Coolier - 新生・東方創想話

恋愛小説 人間用

2008/12/20 00:30:07
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いやになるくらい暑かった。
陽は曇った空から薄らと漏れて白く冷たい光沢を放ったが、熱の源だけは地上にあらかじめ置いてあったかのように思う暑さだった。しかし、見渡した森は雪の合間に木々が埋もれるばかりで、ようやく私はこの暑さが自分の熱であることに気が付いた。
そうだった。
私は病に侵されている。
病人であれば眠りに包まり、じっとしていることを選ぶだろう。だが、今の私は柔らかなシーツの上で四肢を休めることなどせずに、思考が一種惰性だけで動くような奇妙な心持ちでただ歩を進める。しかしその足も数分ほど働けば、大気の唸りに震える小枝になってしまい、私の体を支えるには強度が少々不足していた。
仕方なく私は、くたびれた箒を三本目の足にして歩行を続ける。
ひどく間隔の開いた、雪を踏みしめる小気味のいい音は荒く熱を纏った吐息の上で溶けた。
飛ぶ気力さえ生まれず、こんこんと私の内から湧き出るのはただ彼女のところへ向かおうとするひどく焦げ付いた感情だけだった。

ああ、まだ歩き始めたばかりだ。目的の場所まではもうしばらくの時間がかかる。
その間にも私は深い追憶に耽るほかない。
なぜなら、それこそが私の病なのだから。










「どれ、久しぶりに人間を病で苦しめるとしようかな」

不吉な音がこちらに投げられた気がする。理由もなく、頭の中に突如として浮上したかのような悪意が足元へとにじり寄った。
けれどここは温かい蝋燭ですら顔をちらつかせるほの暗い洞穴であり、忘れられたようにぽっかりと開いた場所だ。私が見えていないだけの誰かに言っているのかもしれない。
先ほどから耳に押し込まれる風の唸りが、混じりけのないものであることを承知で私はたずねた。

「おいおい、理由もなしに苦しめるなんて穏やかじゃないな。その人間ってのはまったく不幸な奴だ。なあ、ヤマメ」

努めて他人事のように言ったが、すぐに悪あがきにもならないことだと気付かされる。
私の放った言葉に向かって、ヤマメは笑みを返した。唇の端はずるりと緩んでいた。まるで賛嘆の念に組み絞った両手を喉元まで持ち上げた教徒の笑みだ。
彼女はたっぷりと含みを持たせる調子で言った。

「おやおや、お前さんはまるで人の背筋を所在とする霊のような物言いをする。自分に向かって後ろ指を差したいのかね、霧雨の」

誤りは余すところなく正された。こうなれば、私は素直に両腕を挙げ、降参の意を示すほかない。
しかし、そんなことでヤマメが満足するはずもないことを、まだ彼女と知り合って間もない私でもよくよく知っている。この黒谷ヤマメは、彼女の下腹部の緩やかな曲線同様の心を持ってはいない。ひどく好戦的だ。
それには鉄に身を包み、剣を携えた、童話の中を駆ける王子のような勇猛さはなく。
山を駆けずり回り、牙を振り回す、獣のような慎ましさに欠けた獰猛さで染まっている。
最早、この場からただ逃げることは難しい。私は仕方なく、この舌より逃げ道を作ることにした。

「さあて? どんな病を患いたいのかね。ある程度の好みは聞いておこう」
「まあ、待てよ。病気になりたい奴なんて、親の手伝いから逃げたい子供くらいだ」
「ふむ。それで?」
「そして、私は子供じゃない」

傲慢のそしりを恐れることなく言い切った。
対して、ヤマメの唇の端は先ほどと同じ位置に鎮座していた。もしもその態度が私の言葉を否定しているものであるならば、私は逃げ道を作る手段を握った拳に変えるほかない。

「子供でなければ、大人かい?」
「魔法使いだ。知っているか? 魔法使いの合言葉は無病息災なんだぜ」

私は大気を吸って嘘を吐き出した。ヤマメはその嘘を吸って首を傾げた。
ばれたのか、という考えが過ぎる。
内心を騒ぎ立てる私は、しかし、小さな口をすぼめ、眉を中央に寄せ上げる彼女の姿を見て安堵した。どうやら本当に、わからないことについて議論しているようだ。

「ふうん。魔法使いってのは、ここみたいに暗いところで住処をごちゃごちゃとさせて常に顔色を悪くさせているような奴だと思っていたよ」

ヤマメの恐るべき偏見が露呈された。

「それは魔女だ。断じて魔法使いじゃあない。もう一度言うが、それは、魔女だ」
「なるほどなるほど。病を好むのは魔女だったか」
「いや……別に魔女だって病気が好きってわけじゃないぜ」
「そうかね。いけないなあ、それはいけない。好き嫌いをしていては大きくなれないとご両親に教わらなかったのかね、霧雨の。ああ、なるほど。だから魔女というのは、か細い奴ばかりなのか」

ヤマメはなんとも身勝手な結論を出して満足している。心優しい私は、頭脳労働を終えてくたびれているであろう彼女の脳に真実を訴え出るなどという無粋な真似はしなかった。
気遣いとはつまり、家主を起こさないように丁寧に品々を頂戴する盗賊のような行いだと思う。

「うん? 話題がずれてしまったな。話を戻そうか」
「ああ、ついでに時間も戻してくれないか。私がお前と出会う前まで」
「なに、遠慮することはないよ。私とお前の仲じゃないか」

本当に可笑しいように、ヤマメの笑みは声を伴った。
病で苦しめる仲とは一体どれほどの親しさの上で成り立つのか、私には皆目見当がつかなかった。そのような嗜虐の過ぎる性癖を彼女が持ち合わせているのならば、今後の接し方に若干の余所余所しさを加味しなくてはならない。
僅かばかり、私の重心は後ろへと傾いた。

「……その髪、重いの?」

心底不思議そうなヤマメに言われ、ようやく気付く。じりじりと後退していた私は、まるで髪の先に鉛でも吊るされたかのような体勢になっていた。
傾きすぎた。首も痛い。
しかし、素直に返答するのも嫌だった。それが子供特有の反抗心であることは胸の深奥に沈ませて、冗談めかして私は言い返した。

「いやいや、羽の如き軽やかさとしなやかさ、だぜ」
「そうだねえ。髪、綺麗だものね」
「ん、そっ、そうか。あ……ありがとう」

だから、褒められるとは思いもしなかったのだ。
私は少しばかり目の前にある頭を悩ませる事態を忘れてしまい、心はそれこそこの髪のように浮ついた。
そして、ヤマメがそんな私を見逃すはずもなかった。

「うん、綺麗な髪だ。もっと伸ばすといい。伸ばすならじっと体を横たえるといい。横臥するなら病になると丁度いい。ああ、きっとそれがいいさ」

幾ばくかの理性が戻った頃には、私は既にヤマメの思惑に縛られていた。こうなっては最早、むなしく抵抗することもできない。諦めは凄まじい速度で体内を伝染し、土蜘蛛と言うだけあって縛ることには長けているのか、などと悠長な考えをさせた。
ふと、彼女を見るとこれまで以上に眩い笑みをこぼしていた。その顔は何も隠してはいなかった。肌が色づき、きらめいた。ふっくらとした、赤みを帯びた唇が形のいい弧を描く。
不覚にも彼女のそのさまに、私はじっと見惚れてしまった。先ほどまで張り詰めた私の感性が、敗北によりどうにでもなってしまったのかもしれない。恋する生娘でもあるまいに。
そこまで考えて、今の自身の痴態からある突破口が私の頭に浮かび上がった。天啓とも言えるような自身の発想に私は打ち震え、喜びを噛み締めた。
彼女はにこりとまだ笑顔のままだったが、それが私の言葉に打ち崩されると思うと、全身がぶるりと震える。
そうして、私は彼女に言う。
ささやかな悪意は飲み込めず、私の口調を揚々たるものにした。

「ヤマメ、病のリクエストがあるんだが」
「おおっ。決まったのかい」
「ああ、恋の病を一つ頼もうか」

これも病には違いあるまい、と私は内心ほくそ笑んだ。
ヤマメはこちらをじっと見つめて、ううんと唸りながら頭の中を廻らせていた。

「そうだねえ……髪、綺麗だし。いいよ、恋の病。それにしようか」
「え、あっ……ああ、うん」

まさか承諾されるとは想像もつかず、私の最後の抵抗は事実となってその役目を終えた。
それにしても恋の病だって? 恋の病だって!
これは僥倖とも言えるべき事態ではないのだろうか。病であればヤマメに敵うはずもない。だが、もう一つの方にはそれなりに長けていると自負している。
いや、しかし、恋の病なんてどうにも恥ずかしいな。

「いや、しかし、恋の病なんてどうにも恥ずかしいな」

知らず言葉に出してしまった。
これからの見通しの明るさに、暗い口蓋の中から誘われたからなのかもしれない。

「ははっ、穏やかでとろけるような病だと思っているの? そんな甘酸っぱいものじゃあないよ」
「だって、恋の病なんて……なあ?」
「まあ、楽しいことには違いない。これからよろしく頼むよ」

そう言ってヤマメはこちらに笑いかけた。私はどう言えばいいかわからず狼狽しながらも、何とか笑顔を返す。程よいくすぐったさを感じながら私はその日、彼女と別れた。
帰路に辿る際、恋の病なんてどうやってかかるのだろうか、なんてことに思いを馳せた。時折、彼女の血色の良いやわらかな唇を思い返しては我に返ることを繰り返した。
少しだけ箒の速度を増した。だがそれは、火照った顔を冷ますためではない。絶対に。





あれから、陽が水平線を昇っては山に飲まれることを幾度か繰り返した。恋の病とやらの発症は未だに確認されていない。
しかしそれは、潜伏期の長い病気ということも考えられる。恋は盲目と言うのだから、そもそも目には映らない症状なのかもしれない。
あの日より、私の習慣にヤマメのところへ訪れるという項目が加わった。恋の病が恐るべき脅威を有していると考えたことがなかったわけではないが、それ以上に私の好奇心は未知への期待を膨らませたのだ。
箒の切っ先が風の道を二分する間、私はずっとこのように恋の病の正体をあれこれ思い浮かべる。地底は自宅から近くはない。そのため、物思いに耽る時間も必然と長くなってしまっていた。徐々に私の思考は休むことを忘れてきているのではないかと思う。
ほんの少し、頭痛もする。決してたいした痛みではない、といって無視することもできない。はっきりとそこに感じられる痛みだった。
今日は早めに寝るとしよう。
そう心に決めた頃、私は目的地に到着していた。地面に降り立ち、胸の内の嫌な部分を払拭するように早足で彼女の姿を探した。

しばらく歩くと、誰かと話している彼女の姿が目に入った。彼女が相手をしていたのは、桶から白い肩を露出させ、緑色の髪を揺らす釣瓶落としだった。
以前にも見かけたが、名前は知らない。釣瓶落としは私が近寄ると決まってどこかへ逃げていく。気にはなるが、私の好奇の目を大きくさせ、潤し、熱くさせるほどではなかった。追い回すこともしなかったし、彼女にたずねるようなこともしなかった。
私が彼女に近づくと、今回も釣瓶落としは静かに奥へと体を向けた。去り際にこちらに目をやった。視線が絡む。この地底の暗さのせいか、釣瓶落としの瞳は瀕死の光をどうにか投げかけるほどに鈍かった。私は何故か鏡を見ているような感覚を覚えた。

「やあ、お前さんか。待っていたよ」

ヤマメのその言葉には何らかの熱情が込められていた。私はそれが何だか照れくさく、全身がむずむずと心地の良い高ぶりを見せた。
加えて、こんなことを言っては子供のようだが、彼女が釣瓶落としや他の誰かと話していても私が来るとすぐにこちらを向いてくれることに一種の優越感を抱いた。そして、どうやら彼女が地底では人気者であることが、私の自尊心に磨きをかけた。ああ、子供らしい。実に子供っぽい。しかし、子供ではない私は慎重に、それでいて巧妙にそのことを内面に押し留めた。子供から大人になるには、自身の内側に対して潔癖でなくなればいいと私は思っている。

「相変わらず人気者だな、ヤマメは」
「ははっ、そんなことはない。私は運が良かっただけだよ。こんな能力を持っているにも関わらず、周囲の皆が優しいという、ね」

目を細めてヤマメは言った。彼女は好戦的な性分だが、身近な者には壊れ物に接するよう、大切に扱う。私はそれをよく知っている。

「……少し、風が強いね。寒くはないかな、霧雨の」
「んん、確かに強いな。肌寒いかも」

大気の波は突起した岩とぶつかり、か細い破裂音を響かせる。
寒気は、防寒のため巻いてきた淡い紅色のマフラーの隙間を縫いながら迫り寄った。先ほどまであまり感じなかった寒さが今になって一遍に押し寄せたかのように体が震えた。

「ふむ。こっちに来なよ」
「えっ、うわ!」

体が突然浮遊したかと思うと、重力が真横に働き、私はヤマメに抱きとめられた。暖かな感触に私は包まった。
彼女はとても愉快な調子で言う。

「こうすれば、暖かいね」
「あ、ああ……うん。あったかい」

ヤマメは自分の指を私の髪に埋もれさせた。猫を撫でるように、やわらかに彼女は手を動かした。するする、と私の髪の中を流れる感触がした。その感触に思わず、遠い昔を懐かしむ。
幼い自分。母の姿。抱かれて眠る感覚。そっと伝わる体温。
久しく見なかった記憶だった。
それらに私の鼻腔はこわばった。胸には燃えるような思いがこみ上げてきた。私の鼻は体温よりも熱くなり、目はちくちくと痛んだ。
そうして、ふっと意識がはるか上空へと旅立つのを感じ、同時に私は彼女の胸元に暗い涙を捧げたのだった。
果たして、彼女はその黒く染まった土色の布地を見て何を思ったのだろうか。





次に私が思い返したのは、ヤマメの体温が僅かに私よりも低かったことを知った日から大分時間が流れた頃だった。
この頃より、私は執拗な頭痛に悩まされるようになった。以前よりも、存在感を増した痛みだ。そのため、私の習慣は大幅な変更を余儀なくされた。
その頭痛は、私のやわらかな脳を噛み千切り、削れた部分を頭蓋の内側にずりずりと押し付けてすり潰した。やがてそれは、潰された脳が液状化して、次第にとめどもなく膨らんでいって頭部いっぱいに充満し、頭蓋を内からこじ開けようとする頭痛になった。
医者を頼り、本に縋り、自慢の調合薬も試したが、頭痛を払うことはできなかった。
私は体内の気管を直に締め付けられるような、この激しい圧迫感と距離を取るため、彼女のことを頭に思い描いた。彼女の髪の感触から手の甲に浮かび上がる血管まで寸分を違わず、目蓋の裏に浮かび上げる。
そうすると不思議なことに私は許されたように眠りにつくことができるのだった。
それは私にとってのこの耐え難い苦痛からの逃げ道だった。精神的な通風孔と言い換えてもいい。彼女だけが私を安らかにしてくれた。

しかし、いつしか頭蓋骨をぎりぎりと締め付けるこの鋼の輪は緩まることを忘れてしまった。ヤマメの姿を脳裏に浮かべようと、鮮烈で鋭利なこのおぞましい感覚は、出口を与えられるのを待ち焦がれているかのように激しくあちこちへ飛び移った。
私は彼女の存在が薄らいでしまったからなのではないかと考え、彼女をもっと繊細に作り上げることで安らぎは再び訪れるのではないかという結論に至った。
指の間の皮膚の動き方。
指の付け根に浮かぶしわ。
赤みを帯びたやわらかな唇。
耳の裏にできる影。濡れた胸元。暗い目蓋。下腹部。爪先。首。眉。腕。
それらを途方もない精緻さをもって、彼女を頭上に編み上げた。
だが、私のありったけの精力を注ぎ、脳裏に浮かべた彼女にはどうしてもいくつかの空隙ができてしまった。私にはひどく不愉快な頭痛よりも、彼女を完全に思い浮かべない自分の不甲斐なさが耐えられなかった。
眠ることもできず、目蓋に彼女が映ることもない。
これが恋の病だとでも言うのだろうか。これが病の症状だとでも言うのだろうか。
そんなはずがない。
彼女が、このような痛みを私に与えるはずがないのだ。
恋の病とは、この彼女を安らぎの対象としてしまう私の胸の内に宿ったものだ。この痛みは悪意に満ちた第三者によるものに違いないのだ。
そこまで考えて私は思考を一瞬停止した。私の時間は、暗澹とやるせない苦悩に満ちてしまい、夜はだんだんと暖かくなっていった。

しかし、胸の張り裂けそうな苛立ちと思い出せずにいる自分への怒りが、私を奮い立たせた。思い出せないなら、会えばいい。
それまでの私は、思い出せずにいる自分を恥じて、ヤマメに会いに行くことをひどく恐れていた。しかし、私には恥を考える余地はなかった。頭の余白には既に彼女の姿が約束されているのだから。
私は何とか立ち上がり、箒を掴んで外へ出た。










私の意識が浮上したのは、腹部に強烈な衝撃を受けた後だった。
周囲を見渡すと、そこはまだ暗い森であった。先ほどと違うところと言えば、獣が数匹私を囲んでいることだった。
どうやら私は獣の群れに襲われている最中のようだ。今しがた、突進してきた他よりも一回り大きな獣がこちらの弱り具合を窺っている。
私はどうにかこの事態を乗り切る方法を回転の遅い頭がのろのろと働き算出してくれるのをひたすら待った。
獣たちはまだこちらに近づかなかった。
ようやく出た手段はただ一つだけであった。攻撃できるほどの魔力もなく、足に力も入らない。不愉快な頭痛もそのままだ。だから、ただ一つの逃げ道はこのくたびれた箒に跨って中空へと飛び立つことなのだ。
しかし、飛び立つだけの魔力があるのだろうか。悪意に満ちた第三者により弱っていて、私の体にはもう血液すらも残っていないのではないだろうか。
嫌な考えが過ぎる。だが、と私は考え直した。
胸の深奥に宿る恋の病は、その第三者にすら届かぬ領域である。彼女の暖かな体温がゆっくりと燃え上がるのを感じた。
獣たちは一斉に飛び掛ろうと、距離をじりじり詰めている。私は獣を見渡し、一刻の猶予もないことを感じ取り、慌てて箒に跨った。獣たちの前足が宙に浮き、後ろ足はザシュッ、と勢いよく雪を飛ばすような音を出した。
私は、両手を箒にしっかりと固定して、両足を曲げて、勢いよく跳躍した。










ザッドサッ、という音が耳に響いた気がした。
まるで、両足を揃えて跳んだ後に着地の態勢が整っていないまま倒れこんだような、そんな音だった。
しかし、ここは地底であり、地上との距離も大分ある。聞き間違いだろうと思い直し、私は冬眠に入ろうとした。風の運ぶ寒気はもう耐えられないものにまでなった。私は寝床でじっと眠気が来るのを待つ間、最近会っていないあの人間のことを考えた。
少し前までは頻繁に会いに来てくれたというのに、今では全く姿を見せなかった。
恋の病などというものを発症させてしまったことが原因だろうか。しかし、恋の病は私にとっておまじない程度でしかない。
私は人気者だと言われるが、それは単に私が惚れやすいだけであり、私は仲良くなろうとあれこれ世話を焼き、恋の病なんて気休め程度のものにまで頼る始末だった。
妖怪とはそのおかげで親しくなれた。だが、人間には一度としてこのおまじないは使ったことがない。そもそもこんな地底に来る人間など皆無に近いのだから。
人間には恋の病は通用しなかったのかな。
ただ親しくなって、あのやわらかな髪をずっと撫でていたかったのだが今となってはもう諦めるしかないのかもしれない。人間のころころと変わる表情は愛らしい。それがわかっただけでも良かったのだと思う。
もし。
もし、また誰か人間が来たときにはまた病で侵してみよう。髪の綺麗な人間であれば、恋の病で虜にしよう。
繭のようにゆっくりと眠気が絡み付く中、私は大体そのようなことを考えた。
次に目覚めたときにまた人間が来ることを願って。
それまで、おやすみなさい。









どれ、久しぶりに人間を―――
人間には3種類の幸せがあるそうです。
悟りを得ること。富を得ること。愛を得ること。
古代インドの性典『カーマ・スートラ』は、3番目の幸せについての指南書です。この本では、愛は10段階に分けられると書かれています。

1 見て惚れる
2 心を惹きつけられる
3 絶えず物思いにふける
4 眠れなくなる
5 痩せ衰える
6 享楽の対象から遠ざかる
7 恥も外聞もなくなる
8 気が狂う
9 失神する
10 死ぬ

さて、人間と妖怪とではどの段階までいくのでしょうか。
思うに、恋愛感情をなくせば人間は妖怪を超えられるのかもしれません。しかし、これほど手放しに一人を愛することができるのも人間くらいなのかもしれませんね。
智弘
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コメント



0.1110簡易評価
11.100名前が無い程度の能力削除
おお、素晴らしい。
恋の病の正体が終始不明瞭であったのがとても良かったと思いました。
実際表現することなんて出来ないものですよね。
それにしても愛の究極形が死だとは、何とも皮肉なものです。
愛の為に死んでしまったら元も子も無いなと思いますから。
12.80名前が無い程度の能力削除
面白かったけど、これだと魔理沙があんまりじゃないですか?
13.100名前が無い程度の能力削除
何事にも不遜な彼女が恋には魘されて堕ちていく、その様のなんと耽美なことか。
地霊殿の面々はそれぞれダイレクトにダークな設定持ちなのでこういう話向きですね。
14.90名前が無い程度の能力削除
相変わらずの怖い恋愛のお話でした。
ただ少しだけ、病の経過が急過ぎる気がします。それもそれで現実味があるけど。
22.80名前が無い程度の能力削除
人間用…?
後書きを見て愛と信仰は似ている(心が一方向に傾くという点で同じ?)と思いました。
魔理沙にとって 恋=魔法=信仰(風エンディングより)であり、
日本では妖怪と神の境界が曖昧なことを考える(河童と水神とか)と、
つまりヤマメ(疫病神)の徳=アレテー=特技に中てられたのか…?
23.80名前が無い程度の能力削除
良くできてる、とも違う感覚で、
良く書けてる、のも間違い無いのだけど、
要するにかっけえ。
25.100名前が無い程度の能力削除
ぬはー。これはよい。これはよいです。
こんなヤマメが読みたかったのです。
こういった隠れ(と言っては失礼ですが)名作が存在するから、創想話は侮れないですね。
よいヤマメ分を補給させていただきました。ごちそうさまです(←魔理沙は?)