Coolier - 新生・東方創想話

黄昏の郷の黄昏 光

2008/11/02 16:10:14
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 ギリシアの伝説では世界の西の果てには楽園エリュシオンがある。
 このエリュシオンの中央に一本の川が流れている。レテ川と言う。
 レテという言葉には元々「忘却」という意味がある。レテそのものが忘却の神を表す単語であり、神話では「眠り」と「死」の妹とされている。
 エリュシオンを訪れた死者は生まれ変わる前にこの忘却の川の水を飲み、生前の記憶を全て忘れると言う。
 水を飲めば、悩み、憎しみ、哀しみ、喜びといった執着の全部が洗い流され、魂は白紙に戻る。

 東方に作られた楽園、幻想郷に在る「三途の川」の水にも似たような効果がある。
 死後、霊はいくらかの渡し賃を持って川の前にやってくる。
 手持ちの銭を死神船頭に渡し、死神の漕ぐ船で川を渡り彼岸に至って閻魔の裁きを待つというのが霊のたどる本来の道筋である。
 だが徳の低い霊魂は渡し賃を持たずに川岸にたどり着くために、死神の漕ぐ船に乗ることができない。
 彼らは霊の身一つで川を横断しようとするが、それをしても向こう岸までたどり着けるものはいない。
 霊がこの川の上空を飛ぶことは禁じられているので、向こう岸に渡るには川の水に浸かりながら進むしかない。
 ところが霊がそのまま三途の川の水に浸ると、霊体そのものが消えてしまう。
 しばらくの間は何も起こらないが、ある程度川の水に浸かっていると、まるで存在そのものが儚い夢に過ぎなかったかのように霊水に溶解してゆき、やがて雲散霧消して跡形もなく消える。
 閻魔の裁きを受けられず成仏もできず転生の道にも乗れずに、川の半ばで消え果てた霊はどこへ行くのか。
 実際のところ、その本当の答えを知る者は幻想郷にはいない。








 一 華胥幽夢



 1



 蟻地獄が庭に巣を作っている。
 砂の渦の中で、彼は辛抱強く獲物が来るのを待ち構えている。
 一匹の間抜けな蟻が、そのお手製の小煉獄を横断しようとして失敗し、流砂に足を取られた。
 そのまま放っておけば、瞬く間に砂の斜面をずり落ちて、捕食者の強靭な顎に囚われむしゃむしゃと食われてしまう。
 少女が一人、巨人の立場でそれを目撃し可哀想に思ったのか、あわてて人差し指を地面に運んで蟻を砂地獄から払いのけてあげた。
 少女がそんな風にする様子を後ろに立って眺めていたものがいた。
 近所の女の子で、少女の幼馴染だ。
 蟻を助けた少女より少しおしゃまで、すました顔つきをしている。
 その外見からうかがえる通り彼女は勝気な性格だった。
 彼女は蟻を助けた少女の行為を一部始終観察した後でこう言った。

「そんなことして何になるの? 一匹助けたって、またすぐに捕まるわ。そういうのは『しょくもつれんさ』って言うのよ」

 指をぴんと顔の前に立てながら、どこで覚えたのか、歳に似合わない難しい言葉を混ぜて説教する。

「『しぜんかいのほうそく』なのだから、余計なことをするのはよくないのよ」

 友達が知ったかぶってそんな風に言うので、蟻を助けた少女はむっとしながら反論した。

「だって可哀想なんだもん。私が助けられるんだから、助けたっていいじゃない。助けられる命を助けないのはもったいないわ」
「あなたは虫の友達なのね。アリジゴクの友達ではないんだわ。アリジゴクも虫だったかしら? そういうの、『ぎぜん』っていうんじゃないかしら?」

 「偽善」という言葉は、幼い少女にはまだ難しくてよく分からなかった。
 だけど、言わんとしているニュアンスは伝わった。
 蟻地獄だって生きているのだ。もし、自分が蟻の味方をして蟻地獄の餌取りを邪魔し続けたら、彼は飢え死にしてしまう。
 だけどぴょこぴょこと動く黒い蟻は可愛いく見えるし、そんな生き物が残酷に死んでゆくのを見過ごしたくなかった。
 ままならない。どうするのが良かったのだろう。
 どうすれば、みんなハッピーになれるのか。
 蟻が食べられないで、蟻地獄もお腹いっぱいになるような、そんなやり方はないのだろうか。
 目の前で生きようとする二つの意思が殺し合うとき、どちらの味方をするべきなのか。
 あるいは、どちらの側にも立たずに何もしないで黙って見ているべきなのか。
 そいつはジレンマってやつだった。世界が始まった頃から消えない疑問だ。
 誰かの夢がかなうとき、誰かの夢が壊される。
 そんな世界にはしたくない。
 いっぱしにそんな難しいことを考えて、少女は少女ながらにいたたまれない気持になった。

 幻想郷と呼ばれる辺鄙な里に居る虫の妖怪の少女は、自慢の黄金の羽根をふるふると震わせながら、友達にそんな異世界の出来事を語っていた。
 昨日の夜に夢で見たというのだ。
 夢の中で彼女はどこか見知らぬ国の少女となっていた。
 そこには見たこともない形の建物が立ち並び、自然の様子も今自分達の住んでいる場所とはまるで違っていた。
 夢なのに、色が鮮やかでありありと思い出せる。現実の記憶とほとんど差がなかった。
 正面でその話を聞いていた鳥の妖怪の少女は、それを聞くと、目を大きく見開いてしばらく黙っていた。

「どしたの?」

 友達の予想外の驚きようを、虫の妖怪リグル・ナイトバグは不思議に思い、くりくりとした眼で尋ねた。
 鳥の妖怪の少女ミスティア・ローレライは答える。
 昨日の夜、自分もそっくりそのまま同じ夢を見た。ただし、自分の視点はその友達の少女の視点だった。
 リグルは何を言われているのかよく分からなかったので、目をぱちくりとしばたいて疑問を呈した。
 続けてミスティアは、夢で見聞きしたことを詳細に語った。
 少女の家の庭には小さいけれどこざっぱりとした温室があって、その周りを山茶花の木が囲んでいた。
 今度はリグルが驚く。彼女の記憶と寸分違わず一致していたのだ。
 二匹はお互いに、自分達が夢で見た事柄を照らし合わせてみた。
 二人が居た庭の様子、植木はどのような配置だったか、家のテラスの造作、壁や屋根の色、周囲の民家の建ち並び方。
 彼女達が話した内容は、全て細部まで符合していた。どう考えても同じ場所だ。
 同じ時間に二匹の妖怪が、隣の家に住む友達同士として夢の中に出演し、同じ国の夢を見ていた。
 偶然の一致で済ませるには出来過ぎだ。

「でも、アンタ夢の中でも虫の味方してんのね」

 ふと気づいてミスティアがそう言う。

「別に食べられそうだったら誰でも助けてあげるよ。ミスティアが幽々子に襲われそうになったって、助けにいってあげるんだから」

 ほっぺをぷっくらとふくらませながら、リグルはそう答えた。
 冥界に住んでいる西行寺幽々子。この亡霊は悪食で評判が高く、噂によればどんな妖怪でも一飲みにして食らってしまうと言う。
 ミスティアはこの幽々子を何よりも恐れていた。
 リグルの発言を聞き、ミスティアはほおと口を縦に開けながら、わざとらしく感心してみせる。
 内心では友人の心優しさを再確認してちょっとだけ暖かい気持になった。

「アンタとあたしじゃまとめて食べられちゃいそうだけどね」

 リグルはその返答を聞いて、確かにその通りだと思いくすくすと笑った。
 釣られてミスティアも手に口を当ててくすくすと声をもらす。
 笑いの発作が起こったのか、やがて二人して腹を抱えて声を出しながら笑い合った。
 しばらくして、二人とも酔いが醒めたようにふと我に返り、黙りこくって見つめ合う。
 二人とも同じ夢を見たなんて言うのは、どちらかといえばわくわくする類の異変だ。
 もともと幻想郷の妖怪は皆暢気な性格をしている。
 不気味な出来事が起こっても、そこから何とか楽しめる要素を見つけ出そうとするのが彼女らの流儀である。
 今回もそうやって笑い飛ばしたいのだが、どうにも勝手が違う。不気味な感じが先行していつもの気分になれない。
 別に怖い夢でもなかったのに、奇妙さが皮膚に嫌な後味として残っているのだ。
 こらえきれなくなり、リグルは友人に内心の不安を吐露した。
 何か嫌な予感がする。この夢には何かがある。気づいてはいけないような。
 それに気づいたら、それこそ砂地獄のように落ち込んで、抜け出せなくなって、全てが壊れて行ってしまうような。
 根拠は無いのだけれどそんな気がする。良くないことの前触れでなければいいが。
 それを聞いて、ミスティアは内心で身震いした。
 自分も友人と全く同じ感覚を覚えていたからだ。だが返答として口から出た言葉は違っていた。

「ここは幻想郷よ。何が起こっても不思議じゃないんじゃない?」

 ミスティアは夢の中と同じすました表情を作ってみせた。
 自分に対する気休めの意味も含めて。
 ミスティアは続けて言う。
 幻想郷は外の世界で幻想になった事物が入り込み、妖怪神仙魑魅魍魎が跳梁跋扈する世界。
 そんな世界で奇妙な夢の一つや二つを共有して見たとしても、さほどのことでは無いのでは? 
 言われてみればその通りだとリグルも思った。
 幻想郷は広く、妖怪はごまんと住んでいる。
 二人の妖怪に同時刻に同じ夢を見せる。
 その程度の幻想術だったら、朝の美容体操の片手間にやってしまいそうな妖怪は、いくらでもいそうじゃないか。
 地底には人の心を読んでしまう妖怪もいると言う。
 夢の中に入り込む妖怪とか、精神を操って誘導する妖怪とか、いてもおかしくない。
 具体的に名を上げろと言われると思いつかないし、何の目的があってそんなことをしたのかと聞かれると、さっぱり分からないが。
 差し当たり考えても自分達小妖風情には理由が分からないので、気にしない方が良いと言い合い、二人はそこで話を終わらせることにした。
 それでも二人の表情にはどこか釈然としないものが残っていた。
 夢は夢に過ぎない。例えそれがどれだけ不可思議なものであっても。そう言い聞かせても、心の中に不安が残っている。
 得体のしれない畏怖に似た感覚が、二人の心の片隅にこびりついて離れなかった。




 2



 鏡台の前に二人の少女がいる。
 一人は椅子に座り、もう一人はその後ろに立って椅子に座った少女の髪をブラシで梳いてあげている。
 椅子に座っているショートヘアの女の子が妹で、ブラシを持っている方は姉。

「もこちゃんの髪は本当に綺麗ねえ」
「お姉ちゃんほどじゃないよ……」

 姉の髪は真っ直ぐな黒髪で、腰ほどまでの長さがある。
 絹のようなという表現が良く似合う滑らかで美しい髪だ。
 対して妹の方の髪も美しい方ではあるが、ボブの長さで見た目姉と比べると精彩を欠く。
 妹は、目の前の鏡に映る姉の姿を確認した後、うらやましげに横目でちらりと姉の顔を見る。
 姉はきょとんとした顔で妹の顔を見返す。

「あーあー。私もお姉ちゃんみたいな綺麗な名前が欲しかったな。格好は仕方ないとしてもせめて名前くらいはさー」
「どうして? 妹子ちゃんの名前も素適じゃない」
「だって妹の子って書いて『もこ』なんて。私が妹だからって意味なんでしょ? まるで手抜きみたいじゃない。それに教科書で小野妹子が出てきてから、いっつもイモコって呼ばれてからわわれるのよ。イモっぽいとか言ってくるやつもいるし」
「もこちゃんはそのたびに悪口言う男の子をやっつけてたけどねー」
「あったりまえよ! なめられたらお終いだもんね。一回許したら、その後ずっと言われることになるもん。生意気言ってくるやつは、言った傍からへこませておかないと」
「ほどほどにね。もこちゃんも女の子なんだからさ」
「そういう考え方って古いんじゃないかなあ。まあお姉ちゃんは女の子女の子してるのが似合うからいいけどさ。なんていうの? 大和撫子?」
「そうかしら。さあ急ぎましょう。もう表で永人が待ってるから」

 姉妹の家の前に、背の高い男子が立っている。名前は八意永人。
 姉妹とは家が隣で、いわゆる幼馴染である。
 今日は妹子と姉の輝夜、それにこの永人の三人で新装開店した総合テーマパークに遊びに行く予定だった。
 永人がチケットを安く手に入れられるというので、隣の家の住人である姉妹を誘ってくれたのだ。
 永人は弓道部のキャプテンもしていて文武両道のイケメンだ。妹子は密かに彼に憧れていた。
 だから妹子は姉から永人の誘いがあったということを聞かされて、最初はとてもときめいた。
 だけど少し考えて変だと思った。
 普段の態度を見ていると、永人は妹子じゃなくて輝夜に気があるように見える。
 永人は本当は、輝夜一人を誘いたかったんじゃないだろうか。
 もしかしたら、最初は自分なんて話に上がって無かったのかも。
 姉が自分に気を使って、妹も一緒に連れて行こうなどと永人に提案したのではないだろうか。
 姉の性格から考えると、ありそうなことだ。
 姉と永人はお似合いだと妹子は思う。永人も物静かで繊細な顔立ちをしているので、姉と二人並んで歩いているととても絵になる。
 二人の間には入れない。自分はお呼びじゃないのだ。それに姉と永人が結ばれて幸せになってくれるなら、誰にとっても一番いいじゃないか。
 と、心の中では整理をつけているつもりなのだが、いざ二人が仲良くしている姿を見ると、妹子は胸が苦しくなる。
 どうしたらいいだろうかと迷う。
 一緒に行ったら腫れ物扱いされるんじゃないだろうか。二人に気を使ってもらうなんて、みっともないから嫌だ。
 それでも妹子は憧れの永人と一緒に遊べるということに、とても魅力を感じていた。
 迷ったあげく、妹子はクラスメイトの阿求に相談することにした。
 阿求はクラスでも仲の良い友達の一人だった。自分と同じおかしな名前繋がりということで気が合う。
 彼女には今までも何回か恋愛相談をしたことがあるので、細かい経緯はもう伝わっている。
 かいつまんで話をすると、阿求はこう言った。

「それは強引にでも一緒に付いていくべきだわ」
「ど、どうして?」
「だって二人だけにしたら二人の好感度が上がるだけじゃない。モコも一緒に付いていけば、そこから妹ルートのフラグが立つかもしれないわ」
「ルート? フラグ? 何の話?」
「とにかく世の中はそういう仕組みで動いているのよ」

 よくわからない知識で阿求が強く説得にかかったので、流されて妹子もそういうものかと思う。
 そうだなあ、案ずるより産むが安しとも言うし。品物が同じで安いんだったらそっちの方がいいかもしれない。易し、だったかもしれないけど。
 とりあえず行ってみてから考えればよいかもしれない、ということで姉の誘いを受けることにした。

 ……とまあそんなあらすじを見終わったところで夢から醒めた少女が一人いた。
 いきなり顔を真っ赤にし、がばっと布団から起き上がった白いもこもこ姿。蓬莱人・藤原妹紅だ。
 妹紅は髪をくちゃくちゃ掻きながら絶叫する。

「ぐわあああ!! なんなんだ、なんなんだこの夢は!!」

 頭の中を今まで夢で見ていた”せってい”が駆け巡る。
 自分と輝夜が姉妹で、憧れの幼馴染&先輩が永人って、これはあの永遠亭の薬師の八意永琳のことだろうか。
 何で永琳が男になっている上に、自分の甘酸っぱい恋の対象になっているのか。
 あの白髪ババアを意識したことなんてこれっぽっちもないぞ、と思い頭を押さえると、あ、自分も白髪と言えば白髪だった。
 それはそうとあの憎たらしい輝夜と自分が姉妹で、しかも何というか余りにも仲睦まじいだろうか。
 それはあまり姉妹に使う形容詞ではない気もするが。
 と一通りわめき散らした後で、我に返り、深いため息をついて妹紅は顔を洗うために外にある井戸の所へ行くことにした。
 冷たい水をぴしゃりと顔に当てながら、考える。
 なんだか妙な感じのする夢だった。
 夢にしては、現実感がありすぎる。色や手触りまでありありと思い出せる夢なんて。
 普通の夢には色がついていないし、もっとぼんやりとしている。
 今しがた見ていた夢は、まるで本当に体験した出来事であるかのように現実感が濃かった。
 まさかね、と妹紅はぼりぼりと頭を掻きながら、自分の頭に浮かんできた想像を振り払う。
 それより、もし今日輝夜や永琳にあったらどんな顔をすればいいんだろうと妹紅は苦悩するのだった。




 3



 阿求は寺子屋に入る途中で、四人ほどの子供達とすれ違った。こんにちはと挨拶をすると、向こうも返してきた。
 今から帰宅するところらしい。授業はもう終わったようだ。
 教室から解放されて、これから皆で遊びにでも行くのだろうか。家へ帰って家事の手伝いをする者もいるかもしれない。
 少し振り向いて子供達の姿を見やると、笑い声が聞こえてきた。
 阿求はその様子を横目で見ながら、何となくほほ笑む。
 彼女は生まれながらに病弱な性質だったので、子供のころはずっと家にこもりきりだった。
 そのため今会った子達のように寺子屋に通ったこともないし、同年代の友達と野遊びをした経験もない。
 少し、うらやましく思う。
 阿求はそのまま寺子屋の内門を潜って建物の中に入る。
 寺子屋の建物は古く、立派な作りをしている。以前は藩士の修練場だったという。
 経営者と阿求はかねてからの知り合いだ。
 幻想郷は妖怪と人間が混住している場所であるが、妖怪の方が数が多い。数の少ない人間達は、郷の中にいくつか点在する里村に寄り集まって暮らしている。阿求の住むこの里もそんなうちの一つだが、そこにも人間に混じって何体か妖怪が住んでいる。
 半分が白澤と言う妖怪であり、この寺子屋を切り盛りしている上白沢慧音もその一人だった。
 白沢は元々は中国の神獣であり、正確に分類すると慧音は半獣ということになるらしいが、獣人と妖怪を区別する人間もあまりいない。
 ごめんくださいと声を張ると、すぐに奥から女中が出てきた。
 小脇に抱えたおみやげの小包を女中に渡す。女中は随分喜んでくれて、さっそくどうぞと主人の書斎に案内される。
 木張りの廊下を歩き、付き当たりの木襖を開けると、部屋の中央に長い白い髪が見えた。
 その白い頭の上には中国人のお弁当箱みたいな珍妙な物体が鎮座している。
 久々にそれを見た阿求は、即座に「ださっ」と思い吹き出しそうになったが、何とかこらえて声に出さずに笑った。
 表情を整えた後で、こちらに背を向けている主人に声をかける。 

「こんにちは」

 独特の群青色のワンピースを着た慧音が振り向いた。

「やあ、阿求。どうしたの? こんな時間に尋ねてくるのは珍しいじゃないか」
「近くまで来る用事があったので立ち寄らせていただきました。もう授業終わったんですね」
「もうすぐ彼岸会の祭りがあるからね。その準備に駆り出される子供もいるということで、半ドンにしたんだ。ちょっと待って。今お茶を出すから」

 そう言って慧音は奥へ引っ込んでいった。
 席に座って少し待つと、慧音が急須と湯呑を二つ持ってきた。
 湯呑を受けとって、慧音に注いでもらう。
 暖かいお茶を飲んで人心地つく。半分ほど飲んだところで、湯呑を下ろす。
 慧音は阿求の正面、書斎の自分の席に腰を下ろしている。その顔をのぞき見、話しかける。

「そういえば、昨日変な夢を見たんです」
「ほう。どんな?」

 阿求の話に興味を示して、慧音が顔を上げた。

「白い建物の中で、慧音さんの顔を見ているんです。慧音さんは変わった衣装を着ていて、木の檀の上に立って、やっぱり授業をしていました。授業の内容は覚えていませんけど」
「奇遇だね。私もどこか別の国で、教師をしている夢を見た」
「本当ですか? 慧音さんも?」

 半ば予想していた答えだったが、それでも阿求は驚いた。

「やはり、そちらでも噂になっているんだね」

 そちらでも、ということは慧音の身辺でも夢を見た人間の話が上がっているということか。

「ええ、実は私だけじゃなかったんです。小間使いの者達の間でも話題になっていて。聞いてみたら、うちで雇っている使用人のほとんどが同じ国の夢を見たとか」
「奇妙な偶然もあるものだね」
「それで、慧音さんの夢はどんな様子だったんですか?」
「私の知らない街で、私が教師をしている夢だった。朝早くに家を出発するところから始まってね、そのまま見知らぬ街を歩き、立派な白い壁の建物に着くと、その中に入っていく。建物はところどころが鉄で作られていて、幻想郷にあるようなものとは様子が違っていた。多分、あれは外の世界の学校なんだろう」
「私が見た夢も、同じような様子でした。結構長い夢で……それが、夢の中の時間で何日も続くんです」
「私のもそうだった。私は夢の中で毎日学校に通い、生徒達に授業をした。外の世界の学校はとてもたくさんの生徒が通っていた」

 心なしか声の調子にはずむものが混じった。
 口元にまるでいたずらをたくらんでいる悪がきみたいなにやにやした笑みが浮かんでいる。
 慧音にしては珍しい表情だ。

「生徒はみんなまじめで元気な子ばかりだ。一人、気になる生徒がいてね。成績は良いのだが、授業中はいつも何か考え事をしているみたいで、ぼーっとした顔をしている。まるで上の空だ。授業なんて聞かないで、頭の中で別の世界に浸っているんじゃないかと私は悩んだものだ」
「夢の中で慧音先生に頭突きをされました。それも毎日です。ひどいです。体罰です、時代遅れです、訴訟ものです」
「居眠りをしていたからね。あとノートに漫画を描いていた。上の空だったのは、それのあらすじを考えていたからなんだね。漫画の内容は、両親が仕事で突然海外に行くことになったので、しばらく友人の幼馴染宅に居候して胸キュンな毎日を送るおかっぱ頭の少女が主人公の甘々恋愛物語だ」
「な、なぜそれを!? 誰にも見せたことがないはずなのに?!」
「授業用のノートと同じ色のノートに書かないよう、気をつけよう。授業中に落書きしていたのをカモフラージュするつもりだったのかもしれないが。宿題の代わりに間違えてそれを提出されても、受け取った方は採点に困ってしまう。だが、まあ楽しめた。阿求さんにはお話作りの才能があるのかもしれませんね。自分とそっくりな女の子をラブストーリーの主人公にするのはどうなのかと思うけど」

 阿求の顔が真っ赤に染まる。そのまま阿求はきいという奇声を発し、ぶんぶんと手を振りまわして慧音に食ってかかった。
 慧音は手慣れたもので、阿求の頭を押さえてそれ以上進めないようにする。
 そうすると、阿求の手は短いので空しく宙を切る。

「まあまあ。どうどう」
「ひぎぎ……でも不思議ですね。慧音さんも私も、私の家のお手伝いも皆同じ世界の夢を見るなんて」
「ふむ。実は生徒も同じような夢を見たと言っていてね」
「何人ぐらいですか?」
「全員だ」

 一瞬阿求が呆気にとられた素顔を見せた。すぐに眉根を顰める。
 慧音の私塾には里だけでなく近隣の集落からも子供が習いに来ている。
 近所の者もいれば、五里も離れた遠い場所から通ってくる強者もいる。
 郷中から集まってくる生徒、その全員が同時に同じ夢を見ていたということは。

「もしかして、幻想郷中の人達が夢を見たんでしょうか?」
「ふむ。そうなると、立派な一つの異変だな。まあ目に見える害は見当たらないが」

 慧音はもう一度自分の席に腰を下ろし、深いため息をついた。

「今のところは……」
「過去に似たような異変はあったのでしょうか?」
「私の知る限りでは、こんなことはなかったな。稗田の家にもそんな資料はないだろう?」
「ええ。そんな術を持った妖怪が居るという噂も聞きません」
「一人や二人に幻覚を見させる妖怪なら何体もいるだろう。だけど、もし幻想郷中の人間に同じ夢を共有させるような術を使えるとしたら、それは神仙級の力だな」

 催眠術を掛けて幻覚を見させる妖怪兎が迷いの竹林に居る。
 その兎だって郷中の人間に、全く同時に同じ夢を見させるのは不可能だろう。

「こんなこと言ったら少し変に思われるかも知れませんが」
「なんだい?」
「何となく不安な気がするんです。その。夢の内容は特に暗いものではなくて、むしろ楽しげなんですが。なんだろう。こういう夢を見ること自体が、あまり良くないことのような気がして。何か根拠があるのではないですけど、そんな予感がするというか」

 阿求がそう言うのを聞いて、慧音は心なしか表情を固めた。
 それは慧音も感じていたことだった。
 先程慧音が自分でも言ったように、仮に幻想郷に住む者全てが同じ夢を共有していたとしても、特に害になることは見当たらない。
 しかしこの夢は内容以上に奇妙な感覚を覚える。なぜかは解らないが、不安を駆り立てる。慧音はその不安を言い表す言葉を朝からずっと探していたが、結局まだ見つかっていなかった。

「少し調べてみるか」
「あの、博麗さんは動くでしょうか?」
「霊夢かい? どうなんだろうね。彼女も巻き込まれたら動くだろうけど」

 阿求に霊夢のことを言われて慧音は少し考え込む。
 郷で異変が起こればいつの間にか渦中に入ってしまう二人の少女がいる。
 神社の巫女と、その親友の魔法使い。彼女達なら、夢の真相についてもっと近しい場所に居るのではないか。

「ふむ。明日あたり、ちょっと境内に行ってみるか」




 4



 湖の前に建てられた紅い洋館。その門の前に二人の妖精が立っている。
 この湖の付近をねぐらにしているチルノと大妖精。
 チルノが鉄門に付いていた呼び鐘を取って勢いよくがんがんと鳴らした。
 しばらくして鉄の柵でできた門が少し傾き、その隙間から門番の紅美鈴が出てくる。

「あら、珍しいわね。どうしたの? まさか遊びに来たとか」
「ここにお母さんがいると聞いて来たんだ」
「お母さん?」

 美鈴はきょとんとしてチルノの顔を見返す。
 チルノは無表情で美鈴を見返す。見つめ合う二人。

「えっと、チルノのお母さんが紅魔館で働いているの? まさかあのメイドかしら? そういえば髪の色がチルノに似ている」

 お母さんと言う言葉から勝手に連想が膨らむ。美鈴は頭を高速回転させて考えた。
 もしかして母を訪ねて三千里? ああ、チルノは幼いころに母と生き別れになって、それでお母さんを探してはるばる西欧から旅をしてきたのねと妄想し、しがない門番で日給制にしか過ぎない自分は感動の再会に際して何をしてあげればよいのだろうかと考え、おろおろとうろたえ出した。
 右顧左眄しているその姿は、はた目からはとても挙動不審に見える。
 その様子を見ているチルノは頭にクエスチョンマークが付いている。
 こやつめ何醜態を晒しておるのかと訝しく思いながらも、偉大なる大妖精が進み出て話し出す。

「いえ、違うんです。『銀座の母』って言ったかしら。なんでも外の世界にしかない言葉で、運勢見の人のことをそう呼ぶとか」
「運勢見?」

 言われて美鈴は動きを止め、勘違いしていたことを悟る。

「もしかしてお嬢様の運命を操る程度の能力のことを言ってるのかしら?」
「それよそれ!」

 話を聞くに、どうも不思議な夢を見たのでレミリアに夢占いをしてもらいに来たらしい。
 レミリアは確かに運命を操る能力を持っていると聞くが、夢占いなんてできただろうか。
 運命を操るのと運勢見は若干違うような気がする。
 でもまあ長く生きている吸血鬼で魔力も高いから、それっぽいことはできるんじゃないかと美鈴は考えた。
 それに妖精二人組を館に通した所で、さほど害はあるまい。チルノにお嬢様のタマが取れるとも思えない。
 取ってくれたら取ってくれたで、それはそれで面白いかもしれない。とにかく取り次いでみよう。
 
 紅魔館の一角にあるサロン、ここでレミリアは午後の紅茶に舌鼓を打っていた。
 そこへメイド長が音もなく現れる。

「ドアぐらいノックして入ってきなさいよ」
「お嬢様、お友達が尋ねてこられましたよ」
「友達? 誰よ。もしかして霊夢かしら」
「チルノと大妖精です」
「ちょっ、何で私があのバカ妖精と友達になんのよ」
「違ったのですか? あちらが妙に親しそうにお嬢様のことを話していたのでてっきり。精神……もとい外見年齢も体格も似ていますし」
「咲夜!」
「はい」
「ちょっとそこに座りなさい」
「はい」

 すたりと膝をつき、言われたとおり床の上に正座する咲夜。
 傲岸にちんまい胸を張るレミリアがその前に立つ。

「最近、あなたには悪魔の犬としての自覚が足りないと思うの」
「そうなんでしょうか」
「あんなしょうもない妖精と夜の帝王たるご主人様を同列に扱うなんて。私に対する敬意に欠けているわ。言ってみれば、これは立派な不敬罪よね」
「あら、知らないうちに罪を犯してしまっていましたか。私としては特段レミリア様に対する敬意を忘れたつもりはなかったのですが」
「何が罪かを決めるのは、主人の役目よ。いい、咲夜。あなたは罪を犯したの。だから罰を与えなきゃいけない。功績には賞を与え、罪には罰を与えるのも主人の勤めだからね」
「罰ですか?」
「そう、しつけよ。主人としてあなたに悪魔の精神を注入してあげるわ。悪魔の下僕がどうあるべきかを叩き込んであげるから、心して受けなさい」
「光栄です」
「あら、厳しい罰を与えようと言うのに、怖くないのかしら」
「怖いですけど、お嬢様の罰でしたら甘んじてお受けします。お嬢様に仕えた時から、私の命はお嬢様に捧げましたから。何をされても文句は言えません」
「ふん、態度だけは殊勝ね。だけど咲夜程度の忠誠心で悪魔の拷問に耐えられるかしら?」
「ご随意にどうぞ。私の忠誠心をお疑いになられているのでしたら、なおさら立派に罰を受けて見せて身の潔白を証明して見せなければいけません。なにしろ苦痛の悲鳴をあげることですら、ご主人様のお許し無しには行えないのが従者の掟ですから」
「よろしい、見上げた覚悟だ。でもそれも今のうちだけよ。人間風情にしかすぎないあなたが、本物の悪魔の罰を見たら恐怖のあまり発狂することになるのはうけあい。だけど容赦はしないわよ。これもけじめだからね。さあ、我が僕、十六夜咲夜、煉獄の業火ににもだえ苦しむが良い!」

 レミリアが右拳を握り、半身の構えを取った。
 灼熱地獄の底で燃え盛る神工赤色巨星の如き赤黒いオーラがうずまいて、幼女の周りを包み込む。
 その強大なる力に押されて、大気が悶絶し大地が咽び泣く。
 魔力甚大なる吸血鬼の内奥に蓄えられし燃え上がる心の小宇宙が吸気圧縮爆発排気し、哀しみの力によって目覚めた夢想のチャクラが解き放たれようとしている。
 運命すらも頭を垂れてかしづくと言われた、闇夜の帝王が放つ渾身の一撃が今、

「めっ!」
「いたっ」

 ぴこんと人差し指の先端が咲夜の白い額を撥ねる。
 咲夜は主人の指が弾いた自分のおでこを押さえてしばらく考えた。 
 なんだ、罰ってでこぴんだけか。
 いけないいけない、何をされるのかしてやらかしてくれるのかとときめいてしまった自分が少し愛おしい。
 咲夜ははしたない期待してしまった自分のいたらなさ、瀟洒でなさをたしなめた。
 既に主人は罰を与えたことに満足してすたすたと奥へ歩いて行ってしまっている。
 悪魔ごっこを終えて満足気な後ろ姿を見送りながら、咲夜は考える。
 最近お嬢様がとみに幼女化しているような気がする。
 可愛くなってくれるのは自分としても大歓迎なのだが、度を越すと心配になってくる。
 なんだか歳を取りすぎて逆に幼女嗜好もとい幼女思考になっている気がする。
 老化の兆候の幼児退行ってことなんだろうか。
 と、幼児と考えて用事があったのを思い出した。来客を通すのだった。良く考えたら結局主人に承諾をもらっていない。
 まあいいや、明確に駄目って言われなかったんだからこの際通してしまおう。
 主人の曖昧な意図を読み取る能力も完璧で瀟洒なメイドの必要十分絶対条件だ。
 そうアバウトに考えて咲夜はロビーからサロンに妖精二人組を通すことにした。

 サロンに二人の子供がちょこちょこと入ってきたのを見て、レミリアはやっと思いだした。
 そう言えばチルノと大妖精が自分を尋ねてきたと咲夜が言っていた。
 それにしても妖精風情が自分に一体何の用だろうか。
 まさかメイドとして雇ってくれと言うのではあるまいな。別にそれでも悪い気はしないが。

「夢占い?」
「そうそう。変な夢を見たのでそれをお母さんに話して占ってもらおうと思って」
「なんなのよ、アンタ妖精のくせにずうずうしいわよ。それにお母さんて何よ。いつから私がアンタのお母さんになったのよ」
「けちけちしないで、ぱっぱっとやっちゃってよ」

 うざったそうに手を払う仕草をしながらチルノは吐き捨てた。

「な……!」

 威勢の良いチルノの態度に鼻白むレミリア。
 なんだこいつ。馬鹿とは聞いていたが、あまりにも夜の帝王に対する敬意がなさすぎる。
 これは一つお灸を据えてやらねばとレミリアが腰に差したグングニルを手に取った丁度その時だった。

「チルノちゃん、私から話すわ」

 チルノが話したのでは喧嘩になると思ったのか、偉大なる大妖精が進み出た。

「む」

 レミリアも連れの方は少しが知性がありそうだと思い、話を聞いてやることにする。

「ええっと、レミリアさんはとっても力の強い吸血鬼だって聞いてます」
「む、まあそうねえ」
「だから森の妖精達は皆レミリア様に憧れてるし、尊敬しているんです。ああ、私もいつかはレミリア様のようになりたいわって」
「ふむ、まあ当然よね。力の強い悪魔は恐れられ敬われて当然。妖精が私レベルになろうっていうのは難しいと思うけど、目標を高く持つのは悪いことじゃないわ」
「気高くてお強くてお美しくて、幻想郷中の尊敬を集めるレミリア様なら、私達を助けてくれるんじゃないかと思ったのです」
「ほうほう、妖精にしては目の付けどころが違うじゃないの。あなた見どころあるわよ」

 大妖精はレミリアがお世辞に餓えていることを見抜いていたようだ。
 あっさりとレミリアはおだてに乗った。

「それで何をして欲しいんだっけ?」
「はい。チルノちゃんと私と。不思議な夢を見たのでレミリア様のお力にすがろうかと思いまして。お美しいレミリア様でしたら、夢占いもお得意のはずに違いないと」
「まかせておきなさい。あなたの目に間違いはないわ。夢占いね、得意も得意、大得意よ。何を隠そう、カサンドラの巫女に先見を教えたのはこの私なんだから」
「まあ、あの有名な……」
「ふふん、そうでしょう。すごいでしょう」

 最近は紅魔館の中でもなあなあになってきて妖精メイドも敬意を払わないし、外は強いやつらばっかりいるし、咲夜は咲夜でマゾっ気があるから罰をもらうためにわざと自分に対して失敬なことを言ってくるし(そういうの何プレイって言うんだ、焦らし? 少なくともカーマ・スートラには載っていなかった)ということで自分のカリスマが心配だったレミリアは、大妖精に褒められてすっかり上機嫌になっていた。ちなみに大妖精はカサンドラの巫女なんて名前、一文字も聞いたことはない。
 レミリアはがぜん乗り気になったらしく、自分で机と椅子を運んできて自ら二人に着席を勧める。
 どこから持ってきたのか、水晶玉をクッションの上にちょこんと置き、これでヘルメス学派風夢診断の準備はばっちりだ。少なくとも形だけは。あんちょことしてユングとドクターコパの本も何冊か小悪魔に持ってこさせたので、詰まったらそれを見ればよい。

「それで、どんな夢を見たのよ。心を楽にしてこの母に言ってみなさい」
「あのね、でっかいのがどしゃかにゃーんで、ぱるすぃん! っていって、あっちもこっちもずごごごで、どひゅーなんかんじがてゐぶしゃー、うどどどどどんげーっていってるの」
「……」

 黙してしまう。日本語崩壊を気にする文化庁が匙投げて残業しないでしゃぶしゃぶ食べに行きそうな独創的な擬音ばかり。というかこれは単なる子供言葉だ。レミリアは瞑目して苦いものを噛みながら、やっぱり妖精の話なんか聞いたのは間違いだったと後悔する。

「あの、私が説明します」
「そうしてもらってよいかしら?」

 大妖精に全部話してもらった方が早そうだ。
 大妖精はレミリアに自分が見た夢の内容を伝えた。
 彼女が話した夢のあらましはこうである。
 夢の中で、チルノと大妖精の二人はどこか外国に住んでいる友達同士だった。
 彼女達は地元で歴史的な大地震を体験し、その地震によって故郷の村が壊滅的な打撃を受けた。
 だから二人が夢の中で暮らしていたのは、被災者キャンプだった。
 二人は前々からの友達ではなく、そのキャンプで知り合ったらしい。
 二人とも大切な人を亡くした経験を共有していたので、励まし合いながら貧しいキャンプでの生活を切り抜けていたと言う。大妖精はそんな生活の様子を仔細に語った。
 それを聞いたレミリアは、水晶玉を覗き込んでうんうん唸り始めた。

「うーん。普通夢占いでは地震は運命の変化を象徴しているんだけど……この夢の場合はちょっと解釈が難しいわね」
「どういうことですか?」
「ちょっと待ってね」

 そう言ってレミリアは不審な呪文を唱えながら、水晶玉の中から何かを取り出しているような仕草をする。

「なるほどね。本来象徴的な夢というのはもっと漠然としていて、物理法則も無視していることが多いんだけど。あなた達の見た夢はとても筋が通っているわね」
「そうなんです。普通に生活しているだけなんですけど、とても現実感があって」
「もしかしたら本当に体験したことなのかもしれないわね」
「えっと、それってどういうことなんでしょう?」
「そうねえ。異なる世界に意識が平行して存在しているということかしら」
「ちょっとよく解りません」
「あなた達は幻想郷でも生きているけど、夢を見ている時はそっちの世界で存在しているんじゃないかってこと」
「そんなことってあるんでしょうか?」
「何、どういうこと? あたいさっきから全然わかんないんだけど」
「えっとね、チルノちゃんはいつも幻想郷で暮らしているでしょ?」
「そうだよ」
「だけど、レミリアさんは、夢の中では別の中の世界に行って、そこで別の人間として暮らしているんじゃないかって言ってるの」
「あたいはいつもあたいんちで寝てるよ。寝てる時に他のところに行ってたらむゆーびょーってやつじゃない」
「いや、そうなんだけど。チルノちゃんの心だけが別の世界に飛んで行っているって言うか」

 大妖精の説明にチルノはちんぷんかんぷんな様子だ。
 それを見ないで、レミリアは何かを沈思している。

「あの、どうされました?」
「悪いんだけど、夢の件は結論を待ってくれないかしら」
「え、というと」
「少し時間が欲しいわ。今日はこれでお開きにして、こちらで詳しく調べてみたいことがあるの。チルノもそれでいいかしら?」
「すぐにはわかんないの?」
「ええ。どうも複雑みたいで」
「ふふん。さすがにあたいの夢だな。吸血鬼にもお手上げか」
「そうそう、すごいわ。妖精がこんなすごい夢を見るなんて、吸血鬼の私でもびっくりよ。参りました。だからもうちょっと時間をくれないかしら」
「私達は別にかまいませんが、よろしいのですか?」
「いいのよ。興味がある夢だったし。こちらこそせっかく頼ってくれたのに、すぐに答えを出せなくて申し訳ないわね」
「い、いえ。そんな。お気になさらず、ゆっくり調べてください」
「何か分かったら使いの者をやって連絡するわ」

 チルノと大妖精を部屋の外へ見送った後で、レミリアは再び占いの席に着席した。
 腕を組みながら考え込む。

「咲夜、聞いていた?」
「ええ、すぐそばで聞いておりましたとも」

 瞬、と音がしてレミリアの背後に咲夜が唐突に表れた。

「あの妖精達も夢を見ていた……もしかしたら、郷中の妖怪が夢を見たのかしら?」
「そのようですね。買い物に出していた妖精メイドから事情を聞きました。妖怪だけでなく、人間達も見たそうです。里はその話題でもちきりだったとか」
「新しい異変の前触れかしら? この間の地震のような」
「今のところはまだ分かりませんが。紅魔館だけでなく、郷中の意思あるものが夢を見たとなると、やはり何者かの仕業を考えるのが妥当ではないでしょうか」
「何者か、ね」

 問題は動機だと思う。
 そう考えてからレミリアは、自分が異変を起こした時のことを考えた。
 紅霧異変。傍目から見れば全く自分勝手な都合であり事実そうだったのが、あれはそれなりに理由があった。
 霧が出れば吸血鬼は日差しを気にすることなく出歩くことができる。
 郷中の人間に同じ世界の夢を見させて、得をするものがいるのだろうか。
 あの夢、自分の見た夢。
 不快な夢だった。なるべくなら思い出したくない。
 
 水晶玉を片づけながら、咲夜はレミリアの様子をちらちらとうかがう。
 彼女のことが気になってしょうがなかった。
 朝方珍しく起きていたレミリアに、不思議な夢を見た旨を伝えたところ、彼女も見たと言ってきた。
 不思議に思い調べてみると紅魔館に居るメイドのほとんどが同様の夢を見ていた。
 だけどレミリアはまだ自分の夢の内容を語ってくれていない。
 しばらく黙っていたが、咲夜は思い切って直接聞いてみることにした。

「あの、レミリア様はどんな夢を」
「うん? 気になる?」
「すいません、ぶしつけで」
「別に正直に言っていいわよ」
「気になります」

 そう伝えた直後に場の空気が変わった。
 しばしの沈黙のあと、レミリアは声を漏らした。

「……くだらない女の夢。自分がどうしようもなく嫌いで、それで周りからも嫌われていた。ようするにいじめられっ子って奴よ。いじめられていた理由は些細なこと。どこにでもあるような。着るものがださいとか、髪がくせっ毛だとか、娯楽の趣味が周りと合わないとかそんな程度のこと」

 自嘲したような口調でそう言う。良い夢ではなかったのだ。今まで聞いた内容だとあまりにもレミリアらしくない夢だ。

「いじめてた連中もくだらない奴等だったけど、そいつの方がもっとくだらない。そいつは自分の妹を虐待していたの」

 冷えた微笑は変わらなかったが、咲夜には声のトーンが変わったように聞こえた。
 どことなく悲しそうな声に。聞くべきじゃなかったと後悔する。

「そいつだけは自分より弱くて、言い成りになるから。ずっとそんな物を見せられるのよ? そいつの視点で。そんなくだらないことはやめろって思って止めようとしても、体が言うことをきかないの」
「レミリア様は違いますわ」

 咲夜は必死で言いすがった。制止しようとした。話している内に主がどこか違う場所へ行ってしまうような気がした。

「どうかしらね。私も実際あの子に同じことを」
「違いますわ。私が断言します」
「咲夜は優しいのね」

 レミリアは軽く微笑んだ。

「あなたはいつでも私に優しい」

 一瞬のことだったが、咲夜にはそれがどこか痛々しい笑みに見えた。
 すぐにレミリアは真顔に戻って手を顎に当てて考え始めた。

「それにしても共有夢か。これは神社に行って事情を聞く必要がありそうね」

 咲夜は考える。お嬢様はやはり異変だと判断しているのか。
 といっても深刻度合はあまり判らなかった。この郷に居るものは異変が起こるといつも面白半分で調査に乗り出す。聞いた分の内容から判断すると、レミリアの見た夢はあまり笑ってすませられる類のものではなかったが。
 何にしろ、咲夜はレミリアが命じた通りにするだけだ。
 異変の原因を探しに行けと言われればそうするし、一緒について来いと言われれば、どこまででも、たとえ行く先が黄泉の果てであろうとも着いて行くだろう。


 夢の一件が幻想郷にもたらした変化は解りにくかった。
 しかしその夢を皆が見たことによって、郷に確実な変化が起こったのだ。
 まだ誰一人として結論にたどり着けた者はいなかったが、その夢は確かに人々に疑念を与えた。
 夢で見ていた記憶は、もしかしたら、本当の記憶なのではないか?
 あるいは夢の中の世界はもう一つの人生で、あるいは前世の記憶ではないかと。
 それは些細な変化だった。
 幻想郷と言うものの成り立ちを考える上では、重大な意味を持っていたのだが、誰一人それに気づくものはいなかった。
 ましてやその夢から後に起こる異変を予想できる者など、いようはずもない。




 5



 息抜きと考えるとなぜか浮かんでくる光景がある。
 そこへ行くとなぜだかわからないが落ち着く。そんな場所を知っている自分は、やはり幸せなのだろうと思う。
 魔理沙は箒を駆って、いつものとおりに境内に向かっていた。
 魔法の森の自宅を出て、空を飛び半刻ほど風に身をまかせながら幻想の空を遊覧する。
 やがて目標の場所が見えてくる。森の中にぽつんとたたずむ瓦屋根の小さな建物。
 その前にただの空き地にしか見えない四角い土地がある。そこを目指し、一気に下降した後しばらく滑空して減速し、すたりと着地する。地面に足を着いた時に、目の前で紅白の影がぴくりと動いた気配がした。
 霊夢は相変わらずだった。拝殿の正面、お賽銭箱の隣に座り、箒を傍らに置きお茶を飲んでさぼっている。
 魔理沙が下りてきてもただぼーと前を見ているだけで、特に何か気忙しげにする様子もない。
 変わらないな、と魔理沙は苦笑する。
 いつもどおり呑気そうにお茶をすすっているその顔を見ると少し安心する。

「霊夢は世界の終りでも、お茶飲んで日向ぼっこしてそうだな」
「なーによそれ」

 挨拶代りに軽口をたたかれた霊夢はジト目で親友の顔をにらむ。
 にらまれた当の本人はと言えば、ぴょいと飛んでもう拝殿の高床に上り、霊夢の隣に座って足をばたつかせている。
 しばらく黙って鼻歌を歌いながら、二人して陽気だけど何もない境内の様子を眺める。
 小鳥のさえずり以外に音はないけれど、少女達はのんびりした顔をしてどこか楽しそうだ。
 魔理沙も特に話題があって来たわけではないので会話につまったが、ただこうやってゆっくりしているだけで、まあそれはそれでいいかという気分になってくる。もともと魔法の研究に詰まって気晴らしに来ただけなのだし。
 そんな風に考えていると、霊夢が湯呑を床に置いて魔理沙の方を向いた。

「そういえばもうすぐ彼岸会の季節だけど。魔理沙は家族に会ったりしないの?」

 そういえばもうそんな季節だったかと魔理沙は自分の季節感の無い生活を思い返す。
 春分の日と秋分の日の前三日と後三日の間の七日間をお彼岸と呼んでいる。
 今は九月なので、今年の秋分の日、二十三日の週は彼岸会になる。
 幻想郷ではお彼岸は特別な期間だ。
 力ある者や徳の高い聖者などはその時だけ、冥界にいる死者と面会することが許されているのだ。
 魔理沙も時々冥界に出入りしているので、その習慣は知っていた。

「珍しいな。霊夢が人のこと気にするなんて」
「うん、まあね」
「お彼岸かあ。そういえば時々墓参りに行ってるけど、あれはもしかして」
「うん、まあね」
「そっかあ。私の方はもうその時期を過ぎてるからなあ」
「ああ、ということはもう向う側に行っちゃったんだ」
「そ。私が子供の頃の話だからな」

 魔理沙の会いたい人はすでに閻魔の裁きを受け、輪廻転生の旅路に入ってしまったらしい。
 幻想郷とはいえ、通常の霊は長い間冥界には留まれない。
 霊魂は幻想郷の中だけで完結しているわけではないから、生まれ変わったら外の世界に落ちて二度と会えなくなる可能性は高い。
 といっても転生を済ませてしまえば記憶を失い、完全に別の人になってしまうのだが。
 この郷に住む人間はそのことについて割り切っている。死者が転生を済ませる前、冥界や此岸に留まっている霊と生前と同じように会って会話をしたりできるのは、予備期間のようなものだ。せっかくだからそれを利用して十分に死者と別れを済ませておくわけだ。
 霊夢は珍しく魔理沙の家庭の事情に気が向いたらしい。
 人それぞれ生い立ちや過去なんて様々だから、普段はそんなものに立ち入るつもりは全くない。
 今日だけ何でそんなことが気になったのか、霊夢自身にも不思議だった。
 たまたま話題に詰まって出てきた発想がそれだけだったと言えばそうなのだが。

 また話題が途切れて、二人して手持ちぶたさにしていると、鳥居の下をくぐる人影が見えた。
 ずいぶん小さいが、遠めに白い日傘を差しているのが分かる。少し近づいてきて、誰か分かった。知り合いの吸血鬼だ。

「おう、昼間っから青白いのが外歩いてるぜ」

 魔理沙が切符よく軽口を投げかける。

「喧嘩腰ねえ。長生きしないわよ」
「太く短く生きたいな。今日は一人か? いつものお供はどうしたんだ」
「咲夜は里で買い物してから来ることになってるわ」
「お、ご馳走買いに行ったんだな」

 ご馳走、と言う発言に霊夢のリボンがぴこりと立った。

「まあそうなんだけど。神社への手土産よ。とびきり高級な食材を買ってくるように命じてあるわ。私に無礼なことを言った野良魔法使いにおごる分はないかもしれないけどね」
「レミリア様って素敵ですよね!」
「態度が豹変したわね」
「いやあ、このぴこぴこ動く羽とか、いつも憧れてたんですよ。マジンガーZの背中みたいでかっこいいですよね」
「まじん? 確かに悪魔だけど。そのなんとかZっていう奴は知らないから、ちょっとマネできないわあ。モケーレだったら練習したんだけど。見てみる?」
「いいよ別に」
「見たいでしょ?」
「いいってば」
「見たいんでしょ、素直に言いなさいよ。特別に見せてあげるから、ね?」

 なんだこれ。鬱陶しい。
 もけだか何だか知らないが、魔理沙は心底どうでもいいと思っているのにレミリアがすり寄ってくる。

「あ、咲夜がキター」

 霊夢が叫んだ。上空に咲夜らしき姿が見える。確かに大荷物を抱えている。
 食料品の差し入れがあるということで、霊夢の様子も心なしかうきうきして見える。
 否、もう肩をくねくねさせてヨガの修行僧のごとき姿勢で喜びを体現した。
 咲夜が境内に降り立ち、霊夢が犬みたいにその到着を出迎えた丁度その時だった。
 しゅわん、と音がして空間の一角が開き、境内にぞろぞろと見覚えのある姿が湧き出してきた。
 すきま、狐、猫、幽霊、半霊。マヨイガ八雲一家と白玉楼の面々だ。
 一列に並び、鳥居から本殿の方へ向かって行進してくる。まるで百鬼夜行だ。
 先頭の紫は旗を持って行列を指揮している。

「はい、こちらが博麗神社ですよー、スキマツアーのみなさんはここで休憩になります。夕食は博麗神社の巫女さんが用意してくれることになっていますから期待してくださいね」
「うぎぎ」

 それを見て霊夢は露骨に眉根を顰め、歯ぎしりして口惜しさを表現した。

「なによ、ぞろぞろと!」
「なんとなく匂いがしたのですわ」

 幽々子がお腹を突き出し、誇らしげに言う。

「冥界から食べ物の匂いを嗅ぎつけて来たって言うの? なんて意地汚い、腹立たしい!」
「そういや幽々子の所に宴会の誘いを出してたんだっけ」

 魔理沙が空を見て思い出したように言った。

「なによ、今日宴会をするなんて聞いてないわよ!」
「言ってなかったかも。霊夢に伝えるのを忘れてた」
「筋が違うでしょーがー」

 口をとんがらせてぷんすか怒った霊夢は、お祓い棒の先端で魔理沙のほっぺをぐりぐり突く。

「やめてー」

 魔理沙が半泣きになったので許してやったが、大分ご機嫌斜めなようだ。
 咲夜の買ってきたであろう高級食材を一人占めできないことが口惜しいらしい。

「けっこうあるから人数増えても大丈夫だと思うわよ」
「咲夜、持つべきものは瀟洒なメイドの友人ね。あなただけが頼りよ。ところで何を買って来たの?」
「まあ鍋の具かしら。マツタケ、エリンギ、シメジ、トリュフ、鶏のもも肉、ささみ、沢がに、トリュフ、牛ロース、豚ハラミ、トリュフ……」

 並べられる味覚の数々に反応し、霊夢の唾液線は刺激されまくり、食材レーダーである頭の巫女リボンが新しい単語を聞くたびにぴこぴこと盛大に動いた。
 咲夜から食材を受けとって台所に格納した後、霊夢は差し当たり境内をぐるぐる回りながら、どうやって連中を追い返そうか、せめて幽々子だけでもと考えていた。すると、庭先に置いてあった分社がかたかたと音を立て出した。
 むう、とうんざりした表情でそれを見つめる霊夢。肩を落とし、こいつらもか、これじゃますます自分の割り当て分が減ってしまう。まるで泣きっ面に夜光虫ネストじゃないかと腐る。
 そんな霊夢の失望をよそに、ぶわん、と言う音がして、分社の前にゲートっぽいものが開いた。

「お久しぶりですー」

 笑顔で早苗が出てきた。それに続いて守矢神社関連の面々がぞろぞろと顔を出す。
 八坂神奈子と洩矢諏訪子の二神に、河童の河城にとりも随行している。
 また、天狗の新聞記者も記事のネタを探しに来たのか、神社の鳥居に降り立って周囲を見回し始めた。
 この郷の人妖は皆宴会の匂いを嗅ぎつける程度の能力は持っているようだ。
 魔理沙の招待状はてんでいい加減だったので、ほとんどの知人に届いていなかったが、自然と神社に人が集まってきた。あっという間に神社の人口密度が増えた。
 上白沢慧音と稗田阿求、それに藤原妹紅が階段を上って来た。彼女らは朝方起こった共有夢の異変の調査に来たのだ。
 階段を上がりきったところで、鳥居の下にたむろっていた永遠亭の面子とばったり遭遇する。

「む」
「お」

 妹紅と永遠亭のお姫様はしばし無言でにらみ合った。

「……」
「ぷくっ、もーこちゃん」

 輝夜がにんまりとしながら口を押さえて言った。

「なっ!? ま、まさか」
「いやあ、ちょっとない体験をしてしまいましたわよー。そういえばアンタ、始めて会ったときはショートヘアーだったわよね。といいますかカムロヘアーか」
「ぐっ、お前も、見たのか……」

 苦悶の表情で妹紅はあえぐ。
 嫌すぎる予感が的中してしまった。

「あれっ、もこちゃんそれちょっとお姉ちゃんに対する言葉遣いと違うんじゃないかしら」

 その様子を見て輝夜はますますほくそ笑む。

「もこちゃん言うな! み、認めてない、私は認めてないからなっ!」
「認めるとか認めないの問題じゃないでしょう、姉妹って言うのは生まれつきの運命なんだから」
「運命とか言うなっ!」
「さだめ、ディスティニー、それは、魂の絆。うふふふ」
「うぎぎぎぎ!」
「あらもこちゃん、照れてるのね。かーわいっ」
「むきゃー!!」

 目をぐるぐる回して輝夜に炎玉を投げつける妹紅。輝夜はそれを身軽にひょいと避けた。
 そのまま数分間の弾幕戦になるが、輝夜が相手をしないで、夢の中のもこちゃんはとっても素直な可愛い子だったなあ、ちっちゃいころは幽霊怖いって言ってお姉ちゃんに抱きついてきて。トイレ一緒に行ってあげたわあなどと妹紅にとっては恥ずかしい思い出ばかり赤裸々に語るので、精神的に耐えきれなくなった妹紅は耳を塞いで境内の下へ逃げて行ってしまった。
 妹紅と輝夜の話を切っ掛けに、神社に集った妖怪達は夢の話題でもちきりになった。
 ほぼすべての人妖が夢を見ていて、口ぐちに自分が見た夢の内容を語り合った。
 見ていたものの話を総合すると、やはり郷の全員が同じ世界のことを語っているようだった。
 大体は同じ街と思われる場所の話だったが、たとえばレミリアや咲夜の見た夢は別の街の話のようだった。
 共通して言えるのは、それが外の世界の生活を描いているということだ。

「お前ら何の話をしてんだ?」

 気になった魔理沙がレミリアの所へ聞きに来る。

「夢よ。魔理沙は見なかったの?」
「最近は見てないなあ。霊夢は?」
「私も話がわからないわ」
「霊夢と魔理沙は夢を見なかったのか?」

 皆から夢の内容を聞きまわり、夢の調査をしていた慧音が尋ねると、うんと霊夢はうなずいた。

「全員見たわけじゃないんだな」
「二人だけ見ていないと言うのも不思議ですね」
 
 慧音に対して隣にいた阿求が相槌を打つ。
 霊夢と魔理沙の二人だけは、夢を見なかったようだ。
 誰でも見るわけではなく、個人差のあるものなのだろうか。慧音と阿求は見合ってお互いに首を傾げる。
 それともこの二人だけが見なかったと言うことに何か意味があるのだろうか。

「霊夢さんは巫女だから特別なことが起こっても不思議じゃないですが、魔理沙さんは」
「うーん。確かに力は強いが、普通の人間だからねえ」
「よーし霊夢、はぶられっ子どうし仲良くしようぜー」
「何この人生負け組な気分」

 慧音と阿求は更に境内に居る者たちに夢について聞いて回ったが、やはり夢を見ていないのは二人だけだった。
 自分達が夢に感じていた漠然とした不安感も、どうやら感じた者と感じていない者がいるようだ。
 全て外の世界の夢であること、幾人かは夢の中でも隣人同士だったりすることは共通していたが、受けた印象は千差万別だった。不安に感じた者もいれば、全く感じなかった者もいた。
 実は夢を見なかったものはもう一人だけいたのだが、そのことに気づいたものは居なかった。
 夢の話が一段落した後、この後どうするかという話題になった。
 招待はいい加減だったが、元々魔理沙は今日宴会を開くつもりだったらしいし、ここまで一同が会することは珍しい。霊夢は渋ったが、なし崩し的に神社で盛大な宴会が催されることになった。レミリアは咲夜を館に戻らせて、美鈴に追加の食材を持ってこさせることにした。パチュリーやフランドールや小悪魔もついでだから呼ぶことにする。神社一帯に漂っていたチルノ、ミスティア、ルーミアといった小妖も夕餉の香りに引きずられて寄って来た。そのうち地下にも騒ぎが伝わったのか、神社で飼われていた猫のお燐が呼んだのか、地霊殿の妖怪も何匹か出てきて酒盛りに加わった。
 しばらくないぐらいの、大規模な宴会が始まった。これまで少女達が出会って来た人妖のほとんど全員が集っている。
 魔理沙が幹事として大きな桜の木の下に立ち、開会の挨拶をする。

「みんな、私の為に集まってくれてありがとう! 今日は私のおごりだー!」
「嘘おっしゃい、紅魔館の提供よ!」

 レミリアからハートブレイクがツッコミとして投げつけられて魔理沙が吹っ飛ぶと、一同はどっと笑い声をあげる。いつもどおりの宴会だ。

「うわわわ、リグル、幽々子がいるよう」
「ふふふ、たーべちゃーうぞー!」
「みすちー、大丈夫だよ。その為に蒲焼きもってきたんでしょ? さあ撒き餌をして、幽々子の気を引くの!」
「そうだね、えい!」
「うしゃー!」
「すごいわリグル、むしゃぶりついてる!」
「幽々子がルアーに釣られているうちに逃げよう!」
「あれ? なにこれ。蒲焼きかと思ったら、雑巾じゃないの! くさっ!? 牛乳拭いたわね? まあいいか、むしゃむしゃ」

 隣でそんな様子を見ていた妖夢は、我が主のことながらあきれた顔をした。

「幽々子様、お腹こわし……ませんよね」
「妖夢は夢を見たのか?」

 調査を続けていた慧音が丁度隣に来て、妖夢に尋ねる。

「え、見ましたよ。大抵幽々子様と一緒でしたけど。慧音さんの授業も受けましたよ」
「あれ、私の生徒だったの?」
「慧音先生の授業は厳しすぎるわ。私いっつも赤点よ」
「西行寺さんも受けてたんですか? 私はまだそこまで見てないな」
「それでですね、先生。折り入ってお話が」

 幽々子が清酒の入ったとっくりを持って慧音の隣に寄り沿った。

「はい?」
「次の『期末てすと』とやらの範囲を教えていただきたいのですが……なに、悪いようにはいたしませんよ。山吹色のお菓子なんて先生はお好みかしら」
「あんた……」

 皆思い思いの場所に座り、相手や席をとっかえひっかえ好き勝手に飲めや歌えやを繰り返す。昨日今日見ていた不可思議な夢の話も、呑気な少女達にかかっては単なる酒のつまみとなった。

 宴もたけなわのころに、紫が守矢組の茣蓙に近づいてきて、早苗の隣に座った。

「あ、どうも」
「こんにちは」

 紫は守矢組が陣地にしていた葉先が赤くなり出した桜の木の下に腰を下ろした。
 そのまま座の長である神奈子や諏訪子に立派な挨拶をする。紫は神様二人の昔のことも知っているようだ。
 何やら早苗には分からない大昔の神話レベルの話で盛り上がっている。
 そのうち、神奈子と諏訪子は中央に居た魔理沙達の席にお呼ばれした。二人の一発芸を見たいという要望があったようだ。早苗と紫は二人きりになり、しばしの間沈黙があった。紫は手酌しながら、ゆっくりと杯を傾けている。
 早苗はちらりと紫の方を確認する。座っている姿やわざわざ両手を添えて酒を飲んでいる姿は貴婦人のようで品がある。
 早苗はちょっともじもじした。あまり話したことのない相手だが、沈黙のままも気まずい。それに、先日地霊殿関連で痛い目を見せられて、またそのことをどう思っているかについても気になる。意を決して話しかけることにした。

「八雲紫さん」
「あら早苗ちゃん。どうも、先日はお世話になったわね」

 うっ、と少し引く。
 顔はにこやかだが、言葉の響きにちょっとだけ棘がこもっている。
 やはり、地霊殿でのことを怒っているのだろうかと早苗は引きながらも表情を読もうとする。
 まあ自分は神様二人の言うようにやっていただけなのだから主犯ではないのだが。それでも何処で根に持たれているかわからない。
 そんな風に気をもんでいると、紫はさわやかな顔で早苗の方を見つめた。

「いいわねえ、あなた達仲良さそうで」
「神様達のことですか?」
「そう……ところで早苗さん、あなた外の世界に家族はいたの?」
「ええ、お父さんとお母さんが」
「それじゃあ心配でしょう」
「快く送り出してくれました。両親にはずっと感謝しています」
「そう。家族って言うのはいいものね」

 まるで近所のおばさんとの世間話だ。
 どうして急に自分の家族のことについて聞いて来たんだろう。そういうことを気にするのはあまり妖怪らしく思えない。

「紫さんにもご家族はいらっしゃるじゃないですか」
「藍と橙のこと? まあ家族と言えば家族なんだけどね。長年一緒に暮らしているし。でも彼女達は……」

 紫はそのまま黙って遠くを見ている。何か事情があるのだろうか。余り詮索はしたくないが。

「昔は私にも家族同然に仲の良い人たちがいたわ」
「その人たちは今は?」

 思わず口に出してしまったが、どうして自分はそんなことを聞いたのだろうと思う。詮索するつもりはなかったのに。だけど、彼女がそんな表情をするのは予想外だった。
 紫は、自分の目をのぞきこんできたのだ。
 表情がないのかあるのかわからない顔だった。ただなんとなく彼女の瞳を見ていると、不思議な気分になった。
 なんだろう、この感覚。早苗は不安になった。
 遠い昔に置き去りにしてきた何かが訴えているような、私を忘れないでと、まるで今の自分は本当の自分ではなくて……

 気が付くと紫は早苗の前で立っていた。
 紫はそのまま宴会場の中央に歩いて行った。境内の中心には周囲より大きめのかがり火が立てられている。そこに立つと、紫はパチンと扇を鳴らす。周囲の笑い声が一瞬止み、境内に居た者は皆紫の方へ注視する。
 紫は目をつぶると、少し時間をおいた後すっと扇を広げて、軽やかに舞った。
 蝶が舞うように、桜が散るように。
 優雅な舞だった。袖を振り、扇子を回し、歩をゆっくりと進め、一片の動く絵画のように紫は境内を舞う。
 ひとしきり舞い終えると、紫はまた扇をパチンと閉じた。
 そして一座に顔を向け、スカートの端をつまみ上げ片足を引いて深々とお辞儀をする。
 それを見て皆が一斉に拍手を送る。

「うわあ、神楽ですね。とても上手です」
 
 早苗が感嘆の声を上げる。自分も仕事で神楽を踊るが、紫のそれはプロである自分が見ても見事なものだった。

「巫女でもないのにそんなもの踊るなんて。営業妨害かしら」

 霊夢はぶーたれた。
 一同は皆紫の舞に見惚れたが、早苗はまた少し不安を募らせる。
 どうしたんだろう急に。先程不思議な感覚を覚えただけに、彼女の行動が奇妙に思える。
 演舞は終わったようだが、まだ紫は立っている。
 今度は他の者も気になりだして、ざわめきが起こった。まだ何か出し物をするつもりなのだろうか。

「決めた!」

 紫が声を張り上げて、そのままの場所でぱちんと手のひらを合わせた。

「お祭りをしましょう!」
「……どうしたんだ急に?」

 皆を代表して幹事の魔理沙が聞く。

「博麗神社例大祭よ。以前からやらないかって提案があったじゃない。それを今から準備するのよ。郷中の妖怪を招待して盛大にやるわよ!」
「お、紫がそんなにノリがいいなんて、珍しいな」
「ほう、例大祭ですか。それは楽しそうですね」

 文が話に乗る。

「何かをみんなで企画するって言うのは楽しいものですからね。ふむ。広報はまかせてください」
「おまえさんの新聞、広告効果あるのか?」
「失礼ですね。確かに部数は少ないですけど、これでもコアな人気があるんですよ」

 なるほど、例大祭か。境内に集っていた人妖はお祭りという響きに皆心魅かれた。唐突ではあったが、誰も反対意見を述べる者はいない。おそらくは一番の年長者の紫がプロデュースしてくれるというのなら、かなり立派なものになるだろう。趣味に走った奇矯なものになる可能性も無きにしもあらずだが、それでもお祭りだと言うのなら、それはかなり楽しいものに違いない。
 そういうことで急遽、博麗神社例大祭が開かれることが決定されて、その日の宴会は幕を閉じた。
 宴会を終える前に、例大祭の開催についての仔細が二三詰められた。
 普通、神社の例大祭と言うのは神社自体か神社が祭っている神に由緒のある日に行われる。
 いつ建てられたかも定かではなく、祭神もいない博麗神社ではそんな日は特にないので、例大祭の日は適当に九月の敬老の日から二日間と決められた。
 おそらくは幻想郷でも最も年寄りの部類に入る博麗神社、その魂そのものをいたわるという意味合いも込めているらしい。毎年やって、いっそのことそれを慣習づけてしまおうという思惑もある。
 お祭り好きでノリの良い少女連中はさっそく走り出し、めいめいが祭りの出し物を準備しにかかった。

 宴会が終わって数日後の朝、人の話し声が五月蠅くて霊夢が目覚めると、博麗神社境内に仮設舞台が設けられていた。
 その前にはメガホンを取ってサングラスをかけて椅子に座る紫の姿がある。
 周りにも数人の人間がいる。藍や橙や幽々子、妖夢。アリスに天子、早苗。舞台の上にいるのは神奈子と諏訪子だ。
 紫はメガホンを振るって、時々舞台の上に居る数人の役者に支持を出している。
 霊夢は寝起きの頭をぼりぼりと掻きながら、またかと思いつつ紫に声をかけた。

「お前ら、人んちで勝手に何やってんだ」
「あ、霊夢遅いわよ。あなたも劇に出るのよ」
「劇ィ?」

 聞けば紫監督で舞台をやるのだと言う。何でも神楽と演劇を融合した新感覚の総合芸術だとか。
 脚本・演出も紫が担当しているらしい。
 俳優として十数人の人妖、舞台・大道具・アシスタントとして五人ほどが参加している大掛かりなものだ。

「おお、ミシャグジ、あなたはどうしてミシャグジなの」
「ああ、ヤサカトメノカミ、あなたこそどうしてヤサカトメノカマなのよ」
「カットカット。何よその棒読み口調は。それに蛙。セリフを噛むな。二人ともまじめにやりなさいよ」
「んなこと言われたってね」
「あうー、演劇なんてやったことないよー」

 山の二神が不満をもらす。
 紫の監督は厳しすぎる。だいたい好きでやってるわけじゃないのに。
 それでも紫のシゴキは続いた。
 魔理沙が噂を聞きつけて境内にやってきた頃には、舞台袖で普通の巫女衣装に着替えた霊夢と早苗が歓談していた。
 出番待ちをしているようだ。結局霊夢は紫の出演依頼を受けてしまったらしい。

「紫も強引ねえ」
「でも演劇部みたいで楽しいですねえ」
「ふーん、みんなもう動いているのか。コレは負けてられないなあ。私も何かしないと……あ、そうだ!」

 魔理沙がぽんと手をついた。何か思いついたらしい。

「霊夢、萃香はこの劇には出ないのか?」
「配役表にはなかったから、呼ばれてないと思うけど」
「そうか、ククク、よーし」

 何かよからぬことをたくらんでいるらしい。早速魔理沙は境内のどこかで暇しているだろう萃香を捕まえにすっとんで行った。

 演劇の練習は夜遅くまで続いた。
 少女達は例大祭の準備も含めてお祭りを楽しんでいる。











 二 邯鄲夢枕
 


 1



 そんなこんなで例大祭当日になった。
 こんもりした鎮守の森の奥から笛や太鼓や祭囃子が聞こえてくる。
 境内には色とりどりの屋台が建てられ、幟や旗がそこかしこに立ちあげられて祭りムード満開になっている。
 屋台は結構な数があるが、そのほとんどが妖怪の経営している出店だった。
 狭い境内の前の道には、十ほどの屋台がひしめき会っていて、何処で嗅ぎつけたのか、そこにまた結構な数のお客が入ってきている。
 メイド風の者や兎耳をつけた者も多数いるので、紅魔館や永遠亭で働いている妖怪がやってきているのだろう。
 人間達も何人かいた。慧音や阿求が里にも触れまわったらしい。

「おお、盛況だな」

 境内の上から階段を降り、霊夢と魔理沙が屋台の列に入ってきた。これからどんな屋台があるか物色するつもりなのだ。
 まず最初におかしな角の生えた店主がやっている屋台が目に入った。

「おお、萃香は屋台をやってるのか。焼きそばとお好み焼きかあ。鉄ちゃんだぜ」
「はちまき似合ってるわね」
「ドカタの大将って感じだぜ」
「うるさいよおまえらー、冷やかしはお断りだよ」
「買うよ、買うよ。ほら霊夢」

 コインを二個萃香に渡し、焼きそばの包みと箸を霊夢にパスする。

「むう、濃厚なソースがこしのある麺と絡み合って……普通に美味しいわね。今度から神社の食事は萃香に作ってもらおうかしら」
「じゃあ萃香、あとでなー」
「んー」

 萃香と挨拶を交わし、二人は彼女の屋台を去る。

「そういや魔理沙は萃香と何してたの? 二人で何かやるみたいだけど」
「へへ、お祭りにつきものなアレさ」
「何よ勿体ぶって」
「ああ、まあ別に隠してるわけじゃないんだけどな。花火さ、花火」
「花火? ああ、なるほど。萃香の弾幕って花火っぽいし……そしてあんたは火花が好きと」
「まあそういうこったな。今日は私達の特製花火で神社に集ったやつらの心をスパークさせてやるから楽しみにしてろよ!」
「事故とか起こして神社燃やさないでよ?」

 しばらく境内前に並んだ屋台のスペースを歩いて行くと、ばったりと知っている人間に会った。

「む」
「お」

 にらみ合う金髪の少女二人。現れたのはアリスだ。

「おや、アリス・ツンデロイドさんじゃないか」
「べ、べつに一緒にお祭りを歩きたいなんて、思ってないんだからね!」
「そこまでくると逆に素直なんじゃないかと思ってくるぜ」

 苦笑しながら霊夢と魔理沙はアリスを伴うことにした。
 そのまま屋台を一個ずつ見て回る。金魚すくい、ヨーヨー釣り、射的、焼きもろこし、お面屋、きゅうり釣り、焼き桃屋、焼き鰻屋と一通りのものはそろっている。てゐの型抜きに里から来た子供たちが群がっていたが、店主が全く信用できないので霊夢達三人は敬遠することにした。

「チルノとレティは普通にかき氷屋か」
「あんた、出てくるのがちょっと早いんじゃないの?」

 涼しそうな空色の垂れ幕がかかった屋台を見つけ、霊夢は狭い中にぎりぎり納まっている白岩女史に話しかける。
 嫌味っぽいセリフを言ったのは境内が寒くされてはかなわないと思っているのかもしれない。

「雪女が冬しか出ちゃいけないなんて決まりはないわよ」

 チルノはレティの隣で若干窮屈そうにしていた。
 並んでいるシロップの入れ物を見、魔理沙はチルノに話しかける。

「のどが渇いたぜ、一杯もらおうか。ブルーハワイひとつ」
「あいよ! まいどありー」

 笑顔で返事をしたチルノが手に取ったプラスチックのカップ。こういったものは外の世界で作っているものだ。
 どこから見つけてきたのだろうか結構な数があった。再思の道の付近にはこう言った外の世界のゴミが一杯落ちている場所があるから、そこで集めてきたのかもしれない。
 チルノはかき氷の機械を小さな手で一生懸命しゃりしゃり回し、そのカップに山盛りの氷をよそってくれた。
 魔理沙はチルノの手からカップを受け取る。カップには⑨印と描いたマークがプリントされていた。

「なんとなく食当たり起こしそうな雰囲気がするぜ」
「そんじゃそこらの氷じゃないよ。こいつはアイスセカンドを使ってるんだ」

 レティが得意げに言った。

「アイスセカンド?」
「氷属性の妖怪や妖精にしか作れない魔法の氷だよ。通常の氷と違って、熱吸収率が一万倍も高いのよ。だからとびきり冷えた美味しいかき氷ができるの」
「へー」
「お、うまい」

 レティが霊夢に向かって説明している間に、魔理沙はいっぱいにシロップのかかったかき氷をぱくぱくと口に運んでいく。

「ただ、人間が口にすると速攻で熱を奪われて、低体温症になっちゃうけどね」

 頭キーンするとか言うレベルではない。魔理沙のほうからカキンコキンと水分が固まるような音がした。
 霊夢が振り向けば顔を青くし、唇を紫色にした魔理沙がばったりと倒れている。

「ああっ、ま、魔理沙ーーー!」

 すぐ隣にいたアリスが大慌てで魔理沙を抱き起こす。
 それを見て霊夢は苦笑しかできなかった。

「ああ、お祖母ちゃん、川向こうに子供のころに死んだお祖母ちゃんが」
「船頭、いるかい?」

 ひょいっと絶妙のタイミングでどこからともなく顔を出したのは小野塚小町である。

「いらんわ!」

 即時退場、霊夢は空気を読んで小町を追い払った。

「眠い、ひどく眠い」
「衛生兵、衛生兵ぇ!」

 ナマズみたいに顔を青くしてうわごとを繰り返す魔理沙をタンカで運ぶことにする。
 レティとチルノのかき氷屋は食品衛生法違反で即刻営業停止処分となった。
 境内の隅にある祭りの運営本部。ここに設けられたテントの下に医療班の優曇華が控えている。
 そこへ霊夢とアリスは魔理沙の載ったタンカを運び入れる。霊夢はさっそく優曇華に魔理沙に合う薬が無いか尋ねた。

「え、凍え死にそうな人を治す薬? あるわよ」
「さすが歩く座薬庫」
「あげないわよ?」
「すみません」

 魔理沙を仮設ベッドに寝かせて、優曇華がくれた薬湯を魔理沙に飲ませる。

「こんな青い顔、私も生まれて始めて見たわよ。何食べたらこんな風になるのかしら?」
 
 優曇華はあきれて見ていた。霊夢もアリスもただただ苦笑することしかできない。
 薬を飲んで一服した魔理沙は暖かい毛布にくるまれているが、まだ唇が紫色で震えがあるようだ。
 ただまあ見た目持ち直した様子。このまま少し休んでいれば自然に回復すると優曇華も言う。

「魔理沙、じゃあ私達は演目の準備があるからもう行くね」

 アリスが心配そうにしながら魔理沙の顔を覗き込んで声を掛ける。

「おー、私も花火の準備があるからな。しばらく休んだらここ出るよ」
「まあゆっくりしてきなさいよ」

 優曇華がそう言いながら薬湯の湯呑を下げてくれた。自分を救ってくれた優曇華がナイチンゲールに見える。
 今度から兎鍋は二か月に一回にしようと魔理沙は誓った。




 2



「そっか、霊夢とアリスは紫の劇に出るんだったな。後で見に行ってやるか」

 回復してテントを出た魔理沙は境内を横切って、神社の裏手に向かうことにした。
 騒霊達の楽団が特設ステージの上で賑やかな音楽を演奏している。
 マーチかジャズか、なんだかわからないが和風にアレンジされている。
 それを横目で見ながら魔理沙は博麗神社の裏手に歩いて行く。

 魔理沙と萃香の花火部門は祭りの夕刻に数発の花火を打ち上げることになっている。
 神社の裏手に切り払われた更地がある。その地面の上に何発もの花火がごろごろと整列されて置かれている。
 花火の群れの中央には萃香が居て、一人打ち上げ台のセッティングをしていた。
 萃香は自分の方に近づいてくる魔理沙を見つけると手を振り上げて叫んだ。

「遅いぞ、魔理沙ー!」
「悪い悪い、アレ? 屋台は大丈夫なんだっけ」
「勇儀にまかせたよ。魔理沙が遅いから、もう打ち上げの準備は私一人でしちゃったよ」
「ホントか? おお! さすが職人。いい仕事してるぜ。角度も方位もばっちりじゃないか」
「へへへ。あとは演目通り打ち上げるだけだよ」

 魔理沙と萃香はここ数日間共同で花火作りに精を出していた。
 魔理沙は萃香のしてくれた素晴らしい仕事を見て、彼女をパートナーに選んだ自分の目に狂いはなかったとひたる。

「もう仕事は残っていないのか?」
「あとは最初に打ち上げる花火を打ち上げ台の前に持って行くだけだね」
「よーし、じゃあそれは私がやるぜ! 花火は火力だぜだぜだぜ」

 魔理沙は嬉しそうに自作の花火を打ち上げ筒の前に持って行く。そこにアリスが見学にやってきた。

「はりきってるわね」
「オウヨ! 祭りの華と言えば火力だからな! アリスはもう準備終わったのか?」
「私は演出係だからね。あとは本番だけよ。霊夢や早苗は今頃控え室で緊張してるわ」
「あいつらでも緊張するのか。鬼巫女の目にも涙か」

 アリスが眼を横にやると萃香が打ち上げ用の筒の最終チェックをしている。
 アリスは萃香の方にも歩いて行く。額にはちまきを巻いて職人の顔をした萃香が熱心に道具をいじり倒していた。

「精が出るわねえ」
「お、人形師さんか。おひさ」
「ふーん、これはいい仕事ねえ。筒の作りにも工夫が見られるわ。あら、これは強度補強のリブかしら」
「おお、解かるのかい。さすが通だねえ」

 目玉の花火ではなく支援役の打ち上げ筒に目が行くところがさすがアリス、マニアックである。

「物作りには共通したところがあるのかしら。それにしても……」

 さきほどから、嫌でも目につくものがある。横っつらにありえないサイズの丸い物体があった。
 他の花火がハンドボール大なのにそれだけは運動会のくす玉並の大きさがある。
 それに入っている火薬の量を想像してアリスの顔に縦縞が入った。

「なにあの見るからに怪しい花火」
「あれは魔理沙が」
「こんなの上がるの?」

 冷や汗を流しながらアリスはそのデカブツを眺める。

「はりきって作ってたよ……重さの計算とかちゃんとしたのかな?」

 日がそろそろ傾きかけている。
 申の刻が終わり酉の刻に入ったら、花火打ち上げの合図だ。
 遠くの空で里の寺の鐘がボーンと鳴った。

「もう時間だぜ!」
「ようし、始めるよ! 点火!」

 萃香の掛け声と共に導火線に火が付けられる。すぐさまドンドンと空中に花火が打ちあがった。

「ようし、連続で行くよ!」

 ぼふぅ、という音と煙と共に萃香が沢山のちっちゃい萃香に分かれた。
 そのまま一人一人の小さな萃香がわーと駆けて行き、めいめに松明を持ってんしょんしょと点火台の前に行き次々に火を点ける。

「マア! カワイー!」

 余りにも気に入ったのかアリスは自分の人形を操ってちび萃香に抱きつかせた。そのまま人形にちび萃香の頭を撫でさせる。

「じゃ、じゃまをするな。花火見てなさい」

 大勢のちび萃香によって点けられた点火台が連続で火を噴き、ばんばんと炸裂音が地上に鳴り響く。
 ひゅーひゅーと言う音と共に夕暮れ空に火の帯が上がってゆく。
 菊物や牡丹物、土星のような形、柳桜、五行星型、ヘキサグラム、ナイアガラ、ギニア高地、モハヴェ砂漠。色とりどりの花火が咲いた。
 七色の精彩が、美しく暮れかけた空を彩る。

「うわあ、きれい!」

 アリスはそれを真下で見、余りの迫力に感嘆の声を漏らす。
 三人は三十分ほどの間、初秋の空に咲く人工の星々を真下から鑑賞する。
 もうちょっと日が落ちて夜空になればさらに風情が増すだろう。

「ククク、お楽しみはこれからだぜ。この特大十六尺玉を四尺玉八つと同時に打ち上げて幻想郷の空にもう一つの太陽を作ってやるぜ!」

 暗黒の笑みを浮かべながら調子づいた魔法使いがせっせと打ち上げ筒に玉を詰め込んでいる。
 例のくす玉をひょいっと担ぎあげると、そのまま打ち上げ筒めがけて放り込む。
 十六尺玉用に作っていた筒一杯に玉が詰め込まれ、パンパンに膨れ上がった。

「えっ、ちょっ。そんなの上がるわけが」
「点火!」

 萃香が制止しようとするが、間に合わない。
 魔理沙は魔法の火を使い、導火線に点火させた。
 しゅううという音がして線が燃え、打ち上げ用の筒に向かっていく。
 あれだけの火薬だ。もし打ち上がらなくて地上で誤爆と言うことになれば、自分達は吹っ飛ばされてお約束よろしく頭髪がアフロになってしまう。
 アリスと萃香の二人は地面に伏せ、耳をふさぎ固唾を飲んで成り行きを見守る。
 魔理沙は筒の隣で両手を広げてにたにたと笑っている。
 途中これで世界は私のものだー私に従えばお前に世界の半分をー等と聞こえてきた。明らかに奴は火に酔っている。
 あんたは火を使う、そりゃわしらも少しは使うがの、多すぎる火は何も生みやせん。というおジジの声が聞こえてきそうで萃香とアリスは来るべき絶望に身を震わせながら涙を流した。
 しばらくして筒の中でぼふっ、と言う音が鳴った。
 白煙がもうもうと噴き上げてきて辺りを包んだが、花火は上がらなかった。

「何も起こらないわね……」
「当たり前だよ、あんなの上がるわけが……」

 そう萃香が言いかけた時だった。筒の中からぷすぷすと言うくすぶる音が聞こえてきた。
 瞬間、閃光。驚きの白さ。
 何もかもが白一色で包まれる。

「えっ、まぶしっ」
「うつほっ!」
「ガッ!」

 
 花火は地上で爆発した。

 その時発生した世界が終わってしまうかと思うぐらいの光量に、例大祭に集っていた客達は一斉に光の発生した方角を見た。
 その日博麗神社裏手にもう一つの太陽が誕生した。




 3



 数分してところどころ焦げた三人が森の中から歩いてきた。
 草原が焦げたが、火は燃え広がらなくて済んだらしい。

「やれやれ、ひどい目にあったぜ」
「お前のせいだろ!」

 ぼかっと萃香が魔理沙の帽子を殴る。

「せっかく準備したのに……夜になる前に玉が全部おじゃんになっちゃったじゃないか!」

 誤爆によって他の玉にも全て火が着いてしまい、萃香と魔理沙の用意した花火は全部地上で爆発しておしゃかになってしまった。
 さすがの魔理沙も怒られてしなだれている。調子に乗りすぎたかもしれない。

「はあ、また神社に被害が及ばなくて不幸中の幸いだったわよ。これで博麗神社三度倒壊ってなったら霊夢がどれだけ怒るか……あ、もう舞台の時間だわ。行かないと」

 アリスはそう言い残すと、一目散に境内の方へ走って行った。

「おっ、もう舞台が始まるのか」

 気を取り直して魔理沙は舞台のある境内に戻ることにした。
 境内に入ると、既に大勢の観客が集まっていた。観客は皆、中心に作られた特設舞台の周りに集まっている。
 陽はほとんど落ちているので空は薄暗くなっているが、かがり火が四方八方に焚かれ、舞台を煌々と照らし出している。
 魔理沙と萃香は人ゴミを掻きわけて、舞台が良く見える位置に出ようとする。
 すると、途中で前の方からぱちぱちと拍手が鳴った。どうやらもう演目が始まったらしい。
 観客と観客の肩の間から覘くと、舞台袖から霊夢と早苗が中央に歩いて来るのが見えた。
 二人とも古風な巫女服を身にまとっている。違いは霊夢が紅白、早苗が蒼白の衣装であること。髪には金のかんざしをつけている。
 二人が神楽を舞い出した。優雅に、ゆっくりとした動作。時が緩やかに流れているような錯覚を覚えさせる。
 同時にどこからともなく祝詞が読み上げられた。
 空気を魔法でいじって音声を加工しているのだろうか。不思議な響きがした。
 男とも女とも判別がつかず、獣の遠吠えのようにも聞こえる不思議な響きのある声だが、明朗で胸の深奥に入ってくる。

「掛巻も最も畏き天地の元津神天御中主之大御神……高皇産霊之大御神神皇産霊之大御神達の奇しく……」 

 意味は解らないが、神秘的な印象を受ける。
 祝詞の詠唱に合わせて和風の装束に着替えたプリズムリバーの楽団が笙や太鼓や笛の音を奏で出した。
 二人の巫女はひとしきり神楽を踊ると、舞台袖に去る。それと同時に、中央に靄が立ち込め始める。
 やがてそれは濃度を増し、深い雲海となった。
 七色に輝く瑞雲がいたるところに立ち込め、夕方だと言うのに背景には日輪が差し、境内の一角だけが真昼のように明るくなった。
 妖術を使った演出だろうか、それとも流行りのこんぴゅーたーぐらふぃっくという代物だろうか。原理は解らないが、とても派手だ。
 中央の靄が晴れると、光り輝く天界の中心に白い貫頭衣を身にまとい日輪を背に抱いた女性が立っていた。
 顔とキラキラ輝く髪の色を見てすぐに知り合いだと気づく。
 紫だ。いつもは禍々しいオーラを醸し出している彼女も衣装を着替えると神々しく見えた。
 その紫の前には二人の少女がかしづいている。
 霊夢と永琳だった。

「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)様、なんで私が紫の命令聞かなきゃいけないの? ってとっても疑問に思うのですけど、どうぞなんなりとご命令をばー」
「偉大なる天之御中主神様、あなたの顔があの憎たらしい八雲紫に似ていてはなはだしく不快ですが、我々大和の神はおおむねあなたを主と仰いでいるつもりでございますよ、はい」
「天照大御神、八意思兼神、天上の主たる天帝・天之御中主神が勅命をもって命じます。高天原より大八嶋に降臨し、大和の東方にあるまつろわぬ神々の国を平定しなさい。それと口を慎みなさいダボどもが」
「ははー」
「ははー」
「洩矢地方平定には八坂刀売之神を遣わしなさい。彼の神は勇猛である。きっと手早く洩矢を平定するであろうぞ」
「恐れながら天之御中主神様、洩矢の民は鉄器で武装しており、我々の持つ青銅器では若干不利です。それに彼の地には呪の力を行使する巫女がいるとか」
「そうです、名はミシャグジです。まるで卑猥な名前ですが、力は強いそうですよ。八坂刀売之神も一人だと苦戦するのではないでしょうか、かしこ」
「案ずることなかれ。既に手は打った。八坂刀売之神には鉄器を無力化する魔法の草蔓を与えました。ついでにバイキルトとスクルトも掛けておいた。これで洩矢など敵ではない」

 ところどころ訳のわからない単語が出てくるが、魔理沙にも筋は理解できた。
 どうやらこれは天界の神々を題材にしたお話らしい。
 洩矢や八坂と言う単語も出てきたから、これから例の神話、神奈子と諏訪子の最初の出会いであると言う諏訪大戦に繋がるのではないかと予想する。

「さすがは高天原を総べる天之御中主神様、権力者らしく賢しい悪知恵が働きますね」
「八意思兼神、部下のくせに私に対して敬意が足りんぞ。お前が悪知恵言うか。言わせてもらえば蓬莱人はとっとと月に帰れ。お前らがいると、いつか何かしでかさないかと気が気でない。でなければ暴言は慎んで大人しくしていろ。というか、役に成り切りなさい」
「ははー、御中主神様こそ現代についての不満を漏らしているような気がしますが、仰せのままに致します」

 二神に勅命を伝えた天之御中主神(紫)がおごそかに舞台を去っていく。
 天照大御神(霊夢)、八意思兼神(永琳)の二人は早速八坂刀売之神を呼び出すことにしたようだ。
 鎧と胡服に身を包んだ女性、八坂刀売之神(神奈子)が舞台袖から出てくる。
 まず思兼神が進み出て、その場にかしづいた刀売之神に言った。

「八坂刀売之神、天帝より宣旨が下りました。東方に蛮族の国、洩矢があります。この地を平定せよとのお達しです」
「はっ」

 天照大御神・霊夢が剣を抱えて神奈子の前にやってくる。
 ん、どこかで見た剣だなはてと魔理沙は思う。

「いくら天帝の加護を受けたとはいえ、丸腰ではつらいでしょう。この慈悲深くて超絶美少女の天照大御神が剣を貸してあげましょう。はいつくばって感謝しなさい」
「こ、これは! 神剣・天叢雲剣ではありませんか!」
「そうです。いきなり最強装備で蛙のいーえっくすボスをめめたぁと踏みつぶしてくるのですよ。弱い者いじめは楽しいからね」

 これは役の性格なのか、それとも演じている霊夢が元々サディスティックな性格なのか。観客席の魔理沙は苦笑する。

「ご厚意に感謝いたします。では早速」

 剣を受けとった刀売之神は勇んで舞台を飛び出して行った。

「ククク、これで洩矢も我ら大和のものですね。笑いが止まりませんわ」

 舞台に残った思兼神がいかにもな三下悪人ヅラでほくそ笑む。

「ええ、これで大八嶋の平定も一段落つくわね」
「それにしても刀売之神も哀れなものですね」
「何のこと?」
「大御神様はお知りでありませんでしたか。刀売之神は実は洩矢の血を引いているのですよ。彼女の母が洩矢の出なのです」
「何と? 刀売之神はそれを知っているの?」
「まさか。言えば洩矢討伐を引き受けたりしますまい。加えて言いますと、洩矢の現在の巫女、名前を諏訪といいますが、その巫女は八坂の腹違いの妹です」
 
 見ている魔理沙はええー、と思う。
 神奈子と諏訪子が姉妹? これは本当のことなのだろうか。

「それとも知らず、喜び勇んで出て行った。なぜだかわかりますか? 刀売之神は手柄が欲しいのですよ。彼女はもう大和に仕えて長いのに、出自が知れないということで未だ正式な神として認められていない。手柄を立てれば正式な神として祀ってもらえると考えたわけですね。自分の実の妹と戦うことになるとも知らずに」
「何ということだ。天之御中主神様はそれと知って八坂を遣わしたのか? 酷なことをなさる」

 大御神が眉根を寄せ、嘆息しながら舞台袖に退場する。
 思兼神は意外そうな顔をしてその後に付いていく。

 舞台が変わったようだ。
 大八嶋に降り立った刀売之神はたった一人で洩矢の地にたどり着いた。
 洩矢山に立ち、諏訪湖のほとりに作られた洩矢の王国を臨む。
 すぐに洩矢の周りを巡回していた兵士達に発見される。大勢の古風な姿をした兵士達は、どうも人形で、この物語のエキストラは大抵アリスが影で操っているものらしい。
 集まってきた兵士達の一団の前に、白衣を着た少女が一人進み出てきた。
 稲穂に似た明るい金色の髪を持つ少女。巫女に扮装した諏訪子だ。

「お前が洩矢の巫女か」
「ふん、大和の青瓢箪が洩矢の地に何の用だ」
「天帝のご命令だ。国を明け渡してもらう!」
「やれるものならやってみろ! 洩矢の祟り神の力を見せつけてやる!」
「よう言うたわ、その素っ首叩き落し、御柱にくくって湖の真ん中に掲げてやるよ!」

 諏訪大戦の始まりだ。
 鉄の輪を投げ放ち、御柱の雨を降らして二神は争った。
 茜が差す夕刻まで戦ったが、決着はつかなかった。
 あちこちに擦り傷を作った二神は戦場に突き立った御柱によりかかって腰をおろし、にらみ合う。

「あーうー、おまえ強いなあ」

 ミシャグジの巫女・諏訪が相手の健闘を讃える。
 それを聞き終わらないうちに、刀売之神がすっくと立ちあがった。

「今日はもう終わりにするよ」
「私の首を取らなくていいのか?」
「疲れたしな。出直す。それに」

 腰に手を当てたまま、夕日を背にし、その女神は本当に気持ちよさそうに笑う。

「久しぶりに目いっぱい戦えて楽しかったよ」

 手を振って去って行った。
 諏訪も立ち尽くしてその後ろ姿を見送った。

 その次の日も、その次の日も二神は戦った。

「今日も引き分けか」

 黄昏の中で刀売之神が軽いため息をつきながら言うと、疲れてうつむいていた諏訪がふいに顔を上げ、興味深そうに刀売之神の顔を見た。

「なあ」
「うん?」
「お前さ、大和でも下っ端なんだろ?」
「うん、まあ」
「こんな辺鄙な土地に一人でやられるぐらいだもんな。体よく扱われてんだろうな」
「嫌味か?」
「いや、そうじゃないよ。お前が強くて、その……誇り高いやつだってことは私が一番よく知っているし。……それでさー、お前さえもしよかったら」
「何?」
「洩矢にきて一緒に暮らすってのはどう?」
「え?」

 意表を突かれて唖然とした表情をする刀売之神、だがすぐに眉を顰める。

「私に大和を裏切れっていうのか」
「まあそんな深刻に考えなさんな。どうだい? あんたにも洩矢を知ってもらいたいんだ。これから一献、私たち洩矢者と酌み交わさないかい?」

 諏訪は刀売之神を酒宴に招いた。
 敵を酒宴に招くと言う諏訪の行いに、近隣の山神には驚く者もいたが、だいたいが諏訪と見事な戦いを繰り広げた勇者である刀売之神を歓迎するムードが漂っていた。
 土着の山神達は敵だからと言って、強い戦士を称える習慣を捨てはしないのだ。
 洩矢の土地神達は皆陽気で裏表がなく、気持のよい人間ばかりだった。刀売之神にとって心地の良い時間が流れた。
 それから刀売之神は洩矢に入り浸るようになった。
 朝起きて昼には洩矢に入り、日暮れまで諏訪と戦い、その後夜には土地神達と酒を酌み交わす。それが彼女の日課になった。
 刀売之神はだんだんと洩矢の事が好きになっていった。
 しかし楽しい時間はそう長くは続かないのが世の常である。
 いつもどおり気持ちよく一戦した後で宴会に交ってはしゃいでいると、そこに武装した兵士に囲まれて、高貴な姿をした女性が侵入してきた。刀売之神の上司、思兼神だ。
 刀売之神は思兼神の顔を見て蒼白になった。持っていた盃がぽろりと地面に落ち、洩矢の山神が注いだ酒が地面に吸われる。
 思兼神は刀売之神の前まで来ると、冷然たる眼差しで彼女を見下ろした。

「何をしているかと思えば」
「八意思兼神様、これは、その」
「敵と慣れ合うとは何事! 早くミシャグジの首を取りなさい」

 思兼神の発言をきっかけに、その場で大和の兵士たちと洩矢の山神達は斬り合いとなった。
 この事件を発端として、二者の仲は一気に険悪になる。
 もともと劣勢であった洩矢には、東方のまつろわぬ神々が後ろだてにつき、倭国全土を巻き込んだ大きな戦へと発展する。
 このままでは多くの血が流される。
 八坂は決断する。
 諏訪に手紙を送って、呼び出すことにした。自分達から始まった戦いだ。自分達で決着をつけよう。
 ミシャグジの巫女・諏訪と大和の戦神・刀売之神が一騎打ちをする。
 その噂が倭国を駆け巡った。
 かくしてまた諏訪湖の眼前、洩矢山の膝元の草原にて二神が対峙することになった。
 
「ごめんな。やっぱり私は大和の神っていう立場から逃げられないみたい」
「いいんだよ。あんたのせいじゃない」

 二人とも元の関係に戻った。元々敵同士だったのだ。
 今となってみれば、仲良く酒を酌み交わしていた時間が夢幻の如く思い返される。
 二神は激しく数合打ち合った。空を駆け雲を割り、湖を裂いて弾幕が交差する。
 両者の甚大なる神通力によって、洩矢の大地は激しく揺れた。
 戦いが苛烈を極める頃に、刀売之神は思兼神の目を感じた。
 自分を監視している。手心を加えると許さないと言うことか。
 刀売之神はついに懐から切り札の草蔓を取り出し、天空高く掲げた。

「ミシャグジ、諏訪。強い巫女だった。でも、ごめん。これを、使うよ」
「何だ? 神通力? こ、これは……私の鉄器が……」

 諏訪必殺の武器であった洩矢の鉄の輪がぼろぼろと崩れ落ちて行く。
 武器を失った諏訪は成すすべなく立ち尽くす。
 その胸元に刀売之神が剣を突き付けた。緋々色金で出来た神剣は鉄器を腐らせる草蔓の影響を受けなかったのだ。
 取った、しかし刀売之神は剣を止めたままで諏訪をじっと見据えている。二神の視線が交錯した。

「何をしている! 早く殺しなさい!」

 戦いを監視していた思兼神の叱咤が轟いた。
 その時、諏訪がにっこりと微笑んだ。本当に安らかで、可愛らしい笑みで、まるで全てを包み込んでくれる菩薩みたいな。
 刀売之神がはっと驚く。
 諏訪の手が剣に届いていた。そして諏訪はその手をゆっくりと自分の方に引いた。
 鈍い音が聞こえた気がした。諏訪の胸元深くに剣が沈み込んでいる。
 自ら刀売之神の剣先にかかったのだ。

「諏訪……どうして?」
「で、出会ったときから感じていた。あんたと私の間には何かあるって。まるで、生まれた時から知っていたみたいな……」

 刀売之神は自分を殺せないだろう。だから苦しむ。大和への義理と諏訪への愛情の狭間で。その苦しみから解き放ってあげるには、自分が死んであげるしかない。
 諏訪の口元から血の泡が噴き出、その体が崩れ落ちて行く。
 完全に地面に落ちる前に、刀売之神は諏訪の体を抱きとめた。そのまま息絶えた諏訪の体を抱き、呆然としている。
 刀売之神の両目から熱いものがぽたぽたと流れ落ちる。
 迫真の演技だ、見ている魔理沙は思い、生唾を飲み込む。

「思兼!」

 良く知っている声が轟いた。大和の兵士達の後ろに、いつの間にか日輪を背に抱いた少女が立っていた。

「大御神様? なぜここに。この件は私に任せるとおっしゃったはず」

 高天原の主上、天照大御神が現れた。彼女は思兼神のやり方を批難しに来たのだ。思兼神のやり方は余りにも苛烈すぎる。こんなやり方ではいたずらに敵を作り、不幸な人間を増やしてしまうだけだと大御神は説いた。
 主上に叱られて思兼神はしょげかえる。
 そんな中で刀売之神が神剣を握って立ち上がった。もう一方の腕には諏訪の亡骸を抱いている。
 舞台の上にいた登場人物全ての目が刀売之神に向いた。神剣の剣先が刀売之神の顎のすぐ下に当たっている。

「大御神様、思兼神様、どうか洩矢の民に温情ある措置を。この地にこれ以上、無益な血が流れることのないように」
「ええ、それはもちろん。約束するわ。刀売之神、何を……やめなさい!」

 自分も犠牲になれば、この戦いが無益なものだと両者は悟ってくれるだろうか。
 いずれにしろ、諏訪を失ったこの世に未練はない。
 諏訪が息絶えたあと、八坂も自ら首を斬って果てた。
 大和の神も、洩矢ミシャグジの山神も、最初は何が起こったのか解らず唯々絶句していた。
 しばらくの沈黙の後、やがて彼らは理解する。
 このまま軍隊同士の激突になれば、多くの血が流れるだろう。
 二人は自らを犠牲にして諏訪大戦を止めようとしたのだ。
 大和の神も洩矢の民も二人の死に心を撃たれ、戦いの意味を考えるようになった。

「ブラボーーー!!」

 素っ頓狂な奇声を真っ先に上げた観客。
 やたら熱狂した奴がいるな、と思って魔理沙が声のした方を見ると、紫だった。
 監督がサクラ? いや、そもそもこれはサクラとして成立しているのか? と首を傾げる。
 見ると紫はハンカチ片手に「ええ話や」と号泣している。
 自分が監督脚本した演劇に涙を流すとは。自己陶酔し過ぎではないか。
 それを見ていた知り合い一同は、なんとなくどっちらけな雰囲気を味わう。

「いやー、すごかったすごかった。皆気合入った演技だったぜー」

 舞台から降りて控え席に座っていた霊夢の元へ、魔理沙がかけつけて激励の言葉をかけた。

「ありがと。後半は三十分後だから、ちゃんと見に来なさいよ」
「えっ!? これ二部構成だったの!?」
「そうよ」
「長いなー、でも諏訪大戦てのは終わっちゃったんじゃないの?」
「後半は幻想郷の成り立ちを演じるの。紫の話では、諏訪大戦と幻想郷建国は一つの物語として繋がってるんだって」
「へー、超大作だな」




 4



 三十分の休憩の後に、舞台の後半の部が始まった。
 諏訪大戦によってリーダーであった諏訪を失い、洩矢は大和の傘下に入った。
 そのことで大和と洩矢を支持していた東方の神々の仲は険悪になっていた。
 元々倭国には大和の急激な統一政策を快く思わない土着神が大勢いた。
 大和の神々はこれらの土着神達、大和にまつろわぬ神の事を蔑視し、まとめて東夷と呼んでいた。
 思兼は強硬策を主張し、東夷を攻めるように勧めるが、大和の神の領袖・天照大御神はその気がなかった。
 彼女は洩矢の一件でいたく心を痛めていたのだ。
 それで他の神には内緒で東方の土着神達と交渉することにした。

「まつろわぬ神の長、天津甕星(アマツミカボシ)よ。洩矢で起こったような悲劇を繰り返さないために、両国の間で協定を結びましょう」
「天照大御神、私は天之御中主神の血を引くお前を信用することができない」

 天津甕星と呼ばれた人物、どこかで聞いたことがある声だ。と思ったら魅魔だった。
 博麗神社に取り憑いていた悪霊だったが最近姿を見ていなかった。
 ちゃんと生きていたのか。

「あなたが御中主と長年争っていたことは知っています。私達を信用できないのも解ります。ですから、私が身代を立てましょう」
「何をするというのだ?」
「あなたの治める東方の土地は、農作をしようとしても作物が育たないと聞きます。それは土地神を祝る巫女がいないからです」

 天照大御神が言うには、土地と神とを繋ぐ神職がいないと、土地の恵みを受ける農作はできないのだそうだ。
 東夷の居住する現在の東北地方には、巫女を立てる習慣が伝わっていない。そのため人々はいまだに未開で、狩猟採集の生活を続けている。

「だからなんだ」
「私が人間に化身してその土地の巫女となり、東方の土地を祝りましょう」
「正気か!? 馬鹿な……お前がまつろわぬ神の巫女になるだと?」
「ええ、もう決めました」
「信じられん。三貴神の筆頭であり、高天原の主上であるお前が、蛮族として忌み嫌われた我々の為に身を差し出すなどと」
「あなたも長年巫女を欲っしていたのでしょう? 私であれば東方の地も豊かになるはず」
「確かにこちらにとっては願ってもない話だ。お前以上に神格の高い神はいない。お前が巫女になれば、それは究極の巫女だ。しかし解らない。どうしてそこまでしてくれるのだ?」
「大和に恩を受けていない八坂でさえ、大和と洩矢と、二つの国のために命を投げ出したのです」
「八坂の献身と愛がお前の心を動かしたと言うのか?」
「ええ、その通りです」
「口で言うだけなら、なんとでも言える。やはり信用できんな。お前が今まで、神意の名のもとに多くの国々を侵略してきた経緯を考えれば」

 統一事業のために大和は多くの国々を征服し虐げてきた。
 それを率先して行ってきたのは、他ならぬ大御神を中心とする高天原の天津神だ。

「どうか信じてください。彼の神の愛は、重い天の岩戸をでさえ揺り動かしたのです。解りませんか? 彼女達はかつての私達と同じでした。私達と同じように、腹違いの……彼女達は、誰にも教えられなかったのに、それに気づいてお互いを愛したのです」
「なるほど。だが、私が東方に集めたのは人間だけではない。私は全ての虐げられた者達を集めたのだ。その中には妖怪や魑魅魍魎も数多いる。お前はその者達も祝ってくれるのか? 大和一気位の高いお前が、神々に忌み嫌われ、人間にすら見捨てられた妖怪達を祝福できるのか? はたしてそれほどの覚悟が本当にあるのか」

 現実を見ていない夢見がちなお嬢様の道楽で憐憫を与えられても迷惑なだけだ。
 天津甕星という虐げられし者達の神は結構きついことを言う。

「気位が高いと言われればその通りでしょう。私は自分以外の全ての者共を見下していた。生まれながらに、大和で最も尊い神だと呼ばれて育ったのですから。でも気付いたのです」

 自分の胸に手を当てる大御神。そこには彼女の光の象徴である鏡のペンダントが輝いていた。

「私は太陽の神格と呼ばれています。大空に瞬く日輪は、光を注ぐ相手を選びましょうか? 神の慈愛は全ての者に平等に注がれるべきです。日輪が自然が、全てのものに平等をもたらすように、種族の間も平等です。そこに貴賤はありません。どうか、私に妖怪達を祝らせてください」

 ふわふわと浮いてばかりだった大御神が地に降り立った。
 ちょうどそこは関東の湖沼地だったので、足が沈み込み、長い着物の裾に泥が付いたが、大御神がそれを気にする様子はない。
 天界のような高所から人々を見下ろすのではなく、人間達の中に入り、大地に根を下ろして生きていくという意思を示したのだ。
 見ていた天津甕星は一瞬呆気に取られて絶句したが、すぐに真顔に戻る。
 それだけではなく今までどこか訝しげだった視線が、一転して真摯なまなざしへと変わった。

「……わかりました。天照大御神、どうぞ東方へお越しください。それから」
「はい」
「あなたはこれより人間(じんかん)に降り立ち、巫女としての新しい姓を受けるのです。せめて、この私にあなたの新しい姓を名づけさせていただけないでしょうか?」
「謹んで拝領いたしますわ。名付け親になっていただけるのでしたら、あなたしかいないでしょう。天津甕星、いえ、私の弟、建速須佐之男命」

 言われた天津甕星は静かに微笑んだ。

「では、博麗と」
「博麗。綺麗な響きですね。由来は?」
「それは……」

 そうして大御神はさっさと高天原を降りて、東方の地に入ってしまった。
 自分が東方にいれば、祖神である御中主も侵略をあきらめるだろうと考えたのだ。
 困ったのは補佐役の思兼神である。彼女は兼ねてから大御神の目付役を仰せつかっていた。
 大御神の独断を止められなかったのは自分の不手際だ。
 となれば主神のお咎めを受けるのは必定である。かといって隠し立てできるような類のことではない。
 ともかくも事の次第を最高神である御中主に報告するしかない。

「なんだと? 大御神が高天原を放り出して、東夷の巫女になってしまったというのか」
「はっ、自分の後釜はお子様の瓊瓊杵尊にお任せになると、そう書置きを残して旅立たれました」
「なんということだ、我が孫が東夷に入ってしまうとは。これでは東方に攻め入ることができない」

 御中主は大御神の東方入りにひどくショックを受けた。主神でもやはり孫娘が可愛いかったようだ。

「あの、洩矢をいかがいたしましょうか?」

 思兼神がおそるおそる訪ねる。
 統治をするはずだった大御神が去ってしまったために、洩矢の戦後処理の方針が決まっていない。

「八坂刀売之神、諏訪の両名を神籍に入れ、洩矢の神とする。二神に大和への臣属を誓えば、自治を認めると伝えよ」
「わかりました」

 そうやって洩矢で犠牲になった二人は新たな命を与えられることになった。
 大御神を止められなかった思兼神の処分は追放と決まった。
 彼女は天界を追われ、寄るべきところを求めてどことも知れず去って行った。
 高天原の御前に八坂刀売之神、諏訪、二神の魂が呼び出され、代理の神として洩矢に奉じられることが伝えられた。

「以降、この地は諏訪と称する。御石神井洩矢大神は建御名方豊命(タケミナカタトミノミコト)と名を替え、大和の神を名乗り洩矢の民衆を慰撫せよ」
「ははー」
「くれぐれも電気製品が懐かしいからと言って妖怪烏に八咫烏の力を与えて核融合だわーいなどとほざくと言ったお茶目を働かないように、心せよ」
 
 御中主の顔をした紫の森厳な言に神奈子も諏訪子も渋い顔をする。
 やはり紫は地霊殿でのことを根に持っていたようだ。

 洩矢の一件が落ち着き、神として蘇った神奈子と諏訪子が、洩矢山の頂きに立っている。
 二人の背後には、注連縄の巻かれた杉の木が一本立っている。
 その杉の木の下でお互いに見つめ合うが、二人の間に言葉はない。
 そのまま二人は手を繋いで、眼下に広がる湖の方へ歩いて行く。

 遠ざかる二人の神の前に、いつの間にか一人の巫女が立って、神楽を踊っている。
 早苗、いや、初代の東風谷の巫女だ。
 諏訪と名づけられた新しい王国は、二神を祀ることになったのだ。
 神を祀る風祝の立った諏訪に、各地から人が流れてくる。
 比那名居天子が舞台に入ってきた。彼女は大和からの来訪者を表しているらしい。
 東方からは何人かの妖怪が顔を出す。文、勇儀などが昔の装束で登場し、諏訪の地で神遊ぶ。
 諏訪地方は、大和と東方文化の交流点となったのだ。
 それらの人々の交流が一段落したのか、全員が踊りながら舞台端へと流れていく。
 大団円とフィナーレに向かって舞台全体が加速していく。
 最後に東風谷の巫女が去り、その後に、東から紅白の巫女が入ってきた。
 東方の土地で巫女となった大御神、博麗だ。
 諏訪の地、東方の地にそれぞれ巫女が立った。
 二人の巫女は代を重ね、その精神は永い年月を生きる。
 自らの生まれた土地を祝り続け、二つの土地はそれぞれ別々の歴史を刻む。
 大御神、博麗の下った東方の土地は妖怪達の楽園となり、知られざる伝承の中で幻想郷の名前で呼ばれることになる。
 諏訪の地は八坂とミシャグジの二人の神に守られたが、やがて信仰を失い、二神は巫女と共に幻想郷に入ることになる。
 中央に二人の巫女が出てきた。最初は、古風な大和装束。だんだんと衣裳が移り変わっていく。
 やがて、現在の霊夢と早苗が来ている巫女服になった。
 二人は時の回廊をめぐって現代に帰って来たのだ。
 そして、幻想郷、今。

 終幕の合図が告げられて、出演者・製作者一同が舞台の上に出てきた。
 皆横一列に並び、手を繋いで観客に向かって一斉にお辞儀をする。
 そもそもの観客の数が少ないので、万来の拍手とはいかなかった。
 だけどもその場に集ったみんなが心を一つにできたと思う。
 役者も観客も。諏訪の歴史。日本の神話。幻想郷の歴史。おそらくは独自解釈なのであろうが、とても興味深かった。何より目に楽しかった。アリスの人形を使った演出も、妖術を使った視覚効果も素晴らしかった。
 本当にわくわくする時間だったと魔理沙は思う。

「いやー、とにかく長かったな。大作だった」

 魔理沙は椅子に腰かけている早苗と霊夢の方へ行って自分の感激を伝えることにした。
 素直にお疲れ様と言ってあげたい気持ちでいっぱいだった。

「はー、疲れたわー」
「でも学芸会みたいで楽しかったですよ。できればもうちょっと出番が欲しかったですけど」

 霊夢も早苗も緊張の連続で疲れ果てていたが、やり切って満足そうな笑みを浮かべていた。
 紫主催の神楽舞台をもって、第一回博麗神社例大祭は幕を閉じた。実に楽しい時間であったと、集った人妖は満足げに後々までこの日の思い出を語る。評判が良かったから、きっと次回も開かれるだろう。
 あまりに例大祭が楽しかったので、郷の人妖達は少し前に起こったあの奇妙な出来事のことなんてすっかり忘れていた。













 三 図南鵬翼


 
 1



「というわけで超統一物理学では万物理論の応用分野を探しているの。でもペンローズの超紐理論についてはまだ実証できていない部分が多くて学会でも……ってメリー寝てるでしょ!」
「う、ほわわ、起きてるわよ、ばっちり。おめめくりくり美少女」
「嘘ばっかり! もう。メリーが私の専攻科目について聞きたいって言うから、せっかく教えてあげているのに」

 名古屋・諏訪間を走る特急みずち二号の中で宇佐見蓮子は愚痴った。
 隣には同じ大学の同級生、マエリベリー・ハーンが座っている。

「ああ、なんだっけ? 紐で縛ってその後ロウソク垂らすんだっけ?」
「どんなプレイを想像してんのよ! 電車で眠りこけて涎垂らしてSM脳内妄想じゃあ、完璧に要注意不審人物よ。まあ、この説明、他の人にしても寝られたけどね! ちなみにメリーの三分半は新記録更新。……さて、また寝られないようにかいつまんで要点を言っとくと、超統一物理学って言うのは、宇宙を記述できる唯一の理論、万物理論を見つけて、それによって宇宙で起こり得る事象をすべて科学的に説明しようとする試みなの。どうよ、すごいでしょ? 頭の良い私を褒め称えてもよくってよ」
「へえ~~~~。15へえぐらい?」
「少なっ! 古っ! それにもうめっちゃ就寝モードだし。おまえ、最初から聞く気、ないだろ、ずびし!」
「ほわっ! 脇腹に手刀は反則よ蓮子」
「まったくもう、人のことバカにして……」

 そんな蓮子の愚痴を無視して、隣の席ではメリーがあくびをしている。
 蓮子はメリーをあきらめて、シート備え付けの小テーブルに置いたポッチーに手を伸ばす。
 見ないで袋をガサガサやった後一本取り出した。口に運ぶ前に異変に気づいて一本の棒をじっと眺める。

「あれ? ねえ、気がついたら私のポッチーがプリッツになってるんですが。メリー、これはもしかして秘封かしら?」
「もにゅもにゅ」
「うわあ、メリー、何チョコレートだけなめとってるのよ! 始めて見たわよ、そんな食べ方する人! ちょっ、何箱に戻してんのよ! クッキーの部分も食べなさいよ」

 そう抗議するとメリーは飢餓民に施しを行うマザー・テレサみたいな安らかな笑みを浮かべてこう言う。

「蓮子のためを思って半分残しておいてあげたんじゃない」
「言わない、それは半分とは言わない!」
「マエリベリーの半分以上は優しさでできています」
「嫌がらせじゃないの。きったないわねえ、メリーの唾液がたんまりついてしまって袋の中がべとべとじゃない!」
「あら、蓮子ったら。間接キッスを恥ずかしがる年頃なのね。初々しいわ、このおしゃまさんめっ(はあと)」
「わけわからんわっ! もう! メリーにつっこみし続けてたら日が暮れちゃうわよ!」

 ハタ迷惑に車内でどつき漫才を繰り広げる秘封倶楽部の二人。
 今日はメリーのネット友達の伝手で、諏訪市にあるミステリースポットを訪問することにしている。
 秘封倶楽部の目下の目的は、各地にある結界の裂け目を訪れて、メリーがいつか見た夢の国の入口を探すことだった。
 諏訪市の守矢神社が管理している祠堂の一つが、結界の裂け目でないかと言われているらしい。
 言われているらしいといってもそれはメリーのオカルト仲間の間での話らしいが。
 守矢神社を管理している人間がメリーの知り合いだったので、今回特別にその祠堂を見学させてもらえることになったのだ。
 京都・東京間であれば、ヒロシゲが使えるが、長野に行くにはローカル線を使うしかない。長野新幹線は結局京都まで通らなかった。
 あの災害の影響で、工事が中断されたからだ。
 と言ってもさほど不便に感じるわけではない。
 普通の特急であるみづち二号は新幹線ほど速くはないが、予定通り目的地の下諏訪駅へと向かってくれている。
 たまにはローカル線でののんびりした旅も乙なものに感じる。

「もうそろそろ諏訪に着くわね」
「駅からはバスで行くの?」
「いえ、一度駅前で食事しましょう。向こうには午後に着くって連絡を入れてあるから」
「その、東風谷さんだっけ? 住職の人」
「住職じゃないわよ。神社なんだから、せめて神主とか言いなさいよ。諏訪の守矢大社では、神職のことを風祝って言うらしいけどね」
「でも、守矢神社って地震の時の火事で燃えちゃったんじゃなかったっけ? 先週のNHKスペシャルで信越大震災の特集やってたわよ」
「昔ながらの建物は燃えちゃったけど。風祝の一族さんが集まって、復興しようとしているらしいわ。私達が訪ねるのは、その子孫の人よ」
「へえ、メリーって顔が広いのね」
「実はね、私のお母さんが諏訪出身なの」
「あら、そうだったんだ」
「それでその東風谷さんとも古い友達だったんだって。尤も、お母さんの友達の東風谷さんは、震災の時の火事で亡くなったそうなんだけど」
「へえ。今から訪ねるのはなんて人?」
「だから東風谷さんだって」
「いや、下の名前」
「ああ、東風谷早苗さんて人よ」
「女の人なの? 神主さんなのに」
「諏訪では代々、女性が風祝を務めてきたらしいわ。それと、正確には女の子よ。今年、中学二年生。ぴちぴち」
「ちゅっ、中学生の巫女さんですって? 性的だわ! 破廉恥!」
「なんでだよ、どびし!」
「いたいっ! 水平チョップは禁止! メリーの剛腕で私のナイスバストが潰れちゃうじゃない!」
「無いから無いから」
「あるわよ! 申し訳程度には」
「主張も乳も控え目ねえ」
「乳言うな」
「でも確かに中学生の巫女って私的にど真ん中ストライクなのよねえ」
「……なにが?」
「萌属性の有頂点に立ってる感じするわよね、中学生巫女って」
「いみがわからん」

 車内アナウンスが流れ、電車が間もなく上諏訪駅へ到着することを告げた。
 諏訪には上諏訪と下諏訪の二つの駅があり、諏訪大社下社である守矢神社は下諏訪の駅にある。
 車窓の外に広がる景色はすでに諏訪の市街になっているはずだ。

「これが諏訪市? なんというか」
「見事に閑散としているわね。ところどろ壊れた建物も残ってる」
「無理もないか。震災から十年以上ほったらかしだったんでしょ? 諏訪湖も干上がっちゃったって言うし」
「諏訪湖は今は新しい水源から水を引っ張っていて、復活しているらしいわよ」
「あら、そうなんだ」
「ほら、今見えるわよ」
「あ、ホントだ。なんだ、結構水残ってるじゃない」
「一時期はほとんど泥地だったらしいわ。自然の力ってすごいわね。こんな大きな湖を渇水させるんだから」
「諏訪湖の渇水は異常現象らしいわよ。地震のせいだけじゃないんだって。専門家も原因をはっきりつかめていないらしいわ」
「あ、もう下諏訪駅に着くわ。降りる用意をしましょう」

 諏訪の駅前は過疎の地方都市に相応しく、これでもかと言うくらい寂れていた。
 商店街はほとんどの店にシャッターが下りている。
 何とかデパートの中にレストランを見つけ、そこで食事を取ることにした二人。
 レストランの席に座り、ウェイトレスに注文を伝えた後、しばらく待つ。

「それでね、メリー。さっきの話なんだけど」
「ああ、紐がどうとかっていう」

 話を聞いてもらえなかったのが悲しかったのだろうか。蓮子はずいぶん自分の専攻科目の話にこだわっている。

「超統一物理学者達は、二十一世紀前半に万物理論を導き出したの。一つだけだけどね」
「さっきから言ってる万物理論って何なの?」
「おまえ、やっぱり説明聞いてなかっただろ。万物理論っていうのは、宇宙の全てを説明できる、一つの統一理論のことよ。それを見つけたら、宇宙で起こる現象を全て計算で予測できるようになるの」
「へーすごいのねえ。一つだけってことは? でも一つでじゅうぶんですよ! じゃないの?」
「そう、実は万物理論は、一つだけじゃないのではないかって唱える人が出てきたのよ。幾つもあってもいいんじゃないかって。でね、ここからが面白いんだけど。もし宇宙を説明できる万物理論がもう一つ見つかれば、『新しい宇宙を一つ創造したことになる』と言い出した人がいるの」
「ええ? どういうこと?」
「んとね、量子力学の観測者問題って知ってる?」
「知らないわあ」
「じゃあ箱の中の猫は生きているか、死んでいるかってのは?」
「シュレディンガーだっけ?」

 シュレディンガーの猫。世界一有名な動物虐待の話だ。

「そう。あのたとえ話は、間違った意味で広まってしまってるんだけどね。本当は、猫が死ぬ確率と生き残る確率は全く同一じゃないのに。死ぬ確率が圧倒的に多いのに、二択みたいに聞こえる。でも、あの理論を延長するとこうも考えられるの。もし、観測者が箱の中を予言できる理論を一つ知っていれば、観測者は箱の中で起こることを決定したことになる」
「なんだかよくわからなくなってきたわ」
「観測するということは、その事象の運命を決定したと同義なのよ。なんでかと言うと、量子力学みたいなミクロの世界では、観測するという行為がどうしても観測対象に大きな影響を与えてしまうからなんだけど。量子は観測される前は、波動関数の重ね合わせ状態で、観測することで始めて一つの状態に収束する。そこから敷衍して、観測するという行為が事象の運命を決定するんじゃないかという考え方が生まれた」

 蓮子の説明が熱を帯びてきて、メリーには付いていけなくなくなってきたが、そうらしい。

「それでね、私思ったの。結界の裂け目を見る能力って、もしかしたら新しい世界を観測する能力なんじゃないかって」
「夢の世界は、新しい世界だって言うの?」
「そう。メリーは無意識のうちに、新しい世界を説明する万物理論を発見してしまっているんじゃないか。メリーの能力は、新しい宇宙を自分が見つけ出した理論で観測し、その仕組みを決定してしまう能力なのよ。だから、夢の中の国もメリーが作ったものなんじゃないかしら」
「ふーん。もともと宇宙があったんじゃなくて、人間が観測することによって宇宙が生まれたんじゃないかって考えるのか。余りにも人間中心的な考え方ねえ。まあ反論もできないけど。でもそういうのって、『検証不可能』で議論が終わっちゃう類のものなんでしょ?」
「まあねー。あ、料理が来たわよ」

 ウェイトレスがランチを運んできた。
 テーブルに広げられた海老フライとハンバーグのランチを、二人はがつがつと口に放り込む。まるで食べさせてない子である。
 食事が終わった後でメリーがご不浄に立った。
 それから少し経ってから、蓮子の耳に言い争いをする声が入ってきた。隣の席から聞こえてくる。
 何かと思って蓮子は見やる。ウェイトレスと隣の席に座った客がもめているようだ。
 ちょうどメリーがお手洗いから歩いてきて、その席の隣を通った。
 蓮子は自席に戻ってきたメリーに事情を尋ねることにする。

「何かしら、あれ」
「なんだかメニューが少ないとか言ってもめてるらしいわ。きつね饂飩も稲荷寿司も無いなんておかしいとかなんとか」
「はあ。レストランできつね饂飩」

 洋風のレストランで饂飩がないのが可笑しいとごねるのは筋違いな気がする。

「こだわりがあるのかしら? 結構な美人の女の人だったけど、食い意地が張ってるのね」
「へえ」
「そう、蓮子の言うとおり、私ほど美人でもないけどね」
「言ってねえし聞いてねえよ」

 メリーは何食わぬ顔で席に腰を下ろし、メニューをめくり始めた。
 鼻歌歌いながらふんふんとメニューを確認している。
 その様子をみて、まだ食う気か、こやつ、と蓮子は思う。
 健啖なメリーだが、スマートなスタイルを維持しているのは腹立たしい。
 太らない体質なんだろうか。胃下垂ってやつなんだろうか。どちらにしろ皮下脂肪の国民割り当て分を少しは負担するべきだと思った。

「今日行く場所って山の頂上にあるんだって?」
「そうよ。本当は部外者は入れないところを、特別に入れてもらえることになったの」
「メリーはそこに結界の裂け目があると思っているのよね」
「なんでも本当はミシャグジ様を祀るための祠だったとか……」
「今、なんておっしゃいました?」

 聞き慣れない声がした。
 二人の席の横に、金髪ショートヘアーの女性が立っていた。
 メリーは良く見て、先ほど隣の席で言い争いをしていた女性だと気づく。

「え?」
「ミシャグジ様と言いませんでしたか?」

 唐突に話しかけられ、きょとんとした顔をその女性に向ける二人。
 確かにミシャグジ、というものについて話していたが。

「私、八雲藍といいます」




 2



 下諏訪駅からバスで二十分ほど南下すると守矢の里に入る。
 バス停は博物館の前に立っており、その建物の前に一人の少女が待っていた。
 白と緑が鮮やかな巫女服を着ている。

「守矢へようこそ、マエリベリー・ハーンさん、宇佐見蓮子さん。東風谷早苗です。お待ちしておりました」
「はじめまして、マエリベリー・ハーンです。早苗ちゃん、会いたかったわ」

 メリーは早苗を見止めるなり両手を広げて、その少女を

「あ、あの……」

 ハグした。
 ぎゅっと抱きよせて目をつぶる。おまけに感触を確かめるように体のいろんなところをさすりだした。
 慌てた早苗の顔が赤くなっていく。

「ごはっ!?」

 法悦の表情を浮かべたメリーの脇腹に、蓮子の見事なミドルキックがめり込んだ。
 そのショックでメリーから離れる早苗。回り込んで蓮子の後ろに隠れる。
 部外者の藍は何もできないので、少し離れて苦笑しながら三人の様子を遠巻きに眺めている。

「ごめんなさいね、メリー最近発情気……じゃなくてだいぶ前から頭がおかしいの」
「は、メールのやりとりで変わった方だと言うことは把握していたつもりだったのですが、いきなりだったのでびっくりしました」

 いててと脇腹をさすりながら立ち上がったメリーは本当に口惜しそうな顔をしている。

「もう、邪魔されるんだったら蓮子を連れてくるべきじゃなかったわ」
「連れてこなきゃやばいでしょうが! 邪魔って、付いてこなかったらなにしてるつもりだったんだ」
「ええと。こちらの方が電話でおっしゃっていた?」
「あ、始めまして。八雲藍と申します。今回は無理を聞いていただいて本当にありがとうございます」
「いえいえ、お二人の紹介だったら間違いはないでしょう。たしか同じ大学の方なんですよね?」
「あはは、そうそう。メリーと同じ学部なのよ」

 駅前で出会った八雲藍と言う少女。
 彼女がどうしても同行したいというので、早苗に連れが一人増えることを伝えていた。
 いくらなんでも初対面の人間を同行させると言うのは不自然なので、メリーの友人と言うことにしてある。
 大学が同じというのはどうも本当らしい。
 藍もメリーと同じく京都の大学で学んでいると言っていた。
 藍は民俗学を専攻しているというので、相対性精神学を専攻しているメリーとは余り接点がないが。
 彼女は今年三年生で、卒論では諏訪に伝わる民間伝承を題材にしようと考えた。
 そこでミシャグジ伝承に目をつけたそうだ。

「ミシャグジに伝わる七つの石七つの木にご興味があるとか」

 早苗が続けて藍に話しかけた。「七つの石七つの木」とは蓮子にとっては初めて聞く単語だ。

「あ、はい。七つの石七つの木の最後の一組は結局見つからずじまいだったとか」
「それは良い所に来られましたよ。実はですね……あ、まあこの話は。また落ち着いた場所に行ってしましょう。まずは皆さんバスに揺られて疲れてらっしゃるでしょうから、私の家に来てお茶でもどうですか」

 そう言う早苗は嬉しそうな顔をしていた。
 メリーは内心ほっとした。いきなりの部外者を連れ込んで、気を悪くしないかと気がかりだったか、むしろ早苗は民間伝承に興味がある人が来てくれたのが嬉しいようだ。

「さあ、お三人方、神社に行きましょうか」
「あ、そうね」

 博物館の前の坂を上がっていくと、すぐに守矢神社の境内が見えてくる。

「といっても、今はまだ建て直し中なので何もありませんが」
「何もないっていうか、焼け跡よね」

 額にたらりと汗を流し、メリーは苦笑する。
 四人の目の前には見事な空き地が広がっていた。
 周囲をロープで囲まれていて、立札が立っていて、守矢神社再建予定地と書かれている。
 三十年前の信越大震災で起こった火事により、守矢神社は鎮守の森を含めて全焼してしまったのだ。
 焼け落ちた炭や木々はさすがにもう片付けてあるらしいが、神社があった場所には石の土台が生々しく残っていた。
 敷地を見渡すと隅っこに一軒だけ、木造りの真新しい家屋がある。早苗が言うには、現在はそこで寝泊まりしているらしい。
 早苗に案内されて、三人はその建物に入り、居間に通される。

「今お茶をお出ししますね」

 早苗が台所に立った後、見送った蓮子は顔を乗り出してメリーに小声で話しかける。

「ねえねえねえねえ、東風谷さんすんごい可愛い子ね。びっくりしちゃった」
「ほんとよね。私も始めて会うんだけど。可愛いすぎてあやうく抱きしめてしまうところだったわ」
「いや、抱きしめてましたよ、あんた。おもっきし」
「あのー、やっぱり私、お邪魔でしたでしょうか?」

 藍が口を開いた。無理を言って同行を依頼したものの、やはり気兼ねしているようだ。
 メリーは慌てて藍の方を見る。

「あ、いいんですよ。旅は道連れが多いほど楽しいですし」
「そう言えば、さっき藍さんが言ってた七つの石七つの木って」

 疑問を思い出して蓮子が尋ねる。

「あ、この地方の伝承にある、ミシャグジに所縁のある旧跡なんです」
「そういえばミシャグジって何なの?」

 蓮子は知らなかったらしい。メリーもそう言えば説明してなかったと気づく。

「諏訪地方に古くから伝わる祟り神のことよ。昔は広く信仰されていたんだけど、大和朝廷の統一事業の時に中央神話に組み込まれてしまったらしいわ」
「へー、土着信仰ってやつね」
「そうです。七つの石七つの木っていうのは自然崇拝の一環だったそうです。ミシャグジは万物に宿る自然神だったから、土地に生えていた特徴のある木や石をミシャグジ様の御神体として祀って豊作を祈願したらしいんです」
「通説ではそう言われていますね」

 早苗がお茶と菓子が載ったお盆を持って居間に入ってきた。

「実は守矢の一族には別の伝承が伝わっているんですよ」
「別の伝承? おもしろそうね、それ。もしかして口伝でしか伝えられない秘密とか」

 メリーが話に食いつく。身を乗り出して早苗の方に顔を近づける。

「実はそうなんですよ」
「うわっ、すごい! 超ミステリアスじゃない!」
「まあ、秘密にしているわけじゃなくて、誰も興味を抱かないだけなんですけどね」
「ねえ、どんな伝承なの?」
「七つの石七つの木はミシャグジ様を祀るだけじゃなくて、本当はある災害を食い止めるためのものだという伝承です」
「ある災害?」
「それが本日のラストミステリーです」
「うわ、いきなりクイズ形式?」
「もしかして」

 探るような視線で蓮子は早苗の顔を覗き込む。

「地震とか?」
「黒柳さん、正解!」
「ほんと! やったー! これでトップ賞よ!」
「七つの石は実は地震を鎮める力を持った要石だったんですよ」
「えっ、ちょっと待ってそれって」

 メリーが何かに気づいたようにはっとなる。

「もしかして三十年前の大震災は」
「そこまで行くと考えすぎじゃないかしら? 本当のオカルトになってしまうわよ」

 蓮子はメリーの言いたいことを察した。
 七つの石が地震を鎮めるための要石だったとしたら、その力と三十年前の信越大震災に何か関係があるのではないかと連想するのは自然だ。
 京都では本気で霊的な研究を長年続けていて、その一部には要石が地震を鎮める効果の研究というものもあるのだ。
 もし地震があった時に要石に何か起きていたとしたら。

「うーん、実際を言うと私達東風谷一族も、神様を信仰していますが別にオカルトの全てを信じでいるわけではないのです。ただ……」

 そう言って早苗は一同の反応を待つように見渡した。

「奇妙な偶然の一致があって」
「偶然の一致?」
「今日メリーさん達を案内する、守矢山の祠なんですが、ここにミシャグジの七つの石の最後の一つがあって」
「本当ですか?」

 藍が驚きの声を上げた。

「そうそう。その話を藍さんにしようと思っていたんですよ」

 蓮子とメリーは一緒に藍を見る。
 藍の探していた七つの石七つの木の一つが、今日これからメリーと蓮子が行くことになっている守矢山の祠にあると言う。
 図らずも三人の目的地は同一の場所だったわけだ。

「それでですね、その石が安置されている祠、これは実は元々は守矢一族の管轄ではなかったんです」
「というと……」

 メリーは相槌を打った後黙り込む。
 守矢一族の祭神、八坂刀売神は農耕の神で、風雨を司る。空と縁が深く、大地の力である地震とは縁が浅い。
 守矢一族が地震を鎮める役を担っていると考えると少し辻褄が合わない気がする。
 だが、もし他に、地震を鎮める役を持った神職がいたとしたら、説明が上手く付く。メリーはそう考えたのだ。
 早苗の顔がいよいよ神妙になる。

「ええ、地震を鎮める責務を負った、名居之神という神様を祀る一族の管轄でした。三十年前、丁度信越大震災が起こったときに、この祠が荒らされて、中に保管されていた七つの石の最後の一つが倒されて割れてしまっているのです」

 聞き手の三人は一様にゴクリと生唾を飲む。まさかと思っていた関連が実際に存在していた。

「本当に地震があった時に要石が抜かれていた……」
「意味深すぎるわ……」
「すごい展開になってきましたね」
「そうねえ、藍さんの卒論もすごいことになりそうねえ」
「ええ、本当に七つの石を早く見たくてたまりません」




 3



 守矢神社の跡地で一服した一行は、早苗の案内で目的地である守矢山の祠に向かうことになった。
 守矢山はさほど高い山ではなかったが、目的地まで登山道がきちんと整備されているわけでもなかったので、メリー達は汗をかきながら登った。

「うう、私はもうダメ、蓮子、私を置いて行って。あなただけでも」
「はいはい、さよならさよなら」
「つ、冷たい! おぶってくれたっていいのに」
「メリーなんかおぶったら二人して坂を転げておむすびころりんよ」

 登山の途中、早苗が守矢神社の遍歴について語ってくれた。
 早苗が言うには、三十年前の地震で東風谷の家系は一度途絶えてしまったのだそうだ。
 そこで親戚筋にある今の早苗の家が風祝職を継承し、姓も東風谷に変えて復興したのだと言う。

「早苗っていうのは風祝に多い名前なんです。先代の風祝、私の親戚でメリーさんのお母さんの親友の方も早苗という名前だったんですよ」
「早苗ちゃんはオカルト方面ではちょっと有名な巫女さんなのよね」
「オカルト方面で有名って不思議な響きね。オカルトって本来『秘匿されたもの』って意味じゃなかったかしら?」
「あはは、メリーさんも結構ネットでは有名な方ですよ」

 メリーと早苗はネット上のオカルトを語り合うスペースで出会ったらしい。
 早苗は日本神道の伝統を伝え、日本の伝統文化を復興していきたいと願っているという。
 ネットでもその言説をぶっちあげて神道と日本文化を愛する現役中学生巫女ということで一躍有名になった。

「へえ、すごいわねえ。ちゃんとした目標があるんだ」
「あら、私だって一応そういうつもりで秘封倶楽部をやってたんだけど」
「えっ、そうだったの? 単なる興味本位だと思ってた」
「まあそれが大きな理由でもあるんだけどね」
「そういえば、藍さんはどうしてミシャグジ信仰に興味を持ったんですか?」

 さすがに三人に馴染めず言葉少なげだった藍に、早苗が気を使って話しかけた。
 藍はほっとした顔をする。
 皆の視線が藍に向いた。改めて見たらこの人も綺麗な顔をしていると一同は思う。

「卒論で民間伝承をテーマにしようと思ってるんです。諏訪にはタケミナカタという氏神が祭られていますが、これとは別に土着神であるミシャグジも古くから祀られていた」
「ええ」
「私はタケミナカタというのはミシャグジの別名だと考えているんです。これは昔から良くある説なんですけど。元々タケミナカタという神様は居なくて、土着のミシャグジ様が居て、大和政権の統一により習合を受けて名前が変わってしまったのではないかと。あ、タケミナカタを祭る守矢神社の方にこんなこと言うとその、怒られるかもしれませんが」
「いえ、構いませんよ。実を言えば、東風谷の一族の中でも、守矢の祖神はそのミシャグジ様ではないのかと言われているのです」
「本当ですか? でも」
「日本神道だとそれは邪道になってしまうのですが、実際のところ諏訪はもともと洩矢と言われて大和朝廷とは別系統の民族だったのですし」
「なるほど、結構柔軟な考え方をされるんですね。私、日本の宗教観のそういう鷹揚なところにすごく魅力を感じるんです」
「ああ、わかります。仏教の伝来の時もそうですが。昔から日本は外来の信仰を柔軟に取り入れて、土着の文化と結びつけるのが上手だと思います。大和の神なんかも本来は朝鮮半島や中国大陸南方系の伝承だと言われてますしね」
「ええ。実は私のゼミの教授は、諏訪ミシャグジは製鉄文化を伝えた中国南方系民族の神様だという学説を唱えているんです」
「ほうほう」
「洩矢王国意外にも、当時、能登半島に製鉄を得意とするクニがありました。出雲国風土記などでは古志とか越の国と呼ばれていますが……私は洩矢とこの越の国は、実は同族ではないのかと考えているんです」
「それはまた、斬新な説ですね」
「ありがとうございます。それで、タケミナカタの妻神、ヤサカトメノカミですが、この神様のご神体は守矢では蛇になっていますよね?」
「はい、その通りです」
「神話の時代で大蛇と言えば、誰でもヤマタノオロチを連想しますが、実はこのヤマタノオロチがやってくるのが、古志の国だと言われているんです」
「ええ? ということは!」
「そう! ヤサカトメノカミは元々諏訪と同族のお姫様だったと考えられるんです。政略結婚か何かで、分かれた同族であった諏訪のミシャグジの所に嫁ぐことになった。そしてミシャグジは後にタケミナカタと名を変えた。……というのが私の卒論の主なテーマなんですが」
「とても面白そうです! 神話の新しい解釈ですね! すごいなあ」
「えへへ。本職の人に褒めていただくと何だか照れますね」
「お世辞じゃなく、とても興味深い研究だと思いますよ。諏訪のルーツが塗り変わるかもしれないわけですから。もしかしたら東風谷の方でも何か協力できるかもしれませんね……参考になる古文書がいくつか掘り出せるかもしれません」
「本当ですか!?」
「帰ったら早速探してみますね」
「うわあ、ありがとうございます!」

 ずいぶん真面目な話になったと蓮子は失笑する。
 それにしても早苗は中学生とは思えないほどその道に対する造詣が深い。家業は伊達ではないと言うことか。
 小一時間ほど登山道を歩いた末、四人はやっとのことで山頂に着いた。
 山頂は開けた広場になっていた。見晴らしは最高で、北を見れば諏訪の市街が一望できる。
 広場の東の隅に、周囲を鉄柵で囲まれた小さな祠堂があった。

「つきましたよ。これが山頂のほこらです」
「鉄柵で囲ってあるなんて変ってるわね」
「ちょっと不気味よ。まるで何かを封じ込めてあるみたい」
「ミシャグジの石はこの祠の中にあるのですか?」

 藍が尋ねた。

「いいえ、実はこれはダミーなんです」
「ダミーなんてあるんだ」
「本当の祠は、あちらの道を少し降りた崖の中腹にあります」

 早苗の指示に従って一向は、上って来た道とは逆の斜面を少し降りた。
 山頂の陰になった南側の斜面に神社型の建物が建てられている。
 その隣には大きな杉の木が一本添えられていて、腹に注連縄が巻かれている。

「ここです」
「立派な木……もしかして」
「そうです。これが、最後の七つの木です。この木には何か由来があったそうなんですが、今はもう分からなくなってしまいました」

 ぎいと言う音がして社の扉が開かれる。
 中は暗い。暗黒がずっと先まで続いている。

「洞窟?」
「ええ、ずっと続いています。この奥に、七つの石の最後の一つがあるんです」

 早苗は持ってきた荷物の中から懐中電灯を取り出し、三人に一本ずつ渡す。

「さあ、行きましょう」

 洞窟はずっと奥まで続いていた。
 涼しい風が奥から吹いてくる。風が吹いてくるということは洞窟の奥が吹き抜けになっているのだろうか。

「鍾乳洞かしら? このあたりはカルスト地形ではないと思ったんだけど。それにしても、随分大きな洞窟ねえ」

 懐中電灯の光をあちこちに当てながら、蓮子は洞窟の様子を観察する。
 岩肌は石灰質でできており、所々に鍾乳洞によくあるつららや石柱が見えた。

「この洞窟は、東海道までずっと続いていると言われています」
「ええっ!?」
「さすがにそんな遠くまでは続いていないと思いますけどね。途中で出口がいくつもあるのは事実です。少なくとも、守矢山の反対側までは続いています」
「何でこんなものがあるのかしら? 自然に開いた穴にしては不自然よね」
「確かに不思議ですね。それについても口伝があって、ただこれはローカル伝承といいますか、私は祖先がでっちあげただけだと思っているんですけどね」
「どんな伝承?」
「諏訪の祭神であるタケミナカタとヤサカヒメがこの土地に入って来た時のことです」

 大和の神であるタケミナカタとその伴侶ヤサカヒメが諏訪に入って来た時に、同時に富士山と八ヶ岳の神も信濃・東海地方を訪れた。
 この二神は姉妹であったが、元々仲が悪かった。
 在る時諏訪の近くで、富士山と八ヶ岳が取っ組み合いの喧嘩をするという事件があった。
 その喧嘩に負けた八ヶ岳は、最後に富士山に蹴飛ばされてしまった。
 蹴られたショックでもともと美しい一つの山であった八ヶ岳は、八つの散り散りの山に分かれてしまい、高さも富士山より大分低くなってしまった。
 そのことがきっかけで八ヶ岳は正気を失い、全ての者を憎むようになってしまった。
 それでとばっちりを受けたのが諏訪の国だった。
 負けた八ヶ岳の怨念が、諏訪の土地一体を支配したのだ。
 その呪いによって、諏訪は地震が多発する土地になってしまったと言う。

「そこで大和の神のうちで、地震を鎮める力を持っていた名居之神にお願いしたそうです。住民達の願いを聞いた名居之神は、一族の姫を巫女として一人、遣わしました。それが名居之神を祀る比那名居の一族だったのですが……比那名居の一族は三十年前の災害で家系が絶えてしまったんです。ですからその当時、信越大震災の時に何があったのかを知っている人はもういないんです」
「そうなんだ。残念ね」
「他にもこの洞窟にはいろんな伝承があるんです。当時大和の神々は東方にいたまつろわぬ神々と対立していました。諏訪は結局大和の下に入ることになったのですが、東方との交流も忘れていなかった。そこで大和の神には内緒で、こっそりと東方まで続く秘密の連絡通路を作ったとか」
「東方ってどこのこと?」
「今の東北地方と言われていますが。東海道と一緒で、ただの伝説だと思います。諏訪から東北まで洞窟が続いているわけがありませんね」

 不思議な神話だ。
 蓮子とメリーの二人は顔を見合わせた。否が応にもメリーが夢で見た国との繋がりを想像させる。
 ただの洞窟が東北地方まで続いていると言うことはないだろう。だけどもしそこに結界の裂け目があるのなら。
 期待が高まる。
 話している間に、付き当たりの部屋になっている場所に出た。

「つきましたよ、これが最後の石です」
「確かに倒れて割れてるけど」
「また刺し直そうという意見もあったんですけど、あまりにも綺麗に真っ二つに割れてしまったので刺し直すのは無理、ということでそのままにしてあります」
「不思議な光……虹色に輝いているわ」
「こんなものが神話の時代から伝えられているっていうの?」

 蓮子とメリーはかわるがわる石の様子を観察する。

「ねえ、これ祟ったりしないの?」
「ミシャグジ様は祟り神ですけど、七つの石には特にそう言った伝承はありませんね」

 蓮子は部屋の中を確認した。
 部屋は洞窟から続いて、通路が少し広がったようになっている。
 カタコンベのような、地底の礼拝堂といった雰囲気だ。
 石の置いてある祭壇の周りには燭台が置かれ、壁面には注連縄や何かを立て懸けるための台座が設けられている。
 祭事の時には色々と飾り立てるのだろう。

「ねえ、メリー。結界の裂け目は見える?」
「うーん……今のところ見あたらないわねえ」
「藍さん? どうしたんですか?」

 早苗が不思議そうに声を上げた。
 さっきまで一同の後ろに控えて黙っていた藍が、いつの間にか石のすぐ前に進み出ている。

「ついに見つけた。やっと、やっと。長かった。この日をどんなに待ちわびたことか。やっと帰れるんだ」
「触っちゃだめですよ?」

 早苗の言葉も一切耳に入らぬ様子で、藍はそのまま石にむかって手を伸ばした。
 藍の手が七色に光る石の表面に触れた瞬間、ぶわんと言う音がして、空中に不可思議な図形が浮かんだ。
 幾何学的で、象徴的な形をしている。二つの正方形が合わさった図形。
 八芒星だ。周囲が梵字に似た象形的な文様で飾られている。
 暗い洞窟の中でもその文様がはっきりと確認できるのは、それ自体が発光しているからだ。
 そして。
 蓮子はめまいを覚えた。
 黒い渦が目の前にぽっかりと空いているのが見えた。
 藍の体が、見えない力に引きずられて、そこへゆっくりと吸い込まれていくように見える。

「藍さん!?」

 三人は一斉に藍の居る方角を照らした。
 気が付くと藍は洞窟の中空に浮いていた。
 そして、次の瞬間、すとんと空間に落ちるように黒い渦に吸い込まれ、藍の姿が消えた。
 またぶわんと言う音がして、黒い渦そのものが閉じて、ただの宙に戻った。

「「「……!!」」」

 三人は眼を見開いてただただ絶句する。
 藍が消失した。






「どこにもいません……」

 一連の出来事を目の前で見ていた三人は、しばらく衝撃で動けなかった。
 落ち着いてから、三人は手分けして洞窟の中を探り、消えた藍の姿を探った。

「一体どういうこと?」
「空中に消えた……」

 蓮子とメリーは顔を見合わせる。二人とも狐につままれたみたいな顔をしている。
 何もない空間に人が突然消えるなんて、そんなことあるはずがない。
 そう考えて蓮子は周囲を見渡し、その後でミシャグジの石を観察している早苗に向かって尋ねた。

「早苗ちゃん、中に人が隠れられる場所はあるの?」
「いいえ、先ほどご覧になったとおり、横穴もありませんし……先に通じる穴はずいぶん前に封鎖されてしまっています。一人の力で岩をどけるのは無理ですから、その穴に入ることも不可能です」
「やっぱり……消えた……」
「そんな馬鹿なことって……」

 蓮子もメリーも再び驚愕する。

 日暮れまで三人で辺りを探したが、藍の姿は見つからなかった。
 なにしろ三人とも、藍が空中にできた穴に吸い込まれたことを見ているのだ。
 これはもう信じなくてはならないかもしれない。良くある小説や映画や漫画のように、藍は空中に空いた穴に吸い込まれて、どこかへ消えたのだ。

 何処へ?

 そう考えると、三人とも寒気がした。
 この洞窟の由来。
 ミシャグジの連絡通路。東方のまつろわぬ神々の国へと続く通路……。




 蓮子、メリー、早苗の三人は守矢山を降りて、守矢神社の境内にある早苗の住居に帰ってきた。
 早苗が夕飯の支度をしてくれている間、蓮子とメリーはリビングに集まって今日体験したことを振り返っていた。途中、蓮子が席を立って、早苗の家の電話を借りた。どこかへ電話して、何かを確認しているらしい。

「はい、はい。わかりました……どうもありがとうございます」
「どこへ電話していたの?」
「藍さんが教えてくれたホテルの番号に電話してみたわ」

 それでメリーも察する。緊急時の連絡先として、藍から宿泊しているホテルの電話番号を聞いていたのだ。蓮子はそこへ掛けて、藍が帰っていないかどうか確認していた。

「どうだった?」
「そんな女性は宿泊していないって。それだけじゃなく、今日泊まったお客の中に女性はいないって言われたわ
「そんな!?」

 驚いたメリーは思わず素っ頓狂な声を上げる。

「まだあるの。私、さっき大学にも問い合わせて在籍確認をお願いしてみたんだけど」

 そこまでしていたのか。
 藍は確か自分達と同じ大学に通っていると言っていた。そこで民俗学を先行していて、今回の旅行はゼミの卒論の取材だと。でも、蓮子の様子から伺う限り、電話をして得られた結果は望ましいものではないのだろう。

「事務の人が調べてくれた。京都大学の文学部に、八雲藍という学生はいないそうよ」
「どういうことなの……」
「わからない。あまりにも奇妙すぎるわ。まるで、はじめから八雲藍なんて人はいなかったような……」
「神隠し……」

 ぼそり、とメリーはつぶやいた。蓮子もメリーもその響きを、不吉に感じながら噛みしめた。
 東方SSコンペ(お題:水)提出用に書いていた作品です。
 残念ながらコンペには間に合いませんでしたが、その分推敲に時間をかけたので少しは良くなったかと思います。
 作中いろいろとトンデモ自分理論(量子力学うんたらかんたら)が展開されちゃっておるのですが、眉に唾付けながら雰囲気をお楽しみいただければ吉かと思います。
 守矢神社を諏訪大社下社としてあり、位置関係や来歴等が現実の諏訪大社と異なりますが、創作の都合上そうしました。(下諏訪の駅が最寄で守矢山の麓にあるのは本来なら諏訪大社上社です。また実際は守屋山には諏訪大社下社から直通で行くわけではないようです。写真で見た感じ、登山道は緩やかで比較的登りやすそうです)

 「黄昏の郷の黄昏 光」は前編になります。中編「黄昏の郷の黄昏 陰」に続きます。

※誤字修正いたしました。ご指摘ありがとうございました。
nig29
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コメント



0.2380簡易評価
1.90名前が無い程度の能力削除
神話の解釈等も含めなるほどと関心させられる点が多くありました。
伏線をどのように回収されていくのか座して後半を待ちたいと思います。
3.70名前が無い程度の能力削除
これで前編ですか。すごいボリュームですねw
事実のみを淡々と述べていく形式なのが惜しいですが、
裏に流れる壮大なストーリーはそんな些細な問題を忘れさせてくれますね。
6.無評価名前が無い程度の能力削除
日本神話の異聞という感じでしょうか。SF的なわくわく感があります。
支線になる話が多すぎて主になる話を忘れそうですが、これからの展開に期待します。
点数はもう少し話の流れがわかったあとで。
15.80名前が無い程度の能力削除
これからが楽しみです。ゆっくりでいいので
完成させてください。
16.100名前が無い程度の能力削除
いや、面白かったです。輝夜と妹紅、チルノとお嬢様、劇中の紫(御中主)と霊夢(天照)と永琳(思兼)の掛け合いなんか特に。
普段は続き物は完結してから点を入れているんですが、今回は「引き」まで含めて「前編」としての体が整っていると思ったので点数入れちゃいます。

以下、色々と気付いた点です。
>トンデモ自分理論(量子力学うんたらかんたら)
紐理論の平行多世界解釈だと思いますが、トンデモどころかほぼ有ってると思いますよ。
唯一違うのは「観測=新しい理論」ではなく、「観測=新しい初期状態」であるということです。
関数(理論)が全く違う形になるか、その関数の中の変数(初期値)が違う値になるか。
どちらにせよこのお話が成り立つのは確かですので、眉唾なんてこたないです。
しかも大学生の蓮子の理解なので、これぐらいの誤解は逆に自然なぐらいです。
> 幽々子が清酒の入ったとっくりをを持って
>最も、お母さんの友達の東風谷さんは
尤もの方がより良いかと。
>メリー最近発情気……
発情期かと。
>早苗に連れが一人増えることをを伝えていた
>八雲藍という生徒はいない
日本の教育機関は「小学生=児童」「中高生=生徒」「大学生=学生」という言葉の使い分けをしています。なので大学関係者は意識して学生という言葉を使います。当の学生がそれを知らないことは寧ろ多いので、蓮子の脳内で変換されることは十二分に有り得るんですが、もし蓮子が「電話口で聞いた言葉をそのまま」言ってるとするなら少々不自然です。
>また実際は守屋山には諏訪大社下社から
守矢山かと。

というわけで続き読んできますね。寝られない(´・ω・`)
17.90名前が無い程度の能力削除
うおお何か凄そうなのが。続きいってきます。

>半分が白澤と言う妖怪であり、この寺子屋を切り盛りしている上白沢慧音もその一人だった。
白沢では?
18.無評価fs削除
この解釈は凄い。
評価はまとめさせていただきます。
24.100しず削除
……困った。このお話は、私の好みのツボを直撃しすぎている。
続き、読んできます。
25.無評価名前が無い程度の能力削除
誤字報告を。

> 会話をしたりできるのは、予備期間ののようなものだ。
> 時々舞台の上に居る数人の役者に支持を出している。

読み応えがありますね。中編は明日じっくり読ませていただきます。
39.100名前が無い程度の能力削除
まるで映画を見ているような気分でした
映像が頭に浮かんできます
ラストの、後半へ続かせる幕引きも見事
47.100名前が無い程度の能力削除
うおおお・・・・!
まだ前篇だから点数つけるのは控えたかったけどこのワクワク感だけで満点です!
解釈も面白いし伏線臭いのもいくつもあって楽しみすぎる!
52.無評価名前が無い程度の能力削除
どうでも良いですよ。
文化庁ではなく、文部科学省です。嘘です。あなたの方が、正しいのです。
53.無評価名前が無い程度の能力削除
さて、貴方は私の脳内論文をそっくりそのままパクりましたね。
古志の国=山古志村(数年前の震災の震源地)なんて言われるように、古志の国は新潟のみならず、
長野まで続く国だったこと。この国は幾度も大和に反乱を起こしており、製鉄技術を持って立ち塞がった。その名残こそ「天叢雲剣」であること。(製鉄技術のシンボル)また、北東の方角に位置し、
北東を丑寅(鬼)とすることから、古志の国にいたならず者は、山城大江山に根城を築いた。
これが旧・鬼伝説(酒呑童子とはまた違う)であること。
大江山、伊吹山が交通の要所であったことから、鬼とは「山賊」の意味を持っていたこと。
守矢神社で祀られている神様は、武甕槌、建御名方神であり、ミシャクジ様は土着神だったことから、
同じく荒ぶる神が多く、葦原中津国に根付いていた「出雲神話」系の神である建御名方であること…
そんな風に解釈していますがどうでしょう。