
「言わせておけば、このっ……」
「まあまあ、そう怒らないでよ。この苦労はあなたのためでもあるんだから。
 それに私がここに来たのは、あなたに厄を晴らす方法を伝えるためなのよ?」
「何ですって!?」
「最初に言ったと思うけど、私の目的はあなたに厄を受けてる人の気持ちを分かってもらうことなの。
 例えば、あなたがよくお仕置きしてる門番さん。
 彼女は幻想郷でも随一の厄持ちなの。
 どうして彼女がそういう立ち位置になってしまったか、わかるかしら?」
「さあ。門番のくせに弱いからじゃないの?」
「門番さんが弱いから、というより周りが強すぎるのよね。
 あの娘は一生懸命やってるけれど、いかんせん力の差がありすぎるのよ。
 毎日のように打ちのめされてるのに、それでも逃げることは許されない……
 これってかなりの不幸じゃないかしら」
「……まぁ、不幸ではあるわね」
「そしてそんな彼女に向かって、あなたは救いの手を差し延べるどころかぐさーってナイフを投げます。
 ただでさえ不幸な目に遭ってる彼女に、あなたはトドメと言わんばかりに厄を与えるの。
 どう? 自分でも酷いことしてると思わない?」
「私は別に、美鈴が憎いわけじゃ……」

咲夜はそう言いながらも、少しだけ雛から視線を逸らした。
第三者にあらためてそう言われてみると、わずかながらも罪悪感が芽生えてくる。

「罰を与えるためだけならまだしも、あなたって人は事あるごとに投げナイフをお見舞いするでしょう?
 挨拶代わりに投げナイフ。何はともあれ投げナイフ。
 妖怪だから頑丈にできてる? 馬鹿な事を言わないで。
 心はあなたたち人間と同じよ」
「そ、それは分かってるつもりだけど」
「あなたはわかった気になってるだけ。
 実際に厄を受けてる本人は、他人が想像するよりもずっと辛いのよ。
 何ならあなたも一度ハリネズミにされてみる?」
「……悪かったわ。私の負けよ、あなたの言う通りにします」

雛の口調に責めるような強さはなかったが、それでも咲夜は俯いてしまった。
逆に淡々と事実を述べられたからこそ、考えさせられる部分が多かったのかもしれない。

「今度はちゃんとわかってもらえたみたいね。
 いじめられっ子をいじめる罪は、それだけ大きいということよ。
 でも大丈夫。あなたが本気で反省するなら、まだまだやり直しは効くんだから」

最初に会ったときの情けなさはどこへやら、宙に浮いたまま咲夜を見下ろす雛の表情はある種の自信に満ちあふれている。
互いの気の持ちようでこうも印象が変わるものなのかと、咲夜は心の中で嘆息した。

「十六夜咲夜。これからあなたには償いとして、他人の厄を晴らしてもらいます」
「……具体的には何をすればいいの?」
「そうねぇ、例えば重い荷物を持ったおばあちゃんを手伝ってあげるとか」
「そんなに都合よくおばあさんなんて来ないわよ。いくら幻想郷に年増が多いとはいえ」
「例え話よ、例え話。
 まあ簡単に言ってしまえば苦しんでる人を幸せにすればいい、ってことね」
「その苦しんでる人っていうのが、私の身の回りには一人しかいないんだけど」
「心配ご無用、私がおまじないをかけてあげます。そーれ!」

雛が何かを念じると、その雛の周りに何かまがまがしい黒ずんだ霧が現れる。
しかし咲夜本人にはこれといった変化は見られなかった。

「……? なんか、あなたが黒くなっただけみたいだけど?」
「ううん、そうじゃなくてね。今のおまじないであなたにも私みたいに他人の厄が感じられるようにしてあげたの。
 私が黒く見えるのは、私が集めた厄が見えるようになったからよ。
 ほら、ちょっと集中してごらんなさい。感じるでしょう? 厄の気配を」

咲夜は雛に言われるままに、じっと目を閉じて集中した。
すると確かに見えない四方から暗い感覚が伝わってくる。

「一見幸せに見える人だって、心のどこかでは不幸さ、つまり厄を感じてるの。
 自分の不幸と戦いながら、他人の厄を晴らすこと。それがあなたに与えられた使命よ」
「……なんか、やけに暗いやつがこっちに近付いてるわね」
「あら、もうそんなことまで感じられるなんて……やっぱりあなたは優秀ね。
 どう? もうこの際厄神になって、私と一緒に厄集めをしてみない?」
「丁重にお断り致しますわ」
「まあ、その有能さが刃になってるんだけど」

雛は目を閉じてくるりと一回転すると、上空へふわりと浮かび上がった。

「いい? あなたは今、ホント流石の私でも引くくらいの厄を受けてるわ。
 そんなあなたが差し延べる手は、この世の誰よりも優しい手となる。
 そしてその優しさに触れられた時、厄を受けている者は人の暖かさ、幸せを感じるの。
 だから苦しんでいる人を見かけたら積極的に助けてあげなさい。
 ただしもしその逆をするようなことがあれば……分かるわね?」
「……肝に銘じておくわ」

咲夜は雛の言葉に素直に頷いた。
昨日散々な目に遭ったおかげで、厄というものの怖さは十分に味わったのだ。

「頑張るのよ十六夜咲夜。ほら、早速一つ目の試練がやってきたわ」
「試練だなんて、大げさねぇ」

咲夜と干渉していることを他人に悟られないようにするためか、雛は再びくるりと姿を消した。
先程感じた厄の量を考えれば、誰が近付いてきたのかは容易に想像がつく。
それでも咲夜は姿を隠した雛に合わせるように、声を掛けられるまで後ろを振り向くことはしなかった。

「あの、咲夜さん」
「あら。……美鈴」

予想通りにやってきた美鈴に声をかけようとして、咲夜は一瞬言葉を詰まらせた。
可視状態となった美鈴の厄は、厄というものを見慣れていない咲夜でも一目でわかる程に凄まじかった。
まるで今にも局地的豪雨が降り出しそうな雨雲がどんよりどころかずっしりと浮かんでいる。

「あれ? 私の頭に何かついてますか?」
「い、いや。なんでもないのよ。
 そんなことより美鈴、何してるのよこんな所で……今日はあなたがメイド長でしょう?
 ちゃんと仕事をしないとお嬢様に怒られるわよ」
「私のことはいいんです。怒られるのには慣れてますから。
 それにそんな姿を見せられたら、とても放っておくことなんてできませんよ」

美鈴はそう言って、右腕にぶら下げている小さなバスケットから銀色の筒を取り出した。
続いてその筒の蓋を外すと、そこに中身を注いでいく。
するとほのかな甘みを含んだ暖かな香りがふわりと広がった。

「はい、咲夜さん。寒かったでしょう?」
「……ありがと」

美鈴が咲夜のために用意したのは、程よい温かさのホットミルクだった。
銀色の器越しに牛乳の暖かさが伝わり、かじかんだ手にじんわりと染み込む。
真冬の寒さと昨日から何も飲んでいなかったという喉の渇きが手伝って、咲夜は美鈴にもらった一杯を一息に飲み干した。
するとまろやかな温かさと、牛乳特有の酸味が口いっぱいに広がる。
……酸味?

「ね、ねぇ美鈴。この牛乳ってもしかして……」
「はい?」

その時、美鈴の隣にまるで見計らったかのようなタイミングでレミリアが現れた。

「こら美鈴。こんな所で何を油なんか売ってるのよ。あなたは今日一日私のそばにいるよう言ったでしょ?」
「お、お嬢様。それはそうなんですけど……咲夜さんが寒そうだったので」
「いいのよ、咲夜なんて放っておけば。それとも何? 美鈴も咲夜みたいに私の命令に逆らう気なの?」
「いえ、そんな!」

自分よりも二回りは小さなレミリアの前で縮こまって、申し訳なさそうな表情をしてみせる美鈴。
その様子を見ていた咲夜の心臓がどきりと鳴った。
美鈴の黒い雨雲――つまるところ可視状態となった美鈴の厄が、まるで何かを取り込むようにぐるぐると周り始めたのだ。

「(ま、まずい……!)」

美鈴は今、自分に親切をしに来たせいで何故かレミリアに叱られている。
このまま美鈴を見捨てれば、自分のせいで美鈴が厄を受けたとも取られかねない。
咲夜は慌てて二人の間に割って入って、美鈴のために助け船を出した。

「お言葉ですがお嬢様。美鈴は門に立つ支度が不十分だった私の尻拭いに来ただけです。
 何も、お嬢様の命令に背こうと思ったわけではありません」
「へぇ、そうなの?」
「はい。私は美鈴に気を遣ってもらって、嬉しかったですよ」
「ふぅん、成る程ねぇ」

きっぱりとした口調でそう言い切った咲夜に、レミリアはニヤリとした笑みを返した。

「じゃあ咲夜。せっかく美鈴が用意してくれたホットミルク……冷めちゃう前に全部飲めるわよね?」
「! そ、それは……」
「あらあら、やっぱり本当はありがたいだなんて思ってなかったのね。
 見なさい美鈴。咲夜はあなたがこんな事をしなくたって、時間を止めて好きなときに自分で用意できるって言いたいのよ」
「あ、そ、そう言われれば……」
「イヤよねぇ咲夜。美鈴ったら立場が変わったとたんに急に上司みたいに振る舞っちゃって……
 プライドが傷付いたんなら正直にそう言ってもいいのよ?」
「……ごめんなさい咲夜さん。私、差し出がましい真似をしてしまいましたね……」
「ち、違うのよ美鈴! 私はそんなこと……」
「へぇ、何が違うの咲夜? 美鈴が用意してくれたミルクは飲みたくないんでしょ?」
「ぐっ……」

悲しそうな顔をした美鈴と嫌らしい笑みを浮かべたレミリアの間で、咲夜はぐっと口ごもった。
一瞬の膠着状態となった三人の間で、美鈴の厄だけがぐるぐると回り続けている。
目の前に用意された道は二つ。
しかし今の咲夜が選べる道は、フラグ立ちまくりの茨の道しかなかった。
もしも美鈴の気持ちを反故にすれば、待っているのは昨日と同じ地獄なのだろう。

「……それ、貸して。美鈴」
「咲夜さん……」

咲夜は美鈴から水筒を受け取り、水筒の蓋と中蓋を外すと、やや熱くなった銀色のふちに口をつけ――一気に水筒を傾けた。

「……ぷはっ! ほ、ほら美鈴。あなたにもらった牛乳……とっても美味しかったわ。ありがとう」
「咲夜さん……よかった」

たっぷり500ccはあった牛乳を一度に飲み干して、咲夜は美鈴に優しく微笑んでみせた。
するとどちらかというと喜びよりも安堵の表情を見せた美鈴の頭上で、渦巻いていた黒い霧がゆっくりと動きを止める。
どうやら最悪の事態だけは免れたようだ。

「きゃー! いい飲みっぷりね、恰好いいわよ咲夜。
 珍しく美鈴が用意してくれた牛乳だから、さぞかし素敵な味がしたでしょう……?」
「え、ええ……勿論です」

してやったりといった顔をしたレミリアの前で、咲夜はぎこちない笑顔を作ってみせた。
紅魔館には妖精メイドを含めるとかなりの数の人員がおり、やはりそれに見合うだけの食料、特に嗜好品である飲み物の類が貯蓄されている。
その管理を担っているのはもちろん咲夜なのだが、昨日はフランドールに付き合っていたせいで週に一度の点検をすることができなかったのだ。
その点検の内容には、古くなった材料やらなんやらを処分するという行程も含まれている。
つまるところ、咲夜は昨日傷んだ牛乳を処理することができなかったのだ。
キッチンの勝手を知らない美鈴に期限切れの牛乳を選ばせることなど、運命を操ることができるレミリアなら朝飯前だろう。
口の中に残った後味は異様に酸っぱいチーズとヨーグルトの中間のような風味で、はっきり言って最低の一言に尽きる。

「それじゃ美鈴、今日は2階のテラスでお茶にしましょ。
 哀れな……じゃない、立派な門番さんがよーく見えるようにね」
「かしこまりました!」
「ふふ……それじゃ、お勤め頑張ってちょうだい」

そんな咲夜の心も知らず、美鈴は少しだけいつもの調子を取り戻したようで、駆けるようにして館の中へと戻っていった。
その美鈴から一歩遅れて、最高にサディスティックな表情とともに館の中へとレミリアが姿を消す。
咲夜はもう一度時間を止めようと試みて、予想通り何も起こらないことにため息をついた。
今までの反応を見る限り、レミリアには恐らく時間が止められなくなっていることがバレてしまっている。
レミリアはそこを突いて自分を困らせるために美鈴の親切をあらぬベクトルへとねじ曲げたたのだろう。

それほど時間が経たないうちに案の定健康な体にまずい兆候が顕れ始め、咲夜は自らの下腹部を優しくさすった。
ちらりと後ろに目をやれば、レミリアの部屋のテラスから自らを見守る美鈴とレミリアの姿が目に入る。

「(無心よ、無心……)」

風に乗って飛び交う木の葉の数を数えることで、咲夜はどうにか気を紛らせることにした。
時刻は現在正午前、そろそろ紅魔館最大の敵が現れてもおかしくない時刻である。
紅魔館の門番には一応昼休みがあるものの、魔理沙が現れるまでは持ち場を離れないというのが暗黙の了解となっていた。
咲夜はまるで恋人を待っているかのようにそわそわとしながら、ひたすら鈍い痛みに耐え続けた。
しかしこういう時に限って、魔理沙はなかなか姿を見せない。

「くぅっ……あいつ、来るなら早く来なさいよ……!」

既に太陽は真上を通り過ぎて、早くも下り坂に差し掛かっている。
そして同様に下りっぱなしの咲夜の体も一向に好転する様子はない。
それでも咲夜に耐える以外の選択肢は無く、ようやく遥か遠くに待ち人が現れたころには、咲夜は汗びっしょりになっていた。

「……今まともにやりあったら、流石に勝機は薄いわね」

咲夜は自分の状況を考えて客観的にそう判断を下した。
時を操ることができない上に爆弾を抱えているこの体では、満足に弾幕ごっこすらできないだろう。
かといって易々と門をくぐらせれば、後でレミリアに何を言われるかわかったものではない。
咲夜は一縷の望みを掛けて、魔理沙にハッタリを掛けることにした。

「待ちなさい、魔理沙!」
「!」

咲夜は腕を組むふりをして下腹の辺りを抱えながら、あくまでも毅然とした口調で魔理沙に声を掛けた。

「いらっしゃい魔理沙、今日は美鈴に代わって私が門番なのよ。
 あの娘の警備があまりにもザルなもんだから、たまには私が相手をしてあげようかと思ってね……
 今日のところは撃ち落とされたくなかったら引き返しなさい。
 ……って魔理沙? 聞いてる?」
「……成る程な。運命の神様ってやつは、厳しいぜ」
「は?」

魔理沙は必要以上にシリアスな表情を見せながら、帽子のつばを掴んで真っ直ぐな瞳を咲夜に向けてみせた。

「今日はいつもみたいにただ図書館に来たわけじゃないんだ。どうしてもほしい資料がある」
「あ、あらそうなの。そういうことなら……」
「そんな時に限って、目の前に強敵が立ち塞がるんだからな」

魔理沙の掌から鈍く光る八卦炉を目にして、咲夜の頬が引き攣った。

「ま、待って魔理沙! もう少し私の話を――」
「行くぜ咲夜! 私の本気を受けてみろ!」

咲夜の必死の叫びも虚しく、魔理沙の十八番である恋の魔法が炸裂する。
時間を止められない咲夜になす術はなく、紅魔館の門は一瞬にして光の渦に飲み込まれた。

「ふ……今の私を止められるのは、霊夢くらいのもんだろうな」

魔理沙は満足そうに格好付けて、壊れた門を通過してそのまま紅魔館へと入っていった。

「た、大変です! 咲夜さんが!」
「あっはっはっは! 大丈夫よ美鈴、放っておきなさい。
 あの娘は時を止められるんだから、ちゃんとどこかに逃げてるわよ。そうでしょう?」
「そ、それはそうなんですけど」
「じゃああなたが心配する必要なんてないじゃない。
 それに咲夜は今、誰にも会いたくないはずだから……くくくく」

笑いを噛み殺す主人の姿に不思議そうな顔をしながらも、美鈴は門の名残に目をやった。
二階から見える範囲に人の気配は無く、咲夜はなかなか姿を現さない。
しかしレミリアの思惑とは異なり、咲夜は間一髪のところで魔砲から逃れていた。

「はぁ、はぁ……危なかった……」

咲夜は自らに覆いかぶさった瓦礫の下で、不運のどん底に沈められた自分に残された唯一の武器に感謝した。
確かに時間を止める能力はなくなっているものの、紅魔館が崩壊を起こしていないことからも分かるように、咲夜のもう一つの力――空間を操る能力は残されている。
そこで咲夜は魔理沙が話を聞かないと見るやいなや、自らと魔理沙の間の空間を広げ、横っ跳びに門の陰に隠れたのだ。
おかげで自分に魔砲が届くことはなかったし、美鈴たちのいる2階からは死角となる位置に入り込むことができた。
これなら美鈴にバレずに爆弾を処理しに行くことができるだろう。
しかし急に無理な動きをした代償は大きく、咲夜は生唾を飲み下して、一つ大きく息をついた。

「うぅっ、は、早くしないと……」

いよいよ短くなってきた導火線に気を遣いながら、咲夜はぼろぼろになった門の破片に手を掛けてどうにか立ち上がった。
門を壊してしまったのはまずいが、他にも壊れているものがある。
世の中には優先順位というものがあるのだ。
咲夜は自分をそう正当化して、壊れた門から花壇のある中庭へと向かった。
その途中には外勤めの美鈴が門を空ける時間が長くならないようにと、咲夜自らが設置したお目当ての個室がある。
情けは人の為ならずというのは正にこの事をいうのだろう。
足早に個室までたどり着いた咲夜が迷わずドアノブに向けて手を伸ばす。
しかしその時、先に扉のほうが開かれた。

「あら、咲夜……」
「ア、アリス」

突如現れたアリスは物憂げな表情をして、ほぅと白いため息をついてみせた。
美鈴ほどではないものの、アリスの体にはうっすらと厄がかかっている。
下手に刺激するような真似をすれば、今度こそトドメを刺されてしまうだろう。
いつの間に紅魔館にやって来たのか、というかいつから紅魔館にいたのかなど突っ込むべき点は他にいくらでもあるが、今は詮索している余裕がない。
咲夜はアリスの気に障らないように、ついでに自分の腹にも障らないように、なるたけ慎重に声をかけた。

「ど、どうしたのよアリス。ため息なんかついちゃって……なんだか元気がないわよ?」
「……やっぱりわかる? 私今ね、悩んでることがあるの。それもこれも、全部魔理沙のせいなのよ」
「ああ、魔理沙は悪いやつよね。その気持ちわかるわ」
「ううん、魔理沙が悪いわけじゃなくてね」
「そう。魔理沙ってああ見えていいやつだもんね」
「……私が昨日ね、魔理沙に手伝ってほしい実験があるからって声を掛けたの。
 いつもならあいつを頼るような真似はしないんだけど、今回は一人じゃどうしようもない実験だったから……」
「へぇ……な、なるほどね」
「私の予想としては、快くとはいかなくともあっさり引き受けてくれるか、それか軽く断られるかだったんだけど。
 昨日の魔理沙は違ったの。
 あいつ、今までに見たことないくらい真剣な顔して、私の目をじっと見つめて言ったのよ。
 『悪いけど、今は自分の実験に打ち込みたいんだ。手伝いはまた今度にさせてくれ』って」
「はぅっ……ね、ねぇアリス……」
「私はきっと、今まで魔理沙のことを誤解してたんだわ。
 あいつってもっと尻軽っていうか、新しいもの好きっていうか……そういうイメージがあったのね。
 でも昨日の反応ではっきりしたわ。
 魔理沙はもっと真っ直ぐで、馬鹿らしいくらいに愚直なのよ。
 だって今ごろになってまた鬼の研究を始めるとは思えないもの。
 あの異変からずっと同じ研究をしてたなんて、同じ研究者として尊敬するわ」
「アリ……ス……」

アリスは頬を赤らめて、まさしく恋する乙女のような顔付きをしている。
そしてそれとは対照的に、咲夜の顔はみるみるうちに青白く染まっていった。

「今まであいつの心の中に私が入り込む隙間なんて無いと思ってたけど……それは違うわ。
 無理矢理にでもあいつに私を見せないと、きっと魔理沙はもう私を見てくれない。
 でももしあいつに心に決めた人がいるとしたら、一途なあいつはもう私に興味を持ってくれないと思うの。
 はぁ、どうしたらいいのかしら。昨日からずっと頭がぐるぐるってこんな調子なのよ」
「気が合うわね……私も今ぐるぐるってこんな調子なのよ……別のところがね」
「本当に、今更になってこんな大事なことに気付くなんて……
 自分の想う人のことをわかってあげてないなんて、私って最低ね。
 ああ、お母さん。愚かな私を許してください」
「私も同じ気持ちよアリス……もう……許して……!」
「咲夜……! わかってくれるのね!」

アリスは咲夜の両手をとって、喜びのあまりその手をぶんぶんと上下に振ってみせた。

「ありがとう咲夜! やっぱり持つべきものは友達よね。
 私、こういう話ができる知り合いってあなたぐらいだから……
 霊夢も魔理沙もその辺りには疎いっていうか、あんまり興味がないみたいなの。
 咲夜も本当はこういう話ができる相手が欲しかったのよね、そうでしょ?」
「はっ……ぐ……ア、アリス、揺らさないで……」
「はぐ? ハグして欲しいのね咲夜!」
「はあうっ!?」

アリスが勢いよく咲夜に抱き着いて、その衝撃が遺憾無く急所に伝わる。
咲夜は荒い呼吸を繰り返しながら、もはや限界とばかりにがっしりとアリスの両肩を掴んだ。

「ア、アリス、嬉しい気持ちは分かるけど……あなたが好きなのは私じゃないでしょう?
 それなら……こんなところでうじうじしてる場合じゃないと思うわ。
 せっかく魔理沙が紅魔館にいるんだから、直接会って話をして……少しでもお互いの距離を縮めるべきよ。
 そして……お願いだから道を譲って……!」

顎の先端から脂汗を滴らせながら、咲夜はアリスではなく後ろの扉に視線をやった。

「でも咲夜……私怖いの。魔理沙がちゃんと私を受け入れてくれるかなって。
 一途な魔理沙に見放されたら、きっともう魔理沙はこっちを見てくれないだろうし……
 どうかな咲夜? やっぱりこんな優柔不断な女は嫌われるかしら!」
「ううん、そんなことないわよ……き、きっとあなたの思いは伝わるわ。
 あとはアリスが……私の思いを理解して……くれれ……ば……」
「咲夜の思い? ……! ダ、ダメよ咲夜!
 私には魔理沙っていう心に決めた人がいるんだから。そんな風にされたって、私……」
「ち……違……」

アリスの肩に手をやったままの咲夜の体勢が、次第に前屈みに傾いていく。
燃え盛る炎がいよいよ警戒区域に達し、咲夜の腹から最後の警告が鳴り響いた。

「あら、今どこかで雷が鳴らなかった? 今日はこんなに晴れてるのに」
「ごめんアリス……もう……ダメ……!」
「へ?」

咲夜はおもむろに顔を上げると、両手いっぱいにナイフを携えた。

「奇術『エターナルミーク』ぅっ!」
「きゃああああ!?」

現状唯一使えるとも言えるスペルカードを宣言し、咲夜は自らの乙女の純潔を守るために目の前の乙女を銀の刃でめった刺しにした。
倒れていくアリスには目もくれず、間髪入れずに咲夜が個室へと駆け込む。
短い戦いを済ませた咲夜が戻ってきた頃には、倒れたアリスはすっかり真っ赤に、そしてその周りは厄で真っ黒になっていた。

「はぁ、はぁ、で、でもこの場合……仕方ないわよね」

顎から滴る汗を拭いながら、咲夜は虫の息となったアリスを見てそう呟いた。
人に厄を与えるなと言われても、今のようなケースを天秤にかければ誰だって保身に重みが行く。
こっちだって限界ギリギリまではアリスの話を聞いてやったのだ。きっとこれくらいは許容範囲に違いない。
そう無理矢理自分に言い聞かせながら、咲夜はまるで何事もなかったかのように門へと戻ろうとした。
しかし最初の曲がり角でばったりと出会ったその人物が、咲夜にそれを許さなかった。

「咲夜」
「パ、パチュリー様。どうかなさいましたか?」
「どうしたも何もないわよ。門番のあなたがこんなところで何をしてるの?
 あれだけ門を盛大に破壊されておいて、咲夜は無傷っていうのはどういうことよ」

咲夜が出会った本日三人目の魔法使いは、明らかに不機嫌そうな様子だった。
パチュリーにしては珍しい強い口調がその全てを物語っている。

「今日は咲夜が門を守るって聞いたから、悪くても長めに時間を稼げると思って貴重な資料を引っ張り出してきてたのに……
 まさかあなたが敵前逃亡してるなんてね。
 おかげで魔理沙に全部持って行かれちゃったのよ。咲夜には幻滅したわ」
「いえ、その、何も敵前逃亡したわけじゃ……」

パチュリーは早口にそう言って、小脇に抱えていた魔導書を開いた。
その右と左のページの間では、燃え盛る火球が白く閃光している。

「美鈴には厳しいことを言ってるくせに、自分には随分甘いのね。
 でも安心しなさい、今日はメイド長の美鈴の代わりに私がお仕置きしてあげる」
「お待ち下さいパチュリー様! これには訳が……」
「五月蝿い。日符『ロイヤルフレア』」

幻想郷随一の凶悪なスペルが、巨大な人工の太陽を作り出す。
咲夜は今度こそ真っ黒に燃え尽きて、再び大地に身を預けてしまった。






そして夜もとっぷりと更けた頃。
咲夜は気が付くと、今度は医務室のベッドに横たわっていた。
嗅ぎ慣れていない薬の匂いが目覚まし代わりと言わんばかりに鼻につく。

「うぅ、いちいちゲームオーバーになってるみたいで気分が悪いわ……」

咲夜は痛む上体を起こしつつ、額の辺りからぐしゃぐしゃと髪の毛を掴んだ。
窓に映った自分の姿を見ても、ちりちりパーマにはなっていない。
一応パチュリーなりの手加減はあったようだ。

先ほどの失敗はやはりアリスをK.O.してしまったことだろう。
あまりにも話が長いせいで思わず体が動いてしまったが、冷静に考えてみれば他にもやりようがあったのかもしれない。
とはいえアリスを怒らせるような真似をすれば、さらに最悪の結果を招いてしまった可能性もあったのだが。
いずれにしろこの厄払いというものは一筋縄では行きそうにない。
全くとんでもない神様に目をつけられてしまったものである。

ゆっくりと意識を覚醒させながらそんな風に思案を巡らせていると、かちゃかちゃと何かガラスのぶつかり合うような音が聞こえてくる。
部屋を二つに分ける仕切りとなっているカーテンをめくると、そこには棚の中の薬を整理している小悪魔の姿があった。

「あ、咲夜さん。お目覚めですか? 災難でしたね、パチュリー様の八つ当たりを受けるなんて」
「ええ……」

両手に薬の入った瓶を持ったまま、ベッドに座っている咲夜を見て小悪魔がそう答える。
小悪魔がこんなところにいるということは、パチュリーは未だにご立腹なのだろう。
どうせパチュリーが小悪魔に自分の治療を押し付けたに違いない――そこまで考えて、咲夜ははっと気がついた。

「ありがとう、でも私のことは大丈夫だから。そんなことよりも美鈴を見なかった?」
「美鈴さんならたった今、妹様に会いに地下のほうへ行きましたよ。
 なんでも妹様は咲夜さんに会いたかったみたいなんですが、咲夜さんが寝ていたので美鈴さんが代わりに行くって」
「……嫌な予感が的中したわ」

美鈴が代理でフランドールに会うというのは、恐らく美鈴自らが買って出た役目なのだろう。
万一美鈴の身に何かがあれば、今回は間違いなく寝ていた自分のせいになってしまう。
咲夜はベッドからゆっくりと立ち上がって、一つ思い切り伸びをした。
あらゆる意味で体の節々が痛むものの、やはり特別な異常は感じられない。
しかし今は厄を受けた身、これから先も不幸やアンラッキーのバーゲンセールであることは間違いない。
万全を期すに越したことはないだろう。
これから長時間地下室に拘束されるという展開を想定して、咲夜は再び薬の整理を始めた小悪魔に声を掛けた。

「ねぇ小悪魔、悪いんだけどそこの棚からお腹の薬を取ってもらえない?
 最近ちょっと、お腹の調子が悪くてね」
「はい、わかりました。……でも咲夜さんが体調を崩すなんて珍しいですね。
 こんな言い方をするとなんですが、てっきり体調が悪いときは時間を止めて休んでるのかと思ってました」
「い、いや。そうしたいのは山々なんだけど、ここのところ、その……忙しくってね。
 それにこればっかりは、休んだって治るようなもんじゃないから」
「忙しくて……? なんだ、そういうことですか」

能力が無くなっていることを悟られまいと咲夜は慌てて取り繕った。
紅魔館のメイド長たるものが普通の人間になってしまったということを、噂話の好きな小悪魔に知られるのは非常にまずい。
すると小悪魔は一度手にした瓶を棚に戻して、他の瓶から薬を取り出した。

「どうぞ、咲夜さん。これは私もたまにお世話になるんですが、バッチリ効きますよ」
「ええ、ありがとう。でも小悪魔……あなたも薬を飲むことがあるのね。知らなかったわ」
「そりゃあ、私だって咲夜さんと同じ女の子ですから。ふふふ」
「? まあ、何だっていいんだけど」

小悪魔にもらった薬をひょいと口に放り込んで、咲夜はそのまま地下へと向かった。
美鈴に何かがある前に交代してやらないと今度は我が身に何が起こるかわからない。
フランドールも傷だらけの姿を見れば、弾幕ごっこで遊ぼうなどとは言い出さないはずだ。

「やっぱりああ見えて、咲夜さんも普通の女の子なんですね。恥ずかしがることなんてないのに」

一方で一人医務室に残された小悪魔は、正反対の効果を持った二つの小瓶を見比べて、しみじみと呟いた。

「まさか咲夜さんが便秘で悩んでるなんて……」







「ありがとう咲夜! わたし、今日も魔理沙が来てくれなくて退屈だったんだ。何して遊ぼっか?」
「そう……ですね……」

フランドールの部屋へとやってきた咲夜は、悪寒に伴った冷や汗とそれに混じった脂汗でまたしても汗みずくになっていた。
薬を飲んできたはずなのに、どう考えても先程より数段腹具合が悪い。
昼間に苦しんだものが微弱な長い揺れだとすれば、今度はさしずめ直下型の大地震といったところか。
先刻小悪魔と交わした会話とその反応の意味にようやく気がついて、咲夜は激しく後悔した。

「ねぇ咲夜、だいじょうぶ? なんだか顔色が悪いよ?」
「へ、平気です……フランドール様。でも、弾幕ごっこは流石にやめましょうね」

フランドールとテーブルを挟んだ向かい側の椅子に腰掛けたまま、咲夜が無理矢理笑顔を作る。
しかし前屈みに下腹部を抱きしめるようにした咲夜の様子は明らかに異常であり、フランドールの心配そうな表情は変わらなかった。
事実咲夜は平気どころではなく、今すぐにでもこの場を立ち去りたい気分だった。
昨日から酷使を続けている体の疲労はすでにピークに達しており、そのうえ今度の爆撃は先ほどとは比べものにならないほど強力である。
そう長くは持ちこたえられそうにない。

「咲夜、ずっとお仕事してて疲れてるんでしょ……?
 わたしのことはいいよ。だいじょうぶ、一人でいるのは慣れっこだもん」
「フランドール様……ふぐっ」

わずかに気を抜いた瞬間鋭い痛みが首をもたげ、咲夜は必死で歯を食いしばった。
同時にフランドールの頭上で黒い霧がぐるぐると回り始める。
――美鈴の次はフランドールか。
咲夜は腹を抱えながら腹を括った。
どうせこのままフランドールに厄を与えれば、先程同様我が身には痛烈なしっぺ返しが待っている。
それならば自らを犠牲にしてでも、第二の主人を少しでも幸せにしてやったほうがいいだろう。
凄まじい勢いで襲い掛かる波を懸命になだめながら、咲夜はゆっくりと言葉を紡いだ。

「フランドール様、私は……辛くなんかないんですよ。
 確かに今までずっと仕事をしてきたのは事実ですが、フランドール様にお会いするのは仕事とは違います。
 一緒に遊ぶことができるなら、私にとっても休憩時間になるんです。
 それにフランドール様に会えるのは、私も嬉しいですから」

咲夜は一息にそう言って、今度は自然な笑みを作ってみせた。
それに真っ向から反するようにぎゅるぎゅると胃腸がうねるが、それでも表情は崩さない。
フランドールからは見えないテーブルの下で身悶えするように脚を踏み変え踏み変え、限界寸前のところで衝動を押し止める。
これ以上フランドールに心配をかけるわけにはいかない――
それが咲夜の最後の心の支えだった。

「ありがとう、咲夜……わたし、そんな風に言ってもらえるなんて思ってなかった。
 みんな本当ははわたしのことが嫌いなのかと思ってたんだもん。
 咲夜はわたしのこと、大事にしてくれるんだね。すっごく嬉しいよ」
「フランドール様……よかった」

気恥ずかしさと喜びが入り交じったような仕草を見せるフランドールの頭上で、浮かんでいた厄が小さくなる。
咲夜は自らの限界を察知しながらも安らかな表情を浮かべた。
もはや立ち上がる余力すらないこの体では、恐らくもうあと5分と耐えられない。
しかし、それでいいのだ。
例えお嫁に行けなくなったって、私には二人の大切な主人がいる。
そのために散ることができるなら本望だ。
そう考えた瞬間巨大な落雷が下腹部から轟いて、咲夜の額には大粒の汗が浮かび上がった。

「ふぉおぉおぉ…………も、もう……」
「ねぇ咲夜、もしかして咲夜はお腹が痛いの? さっきからずーっとお腹がゴロゴロいってるの、聞こえてるよ」
「ええ、じ、実はちょっと……じゃなくてかなり……」
「わかった。じっとしてて、咲夜」
「はぅ」

言われた通りにじっとする咲夜に手をかざして、フランドールが真剣な眼差しで何かを探し始める。
刻一刻と迫る終焉に思いを馳せながら、咲夜は諦めたようにテーブルに突っ伏した。
フランドールが何をする気なのかはわからないが、残念ながらもうこれ以上体力が持たない。
盛大な花火が我慢大会の閉会を宣言すると同時にフランドールに情けない姿を晒してしまうだろう。
まさかこの歳になってボムを抱え落ちすることになるとは思いもよらなかった。
しかしこのままフランドールの思いを無駄にすれば、それは厄を与えるということにならないだろうか――
そう考えながら咲夜が最後の抵抗を続けていたその時、不意に体から痛みが消えた。

「え、あれ……?」
「うん、もうだいじょうぶ。咲夜のお腹を痛くしてた悪いやつは、今わたしが壊したよ」
「フ、フランドール様……! ありがとうございます」

予期せず現れた救いの手に、咲夜は感極まって涙を浮かべてみせた。
厄を貰ってから今までが不幸の連続だっただけに、このたった一つの優しさが心の底に染み渡ったのだ。

「お腹痛いの治ってよかったね。そうだ咲夜、紅茶飲む?」
「……ありがとうございます」
「弾幕ごっこがダメなら、ほかのことで遊んでもらおうっと。そうだ! それじゃ、代わりに本を読んでよ」

今まで苦しんでいたことが嘘のように、長らくの付き合いだった痛みはきれいさっぱりなくなっている。
雛の言葉を借りるとすれば、フランドールの厄を晴らしたことによって咲夜自身の厄も多少はなくなったのだろう。
これまで厄を払うという意味を掴みかねていたが、これで雛の説明は一応正しいということが証明された。
こうなったらとことんやるしかない。

「それで、何の本を読んでほしいんですか?」
「えーっと、ちょっと待っててね」

覚悟を決めた咲夜の前で、がさごそと可愛らしいおもちゃ箱をあさるフランドール。
見た目こそ幼いが、フランドールはあれでなかなか頭の回転が良いのだ。
本を読むにしてもまさか絵本などということはないだろう。
一度読み始めたらなかなか休憩が取れないかもしれない。

「あった!」

紅茶を味わいながらそんなことを考えているうちに、ようやくフランドールがお目当ての本を見つけたようだ。
満面の笑みを浮かべるその手には、分厚い本が握られている。
その本のタイトルは――

「これこれ、『六法全書』ー!」

咲夜の耳から紅茶が噴き出た。

「フ、フランドール様……本気ですか……?」
「うん! 難しそうな本だから、今度誰かに読んでもらおうと思ってたの」

弾けるような満面の笑みと、テーブルの向こうの引きつった笑顔が向かい合う。
これを本気で読むとなるとそれこそ日が暮れるどころか夜が明けてしまう。
いっそ魔導書とか本当に読むことのできない本なら理由をつけて断ることもできただろうに。
そもそもこの本は、幻想郷のものではなく外の本ではないか。

「どうしたの咲夜? はやくはやくっ」
「は、はい。それじゃ、読みますね……」

椅子に腰掛けた咲夜の膝に、フランドールが嬉しそうに飛び乗ってくる。
こうなってしまってはもう断ることもできない。
フランドールがすぐに飽きることを祈りながら、咲夜は仕方なく分厚い表紙を開くのだった。







「あら咲夜、久しぶりね。昨日は姿が見えなかったみたいだけど?」
「……そーですね」

一晩たってようやくフランドールから解放された咲夜は、覚束ない足取りで図書館の清掃を行っていた。
結局フランドールが飽きることはなく、最後の最後まで六法全書を読まされた。
今なら弁護士にだってなれそうだ。
当分本なんて目にしたくない。正直隣で本を読んでいるパチュリーが信じられない。
それなのにさっき久々に会った主人からの命令は『図書館の掃除をしてきなさい』だった。確信犯だろうか。
おまけに昨日から一睡もしていないどころか、ここ二日間美鈴と小悪魔に火種を貰った以外は何も口にしていない。
危ない目付きで本の手入れをしながら、咲夜はうわごとのようにぶつぶつと何かを呟いていた。

――ちくしょう。どうして私がこんな目に遭わなければならないのだ。

確かに今まで美鈴が苦労してきたのもわかるし、少なからず自分に責任があったということは理解できる。
しかし自分だってレミリアを始めとした紅魔館の住人に尽くしているし、美鈴にだって食事くらいは支給している。
雛の理論は一見、いや一聞正しく聞こえるが、『厄を受けてない人物に尽くした』という査定がごっそりと抜け落ちているのだ。
それに何より、自分の他にも幽々子や輝夜など厄を振り撒くだけのお姫様がいるはずではないか。
私一人がここまで酷い目に遭わされるのは、どう考えたって不公平だ。

そう考えれば考えるほど、横暴な雛のやり口に腹が立ってくる。
ぎりぎりと歯軋りしながら、咲夜は思い切り拳を握り締めた。

――ちくしょう。ちくしょう。

「畜生ォォーーーーーーッッ!!」

手近なテーブルに両手の拳を思い切り叩き付け、咲夜は力の限り絶叫した。

「きゅ、急にどうしたのよ。咲夜」
「ああ、いえいえ……『地区優勝』の略ですわ」
「そ、そう……? それならいいんだけど……」

パチュリーの疑問を瀟洒にごまかしつつ、咲夜はもう一度考えた。
このままでは本当に身が持たない。というか、今でさえも持っているとは言い難い。
この状況を打破できるのは恐らくあの厄神だけだろう。
今のペースで自分の厄を晴らしていたら間違いなくあと3回は人生が必要になる。
あいつは一体どこにいるのか、と咲夜は考え――

「……あっ」

そこで最初の別れ際に雛が放った言葉を思い出した。
いるじゃないか、自分と同じ苦しみを享受しているはずの人物が。
そうと決まれば話は早い。
咲夜は水の入ったバケツに雑巾をかけ、そのまま図書館を出ようとしたがなぜかバケツが倒れてしまい、
流れ出した水が絨毯に思い切り染み込んだのを小悪魔に目撃され、
そこの絨毯は新調したばかりなんですよーとこっぴどく叱られてから紅魔館を後にした。
もう駄目だ。こんな生活には耐えられない。
咲夜は最強のパートナーとタッグを組むために、博麗神社へと向かうのだった。








雛に厄をもらった霊夢は、ひどい風邪をひいて寝込んでいた。
そしてそれ以外には特別何も起こらなかった。
ここ数日研究に没頭している魔理沙も、その研究の対象となっている萃香も、
冬に入ってから冬眠を始めた紫も、誰ひとりとしてやって来なかった。

そう、本当に、本当に何もなかったのだ。

したがって咲夜が博麗神社に着いたときには、

「み……………ず………………」
「れ、霊夢っ」

霊夢は生死の境をさまよっていた。

「ちょっと……霊夢、どうしたのよ!? すごい熱があるじゃないの」
「たすけて……さくや……」

一方で霊夢の目に映った咲夜も、メイド服がぼろぼろになっていた。
力が使えないこういうときに限って、というか厄をもらっているせいだが、通称4バカに絡まれていたのだ。
流石の咲夜もスペルカード無しでは、チルノ→リグル→ミスティア→チルノ→ルーミア→チルノの6連戦はきつかった。

とにもかくにも、霊夢に水をやらなくてはならない。
しかし神社の母屋を探してみても、台所にも風呂場にもあまつさえ厠にも、一滴たりとも水はなかった。

「ちょっと待ってなさいよ、霊夢っ」

咲夜は境内に投げっぱなしになっていた桶と杓を掴み、博麗神社の裏手へと駆け出した。
確かそこには、いつも霊夢が水を汲んでくる小川があったはずだ。
自身の体力にも限界が近付いていたが、今はそんなことを言っている場合ではない。

「はあっ、はあっ」

疲れきった体に鞭を打ち、枯れ葉の散らばる林を駆け抜け、咲夜はどうにか小川へとたどり着いた。
正午を過ぎて日が強く照っているためか、川の水量がかなり多くなっている。
恐らく山頂付近の雪解け水が流れ込んでいるのだろう。
水を汲む分にしては有り難いことだが、小川と呼ぶには水が増えすぎている。
普段の瀟洒な咲夜なら転ぶことなど有り得ないが、今は何が起こるかわからない。
慎重に足元を確認しながら、慎重に水辺へと接近していくと――

「えーーいっ!!」
「きゃっ!?」

突然、何者かに背中を突き飛ばされた。

「ぷはっ!?」

幸い川の水深は腰の辺りまでしかなかったため、咲夜はすぐに立ち上がることができた。
しかしそれでも、一度頭から水中にダイブしたことに変わりはない。
急激に体温が奪われてしまい、咲夜はがちがちと歯を鳴らした。
そしてその目に飛び込んできたのは――

「チ、チルノ?」
「今度こそ負けないんだから!

態勢を立て直した咲夜の目に飛び込んできたのは、またしてもチルノの姿だった(2回連続4度目)。
今氷のスペルをまともに受ければ、間違いなく体が凍てついてしまう。
しかし痛烈な冷たさの水に動きを制限され、咲夜には成す術がなかった。

「や、やめ、やめて……」
「いくわよ、パーフェクト――」

チルノの右手に霊力が集まり、高々と掲げたスペルカードが光を帯びる。
走馬灯って本当にあるのかなぁと咲夜が遠い目をしながら考えたその時、突然チルノの身体が傾いた。

「厄神キーック!」
「ぐえっ!?」

チルノは雛のドリルキックを背中に浴びて、頭から勢いよく川の中へと飛び込んでいった。

「ふうっ、間一髪だったわね」
「厄神……! なんであんたがここに?」
「凄まじい厄のニオイを感じて来てみたら、こんなところにあなたがいるんだもの。
 そんなことより今は水でしょ? ほら、つかまって!」
「え、ああ……ありがとう」

雛が差し出した手をがっちりと掴んで、咲夜はどうにか川の流れから脱出した。
寒気をたっぷりと含んだ風が濡れた咲夜の全身に染み込み、容赦なく体温を奪っていく。
それでも咲夜は歯を食いしばり、枯れ葉を踏み締めながら冬の林を駆け出した。

「ほら、は厄は厄」
「妙なところでキャラを立てるな!」

咲夜は何度もつまづきそうになりながらも、水の入った桶を抱えて林を駆け抜けた。
水に濡れた体が風を切るのは辛くて仕方がなかったが、それでも咲夜は止まることをせず、どうにか神社へとたどり着いた。

「霊夢、水よ!」

布団からはいずり出るようにして倒れた霊夢を揺さぶりながら、咲夜が大声で呼び掛ける。
しかし霊夢は咲夜の言葉に全く反応せず、ぐったりとしたまま荒い呼吸を繰り返すばかりだった。
杓に汲んだ水を近付けても、衰弱しきった霊夢はそれを欲しがるそぶりも見せない。
このままでは霊夢は間違いなく天に召されてしまう。
咲夜は自身の呼吸を整えながら、一つの決心をした。

こうなったら、手段は一つ。
咲夜は冷たい水を自らの口に含んで、霊夢の頬に自分の顔を近づけた。
その時、背後からあまり聞きたくない声が聞こえた。

「あややややっ!?」

後ろに誰がいるのか、どんな表情をしているのか、そしてこの後何をする気なのかは想像に難くない。
しかし、それでも咲夜は躊躇わなかった。

――苦しみ抜いた、今なら判る。
助けを求める他人の気持ちが!

咲夜はそっと霊夢と唇を重ね、ゆっくりと水を流し込んだ。

「ん……ぐ」

その瞬間、カメラのシャッター音が境内に響く。
それでも咲夜はもう一度杓から水を口に含み、それを霊夢に与えてやった。
そこでようやく、霊夢の目が薄く開かれた。

「咲夜、わたし……?」
「……もう大丈夫みたいね。水はそこに用意してるから、好きなだけ飲むといいわ」

咲夜はいくらか落ち着いた様子の霊夢を丁寧に布団に寝かせ、水の入った桶を枕元に置いてやった。
体の濡れが畳に染み込まないうちにと、冷たいブーツを履き直し、びっしょりと濡れたままのスカートから水を絞る。
そんな咲夜の様子を見つめながら、文は感慨深そうに呟いた。

「……いやはや、大変素晴らしいものを見せてもらいました」
「それは良かったわね、珍しいスキャンダルが見つかって」
「いやいや、そういう意味ではなくてですね。
 あなたたちの美しい友情、しかとこの目に焼き付けさせてもらいました。
 今時他人のためにここまでできる人間なんて、そうはいませんよ」
「あら、そう?」

文の顔に冷やかすような色はなく、むしろずぶ濡れになった咲夜をいい意味で勘違いしているようだった。

「これは久々に面白い記事が書けそうです。咲夜さん、新聞が出来たら一番にお渡ししますよ」
「はいはい、楽しみにしてるわよ」

咲夜の返事を聞くや否や、文は一瞬にして寒空を切り裂く風となった。
すると手入れのされていない石畳から激しい砂埃が舞い起こり、思わず咲夜が顔を背ける。
そして収まった風とともに咲夜が視線を戻すと、そこには文と入れ代わるように雛の姿があった。

「おめでとう、十六夜咲夜。
 たった今を持って、あなたの被っていた厄は綺麗に晴れました」
「……厄神」

じっと自分の姿を見つめる咲夜を見て、雛はどこか嬉しそうに口を開いた。

「あなたは今、自分の不幸を省みず他人のために行動しました。
 最初にあなたがお腹を壊したとき。
 あなたは最後の最後で自分の身がかわいくなって、厄を受けた人物に思い切り厄を与えました。
 この行為は最低ね。結果的にあなたは更なる厄に飲み込まれてしまいました。
 次に、あなたに地下で限界が訪れたとき。
 今度は相手のことを想っていたみたいだけど、その行動の原動力はしっぺ返しを受けたくない、という気持ちが半分だったみたいね。
 これでは合格とは言えないわ。少しはあなたの厄も晴れたけど、それだけ。
 一時的な感情の変化じゃ一時的な報いしかついてこないのよ」

激動すぎる今までの出来事を思い出しながら、咲夜は黙って雛の言葉を聞いていた。

「そして、今。
 あなたは背後に居る天狗の存在に気が付きながらも、相手のことを考えて救いの手を差し延べました。
 心の底から博麗の巫女の事を想って、ね」
「私が……霊夢のことを」

迷わず霊夢に口づけをした自分の姿を思い出して、咲夜はちょっとだけ恥ずかしくなった。
女同士というのも何だかアレだし、真面目な意味でも少々クサい雰囲気がある。

「これは今までのあなたからすれば考えられなかったことよ。
 それがたったの三日でここまで成長するなんて……私も付きっきりで見守ってた甲斐があったわ」
「付きっきりで……? あんた、まさかずっと私のことを見てたの?」
「私もお仕事があるから一部始終を見てたわけじゃないけど、大概の場面は見てたわよ。
 だからあなたが突然紅魔館からいなくなった時はちょっと焦っちゃったわ。
 あれだけの厄を背負いながら奇天烈揃いの幻想郷を飛び回るなんて、自殺行為もいいところだもの」
「……暇人なのね、あなたって。暇神、って言ったほうが正しいのかしら」

口の先ではそう言いながらも、咲夜は内心雛に感謝の念を覚えていた。
実際チルノ(4回目)に襲われたとき雛が来てくれなければ、あのまま凍り漬けになって湖まで川流れする羽目になっていたかもしれない。

「私は山の神様みたいに大きな力は持ってないからね、人々を幸せに導くなんて夢のまた夢なのよ。
 だからせめて、私は自分にできる範囲で不幸な誰かを救ってあげたいの。
 私、あなたが優しい気持ちを取り戻してくれて……本当に嬉しいわ」

咲夜の皮肉は気にもせず、優しい笑顔で雛が答える。
その喜びに満ちた表情を、咲夜はなぜだか直視することかできなかった。

「……あなた一人で見られる範囲なんてたかが知れてるじゃない。
 そんなに忙しいなら、さっさと仕事に戻ったらどう? もう私の厄払いは終わったんでしょ」
「はいはい、わかりましたよ」

呆れたように苦笑しながら、雛はふわりと空に舞い上がった。
その背中が太陽と重なっているせいか、見上げた姿がやけに眩しい。

「さようなら、十六夜咲夜。いつまでも今の気持ちを忘れないでね」

そして真冬の空に溶け込むように、雛は咲夜の前から姿を消した。
会話が無くなり静まった博麗神社の境内に、寝ている霊夢の咳だけが響く。
咲夜はやれやれと息をついて、試しに時間を停めてみた。
すると吹きすさぶ冷たい風がぴたりと止み、辺りを静寂が包み込む。
なんだか懐かしい感覚の中で、咲夜はとりあえず胸を撫で下ろした。

「何が今の気持ちよ。全く、とんだロスタイムだったわ」

咲夜はぶっきらぼうにそう言って、別れ際で見た雛の笑顔を思い浮かべた。
よくよく思い出してみれば、最初に会ったときも同じような笑顔だった気がする。
呼びもしないのに突然人の前に現れて。
訳の分からない理論を押し付けて、頭ごなしに人を叱り付けて。
そして人を苦しめるだけ苦しめておいて、最後の最後になってようやく救いの手を差し延べる。
だけどその手は、とても暖かくて――

いつの間にか俯きがちになっていた視線を上げて、咲夜は鳥居の向こう側から見える風景に目をやった。
見慣れたはずの山並みは、今は何故だかいつもより広く感じられる。
今頃あのお節介焼きはまた見知らぬ誰かのために精を出しているのだろう。

「……誰があんたの言う事なんか聞いてやるもんですか」

咲夜の呟きに答えるように、冷たい風ががさがさと木々を鳴らしながら吹きすさぶ。
これ以上体温を奪われてはたまらないと、咲夜はもう一度時を止めてから博麗神社を後にした。








咲夜が紅魔館に戻ってくると、門の前には二人の人物と、そのうち一人の叫び声がこだましていた。

「申し訳ありませぇぇんパチュリー様!」

叫び声の主は門番である美鈴で、その目の前にいるのはまたしても機嫌の悪そうな顔をしたパチュリーだった。
美鈴の体は木製の十字架に縛り付けられ、無理やり十進法を採用させられている。
右と左の手首、足首の辺りを太めのロープが拘束しており、その足元ではやや季節外れの落ち葉焚きが燃え盛っていた。

「パチュリー様、これは……?」
「ああ咲夜、ちょうどいい所に帰って来たわね。
 今役立たずのメイド長代理にお灸を据えてるところなの。あなたも一緒にどう?」
「やめてくださいいい」

今がシーズンの木枯らしに対抗するように、焚き火は大きく揺らめきながらもごうごうと唸りをあげている。
その火の粉が縛り付けられた足に飛び散るたび、美鈴から情けない悲鳴が上がった。

「熱っ! あちちち! っていうか、い、痛いです!」
「あなたがどんなに泣きわめいたって、紅茶の零れた魔導書は元通りにはならないのよ。
 ほら咲夜、あなたからも」
「……かしこまりました」

首から上だけを壊れたメトロノームのように動かす美鈴に向けて、咲夜は狙いを定めるように腕を腰の辺りへと回した。
指の間にはナイフが3本。
素早い動作でその腕がしなると、放たれた3つの刃はそれぞれが違う場所へと迫り――
拘束された美鈴の右腕、左腕、足首を寸分の狂いもなく掠め取った。

「ふぎゃっ!」
「……どういうつもり?」

掠めたナイフがロープを切り裂き、束縛から解放された美鈴が受身も取らずに倒れ込む。
その足の先が未だに燃えている炎に触れたらしく、美鈴は奇声をあげながらごろごろと地面を転げ回った。

「パチュリー様……お気持ちは分からなくもないですがこれでは逆効果ですよ。
 美鈴だってこれでも門番です、あんまり傷つけてやると魔理沙の突破率がますます上がってしまいます」
「そりゃまあ、そうだけど」
「それに美鈴に慣れない仕事をさせたのは、私が突然館を出たせいでもあります。
 今回はどうか、ご容赦くださいませんか」

凛とした口調でそう言って、咲夜が深々と頭を下げる。
パチュリーはまだ何か言いたそうな顔をしていたものの、さすがにその真摯な態度の前では文句を言えなかった。

「ほら、あなたもいつまでも寝てちゃ駄目よ。しっかりしなさい」
「す、すみません……?」

怯えと驚きが半分混ざったような顔をした美鈴が、咲夜の伸ばした手を弱々しく掴む。
倒れたせいで泥だらけになったその掌は、冬空を飛んで帰ってきた咲夜よりもずっと冷たかった。

「服が汚れちゃったみたいね。タオルを持ってきてあげるから、しばらくそこで待ってなさい」
「は、はい」
「あら、まだ門も壊れたままなのね……。後で直しに来なくちゃ」

半壊したままの門を横目に、そして不思議そうな顔をした二人の視線を背中にしながら、咲夜はそのまま館の中へと戻っていった。
しばらくまともに掃除をしていないせいか、薄暗いロビーは心なしか粉っぽい。
咲夜は空気を入れ換えようと、光の差し込む窓際へと近付いて、そして窓の外に目をやって――思わず苦笑いを浮かべた。

「……何を期待してるのよ、私は」

咲夜は泥が付いたままの冷たい右手を、きれいなままの左の掌で優しく包み込んだ。
すると暖かさと冷たさが混ざり合って、やがて両手の温度差がなくなる。
そしてくっついたままの二つの掌は、互いを暖めあうかのように温もりを持ち始めた。
今まで自分が気が付かなかったものは、こんなに簡単なことだったのだ。
それを教えるためにわざわざ人の子一人のところへやってくる神様がいるなんて、誰が信じてくれるだろうか。

無くした時間は戻ってこないが、生憎それを無駄にしてやるつもりはない。
他人にとやかく言われなくても、私の心は決まっているのだ。

「どうしちゃったのよ咲夜。今日は随分美鈴の肩を持つじゃない」
「……今日は、ではありませんよ」
「?」

後から追い付いてきたパチュリーが相変わらず不機嫌そうに問い掛ける。
今は誰もいない中庭を見つめたまま、咲夜は優しい笑顔を作った。

「今日から、の間違いです」

――これでいいのよね? 厄神。
完全であるがゆえにどこか冷たいメイド長と、
小さな神様であるがために暖かい心を持った厄神様。
そんな二人がもし出会ったらというお話を描いてみました。

ご意見・感想などいただけると幸いです。

※3/1追記:リンク先の記事を差し替えました。
※さらに追記:作品の編集中に手違いがあり、本文・あとがきを一度そっくりそのまま別の作品と入れ替えて投稿してしまいました。
みなさんに頂いたコメントは残っているようなので一安心ですが、バックアップを取っていたデータを再投稿し直したので、作品中に何かおかしな点があればご指摘願います。
本当に申し訳ありません。
goma
http://eastgomashio.blog8.fc2.com/blog-entry-25.html
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コメント



0.2370簡易評価
10.60名前が無い程度の能力削除
良い話ではあったと思うけど個人的には読んでいていい気分にはなれなかったですね。
なんだか限度を無視している気がしてしまいました。幻想郷ならいいのかも知れないですがね。
12.10名前が無い程度の能力削除
やりすぎてるから不快なだけ。
13.90名前が無い程度の能力削除
とても面白かったです
ただ途中の描写が行き過ぎていると感じる人もいるかもしれませんね
20.70名前が無い程度の能力削除
行きすぎというか、何で人間2人のみが対象なのかよく分からないし、魔理沙が外れている理由も伏線かと思ったらアリスの科白だけだし、と消化不良の感はありました。あと厄で能力が消えるってのも何だかなぁ、とかレミリアの「こけにされた」描写がないのでその酷さが分からない(オフィシャルのみで充分かどうか。個人的には微妙)とか色々ありましたのでこの点数で。
22.20名前が無い程度の能力削除
やりすぎな感じが否めません、レミリアのキャラがからかってるというより只の嫌な奴にしか思えませんでした。
話自体は面白かったと思いますが、個人的には不快になりました。
23.無評価名前が無い程度の能力削除
どうしてもレミリアパチュリーに対する不快感が拭えない
24.無評価名前が無い程度の能力削除
空間は時間が操れないと操れませんよ。
周囲の時間を早めたり遅くすることで咲夜さんは空間を操っています。
26.70白徒削除
咲美としては完璧。お話の流れも面白かったです。子悪魔も良い味出てますし。
ただやはりちょっと足りない部分が多いように見受けられますのでこの点数で。
主におぜうさまの優しさと咲夜の能力への理解度。
29.90名前が無い程度の能力削除
心が暖まりました。次回も諦めないでください。
30.30名前が無い程度の能力削除
お嬢様が嫌な奴としか思えない
31.80名前が無い程度の能力削除
何か咲夜さんが可哀想過ぎる気が。この作品で美鈴に厳しい事を差し引いても、
それだけではこういう目に合わなきゃいけないことに対して引き合わないように感じます。
もう少し咲夜さんが厄を受けなければいけないような理由が欲しかったかな。。
あと本文中でも咲夜さん本人が言っていたように、普段の善行が全く評価されていない理由も気になります。
原作でも宴会中に誰にも気を使わせないようにしながらこっそり調理役や後片付けに徹することができる人なだけに。

とはいえ、お話の内容や発想は面白かったのでこの点数で。
次回作にも期待しています。
33.80名前が無い程度の能力削除
細かい点で粗はあるとは思いますが、発想や話の流れはとても面白く引き込まれました。
欲を言えば霊夢の側がどうなってたのかもう少し詳しく見たかったですw
34.70名前が無い程度の能力削除
楽しめました。
35.10名前が無い程度の能力削除
そもそもオフィシャルで美鈴は「年中仕事せずに寝てるだけ」と明かされてましたが…
いやそこは二次創作なんだし置くとしても、流石にこれでは雛、レミリアがただの嫌な奴ですね。
36.80名前が無い程度の能力削除
少々粗さは感じますが話としてはまとまっていたと思います
キャラ的にもレミリアは吸血鬼、パチェは魔女なのだからおかしくないし
物語を面白くする良いスパイスになっていました
欲を言えば霊夢も読みたかったw
38.80名前が無い程度の能力削除
賛否両論で感想欄が面白いことになってますが、レミリア達が嫌な奴と思えた人が多いということは、作者の思惑通りにいった作品だなと思います。
やり過ぎと思う人もいるようですが自分の中のレミリアや、パチュリーはこの作品のような、イメージに近かったのですんなり読めて面白く読ませて貰えました。
上の感想にも書いてあるのですが、自分も魔理沙の伏線がいまいちだったのかなと思いました。
もう少し捻るか、いっそのこと素直に霊夢達と同列にしておいたほうが、すっきりとしていたのではないでしょうか。
人によってキャラクターが違う性格になるというのが、二次創作の面白い所なので、作者には批判的な感想に負けず、またここで作品が見られることに期待します。
40.30名前が無い程度の能力削除
そもそも普段あれだけ働いてる人間がトップ2の片方だっていうのに納得がいきません。
仕事を辛いと思って無くても、常日頃から好き勝手してる奴らより悪いというのはあんまりです。
44.60名前が無い程度の能力削除
なんというか、レミリアのやり方が陰湿ですね
時を操る能力を使えないのを知っておきながら無理難題で困らす、
とかならまだしも下痢にして愉しむとはなんとまぁカリスマの無い悪趣味な。
むろん貴方のなかのレミリア像がそうであるならば仕方ないでしょうが。
普段、不遇な立場に置かれている者の気持を理解させるというコンセプトは面白いと思います。
しかしもちっとマシなやり方があったのではとも思います。

この作品には愛が感じられない
45.90名前が無い程度の能力削除
いろいろとひどい目にあった咲夜さんですが、ギャグっぽく描かれてたし、本人も学ぶところはあったみたいで、そんなに嫌悪感みたいなものは感じませんでしたけどね。
霊夢が放置されっぱなしで死にかけてるのはさすがにひどいと思いましたがw 幻想郷の危機だよそれ!
結構意見が分かれてますが、素直に楽しめた自分は幸せだと思うことにします。
47.40名前が無い程度の能力削除
レミリアとパチュリーがなぁ・・・
48.40名前が無い程度の能力削除
他の方のコメントにもありますが
咲夜さんがあそこまでの厄を背負わされる理由付けが弱いですね。
作中でもっと非道いことをしている描写か
もしくは咲夜が酷い奴であると雛が勘違いして思い込む描写があれば
もっと違和感無く読めたと思います。
52.40名前が無い程度の能力削除
不快感と違和感を感じたのは私が咲夜さん好きだからなんでしょうか。
53.無評価goma削除
賛否両方の視点からご意見を頂いて有り難い限りです。
様々な点で自分の未熟さを思い知らされて、本当に勉強になります。
不快に思った方が多いという点に関しては申し訳ないです…。
ただ筆者である私としては、レミリアが陰湿であるとも、咲夜が苦労をしていない、とも思っていません。
それが伝わらなかったのは私の表現力の欠如かと思われます。情けないです。

ご意見・ご感想を残してくださった全ての方にコメント返しをしたいところですが、
この場で長々と文章を書き込むのはあまりにもお目汚しであるので、あとがき内のリンクで物語の詳細について触れてみました。
どういう経緯でこういうストーリーになったのか、また一度コメントした他にもまだ言いたいことがあるという方は、お手数ですがそちらの方に是非お願いします。
56.100名前が無い程度の能力削除
自分はこういうのも良いと思いますよ。
勝手にいいイメージが付いてるだけで吸血鬼も魔女も性質は悪いものだと思いますし。
あと、何でも時止めて解決っていう人間らしさが全くない咲夜さんが普通の人間になって
紅魔館を過ごすっていう設定が良かったです。
57.80名前が無い程度の能力削除
能力使えないのに、普通の人間の咲夜が飛べるのはどうかと思いました。
チルノの不死身っぷりには腹抱えさせていただきましたw
59.60名前が無い程度の能力削除
前の作品であった丁寧さが完全に失われているような。
魔理沙とか霊夢とかアリスとか、この辺りの人物に対する描写が圧倒的に不足しており、便利な道具的に出された印象を拭えない。

レミリアとパチュリーのキャラはこれでもいいと思う。
が、このようなキャラで描くのなら、咲夜回復後に仕返しするような描写を入れたほうが良い気がする。
そうする事によって読者は咲夜がイビられてきた溜飲を下げ、同時に報いを受ける、との行為によりレミリアとパチュリーへの悪印象も薄めることもできる。

総括すると次回に期待と言う事で。
しかし霊夢、寝てるだけで人の役に立ってないけど厄は払えたのか?
62.70名前が無い程度の能力削除
咲夜さんはう〇こしねえぇっ!(ぇー
66.100名前が無い程度の能力削除
細けえことはいいんだよ!
俺は面白かった。
70.40名前が無い程度の能力削除
レミリアが只の嫌な奴に感じられますね。
あと咲夜は回復しましたが霊夢の厄は残ったままですよねw
厄払い出来るような状態じゃないみたいなので心配です。
71.80名前が無い程度の能力削除
酷評多いな。
俺はあんまり違和感無かったが……
72.90名前が無い程度の能力削除
二人が嫌な奴すぎという点は確かに気になったけど、楽しませてもらいました。
76.70名前が無い程度の能力削除
面白かった。
が、レミリアにも不幸が降り懸かればいいと思った。
85.100名前が無い程度の能力削除
普通に面白かったです。
レミリアの行為が愛のムチ的に感じた俺はズレてるんだろうか…

誤字なのか疑問ですけど一応報告します。
99:99:99

99:59:59
86.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです。正直私は酷評している人の考えがわからない。
88.90名前が無い程度の能力削除
賛否両論ですねぇ。
正直、創想話全体で見れば、今作以上にキャラの扱いひどいのは多いと思いますけどね。
全員が格好良くってのじゃなく、いろいろな形の話やキャラが見たい自分としてはOKでしたが。