Coolier - 新生・東方創想話

風神葬祭 ~食欲と亡霊の秋

2008/12/30 00:47:29
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 ひもじくて仕方がなかった。
 生前口に入っていたものが、何も受け付けなかった。昔は、もっと色々なものを口にすることができたはずだった。今は、食卓に並んだ魚の塩焼きも栗ごはんも、とろろの吸い物も、何も喉を通らない。無理やり口に入れても反射的に吐き出してしまう。味もしない。
「焦ることはないわ、幽々子」
 どこかで聞いた覚えのある女の声が、やさしく、自分の背中を撫でてくれる。幽々子は膝をつき、両手を畳について、辛うじて倒れないよう、持ちこたえている。自分が吐きだして畳に散らばった料理を、申し訳ない気持ちで見る。
「ごめんなさい。せっかく、あなたが作ってくれたのに」
 名前も知らない女に、謝る。
「いいのよ」
 女というよりは、少女の声だった。だが声の幼さに比して、仕草や、口調には落ち着きがあった。
「いきなり生前と同じものを口にさせようとした私が馬鹿だったわ。亡霊になったばかりのあなたの体に、無理をさせ過ぎたのね。もっとじっくり馴染んでからでないと」
「そう、ね」
 幽々子はふらふらと立ち上がった。とりあえずは納得したものの、空腹感は頂点に達していた。だが、ここで空腹感を訴えれば、きっとまたこの少女を苦しめてしまうだろう。この料理だって、我慢しなさいと幽々子を諭す少女に無理を言って、作らせたのだ。結果が、このざまだ。
「とっても……眠いわ」
 お腹が空いた、というのを寸前で飲み込み、別の欲求を告げる。それも嘘ではない。体全体がぼんやりとしていて、どこまでが自分の体か、境界が曖昧だ。眠りに身を委ねれば、その曖昧さが呼びこむ居心地の悪さも感じずに済む。
「布団は用意しているわ」
 少女は立ち上がり、幽々子を先導するようにして、襖を開いた。薄暗い畳の部屋に、きちんと整えられた布団が敷かれてある。すでに暖を取っていたようで、部屋の暖かさは、食事の間とほとんど変わらなかった。
 屋根が軋む。
 吹きすさぶ寒風のせいか、降り積もった雪のせいかは、幽々子にはわからない。ただ、一歩外に出ればたちまち凍えきってしまうような状態であることは、知っている。
 体があまり思い通りに動かないので、汁が染みて、米粒や豆腐がついている服を脱ぐのは、少女に手伝ってもらった。白の単衣だけの姿になった。布団に手を置くと、少しひやりとした。しかし部屋がこれだけ暖かいのだから、自分の体温も合わせて、すぐにぬくもるだろうと思った。
 おとなしく布団に入った幽々子の髪を、少女はしばらく撫でていた。やがて名残惜しそうに立ち上がり、襖に手をかける。
「おやすみ、幽々子」
 そして襖を開き、部屋から出ようとする。
「紫」
 背中にかかった呼び声に、少女……紫は立ち竦む。
「こっちを見て」
 言われた通りにする。幽々子は布団から上体だけ起こし、紫を見つめていた。
「幽々子……」
「変ね、今の今まで忘れていたわ。今朝、起きる時は覚えていたのに。昼には忘れてしまうなんて。私、呆けたのかしら」
 これまで何度呼んだか知れない、そしてこれからも呼ぶであろう名前を、簡単に忘れてしまう。
「まだ、馴染んでいないのよ」
「でもね、名前以外、さっぱり思い出せないわ」
 ふたりは視線を交わし合う。それぞれに求めるものが、相手の目の中にあるような気がした。
「おやすみ幽々子、いい夢を。夢から覚めたら、ご飯をつくってあげる」
 紫は、長い間幽々子を見つめすぎた気がして、後ろ髪を引かれる思いで、部屋を出た。あまり一緒にいすぎると、幽々子の順応に悪影響を及ぼしかねない。
 隣の部屋から廊下に出て、まっすぐ進み、突き当たりの木窓を開く。身の引き締まるような冷たい風が吹き込む。外の世界は白で染められていた。吹雪越しに見える太陽の光さえ、白々と、冷たくみえた。
「なんだ、さっきとほとんど位置が変わっていないじゃないの。だったらもっといればよかった」
 太陽を直視して、紫はそう呟いた。

 幽々子は布団に入っても、なかなか寝付くことができなかった。全身にまとわりついた疲労は、もはや指一本動かすことを許さない。それなのに、眠れない。空腹というのもある。紫のことも考えてしまう。だが、それよりももっと、今の幽々子にとって切実な感覚があった。
 それは、温度だった。
 温かく、ない。
 暖をとった室内は、暖かい。布団も、中の熱を逃がさず、暖かさを保っている。
 にもかかわらず、幽々子自身が温かくなかった。自分の肌に触れるとそれがはっきりとわかる。確かに自分の肌だという自覚はあるものの、まるで石か何かのようだった。動物の持つ、柔らかさに欠けていた。
「そっか、私、幽霊なんだ」
 その前が、何だったのか。おそらくは人間だったのだろうけれど、具体的な内容が頭からすっぽり抜けている。幽々子にとって自分とは、幽霊である自分しか存在しない。自分の肌に対して違和感はあるものの、以前の自分の肌がどういった感触だったのか、もう思い出せない。
 紫は、馴染む、と言っていた。
 そうすると、自分の体に温かみがないこともまた、馴染んでいくのだろう。幽々子は、あまり深刻に考えないことにした。紫に任せれば、全部いいようにしてくれるだろう、そういう、幼子のような信頼を胸に、眠りについた。


   ***


一、白玉楼と秋の神

 肩を揺すられる。わずかに覚醒するが、まだ眠りの水面を漂っている。また揺すられる。さっきより少し強めだ。水面をちゃぷ、ちゃぷ、とかきわけていくが、上がる気は毛頭ない。この状態が、もっとも眠りの快楽を貪られるのだ。
 また揺すられる。二度、続けて。
 しつこい、と思うが、苛立つより先に眠くなる。
起こそうとするその動作は、はじめは控え目だったが、やがて遠慮のないものになっていく。頭ががっくんがっくん揺さぶられる。
「あー、世界が揺れるー」
「いい加減ッ、起きて下さい!」
 布団を一気に引き剥がされる。
「あーれー」
 途端、布団という境界の外に追いやっていた寒気が一気に押し寄せる。西行寺幽々子は白い単衣だけをまとった自分の体を抱きしめる。
「寒いわ、妖夢」
「布団引っ剥がしてでもいいから卯の刻(午前六時)に起こすようおっしゃったのは幽々子様ですからね。まったく、昨日あんなに遅くまで起きているからですよ。あの黒白と何を話してたか知りませんが」
「ただオセロしてただけなのに」
「オセロってなんですか……まあ、それはともかく」
 白のブラウスに緑のベスト、スカートという服装の少女は、掛け布団を脇に抱え、ジト目で主人を見下ろす。
「起こせなかったら、罰として是非曲直庁に出張庭刈りに行かせる、などとおっしゃるものだから、私もこうして強引な手段に出たまでです。恨むなら昨夜の寝る前のご自分を恨んでください」
「主人をこんな寒い目に遭わせるなら、やっぱり行ってもらおうかしら」
「はい、目覚めのお茶ですよ」
 掛け布団を、幽々子の手の届かないところに置いて、持参した盆から湯呑を取る。中に入った緑茶が、芳醇な香りと濛々たる湯気を立てていた。妖夢が手を添えて湯呑を差し出すと、その上から幽々子が手を添える。
「温かいわ」
「というよりも、熱いですね。幽々子様を起こすのに時間がかかってぬるいお茶しか出せないというのは、悔しいですから。お湯は沸騰させてから使いましたし、あなたを起こすのにもあまり時間はとらなかったと思います」
「そうじゃなくて、妖夢の手」
「えっ」
 妖夢は戸惑った。確かに、半人半霊の妖夢はまだ人間の体温の半分ほどはあるが、幽々子のそれはほとんど零と言っていい。だが、妖夢にとってそれは当たり前のこと過ぎて、何を今更、という思いが強い。
「はあ、確かにまあ、幽々子様よりは温かいですね」
「私は冷たいの」
「知ってますよ。ってああ、その、皮膚の温度のことを言っているんですよね。何も私は幽々子様がひととして冷たいとか、そういう意味で言ったのでは……ああ、でもそれもあってるかな……と、とにかく、深い意味はありませんよ」
「自分の思ったことをずけずけという習慣がついて、いいことだわ」
「……すみません」
「さあ、出発の準備をするわよ」
 幽々子は、今まで眠りと覚醒の境界をさ迷っていたとは思えないほど、勢いよく立ち上がる。
「妖夢、服を持ってきて、着せなさい。下に降りるわよ」
「下って……また博麗神社から宴会の誘いでも来たんですか。あまり顕界に出入りしない方がいいような気がするんですけど。閻魔様もそうおっしゃってましたし。それに、私はあなたに服を着せたことなんかほとんどありません」
「妖夢、このお茶おいしいわね」
 幽々子は立ったまま、妖夢の淹れてきたお茶を飲む。こうなるともはや幽々子が聞く耳持たないことは、妖夢は経験で知っている。
「わかりましたよ、もう」
 観音開きの衣装棚を開けて、水色の着物を取り出す。広げると、ほのかな香りが立つ。妖夢はそれを嗅ぐと、陶然とした心地になる。そのままうっとりとなって精神がどこかへ飛んでいってしまわないよう、精神を引き締める。唇を結び、眉を吊り上げる。
「では、お着せしますよ」
 幽々子の後ろに回る。幽々子はにこにこしている。
「やさしくしてね、妖夢。でも、きちんともしてね。せっかくひとに会うんだから」
「はい、右手あげてください」
「はーい」
 左手をあげる。
「子供じゃないんですから、ふざけないでください」
「……はぁい」
 それからは、妖夢の言うことに素直に従い、着物を着せられるままになった。最後に妖夢が帯を巻いていると、幽々子は手を伸ばし、障子を開いた。
「わっ、眩し……」
 妖夢は声を出す。幽々子は無言で目を細め、ほほえんだ。庭にうっすらと積もった雪は、青空に輝く太陽の光を反射していた。
「この分じゃすぐに溶けそうね。冥界でこんな調子なら、顕界で雪が積もるのはもっと後かしら」


 もはや秋風というには冷たすぎる突風を受け、秋穣子は泣きたい気分になった。数ヶ月前にお呼ばれした収穫祭が懐かしい。あの時は村人に囲まれて、褒めそやされ、酒をつがれ、食べ物を供えられ、まさに神たるにふさわしい扱いを受けていた。もうやりたい放題だった。それが、秋も終わろうとする今、誰も彼女のことを覚えていないかのようだ。来るべき冬に備え、幻想郷の人間たちは燃料の備蓄に余念ない。雪合戦の好きな子供たちや、温泉での雪見酒が好きな大人たちは、早く冬になれと思っている。
 とんでもない話だった。
 最近は、身にまとう果物や農作物の香りにも侘しさがつきまとうようになった。これでは、ますます人間は彼女から離れていってしまう。
「はあ、冬なんて、冬なんて……」
 深くため息をつき、穣子は空を仰いだ。これで雪でも降って来たのなら、いよいよ号泣間違いなしといったところだったが、彼女の視界に入ったのは、白い点ではあっても、雪の粒ではなかった。
「あれは……?」
 目を眇めて、その正体を見極めようとする。
 丸い頭に、オタマジャクシのような尻尾がついている、白いものだ。あれが何か、神である穣子は知っている。
「どうして霊魂が降りてくるんだろう。昇っていくんならわかるけど。まあ、それでもこんな朝っぱらから堂々と昇天するなんて、おかしな話よね」
 最近誰も相手してくれないから、ひとりごとが多い。
「朝っぱらから降りてくるなんて、もっとおかしな話だわ。あの世で何かあったのかしら」
 霊魂は次第にこちらに近づいてくる。どんどん大きくなっている。霊魂の上に、ひとがふたり、乗っている。前に乗っているのが白髪のボブカットの少女だ。もうひとりの少女は、薄桃色の髪の毛に、青いゆったりした着物を着ている。そちらの少女は、穣子を指差している。どうやら、さっきからずっと指していたようだ。
 霊魂が穣子の前で止まる。ボブカットの方は軽やかな身のこなしで、着物の少女は重力を無視して、それぞれ着地する。
「おはようございます。私は、冥界の白玉楼に勤めている、魂魄妖夢と申します」
 妖夢は背筋を伸ばし、礼儀正しくお辞儀をする。穣子は目端で、妖夢の腰と背についた二本の鞘を捉える。穣子自身は戦闘は得意ではないが、そこは八百万の神のひとりだ、相手の力量はだいたいわかる。妖夢と名乗るこの少女が、相当な腕前であること、自分では逆立ちしても勝てない相手であることも、わかる。穣子が展開する雨空の弾幕や、稲穂のレーザーも、彼女の一太刀で切り裂かれるだろう。
「あ、ど、どうも。秋穣子です」
 ひとの価値は、力だけではない。そんなことは無論、穣子も知っている。しかし冬に入ろうとする今、豊穣を司るはずの穣子に、神たる威厳はかけらもなかった。
「それで、冥界の方が何の用ですか?」
 問いかけると、妖夢はちょっと困った顔をして、後ろを振り向いた。そこには薄桃色の髪の少女が、にこにこして立っている。どうも、自分を見て嬉しそうにしているようだと、穣子は感じた。
「それが、その、私にもよくわからなくて。ただ、幽々子様がひたすらあなたを指差して、あなたの方へ行け、行けと言われるもので」
「はあ」
 意外に要領を得ない返答に、穣子も曖昧にうなずく。幽々子様と呼ばれた着物の少女は、にこにこしたまま、穣子に近づいてくる。そして彼女の手を取り、手の甲を舌で舐めた。
「ひゃっ」
 氷に撫でられたようだった。穣子の背筋を震えが這い上がる。
「秋は実りと衰亡の象徴。あなたは、おいしい方の秋ね。私は冥界で亡霊をやっている西行寺幽々子と申します。お見知り置きを」
 穣子は手首を握られた。そこから、幽々子の冷気が伝わる。あまりの冷たさに、腕の感覚がなくなりそうだ。
「牛乳や漬物を発酵させるのも、豊穣を司る神様、あなたの力ね? 私と妖夢で祀るから、何か食べさせて。朝から何も食べていないのよ」
 穣子の震えは止まった。
 恐怖を通り越して、諦めの念を抱いた。もし彼女に目をつけられたら、何をしようが無駄だ。刀が相手なら、どれほど力の差があろうとも、まだ逃げようがある。抵抗しようがある。しかしこの亡霊はそういうのとは次元が違った。
 彼女らは、無理強いはすまい。断ればそれ以上踏み込んでは来ないだろう。逃げようと思えば逃げられる。
「祀ってくれるの? なら歓迎するわ。亡霊から祀られるなんて、滅多にできない経験だし。今日は特別に私が招待する側になるわ」
 しかし穣子は、うなずいた。
「あら、嬉しいわ。それじゃあ、お邪魔します。私も神様の家なんて滅多に行かないから、楽しみだわぁ」
「幽々子様、あまり調子に乗らないでください。出会ってすぐのひとに食べ物を要求するなんて、あさましいですよ。秋さん、嫌だったら断った方がいいですよ」
「嫌だなんて、とんでもない。せっかく冥界から遥々やってきたんでしょう。あんまり秋も残っていないけど、私の残り少ない力で、精一杯のおもてなしをさせてもらうわ」
 穣子は、今までの鬱々とした気分が晴れてくるのを感じていた。冬も近いこの時期に、自分を祀ってくれるというだけでも希少価値だ。それに、出会ってまだ間もないこのふたり、冥界からの来訪者を、穣子は好きになりはじめていた。

 秋姉妹の家、すなわち神社は、人里から歩いて一時間ほどのところにある。神社と言っても、拝殿と本殿が一緒になったような、こじんまりとしたものだ。境内に集会所が建てられている。人々が参拝した後はここで集まって酒盛りをするのだろう。造りから判断するに、どう贔屓目に見ても、神社本体よりこちらの方に主眼が置かれていた。
 里から少し離れているため、自然にも人間の手があまり入っていない。だが、獣や妖怪が入り浸るには人間の匂いがしすぎるという、微妙なバランスを保った地点に作られている。収穫の時期には、穣子の社が里の田や畑、広場の各所にも増設され、お供え物も急増して左団扇の暮らしができるのだが、その他の季節はわりとあくせく働きまわらねばならない。
 特にこれからはじまる冬が、穣子とその姉にとっては覚悟のいる時期だった。
 秋に蓄えた信仰を、爪に火を灯すように小出しにして、なんとか乗り切らねばならない。そして、目を皿のようにして、信仰心がその辺に落ちていないか探す。普通、ひとが寒さから逃れようとして頭に思い描く季節は、春や夏であって、秋ではない。それでも中には奇特な者もいて、真冬の寒い中、「秋が懐かしいな」「早く秋にならないかな」などと考えることもある。そういったレアな信仰心は、通常、備蓄のみでやりくりせねばならぬ姉妹にとって、貴重な栄養源だ。
 春、夏、と時が過ぎるにつれ、秋の涼やかな空気を待ち望む心も増えてくる。そうすれば一息つける。冬の間、そこまで耐え抜かねばならない。
 そういった秋の神の切羽詰まった思いが自然にも影響を与えているのか、神社の周囲に生えている木は、残らず葉っぱが落ちていた。秋の神の住まいなのに、他よりも一足先に冬が来ているような寂れっぷりだった。
「こ、これは、なかなか侘しげな趣のある神社ですね」
「あらら、こんなところに食べ物があるのかしら」
 懸命にフォローしようとする妖夢などお構いなしで、幽々子は思った通りのことを言った。だが、もう穣子はおどおどしたりしなかった。
「それは、あなたたちの信仰心にかかっているわ」
 階段を上って本殿に入り込む。
「そっちで待ってて」
 そう言って、集会所を指す。
 中は、長方形型の、二十畳ほどの広さだった。土間が広めにとられており、そこには大きな竈もある。床は全部板張りなので、寒々しい印象しかしない。
「きっと、秋なんかだとみんなでここに畳持ち込んでお酒飲んで、足の踏み場もないほどの酔漢で埋め尽くされてたんでしょうね」
 往時を想像し、妖夢はため息をつく。この広さの部屋で、ぽつんとふたりでいるのは、あまりに空しかった。
「ああ、料理は何かしら。楽しみだけれど、不安でもあるわ。氷のように冷え切った生の大根とか出てきたら、どうしましょう」
 幽々子は、妖夢が感じる空しさなどどこ吹く風で、竈を覗き込んだり、広間をうろついたりしている。
「そんなもん出てきたら、叩き切って帰りましょう」
「まあ、神殺しね、妖夢」
「大根の話ですよ」
「あら、神様が米俵担いでいるわ」
「そりゃ、神様ですから米俵ぐらい担ぐでしょう。考えてみれば当たり前です」
 どう当たり前なのか、言っている妖夢自身もよくわかっていない。幽々子は、見るからに寒々しい木の格子窓から外を見ている。妖夢は幽々子越しに、窓の外をのぞきみる。確かに、穣子が米俵を背中に担いでこちらにやってきている。たった一俵だが、いかにも重そうだ。ほとんど腰を地面と平行に曲げている。今にも押しつぶされそうで、妖夢はハラハラする。
「手伝ってきましょうか」
「あ、神様が水汲みしている」
 窓から井戸が見える。その井戸の傍らに、赤いスカートをはいた少女がいた。頭には枯れ葉が乗っている。シャツやスカートからのぞく手足は華奢であまりに弱々しく、井戸から持ち上がった桶を持ち上げる手つきも危なっかしい。
「私、手伝ってきますね」
 妖夢は立ち上がり、土間に脱いだ靴をはこうとする。幽々子は妖夢のスカートの裾をつかんでひっぱった。
「待ちなさい妖夢」
「わ、ちょっ、変なところつかまないでください。脱げ……」
「私たち、とっても勘違いしていたみたい。ああ、なんて馬鹿だったのかしら。嫌ねえ」
「なんのことですか」
 ぐいぐいと裾をひっぱる幽々子に逆らい、妖夢はスカートを腰のところで両手でつかんで、それ以上下がらないようにしている。
「私たち、ここに何しにきたのかしら? それを考えないといけなかったのよ」

 穣子は右肩に米俵、左肩に野菜のたっぷり入った籠を軽々と担いで、集会場に入っていった。手ぶらで出てくる。集会場には、すでに米俵が二票と、果物の籠が三つある。あんなに食べきれるだろうか、と妖夢は思う。
「妖夢、よそ見しないのよ」
 隣の幽々子から注意される。見ると、幽々子は目を閉じ、手を合わせている。何かもごもごと呟いている。
「ごはんごはんごはんごはん……」
 ずっと聞いていると、それがとてつもなく切実な祈りの言葉のように聞こえてくる。幽々子は目を開け、顔をあげた。
「おいしいごはん」
 そして拝殿の奥の闇をしっかと見据える。真剣な眼差しだ。妖夢が呆れながら幽々子を見ていると、突然見返された。
「妖夢、あなたちゃんとお祈りしている?」
「え、あ、はい! し、してますとも」
「本当に?」
「はい、ちゃんと二拝二拍一拝しました」
 幽々子の見よう見まねだったし、お手本となる幽々子の作法自体どこか怪しかったが、とにかくするにはした。
「して、それで?」
「え、ええ? しました。それだけです」
「あなた、何も言わなかったでしょう」
「言わなきゃ駄目なんですか」
「せめて心の声で何か言わないと。私には聞こえなかった」
「はあ、そうでしたか」
「もうすぐおいしいごはんができるわ」
 そこでようやく幽々子は拝殿から目をそらし、周囲を見渡した。
 さっきまで葉が一枚もなかった木々が、今や紅葉で埋め尽くされていた。赤いスカートの少女、秋静葉は、赤々と色づいた紅葉を一葉頭に乗せて、境内を優雅に散歩している。集会場からは、芳醇な香りが漂ってきた。
「え、どうして。だってさっきまで何も……」
「気になるなら、行ってきなさい。妖夢はここにいたって何の役にも立たないんだから。私はここで祈りを捧げています」
 よく聞くと散々なことを言われているのだが、場面が場面だからか、一向に悔しくない。妖夢は幽々子に言われた通り、拝殿の前からさっさと立ち去って、集会場の扉を開いた。むせかえるような食べ物の匂いと、冬とはとても思えぬ暖気が中から流れ出たことにまず驚いた。そして中の光景を目にし、絶句した。
 切り開かれた米俵からは、炊き立てのご飯が湯気を立てていた。リンゴは割れ、瑞々しい芳香を放っている。幽々子が懸念していた大根はそのままの形で熱く煮えている。みかんはひとりでに皮が剥がれていき、ぷりぷりの身をさらしていく。芋は柔らかく茹であがっている。エンドウ豆も、キュウリも、トウモロコシも、イチゴも、茄子も、もはや食われる準備は万全とばかりに、食欲をそそる匂いを放っている。竈ではお湯が湧きたっている。
 いつの間にか板張りではなく畳敷きになっている。そういえば集会所の外に、雨ざらしになったままのボロボロの畳があったが、それを直したのかもしれない。
「もう何でもありね。さすが神様」
 妖夢は呆気にとられて、感嘆のため息をついた。
 穣子は踊っていた。彼女が腕を振るたびに、食物が宙を舞った。焼かれ、煮られ、切られ、思い思いの形で皿に収まる。
「すごいわ、すごいわ! 妖夢! あなたのご主人様、まるで底なしの信仰心ね! ああ気持ちいい、これだから神様ってやめられない」
 穣子は酒に酔ったように顔を火照らせている。本当に楽しそうだ。
「私は幽々子様ほど熱心に祈らなかったけど、食べてもいいのかしら」
 妖夢が尋ねると、穣子は勢いよく首を縦に振った。果たしてひとの話を聞いているのかどうか怪しいが、妖夢はありがたく頂くことにした。
 まるで手品のように現れた木の食卓に、料理が並んでいく。妖夢は畳に正座する。目、鼻、肌と、五感を通じてこれでもかと食欲を刺激される。やがて、扉が開き、ふわふわと宙を浮いて幽々子がやってきた。満面の笑みを浮かべている。妖夢の隣に着地し、同じように正座する。
「妖夢、偉いわね、待っていたのね」
「主人より先に食べるわけにはいきませんから」
 妖夢は嘘はついていない。だが、実際の理由は別にある。
 妖夢は考えごとをしていた。さっき穣子は、信仰心と言った。幽々子に信仰心というものがあるのかどうか、妖夢はわからない。だが神様がそう感じたというのであれば、そこに嘘はないはずだ。実際、目の前で、一介の剣士である妖夢には逆立ちしてもできっこない神業が行なわれた。ならば穣子が感じたのは、幽々子の食欲全般に対する信仰だったのか? しかし、幽々子本人が言っているほど、彼女の食い意地が張っているわけでないことは、いつも一緒にいる妖夢はよくわかっている。花を愛で、季節の移り変わる匂いを愛で、書物の織りなす物語世界を愛でるのと同じ意味で、幽々子は食べることを愛でている。もはや亡霊にとっては必要のない、食べるという行為を。
「いただきます」
 幽々子は手を合わせ、皿に盛られた料理に頭を下げた。
 溢れんばかりの感謝の思い、それは伝わる。だがそれがどこから来るのか、妖夢にはさっぱりわからない。妖夢が考えている間に、幽々子はひょいと手を伸ばし、柿をひと玉、まるまる口に放り込んだ。


 穣子は口から涎を垂らして熟睡していた。
 自身の豊穣を司る能力を、局所的とはいえ全力で使ったのだ。幽々子と妖夢の食事が済むと、そのまま満足げにばったりと倒れ込み、そのままである。
 食卓の料理は、綺麗に平らげられていた。今回並んだ料理は、すべて土からできるもので作られた。魚も獣も鳥もいない。だから骨も出ない。調味料も塩と醤油が少し出たぐらいだ。繊細な調理ではなく、ほとんど原形のままの料理だった。それを幽々子は見事に平らげた。足を崩して横座りになって、満足げに茶を啜っている。妖夢は隣で正座したまま、同じように湯呑を持っているが、幽々子に比べると苦しそうだった。途中からは、妖夢のおいしく食事を頂ける許容量を超えてしまい、幽々子が隣でばくばく食っている間、ちょこちょこと箸で料理をつつくだけになってしまった。
「今日は、ありがとうございました。妹の分も合わせて、お礼申し上げます」
 静葉は深々と幽々子に頭を下げる。幽々子は茶を啜りながら、ぱたぱたと手を振った。
「いいのよ、私も楽しめたわ。お互いに気持のいいことをする。これが信仰の一番はじめの形よ」
「妹も言ってましたが、あなたが私たちに与えてくれた信仰心は、無尽蔵と言ってもいいくらいでした。その信仰に見合うだけの満足を、あなたにお返しすることができたでしょうか。私は、それが気になるのです」
 腹が膨れすぎて、苦しいながらも睡魔に襲われかけていた妖夢は、はっとなって静葉を見直す。茶を飲み、舌を熱で刺激して、意識を覚醒させようとする。静葉は、何かを知っている風な口振りだ。
「そうねえ、とっても楽しかったし、おいしかったけれど、満足とまではいかなかったわね」
「やっぱり、そうですか」
 静葉はため息をついた。
「何が足りませんでしたか?」
「甘味、ね。果物の甘さよりも、もっとねちっこい甘さ。白ご飯ももちろん甘いのだけれど、もう少し甘いのが一緒に欲しかったわ」
「たとえば?」
 静葉が促す。
「たとえば、そう、栗ご飯とか」
「そうですね」
 静葉はため息をつく。
「本来なら、ここに一緒にお出しするはずだったものです」
「本来なら? どうして? もう栗ご飯は食べられないのかしら」
「しばらくは無理でしょう。今、妖怪の山に栗は実りません。山で一番偉い栗の木が重い病にかかっているので、その看病のために力を使っているのです」
「そう、危ないのね」
「わかるのですか」
「私の仕事は、死者の魂を管理することですから。もうすぐ死ぬというひとは、匂いでわかるの。ただ、それが一年後なのか一週間後なのかはわからないけれど。他の仲間が自分の実を犠牲にしてまで看病してあげているのに、死の匂いが全然引っ込まないというのなら、それはもう長くはないわ」
 そう言って、幽々子は立ち上がる。
「妖夢、行くわよ」
「え? どこへですか」
「山登りよ。昼には用を済ませて、白玉楼に帰れると思ったけど、一日仕事になりそうね」
「あの、幽々子様は、いったい何をされたいんですか。誰かにお会いになるんですか」
「確認さえ取れればよかったんだけど。今回会わないともう無理みたいね。それでも、可能性は五分五分と言ったところかしら」
 混乱の度合いを増すばかりの妖夢を放って、幽々子は空になった湯呑を食卓に置いた。
「ごちそうさま」
「待って下さい」
 集会所から出ていこうとする幽々子の背後から、静葉が声をかけた。
「私も、お供してよろしいでしょうか。足手まといにならないように頑張りますので」
「幽々子様……」
 妖夢は主人を見る。
 妖夢の見る限り、静葉は戦闘は得手でない。おそらく妹以上に。幽々子の目的がいまいちよくわからないが、もし本当に山に登るというのなら、それは妖怪の山だ。河童や天狗ら、名だたる妖怪が跳梁跋扈する山に、果たしてこの秋の神を連れていき、無傷で守ってやれるかどうか、妖夢に自身はない。幽々子ならば何があっても守ってみせるが、それを他者まで広げられるかとなると、話は違ってくる。
「いいわよ、道中、妖夢とばかりじゃ退屈しそうだから。おいでなさい」
 そんな妖夢の内心など知らぬげに、幽々子はあっさりと首肯した。静葉は顔いっぱいに喜色を浮かべた。
「ありがとうございます!」
「妖夢、このひとも守ってあげてね」
 幽々子が望むことならば、妖夢に考える余地はない。与えられた状況で、幽々子の望むことをする、それだけだ。
「わかりました。命に代えても、お守りします」


 朝方、白玉楼に主人不在との報告を聞いた時、タイミングがタイミングだけに、四季映姫はもしやと思った。調査してみると、まさしく懸念通りの結果が出てきた。
「西行寺幽々子……ッ、あの子はどこまで自分の思う通りにすれば気が済むというの」
報告書を持つ手が震える。ノックの音がする。
「入りなさい」
 瞬時に平静な表情に戻す。
「お呼びですか、四季様」
 執務室に、小野塚小町が入ってくる。
「小町、あなたに命じます。顕界に行っている西行寺幽々子を、白玉楼に連れ戻してきなさい。あなた個人が使える範囲内の手段であれば、どのような手段を取っても構いません」
「生死は問わず、ですね。亡霊だけに」
「小町!」
 上司の叱責に小町は肩を震わせ、頭を下げる。
「す、すみません」
「それが命令を受ける者の態度ですか」
「だって、あの、その、四季様、あんまり張り詰めていたものですから……軽いジョークでもと思って」
「時と場所を考えなさい。すぐに行くこと。ああ、それから、天魔と話はついています。天狗たちは好きに利用して構いません」
 小町の表情が、変わる。映姫はほほえむ。
「今回、私は少し本気ですよ」
「ええ、よくわかります」
「そろそろあのお嬢さんにも、立場というものをわかってもらわないといけません。私が個人的に説教しても、まるで馬耳東風、右から左へ流れるばかりですからね。その辺りはあなたと似たところがありますね。あなたは」
「小野塚小町、行ってまいります!」
 説教が本格化する前に、小町は逃げるように部屋を出ていった。


二、樹海と天狗の哨戒

 麓を進むと、大きな樹海に入り込んだ。冬とはいえ、天気は晴れだ。その日の光も、樹海の中にはほとんど届いていなかった。
「それにしても、どうして静葉さんまで山に登る必要があるんですか」
 妖夢は、隣を飛ぶ静葉に話しかけた。妖夢は、全速力ではないにしろ、ほとんど速度を緩めずに飛んできている。だが、静葉は平気な顔でそれについてきていた。
「幽々子様の祈りのおかげで、冬への備えもできたんでしょう? わざわざ一緒についてきてもらわなくても……」
 足手まといとはちょっと言いにくい。それに、幽々子は静葉の同行を承知したのだから、正面から帰れとも言えない。静葉は微笑して、妖夢の問いに応える。
「冬は長いのです。今日のはひと昼の夢だったと、思っています。それに私には、会ってみたいひとがいるんです。一度でいいから、お会いしてみたい、できればお話もしてみたい。そのひとは妖怪の山にいらっしゃるから、私ひとりではなかなかいけないのです。それで、ちょうどいい、というと失礼かもしれませんが、あなた方が山登りをされるというので、一緒に行きたいと思いました」
 筋道の通った話だった。妖夢は飛びながら、うなずく。
「私たちに一時的とはいえ、秋の力を取り戻させてもらった恩返し、なんて言ったら、かえって疑うでしょう? 妖夢さんだと」
「う……え、ええ、まあ」
 妹よりも、遥かに手強い。気を抜くとすぐに心を見透かされてしまいそうだ。
「おそらく、幽々子さんが向かっているところと、私が目指すものは同じではないかと思います。そしてそのひとは……」
「幽々子様、静葉さん、下がっていてください」
 妖夢の声が、低くなる。
「五、六……十、かなりの数です」
 声の鋭さが増す。刀の柄を握り締める。速度を落としていく。やがて、空中にぴたりと止まる。幽々子は静葉の袖を引いて、地面に降りた。そのまま宙にいる妖夢に背を向けて、先に進んでいく。
「あ、あの、私たちは手伝わなくても……」
「大丈夫よ。よっぽどヘマしない限り、なんとかなるわ。妖夢なら。私たちは私たちで、勝手に行きましょう」
 おずおずと問いかける静葉に振り向いて笑いかけると、構わず歩き出す。静葉は、気になって何度か妖夢を振り返りながらも、幽々子のあとを追った。

 頭上の木の茂みから、斬撃が降りかかってきた。
 短剣の白楼剣で受け止める。重い手応えだ。かなりの手練れ、とその一太刀で妖夢は判断する。
「やるな、人間の癖に」
 白服に黒スカートをまとった白髪の少女だった。髪の間からは狼の耳が突き出ている。しゃべりながらも、鍔迫り合いを挑んでくる。
「私の白楼剣を甘く見ないでもらいたい」
「そう、あなたこそ、白狼天狗を侮り過ぎでは?」
 妖夢は空いた右手で長剣の楼観剣を抜きざま、白狼天狗の少女を切りつける。白狼は妖夢から離れ、それをかわす。
「よくそんなことが言えるな、これだけ気配を垂れ流しておいて。十四、五といったところか」
 木の枝に爪先立ちした白狼は、鼻で笑う。
「ふうん、やっぱり人間ね。そんなに少ないと思ってるんだ」
「人間じゃない。半人半霊よ」
「似たようなものね」
 少女は鼻で笑い飛ばす。
「私は白玉楼の庭師、魂魄妖夢だ。白玉楼の主人、西行寺幽々子様にお仕えしている」
 妖夢は剣の切っ先を白狼の少女につきつける。
「私は白狼天狗の犬走椛。仕事は山の哨戒よ。あなたみたいな不審人物を叩きだすのが、私の仕事」
 妖夢の背後から弾幕が襲いかかる。それをかわしている間に、下方から別の白狼天狗が飛びかかってきた。これは難なくひと振りで撃ち落とす。
 目の前には、椛の弾幕が出来上がっていた。ひらがなの「の」の字に似た縄のように連なる弾幕が、妖夢の行く手を塞ぐ。
(やはりこいつがこの集団では一番上か……)
 柄を握る手が疼く。幽々子を守らなければならない、という使命感に勝る思いは妖夢に存在しない。だが、強敵と戦うことに悦びを感じるのもまた、事実だった。
「断命剣・冥想斬」
 剣を振りかぶり、妖気を蓄え、一気に振り下ろす。「の」の字弾幕は無残に裂かれた。
「くっ、そんな馬鹿な」
「魂魄妖夢、参る!」
 椛に飛びかかる。周囲の茂みから、椛を救おうと、続々と新手が現れる。


   ***


 ふと、夜中に目が覚める。
 空腹感はすでに当たり前のものとなり、苦痛には感じなくなっていた。お腹いっぱい食べものを体に詰め込みたいという欲求はまだあったが、前ほど切実ではなかった。
 その時幽々子の目を醒まさせたのは、甘い匂いだった。しかも、むせかえるほど濃密な。幽々子は布団から起き上がり、白の単衣姿のまま、部屋を出る。縁側に出、裸足で庭に下りる。灯りに吸い寄せられる蝶のように、濃く、甘ったるい匂いのもとへ行く。
 その夜の闇は、大きく、重たかった。月と星、それに建物のわずかな明かりだけが、辛うじて闇を切り分けていた。幽々子の目の前に、覆いかぶさるようにして何かが現れた。
 触れると、固く、ごつごつとしていた。木の幹だ。匂いはより一層強くなる。手を頭上に伸ばすと、葉っぱに手の甲が当たった。それを引き寄せる。匂いは、完全な状態で幽々子の前にあった。
 月の光に照らされて、白っぽい花が闇に浮かんでいる。馥郁たる芳香、とはまったく違う。ともすると生々しく、くどく、ひとによっては嫌悪を誘うような匂いかもしれなかった。だが幽々子は、その、酩酊を誘うような濃い、独特な香りをすんなりと受け入れた。
 花びらに鼻を当てる。それから、ぱくりと口の中に入れた。特に意識はしなかった。自然と、そうしていた。今までの食べ物と違い、それは抵抗なく幽々子の中に入っていった。香りが、体中に広がっていくのを感じる。さらに、葉っぱも食べてみた。花びらほどではないが、結構いけた。
 つん、と眉間の奥が沁みる。
 今までの生々しいそれとは違って、乾燥した、冷たい匂いだった。いや、匂いというよりは、もっと五感全体に訴えかけるような感覚だ。この感覚に、幽々子は覚えがあった。ひとがひとでなくなる時、こういう冷たい風が吹く。死臭、ともいう。ひとが死んだ時、それを鼻で感じれば死臭となる。目で感じたり肌で感じたりすると、霊気や冷気、とまた別の名がつく。
 幽々子はおぼろげながら、理解している。今、鼻の奥がつんとしたのは、死者の魂に触れたからだ。昔、自分はそれに触れていたことがある。または、それを自由に弄んでいたことがある……
 香りが強くなった。目の前に花があった。見上げると、枝が不自然な角度で曲がり、幽々子の口元へ花を向けている。幽々子が見ると、まるで差し出すように、枝が動く。
「あまり難しいことは、考えないで」
 木が話しかけてくる。
「そうね、思い出しても仕方のないことね。大事なのは、ようやく私に食べられるものが出てきたっていうことだもの」
 幽々子の言葉に賛同するように、次々と枝が降りてきて、幽々子に花を差し出した。幽々子はそれを片っぱしからむしって、口に放り込んだ。濃い花の香りが幽々子を侵していく。
「あなたは誰?」
 幽々子は問う。
「私はただの栗の木よ。ひとよりも少し長く生きて、ひとよりも少し多く、人間の死を見てきただけ。今度白玉楼の主人が変わるというので、顕界から植林されてきたの」
「戦場にでも生えていたのかしら」
「まあ、そんなところね。でも、あなたほど人間の死に触れることはないでしょうね。これまでも、これからも」
「栗の木さんは、私が誰だか知っているのかしら」
「知らないわ。全然。でも、一目見てわかった。あなたが、私の探し求めていたひとよ」
「あら、そう。私、あなたのことなんか全然知らない。それに、あなたを求めていたとも思えないわ。栗の木なら、栗の実を食べさせて」
「お安い御用よ」
 花のひとつが、自然ではありえない早さで枯れていき、見る間に実をつけていった。無数の針で追われた実が、幽々子の目の前にある。幽々子はそれを手にとり、中に親指を突っこんだ。
「痛くない? 妖怪や獣はたいてい、こういう尖ったものは嫌がるのだけど」
「痛くないわ。私が幽霊だからかしら」
 実をとって、爪を立て、殻を割る。中身を口にする。
「甘いわ。栗ご飯なんていいかもしれない」
「今のあなたじゃ、それはもう無理ね」
「どうして」
 幽々子は疑問に思い、眉をひそめる。
「あなたは亡霊でしょう。人間と同じ食事なんかできないわ」
「じゃあどうすればこの飢えを満たせるのよ」
「人間の魂を食べればいい。丸呑みしたら閻魔たちに怒られるだろうけど、かじるぐらいならバレはしないわ。今までの白玉楼の主人たちだってそうしてきたわ。それか、人間の死の味を知っている花や果物を食べることね。たとえば私みたいな」
 枝は伸び盛り、まるで幽々子を幹につなぎとめるように、あるいは抱きかかえるように、まとわりつく。幽々子は逆らわなかった。力ではとても逆らえそうになかったというのもあったし、あまりこの栗の木に害意が感じられないというのもあった。幽々子にからみつく枝からは、花や葉が絶えず生まれてくるので、幽々子はその度に食べた。
 朝が来ると、眠くなった。昼頃一度起きたが、相変わらず自分の体が栗の木につなぎとめられ、動けないのがわかると、また眠った。夜に起きて、花を食べながら一晩中栗の木と話をした。栗の木は、話題に乏しかったが、視界から見える庭のあらゆる自然の動きにだけは、精通していた。人間には感じとれない微細な部分まで完全に把握していた。幽々子にとってそれを聞くのは、楽しかった。自分まで自然の一部に溶け込んだような気分になった。
 そんな風にともに過ごして三日が過ぎると、栗の木はあまり話さなくなった。幽々子も、彼女と話す必要を感じなかった。言葉よりも、体にまとわりついている枝や、食べた花や、むせかえるような甘い匂いを通じての方が、より彼女の気持ちが伝わってきた。枝の一部が幽々子の中に入り込んでいる。幽々子の皮膚から、芽が何本か生え始めている。苦痛ではない。このまま、栗の木と、言葉のない会話を続けながら、ここに根を下ろすのも悪くはないと思った。
 だが、何かが引っかかる。
 このままではいけないと、後ろ髪を引っ張る何かがある。
 何のために自分は亡霊になったのか。
 ひとでなくなった時、そのまま消滅するのではなく、こうして意思を持ち続けるようになったのか、それが気にかかる。
 誰が、望んだのか。
 あるいは、誰のために、望んだのか。
 それがわかるまでは、まだ栗の木と同化するわけにはいかなかった。
「ねえ、ちょっと離して」
 栗の木とともにいるようになって、十日が過ぎた夜、幽々子は口に出してそう言った。自分の体から生えた葉が、かさかさと音を立てる。
「用事を思い出したの。帰らないと」
「駄目よ」
「ねえ、用が済んだらまた来るから」
「その時はもう他人同士? そんなの嫌」
 戒めが強くなる。
「私のかわいい亡霊。あなたは、ずっと私といるの」
 音もなく、枝が粉微塵になる。砂のように地面に散る。幽々子は立ち上がった。さらに何本かの枝が追いすがるが、幽々子が指先で撫でると、たちまち粉になって散った。
「さよなら。また来るわ。……花、おいしかった」
 歩きにくかった。体の中に枝が残っていたし、左足からは根のようなものがすでに生えていた。それが地面に触れるたびに、そこに根付こう根付こうとするので、いちいち引き剥がしながら歩くのに、難儀した。
 屋敷に戻る頃には、夜が白々と明け始めていた。屋敷からは、炊事の煙が上がっていた。
 約束を守ってくれたのだ。そう思うと、肩の力が抜け、全身が心地よい安堵感で満たされた。


   ***


 どう考えても不自然だ、と静葉は思う。
 さっきから、まったく山の妖怪の姿が見えない。妖夢と別れて幽々子と行動し始めてから、すでに三十分近く経っている。その間、何の襲撃もないのだ。向こうが避けているとしか思えなかった。
途中、幽々子が突然立ち止まり、そのまま一、二分静葉の呼びかけにも反応しなくなったことがあったが、そのあと特に何かが起こったわけでもなかった。
 樹海を抜けると、視界が開け、光が差し込んできた。
 急峻な川が前方を流れている。木々が赤く色づいていたのももう数ヶ月前で、今ではすっかり冬へ向けて準備をしている。だが、常緑樹と枯葉の木が織りなす風景は、それはそれで味があった。
「綺麗ねえ。冥界ではこんな景色見られないわ。やっぱり、遠出はしてみるものね」
 幽々子は目を細めて川を眺め、歩き出した。静葉も樹海を出て後を追うが、吹きつけてくる風に、思わず自分の両肩を抱きしめる。
「ううっ……寒い」
 川原を歩く幽々子が振り向く。
「そうか、静葉さんは神様だったわね。亡霊か幽霊だったら、そんな風には感じないのだけれど」
「面目ないです。でも、がんばります」
「がんばってねー」
 それだけ言うと、幽々子は川べりにしゃがみこみ、流れる川に指を入れた。幽々子はひらひらした薄い水色の着物を身にまとっているだけだ。それが、この寒い中、川に手を入れている。静葉は、見ているだけで寒くなってきた。幽々子は川から指を抜き、その指を鼻に当てる。匂いを嗅いでいるようにも、ただ鼻を湿らせているようにも見える。
「ふうん、少しずれたわね。それだけ大きいってことかしら」
 静葉にはさっぱり意味のわからないことを呟き、幽々子は上流に向かって浮かんでいく。静葉も後を追って飛ぶ。
 緑髪の少女が、次第に細くなっていく川の縁にしゃがみ込んでいた。幽々子は少女の傍らに着地した。少女は、両腕を肘まで川面につけていた。腕には黒い紋様が描かれている。その形は、龍や蛇を思わせる。
「どう? 憑いたものはきちんと落ちてる?」
 幽々子は後ろから覗き込むようにして、少女に話しかける。少女は顔をあげて幽々子と目を合わせた。
「駄目、量が多すぎるわ」
 少女は、青白い顔をしていた。元々色白な顔のようだが、目元には明らかに疲れが滲みでていた。それが、少女の整った顔立ちを、よりいっそう暗く美しく仕立て上げていた。
「いつからこんななの?」
 幽々子は肘まで浸かった少女の腕を見ながら、問う。
「その聞き方だと、もうわかっているみたいね。きっと、あなたが思っているとおり。ついさっきよ。ちょうど、お昼を食べ終わった頃から。でも、今思えば、昨晩くらいから厄の憑きが激しかったような気もするわ。前兆はもっと前からあったのよね」
 少女は水面から腕を上げた。幽々子は懐から布を取り出す。
「どうぞ。冷たかったでしょう」
「ありがとうございます」
 少女は立ち上がった。暗紅色のスカートが広がる。両手をスカートの前に添えて、ぺこりとお辞儀をしてから、幽々子の手拭を受け取った。お辞儀した時、胸元で結わえた髪とリボンが揺れた。濡れた腕を拭いていく。
「亡霊なのに、こういうところには気が回るのですね」
「熱いか冷たいかぐらいは、わかるわ」
「身近に、人間に近い存在がいるからでしょうか。そういう存在に気を使っていると、自然、生き物に対する気遣いも生まれるものです」
「そうかしら」
「こちらは洗ってお返しします」
 少女は手拭を丁寧に畳み、懐に入れる。
「申し遅れました。厄神の鍵山雛と申します」
「はじめまして、西行寺幽々子です」
 お互い、お辞儀を交わす。幽々子は川の流れを目で追う。
「大丈夫かしら、こんなに厄を流して」
「ご心配なく、これぐらいに薄めれば、問題ありません」
「でも、まだずいぶんあるでしょう」
 幽々子は雛のまわりを見る。少し離れたところからふたりのやり取りを見ていた静葉は、首を傾げた。彼女にも、厄神のまわりに厄が溜まっているのは見える。黒い煙のように見えるそれが、ドーナツ状に雛を取り巻いている。しかし、幽々子が言うほどの量には見えなかった。煙も薄く、目を凝らさないとわからないぐらいだ。
「ええ、はじめ、人里で大量殺人事件でも起きたのかと思いましたわ」
 幽々子は、雛の背中を撫でてやる。
「そんなに気を張らないで。もう少し楽になさい」
「でも……」
「いいのよ。ここには私と、秋の神しかいないわ。静葉さんはさっき私が信仰したから大丈夫。多分」
「そうですかではお言葉に甘えて……って多分!?」
 雛が幽々子の言葉尻を捉えた時にはもう遅かった。黒々とした厄が雛から吹き出す。
「え、なに、これ」
 静葉の視界はたちまち黒や青、藍など、暗色系に染め上げられた。吐き気がこみ上げてくる。
「え、ちょ、わあっ」
 よろめいた時、踵が石に躓いたらしく、静葉は体勢を崩した。とっさに手を川べりの石につく。危うく手が水面に入るところだった。その石が、急に川に落ちた。今まで危うい均衡状態にあったところに、静葉が手をついたためだ。支えがなくなった静葉は、腕を川に突っ込んでしまった。
「うわあ、冷た……」
「静葉さん、横、横」
 幽々子がのんびりした声で注意を呼びかける。太い流木が川のまんなかを流れてきた。そこから伸びた枝を、静葉は何とかかわす。しかし枝の先端が、静葉の襟を引っ掛けた。悲鳴とともに、静葉は川に落ちた。そのまま流木に引っ張られて流されていく。
「あらら…… ばっちり厄に当たったわね」
「やっぱり、溜めておいた方がよかったわ。巻き添えになるひとを見るの、嫌なんですよ」
「でもなんでも溜めこむのは良くないわよ。静葉さんなら大丈夫よ、あなたから離れたら厄の効果も消えるでしょう」
「そういうものですかね。というか、どうしてあなたは無事なの?」
「さあ、亡霊だからかしら」
 幽々子は厄の渦中にいながら、涼しい顔をしている。
「まあ、いいわ。あなたには色々と常識が通じなさそうだし。それで、私の厄がどうかしたんですか? 何かの異変の前触れとでも?」
「いいえ、もうやがて終わるわ。そもそも、異変にすらなっていない」
「はあ。やがて、というと」
「そうね、二、三日か、二、三カ月中には」
「それ全然違うと思うわ」
 雛は眉をひそめる。
「私の身にもなってください。これ、体が重たくなるの」
「それが神様の仕事でしょう。だからあなたたちは信仰されるの」
 幽々子はますます濃くなっていく厄を、手でひとかけらすくう。
「三日も三年も、同じことよ。終わってしまった、ということの前では」
「この厄の持ち主を知っているんですね」
 雛の口調は、質問ではなく、確認だった。幽々子はほほえむ。
「厄神様、せっかく川が綺麗だから、一緒にお茶を飲みませんか。冥界からおいしいお茶の葉を持ってきたの。水と火と、茶器を用意していただけると嬉しいわ」

 またひとり、仲間が撃ち落とされる。鴉の羽の弾幕ごと、一閃で吹っ飛ばされた。妖夢の返す刀を、椛は辛うじて左の盾で受け止める。重く、鋭い一撃だ。
「くっ……右翼、いったん退け。下翼、牽制の小弾をメインに足止め!」
 指示を出し、椛自身はいったん妖夢から距離を取る。左腕が痺れている。
 桁違いの腕だった。
 白狼天狗が集団で襲いかかって、人間だか幽霊だかのたったひとりを攻めあぐねている。相次ぐ波状攻撃で、さすがに妖夢の動きにキレがなくなってきてはいるが、それよりも、味方が撃墜されるペースの方が早い。客観的に見ても、押されているのは天狗側だった。
 椛の目が、鳥の目になる。千里先までを見通す能力だ。このままでは、山の天狗がたったひとりの剣士にしてやられたという風評が立つ。もちろん事実ではないが、この風評を知った時の上司の反応を想像すると、悠長に構えていられる余裕はまったくない。
 目を元に戻す。何としてもこの場は、自分の範囲内で収めなくてはならない。
「左翼、左後方に回って。私が正面から行く!」
 椛は「の」の字弾幕を四つ、同時発射する。
「人智剣・天女返し!」
 妖夢が剣をひと振り、ふた振りする。「の」の字弾幕のふたつ半が消し飛ばされた。残った弾幕の陰に隠れ、死角から飛び出す。無論、これは死角であって死角でない。妖夢ならば視界に入らずとも気配で察知する。椛の斬撃はおそらく、難なく受け止められるだろう。
(しかし、後方と同時攻撃だ。これはどうするッ!)
 妖夢は椛を見もしなかった。ただ、体をそらし、わずかに剣先をかわす。その直後、妖夢の右後方から白狼天狗がふたり襲いかかる。ひとりの剣を叩き折り、もうひとりと鍔迫り合いになる。だがそれも二秒と持たない。
「はああああっっ!」
そいつが跳ね跳ばされる直前、横から椛が突きかかる。妖夢はかわす間もなく、剣で受けとめる。椛はそのまま妖夢ごと下に落ちていく。下は、急峻な流れの川だ。
「自分ごと仲間に撃たせる気かっ」
 妖夢が叫ぶ。
 そんなつもりではないのだが、わざわざ教えてやる義務は椛にない。
 水柱をあげて、ふたりは川に突っ込んだ。
 落下の衝撃と相まって、うまく体を動かせない椛に対して、妖夢は素早く体勢を立て直し、川から上がる。その時、椛の後頭部を強打することも忘れない。
(やはり私じゃ無理だったか……でも、役目は果たした)
 椛は薄れていく意識の中、そう思った
 空中から、残った白狼天狗が滝のような弾幕を妖夢に撃ち下ろす。
「何度やっても無駄だということが、わからないのか!」
 妖夢は楼観剣を構える。
「獄界剣・二百由旬の……」
 妖夢の頭に、鈍い痛みが生じる。
 さっき川に落ちた時、川底の岩で頭を打ったのだ。たいしたことはないとそのまま上がっていたが、今、急激に痛んだ。
 妖夢の剣技は、微妙な間、呼吸、姿勢の厳密な統制を取ることによって、その力を発揮する。技の出だしでタイミングが狂えば、妖夢最大の武器である瞬発力に陰りが生じる。
 すでに、滝の弾幕は目の前にあった。
 よけきれない。
「しまっ……」
 弾幕の直撃を受ける。致命傷ではないが、形勢が一気に逆転した。頭上から白狼天狗のひとりが切りかかってくる。妖夢は腰を低くし、相手の一撃に空を切らせ、反動を利用して切り上げようとする。
 踏み込んだ瞬間、石に足を滑らせてしまった。そこだけ、川の水が一部凍って張り付いていたのだ。
「なっ……」
 よろめいた体勢から無理やり切り上げたが、当たるわけがない。白狼天狗の反撃を辛うじて受け止めるが、勢いを殺しきれず、そのまま再び川に落ちる。ぼやぼやしていると川に集中砲火を食らうと思った妖夢は、すぐにあがろうとした。川底を蹴って、腕で水をかきわける。そこで、痛みに顔をしかめた。
 信じられないことに、足がつった。
 さらに、気分が悪い。吐き気がする。このまま水面に顔を出すのすら億劫に感じられる。
(何なの、急に……さっき川に入ってからだわ)
 水面が揺らめく。弾幕が降ってくる。逃げ場はない。楼観剣と白楼剣を強く握る。
(幽々子様っ……!)

 急須から湯呑に茶がそそがれる。見るだけで体が温まるような湯気が立つ。
 鍵山雛を祀ってある神社は、樹海を抜け、川を少し上流に登った先にある神社なので、人間はほとんど来ない。妖怪はわりと来るが、人間ほど依存心が高くないので、信仰心もイマイチだ。もし人間が来たとしても、これから先の人生を悲観した者が自分の不幸をなすりつけにきたり、立て続けに起こる家の不幸に恐怖した金持ちが、一族郎党引き連れて危険も顧みずに樹海を抜けてお参りにきたり、ただ単に酔狂な者が迷い込んだついでにお参りしていったりと、変な参拝客ばかりだった。
 それでもこの神社が朽ちてしまわないのは、そうやって時たま訪れる者達が圧倒的な信仰心を持っているからでもあり、雛自身が力を持った神だからでもあった。それに、この神社を知らずとも、生活の細々した行事や、日常の物の考え方から、結果的に雛に信仰心がまわってくる。ありていにいえば、厄を誰かに押しつけたい、という気持ちだ。雛は、そのことを醜いだとか、あさましいだとか考えたことはない。厄は、こなせる者がこなせばいいのであり、そのひとが無理だと感じたらまた別の者に肩代わりしていく。誰かに厄を負わせる代わりに、誰かの厄を負う。そうしてくるくると回転させていく。痛みを引き延ばし、無効化する。その指揮を執るのが、厄神である自分の仕事だ、と雛は思っている。
 ふたりは、拝殿に至る階段の中ほどに腰を掛けて、並んで茶を啜っていた。
「豊穣の神でもないのに、お湯を沸かせるなんて、やっぱり神様ってすごいわね」
「まあ、これくらいなら。神だもの」
 川の方で、何かが勢いよく落ちる音がした。木々の合間から、盛大に水飛沫が上がっているのが見える。かなり近い。もし生き物だとしたら、自分の厄に当たってしまう。自分のせいで、不幸な目にあってしまう。厄神の性質上、厄を集めるので仕方がないことだと頭ではわかっていても、理屈では追い払えない思いがある。
「ああ、お茶がおいしいわ。ありがとう、厄神様」
 雛のもやもやを吹き払うような、幽々子の感謝の言葉だった。
「いえいえ、これは葉っぱがいいのよ。冥界ではこんなおいしいお茶の葉が取れるのね」
「冥界が顕界よりもおいしいのは、お茶の他には、煙草とか大麻とか、かしら」
「草ばっかりね」
 雛は苦笑する。お茶を啜り、ひと息つく。さっきまで顔に出ていた疲労の色は、ずいぶん薄まっていた。幽々子が指摘した通り、無理をして厄を溜めこんでいたのだ。多少の厄ならある程度自分のまわりで回していれば、そのうち無害化できる。しかし今回のように一気に大量の厄が舞い込んでくることが、年に一、二度ある。体が持たないと思った時は、溜めこまずにそのまま垂れ流す。なるべく川や風の自然に沿って流すことで少しでもアクを取ろうとするが、完全に取りきれないことがままある。そんな時、里の方で不幸があると、罪悪感が胸を刺す。それがまた体調を崩して、厄を無害化する回転が悪くなるという悪循環を誘うことも、ままある。今回は幽々子が背中を撫でさすって、楽にしていい、と言ってくれた。今、雛はとても楽な気持ちでいた。秋の神には、あとでお供え物を持って謝りにいこうと思っている。
「そうね、草、それから木の実かしら。花や果物は、顕界ほどには潤いがないの」
 幽々子は、相変わらず食べ物の話をしている。
「それから栗の実も、食べたかったんだけどなあ」
 幽々子は、幼子のように語尾を伸ばして、空を仰ぐ。
「あっ……!」
 ふと雛は、何かに気づいたように手を口に当てた。
「そうか、ここしばらく、栗がみんな黙っていたものね。あのひとが引き受けていた分が、まるごとこっちに来ていたのね」
 幽々子は目を丸くして、雛を見る。
「そんなことも知っているの。厄神様には専門外の話じゃなくて?」
「厄神である前に神だから、そのくらいはわかるわ。あのひと、最近ずっと悪いと聞いていたのだけれど」
「あの子が今、死ぬか、死にかけているかで、これまで手元に置いていた厄が逃げ出したのね。もう意識もほとんどないんでしょう。あなたのところへ集まって来た厄も、時間が経てば一ヶ所に固まることなく、散っていくわ」
「幽々子さんは、あのひとと知り合いだったの?」
 幽々子は応えず、湯呑に視線を落とす。
「結局、会えないかもしれないわね…… 会ったとしても、話せないんじゃ仕方ないわ」
 寂しげに呟く。雛は、何か幽々子の気が晴れることを言ってやりたかった。
 妖怪の山には、妖怪もたじろぐほどの化け物じみた巨木が、何本も生えている。いずれも樹齢千年を超える者たちだ。中にはそのまま木の神になって祀られている者もいる。最近山にやってきた、外からの神様が、「信仰する」「祀る」ことの効能を説いて回っているので、今までただの植物と見なされていた木々も、妖怪によって名前がつけられたりするようにもなった。
 鍵山雛の知っている栗の木は、そういったお化け樹木の中でも、ひときわ異彩を放っていた。
 無論、大木である。雨にも風にもびくともしない、威風堂々たる立ち姿は、見る者を魅了する。だいたい、人間の頭ほどの実が成る。時には人間の赤子が入っているのではないかと思われるほど巨大な実もつける。
 そして、夜になると妖しく光り出す。死者の魂を呼び集めているのだ。妖怪や獣、植物の死と、その死にまとわりつく怒りや悲しみも吸い寄せる。だから、この栗の木の周囲では、野良幽霊など滅多に出ない。
 吸い寄せた死を、彼女がどうしているかというと、特にどうするわけでもない。しばらく栗の実と一緒に枝にぶらさげた後、そのまま解放する。魂たちは、正規のルートを通ってそれぞれの終わりの形を迎える。その前に、ちょっと栗の木の枝にとまってひと休みしただけだ、と言わんばかりに。
 もちろん、こんな芸当をできる存在など、妖怪の山にも数えられるほどしかいない。というより、死後のあれこれとなると、妖怪や獣、それに現世に携わる神々にとっては管轄外になってしまうのだ。だから彼女は、尊敬された。あるいは、畏怖された。
「あの子、昔、冥界にいたの」
 ぽつりと幽々子が言う。雛は黙って、目で先を促す。すでにこの山は水面下では大騒ぎだ。これからこの亡霊がどう行動するのか、そもそも何を考えているのか気になる。
「さらにその前は顕界にいたらしいけれど。その頃から人間の死をちょこちょこ扱ってはいたみたい。それで、私の庭を改装する時、引っこ抜かれて冥界にやってきたらしいわ」
 雛にとって、縁遠い話だった。幽々子の話はところどころ省略されていて、完璧には追い切れていなかった。それでも、このひとりごとのようにして漏れる言葉を、黙って受け止めようと思った。幽々子が、自分の溢れでる厄を、すぐ隣で受け止めてくれたように。
「それがまたいつの間にか顕界に戻ってきてたの。前は、すっきりしないまま別れてしまったから、気になっていた」
「だったら、あなた、せめて……」
 幽々子は、湯呑を持ったまま、すっと立ち上がる。怪訝に思った雛は、立ち上がった幽々子の視線の先を追う。銀に近い白髪の少女が、剣を杖にしてよろめきながら、こちらに向かってきている。
「幽々子様……お、遅れて申し訳ありません」
「別にいいわ。その間お茶が飲めたし」
「す、すぐにここを離れましょう。白狼天狗たちが来ます」
「あらあら、根絶やしにできなかったのね」
「私の力不足で……」
「日頃の訓練も形無しねえ」
「言葉もありません」
 少女は心底悔しそうな顔をする。雛は、幽々子が急に態度を変えたように思えた。幽々子が少女を見る目は、慈しみに満ちているというのに、なぜこうも言葉使いが荒いのか、雛にはわからなかった。ふたりの問題だといえばそれまでだが、雛の常識からすれば、幽々子の態度はあまりに酷だった。
 よろめきながらこちらへのぼってくる少女とすれ違い、幽々子はそのままおりていく。
「あ、あれ? 幽々子様、どうされたんですか」
「山登りはやめたわ。あてがはずれたの。帰るわよ、妖夢」
「え、ええっ?」
「でも見張りはまだいるのよね。いい機会だから、思い切りストレス発散していらっしゃい」
 幽々子は袖から扇を取り出し、ぱっと広げた。桜色の扇だった。妖夢に放り投げると、扇は妖夢の周囲を、回転しながら漂う。
「幽々子様、こ、これって……」
 妖夢の顔がこわばる。驚きが九割を占めていたが、残り一割は期待と悦びだった。
「少し力を分けてあげるわ。それならなんとかなるでしょう」
「少しも何も……す、すごい、こんな力、持ったことないですよ」
「あなたなら大丈夫よ」
 幽々子は振り向かずに、妖夢から離れていく。妖夢は、幽々子の背中に深々と礼をした。そして、周囲を旋回している扇を見る。それから、ふた振りの剣を見る。背筋が伸びる。目に再び力が宿る。
「あの……」
 雛はためらいながらも、妖夢に声をかける。妖夢は雛に向かってお辞儀をした。
「お嬢様がお世話になったようで、お礼申し上げます。ここを戦場にはしませんので、ご安心を」
「ううん、それはいいの、ただ、ひとつ聞いていいかしら」
「はあ、なんでしょう」
 初対面の相手に問う内容ではないかもしれないと、雛は思う。それでも、言わずにはいられなかった。
「あなたは、幽々子さんが何をしようとしているのか、知っているの?」
「知りません」
「理解しようとはしているの?」
「私は、幽々子様の命じたことを守るだけです」
 雛は寒気を感じる。この一途な少女の思いを、あの亡霊はきちんと受け止めきれているのだろうか? 一方通行の不毛な関係になっているのではないか?
「あのね、私は」
 せめて自分が知っている限りのことは、この妖夢と呼ばれた少女に教えてやろうと思い、雛は口を開こうとする。だが、途中で止まった。
 妖夢の笑顔を見た。
「その代わり、うちのお嬢様はよく命令が重複したり、支離滅裂だったりするので、そういう時は念のため確認を取ります」
 そして、跳躍し、去りゆく幽々子の目の前に着地する。
「あら、何の用かしら」
「お聞きします。幽々子様は、もう、会われたい人には会われたんですか」
「妖夢、それはもういいの。帰って漬物でも漬けてちょうだい」
「漬物は漬けます。ですがその前に、きちんと命じていただかないと、私は動きようがないのです」
「駄目ねえ、妖夢は。言われないとわからないの」
「ええ。あなたと一緒です」
 妖夢は笑う。幽々子の顔に、ほんの少し、苛立ちが浮かぶ。それはほんのわずかな変化だが、決定的な変化だった。
「幽々子様は、そのひとに会いたいんですね」
「もう、死んだかもしれないわ。会っても、きっと惚けちゃってて私とはわからないでしょうね」
「そんなのわかりませんよ。幽々子様を見たら嬉しくなって、惚けが治るかもしれません。もし、もう亡くなっていたら、弔わないといけないです。死んだから、もう会えないから、帰るっていうのは、なんだか幽々子様らしくありません。遠慮しているみたいです」
 妖夢のまっすぐな目を、幽々子は受け止める。ふたりの間に、沈黙が落ちる。
 やがて幽々子は目を閉じ、ため息をついた。そこでようやく、肩に力が入っていたことを、幽々子は自覚した。妖夢の頭を、ぽんぽんと、撫でるように叩く。
「妖夢、栗の木って知ってる?」
「馬鹿にしないでください。私は庭師ですよ」
「この妖怪の山で、一番大きな栗の木を探しなさい。あなたが十人いて、手をつないで、それでようやく囲えるくらい大きな栗の木よ」
「わかりました。では行って参ります」
「いってらっしゃい」
 妖夢は瞬時に飛び立った。
「迷いがなくなると、本当にあの子は速いのね」
 そう独白し、幽々子は方向転換した。再び雛と目が合う。
「話を聞いてくれてありがとう」
「いえ、そんな……」
 直截的な感謝の言葉に、雛は照れてしまう。
「こちらこそ、冥界のお茶、おいしかったわ。また飲みましょう」
「今度はお茶菓子も持ってくるわ」
 そう言って、幽々子は去っていく。幽々子の姿が木々に隠れて見えなくなると、雛は階段に視線を落とした。湯呑がひとつしかない。


 射命丸文は、空中に陣取っている剣士を見て、納得した。
「あれは、あなたたちじゃ無理よ」
 遠巻きに妖夢を包囲している白狼天狗たちを見ながら、文は言った。
「一応、膠着状態に持ち込んだので、これから応援を頼もうと思っています」
 体のあちこちに傷を作った椛は、文の横で小さくなっている。
「膠着状態? これが? どう見ても押されっぱなしでしょう。あの子があそこから動かないのは、通りすがりの私がここにいるからよ。たまたま私が居合わせなかったら、今頃あなたたち、蜘蛛の子を散らすように無残な敗北を味わっているわよ」
 上司の口調は容赦がない。しかも、椛には言い返せない。敵を巻き添えにして、自ら厄に突っ込み、敵を戦闘不能にしたところぐらいは評価して欲しかったが、いかんせん、その敵が復活してピンピンしているので、もはや何を言っても無駄だった。
(しかも、明らかに体力は消耗していて、見た感じ物凄く疲れてそうなのに、さっきよりも強いなのは、いったいどういうことよ!)
「とりあえず、部下を退かせなさい。消耗戦も立派な作戦のうちだし、そうやって頭使って強敵倒すとあなたたちのためになるんだけど、もうなんかめんどいから私がやるわ」
 そう言って文が取り出したのは、しかし天狗の団扇でなく、写真機だった。
「え、あの、どういうおつもりで」
「あの子のタメにタメた瞬間速度は私より速い。しかも何? あの扇。あれ絶対白玉楼のひとでしょ。ワクワクするわね」
「いや、それ、なんか目的が」
「白玉楼が庭師、魂魄妖夢! 鴉天狗が射命丸、推して参ります!」
 一陣の風を巻き起こし、妖夢に突っ込んでいく。
 妖夢がまだ小指ほどの大きさにしか見えない距離だ。
 だがこの程度の距離、双方の持つ速度からすれば、ゼロに等しい。
 一瞬後には、文の目の前を楼観剣の切っ先が通過していた。文は空中で身をそらし、回避した勢いのまま回転する。ファインダー越しに、逆さまに映った妖夢を捉える。
「もらいました……あややっ」
 剣本体の後に、桜の花びらの弾幕が続く。かわすことに集中していると、妖夢の姿を見失った。
「ふふっ、やりますね。私が一度ファインダーに収めたものを見失うなんて」
 前後左右、妖夢の姿はどこにもない。頭上から高速で降ってきた。これも文はギリギリまでひきつけてかわす。髪の毛が数本、宙を舞う。ファインダーに妖夢のアップを捉える。一瞬後に襲いくる桜の花びらをかいくぐり、シャッターを切る。切った直後に、妖夢の二撃目が放たれる。これも紙一重でかわす。ブラウスのボタンが弾け飛んだ。
 いったん距離を取って、フィルムを回す。
「ふう、危ない危ない。しかし一枚は取れました」
「あ、文先輩、遊んでないで何とかしてくださいよ」
「私は休暇取材中なの。ひとがゆったりのんびりバカンスを楽しんでいるんだから、邪魔しないで」
「そんなぁ……」
 言葉とは裏腹に、文の目は真剣そのものだった。
「こんな楽しい遊び、誰にも渡しませんよ」
 そして文が再び黒い羽をはばたかせた時だった。
 突然頭上が曇ったかと思うと、たちまち叩きつけるような横殴りの豪雨となった。椛や他の白狼天狗は、思わず腕で顔を覆った。あまりの強い風に、身動きが取れない。妖夢も微動だにしていないが、それは、この豪雨が彼女の行動を制限しているということでは、まったくない。じっと剣を構え、腰を落としたままの体勢でいる。文もまた、宙で胡坐をかいて、手のひらに顎を載せている体勢のまま、平気な顔で風雨をその身に受けていた。
「うーん、まあ、この雨なら仕方ありませんね。いい絵は取れない」
 先に文が折れた。地面を見下ろす。文の思った通り、緑髪の、巫女装束をまとった少女が歩いてきている。
「それに、どうやら神様が腰を上げたみたいだし。もう私たちがやる仕事は済んだわね。帰るわよ、椛」
「えっ? いいんですか、だって侵入者を撃退せよというのが大天狗様の命令で……」
「あれはポーズよ。是非曲直庁から何か言われたら、首を横に振るわけにはいかないでしょう。だから、一応そういう指令を出してみただけ」
「え、是非曲直庁が関わっているんですか? え、え、何ですかそれ。そんなの初めて聞きましたよ」
「はあ、下っ端は憐れねえ、情報の切れっ端しか与えられない」
 文は大仰にため息をついた。
「本当ですか。誰から聞かれたんです」
「いや、私がそう思っただけだけど」
「な、なんですかそれ」
「うん、きっと合っているわよ」
 ひとりで勝手にうなずくと、文は妖夢に背を向けて飛んでいく。まわりの白狼天狗たちは、不安そうに顔を見合わせる。
「ああっ、もう……ええい、全員撤退!」
 椛の号令のもと、天狗は引き上げていった。
 あとに残った妖夢は、まだ気を緩めることをせず、構えたままでいる。
 天狗が急に引き返してくるかも知れない。射命丸文なら、そんな芸当を平気でやってのけるだろう。それに、この風雨が止まない限り、妖夢が構えを解くことはない。
「魂魄妖夢さんですね」
 横殴りの豪雨の中、なぜかその声はするりと妖夢の耳に入った。背後に回り込まれたかと思い、振り向くが、そんなことはない。
「うふふ、あなたの背後に気づかれずに近づくなんて、私にはそんなことできません」
 見下ろすと、緑髪の巫女は妖夢の真下にいて、こちらを見上げている。
「私は東風谷早苗と申します。この山を総べる神様にお仕えしています」
 相変わらず、雨も風もその強さを緩めることはない。それなのに、早苗の声は何の障碍もなく届いてくる。
「ああ、少し話は聞いたことがあるわ。最近外から来た、風の神様でしょう。あれ? 蛇だったかな」
 この豪雨のせいで、妖夢は自分の声さえろくに聞き取れない。しかし、早苗は聞こえたようだった。
「どちらとも正解です。その神様があなたに会いたいと仰っているので、お迎えに参りました」
「私に。幽々子様ではなく?」
「ええ」
 早苗は手を差し出した。
「私の手を取ってください。ご案内しましょう」
 妖夢は警戒を完全には解かず、ゆっくりと降りていく。そして、差し伸べられた早苗の手を取る。その途端、今までの豪雨が嘘のようにぴたりとやんだ。最後の雨が地面を叩き、最後の風が雨雲を吹き払うと、山には晴天が戻った。あまりに突然の変化だったので、妖夢は思わず早苗の手を離して、柄に手をかける。すぐに冷静になり、構えを解く。
「ごめんなさい、失礼しました」
「いいんです。驚くのも無理はないわ」
 早苗は柔和な笑みを浮かべた。
 今の豪雨はこの少女が呼び込んだものなのか、それともこの少女が崇める神が呼び込んだものなのか、妖夢は気になった。前者だとすれば、天狗たちすら足止めさせるほどの強さをこの少女が持っているということになる。
 ふたりは宙に浮き上がり、飛行した。眼下に木々を見下ろせるほどの高度だ。しかし誰も襲ってこない。山の神の使いであることは確かなようだ。
「あなた、人間……よね」
「ええ、人間です。ついこの間までは外の世界で、同じ年頃の子たちと学校に行っていました」
「学校?」
「学び舎です」
「ふうん。同じ身分の者が、たくさんいるのね」
「それはもう、何十人も、何百人も」
「賑やかそうね」
「場合によっては、そうですね」
 早苗に妙な言い方で肯定され、妖夢は話の接ぎ穂を失った。そのまま飛び続けていると、やがて、前方に建物が見えてきた。どう見ても自然にできあがったものではない。
「へえ、結構、大きな神社ね」
「元々大きかったんですけど、妖怪のみなさんがさらに建て増ししてくれたんです。八坂様はみんなに慕われていますから」
 妖夢の感嘆の呟きを聞くと、早苗はまるで自分がほめられたかのように顔をほころばせた。ちょうど、幽々子をほめられた時に自分がそうするような悦び方だと、妖夢は思った。



三、山奥と蛙の戯れ

 川が大きく蛇行するところに、流木が引っかかっている。川からすぐあがったところでは、秋静葉が寒さに震えていた。
「うう……だから冬は嫌いなのよ」
 空を仰ぐと、亡霊がひとり、ふわふわとこちらに漂ってきている。
「あらら、こんなところまで流されていたのね」
「幽々子さん……なんてことしてくれたんですか。あんな間近で厄を受けたら、私がこうなることぐらいわかっていたでしょう」
 静葉の服は冷たく濡れ、首筋には鳥肌が立ち、唇は色を失っていた。雫が髪を伝って頬を流れるさまが、色っぽいな、と幽々子は思った。
「ごめんなさい、あまり考えていなかったわ」
 笑顔でさらりとひどいことを言われ、静葉はもう言い募る気もなくした。
「それより、はい、温まるわよ」
 幽々子は湯呑を差し出す。湯気が立っている。
「これは……」
「さっきの厄神様のところでごちそうになったの。ちなみにお茶の葉はウチのものよ」
「熱い…… この寒い中持ってこられたんですよね。なぜ?」
 両手で湯呑を持つ。手と、顔に当たる湯気に温もりを感じ、静葉は目を細めながら、尋ねる。
「まだ神様の力が残っているのね。厄神なのにお湯を沸かすだけじゃなくて、保温もできるのね。優秀な神ね」
「そうではなくて、なぜ私のところに戻ってきたんですか?」
「あら、放っておいてほしかったの。なんだ、言ってくれればそうしたのに」
「いえいえいえ、そういうわけでは全然ありません。来てくれて嬉しかったです。このお茶もとてもおいしいです。でも、あなたは栗の木に会うのが目的なんでしょう。ひとりで行くこともできたのに、なぜですか」
 川に落ちた自分を心配して戻ってきた、とは静葉には考えにくかった。そもそも、川に落ちたのは幽々子が不用意に雛の厄を解放させたからである。その時、静葉のことは思慮の外にあったはずだ。
「寒いだろうと思って、お茶を持ってきてあげたのに。ひどい言い草ね」
「こうなったのは誰のせいですか」
「厄が重すぎたの。しかたないでしょう。さあ、行くわよ、神様」
 そう言うと、浮遊した。
「え……?」
「え、じゃないわ。あなたもあの子に会いたいんでしょう。ついでだから、私と一緒に来なさい」
「つれていって、くれるんですか」
 静葉は浮遊しながら、不安になって確認する。この亡霊の心中が、読めない。
「何のために……」
「動機ばかり考えていても、犯人探しはつまらないわ。森ばかり見ないで、木を見ないと」
 静葉は、問うことを止めた。幽々子の中で、何か一貫した論理が働いている。それからずれて動くことはないだろう。ならば、自分の目的に沿っている限りは、一緒にいて構わないと思った。
 幽々子と飛んでいると、やはり妖怪は襲ってこない。さっきは静葉が厄のど真ん中にいたために放置されたが、その周囲で自分を窺っている妖怪の姿を何度か見かけた。今は、少なくとも目に見える範囲ではどこにも妖怪の姿はない。山に妖怪がいないはずがない。どこかにいるはずだ。
 何か他のことで忙しいのか、眠っているのか、それとも……
「見えてきたわ」
 幽々子の声で我に返る。前方に広がる樹林の中で、周囲からひときわ図抜けて大きな木が立っていた。大きかったが、静かだった。生命の気配というものが、まるきり欠けていた。だが、触れてみるまではわからない。一縷の望みをかけて、静葉は行く。
木の下に渦巻く神の力を感じ、静葉の足が鈍る。
「どうしたの、行くわよ」
 幽々子は一度振り返り、飛行速度を上げると、もう振り向かなかった。静葉との距離はどんどん開いていく。静葉は、足が進まなくなるのを、止められない。やがて、完全に空中で止まってしまった。
 体が震える。寒さではない。寒さは、雛の湯呑のおかげで、どうにかなった。
 怖かった。恐怖ではなく、畏怖の感情だ。何かを排斥する力ではなく、包みこもうとする力だ。それ自体に害意はない。ただ、あまりに強大な力のために、同じ神として、畏れ多くて近づけない。
 その神とは、何度か顔を合わせている。だが、ここまで力を剥き出しにする彼女を感じるのは初めてだ。
 妖怪がさっきから姿を見せないのがなぜなのか、合点が行った。
 彼らは忙しいのでも眠っているのでもなく、隠れているのだ。

 栗の木の根元に、少女が眠っている。両端に目玉のついた帽子を顔にかぶせ、両手を頭の後ろで組んで、根を枕にして横になっている。幽々子が空から近づくと、のんびりとした動作で帽子をつまみ、少しだけ上げる。わずかに覗いた右目が、幽々子を射る。
「一発で目が覚めた。そんなに殺気を振りまくんじゃないよ。みんなびっくりしている」
 少女は寝転がったままだ。幽々子が着地する。少女と幽々子、そして栗の木を囲むようにして、地面から無数の鉄の輪が生まれる。
「おかげで私が引っ張り出されたよ。怖いから何とかしてくれって。神奈子もそんな面倒事、天狗にでも押しつけておけばいいのに、調子がいいから安請け合いして、しかも自分は別の用事があるからって私に仕事振るなんて。今日は寒いけど天気はいいし、早苗の作っただご汁でも食べて一日中ごろごろしてようと思ってたのに、全部あんたのせいよ。とりあえずその殺気をひっこめなさい」
「あら、私はこれが地よ。亡霊ですもの」
「亡霊は、顕界じゃもっと慎ましくしているべきだ。少なくとも、外じゃそうだったよ」
「外のことは知らないわ」
「私も中のことはよく知らない。まだ」
 そう言うと少女は横になった状態で足を上げ、膝を曲げ、両手のひらを地面につけ「よっ」と一声あげて、反動をつけて一気に起き上がる。
「けど、どう見たってあんたは図々しいよ」
 蛙の図柄が描きこまれたワンピースの尻のところをはたきながら、少女は言う。鉄の輪が互いにぶつかり、騒がしく音を立てる。それは、蟲や鼠が蠢いている様に、少し似ている。
「すみません、それも地なもので」
 幽々子はぺこりと頭を下げる。すると、少女は破顔一笑した。
「図々しいけど、おもしろい奴だね。話に聞いていた通りで、安心したよ」
「私について、どんな良からぬ、根も葉もない噂を聞かれたのかしら」
「何を言っているのかも何を考えているのかもさっぱりわからない奴だってね。それなのにいつもにこにこしているってさ」
「どこからそんな誤報が発生したのかしら」
「黒い魔法使いがいたでしょう。あれ、白かったっけ」
「黒と白ね」
「そうそう。この前うちに遊びに来たんだよ。一緒に茸狩りした」
「あら、昨日はうちに来たわ。一緒にオセロしたわ」
「色々な遊びを知っているんだね」
「化け物みたいな栗の木を見つけたって、自慢していたわ」
 諏訪子は振り向き、その巨木を仰ぐ。そこから生気は一切感じられない。
「それでここに来たってわけか。ふうん、ま、それはどうでもいいわ」
 何十という鉄の輪が、ざわめきながら宙に浮かぶ。
「もうひとつ、その黒白の魔法使いが言っていたことがある。西行寺幽々子、あんたの弾幕、とっても綺麗なんだってね」
「おほめに預かり光栄ですわ」
「私は土着神の洩矢諏訪子、白玉楼の主人の力、見せてもらうよ!」
 鉄の輪が四方から襲いかかる。
「神具・洩矢の鉄の輪」
 幽々子は微動だにしない。
 当たった瞬間、幽々子の姿は十数羽の蝶となって四散した。同時に激しい風が吹く。勢いは強いが、温かい、まるで春を思わせる風だ。しかし諏訪子は動きを制限される。
(目くらましッ! 本体は…)
 考えるより先に、諏訪子は蛙跳びでその場から離れた。直後、幽々子の扇が通り過ぎる。諏訪子の前を通り過ぎる幽々子は、まるで舞を舞っているように見えた。諏訪子は素直にその美しさに感嘆した。
 幽々子は流麗な動きのまま、地面を蹴り、空中の諏訪子を追う。ゆっくり動いているように見えるのだが、実際は無駄な動きが一切なく、速い。
「あははっ、なんだ、結構接近戦もいけるのね!」
 諏訪子は楽しそうに大声で笑い、右手に鉄の輪を生むと、幽々子の扇に叩きつけた。左手にも鉄の輪を握り、下から振り上げる。幽々子は空中で華麗に宙返りする。同時に、またしても蝶が生まれ、諏訪子の動きを抑え込む。やや諏訪子から距離を取った幽々子の手の先に、槍が生まれる。
「蝶符・鳳蝶紋の……」
「させるかっ、土着神・手長足長さま!」
 諏訪子の傍らにふたりの神が現れる。石像のような神だ。表情もない。名前の通り、それぞれが異様な長さの手と足を持っている。鈍重な外見に反し、凄まじい勢いでそれぞれの手と足を振り回す。
 四本の凶悪な一撃を、幽々子は舞うようにかわす。攻撃は一度では終わらず、それが四連続で続くので、休む間もない。
「ああ、なんて理にかなった動きをするのかしら。あとで早苗の舞踏指南を頼んでみよう」
 感心しながらも、攻撃の手を緩めるつもりはない。
「蛙狩・蛙は口ゆえ蛇に呑まるる!」
 幽々子の頭上にとぐろを巻いた巨大な蛇が現れ、顎を開き、牙を剥く。
「まあ、大きなお口ねえ。どうしてそんなに大きいの?」
 手長と足長の攻撃を避けながら、幽々子は蛇を見上げる。蛇が答えるはずもなく、幽々子を呑もうと覆いかぶさってくる。
「それはね……」
 自分の問いに、自分で答えようとする幽々子の顔を、一瞬だけ、冷徹な笑みが彩る。諏訪子が慌てて見直した時には、のんびりした表情に戻っている。幽々子が上に掲げた指先には、穴が空いていた。それが、顕界でないどこかへつながっているのが、諏訪子にもすぐにわかった。
「再迷・幻想郷の黄泉還り」
 穴から大量の霊魂が飛び出してきた。次々と蛇の口の中へ殺到していく。蛇はすべてを呑み込んだ後、そのままひっくり返って地面に墜落した。動かなくなると、蛇の体をすり抜けて霊魂たちが戻ってきて、穴の中へ帰っていった。
「な……なんつーことを。今の、冥界の門でしょう」
「白玉楼に住んでいるのにタダ飯食らいは良くないわ。たまには働いてもらわないと」
 諏訪子は呆れきった表情だが、幽々子は平然としている。
 その間、手長と足長はただぼーっと見ていたわけではない。いつの間にか動きが取れなくなっていた。手長の手と、足長の足の計四本が、細いリボンで結ばれていた。ふたりは絡まり合ってもがいているが、リボンは外れない。幽々子はふたりの攻撃をかわしながら、冥界の蝶に糸を紡がせていた。幽々子にかわされる度に、ふたりの手足には緩やかな、だが生半可な力では決して切れることのない糸が絡みついていたのだ。リボンは最後の締めで、飾りで付けた。
「こりゃ、大したもんだ。ここまでとは思わなかったわ」
 諏訪子は半ば呆れたように、感嘆の声を上げた。
「私もよ。でもあなた、見かけによらず乱暴ね」
「相手が相手だからね。それに、あんたに言われたくないわ」
「いいのよ。やっぱり遊びにはスリルが必要だから」
 幽々子は両手を広げ、目を閉じた。強力な妖気が彼女の中で膨らんでいく。諏訪子はその矛先を見極めようとする。先程出しかけた槍が飛んでくると睨んだ。諏訪子が予想したタイミングとほぼ同じ瞬間、幽々子の中で溜まった妖気が散開した。
 しかしそれはどこかひとつ所を狙ったものではない。
「ぜ、全方位弾!?」
「死符・ギャストリドリーム」
 蝶があらゆる方向へ飛び立ち、ゆっくりと、しかし濃密な弾幕を展開していく。悠長に避けている暇などない。どうせその間に槍やら何やらが飛んでくること間違いなしだ。
 もはや躊躇していられなかった。覚悟を決める。
「祟符・ミシャグジさま!」
 ひとつひとつは小さな弾だが、それが交差を繰り返し、幽々子のそれにまったく見劣りしないほどの、濃密に蠢く弾幕を作り出す。まるで蛙の大群が犇めき、めいめいが勝手に鳴いたり、とび跳ねたりするさまのようだった。
(あーうー、これで三日は筋肉痛で動けないこと確実ね)
 桜と蛙の壮大な弾幕がぶつかり、混ざり合う。

 その光景を、離れたところで見ていた静葉は、開いた口が塞がらなかった。
「なんて……綺麗なの……」
 静葉が近寄れないほどの威圧感を諏訪子が発していたのは、この弾幕合戦に力の弱い者たちを巻きこまないための配慮だったのだ。静葉は、これを見られただけでも、今日ここまで来た甲斐があったと感じた。今まで隠れていたと思しき妖怪たちも、おっかなびっくり、空に浮かびあがって、この華やかな見世物に興じていた。
「よう、やってるね」
 誰かが肩を叩いた。その瞬間、静葉は足が竦んだ。
「すまないが、変な邪魔するんじゃないよ。あたいはこれから仕事なんだから」
 長身の少女が、静葉の隣を横切る。体が金縛りにあったように動かない。
「あんたも、あの栗の木に会いに来たんだろう? いや、会いに来ただけならいいけど、それだけじゃないね。駄目だよ、そういうことは。それはルール違反だ」
 長身の少女は、刃の曲がった巨大な鎌を肩に担いでいる。少女は首をわずかに振り向かせ、右目だけで静葉を見た。目の色は冷たかった。
「死者の魂がどんな感触なのか……どんな方法で枝に成らせたりしているのか……そんなことを、一介の秋の神であるあんたが聞いて、それでどうするつもりだったんだい? 里の葬送を司る神にでもなりたかったかい? それは、悪いけどはっきり言って役者不足だよ」
 誰にも話していなかった目的を暴かれ、静葉は少なからずうろたえた。しかしすぐに思い当たる。閻魔の浄玻璃の鏡で見られたのだ。口を開いて抗弁しようとしたが、言葉にならなかった。それは、金縛りにあっているためではない。何を言っても無駄だと思った。
 長身の少女……死神の小野塚小町は、前を向いた。
「おやまあ、見事な弾幕だね。けど、仕事に公私混同は厳禁さね!」

 蛙が蝶を頬張ると、別の蝶がその蛙を吹き飛ばす。ふたつの弾幕は、単純な構造ながら、各所で多彩な変化を繰り広げていた。諏訪子は思い切り力を解放していた。
実に気持ちいい。
 あとで疲れることはわかっているが、今はそういうことも気にならない。目の前には蝶の弾幕が押し寄せてきている。それを押し返す。こういう時、幻想郷に来て良かったと、つくづく思う。ここには自分と思い切り遊べる相手がたくさんいる。昔はともかく、今の外の世界では考えられないことだった。
「こんなに楽しい神様がいたなんて知らなかったわ。私もまだまだ勉強不足ね」
 幽々子の顔も紅潮している。
「さあ、亡霊の姫様、遊びはこれからよ!」
「いえ、遊びはここまでよ」
 諏訪子が叫んだ直後、風が、蝶と蛙の間を駆け抜けた。弾幕の一角が欠ける。だがその程度でふたりの弾幕が崩れることもない。
「幻想風靡」
 瞬時に風が戻ってくる。さらにまた、吹き返す。風は加速を続ける。目にも止まらぬ速さで風は往復を繰り返す。
 やがて、幽々子と諏訪子の弾幕の間には、ぽっかりと不自然な空間が生じていた。宙には、鴉天狗の少女が立っている。
 すでに双方、弾幕は収めている。弾幕が収まるまで、さもなくば幽々子、諏訪子、文、三者の誰かが力尽きるまで、この天狗が高速移動を続けるであろうことを、ふたりとも察していた。
「こんなところに何しに来たのよマスコミ、って……あーっ!」
 諏訪子が幽々子を指差して叫ぶ。無論、幽々子も自分の首に添えられた鎌の存在に気づいている。
「こんなところまで営業外回りとは、船頭さんも楽じゃないわね」
 振り向かないまま、幽々子は言う。
「どうか落ち着いてくださいね、姫様。あたいも仕事なんで。なに、はじめからあんたたちとやり合おうなんてこれっぽちも思っていませんよ。ただ、何事もなく冥界に戻っていただければそれでいいんです」
「戻るわ。用事が済んだらね」
「……その用事を済ませて欲しくないから、あたいがこうして来てるんじゃないですか」
「斬ると動くの?」
「いいえ。動くと斬ります。あなたのことだから死なないでしょうけど、痛いですよ」
 小町は、斬りたくなかった。かわいそうだから、とかいうのではなく、ここで斬ると、後々まで恨みを買いそうで、嫌だった。しかし、映姫の命令に逆らうことは、もっと嫌だった。というより映姫に逆らうという選択肢は、はじめから小町の考えの外だ。
「あーあ、せっかく楽しんでいたのに。なによ天狗、余計な時ばっかりしゃしゃり出てくるんだから」
 諏訪子は頬を膨らませて、宙に立つ文を睨む。見物妖怪たちからも、遠巻きながらブーイングが浴びせられた。文は団扇で自分を仰ぎながら、斜に構えた笑みを浮かべる。
「悪いわねえ、だけど私も上から言われれば嫌とは言えないのよ。天狗は縦社会だから」
「ふうん、山の妖怪全体にまでその風潮広げないでよね。というか、広がってるんなら私たちが直すからね」
「はあ、まあ」
 急に文は言葉を濁した。
「いいわね。駄目って言っても勝手にやるけど」
「ノーコメントで。何と言うか、その辺はどうでもいいっていうか、どうなるかの好奇心はあれども、どうしたいっていうのはありませんので。どうぞお好きに。今回だって立場上仕方なくですね」
「痛いのは嫌だけれど」
 幽々子が口を開く。文も諏訪子も、もとより小町も、幽々子に集中する。
「せっかくだから線香の一本でも上げていきたいわ」
 幽々子は鎌などないかのように前に進む。幽々子の白い肌理の細かい肌に、赤い傷がつく。小町は諦めた。これで妖怪の山がどうなろうと知ったことではない。四季映姫に命じられたことを忠実に実行するだけだ。柄に力を込め、一気に引こうとする。
「……ん?」
 その時、鎌の上に何かが落ちた。それは、一葉の紅葉だった。
 なぜこんなところに? その疑問が浮かんだのも一瞬だけで、ほとんど時間差なく、鎌を引く手に力を込める。だがすでにその時、小町の視界は紅葉でそまっていた。
「うわ、なんだこれっ」
「葉符・狂いの落葉」
 滝のように大量の紅葉が小町に降りかかる。身動きが取れなくなる。幽々子が鎌の戒めから抜けるのを感じる。
「させるかッ!」
 闇雲に踏み込んで鎌を横薙ぎに払うが、何の手応えもない。
「逃がした……ああもう!」
 鎌に霊魂を添わせて、一回転し、落葉を振り払う。思った通り、頭上に秋静葉がいた。
「あのくらいの金縛りだったら、がんばれば抜けられるわ」
「やってくれるじゃないの、神様」
「私なんか見ていてもいいの」
 その言葉に小町が振り向くと、栗の木の下に幽々子と諏訪子が立っており、こちらを見ている。慌てて文を探すが、仕事は終わったとばかりに、天狗の姿は消えていた。
「あ、あのパパラッチめえええ!」
 小町が幽々子の背後を取れたのも、彼女が諏訪子と交戦中で、しかも小町側に文の目くらましという援護があったからだ。遊びを邪魔されたせいか、諏訪子は苛立たしげに小町を睨んでいる。小町は、本来自分より力のある相手を、工夫した立ち回りをすることで抑え込むことを得意とする。しかしいくらなんでも西行寺幽々子と洩矢諏訪子のふたりにかかってこられてはどうしようもない。
「もう少し待っていてね、死神さん。すぐに帰るから。私と一緒に帰れば、あなたの上司からもお咎めなしでしょ」
 今にもスペルを発動しようとしている諏訪子を制するように、幽々子は言う。諏訪子も、そして小町もきょとんとして幽々子を見る。
「だから、邪魔しないで。あなたもちょっと離れていてね」
 諏訪子に視線を移す。
「でも姫様、わかってるだろうけど、この木は、もう」
「私、この子と話がしたいの」
 何でもない口調だったが、諏訪子と小町は逆らえなかった。幽々子はふたりの後方にいる静葉に呼びかける。
「静葉さん。あなたも会いたがっていたひとよ」
「え、あ、はいっ」
「もう死んじゃってるけど」
 幽々子ははっきりそう言った。その事実から逃げているわけではなかった。
「……はいっ」
 静葉は緊張した面持ちで栗の木へ飛んでいく。静葉とすれ違った諏訪子と小町は、顔を見合せた。
「やれやれ、あの亡霊、ちょっと怖いところあるね」
 諏訪子は苦笑して、小町を見上げた。小町は頭をかいて、ため息をつく。
「ああもう、四季様になんて言い訳しよう」
「姫様は一緒に行くって言っているから、解決するんじゃん?」
「姫様と栗の木がああして会った時点で、もうアウトだよ」
「なんで?」
 諏訪子は首を傾げる。なぜそこまでこの死神が頭を抱えているのかが、理解できないといった風だ。
「冥界に連れていく気だと思うのさ。もう死んだからとか言って」
「駄目なの? そこんとこのルールって、結構曖昧じゃないかな。外でもたまにやってたし」
「駄目だよ、ちゃんと手続き踏んでもらわないと。特に幻想郷の閻魔は四季映姫様だ。なあなあだと怒るんだよ、あのひと」
「めんどくさい閻魔だねえ。でもま、もしあの姫様が栗の木を連れていきたいんだったら、ちゃんと手続きを踏めばいいわけだ」
「いや。それだったらこんな話ややこしくなってないよ」
 小町はうんざりしたように首を振る。
「あの栗の木、冥界に行ったとしても、即刻地獄に落とされるよ。ちょいとばかしひとの死を吸い過ぎて、それで魂の弄び方を覚えちまった。本人に悪気はないんだろうけど、やってること自体はそんなんで許されるようなことじゃない。死んで無防備になった魂が、扱いもよくわからない奴に拾われて、適当に遊ばれたあとで、歪みもなくそのまま成仏できると思うかい? まあこっちでなんとか弄られる前の状態に戻してはいるけれど、やっぱりやっちゃいけないことだよ。重罪ではないけれど、程度の軽い地獄にやられるんじゃないかな。当然、姫様とはもう会えないよ」
「うー」
「ただ、姫様がその決定に素直に従うかどうか、わかんないんだよね。無理やり従わせてあとでごねられるのも嫌だけれどさ。あのひとは本当、行動が読めないからね。仕方ないから、待つよ」
「宮仕えは大変ねえ」
「なにさ、ひと事みたいに。あんただってあの神社で働いているじゃないか。あの風神の下で」
「違うわよ、私は裏方。実際は全部私が取り仕切ってるの。神奈子はただの飾り」
 以前にも他の者と似たような問答をしたことを思い出し、諏訪子はそれ以上何も言わず、口をつぐんだ。


四、神社と宴

 守矢神社は妖怪の参拝客で賑わっていた。短期間で山の妖怪の信仰を得たという話は、どうやら本当のようだった。早苗は表の参道に着地せず、そのまま飛んでいく。
「ここからいかないの」
 あとをついていきながら、妖夢が尋ねる。
「ええ。今のあなたを見たら、大騒ぎになりますから」
「そう?」
 妖夢は首を傾げる。早苗は苦笑した。
「そんなに殺気をばらまかれていたら、誰だって用心しますよ」
「殺気? 何を言っているの。私は何も」
「その扇ですよ」
 早苗は振り向きながら、妖夢のまわりを旋回している扇を指した。
「あっ……」
「西行寺様の扇ですよね。あなたは半人半霊だからそうでもないかもしれませんが、生命を持った者にとってはちょっと毒ですよ」
「あなたはいいの? 生きていて、しかも人間でしょう」
「私は、神に仕える者ですから」
 答えになっていないのは承知の上で答えた、という感じだった。
 杉の林に降りる。妖怪の足で踏み固められたらしき小道に降り、そこから歩いて、神社の裏に出る。裏には畑があった。塀がずっと続いていて、塀の向こうには大きな屋根が見える。おそらくあれが本殿だ。
「畑は、あなたが面倒見ているの?」
「おもに。ですが八坂様たちも時々手伝ってくださいます」
 塀の途中に、戸があった。そこをくぐると、本殿のある敷地に入った。左手に拝殿が、右手に本殿が見える。ちょうど横から入る形になった。
「ここ、お参りするところのさらに奥よね。入ってもよかったの?」
「ここの神様がお呼びだから、いいのです」
「広いわね…… 建物も綺麗。博麗神社とは全然違うわ」
「今まで、巫女がいる神社というのは幻想郷の中で博麗神社しかなかったそうですね。皆さんにとって実に不幸なことです。世の中にはもっと素晴らしい神社がたくさんあるというのに。もちろんこの守矢神社が一番素晴らしいですが、派手さや広さだけだったら、上には上がもっとありますよ」
「うぅん、外のことなんて興味ないけれど、でもこの神社はいいわね」
「ありがとうございます。あなたも八坂様を信仰されたらどうですか」
「いや、私は、いい」
「私は? というと、信仰することに抵抗がおありですか」
「信仰という言葉の意味は、私なりに理解しているつもりだ。そして、その意味に従うなら、私は幽々子様を信仰している。だから、この神社の神様を信仰するわけにはいかないの」
「それは……ちょっと違いますよ」
 早苗は足を止めて、振り向く。人差し指を顎にあてて、しばし考える。自分の頭の中では結論がすでに出ているのだが、それをどうやって妖夢に示すか、それを考えているようだった。
 この辺が博麗の巫女とは全然違うな、と妖夢は思う。霊夢は、自分が理解しているのなら、もう相手の理解を求めようとはしない。
「私からすれば、もちろんここの神様を一番に信仰してもらいたいと思うのですが、それは私の都合ですから。信仰というのは、ふたつやみっつにわけたからといって減るものではなく、むしろわかれればわかれるほど、多く、豊かになるのではないかと思います。信仰するたびに、八百万の神々をひとりひとり、見出していくのです。あなたの場合、西行寺様を見出すのでしょう。そうして少しずつ明らかなものを増やしていくのです」
「見出す……? すでに幽々子様の姿は見えているわ。今、ちょっとどこ行っているかはわからないけど」
「そうですね、見えていますね。でもまだ、見出せるでしょう。あとはあなたの問題ですから」
「私には幽々子様のすべてはわからないということ?」
「違います。いえ、それはそうなんですが、見出すというのは、あなた自身が相手の新たな一面を創るということです。
「うーん、よくわからないわ」
 話していると、いつの間にか本殿が目の前にあった。早苗は二拝二拍一拝する。丁寧に、心をこめて、動作のひとつひとつを行なう。妖夢は居心地悪そうにそれを見ている。早苗は横を向いて、笑顔になった。
「さあ、あなたも」
「私はまだ、信仰するかどうか決めていない……」
「いいのです。あなたは、初対面のひとが、それが将来友人になるかどうかわからないからと言って、挨拶をしないのですか?」
 他愛もない理屈だった。だが、この場合あまり理屈は関係なかった。早苗は、口調もそうだが、話している間の瞬きひとつ、手を打ち合わせる動作ひとつ、こちらを覗き込むようにして同意を求める仕草ひとつとっても、なんというか、実に少女らしかった。
 色が違えど似たデザインの巫女服を着用している人間が人間だけに、余計にそう思うのかもしれない、と妖夢は考えた。それに博麗霊夢に限らず、幻想郷で妖夢の知っている少女というのは、誰も彼もが気まま我がままで、自分の主張を押し通し、自分の意志に殉じている。それが嫌味にならないだけの、思い切りの良さも持っている。
 この少女は、少し違った。
「それとこれとは…… いや、何でもない」
 早苗の柔らかい言葉を、固い理屈で跳ねのけるのは、ひどく無粋な気がした。早苗は両手を体の前にそろえ、深々と二度お辞儀をする。
「こうするんです。それから、手を二度叩く。こう。それからまた一度、深く、心をこめてお辞儀をします」
 おそらくは何百、何千と過去に繰り返したであろう動作を、妖夢に向かってやってみせる。
「まずは形から入ってみましょう。それから」
「綺麗ね」
「えっ?」
早苗は目を丸くして、聞き返した。妖夢も、ほとんど意識しないまま口にしてしまったので、慌てた。
「いや、その、背筋がしゃんと伸びていて、いいな、と。早苗さんは、小さい頃から訓練を積んできたのね。よく鍛えられているのがわかる。私が同じことをしたら、不格好になるわ」
 また早苗は笑った。妖夢の両肩をつかんで軽くゆすぶる。同じひとの同じ笑いにも、色々な種類があるのだなと、妖夢は思った。
「関係ありませんよ。不格好とか。神様に挨拶する、その気持ちが大切なんです。それに、妖夢さんだって、想像を絶するほど剣術の研鑚を積んでいらっしゃるでしょう。さっき鴉天狗と戦っていた時、とても美しい所作だと思いました」
 こんな風に面と向かって励まされたり、ほめられたりしたことが、妖夢はほとんどなかった。今まで、特にそれで不満に感じたこともない。むしろ突然幽々子が妖夢のことをほめちぎりだしたり、霊夢が努力の重要性を説きだしたりしたら、それはそれで何か裏があるのか勘ぐってしまうだろう。ひとがどうあれ、妖夢には妖夢の目指すところがある。そこに向かっているという確信さえあれば、彼女は満足だった。
「……ありがとう」
 それでも、早苗の言葉はあまりに新鮮だった。嬉しかった。
 早苗の振る舞いを横目で見つつ、二拝二拍一拝を終えると、本殿に上がりこむ。靴を脱ぎ、板の間に上がる。
「あなたは、いけるクチかしら」
 声がする。早苗ではない。奥から声が聞こえてくる。
「ええ、多少は」
「そう」
 はじめて耳にする声だが、十年も二十年も前にかすかに聞いたものを、今再び耳にしたような錯覚を、妖夢は覚えた。ありていにいえば、感動していた。声を聞いただけだというのに。こういう威厳もあるのかと思った。
「いらっしゃい」
 声に従い、奥に進む。靴下をはいた四つの足が屋内に低く響く。
 一番奥に壇が設けられている。その前に胡坐をかいて、盃を手にしている女がいた。赤い上着に、鏡を首に下げている。下は紺の袴のようなものだ。脇に酒瓶が置いてある。
「私は八坂神奈子。よろしく」
 親しげに手をあげる。そして、壇の上に備えてある盃をとって、妖夢に差し出す。
「ほら、やるかい」
「あ、ど、どうも」
 神奈子の前に正座して、盃を取る。
「よ、よろしくお願いします。白玉楼の」
「魂魄妖夢だね」
 酒瓶を傾けながら、神奈子は笑った。さっき声を聞いた時に感じた威厳は、今はあまり感じられず、むしろ強くひとを引きつける親しみに溢れていた。
「あ、よくご存じで」
「話は聞いている。かなり……斬れるらしいね」
 そう言って、盃に口をつける。また、あの威厳が盛り返してくる。
(自分のまとう雰囲気さえ自在に操られるのか、このひとは……)
 幻想郷における圧倒的強者といえる者たちに、妖夢は過去何度か会っている。西行寺幽々子は比較対象外としての話だが、その中でこの山の神ほど威厳を感じた者はいなかった。
 レミリア・スカーレットは誰よりも激しい。だが彼女にひとを導く気はない。八雲紫は誰よりも底が知れない。だから怖さを感じても威厳は感じない。
 射命丸文は誰よりも速い。風見幽香も伊吹萃香も、圧倒的な力を誇る。しかしあくまで個としての力がケタ外れだったというだけだ。それでひとを動かすというのとは違った。
 比べるならば八意永琳や四季映姫だが、彼女らはまず自分の目的が第一だ。
 八坂神奈子は違う。彼女の目的は、自分と他者の望みを一致させることだ。従わせることではない。
「その、斬れるあんたに質問だ」
 盃を干し、新たにつぐ。妖夢もそれに倣い、盃を干す。胃の中に熱い液体が落ち、それが広がっていくのを感じる。妖夢はしばしば幽々子の晩酌の相手を勤めるし、神社や紅魔館、ごくまれに永遠亭でも宴があれば、時間を作っていくようにしている。だから酒は弱くはない。その妖夢でも、一気に腹に入れると頭が熱くなった。かなり強い酒だ。
「あんたは、あんたの主人の望みを理解しているのか」
 その問いは重く、妖夢にのしかかる。だが、ここで物怖じするわけにはいかなかった。自分の誇りのためにも、幽々子のためにも。
 妖夢は息を吸い込んだ。
「はい。幽々子様は、妖怪の山に会いたいひとがいると仰っていました。その方に会うのが、あの方の望みであり、私の望みです」
 盃を床に置き、正座した膝を両手で握りしめ、肩をいからせて妖夢は答える。
「うん、まあいいだろう」
 すると、妖夢が拍子抜けするほど神奈子は軽い口調で言った。そして床に置かれた盃に酒をつごうとする。慌てて妖夢は盃を手に取る。
「そんなに固くならないでよ。次に、もっと大事な質問をするのだから」
「え……っ」
 自然と体がこわばる。今の問い以上に大事な問いなど、妖夢には考えられなかった。
「ほらほらそんな、ぴしっ、と固まらない。落ち着いて。ほら、呑んで」
 緊張が完全にほぐれることはなかったが、それでも少しはましになった。
「じゃあ、聞くよ」
「どうぞ」
「あんたは、あんたの望みを理解しているのか」
「はい」
 今度はひと呼吸の間すらおかなかった。神奈子は、にぃっと笑う。
「聞かせてくれるかな」
 ここで、妖夢は躊躇した。答えはあまりに簡単だった。「幽々子の望む通りにする」これしかない。だが、神奈子がその程度のことを理解していないはずがなかった。それでもあえて尋ねた、その真意を妖夢は考える。
「うん、いいよ、やっと迷ってくれた」
 自分の酒を飲み、神奈子は目を輝かせる。
「今、あんたは言葉を呑み込んだ。言葉を馬鹿にしちゃいけない、妖夢。西行寺幽々子は、そのひとと会って何がしたいんだ」
「それは……そこまで詳しい事情は、私が知る必要はありません。そもそも、教えてくれと言ったって、教えてくれないのですから」
「教えてくれるまで、つきまとったらどう?」
「そうしたら、逆に何も言ってくれなくなりますよ」
「本当にそうかしら」
「そういう時もあるし、そうでない時もあります。あのひとの気分は天気よりも時間よりもころころ変わるのですから……」
 そこまで言って、また妖夢は口をつぐむ。神奈子は満足そうにうなずく。
 妖夢が本心からそう思っているのでないことを、神奈子はわかっている。
「多分、幽々子は自分の考えた論理の中でしか動かないよ。もちろん、それは私なんかには決してわかりっこない理屈なのだろうけど。でも、幽々子は妖夢、あんたをその理屈の中に引っ張り込もうとしているんじゃないかな。まあ、あのお嬢様もやたらと不器用みたいだけどね。やり方が全然なっちゃいない」
「あまり幽々子様を貶さないでください。わからなくてもいいのです。私は、あの方にお仕えするだけでいいのですから」
 突然神奈子は立ち上がり、妖夢の横に立った。そして、力いっぱい背中を叩いた。妖夢は口に含んでいた酒を吹きだした。神奈子はそのまま尻からどすんと床に降り、胡坐をかいて妖夢の肩に腕を回し、引き寄せる。
「うわわ、神様、何するんですか」
「いーじゃないのお! もっと貪欲になりなよ。あんたはもっと望んでいいんだって」
「も、もっと望む……?」
「そうそう。あんたの大事なお嬢様のことを、もっとわかりたいと思わないのか? もっと役に立ちたいと思わないのか? もっと言葉をかけてほしいと思わないのか? もっと言葉をかけたいと思わないのか? もっと……」
 そこで神奈子は口を閉じる。妖夢の目尻に、涙が浮かんでいた。
「ん、ああ、すまない、私、何か気に障ること言ったかな」
「い……え……」
 妖夢はうつむいて首を振った。
 神奈子がまくしたてた光景を、ひとつひとつ頭の中で組み立ててみた。
 それがあまりに幸福で、気づくと目頭が熱くなっていた。
「ありがとう……ございます」
 妖夢はゆっくりと、しかし力強く神奈子を押し返した。
「もう、大丈夫です」
「あ、ああ、そうかい、それならいいんだけど……」
 急に落ち着き払った妖夢に、神奈子は戸惑いを隠せない。この時は、むしろ傍らの早苗の方が状況を正確につかんでいた。
「八坂様、妖夢さんはもう大丈夫と仰っているのですから、大丈夫ですよ」
「そ、そうかな」
 早苗は笑う。妖夢に向けたものとはまた違う、甘えるような、そして甘やかすような笑顔。
「そうですよ。神奈子様の言葉は、妖夢さんに届きました」


 栗の木は、巨大な抜け殻となっていた。そこには、取り返しのつかない空虚があった。いつ死んだのか、わからない。雛のところに厄が流れ込んできた昼までは、まだ生きていたかもしれない。
 幽々子がその細く白い指で触れても、何の反応も返さなかった。遅かった。昼までは、まだ生きていた。もう少し早く来ていれば、何か言葉だけでももらえたかもしれなかった。
「栗の木さん、聞きたいことがあるんです」
 静葉は根に手を添えて、話しかける。
「栗の木さん」
 やはり、反応はない。静葉はため息をつき、巨木を見上げる。その枝ぶりの見事さに、圧倒された。かつてはここに、化け物みたいな栗の実や、死者の魂がぶらさがっていたのだ。
「静葉さんは、何がしたかったの」
 木の幹に指を触れさせたまま、幽々子が問う。
「私は、弔い方を覚えたかったんです。私は寂しさと終焉の象徴。ひとが過ぎ去る秋を惜しみ、次に来る冬を恐れ、ため息をつくその思いが私の糧です。私は、そういうものでできています。春でも夏でも冬でも、ひとは生を終えます、記憶も消えます、文字も、絵も。そういう終焉に対して誰かがつくため息が、私を翌年の秋まで生きながらえさせます。私はそれに対して何もできません。できるはずがないのです。物事とは、終わるためにあるのですから。でも放っておくのは嫌です。物事の終焉を、少しでも美しく彩られるならと思います。紅葉が散るさまは美しいですものね」
「桜もね」
「ただため息をついてそのままなし崩しに終焉を迎えるのではなく、弔うことで、祭りにしたいんです」
「祀るの?」
「ええ、そして祭りにするのです。妹にそれはできません。妹は物事のはじまりを祝福します。料理を食卓に並べるまで、物語が物語られるまで、歌のはじまり、あるいは、ひとが恋しいひとを口にするまで、です。私は、料理が食卓から去ってしまったあとの侘しさ、物語の終幕、歌の終わり、ひとが恋しいひとを食べてしまったあとの侘しさを、祝福します。ええ、それは祝福でなければいけないんです。終わることがただの終わりでは、あまりにやりきれないじゃないですか」
 肩を震わせる静葉を、幽々子はそっと抱きしめる。
「あなたが、これからも、いい神様でありますように」
 静葉は無言で幽々子の肩に顔を押しつける。
「来年は、もっと色んなことができるようになっているんでしょうね。楽しみにしているわ」
 それは、終わらせることが目的の静葉の望みとは矛盾しているのかもしれない。静葉の成長を願う言葉だから。だが、幽々子が彼女に与えようと思った言葉は、他になかった。他の適切な言葉を探している間に、与えたい言葉が消えてしまいそうだったから、もう言ってしまった。
 幽々子の言葉に静葉はうなずき、幽々子と栗の木から離れていく。
 改めて幽々子は栗の木と対峙した。今度は両手をつく。手から、生命の息吹がかけらも伝わってこない。
 そこにあるのは、ただの巨木だった。

 守矢神社から飛んで五分も経たないうちに、妖夢の視界は栗の木を捉えた。木の下には、幽々子が立っている。足が鈍る。幽々子に会って、話を聞きたい。わざわざ妖怪の山に騒動を持ち込んでまで会いたかった者とは、いったいどんなひとだったのか。ふたりの間にどんな出来事があったのか、できることなら根掘り葉掘り聞きたい。同時に、主人の大切なひと時を、無粋にも自分が邪魔してしまうのではないかという恐れもある。
(いや、違う)
 妖夢は、自分自身についた小さな嘘に、首を振る。
 幽々子の邪魔をしたくないというのは、本当のようで、芯を避けた答えだった。本当はただ、幽々子から叱られ、疎まれるのが怖いだけだ。自分勝手な理由だ。幽々子を守るのが最優先にするべき事項、というのも嘘ではないが、実のところ、ただ幽々子の傍にずっといたいだけだ。
 それに気づいて、妖夢は足を止めてしまう。だが、神奈子の言葉が脳裏によみがえる。
(いいじゃないの、もっと貪欲になりなよ)
 うなだれつつあった頭を元に戻し、栗の木を見据える。
 何も悪いことはない。
 望むことを、すればいい。そして、それによって生まれた苦痛も快楽も同様に受け入れればいい。妖夢は再び飛んだ。

 幽々子は木の幹に手のひらをくっつけたまま、立ちつくしている。
「不思議ね、あの時の感覚が、何もよみがえってこないわ」
 それから幹に耳をつける。鼓動はない。耳を離そうとした時、鼓動が幽々子の耳に届く。それは栗の木のものではない。だが、幽々子はその鼓動に聞き入った。
「こんなだったら、わざわざ来る必要はなかったかしら、妖夢」
「いえ、何も感じないということを確かめられただけでも、来てよかったと思います。幽々子様」
 木の向こうから、妖夢の声がする。鼓動はいつもより速い。緊張しているのだな、と幽々子は思った。
「うん、そうかもね。結局、一度会っただけだったし」
「よかったら、その、少しお話を聞かせていただけませんか」
 幽々子は音楽を聞くように、妖夢の鼓動、声、息使いを楽しむ。妖夢は覚悟を決めて、吹っ切れたようだ。それでもまだ緊張はしている。彼女の体から発する音を聞いていれば、そういったことが手に取るようにわかった。
「私、木になりそうだったの」
「はい」
「こう、自分の頭とか、腕から、芽が出て、木が育っていくの。全然痛くなくてね。それに、その時とてもとてもお腹が空いていて、体中が悲鳴を上げていたの。でも、木になったところから、順に楽になっていった。ああ、これもいいかな、と。それにね、なんていうか、あの花がとても……おいしかった」
「はい」
「食べていると、心が満たされたわ。でも、私は起きて、家に帰った。夢から醒めたらご飯を作ってくれるっていう子がいたの。私が木になったら、多分その子が、心配するだろうと思うと、私が満たされている場合じゃないって思ったわ。偉いでしょう」
「はい」
「その子が食べた料理は、口に合わなかった。その頃はとっても偏食だったのね。勿体なかったわ。私は、明日また来てねと言ったし、その子も、明日また来ると言った」
「はい」
「その子は妖夢ではないのだけれど……でも、もし今妖夢がその子みたいに言ったら、やっぱり私は同じようにするだろうし。もし、妖夢とその子が、別々の場所で同じように私を呼んだらその時は……あれ、どうするんだろう」
「それは、その時考えればいいんです」
「それもそうね」
 そこで、しばらく会話が途切れた。幽々子は幹に耳をあてた。中は生命の空洞だ。そこを通じて、妖夢の心臓の音だけが響く。
「あなたの心臓、わかるわ」
「私にはあなたの声しか聞こえません」
「心臓、止まっているものね」
「お願いです、いなくならないでください。私の目の届かないところに行ってしまわないでください。」
「あなたに目がついているうちは、そうするわ」
 速くなる一方だった妖夢の鼓動が、徐々に緩やかになっていく。幽々子は全身を耳にして、鼓動の些細な変化まで捉えようとする。
「幽々子様は、後悔していらっしゃいますか。このひとを受け入れなかったことを」
 妖夢もまた、木の幹に体をそわせているのだろう。
「そうね。この子、とても私を食べたそうにしていた。痛みがなかったし、花はおいしかったし、どうしても嫌ってほどでもなかったけれど。でもね」
 幽々子は木の幹に沿って、歩いていく。鼓動と、足音がだんだん近づいてくる。手を伸ばす。すると、向こうからも手が伸びた。指を絡める。
「妖夢の手、あったまる……」
妖夢を引き寄せ、腕の中に収める。
 妖夢は逆らわない。五感のすべてで幽々子を感じようとする。
「私は貪欲なの。自分で食べたいの」
「……なんなんですか、もう」
 妖夢は顔をあげられなかった。幽々子の胸元に顔をうずめ、腰に腕を回してきつく抱きしめる。折れそうなほど細い腰なのに、まるで包み込まれるような柔らかさがあった。
「なんなんですか、そんな、それって、いつもおっしゃってることでしょう。そのくらい、わかりますよ」
「ごめんねー、妖夢だけの私じゃなくて」
 きわどい科白を言われ、妖夢は絶句した。頭が真っ白になった。力が抜けると、それを機に幽々子はするりと妖夢の腕から離れた。
「実はね、この子がここにいるって聞いた時に、食べてあげようって思ったの。それが、あの時そっけなくしてしまった私の、償いになるかなあって。でも、もうどこかに行っちゃったわね。それにこの子、千年近く、色んな死者の魂を使って遊んでいたんでしょう。もう私のことも忘れていたかもしれないわね」
「そうですよ、きっとお互いドライな目で相手を見ていたんですよ」
 妖夢は頭が真っ白になったことを悟られないよう、ジト目で幽々子を見る。
「なあに? それ。変な言葉使いはおよしなさい」
 扇を口元に当て、幽々子はほほえむ。
「すみませんね、顕界の悪い言葉使いが移ってしまったみたいです。さあ、帰りましょう」
「待ちな!」
 飛ぼうとした時、背後から声がかかった。四方を見渡すが、遠巻きに弾幕合戦を見物していた妖怪や、彼らに混じって見物を決め込んでいる諏訪子と小町、いつの間に戻ってきたのか文、それに帰る途中の静葉しかいない。
「もっと上よ、妖夢」
 幽々子の言葉に従い頭上を振り仰ぐと、宙に仁王立ちした神奈子がいた。傍らには東風谷早苗。神奈子は、さっきはつけていなかった注連縄を背中に装着している。
「あ、八坂さ……」
「お前たち、ここを山坂と池の権化、八坂神奈子が総べる妖怪の山と知っての狼藉か!」
「はあ?」
 神奈子の周囲に、幾重にも御札が並べられていく。それは縄がよじれ、重なっていくさまに似ている。巻き添えを食わないように、早苗は神奈子から距離を取る。
「そうか、その覚悟があって来たのだな、ならば多くは問うまい、私もずいぶんと舐められたものね。風神の怒り、存分に受けるがよい!」
「ちょっとちょっと」
 妖夢は事態が呑み込めていない。とりあえずわかるのは、仁王立ちした神奈子が顔に満面の笑みを浮かべていることくらいだ。全然怒っていない。
「八坂様! 私たちはただこの木に会いに来ただけで、狼藉が目的ではありませんし、あなたの支配を邪魔するつもりもありませんし、もう帰るところです。ていうかさっきあなた全然そんなこと言ってなかったじゃないですか!」
 その時、早苗は神奈子の舌打ちと、
「ったく空気読めあのガキ」
 というおおよそ神らしくない発言を耳にしたが、聞き流すことにした。
 神奈子は、遊びたいだけなのだ。
「神様も争いは好まないと思います。またお参りに来ますので、その時はよろしくお願いします。今日は本当にありがとうございました!」
 妖夢が全力で頭を下げる。侵入者と山の神のちぐはぐな友好ムードに、周囲の妖怪がざわつき出す。
 神奈子は必死で策を巡らす。早苗は静止したままの御札弾幕の間を縫って、神奈子の肩を叩く。そして、見物妖怪に混じっている死神を指す。
「そうか! でかした早苗」
 神奈子は嬉しそうに左手のひらを、右手の拳で叩いた。
 御札弾幕のさらに上方に、長大な木の柱が八本出現する。
「神祭 エクスパンデッド・オンバシラ!」
 八本の柱は、凄まじい勢いで射出され、小町の周囲でぴたりと止まった。小町は凍りついたように動かない。いや、動けない。逃げ場がない。
(な、なんだってんだこの神様、何がしたいんだいったい)
 小町はうろたえながらも、状況を整理しようとする。あの神様が本気で怒っていないことなど、見ればすぐわかる。あの庭師も帰ると言っている。事件はもう終わった。いや、そもそも事件など、始まってすらいなかったのだ。
(なのにこの神は何考えてるんだ)
 周囲は、異様なほど盛り上がっていた。見物妖怪は、さっきの倍に膨れ上がっていた。この調子なら、もっと増えるだろう。小町は理解した。
(そ……そうか、この神……ただ遊びたいだけだ!)
 しかもただ遊ぶだけではない。
 みんなで遊ぶ気だ。
「そこにいらっしゃる死神様は、地獄の是非曲直庁が使わした使者だ。冥界の白玉楼の主人を連れ戻しに来た。しかし白玉楼の主人は、死神様を愚弄し、手下の庭師を使って白狼天狗に乱暴狼藉を働き、あまつさえ、我が、我が、えー、我が……友? みたいな土着神に傷を負わせた。これは許すまじきことだ。おそらく是非曲直庁の方々も怒り心頭に発しておられるだろう。しかしわざわざ地上までご足労願うのはあまりに申し訳が立たない。地上の問題は地上で解決しなければならない。ゆえに妖怪の山の神、この八坂神奈子が西行寺幽々子、魂魄妖夢の二名に罰を与える!」
「……あんの馬鹿、ノリすぎだって」
 諏訪子は深々とため息をつく。それに反して、周囲は大盛り上がりだ。すでに空も地も見物妖怪で犇めいている。
「食らえ不届き者! マウンテン・オブ・フェイス!」
 幾重にも積み重ねられた御札が次々と射出されていく。
「なんだかわかりませんが……弾幕合戦ですね、ならば容赦しません、八坂様、あなたを斬る!」
 妖夢は二刀を構え、真正面から御札に突っ込んでいく。相当に濃い弾幕だ。一ヶ所削ってから活路を見出そうと、軽く白楼剣を振る。すると、振った妖夢本人が驚くほどの勢いで、桜弾幕が発射され、ごっそりと神奈子の弾幕を抉り取った。
「これは……そ、そうか、今は幽々子様の力が」
 山の神の弾幕があっさりと抉り取られたのを見て、妖怪たちにどよめきが走る。だが誰も不安に思ってなどいない。神奈子は手をあげて妖怪の声援に応える。マウンテン・オブ・フェイスはすぐさま修復し、より一層密度を濃くし、展開される。
 だが妖夢は臆さない。体には活力が満ち満ちている。最大の武器である瞬発力を生かすため、腰を落とす。地面を踏みしめる。
「獄炎剣・業風閃影陣!」
 地を蹴る。
 弾幕を抉るが、密度が高いためか、さっきよりも与えた被害は少ない。妖夢の周囲を回る扇は、今は何もしていなかった。
「なるほど、実際の私の力はこんなものか……まだまだ精進が必要だ」
「あら、生意気にも、扇の力加減を覚えたのね」
 いまだに地面に突っ立ったまま、全方向に蝶弾幕を発射している幽々子は、満足そうに笑った。今度のギャストリドリームは力がこめられておらず、要塞のような弾幕に覆われた神奈子はもとより、扇を憑かせている妖夢にもほとんど影響がない。ただ、見た目は華やかで、場の盛り上がりに一役買っていた。
 扇が白楼剣を中心に旋回する。
「桜符・二百由旬の一閃!」
 桜の弾幕をまとった一閃が、神奈子の要塞弾幕を直撃する。妖怪たちは湧きたった。半分以上、マウンテン・オブ・フェイスが破壊されていた。神奈子は高らかに笑う。
「あ、あのー、八坂様、もうそろそろよいのでは……」
「筒粥・神の粥! 贄符・御射山御狩神事!」
「うわ、それはなんだか大人げないです……」
 川の流れのように粘液が宙を這い、妖夢の足を捉える。そこへ、神気をこめた弾と短刀の雨が襲いかかる。
「う、わっと」
 粘液を引きはがし、不安定な体勢で中弾とナイフ弾をかわす。いくらかよけきれずに傷を負う。そのうちの短刀が一本、幽々子に向かった。
「幽々子様!」
 妖夢は何も考えずに、瞬時に跳ぶ。幽々子の扇と、妖夢の楼観剣が短刀を弾いたのは同時だった。
「まったくもう、このくらい自分でするわよ」
 幽々子はそう言い、ふわりと宙に浮く。
「え、何を……」
 粘液は幽々子の足を止められず、神気の弾も短刀も紙一重で幽々子に当たらない。そのまま幽々子は神奈子の目の前にやってきた。そして、にこりと笑う。神奈子も笑みを返す。
「あんまり妖夢を傷つけたら、駄目よ」
 自ら体を横にし、舞うように旋回する。至近距離から神奈子が放ったオンバシラをかわしざま、神奈子の後頭部に扇の一撃を叩きこむ。そのまま回りながら神奈子の後方へ飛んでいく。
「ふ、ふざけてるのかい……」
 頭をさすりながら、神奈子は言う。かなり効いていた。頭がくらくらする。早苗が心配そうに声をかける。
「八坂様、そろそろ、時間ですよ。お仕事が……」
「ふはははは! 貴様らの力はこんなものか、こんなものではまだまだ私を地に伏すことなどできはせんわ!」
「やさ……」
 ノリノリの神奈子をどうなだめようかと、半泣きになった早苗の袖を、諏訪子が引っ張る。
「ほっときなよ、こうなったらもう気の済むまでやらせておくといい。実際、多少ご利益あげるのさぼったって、ここまでみんなを盛り上げるんだったら、お釣りがくるよ」
「確かに……」
 見渡すと、妖怪の山は、熱狂の渦にあった。諏訪子は呆れたように肩をすくめてみせた。
「やれやれ、本当、こればっかは私にゃまねできないね。あの馬鹿の、ほとんど唯一の特技だよ」
「はい、それはわかります」
 早苗は誇らしげにうなずく。が、すぐにまた思案顔になる。
「ですが、こういう派手なパフォーマンスだけじゃなくて、地道な活動が、最後には実を結ぶのです。そこを、もう少し八坂様にはわかっていただかないと」
 すると、諏訪子は何もかも任せろといった風に、早苗の背中をぱんぱんと叩く。
「わぁーかってる。今日のご利益は私が代わりにやっておくからさ」
「ほ、本当ですか。なんだか申し訳ないです」
「いいのさ。私は縁の下が似合っている。それにねえ、実際、あんな恥ずかしいまね、したくないわ」
「は、はあ、まあそれは、ひとそれぞれの好みというもので」
 さすがにはっきりと自分が崇める神を行為を「恥ずかしいまね」呼ばわりするのは、早苗にはためらわれた。
 神奈子は弾幕の再構築をしている。マウンテン・オブ・フェイスと形はほぼ同じ、密度もさらに濃くなったが、それ以上に、御札ひとつひとつから放たれる神気が、段違いに強くなっている。
「風神様の神徳、思い知れ!」
 再び妖夢は一閃を仕掛けるが、今度はわずかに弾幕を削っただけだった。
「ならば、神様が疲れるまで、避け続ける!」
 妖夢は弾幕のわずかな隙間をかいくぐっていく。だがさすがに、扇だけでは補いきれない、地力の差が出てきた。神奈子にまったく近づけていない。
「くっ」
 肩に御札が当たる。すると集中が途切れた。覆いかぶさる弾幕の、どこにも隙間を見出すことができない。
「ここまでか……」
 諦めたその時、妖夢の前にふわりと主人が降り立った。両手にひとつずつ扇を持っている。妖夢は嬉しかった。もちろん、幽々子の本当の力の前では扇など飾りのようなものだろうが、主人が舞っている時は、ふたつあった方がよかった。
「お疲れ様、妖夢。これから何を食べようかしらね。山の神様が振る舞うのだから、きっと豪勢よ。獣の肉とか、鶏肉とか、それに焼酎なんかもいいわね」
「ゆ、幽々子様、前、前……!」
 妖夢が震える手で前方の弾幕を指差すが、幽々子の前で悉く弾け飛ばされる。巨大な扇が幽々子の前に広がっている。幽々子は扇を開いた両手を、胸の前で交差させ、浮かび上がる。神奈子と同じ高さにまで。水色の着物が、幽雅に揺れる。大歓声の中、舞が始まる。
「宴会・死して全て大団円」
 桜色に染まった霊魂が、渦巻状の軌道を描きながら集まってくる。一点で収束すると、鮮やかな花びらを散らした。間を置かずに、新たな霊魂たちが呼び寄せられ、収束していく。再び散る。次第に連続するようになる。
 幽々子の周囲に、いくつも渦巻状に回っていく霊魂が現れる。神奈子の御札の群れはそれに方向をずらされ、周囲に散っていった。
 その御札の一枚が、見物していた妖怪の方へ飛んでくる。
「危ないっ」
 一緒に混じって観戦していた静葉が、無数の落葉を壁のように展開して御札を抑え込む。壁に衝突すると御札は力を失ったが、静葉の落葉の壁も派手に吹き飛んだ。紅葉が散り、妖怪たちに降りかかる。
御札の一枚は、文にも飛んでいく。文は手に持った団扇を弄んでいた。御札が猛烈な勢いで迫ってくる中、文は悩んでいた。避けるか、弾くか。新聞記者としての公平性を保ちたければ、石ころのように、我関せずと避けるべきだ。しかしそれとは別に、文の中にある、弾幕を求める熱い思いが疼き始めていた。
 御札が鼻先に触れる寸前、それまでの葛藤は消し飛んだ。体が勝手に動いていた。団扇が、竜巻を巻き起こす。
「突風・猿田彦の先導」
 まわりの妖怪が巻き込まれて、騒ぎ出す。中には、混乱して闇雲に弾幕をまき散らす者もいた。それがさらに混乱に輪をかける。実に陽気な混乱だった。神奈子たちの弾幕合戦で熱狂していたので、皆、札も落葉も竜巻も余興の一環として受け止めた。いつの間にか神奈子と幽々子の対戦から、自分たちの遊びへ関心が移っていった。
「おおおっ、楽しそうじゃないの。よし、私も混ざろう。土着神・ケロちゃん風雨に負けず!」
 諏訪子の体から翼のような神力が生まれる。それは蛇のようにうねり、暴風を生み出す。文の竜巻や幽々子の桜、神奈子の御札とぶつかり、もはや場の収集はつかなくなっている。
「何やってるんですか諏訪子様、仕事してください! 開海・海が割れる日」
 諏訪子は、左右を水の絶壁で遮られ、動きを止めた。水の絶壁よりはむしろ、早苗の声の方が効いたのかもしれない。そこへ、先端に鉤がある鎖が飛んできて、諏訪子の襟首をつかんで引っ張っていく。
「ええー、早苗いいじゃないの、私にも遊ばせてよ」
「まったくもう、さっき任せろっておっしゃったばかりじゃないですか。誘惑に負けやすいんですから」
「仕事はするよ。ちょっとその前に気晴らししようとしただけじゃないか」
「わかりました。はい、では気晴らしはもう終わりましたね?」
「……あーうー」
 早苗と諏訪子が神社へ去っていった後も、無論場の混乱は収まるどころか、白熱していくばかりだった。
「うーん、どうするかなあ」
 小町は悩んでいた。彼女に与えられた任務は、西行寺幽々子を冥界へ連れ戻すことだ。しかし現在幽々子と戦っている役割を負っているかに見える神奈子は、すでにその役目をほとんど放棄して、弾幕遊びに興じている。元々、幽々子との戦いはついでというか、ただの口実に過ぎないのは明らかだった。このまま彼女に任せておいても、事態は一向に進展しないだろう。上司に怒られるのは自分だ。
 そして、実は混ざりたくて仕方ないという、小町の個人的事情もあった。
 木の枝に腰かけている幽々子は、そんな風に悶々としつつ回避している小町を眺めていた。
「幽々子様、お疲れではありませんか」
 上空から、おぼつかない飛行で妖夢が降りてくる。
「あなたこそね」
 真正面から延々と神奈子の弾幕に挑み続けていた妖夢は、すっかり息が上がっていた。
「疲れました。神様の体力は底なしですね」
「休みなしにつっかかっていくからよ」
「ところで幽々子様、何を見られていたんですか」
「あの子よ」
 幽々子は上空の小町を指差す。
「ああ、死神ですね」
「実はね、さっきあの子に、首に鎌を当てられたの」
「なんですって」
 妖夢の目つきが険しくなる。
「首に傷がついちゃったわ。秋さんに助けられたけど」
 そう言いながら、首を指差す。赤い線はほとんど消えかかっているが、確かに傷はまだ残っていた。
「仕事で仕方なくやっているから、勘弁してくれって」
「仕事? そんなの言い訳に過ぎません」
 さっきまで疲労困憊していた妖夢の体に、力がみなぎっている。手に二刀を持つ。
「ちょっと事実確認を行なってきます」
「がんばってー」
 二百由旬を駆け抜けると号するその足で、瞬く間に小町のもとへ飛んでいく。
「小野塚さん!」
「なんだ庭……」
「斬る!」
 剣と鎌が噛み合い、甲高い金属音がする。
「ちょ、なんだ、待て待て、話が読めない」
「事実確認します。あなたは、幽々子様に刃物を突きつけて脅しましたね」
「え、ええっ!?」
「確認、終了!」
 猛烈な勢いで斬りかかってくるのを、小町は辛うじていなす。
「くっ、これはもう正当防衛だ、あたいだってやりたくてやってるわけじゃないよ、先にあんたがやってきたんだからね」
 そう言いながら、口元が笑みでひきつるのを止められない。
「死神・ヒガンルトゥール!」
 鎌をひと振りし、全方位に銭と、鎌型の弾幕を張り巡らす。
「正体を現しましたね。天上剣・天人の五衰!」
 五色の鱗弾が空を埋め尽くす。ここにまた、ひとつの華々しい弾幕のせめぎあいが生まれた。
「風流ねえ」
 上空のそこかしこで繰り広げられている光景に、枝に腰かけた幽々子は、のんびりと呟いた。
「風流もいいが、口元が寂しかろう」
 頭上から声がかかる。幽々子は、相手が誰だかわかりきっているという風に、振り仰ぐ。
「あら神様。もう弾遊びはいいの?」
「いやあ、こんなに暴れたのは久々よ。白玉楼の名は伊達じゃないわね。もう疲れた。もう結構」
 全然疲れていない様子で、神奈子は別の木の枝に腰かけ、ちょうど幽々子と向かい合うようになる。
「やるかい?」
 一升瓶と盃を差し出す。幽々子は黙って両手を差し出し、盃を受け取る。神奈子は瓶を傾ける。
「いい庭師を持っているね」
「自慢の庭師よ」
 するりとその言葉が出てきたので、神奈子は目を丸くした。
「もっとひねくれた答え方するかと」
「おかげさまで、私は食べて寝て起きているばかりでいいわ」
「さてそのあとは死ぬるばかり、か」
「もう死んでいますわ」
「なんだ、せっかく神様のありがたい説教を聴かせてあげようと思っていたのに、あなたには必要ないみたいね」
「うちの妖夢が大変お世話になったみたいで」
「そうか。あなたにそう言ってもらえると嬉しい。私はお節介焼きだからね、時々行き過ぎてやしないかと、心配になるのさ」
「神様は行き過ぎてしまうぐらいがちょうど良いのです」
「それはいい励ましの言葉をもらった」
 ふたりは話しながら、酌を交わし合う。
「で、本題に入るけれど」
「説教は本題じゃなかったの」
「それは瑣事。あの栗の木、私に弔わせてよ」
「まあ」
 幽々子は手のひらを口元に添える。目には、驚きではなく、試すような光がある。
「あんただってわかっているでしょう。喪主として、私の立場以上にふさわしいものはない、と。千年も妖怪の山で生きてきた木よ。それだけ山になじんでいるなら、山を司る者が弔うべきだわ。それにあなたが顕界の葬祭に口を挟もうとすると、向こうが相当うるさいはず。私にやらせてよ」
 幽々子は盃を飲みほし、ほうっとひと息ついた。頬が紅潮している。
「呆れたわ、気が利くのね。お願いするわ」
 幽々子は柏手を打って、神奈子を拝んだ。本当に、感心していた。神奈子は拳で自分の胸を叩く。
「任せて。誰もが思う存分死者を悼めるような、すばらしい葬式にしてみせるわ」
 それからまた幽々子の盃に酒をつぐ。すでに上空でも木の下でも、弾幕遊びに疲れ果てた妖怪たちが、三々五々集まって、酒盛りを開始していた。妖怪の山は賑やかだった。


   ***


 シソと梅干を乗せただけのお粥だった。紫は木の匙に粥をすくい、息を吹きかける。急に熱いものに触れて、幽々子の唇が火傷をしてしまわないように。
「早く、食べさせて」
 幽々子は紫の膝の上で、目を閉じ、口を開けた。頬はこけ、目には濃い憔悴のあとがある。紫はおそるおそる幽々子の口に匙の先を含ませた。幽々子の唇がゆっくりと動く。今まで何度も、このあと幽々子が苦しそうに顔をゆがめ、食べ物を吐き出すのを見てきた。
「う……ん」
 幽々子は苦しそうに眉を寄せる。紫は、幽々子の身を案じるとともに、その表情を艶めかしいと思った。どちらの気持ちも嘘ではなかった。幽々子の喉が動いた。紫は、肩の力を抜いた。幽々子も安心したように息を吐く。
「お粥なら、どうにかいけるみたい」
「わかったわ。これからどんどん作ってあげる。それで、慣らしていきましょうね」
 そう言うと、紫は額に浮かんだ汗をぬぐった。
「紫、疲れてる」
「そうね。まあ、あなたほどじゃないけど」
「眠ったら?」
「幽々子が眠ったら、そうするわ」
「じゃあ、眠る」
 そう言って、幽々子は目を閉じた。紫は、はじめ狸寝入りかとも疑ったが、本当に幽々子の体からは力が抜けていた。寝息が聞こえてくる。紫は自分の膝をのけて、代わりに枕を入れ、掛け布団を幽々子の肩までかけてやり、立ち上がる。

 庭に出た。
 花の濃い匂いがする。紫は、形のよい眉をひそめた。匂いに従って、庭を歩いていく。匂いの元にたどりつく。そこには、何もなかった。ただ、両端をリボンで結わえられた境界が、地面に口を開けているだけだ。
「そうか、残り香のことを忘れていた」
 紫は舌打ちした。すでに地面に刻まれている境界の隣に、もう一本境界を引く。甘い、むせかえるような匂いは、完全になくなってしまった。それを確認すると、もはやその場にいかなる用もないとばかりに、足早に去っていった。
 二本の境界線は、その日の夜には曖昧になり、翌朝には綺麗になくなっていた。


   ***


五、風神の葬祭

 眠りの海から、自分を引き上げる声がする。目を開くと、黒い視界の隅に赤く揺らめくものがある。灯明のあかりだ。
「なぁに? 妖夢、何か呼んだ?」
 目をこすりながら、上半身を起こす。丑三つ時でも草木は眠らない。相変わらず、妖怪の山は生命で満ち満ちている。
風が少しあるのか、あかりに照らされた妖夢の横顔は時々闇に陰る。灯明をじっと見ていたらしき妖夢は、こちらを見る。
「いえ、何も言っていませんが。というか幽々子様、また寝てらしたんですか。お通夜って、夜を徹してするものだと思っていましたが」
「今日はたくさん動いて疲れたわ。それに、最近は交代制でもいいのよ。とにかく誰かが起きていて、あかりを消さなければ」
「私が眠ったらどうする気ですか」
「大丈夫ですよ、私が起きていますから」
 声は、灯明から少し離れたところからした。秋静葉は、栗の木の前に茣蓙を敷いて、横座りになっている。結局あの騒ぎの中、里に帰ろうとしていたところを、幽々子がつかまえて山に引きとめた。
「昔は、死体が腐って風化してしまうまで、ずっと見ていたらしいわ」
「それっていつの話ですか」
「昔よ、昔。私が生まれるよりもっと昔」
「幽々子様、私、本当に呼んでいませんからね」
「あらそう」
「誰か、来たんですかね」
 妖夢は声を低めた。警戒している、というよりは、単に怖がっているように、幽々子には見えた。
「ほら、あの木の陰から」
「ちょ、ちょっとやめてください」
「何か匂いがするわ」
「え……」
 妖夢は辺りを見回す。
「そういえば、何か……うう、これは、何か」
「心当たりのある匂いかしら」
「あ、いえ、ないですけど。でもなんかこう、ねちっこいというか、あまり爽やかではない匂いですね」
 妖夢は正座した足をもぞもぞと動かす。居心地悪そうだ。
「こういう、ちょっとひねくれた味も楽しめなきゃ、駄目よ」
「は、はあ。がんばります」
 妖夢はもしやと思って栗の木に視線を移す。そこには相変わらず、死んだ木があるばかりだ。匂いも、急速に薄れていき、やがて消えてしまった。山の夜の喧騒と、灯明のあかりだけが残る。静葉が立ち上がり、お辞儀をし、手を合わせ、またお辞儀をした。二拝二拍一拝だ。
 本来拝まれる立場にある神が、誰かを拝む。そういうこともあるのだろうと、妖夢は思う。静葉の動作は、早苗のそれと比べたら、ぎこちなかった。
「手を合わせた時、音を立てなかったでしょう。あれは、しのび手と言うのよ。うるさくして、眠った死者を起こさないようにね」
 幽々子の囁き声が後ろからした。その声はあまりに甘く、妖夢は背筋を伝う震えが止まらなかった。鳥肌が立っていた。

 日の出前辺りから、ぽつぽつと参列者が集まってきた。栗の木が生前、死者の魂を操っていたことをよく知っていて、畏敬の念を持ってくる者もいれば、単に昨日、風神様が開いた弾幕宴会に魅せられて、それの後夜祭気分でやってくる者もいた。
 栗の木の周囲には四本の柱が立てられ、注連縄が渡された。飾りつけはそれだけだった。
「これでいいんでしょうか。あまり自信がないのですけど」
 玉串を両手に持った早苗は、心細そうに呟いた。
「いいよ、適当で。こういうのは気持ちが大事なんだから。最小限、そういう気分になれるものがあれば、それでいいわよ。儀式の最終目的というのは、いかにして参加したひとを非日常の世界に引きずり込んでハイにさせて、気持ちよく日常に還してあげるか、ってところにあるのよ」
「あの、そんな超適当なことを八坂様ご自身が言われるとですね、威厳というものがですね……」
「いいのよ、親しみやすさが私のウリなんだから」
 参列者が栗の木の前に並んでいる。神奈子と早苗は参列者から見ると木の傍らに位置する。神奈子がただそこに立っているというだけで、場の空気は、和やかながらも、身の引き締まるものになっていた。
「それはまあ、あなたの神徳があるからいいとは思うのですが。ただ、この祭詞はちょっと……」
「おや、私の台本が気に入らないの」
「いえ、そういうわけでは。ただ、少し言い方が直截的過ぎではないかと。全然祭詞っぽくないですし。なんていうか、お別れの言葉みたいな」
「本当のことでしょう。ちょっと事情に詳しい奴なら、みんな知っていることよ。参列者の中に、気にする奴がいるとも思えないし」
「それはまあ、そうですね」
 参列者と言っても、きちんと栗の木の前に立っているのは、西行寺幽々子、魂魄妖夢、秋静葉らを入れても二十人弱といったところで、他は彼女らや栗の木を円陣で囲むような形になっている。興味はあるが、参列者の顔ぶれが顔ぶれだけに、実際にそこにいたら何に巻き込まれるかわかったものではない、と考えているのだろう。
「おはようございます、西行寺さん。手ぬぐい、ありがとうございました」
 鍵山雛はそう言って幽々子に挨拶する。
「ずいぶんお加減もよろしいようね」
 幽々子は手ぬぐいを受け取りながら、雛の顔を見る。
「ええ、昨日ひと晩眠ってずいぶん楽になりました」
「苦労をかけられた恨みごとでも言っておくといいわよ」
「いえ、このひとが動機はどうあれ、山の厄の一端を担っていたことは確かですし。それに、死んだ者をどうこういうのは、私の趣味じゃありません」
 そう言って、雛はすっきりした表情で、魂の抜けた栗の木を見た。
「お姉ちゃん、大変だよ」
 穣子は不安げな面持ちで、静葉に駆け寄る。
「あら、よくひとりで来れたわね」
「うん、それは、山神様が、葬儀に出る者は無条件で山に通すようにって言ってくれたからだけど。そんなことより、大変なの、神社の豊穣の力が急速に落ちてきている」
「落ちてきたも何も、もうなかったでしょうに」
「紅葉もどんどん散っていっているよ」
「穣子、もうすぐ冬よ、仕方ないじゃない」
「だって昨日は」
「昨日一日の夢と思うことね」
「そ、そんなあ……」
 穣子は肩を落とす。横で、シャッターを切る音がした。秋姉妹がそちらに視線をやると、ファインダー越しに射命丸文と目が合った。
「小さい秋、見ぃーつけた」
「失礼ね」
 穣子が口を尖らす。
「もう晩秋よ」
 静葉が冷静に突っ込む。
「ふふふ、誰があれを兆しの歌と決めたのですか。終わりの歌かもしれません。歌の解釈は読み手に委ねられるのですよ」
「私たちの不幸を激写して、そんなに面白い?」
「やっぱり天狗は悪趣味なのね。もっと高尚な趣味を持てばいいのに」
 穣子が言い募ると、静葉もそれに続く。
「いえいえ、ひとは誰しも他者に関心を持たざるを得ないのです。こんなに高尚なことはありませんよ」
 文はそう言って、またシャッターを切る。穣子は顔を伏せたが、静葉はため息をついて、無視することにした。
「目ぇー隠し鬼さん、手ぇーの鳴る方へ」
「こらこら」
「むーかしの、むーかしの、風見の鳥の……」
「こらこら、天狗」
 小町が鎌の石突で文の頭を小突く。
「あいたたた……おや、死神さん」
「変な歌歌って、これ以上変なもの呼びこまないでおくれよ。あたいの仕事が終わらない」
「死神さんはまだ顕界にいらっしゃるのですか。仕事終わってないんですか。外泊許可はちゃんと申請したんですか」
「うるさいな、ブン屋の知ったことじゃない」
「なるほど、帰るに帰れないのですね」
「顕界の葬式を見届けておくのも、後学のためにいいかと思ってね。ほら、あたいの仕事は新人死者の接客だろう。死者がどういう弔い方をされるかってのは、知っておいた方が、知らないよりいいだろう」
「でも、ここにいる面子を見て下さいよ。亡霊とか半人半霊とか死神とか、顕界に縁のない方々ばっかりな気がしますよ」
「神様がいるだろう。神様は顕界のひとだよ」
「まあ、そういうことにしておきましょうか」
「苛々するねえこの鴉は……」
 小町は拳を握りしめ、ぷるぷると奮わせるが、文は平然としている。
「始まるよ」
 神奈子、早苗側でなく、参列者側に並んでいる諏訪子がそう言うと、みな、口を閉じた。
 早苗が進み出て、栗の木の前に立つ。玉串を払う。
 妖夢はそれを見ていると、自分の体にえもいわれぬ昂揚が満ちてくるのを感じた。早苗の仕草のひとつひとつにどんな儀礼的意味があるのかはわからない。それでも、飽くことなき反復行為の末に習得したであろうその動きは、見ているだけで美しく、心地よかった。
「栗の木様、あなたの死を悼みます」
「とうとう名前は栗の木のままでしたね」
「黙って見てな」
 小町に囁く文を、諏訪子が小声で制する。
「栗の木様、あなたに言葉を捧げます」
 早苗は墨で書かれた紙を広げる。神奈子の手によるもので、達筆のように見えて、文字の特徴をよく捉えて、崩し字を見慣れない者でも読みやすくなっている。東風谷の巫女として幼少から様々な知識教養を叩きこまれてきた早苗に、わざわざそんなわかりやすい字を書いてやる必要はない。これは神奈子の性格のようなもので、大雑把なように見えて細かな気配りを忘れない。早苗はこんな時に場違いだと思いつつも、しみじみと感心した。
「あなたは、妖怪の山に来る前は、公開処刑場にいました。そこで、多くの罪人や、罪人でない者の血を吸ってきました」
(えっ?)
 妖夢は思わず隣に立つ幽々子を見る。
「へえ」
 幽々子は目を丸くしていた。幽々子も知らなかったのだ。
「そこで死者の魂を扱うすべを覚えたあなたは、やがて処刑場では飽き足らず、町中で死者が出た時も、魂を運んできて、話し相手をさせたり、枝に成らせたりしていました。冥界に目をつけられ、とうとう引っ越しを命じられました。白玉楼の主人が交代するという口実でした。冥界では顕界のような激しい死を目にすることはできず、死んだあとの魂を眺めたり、ちょっかいをかけたりして、気を晴らしていました。そこで……」
 早苗は言いよどみ、助けを求めるように神奈子を横目で見る。神奈子は黙ってうなずく。早苗は諦めたようにため息をつく。
「そこで、新しく就任した白玉楼の主人にひと目惚れしました」
「なんだと!」
 妖夢が柄に手をかける。まわりで葬儀を見守っていた妖怪たちもざわめく。
「おやおや、なにやら痴話めいてきましたね。いいですね、このワイドショー的展開、恥ずかしい過去を暴露しますみたいな……と、あややっ」
 文の手足を、手長と足長がつかんでいた。じたばたする文の四肢をしっかと拘束したまま、参列者の列から持ち上げて、まわりの妖怪たちのところへ放り出す。
「あんたはそっちで騒いでな」
 諏訪子は呆れたように呟いた。
「でも、いいのかい、本当に。死者に口なしとはいえだな……」
 小町が居心地悪そうに頬をかく。諏訪子は片方の眉を下げ、苦笑する。
「いいのよ。栗の木がそう望んだんだから」
「望んだって……なんでわかるのさ」
「直接話を聞いたんだと」
「直接だって? 会ってたのかい」
「みたいだよ」
「みたいだよって……で、そんなことをしゃべるくらい、相手は警戒を解いたってのかい」
「神奈子はね、ほんとそういうの得意なの」
「うひゃー、さすが神様だなあ」
 小町は驚いた声を上げて、慌てて手で口を塞ぐ。自分まで外の円陣に追いやられたくなかった。その間にも、早苗の言葉は続く。
「声をかけたら、白玉楼の主人はついてきてくれました。そのままずっと一緒にいようと思ったのですが、彼女には待っているひとがいたので、帰ってしまいました。妖怪の山に移されてしまいました。それから千年、死者の魂と触れ合ってきましたが、いまだに亡霊の姫君が忘れられません」
「え、なんで?」
 小町が小声で尋ねると、諏訪子はにやりと笑う。
「無粋だね、そこに理由を求めるなんて」
「じゃなくて、なんで妖怪の山に移ったのさ。今、過程が思い切り省かれてたような」
「さあ、思い出したくないんじゃない? 栗の木自身も」
 それ以上は、諏訪子は語らなかったので、小町もあえて問い詰めはしなかった。
「……と、あなたは思っていらっしゃいます」
 早苗はそう結んで、紙を閉じた。死者への言葉としては、おそろしく中途半端で非常識なものだった。
 幽々子が参列者の列から一歩踏み出す。
 全員の視線が彼女に集まる。
 地が震える。地から花の香りが匂い立つ。
 あの匂いだ。
「お姉ちゃん、これ」
「ええ、これで幽々子さんにご飯を作ってあげたかったわね」
 雛は目を細める。
「あまり品のいい香りじゃないわね」
 文はシャッターを何度も切る。
「さあ、とうとう本日最大のメインイベント、愁嘆場がやってきますよ!」
 小町はその匂いから魂の性質を見極めようとする。
「粘着質だね。そういえば花の異変の時はあんまり咲かなかったね」
「そうですね。外の魂も、あまり栗の花には憑きたがらなかったんでしょう」
「かもしれないですね。でも、ひとってたいがい粘着質なところは持っていると思いますよ。同族嫌悪だったりして。それにしても、昨日はまるで反応がなかったのに、こうして儀式をして大々的に呼び込めば現れるなんて、ずいぶん重い腰ですね」
「普段からサボりまくっているあなたの腰に比べれば、ずっと軽いでしょうよ」
「やだなあ、そんなまるで四季様みたいな……って、うわああああっ!」
 四季映姫は、まるで突然その場に現れたかのように、小町の隣に立っていた。
「死んだすぐは、なぜここにいるのかもわからない、そんな魂も珍しくありません。自分のことに気づかないまま、ここがどこかもわからない。儀式を行なえば、暗夜に灯明を見出すように、魂を呼び寄せることができます」
「は、はあ、そうですか、勉強になります」
「あなたの方がよく知っているでしょう」
「あ、よくご存じで。えへへ」
 小町は半笑いで、冷や汗を流している。無論、その笑顔は引きつっている。
「それにしても、こんな大雑把な造りで儀式としての力を発揮するのですから、神というのは底が知れませんね」
「え、ええ、そうですね」
 小町は生きた心地がしない。映姫が世間話しかしないので余計に怖い。
「まあ、あなたとはもっとゆっくり話す必要がありますが、それは庁に戻ってからでもいいでしょう。いずれにせよ、長丁場になるのですから」
「ひいい、お手柔らかに」
「お手柔らか? 私はただ、教導すると言っているのです。それが通常の教導より若干多めに時間を要する可能性もあると、示唆しているに過ぎません。何もあなたに痛みを与えようとしているわけではありません」
 何も言えなくなった小町を置いて、映姫は幽々子を追う。幽々子はまっすぐ栗の木に向かっている。
 幽々子と映姫の間に、胡坐をかいた神奈子がいる。
「山の神よ、そこをどきなさい」
「いいわよ。その代わり、あと五分ぐらい待っててもらってもいいかしら。私、胡坐のかきすぎで足が痺れてしまったみたいで」
 映姫はため息をついた。
「あの亡霊は、自分の与えられた仕事もせず、顕界まで遊びに行き、あまつさえ既に顕界にいる資格のなくなった者を、顕現させようとしているのですよ。これほど堂々と物事の境界を破るような存在を野放しにしておくわけにはいきません」
「あのお姫様が栗の木さんを呼び戻す? それはないわ。ただ会って話すだけだと思うけど」
「それだけでも、十分ルール違反です。だいたい、まわりを巻き込んでこんな儀式まで行なって。西行寺幽々子、彼女は少し、図々しすぎる」
 映姫は悔悟の棒を、神奈子につきつける。
「そして八坂神奈子、あなたは少し、ひとの世話を焼き過ぎる」
「よく言われるわ」
「それは他者の領分を侵してでもあなたの意志を押しつけたいという、身勝手な欲望です」
「へえ、さすが閻魔様、よくわかっていらっしゃる」
「あなたは、力は強大ですが、行動原理が単純ですからね」
 映姫は笑う。神奈子も笑い返す。
「きっと似た者同士だから、あなたも理解しやすいのね」
 その場に、沈黙が落ちる。
 映姫の悔悟の棒に、何かが集まる音がする。獣のうなり声に似た音だ。
 神奈子の背中に四本の柱が集まる。柱の先端が神力で輝く。
「審判・ラストジャッジメント」
「奇祭・目処梃子……」
「土着神・宝永四年の赤蛙!」
 膨大な力が大砲のように悔悟の棒から放出された途端、赤蛙の影が映姫の正面に現れ、そのまま突っ込んできた。映姫が気づいた時には、周囲は妖怪の山ではなく、薄暗い得体のしれない空間になっていた。頭上に、半透明の巨大な蛙が浮かんでいる。
「ふう、まさかあそこでいきなり仕掛けてくるとは。ちょっと過激だねえ、閻魔様は」
 どこからともなく声が聞こえてくる。
「ま、神奈子の奴も背中にオンバシラ装着して、相当やる気になってたみたいだから、どっちもどっちか」
「ああ、そう、もうひとりいましたね」
 視界の端を残像がよぎる。映姫は狙い違わずそこを砲撃する。残像は霧散し、あとには弾幕を残すのみだった。さらに背後を何かが通り過ぎる。そこも砲撃するが、結果は同じだった。
「まあ、閻魔様のパワーがあれば、この空間が解けるのもすぐだろうけど、お姫様が用件を済ますくらいまでは、いてもらうことになりそうだね」
 それっきり、声は聞こえなくなった。映姫は唇を噛んだ。

 幽々子と栗の木は、向かい合っている。
 木の幹から、何かが浮かび上がってくる。それは次第にひとの顔の形を取っていく。目や、鼻、口らしきものが見えてくる。
 まるで成虫が抜け殻を破って飛び出すように、少女の顔が幹から現れ、首を垂れた。癖の強いぼさぼさの髪は、雪のように白い。その白の中に、ところどころ黒や灰色の髪の毛が混じっていて、全体としては斑に見える。
 少女の顔つきは、妖夢よりはもう少し大人びている程度だった。幽々子が近づくにつれ、さらに下の方まで出てくる。
鎖骨が、肩が、乳房が、臍が、露になっていく。か細い腕を、幽々子に差し出す。幽々子がその手を取ると、頭上の木の枝が突如息を吹き返した軟体動物のようにうねり、幽々子の腕に絡みついた。
「お前っ!」
「いいの、妖夢」
 柄に手をかける妖夢を、幽々子は振り向かずに声だけで制する。
「やっと、会えた」
 少女は完全に幹の外に身を乗り出した。樹皮に似たデザインのドレスをまとい、半裸の上半身には、蔦が巻きついている。
 生命を失っていたはずの栗の木は、今や全身を歓喜で震わせていた。だがそのまわりには、霊気が漂っている。すでにこの世の存在でないのは、明白だった。次々と枝が、幽々子に絡みついていく。
「また、あの続きをしましょう。疲れたでしょう? 千年も亡霊をやっていると。植物はいいわよ。地面に根を張って、風を受けて、太陽の光を浴びて、時々雪で涼んで。二本足や四つ足や翼、甲殻どもが生きることに四苦八苦している間、私たちはのんびりとしていればいいの。このまま私と一緒に眠れば、もっと楽になれるわ」
 枝の先端が、幽々子の脇腹をぞぶり、と突き刺す。
「遠慮しておくわ。あなたとは、おいしいご飯が食べられないから」
 体の中を枝が這いまわるのを感じながら、幽々子は言う。
「そんな」
 少女は悲しげに眉を寄せる。幽々子は、頭ひとつ背の低い少女の頭をなでる。
「それにね、あなたはもう死んじゃっているの。わかるでしょう? 今までたくさんの死者を看取ってきたのだから。今はお葬式の最中。あなたは、みんなから忘れ去られるために、ここに呼ばれたのよ。そのあと、死者の魂を弄んだ罪とかで、閻魔様に裁かれるの」
「ひどい」
 少女は幽々子を引き寄せる。まるで蚕が己を繭で包み込むように、枝がふたりを包み込む。もはや、参列者や見物妖怪たちからは、ほとんど二人の姿は見えない。赤蛙にヒビが入り、中から映姫が出てきた。ようやく諏訪子のスペルを突破したのだ。
「ああ、なんてことを。そこのふたり、すぐに離れなさい!」
 栗の木を見て、映姫は叫ぶ。

 殻の中で、ふたりは向き合っていた。外の世界から遮断された、ふたりだけの空間だった。しゅる、しゅる、と枝が巻きつき、殻をさらに強固にしていく音だけが聞こえてくる。
「ねえ、私のこと、もうどうでもよくなったの。今のあなた、とても人間臭い。あの頃は植物みたいだったのに」
「ごめんねえ、私、元は人間だったの」
「知ってるわ。でも昔の話でしょう」
「今でもまだ、だいたいひとのつもりよ」
 幽々子は少女の腰に腕を回し、強く引き寄せた。
「だから私は、ひとと、いたいの」
少女は目尻に涙を浮かべ、心底悔しそうな顔をする。
「どうしてそんなにひとに拘るの。未練なの」
「未練、そうかもしれないわ。私ね、なくしたくないものが多すぎるの」
「それは、私と一緒にいるよりも大切なことなの」
「ええ」
 幽々子は容赦なく即答する。
 少女は自分の胸に手を伸ばし、服を握りしめる。
「まだひとをやめるつもりはないわ。あの子らといつまでも、ずっと一緒にいたい。成仏なんて、永遠に御免よ。忘れたくないことだらけね」
 少女は顔をゆがめ、口を開けたが、何も言葉を出せなかった。うつむくと、重い吐息が出る。
「そんなに悲しい顔をしないで」
 幽々子はやや困惑気味の声を出した。
「せっかくあなたのために葬式をしてもらったのに」
「ごめんなさい。でも、私のことも忘れないでいてくれると、嬉しいな。罰って、やっぱり地獄行きかな。いつまで地獄にいなきゃいけないんだろう」
 枝が次々と解かれていく。殻が薄くなっていく。参列者たちにも、ようやくふたりの姿が見えてくる。少女は映姫を見た。
「ねえ閻魔様、私、どうなるのかな」
「正式な量刑が決まるまでは断言はできませんが、しばらくは地獄にいて罪を償ってもらうことにします。輪廻するのはそれからですね」
「輪廻したら、記憶が消えるんでしょう」
「違います。記憶を必要としなくなるんですよ、新しい生に生まれ変わるのだから」
「嫌よ」
「嫌でもなんでも、そうなるのです。それとも、永久に今のまま輪廻もせずにさ迷い続けますか? 耐えがたい倦怠感に、気が狂うかもしれませんが。それはあなた次第です」
 少女はまたうつむいた。幽々子は指先で少女の顎を上げて、視線を合わせる。少女は涙声で幽々子に言った。
「あなた、おいしいって言ってくれた、花をあげたかったけど、ごめんなさい、もう咲かせられない」
「そんなことはないわ。あなたは私の中に残るの。諦めていたけれど、やっぱり来て良かったわ。風神様に感謝するのよ」
 枝が狂ったように舞う。再び少女と幽々子を繭のように囲い込む。一分の隙間もない、堅固な殻ができあがる。ふたりだけの世界に囲われる。栗の花が一斉に乱れ咲く。そしてすべて咲き終わると、一斉に枯れ落ちる。ふたりを覆い隠していた殻も砕け散った。そこには幽々子ひとりしかいなかった。
 栗の木が元の生命のない空洞に戻ると、幽々子は振り向いた。満ち足りていながら、どこかもの寂しげな表情だった。妖夢は、動悸が速まるのを抑えられなかった。
「妖夢。伐採してちょうだい」
 もしあんな表情をして、真正面から見つめられたら、気が狂ってしまう。
 あの少女はだから、狂って散ってしまったのだ、と妖夢は思った。


 白玉楼の正門前についたに妖夢は、ようやく重い荷物を下ろすことができた。栗の木を伐採してできた木材を袋に包んで、ここまでずっと背負って来たのだ。あまりに巨大な荷物になったので、冥界の門でもつっかえた。しかたなく荷物は門の上を飛び越えさせた。だが、まだすべてを運んできたわけではない。何回かに渡って往復する必要があった。
「妖夢、疲れたわ」
 妖夢の頭上を幽々子が漂っている。妖夢はそれを見上げて、ため息をついた。
「私もですよ。ちなみに、幽々子様はこのままここでのんびりとくつろがれるんでしょうが、私はまだ木材を運ばないといけないのですからね」
「私も手伝うわよ」
「結構です。あなたが手伝われたら、ますます遅くなりますから」
「あら、ひどい言い草ね」
「本当のことですから。それにしてもこんなに大量の木材、どうされるんです」
「どうって、うちで燃料として使うに決まっているでしょう。お風呂、炊事、暖房、なんでも使えるわ」
 幽々子は白玉楼の階段を浮いて上っていく。召使の幽霊たちが、妖夢の置いた木材を運んでいく。妖夢は再び顕界に向かった。

 白玉楼の庭の玉砂利に、夕日が赤く射す。
 妖夢はひたすら竹筒を吹いていた。薪についた火が強くなっていく。妖夢は筒から口を離し、窓へ呼びかける。
「幽々子様、お湯加減はいかがですか」
「ちょうどいいわあ。上手よ、妖夢」
 中から声が聞こえてくる。
 妖夢が伐採した栗の木をすべて冥界に持ち帰ると、今度は幽々子が「お風呂に入りたい」と言い出したので、妖夢はそのまま休む間もなく風呂焚きをする羽目になった。
「それにしても、これで供養になるんですかね」
 火を吹くのをしばし止めて、妖夢はぽつりと呟く。
「なんか言ったー?」
「いいえ、何も」
「きっとあの子も悦んでくれるわよー」
「……聞こえてるじゃないですか」
 ぶつぶつと言いながら、また火を吹きはじめる。勢いよく燃え盛る。薪が赤々と輝くのを見ていると、どこからか栗の花の、あの生々しい、甘い香りが漂ってくる気がする。竈の火もこの薪で炊くとすると、食事のたびにあの少女を思い出すことになるかもしれないと思うと、妖夢はうんざりした。別にあの少女が嫌いだったわけではないが、あの執念深い性格は、正直少しひいた。
「妖夢、ちょっとこっちきてー。火はもういいから」
「はいはい。まったく、人使いが荒いんですから」
 筒を壁に立てかけて、裏口から屋内に入る。
 木造りの浴室は、濛々たる湯気で満ちていた。
「幽々子様、何か忘れ物ですか。石鹸とかあります?」
「そうじゃなくて、こっちに来て」
 靄の中、うっすらと幽々子の白い背中が浮かび上がる。椅子に座っていた。てっきり浴槽に浸かっているとばかり思っていた妖夢は、気が動転した。
「わ、わ、そんな、なんであがってるんですか」
「妖夢に背中を流してもらおうと思って」
「ふ、ふざけないでください」
「ふざけてないわよ。妖夢もがんばったから、ご褒美と思って」
「結局私が働くんじゃないですか」
 布を濡らし、石鹸で泡を立てる。幽々子の背中に布を当てる前に、妖夢の指先が幽々子の肌に触れる。
(冷たい……)
 どれほど熱い湯に浸かろうと、幽々子自身の肌はあくまで冷たい。一時的に熱を受け取って温まっても、すぐに冷えてしまう。だから幽々子が入る風呂はいつも滾るほどに熱い。それでよく冬の精霊みたいに溶けてしまわないものだ、と妖夢は思う。指先だけを触れさせていた妖夢は、蛾が灯に誘われるように、ほとんど意識せず、手のひら全体を背中に触れさせる。
「なかなか温まらないのよね、私の体」
 妖夢の手が感じる冷たさが、少しずつ薄らいでいく。妖夢の手から熱が移っているのだ。同時に、妖夢の手は急速に冷えていく。手を離すと、今まで手を触れていた箇所にほんのりと赤みが差していたが、すぐにもとの白に戻った。
「やっぱり妖夢の手、温かいわね」
 何か他のことを考えていないと、頭がどうにかなりそうだった。茹だっているのは、浴槽内の気温のせいばかりではない。
「ああ、やっぱりひとに洗ってもらうのって楽でいいわね」
「背中だけですよ」
「けちねえ」
「あの栗の木は、結局、納得したんでしょうか」
 幽々子の背中を布でこすりながら、妖夢は気になっていたことを口にした。
「何を?」
「最後、地獄に行くともう幽々子様のことも忘れてしまうって聞いて、すごく悲しんでいましたよね」
「あれはいいの」
 そのことはもう終わったとばかりに、幽々子は言った。その言い方があまりにあっさりしていたので、妖夢は不安になる。自分がいなくなった時も、幽々子は同じように言うのだろうか。「あれは、もういいの」と。
「だってあの子、ここにいるもの」
 そう言って幽々子は自分のお腹を指した。
「え、どこです」
 妖夢は思わず身を乗り出そうとするが、そうすると幽々子の体を覗き込んでしまう形になると気づき、慌てて元に戻る。
「ここよ、ここ。食べたの。最後に。おいしかったわ。もちろん、幽霊だったから味は薄かったけど、それはそれで良かったわ。閻魔様には秘密ね」
「食べ……た? そ、そうしたら、地獄の裁判はどうなるんですか」
「さあ。もういないんだから、量刑も下しようがないわね。だって今頃私の胃で分解されて、血や肉や骨になっているのだから。明確な一個の自我はいらないから、私の中で溶かしてくれって、最後あの子は言っていたような気がする。私がこう尋ねたの」
 幽々子のおっとりした口調で語られるその内容に、妖夢は震えが止まらない。
「食べてもいい?」
「はい」
 無意識のうちに妖夢は答えていた。
 もし、理想の死に方は、と問われれば、それしかなかった。
「あなたに聞いたんじゃないわよ、今のは」
「すみません」
 布を置き、桶に湯を汲み、背中を流す。泡がお湯に流され、幽々子の白い肌を滑り落ちていく。
「あなたがいなくなりそうになったら、そうしてもいい?」
「はい。お好きな時、お好きなだけ」
 泡はお湯に乗って、排水溝を流れていく。一拍の間、沈黙が降りる。
「今日の夕飯は何かしら」
「秋刀魚の塩焼きと大根おろし、豚汁と、白ご飯です」
「まあ、楽しみね。でもちょっと種類が少ないかしら」
「食後酒の時に何かおつくりしますよ」
 妖夢が言うと、幽々子は振り向いて笑った。
「そう。それは楽しみね」
食べる、という行為は色気と密接に関わってきます。
生きることそのものだからと思います。

関係ないけどコミケ楽しかった!
ニヤニヤしながらスケブを眺めています。
野田文七
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コメント



0.1640簡易評価
1.90名前が無い程度の能力削除
素晴らしく綺麗な物語でした
ただ、登場人物が多く後半若干冗長さを感じました
6.90名前が無い程度の能力削除
神奈子様のカリスマっぷりが凄いイイ

紫が回想のみの登場だったのはちょっと残念ですが、
話の流れ上仕方無いのかもしれないですね
7.100名前が無い程度の能力削除
面白かった!
8.100名前が無い程度の能力削除
亡霊という曖昧さを残して、幽々子の人間的魅力が込められているのに、ただただ感じ入ります。
個人的に、静葉の在り様が好きでした。
「あなたが、これからも、いい神様でありますように」
の一言、強く同意! です。
11.100名前が無い程度の能力削除
したたかな早苗さんもいいものですね。

……あと百合の花が咲きました。
13.100名前が無い程度の能力削除
神奈子や諏訪子がいい味出してたし何より幽々子の優雅さが美しい
ひとりひとりが物語の1ピースとなっている感覚が良かった

栗の花の匂いについての記述にはにやけてしまった
14.無評価名前が無い程度の能力削除
今一度誤字を確かめてみるといいかもしれません。
ちらほらと見えました。

して、内容ですが。
過去に培ったものが現在において昇華されるというのは
見ていてとても気持ちのいい気分になりますね。
騒ぎも祭に、真面目に不真面目とはよく言ったものです。
また、他者に思いを馳せる事の何と多様な事かと再確認しました。
それは信仰だったり執着だったり思慕だったりと本当に様々だなと。

で、東方めいた話を。
各々の役割がハッキリしているキャラクター達が今回登場しましたね。
その中でも神様勢に今回は一方ならぬ気合を感じました。
あとこのあややは実にKYですね。天狗というよりぱぱら(ry
ところで、この粋なケロちゃんは何処に行けば貰えますか? ひとり欲しいです。

長々と書きましたが、全編通しまして。
中盤の戦闘が少々足並み遅く中だるみのように感じましたが
後半の伸びに一気に引きこまれて楽しむ事ができました。
以前書かれた紫と幽々子の話もそうでしたが、
毎度毎度私好みの話で本当に嬉しいです。

最後に、面白いお話を読ませていただきありがとうございました。
本当に長々とお目汚し失礼いたしました。これからのご活躍も期待しています。
ではこれにて。
22.無評価野田文七削除
>all
ちょっと長すぎましたね。書きたいことを詰め込み過ぎで、百合なのか悲劇なのかバトルなのかよくわからないことになってしまいました。
幽々子も静葉も神奈子も諏訪子も書きたかったのです。
ごった煮、というほどには全体の調和は取れていない気がします。
いたずらに読者を疲労させるような構成にしてしまい、申し訳ないです。
皆様の貴重な時間と気力と集中力を割いていただき、感謝の念に堪えません。
このお礼は、今後とも作品にて返させていただきます(ぉ

>1
うーむ、あれもこれもとよくばってしまいました。
某板でも言われてましたが、そうなんですよ! 静葉は書きたかったんですよ!
次回は字数を少なくして、いかに内容を書けるか、を己に課したいと思います。
目指すは、今作と同程度の内容量で、半分の分量です。

>6
紫を出したらさらにねじれそうだったので……というのは私の都合。
まあ、紫の中では、栗の木を下界に追っ払った時点でけじめはついたということでしょう。

>7
ありがとうございます!
そう思ってくれるひとがいる限り、書く力が湧いてきます。

>8
もう風神録はハード以上じゃなきゃプレイしたくないくらい、静葉は好きです。
あの1面は素晴らしい。
今回、書きたいキャラとそのシチュエーションばかりが大量にあって、バッティングしちまったみたいです。
静葉単品で短編でもいけたのかなあ、と。まあ、たわごとです。

>11
早苗の書き込みが不十分だったかも。もっと清涼感を振りまかせたかったです。

>13
何の木にしようかと思ってたら、風のおまけテキストで魔理沙が栗の木に言及しているじゃないですか。
それで本屋で図鑑立ち読みしてみたところ、匂いについてなにやら想像を掻き立てられるような記述が……w

>14
うわちゃ、誤字まだありましたか。ひと通り見たんですが、そいつは失礼しました。
物語とは、ひとがひとに思いをよせるさまを描くことに尽きると思います。まだまだ書いていきます。

……あと、弟から正体教えてもらったので、一言感謝を。
今作で静葉がこんなに出番が多くなったのはあなたのせいです。
24.100名前が無い程度の能力削除
静葉単品、是非読みたいです!
今作の完成度っぷりから推測すると、そちらもかなり深い読みの入った話になりそうですね。機会があったらよろしくお願いします。
野田さんの作品は面白いのにくわえて、あまり焦点の当たらないキャラを全面に出してくれるところが大好きです。
端々の(といったらキャラに失礼ですが)彼女達もきっとたくさんのロマンやドラマがあるはず。想像が膨らみます。
29.100名前が無い程度の能力削除
「ああ、カリスマってこういうもんなんだな」と思わせてくれる端々の描写がとても心地良かったです。
各キャラの掘り下げもきっちり仕上げて良い仕事してますねー、職人技って言葉が浮かんじゃいました。
こういうねっとりした作品大好きです。
31.無評価野田文七削除
>24
次も静葉です。よかったらお読みください。
以前から読んでいただいているようで、感謝です。
作品ひとつひとつを評価されるのも嬉しいですが、全体としてとらえてもらえるのもまた嬉しいです。

>29
ありがとうございます。
ねっとりと濃厚に、は私の文章を書く上での至上のテーマですので。
34.100名前が無い程度の能力削除
あは。幽々子モテモテだ。
でも、それもうなずけるぐらいに魅力のある様に書かれていたと思います。
35.100名前が無い程度の能力削除
大迫力の映画を見ているような気分でした。
私の貧弱な想像力をはるかに超える映像を、
カメラワークや視覚効果や音響や匂いまで再生できるレベルで脳に叩き付けられた。

読者の想像を超える映像を見せつける自信があるのなら、
しつこいぐらいの描写も「有り」なんだと思いました。
36.無評価野田文七削除
ありがとうございます。
この作品は他の作品に比べると評価というかぶっちゃけ点が低いので(やっぱ気にします)
つい悪いところを探すような気持ちで読み返すことが多かったのです。
こうして改めて見直すと、これはこれで、かなり愛着があることが判明しました。
現金なものです。まあなんたって幽々子いるし。

今度のは、なるべくあっさりめに書こうと意識しています。
色々試してみます。それが終わったらトギトギの番です。
40.90名前が無い程度の能力削除
創想話で総得点は気にしないほうが良い。
気楽にコメントを書けるかどうかでも変わってくるし
気にしなくてもこの話は良い
41.無評価野田文七削除
そういってもらえると励みになります。
さっき非想天則やってきましたがやはり幽々子いいですね。

今度何かの東方関連のイベントでサークル参加できたらと考えてます。
そのときもまた、いいものを書きたいと思います。
42.100名前が無い程度の能力削除
今更ですが拝読させて頂きました。長い作品がそそわで点数伸び悩むのは仕方ないですねぇ。
それにしてもキャラが非常に魅力的に書かれていると思います。(特に神奈子とゆゆ様)なんていうか、本当に色気をだすのがうまいなぁと…
あと話の中心に栗の木を持ってくるあたりがなんともwあのにおいは強烈ですからねw
とりあえず100点もらって下さい。
43.無評価野田削除
ありがとうございます。わぁい100点頂きます。
栗の花の匂い、嗅いだことないんですよね~、知識だけでw
実際どんな匂いだろうと想像しながら書いてました。一度匂っておきたいものです。

この物語、長いのは仕方ないとはいえ、読みやすいよう努力する余地はまだあったようです。
途中の小題とか、かえって中だるみ感を助長していたような。
といってもこれはこれでもう出来上がっているので、うだうだ手直しなどはせず
今後に生かしていく所存です。
45.90名前が無い程度の能力削除
某所で紹介されていたので。面白かったです。神奈子の威厳とフランクさが表現されてて良かったです。タグがないと数ある中から探しだすのは難しいですね。
46.100名前が無い程度の能力削除
誰も彼も本当に良い味出していて良かったです。
読み応えのある作品でした。
47.無評価野田文七削除
この作品にお付き合い頂きありがとうございます。
おお、あすこで紹介されてますね!
あすこで紹介していただいた方にも感謝します。
あと、諏訪子の赤蛙に言及してもらってちょっと嬉しかった……
私はああいう能力だと思っているので。
50.100名前が無い程度の能力削除
あまり感想を残すのは得意じゃないので一言だけ。
なにこのゆゆ様素敵。
面白い話でした。ありがとうございました。
51.100名前が無い程度の能力削除
冒頭から終わりまで、まったく飽きなく読ませていただきました。
特に幽々子様の色気、神様のカリスマ、弾幕祭りの楽しさ。
54.無評価野田文七削除
ありがとうございます。
幽々子を描くのに、風神録サイドと地霊殿サイドではそれぞれ違った幽々子像が出てくるのが、おもしろいなあと思います。
神奈子たちもまた書いてみたいですね。
弾幕に余裕が感じられる。
61.100つつみ削除
ご自身の中に確かな世界観と人物像があるのを感じます。
素晴らしいです。
63.100まさかり削除
神様たちのキャラクターの描写がマッチしていて、楽しく読めました。