Coolier - 新生・東方創想話

幻想郷にメガネっ娘がやってきたぞ!(前編)

2008/11/02 17:25:02
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注)この二次創作は、筆者の妄想を垂れ流しにした作品です。
  一部、原作と異なる部分もあるかと思われますが、ご容赦ください。
















「どうして、―――こんなことに」

その端整な顔に、あらん限りのシワを浮かべ、頭を抱えるは一人の少女だった。
やってしまった。取り返しのつかないことになってしまった。
そう気がついた時にはもう遅い。
自分は、決して踏み込んではならない領域に、片足とは言わず頭からダイビングしてしまっていたのだ。
後悔に震えるたび、クセのない素直なロングヘアーが、まるで尻尾のようにその背で揺れる。
夜の帳が降りきり、一切の明かりも灯さない彼女の部屋は、そんな主の今の心情を雄弁に物語っている。
お先真っ暗、と。
窓からこぼれるわずかな月明かりが、色素の薄い灰髪をほのかに照らし出し、銀糸の如く淡々しい輝きを放っていた。

「…あの、薬師ッ!」

誰に当てることもない自責の念は、回り空回って事の元凶である人物への怒りに転化された。
…いや、あるいは転嫁なのかもしれない。
あの薬師はあくまで、少女の自由意志に任せた。
忌避すべき禁断へと、自ら踏み込んだのは他ならぬ少女の意思だ。
しかし、だからと言って、この憤りを沈めることなど出来はしない。
どうして?何故騙したのか。自分に一体何の恨みがあるのか。
問い詰めないことには、どうにも治まりそうにもなかった。

「…まさかこんな激情を、今更抱くことになるなんてな」

長いこと忘れていた感情に戸惑いを覚えつつ、少女は疲れたように嘆息した。
















1/ 慧音

ある初冬の幻想郷。
すでに日は沈みかけ、暮色蒼然たる里道に、荷車を気だるそうに引っ張る影があった。
人里への行商の折、森近霖之助は、寺小屋の教師であり、同時に里の守護者でもある上白沢慧音の元へと訪れていた。
同じ半人半妖としての立場や、史学と雑学の違いはあるものの知識人としても話が合い、付き合いはまだ短いがそこそこに深い。
ただ、互いの塒が遠く離れている為か、交流の機会はかなり限られていた。
慧音はそのことに特別不満を持っているわけではないが、やはり一介の店主があんな辺鄙な土地で細々と営んでいるその意図に、疑問を拭えない。
客間にあがるなり息をつく霖之助に茶を出した後、対面に座った慧音は開口一番に問うた。

「なあ霖之助、やはり店をこの里に移さないか?
わざわざ行商などで生計を立てずとも、ここに来れば今よりかは客に不自由せんぞ」
「…またその話かい?顔を合わすたびに同じ事を聞かれるのはいい加減疲れるんだが」
「疲れているのは運動不足からだろう」

ぴしゃり、と放つ慧音の言を受けて、霖之助は視線を自身の足元へと移す。
…なるほど、膝が笑っている。
胡坐をかいた膝が小刻みに震えているのを確認した霖之助は苦笑を返すしかなかった。

「だからこそたまには歩かないとね。一息つかせてくれた君には感謝しているよ」
「それはかまわないが、どうしてそこまであの地にこだわる?
人の地とも、妖の地ともつかないあんな中途半端な境界に」
「上手いこと言うね。まるで僕の在り方のようじゃないか」
「真面目に答えろ。…お前さえその気なら、私はいくらでも協力するんだがな」

そう言って頬杖をつく慧音を尻目に、霖之助は手元にあったお茶をすする。
茶の温かさと、自分の身を憂いてくれる友人の暖かさが疲れた身体に染み入る。
心の中で再び感謝すると、霖之助は少し曇った眼鏡のレンズを手拭いで拭いながら口を開いた。

「…そういえば、どこかの魔法使いが言っていたな。お前は商売人ではなく趣味人だと」
「それこそ言い得て妙だな。もう一度聞くが、お前があの場所にこだわる理由はなんなんだ?
…言いにくいのならこれ以上は聞かないが、何もないってことはないだろう?」
「僕には、君が納得できるような答えは持ち合わせていないよ。
前にも言った通り、僕は僕なりに今の暮らしが気に入っている。…それだけだよ」
「だが、わざわざ里まで出向いたという事は生活が苦しいからじゃないのか」
「む…、ま、まあそれは、ね」

痛いところを突かれ、霖之助は汗ジトになって言いよどむ。
たとえ半人半妖とはいえ、食べるものがなければ当然生きていけない。
元々、営利目的で始めた商売ではないとはいえ、よほど困窮すれば、このように売れそうな商品を里まで持ってくることが、今までにも何度かあった。

「備えあれば憂いなし、ってね。今年の冬を乗り切る為のちょっとした気まぐれさ」
「…ふむ。では首尾はどうだったんだ?何とかやっていけそうなのか」
「け、慧音。そろそろ詮索はやめてくれないか。
心配してくれる気持ちはありがたいが、君が思うほど僕はそこまで困っているわけじゃない」

そんな言葉とは裏腹に、彼の眼球はバタフライを敢行中で、決して慧音のそれに合わせようとしない。
困っているんだな、と慧音はため息と共に一言呟いた。
霖之助が家を訪ねて来た際、彼の背後にある、商品が山積みに並べられた荷車を見た時から、薄々そうではないだろうか、と思っていたが。
商売柄、ポーカーフェイスは上手いはずなのに、それが出来ないということはよっぽどなのだろう。
気まずそうに、ぬるくなりかけたお茶をあおる霖之助を見て、慧音は何かを決心したかのように小さく頷いた。

「…出来る事なら力になってやりたいが、生憎うちにはタダ飯喰らいがいるからな。
それほど余裕があるわけじゃないんだ」
「い、いや。別に君に頼ろうとか、そんなつもりでここに来たわけじゃ」
「わかってる。だがこのままでは帰るに帰れないだろう。この先どうやって冬を凌ぐつもりだ?」
「……」

これでは遊びに来たのか、相談に来たのかわからないな、と霖之助は自嘲気味に目を伏せた。
そんな彼の心を知ってか知らずか、慧音は問い詰めるような重い口調から、一転優しい声色でそこでだ、と切り出した。

「お前の商品を買い取ってくれるかもしれない家に、一件心当たりがある」
「恥ずかしながら、里の民家や店はほぼ全て回ったよ。
まあ、得たものといえば、僕にはキャッチセールスの才能は皆無だという事実だけだったけどね」

ついに観念したようだ。
半ば開き直った様子で肩を落としてみせる霖之助を見て、慧音は何故か妙に納得してしまった。
時期が時期だ。来るべき冬に備えて資金繰りをしているのは、霖之助だけではあるまい。
純度100%の受け身であるこの青年に、押し売りなど間違っても出来そうになかった。

「安心しろ、里の者じゃない。というよりもむしろ人間じゃないと言った方が正しいか」
「…もしかして、竹林にあるアレかい?」

慧音の言葉に、霖之助はわずかに眉をひそめる。
―――永遠亭。
里の外れにある、迷いの竹林の奥深くにひっそりと佇む武家屋敷のことだ。
その竹林は、年中覆っている濃霧や、微妙な傾斜によって方向感覚を狂わされ、人は勿論、妖怪ですら名前の通り、道に迷うと言われている。
まず屋敷に辿り着く自信がなかった為、行商するリストにも入れてはいなかったのだが、慧音は藤原妹紅との付き合いで、かの屋敷に赴く機会が何度かあったので、道順を覚えてしまったらしい。

「あの家は割と裕福だから、何か買ってもらえるかもしれないぞ」
「…しかしだな。使いの兎が、うちに薬の材料を何度か買いに来てくれたこともあって、すでに顔見知りなんだ。
わざわざ押し売りに行くというのも気が進まない」
「体裁を繕ってる時か。顔見知りなら好都合だ。私も掛け合ってやるから何とか助けてもらえ」

慧音は、良くも悪くも面倒見が過ぎるきらいがある。
お節介といえばそれまでだが、放っておくことが出来ないのだろう。
わざわざ案内役を買って出てまで、縋れる藁には縋れと言ってくれているのだ。断る理由はない。
それに、某神社ほどではないとはいえ、香霖堂が苦しいのは事実なのだ。
最初は渋っていた霖之助も、少しでも足しになってくれるのなら…と、とうとう重い腰を上げた。
それが、とんでもない事態を巻き起こすことになるのも知らずに。








鬱蒼とした竹林の夜道に、ジャリジャリと枯れ葉を踏み鳴らす音がする。
荷車を引っ張っている慧音と、それを後ろから押す霖之助が歩く足音だ。
何一つ人の手に渡っていない、雑多な商品を抱える荷車がやけに重たく感じる。
…いや、本当に重いのは僕の足取りの方か、と霖之助は一人ごちた。

「…すまないね慧音、結局君の手を煩わせる事になってしまって」
「ん?ああ、気にするな。私がしたくて勝手にしていることだ」
「家には君以外の住人がいる口ぶりだったけど、そっちはいいのかい?」
「…妹紅か。そういえば霖之助はまだ会ったことがなかったな。
いつもならもう家に戻っててもいい時間だが、帰ってこないとなると恐らく」

その時だった。霖之助たちの視界に、一瞬強烈な閃光が放たれた。
夜の闇も、立ち込める霧も、全てを吹き飛ばしてしまうかのような光に、二人は思わず目をしばたたく。
空を見上げると、ここからそう遠くない場所で、二人の少女が月をバックに壮絶な弾幕戦を繰り広げているところだった。
霖之助の知っている弾幕ごっことは全く異質な、過激すぎる鬩ぎ合い。
光弾が少女の腹を貫き、燃え盛る炎が少女の腕を焼き、二人が衝突するたび、返る血が雨のように降り注ぐ。
霖之助は、弾幕戦に無縁な平和主義者だが、曲がりなりにも半妖の端くれだ。
常人よりも優れた視力で見たその少女達は、お互い血に塗れていて怪我をしてない箇所を探す方が難しいほどに傷ついていた。
なのに目だけは、獲物を追う獣のようにギラギラと輝いている。口元を吊り上げ笑っている。何だこいつらは。
これはごっこ遊びなんて生易しいものじゃない。完全な殺し合いじゃないか。
背筋も凍るような、およそ幻想郷には似つかわしくない凄惨な光景に霖之助は戦慄する。
が、何故か前に立つ慧音は、大げさにため息をついて、辟易したかのように首を振った。

「案の定、か。全くいつになったらやめてくれるのだろうか、不毛極まりない」
「…き、君は何をそんなに落ち着いているんだ。仲裁に入らなくてもいいのか?このままだと彼女たちが」
「死なんよ。アレらはそういう風に出来ているのだから」

彼女は、何をワケのわからないことを言っているのか。
例え大妖怪であろうと、どんなに力があっても、自然の摂理から免れることなど出来はしない。
限りなく無限に近い寿命も、しかし有限であるはずなのだ。終わりは必ず訪れる。
人にも魔女にも妖怪にも神にも、等しく平等に与えられるであろう死。
だが、そこである話を思い出す。
その絶対法則に逆らう度し難い咎人がいる、と霖之助は以前聞かされていた覚えがあった。

「…そうか。あれが蓬莱人か。永遠と須臾の罪人。月からきた輝夜姫」
「そうだ。何だ、知っていたなら説明の必要はないな」
「永夜異変から帰ってきた、魔理沙の土産話の一つにそんな話があってね」
「なるほどな。…それでまあ、あれと戦っているのが私の同居人。藤原妹紅だよ」

そう言って、慧音は再び弾幕が飛び交う夜空を寂しそうに見上げる。
止められるものなら、彼女も止めたいのだろう。
だが、満月時ならいざ知らず、平時の慧音では彼女たちを止めるには危険すぎた。
二人の蓬莱人の戦いは、弾幕の隙間を縫うなどと言った器用な真似などしない。
ただひたすらに、愚直に弾幕を放ち続けるだけ。そこに戦略や駆け引きは一切存在しない。
腕がもげても、首がもげてもかまわない。殺傷本能に任せて力尽きるまで攻撃する。
特に、先ほど慧音が言っていた妹紅という少女は、その傾向が顕著に現れていた。
まるで、相手に対して何か特別な憎しみを抱いているかのような、そう思わせるほどに妹紅の攻撃は激しかった。

「…決着がついたな。今日は妹紅の勝ちか」
「今日は、って。あんな戦いを彼女たちは何度もやっているのかい?」
「何度もどころかほぼ毎日だな。
いい加減切った張った以外の勝負も覚えさせたいところだが、今のあいつらにとっては殺し合いが一番いい按配らしい」
「…物騒だな」
「ある意味、お前がもっとも受け入れ難い人種かもな。
だが妹紅の根はそう悪いものじゃないんだ。
出来れば今日見た一面ばかりで、あいつを捉えないでやってくれ」

そんな悲しそうな顔で言われては、霖之助としても返す言葉が無い。
先に墜落した輝夜を追うかのように、妹紅もまた血飛沫をあげながら落下する。
すぐに再生するとは言え、見ていて決して気持ちのいいものではない。
妹紅が気になるのか、先を歩く慧音の足が速まる。
もしかして、とんでもない場所に踏み入れたのではないか、と霖之助は内心頭を抱えた。








「…あら?」

永遠亭の従者の一人である鈴仙・優曇華院・イナバが、傷ついた姫を連れ帰ろうと、竹林を歩いていた所、見知った顔に出くわした。
あちらも鈴仙に気付いたらしく、何やら重たそうな荷車をうんせうんせ、と引っ張りながら近づいてくる。

「久しいな月兎。こんな時間におつかいか?」
「上白沢慧音…、それにアンタ確か古道具屋の」
「…はは、覚えていてくれて嬉しいよ」

二人を見るなり、怪訝そうな顔で一歩引く鈴仙に対し、霖之助は空笑いを返す他なかった。
顔見知りと言っても、彼女とは赤の他人以上知り合い未満の関係でしかないのだ。
それにしたって、出会い頭にこうも警戒されては、交渉の余地などないように思える。
売買ではなく、いっそここでバイバイした方が無難ではなかろうか。…案内してくれた慧音には悪いが。

「…わたしは今忙しいの。永遠亭に何の用があるのか知らないけど、とっとと帰って」
「まあそう邪険にするな。せっかくの客人をもてなす気構えもないのか」
「誰が客よ誰が」
「ところで妹紅を知らないか?確かこの辺りに落ちたと思うんだが」

鈴仙の小さな呟きは聞こえないフリをして、慧音は彼女の真正面に立ち、力尽きた妹紅の行方を尋ねる。
役者的には、やはり自分よりも慧音の方が一枚も二枚も上手のようだ、と霖之助は妙な頼もしさを覚えた。
妹紅の名前を聞くなり、鈴仙はやっぱりね、と鼻を鳴らすと不敵な笑みを浮かべた。

「どうせそんなことだろうと思ったわよ。
でも、私も落ちた姫様を探しているの。それ以外のことになんか興味ないわ」
「なら、妹紅を見つけたら私に教えてくれ。私たちも彼女を見つけたら知らせよう」
「…へ?べ、別にいい、けど」

いつの間にか手分けして探そう、といった流れになり、鈴仙は憮然とした表情のまま霖之助たちから離れた。
…もしかして、先の発言は挑発のつもりだったのかもしれない。
わざと怒らせて厄介払いしたかったのだろうか。
そうなると、もう売り上げに貢献してくれる以前の話となる。

「このまま食い下がって、心証悪くするわけにもいかないしな。
せっかくの常連客を失いたくないし、妹紅って娘を見つけたら帰るしかない、か」
「…何いくじのないことを言っているんだお前は。まだ用件さえ伝えていないじゃないか」
「う~ん、さっきの戦いを見たから気持ちが萎縮してしまったのかもしれない」
「ヘタレめ」
「……」

あまりひどいことは言わないで欲しい、僕はナイーブなんだ、と心の中で抗議する霖之助を他所に、慧音はさっさと竹やぶの中へと足を踏み入れた。
それについて霖之助も歩くと、一分もしない内に二人は倒れた輝夜を発見した。
そのすぐ近くで妹紅も竹を背に腰を下ろし、慧音の姿を認めるなりVサイン。勝利のVってヤツだ。

「…まったく、またそんなに服をボロボロにして。一体誰が繕うと思っている?」
「へへ。何、もしかして心配して探しに来てくれたの?」
「そんな必要は無いだろう。ほら、立てるか?」
「ん、もう平気」

拍子抜けするほどに、捜索はあっさりと終了した。
差し伸べる慧音の手を、妹紅は人なつっこい笑顔で握り返す。
…確かに、今の妹紅は極普通の少女にしか見えない。
さっきまで嬉々として殺しあっていたあの凶暴な姿が嘘のようだ。
慧音のいう通り、殺傷を楽しむあの顔は、妹紅の数ある顔のほんの一部に過ぎないのかもしれない。
そんな事を霖之助は考えていると、立ち上がった妹紅と目が合った。
さっきまで朗らかに笑っていた顔が、彼の顔を見た途端みるみる内に険しくなっていく。
霖之助は思わず生唾を飲み込んだ。

「…慧音。コイツ誰?」
「そういえば、自己紹介がまだだったな。こいつは古道具屋の店主で森近霖之助という。
私の友人だ。霖之助はもう妹紅の紹介はいらないよな?」
「…ああ。もう十分すぎるくらい理解したからね」
「……ふーん。ともだち、ね。…おい、アンタ」
「な、何かな?」
「慧音と親しくなるのはかまわないけど、もし慧音に指一本でも手ェ出したら…」
「……」
「………………………………ヴォルケイノかますぞ」

その時の状況を、慧音は後にこう語る。

『あの時の霖之助の様といったら、…もう見ていられないくらいに哀れだった。
白玉楼の亡霊嬢よりも青白い顔で、餌に群がる鯉のように口をパクパクとさせていたよ。
精神的なストレスとは、あれほどまでに心身に影響を及ぼすものなのだな、と再認識したくらいだ。
…霖之助には悪いが、うん。正直いいものが見れたと思っている』








蓬莱人たちを回収した霖之助一行は、再び永遠亭を目指して竹林を歩いていた。
気絶していた輝夜を慧音が背負い、モンペのポケットに手を突っ込んだ妹紅は、ブラブラと慧音の隣を歩く。その後ろで霖之助が黙々と荷車を引っ張っていた。
さっきのヴォルケイノ宣言がまだ尾を引いているのか、その足取りは夢遊病者のように覚束ない。
そして、霖之助のさらに後ろでは、鈴仙が後ろ手に縛り、膨れ面で歩いていた。
どこを探し回っても姫が一向に見つからず、このままでは師匠に叱られる、と途方に暮れていたところに、輝夜を背負った慧音が、何と妹紅まで引き連れて戻ってきたではないか。
安堵した反面、手柄を全て横取りされてしまった形では、流石に鈴仙も面白くない。
せめて姫様はわたしに背負わせて、と申し出るものの、体格的に私が無難だろうという理由で、結局押し切られてしまった。…霖之助は数に入ってないらしい。
しばらく歩いていると、すぐに霧の中に建物の影が見た。どうやらもう目と鼻の先だったようだ。

「ようやく着いたか。さて、と。ほら、お姫様を返すぞ」
「あ…、ありがと」

そう言って慧音は、スヤスヤと寝息をたてている輝夜を、鈴仙に預けた。
鈴仙は消え入るような声で短く礼を言い、そのまま姫を背負い屋敷に向かって歩き出す。
さて、これからどうしようか、と霖之助たちが顔を見合わせていると、玄関についた鈴仙の足が何故かピタッと止まった。

「……何してんのよ。うちに用があるんでしょ。早くあがんなさいよ」
「え?…いいのかい?」

突然の鈴仙の心変わりに、霖之助は目を丸くして聞き返した。
鈴仙も鈴仙で、口を尖らせながら、

「…だってしょうがないじゃない。家主を見つけた上に運んでまでくれたんだもの。
これで追い返したら、うちの住人がまるで恩知らずみたいじゃない。
…で、でも勘違いしないでちょうだい!今回のは特別で最初で最後なんだから!」

と、顔を真っ赤にして、どこかで聞いたような台詞をのたまった。
よかったな、と声を掛ける慧音。霖之助はどこか釈然としない面持ちでそんな彼女を見やる。

「…? どうした、私の顔に何かついているのか?」
「いや…。ただ、君がどこまで狙っていたのかな、って」
「何だ気付いていたのか、変なところで鋭いな」

気付いていたも何も、ここまで事が上手く運べば、流石になんらかの画策があったと疑ってしまう。
案の定、慧音はあっさりと自白してしまったので、疑惑は確信に変わってしまった。

「二人が落ちた正確な位置を、君は最初からわかっていたんだね」
「ああ、ここの住人はあまり部外者を中に入れたがらないんでな。ちょっと一芝居打っただけさ」

つまりはこういうことだ。
蓬莱人の殺し合いの結果をはっきりと視認し、なおかつ竹林の地理を把握していた慧音が、最初から二人の居場所に当たりを付けていたのは、当然といえば当然のことだろう。
そして、屋敷からまた抜け出した輝夜を探しに来たであろう鈴仙が、見当違いの場所を歩いている。
そこで何かを察した慧音は、妹紅の居場所を探している、とでっち上げることにした。
その際、さりげなく落下ポイントを隠すような位置取りをし、そっちを探させないようにしていたのも、今になって覗える。
手分けして探そう、と強引ながら協力体制を作り、鈴仙に連帯感を意識付ける。
手早く蓬莱ズを回収…、もとい保護する。
最後に、泣きそうな顔で主を探している鈴仙に、もう安心しろとばかりに姫の無事を確認させる。
ダメ押しで輝夜を家まで送ってやれば、いくらツンツンでも少しはデレてくれるであろう。

「これで少しは交渉しやすくなっただろう。上手く売れるといいな」
「慧音ぇー。いったい何の話?」
「…いや、この先生はとても頼りになる人だって、話をしているところさ」
「アンタには聞いてないわよ」
「…すみません」
















2/ 永琳

永遠亭に来客が訪れた、と弟子である鈴仙から声がかかったのは、屋敷の裏の主である八意永琳が新薬の実験を行っている最中のことであった。
何用で来たのか、と問えば、いわく物売りの交渉に参ったとのこと。

自分は忙しいのだから、大した用事でないのならば貴方が対応なさい。

永琳は、そんな心積もりを以って問いかけたのだが、なるほど金の話となるとこの鈴仙では対応できまい。
何しろ、永遠亭の財布は、実質全て永琳が握っているようなものなのだから。
かと言ってアポもない、一方的な商談に顔を出してあげるほど永琳は暇でなければ、金銭的余裕があるわけでもない。
余ったお金は全て、自身の知識欲を満たす実験に使いたい、が彼女の本音なのだ。

「帰ってもらいなさい」
「で、ですが…、そのう、飛び出した姫様を見つけてくれたり、…連れ帰ってくれたりして。
ですから、…あまり無体な真似も出来ない状況と言いますか…」
「…? 姫の迎えは、貴方が行ってくれたんじゃなかったの?」
「え、ええと…あの、…すみません。行ったんですけど、わたしが…見つける前に…」
「…仕様がない子ね」

しどろもどろになって説明する鈴仙に、永琳は疲れたように嘆息してみせる。
鈴仙の頭の上にあるウサ耳が、普段にも増してふにゃりと垂れ下がった。
気落ちしているのだろう。素の耳なのかツケ耳なのか、よくわからないところだ。
それはともかく、我が主が世話になったというのであれば、話は別だ。
相手に顔を出す、という誠意くらいは示すべきだろう。買うか買わないかは別にして。
永琳は仕方なく腰を上げると、部屋の戸口でシュンとしている鈴仙に再び声を掛けた。

「うどんげ。姫は今どうしているのかしら?」
「お部屋で寝ています。気持ちよさそうに寝息を立てておりましたよ」
「そう…。それと、売りに来た相手は誰なの。里の商人?」
「…いえ、香霖堂という古道具屋の店主です。うちもたまにお世話になってます」
「―――ッ」

香霖堂、という名前を聞いた途端、永琳の切れ長な双眸が僅かに見開いた。
変化は一瞬。すぐさま仮面を被り直し、冷たささえ漂わせた元の表情に戻す。
だが、鈴仙はその一瞬を見逃さなかった。
師匠が驚いている? 常に沈着冷静で、姫様に関わる以外のことなら、何があっても滅多に表情を崩すことのないあの師匠が顔に出した? 何故、どうして? たかが一古道具屋の名前ごときで。
…どれだけ考えてもわからない。
八意永琳と香霖堂。この二つの関連性が何一つとして思い浮かばない。
永琳以上に驚く鈴仙に、稀代の薬師は、ニヤリと底意地の悪そうな笑顔を見せた。

「ふふ…。いつかは訪れようと思っていたのだけれど、まさかあっちから現れるとはね。
面白くなってきたわ。これは計画を前倒しにしなくてはねぇ…」
「し、ししょう…?」

一体何を考えておられるのですか?、とは聞けなかった。
聞いたら最後。自分も何らかの形で必ずとばっちりを被る、と理解していたからだ。
永琳があの笑みを浮かべる。
それは何かロクでもない事態を起こす事が確定された、予定調和の皮切りである。
呆然と立ち尽くす鈴仙にかまわず、永琳はいそいそと開発中の新薬が並べられている戸棚を漁っていた。
そして、いくつかの小瓶を懐に納め、足取り軽く鈴仙の横を通り抜ける。

「お客様は客間に通しているのかしら?」
「は、はひ。し、ししょう。せめて穏便に、穏便にお願いいたします」

部屋を出る直前、どこか楽しそうな声色で訊ねる永琳に、鈴仙は震える声で懇願した。
背中合わせに立っている為、すでに永琳の表情は窺えない。窺いたくも無い。
そんな鈴仙の心境を察したのだろうか。彼女はふふ、と小さな含み笑いを漏らした。

「実を言うと、まだ未完成品なのよねこれ。でもこんなチャンスは滅多にないのだし、逃す手はないわ」
「…………」

それだけ言い残すと、永琳は廊下の奥へと姿を消した。
鈴仙は静かに手を合わせ、哀れな古道具屋の主人の冥福を祈った。








「おっせーなあ…。いつまで待たせやがんだよ。あー、お腹すいた」

霖之助、慧音、妹紅の三人が、思い思いの場所で、永遠亭の客間に座して待っていた。
しばらくすると、妹紅がげんなりした口調で大の字に寝転がる。
その隣に座る慧音は、そんなじゃじゃ馬娘を慌てて諌めた。

「こ、こら妹紅。私たちはお願いする立場なんだからもっと礼儀を弁えてだな…」
「お願いすんのはそいつだろ。私らなんのカンケーもないじゃん」

正論である。交渉するのは霖之助であって、慧音と妹紅はあくまでオマケだ。
そもそも、霖之助の帰り道についていかなければならない慧音はともかくとして、何故妹紅まで一緒にいるのだろうか。
疑問に思った霖之助が口を開いた。

「待つのが嫌なら、先に帰ってくれてもいいんだよ。君にとっては退屈な話になるだろうしね」
「うっさいな。慧音がいないとご飯が食べられないじゃない。
慧音がいなきゃ、私だってこんな場所願い下げだよ」
「なら大人しく待っていろ。薦めた手前、私にはこの話を聞き届ける義務があるんだ」
「…ちぇ」

拗ねたように呟いて、妹紅はぶっきらぼうに座りなおす。
妹紅は、事のあらましを先ほど慧音から聞かされていた。
慧音の責任感の強さは妹紅も理解している為、強引に連れ帰ることも出来ないのだろう。
やれやれと口にする慧音に苦笑を浮かべつつ、霖之助は呆と今の現状について考えていた。

何とも妙な成り行きになってしまった。
勿論、ここまでお膳立てをしてくれた慧音には感謝している。
彼女がいなければ、自分は間違いなく、今この場にはいなかったであろう。
だけど、これで本当によかったのだろうか…? 霖之助は迷いを覚えた。
その迷いは、永夜事変の顛末を聞かせてくれた魔理沙の話に起因する。
いわく、永遠亭の住人は紅魔館並に、アブない連中が揃い踏みだとか。
特にそれを実質的に束ねる、月の頭脳、八意永琳の危うさは輪をかけているとか。
マッドサイエンティストだの、胡散臭さはスキマ妖怪に匹敵するだの、ロクな話はない。
…スキマ妖怪といえば、霖之助は彼女が大の苦手であった。
何を考えているのか底知れないあの微笑。相手の全てを見透かしているかのような、色の深い瞳は直視し難いものがある。
魔理沙の主観とはいえ、…いや、だからこそ正解に近いのだろう。
彼女と同質な女性が今この館にいる。それだけで霖之助の不安を駆り立てた。

―――そうか、僕は迷っているんじゃない。これから起こることに対して不安を抱いているんだ。

この部屋まで案内してくれた鈴仙は、もうすでにこの場にはいない。
屋敷に訪れた用件を伝えると、わたしの管轄外だから、と誰かを呼びに部屋を出てしまったのだ。
そうなると、次に部屋に訪れるのは、その八意永琳である可能性が高い。
屋敷のお金を独断で使うなんて、下っ端の兎たちには出来ないであろうし、当主である輝夜は先の弾幕戦で気を失っている。
月の頭脳とまで謳われる天才相手に、どのような駆け引きを行えばいいのか、霖之助にはまるで思い浮かばない。
…いや、最悪何も買ってくれなくてもいい。ともかくこの場を無事に終わらせられたら。
祈るように黙考していると、客間の襖がガラリと開いた。

「お待たせしてしまい申し訳ありません」
「あ、いえ…。おかまいなく。こちらこそ突然の訪問をお許し下さい」
「かまいませんよ。こちらとしても、手間が省けたというものです」
「…は?」
「ふふ、お気になさらず。…そういえば自己紹介が遅れました。
お初にお目にかかります。私はこの屋敷で薬師を勤めさせて頂いている八意永琳というものです」
「…僕は森近霖之助といいます。魔法の森にあるしがない古道具屋を営んでいます」

現れたのはやはり、と言うべきか。
怜悧な顔立ちに、優しげな微笑みを浮かべた八意永琳だった。
やや緊張しながらも、霖之助は慇懃な態度で、自分の向かい側に腰を下ろす永琳に頭を下げる。
慧音と妹紅は、部屋の隅で二人のやり取りを静観していた。
永琳は、そんな部外者の彼女らをチラリと一瞥すると、急に困ったような顔をした。

「あらいやだ。私ったら、お客様がいらしたのにお茶も出さずに」
「結構。私たちはそいつの連れだ。かまわず話を進めてくれ」
「そう、…残念」

慧音の言葉に、永琳は澄ました顔で、さして残念でもなさそうに呟いた。
かくいう慧音は、何故か露骨に顔を歪めている。
永琳という人間を知っているからこそ、その態度が白々しいとでも感じたのかもしれない。
霖之助は霖之助で、先ほどのやり取りの真意を計りかねていた。
手間が省けた、とはどういう意味なのだろうか。
三人三様の思惑が蠢く中で、こうして香霖堂の進退を賭けた話し合いが始まった。








「…単刀直入に言いますと、我が永遠亭ではそちらの商品を購入する気はありません」

霖之助と永琳が、机をはさんで向かい合うこと数十秒。
永琳の最初の一言で、香霖堂救済計画は完全に頓挫してしまった。
肩透かしを食ったかのように、ガクッとずっこける霖之助。
少しぐらい彼の話も聞いてやれ、と無情な薬師に食って掛かる慧音。
心底どうでもよさそうに、大きなあくびを一つ垂れる妹紅。
屋敷の庭に放置してある、商品が目いっぱい積まれた荷車に冷たい風が吹く。
本当なら永琳に庭までご足労願い、商品を実際に手に取ってもらう手筈だったのだが、どうやらもうその必要もないようだ。
霖之助は大きく息を吐いた後、すっくと立ち上がる。
がっかりしたような安心したような、複雑な心持ちだった。

「もういいんだ慧音。断る人に無理強いするわけにはいかない。押し売りではないのだからね。
…八意さん、お騒がせして申し訳ありませんでした。僕たちはこれで失礼します」
「ッ! お前がそんなだから、得るものも得られないんだぞ。何故そんなに消極的なんだ!」
「いいじゃん慧音。ダメって言われてるんだから。さっさと帰ろうよ」

「―――お待ちなさい」

抗議の声をあげる慧音を制しながら、身支度を整える霖之助に、永琳の呼び止める声がかかる。
小さな声だったが、聞くものを振りかえさせる確かな存在感が、それにはあった。

「永遠亭と香霖堂の取引のお話はこれでおしまい。それは確かなことでしょう。
…ですが、ここからは八意永琳と森近霖之助という個人間の取引のお話を始めたいのですが」
「……ど、どういうことでしょう」
「簡単なことです。…私は貴方に興味があった。会って話がしてみたかったのよ」

そう言って永琳は腕を組み、どこか熱を帯びた瞳で、霖之助の身体を上から下までなめるように観察する。
どうしようもない怖気が霖之助を襲った。
まるで眼前に、魔力が集束された八卦炉を突きつけられたかのような、確かな終了の予感。
冷や汗が止まらない。喉がカラカラなのに、唾を嚥下することさえ出来ない。
慧音も呆然とした顔で、永琳と霖之助の顔を見比べている。
その頬が朱に染まっているのは、きっと気のせいではないのだろう。

「け、結構です。これ以上僕から話すことは何もありません」
「つれないわね。でもこんな場所まで行商に来たということは、お金に困っているのでしょう?
私の話は、貴方にとっても悪い話ではないと思うのだけれど」

不安は的中した。彼女は最初からこの話を持ちかけるために現れたのだ。
マッドサイエンティストと揶揄された永琳が、霖之助に求めるもの。
人体実験?新薬の被験者?それとも…。報酬の代わりに何を求められるのかも知れない。
そもそも何故よりによって自分なのだ? 混乱した思考がぐるぐると霖之助の頭の中を駆け巡る。
…確かにまとまったお金は欲しい。彼女の提案も聞くだけの価値はあるのかもしれない。
だがそれでも、やはり命あっての物種なのだ。
聞いてしまえば最後、もう後戻りなど出来ない気がする。
一冬を越せるだけの蓄えと引き換えに、自分の命を危険に晒す真似など出来るわけがない。

「…いえ。もう一度言います。僕から話すことは何もありません」
「…………」

毅然した態度で、きっぱりと断る霖之助の目を見て、永琳の顔から笑みが消える。
まずい、怒らせてしまったか、と思いつつもこれが自分の出した結論なのだ。
今年は苦しい冬を迎えることになりそうだが、後悔はない。
失礼します、と頭を下げ、霖之助は今度こそ退室しようとする。
慧音はどこかホッとしたような表情で、妹紅と共に霖之助の後に続く。
商人ならもっと食い下がれ、と先ほどまで反論していたのだが、どうやらもうその気はないようだった。

「……貴方には薬を受け取ってもらいたい。飲まなくてもいい。私からの条件はそれだけよ」

なおも紡ぐ永琳の言葉に、思わずピタリと霖之助の足が止まってしまう。
永琳を見ると、彼女は不服そうな顔から一転して、再びたおやかな笑みを浮かべ話を続けた。

「思ったよりも意志の固い人なのね。
…というよりも、よほど私のことを悪く言う子がいたのかしら?」
「…そういうわけではありませんが」

霖之助の頭に、無邪気に笑う黒白の魔法使いの顔が浮かぶ。
しかし、流石に本人を前にして、それを言うわけにはいかないので誤魔化した。
それにしても、薬を受け取るだけでいい、とは一体どういうことなのだろうか。
もしかすると、最初は薬を飲んで欲しい、と考えていたのかもしれない。
だが、予想外に霖之助の拒絶反応が大きかったので、妥協という形でアプローチを変えたのか、はたまた始めからそのつもりだったのか。
答えは永琳のみぞ知る、である。
何はともあれ、霖之助は反応した。してしまった。
それはつまり、永琳の手の平に乗せられてしまった、と同義である。
まあ座りなさいな、と声を掛ける永琳に、霖之助は警戒しながらも、永琳の前に再び腰を下ろした。
これに驚いたのが慧音だ。

「バッ、馬鹿な、正気か霖之助! そんな得体の知れない条件に乗るというのか!?」
「話を聞くだけだよ。特に危険はなさそうだし、薬を受け取るだけで生活が楽になるのなら、確かに僕にとっても悪い話じゃない」
「それがその女の手口だ! 相手の警戒を巧妙に解いて、弛み切った喉元をブスリと刺すような奴なんだぞ!」
「……そんな人を僕に紹介しようとした君は何なんだ?」
「ぐっ…、それとこれとは話が違う。商品を買い取ってもらえないのなら、今すぐに帰るべきだ!」

顔を真っ赤にした慧音が、本人の前で言ってはいけない永琳像を捲し立てる。
食い下がれと言ったり、帰れと言ったり、今の慧音の言動は支離滅裂だ。
そんな慧音を見た妹紅が、何かに気付いたかのように驚愕の表情を浮かべると、憎悪にも似た怒りの炎をその瞳に宿し、霖之助を睨み付ける。
僕が一体何をしたんだ、と盛大なため息を吐く霖之助に、永琳はクスクス笑いながら、貴方も大変ね、と声を掛けた。
さっきの慧音の暴言は全く気にしていないようだ。
華麗にスルーしてくれたのか、事実だから反論しないのかは判別の難しいところであるが。

「少しはその気になってくれたようで嬉しいわ。
さっきも言ったけど、貴方に興味があるのは本当。
だから決して悪いようにはしないし、強制もしない。全ては貴方の意志に委ねましょう」
「……貴方ほどの聡明な方が、何故僕なんかに興味を持たれたのですか?」

これ以上説得しても無駄だと悟ったのか、その場に立ち、イライラと二人の話を見守る慧音。
妹紅は霖之助から視線を外し、今度は不安そうな顔で隣に立つ慧音を見つめていた。

「その理由の前に、まずは薬を実際に見てもらいましょうか」

そう言って永琳は、懐の中からマッチ箱ほどの大きさの小瓶を二つ、机の上に置く。
コトッと小気味よい音を立てた二つの瓶。それぞれに入った液体は、対照的な色合いをしていた。
一つは薄い紅色。もう一つは吸い込まれるように深い藍色の液体だった。
…赤いのはともかく、濃青の液体はかなり毒々しい印象を抱いてしまう。

「…これは一体何の薬なのですか?」

霖之助が恐る恐る訊ねる。
受け取るだけとはいえ、何の薬かだけ聞いてみても損は無い。
すると、待ってましたとばかりに、永琳は太陽のように底抜けに明るい笑顔を見せた。
クールビューティーな印象を抱かせる彼女が、不意打ち気味に見せた無邪気な笑顔に、霖之助はついつい顔を赤くしてしまう。

「赤いほうが、飲んだ者の性別を転換する薬。青いほうはそれを元に戻す特効薬よ」
「ブッ!」
「…はぁ!?」

その言葉を聞いた途端、霖之助の紅潮した顔が、みるみる内に青くなっていく。
後ろで聞いていた慧音が、衝撃のあまり唾を噴き出した。
この時ばかりは妹紅も、永琳の言葉に驚きの声をあげて反応してしまう。
三人の反応を見て、永琳は満足げに微笑むと、話を続けた。

「店主さんには、この二つの薬を預かってもらいたいの。
…本当はこの場で飲んで欲しかったのだけれど、無理にとは言わないわ。
家に持ち帰った後は、こっそり家で試してみるなり、捨てるなり好きに」
「ちょ!ちょちょちょっと待ってくださいっ!」

心底楽しそうに語る永琳の言葉を、霖之助は今までになく取り乱した様子で遮った。
あまりのことに意識が無縁塚あたりまで飛んでいたのだが、覚醒は早かったようだ。

「い、一体何なんですかその薬は!そ、それよりも何故僕にそんなもの薦めるんですか!?」
「女を男にして何が楽しいの?」
「…………」

言葉も無かった。
だがしかし。何故かその言葉に無限大の説得力を感じるのはこれ如何に?
慧音も何か言おうと口を開きかけるが、妹紅がそれを手で制する。
今の流れを後押しするかのような妹紅の行動に、慧音は咄嗟に食いかかろうとするが、妹紅の目を見て止まった。
彼女の目が真剣そのものだったからだ。どうしてそんな目をする、と慧音は戸惑う。
そんな二人の水面下のやり取りに、勿論霖之助が気付くはずもなく、幾分冷静さを取り戻した面持ちで、目の前で笑う永琳と視線を合わせた。

「…やっとわかりました。貴方が僕に興味を持つ理由が」
「ふふ、物分りのいい子ね。そうよ、私は貴方が男だからこの話を持ちかけたのよ。
多くの妖怪と人間が共存して住まう、この広大な幻想郷の中で貴方は唯一と言っていい男キャラ。
私の実験を進め、興味を満たしてくれる為に生まれた申し子のようだわ」

うっとりとした表情で語る永琳に寒気を覚えつつ、霖之助は再び口を開く。

「…聞き捨てならない部分もありますが、それよりも疑問があります」
「ええ、何でも聞いて頂戴」
「唯一の男、とはどういう意味なのでしょうか?
確かに幻想郷の力ある者に女性は多いですが、里にも妖怪にも、ちゃんと男性はいます。
現に、今日僕が行商で里を回った際、多くの男の人と話をしました。
…別に僕でなくても、その人たちに声をかければ済む話ではないのですか?」
「…わかってないわね。私は男キャラと言ったのよ。その意味がわかる?」
「いいえ」

即答する霖之助に、永琳は目を細めたかと思うと、彼の後ろにいる慧音たちに視線を移す。
そして、妙な質問をした。

「貴方、後ろに立っている娘たちの名前がわかる?」
「は?……上白沢慧音に、藤原妹紅でしょう?何を分かりきったことを」
「じゃあ、私の名前は?貴方の名前は?」
「いい加減にからかうのは止めてください」
「その行商で会ってきたという男たちの名前は?」
「…………え?」

ワケのわからないやり取りに辟易していた霖ノ助だが、最後の質問で自分でも間抜けだと思えるような呆けた声を出す。
その反応にふっ、と勝ち誇ったかのような笑みを浮かべる永琳。

「わからないでしょう?里の住人の名前など。
この私にもわからないし、聞いたことがないわ。それが答えよ」
「…待ってください。聞いてないからわからないだけで、名前がないはずはないでしょう。
直接本人に会って、聞いてきたらどうですか?」
「無駄よ。設定にないもの」
「…せ、せってい?」

天才の言う事は、自分には何一つとしてわからない。
宇宙人か何かと話しているような気分になり、霖之助は頭痛を覚える。
…まあ、実際その通りなわけなのだが。

「そう、この幻想郷で名前、という設定を有している男性はたったの二人。
その内の一人は幽居して行方不明。…そして、もう一人は私の目の前にいるわ。
おわかりいただけるかしら? 神主の設定を持ち得ない者は、幻想郷ではいくら幸せに暮らしていても、汗水たらして働いていても、私たちにとっては背景と同じなの。
生きていない、とは言わない。
だけど、絶対に深く関わることのない、関わったとしても表沙汰になることはない不可侵領域であるのよ」

⑨と天才は紙一重というが、まるで彼女はその言葉の体現者のようだ、と霖之助は思った。
長ったらしい口上を終えた永琳に、霖之助は哀れみさえ含んだ視線を送る。
しかし、理性とは別に心の奥底に住まうもう一人の霖之助が、今の話に深く頷いているような気がした。








―――結局、霖之助は例の薬を持ち帰ることにした。
永遠亭からの帰り道。すっかり夜も更けた竹林を、行きと同じように慧音に荷車を引っ張ってもらい、霖之助はそれを後ろから押していた。妹紅はいつものように慧音の横に並んで歩いている。
あの後も永琳といくらか会話を交わしたのだが、女になることの素晴らしさを一方的に聞かされただけで、正直霖之助はゲンナリしていた。
しかし、とりあえずもらっておけば、当分食うに困らないお金が手に入る。
自身の腰に視線を送ると、ジャラジャラと音を鳴らす重い皮袋が目に入った。
選択肢など最初からなかった。
…なに、薬を飲まなければいいだけの話だ。
好きにしていいと言ったんだから、うちの棚にでも置いて、興味のある人に引き取ってもらえばいい。
霖之助はそう考えていた。当然ながら、自分はもう何十年も男として生きてきた身だ。
今更、女になるなど考えられないし、それに…。

「…飲まない、よな?」

ポツリ、と。帰り道全く口を開かなかった慧音が、不安そうにそんな呟きをこぼした。
自分の為にここまでしてくれた慧音を、怒らせるような真似はするべきではないだろう。
だが何故、彼女がそんな声をするのか、霖之助にはわからなかった。
……確かにここに至るまで、紆余曲折はあった。
しかし、結果的に彼女の提案は功を奏したのだ。腰にある重みがそれを教えてくれている。
だから、言い尽くせないほどの感謝も込めて、霖之助ははっきりと言った。

「飲まないよ。約束する」
「…そうか。それならいいんだ。すまないな変な事を聞いて」
「別に女になるのもいいんじゃない。なったところで何が変わるわけでもないし。
…っていうかむしろそれ私が欲しいくらいだよ。そしたら…慧音と…」
「? 何か言ったか妹紅?」
「な、なんでもないよっ!」

安心したように息を吐いた慧音から少し離れ、妹紅が何やら不穏なことを口にする。
しかし、その声も後半になるにつれ小さくなっていき、最後の方は蚊の鳴くようなぼやきとなっていて、霖之助や慧音にはほとんど聞き取ることが出来なかった。
蓬莱人に薬はほとんど効かない。
それがわかっているから、妹紅は無理に薬を取り上げるような真似はしないのだろう。
夜空を見上げた妹紅に一陣の風が舞い、無数の枯葉を躍らせた。

「…信じてるからな。霖之助」

自分に言い聞かせるかのような慧音の声もまた、風の中へと消えていった。
















3/ 魔理沙

たっぷり夜も更け、もうそろそろ日付も変わろうかとする深夜。
霖之助は、ようやく我が城である香霖堂へと帰ってくることが出来た。
荷車を小さな車庫の中に納め、裏口から中に入り、寝室に辿り着いた途端、広げっぱなしの布団の上にだらしなく寝転んだ。

「はあ~っ、疲れた疲れた」

思えば、今日一日は本当に歩きっぱなしだった。
朝は店から里まで歩き、日中は里の中を歩き回り、夕刻から夜に掛けては竹林を往復し、今の今まで残り少ない体力を振り絞って店まで帰ってきたのだ。霖之助じゃなくても足が棒になる。
荷車の上にある商品の山を、まだ店へと移してはいないが、それは朝起きてからでもいいだろう。
今夜はもう、何をする気にもなれなかった。
体力的な疲労だけでなく、精神的な疲労も大きい。
原因は勿論、永遠亭でのやり取りが主である。しかし、それ以外にもう一つ理由があった。
里から香霖堂までは相当な距離はあるが、半妖の霖之助なら荷車を転がしながらでも一刻もあればつく。
では何故、こんなに帰りが遅くなったのかというと、慧音の家で夕餉を頂いてきたからだ。
そこまでは良かった。その食事の席を覆う雰囲気に問題があった。

『なんでこいつにも飯を食わせるんだよ! さっさと帰らせればよかったのに』
『私の提案で帰りを遅らせたんだ。夕飯くらい振舞うのは当然のことだろう』
『…そんなに気を遣わなくてもいいんだけどね』

慧音の誘いでご相伴に預かる事になったのだが、それに抗議の声をあげたのが妹紅だ。
食事中もずっと、目で殺そうかという勢いで、視線という名の弾幕を霖之助に向かって放ち続けていた。
そのうち本物の弾幕まで飛んできそうな緊迫感の中では、せっかくの慧音の手料理も味など全く感じない。
あそこまで嫌われるようなことをした覚えはないのに、…難しい子だ、と彼女の第一印象をまとめながら、ゴロリと寝返りを打った。
布団の上で、霖之助は虚空を見上げ、今日一日の出来事を次々と反芻する。
その中でも取り分け大きいのは、今も彼の懐に入っている妙な薬の存在だった。

「女になれる薬…か」

薄紅色の液体が入っている小瓶を利き手で取り出し、目の前まで掲げてみる。
窓から差し込む月の光を浴びているせいか、仄かに輝いているように見えた。
次いで、もう片方の手で藍色の液体が入っている小瓶を、同じように目の前まで持ち上げる。
薬の効果を打ち消す薬。特効薬というよりも、中和剤というべきかもしれない。

「戻れる…んだよな。いつでも」

うつらうつらと舟を漕いでいた頭で、思わずそんなことを口にする。
そこで目を覚ました。バッ、と上体だけを起こし、慌てて薬を懐にしまい直す。

「な、何を考えていたんだ僕は」

疲れた頭とはいえ、一瞬この薬を肯定しかけていなかっただろうか。
全く興味がない、など嘘だったのだ。
勿論、永久に女になるなど御免被る。それは霖之助の中にある絶対だ。
だが、好きなときに戻れるとなれば、この上ない甘美なる響きとなって、彼を惑わしてしまう。
薬を飲んで、この身体に及ぼす作用はどんなものか。一体自分がどんな女性に化けてしまうのか。
実に興味に堪えない。
一人になる夜のうちに飲んで、明ける前に戻れば誰にもバレることなどないのだ。

今、ここで飲んでしまうか?

「―――ダ、ダメだダメだ!慧音を裏切る気か僕はっ!」

耳元で薬師の影が囁いているような気がする。我慢するな、楽になってしまえ、と。
ブンブンと頭を振ってそれを追い払うと、霖之助は頭から布団を被って眠りに就こうとした。
だが、考えが一度もたげれば、いくら振り払っても中々剥がれ落ちるものではない。
特に考える事が生業である、彼のような学徒にとっては尚更である。
頭にこびりついた影がなおも霖之介を誘惑し、悶々とした眠れぬ夜を過ごさせる。
疲れきっていたはずなのに、結局その夜はほとんど眠ることが出来なかった。








―――永遠亭の朝は早い。
兎は一般的に夜行性と言われているが、実際は明け方や日暮れ頃がもっとも活発になる時間帯である。
珍妙な客人たちが訪れた夜が明けても、永遠亭の朝は何も変わらない。
沢山の使いの兎たちと一緒に、鈴仙も雑巾片手に長い縁側をパタパタと走っていた。
と、縁側に腰掛けている永琳が、鈴仙の目に留まった。
手元にある湯飲みを手に取り、ズズっとすするその姿は、どこぞの巫女を彷彿とさせる。
珍しい光景とまでは言わないが、いつも気忙しく手を動かしている永琳がこんな朝早くから、まったりと寛いでいるなど、少なくとも鈴仙の記憶にはあまりない。
昨夜の出来事を思い出す。
実を言うと永琳と霖之助たちの話を、彼女も部屋の外から聞き耳を立てていたのだ。
小さな会話もはっきりと聞き取れたのは、持ち前の聴力の賜物である。
別に店主が心配だったわけではない。ぶっちゃけ彼がどうなろうと知ったことではなかった。
だが、あれほど楽しそうな永琳を見るのは実に久しぶりなので、事の顛末が気になって仕方なかったのだろう。
天才の発想なのだ。案の定、話の内容は凡人である鈴仙にはさっぱり理解出来なかった。
一つだけ言えるのは、例の薬の矛先が自身に向けられなかった事を神に感謝するばかりである。
どうしたのだろう、とまたもや好奇心に動かされた鈴仙は、どこか遠くを見つめている永琳に声を掛けた。

「おはようございます。こんな朝早くからくつろいでるなんて珍しいですね」
「……おはよう。新薬研究の為の費用を彼に充ててしまったから、今日は特に何もすることがないのよ」
「…はぁ」

そう言って微笑む永琳に、鈴仙は呆れたように返した。
その説明に前置きはない。どうやら永琳には、盗み聞きしていたのがバレていたようだった。

「いくらなんでも無茶苦茶ですよ。師匠個人のお金とはいえ、あんな大金ポンと渡すなんて。
もし飲まずに捨てられたら、どうするおつもりなんですか?」
「…大丈夫、彼は飲むわ。必ずね」
「どこからそんな根拠のない自信が出るのですか。わたしはさっさと捨てちゃうと思いますけど」

師匠は大金をドブ川に捨てたようなものだ、という認識があるのだろう。
鈴仙の言葉は普段よりも少々辛辣なものだった。
薬の内容を知らされた時の霖之助の態度は、遠くから窺っている鈴仙でもわかるくらい、嫌がっているようにしか聞こえなかった。それもそのはずだ。あんな薬を好んで飲もうとする人間の方がおかしい。鈴仙にはどうしても、彼が薬を飲むとは思えなかった。
そんな弟子の態度にかまわず、永琳は意味ありげな笑みを返した後、突然関係のない話をし始めた。

「…姫と藤原の娘。二人が殺し合い以外の勝負を興じたとしましょう。
それぞれが別の部屋で我慢比べをするの。お題はそう…ね。
どちらが先に寝てしまうか。睡魔との耐久レースということにでもしましょうか」
「…? し、師匠。突然何を言っているのですか?」
「いいから黙ってお聞きなさい。
…勝負から二日経ち、三日も経てば、流石の姫もウトウトとしてくるでしょうね。
しかし負けん気の強いあの子のことだわ。
意地でも負けない、と歯を食いしばって眠気に耐えることでしょう。
そんな主の姿を見続ける。私たちとしては、それはとても忍びないこと。
…ねえ、うどんげ。どうすれば姫に気持ちよく眠ってもらえるかしら?」
「え、えーと…。バットか何かで夢の世界へと誘えばよいのではないでしょうか」

曲がりなりにも主人に対して、そんな過激な発想を素で浮かべる鈴仙に対し、流石は私の弟子ね、と永琳は冷や汗を浮かべる。
静かに首を振った永琳は、穏やかな口調で答えを紡いだ。

「それも面白いけれど、もっと簡単な方法があるわ。
…逃げ道を作ればいいのよ。襲う誘惑を肯定出来るだけの言い訳を用意してあげればいい。
先のケースなら、姫に一言、相手はもう寝てしまった、と声を掛けてあげればいいわ。
それで姫は安心して眠りにつくでしょう。そこに、嘘と疑う判断力はすでに残されていない。
何しろ限界だったのだからね」

鈴仙がハッとしたように、師の目を見る。もしかして、

「…あれは特効薬じゃないのですね?」
「言ったでしょう、未完成品だと。
薬とはそれに対応し得る、対の作品も作って初めて完成と呼ばれるのよ」
「そ、それじゃもう元に戻す方法はないのですか!?」
「…馬鹿ね。同じ薬をもう一度飲んで、再び転換すればいいだけじゃない」

そ、そういうものなのだろうか。
それならもう完成と呼んでもよい気もするが、彼女の考えている事は計り知れない。

「でも、一度薬に口をつければ最後。再度この屋敷に訪れない限り、彼が元に戻ることはない。
…ふふ。彼がどんな姿に変わり果て、どんな顔をして私の前に現れるのか、本当に楽しみだわ」
「そ、そんな悪趣味な道楽の為に、私財を投じたのですか?」
「勿論、それだけが理由ではないわ。…まあ、それはなってからのお楽しみでしょうね」
「…?」

これ以上何を考えているのか。考えても無駄であろうが、そうせずにはいられない。
…しかし、その前に鈴仙にはまだ拭い去れない疑問が残っている。
永琳が、特効薬という布石を用意しているのはわかった。
確かに追い詰められた者なら、その逃げ道に飛び込むかもしれない。
だが、果たして彼がそこまで追い詰められてくれるのだろうか?
その前に捨て去ってしまう可能性も、捨てきれないのではないだろうか?

「…やっぱりわたしにはわかりません。睡眠欲と好奇心は違います。
第一、彼はあんなに嫌がっていたではないですか。
そこまで追い詰められるほど葛藤するとは、とても思えません」
「そうかしら? 人目のつく場所では、確かに理性を優先させるのでしょうけどね。
どこか落ち着ける場所で一人寛げば、心は丸裸になるわ。その人本来の性根が浮き彫りになる。
…私にはわかるわ。彼もまた好奇心の塊。一度目に留めた事象を無視せずにはいられない。
魔法使いや人形使いと同じ、根っからの知の探究者」

知識欲とは時に何よりも重いのよ、と言い残し、永琳はその場を静かに去った。
だから研究を断念までして、あんな薬を渡したのだろうか。永琳もまた、自身の知識欲に従って。
あの人が飲むと言ったら、彼は必ず飲むのであろう。鈴仙は無理矢理そう納得する事にした。
生い茂る笹の葉の隙間を縫って、朝の日差しが彼女の顔へと降り注ぐ。
日はすっかり昇ったようだ、と木漏れ日の眩しさに鈴仙は目を細めた。








霖之助にとって長い一日が始まった。

寝不足で重い頭を冷たい水での洗顔で誤魔化し、昨日の疲れを残したまま、居間にあるコタツで寝そべっていた。
開店時間まであと僅か。なのに、店の戸は未だ閉じられたままだった。
いつもなら店の準備に勤しむ時間帯であるはずなのに、準備どころか昨日の行商で荷車に載せていた数々の品物を店に移す事すらしていない。
おかげで店の棚には、あちらこちらに空きがある。
いかんな、と思いつつもやる気が起きない。
出来るならこのまま二度寝してしまいたいくらいだ。
どうせお客なんてあってないようなものなのだし、今日は臨時休業にしようか、などと商売人にあるまじき考えを抱いていた矢先。
ガシャンッ、と何かが割れたかのような甲高い異音が、霖之助の耳に入った。

―――はあ。今日ばかりはあまり来て欲しくない常連客のお出ましか。

霖之助は、海よりも深いため息を吐くと姿勢を正し、突然の闖入者が顔を出すのを待った。
すると間もなく、黒いとんがり帽子に、黒を基調としたドレスと白いエプロンを身に纏った金髪の少女が、その可愛い顔にシワを浮かべつつ、しかめ面で霖之助の前へと姿を現した。

「おい香霖、もう日は完全に昇っているのに、何でまだ店が閉まっているんだ? 
おかげで窓から入店する羽目になったじゃないか」

行儀悪い真似させるなよな、とぷんすか怒るのは霖之助の旧い顔なじみ。
黒白の魔法使い。幻想郷のトラブルメーカー。香霖堂の困った常連客第一号。霧雨魔理沙だ。
店の窓を割ったことをまるで悪びれていない。それどころか文句まで垂れてくる。
いつものことと言えばいつものことだが、霖之助は顔をヒクヒクと引き攣らせた。
体調不良から、少し沸点が低くなっているのかもしれない。

「…君は何度言えば、店の物を壊さずに出入りしてくれるんだい?
ハァ…。せっかくまとまったお金も手に入ったのに、すぐに底を尽きそうだよ」
「あー?店が開いてないから強行突破したんじゃないか。寝坊したお前の自業自得だ」
「ノックさえ覚えれば、それで済むことだろう」

お互い不機嫌そうな顔で、しばしの間睨み合う。
冬特有の、朝の清涼な空気が重たくなったのを感じたのか、魔理沙が気まずそうに目を反らした。

「…わかったわかった。窓ガラスくらい後でわたしが直してやるよ。
それより香霖、今日のお前ちょっと変だぞ?何か機嫌悪そうだし、目の下にクマが出来てるぜ」
「ん?…ああ。確かにちょっとイライラしていたかもしれない、な」
「それに、まとまった金ってなんだよ。万年貧乏の店主に何か大きな仕事でも入ったのか?」

貧乏は半分くらい君のせいだよ、と霖之助は言いたかったが、言えばまた険悪な空気になるであろうからやめた。
魔理沙は、怪訝そうな顔でそんな霖之助をじーっと見つめている。
その真っ直ぐな瞳に、昨日の出来事をどこまで話すべきか、霖之助は逡巡した。

「…昨日、里まで行商に行ったんだが、永遠亭の羽振りが思っていたよりも良くってね。
これでしばらくは貧乏暮らしからオサラバさ」
「…あんなとこまで出張ってたのか。しかし、よくあいつらがこんなガラクタ買ってくれたな」

そう言って魔理沙は、陳列してある雑多な商品を、胡散臭そうに見渡す。
…嘘は言っていない。ただ肝心の薬の件については、魔理沙にも今は伏せるしかなかった。
八意印の妙薬は、今もまだ霖之助の懐の中で眠っている。
その僅かな重みに霖之助は軽い後ろめたさを感じつつも、魔理沙の横を通り抜け、店の入り口へと向かった。
そして、戸の鍵を開ける。香霖堂の開店だ。

「…さて、これから君はどうする?ゆっくりしたいならお茶くらい出すけど?」
「いらないぜ。今日の香霖は何かつまらんからな。霊夢のところにでも行くさ」

帽子を目深に被り直し、魔理沙は開いたばかりの戸口から外に出ようと歩き出す。
…少し怒らせてしまったかな、と霖之助は罪悪感に駆られたが、魔理沙の選択は正直な話、彼にとってありがたいものだった。
今は一人でいたい。きっとそれが、傍目からでもわかるくらい顔に出ていたのだろう。

―――ごめんな、魔理沙。

箒に跨って、青い空に吸い込まれるかのように小さくなっていく、魔理沙の背中を見送りながら、霖之助は心の中でそっと謝った。








「おーい香霖、機嫌なおったか?」

そろそろ日が沈もうかとする頃合。
夕飯の準備をしていた霖之助の耳に、店の方から魔理沙の呼びかける声が響いた。
その声に驚いた霖之助は、少し早足気味に声の方へと向かう。
三日に一度、と結構な頻度で香霖堂に出入りする魔理沙であるが、日に二度訪れるのは珍しい。
朝の件を気にしてくれてたのかな、と申し訳ない気持ちとは裏腹に、顔は自然と綻んでいる。
気が立っていたとはいえ、朝は半ば追い返した形で魔理沙と別れたのだ。
時間が経ち、気持ちが落ち着くにつれ、じょじょに霖之助の後悔は大きくなっていった。
今日は、魔理沙以外の来客が来ていないので、ずっと一人で過ごしていたのも一因であろう。
一人になると、いらないことまでゴチャゴチャ考えてしまうものだ。
これくらいの喧嘩なら今までにも何度かあったし、魔理沙もすぐ忘れてくれるさ、と努めて気にしないようにしていたが、それでも心に刺さった小さな棘が抜ける事はない。
だから、今度こそいつもの自分に戻って、魔理沙を安心させてあげよう。霖之助はそう思った。

「いらっしゃい、今度はちゃんと入り口から入ってくれたようだね」
「失礼なやつだな。人がわざわざ壊れた窓を修理しに来てやったのに」

不満げな言葉を返すも、霖之助の顔を見るなり、魔理沙はニカッといつものように笑った。
…よかった、どうやらいつもの僕に戻っているらしい、と内心ホッとする。

「そういえば、そんなことも言っていたな。覚えていてくれたのか」
「そんなワケないだろ。たった今、思い出してやったんだぜ」

そう言って魔理沙は、壊れた窓のほうへと歩いていく。
素直じゃない彼女の事だ。きっと再び店に訪れる、仲直りのきっかけにしたかったに違いない。
霖之助は破顔すると、割れたガラスを復元している魔理沙に近づき、声を掛けた。

「…へぇ。そういう魔法は苦手じゃなかったっけ?」
「ナメんなよ。こちとら日々成長中だ。お前みたいにぐうたらしてるわけじゃないんでね」
「…ま、今日だけは反論しないでおくよ。それよりも夕飯食べていくか?」
「おー食ってく食ってく。へへ、美味そうな匂いさせてるじゃないか」

小さな鼻をスンスンと動かすと、きゅ~っと彼女の腹から可愛い音が鳴る。
頬を紅潮させる魔理沙。
霖之助は聞こえなかったフリをして、二人分の夕食の準備をしようと、彼女に背を向けた。








食事を済ませた霖之助と魔理沙は、こたつを挟んで、湯飲みを傾けながら雑談と洒落込んでいた。
店はもうとっくに閉めている。今日の香霖堂のお客様は、騒がしい妹分ただ一人だ。
話題は、ここ最近のお互いの出来事が主だったが、そこで魔理沙が霖之助の昨日の行商について訊ねてきた。
どうやら彼女は、それに一番興味があるらしい。

「永遠亭の連中は一体何を買っていったんだ? 薬草とか鉱石くらいしか思いつかないぞ。
…でも、それじゃそんな大金はいただけないだろうしなー」

部屋の隅に置いてある円銀の詰まった皮袋を、魔理沙は物欲しそうな目で見やる。
…補足説明すると、彼女は蒐集癖や、人の物を勝手に持ち帰るという悪癖を持っている。
いわば半分泥棒のようなものだ。香霖堂も何度やられたかわからない。

「…おいおい、それは流石に持ち帰らないでくれよ? 僕が路頭に迷ってしまう」
「わかってるって。でも何を売ったのかくらい教えてくれてもいいだろ」

瞳をキラキラと輝かせて、コタツの上に身を乗り出す魔理沙は興味津々といった感じだ。
恐らく、自分も同じものを持ち込んで永遠亭に掛け合う腹積もりなのだろう。

―――さて、どうするか。

霖之助は考えた。
ここで正直に、薬のことまで包み隠さず魔理沙に説明するべきか。
それとも、適当にはぐらかして誤魔化し続けるか。
嘘だけはつきたくなかった。
滅多に表に出さないとはいえ、自分を少なからず慕ってくれているこの少女を欺き、嫌われたくはなかったからだ。
だが、好奇心旺盛な魔理沙のことだ。薬の存在を明かせば、嬉々とするだろう。
いらないならわたしによこせ、とまで言ってくるかもしれない。
そうなったら自分は、この薬を手放さなければならなくなる。断る理由がないからだ。
それは…。

―――僕は嫌がっている…のか。この薬が他人の手に渡ることを。

『嫌だ。誰にも渡したくない! これは僕のものだ!』

そんなことを耳元で叫ぶ、霖之助ではない霖之助の存在を、彼ははっきりと自覚していた。
困惑する。
何故? どうして? 決して飲まないと決めていたはずなのに。
抑え付けようと必死に抗う理性に対し、本能とも呼べるであろう霖之助の分身がなおも喚く。

『お前はそれでいいのか? 目を逸らしているだけじゃないのか!?
僕は欲しいぞ! まだ出会ったことのない未知の体験をこの身に甘受したい!』
『う、うるさい。だまれ。慧音と約束したんだ。決して手は出さないと。
僕の遊び心など二の次だ。さあ、早く魔理沙に打ち明けてこんなもの引き取ってもらえ!』

鬩ぎ合う二人の自分に、霖之助は心の内で身を丸め、頭を抱えて叫んだ。

―――ぼ、僕は…僕はっ!

霖之助は、ついに口を開いた。




「……なあ、魔理沙。女になる、ってどんな気分なのかな?」

突然の霖之助の問いに、茶を飲んでいた魔理沙がブーッ! と目の前の霖之助に向かって噴き出した。
細い顎に滴るお茶だったものを、彼は無言のまま、手元に置いてあったタオルで拭う。
魔理沙はそんな霖之助にかまわず、顔を真っ赤にして怒鳴った。

「な、ななな何言ってんだ香霖! やっぱ熱でもあるのか!?
それとも…まさか…、おおおまえそそそそっちの世界に!?」
「そんなことは間違っても在り得ないから落ち着いてくれ」

真っ赤になったかと思ったら、今度は真っ青になって部屋の隅まで後ずさる魔理沙。
予想以上に大きな魔理沙の反応に驚きつつも、霖之助は断言する。
魔理沙が、半泣きの顔で怯えるように霖之助を見る。
その顔は、さっきまで交わしていた会話の内容など微塵も覚えていない様子だった。

「そ、そんなこと言われても、わたしにわかるわけないじゃないか。
…生まれたときから女なんだからさ」
「…それもそうだよな。ごめん魔理沙。変な事きいて悪かった」
「……?」

何とか持ち直した魔理沙が、か細い声でそんなことを言った。
だが、霖之助はそれで満足したのか、やや強引にこの話題を打ち切る。
珍しく彼に振り回される形になった魔理沙は、不満そうに形のいい柳眉を八の字にし、ハテナマークを浮かべるばかりだった。
そんな魔理沙に困ったように微笑みながら、霖之助は心の中で一言呟いた。

―――僕は、…最低だ。








夜も更けた。
霖之助は、明かりも控えめに、薄暗い居間で一人ポツンと立ち尽くしていた。
その手には、紅色の液体が入った小瓶が、握られている。
…目を瞑る。
不安そうな慧音の顔、いたずらっぽい微笑を浮かべる永琳。真っ赤になって喚く魔理沙。
様々な顔が浮かんでは消えた。
そして、あの時の薬師の言葉が甦る。

『この薬に副作用などは一切ない。それは八意永琳の名に掛けて約束するわ。
能力が失われることもなければ、貴方の人格が変わるわけでもない。変化するのは外見だけよ』

甦る。

『…どうしてそこまで拒むのかしら?私が言うのもなんだけど、少女とはとてもいいものよ。
瑞々しい肌。柔らかな髪質。甘い声色。貴方なら相当の美少女になれると思うのだけど』

よみがえる。

『森近霖之助。貴方にとって、全てにおいて優先される事柄とは何かしら?
…それは飽くなき究明心。愛情も道徳も倫理も常識も、私たちの前では取るに足らない瑣末事。
素直におなりなさい。この機を逃したら…、二度とこんなチャンスは巡って来ないのよ』

思い出したくもないのに、甦り続けるっ!
ダンッ、と衝動的に壁を殴りつけた。
普段の霖之助からしたら、考えられない行動だった。
ハァハァ、と荒い息をつき、震える手で小瓶を目の前まで持ってくる。
最後に悲しそうな慧音の顔が一瞬浮かび、霖之助は固く目を瞑る。

―――すぐに戻るから、今夜だけだから、…だから慧音。ごめんっ!

そして、小瓶の栓を抜き、中の液体を一息に飲み込んだ。








変化はすぐに訪れた。

「グッ!グアァァッ!」

身体が熱い。
いや、身体の芯が異様な勢いで加熱されているのだ。
まるで内臓全てが発火したかのような猛烈な苦痛に、霖之助は獣のようなうめき声をあげた。
脂汗が止まらない。とても立っていられず、部屋の隅にもんどり打って倒れる。

「ハッ!…ッガァ!グ、ウウゥゥ」

身体が、ばらばらになる。
そんな錯覚すら抱かせる痛みに、霖之助は必死に自分の身体を抱きしめて耐える。
どこかへ行ってしまいそうな四肢が、逃げてしまわないように。繋ぎとめるように。
目を開けている余裕なんかないが、わかる。
自身の肉体が急ピッチで再構築される生々しい感覚が。
ヒトゲノムが、八意永琳の白魚のようにしなやかな指先によって、次々と書き換えられていく。
その不快感にこらえきれず、霖之助はついに絶叫した。

「…ウッ、うわああああああああああああああっ!」








―――目が、覚める。

自分はどれくらい気を失っていたのだろう、と霖之助はまだ気だるさが残る体で立ち上がった。
…と、そこで違和感に気付く。
視点がいつものそれよりも数段低い。ハッとして自身の手を見やった。
さっきまで身にまとっていたはずの服なのに、まるでサイズが合ってなくブカブカだ。
袖の中に隠れてしまっている手の先を、もどかしくも袖を捲り上げて手繰り寄せる。
そこには赤ん坊のように、白くて小さな手の平があった。
次に、あー、あー、と発声してみせる。
自分の本当の声などわかりにくいものではあるが、それは明らかに普段の野太い声とは異なっていた。
両肩に何か軽いものがかかっているのがわかる。
何であるか確信を込めて、霖之助は後頭部を両手で触ってみた。
さっきまでのゴワゴワとした剛毛は形を潜め、代わりに絹糸の如き柔らかな感触を持つ猫っ毛が、自身の背中まで伸びていた。

霖之助は、慌てて洗面場まで走ると、鏡台の前に立つ直前、目を瞑る。
ドキドキと動悸が止まらない。興奮しているのが自分でもはっきりとわかる。
大きく三度、深呼吸をすると、霖之助はゆっくりと閉じていた瞼を開いた。

「…………」

呆然と見開かれた、大きな栗色の瞳。
目鼻立ちのはっきりとした、整いつつも幼さを残した輪郭。
大きさの合っていない、黒縁の眼鏡がズレ落ちている。
肌は、薄暗い中でもはっきりとわかるくらいに、肌理細やかとしていた。
色の薄い銀にも似た灰髪が、月の光を受けて薄紫色に輝き、どこか蟲惑的な魅力を醸し出している。
視線を下に移すと、それはそれは見事な双丘が、激しいまでに自己主張を忘れない二つの膨らみが、霖之助の胸元に鎮座ましましていた。

「これが…これがボクなのか?」

霖之助が呆然と呟く。
その声は、鈴を転がしたかのような、可愛らしい音色だった。








…歳の頃は、魔理沙や霊夢と同じくらいであろうか。
実年齢はともかく、男の時の姿は傍目から見ても二十歳を超えた青年であったというのに。
今、鏡の前に立っている少女は、多く見積もっても十五~十六にしか見えない。
実感が湧かない。これは本当に自分なのか。
誰か、全く別人の少女の肉体に乗り移っただけではないだろうか。
しかし、霖之助がそう疑うのも、無理なきことかもしれない。

何しろ、目の前の少女は美しすぎた。

これはあくまでも霖之助の基準であって、輝夜のような常識の外にある絶世の美女というわけではないし、八雲紫のように、面妖な人ならざる艶やかさを持ち合わせているわけでもない。
それでも霖之助は商売柄、様々な幻想郷の女性を見てきたが、この美貌は明らかに水準以上を満たしていた。
…自惚れも程々にしとかないといけないな、と霖之助は苦笑する。
主観も入っているのは致し方ないところだが、自分というパッとしない素材で、これほどの美少女が出来上がるというのが未だに信じられなかった。

「…ボクもまんざらじゃないのかもしれないな」

言った側から調子に乗る霖之助。
…ふと、何かミルクのような乳臭さに、柑橘系の匂いを混ぜ合わせたかのような、甘い香りが彼女の鼻腔をくすぐる。
それが自身の体臭である、と気付くのにそう時間はかからなかった。

―――こ、これが噂の少女臭というやつかっ!

霖之助は驚愕した。
驚愕ついでに、腋やら髪の毛やらを手にとって匂いを嗅いでみる。
だがすぐにやめた。何故か自分で自分の身体を汚しているような気がした。
それにしても、自分はまだ風呂にも入ってないし、香油をつけているわけでもない。
なのに、こんなにも心地よい匂いを漂わせるとは、男とは全く別次元の生き物なのだな、と霖之助は感心した。
本当に同じ人間なのだろうか。何か不公平感すら感じるのは気のせいか。

―――ん?待て、ボクはさっき何を思った?
   まだ風呂に入ってない、風呂に入ってない、風呂に入って、…フロォ!?

その単語を反芻した途端、霖之助の顔がボンッと一瞬で熟れたトマトのようになった。
鏡の向こう側で、真っ赤に茹で上がった少女の戸惑い顔が窺える。

―――か、可愛い。

は、入るか? 入っちまうか!? 禁断の花園。ヘヴンと呼ばれる桃源郷へ。
これはあくまで自分の身体なのだ。
何をしようと、例え生まれたままの、あられのない姿を見てしまおうとかまわない。
いや、このシミ一つなさそうな白い裸体を拝むどころか、我が胸に装填されているこの凶悪なミサイルを好きにしてしまっても…。
久しく意識していなかった、心の奥底に隠していた、男の情念とも呼べる暗い欲望が、ムラムラと霖之助の心を支配し始める。
自分の身体自分の身体自分の身体、と念仏のように呟きながら、震える両手で自身の乳房に触る。
霖之助の鼻から、赤い液体が、つぅーと垂れた。








カチコチと、居間に備え付けられた柱時計が、正確に時を刻み続ける。
時計の真下で、霖之助は体育座りをして、その膝に顔を埋めていた。

「…ボクはさいていだ」

鼻血と一緒に劣情も外に流してしまったのか。
我に返った霖之助は、ズーンといった擬音を立て、死にたくなるような自己嫌悪に陥っていた。
まさか自分に欲情するなどとは、夢にも思わなかった。…恥ずかしすぎる。
霖之助の言い分としては、まさか自分がこんなに可愛く化けるとは思ってもいなかった。
そして、その美貌に、色香に、完全に惑わされてしまった。トチ狂ってしまった。
さらに言えば、その美麗な少女の肉体は、他でもない霖之助のものなのである。
何をしようと、抵抗される事もなければ拒絶される事もない、という事実が、霖之助の心の奥底に眠る支配欲を大いに刺激した。
…その結果がこれだ。どんなにスカしていても、男の本質はオオカミなのよ気をつけなさい。
全ては所詮言い訳にすぎない。誰も見ていないとは言え、霖之助は自分が許せなかった。
そもそも、自分は何のためにこの薬を飲んだ。
自分の興味を満たすため。そして、それはもう果たされたようなものなのだ。
断じて、少女の身体にセクハラする為ではない。

「…戻ろう」

霖之助は一言そう呟くと、ブカブカになった懐から、もう一つの小瓶。青い薬を取り出した。
これ以上この姿でいては、いつまた理性の箍が外れるかわからない。
もう十分堪能したし、さっさと戻って、風呂に入って、床に就こう。
そして忘れよう。明日からまた何の変わり映えのない、元通りの平凡な生活を始めよう。
先ほど薬を飲んだ時に襲った、恐ろしい激痛を覚悟しながら、霖之助は青い薬を飲み干した。
咄嗟に身構える。目を硬く閉じ、身体を丸めて、身体に熱が帯びるのを―――。

「―――あれ?」

先ほどのような変化が、訪れない。
身体が熱くなるどころか、吹き付ける冷たい夜風に霖之助はブルリと震えた。
少女に変化する際の身体の異常は、薬を飲んでから五秒と待たずに始まったのに。
五分経っても、十分経っても、特に何も変わった様子はない。
気がつかなかっただけで、もうすでに元に戻っているかも、と再び鏡台の前に立つ。
そこには、美少女が立っていた。
……冷や汗が止まらなかった。
愛らしい美貌を醜く歪め、霖之助は鏡の前に立ち尽くした。

「そ、そんな…まさか…」

膝が震える。歯の根が噛み合わない。鏡に映る少女の目が恐怖に見開かれていた。
ぺたん、と膝が抜けてしまい、女の子座りの体勢で、ガクガクとその細い身体を震わせた。

―――騙された?

考えてみれば、どうして特効薬まで渡す必要がある?
あの薬師がそんな益体のない、余分な親切を行う理由がどこにある?
理由があるとすれば霖之助を油断させる為、心の間隙を作る為。

「――――――あっ」

あれだけの大金を払ってまで霖之助に薬を受け取らせた彼女が、自分が与り知らないところで事を完結させるような真似を許すだろうか。
…否。
霖之助は少女の姿で、もう一度彼女に会わなければならない。この姿を晒さなければならない。
それが大金を対価にした、永琳にとっての見返り。

「――――――ああ!」

だが、霖之助は見誤った。何も見えていなかった。
好奇心を満たす為という大義名分を掲げ、友人を裏切ってまで禁断の果実に手を伸ばした。
少し考えれば永琳の意図くらい気付けたはずなのに、目先の欲望に捉われ、薬師を盲信し、悪魔の手の平で無様に踊り続けた。

「――――――ああああああ」

どの面を下げて、慧音に会えばいい?
魔理沙が今の姿を見たら、なんて思うだろう。
天真爛漫な魔理沙の明るい笑顔を鬱陶しいとさえ思い、必死になって彼女から薬を守った。
今となっては滑稽以外の何者でもなく、道化は誰もいない場所で懸命にダンスを踊る。

「――――――あ、あがっ!」

今更になって、霖之助の身体に変化の兆しが現れた。
青い薬の作用だろうか。頭が割れるように痛い。それと、何故か臀部の辺りに小さな熱を感じる。
フラフラと立ち上がり、ようやく男に戻ったのだと、そんな一縷にも満たない望みを抱きながら、今の姿を確認しようと霖之助は三度鏡の前に立つ。
…そして、哀れな少女は今度こそその場に崩れ落ちた。
完全に打ちのめされた。
糸が切れた人形のように、もう立ち上がることなどなかった。

―――永琳は言った。
知識欲とは時に何よりも重い、と。
それはお金よりも、友人よりも。あるいは自分自身よりも。
だが、それは一歩踏み外せば、人を破滅へと導く罠にも成り得る。

霖之助の頭の上に、猫のそれを模った小さな獣耳がついていた。
尻の部分には、黒くて細長い尻尾が生えている。

それが、八意永琳からの最後のメッセージだった。

「――――――ああああああああああああぁぁぁぁぁっっっ!!!」

好奇心は猫を殺す。
















「どうして、―――こんなことに」

全てを悟った霖之助は、自室にこもり、部屋の隅でうずくまって頭を抱えていた。
やってしまった。取り返しのつかないことになってしまった。そう気がついた時にはもう遅い。
…本当に何もかもが終わった後であった。

あの時、永遠亭に行かなければ。
永琳から薬を受け取らなければ。
誘惑に負けて、薬を飲みさえしなければ―――!
何故、思い留まれなかったんだ、と後悔に震えるたび、クセのない素直なロングヘアーがまるで尻尾のようにその背で揺れる。
…ついでに本物のシッポもゆらゆらと揺れていた。
夜の帳が降りきり、一切の明かりも灯さない霖之助の寝室は、そんな主の今の心情を雄弁に物語っている。
お先真っ暗、と。
窓からこぼれるわずかな月明かりが、色素の薄い灰髪をほのかに照らし出し、銀糸の如く淡々しい輝きを放っていた。

「…あの、薬師ッ!」

……本当は霖之助にもわかっている。
自分に彼女を責める資格などない、と。
忌避すべき禁断へと、自ら踏み込んだのは他ならぬ霖之介の意思だったからだ。
しかし、だからと言って眼鏡、ボクっ子、ネコ耳と、男である霖之介が突然萌えの極地へと立たされてしまえば、憤りを感じてしまうのも致し方のない話だろう。
問い詰めないことには、どうにも治まりそうにもなかった。

「…まさかこんな激情を、今更抱くことになるなんてな」

長いこと忘れていた感情に戸惑いを覚えつつ、霖之助は疲れたように嘆息した。

「―――あら。一体何があったのかしら?」

突然、霖之助以外誰も居ないはずの部屋から、涼やかな声が聞こえた。
ギョッとして辺りを見渡す少女の目の前の空間に、一筋の裂け目が入る。
まるで亀裂のようなその裂け目の両端に、少女趣味なリボンをつけるような人物を、霖之助は一人しか知らない。
裂け目はゆっくりと外側に向かって広がり、楕円形の大きなスキマを作った。
そのスキマの向こう側は、霖之助の理解など遠く及ばない、完全なる異空間である。

「―――八雲紫。何故、君がここに」

スキマの中からひょっこりと現れた女性は、霖之助の顔を見て、興味深そうに微笑を湛えた。
初めまして。創想話初投稿になります、発泡酒と申します。
この話を作るに至ったきっかけは、
「あれ?霖之助を女体化させたら、メガネっ娘にボクっ子。…最強じゃね?」
そんな妄想が頭に浮かんだからです。反省はしていない。
もしかしたら二番煎じかもしれませんが、何卒平にご容赦下さい。

最後に、こんな残念な出来のSSを最後まで見てくださって、本当にありがとうございました!
(非常に遅筆ですので、もし続きが気になってくれる方は、まったり待ってあげて下さいませ)
発泡酒
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コメント



0.1290簡易評価
9.40名前が無い程度の能力削除
一応トップになんらかの注意書きが必要だと思います。
話自体は面白かったです
13.100名前が無い程度の能力削除
おもしろかったです。
続きが早く読みたいなぁ
余談ですけど、原作じゃあ霖之助は食事なしでも生きていけた気がします。
15.80名前が無い程度の能力削除
設定がないって…
なんていうメタ発言、さすが天才ということか
18.無評価名前が無い程度の能力削除
慧音の苗字が「白上沢」になってますよ。
正しくは「上白沢」です。
19.無評価名前が無い程度の能力削除
面白いというか、想像した霖に対しなんというか…とりあえずGJ

あと誤字
「白上沢慧音…、それにアンタ確か古道具屋の」
上白沢ね、一文字目二文字目が逆
21.無評価発泡酒削除
コメント頂いた読者の方へ、ありがとうございました。
ご助言・ご指摘を参考に、修正を入れてみたのですがどうでしょうか?
致命的な誤字があったようで、本当に申し訳ありませんでした。
なるべく早く、続きが書けるよう今後も精進したいと思います。
23.無評価名前が無い程度の能力削除
特効薬の用途:薬に見せかけて騙す程度の用途
24.100名前が無い程度の能力削除
続きが気になって仕方が無いorz
続きを心待ちにしております。

予断ですが、私は香霖も結構な新参ホイホイだと思っている。
28.無評価名前が無い程度の能力削除
ぶっちゃけて言うと、霖之助がひどすぎます。
二次創作に毒されすぎではないかと(こーりんとは違う意味で)
一度読んだだけで、
①どもる(原作では一度もどもってないはず)
②過剰にビビる(紫とも普通に話せる程度の胆力はある)
③枯れてなすぎる。
④妙に商売熱心。
⑤そもそも霖之助は食べなくて生きていける。
⑥霖之助は未知のアイテムの効果と名前分かるんだから引っかかるわけなくね?
⑦(これは霖之助じゃないけど)設定とかメタ発言はネタとしてもどうかと思う。モノローグならまだしもキャラに言わせちゃまずい。
⑧霖之助は無縁塚とかに歩きで出かけてアイテムを見つけてきてるわけだし、仮にも半妖で体が(人より)強い設定なのに歩いただけで膝が笑うほど体力ないはずがない
⑨(霖之助が)バカ

と、これだけありました。
さすがにひどくはないかと。
正直今回は点をつけられません。次回以降に期待します