Coolier - 新生・東方創想話

人形遣いアリスと魔封じの森

2008/09/27 03:20:51
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   はしがき

 アリスが主人公の小説です。
 物語全体を通してやや憂鬱な雰囲気となっています。
 シリアスな展開が苦手な方はご注意ください。

 いくつか原作の設定を脚色・改変した部分があります。
 幻想郷の中の話ですが舞台はオリジナルです。
 敵キャラもオリジナルです。
 スペルカードもオリジナルのものが多く含まれています。
 上記のことを予めご了承ください。
 それでは、本文へどうぞ。



   人形遣いアリスと魔封じの森

「急に魔法が使えなくなったら、どうする?」
 と私は言った。魔理沙は唐突な質問に訝った。
「どうしたんだアリス。魔法が使えなくなってしまうような毒キノコでも食べたか? それともアレが近づいてきて調子が――」
 私は質問を続けた。
「魔法の森のさらに奥深くに、奇妙な森があるんだけど‥‥‥知ってる?」
 少し、間が空いた。魔理沙の表情がわずかに揺らめくのを私は見逃さなかった。
「奇妙な森? 魔法の森にそんな場所があるならとっくに私が気づいてるはずだぜ。アリス、おまえ、何か変なキノコでも食べたんじゃないか? 幻覚キノコとか」
 ひと呼吸置くと魔理沙は一笑しながらそう言ったが、何か隠していることがあるのは明らかだった。
「じゃあ、魔理沙は知らないのね‥‥‥奇妙な森があることを」
「私がそれを知らないかどうかよりも、自分が変なキノコを口にしてしまったかどうかを心配したほうがいいと思うぜ」
 魔理沙は私の斜め後ろに視線を投げ出しながら、いかにもあきれたように言った。
「変なキノコなんか食べてない」
 私は魔理沙の目をじっと見つめる。しかし、その琥珀色の瞳は一向に私の目を捉えようとはしない。
 紙と、埃と、その中で生活している少女の香りとが混じりあった匂いがする。魔理沙の部屋の匂いだ。
 私はあきらめて目線を落とすと、魔理沙の座っている椅子の脇に置かれた水槽が目に入った。水槽の中には浅葱色の魚みたいな生き物が入っている。魚は死んでいるようだった。
「おっと、人の研究材料をあまりジロジロ見ないでくれ」
 魔理沙が私の目線に気づいて、足元の水槽を椅子の後ろへ押しやった。
「何、今の。死んでるみたいだったけど。研究材料にしては悪趣味ね」
 私は無関心を装って言った。
「悪趣味なのはそっちだぜ、アリス。他人の研究に口を出すなんて、おまえらしくないじゃないか。どうしたんだ、さっきから。惚れた女の内情でも探ってるつもりか?」
 私はその嫌味に冷ややかな目線を送ることで応酬するが、どうやら魔理沙はこれ以上そのことについて触れてほしくないようだ。
「私は研究で忙しいんだ。もう用事がないんだったら、さぁ帰った帰った」
 魔理沙は心底迷惑そうにそう言って、私を部屋から追い出した。

 重たい樫の木でできた扉が大きな音を立てて閉められた。扉に備え付けられたベルが不機嫌に鳴り響く。
 夏の終わりの昼下がりの陽射しが、うっとうしいくらいに私の頬を刺す。いつもは平気な野草の匂いがなんだか煩わしい。
 私は魔理沙の家をあとにして、博麗神社に向かった。

 縁側で寝ていた霊夢は、私の気配に気づくとがばっと飛び起きた。しかし私の姿を認めると、すぐに安心したような、それともなんだか期待外れだったような顔をして息をついた。
「久しぶりね」
 静かな調子で霊夢は言った。陽射しの割りに涼しい風がそよいで、私の髪を心地よくなびかせる。
「もうそんなに経ったかしら」
 私は縁側に座りながら言った。霊夢はまたごろんと後ろに倒れこんだ。
「経ったわよ。他の連中に比べたら随分とね」
 蝉が一匹、自分だけ季節に取り残されたように鳴いている。少し大きな風が吹いて、木々の梢と葉と葉のこすれる音がさざなみのように広がった。
 私はしばらくそのままじっと黙って霊夢の横に座っていた。蝉が独りで鳴くのを聴き、木々が風にそよぐのを眺め、縁側に漂う神社独特の匂いを感じていた。
 すると霊夢がぽつりと訊いた。
「最近、魔理沙と会った?」
 その問いは霊夢の口から吐き出されたあと、なんだか私と霊夢の頭上に漂っているように思えた。
「さっき会ったわよ」
 言いながら私は霊夢のほうを見た。霊夢は日差しをさえぎるように左腕を額に置いて両目を覆い隠している。唇だけが私との会話を求めていた。
「何かしてた?」
「相変わらず胡散臭い研究。研究の邪魔だからって追い出されたのよ、私」
「ふん、どうせくだらないことに夢中になってるんでしょ」
 霊夢は興味なさそうに言った。それは本当に興味なさそうだった。あるいは、もっと他の何かを魔理沙に求めているようだった。
「魔理沙はこの頃ここには来ないの?」
「うん。前まではしょっちゅう上がりこみに来てたんだけどね。それこそ、うっとうしいくらいに」
 はあ、と霊夢はため息をつく。
「へぇ、仲がいいのね」
 私が霊夢を見ながらそう言うと、巫女服の少女はけだるそうに否定した。
「仲がいいってわけじゃない。ただ腐れ縁なだけよ」
「腐れ縁‥‥‥」
 私は縁側の向こう側に目を落としながらそうつぶやいた。その言葉がなぜか私の胸の中で投げつけられた生卵のようにへばりついて、拭い取ろうとしても拭いきれない。
 ふと視線を感じて霊夢のほうを見ると、霊夢が少し腕を上にずらして私のほうを見ていた。しかし私と目が合うとすぐに視線をそらして再び言葉をつなげた。
「魔理沙、何か変じゃなかった?」
「あいつはいつだって変よ」
 私はつとめて冷静にそう言ったが、胸の中で何かがざわめくのを感じた。
 霊夢も魔理沙のことを訝っている?
 しかし霊夢は私の黙考をよそに「それもそうね」とそっけなく答えただけだった。

 蝉はどこかへ行ってしまった。さっきまで淡々と続いていた独奏がいつの間にかやんでいて、あたりは秋の気配を感じさせる薄暮に包まれている。
 あるいはもう死んでしまったのかもしれない。この夏最後の蝉が。


 今夜は誰かが月を食ってしまったようだ。
 月が出ていない分、星たちは不気味なほどに跋扈している。真っ暗な闇の中で、まるで自分一人だけが宇宙空間に放り出されたようだった。
 ひんやりとした夜気が頬を刺し、湿った冷気が手足にまとわりつく。外套を羽織ってきて正解だった。私は紺青色の外套の襟を立てて森の奥へと向かった。

 私は博麗神社から家に戻ったあと、とりとめもない思いをめぐらせながら、気持ちを落ち着かせようと紅茶を飲み、またひとしきり悩んだ。
 家事を片付けたり人形の手入れを済ませたりしているあいだも、ずっとぼんやりと考え事をしていた。
 やがて私は思い立って出かける準備をして、また少し考えて、それでも結局家を飛び出してきた。
 家を出た頃にはあたりはもう真っ暗になっていた。

 私は魔法の森の奥の奥へと突き進んでいった。前に偶然それを見つけたときと同じ場所に向かおうとしていた。そしてそれは思いがけず唐突に現れた。
 私が森のさらに奥へ進もうと足を踏み出した瞬間、磁力のような強力な力が私の体全身を覆いつくした。不意に自分の体を襲った束縛によってグリモワールを握る手に力がこもる。
 上海は心配そうにきょろきょろとあたりを見回していた。
 蓬莱は私がマッチで火を灯したランプを両手で持ちながら、じっと森の奥のほうを見据えている。
 電流じみた鈍い痺れがとれると、あとには不気味な脱力感が残った。私は魔力を封じられたのが分かった。魔法が使えなくなったのだ。この奇妙な森――いや、魔封じの森の呪縛によって。
 私は外套を羽織りなおして、グリモワールを握りしめながら再び足を踏み出し始めた。
 魔封じの森の中は深い霧が立ち込めている。魔法の森も湿度は高いが、魔封じの森はその比ではなかった。下草に足を踏み入れるたびに、ブーツが水滴で濡れていくのが分かる。
 あまりにも木々が密生しすぎていて迂回しなければならない場所がいくつもあった。
 頭上は異常なまでに生い茂った枝葉のせいで空がほとんど見えなくなっている。天からの恵みはほんの申し訳ばかりに零れ落ちる星明りのみだ。ランプの明かりがなければ森の中を進むのは難しいだろうと思った。

 魔封じの森は魔法の森と隣り合わせに存在している。普段から魔法の森を探索している私が今までそれに気づかなかったのは、どう考えても不可解としか言いようがない。魔封じの森はまるで最近になってから突然私の目の前に現れたかのようだった。そして、それは魔理沙にとっても同じであるはずだった。
 なのに魔理沙はそれを知らないどころか、その存在自体を否定した。あまつさえ彼女は私がおかしなきのこを口にしたために妄言をついているとまで言い放った。私は彼女のそんな態度に違和感を覚えずにはいられなかった。
 森の呪縛は残酷なまでに強力だった。弾幕を張ることはおろか、空を飛ぶことすらできない。呪縛によって押さえこめられた希薄な魔力では、人形を操ることですら上海と蓬莱の二人を従えるだけで精一杯だった。
 これほどまでに魔力を封じられる森に立ち入ったりしたら、魔理沙だって危険に思うはずだ。なのに彼女は取り合ってもくれなかった。
 魔理沙は嘘をついている。それは確信に近かった。
 しかし嘘をついてまで何を隠そうとしているのかは、いまいち釈然としない。また、どうしてそれを隠そうとしているのかも私には分からなかった。
 もしかすると魔理沙は本当は魔封じの森のことを知っているのではないだろうか。これまでにも何度か魔封じの森の中に入ったことがあり、そしてその森のことと深く関わりあっているのではないだろうか。だとすれば私がこの森のことを魔理沙に打ち明けようとしたときに、彼女がおかしな態度をとっていたことにも納得がいく。
 私の胸の中でそんな疑惑が浮かんだが、私はすぐにそれを打ち消そうとする。どうして魔理沙がそんなことをしなければならないというのだ。この森の呪縛は明らかに異常だった。彼女が私に嘘をついてまで魔封じの森の存在のことを隠そうとするのは、いくらなんでも不自然だ。
 やっぱり霊夢に相談すればよかったのかもしれない。だけど私はしばらくのあいだ霊夢のそばに居続けながらも、結局のところなぜかそれを打ち明けることができなかった。魔法の森のことで霊夢を巻き込むわけにはいかないと思ったのかもしれない。あるいは、誰の手も借りずに自分一人で解決させようとしたかったのかもしれない。それとも、私と魔理沙のあいだに霊夢を引き込んだところで彼女がどちらの側につくのかが分からなくて怖かったからだろうか。
 そんなふうに私が思いをめぐらせていたとき、一匹の魚が私の目の前を横切った。
 私は目を疑った。その魚はまるで空中を泳ぐかのように、宙に浮いていたからだ。魚は浅葱色の鱗を翻しながら、木立のあいだを滑るように移動する。
 信じられるだろうか。魚が空を飛んでいる。いや、それは飛行というよりは浮遊に近かった。魚はあてもなく空中をふわふわと漂い、また何か思いつきでもしたかのようにすいっと動いた。まるで私が気づいていないだけで実はここは水の中だとでもいわんばかりに、魚は森の中を遊泳している。
 私はしばらく唖然としていた。上海は魚に目が釘付けになっていた。蓬莱も驚きを隠せない様子で魚の動きを目で追っている。
 やがて私はあることに気づいた。胸がどきりとする。鼓動が激しくなるのを感じる。その魚は、魔理沙の部屋で見たのと同じものだった。
 私は魚は水の中で泳ぐものだとばかり思っていたので、魔理沙の部屋で見た魚のイメージが今目の前にいるこの魚の姿としばらくつながらなかった。だかそれは明らかに同種のものだった。
 浅葱色の鱗に包まれた小さな身は、魔理沙の部屋で見た魚の姿とぴったり一致した。そしてその二つのイメージが照らし合わされた瞬間、背筋にぞくりと嫌な悪寒が走る。
 私は確信した。魔理沙はここを知っている。

 蓬莱の持ったランプの明かりが、茂みの合間で何かが動くのを捉えた。
 私はそれは最初、獣かと思った。だが違った。その黒い影は、魔理沙だった。
 朽葉色の竹箒を手にしているのを見てその影が魔理沙だということに気づいた私はその後ろ姿に吸い込まれるようにして魔理沙のあとを追った。
 動悸が激しくなり、呼吸が荒くなるのを感じる。湿った冷気が火照った喉から肺に入り込む。私の目は魔理沙の後ろ姿に釘付けになっていた。真っ黒な外套を羽織った彼女が森の奥へ向かっていくのを無我夢中で追いかける。下草を踏み荒らし、枝葉を乱暴に押しのけ、太い根っこにつまづきそうになりながら、上海と蓬莱が遅れをとるのにも構わず私は必死に追いかけた。
 朽葉色の箒がふと動きを止め、魔理沙がこちらへ振り返ったような気がした。私はどきりとして足を止めようとする。そして苔むした斜面に足を滑らせて落下した。
 不意に足場を失って背筋が冷やりとする。まるで落とし穴だった。私はどしんと勢いよく尻餅をついた。地面に手をつくとべっとりと湿った土が手のひらにくっついた。まずい、このままでは魔理沙を見失ってしまう。早く追いかけなければ。私は起き上がって、あとからやってきた蓬莱の持ったランプの明かりを頼りにあたりを見回した。私が今滑り落ちてきた斜面をのぼって元の場所に戻るのは難しそうだった。少し遅れてやってきた上海が斜面の上から顔を出した。彼女は迷子になった子供のように不安げな表情をしていたが、私の姿を認めるとぱあっと顔を輝かせて私の胸に飛び込んできた。私もそれを迎え入れようとした。だがそれは叶わなかった。
 何者かが上海と私のあいだを飛ぶように横切り、それと同時に上海が私の視界から姿を消した。
 私は突然現れた侵略者のほうに振り向き、外敵に身構える。
 敵は緑色の肌をした腕で上海を鷲づかみにし、地面に向かって彼女を叩きつけた。蓬莱がそれに剣を振り回して応戦する。
 いきりたって襲いかかる蓬莱の持ったランプがかがり火のように空中を舞い踊り、妖怪の錆色の髪が不気味に照らし出された。
 私は地面に叩きつけられた上海を助け出そうとする。しかし蓬莱の剣戟を掻い潜った妖怪がそれよりも早く私の腹を蹴飛ばした。
 私は呻いた。ぎょろついた黄色い目が私を見据えている。そのとき私は奇妙な感触に気持ち悪くなった。その妖怪の足は爪先と踵とが逆向きになっていたのだ。
 私は体勢を崩して地面に倒れこんだ。蹴りが決まると緑色の肌の妖怪は身を翻して蓬莱への反撃に出た。
 蓬莱が緑色の妖怪めがけて剣を振り下ろす。
 妖怪は腰を落として蓬莱の足元をすり抜け、背後を取った。錆色の髪が不気味に揺らめく。
 蓬莱は振り向きざまに再び剣を振るおうとした。
 それよりも早く妖怪は蓬莱の鳩尾を拳で突いた。緑色の長い腕が蓬莱の体を打ち抜く。
 蓬莱の体が弧を描く。支えを失ったランプが宙を舞う。砕け散る玻璃の音。あたりは暗闇に包まれた。
 私はがむしゃらになって妖怪に跳びかかった。いや、妖怪がいた場所に突進した。
 突き出した両腕が妖怪の体を捉えた。額が敵の胸を打つ。頬にまとわりつくぱさついた妖怪の髪が気色悪い。取り落とされたグリモワールが低い音を立てた。
 妖怪はあっけなく転んだ。私は追撃に出た。
 暗闇の中で暴れる敵の気配を肌に感じて私はその体を押さえつける。
 肉薄する妖怪の肉体に戦慄と興奮で手足が震える。脈動する心臓が肋骨を執拗に殴る。
 私は妖怪の鼻梁に拳を振り下ろした。妖怪は奇声を上げて私の腕をつかもうともがく。
 取っ組み合いになった。私は妖怪の腕を押さえつけながら必死に腕をつかまれないように対抗する。
 荒い呼吸で口蓋と喉の奥がからからになっていた。
 肩をつかまれて押し倒された。形勢が逆転した。妖怪が私の上に馬乗りになる。
 抜け出そうともがいたが抵抗もむなしく両腕を押さえつけられた。相手のほうが腕力が強かった。強靭な握力でつかまれた腕に鋭い爪が食い込む。
 妖怪の荒い呼吸の音が聞こえた。嫌な臭いのする口を近づけて妖怪は唸った。私を罵っているようだった。
 妖怪は嘲笑うような醜悪な笑みを浮かべた。薄紫色の唇がめくれあがる。私はその黄色い瞳を睨み返した。
 瞬間、妖怪の拳が私の顎を打った。痺れるような痛みが広がる。
 妖怪はその硬い拳で私の顔を殴った。立て続けに殴った。
 唇が裂けるのを感じた。錆びた鉄の嫌な味が口の中でじわりとにじんでいく。
 私は何度も殴られながらもその腕をつかんだ。そのまま拳にかじりつくようにして敵の指に噛み付いた。私は噛み切らんばかりに顎に力を込める。
 妖怪は悲鳴を上げて暴れだした。その隙に私は敵の体を押しのけて逃げ出そうとする。しかし起き上がったところで何かにつまづいた。グリモワールだった。
 反射的に足元に目を落とすと、妖怪からの不意打ちを喰らった。
 拳が腹にめり込んだ。鳩尾に入った。私は息が止まるのを感じながらグリモワールを不用意に扱った自分を呪った。
 妖怪が私に跳びかかってくる。私は悲鳴を上げた。押し倒されそうになりながらも私はそれを受け流した。
 グリモワールを拾おうとした。さっきつまづいた場所に手を伸ばす。しかし手のひらが触れたのは冷たい地面だった。
 前屈みになったせいでがら空きになっていた腹を蹴り上げられた。踵の部分が前になっている足での蹴りは強烈だった。あまりの苦痛に胃液を吐き出しそうになる。
 私は鈍痛をこらえながら敵の追撃を必死に避けた。そして咄嗟に外套を脱ぎ、それを敵の頭にかぶせた。
 妖怪は外套にすっぽりと顔を包まれてもがいた。私はその隙に腰を落として体当たりする。敵はそのまま後ろに倒れこんだ。
 敵がもがいているうちに急いでグリモワールを探した。両手で狂ったように地面をあちこち叩いた。触った。あった。グリモワールだ。私はそれを引っつかんだ。
 外套に視界を奪われたままもがき続ける妖怪の頭を私は分厚い本の角で殴りつけた。ひたすら殴った。体が熱く火照るのを感じる。
 妖怪がおとなしくなるまで私は殴るのをやめなかった。
 やがて敵は動かなくなった。私は肩で息をしながら妖怪に覆いかぶさっていた外套を剥ぎ取った。今になって体のあちこちがやけに痛み出した。長袖のブラウス一枚を隔てた肌に感じる外気が急に肌寒く思えた。

 私は未だに荒い呼吸が収まらなかった。興奮で手足も震えたままだった。暗闇の中で激しい動悸の音が鼓膜を脈打つように聞こえる。私は外套を神経質にはたいてからそれを羽織りなおした。
 気持ちが落ち着いてから私は魔力供給の途切れてしまった上海と蓬莱を再び目覚めさせた。二人とも意識を取り戻したのを確認すると、私は今後の襲撃に備えて自分の魔力のすべてを上海と蓬莱に最優先で送るような術式に組みなおした。どうせこの森の中ではろくに魔法は使えない。下手に自分の分の魔力を残しておくと、ただでさえ二人しかいない人形が全滅しやすくなってしまうだけだ。手持ちの人形を失って肉弾戦を強いられるなんてことはもうこりごりだった。
 真っ暗な闇に包まれて私はなんだか夢の中で戦っていたかのような気分だった。視覚以外の感覚がいやに研ぎ澄まされている。どこかで水の流れる音がする。湿った土と植物の匂いがする。相変わらずひんやりとした冷たい夜気だけが私に現実感を与えてくれた。
 私はグリモワールを抱えてあたりを見回した。いくら闇に目が慣れてきたとはいえ、深い森の中でランプの明かりを失ってしまっては足元すらおぼつかないほどの暗さだった。しかし私はふと木立の向こうでぼんやりと緑色に光るものを見つけた。私は足元に気をつけながら慎重にその緑色の光に近づいていく。するとその緑色の光に近づくにつれて、その向こうにさらにたくさんの緑色の光が集まっているのが見えてくる。
 それは光るきのこだった。私が最初に見つけた緑色に光るきのこのそばまで来ると、そこは少し開けた場所になっており、あたり一面きのこだらけだった。脇には川が流れていて、それに寄り添うようにして群生するきのこたちの光は、まるで燈籠流しの灯火のようだ。そこには魔法の森では見られない種類の光るきのこもあった。緑色に光るものだけでなく、藍色にきらめくきのこや、真っ赤に輝くきのこもあった。それはもう、うっとりするほどの光景だった。静かに流れるせせらぎの音と、あふれんばかりのきのこの光に囲まれて、私はしばらく惚けたように立ち尽くす。上海は感激したように目をきらきらと輝かせ、蓬莱もこの幻想的な光景に見とれている。
 だが、光るきのこには毒がある。きのこは森に充満する魔力を吸って発光するのだ。充溢した過剰な魔力は森の土壌を汚染する。そしてそれは森の中の生態系を乱れさせる。きのこはそんな土壌から魔力を吸い上げて発光させることによって有害な魔力を浄化させているのだ。魔法の森ですらわずかにしか見られない光るきのこが、ここまで群生しているのは異常なことだった。
 私は思った。この森には何か強力な魔力を持った妖怪が棲みついている。そしてその妖怪が、外からの侵入者を阻むために魔封じの呪縛を施しているのではないだろうか。だとすれば魔理沙の行動はますます不可解だった。確かに、この森には魔法の森とは比べ物にならないほど多くの光るきのこが群生している。きのこに大して興味のない私ですら恍惚となるほどのものだ。魔理沙が見ればさぞかし大喜びすることだろう。そしてそれを持って帰れるだけ持って帰ろうとするだろう。しかし、どうしてそんな危険を冒してまでこの森に立ち入らなければならないのだろうか。あるいは、魔理沙はこの森の呪縛を施している妖怪とすでに癒着しているのだろうか。私は頭を振った。そんなわけない。魔理沙がそんなことするはずない。しかし、すでに魔理沙がこの森へ来ていることは明らかだった。私がこの目で見たことだった。おまけに、空中を泳ぎ回る魚はすでに魔理沙が捕獲している。
 私は再び森の奥へと歩き始めた。川沿いから少しでも離れるとそこはもう草木が密生した場所になっている。相変わらずこの森の植物たちによる密度は異様なまでに高い。木々は狭苦しいほどに幹を伸ばし、お互いの体を押しつけあっている。魔理沙の部屋のがらくたをすべて植物にしても、これほどまでにはならないだろう。

「あんた、いったいどこで何してたのよ」
 どこかから声が聞こえた。少し離れた場所だ。私は立ち止まって聞き耳を立てる。
「飛遊魚の追跡だぜ。あれを捕まえるのは大変なんだ」
 魔理沙の声だ。聞きなれた喋り方だった。
「何バカなこと言ってんのよ。そんなことしてるからアリスに気づかれるんでしょ。ほら、さっさと悪玉を退治しにいくわよ」
 霊夢?
 私は耳を疑った。だがそれは確かに霊夢の声だった。
「それは誤解だぜ、霊夢。私はあいつには何も話しちゃいない。それより見ろよほら、あっちに光るキノコがたくさん――」
「さっさと済ませて、さっさと帰る!!」
「あ~っ、痛い痛い! 分かったから、放せってば!! 暴力反対だぜ!」
 声は遠ざかっていった。私は追うことができなかった。飛遊魚が一匹、浅葱色の身をくねらせながら私のそばをすいっと通り過ぎていった。

 私はしばらく呆然としていた。考えがうまくまとまらなかった。どこかの茂みで鳴いている虫の声がいやに耳障りだった。
 霊夢がこの森に来ていた。魔法の森の中にあるこの魔封じの森のことは霊夢には関係ないと思っていた。事実今日、私が霊夢のところへ訪れたときには彼女はそんなそぶりは見せなかった。それどころか彼女は魔理沙のことを訝っているようだった。私は霊夢も魔理沙のことを不審に感じているのだと思った。だが違った。霊夢は魔理沙と手を組んでいた。そして彼女は魔理沙に口止めをしていた。これで魔理沙のあの態度にも合点がいく。あのとき霊夢が魔理沙の様子について私に尋ねたのは魔理沙のことを訝っていたのではなく、魔理沙がこの森について私に余計なことを洩らしていないかどうかを確認するためだったのだ。もしかすると霊夢は私が用事もなく博麗神社を訪れた時点でうすうす気づいていたのかもしれない。そして彼女の予想は的中した。私は魔封じの森のことを知っていたのだ。魔理沙の様子がおかしくなかったかと霊夢に訊かれたとき、私は咄嗟にとんちな答えを返した。機転を利かせたつもりだった。だが彼女はそこで見抜いてしまったのだ。もし私が本当に何も知らなかったのなら、どうしてそんなことを訊くのかと問い返していたことだろう。
 馬鹿だった。霊夢は私の味方でないどころか、魔理沙の味方だったのだ。そして私はのけものにされていた。きっと霊夢は前からこの森を知っていたか、あるいは魔理沙が彼女に教えたのだろう。そしてこの魔封じの森の呪縛と充溢する魔力の危険を察知し、森の最奥にひそむ妖怪を退治するために魔理沙に助力を求めたのだろう。しかし納得がいかなかった。どうして魔理沙に口止めをしてまで私に教えてくれなかったのだろうか。魔法の森の中のことなのだから、決して私は無関係とはいえないはずだった。それとも私は足手まといで邪魔なだけだから、首を突っ込むなということなのだろうか。あるいは霊夢が――
 私は頭を振った。不意に浮かんだ疑念を、私は必死でかき消そうとした。だが他にどんな理由があろうか。魔理沙は霊夢と旧縁で、仲がよくて、頼りになるから誘われたのだ。だけど私はそうじゃなかった。霊夢はきっと魔理沙のことが好きで、私は邪魔になるから、私には黙って二人だけでことを片付けようとしていたのだろう。
 私は気胸にでもなったみたいに胸が痛んだ。どうしてこんなに痛むのか不思議なくらいに胸が苦しかった。私は左手で外套の上からぎゅっと胸をつかむ。もう帰ろう。この森のことは霊夢と魔理沙に任せて、自分はさっさと家に帰ろう。そしてこれまで通り人形作りに励んで、たまに博麗神社の宴会に顔を出して、自慢の人形芸を披露して、それで霊夢に「相変わらず手先が器用なのね」とでも言われながら澄ました顔で内心満悦するくらいのことを楽しみにして暮らそう。本当に私はそう思った。なのに気がつくと私の足はいつのまにか森の奥のほうへと歩きだしていた。
 私はさっき聞こえた声を頼りにおおよその方向を予測して霊夢と魔理沙のあとを追った。川沿いの開けた空間から木々の密生する木立の中へ入り込んだ。砂漠でオアシスでも見つけたかのように密林の中を突き進む私はさながら布地を縫うときのランニングステッチを思わせる。最初のうち、川沿いから離れるにつれて光るきのこたちは姿を消していった。徐々に色彩が失われていき、あたりは黒と、それよりも暗い黒とでしか見分けがつかなくなっていた。だがそのまま直進していくと、光るきのこたちは再び姿を現し始めた。森の中の世界は少しずつ彩りを取り戻していった。さらに進むと、おそらくさっきの川の上流であろう渓流が幽谷を思わせるように流れていた。そこで光るきのこたちはよりいっそう明るく輝いていた。その燦爛たるさまはこれまでにないものだった。そして、そこより奥は光るきのこたちの輝きが衰える様子はなかった。充溢した魔力が迸っているのだ。もはや霊夢と魔理沙の話し声がした方向を推測する必要もなかった。このまま光るきのこたちの輝きを頼りに、明るいほうへと進んでいけばいいのだ。私は足を速めた。

「そんなに急いでどこへ行くつもり?」
 冷やかすような甲高い声がした。一声聞いただけで直感した。私はこいつが嫌いだ。
「何? 誰よ、あんた」
 それは森の妖精のようだった。薄汚い茶色の服に色あせた緑色のケープを羽織った少女が木の枝に座りながら不敵な笑みを浮かべている。
「私の名前はロビン・トレオーレ。災厄の妖怪よ」
 得意げにそう言ったロビンは猿みたいに出張った目をしていて、やけに長い耳と鼻が見るからに生意気そうだった。大して中身の詰まってなさそうな頭に格好悪いハンチング帽をかぶっていて、ますます馬鹿みたいだった。妖怪と名乗ったが彼女はどうみてもただの妖精だった。私は無視しようとした。
「へぇ、最悪の妖怪‥‥‥」
「むきー! そういうあんたは何者なのさ!? 相手に名乗らせておいて返す言葉は侮辱かい!!」
「あんたみたいな下衆に名乗るような名前なんて持ち合わせてないわ。私は私に教えを説いてくださった人から授かったこの名前を誇りに思っているから」
「生意気だね‥‥‥師を敬愛するあんたには逆さ十字がお似合いだよ。今から磔にしてやろうか?」
 かちんときた。私は考えるよりも先に手が動いていた。上海がそれに呼応する。
「黙らせてあげるわ‥‥‥」
 私は術式を組んだ。上海と私の呼吸が重なり合う。ほんの生糸くらいの光線でもいい。わずか一瞬でも弾幕を張ることができれば威嚇にはなるだろう。
「黙らせる!? はっは! 私が黙れば森中の植物たちが騒ぎ出すだろうさ!!」
 私は魔術展開を施した。上海と私の狙いが同一の標的に定まった。私は持ちうる限りの魔力を撃ち放つ。
「咒詛『魔光彩の上海人形』!!」
「‥‥‥ッ!?」
 魔力が迸る。私と上海の気迫にロビンは一瞬ひるんだ。呪文を発動させた感触は確かにあった。
 だが何も起こらなかった。まるで夢の中で手にしていた人形が目を覚ますと手の中から消えていたときのように、展開されたはずの私と上海の弾幕はその気配すら漂わせなかった。
 ロビンは数瞬のあいだ唖然としていたが、私の弾幕展開が失敗に終わったのを悟るとまるで今まで時間が止まりでもしていたかのように出し抜けに笑い出した。
 上海は申し訳なさそうに振り返って許しを請うように上目遣いで私を見た。私はロビンを前にして上海を慰めることができなかったので、黙ったまま左手で彼女の頬をなでた。横からあきれたような目つきで見る蓬莱の視線が痛い。
 ロビンはひとしきり笑い終えると挑発するような口調でまた喋り始めた。
「あんた、外から来たモンだね。見たところ妖怪のようだけど、こんな森にわざわざ何しに来たのさ? さしずめこの森の呪縛のせいで魔法が使えなかったんだろう?」
 そう言うとロビンはまた下品な薄笑いを浮かべた。
「災難だったね‥‥‥いいご馳走だったよ‥‥‥今のあんたの災厄のおかげで私の魔力がすこぶる高揚している‥‥‥今なら月でさえ丸ごと食っちまえそうだよ‥‥‥試してみる?」
 ロビンのとび色の瞳が不気味にぎらつき始める。私は妖精相手に初めて身の危険を感じた。
 殺される。
 逃げようと思った。だが私はすでに捕食者の射程距離内に捉えられている。
 動くと捕まる。
 ぴくりとでも動けばロビンはたちまち私に跳びかかってくるだろう。その先に待つのは死だ。
 ロビンが跳びかかってきたときに逃げよう。木の上からの跳躍なら空中で方向転換はできないはずだ。私は息を殺しながら全神経をロビンの動きに集中させる。
 するとロビンは不意にゆうべの駄洒落でも思い出したかのようにふっと笑った。私はあっけにとられた。
 そして跳んだ。跳躍の反動で枝がしなった。
 だめだ。体の動きが追いつかない。
 横っ飛びに木立の中へ突っ込んだ。顔を覆った両腕がめきめきと音を立てながら枝葉を折る。
 脚をつかまれた。私は茂みの中で必死にもがく。
 無駄だった。振りほどけない。
 そのまま脚を持ち上げられた。ぞわっと身の毛がよだつのを感じた。
 視界の中で二つの小さなシルエットが飛び交った。ロビンが悲鳴を上げる。
 脚が自由になった。
 ロビンが私のいた場所に跳びかかったのは私が起き上がって走り出したあとだった。
 茂みが押しつぶされる気配を背後に感じながら私はひた走った。振り向きもしなかった。

 私は走った。
 木の根が食い込んだ岩を乗り越え、自分の身長ほどもある崖を飛び降り、茂みの中をすり抜けた。隣で上海も器用に木立や枝葉を避けながら必死で私に追いついてきた。
 草藪の中を通り抜けようとすると、外套が小枝に引っかかった。私は引っ張ろうとした。そのときだった。何者かに足をすくわれた。
 どきりと胃がひっくり返った。私はあわてて受身を取ろうとしてグリモワールを落っことした。だが両手はむなしく地面を空振り、愛書とは離れ離れのまま私は逆さづりにされた。外套とカーディガンがめくれ上がり、頭に血が上るのを感じる。
「あははははは! ざまぁないね、人形遣いさん!!」
 ロビンだった。
「言ったろう? 私を黙らせたところで、代わりに森の植物たちが騒ぎ出すだけなんだってね!」
 私は植物の太い蔓につるし上げられていた。ロビンは木の枝から飛び降りて、地面に立ってから改めて逆さづりにされた私を見下ろした。上海は私が落としたグリモワールを拾おうとしている。だが重たくて持ち上げられない。
「ねぇ、人形遣いさん。あんた何か忘れちゃいないかい?」
 相変わらず癇に障る笑みを浮かべながらロビンは訊いた。とび色の目がぎらぎらと光っている。
「あんたの大事な大事な人形さんが、一人減っていることに気づかないのかい?」
 ロビンはサディスティックに哄笑した。私は宙にぶら下がったままあたりを見回す。蓬莱がいない。グリモワールと格闘していた上海もはっとして顔を上げていた。
 あのときだ。
 私がすんでのところでロビンの攻撃を避けてそのまま振り向きもせずに逃げ出したとき、私と上海が逃げ延びることができた代わりに蓬莱が捕まってしまっていたのだ。
 私は唇を噛んだ。自分で自分に腹が立った。
 大切なパートナーを見捨てて逃げておいて、こんなところでつるし上げられているなんてことを蓬莱が知ったらさぞかし蔑むことだろう。逆さづりアリス人形だ。
「いい気味だよ、人形遣いさん。さっきあんたから吸い上げた魔力であんたにさらなる災厄を呼び寄せたのさ。私は幸福にまみれてる奴を不幸にすることはできないが、悲運の凶兆がある奴を絶望のどん底に叩き落とすことはできるんだよ。それが私の能力だ!」
 勝ち誇ったようにロビンが言う。上海はグリモワールを拾うのをあきらめ、剣を振り上げて私の体を縛める蔓に斬りかかった。
「無駄だ無駄だ! あんたはもう私の窮符『ミスフォーチュンズ・スパイラル』にかかってるんだよ!! どんなにあがいたって、その悪循環から逃れることは不可能さ!」
 確かにその通りだった。上海がどんなに蔓を斬り落としても、あとからあとから新しい蔓が生えてきて私の体中にまとわりつく。それは足首や太ももだけにとどまらず、腰や腹にまで絡みついた。挙句の果てにはさっきまで自由だった腕や手首の動きまで封じられてしまった。
「さて‥‥‥」
 ロビンはその様子を満足そうに眺めると、再び木の枝に跳び上がって言った。
「そろそろ出来上がった頃だし、次の見世物にいこうじゃないか」
 にやりとロビンは下卑た笑みを浮かべた。すると彼女は枝葉の中からなにやら黒い塊を取り出した。いや、違った。それは蓬莱だった。
 私は歯噛みした。ロビンは蓬莱を手に持つと淑女気取りで上海に話しかけた。
「やぁ、可愛いお嬢さん。あんたは、あんたの主人と、相棒と、どっちを選ぶ?」
 蓬莱なら状況に応じて即座にどちらかを選んでいただろう。だが実際に囚われたのは蓬莱で、決断を迫られたのは蓬莱ではなく上海だった。彼女に情を捨てて即断しろというのは無理な話だった。
 上海は困った顔をしてロビンに囚われた蓬莱と私の顔とを交互に見合わせていた。私は怒りを抑えきれずに叫びだした。
「この低俗妖精!! 殺してやる!!!」
 ロビンはそれを見てよりいっそう愉悦の情を示してはやし立てた。
「あははははは! 泣け!! 喚け!! 災厄の悪循環であんたの魔力を一滴残らず搾り取ってやるよ!」
 私はこれでもかというほどに全身の筋肉に力を込める。だが無駄だった。私の華奢な体にそもそも筋肉なんてあるのかと思うほどに力が入らなかった。上海は泣きそうな顔になって私を見上げている。
「ねぇ、あんた。私さっきあんたの赤いほうの人形をちょろまかしてからあんたを追いかけてるときに見たんだけどね、あんたの他にも外からこの森に入り込んでる奴らがいたんだよ。なんでかな、人形遣いさん?」
 ロビンは今、勝利と成功に酔いしれて思い上がっている。敵が勝ち誇って慢心を手にしたときこそ、逆襲に転じるチャンスだ。何か策がありさえすればだが。
 私は考えた。グリモワールは目と鼻の先にある。だが届かない。上海が拾い上げることもできない。そもそも上海にグリモワールを拾わせたところで今の私に何ができるというのだ。
「ねぇ、人形遣いさん。あんたは妖怪だけれど、あいつらは人間だったよ。二人ともね。二人そろってまっすぐ森の奥へ向かって歩いていたんだよ。ねぇ、なんであんただけ仲間はずれにされてるのかな?」
 ロビンは相変わらず傲慢に嘲笑と罵倒の限りを尽くしている。今一度この愚か者に裁きの鉄槌を。それとも神は人が人を裁くなとでもいうのか。私はそんな神を信じたくはなかった。何か手はあるはずだ。
 私は思いついた。マッチだ。この森に来るときランプに火を灯したマッチだ。マッチで火を点けてこの蔓を丸ごと燃やしてしまえばいい。私はロビンに気づかれないように上海にささやいた。ロビンは罵声を浴びせるのに夢中で全然気づいていなかった。
「人形遣いさん、あんた、友達がいないんだろう? だから人形と一緒に行動してるんだろう? 本当は独りぼっちなのにさ!! あははははははは!」
 上海が私のスカートのポケットをまさぐる。私はこそばゆい感触を必死に耐えた。
 上海はマッチを取り出すことに成功した。そしてロビンに背を向けたままマッチを擦った。
 私の勝ちだ。すべてが上手くいったと思った。
 だがまたしても上海は申し訳なさそうな顔をして私を見上げた。マッチは湿気ていて使い物にならなかったのだ。
 ロビンがその所作に気づいた。彼女はすうっと目を細めて冷笑した。
「ほう‥‥‥まだそんな小細工を弄する余裕が残っていたとはね」
 私はすべてが終わったと思った。
 上海がマッチを持ったままぎょっとしてロビンの声に振り返る。それからちらっと私と目を合わせ、そしてまたロビンのほうに振り向いた。
「死んでみるといいよ‥‥‥今すぐにね」
 ロビンはゆっくりと木の枝から飛び降りた。緩慢な動きだった。それが逆に恐ろしかった。急がなくてもゆっくりと時間をかけて私を殺すことができると確信しているからだ。
 上海はまた私に目配せをした。まるで何か訴えたいことでもあるかのようだった。だが言われなくても分かっていた。私は死を覚悟していた。すると彼女は、こともあろうか、マッチを捨てて逃げ出した。私のほうを振り返りもせずに。

 私は上海に見捨てられた。だがそれも自業自得なのかもしれない。私もさっき同じようにして蓬莱を見捨ててきてしまったのだから。ロビンはもはや哀れな人形遣いが人形に見捨てられるさまを見てもふっと鼻で笑うだけの反応しか見せなかった。罵倒するよりも早く私をなぶりたい一心のようだった。
 ロビンは私の腹を殴りつけた。逆さづりにされたまま私は吐き気を催す鈍痛に苛まれる。殴打の衝撃で私の体は宙にぶら下げられたまま情けなく前後に揺れた。
 私は木の上に置かれたままの蓬莱が都合よく目を覚ますことを期待せずにはいられなかった。だが蓬莱は完全に意識を失っていた。蓬莱に直接手で触れられないできないこの状況では、魔力を送り込んで彼女を目覚めさせることはできない。
 冷然とした表情のままロビンは私の鳩尾や下腹部を殴り、わき腹や腰を蹴り払った。自然と涙がこみ上げてくる。上海にも見捨てられたのだと思うと、ますます泣きたくなった。だが私はそれでも決して泣くまいと歯を食いしばりながら、毅然としてロビンを睨み返す。するとロビンはなおいっそう嗜虐心をそそられたかのようにしてまた口を開いた。
「こんな状況になってまで随分とまたそんな挑戦的な態度を取るのね、人形遣いさん。生意気だよ、その目つき。そろそろ殴るのも飽きたし、その顔を切り刻んでやろうか」
 血の気が引いていく。ロビンはしゃがみこんで鋭い爪で私の頬をなでた。ロビンが私の左の頬から下唇を伝って右の頬までゆっくりと爪でなぞっていく。戦慄のあまり鳥肌が立つ。頬がじいんと震える。
「いいねぇ、その表情‥‥‥瓶に詰めて持って帰りたいくらいだよ」
 そう言いながらロビンは悦楽の表情を浮かべる。
 刹那、どこかすぐ近くで雷が落ちたみたいに目の前が真っ白に光った。そしてロビンの悲鳴が聞こえた。
 次に目に入ったのは、全身が焼け爛れたようになってのた打ち回るロビンの姿だった。
「大丈夫かアリス!?」
 草藪の中から黒い外套を羽織った魔法使いが現れた。
「魔理沙!?」
 信じられなかった。魔理沙が助けに来てくれたのだ。私が蔓の束縛から解放されるや否や上海がいきなり飛びついてきた。
「急におまえの叫び声が聞こえたから、どこにいるのかと思って探してたんだ」
 私が怒りを抑えきれずに上げた叫び声を聞かれてしまったのかと思うと、なんだか急に恥ずかしくなった。だがそのおかげで助かったのだ。ロビンはすでに事切れていた。調子に乗って私を激昂させたのが仇となったのだ。それが彼女の敗因だった。こいつは私を怒らせた。
「そしたら上海が飛んできてさ――」
 上海が呼んできてくれたのだ。彼女は私の胸にしがみついたきり離れようとしない。私も上海を離そうとしなかった。
「ありがと、上海‥‥‥」
 私は上海を抱きしめた。そうだ、蓬莱も起こしてあげなくちゃ。 私はグリモワールを拾いながら蓬莱の救出に向かった。
 きっと機嫌を損ねているだろうな、と思った。だが蓬莱を目覚めさせてみると彼女は不機嫌どころか、「かたじけない」という顔で私にお辞儀をした。二人とも、私を泣かせるのはすべてが終わってからにしてほしい。私は必死で涙をこらえた。

「それで、なんであんたがこんなところに来てるのよ」
 霊夢だった。彼女も魔理沙と一緒に駆けつけてきていたのだ。
「なんでって‥‥‥」
 私は口ごもった。訊きたいことがあるのは私のほうだった。問い返してやりたいことは山ほどあった。だが実際に彼女を前にしてみるとなぜか私は何も言えなくなった。
 霊夢はじっと私を見据えていた。私も霊夢の顔を見る。だが彼女の顔からは何の感情も読み取れない。霊夢は私よりもずっと冷淡に感情を殺すことができるのだった。私は彼女には敵わないと思った。
「まぁまぁ二人とも、ここは共通の目的のためにお互い手を組もうぜ」
 魔理沙が割って入って言った。
「私たちは今この森の奥にいる危ない妖怪をやっつけにいこうとしてるところなんだ。アリスも一緒に来ないか?」
 魔理沙は私に向かってそう言うと、霊夢をなだめるようにしてまたこう言った。
「な? いいだろ、霊夢?」
 だが霊夢は魔理沙のほうには目もくれずに私を見据えたまま言い放った。
「あんた、今度こそ本当に死ぬわよ。今だって死にかけてたんでしょう?」
 そこにあるのは怒りなのか、苛立ちなのか、私には分からなかった。あるいはもっと別の感情なのかもしれなかった。
 霊夢は魔理沙のほうを一瞥すると、私に背を向けながらまた言った。
「そんなのがついてきたって足手まといになるだけだけど、それでもいいなら好きにしなさい」
 それだけ言うと彼女はそのまま森の奥のほうへ向かって歩き始めた。
「‥‥‥ど、どうする、アリス?」
 魔理沙は少し困ったような顔をして遠慮がちにそう言った。
 私は考えた。霊夢の言う通りだ。私なんかがついていったって足手まといになるだけだ。それどころか、今度こそ本当に命を落としかねない。今だって危ないところを助けてもらったのに、これ以上彼女たちに迷惑をかけることになるのは嫌だった。だから私は断ろうとした。
 なのに私の口は勝手に私の心を裏切ってこんなことを言い始めた。
「私もついていくわ。足手まといだなんて舐められっぱなしのまま帰るわけにはいかない。見返してやるんだから」
 口だけは達者だなんて、そんなこと言われなくても分かってる。だからそんな目で見ないでよ、蓬莱。

「なぁアリス、飛遊魚見なかったか?」
 どんどん先へ進んでいく霊夢をよそに、魔理沙は私のそばに近づいてきてささやいた。
「飛遊魚って、あの空飛ぶ魚のこと?」
「そうそう。あれ捕まえるの大変なんだぜ。光るきのこは目が眩むくらいいっぱいあるけど、飛遊魚はここでも珍しい生き物みたいなんだ」
「へぇ、そうなんだ。何度か見たけど捕まえようとは思わなかったわ」
「こないだ苦労して一匹捕まえたんだけどさ、魔封じの森の外へ出すとすぐに弱っていって死んじまったんだ」
「あれ、やっぱりここの魚だったのね」
 私がそう言うと、魔理沙はちょっとばつが悪そうな顔をして言った。
「えっと、その‥‥‥隠してて悪かったな」
「いいのよ、もう。 口止めされてたんでしょう?」
 こういうとき本人の名前を口に出すと、どんなに小さな声でも、どんなに雑音のある場所でもその人の耳に入ってしまう。だから私は主語を伏せて言った。
 すると魔理沙は目を伏せたままこくりとうなづいた。彼女はしばらくそのまま黙っていたが、やがてまた口を開いて話し始めた。
「私が思うに、飛遊魚は魔封じの森特有の環境でないと生育できないんだ。だから光るキノコとか、その他もろもろの目ぼしいものを持って帰ろうとしてたところで‥‥‥見つかっちまってさ。そのときすぐについてこいって言われたんだけど、面倒くさいから断ったんだ。私はそんなことよりも研究に忙しかったからな」
 どうやら研究に忙しかったのは本当らしい。
「研究が一段落するまで待ってくれって言ったんだよ。なのにいきなり今日私の家に来て『もう待てない』って言うんだぜ。ほら、見てくれよこれ」
 魔理沙はそう言って上着とブラウスを捲り上げておなかを見せた。だが私にはおへそ以外の何を見せたかったのか分からなかった。
「それでさ――」
 そう言いながら魔理沙が私と目を合わせる。琥珀色の目が二つ、私の目を通して天体観測でもしているかのように思えた。そのあと彼女はまた前を向いて、しばらくのあいだ黙り込んでいた。まるで何を話すつもりだったのか忘れてしまったみたいだった。私と魔理沙のあいだで「それでさ」という言葉が水の中に溶け込んだまま見えなくなってしまって私の体の中にまで染み込もうとしているかのように思えた。
 やがて魔理沙は一息ついてからこう言った。
「――こうやって連れ出されることになったんだよ」
 それきり魔理沙は何も言わなくなった。私も何も言わなかった。虫の鳴き声だけが私たちの代わりに喋っているみたいだった。
 そういえば私はまだ疑問がいくつか残っていることに気づいた。だがその思考を整理するよりも先に私は敵の気配に身構えなければならなかった。

「おまえが来るのを待っていたよ、博麗の巫女――」
 私たちは魔封じの森の最奥地へ辿りついた。そこは開けた場所になっていて、ひとりの妖怪が待ち受けている。光るきのこたちがこれでもかというほどに群生していて、あふれんばかりの輝きに目が眩みそうだった。
「――樹木霊」
 いつきこだま、と霊夢は言った。木霊は艶やかな深緑色の髪を肩まで伸ばしていて、紅と黒の衣服をまとっている。黒地に真紅の唐草模様が、彼岸花みたいに鮮やかだった。
「嗚呼、どれほどこの瞬間を待ち望んだことか。おまえの先祖たちによってこの森に閉じ込められてから、いったいどれほどの時が流れただろうか」
 木霊はしなやかな細い体に、艶麗な顔立ちをしている。禍々しいほどの美女だった。
「私はこの森に封印されてから永いあいだおまえの先祖たちが施した魔封じの呪縛によって苦しみ続けてきた。その苦しみは永遠と思えるほどに続いた」
 木霊の端麗な顔には悠久の艱難辛苦を乗り越えてきたような老衰の気配がかすかに感じられる。しかしそれは諦観の末に若返ったかのような、みなぎる威厳の瑞気に昇華していた。
「だが私はその魔封じの呪縛に耐え続け、徐々に魔力を精錬していった。やがて私は魔封じの呪縛を克服することができるようになった。森中に魔力を充溢させられるほどの力を得た」
 霊夢は毅然として木霊と対峙している。その計り知れない才知を秘めた瞳はまっすぐに木霊を見据え、表情は冷厳としたまま微動だにしなかった。
「そして私は今、この森に施された七里結界を打ち破ろうとしていた。そこへおまえがやってきた」
 木霊が話し終えると、霊夢が玲瓏とした声で言う。
「あんたが前々から結界を破ろうとしてたのは知ってたわよ。魔封じの森の七里結界くらいなら紫の手を借りなくても修繕できるし、毎年そうやって管理してきた」
 霊夢は冷然とした表情を崩さずに淡々と述べた。その瞳に宿っているのが決意や信念の類なのかさえ、私には分からなかった。それは怒りなのかもしれないし、悲しみなのかもしれなかった。
「だけど今年は違った。いくらなんでも手に負えないくらいのレベルにまで魔力が膨れ上がってた。おまけに魔封じの呪縛にまで耐性を持たれたんじゃ、これ以上問題を先送りにはできないと思った」
 私は落ち着いていられなかった。この森に魔封じの呪縛を施したのが霊夢の先祖たちだったなんていうのがショックだった。挙句、霊夢は何年も前からずっとこの森に結界を施し続けていたというのだ。私たちに気づかれないように、秘密裏にだ。
「だからこうやって直々に出向いてきたのよ。ここまで魔力が充溢してたら魔封じの呪縛を解くわけにはいかない。七里結界を突き破って魔力の氾濫だなんてことをされる前に、ここで諸悪の根源を叩き潰してやるわ」
 私は魔理沙のほうを見る。彼女もどこか痛切な表情を隠し切れずにいた。
 霊夢はずっと一人でこの問題を抱え続けてきたのだろうか。魔法の森に住む私たちに相談もせずに、どんな気持ちでその使命をずっと隠し通してきたのだろうか。私は彼女の内に秘められた想いをずっと推し量れずにいた。そして今になってそれが破局を迎えようとしていることに気づかされた。
「叩き潰す? それは不可能だ。いくら博麗の巫女であるおまえであってもこの森に入った以上はその能力の大半を封じられることになる。そんな力で千古の時の中で魔力を練り続けてきたこの私に勝てるとでも思っているのか? ラクダを針の穴に通すほうがよっぽどたやすいだろう」
 この妖怪を相手に戦わなければならないのかと思うと、私は怖気づかずにはいられなかった。魔封じの森の中にいながら木霊の体からは恐ろしいほどの魔力の奔流を感じる。
 だが霊夢は相変わらず淡々とした声で答えた。
「魔力が力のすべてだと思わないことね。魔封じの呪縛のせいで変なコンプレックスでも持ってしまったのかしらね、火力至上主義者さん」
 すると木霊は戦闘の開始を待ちきれない様子で狂気の微笑みを浮かべた。
「いいだろう。見せてあげるよ、このときのために千歳に及ぶ試行錯誤を重ねてきた弾幕を」
 ぞくりと背筋が凍った。私は戦慄と緊張のあまりがたがたと震える手足を叱咤して臨戦態勢に入った。
 霊夢が木霊を見据えて身構えながら背後の私たちに言った。
「二人とも、生きて帰ることを第一に考えて戦いなさい」
 私はグリモワールを握る右手に力がこもるのを感じた。

 霊夢が正面から突っ込んでいく。私はその右側から斜めに斬り込んだ。
「淋風『瀟颯の木枯らし』!!」
 木霊の弾幕だ。木の葉や小枝が弾丸雨飛となって襲いかかる。
 必死に避けようとしても小粒の弾は体全身をなぶった。痺れるような痛みが走る。
 霊夢が斜めに跳んだ。木霊の頭上を跳び越えて後ろを取る。チャンスだ。
 私は前から斬り込んだ。魔理沙が横から光弾を撃つ。
「懊悩『猛虎断腸の悲愴』!!」
 木霊は突如槍状の木の幹を手にして私たち三人をなぎ払った。
 霊夢の蹴りも私の人形の剣戟も魔理沙の放った光弾も一気に振り払われた。
 私はそのまま後ろに倒れこんだ。湿った地面が背中を打つ。
 木霊の手にした二つの木の幹が螺旋状にねじれ合ってできた槍は彼女の身長の二倍もの長さがあった。
 霊夢がお払い棒で応戦する――だめだ、リーチが足りない。
 私は霊夢をなぎ払った木霊の背後を取るようにして斬り込んだ。
 木霊は振り返りざま石突で蓬莱の剣を受け流し――穂先で上海の剣を振り払い――攻撃に転じて私の胸を突いた――私は咄嗟にグリモワールで槍を受け止め――そのまま後ろに突き飛ばされた。
 そのとき魔理沙の撃った複数の光弾が木霊の背中に命中した。
 木霊は振り返って槍を投げ放った――魔理沙は避けきれない――霊夢が魔理沙を突き飛ばす――槍は後ろの木立に突き刺さった。
 私は再び木霊の背後に詰め寄った。
「絶望『門前雀羅の孤独』!!」
 だめだった。不意に現れた滑空する木の幹が私の体を捉え――胸を叩く衝撃に息が詰まる――私ははるか後方へと突き飛ばされた。
 飛翔する木の幹が次々と木霊の体から発射され私の再進撃を阻んだ。
 私は足捌きで敵弾を避けながら進もうとする――だめだ、体の動きがついてこない。私はこの若さで捨虫の法を修得したことを少しだけ悔やんだ。
 向こう側で霊夢はたくみに敵弾を跳び避け魔理沙はすばやく回避していた。
 霊夢と魔理沙が機敏に弾幕を避けながら攻撃に転じる。
 魔理沙の射撃が着弾し――霊夢の刺突が決まった。木霊はわずかにひるんだ。
 私も突撃しようとしたとき――
「曲冠『悲憤慷慨の瞋恚』!!」
 ――木霊の体から幾本もの木の幹が絡まりあいながら巨大な腕となって繰り出された。
 不意にその太い腕が私めがけて突進してくる――避けられない――上海と蓬莱の剣がその腕の猛進を阻んだ。彼女たちは互いに競い合うようにしてそれを食い止めた。
 私はその腕を掻い潜るようにして間合いを詰める。
 向こう側でもう一方の腕が霊夢と魔理沙に襲いかかるのが見えた。
 霊夢がそれを避けつつ封魔針を発射する。
 木霊は長い腕をくねらせてそれを振り払った。その反動でこちら側の腕も振り払われる――私は危うくなぎ払われそうになるのをかろうじて避けた。
「復讐『尽未来際の旧怨』!!」
 巨大な木の幹の腕がいくつもの大弾に分断されながら続けざまに発射された。
 魔理沙がぎらりと意を決して瞳に闘志を灯らせた。
「恋符『マスタースパーク』!!」
 魔封じの呪縛によってその威力を抑えられながらも極太レーザーと呼ぶには十分なほど強烈な閃光だった。木の幹の大弾は一気に焼き払われた。
 だが私のほうはその大弾を避けるためにきりきり舞いしなければならなかった。
 一撃が重すぎる弾幕だった。もしもあれにあたったらと思うと恐怖におののき胸が震える。心臓が喉からせり上がりそうなほどに激しく暴れ――肺は執拗に酸素を求め喉は焼けつくように燃え上がった。
「木呪『怨嗟の成木責め』!!」
 無数の蔓が放射状に発射され蛇のように疾走し吹き矢のように滑空する。
 私は避けきれず足を取られ体中を鞭打たれ――よろめきながら両腕で顔を覆った。
 だから木霊が肉薄してくるのに気づかなかった――次に木霊の姿を目にしたとき――その拳は私の鳩尾を打ち抜いていた。
 私は吹き飛ばされ背後の木に叩きつけられた。激しい苦悶に起き上がることができない。
「乖離『生死即涅槃のジレンマ』!!」
 木霊は新しい弾幕を展開していた。もはや私は相手にされていなかった。
 木霊の両脇に大木が現れ急速に生え続ける枝葉を立て続けに発射する。
 二ヶ所から放たれる無誘導弾の絨毯爆撃で相手を牽制しながら木霊は自らも突撃した。
 しかし霊夢はまるで最初から弾幕の隙間を把握しているかのように鮮やかに避け、魔理沙は豹のようにその足を疾駆させて弾幕を回避する。
 空を飛ぶことができずに回避能力を抑えられているのは私だけではなかった。霊夢や魔理沙も条件は同じだった。しかし彼女たちは私よりもはるかに優れたスタミナと瞬発力を持ち合わせていた。しかも異彩な体術の備わった霊夢の動きには無駄がない。
「裏切『銀貨三十枚の代償』!!」
 木霊が霊夢の懐に踏み込んで木の幹の剣で斬りかかる。霊夢はそれをすばやく避けて距離を置きつつ封魔針で牽制し、魔理沙が横からマジックミサイルで援護射撃する――木霊はそれを難なくかわした――木立の向こうで光弾の炸裂する音がする。
 霊夢は肩越しにいくつかの護符を展開して時間差をつけながら発射させ――そのまま木霊の懐に斬り込んだ――お払い棒と木の幹の剣が打ち合う剣戟の音がする――その隙に魔理沙が背後に回り込んでいた。
 木霊が振り向くよりも早く魔理沙は魔力を凝縮させた。零距離射撃だ。
「熱情『スパークフレア』!!」

 魔理沙は八卦炉のおかげで弾幕を張ることができるのだと思っていた。だが違った。霊夢も少量だが弾幕を交えながら戦っていた。この森の中で毛筋ほどの光線を出すこともできないのは私だけだった。私は自分の体で間合いを詰めていかなければ人形たちの攻撃を届かせることもできないのだった。
 霊夢が魔理沙の助けを必要としている――それは今まで霊夢に敵うはずもなかった魔理沙にとって、この上ない自信と闘志につながっているのだろう。なのに私はお呼びでないのか。だがそれも仕方ないのかもしれない。だって私は弾幕ひとつ張れないどころか、ろくに体を動かすこともできないのだから。
 いつの間に彼女たちと私との差はこんなにも広がってしまっていたのだろう。私はなんだか泣きたくなった。だけど泣くわけにはいかなかった。なぜならそれは挫折と敗北を意味するのだから。

 炸裂する雷火。爆音が森中に響く。直撃したのは魔理沙の攻撃なはずだった。しかし残響に包まれながら吹き飛ばされたのは魔理沙のほうだった。木霊の反撃を喰らったのだ。その体はまっすぐ私のほうに向かって飛んできた。
「ぶぇふっ!!」
 私は避けきれるはずもなく魔理沙の下敷きにされた。血と汗と泥と植物の匂いとが混ざり合った少女の香りがする。甘酸っぱさの漂うそれは魔理沙の服の匂いだった。
 魔理沙はよろめきながらも必死に立ち上がろうとする。しかしがくりと膝が折れた。彼女の体にもすでに疲労が襲ってきていた。上海は心配そうにおろおろしながら魔理沙に手を貸そうとした。
「へ、平気だ‥‥‥私はまだ負けちゃいない‥‥‥私が戦いをあきらめるときは‥‥‥それは、私が死ぬときだ」
 呻きながら魔理沙は言った。上海は少し困ったような顔で彼女を見守っていたが、蓬莱は天晴れとばかりに微笑んでいた。魔理沙は右手で箒を固く握りなおしながら霊夢の加勢に向かった。

 お払い棒と木霊の剣がぶつかり合う音――封魔針が空気を切る気配――魔理沙の光弾が炸裂する閃光――鬨の声が私の心を責め立てて焦燥感を募らせた。
 上海は痛切そうな瞳で私の顔を見ている。蓬莱は私に背を向けたままじっと霊夢たちのほうを見据えている。人形たちは戦える状態にあるというのに、主人のこのざまは何だ。私は唇を噛んだ。
 私は疲労と苦痛に弱音を吐こうとする体を鼓舞して立ち上がった。

「虚言『鶏が三度鳴く前に』!!」
 ひきがえるの舌のような動きだった。木霊の腕から伸びた太い蔓が魔理沙の腹に巻きついてその体を引っ張った。
 私と霊夢は弾けたように同時に魔理沙の救助に向かった――木霊が目の前に引っ張ってきた魔理沙の首を手でつかむ――霊夢が跳び蹴りで木霊の腕を振り払った――上海と蓬莱の剣が魔理沙を縛する蔓を斬り落とした。
 霊夢は間髪入れずに木霊に立ち向かっていった。
 私は束縛から解かれた魔理沙のそばに駆け寄った。
 息を呑んだ。魔理沙の髪が異常なまでに伸びていた。肩にかかる程度の長さだったはずの髪が腰のあたりまで伸びていた。魔理沙自身も驚愕のあまり絶句している。前髪もひどく伸びていてまるで海藻の塊を頭からかぶったみたいだった。
 これが木霊の能力だとしたら恐るべきことだった。だがそれならこの森の様子にも木霊の戦い方にもすべて辻褄が合う。木霊はあらゆるものの成長と老化を促進させることができるのだ。だからこの森の中は狭苦しいほどに植物が密生していて、そして木霊は植物を急激に成長させながらそれを武器にして戦っているのだ。
「くっ‥‥‥くそっ!!」
 魔理沙は一気に伸びた髪のせいで緩んだおさげを結びなおしもしないまま箒にまたがって地面を蹴った。彼女はそのまま飛び上がり飛行するかのように思えた。しかし最初からそうあるべきであったかのように箒の軌道は弧を描き魔理沙は地面に叩きつけられた。
 木霊の手が魔理沙に触れたのはほんの一瞬だった。ほんの一瞬だけでこれほどの代謝だ。もしも数十秒のあいだ木霊の手に直接捕らわれたままになってしまったら――
 私は胃が氷結するのを感じた――霊夢が危ない。

「儚幻『邯鄲一炊の夢』!!」
 霊夢が初めて呪文を唱えて結界を展開させた。朱色の光柱が木霊を包み込む。
 しばらくのあいだ木霊の体は朱色の光に包まれていた。霊夢はそれを見ながら肩で息をしていた。
 やがて光の奔流はやんだ。木霊はそこに佇んだまま霊夢を見据えている。私は固唾を呑んだ。
「おまえは何も知らないのだろう‥‥‥事情を知らない者が私を悔い改めさせようなどとは――磔刑『運命の逆十字』――片腹痛いわ!!」
 四本の木の幹が螺旋を描きながら槍となって飛翔する。霊夢は至近距離での不意打ちに避けきれず四本の槍が四本とも彼女の体に直撃した。霊夢の体は宙を飛び、私の背後に崩れ落ちた。
「‥‥‥空を飛ぶことができないっていうのは不便ねぇ」
 悲痛な霊夢の声に私は振り向かずにはいられなかった――そしてそれが仇となった。
 木霊の放った四本の槍はすでに避けきれない間合いに達していた。
 上海と蓬莱が二人そろって身代わりになり――私は咄嗟にグリモワールで一本を防ぐのがやっとだった――残りの一本が下腹部に命中した。
 頭がくらりとする。そして私は霊夢の二の舞になって倒れこんだ。
 木霊がにじり寄ってくる。だめだ、霊夢に触れさせてはいけない。
「信念『弾幕屋の矜持』!!」
 紫電の閃光が木霊に襲いかかる――魔理沙だった――しかし突如現れた巨樹が木霊の前に立ちはだかり、その弾幕のすべてをさえぎった。最後の弾幕を撃ち放った魔理沙はがくんと膝を折り、そのまま力尽きて倒れた。
 私は起き上がって霊夢の前に仁王立ちした。
「そこをどけ。私は博麗の巫女に用がある」
 私は何も答えなかった。黙ったまま木霊を睨み返す。
 少なくとも私なら木霊の能力によって即死させられることはないはずだった。だが人間である霊夢や魔理沙にはダメージが大きすぎる。しかも素手で触れられただけでその能力は効果を発揮する。それは重すぎるハンデだった。
 私が食い止めないといけない。だが私に何ができる? 霊夢や魔理沙と比べて戦力はほぼ皆無に等しかった。
 私は木霊を睨んだまま身構える。彼女は私がまだ策を残していると思って様子を窺っているようだった。だから私はそう装った――はったりだった。
 ――いや、ひとつだけ方法がある。だがそれは私が今までずっと大切に護り抜いてきたものを投げ出すことを意味していた。どうしてそんなことができるだろうか。
 私は何を考えているのだろう。いったい何のためにそんなものまで犠牲にしようとしているのだろう。
 霊夢のため? 魔理沙のため? 幻想郷のため?
 答えはすべてノーだった。私は心の中で自嘲しながら――グリモワールの封印を解いた。

 私のすべてが迸る。木霊は意表を突かれていた。
 大地を蹴って木霊に接近する。元から間合いなどなかった。私は古の魔術を発動させた。
 木霊が木の槍を構えるよりも早く私は彼女の胸に手をかざして呪文を唱えた。タイミングは完璧だった。
「紫符『北緯六十三度の煉獄』!!」
 みなぎる魔力に私は勝利を確信する。だが弾幕の展開は失敗した。私は槍でなぎ払われた。
 一瞬何が起こったのか分からなかった。しかし私は現実を受け入れなければならなかった。グリモワールの封印を解いて全力を尽くしてまで私は結局勝てなかったのだ。私はすべてを失った。
「最後の策はもはやただのこけおどしだったのか? 止めを刺してやろう――散華『義のために迫害される人々』!!」
 終わった。せめて死ぬ前にもう一度弾幕ごっこをしたかった。
 だが絶望のあとに聞こえた悲鳴は木霊のものだった。
 上海と蓬莱だった。そうだ、私はなんて馬鹿なことをしたのだろう。私の魔力はすべて上海と蓬莱に優先して送られるように術式を組んでいたのだ。私自身が魔法を唱えようとしても魔力が足りないのは当然だった。
 上海と蓬莱は自分たちで魔力を駆使して戦い、木霊を倒した。
 結局のところ、人形遣いよりも優秀な人形たちがすべてを終わらせたのだった。
 いつの間にか夜明けが近づいていて、暁の光が森の中を照らし始めた。木漏れ日が朝霧の中でいくつもの光芒を作っていた。


「あぁ‥‥‥私も見たかったなぁ~。なぁ蓬莱、ちょっと試してみないか? なんなら上海と一緒に二人まとめて相手してやるぜ」
 とある秋の日の昼下がり、私は博麗神社に来ていた。
「ちょっと、やめてよ。私の人形たちまであんたの大艦巨砲主義に巻き込まないで」
 あれ以来、魔理沙は私の上海と蓬莱に興味津々だった。蓬莱は毅然と振舞っているからいいものの、上海は顔を赤らめて照れるので手に負えない。
「大体、私はあの森の中では弾幕ひとつ張れなかったのよ。八卦炉の分を差し引いたって、どう考えてもあんたのほうが火力は高いじゃない、試すまでもないわ。そんなくだらない勝負はお断りよ」
 霊夢は縁側で寝ていた。私が隣でくつろいでいると魔理沙がやってきて騒ぎ始めるので座敷のほうへ移動してきていたのだった。
「あぁ、そのことなんだけどな」
 魔理沙が蓬莱を口説こうとするのをやめて話し始める。
「あの森は元々、妖怪の魔力を封じるために魔封じの呪縛が施されてたんだ。人間に対しての効果なんてただの副作用に過ぎない。だから妖怪相手に発揮する効力はその比じゃないんだ」
 私は唖然とした。
「何よそれ。じゃあ私はあんたたちよりも大きなハンデを負ってたってわけ?」
 だがそれなら魔封じの森に関して霊夢が私に取っていた態度にも辻褄が合う。
「まーそーいうことだな」
 魔理沙はいつになく神妙にうなづいた。
「そう。魔理沙の言う通りよ」
 木霊が現れた。
「大体ね、私よりも大きな力を持った妖怪は他にもたくさんいるっていうのに――」
 そこで彼女はあてつけがましく私のほうを見た。
「――どうして私だけが閉じ込められなきゃならないのって感じになるわけよ」
 結局あのあと魔封じの森の呪縛は解かれた。森の入り口の七里結界も用済みとなった。充溢した森の魔力も木霊によって解き放たれ、しばらくすれば元に戻るそうだ。
 霊夢本人は「仕事が減って楽になるわ」と言っていたが、それ以来木霊は霊夢のことがいたくご執心のようだった。
「ねぇ、木霊――」
 私は思いついたことをそのまま口にしようとした。
「なぁに?」
 木霊はきょとんとした顔で私を見た。穏やかな表情をしていれば彼女の顔はひどく美しいのだった。
「――ううん、何でもない」
 私は言いかけた言葉を呑み込んで、その想いを胸の内に仕舞い込んだ。わざわざ口に出して言うようなことではない。
 すると木霊は「変なの」と微笑みながら上海と戯れていた。

 あのときの木霊の弾幕には寂しさと悲しさがこもっていた。私にはそれがよく伝わってきた。だから私はそんな彼女に共感せずにはいられなかったのだ。
 ――寂しかったんだよね、と。

 魔理沙が何か冗談を飛ばして木霊と上海を笑わせていた。座敷の中は和気藹々としている。私はその雰囲気が心地よかった。
 生きてるんだな、ということを私は柄にもなく実感した。すると蓬莱が近づいてきて私の腕をつついた。
 私が蓬莱のほうに目を落とすと彼女はぱちっとウインクして親指を立てた。私も合点がいってウインクしながら彼女と拳を突き合わせた。

 そう、蓬莱の言う通り幻想郷はまたひとつ平和に近づいたのだ。


 すっかり秋めいた冷たい風が吹くようになった頃、私は魔封じの森に来ていた。
 外はまだ明るいのに森の中は真っ暗で、ところどころ木漏れ日が零れ落ちてきているのがなんだか真昼のお化け屋敷みたいだった。
 前に来たときは地べたを歩いていた道を私はふわふわと空を飛んで移動している。

 川に沿って森の奥へ進んでいると、木霊がひょっこりと木立の中から顔を出して言った。
「あら、霊夢。また来てくれたの? 嬉しいわぁ~」
「今日は他に用事があって来たのよ」
「あれからまた新しい弾幕を考えたのよ。弾幕ごっこしない?」
「人の話を聞けっ!」
「弾幕ごっこしてくれないと頭からキノコ生やすわよ? 今なら真っ赤に光るわよ?」
「まったくもうしょうがないわね」
 私が了承の意を示すと木霊は嬉々として弾幕を展開し始めた。
「いくわよ――済度『贖いの蜘蛛の糸』!!」
「甘いっ――夢想『明晰夢の飛翔』!!」
「贖罪『七月十日の儀式』――ついてこれるかしら!?」
「まだまだ――幻想『銀河異観の幾何学模様』!!」
「これで終わりよ――霊木『よい実を結ぶ枝』――どう、私の弾幕は!?」
「なかなかやるわね――訓戒『弾幕修善』――楽しませてもらったわ!!」
 木霊の弾幕は生まれ変わっていた。かつて負の感情しか伝わってこなかったそれは、今や生彩あふれるものに昇華していた。
 ひとしきり弾幕を張り終えると木霊は道を明け渡した。去り際に彼女は「また今度、博麗神社に遊びに行くわ」と言いながら薔薇の華を咲かせて私の髪に挿した。私はその薔薇の華が真っ赤に光るきのこではないことを確認してから先を急いだ。

 ゆらゆらと空を飛びながら川の上流へ向かっていると、一匹の飛遊魚が私のそばを通り過ぎた。
 その魚は私よりもずっとまっとうな飛び方をしていた。浅葱色の身を翻しながらすいっと水の中を泳ぐのと同じように空を飛んでいる。
 この森の中に充溢した魔力が解き放たれることで飛遊魚たちもいずれ姿を消すのだろうかと思うと、なんだか私は少しだけ物悲しい気分になる。
 魔理沙は結局飛遊魚の研究をあきらめてしまった。曰く、「そんな刹那的なものに興味はない」らしい。いずれ消えてなくなってしまうのだと思うと情熱が冷めてしまったのだろう。だがそのほうがいいのかもしれない。綺麗な薔薇には棘がある。光るきのこには毒がある。だとすれば空飛ぶ魚にはいったい何があるのだろうか。
 私は頭を振った。そんなことを知って何になる。世の中には分からないほうがいいこともあるのだ。真実という名の果実を口にすることは必ずしも人に幸福をもたらすわけではない。

「来たわね」
 不意に呼びかけられた声に私は振り返った。
「ご先祖様‥‥‥」
 そこには私と同じような巫女服を着た少女がいた。彼女は私とほとんど変わらないくらい若い姿をしていながら、その表情には深い歴史の気配を感じる。
「‥‥‥ご先祖様だったんでしょう? 森の入り口の七里結界を少しずつ解こうとしてたのは」
 普通、何の媒体も持たない魂が霊体だけで現世にとどまっていられるのはほんの短いあいだだけだった。現世に残った魂はいずれ雑念となって他の意識体と混ざり、やがて統一化された思念体はモノに宿り単一の感情しか持たない心となる。人はそれをモノに宿った神としてあがめるわけだが。
「気づいていたのね‥‥‥」
 しかし彼女は魔封じの森に充溢した魔力を利用して生前のままの心で幽霊として棲みついている。自分の先祖の霊とこうして顔を合わせるというのは不思議な気分だった。彼女はまるで幼い頃に生き別れた自分の姉のように思えるからだ。
「話して。木霊とのあいだにいったい何があったの?」
 私がそう言うと、彼女はすごく悲しそうな顔をした。それは本当に悲しそうだった。いったいどれほどの過去を背負ってきたらこんな表情になるのだろうかと私は思った。
「木霊は、木霊は本当にいい子だったのよ‥‥‥」
 それから彼女はぽつぽつと懺悔するように語り始めた。
「木霊は素敵な能力の持ち主だった。すぐに綺麗な花を咲かせることができたし、大きな実を結ばせることができたし、たくさんの緑を植えることができた。無邪気で可愛くて、底抜けに明るかった。私はすぐに木霊のことが好きになった。
 木霊は優しくて純真で、すべての人に分け隔てなく接した。正直者で曲がったことが嫌いで、そして何より私と仲がよかった。私は本当に木霊のことが大好きだった。そしてきっと木霊も私のことが好きだったと思う‥‥‥」
 はあ、と彼女は深くため息をつく。そして彼女は遠い昔のことを思い出すような目をしたまま、私の肩越しに空から木漏れ日が差し込んでくるあたりを見上げた。彼女の瞳はずっとある一点を捉えていた。まるで私には見えない映写幕がそこにはあって、彼女はその映写幕に映された映像をずっと見つめているかのように思えた。ひんやりとした風がそよいで、川の水の流れる音と一緒に運ばれてきた秋のすすきの匂いが私の鼻腔をくすぐる。話すことはもう全部終わってしまったのかと思いかけたとき、彼女は再び語り始めた。
「木霊の能力はあらゆるものの成長を促進させると同時に、その老化をも助長させてしまう。彼女がそこにいるだけで、その周りにあるものは本人の意思とは無関係にことごとく影響されてしまう。それは本当にわずかな影響力だから、本人が手で触れたり意識してそうしようと思ったりしない限りは、特に問題のないことだと思っていた。
 だけど違った。木霊の能力の影響を受けながら少しずつ積み重ねられていく老化が、致命的な朽廃を招くものがあった――それが博麗大結界よ」
 彼女は私の目を見て言った。その黒い瞳が底なしの井戸のように私の心をつかんで離さない。
「その事実に気づいたとき、私はまだきっとなんとかできるだろうと思っていた。いろんな方法を試して、結界の老朽化を防ぐために手を尽くした。
 だけど、だめだった。そもそも問題に気づくのが遅すぎた。事態はもう手遅れに近い状況だった。当時の私には木霊の能力に影響を受け続けながら老朽化する結界を元通りに修復することはできなかった。
 私は自分のエゴのために幻想郷を崩壊させるわけにはいかなかった。でも、だからといって木霊本人にそのことを打ち明けることはできなかった。私は木霊が自分自身を責め続けるようなことになるくらいなら、私が木霊に一生恨まれ続けたほうがいいと思った。私は木霊を騙して森に閉じ込めた。純真な彼女はあっさりと騙された。私はそんな木霊を見て自分の心がひどく汚れているのを思い知った。そして木霊は森の中に封印された」
 話しながら、彼女の瞳が黒曜石のようにきらめき始める。私はもう目を合わせていられなかった。
「私の心は弱かった。私のしたことは間違っていた。それは現実から目を背けて逃げているだけの行為だった。
 私は冥界の住人になってから彼女が狂っていくのをずっと見ていた。彼女が魔封じの呪縛を克服し始めたとき、私は本当に忍びない気持ちになった。私が私自身の心の弱さのために施した呪縛よりも、木霊の一途な気持ちによる力のほうがよっぽど強かったんだということを思い知らされた。そして私は木霊のその無垢な純情を邪悪な心に捻じ曲げさせてしまったんだということを悔やんだ」
「それでこの森に降りてきて七里結界を解こうとしていたわけね。どうりであんな勢いで結界が破られようとしていたわけだわ」
 この森の入り口の七里結界も人間に対する効力は弱い。だから魔法の森に住む人間である魔理沙はこの魔封じの森を見つけてしまったのだ。そのあとすぐにアリスもこの森に気づいてしまったことを考えると、それほど急速に結界が解かれようとしていたというのが分かる。
 彼女はさらに話を続けた。
「私は木霊の魔力のおかげで霊体のままこの森にとどまることができるのに気づいた。それで木霊の能力による影響にも耐えられるような結界の修復方法を研究したの。随分と長い時間がかかってしまったけど、これで少しでも木霊が救われるんだと思うと、もう思い残すことは何もないわ。
 だから‥‥‥ね、霊夢。新しい結界の修復方法を教えるから、ちゃんと紫と協力して結界を護っていってね」
「げっ、また私の仕事が増えるの!?」
「あら、いいじゃない。そのおかげでお友達が一人増えるんだもの。その髪飾り――うふふっ――随分と木霊に気に入られてるみたいね」
 彼女は私の髪に挿された木霊からの偏愛のしるしを見ると満足そうに微笑んだ。
「ねぇ、霊夢」
「何?」
「分かるでしょう? 私、この森の魔力がすべて解き放たれる頃にはもうこのままここにとどまっていることはできないのよ。だから――」
 そう言って彼女は少し物悲しそうな顔をした。彼女の言う通りだった。霊体のままの彼女をこの森につなぎとめている魔力の残滓が枯渇する前に、彼女は冥界に帰らなければならない。そもそも木霊が森の呪縛から解放され、結界の修復問題についても解決した今、彼女が現世にとどまり続ける理由はなかった。
「だから――弾幕ごっこしましょう」
 にっこりと笑って彼女は言った。私もつられて微笑んだ。彼女も木霊にそっくりだと思った。
 私たちは西日の中、博麗代々の巫女同士で弾幕を張り合った。最初で最後の出逢いを歓び、そして別れを惜しむためのものだった。勝ち負けなどどうでもよかった。
 私は一子相伝の弾幕なんかも教えてもらえるんじゃないかと期待してみたが、結局彼女が私に伝授させたのは新しい結界の修復方法だけだった。
 彼女は長い研究の末に編み出した技術を私に授けると、夕焼けの紅霞の中に消えていった。空気中に漂う魔力の粒子は夕陽の光を著しく反射させ、よりいっそう夕焼けの紅い世界を際立たせるのだ。
 やがて落陽は沈み、魔力を帯びた森の中で長く続いた残照のあとに物寂しい薄暮が迫ってくる。
 木枯らしが吹いた。私は肌寒い冷気に身を竦めて肩を抱いた。いつまでも腋なんか見せてないで上着を羽織ってくればよかったと思った。
 季節は立冬に近づいていた。夏の終わりの夜に魔理沙やアリスとこの森へ来ていたのがずっと昔のことのように思えた。

 麓ではもう、紅葉が始まっているのだ。

   - 完 -
   あとがき

 初めまして、ユキノユキです。
 今回は初めての東方のSS制作ということで、デビュー作として創想話に投稿させていただきました。
 東方の二次創作としての小説を執筆するのはこれが初めてとなります。
 なのでどこか至らないところなどあるかとは思いますが、少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。

 私はアリスが大好きです。
 アリスを視点において東方のSSを書こうと思ったことは、これまでにも何度かありました。
 しかし私はそのたびにその考えを打ち消していました。
 小説を書くことにおいて二次創作というジャンルは大きな制約を伴ったものだと思っていたからです。
 二次創作は既存の世界観を尊重し、原作のキャラクターを忠実に再現しなければなりません。
 今作の中で私が原作のキャラクターを3人しか登場させなかったのは、
 原作の設定を綿密に調べた上でイメージ通りに描写する自信がなかったからです。

 今回は練習作ということで短めの物語にまとめました。
 登場人物を少数に限定し、教科書通りの単純なプロットを組み立てました。
 なので味気ない話の展開になってしまったかもしれません。
 しかしテーマやモチーフは物語全体を通して一貫したものにまとめることができたので、
 それについては満足しています。

 伏線を丁寧に配置するためのプロットの組み立てには思ったより時間がかかりましたが、
 いざ話を書き出してみればあとはもう勢いに身を任せるだけでした。
 書き進めるのと同時にイメージがどんどん溢れ出てくるのを感じました。
 クールなアリスと霊夢。生き生きと動く上海と蓬莱。そして幻想郷の空気の匂いと肌触り。
 そんなものを感じでいただければと思いながら筆を走らせました。

 もしもまたどこかで私の文章を目にすることがあれば、そのときはどうぞよろしくお願いします。
ユキノユキ
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コメント



0.1290簡易評価
4.20名前が無い程度の能力削除
~だった、~した、~た、が非常に多く、読みづらく感じました。
また、弾幕ができないのがわかっているのにスペルを使ったアリスに違和感が。怒りもあったのでしょうが。
後日談も、説明書きなしで霊夢視点にすることはできたと思います。
それにしても木霊強いなー、ラスボスクラスのスペカ枚数…
5.50煉獄削除
私も上の方と同じく「だった」、「した」、「たorだ」が多くて
せっかくの面白さも、かなり下がっていたように感じます。
それだけにかなり惜しいです。
作品事態は面白かったですよ。
7.50名前が無い程度の能力削除
話自体は面白かったのですがオリジナルスペカが多すぎた様な気がします。
12.10アリススキー削除
アリス大好きで題名見た瞬間くいついたのですが・・アリス弱すぎませんか・・?さんざんやられキャラで
最後も倒したのが人形でしたし、読み終わった感想として非常に不愉快。それ以外感じませんでした。
霊夢に足手まとい扱いされるアリスが見ててきつかった・・主人公をアリスにする必要があったのかな?題名で同じようにアリスFANの方が見にくると思いますのでできれば最初の注意書きにアリスの能力設定が極端に弱い事をいれておいたほうが見る側は心構えができるかと思います。
14.無評価ユキノユキ削除
>>4さん
>>煉獄さん
文体についてのご指摘ありがとうございました。
言われてみるまで気づきませんでした。確かに過去形ばかりではくどいですね。
文章全体を通して文体を少しずつ修正してみました。

>>アリススキーさん
緊迫感と臨場感を高めるために苦戦に苦戦を重ねました。
序盤から中盤にかけて憂鬱な展開にしてこそ最後の幸福感と
安堵感を味わえると思って、このような物語の展開にしました。
それに霊夢は本当にアリスのことを足手まとい扱いしていたわけではありませんよ。
しっかり最後はハッピーエンドにしたつもりなのですが後味悪かったでしょうか。

しかし物語全体の雰囲気としては確かにあなたの言う通りシリアスすぎたかもしれませんね。
冒頭のはしがきにその旨を載せておくことにします。
15.60名前が無い程度の能力削除
↑ちゃんと読めばあの森に於いてアリスには大きなハンデがあったことが分かりますよ。
根っからのアリスファンな私ですが、この記述だけで十分に納得できました。

それはそうと中々面白い話でした。
しかし他の方もおっしゃってるように「~だ、~だった」が連続しすぎていて読み辛さを感じましたね。
あと、戦闘最後の辺りが尻すぼみになっているように感じました。
せっかくあそこまで盛り上げたのに3行~4行くらいで逆転、決着というのはあまりに竜頭蛇尾。
これからも頑張って下さい。
16.70名前が無い程度の能力削除
最近きちんと人形遣いとしてのアリスが中々見当たらなかったので、個人的に気に入りました。
ただ文章がぎこちない時があったり、蛇足な点が多かったりと気になる点も多かったので-30点させてもらいました。

弱体化については、大のアリスファンですが、理由付けされてるので私は気になりませんでした。
20.70名前が無い程度の能力削除
全体的に好きですが、もうちょっと、最後の先祖様の語りをコンパクトにしてもいい気がします。
なんというか最後にいきなり種明かしされてる感じがして蛇足なように思います。
前半で霊夢に語らせるとか伏線仕込んでおくと丸く収まるかもです。
22.90名前が無い程度の能力削除
なかなかよかったです。楽しめました。
初投稿だそうですね、これからあなたの作品が楽しみです。
がんばってくださいね!
23.70名前が無い程度の能力削除
あぁ…悲しき3ボスの実力。
え?何?アリス?

大 好 き で す よw
24.20名前が無い程度の能力削除
他の方がおっしゃっているように、文章が読み辛い。
また、最初からずっとアリス視点の一人称だったのに、後日談で唐突に霊夢視点に
変わるのは違和感があります。
内容の方は、オリジナル要素が強すぎて、人を選ぶものですね。
私はアリスたち3人も、東方キャラに扮したオリキャラのように感じました。
あとがきで「クールなアリスと霊夢」と書かれていますが、霊夢はともかくアリスは全然
クールじゃなかったです。むしろ考え無し。
魔法使い、しかも頭脳派を自認する人物が、ろくに魔法が使えないと解っている
場所に何の準備もせずに出向くなんて、有り得ないのでは?
26.80名前が無い程度の能力削除
話面白かったのでこれから頑張ってください
27.70名前が無い程度の能力削除
オリキャラとそのスペカ、なかなか本格的で好きだなぁ
よく練られてると思います

文章は若干読みにくさがありますが、内容そのものは面白かったですよ
これから先、成長に期待します
28.20名前が無い程度の能力削除
オリジナルで書こうとした作品に強引に東方を重ねて無理矢理二次創作にしたかのようでした。

……オリキャラのスペカが肉弾戦ばっかりでなにがなんだかサッパリです。
30.20名前が無い程度の能力削除
忠実に再現?
ふ~ん
東方って知ってる?
32.無評価アリス大好きだー!!!削除
こんにちは、根っからのアリスファンです。先が気になり、どんどん物語りに引き込まれていきました。途中まではアリスが可哀想だなあと思ってみていたのですが、後半にわけを知ってほっとしました。なんか批判が多いようですが、私はとても面白いと思いますよ。
という事で、これからもぜひアリス主体の物語をお願いしますww←実はこれが一番言いたかった(死
33.100アリス大好きだー!!!削除
あ、得点つけるの忘れてました。
35.80ぷる削除
海外ハードボイルド小説作品を読んでいるような気分でした。
ストーリーの雰囲気はしっかり出ていたと思いますので
>小説を書くことにおいて二次創作というジャンルは大きな制約を伴ったものだと思っていたからです。
>二次創作は既存の世界観を尊重し、原作のキャラクターを忠実に再現しなければなりません。
といった考えにあまり深くこだわり過ぎずに
もっと肩の力を抜いて気楽に書かれて構わないんじゃないかなと思います。
次回作も期待しています。
36.20名前が無い程度の能力削除
なんだろうか、これ
正直アリスに良いとこが一個も無いわけだが…
なんなんだこれ?
アリス主人公なのにアリスに良いとこなしってのがよくわからんなー
46.80名前が無い程度の能力削除
こってり盛り込み過ぎって感じだな。まず枝葉を払って言いたいことをくっきりさせること。
書き手にとって当然な話の流れって知らず知らずのうち飛躍してしまってることがある。
それが読み手にとって一発で作品から乖離されてしまう違和感につながる。
だから、まずはどこからみてもわかりやすいシンプルで明確な骨子。盛るならそのバランスを崩さないように美しく盛る。
あとオリキャラ。基本嫌われるけどストーリーありきでよく馴染んだキャラならあまり問題にならない。
この作品の場合、かなり東方らしく頑張ったオリキャラだと思うけどそれが逆にクセを際だたせてつらい。
肩の力を抜いて、灰汁抜きをする要領で東方の世界に馴染ませてやるべきだったかと。

なんだかんだで結構楽しませてもらいました。森にはワクワクしたし霊夢のすっとぼけぶりにはやられたしwこれからもがんばってください。
49.100名前が無い程度の能力削除
これはさりげなくアリス→霊夢なのかな・・・?
そうならいいなっていうかそういうことにしておきますね(待