Coolier - 新生・東方創想話

異聞吸血鬼異変 ⑤ ~ 欧州編 2 ~

2008/12/13 04:35:39
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※ 少し濃い目の百合っぽい描写を含みます。ご注意を。
























――――2006年12月27日


「フランドール様、こちらがご所望の品ですわ」
「ん、ありがと、咲夜……ほうほう、ふむふむ……うん、上々。だいたいアピール通りだ」
「よろしかったのですか、それ? なにやら随分なことが書いてありますけど」
「いいの、いいの。だいたい私がとち狂ってるってのは事実だからね。それにこう書くように阿求って人に指示したのは私自身よ。ここまでおどろおどろしく書いておけば、姉さまの留守中に変なのが来ることも減るでしょ? 家の中は私のフィールド、私は抑止力、これはあの子と約束したことさ」
「門番は……寝てばかりですしね。はあ……」
「どうしたの、ため息なんかついて? 珍しい」
「いえ、母親代わりというか、そういう感じのヒトが自分の部下っていうのも落ち着かないものがあるのですよ」
「ふふ、老兵は死なず、さりとて去りもせず――美鈴はあのくらいでいいんだよ。今は貴女がいるんだしさ」
「というか、あの子というのはどの子です?」
「昔の友だち。例の異変の時にはずいぶんと世話になったのさ。ここには吸血鬼異変と記されているわね。あれは大変だったんだよ、ホントさー……姉さまはあのスキマさんが相手だったし、小悪魔は昔の上司に絡まれるし、でもって私は『星』だよ? あんなの壊せるわけがない。でもわりとお茶目な女の子だったし、あんまり『お母さん』て感じはしなかったなあ。しょせん言い伝えは当てにはならないね」
「星? 魔理沙ですか」
「魔理沙さんはその頃まだちっちゃい子でしょ? たぶんエイエンテイとかいうとこに避難していたはずさ。あ、でもアレはマスタースパークにちょっと似てたな。ひょっとして魔理沙さんはアレにインスパイアされたのかしら……ま、どうでもいいや。美鈴のとこに行こうっと。咲夜も甘えっこしに行くかい?」















―― 第五章 ~ バースデイ ~ ――















顔をのぞかせ始めたばかりの朝日が、美鈴の前にそびえる紅魔館の建物を照らしている。
大胆とも言うべき色彩をしたその建物がそれほど違和感を伴うこともなく風景に溶け込んでいるのは、館の手入れがままならず少し周囲の自然に侵食されてしまっているからに他ならない。
現在の紅魔館は遁甲の結界を施され、欧州のとある山あいの森にひっそりと佇んでいた。
そこへと至る細い山道を上り、生い茂った木々の合間を縫って、ようやく美鈴は館の扉の前へとたどり着いたのだ。

「はあ……」

思わず溜息が漏れた。何だかえらく久しぶりだなと美鈴は思う。
実際には美鈴が館を出発してからまだ一週間ほどしか経ってはいないのだが、色々と気の張る出来事が続いたせいか、奇妙な懐郷の念が芽生えていた。
そしてギィといういつもの音を立て、バラ模様の装飾が施された鉄扉が口を開ける。
広々としたエントランスホールが広がる。
床には赤を基調としたカーペットが敷かれ、天井にはシャンデリアが吊り下げられている。
入って正面には白い手すりの付いた幅広な階段が設けられていて、そのまま二階へと上れるつくりになっている。
その階段の両隣の陰にあるのが、地階への通路だ。下れば迷路じみた地下の回廊や、パチュリーやフランドールの愛好する大図書館へと至る。

「あ、お帰りなさい。美鈴さん」

人懐っこい感じの声が美鈴を出迎える。
金色の瞳と、鎖骨の辺りまで伸びたミディアムの真っ赤な髪。背は美鈴より低くパチュリーやレミリアよりは少し高い。
地下図書館の司書である。
背には黒い羽、頭部の両側面にも小さなかわいらしい羽が付いている。
彼女は司書であると同時に、パチュリーの不在中においては屋敷に施された各術式の管理を任されている存在でもあった。

「ただいま~、小悪魔さん」

やや不自然な、しかし館に住まう者たちからすると当たり前である名前で呼称される少女。
そして声同様に人懐っこく柔らかな感じのする笑顔が美鈴に向けられる。

――ああ、帰ってきたんだ。

安堵の情が、緊張の糸をハサミのように裁ち切る。とたんに美鈴の身体からどっと力が抜けた。

「わ、わわ! ちょっと、美鈴さん」

そのまま崩れるようにして小悪魔にもたれかかる形になった。
力仕事には不向きそうな細い腕が必死に美鈴を受け止める。

「……怪我を?」
「ええ。さすがにちょっとね、回復が追いつかなかった」

あのメイド服はお気に入りの品であり、名残惜しくもあったのだが、いかんせん派手に焼かれたり切り裂かれたりしてボロボロになってしまったので、現在の美鈴は再びスーツ姿に舞い戻っていた。
黒いスーツは汚れが目立たないから良い。
スーツの下のワイシャツは、出血で腹部が真っ赤に染まっていた。昨夜の戦闘の結果だ。
文字通り空を切り裂くあの刃を退け、さらに触れれば即座に身体を焼き切られる蓬莱人の炎をも相手にし、さらに張り巡らされた包囲網を強行突破してきたのだ。
時間干渉者が機能停止し、蓬莱人が行動不能に陥る――その過程で『普通の』妖怪である美鈴だけが何の障りもないなどということは、有り得ない。
敵との連戦により美鈴の治癒と再生の力はすでに限界に達していた。

「下に参りましょう。どうぞお休みになってくださいな」

小悪魔に肩を借り、地下へと下りていく。
うまく脚に力が入らない。目が霞む。
館にたどり着くまでは気を振り絞って耐えていたが、もう限界だった。どうしようもなく身体が休息と安息とを求めてしまっている。

「ああ、そうそう、美鈴さん」

朦朧とする意識の中で小悪魔が微笑むのが見えた。

「『汚れ役』、お疲れさまでした」

その言葉を境にして、美鈴は抗いようのない眠りに呑み込まれた。






それからどのくらい時間が経ったかは知れないが、鼻に何かこそばゆさを感じ美鈴は目を覚ました。そのままゆっくりとまぶたを上げる。

――なんだ、これ?

細くて柔らかい金色の糸が、美鈴の鼻先に触れたり離れたりしている。こそばゆさはそのせいだ。
上質な純絹のような繊維――

「おうおう、目が覚めた」
「……お嬢様?」
「うん、お嬢様だよ」

鼻をくすぐっていたのはフランドールの髪の毛だった。片側でまとめられた房のような部分である。眠る美鈴をのぞき込んでいたらしい。

「おかえり。そしておはよう」

穏やかな口調でフランドールは言った。
いっぱいのフリルがあしらわれた赤の服に、特徴的な帽子と髪型。そして結実した魔力が輝く水晶羽根。いつも通りの出で立ちをした、美鈴が仕えるべき少女達の一人である。
その羽からは事情により一本結晶が抜き取られている。

「ただいま帰りました。そしておはようございます」

それにしても自分はどのくらい眠っていたのだろうか?
ここは地下の一室なのか窓がない。時間帯が判然としない。

「八時間ぐらいだね。ちょうどいい睡眠時間さ」

ならばもう昼である。

「そんなに眠ってました? 申し訳ございません、今起き――あいたたた」

急いで起き上がろうとした美鈴の腹に鋭い痛みが走った。
処理は小悪魔が行ったらしく、服は脱がされ患部には丁寧に包帯が巻かれている。そこに少しだけ新たな血が滲んでいるのだった。

「無理をしない。休むときは休み三昧よ」
「しかし……」
「命令。休みなさい」
「……はい」
「よろしい」

フランドールはキバを見せて満足そうに微笑んだ。
そして少々ためらいつつも、美鈴は起こした身体を再びベッドへと戻した。フランドールはその美鈴の顔の横にひじを着き、床に座り込んでいる。

「あのですね、お嬢様」
「ん?」
「その、お嬢様を床に座らせておくというのも忍びないのですが」
「気にしないでいい。私が好きでやっていることよ」

ひざ立ちの状態でフランドールは言った。
好きでやっていると言われてしまえば従者としては言い返しようもない。

「ところで『端末』はどの辺りに?」
「だから休みなさいってばさー、もう……今はそういうのは気にしないの」

ぷくりと頬をふくらせるフランドール。リスのようだ。

「案ずることなく休養を取るためにも教えてくださいな」
「きのう美鈴が帰ってきた頃だったかしら、万里の長城に着いたよ。なんかお酒くさい変なのがいたねえ」
「夜間……ですよね? あの長城に人が?」

故郷の大建築のことを美鈴は思い浮かべる。もっとも美鈴が中国にいた頃はあの建物の建造はまだ始まってもいなかったのだが。

「いや、アレは人じゃないわね。たぶん人よりももっと古い何かだと思う。まあとりあえず人外なのは確定。しょげてたけど悪い奴ではなさそうだったから道を教えてもらったよ。もうちょっとで日本海だろうから、気合い入れないと」

そう言うとフランドールはガラス細工のような羽をぱたぱたと動かした。
波に塩――吸血鬼にとって海というのはなかなか厄介なものなのである。

「海、大丈夫でしょうか?」
「なんとかなるでしょう。それよりもさ、美鈴」

フランドールはぺろりと舌を見せた。

「傷、なめてあげよっか? 治るよ?」
「結構ですよう。お嬢様にそこまでやらせるわけには参りません。それに――」

――私は穢いですから

「それに?」
「いえいえ、ともかく結構です。私は頑丈さには定評があるのですよ」

努めて明るく美鈴は微笑んだ。
そこへ何かの皿を持った小悪魔がやってくる。

「あ、お目覚めですね」
「小悪魔さん、昨日はごめんね」
「いえいえ、それよりこれどうぞ。食欲に障りがないようでしたら追加でいろいろ作ってきますので」

そう言って小悪魔は持ってきた皿を手渡す。中身はスープである。熱くないように受け皿に入れられている。
気遣いはとてもありがたい。それはそうなのだが、しかし――

「小悪魔さん」
「はいな」
「……これ何のスープです?」

そのスープは緑色をしていた。なじみのない色である。

「えっと、図書館のいかがわしい医薬書を参考に」
「いかがわしいんかい」
「カエルとイモリとヘビをじっくりと――」
「待て」
「というのは冗談で、えんどう豆をちょいちょいっと」

悪戯っぽい笑みを小悪魔は浮かべる。全体にしとやかで働き者な彼女だが、他方で子どもっぽい悪戯に興じることも多く、そしてその悪戯にはフランドールが一枚噛んでいることも多い。割とこの二人は気が合うようなのだ。
そしてえんどう豆と安心させておいてその実全く別物の何かということも十分考えられるので、美鈴は少々慎重にスープを口へと運んだ。

「……美味しいです」

いたって普通のスープだった。さすがに怪我人に妙なものは出さないだろうと美鈴は少し反省した。

「昨日の夜はスイスは嵐だったそうだよ。それが今はこっちに来ている。美鈴が帰ってきたら急に荒れだしたみたい。お姉さまたちは濡れていないかしら?」

フランドールが姉の帰りを待ちわびるかのように呟いた。






それからさらに気付けにワインを何杯か呷り、数時間ばかり休養を取ると腹の傷も癒えた。
それで美鈴はベッドから這い出るといそいそとメイド服を着込み、現在は図書館の入り口まで来ていた。三人分のコーヒーを用意してここへ来るようにとフランドールから指示があったのだ。
目の前の古めかしい扉を開くと、古い紙やインクや埃などのにおいの混ざり合う図書館の空気が美鈴の鼻へと流れ込んできた。
広大な空間である。
内部に館をもう一戸建築できるのではないかという気すらしてくる。
美鈴のいる場所からでは様相の確認できない天井には、いくつもの照明がつり下げられている。丸いガラス玉の内部に煌々と輝く不思議な光球が宿っているのだ。この照明は操作により上下させられるので、結果として図書館は明かりが必要な場所は明るく、残りの部分はほの暗いという状態になっている。天井が見えないのはそのせいもある。

美鈴の開いた扉は、3階分ほどの高さを有する巨大な本棚の一部をくりぬく形で設けられている。だから美鈴の背後には、圧迫感すら感じさせる本の壁がそびえているのだ。
図書館への出入り口は美鈴が利用したもの以外にもいくつか設けられている。非常に広いのでそうでもしなければ便が悪いのだ。
そして美鈴の今いるエントランス前方には、丁寧な細工の施された木製の手すりが設けられていて、その先は吹き抜けになっている。
吹き抜けの底――3階分ばかり下――には、美鈴から見て左の方にある螺旋階段を用いて下りることが出来る。そこが閲覧所ともいうべき場所であり、その奥には無数の本棚が連なっている。美鈴の方から見ると、川の字が幾つも連なっているかのように見える。いずれも3階分ほどの高さを有する巨大なものだ。

そして美鈴が今いるエントランスの先端部は、実はそこがそのまま巨大な本棚の上部に接続している(というより壁面が最初から本棚になっているのであり、そういう意味では『棚』という表現がむしろ正確ではない)。手すりはその本棚の上に据え付けられているのだ。
エントランスからはギャラリー状に吹き抜けの周囲を移動できる。そのギャラリーもすべて先の部分が本棚の上部へと繋がっているし、またその背面にもやはり書物の壁がそびえている。
要するに凸の字を真ん中で縦に割り、それを四方の壁にあてがっていくような形になっているのである。だから実質この図書館の壁はその全てが本棚なのだ。
壁に面した本棚はともかく高さがあるので、作業用のリフトが幾つも設けられている。ただリフトとは言ってもそれは赤いソファーをワイヤーで吊るした代物となっているので、座ったままで上下して、目当ての段の前に来たら停止、そのまま空中で足をぶらぶらさせながら読書にふけるといった道楽も可能である。もっとも現在はパチュリーにしても小悪魔にしても満足に空を飛ぶことも出来ず危ないから、そうした利用の仕方をするのはフランドールだけとなっている。

ちなみに図書館の奥の方には二つの部屋が設けられている。
一つはパチュリーの書斎ともいうべき部屋で、その内部もまた本棚に満たされている。彼女が特に気に入った書籍が収納されているのだ。パチュリーが何かを作ったり研究したりといった場合に用いられる。
そしてもう一つはいわゆる禁書庫である。
封印の必要性がある危険な魔導書や、とりわけ貴重な書物等が収蔵されているらしい。厳重に施錠がなされていて、美鈴はその内部を閲覧したことはない。

螺旋階段を伝って下へと降りると、フランドールが机に座って何かの本を読んでいた。
白いクロスと小洒落た感じのアンティークランプで飾られた机は、どことなくディナーの席のようにも見える。
周囲の床にも無造作に本が積まれている。収納しきれなかったり、住人たちが出しっぱなしにしたりしたものである。美鈴の仕えるべき面々は、基本的に整理整頓の苦手な少女たちなのだ。

「ん、来たわね。体調はどう?」
「万全です。なにを読まれているのですか?」
「プトレマイオスの『数学全書』。天動説におけるバイブル的なものです」

また美鈴の苦手そうな領域にまつわる書物のようである。
古めかしい本で、明らかに製本や印刷の技術が未発達だった時代のものであると知れる。そうした本もここには多く所蔵されていて、それらはみな魔法の力により補填と保護がなされているのである。

「『ピナケス』に――あ、この図書館の目録ね――それに載ってたから、ものは試しと手を伸ばしてみたんだよ」
「難しくはないのですか?」
「現代の自然科学とはかなり異なる体系だからね、そういう意味では難しいわよ。でもまあポーズというのは大事。分からなくても分かっているふりをして読んでいけば、そのうち本当に分かるようになる」
「そういうものなのですか?」
「適当を言いました。それより今日の豆は何かしら? モカとみた」

プランジャーポットに入れられたコーヒー粉を見てフランドールが言った。

「いえ、コナですが」
「あり? むむ……美鈴のばか」
「申し訳ございません」

机の上には他に事典と思しき分厚い本が一冊置かれている。何やら仰々しく、厳めしい感じのする装丁である。

「あ、コーヒータイムですね。コナですか?」
「む~」

連なる本棚の向こうから現れた小悪魔が事もなげにその銘柄を言い当てたので、フランドールは本格的にむくれた。

「小悪魔のばか」
「申し訳ございません。何だか良く分かりませんが、とりあえず謝っておきます」

微妙に不誠実なことをさらりと言う。

「コナはホワイトハウスの晩餐会で出される銘柄、紅魔館で出すのはナンセンスなの。だいたい図書館では飲み食いはするべきではないんだよ。本が汚れたらどうするのさ? この前もお姉さまはお茶をこぼしてさあ……パチェはあいつには甘いから小悪魔がしっかりしないと駄目だよ?」

飲み物を所望した当の本人が文句を言い出した。

「その本、隠しておくように言われたんですよね。レミリア様から」
「で、どうしたの?」
「私は司書ですもの。もちろん染み抜きをして元通りにしておきました」
「お姉さまにはそれ報告した?」
「かなり慌てていらして面白そうだったので、していません」
「よろしい」

フランドールと小悪魔が悪戯っぽく笑う。美鈴はといえば聞かなかったふりである。
そして三人でコーヒーを飲みだした。時間帯的にはちょうどおやつの刻限である。

「パリに行ったんでしょ? ドゥマゴのカフェには行った?」
「残念ながら時間がありませんでした」
「え~? 写真とお土産話、楽しみだったんだけどなー。がっかりだなー」

フランドールが意地の悪そうな目つきをする。

「申し訳ございません、船の手配に予想より時間を食ってしまって」
「ま、仕方ないよね。遊びじゃないんだし……それにそもそも悪いのは私なんだし――」
「お嬢様」
「ん、ごめん……そうだ、美鈴はノームの転送に立ち会ったんだろ? どうだった?」
「あのちっちゃいおじいさんですか? 特にどうということもなかったです。すぐに呼びかけに応じてくれましたし」
「ノームがいたっていうのは廃鉱だったわよね。喘息は?」
「埃っぽいわ寒いわでかなりお加減が心配でしたが、幸いにも事は無く」

喘息は刺激物質の吸引、寒さ、その他ショック等を原因として発作が生じる。パチュリーはその全てが発作要因として該当しているので発作の頻度はかなり高いのである。廃鉱に足を踏み入れるなど本来はもっての外である。

「発作かあ……あれはかなり辛いらしいわね」

しみじみとフランドールは言う。

「パチェの力は喘息により阻害されているけれど、一方じゃそれがあったからこそ有り余る才気が弛むこともなかったんだろうね。はあ、私も早く能力を制御できるようにならないと……」

パチュリーの指導もあってか、フランドールの力はとりあえず館に巡らされた結界の内部にいる限りは暴走することもなくなっていた。
だが外に出てしまえばその限りではない。だからこの館は一種の防壁でもあるのだ。集束してくる万物の『目』より彼女を守るための壁である。
そしてそのような状況だからフランドールは書物や伝聞か、あるいはごくごく最近作成できるようになった『端末』を介してしか外の情報に触れることはできない。リアルで流動的な情報というものとは彼女は無縁なのである。
だから彼女にとっては比喩でも何でもなく、館の外は異世界なのだ。

たとえフランドールが世間話に分類されるような内容の話をしていたのだとしても、彼女にとってはそれは何かの物語の話をしているのと変わりがない。彼女の中において『今度フランスでワールドカップが開催される』という情報と『とある物語の中でこんな出来事があった』という情報は同じ位相にあるのだ。
そう言う意味でフランドールは現実と物語の区別が付いていない。
というより彼女にとって現実というものは実に狭苦しく、わずかばかりの情報しかもたらしてはくれないのだ。現実という感覚自体がそもそも希薄なのである。いかに広いとはいえ紅魔館という限られた空間から出ることが出来ないのだから、そんな感覚が培われるはずもない(ただ当の本人はそういった点で自分がずれていることについて自覚的であり、それ故にしばしば彼女は自らのことを気がふれているなどと揶揄するのだが)。
そしてそれだけ他者とは異なる世界観を構築しながら、なお他人とのコミュニケーションにそれほどの齟齬を来さないでいられるのは、彼女が優れた想像力と鋭敏な感受性を持ちあわせているからに他ならない。

――まあ、もっとも

紅魔館において絶えず新しい情報を仕入れておく必要があるのは美鈴くらいのものなので、外部と距離を置いているという点では残りの住人たちもそう大差はない。パチュリーに至ってはロケットも知らなかったのだ。

「ところで小悪魔さん、その本は?」

席に着く際に彼女は小説と思しき本を一冊机の上に置いていた。

「これですか? これはフランドール様ご所望の『ファウンデーションの彼方へ』――アイザック・アシモフ博士のSF小説ですね。1983年のヒューゴー賞長編部門受賞作。当時巷間ではガイア理論が流行っていたせいか、その影響がありありと――おっと、ネタばらしは良くない」
「ガイア?」
「ギリシャ神話に登場する大地の原初神だよ。でもそれよりそのガイア理論みたいに、地球やそこに織りなす生命、自然たちの象徴としてのイメージが強いかもね。超個体としての地球――星のなんとかシステム? 忘れちゃったけど」
「よく環境保護の標語のようにして用いられますが、提唱者のラブロック博士自身は、人間によりもたらされる環境破壊はしょせん人間を滅亡させる程度のものでしかなく、人間の側が地球を守るなどというのはとんだ誤謬であると主張されているのですが」
「そりゃそうだよ。私はね、だからこそ人間はまだ生かされているんだと思うのよ。もしもそのシステムが人間をガン細胞のような害悪と認識して排除にかかったなら、人間なんてあっという間に駆逐されてるはずよ。だから人間にとって――というより私たちをも含んだこの星に暮らしている存在にとって、それは母なるなんとやらであると同時に、絶対に敵に回してはいけない最強最悪の天敵の一つだね。まあ本当にそういうシステムが存在しているのなら、ってことだけど」
「存在するのでしょうか?」
「うんにゃ、常識的に考えればそんなものありはしないわ。そして仮に存在しているんだとしても、それはまだ人間に牙を剥いてはいないみたいね。つまんないの」

寝ぼすけなのね――そうフランドールは呟いた。
小悪魔が席に着いたので、美鈴はその分のコーヒーを淹れる。
そうしてしばらくは三人での談笑が続いたが、昨日まで気の張り詰めることの多かった美鈴にとってはそれはありがたい時間だった。ひょっとするとフランドールは気を利かせてくれたのかもしれない。

「ね、ね、ところでさ小悪魔」
「はいはい」
「ルシフェル様ってどんなヒトだったの?」

好奇心に満ちた瞳でフランドールはたずねた。

「ルシフェル様ですか? そうですねえ……質問をお返ししますが、フランドール様はどのようなイメージを抱かれてます?」
「私? えっと……もとは神にも等しい力を持ち、唯一翼を12枚持つことを許された偉大なる天使長。つまり偽ディオニシウスの……なんだっけ、あれ?」
「『天上位階論』ですか?」
「それだ。そこにおいて語られた九つある天使の階級の中でも最高位にあたる熾天使セラフィムの、そのまた最上位。ちなみに熾天使の羽は通常は6枚。下の二枚で足を隠し、真ん中の二枚で身体を隠し、上の二枚で飛翔するそうよ。美鈴、聞いてる?」
「え? はい、聞いてますよ」

その実美鈴は翼が12枚もあったら邪魔ではないのかとか、その『偽』というのは一体何なのだろうかとか、あまり関係のなさそうなことばかり考えていた。

「しかし力を有したが故に神への服従を是とはせず、天の勢力の三分の一を引き連れ神に反旗を翻す。さすがルシフェル、私たちにできない事を平然とやってのけるわ。そこに痺れたり憧れたり?」
「俺は天使をやめるぞ! ってやつですね」

おそらくは何かの物語からの引用と思しき応酬をフランドールと小悪魔はかわす。

「しかし全天を巻き込む戦争の果て、熾天使ミカエルに敗北し、天より落ちる。で、その後氷の地獄コキュートスへと囚われて……色々混ざってしまっているけどこんな感じかなあ。ミカエルがどの階級に属するかは捉え方次第みたいだけど」

そしてその際に堕天した天使たちは悪魔となり、ルシフェルはそれらを引き連れるサタン(敵対する者)となったのだそうだ。そういった方面に明るくない美鈴でもその名前は何となく耳にした覚えがあるくらいだから、相当有名な悪魔なのだろうとは思う。
そのせいだろうか、子どもらしい憧憬の念をフランドールから感じる。

「後はその光と闇の二面性から、金星の象徴とされる。金星は宵を、そして明を連れてくる星だから。光と闇のディマーケイション……ロマンよ、ロマン」

きゃっきゃっとフランドールははしゃいでいる。
しかし一方の小悪魔は複雑な表情を浮かべているようだ。

「ロマンですか……まあ夢を見るのはいいことですよね」
「なんか引っかかる言い方ね」
「いえ、とても素敵な方ですよ。それはもう、すっごくロマンなんですのよ」

フランドールがじとっとした感じの目付きになる。

「で、実際はどんなヒトだったのよ? いや、ていうかそもそも実在したのかしら?」
「うーん、たぶん知らない方がいいかと思われます。神話だの伝承だのは、あまり実態を反映しているものではありませんから。そもそも名前すら一致しないではないですか。ルシフェルもサタンもサマエルもアザゼルもごっちゃになっていてですね――」
「そういうのはどうでもいいの。気になる。教えなさい」
「……女の子ですよ」

少し言い淀んでいたようだったが、渋々といった様子で小悪魔は答えた。

「小さな女の子なのです。見かけの年齢なら、たぶんお嬢様たちと大差ないかと」
「ふーん、そうなんだ……」
「がっかりですか?」
「いや? それはそれでいい」

フランドールの瞳が怪しい光を帯びる。

「そうですか?」
「ええ。だって、女の子の血って美味しいもの。含んでみたいな、最上位の魔王の血。うふふ……」

子ども故の邪悪さのようなものを感じさせる笑みである。そうして唇に指をあてがう仕草が実に吸血鬼じみていると美鈴は思う。幼い割にどことなく艶のようなものがあるのだ。

「んー、女の子と言えば貴女のマスターも美味しそうだよねえ……なんだかあったかくって甘そうなの。人肌にあっためたホットミルクにちょっとはちみつを入れた感じ?」

血液からそのイメージを喚起する辺りが吸血鬼である。美鈴は血液というと鉄の味のイメージしか湧いてこないし、それを味わうときは大抵が戦闘中だ。
そういえば、と小悪魔が言う。

「蜂蜜とホットミルクという組み合わせは不眠症に効くのだそうですよ。というかお嬢様、ひょっとして渇いてらっしゃいます?」
「あー、血液怖い」
「マスターは襲っちゃダメですよ?」
「あー、血液怖くない」
「あの~」

久しぶりに美鈴は口を開いた。これまでの話から少し気になる点が出てきたのである。

「小悪魔さんは神話だの伝承だのはあまり実態を反映していない、って言いましたよね?」
「そうです。ルシフェル様が一般には男性の姿形で語り継がれているように、です」
「でもそのルシフェルというヒトは『いた』んですよね?」
「ええ。もっとも今はどこにいらっしゃるか存じませんが」
「ならこの世界を創ったのはキリスト教の神様……なんですか?」
「そうです――とも言えますし、違いますとも言えます」

それは一体どういうことかと美鈴は問おうとしたが、小悪魔は手の平を広げそれを制した。

「美鈴さん、偉そうに聞こえてしまったらごめんなさい。でも世界というのは言葉により説明し尽くせるほど単純な構造で成り立っているわけではないんです。世界の起源をたどれば、我々は不可避的に袋小路へと入り込みます。それは決して語り得ぬこと、口を閉ざさねばならないこと」
「不立文字、ってやつですか?」
「語り得ぬものに対しては沈黙しなければならない――美鈴、その疑問はいい疑問なの。でもね、小悪魔の言う通り答えはたぶん出ない。私たちでは回答に到達することはできない。私たちはただ『それがそれとしてあること』を受け入れるしかないんだと思うの。まあ、もしかしたら姉様ならいつかその答えに到達できるのかもしれないけどね……」
「レミリアお嬢様なら?」

それはつまり運命への干渉と何か関わりがあるということだろうか?

「それは長くなりそうだからまた今度ね。アカシャの話なんか始めたらきりがないもの……それよりさ、ぜひ小悪魔にたずねておきたいことがあったんだ。ていうか実はここからが本題、ルシフェル様のことなんかより遥かに重要なことさ」
「はあ。私でお答えできることでしたら何なりと」

そう言えばフランドールは話したいことがあると言っていたのだ。ここまで会話にかまけていて美鈴はそのことを失念していた。
フランドールが机の上に置いてあった事典と思しき書物を手に取り、パラパラとめくる。美鈴の方からはよく見えなかったのだが、その表紙には地獄という言葉が記されているようだった。
そしてフランドールが小悪魔を見詰める。

「ねえ、小悪魔。名無しの小悪魔」
「はいはい」

まるで挑みかかるような目付きをフランドールはしている。
一方の小悪魔は普段通りの穏やかな笑顔である。

「名前が無い、っていうのは全体どういうことなんだろうね?」
「取るに足らない雑魚である、といったところではないですか? 私は争いごと苦手ですしね」
「闘争ばかりが悪魔の本分ではないでしょう? 姦計謀略、権謀術数――そうしたものもまた悪魔の為すべきことさ」
「ふむ」
「これから遠からず私たちは難局に立たされるわ。貴女がそこにおいてどの程度当てになるのか、どのような役回りにおいてこそ貴女は力を発揮するのか、それを確かめておきたいと思ってね……」

そしてフランドールは手にした事典をパンと閉じた。

「貴女の真の名前は何?」

そのとき図書館に置かれた柱時計が時報の鐘を鳴らした。
からん、からん――脈々と紡がれてきた知識たちが散りばめられた広大な図書の世界に、その音色が反響する。
この場所にいると時の経過を忘れてしまう。
それはこの場所が書物という名の、焼き付けられた凡百の過去により満たされているからだろうか。
小悪魔もフランドールも急に黙ってしまった。小悪魔の顔からも笑顔は消えている。

からん、からん――

どことなく空気が重い。淀んでいるということではない。むしろ冴えている。冴えているが故に、身にのしかかる感じがするのだ。
先ほどまでの和やかな空気との落差が著しく、美鈴はそれに追随できていない。突然に無言劇の舞台へと放り込まれてしまったような疎外感を覚える。

からん、からん――

美鈴の目の前では赤髪の悪魔と幼き破壊者が、机を挟み向き合っている。
双方の内心の読めない視線が静かに交錯している。
そしてやがて鐘が鳴り止んで、もとの三人の話し声以外には一切物音のしない広大な知の空間が戻ってくる。
小悪魔の目がすっと細められる。



「本当にお聞きになりたいですか?」



ぞくりとした。
それは普段の茶目っ気のある小悪魔のそれとは明らかに異なる声だった。
怖いくらいに澄んだ金色の瞳が、穏やかな威圧感を発している。
そしてフランドールが不敵に笑った。

「ぜひ聞きたいわ」
「好奇心は猫を殺しますよ、フランドール・スカーレット様?」
「ふん、私から好奇心をとったらただの隠者さ。何なら指摘してあげましょうか? エジプトの悪霊殿」

射るような口調でフランドールは言った。
対して小悪魔は両肘を机につけ、重ねた手のひらで口元を隠すようにして机に体重を預けた。その表情はうかがい知れない。
一方のフランドールはふんぞり返るようにして椅子に寄りかかっている。

「はてさて何のことでありましょう、私は名も無き小悪魔ですよ?」
「白々しい。惚けないでほしいね。そもそもパチェは貴女のことを隠そうとは思ってないはずよ。そうでなければ『ゴエティア』なんて名前、誰にも告げないはずさ。アルス・ゴエティア――要するに『ソロモンの小さな鍵』の一部でしょ? 第一級のグリモワールじゃない。誰でも知ってるわよ」

――知りませんて。

そう美鈴は思うが口を挟むことは控える。そして少しだけ小悪魔のことを警戒する。
彼女のことは信用しているが、そうは言っても先ほど感じた威圧感もまた本物だったのだ。

「美鈴さん、そんなに硬くならずとも大丈夫ですってば。私に害意がないことぐらい、貴女ならすぐ分かるはずです」
「そうそう、それよりお代わりをおくれ。少し濃い目にね。頭が冴える」

そう言ってフランドールは空のカップを寄越した。

「この図書館にまつわる文献を読んだよ。昔ここは『ヴワルの魔法図書館』と呼ばれていたそうね」
「俗称です。本当の名前は別ものですわ」
「そうだろうね……ま、この図書館が『あの図書館』なのかどうかは私は興味ないし置いておこう。ところでこのヴワルってなんだろうね? 美鈴はどう思う?」
「へ?」

突然話を振られたので少々間の抜けた声をあげてしまう。
慌てて考える。

「フランス語ではないですか? たしかフランス語ではヴェールのことをヴワルと」
「神秘のヴェールに覆われた巨大図書館……ふふ、それはそれで魅力的だけど、でも私たちは夜の種族――もっと突拍子もないことをのたまうべきなのさ。そうでなければつまらない。例えば月はなぜ地上に裏側を見せずに回っているのかという問題を考えるとするわね。そりゃあね、そんなことは天体に働く引力の性質を持ち出せばあっという間に説明できるわよ? でもそんなの論理的すぎてつまらない。別の理由を考えるべきなのよ。そういうことだから――」

そういうとフランドールは先ほど手に取った事典らしきものをぱらぱらとめくった。

「どのページだったかな……ああ、ここだ。これはコラン・ド・プランシーの『地獄の辞典』さね。本来白黒刷りのはずなんだけど、ここのはなぜか彩色が施されている」

開かれた事典が机の上に置かれる。そのページには奇妙な挿絵が載っていた。
駱駝――だろうか。
それは黒いローブをまとった駱駝らしきものが、人間のように二本足で立っている絵だった。書物の名から察するに悪魔の一種なのだろう。どことなく禍々しい姿である。
その名前の欄には――

「ヴアル?」

そういう名前らしい。そしてフランドールが滔々と語る。

「古代イスラエル第3代の王ソロモン――ダビデの息子だね。こいつはそのソロモン王が使役した72の悪魔の内の一体だよ」

――ソロモン?

失念していたがそれは伯爵が言っていた例の神殿とやらを造った人物ではなかったか?

「古いものでは旧約聖書偽典『エノク書』の流れを汲むとされる『偽エノク文書』の悪魔目録や、ヨハン・ヴァイヤーの『悪魔の偽王国』にも記述がある。砂漠と水域の公爵にして、37の地獄の軍団を従えしエジプトの悪霊。堕天する以前はラファエルやカマエル同様の能天使エクスシアであったとされる。広範な知識を有し、また女からの愛を召喚主に与えるのだというわ」

能天使というのは、悪魔の討伐を任務とする第六階級の天使たちのことを言うのだそうだ。だからこそ悪魔と接する機会も多く、堕落の危険に常に晒されているとのことである。

「それで、お嬢様はこれが私の真名であると、そうおっしゃいたいのかしら?」
「ええ。もともとこの図書館は貴女が管理していたっていう話だしね」
「でもこの『ア』と『ワ』の違いをどう説明されるのです?」
「猫と人間は誤差の範囲――」
「マスターみたいなことを言わない。そうは参りませんよ?」

小悪魔が楽しそうにほほ笑む。
それを見て美鈴は警戒を解いた。それはすでに普段通りの小悪魔だったからである。

「分かってるよ。これは19世紀の著書だから綴りは『Vual』だね。あるいは『Uvall』『Voval』『Wall』とも表する。でもさ、ほら古典期のラテン語って――」

フランドールは美鈴が淹れたコーヒーに砂糖をひとすくい投じた。濃い目にと言われたからそれなりに濃くしたのだが――

「苦っ!? うー……昔のラテン語は、『W』も『U』も文字としてまだ存在していなかった。『V』の字が、その双方の音を担当していた。ほら、『virus』ってウイルスって読むでしょう? これだって本当は『ウアル』と読むべきなのね。で、その後これじゃあ不便だってんで二つの新しい文字が生み出された。でも問題は、すでにラテン語で記されている言葉を現在のアルファベットに置き換える場合さ。その置換過程でスペリングに混乱や混同が――」
「お嬢様」
「んい?」
「30点、ですね」

小悪魔は人差し指を立ててそれを左右に揺らす仕草をした。フランドールは幾分かがっかりした表情でうな垂れた。

「えー、いい線行ってたと思ったんだけどなあ。採点基準は?」
「そもそも実はソロモン王の使役した悪魔は72体も存在しないのです。先ほど申し上げました通り、そういった言い伝えだなんだといったものは大半が嘘なのです。実在しない者、あるいは正体が重複している者、といったふうに。そしてそのヴアルとかいう名前は後者に属します」
「小悪魔さん、つまり同一の存在が違う名前で重複して記載されているってことですか?」
「その通りです。そしてお嬢様、72柱のうちそれと非常に似通った属性を持った輩がいるはずです。お分かりになりますか?」

フランドールは目を閉じてこめかみに人差し指を立てる仕草をした。考え事をする際の癖である。
そして片目だけを開いて呟く。

「56番、かなあ……」
「それはどういった悪魔なんです?」
「えっと、どうだったかな」

美鈴がたずねると、フランドールは再びパラパラと件の事典をめくり出した。

「これだ」

ページをめくる手が止まる。
そこに記されていたのは金の刺繍の施された黒い服をまとった女性だった。
それがふわりとしたレースの下がった公爵冠らしきものをかぶり、駱駝の背に乗っている。悪魔というには少々穏やかな雰囲気であり、また神秘的でもある。知らない者が見ればむしろ女神といった印象を抱くのではないかと美鈴は思う。

「ソロモン72柱第56番、吟遊公爵グレモリー。広範な知識と女性の愛とを召喚者に授けるとされ、またヴアルはこれの部下だという説もあり……ん?」

その女性の髪は真っ赤だった。

――これって……

そして小悪魔が悪戯に成功した子どものような顔をする。

「だから0点ではなく30点。お分かりいただけました? ふふっ」
「え? え? 待ってよ。ソースを出しなさい、ソースを」

フランドールが珍しく焦っている。

「ですから再三申しました通り、残っている記録の多くが虚偽である以上、それは意味をなさないのですよ。その虚偽の中から真実を見付けだすことそが、幻想の解釈学でございます。その絵だって実際の私にくらべたらお色気2割増じゃないですか、ははは……こんちくしょう」

たしかに小悪魔は背も小さいし、色気があるというよりはかわいらしいと表した方がピンとくる容姿をしていると美鈴は思う。

「あと定かではないですが、9番のパイモン辺りもたぶん私がベースだと思います。外見的特徴がほとんど一緒ですし。なぜだか男のヒトになっていますが……こんちくしょう。ま、何はともあれ30点は30点。赤点ですね」

意地の悪い笑みを小悪魔はフランドールに向ける。フランドールはすでにふくれっ面である。

「そんなのずるい。分かるわけないじゃないのさ」
「パチュリー様はきちんとお分かりになりましたよ? だからこそ私はこうしてお仕えしているのです」
「む~……ふんだ」
「どうもふざけ半分でラクダの格好をしていたら、いつの間にか別物扱いになってしまって……お恥ずかしい限りです」
「じゃあ小悪魔さんの本名はこのグレなんとかいう?」
「いえ、再四申しました通り記述は嘘なのです。私の名前はもっと別のものであり、今挙がった二つはどちらも仮称に過ぎない。そして本当の名前は記録には残っていません。残させなかったのです。私はほら、あんまり戦いは得意ではないので、できるだけ隠れていたかったんですよ。でもって面倒だからいっそのこと、と契約時にマスターに名前を隠してもらった次第でございます。いやですね、マルコのきかん坊やグラシア・ラボラスのおじ様みたいなレベルになると別に名前ぐらい明かしても問題ないんですけど……生憎と私はよわっちいのですよ」

自嘲するでも気負うでもなく、淡々と小悪魔は言った。ということは先ほどの威圧感もブラフだったということだろうか。もしそうなら大変な役者である。

「つまりこういうことだね? 貴女はやっぱり、名無しの小悪魔」
「Exactly――その通りでございますわ、お嬢様」

またしても何かの台詞を引用したと思しき口調で、満足げに小悪魔は言った。
その後しばらくはフランドールと小悪魔は日本の漫画の話題で盛り上がっていたようだったが、美鈴はあまり詳しくはないのでいまいち会話に参加できないでいた。
どうも先ほどから美鈴の苦手分野の話ばかりが続いている。なら一体全体美鈴は何が得意なのかとたずねられれば、それはそれで返答に窮することになるのだが。

「しかしねえ……」
「どうしたんです、お嬢様?」
「いやね、美鈴。私たちはもう少しで東方の地に赴くわけだよ。まあ私の『端末』はすでに日本海だけれども。ああ、羽根が落ち着かない。でさ、そういう状況だってのに、私らは延々とギリシャ神話だのソロモン王の話だのをしているわけさ。変なの」
「それは仕方がないでしょう。そもそもここは西洋、それにあちら側にだって洋の東西を問わず様々な存在が入り乱れているのだそうですし、それらと出くわしてしまうことだって十分に考えられますもん。きっと今までの話だって無駄ではないはずですよ?」
「ま、西にいるうちにやっておけってことだね」
「それよりもそのソロモン王の話ですよ。小悪魔さん、ソロモン王はたしか何か神殿を建てたのだとか――」
「『列王記』のあれですね。私もはずかしながら手伝う破目になりました。ずいぶん昔の話ですけど」
「その場所はいまだに神秘的な力が満ち溢れていると聞いたの。それでね――」

美鈴は伯爵の提案事項を二人に説明した。
無論パチュリーを引き渡すつもりは毛頭ないが、それでも最悪の場合というものは考えなければならない。
その場所に赴けば本当に当座の魔力は回復するのか否か――それが美鈴は知りたいのである。
そして小悪魔の言によればそのこと自体は本当のことであるらしい。とりあえず伯爵は嘘は言っていなかったということだ。

「分かりました。とりあえずそれが聞ければ満足です」
「大丈夫だと思うよ、美鈴。諏訪のプラン以外にもいくつか方策は用意してあるんでしょ? そいつ等にパチェを渡す必要なんてないさ」
「もちろん渡すつもりはないです。ただ――」
「まあ貴女がそうやって色々気を揉んでくれてるおかげで私はこうして図書館で読書に耽っていられるわけだ。そのことは感謝してるよ……おや?」

お姉さまたちが返ってきたようだ――玄関があるであろう方向を見ながらフランドールが呟く。
そして美鈴もまた、この館の主人とその親友の二人組の気配を察する。
だが何かがおかしい。
二人の放つ気配がひどく弱々しいものになっている。

「……小悪魔さん」
「はい」

嫌な予感が美鈴の頭をよぎる。それは小悪魔も同様だったようで、その表情からはにこやかさが消えていた。
理由は分からないが、双方の気が物凄く弱っている。明らかに『何かあった』のだ。

「小悪魔さんは寝所の用意を」
「分かりました」

フランドールを尻目に美鈴は図書館のエントランスまで一気に跳び上げる。平素ならば階段を使うところだが、今はそのように悠長にしている暇はない。
着地しなにメイド服のすそがふわりとした。
そしてそのまま書架に穿たれた扉を開き、走る。紅魔館の入口目指し地階の通路を駆け、階段を駆け上り、そしてエントランスホールへの扉を半ば弾き飛ばすかのように勢いよく開いた。
玄関の扉が開け放たれている。外はひどい嵐だ。昼だというのに空は暗く、雨風が轟々と唸り声をあげている。
その入口より少し進んだところに――

「美鈴……」

気を失った様子の親友を抱きかかえた館の主が、放心したように突っ立っていた。

「お嬢様!」

レミリアの灰色のパーカーは血で赤黒く染まっていた。またそうでない場所も泥で薄汚れている。
そしてその髪は嵐の中を抜けて来たのかぐっしょりと濡れていた。普段の可愛らしいカールはなりを潜め、濡れた髪が蒼白い肌にぺったりと貼り付いている。
衰弱は一目瞭然である。

「お嬢様、ただ今寝所を――」
「パチェが……パチェが……」

うわ言のようにレミリアは呟く。その腕の中にいるパチュリーは――

――これは……

生理的な嫌悪感が美鈴の内を駆ける。
パチュリーの身体に外傷はない。普通の人間が見れば衰弱こそしているが、怪我などはないと判じていただろう。身体もそれほど濡れていない。レミリアが何らかの形で雨風を防いでいたのだろう。
だが、その内部は明らかに異常だった。
人ならざる者にはそれが手に取るように分かる。
何かを施されたのだ。
それがパチュリーの内部を蝕んでいる。魔法使いの命ともいうべき魔力が――喰い荒らされ、冒されている。

「マスター!?」
「こあくま……」

駆け付けた小悪魔を見て、レミリアは言葉を忘れてしまったかのような虚ろな口調で呟いた。

「マスター! お嬢様も、いったい何が……」

小悪魔が悲痛な叫びを上げる。

「小悪魔……美鈴……」
「と、ともかくお二人ともお身体を温めて――」
「みんな……わたしが……ごめんなさい……」

そう言うとレミリアは美鈴にパチュリーを預けるようにして昏倒した。









* * *









「『神は言った「光あれ」。すると光があった』……咲夜はこの文言に聞き覚えはある?」
「『創世記』ですね」
「そうそう。これは神様が光と闇を割ったってことね。つまりキリスト教の創世神話においては闇は原初の存在なの。それは光よりも先にあった」
「そうなのですか。ところでフランドールお嬢様、福寿草茶のお代わりは――」
「いりません。でもって、今度はギリシャ神話。ギリシャ神話における世界の始まりは自然発生的でね、誰かが一から創ったって形は取らないの。ヘシオドスの『神統記』によると、まずはじめにカオスがあったと謳われる」
「カオス……混沌ですか?」
「ちょっと違う。どちらかというとその後発生する世界を入れるための空間――つまり隙間のニュアンスだね。その無境界の空隙とも言うべき場所に、大地としてのガイアが生じる。このガイアが後のティターン神族やオリンポス12神、風の魔神テュポーンといったほとんどのギリシャの神々の祖となる原初神さ。まあ他にもエロスとかタルタロスとかいたんだけど、割愛」
「で、何の話でしたっけ?」
「だ~か~ら~、あのときこの館に何が殴り込んで来たのかっていう話だってばー」









* * *









真っ暗だ。
どこまでも真っ暗、なんにも見えない。
だからひょっとすると『どこまでも』なんて言い方だって正しくないのかもしれない。実は真っ暗な箱の中に閉じ込められていたんだとしたって、いまの自分には判断できない。
あ、でも――
どうやらそれなりに広さのある空間みたい。
だって、目の前にお人形さんがいるんだもの。
十字架に鎖で磔られた、きれいなお人形。ちょっと悪趣味だけど、でもかわいらしいお人形。
すごく精巧な――親友そっくりの姿をした人形だ。
あの子とちっとも変わらないたたずまいで、すました感じで目を閉じてる。
すごい。
そっくりだ。
人形だから動かないけれど、でもほら、このちょっと危なっかしい感じとか、
ちっちゃい肩だとか、
かわいらしいお顔とか、
さらさらのかみの毛とか、



やわらかい肌だとか――



「え?」

なんで?
なんで人形の肌が柔らかいの?
質感が――
手触りが――
まるで――

「ほん……もの?」

嘘だ。
嘘だ。
うそだ。
そんなはずないじゃないか。
だって、本物なら――本物ならどうして動かないの?
だって、だって――

「あ……」

自分のせいだ。

「あぁ……」

パチュリー・ノーレッジが動かないのは、レミリア・スカーレットのせいだ。
腑抜けて醜態を晒していたせいだ。
結局、守れなかったんじゃないか。

「……ごめんなさい」

ごめんなさい。
ごめんなさい。
後ずさる。ぐにゃりとしたものを踏ん付ける。

「美鈴……」

それは倒れ伏した従者の腕だった。
自分を裏切らず、生まれた時からずっと仕えてくれてた大事な従者。
そしてほんのちょっとだけ姉や母のようにも思っていたヒト。
突っ伏している。動かない。
その隣には――

「小悪魔……」

親友の使い魔。糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちている。
みんな動かない。
みんな、みんな――

「貴女のせいさ」

暗い空間の向こうに妹が立っていた。
血の色の服。怖いくらいに美しい金色の髪。歪な水晶羽根。
その目はとても穏やかだけれど、でも奥には静かで苛烈な狂気が宿っている。

この子を守ろうとして――
あの日――

妹の右手がゆらりと持ち上がる。
その広げられた手のひらの中に、儚く輝く塊が見える。

――ああ、あれが私の『目』か。

結構きれいじゃないか――そんなどうでもいいことを思った。
そして妹がそれを握りつぶした途端、レミリアの身体は砂のようにどこまでもどこまでも細かく分解された。

――これは罰なんだ。

笑ってしまった罰だ。
そうしてレミリア・スカーレットを構築していたすべては暗い闇の中へとばら撒かれて、無限大に広がって――消えた。













パリン――
硬質な物体の砕け散る音が美鈴たちのいる室内に響き渡る。これで三つ目である。

「お嬢様、もうおやめ下さい! 別の手段を――」

小悪魔が叫んでいる。
先ほどまでの図書館での会話がまるで遠い昔のことのように感じられる。

「嫌だ。やめない。やめるもんか」

頑なな声でフランドールが言い放つ。
図書館で会話をしていた時の余裕はそこにはない。
その右手は何かを探るようにして前に向けて伸ばされていて、その先にはベッドに横たえられたパチュリーがいる。
外傷こそないが、嵐の中を運ばれてきたせいか熱が出ている。普段に増して顔が青白い。だがそれすら今は大した問題ではない。その程度のことなら美鈴の気功でいくらでも癒せる。
真に危殆に瀕しているのはその内部――魔法使いの生命の源ともいうべき魔力の方なのである。

「別の手段を講じている暇なんてないわよ。あんたのマスターなんでしょ?」

緑、青、黄色――三色の欠片が床に散らばりランプの明かりを反射している。
それは砕け散ったフランドールの羽根の残骸だ。魔力の過度の行使に水晶たちが耐えられなくなってきているのである。

「ですがお嬢様まで傷付かれては――」
「うるさい!」

穏やかなフランドールにしては珍しく声音に憤りと苛立ちとが混じる。

「パチェは助ける。今ここでそれが出来るのは私だけだ。それなのに、ここで何もしなかったら私は……私は本当にただの足手まといじゃない!」

そのレミリアはパチュリーの隣のベッドに横たわっている。
腹部にかなりの深手を負ったらしく、手当こそ済んではいたが、ひどく魘されている。汗が首筋を伝いシーツに吸われていく。
フランドールはその姉の姿をちらりと見る。そして何かに立ち向かうかのようにきっとパチュリーの方へと向き直る。

「姉さまだってたくさん背負ってる。私だけ無役なのはご免だ」

ぱりん――
フランドールの背中の水晶がまた一つ砕け散る。今度のそれは赤い色――

「ぐっ……うぅうう」

それまでの結晶とは違ってそれには痛覚が伴っているらしい。それもそのはずで、その結晶が赤い色をしているのは内部に血が詰まっているからなのだった。それがこぼれ、ぱしゃりと床を濡らす。
幾筋もの汗がフランドールの額を伝う。
今フランドールはパチュリーの内部を蝕む何かを破壊しようとしてその身をすり減らしている。

『目』はありとあらゆるものに存在する。
そして例えば人間がいたとして――幾多の細胞よりなる人間の『目』は一体どうなっているのか?
人間を大まかに『人間』と捉えればその『目』は一つだ。
だがそれを細胞の集合体として捉えなおせば、途端に『目』の数は爆発的に膨れ上がる。
これはフランドール自身が対象をどの程度のレベルにおいて認識するのかにより変じるのだそうで、つまり細かな破壊を行おうとすればするほどフランドールが処理しなければならない情報量は増大するのだ。認識方法の次第に左右される能力なのである。
そしてその能力の本質は『目』の掌握と集約だ。破壊はその副産物に過ぎない。『目』を己の支配下へと強制的に引き入れることこそが彼女の能力の中核をなしている。

つまり今フランドールはパチュリーの内部に存在する無数の『目』を確認し、集め、さらに余分な破壊をしないよう細心の注意を払い、なおかつ破壊すべき何かの在り処を探っているのだ。
凄まじい苦役なのだろう。砕け散った欠片たちがそれを物語っている。
それでも彼女は文句を言わない。
彼女は自分の能力が両親を死と、姉の変節とに深く関わっているということをきちんと理解して受けとめている。聡明な子なのである。
そしてそうであるからこそ彼女自身が語った通り、姉に対する負い目のようなものが確実にフランドールの中にはあった。それは普段はなりを潜めているし、その限りにおいてフランドールは明るく皮肉屋な少女に過ぎないのだが、こうして紅魔館が――家族が何がしかの岐路に立たされるとき、その負い目は顕在化するのだ。ほぼ確実にそういった状況において自身の能力は目の上の瘤となるからである。
そういう時の彼女は無力感と、自己嫌悪めいた何かをその横顔ににじませる。
それは当人も厭だったのだろう。だからこそ今こうして身を削る。

ぱりん――

「どこだ……どこにいる……」

そして美鈴は無言のまま己に言い聞かせていた。
これがおそらく最善なのだ。小悪魔と美鈴ではこの状況に対処しきれない。そしてそれをどうにかしなければ、パチュリーは確実に命を落とす。これは魔法使いにとってはあまりに覿面すぎる呪なのだ。

――だから

ぱりん。

――だから

ぱりん。

――この子たちが何をしたっていうのよ……

この目の前の理不尽な現実が今はひたすらに憎い。それをもたらした連中が、この上なく憎い。

「……捕まえた……潰してやる!」

血走った目でそう叫ぶと、フランドールはその右手をぎゅっと握り締めた。






その後美鈴と小悪魔は徹夜でレミリアとパチュリーを看て、またフランドールは羽根が砕けるほどに酷使した身体を休め、そうして一晩が明けて今は朝を迎えていた。
もっとも地下には窓がないから夜が明けたという実感はそれ程でもない。むしろまだ夜が続いているかのような錯覚こそが美鈴にはある。
それは美鈴にとって昨日の一夜は何とももの苦しく、また辛いものだったからに他ならない。
そして隣でいっしょに看病をしていた小悪魔にとってもそれは同様だったようで、日の出の頃にはすっかり互いに疲れが顔に出ていた。肉体の疲労ではない。仕えるべき少女たちの危難と対峙し続けたが故の心の疲れである。

小悪魔は探るようにパチュリーの胸の辺りに手をかざしている。
そのパチュリーは寝返りも打たず、呼吸もペースが遅い。一見すると安らかそうではあるが、やはり不自然な寝相である。
そしてレミリアはいまだに魘されている。だから再三起こそうと試みたのだが、眠りによる治癒が必要であると身体そのものが判じたか、いくらやっても目を覚まそうとはしないのだった。
その胸元と左腕に巻かれた包帯には、治癒力を高めるための白魔術の類が施されている。

「どうです?」
「だいぶ持って行かれているというか、削られたというか……やはり『足りない』ですね」

小悪魔はパチュリーの残存魔力を確認していた。そして『足りない』という言葉の意味するところは即ち――

「これは本格的に諏訪の神様たちの世話になることになりそうだねえ……協力してもらえると良いんだけど」

寝巻き姿のフランドールが少し不安げに呟く。
その羽は砕けたうちの半分ばかりがすでに回復している。やはり吸血鬼だけあって治癒が早い。
ちなみに諏訪の神に関しては詳細こそ不明だが、辛うじてその実在は確認が取れていた。

「船の日時を改めないといけませんね」
「月齢の関係で、お嬢様たちの向こう側への到達は現地時間で5月10日の夜とする必要があります」
「え?」

美鈴とフランドールはほぼ同時に驚きの声をもらした。

「なので転送儀式の実行は、時差を加味して10日の15時辺りに開始するのが妥当かと」
「あと五日しかないじゃないの! しかも満月って……いきなり飛び込んでいって宣戦布告しろってこと? なんでそんなに急いで――」

そこでフランドールは口をつぐみ、手を口元にやった。
その目が見開かれ、顔からははっきりと血の気が引いている。

「……そんなに酷いの?」
「ええ。おそらく次の満月まで、マスターはもたないでしょう」

小悪魔は淡々と、事務的ともいうべき口調でそう告げた。
彼女がそんな口調になっているのは、そうやって感情を律さなければ今にも叫び出しそうなほど、心を揺さぶられているからに他ならない。美鈴には、いや美鈴でなくともそのことは瞭然だ。その姿が淡々と弔辞を読み上げる喪主を連想させ、美鈴は暗澹とした心持ちになる。

「ねえ、せめて満月の晩じゃなくてさ、一日でも……いや、半日でもいい。猶予はつくれないの? いくらなんでもいきなり宣戦布告っていうのは馬鹿げてるよ。可能性はものすごく低いだろうけど――それでももしかしたら平和な場所なのかもしれない。戦う必要がない場所なのかもしれないでしょ?」

そのフランドールの物言いはもっともであると美鈴も思った。
だが――状況は美鈴たちが考えている以上に閉塞しているようだった。

「大規模な術式というのは使用者のコンディションのみならず、用いられる環境、あるいは働きかけるべき領域の状態もまた重要なファクターとなるのです。月の満ち欠けが様々な事柄に対して影響をもっているということはお嬢様もご存知でしょう?」
「あちらが満月じゃなきゃ、上手く繋げないってことか……八方とは言わないけど、ほとんど塞がってるわね」

悔しそうにフランドールは呟く。
もともと船を用意したり『端末』を飛ばしたりといった行動は、妖精や精霊の探索に時間がかかった時のことを想定して講じられたものだった。特に妖精王とその妃、この両名に関してはそもそも実在しているのかどうかからして不明だったのである。
それらの要因と、現状のパチュリーの残存魔力、さらに現地での情勢の分析に要する時間等を鑑みて船の出航日時は約一か月半後を予定していたのだが、よもやこのような暴力的な事態が発生することはほとんど想定の範囲外だった。
大体その一か月半という日時にしても、パチュリーの魔力が尽きるであろうタイムリミットの半年前の日付であって、余裕はしっかりと設けてあったのだ。
だが、今回の一件で急速にその魔力が消失したのである。
一か月もパチュリーはもたない。
そして満月の影響力に頼らなければならないほど魔力を削り取られてしまっている。おそらくここで無茶をすればそれだけで彼女の命脈は脅かされるのだろう。

――くそっ……

過信があった。
ただしそれは自分たちならパチュリーを守り切れるだろうといった驕った内容のものではない。そうではないのだ。
その過信は美鈴や、そしておそらくはレミリアをはじめとする他の面々がパチュリーに対して抱いていた代物である。いや、幻想といってもいいのかもしれない。
傷つくはずがない、壊れることなどありはしないと、心のどこかでそう感じていたのだ。
昔のパチュリーを知るが故に、その彼女が人間に後れを取るという状況が、どうしても現実的な可能性として視野に入っていなかった。
だが目の前にはその結果としての現実が横たわっている。
一か月以内にパチュリーは、消える。

こんなことなら多少強引にでも手駒を増やしておくべきだったろうかと美鈴は思う。
ただそれは困難な話でもあった。吸血鬼という存在を知っている者は、必然的にそれと敵対する存在についても知っているのだ。そしてそんな厄介な連中にかかわろうとするお人好しはいない。紅魔館は実質、孤立無援なのだ。
だから実のところ美鈴は諏訪のルートは望み薄であると考えていた。仮にそこに関わる面々が事情を知っていたのならまず協力しようとはしないだろうし、知らなかったならばそれこそ何の話かと切って捨てられるのが関の山である。
そうしたこともあって美鈴は諏訪に行こうとするフランドールのことはそれとなく止めようとしたのだが、協力云々ということは一先ず横に置いて、その早苗という人物にフランドールは会いたかったのだそうだ。そもそも彼女がわざわざ『端末』の生成技術を身に付けたのも元をたどればそのためであったらしい。
それに可能性が皆無というわけでもないと今は思う。フランドールはこれでかなり切れる方なのだ。その彼女が一定の確信をもって行動に移った以上、ひょっとしたら上手くいくということもあるのではないかと美鈴は踏んだ。だからこそ船の確保だ何だといったことはしっかりと準備しておいたのである。もちろん諏訪のルートが潰れた際に備え、他の手段を講じてもいた。

「フランドール様、『端末』はどちらに?」

美鈴がそうたずねるとフランドールは目を閉じた。通信中、といったところなのだろう。

「ううん、どうも距離が開きすぎてるせいか感情が上手く伝達できない。いまいち向こうは呑気だわ……ええとこれはオヤシラズ駅か。英語がふってあるのはありがたい。無人駅みたい。海がすごく近いけど……これなんだっけ? 高いところを走る道路」

目を閉じたままフランドールは語る。おそらく今彼女にはその『端末』を介して映像が流れ込んできているのだろう。
そして一見関係のなさそうな事柄を語るのは混乱があるからだ。
おしゃべりという、普段通りのスタイルを貫くことで彼女は彼女なりに自身の感情に流されまいと抗っている。小悪魔とは逆のやり方で、しかし同じように困惑を律している。
そうでもしなければあっという間に流されてしまうのだろう。感情は制御することが難しい。長きに渡って武具で身を固めていた美鈴ならばともかく、普通の少女にとって感情というものは元来押しとどめることが非常に困難な、厄介なものなのである。

――それでも

起こってしまった以上はこの事態は現実だ。なら早々に各自のやり方をもってそれを上手く受け入れていくしかない。
フランドールはきちんと状況を理解したということなのだろう。
それはひょっとすると彼女の心のどこかに負荷をかけるようなことだったのかもしれないが、否それは間違いなくそうなのだが、それでも彼女がこの状況の受容を決意した以上従者としてとやかく言うべきことは何もない。
だから――

「ハイウェイですか?」

普段通りの穏やかな口調で美鈴はたずねた。

「そうそれ。それが海岸沿いに走ってて、すっごい邪魔。なければ海が綺麗に見えるのに」
「上陸されたのは――」
「予定通りナオエツってとこだね。きちんと大人しく列車を使っているよ。GHQクライシス以来、石工は本格的に日本にも入り込んでるからねえ……油断ならない。ま、たまにはこういうのろのろした移動も良いってもんだわ」

さすがに日本国内に入って以降は派手に動くことは控えたほうがよいだろうとの判断から、日本海より上陸した時点で通常の輸送手段に切り替えることはすでに確定していた。
その際の上陸地として白羽の矢が立ったのが直江津の港である。新潟県に位置するこの港が上陸地点として選ばれた理由は二つある。
一つはそこが日本国内における重要港湾の一つであり、また韓国や中国等の環日本海国家との貿易を司る国際貿易港でもあるため発見が容易であるということ。
そしてもう一つ、そこの直江津の駅が北陸本線と呼ばれる幹線鉄道の起点駅となっていて、それを利用すると世間知らずなフランドールでも『比較的』容易に諏訪までたどり着けるからである。

「切符はちゃんと買えたんですね? 安心しました」

美鈴は胸をなでおろした。実はそれが結構心配だったのである。

「む、それぐらい一人でできるもん」
「あれ、ていうかフランドール様、たしかイトイガワ駅でオオイトセンとやらに乗り換えるはずでは? 何駅か通り過ぎてません?」

小悪魔が疑問の声を発する。
大糸線は安曇野や白馬盆地を通り、ヒスイで有名な新潟県糸魚川市と国宝松本城を有する長野県松本市とを結ぶ鉄道路線である――と美鈴が調達してきたガイドブックには記されていた。
その終点松本駅から日本の大動脈中央本線を首都である東京方面へと10駅ばかり乗り継げば諏訪の地である(厳密に言うと松本駅からしばらくは篠ノ井線と呼ばれる別路線らしいのだが、だいたいは直通である)。

「ああ、うん。寝過ごしちゃった。昨日のあれが少しフィードバックしたみたい。だから今は無人駅でぽつねんとしてる。人がいないし、しばらく電車は来ないみたい……」

遠き極東の無人駅にて海を見ながらたたずむフランドールを想像すると、美鈴は少し寂しい気持ちになるのだった。

「そういえばこの地方には、大国主神が地元豪族の娘沼河比売(ぬなかわひめ)に出雲より訪れて求婚し、そこから生まれた建御名方神が『厭い川』とも称された姫川をさかのぼって諏訪に入った、という伝承が残されているそうよ。オオイトセンとやらはその姫川沿いに進んで行くわけだから、私はちょうどその伝承と同じルートをたどって当の建御名方神に見えに行くわけだ。面白い……」

あ、カモメがいる――ここではないどこかの光景を見ながらフランドールは言った。

「それはそうと、二人は私が看てるよ。貴女たちは隣室辺りでちょっと休むといい。疲れたでしょ?」

美鈴と小悪魔も体力的にはさして問題はなかったのだが、心労はいかんともしがたいものがあるのでひとまずフランドールの言葉に甘えることにした。






美鈴と小悪魔が交代で仮眠を取り、そうして夜になるとようやくパチュリーが目を覚ました。

「レミィ……」

しばしの間パチュリーは魘されるレミリアの手を握っていた。
力のなさそうな小さな手が、同じように小さな吸血鬼の手を包んでいる。
美鈴としては現状それを急かすようなことはしたくなかったし、そっとしておいてあげたいとも思ったのだが、そのパチュリー本人が別室への移動を望んだ。

「今後のことについて話し合わないと。小悪魔はレミィのことを看ていてあげて」

レミリアの魘される様を見ながらでは思考が上手くまとまらないということなのだろう。
後ろ髪を引かれるような表情で、パチュリーと美鈴とフランドールはその場を後にした。
行き先は図書館である。そこがパチュリーにとっては一番落ち着く場所なのだろう。
その途中でフランドールの羽を見て、パチュリーが申し訳なさそうにうつむいた。

「苦労をかけてしまったようね」
「どうってことないわ。それより一体なにがあったの? 姉さまがあんな傷を負うなんて」
「聖槍よ。本物かどうかは分からないけど、でもレミィの治癒力や再生力はかなりのレベルで抑え込まれてる。命に別状はないだろうけど、回復にはたぶん数日からかかると思う」
「ホーフブルクのものかしら? それともサーティーンの方かな……いや、そんなのはどうでもいいや……で、パチェにはスティグマか。回りくどい」
「連中は『魔女の鉄槌』を所持していたわ。つまりはまあ、そういうことなんでしょう」
「下らないね。胸糞の悪い」

フランドールがここまで怒りを顕わにするのは本当に珍しい。平素の彼女はどちらかというと物事を一歩引いたところから見るタイプである。

「パチェ、その……痛かったの、それ?」

フランドールは今度は不安げにたずねた。感情の波が激しい。

「痛くはなかったけど……でも凄い気持ち悪かった。敵に男がいなくて良かったわ」

パチュリーは嫌悪感を滲ませた表情で、何気なく重い言葉を吐いた。
それに圧されてしまい、美鈴もフランドールもそれっきり黙ってしまった。
そうこうするうちに図書館へと至り、三人は螺旋階段を下った。

「さて、と……もう分かってると思うけど、プランの変更を余儀なくされたわ。かなり『喰われ』てしまった」

席に着いたパチュリーは開口一番にそう言った。そしてそれはつまり紅魔館の分断を意味する。

「ごめんなさい……」
「パチェは悪くない。悪いのはあいつ等さ。『端末』は途中でちょっと立ち往生したけど……なんなのさ、あの非電化区間ってヤツは……まあ、無事到着したわ。神様たちは協力してくれるって。向こうの神様は気前がいいよ」

フランドールの賭けは成功だったようである。

「神様『たち』?」
「二柱いるみたいなの。両方合わせて『タケミナカタ』って名前で語り継がれているみたい……それにしても感情の伝達に時間がかかる。こっちは焦ってるってのに、あっちは呑気にテレビゲームなんぞに興じているよ。まったく、こっちにはもうコインはないんだ」
「コイン? まあいいや。早苗さんとやらはどう?」
「早苗はお砂糖多めのミルクティー――まあ真面目な話をすると驚いたわ。あれだけの才能がこの時代に生まれたってのがすでに奇跡だよ。時代が時代なら神童あつかいだったろうに……ともあれ、早苗も諏訪の神様たちも力は十二分、きっともとは長く敬われてきた神様たちなんだろうね」

そう語るフランドールの顔は何やら迷いやためらいのようなものが浮かんでいる。

「どうされました、お嬢様?」
「ん? いやね、早苗を巻き込んでいいのかなって思ってさ……でもこれが現状じゃ最善の手段なのよね?」
「ええ、まあ他の手段よりは遥かに楽ですね」
「うーん……まあ神奈子様も諏訪子様も強そうだから、早苗のことはがっちり守ってくれるだろうけどさ……なんか利用しているみたいでねえ」

心苦しいものがあったりなかったり、とフランドールは言った。
手紙を介した繋がりしかないペンパルであっても、想像力豊かなフランドールにとってはそこにしっかりとした友愛の情を感得することは可能なのである。
無論それはフランドールの側が一方的にそう思っているだけということも十分あり得たことなのだが、聞けば先方もフランドールに対しては似たような感情を抱いていたのだそうである。つまりはとても相性が良かったということなのだろう。おまけにその神様たちに至っては、手紙の相手が吸血鬼であるということすら把握していたのだそうだ。

「フラン、それはフランのせいではないでしょう?」

パチュリーが言った。

「その早苗さんとやらを巻き込むことになりそうなのも、元をたどれば私のせいよ。だから、フランが気を病むことはない」
「でもさあ」
「私がフランに謝ることはあっても、貴女が自分を責める必要はないわ」

相変わらずパチュリーは淡々と無愛想に、しかし優しいことを言う。

「だから、ごめんね」
「ん……それは早苗に言ってあげて」
「わかった。それで美鈴、船はどう?」
「先ほど連絡を入れて予定を早めました」
「なんだ、そんな簡単に連絡が取れるのなら初めからパリなんか行かなければ良かったのに」
「華人のネットワークは連中でも干渉し難いものがありますからおそらくは大丈夫かと思われますが、それでも泳がされている可能性もまたゼロではないのです。連中の組織力を侮ってはなりません。ですから、念のためまた館を空けることになるかと思います」
「手間を取らせてしまうわね……」

そこでパチュリーは考え込むような仕草をした。
今後のことを考えているのか、それともレミリアのことを案じているのか――

「美鈴、この館とフランとレミィとは必ずセットであちら側へと送らないといけないっていうのは分かるわね? そうでないと術式が破綻してしまう」

フランドールがその表情を曇らせる。
パチュリーが少ししまったといったふうな顔をする。フランドールの前でその話をするべきではなかったと思ったのだろう。

「お嬢様、あまりお気になさらず」
「……ん、分かってる。ありがとう、美鈴」
「その次には小悪魔を送り込む。術式の管理と維持のため。というか館を転送した時点で外部に放出できる魔力はほとんど底をつくから、あの子しか送れないの。私や貴女はあの子より少し『重い』」

そう言うとパチュリーは美鈴の方へ向き直った。

「だから――貴女と私は諏訪に行く」
「かしこまりました」
「すまないね。この局面で貴女をレミィたちから遠ざけてしまうのは気が引けるのだけど」
「護衛と荷物持ちは私の得意分野ですので」
「美鈴とパチェは居残りか……ま、またすぐ会えるよね」

一瞬フランドールは寂しそうな顔を見せたが、すぐにまた笑顔に戻った。













レミリアが目を覚ますと、ベッドの天蓋の裏側が見えた。
そのまま朦朧としつつレミリアは起き上がる。だいたいレミリアは裸で眠るため、寝起きの身体は何もまとってはいない。
ひとあくびするとベッドを下りて立ち上がり、本格的に身体の節々を伸ばしていく。

「ん~」

そうすると休んでいた身体が少しずつ起きていくのが分かる。
その感覚の中でレミリアは先ほどまで見ていた夢のことを考えていた。
ひどい夢だった。全体はよく覚えてはいなかったが、断片は思い出すことができる。たいそう気の滅入る内容だった気がする。
もちろん夢はあくまで夢であって、その内容はちっとも現実のそれとは異なっていたのだけれど。

「ふふっ」

思わず笑ってしまった。
それほど馬鹿げた夢だったからである。
あろうことかその夢の中ではパチュリーがいたぶられていたのだ。
夢の中の彼女は妙な目付きをした女たちに組み敷かれていて――

その時点でお笑い草だ。あのパチュリーが人間程度に後れを取るはずがないではないか。
そしてその女たちはパチュリーの背中に聖別されたと思しき十字架を押し当てたのだ。それで何かを焼くような厭な感じの音がして――

「まったく」

そんなことがあるわけないじゃないか。
レミリアを焼いた魔女。
偏屈だけれど大好きで頼もしい友人。
それが人間に? 馬鹿みたいだ。そんなことがあるわけはない。

「美鈴~、起きたぞ~」

反応は無い。普段だったらレミリアが起きたときにはもう傍にいて、替えの服を用意してくれるというのに。
寝坊しているのだろうか? 美鈴に限ってそれはないだろうけれど、それにしたっていつまで主を裸にさせておくのか――そう思いつつレミリアは部屋の扉を開いた。



廊下が朽ちていた。



「は?」

瞬時には状況が理解できず、レミリアは呆けたようになる。
壁は穴だらけで、そこかしこがぼろぼろと崩れてしまっている。真っ赤なはずの床のカーペットは、しかし腐って茶色くなっていた。天井にも壁にも床にも無数のひびが走り、今にも瓦解しそうな有様だ。
まるで長い間誰も足を踏み入れていなかったかのような――

「め、美鈴」

従者の名を呼ぶ。返答はない。朽ちた廊下に自分の声だけが反響する。

「パチェ」

誰も、何も、返してはくれない。
ぱらぱらと壁の漆喰が散った。それが云い様のない孤独感と焦燥を連れて来る。

「フラン、小悪魔」

いない。
誰もいない。
独りだ。
そして何故だか灯っていた明かりが一斉に消え失せて、朽ち果てた廊下は何も見えない漆黒の闇路へと変じる。
その暗闇の中をレミリアは走った。
その背を押すのは混乱と、得体の知れぬ恐怖だ。呑まれる――何故だかそう思ったのだ。
そして最近はほとんど使うこともなくなっていたテラスへの扉に至る。弱々しい光がその隙間から漏れ出していて、だから辛うじてそれが扉であると分かったのだ。
光が欲しい。
吸血鬼だから日光は嫌いだけれど、何の明かりも無い奈落のような闇はもっと厭だ。
月でも星でも何でもいい。己の身体を照らしてくれる明かりが欲しい。
完全な闇の中では、自分が今ここにいるのかどうかだって怪しくなってしまう。
とっくにレミリア・スカーレットなんてものはいなくなっていたのではないかと、そんな迷妄に取り憑かれてしまう。

――この扉を開ければ光が……

半ば吹き飛ばすかのように勢いよく扉を開け放った。
そこから風がごうっと吹き込んで、レミリアの顔面を細かい粒状の何かがかすめていった。それが少し目に入って涙が出る。
その細かい粒は砂だった。それが風に巻き上げられていたのだ。

「あぁああ……」

涙を浮かべたまま悲嘆とも驚嘆ともつかない妙な声をレミリアは発してしまう。
扉を開けたその先には、荒涼とした砂漠が広がっていた。
瑠璃の空には消えかかった細い三日月が浮かび、それに照らされた茫漠たる真砂の山の連なりは、薄らいだ青紫色をしている。
水平線の彼方まで、砂以外の何ものも存在していない。
そこを砂塵がシルクのように過ぎ去っていく。レミリアの裸の、その小さな身体を砂が撫ぜる。

「何よ……」

テラスへと歩み出て、階下をのぞき込む。
紅魔館はとある山の裾に広がる森に臨むような形で建っているはずだったのに、今レミリアの目の前は一切が砂、砂――砂ばかりだ。

「何なのよ、これ!」

そして子どもが駄々をこねるように、我儘を言うかのようにレミリアが叫んだ瞬間、テラスが崩れた。
テラスだけではない。紅魔館の全てが、突然砂になって崩れたのだ。
壁が沈む。柱が消える。時計台が霧散していく。
何もかもが砂になって、それが月の光を受けて頽廃的な煌めきを帯びて、全て砂の海へと回帰していく。

そうして砂漠の真ん中にレミリアは投げ出される。
肌には何もまとっていない。天はどこまでも高い。大地は砂山だけが連続している。
独りだ。
紅魔館は消えた。そこにいたはずの家族も、もういない。
独りになってしまった。

「ごめんなさい……」

誰に言うとでもなくレミリアは謝る。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

そして彼女は気付いた。目の前の砂に、何か石が埋まっている。

「墓石?」

誰かのお墓だ。
十字架の刻まれた、白い大理石の墓石。砂に覆われて彫ってある文字は読めないけれど、5歳と記されていることだけは辛うじて分かった。
可哀そうに、随分幼くして死んだのだ――そうやってレミリアは今は亡き墓の主に同情し、そうすることで己を取り巻く不可解な状況から目を反らす。
砂が幼い体を叩いて流れていく。
この砂はどこまで流れて行くのか。
その先には何があるのだろうか。
何もないのだろうか。

「レミリア」

誰かが名前を呼んでいる。
低い男の人の声。とても久しぶりに聞いた声だ。誰の声だったのかは思い出せない。

「レミリア」

今度は女の人の声。やっぱりとても懐かしい感じのする声だ。この声は――

「……お母さま?」

砂塵の向こうに父と母が立っていた。
あの日、フランドールが生まれた日に死んだはずの二人――

「お父さま!」

ああ、お父さまだ。お母さまだ。
レミリアは夢を見ていたのです。とても怖い夢を。
おうちがなくなって、家族がいなくなって、自分は一人ぼっちで――でも夢だった。全部、全部、そんなことはなんにもなかったのです。
お父さま、お母さま、会いたかった。
温もりがほしかった。
優しく抱きとめてほしかった。
お父さま、お母さま、レミリアは寂しかったのです。もっといっぱい、ふれてもらいたかったのです。

「お母さま!」

そうしてレミリアは走りだす。
両親のもとに向かって――
自分を受け止めてくれる存在に向かって――
子どものように、いや子どもそのものの有様で――
そのレミリアの胸に――
壊れやすい小さな子どもの胸に――



父は赤く輝く槍を突き立てた。



「え?」

自らの胸元に生えた槍を見て、レミリアの混乱は極地に達する。

――なんで?

受け止めてくれると思ったのに。
そのままレミリアは砂の上に蹲る。不思議と痛みはない。ただそれ以上に期待を裏切られたという事実が心を砕く。
そしてレミリアは槍に貫かれたまま跪き、すがる様にして両親を見上げた。

――美鈴?

仰ぎ見た父の姿は、いつの間にか美鈴のそれになっていた。
何の感懐もなさそうに、暖かくも冷たくもない瞳がレミリアを見下ろしている。そしてその隣では紫色の豊かな髪が風になびいている。
母のいた場所に――

「パチェ……」
「……どうして」

悲しそうな瞳がレミリアを見詰めている。

「どうして守ってくれなかったの?」

そしてレミリアの頭上に太陽が生まれた。
身体が燃える。
焦げて、灰になって、ぼろぼろと崩れていく。
不思議と熱くはないけれど、それでも己の身体が消失していく様は純粋な恐怖となってレミリアを襲った。
そしてそのレミリアの感情などには一切構うことなく、腕が灰に、脚が灰に、腹が、胸が、ありとあらゆる部位が灰塵と帰し、砂の世界に拡散しどこまでも薄れて、世界の細部を満たす塵へと変わる。
そうしてレミリアは首から上だけになり、その首は砂の上に音もなく落ちた。
広大な砂漠の中にあって、その首はあまりにも小さい。
美鈴とパチュリーは無言のまま踵を返し、レミリアの元から離れていく。
首は徐々に砂に埋もれていく。

――待って!

砂が視界を覆う。もう片方の目は砂の海の中だ。
手を差し伸べようとする。その手はもう灰になって宙に消えてしまっていた。

ばらばらになるのは厭だ。
自分が、ではない。家族が壊れてしまうのがイヤだ。
だから行かないで。置いて行かないで。
ちゃんと役目を果たすから、もう笑わないから――
人形になるから――

そしてレミリアの首と入れ替わるかのように、あの墓石を覆っていた砂が飛んで行く。
そこにはレミリア・スカーレットという誰かの名前が刻まれていた。

直後ひと際に強く、虚無を孕むかのような物悲しい風が砂漠を渡り、最後まで残っていた首は砂へと呑み込まれ、彼女は砂の中へと呑まれていく。
そして消えかかる意識の中で彼女は、まるで自身の首を糧としたかのように砂漠が無数の草花で満たされていく様を見た。あらゆる季節の花々が、無彩色だった世界を急速に極彩色のそれへと生まれ変わらせていく様を見たのだ。

その鮮やかなファンタスマゴリアの情景を最後に、幼い少女は大地へと消えた。













船や必要物資の調達の関係で美鈴は再び館を空けることとなったが、その間の数日はレミリアがなかなか目を覚まさないという点をのぞけば驚くほどいつも通りだったのだそうだ。
もちろん小悪魔やパチュリーは儀式の準備に追われていたし、フランドールはいつものように読書をしつつも、いまだに目を覚まさない姉のことを看ていたのだそうだが、それでも『いつも通り』だった。美鈴が帰って来た時もそうだった。

ただ結局のところそれはフランドールがとったやり方と同じことを全員がやっていたというだけのことなのだろうと思う。そうやって日常めいた流れの中に身を置くことで、これから訪れるであろう苦難に抗うための力を蓄えていたのだ。
そもそも当初の予定では、まだあちら側に乗り込むまでには猶予があるはずだった。
それにいきなり乗り込んで先制攻撃などという馬鹿げたことをやるつもりも当然なかった。現地の情勢を見定めた上で、戦いが必要であると判断される場合は最低限の交戦を行い、そしてもしその必要がないと判明した場合は大人しく、波風を立てずひっそりとかの地へと移り住むつもりだった。
だがそれは崩れた。
翌月の満月まで、などという悠長なことはもはや言ってはいられない。今すぐにでもあちら側へと足を踏み入れなければならない逼迫した状況へと一家は追いやられてしまったのだ。

幻想郷という場に関する情報は圧倒的に少ない。外部からはその外観、即ちそこを覆う結界の存在を辛うじて観測できるに過ぎない。
だからそこが争いに満ち溢れた無秩序な場所であるのか、それとも節制の保たれた平和な場所であるのか、美鈴たちにはまったく分からない。

――でも

後者ということはあり得ないだろうと紅魔館の全員が思っている。
神話レベルの化物がひしめき合うであろう場所――そのような場所が争い事と無縁な楽園であるなどとは到底思えない。そのような楽観視を行うほど紅魔館の面々は愚かではないし、またそういう楽観的な考え方とは無縁な程度には擦れてしまっている。特に美鈴とレミリアは外部との接触を余儀なくされる機会が多かっただけに、端から平和や安寧といったものを諦めてしまっている節があった。

改めて言うまでもなく、これより紅魔館が始めようとしていることは無謀そのものだ。戦略も戦術もあったものではない、単なる特攻である。その無策の戦いに自分たちの命運を乗せる。
そういう状況だから、魯鈍なぐらいがちょうどいい。
思考は無論するべきだが、同時に巡らしたところで意味のない考えはむしろいたずらに気力を削ぐだけだ。それは切り捨てた方がいい。
一手先を読む、二手先を読む――そうしたことでその先に待ち構える危機を回避できるというのなら、それはいくらでも考える。だが現状ではことがどう転ぶかすら分からないのであり、その先に何が待ち構えているのかも不明なのだ。

言うなればこれはルールすら分からない賭け事である。
その結果自分たちがどういった状況に追い込まれるのかも分からない賭けだ。勝って何を得られるのか、負けて何を失うのか、それすら判然としないのだ。
分が悪いどころではない。そもそも分など無いに等しいかもしれない。
ただそれでもこの賭けに乗らなければ、少なくともフランドールとパチュリーは間違いなく命の危機にさらされる。特にパチュリーは確実に命を落とす。それだけは明らかなのだ。だからこの賭けに乗る以外の選択肢は現状の紅魔館には存在しない。
のるか反るか――

――もしも反ったのなら……

その先を考えまいとするために皆こうしている。
たとえば先駆けとでもいうべき三人が敗北を喫したのなら――そうして美鈴とパチュリーだけが生き残ったとしたならどうなるだろうか。
行き着いた果ての世界に、敗残した三人の亡骸が転がっていたら――

――考えるな。

そもそも亡骸が残るのだろうか?
負けたら餌になって――
喰われて――

――やめろ。

そこで美鈴は深呼吸をする。
それがあるからパチュリーは美鈴にいいのかと問うたのだ。この局面で主のもとを離れていいのかと。
だが美鈴にとってはパチュリーも主人の一人なのだ。誰も欠けることなくもう一度家族が集合するための方策はこれしかないのだ。
レミリアもフランドールも力は一級である。そう易々後れは取らないはずだ。それにこの戦には、勝利は要らないのである。負けてもいい。居場所が確保できればそれでいい。
ただ気がかりなのはいまだ目を覚まさないレミリアである。
このままでは彼女は目覚めて間もない状態であちら側へと踏み込む破目になる。決心を固めるための時間的猶予を一切与えられぬまま、友人と別れ、戦場へと叩き込まれることとなるのである。
それはあまりに酷ではないのかと美鈴は思う。ただそうはいっても現状彼女が目を覚ます気配がないというのはいかんともしがたい事実だった。
美鈴はそれとなく眠るレミリアに血を飲ませていたが、意識の無い状態ではあまり効果は上がらないようである。

「お二人とも、お茶をお持ち――失礼しましたあ」

そうしたことを考えつつ、美鈴は作業にいそしむパチュリーと小悪魔のもとへと茶を運んでいたのだが、その部屋の扉を開けたら目の前に小悪魔の裸体があったので急いで戸を閉めたのだった。

「あ、美鈴さん。どうぞどうぞ」

その当の小悪魔が扉を開けて美鈴を中へと招き入れた。
内部には魔方陣が描かれている。現在二人はこれと同じものを紅魔館の各所に描いている最中である。

「何をしてらしたんです?」

近間の机に茶を置くと、美鈴はたずねた。
その前では小悪魔がいそいそと服を着込んでいく。その身体は悪魔というイメージ――妖艶であるとか、肉感的であるとか――からはほど遠く、細い。
そういえばこの子はもとは天使だったという話なのだ。図書館でのフランドールとのやり取りを美鈴は思い出した。

「契約の補強よ」

その隣にいるパチュリーが答えた。

「補強?」
「というかおまじないですね。またお会いしましょうという、再会と主従の愛とを祈るおまじない」
「……契約の補強よ」
「もう、マスターったら照れちゃって。うりうり」
「うるさいわね」
「契約が切れてしまうと悪魔はあるべき場所へと強制送還扱いなんですよ。で、今回の移動過程でうっかり契約に異常が生じたらことですからね。がっちりきっちり締めつけてもらったという次第なのです。これで悪魔の十八番である裏切りが出来なくなってしまった。これは悲劇ですわ」

冗談めかして言ってはいるが、それは即ちこの戦いに自分は最後まで付き合うという小悪魔なりの決意表明のようなものなのだろう。美鈴にとってパチュリーが主であるように、小悪魔にとってもレミリアとフランドールは主なのだ。

「あ、そうだ美鈴さん」

服を着終わった小悪魔はネクタイを正すと、深々と美鈴に向かって礼をした。

「マスターのこと、感謝致します。本当に」
「や、当たり前のことですから頭を上げてくださいよ。それより小悪魔さんこそ館のこと、お嬢様たちのこと、よろしくお願いします」

美鈴も同じようにして首を垂れた。
その横ではパチュリーが何かのカードをシャッフルしはじめる。
それを彼女は机の上に七枚、緩やかな放物線を描くようにして配置する。

「タロット、でしたっけ?」
「まあ、目安程度にね。暇ってわけでもないからカットはなしで大アルカナのみ、簡易にホースシュー・スプレッドでやることにしよう。占うのは今後の紅魔館の運勢。ただし占いというのは未来予測ではないわ。心構えや決心を固めるための手助けをするのが占いというもの。悪い結果が出たのなら、その悪い結果が現実に起こらないように努力をすればいい。そして良い結果が出てもそれを鵜呑みにして慢心してはならない。つまりそこそこ信じてそこそこ無視するといいわ」

美鈴と小悪魔はパチュリーと向き合う形で席につく。パチュリーが占い師、二人がその客といった体である。

「まず一枚目、これは過去の状況を表す」

パチュリーは一番左側のカードをめくった。正位置逆位置というのがあるはずなので、めくる際には横向きにめくるようである。

「『ハングマン』の正位置。忍耐と自己犠牲」

その隣のカードがめくられる。左から順にめくって行くようだ。

「二枚目は現在の状況……『タワー』の正位置」
「いきなりヤなのが出ましたねえ」

小悪魔が呟いた。

「象徴するのは破滅、悲劇……ふん」

そして次に三枚目がめくられる。

「これは未来の状況……『死神』の逆位置。死からの再生、あるいはやり直し」

四枚目。

「今度は本人の取るべき行動よ。本人ってこの場合誰だろう? まあいいや。『戦車』の逆位置ね。意味は暴走、かしら? 判然としないわね」

五枚目。

「周囲の状況は……『魔術師』の正位置。物事の始まり・起源・創造」

六枚目は――

「立ちふさがる障害……『女帝』の正位置。意味は母性、豊穣……って、なんでそれが障害なんだろう?」
「占いになってませんよ、マスター」
「うるさいの。でもって最後、七枚目。これは最終の結果を表すんだけど――」

パチュリーがそのカードをめくろうとした時、ぎいという音とともに部屋の扉が静かに開かれた。
その向こうには途方に暮れた表情をしたフランドールが立っていた。

「……お姉様が目を覚ましたわ」

それは本来喜ぶべき報告内容なはずなのだが、なぜだかフランドールの表情は暗かった。

「何かあったの、フラン?」
「ともかくみんな来て」






「ばらばらになる……ばらばらになる……」

ベッドの上で上半身を起こしたレミリアは、うわ言のように同じ言葉を繰り返していた。
薄いシルバーピンクの肌着。解けて各所で垂れ下がった包帯。
身体は小刻みに揺れ、またときに何かに脅えたかのようにびくっと震える。
焦点の安定しないその瞳は、怯えを孕んでいる。その怯えの正体を美鈴の能力が知らせる。
それは現実に対する強烈な忌避感だ。少女の、少女故に持つ本能が、この先に待ち構える過酷な現実を拒んでいる。現状を理解できたが故に、頑として拒絶しているのだ。

まずパチュリーは置き去りになる。
その彼女はつい数日前に命を落としかけたばかりであり、さらに取り留めたその命脈もあと一か月と待たず尽きてしまうという状況である。
そしてフランドールと小悪魔は無謀そのものというべき特攻劇の役者に抜擢されてしまった。
役者の一人であるフランドールは館に施された術式を破られた時点で、高い確率で自分自身を破壊して果てる。小悪魔は敬愛するマスターと強制的に引き離される形となった。
それら全てはレミリアのせいである――当の本人はそう考え、そしてその過ちから目を背けているのだ。焦点の定まらない感じのする瞳はそのせいである。

言うまでもなくレミリア以外の面子は彼女のことを責めたりなどしていない。
『槍』は極めて強力な兵器なのだ。例えば美鈴がそれを受けていたならどうなっていただろうか? おそらく美鈴もパチュリーも生きてここへは帰って来ていなかっただろう。だからこうして誰も欠けることなくこの場に集結できている時点でレミリアは『よくやった』のだ。
それによしんばレミリアが何か取り返しのつかない過ちを犯していたのだとしても、誰もそれを責めたりはしなかったはずだ。そういう状況においてこそ、家族は優しくあるべきなのだ。
だからレミリアは負い目を感じる必要などはないはずなのだが、それでも当人はそうは思っていないのだろう。致命的な過怠を犯してしまったと思っているのだろう。だから一時的に心をある地点で凝固させ、濁流のように押し寄せようとしている容赦のない現実から逃げている。

レミリアは要するに空気に満たされた風船のようなものだ。
たくさん空気を詰めれば風船は飛ぶ。風船らしく飛ぶ。だが自由に空を飛んでいるように見えるそれは、同時に針で一突きされただけで弾け飛ぶ状態でもあるのだ。
空虚と空疎を、そして責任と犠牲を小さな身体に満載にして、必死に飛んでいた風船。
そこに針が触れた。ちょんと、ひと触れしたのだ。
それで風船は爆ぜてしまった。
レミリアをレミリアたらしめていた何かが崩れ去ってしまったのだ。
平素であればそうした状態は、時の流れとやらが癒してくれる類のことなのかもしれないが――

「お姉様!」

フランドールが姉の身体を揺すっている。
その身体は芯を抜かれたかのようにぐらぐらと揺れる。

――時間がない……

今は九日の夕刻である。つまりタイムリミットまであと一日とないのだ。

「ばらばらになる……ばらばら……」

レミリアは、本来なら親から少しずつ学びながら引き継いでいくべきだった荷物――館主としての立場だとか、部下や家族を守る者としての役割だとか――を一気に背負い込まされた身である。しかもそこで潰されもせず、投げ出しもせず、律儀に全てを背負い込んでしまった。
その背負い込んできた何かを、初めて一緒に支えたのはパチュリーなのだ。美鈴ではない。美鈴はただの愚か者だ。
そしてそれはレミリアにとっては大きなことだったのだろうと思う。
だからこそ、その彼女が目の前でいたぶられるという状況はレミリアにとっては最悪の責苦だったに違いないのであり、故に打ちひしがれたのだ。
守る者としての矜持。主としての決意。そうしたものが霧散して、今のレミリアは――

「おかあさま……おとうさま……」

水色の髪を押し分けるように頭を押さえ、レミリアは怯えて縮こまる。
その仕草が美鈴の光景に『あの時』の情景を蘇らせる。
五百年前のワラキアでの戦の直前――あの時のレミリアと、今のレミリアはそっくりなのだ。そして周囲を取り巻く状況もまた、同じだ。
戦いは目前に迫っている。そしてレミリアが戦わなければフランドールは命の危機にさらされる。
だが当のレミリアは大切な友人を失いかけて心が割れかかっている。

――まさか……また繰り返せというの?

それに気が付いたとき、美鈴の視界は真っ白になった。

――いやだ……

厭だ。
厭だ。
『またしても』それをやれというのか。そんな忌々しい役回りをこなせというのか。
美鈴の中の、一番柔らかい部分が悲鳴を上げた。
銃器と衣服でひた隠しにしてきたその部分が鋭く痛む。心が軋む。
何ということはない、紅美鈴もまた何かに縛られた少女に過ぎない。その彼女はレミリアと同様に、目前の現実から遁走したくなっていた。

美鈴はレミリアの怯えた瞳の、そのさらなる奥底に宿る『あるもの』を知っている。そしてこの場においてその存在について了解しているのは美鈴ただ一人だけである。
紅美鈴は鍵の役回りだ。
レミリア・スカーレットの内に宿る『あるもの』を呼び覚ますための鍵だ。そのための呪文も美鈴は知っている。
実に狡猾なことに、きちんと知っているのだ。
そしてそれを美鈴は唱えようとしている。それが何よりも厭だ。それを実行に移そうとしている自分自身が許せない。
言いたくない。
吐き出したくない。
どんな言葉よりもそれは覿面にレミリアを叱咤し、そして追い詰める。そのことは目に見えている。
それは傷付いて打ちひしがれた少女に、殺菌と消毒のためのワインを乱暴にぶちまけて、それでほら治ったでしょ、治療は済んだでしょと宣告して外へと叩き出してしまうようなものだ。そして叩き出されるその外は、荒ぶ嵐の様相だ。

でも――
それでも――
自分がそれをやらねば、この局面は乗り越えられない。
厭だけれど――
それをやった後の自分がはたしてまともでいられるのか、自信はないけれど――
それでもやらなければ家族は終いなのだ。

フランドールやパチュリーや小悪魔が銘々に何かを言っている。
それはレミリアに寄せる慰めの言葉だったのかもしれない。それとも励行か、あるいは単なる家族の無事を祝っただけだったのか――何にせよ美鈴にはもう彼女たちの声は、遠い異国の音楽のように意味を結実しなくなっていた。それどころかその姿すらもう美鈴には見えてはいない。
見えているのは怯えるレミリアと、大嫌いな自分と、そしてあの日のワラキアの空だった。
古びた絵画のような頽廃的な空間に美鈴は遊離している。
そして美鈴は急速に己の血が冷え渡っていくのを感じた。
家族が、主が、数字に変わっていく。

――レミリア・スカーレットは

レミリア・スカーレットは『戦力』だ。
レミリア・スカーレットは『戦力』だ。
レミリア・スカーレットは『戦力』だ。

「美鈴……」

潤んだレミリアの瞳が見上げている。

「私は……笑ってはいけなかったのよね」
「姉様、違う! 姉様は悪くないわ!」

フランドールの、そのまったくの善良な叫びを余所に、美鈴の腹の内にはどす黒い鉛のような何かが生まれる。そうやって腹の中を真っ黒にしてやらないと、美鈴自身がとてももちそうにはなかった。

「美鈴……」

弱々しいレミリアの目付き。寄る辺のなさそうな、幼子の目付き。
すがるように、何か優しい言葉を期待するかのように、伏せがちに美鈴に向けられている。
だが紅美鈴という女には、彼女に優しい言葉をかけてやる心積もりは一切無かった。それどころか――

――ああ、今だ。

そう思った。だから美鈴は言うのだ。

「おっしゃる通りです、レミリアお嬢様」

その声は、自分でも信じられないほどに――反吐が出るくらいに優しい声だった。
美鈴の、心のたがとでもいうべきものがひずむ。
それが歪な嗤いを美鈴の顔に貼り付ける。

「貴女は笑うべきではありませんでした」
「美鈴! なに言ってるのさ!」

フランドールが美鈴に掴みかかろうとする。
その彼女のまっすぐな目は、美鈴の顔に貼り付いた笑顔を見た途端に、珍しく怯んだ。

――フランドール様……

いま何を見られたのです?
紅美鈴の顔はどうなっているのです?
怖かったのですか? それとも忌わしかったのですか?
もう自分では自分がどういう顔をしているのか、分からないのです。

そして小悪魔がフランドールを制するような仕草をした。
きっと察しの良い彼女のことだ、これから美鈴が何をしようとしているのか気が付いているのだろう。
内心でそれに感謝した。

「お嬢様」

美鈴のその握りしめられた拳から、血が滴り落ちる。

――言うな。

美鈴の中の最も柔らかい部分がそう叫んでいる。
言うな。
またこの子に血を流させるつもりか。
また――背負わせる気か。

――私は

母親になりたかった。ずっとずっとそう思っていた。
両の胸でこの子を包み込んで、不安や悩みとは無縁な安らかな眠りへといざなってあげたかった。
でもそれはかなわない夢だ。
こんな狡猾な女が母親に?
まるで男のように無骨な銃器を振り回す女が母親に?

――馬鹿なことを言う。

妄言を垂れるな。甘ったるい考えは捨てろ。
お前はいま何を考えている?
今、何を考えているんだ?
どうやれば己の主を『操作』できるか、そればかり考えているじゃないか。

――ねえ……

見ろ、この無防備な瞳。幼い子供の瞳だ。
何だって入力できそうだ。そしてきっと思い通りの結果を出力してくれるに違いない。
思うがまま、操り放題の傀儡人形――
利用してやろうじゃないか。差し向けてやろうじゃないか。

「どうか、お立ちになって戦って下さいまし――」

それを言ってしまったらもう、引き返せない。それは分かっている。
けれど――それを言う以外の選択肢は、紅魔館にはもう無いのだ。
どうしてこうなってしまったのか――ああすれば良かった、こうすれば良かった、そういう後悔ばかりが浮かぶ。その全てがもう、手遅れだった。

そのとき美鈴は白昼夢のように、不可思議な幻影を見た。
銃を持った美鈴が、裸の美鈴を撃ち抜く――それはそんな狂った絵だった。
そうして気が付いたら――



「王女様」



呪文が漏れていた。
そしてレミリアの顔からは表情の一切が消失して――

「少し……一人にしてちょうだい」

か細い声でレミリアは呟き、美鈴は何かが崩れる音を聞いたような気がした。






レミリア以外の四人は無言で廊下へ退出すると、重苦しい空気をまとったままどこへ向かうともなく歩いた。
特に美鈴は早足で先頭を行く。逃げるように、顔を背けるように歩いていた。

「美鈴……」

背後から心配そうにフランドールがたずねてくる。

「見たでしょう、フランドール様」
「え?」
「私は……こういう奴ですよ」

そう言った途端、美鈴の身体から一気に力が抜けた。
腹の鉛が消える。冷酷な仮面は外れ落ちて、お人好しな少女の顔が戻ってくる。
そのまま美鈴は崩れ落ちた。
膝をぺたりと床に付いて、泣きじゃくる。その仕草はまったく小娘のような有様であり、だから美鈴は自分が情けなくて情けなくてどうしようもなくなってしまう。
涙は感情の発露だ。それを主から奪って兵器のように仕立て上げようとしたのは自分だというのに、なぜその自分が自由に泣いているのだろうか。
自分には感情の選択肢がある。レミリアにはそれは無い。レミリアのそれは、今さっき自分が剥奪してしまったのだ。

「どうして……どうして『これ』なのよ……」

――こんなこと……したくなかったのに……

自己嫌悪で美鈴は壊れそうになる。
その嫌悪感すらも、もはや美鈴にとっては卑しい自己弁護であるとしか感じられなかった。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

――美鈴はまたしても貴女に背きました。貴女を利用しました。

「うぅ……うぇえ……」

嗚咽が漏れる。
結局あの時と同じだ。あの時と同じことを自分はやってしまったのだ。
愚か者。
裏切り者。
救いようのない女だ。
その震える肩に、誰かが手を置いた。

「……パチュリー様?」
「すまなかったわね」
「え?」
「一番嫌な役回りを貴女に押し付けてしまった」

それは違う。
美鈴は最低なことをしたのだ。自分が嫌な女だったというだけのことなのだ。
だから自分には構わないでほしい。優しい言葉はレミリアにあげてほしい。自分に必要なのは、ナイフのような断罪の言葉で――

「あまり自分を責めないで」

不器用そうに、しかしはっきりとパチュリーはそう言った。

「そもそも事態をここまで悪くしてしまったのは、私のせい。だから貴女だけ悪者にはさせないわ」

私が貴女の共犯者になる――静かな声でパチュリーはそう言った。
どういうことだろうか?
そしてフランドールがパチュリーとは反対の方の肩に触れた。

「ていうかね、美鈴はそれ言うと怒るけどさ、根本の原因は私なんでしょ? 私がこんな有様じゃなければこうややこしいことにはならなかったはずさ」
「フランドール様、それは――」
「だから私も共犯だ。美鈴だけが背負うことはないよ」
「ちなみに私は美鈴さんがやらなければ自分がやらなきゃいけないかなあ、と思っていたので未遂犯です」

小悪魔が控えめに笑った。

「この場の全員がお姉様に『悪いこと』をしたんだ。だから――」

フランドールの瞳の奥に何かが宿る。それは強いて言うなら生きようとする意志のようなものなのだろうか? それが静かに、しかし煌々と輝いている。

「だから、私は何がなんでも生き残ることにしたわ。生き意地汚く這いつくばってでも生き延びなきゃいけない。それはみんなも一緒。必ずみんなで無事にそろって、お姉さまに謝りましょう」













薄い肌着と垂れ下がった包帯というアンバランスな格好で、レミリアは私室のバルコニーから夜空を眺めていた。
明日には満月になろうかという丸い月が、バルコニーのガラス扉を抜け、部屋を青白く照らし出している。
明かりは灯していない。今は柔らかい月の光だけで充分である。煌々としたランプの明かりは見たくなかった。
部屋は主のものだけあってかなり広く、そしてその内装は赤が多い。特に窓のわきに括られたカーテンがひと際に赤い。

しばらくは何を考えるでもなく月を見ていた。
どうにも現実感が湧いてこなかったのだ。
明日にはパチュリーや美鈴と別れて、レミリアは戦いに身を投じなければならない。
戦うことにはもう慣れていた。体が傷つくことにももう慣れた。戦いそのものは恐くはない。
恐ろしいのはそれに負けたとき、何かを失ってしまうことだ。それを思うと不安で不安で仕方がなくなってしまう。
数日前にレミリアはまさにその敗北の結果を突き付けられていた。
レミリアが槍で貫かれ、うずくまっている間にパチュリーは組み敷かれて――命を失いかけた。
四肢を押さえつけられもがくパチュリーの映像がレミリアの中に蘇る。鮮明に、伴う必要などない余計なリアリティを伴って、網膜にそれが映し出される。

――嫌だ

失いたくない。
誰一人、絶対に失いたくない。
でも離れ離れになる。レミリアの手の届かない場所に友人と従者は置き去りになってしまう。
一定の交戦はあらかじめ予期されていたことではあったし、その覚悟はしていた。だが数日前のあの忌まわしい出来事がその覚悟を霧散させてしまった。
自信がなくなったのだ。
すると途端にあらゆる不吉な可能性が予測されだして、レミリアは一度破綻しかけた。

そのせいで美鈴には辛い役回りを与えてしまったと思う。生真面目な彼女のことだ、たぶん相当自分を責めていることだろう。
そんな必要はないのに。
責められるべきは自分だというのに。
美鈴は単に腑抜けた主の尻をはたいたというだけのことだ。でも彼女はいつものように辛い顔をしているのだろう。忍びないと思う。出来ることなら彼女にももっと普通の女の子らしいことをさせてあげたかった。

――私は……

守れるのだろうか? フランドールや小悪魔を守り切れるのだろうか?
失敗は許されない。もう二度と過つわけにはいかない。失わないためには、戦うしかない。
それがレミリア・スカーレットの役目だ。
レミリア・スカーレットとはもともとそういうものだったのだ。
しかし自分はそれを忘れ、愚鈍極まりないことに友人との旅路をうかうかと楽しんでいた。
笑ってはいけなかったのに。
楽しんではいけなかったのに。
そういう感情は、自分を弱くするだけだったというのに。

もの思いを強制的に終わらせ、レミリアは鏡台の前に腰をかけた。
これから起きることはだいたい見当が付いている。そのための準備をしなければならない。それがどことなく予定調和じみていて、何だか少し滑稽ではあったけれど、こんなだらしのない格好でいるのはさすがにはばかられるというものだ。
引出しを開けると、そこには申し訳程度の化粧道具が入っている。自分は結局のところまだ少女とかいうものであるらしく、化粧など施してもかえっておかしな按配になってしまう。だから本当にわずかばかりしか道具は持っていない。
まずはお気に入りの櫛を取り出して、長い間横になっていて乱れてしまった髪を梳く。不思議なもので、それだけでも随分とましな感じになった。

そして肌着を脱ぐ。鏡に小さい体が映る。
巻かれた包帯はどうやら治癒術の類が施されているらしいから、まだ外していいのかどうかは分からない。不格好なような気もするが、明日のこともある。念のためそのままにしておいた方が良いだろう。
そして包帯を巻かれた箇所以外の部位を再構築して身体を清めると、今度はクローゼットを開いた。
衣装の数はそれほどでもない。基本的に着るものは美鈴が管理しているから、ここにあるのは特別なものだけである。
そこから黒いシルクのドレスを一枚取り出す。
すっきりとして広がりの少ないAラインタイプで、飾り気はあまりない。装飾といえば腰元にあしらわれた大きめのリボンのみであり、そのリボンも他の部位と同じ色をしてそれほど目立たないから、全体的にフォーマルな雰囲気が勝っている。下の丈は足元まで伸びているけれど、他方で腕は肩から先を全て露出する形になる。

そして少々難儀しつつもそれを着込んで、鏡台の前に立ってみた。
シルク製で着心地は良いけれど、露出した腕や鎖骨が少し落ち着かない。
だいたい胸元の包帯が見え隠れしておかしいし、左の二の腕に巻かれた包帯も少し垂れ下がっていてだらしがないと感じる。
やっぱり止めようかと思った。

――でも

そういうわけにもいかないのだ。
そして何となく『余った』感じのする首には、細い黒紐を巻く。小さなルビーがあしらわれたチョーカーだ。
仕上げに引出しからグロスを一本取り出す。色の無い、艶と光沢を出すだけの透明な代物――それを薄く唇に引いた。
ルージュを使おうかとも思ったけれどやめた。今の自分はあまり顔色が良くないのだ。そんなものを使ったら唇ばかりが妙に赤くなってしまって変だ。
そこまで身なりを整えたレミリアは、はたしてグローブをした方がいいのかどうかで少し悩む。だがレミリアがそうこう逡巡している内に――

「レミィ、入るよ?」

ノックの音とともにパチュリーが入ってくる。
その彼女は予想通りレミリアと同じデザインのドレスをまとっていた。その二つは揃いの品なのだ。ただし色は対をなすかのようなスノーホワイトで、だから月明かりの下では青白く見える。
その楚々としたたたずまいが、まるで怪物の生贄に捧げられた少女か何かのようで少し嫌だった。
化粧っ気のない顔――もともと病的と言っていいほどに肌が白いから、それでいいのだろう。レミリアが悩んだグローブは着けていない。そしてチョーカーも巻いてはいない。
代わりに左の足首にわずかばかりサファイアが散りばめられた細い銀のアンクレットを巻いている。

「やっぱり来ちゃったか」
「なによ、まるで来てほしくなかったみたいな言い方ね」
「まあね、本音を言うなら来てほしくはなかったの」
「でしょうね」
「……うん」

見通されている――そう思った。
もっぱら紅茶を飲むときしか使わない机に二人で腰を下ろす。
ほのかに洗い髪の匂いがした。
パチュリーにしてもレミリアにしても、こんなドレスに身を包むには少し幼い。何だか危なげな感じばかりが全面に出てしまう。

――でも

パチュリーの目にレミリアがどう映っているのかは知らないが、少なくともレミリアはパチュリーのことを綺麗だと思ったのだ。真からそう思った。
だから妙に照れくさくて、似合っているの一言は言えなかった。

「明日になればパチェともお別れよね」
「ちょっとしばらく会えなくなるだけよ。私も美鈴もすぐにそっち側に行く。あと、美鈴については悪いけど借りるわよ?」
「どうぞ。まあパチェが断っても私が強制的に付いて行かせたわよ。悪いと思うのなら無事追いかけて来てちょうだい」

弱った友人をたった一人で置き去りにするようなことは出来ない。

「……美鈴の奴、どうだった?」
「泣いていたわ。あと謝ってた」

一瞬パチュリーは逡巡したようだった。それをレミリアに告げるべきか否か迷ったのだろう。

「今晩はフランと眠るみたい。あと、小悪魔の奴も」
「そう……」
「フランは――なんだかんだでしっかりしてるわ。この数日間、あの子はなんの文句も言わなかったもの」

あの子だって不安だろうに――とパチュリーは呟いた。
そしてレミリアは、ひょっとすると自分たちもそこに赴いた方がいいのだろうかと考える。
ただ、今は美鈴とはどういう顔をして接すればいいのか分からないし、おそらく彼女の方もまたあまりレミリアとは顔を合わせたくないだろうと思う。

「ねえ、パチェ」
「ん?」
「貴女、あとひと月ももたないんでしょう?」
「……ええ」

もう承知していることだったのだが、それでも心が軋んだ。出来るだけ何も考えないようにレミリアは努める。深く考えてしまえば、沈んだ気持ちに押し潰されてしまう。
そうした思いを振り払い、レミリアはパチュリーに手を差し伸べた。

「せっかくめかし込んだんだ。踊りましょう」
「先に言っておくけど、私はダンスとかはあんまり……」
「リードするわ。ま、音楽もないからそんなに激しくはやらないよ。せいぜい足を踏まないようになさいね」
「余計なお世話――きゃっ!?」

レミリアは、立ち上がろうとしていたパチュリーをそのまま抱きよせた。それで互いの距離が一気に縮まる。
これで相手が美鈴だったりすると身長差があり過ぎて収まりが悪いのだが、幸いパチュリーはかなり背が低い――というよりあまり背丈はレミリアと変わらないから、寸足らずになってしまうようなことはない。

「ちょっと、激しくしないって言った」
「こんなの別に激しくもなんともないわよ。貴女が運動不足なの」

からかいの言葉を発しつつも、レミリアはパチュリーの腰に優しく手を回すと、ゆっくりと足を運び始めた。













「明日から別行動だねえ」

フランドールはしみじみとした口調で美鈴にそう言った。可愛らしい水玉模様の寝間着に着替え、ベッドの上に肘をついてうつ伏せになっている。
ここは地下にあるフランドールの私室である。一緒に来るようにとフランドールに命じられたのである。
おそらくフランドールがこの提案をしたのは、口にこそ出さないが美鈴のことを案じているからなのだろう。
あの後かなり美鈴は沈み込んでしまっていて、しばらくは使い物にならなかったのだが、フランドールと小悪魔が近くに付いていてくれたおかげで持ち直していた。
そもそも美鈴にはパチュリーを無事送り届けるという使命があるのだ。それを前にしてこのように消沈している暇などはなったはずなのである。
つくづく己は至らぬ存在であると美鈴は思う。

部屋にはぬいぐるみだの小物だのといった女の子らしいアイテムが散見するが、壊れているものも少しばかり見受けられる。ただそうしたものも捨てられることなく律儀に保管してあって、中には美鈴がせがまれて補填を施したものも混じっていた。
そして本棚の方には、打って変わってそうしたものからは連想し難い雰囲気の書物が並んでいる。

『神統記』『人間モーゼと一神教』『ボヴァリー夫人』『ルルイエ異本』『赤い館の秘密』
『Red Dragon』『純粋理性批判』『ドン・キホーテ』『アル・アジフ』『クマのプーさん』――

統一感の欠片もないラインナップである。
そしておそらくそれらを読破しているであろうフランドールは、可愛らしいパジャマ姿でベッドの上でごろごろしている。その女の子らしい仕草や身なりと、本棚に並んだ一部珍妙な書物類とのギャップが少し可笑しかった。

「美鈴」
「なんです?」
「大丈夫?」
「ええ、醜態をお見せしました。申し訳ありません」
「別に醜態なんかじゃなかったけど……まあ元気になったんならそれでいいよ」

素っ気ない感じでフランドールは言うと、枕元に置かれていた本を手に取った。

「何の本です?」
「何年か前に南カリフォルニア大学とかいうとこで、超弦理論に関する国際会議が開かれてね、その時の内容をまとめたものよこれ。小悪魔がどこからともなく調達してきたんだけど、見どころはやはりエドワード・ウィッテン博士のM理論だね。もともと『ひも』の研究は量子重力理論の構築、即ち一般相対性理論と量子論との統合を目的としている。けど研究の過程で理論が五つも構築されてね、でもってその統一には時空が10次元も必要だということになってしまうの。空間が9、時間が1ってことね」
「10次元って――」

美鈴にはイメージすら湧いて来ない。

「で、M理論はそこにもう一個次元を足して五つの超弦理論を統合してやれというシロモノ。まあまだ仮説段階だし、詳しい理論は再会したらね。というか私自身さっぱり分かんないから、下手にしゃべるとボロが出ちゃう」

そう言うとフランドールはぺろりと舌を出した。

「それに私は物理学者じゃないからそういう細かい理屈はどうでもいい。それより面白いのは、その理屈を突き詰めていくと私たちの宇宙――空間の三次元プラス時間の一次元の、計四次元――は一枚の膜なんじゃないのか、って仮説が導出されちゃうんだってさ」
「膜?」
「スクリーンみたいなもの。私たちはそのスクリーンに映る登場人物さ。映像ってさ、一見すると奥行きがあるようにも感じられるけど、その実は平面でしょう? そういう感じ。そしてそのスクリーンは高次元時空を漂うたった一枚に過ぎない。ふふ、この理論だとビッグバンはこの膜どうしが振動してぶつかった結果生じたということになるそうよ。こっちはエキピロティック宇宙論だったかしら?」

――膜どうしの接触?

「それって――宇宙どうしが接触したってことですか?」
「そうだよ。この宇宙に平行している別の宇宙――可能性世界とでも言うべき領域が、膜を隔てて1mmのお隣にあるってことだね。ホーキング博士が『物理学はついに神の心を知るところまで来た』と言いたくなるのも分からなくはない。ロマン溢れるお話なの。まあ観測の方法自体がさっぱり分かんないんだけどね……諏訪の神様たちにそういうことも聞いておけば良かったなあ」

うっかりしてたわ――とフランドールはぼやいた。
そして急に彼女は黙ってしまった。その瞳はどことなくもの欲しげな感じである。
フランドールはベッドから下りるとぺたんとカーペットに膝をついた。

「余計なおしゃべりは終わり。美鈴――小悪魔が最終チェックを終えて帰ってくるまでに済ませておきましょう」
「血ですか?」
「ええ。しばらく飲めなくなるから、ね。輸血用の血液は待って行くけど、やっぱり鮮度と質に優れた血を飲まないと十分に力が発揮できないわ」
「かしこまりました」

美鈴は黒のロングドレスに身を包んでいる。メイド服のエプロン部分を外した代物だ。
その右袖を肘の辺りまでめくると、美鈴は持参したナイフをそこに走らせた。小さく、しかしたくさん流れるように肌を裂く。

「痛くない?」
「これしきの傷はどうということもないですよ。それより主を下に、というのが落ち着かないのです」
「仕方ないじゃん。私吸い方とか分かんないし、下手すると怪我するし」

美鈴は床に座ったフランドールの口元に手をやる。フランドールはその中指の先の部分に唇を付ける。
潤いのある唇の感触を美鈴は掌に感じた。
そして美鈴のその白い腕を赤い液体が伝い、それがフランドールの口に流れ込んでいく。
小さな唇が、真っ赤なルージュを引くように血の色へと染まる。

陽光の届かない地下室。
喪服のような質素なドレスをまとい血を流す少女と、それを啜る幼い吸血鬼――
しばらくしてフランドールは満足したのか、すっと唇を美鈴の手から離して立ちあがると、口周りの血を拭った。

「あ、寝巻きで口吹いたらダメじゃないですか」
「細かいこと言わないの。んー、美鈴のは大地のリンゴ――マトカリア」

流れた血を拭う美鈴にフランドールはそう呟いた。

「カモミールですか?」
「そう。貴女の血の味はカモミールのお茶の味よ」
「なんかパチュリー様や早苗さんとやらとはずいぶん違うんですね」
「リラックスできるってことさ。美鈴、そこに座って」

フランドールはベッドを指さした。
何だろうかと思いつつ、言われた通りに美鈴はそこに腰を下ろす。ふわりとした羽根布団が美鈴の体重を受け止める。
その美鈴に――フランドールは抱きついた。

「……お嬢様?」
「ふふっ」

暖かな体温が美鈴の身体に移ってくる。その髪からはリンスの匂いと、幼さの匂い――それがどういう匂いなのか美鈴はいまいち説明できないのだが、そうとしか言いようのないもの――が漂ってくる。

「明日からしばらく会えなくなるでしょ? だからまあ、ちょっと甘えさせてよ」

そう言うとフランドールは美鈴の胸に顔をうずめた。
こそばゆさと温かさを美鈴は感じる。
そして美鈴は少し遅れて大いに戸惑った。
この子を抱きしめるべきなのか――その判断に迷っているのだ。
もちろんフランドールがそうしたことを求めているのは分かっている。ただ、今の美鈴にそれをするだけの資格がはたしてあるのか、それが分からないのだ。
彼女の姉に対して非道な行いをした自分に、彼女を抱きしめる権利などはないのではないのか。抱きしめたら美鈴が己に対して感じている穢れのようなものが、フランドールに伝播してしまうのではないか――そういう思いを美鈴は捨て切れないでいる。
レミリアが帰ってきてからのフランドールは実に健気だった。
姉やその友人、さらにはその従者までもが半ば正体を失いかけている中で、彼女はいわばクッションのような役割を担っていいたのだ。だから不安や焦燥といったことをあまり口には出さなかった。

――でも

やはりその彼女の内にもそうした情念はあるのだ。それは全く当たり前のことであり、だからこそ今こうしているのである。

「なにもしないでいい」

美鈴の内心の惑いを気取ったのか、フランドールは言い聞かせるようにそう言った。

「美鈴が結構フクザツなのは知ってるからさ、そこにいてくれるだけでいいよ。でもね――」

フランドールの小さな手に少し力がこもる。

「お嬢様……私は」
「離れたくないよ……ママ」

小さな声で、しかしはっきりとフランドールがそう言って――気が付いたら美鈴は彼女を抱きしめていた。
暖かな体温と、確かな鼓動が伝わってくる。
それがとても愛おしかったから――だから、明日のことを思うと胸が張り裂けそうになった。

「美鈴……」
「お嬢様はおっしゃいましたね、必ず生き残れと」
「え? ……うん、言ったよ」

フランドールの小さな頭を包むようにして、美鈴は彼女の頭をなでる。
思えばあまりそういうふうにして接する機会はなかった。美鈴の内にあった負い目のせいである。不思議と、今はそれは消えていた。

「私は必ず生き残ります。パチュリー様も必ず無事に送り届けます。だから――」
「わかってる。ともかく安全が確保できれば――いや、もうそういう話はいいや」

自分の言葉を制して、フランドールはそれまで遠慮がちに預けられていた体重をすべて美鈴に委ねた。
とても軽い身体だった。美鈴はそれをしっかりと受け止めた。

「美鈴、私はずっと勘違いしていたことがあったわ。友だち――早苗がね、頭をなでてくれたのさ。それでその勘違いに気が付くことができた」

美鈴の腕の中で幼い吸血鬼は語る。

「こういう安らぎだとか安心感だとか、そういうあったかいものって戦いには要らないものなんだって思ってた。冷たいもので身を固めてしまえばいいんだって思ってた」

それはおそらく美鈴も同じようなことを思っていた。

「でも――そうじゃなかったみたい。私はまた美鈴に抱っこしてほしい。また頭をなでてほしい。それって結構エネルギーになるんだわ。だから――」

フランドールがすっとその身体を美鈴から離した。

「明日でいい。お姉様にもこうしてあげて。戦わせるためじゃなく、みんなで生き残るために、だよ」
「分かりました」

いつもの美鈴だったらためらいを覚えたであろうその要請に、しかし美鈴は躊躇なく答えた。
答えることができた。
それはひょっとしたら遅すぎたことだったのかもしれないけれど、それでも美鈴の中には今までと違う種類の決意が芽生えていた。













窓から差し込む清廉な月明かりが、踊る二人の少女を照らし出す。
一人は白のドレスに身を包んだ魔法使い。
一人は黒のドレスをまとった吸血鬼。
月を照明にして、風の凪いだ静かな夜を背景にして――
そして互いの鼓動を音楽にして、黒と白のシンメトリーを少女たちは描く。
吸血鬼は穏やかなステップで足を運び、パートナーの魔法使いをリードする。すると魔法使いの紫の髪がふわりとし、それが月の光を受けて艶やかに輝く。
観客のいない、二人だけの秘密めいた舞踏会――

この子はこんなに綺麗だったかしら――そんなことをレミリアは思う。
このダンスが始ってから、レミリアは幾度となくパチュリーに対してその感想を抱いていた。
燐光を発するかのように夜に浮かびあがる、青白い肌。同じ女の子として見ても、なお華奢だと感じる肩に、手折れてしまえそうな細い腕や首。
澄んだ理知的な瞳には、月が映っている。
そしてその友人が綺麗であればあるほど、レミリアにとってこの時間は特別なものになっていく。それが嫌だ。
明日には別離を強いられるこの状況では、むしろ当たり前な何かこそがほしい。特別なことは、それがそのまま良くないことの前触れになってしまいそうで不安になる。
だからドレスなんかを着込んでしまったのは間違っていたと、レミリアは後悔していた。今が特別な時間になってしまう。当たり前でなくなってしまう。

――でも

この後レミリアがパチュリーにすべきことは、もう分かり切っている。そしてそれを思うと、やはりレミリアはいい加減な装いは出来なかった。

「ねえ、レミィ」

そしてあらゆる呪文を紡ぐその口が、言葉を発する。

「明日で――離ればなれね」

その一言がきっかけだった。
ダンスが終わる。
束の間の戯れが、断ち切られる。
気が付いたらレミリアはリードの役割を投げ出して、パチュリーに抱き付いていた。
レミリアはまたしても自分自身を情けないと思ってしまう。
まだ決心はつかないのだろうか。
駄々をこねても状況は変わりはしないのだし、おまけにその状況を招いた原因は己にこそあるというのに――まだ駄目なのだろうか。

「パチェ……やだよ。離れるなんてイヤだ」

こんなことをしても無駄だということも分かっているのに、それでも涙が止まらない。

――もう泣かないって誓ったのに

人形になるんだと決意したのに――どうしても涙は流れ止もうとしない。
そのレミリアの背に、パチュリーはそっと手を回した。それで華奢な身体どうしはいっそうに密着して、相手の体温は自分の体温になる。
血を与え、貰う関係。
友と表するには少しばかり互いの温もりを知り過ぎた仲。
でも明日になれば、二人の距離はどこまでも遠ざかってしまう。レミリアとパチュリーは、世界を違えるのだ。

「レミィ……血、含んで」

――いやだ

今ここでそれをしてしまったら、もう二度と会えなくなってしまうのではないかという不安がレミリアの内にはある。
明日別れるというこの時に、こんなふうに揃いのドレスに身を包んで、普段は使わないグロスなんかを引いて――

――やっぱりこんなの着るんじゃなかった。

今という時間は、とても特別だ。そういうものに仕立て上げてしまった。
二人、手を取り合って踊って――
大好きな友だちはとても綺麗で――
だから、怖い。ためらいがある。
日常が恋しい。特別であることが怖い。その先に否応無しに待ち構えている転変が怖い。怖くて怖くて仕方がないのだ。

「レミィ、貴女に血をあげるってことは、貴女に戦えと要請するのと同じ」

だから私も美鈴の共犯者よ――そうパチュリーは言った。

「ごめん、レミィ。私のことは許してくれなくていい。憎んでくれて構わない。でもフランのためにも――」
「一つ確かめさせて」

パチュリーの言葉をレミリアは遮る。

「これからすることは、ちっとも特別な営みじゃない。全然、特別な意味なんてない」
「……ええ」
「のどが渇いたから潤す――それだけのこと」
「うん」
「パチェを貧血にしていじめてやろうっていう、ただの悪戯。嫌がらせなの」
「わかってる」

そしてレミリアは涙をぬぐうと、パチュリーの目をじっと見つめた。
澄んだ目線がそれを見つめ返す。
パチュリーを襲った連中は、彼女を穢れた忌むべき存在として認識していたが――

――全然違う。

目の前の友人はむしろどこまでも楚々として潔白な雰囲気をまとっている。
レミリアはその友人の小さな肩に手を添えると、そのままゆっくりと顔を近づけて――唇を重ねた。
これはつまるところが痛み止めだ。吸血鬼の口付けにはそういう効果がある。
牙を立てられる痛みを感じさせないための――陶酔感をもたらすための、麻酔のようなキス。だからそれはいつもの挨拶半分に戯れてするそれとは、少しだけ意味が違ったものになる。
そしてレミリアはパチュリーのドレスにそっと手をかけた。












眠りにつくことが出来ないから、レミリアはベッドの中から天蓋の裏を眺めていた。
月明かりは先ほどとは少し角度を違えつつも、相変わらず室内を淡く照らしている。
あと数時間もすれば夜は明ける。家族の離散は目前に迫っている。
朝が来たらフランドールや美鈴や小悪魔ともきちんと話をしておこうと思う。
何を話すということでもないけれど、言葉をかわすということが重要であるような気がするのだ。
特に美鈴とは、きちんと話をしておきたかった。

血と、そこから伝わる不思議な力はレミリアの全身へと拡散してその身体を火照らせていたが、それもすでに収まって、今のレミリアは少し所在がなくなっている。
寝て覚めてしまえば、今度こそパチュリーや美鈴とは離れ離れになる。
それならば起きていた方がいい。覚醒していた方が、時間の厚みを感じられる。
それに睡眠はあまり意味をなさないものだし、そもそも今は吸血鬼が眠る時間でもないから、やはり目は冴える。
時差があるから早く寝ておけ――そうパチュリーには言われていた。それが何だか可笑しい。実態の知れぬ未踏の地に踏み込むというのに、時差云々などということを気にしている状況にギャップがある。
そして、それはそれでいいのだ。そういうちまちまとした、雑駁な感じのする事柄を考えている方が気分が楽である。料理や掃除をしているときはあまり細かいことを悩まないで済むというのと同じことだ。

目線をベッドの外へと移す、
着る者のいなくなった二着のドレスがベッドの脇に無造作に脱ぎ捨てられている。
それが何となく目に付いて気になったから、レミリアは羽根布団とシーツをはぐるとベッドの外に出ようとした。
裸の身体に夜気が当たる。
そのレミリアの手を、別の細い手が掴んだ。

「寒い……」

パチュリーの小さな声が、シーツの中から聞こえて来た。

「寒いなら何か着込めばいいじゃない。喘息って冷やしちゃいけないんでしょう?」

パチュリーが口元から上だけをシーツからのぞかせる。

「……だって着るものないし」

ひょっとするとパチュリーが寒気を感じているのは、血の量が減っているからなのかもしれないとレミリアは思う。
レミリアはあまり大量に血を飲む方ではないが、それでもパチュリーの小さな身体なら何かしらの影響が出てもおかしくはない。

「なんか持って来ようか?」
「レミィがシーツを戻せばいいの」

相変わらず折れそうな感じのするパチュリーの手がレミリアの手を引く。その拍子にその肩がシーツからはみ出る。

「パチェ、それ――」
「ん?」
「そのままでいいの? 舐めれば治るよ?」

その肩にはくっきりと傷痕が残っている。レミリアに噛ませた痕だ。

「このままがいい。再会したら、そのときに消してちょうだい」

一種のまじないということだろうか。レミリアからしてみるとなんだか罪悪感のようなものがあるから落ち着かない。友だちを傷つけて自分の傷を癒したのだ。

「ねえ、パチェ……変だと思わない?」
「なにが?」
「こういうことするのが」
「? 吸血鬼が血を吸うのは当たり前でしょ? で、私はのどを渇かせた友だちに飲み物をあげただけ。別におかしくはないと思うけど」
「いや、そういうんじゃなくてさ……なんか大人みたいじゃない。仰々しくドレスなんか着ちゃって、おまけにこんなふうに一つのベッドに収まってさ」
「最近はいつも一緒に寝ていけど?」
「う、そうじゃなくて……パチェはさ、自分が大人だと思う?」

パチュリーは身体を返すとうつ伏せになった。シーツから華奢な肩甲骨が少しはみ出すが、それが寒かったのかすぐさまいそいそと首まで引っ込んでしまった。

「あんまりそうは思わないわ。そもそも大人子供という分類方法は人間のためのものよ。私たちにそのまま適用できるものではないだろうし、その分類基準にしても時代と場所によってばらばら。だいたい私だってレミィから見ればずいぶん年下でしょうに」
「あ、そうか」

ついついレミリアはそのことを忘れてしまうことが多い。実際のところパチュリーは現状の紅魔館においては最年少なのである。
それでも普段は全くそうしたことを感じさせないから、つまるところは生きた時間の長短などというのはその程度のものなのかもしれない。

「ふふ、レミィお姉ちゃんとか呼ぼうか?」
「あ、それいいかも。今度からそう呼びなさい」
「却下」
「なんなのよ……」
「で、レミィ。寒いから出るのか出ないのかはっきりしてよ」
「ん、出ない」

そういうとレミリアはシーツを元に戻して潜り込んだ。再び天蓋の骨組が目に映る。
ただそうして舞い戻ってみたところで到底眠れそうにはなかった。
あまり明日のことは考えないようにとは思うのだが、それでも完全に思考を捨て去ることはできなくて、結局レミリアはまたしても不安に襲われそうになる。

「パチェ?」

隣でパチュリーがもぞもぞと動いた。
そしてレミリアの胸の上に手の平が乗せられる感触があった。

「くっ付く」
「は?」
「眠れないときは――不安なときはそうするのがいい。私がひどい発作を起こしたときはレミィがそうしてくれたでしょ? あとはまあ、寒いしね」

そう言うとパチュリーはその身体をレミリアの方へと寄せた。
シーツに覆われて見えないけれど、互いの肌が触れるのは分かった。
そして、そういうことをされるとレミリアはまた泣き出しそうになってしまう。

「パチェ、ごめんね」
「なにが?」
「貴女を――守り切れなかったわ」
「あれは……不可抗力というものよ。あんなものを持ち出してくるなんて予想できなかったもの。あれはね、本来は聖具として祀られるべきものなのよ。それをあんなふうに持ち出すってことは、彼らもうまく意思が統一されていないんだと思う。まともな信仰者がこんなことをするはずがないもの。だから――これは不測の出来事。レミィが謝る必要はない」

相変わらずのぽそぽそとした感じの口調である。それはおそらくある種の不器用さの表れなのだろうと思う。

「それでもさ、ごめんね」

そして思い出す。不安を抱えているのはレミリアだけではない。あの忌々しい夜に、パチュリーは泣いていたのだ。
それでも明日のレミリアの運命を慮り、彼女はこうして毅然としているのだろう。
余計な負担をかけないために――そのことが身に沁みて分かったから、レミリアもパチュリーの方へとそっと身体を寄せた。
身体の小さい自分に包容力はないだろうけれど、それでも温かさくらいなら分け与えることはできる。

「おやすみ……パチュリー」
「おやすみ、レミリア」

そうしていつかの夜のように、互いの不安を癒すために抱き合って、二人はゆっくりと目を閉じた。













翌日も、やはり概ねいつも通りだった。
違うところと言えば珍しく五人全員で食事をとったことだろうか。朝食も昼食も、全員でそろって食べた。
その後、小悪魔とパチュリーは術式の最終チェックに向かい、美鈴はといえば旅の支度に勤しんでいた。
例の鞄の内部の空間は、今しばらくは無事にもつようで、武器から日用品まで入れられる範囲で詰め込んでおいた。そうするとその分重みも増すのだが、幸い美鈴は腕力はそれなりにある。
そしてそうしたことも粗方済んで、今は比較的広めの一室に紅魔館の面々が三度集合していた。
出立の時は着々と近付いている。現在の時刻は正午を少し過ぎたところであり、日本標準時ならばだいたい夜の八時を回った辺りである。

「転送が始まったらレミィはその円の中から出ないように。絶対よ?」

定番の魔法使いの装束に身を包んだパチュリーは、床に描かれた魔方陣を指さしレミリアに指示を出している。小悪魔はその横で何かの作業にいそしんでいる。
美鈴はしばらくは着る機会がないであろうメイド服に身を包んでいる。フランドールは部屋のすみに座って何か古ぼけた――そして例によって怪しげな――本を読んでいる最中だった。
そしてパチュリーから指示を出されたレミリアは、机に腰掛け何か考え事をしているようである。
その彼女は淡いピンク色のドレスに身を包んでいる。
ワラキアの戦場で血に染まり、純白を失ったドレス――そのときのドレスを模して仕立てた品である。。

――お嬢様……

レミリアは相変わらず憂いを孕んだ目をしていた。
子どもらしくない目だ――美鈴は切にそう思う。その目は子どものそれにしては、どうにも深い。
吸血鬼にとって精神の年齢と肉体の年齢とは、人間以上に密接に結びついている。だから彼女は本来であればその外見相応に子どもらしくあるはずなのだが――目の前のレミリアの目付きはそうしたものには程遠い。そうあるべきだと思しき齢からは遠く隔たっている。
発達と成長の過程において人は多くの隠すべき要素を蓄積していく。
秘密。弱味。知られたくないことは、山ほど生まれてくる。
それらが瞳の奥に――瞳と心との間に澱のように堆積して、人の目は濁っていく。他人にも、そして自分自身にも、底が見えにくくなっていく。
もちろんそれはおかしなことでも何でもないし、特段間違ったことでもない。
そうやって瞳の中に何かをたくさん隠して人は生きていく。濁水をもって瞳を潤しその底を覆い隠して、物事を回していくのだ。その濁りもまた美鈴にとっての銃や黒服と同じ、鎧だ。
弱いから鎧をまとう。
弱くても、それでも向き合わなければならない何かがあるから――固い鎧で身を覆う。

――でも

子どもに鎧を着せるのは間違っている。重さで潰れてしまう。
その重さが、重さであるのだということに、子どもは気が付くことが出来ないのだ。
気付かないで、鎧を脱ぐという選択肢を知らぬままそれを着続けて――ある日突然崩れる。心の骨格が壊れてしまうときが来る。
目覚めた直後のレミリアはまさにそれだった。
だが、彼女は結局また鎧をまとった。王女という名の、重く堅牢な鎧にその身を包んだのである。それは尋常でない精神力が必要なことだったのではないのかと美鈴は思う。能力的にも精神的にも、彼女は途轍もなく強い。
しかしだからといって何もかもを背負わせてしまうというのは間違っていて――

――いや

何を考えてもそれは言い訳にしかならない。
現状は、理屈も何も関係なく間違っているのだ。間違ったことを美鈴はしたのだ。それは覆ることのない事実である。
鎧と重い荷物とを与えて、美鈴は主を再び過酷な戦場へと叩き出すのだ。
だから――その罪を償わねばならない。そのために生き残らなければならない。

「ご主人様」
「昨日は迷惑をかけたね」
「いえ、そのようなことは」
「美鈴……絶対また私のところに来てよ?」

懇願するような口調でレミリアはそう言った。
そして美鈴はすっと床に片膝を着いて跪く。レミリアは椅子から立ち上がる。
フランドールもパチュリーも小悪魔もここにはいる。レミリアだけでなく全員に対して美鈴は誓いたい。

「紅美鈴は――必ず生き残ります。生きて貴女の元へと参じます」
「……誓って」

そう言うとレミリアはその掌を美鈴へと向けて差し出した。
その小さな手に美鈴はそっと口付けをした。

「生き残りなさい」
「全霊にて」
「勝手に死ぬのは許さない。誰が欠けたって、紅魔館は紅魔館じゃない」
「ええ。お嬢様も――」

美鈴は立ち上がると、昨日フランドールにしたように、レミリアを抱きしめた。

「お嬢様も必ずご無事で」
「……五百年戦ったんだ。また一つ跨ぐ戦場が増えるだけ――たったそれだけのことよ」

言葉の強さに反して、レミリアの声は震えていた。
無理もない。世界丸ごとを敵に回すと言っても過言ではない状況である。そして大切な友人もまた、強大な敵からの逃走劇を強いられることになる。
単に戦えばよいというだけではないのだ。自分のまったく手の届かないところで、友人が危機に陥るかもしれない状況である。足掻いた果てに――戦い抜いた果てに、友人の悲報がもたらされるという確率もまたゼロでは――

――そうならないために戦う。

美鈴もまた、強固な鎧に身を閉ざした。

「ねえねえ、美鈴」

主から身体を離した美鈴に対し、待ち構えていたかのようにフランドールが声をかける。

「なんでしょうか?」
「私にはないの? そういうの」
「え? だ、だって昨日血を飲まれたではないですか」
「美鈴さん、私にも抱擁はなしなのですか? 寂しいです」

悪戯っぽい口調で小悪魔がたずねる。

「い、いや、ええとですね」
「小悪魔、冗談言ってないで手伝いなさい」
「はーい」

パチュリーの呼び声に小悪魔は答える。
美鈴は――彼女には感心していた。マスターの命の危機にも取り乱さず(無論内心は極めて動揺していたようではあったが)、戦場に赴くという時でも悪戯っぽく冗談を漏らす――それはそうそう出来ることではない。
そしておそらく小悪魔もフランドールも、美鈴やレミリアのためを思って冗談めかしたもの言いをしているのだ。それはよく分かるから、その気遣いが身に沁みる。

「小悪魔」

パチュリーの元へと戻ろうとする彼女をレミリアが呼び止めた。

「何でしょうか?」
「あんたは契約を破棄して逃げることだって出来たはずよ。それをしないで私たちに付いて来てくれることには、感謝している」
「いやあ、でも私は戦力としてはアレですよ? ですので、まあ――」

せいぜい掻き乱させていただきます――不敵な笑みを浮かべて小悪魔は言った。

「いちおう確認するよ? 貴女はそれでいいの?」
「もちろんです。ていうかいなきゃいないでお困りでしょう?」
「まあそうなんだけど……」
「快楽こそが悪魔の糧。そしてこの館は私にとってとても心地がよかったのです。ですから――」

堕天の悪魔は天使のように微笑む。
うまい言葉が美鈴には見つからなかったが――とても可憐な笑みだった。

「最後まで付き合わさせていただきます。この身はこの館と共に、私の運命はお嬢様方と共に」

そう言うと小悪魔はスカートの両端をつまんで、行儀良く礼をした。

「わかった、もう聞かない。パチェ、あんたのセルヴァンは借りるわよ?」
「こっちもレミィのメイドは借りるわ。小悪魔は向こうに到着し次第すぐさま術式の再構築をお願い」
「かしこまりました」
「レミィは館とは別の場所に転送する。その方が色々節約できるから」
「別の場所?」
「どうも『繋がりやすい』場所がいくつかあるみたいなの。貴女はそこに飛ばす」

そしてパチュリーは人差し指を立てる仕草をした。

「地勢、地相――また総じて住居等、位置にまつわる吉凶禍福――そうしたことを知りたいのなら、中国の風水に勝るものはありません」

彼女は何かを説明する際には丁寧語が混ざる癖がある。

「風水の方法論は大別すると二つに分かれます。美鈴は詳しいでしょ?」
「ええ、まあ……」

一つは『巒頭(らんとう)』と呼ばれる方法で、これは地形等の具体的に目に見えるものをもって土地の気勢を判断するやり方である。
そしてもう一つは、八卦や易といった目に見えないもの――字義どおり『気』を読んでそれらを判ずる方法である。こちらは『理気(りき)』と呼ばれる。
これらに関してはパチュリーよりも美鈴の方が得意な分野であり、先の数日間においては美鈴がパチュリーの補佐をすることも多かった。

「中国には黄竜という守護獣が存在する。これは有名な四方位の守護獣の中央にあって、その中央をこそ守る存在。この黄竜は皇帝の権勢の象徴でもある。この黄竜をはじめとする五神の存在に最もふさわしいとされる土地の様相のことを四神相応、あるいは四地相応と言います。その条件は背後に山、前方に湖沼等の水、そしてそこを左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵や低い山が挟み込んでいるということ」

その地相をして蔵風聚水と言う。風を蓄え、水を集める場所ということである。
そして山は玄武、水は朱雀、左と右の砂はそれぞれ青竜と白虎に対応する。

「本来は巒頭と理気、双方から判じて移転先を決するべきなのだけれど、あいにく外部からは地形の様相すら見ることができない。だからもっぱら美鈴の理気により館の出現地点は決したわ。どうやら湖の真ん中みたい。なかなかいいロケーションね。ちょっと砂との距離が開いてしまっているみたいだけれど……それでね、レミィ」
「ん?」
「貴女はすぐに現地の様相を確認して。出来ることは少ないかもしれないけれど、争いを回避できる余地はまだあるかもしれないから」
「分かった」
「戦う必要がなければ――余計な主張はせずにひっそりと隠れ住みましょう」

悪戯にことを荒立てる必要はないとパチュリーは言った。

「そうね……でも少しでも状況が悪いと踏んだら『鎖』を使うわ。どこまで期待できるかは分からないけど、それで当座の戦力は確保できる」

それでも――やはりそれは無謀極まりない賭けなのだけれど。






部屋を出るとレミリアとパチュリーは並び、美鈴はそれに追従する形で玄関へと向けて歩き始めた。
フランドールと小悪魔は一足先に所定の位置へとついている。
廊下に敷かれた赤い絨毯はすっかり毛が寝てしまっていて、あまり衝撃を吸収してはくれない。壁面の漆喰はそこかしこにおいて傷んでいる。
この館はこんなにも古びていただろうかと美鈴は思う。
そしてその廊下はすぐに終わりと告げようとしていた。エントランスへと出て、外へと至る扉を開けてしまえばそこまでなのだ。
それで紅魔館は、一度ばらばらになる。
この廊下が無限に続いていればいいのに――危うく美鈴はそんなことを口走りそうになり、慌ててそれを呑み込んだ。そんな士気の下がるような言葉を吐くわけにはいかない。

「ああ、そうだ――」

エントランスにたどり着いたところで、パチュリーは何かを思い出したのか立ち止まった。

「美鈴、覚えているかしら?」

彼女は一枚のカードを取り出す。先日の占いに用いられたタロットカードである。

「七枚目、まだめくっていなかったでしょう? この七枚目が指し示すのは『最終の結果』よ」

そしてパチュリーはその古ぼけたカードを返してレミリアと美鈴に提示した。
『XXI』と番号の振られた札――



「『The World』の正位置。意味するのは完成、そして――完全」



また会いましょう、レミィ――優しい声でパチュリーはそう言った。
そしてレミリアはもう一度だけ子どもの顔を見せる。その顔が今にも泣き出しそうだったから、美鈴の胸はきりきりと痛んだ。

「絶対、絶対だよ。パチェ、いなくなったら――やだよ」
「わかってるわ。ていうか貴女の従者を信じなさい」

そして二人の少女は軽く抱きあうと、背を向けあった。
吸血鬼は、振り返らずに館の奥へと消える。
魔法使いもまた後ろを顧みることはせず、外へと――孤立無援の外界へと至る扉を、自らの小さな手で開いた。
湿気った外の空気が館に流れ込む。
館の扉には魔方陣らしきものが刻まれている。似たような刻印は、小悪魔とパチュリーの手により館内の至るところに施されていた。
そして美鈴はパチュリーに続いて外へと出ると、その扉を固く閉ざし、そうして空を見上げる。
灰色の淀んだ雲が館の上を覆っている。
手入れする者のいない庭は荒れ果てて雑草ばかりが茂っている。ここは山地で周囲は森に覆われているから、自然に侵食されたかのような様相だ。
庭の真ん中にある噴水は、濁った雨水ばかりが溜まっている。
そのとき美鈴の目に奇妙なものが映った。
自分の足もとに、赤い何かが落ちている。

――血?

それは血にまみれた一本の槍だった。
そしてその槍の先には無数の武器が落ちている。無数の死体が積み上がっている。
大地は血で潤されている。
武器の丘、死体の山、血の冷泉――
天は暗い。世界の色彩は頽廃的である。
これは、あの日の――

――流されるな

惑いという選択肢はもう捨てた。
だからこれはただの幻影だ。美鈴の心の弱さが見せる虚像に過ぎない。

――消えろ

そう強く念じるとすべてはかき消えた。
そして美鈴はしっかりと前を見据え、先を行くパチュリーに付いて行く。
手にするのは重い鞄。身を覆うのは個性を隠す黒い服。守るべきは主との誓いと、その親友の命だ。
二人とも一度も振り返らなかった。
門を出るまでは振り返りたくなかった。

「さてと――じゃあ始めるわ。美鈴は特にやることないだろうから待ってて」

蔦の乱雑に絡まった門から歩み出たところで、パチュリーはそう言った。
振り返って目に飛び込んできた紅魔館は、何だかやけに懐かしい感じがして、美鈴の鎧は少しはがれそうになった。しかしすぐさまそれを元に戻す。
そしてパチュリーは門に向き合うようにして立ち、抱えていた魔導書のページをめくった。左右の門柱には扉と同様に何かの模様が刻まれている。
詠唱が始まる。
かなり大規模な術式なのだろうが、美鈴の予想に反してその詠唱は短かった。短い詠唱で済むように、館の各所に施術を行っておいたのだろう。
そして一瞬パチュリーの小さな身体が青白く輝いたかと思うと、その輝きが門柱に刻まれた紋様へと転移する。
するとそれは青白く浮かび上がり、さらに瞬く間に館の周囲を覆う囲い全体へと光は波及し、紅魔館は魔法の光で描かれた紋様に包囲される。
さらにそれはそのまま屋敷そのものにまで至り、ついには建物全体が青白く輝くようになる。

そしてそれらの光がひと際に強く輝いて――紅魔館は跡形もなく消え去った。

赤い館は消失し、ぽっかりと露出した山地が残る。
そしてパチュリーが崩れ落ちる。それを美鈴は抱きとめると、急いで気を送り込んだ。
実は彼女がこうなるであろうということを、美鈴はすでにパチュリー本人の口から告げられていた。そして同時にそのことは黙っておくようにと口止めされてもいたのだ。

「めい……り……」

残り少ない魔力をさらに放出した影響で、パチュリーは激しく咳きこみ、血を吐いた。
喘息の影響ではない。より深刻な、魔力の欠乏による喀血だ。
そしてその血が狭窄した気道に詰まる。ごぼごぼという嫌な音が小さな喉から響く。
パチュリーはそれを吐き出すべくうずくまった。
美鈴は必死で治療に努める。気休め程度にしかならないが、何もしないよりは遥かにましだ。
しばらくそうして美鈴は彼女に気を送り込み続けた。
予想以上に容体は厳しかったらしく、状態が安定するまでに美鈴もかなりの疲弊を強いられることとなった。

そして七耀の魔女は――いや、七耀の魔女『だった』少女は泣いていた。
彼女がこの数日に渡ってかぶり続けていた仮面が剥がれ、その奥からレミリアたちには決して見せまいとしていた素顔が露わになる。

「美鈴……」

不安、怯え――そして涙。
目の前の少女はつい五日ばかり前に死にかけた身なのだ。そして――

「私はもう……ダメなのかな……」

その命脈は、あと一か月足らずで尽きる。
数日前のフランドールの問いに彼女は気持ち悪かったと答えた。そのときの嫌悪感の滲み出た表情を見るに、それはかなりの精神的苦痛をも伴うことだったのではないかと美鈴は思う。
そして同時に魔法使いの矜持とも言うべき魔法を奪われ、ただの病弱な少女へと変わり果てた身でもある。
そうした状況にありながら、彼女はこの数日間実に淡々と振る舞っていた。てきぱきと移転のための準備をし、部下や友人に適切な指示を出し、不安に苛まれる友人を勇気づけて――

言うまでもなくそれは異常なことである。
本来彼女もまたレミリアのようになっていてもちっともおかしくはなかったはずなのだ。
それでも、彼女はそうはならなかった。先立つ者たちに余計な心労を与えないよう、不安定な精神の水際でしっかりと踏みとどまり続けた。

「なにが……」

だがそれも限界に達しつつあったのだろう。

「なにが『The World』よ……体よくレミィを戦いに仕向けただけじゃない」
「パチュリー様……」
「全部私のせいなのに……レミィたちが無茶しなきゃいけないのも、貴女がこんなことになっているのも、みんな、みんな私のせいなのに……」

泣きじゃくるパチュリーを、美鈴はそっと抱きしめた。

「あまりご自身をお責めにならないでください。これは――昨日私が貴女から言われたことです。貴女に救われた命だってたくさんあるではないですか」

パチュリーが探して救いだした妖精や精霊は、皆そのまま放っておけば遠からず消滅していたであろう存在だった。
それらのために彼女は無理を押してこちら側に留まり続けたのだ。

「美鈴……私は死にたくない。死にたくないの。またみんなに会いたいの……」
「私もです。それに――フランドール様が仰っていました」

家族に『目』は存在しない。

――『この私が壊せないんだ。それは、どう足掻いたって壊れやしないさ』

その言葉を信じようと思う。
不安はまだ消えないけれど――

――動かなきゃゲームオーバーだ。だから

「参りましょう、東方の地へ」

そうして美鈴は目指すべき方角を見つめる。
彼方に見える東の空は少しだけ雲が切れ、青かった。













夜桜が咲いている。
数本ばかり、薄紫の花を明滅させながら静かにたたずんでいる。
レミリアは雪のようにはらはらと舞散る花びらの中に立っていた。
周囲は森だ。桜の生えている一帯だけが開けているのだ。その桜の下には歳月と雨風に洗われた、墓石と思しきいくつかの丸石が並んでいる。
別れの花。そして再会の花。
そしてその桜のビジョンは消え失せ、あとには緑の葉を付けた桜の樹が残るばかりとなる。今はもう春の半ばである。桜などは咲いているはずもない。
なら今の光景は何だったのだろうか。桜の下に眠る死者たちの想いが見せた過去の花だったのか、それとも不安定なレミリアの心が見せた幻葬の花だったのか。
どちらでもいい。悲しくなるくらい綺麗だったのだから、それが何だったのかはどうだっていい。

吸い寄せられるように夜空を見上げる。
宇宙へと連続する幻想の大空がある。
そしてそこには今までとは比べ物にならないくらいに美しく狂気的な満月が、まるで天に大穴を穿ったかのように輝いている。
その円い月を見た瞬間、レミリア・スカーレットは――世界と接続した。
自分の身体がこの世のすべてに拡散して同化していくかのような、そんな世界との一体感を感じたのだ。

『月の祝福で――』

いつかのパチュリーの言葉が蘇る。
あれはいつのことだったか、そうだスイスで本の取り合いをした時だ。もう遠い昔の出来事のように感じられる、

『世界の背後にあってそれを動かすもの』

――そうか、これが……

そうしてレミリアは己の為すべきことを、そして己に新たに課された役割を悟った。
本能が、そして少女の勘が、それを為すことこそが最善であるのだと訴えている。少なくともそれでフランドールと小悪魔は助かるはずだ。

――でも

美鈴とパチュリーはどうなるのだろうか?
それがどうしても分からなかった。世界を違えているからだろうか、霞の彼方に隠されてしまったかのように、運命が見えてこない。
それこそが大事だったというのに。
それが何より不安だというのに。
ただ、これから己の為すべきことは間違ってはいないはずだ。そういう不思議な確信はある。
家族がばらばらになってしまったのは、自分がきちんと役割をこなさなかったからだ。
なら今新たに振られた役割をちゃんと果たすことができれば家族は元通りになる。
きっとそうだ。

「そうに決まってる……そうに決まっているんだ……絶対」

――私は……

少しおかしくなっているのかもしれないとレミリアは思う。
それでも今は為すべきことを為すのが先決だ。
不安で不安で仕方がないけれど――
パチュリーや美鈴のことを思えば、気が狂いそうになるけれど――
そういう弱さはドレスの中に隠してしまえばいい。
今まで通りレミリアを、レミリアではない何かへと変身させて、そして心はどこかに置き去りにして、戦えばいい。
そうすれば『三人とも』無事こちら側に渡って来られるはずだ。

――三人?

三人というのは誰のことなのだろうか――レミリアは自身の思考の不可解さを疑問に思う。
だがそんな瑣末なことは今はどうでも良い。
そんなことよりも、まずは狼煙を上げなければならない。戦の始まりを布告する狼煙だ。
どんなものがいいだろうか。
愚かな自分に似合うものがいい。二度と愚は犯さないという戒めが自分には必要だ。

――そうだ

十字架だ。
レミリア・スカーレットの過ちでパチュリーは傷付いたのだ。だから――真っ赤な十字架がいい。
そう決心するとレミリアは深々と呼吸をし、自身の持つ魔力を凝集させた。
外とは比べ物にならないくらいに力が冴え渡っている。今ならあの日のワラキアだって泣かずに駆け抜けられただろう。

――そう

今度こそ、泣かない。

「フラン、小悪魔……悪いけど付き合ってもらうわよ」

レミリアの体が赤く輝く。そこから溢れだした魔力は空気を揺るがせ、周囲の草花や森の木々を吹き飛ばしていく。
ただ、桜の樹だけは少しも揺るぎはしなかった。
そして幻想郷の夜が紅に染まる。
少女の悲壮な決意の凝った十字架が満月を焦がし、幻想郷は百十余年ぶりの動乱の時へと突入する。



「戦争だ……幻想郷」



血も涙も流し尽くした幼き王女は、静かにそう宣言した。


(続く)
まずは盛大なネタ被りを承知した上でなお投稿する厚顔さをお詫び申し上げます。ごめんなさい。問題があるようでしたら該当箇所は削除・修正致します(でも正直ラクダじゃ花がない)。

血を吸っただけだから恥ずかしくないもん(年齢制限大丈夫だろうか……問題あるようでしたらやはり修正します)。
東方関係なさそうな話が出るのはここまでです。ここ2章は本当に申し訳ありませんでした。あ、クトルゥーな方々は出ません(そりゃそうだ)。
ガイアとルシフェルが誰なのかはもうバレバレだと思うのですが……うっかり天使禁○区とか読み返した結果がこれだよ。ほんとはガイアのポジには龍神様を持ってくる予定だったのですが、いかんせん扱いにくいので似た感じの別のものをもってきました。だ が 胸 は 無 い 。

書けば書くほど突っ込み要素が出てきてしまって、埋めるのにてんてこ舞い。
フランちゃんコレクションは縦の位置関係がちょっとした対応関係になっていたりします(ブラウザのサイズによりますが)。意味はそれなりに。他にも小道具はちょっとこだわり気味――アンクレットの起源は足枷なのだそうです。
ちなみに書いた奴は鉄道、カバラ、宇宙、風水その他諸々についてはさっぱりです。特に宇宙が……たぶん間違っている箇所等あると思いますので詳しい方はご指摘を頂けると嬉しいです。この話の目標の一つに旧作とWin版を自分なりに繋げてみたいなあというのと、あと『東洋地域以外の皆様はどうなっているのか』考えてみるというのがありまして、その辺の話が出るのはそのせいです。フランちゃん北陸旅情はケロちゃんのスペル関係――フランちゃんの設定ガン無視かい。我々は想像力豊かな犯人に騙されている――のかもしれない。
目下の問題点は自分で思っていた以上に長い話になってしまいそうな気配がすること。そして香霖堂がなかなか発売しないということ。
ちなみに書いた奴の中ではパチェはかなりちっちゃいイメージ。背丈とか、厚みとか。
レミパチェがもっと増えると嬉しいとか思いつつ続きます。

⑥は作品集67にいつのまにやら……って検索機能が搭載されたからこれは要らない気もしますが一応。昔話タグをクリックするとあら不思議、よろしければどうぞ。
ごんじり
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コメント



0.3400簡易評価
3.100謳魚削除
>「あと五日しかないじの!?~」→「ないじゃないの」かと。
引き寄せられて魅入られて。
貴方の作品にいつもそんな感じです。
レミパチュは探せば見つかるかもですがパチュレミは、余りにも、少ない。
5.無評価ごんじり削除
>>謳魚様
うわ、なんか変なミスが……ご指摘ありがとうございます。修正しました。
8.80名前が無い程度の能力削除
・・・ふぅ
12.100名前が無い程度の能力削除
…情報を詰め込みすぎなのが全く不快じゃない たまらないぜ
そんなのどうでもいいくらい、わけわからん幻想世界の歴史より、紅魔の方々が…最高
23.100名前が無い程度の能力削除
ちょっとだけうるっときた。
紅魔館の面々は最高だわ……。
そして、今にも死にそうなパチュリーや最前線に立たされるお嬢様より
いい役貰っている美鈴に死亡フラグが立っているような気がして
次回も期待。
26.100名前が無い程度の能力削除
好きです。
28.100名前が無い程度の能力削除
あまりにも大きな物語に、読み終わってしばらくたつのにまだ頭がボーっとしてます
何か感想を書きたいのにうまく言葉がまとまらなくて、まっさきに出てきたのは頭がわるそうで恥ずかしながら

レミパチェ最高(゚∀゚)
31.100名前が無い程度の能力削除
凄く血みどろなのに優しすぎて困ります……
35.90ろく削除
血だ。
画面の向こうから乾いた鉄錆の匂いがする。色に喩えるなら、滴る鮮血の紅と古く古く劣化した血飛沫の黒ですね。何かよく解らないけどそんな感じ。
すべてが終わったらもう死んじゃうんじゃないかってくらいに俺的死亡フラグびんびんな美鈴にトキメキです。さてここからどう咲夜さんが絡んでくるのか。やっぱ彼女まで揃って紅魔館ですしね。

あと小悪魔は、伏せ名つながりで「恐るべき名」のデモゴルゴンかなあと思っていた私の予想はあっさりと大外れでした。ギャフン!
39.無評価名前が無い程度の能力削除
えくせれんと
40.90名前が無い程度の能力削除
長すぎる。

でも面白かったから赦す。
42.無評価名前が無い程度の能力削除
続きを切にお待ちしています。
43.100名前が無い程度の能力削除
続きを……! 一刻も早く続きを……!
49.10039削除
点数入れ忘れました
50.100名前が無い程度の能力削除
読んでてドキドキするSSは久しぶりだ
続きも楽しみに待ってます
53.100名前が無い程度の能力削除
小悪魔が最高です!
続き期待してます
54.100名前が無い程度の能力削除
最後の「戦争だ……幻想卿」を読み終えた辺りで涙が出てきました
56.100名前が無い程度の能力削除
こういう嵐の前の静けさ的な話には
何か心の琴線に触れる物があります
58.無評価図書屋削除
・・・ええわあ。 

応援してるんで、続きがんばって。
59.100図書屋削除
点忘れたOrz//
61.100名前が無い程度の能力削除
凄く引き込まれる……。最高だわ
続き待ってます!
67.100名前が無い程度の能力削除
素晴らし過ぎる・・
72.100名前が無い程度の能力削除
続きへ、行こう。
82.100名前が無い程度の能力削除
紅魔館のみんながあまりにも優しすぎて泣けてきました。