Coolier - 新生・東方創想話

幽冥境夜行 後編

2008/08/27 16:25:53
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*注 この話は、作品集58「幽冥境夜行 前編」の続きです。
 前編読んでくださっていた方々、お待たせしました。
 そうでない方も、気が向いたら読んでみてください。








 庭を箒で掃く音が聞こえる。蓮子は障子越しに射し込む朝日を感じる。暑くて目を開ける。蓮子の白玉楼での朝は、そうして始まる。
 メリーの姿はここにはない。白玉楼についた最初の晩、二人は別々の寝室に案内された。ここに来て二週間が経つが、いまだに蓮子は、メリーの部屋が白玉楼のどこにあるのか知らない。禁止されているわけではないが、白玉楼の案内されていないところをむやみに歩き回るのは、気が引けた。
 障子を開けて顔を出すと、白髪の少女が庭を掃いているのが見えた。白のブラウスに緑のブレザー、緑のスカートを身につけている。
「あ、おはようございます、蓮子さん」
「おはよう、妖夢」
 少女の名は魂魄妖夢と言った。本職はバスの運転手ではなく、庭師とのことだった。ただ、幽々子が何か思いついた時は、たいてい真っ先に妖夢にさせるそうだ。
「朝早いわね。いつも何時に起きてるの」
「そんなに早くはありませんよ。だいたい五時までは眠っていますから」
「五時? 寝るのは?」
「十二時です。翌日の仕事に差し障りないよう、充分な睡眠を取らなければなりませんから」
「充分て……五時間で」
「時々書見などに熱中するあまり、一時を過ぎてしまうこともありますが」
「でもどうせ五時に起きるのよね」
「ええ。そういうことになってますから」
「はあ、生活習慣って怖いわね」
 毎朝時計を見ているわけではないが、白玉楼で寝起きするようになってから、だいたい朝の七時には目が覚めている。夜は、七時頃からゆっくりと食事を取り始めて、八時頃に食べ終わるとそれからみるみるうちに眠くなり、九時を回った頃には布団にもぐりこんで意識をなくしている。明け方まで起きて昼過ぎに目が覚める今までの生活とは、大違いだった。布団は、おそろしくふかふかしていた。過去に蓮子が一度か二度、旅館やホテルに泊まった時に経験したきりの、ふかふか具合だった。これで眠くならない方がどうかしている、と蓮子は思う。
「食事の準備はできていますよ。メリーさんはもう召し上がっているはずです」
「うん、ありがとう」
 ブラウスを着、スカートをはいて、身づくろいをする。部屋を出て、縁側の廊下を渡り、食事の間に向かう。畳の間には食卓が広げられ、メリーが味噌汁を啜っていた。
「ちょっとメリー、人が来るまで待っていようとか思わないの」
「あら蓮子、おはよう。ネクタイが曲がっているわよ」
 蓮子に一瞥を与えた後、また味噌汁を啜りだす。蓮子は言われた通りネクタイを直しながら、食卓に着く。白米とみそ汁、たくあんに大根おろし、焼き魚、納豆、とき卵。これでもかというほどの日本食だった。蓮子は空きっ腹に食べ物を詰め込んだ。
 雀の鳴く声が聞こえる。蓮子とメリーは座布団に座り、食卓を挟み、黙々と食事を進める。普段彼女らが口にするものに比べれば、かなりの量の食事を、綺麗さっぱり平らげてしまった。その間二人が交わした会話と言えば、
「メリー、醤油とって」
「自分で取りなさいよ。そっちが近いでしょう」
「メリー、その魚いらないならちょうだい」
「最後にとっておくの」
「メリー、お茶おいしいね」
「ごちそうさま」
 ぐらいのものだった。
 時計を見ると、八時前だった。
「今日は幽々子さん、来ないわね」
「そうね、どうしたんだろう」
 いつもなら、食事の途中にゆらりと現れて、一緒に食事をしつつ、たいてい噛み合わない、特に意味もない話をだらだらとする。食事が終ると妖夢が茶菓子を持ってくるので、それをつまみながらまただらだらと話をする。アイスがないのは残念ね、とメリーははじめこぼしていたが、今は饅頭と茶の組み合わせにすっかり馴染んでいた。
 幽々子がしゃべり続けるのを横目に、蓮子が寝転がって本を読み、メリーが庭の風景をぼんやり見たりする。その逆もある。幽々子が食べるだけ食べてそのまま寝てしまう時もある。昼前になると、幽々子が二人を連れて散歩に出かける。行き場所はさまざまで、中庭や外庭、近くの河原、林、広場にも足を運ぶ。外で弁当を広げて食べることもあれば、いったん白玉楼に戻ってから食べることもある。その後は、幽々子がメリーをつれてどこかへ行ってしまう。
 幽々子は、メリーの境界を見る能力に相当興味を引かれたようだった。冥界に招待したのも、蓮子を昏倒させた詫びではなく、メリーの能力を間近で見たかったからではないか、と蓮子は考えている。
 おっとりとして、何も考えていないような幽々子だが、時折垣間見せる冷めた表情や、言葉の端々に漂う知的な雰囲気は、蓮子を畏怖させるに十分だった。
 いずれにせよ、幽々子が朝のこの時間まで顔を見せないというのは、この半月の間、なかったことだ。
「なんとか局長に会いにいったのかしら」
「是非曲直庁、でしょう」
 蓮子が訂正する。
「そうね、私たちのことを閻魔さまに申請しに行ったのかもね」
 生きた人間が結界を越えて冥界へやって来たことが、十王といわれる裁判官たちの間で問題になっているらしい。場合によっては処罰もあり得ると、幽々子は言っていた。幽々子はのほほんとしているが、状況はよくはなさそうだった。それでも蓮子は、どこか他人事のようにこの件を捉えていた。
「今日はどうしましょう、蓮子」
「案内人がいないんじゃ、仕方ないわよね。昨日の広場なんて、幽々子さんがいなかったら、私たちあっという間にのたれ死んでいたわ」
「右も左もわからない異界だものね。現地の人の案内なしにむやみに外を出歩くのは危険だわ」
「そうそう。昼までは、本でも読んで待ってよう」
「ねえ蓮子、いつも昼からは何をしているの」
「昼から? そうね、特に何をしているわけでもないわ。あなたや幽々子さん、時々妖夢とお昼一緒に食べた後は、まあ少し眠ったり、本を読んだり、庭を眺めていたり、折り紙を折ったり、ちょっとだけ大学の論文のネタ考えたり。そんなこんなやってたら日が暮れるから、お風呂入るでしょ。お風呂あがったら、来客がある時はその人たちと一緒に話しながらご飯食べる。まあ、この時はだいたいあなたもいるわよね。そうして食べ終わるとちょうどいい塩梅に眠くなるから、眠るわ。そうしたらまた朝よ。今と同じよ」
「そうかあ、そうねえ、そんなものよね」
「メリーこそ、いつも何してるのよ。幽々子さんがあなたの能力面白がっているけど、いつも何されてるの? モルモットにされたりとか」
「ずっと一緒にいるわけじゃないのよ。昼御飯が終ったあとのほんの三十分ぐらいだから」
「だからその間に何をしているのかって、私聞いているのに」
「なにかしら。そうねえ、儀式かしら」
「儀式」
「そう、儀式の練習」
「何の儀式」
「さあ。よくわからない。とにかく、幽々子さんがやってみたい儀式に、私の能力がぴったり合うらしいの。今は私が境界を見て、幽々子さんがそれに色々とアドバイスをくれるぐらいだけど。おかげで、前よりずっとはっきりと境界を見られるようになったわ。
「具合が悪くなったりしない?」
「いいえ。ただ、それやるといい感じにぐったりきちゃうのよ。それでいつも夕方まで眠るわ。それから起きて、しばらくぼやーっとしていたら、妖夢が外に連れ出してくれるの。特訓に付き合ってくれって。といっても私は横で見ているだけだけど。だって妖夢の速さ、あれ人間業じゃないわ。人間じゃないけどね。まるで獣か風か、全然違う生き物みたい。とにかく速いの。私も付き合って木刀を素振りしたり、走ったりするけど、跳躍度合いでたとえるとするなら、バッタと蟻ね」
「蟻、跳ばないじゃん」
「それくらい差があるってことよ。そんなことやってるとお腹がすいてきて、食事の間に行く。そうしたらいつも、あなたが酔っぱらって、お客さん相手に管を巻いているところに遭遇するわけよ」
「ごく当然のように、嘘を混ぜないでくれる?」
「あら、お酒を聞し召しているのは事実でしょう」
「時々よ。三日にいっぺんぐらいよ」
「昨日も、赤いツインテールの女の子相手に、わかったようなわからないような物理の話をしていたわね」
「わからなくはないわよ、わからないのはあの子の持っている理屈よ。距離は積んだ善行に反比例するだとか。自分は距離を自在に操れるだとか。空間をそんなに恣意的に捻じ曲げられたんじゃ、物理学の立場がないわ」
「あら、空間飛躍のアイデアは物理学から出たんじゃなくて?」
 その声は、突然二人の会話に割って入った。
 空間の裂け目から現れた、紫紺のドレスを着た少女は、傘をたたむと、肘まである白い手袋をはめたまま、食卓の小魚をつまみ、一口かじった。丸みのある白い歯が、蓮子の印象に残った。
「八雲紫……」
 蓮子は、白玉楼の階段で会った少女の名を言った。
「覚えていたのね。冥界暮らしで感覚が鈍って忘れてしまったのかと思ったわ」
 紫は目を細める。笑っているようにも、流し目のようにも感じられる。
「何か用かしら」
 蓮子は、自分の声が固くなっているのに気づいた。目の前の少女に対して、体が勝手に警戒を始めていた。
「友達に会いに来たのよ」
「友達は、閻魔さまに呼び出し食らってるわよ。あなたが持ってきた手紙で」
「彼岸におゆきなさい」
 蓮子は、紫の言葉の意味がよくわからなかった。
「彼岸ってここのことじゃないの。それとも、三途の川の向こうまで、閻魔さまの裁判所まで行きなさいってこと?」
「わからないのかしらねえ。とっとと帰れって言ってるの」
 紫は、少女のあどけない笑顔のままだった。閉じた傘を手に取り、縦に空間を切り裂く。裂け目が広がり、泣き叫ぶような風の音がする。青い空がその裂け目の向こうに広がっている。眼下には、まるで地図のように、蓮子のよく知っている地形が広がっていた。蓮子たちが住んでいる町が、眼下に広がっていた。
「私は、私の立場から言うだけよ。此岸とは、幻想郷のこと。彼岸とは、それ以外のこと。三途の川の向こう側だけではないわ」
 裂け目は広がる。風は轟音となり、蓮子とメリーの耳を圧迫する。
「ここから飛び降りる? それとも、もう少し穏当な方法がいいかしら。あなたたちは幽々子に近づいてはいけないのよ。あの子、少し興味が出ると何でも手を出すんだから。本当、悪食で困るわ」
「興味……手を出す?」
 帽子が吹き飛ばないよう、手で押さえながら、蓮子が尋ねる。
「そうよ。あなたたち、自分の意思で結界を越えて、自分の意思で冥界まで来たと思っている? 思っているみたいね」
 裂け目は広がり続け、部屋の半分ほどまでになる。青空が視界いっぱいに広がり、風が室内を吹き荒れる。蓮子とメリーは手を取り合い、それぞれ手近の柱や襖をつかんだ。
「そんな生半可な目が、幽々子の願いを叶えられるわけがない」
 紫の周囲が、飴のように溶け、歪み、ねじれていく。人間には及びもつかない、桁外れの力が動きだそうとしている。野生の獣に睨まれる家畜の気分はこういうものかと、蓮子は思った。
 その時、紫の目を、白い繊手が覆い隠す。
「だ~れだ」
 切れ目から現れた青空も、紫の周囲に湧きあがった禍々しい何かも、たちどころに消え去った。
「何かしら、幽々子」
 幽々子は紫の背後に立ち、目を手で覆っていた。
「せっかく招いた客人を、まつろわざるあなたが脅して追い返してしまおうだなんて、不届き千番だわ」
「あら、私は面白そうだったからやってみただけ」
「違うわねえ、紫にしては珍しいわ、これほど目的を持って動くなんて」
「私は目的がなければ動かない」
「ああ、違ったわ。私情を持って動くなんて、よ。そんなに西行妖に私を近づけたくないの」
「外の人間が、幻想郷のことに首を突っ込むのは、見てて癪だからね」
「ふーん。紫は、この世界の秩序のことになると、冷静さを失うものね。でも今日はなんだか、いつもよりもっとひどいわ。きっと寝過ぎてお腹が減っているのよ。何か食べましょう」
「いいわ。今日は眠いの」
「いつもでしょう」
「そうね。あなたと話す時はたいてい眠いわ」
「眠いというのは、幸せなことよ。紫は幸せなのよ」
「多分ね」
 紫はそう言うと、傘を縦に振り、空間に裂け目を作った。紫がそこに入ると、裂け目は閉じる。後には何も残らなかった。
「さあ、ご機嫌斜めな招かざる客も消えたことだし、メリーさん、ちょっと早いけど、行きましょうか」
「え、もう行くの?」
 メリーが意外そうに言う。
「そうなの。ねえ蓮子さん、悪いけど今日はお昼付き合えないわ。妖夢にでも給仕させて、ひとりでまったりとしていて」
「それは別にいいけど…… 何か特別なことでもするの」
「ええ。閻魔さまにも目をつけられたことだし、早めに、ね」
「早めに何? メリーが儀式って言ってたけど」
「道化の頭蓋骨を憐れむグレイブディガー」
「え?」
「墓暴きよ。メリーさん、いつものところで待っているわ」
 そう言って、幽々子は障子を開けて浮いて出ていこうとする
 今の紫の件など何事もなかったかのような態度の幽々子を見て、蓮子は何と言っていいか迷った。何か言わなければと思っていた。
「どうしたの、蓮子」
 そんな蓮子の様子を見て、メリーが声をかける。蓮子は意を決して幽々子に聞く。
「幽々子さん、是非曲直庁で、何を言われたの」
 幽々子は宙で止まったまま、振り向かない。
「あなたたちがここにいるのは正しくないから、うちに帰すように、と言われたわ。言うことを聞かないと、白玉楼の管理主もやめさせる、とも。ずいぶん切迫した様子だったわ」
 幽々子は相変わらず何でもないことのように言い、出て行った。どの程度まで切迫しているのか、つかめない態度だった。
 蓮子は、隣にいるメリーに聞かせるようにして呟く。
「それは、まあ、いずれは帰らなきゃいけないと思っていたから、そんなにみんなが帰れ帰れ言うんなら、仕方ないわね」
 白玉楼での暮らしは楽しいが、どこか現実味が薄かった。一日のうちわずかな時間しかメリーと会えないというのも、味気なかった。
 外の世界で、生活の細々とした雑務や、大学の論文に追われながらも、なんとか時間をやりくりしてメリーとの時を楽しむ方が、自分には合っている気がした。変化していくことは怖いが、それを含めての、メリーとの関係だと、蓮子は思う。
「嫌」
 蓮子ののんびりした物思いを断ち切る、メリーの声だった。
「絶対嫌。戻りたくない」
 メリーの声は、かたくなだった。
「外の世界はつまらないことが多すぎるわ。ただ蓮子と一緒にいたいだけなのに、生活に必要なだけのどうでもいいこととか、大学のつまらないレポートが、邪魔をする。私はずっとここにいたい」
 メリーは蓮子と同じことを考えていたようだった。しかし、結論がまるで違う。
「確かにここなら何もしなくてもご飯は出るし、朝から晩までゆっくりできるから、いたいのは山々だけど。なんかねえ……やっぱり、ずっといたら駄目なんでしょう。閻魔さまがそう言っているらしいし。死人にでもならなきゃ、永住は駄目だと思う」
「だったら、そうするわ」
「メリー、落ち着きなさいよ。どうしたの」
「蓮子はなんとも思わないの。あの退屈な日常に帰りたくないって、思わないの。つまらない学校、つまらない知人、つまらない正義、つまらない社会。ここでなら、誰にも邪魔されずに、あなたと話したり、本を読んだり、ぼんやり星空を眺めたりできる」
「邪魔されない、っていうか私たちの存在が邪魔だって、閻魔さまから言われている気がするけど」
「そんなの気のせいよ」
「メリー」
 蓮子は、ゆっくりと瞬きして、メリーを見る。
「どこでだって、できるわ、あなたとなら。話したり、読んだり、眺めたり」
「知っている、そんなこと。でも、どこにだって、余計な邪魔が入るのよ。死後の世界にまで邪魔する奴がいるなんて、とんだ計算違いね」
「だからそれは、邪魔というか、仕方ないじゃない。だいたい、私たちまだ死んでないんだから」
「蓮子。変なこと聞いていい?」
 メリーは蓮子の手を取る。
「私とだったら、死ねる?」
「メリー……」
「私とだったら、どうなってもいい?」
 蓮子は、助けを求めるように、視線をそらせる。だが、視線の行き場がない。部屋中をぐるりと一周して、また戻ってくる。
 メリーに押し倒される。
 蓮子はメリーを抱き寄せる。メリーの顔を見て、声を聞いて、匂いを嗅いで、肌に浮かぶ汗を味わい、肉と骨を全身で感じる。
 五感すべてでメリーに溺れる。
「私たちは、変わっていく」
 陶然として目を閉じるメリーの耳元に、蓮子は囁く。
「私たちは、神さまでもなければ仙人でもないし、幽霊でもない。ただの人間よ。変わらない、というのは、嘘だと思うの」
「変わらないし、忘れないわ」
「変わるし、忘れる。言ったでしょう? 十年先の私たちの運命は、今の私たちが関わることはできないの。今の私たちは、今が過ぎれば別の存在になってしまう」
「なんで、そんな、寂しいこと、言うの」
 目を閉じて深い呼吸をしているので、まるでメリーは眠っているように見える。眠りながらしゃべっているように。
「寂しいことなんてない。変わり続けていく中で、それでも変わらないものを探し出すの」
「あなたの理屈で言うなら、それだっていつか変わってしまうものでしょう」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
「なんだかどうでもよさそうね」
「だって、わからないよ、先のことなんて。私は今、大事だと思っているものを大事にするだけ」
「なんかずるい」
 メリーは立ち上がって、畳に落ちた蓮子の黒帽子を拾った。蓮子はそれを受け取ろうと手を伸ばすが、彼女の案に相違して、メリーはそのまま帽子をかぶった。
「似合う?」
「全然似合わない」
「じゃあ蓮子にはこれでもくれてやるわ」
 黒帽子の下の自分の帽子を取って、蓮子に投げやる。
「こんなファンシーなデザインのもの、私がかぶったってしょうがないでしょう」
「いいのよ。少女は着せ替え人形。何を着せたって似合う」
「んなわけないでしょ」
「もう、夢がないわね、蓮子は。私みたいなヒラヒラがたくさんついた服を着たら、もっと蓮子も頭がのんびりして、柔らかくなると思うんだけどなあ」
「私があなたになるっていうの?」
「そう。そして、私が蓮子になる」
「できるかなあ」
「できるわよ」
「無理だと思う」
「ああ、駄目ね、話が合わないわ、蓮子とは」
 メリーは大げさな身振りで片手を顔に当てて、のけぞってみせる。
「私は幽々子さんのところに行くわ。蓮子も部屋に戻ったら」
「そうね、そうする。メリー、また今夜ね」
「ええ、夕食の席で」
 二人は食事の間を出て、それぞれ廊下を別々の方向へ歩いていった。
 蓮子は途中、庭の池の傍でしゃがみ込んでいる幽々子を見かけた。縁側から声をかける。
「あれ、幽々子さん、メリーとの待ち合わせはいいの?」
 幽々子は答えない。聞こえなかったのかと思い、蓮子は足下にあった草履を履いて、幽々子のところまで歩いていく。幽々子は手の中で石を転がしていた。目は、池を見ているのか、その先の塀を見ているのか、蓮子にはよくわからない。
「あなたの気の利かなさに呆れたわ」
 そう言って、石を池に投げ込む。池の中の幽霊たちが、戸惑ったようにふよふよと動き、四方へ散っていく。
「気を使っていた私が馬鹿みたい」
「あなたに使うような気があったの?」
 蓮子は、思わず素で返していた。言ってから、かなり無礼なことを言ったと気づく。だが、幽々子はそれについては何も感じなかったらしい。足下の石を拾い、また手元で転がす。
「でも勉強にはなった。相手の気持ちがわからなかったら、ああいう風にすればいいのね」
「ああいう、って?」
 蓮子は、嫌な予感がした。
「さっきみたいな」
「覗いていたの」
 思わず、声が裏返った。
 幽々子は二つめの石は投げず、足下に戻す。それから宙に浮き上がる。
「なんのために私があなたたちを別室にしたのか、てんでわかっていない」
「なんでなの」
「あなたたち、一緒にいると、能力の効きが悪くなるの。かといって完全に離れていても駄目。ちょうどいい距離感が必要なの。その距離感を探っていたのに、今日のでぱぁだわ。まあ、ある程度感覚はつかめたからまったく無駄ではなかったのだけれど」
「その、儀式とかっていうものにとって?」
「メリーさんがしっかりしてくれないと、どうにも手詰まりなのよ」
 そう語る幽々子の目は、まるでメリーを道具とみなしているかのような酷薄な光があった。少なくとも蓮子はそう感じた。
「幽々子さん、ひとつ言っておくけど、メリーを実験動物みたいに扱うのはやめて」
 蓮子は語調を強くした。
「それだけは、私が、許さないから」
「ひどい誤解ね」
 冷徹な眼光は消えていた。幽々子は池から離れていく。蓮子はしばらくその背中を眺めていた。さっきの幽々子の目は、気のせいだったのかとも思う。幽々子が建物の陰に入り、視界から見えなくなると、部屋へ戻った。

  **

 張りつめた弦が、耐えきれずに切れてしまう。
 満開になった桜と、花びら一枚ついていない枯れ木を、同座標で同時に見ていたメリーは、そこで力尽きて、膝をついた。
「あら、残念、終わってしまったわ。折角、いい具合で重なっていたのに。この桜の輝かしい時と、侘しい時とが」
 幽々子は、倒れたメリーを特に心配するでもなく、悠々と桜を眺めている。桜は、青葉を茂らせている。
「でもすごいわね、あなた。生身の人間でここまで境界をブレさせることができるなんて」
「見るだけじゃ、足りないの」
 メリーの額には汗が浮かんでいる。
「私は境界を操れるようになりたい」
「きっとなれるわ。私の頼みを聞いてくれれば、ね」
「聞くわ。なんでも。幽々子さんの言う通りにして、境界が格段に見やすくなったのは事実だもの。この調子でいけば、操ることもできそうな気がするわ」
「どうしてそんなに拘るの?」
「境界を操って、現実と記憶を混同させたいの」
「それで、どうするの」
「記憶の中で循環するの。記憶が終わったら、そこから現実に接続するんじゃなくて、もう一度記憶に入りなおす。境界を操られれば、それぐらいできそうじゃない」
「そんなに蓮子さんと、一緒にいたいのね」
「ええ」
 幽々子の冷やかすような口調に対して、照れるでもなく、奮い立つでもなく、ごく普通に答えた。
「私は蓮子なの。マエリベリー・ハーンは宇佐見蓮子なの」
「蓮子さんはそれを受け入れるかしら」
「わからない。蓮子は、変化を望んでいる。そういう性格なのね。同じ事の繰り返しの中にも、どこかで変化をつけようとするところがあるの、あの子は」
「もしメリーさんが、記憶の循環に閉じ込めようとすれば、拒否する?」
「するかもしれないし、しないかもしれない」
「自信なさげねえ」
「私、まだよく蓮子のことをよく理解できていないの。これから、もっともっと理解していきたい」
「あなたたちほど理解し合っているつがいも、あまり見たことはないけれど。まだ足りないのかしら。貪欲ね。まるで自分のことを理解するようになるまで満足できないのかしら?」
「それ以上よ」
「何十年、何百年かかるかしら。私だって、いまだに、大切なもののことはよくわからないわ」
 幽々子は遠い目をする。寂しげな表情だった。同時に、どこか満ち足りた風でもあった。
「幽々子さんも、まだわかり足りないのね」
「だからこうしてあなたの手を借りているのよ」
「私は何をすればいいの。こうして、桜の木の過去と未来と現在を混ぜこぜにしていればいいの」
「そんなことしてもなんにもならないわ。これはただの予行演習。あなたには、西行妖の下に眠る何者かの、現実と記憶の境界を見てほしいのよ」
「西行妖?」
 幽々子は、庭の中でも最も大きな桜の木を指差した。
「咲かない桜の木。なぜなら、あの下で死んだ少女が、封印を施したからよ。決して満開にならないように、と」
「満開になればどうなるの」
「昔は、人が死んでいたらしいわ。人が死ぬとますます綺麗になったみたい」
「その子が死んでからは、咲かなくなった、と」
「そう。見てみたいわ。満開の西行妖もだけど、それ以上に、死んだ子が。会って話をしてみたい」
「私たちを連れて来たこと、ずいぶんまわりから反対されているみたいだけど」
「まわりって?」
「是非曲直庁、だったかしら」
「ああ、閻魔さまね。あの人は、何かと人のやることなすことに反対するのがお仕事だから、仕方ないわ」
「それから、妖夢。あの子にも心配かけているわね」
「妖夢は、私のやることなすことすべて心配するの。そういう性分ね、仕方ないわ」
「それから、あの、八雲紫って人」
 その名を出すと、幽々子の顔に、途端に陰りがさす。
「紫は、私のすることを何でも笑って許してくれる。そんな紫が、西行妖の前に来ると、途端に表情が曇るの」
「どうして」
「わからない。何か、とても大切なものに触れられた時のように、怯えるの」
「怯える?」
 メリーには、あの捉えどころのない少女と、怯えという言葉がどうしても結びつかない。
「私が西行妖の話をし出すと、表情がこう、すぅっと、完全に消えてしまってね、紫は言うのよ。幽々子、それはつまらない話だわ、と」
 西行妖に近づき、樹皮に手を触れる。
「知りたい。紫が何を考えているか」
 彼女もまた、それだけなのだ。メリーは思う。
「きっと桜の下の子は、紫のことを知っている」
 自分と同じだ。
 ただ、相手のことをもっと知りたいだけだ。
「一緒に頑張りましょうね、メリーさん」
 幽々子の言葉に、メリーは大きくうなずいた。

  **

 蓮子が部屋に戻ると、湯呑が二つ、置いてあった。紫が座布団に正座している。
「どうして二人のあとをつけなかったのかしら。何か面白いものが見れたかもしれないわよ。まあ、どうせばれたでしょうけど」
「あなた、帰ったんじゃなかったの」
「もう少し宇佐見蓮子と話がしたかったのよ」
「私にはする話はないけれど」
「つれないわねえ。私とあなたは、利害関係が一致しているのに」
「何の話よ」
「このままだとメリーさん、幽々子に食われるわ」
 若い、というよりむしろ幼いといっていい紫の顔つきが、不意に、何千年もの時を経た老婆のように見えた。
「幽々子は西行妖の封印を解こうとしている。前にも失敗したことがあるのに、性懲りもなく、ね。あの時は、どうでもよくなったとか言っていたけれど、すぐにどうでもよくなるということは、またすぐに関心がよみがえるということよ、あの子の場合は」
「西行妖?」
「桜の木よ。あなたも、冥界に来る前にその影を見ていたはずだわ。外の世界に映し出された、妖怪桜の幻を」
 雨の日、道の脇に立っていた巨大な木を思い出す。
「ああ、幽々子さんが眠っていた木のことね」
「そう。ただ、あれは生前の幽々子だけど」
「生前? だって幽々子さんもう死んでるんでしょう。それがなんであそこに出て来たの」
 聞きながら蓮子は、だからメリーの目には別人に見えたのだと、理解した。
「あれは過去の幽々子の姿よ。どこかのおせっかいやきが、探さなくてもいい境界を探して、見なくてもいいものを見てしまったの」
「大変ね」
「あなたの友達のことよ」
「はあ、すみません、メリーに変わって謝ります……って言えばいいのかしら」
「違うわね。あんな目を持つ友人をもってごめんなさい、よ」
「メリーの目を、悪く言うな」
 蓮子の声が、急に低くなる。紫は表情を変えず、口を閉じた。
「で、西行妖の封印が解けたら、あなたに何か不都合なことがあるわけ」
「幽々子が生き返るわ。もっとも、肉体はとうに土に溶けてしまっているから、宿り先のない魂はそのまま成仏するだけでしょうけど」
「じゃあ、今の亡霊の幽々子さんも成仏してしまうのかしら」
「そうなるわね」
 紫は淡々と、お茶を飲む。平静な態度を崩さない。
「……成仏って、いいことなのかな」
「したことがないからわからないわね」
「幽々子さんは、成仏したがっているのかな」
「私がさせないけれどね」
 あくまで淡々と、言い放つ。
「浄土をすべて灰燼に帰してでも、幽々子に成仏はさせない。あの子は、亡霊のまま、ここにずっといるのよ。私は目覚めると、まず白玉楼にいるあの子のことを考える。今日は何をしているんだろう。いつもと変わらず、食べては寝て、寝ては食べて、それが飽きたら益体もない話を誰かとしているんだろうか、と。行けば実際にそうしている。いつでもいる。これからも、ずっとそう。それを阻む者は、なんであろうと容赦はしない」
 冥界に来て二週間経つが、紫から立ち上る不気味な気配は、他の誰からも感じることはなかった。平和な社会に生まれ育ち、殺し合いは無論、殴り合いすら経験したことのない蓮子でも、この妖怪が他の存在とは格が違うのだということは、肌で理解できた。
「そのことがメリーとどう関わりがあるの」
「宿り先にされてしまうわ。元々幽々子はそのつもりであなたたちを連れてきたんだろうし」
「じゃあ、成仏することはないわけね」
「問題があるわ、二つ。ひとつは、メリーさん程度の力じゃ生前の幽々子の力をとても抑えきれたものではないということ。もうひとつは、生前の幽々子と死後の幽々子が向かい合ったとき、何が起きるか私にも確信が持てないこと。想像はできるけど」
「どうなる、と思う」
「さあ。矛盾と向き合って自我が崩壊するか、互いの力が鏡合わせのように無限に増幅され、冥界そのものが崩壊するか、まあそのあたりだと私は踏んでいる。閻魔たちの予測もだいたい同じところでしょう。だから、あなたたちを追い返そうとする」
 紫が話すことは壮大過ぎて、蓮子の理解を越えている。それでも、彼女が話すことをすんなりと受け入れている自分がいた。
「わかったわ。私も、メリーがそういう、何かよくわからない大変なことに巻き込まれるのはごめんだから。それで、何をしたいの、あなたは」
 紫の笑みが、深くなる。凶悪さが増す。
「儀式を、ぶち壊すのよ」
「幽々子さんの意に反しても」
「そう。協力する?」
「メリーの身が危ないなら、私に選択肢はないわ。何をすればいい?」
「今日のところは、その気になってくれただけで十分よ。メリーさんを傷つけずに、儀式に参加させないようにするには、あなたの力が必要だから」
 蓮子は目を丸くした。
「へえ、意外ね。こう言ったらなんだけど、あなたって人の命なんてなんとも思っていないんじゃないかと」
「思ってないわよ。メリーを傷つけると、幽々子が怒るからよ。それだけ」
 当たり前のことを告げるような口ぶりだった。
「それじゃあ、帰るわ。お邪魔したわね」
 立ち上がり、空間の裂け目に消えようとする。蓮子は声をかけるかどうか迷ったが、気づいた時には声を出していた。
「紫……さん。ひとつ、聞いていいかしら」
「なに?」
「あなた、メリーに似ていない?」
 帽子も、来ている服の色も、髪の毛の色も、ほとんど同じだ。そして、メリーの境界を見る目と、紫の境界を操る能力。
 紫は隙間に入れた体を戻し、蓮子と向き合う。口の端に笑みを残し、蓮子の首に腕を回す。鼻と鼻が触れ合いそうになる距離で、囁きかける。
「蓮子」
 あまりにメリーと瓜二つな、その表情、その言葉使い、その吐息の温度。
 蟲のように、それは皮膚の内側を這いまわる。
 何もかもが同じであるはずなのに、体が、皮膚が、全力で拒否している。メリーに似た、メリーとはまったく別の存在を。
 快とも不快とも言えないその感覚に、蓮子は鳥肌が立つ。気づいた時には、反射的に紫を突き飛ばしていた。
「ふふ、悪戯が過ぎたみたいね」
 悪びれた様子もなく、紫は言う。蓮子は荒い息をして、応えない。
「気のせいよ。世の中には似た人が三人はいるらしいわ」
 紫は隙間へ消えていく。蓮子はその場にへたりこんだ。体が熱っぽく、体の節々が痛かった。いつもならこの時間は庭を眺めたり論文考察という名の雑文を書いたりして過ごすのだが、この時は何もする気が起きなかった。敷布団だけ敷き、倒れこむように寝転がる。

 中途半端に寝ると、余計に疲れる。
 夕方、蓮子はそのことを実感しながら、目覚めた。風邪をひいた時のように体中がだるかった。寝汗も気持ち悪かった。
 浴室は離れにある。手拭いも石鹸も用意されているので、草履をつっかけて、飛石を伝っていく。
 離れでは、ちょうどメリーが浴室から出てきたところだった。さっきの紫との会話を思い出し、蓮子は後ろめたいような気持ちを覚えた。そんなもの感じる必要はないと、自分に言い聞かせる。
「あら、蓮子は今から?」
「おかえりメリー。幽々子さんはどうだった」
「うん、まあいつも通り」
 すれ違うと、メリーの皮膚から立ち上る湯気を浴びた。金色の髪の毛から石鹸の香りが漂ってくる。
 メリーはそのまま草履をざり、ざり、と言わせながら去っていく。蓮子は離れに入った。
 檜で作られた浴槽につかり、一息つく。
 しかし、体にまといつくだるさは抜けなかった。
 湯からあがり外に出ると、メリーが待っていた。
「なんだ、先に行ったかと思った」
「やっぱり戻ってきちゃった。もうご飯の時間よね。一緒に行きましょう」
 蓮子とメリーが食事の間に着くと、幽々子はもう席について食事を始めていた。茄子の天ぷらを醤油につけて、白ご飯と一緒にかきこんでいる。幽々子は本当にうまそうに食事をする、亡霊なのに、と蓮子はほとほと感心する。
 向かい側に、赤髪ツインテールの少女が座っている。この二週間、何度かここに食事に来ていた。名は小野塚小町。三途の川の渡し守だ。巨大な鎌が壁に立てかけてあるのが、入ってすぐに見えた。
 一応、魂の運搬計画やら、その他冥界での死者の運営について幽々子と相談するために来ているらしいのだが、仕事の話は早々に切り上げて、懇談会へとなだれ込んでいくのが毎度のことだった。
 だが、いつもは座布団の上に胡坐をかいて座っている小町が、今日はなぜか正座をしていた。出された膳にも箸をつけていないようだ。居心地悪そうに、視線をさ迷わせている。小町の隣に、緑髪のショートカットの少女が、同じく正座して座っている。こちらは実に姿勢が整っており、小町とは対照的だった。来ている服も白シャツに暗い青色のベスト、同じ色のショートスカート、帽子と、かなり固い印象がある。帽子は、リボンだけ付けた蓮子のそれと違い、厳めしい飾りがつけられている。
 蓮子は事態が呑み込めた。紫の話が脳裏によみがえる。
 緑髪の少女は、障子を開けて入ってきた蓮子とメリーにちらりと視線をやると、隣の小町を見る。小町は神妙にうなずく。
「はい、この二人です」
「よろしい」
 少女は立ち上がり、二人の前にやってくる。二人に比べると、やや上背が足りない。
「私は楽園の閻魔、すなわちヤマザナドゥです。マエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子ですね」
「はい」
「ええ」
「こちらに持ってきた荷物はありますか?」
「少し」
「あるわ。メモ帳とか、コンパスとか」
「では二十分待ちますので、荷物をまとめてここにきてください。帰りましょう」
 突然のことに、二人は顔を見合せた。反応が鈍いのが気に食わないのか、少女はやや口調を強める。
「あなたたちのいるべき世界へ連れていってあげます、と言っているのです、私は。ここにいる小町がそれをしてくれるでしょう」
「え、私がですか、四季さま」
「そうです。何か不満でも?」
「私は三途の川の船頭なんで、幻想郷から外への運搬業務は、ちと専門外かと……」
「三途の川に乗ってくる魂に、幻想郷も外も関係ないでしょう。大丈夫、あなたならきっとできます。できなければおかしいです」
「この一週間の業務報告をまとめないと……」
「ああ、そういえば週間業務報告を七週間ほど怠っていましたね。至急、提出するように。ただし、二人を外へ送り返した後でね」
「それじゃあ残業になるじゃないですか。どうせ残業代つかないし。労務超過ですよ」
「残業しなさいとは言っていません。仕事を終わらせなさいと言っているのです」
「えらい人はみんなそう言うんですよ……」
「あ、あのー……」
 二人の会話に、戸惑いながらメリーが入り込む。ヤマザナドゥと名乗り、四季と呼ばれた少女は、メリーに向き直る。
「はい、何か」
 居丈高というわけではないが、親しげでも、無論ない。物事を手順通りにこなしている風だった。蓮子、メリーという〈業務〉を。
「私、帰りません」
 場が、凍りつく。小町は口をあんぐりと開けている。蓮子も、意外に思ってメリーを見る。メリーは、他人との争いを嫌がる。意見がぶつかった時は、まるで論争自体なかったことにするかのように、話題を流してしまう。蓮子とはよく言い合いになるが、それはじゃれあいのようなもので、メリーにまったく精神的負担がかかっていないからだ。メリーは、他人と競い合うことを極度に嫌っている。そのメリーが、見るからに弁の立ちそうな相手に、堂々と言ってのけたのだ。
「なぜですか。理由を聞かせてもらいましょう」
「外に世界に帰りたくないからです。私はここにいたい」
「生きている人間が冥界にいること自体、とてもおかしなことですよ。矛盾です」
「だからといって、矛盾だらけの、おかしな世界に帰れって言うんですか」
 メリーは一歩も引く様子はない。
「そうですか、困りましたね」
 四季はため息をつく。
「こんなわがままを言われるとは思いませんでした。これは、あなたの指示ですか? 西行寺幽々子」
 四季は、座布団に正座している幽々子を見る。幽々子は、正座しているのに、くつろいだ雰囲気を出していた。同じ正座でも四季とここまで違うかと、蓮子は場違いにも感心した。
「私は何も言っていないわ。あら、言ったかしら。そうそう、もう少しメリーさんにはここにいてもらわないといけないのよ。だから引き留めてはいるわ」
「わかりました。あなたは、是非曲直庁からの指示を無視するということですね」
「なるわね」
 部屋に沈黙が降りる。蓮子は、幽々子と四季の間に、奇妙なねじれが生まれるのを見た。苛立った紫が、体のまわりに生じさせたものに似ていた。小町は唾を飲み込み、喉を鳴らす。メリーや小町には、もっと色々なものが見えているのかもしれない。
 沈黙は長かった。
 額に汗を浮かべた小町が、威圧感に耐えかねたように、四季に声をかける。
「四季さま、ぶっちゃけ、この状況だと私たちに分が悪……」
「西行寺幽々子、あなたのこれまでの功績を鑑みて、この場での処罰は保留します。三日間、猶予を与えます。考えを変えて二人を外へ送り返す気になったら、それでこの件は不問に処すとしましょう。明日になっても考えが変わらないようでしたら、こちらにも考えがあります。いいですね」
 幽々子は、にっこりと笑い、うなずいた。四季はため息をつき、蓮子の方を見る。
「あなたも、考えた方がいいですよ。その方が友人のためでもあるし、あなた自身のためでもある。肉体が悲鳴をあげていますよ、冥界に居続けるのは辛いはず。もう既に、体にひずみが現れているのでは?」
 蓮子は、自分の体の不調を思った。やはり、生きている人間が冥界にいると、ろくなことにならないのか、と思った。
 四季の後から、小町もついていく。
「じゃあね、宇佐見。今度はもっとゆっくりと話ができる時に会いたいね。体には気をつけな」
「あ……小野塚」
「小町、業務中に私語は慎むこと。速やかに自分の割り当てられた作業に集中しなさい」
 蓮子が話す前に、四季が割って入る。
「……はい」
たちまち二人の姿が消えた。辺りを見回す蓮子に、幽々子は無言で外を指差す。四季と小町は、夜空を歩いていた。
「そうか、距離を操れるんだった、あの子」
 ひとり納得し、蓮子は改めて室内に視線を戻す。幽々子は天ぷらと白ご飯を平らげて、きゅうりと大根の酢漬けに箸を伸ばしている。
「妖夢、おかわり。それと、お茶を持ってきて」
 それに応えるように、奥の襖が開く。刀の柄に手をかけた妖夢が、恨めしげな顔をして幽々子を睨んでいる。
「幽々子さま……後先考えなさすぎです。私の気苦労も考えてください」
 柄から手を離し、代わりに白飯一膳と天ぷらひと皿を差し出す。幽々子は素早い箸捌きでたちまちそれを口に放り込んでいく。口に放り込みながら、しゃべる。
「あら、閻魔さまはそんなことしないわ。私が勝つに決まっているから」
「幽々子さま、はしたないですよ」
 そう妖夢は言うが、実際は幽々子は食べ物を嚥下した後適切な速度でしゃべり、しゃべり終わると同時に食べ物を口に含み、素早く嚥下した後またしゃべるという動作をよどみなくしており、下品さはまったく感じられなかった。
「はしたなくないわ」
「まあそれとして、三日後には十王が総出できますよ。そうなったら、いくら幽々子さまでも無理です」
「ちょっと厳しいわねえ。まあ、紫が手伝ってくれるんならどうにかなるでしょうけど」
 そうして幽々子は、妖夢の差し出したお茶をすすりながら、蓮子とメリーを交互に見る。
「まあ、手伝わないでしょうね」
 溜息をつきながら、立ち上がる。
「ごちそうさま」
「あっ、幽々子さま、どちらへ」
「読書の時間よ。妖夢、後片付けよろしく」
 そう言うと、ふわりと去っていった。
「ああもう、後のことは何も考えないのだから」
 肩を落として、皿を片づけていく。食べ残しはひと皿たりともない。メリーは思い出したように料理に箸をつける。蓮子は、食欲がなかった。昼間、紫と話して、寝た辺りから、体はずっと重い。風呂に入ってもあまり変わらなかった。
 というより、冥界に来てから日に日に症状は重くなっているようだった。
「どうしたの蓮子、食べないの?」
「え、ああ、食べる、食べる」
 天ぷらや野菜は、一度手をつけると意外なほどに腹に入ったが、それでもいつものようには食が進まない。
「ねえメリー、さっきの閻魔さまの話だけど」
「私、帰らないよ」
 そう言って、メリーは天ぷらを咀嚼する。
「いや、そんなあっさり言われても。あのねメリー、帰らないとやばいのよ。あなた、儀式で自分が何をするか知っている? 幽々子さんはね」
 そこまで言って、蓮子はちらりと傍らに控える妖夢を見た。妖夢もメリーたちがここにいることに当初は反対していた。儀式についても同意見かもしれない。だが、紫が知っていることをどこまで妖夢が知っているか、蓮子には確かめようがない。まさか聞いてみるわけにもいかない。
 さらに、ここにきて蓮子は疑念に捉えられる。紫の言ったことが、果たしてどこまで真実なのか。
「幽々子さんが、どうしたっていうの」
 メリーは首をかしげる。
「いや……なんでも、ない。ううん、なんでもあるんだけど、ちょっと、まだ考えがまとまっていない」
 紫が言っていたことを、蓮子は自分なりにまとめてみた。
 儀式を行なえば、西行妖の下に眠る幽々子が復活する。だが肉体がないので、そのまま成仏するか、それともメリーに取り憑くか、だ。しかしメリーでは抑えきれない。もし抑えきれたとしても、今の幽々子と向き合った瞬間、よくはわからないがとんでもないことが冥界に起こる。もちろん、その時は蓮子もメリーも消し飛ばされているだろう。
「幽々子さんから説得しようとしても、無駄だと思うよ。幽々子さん、本気よ」
「本気って、何が」
「紫さんのこと」
「え? 幽々子さんの話をしているんじゃないの」
「そうじゃなくて……うーん、いいわ、なんか言っている私が照れてくる」
「なんなのよ」
「一生懸命な幽々子さんの邪魔をしたくないわ。協力してあげたいくらい」
 話が噛み合わない。歯車に、布切れが挟まっているような気分だった。

 障子の隙間から、かすかに月と星の光が漏れてくる。
 頭は澄み渡っている。夕方から夜にかけての疲れが嘘のようだった。
「一時五十八分」
 メリーに、はっきり話をしないといけない。紫の話をひとまずは信じることにする。
 場所もわからないメリーの部屋までどうやっていくか、具体的な方法は考えていない。
 布団から抜け出す。白の単衣だった。普段着に着替えた。蓮子は服装も自分の一部と思っている。精神や肉体の働きに大いに影響するものだと考えている。だからこういう、心身ともに緊張を強いるような時は、ブラウスにネクタイ、スカートといういつもの服装にしたかった。メリーに帽子を取られているので、不完全な装備ではあった。
 縁側に立つ。庭には月光が降りていた。それに応えるように、庭に敷き詰められた砂全体が、底の方から薄ぼんやりと発光していた。
 その瞬間、蓮子は自分の見る世界が一変したのを知った。
 何もかもが克明に見えた。庭に生えている草の一本一本、花の花弁一枚一枚がどのような形をして、一瞬ごとにどのように動いていくか、把握できた。木の葉が風にそよぐさまも、水面が揺れるさまも見えた。月光の粒子ひとつひとつに至るまで、見える気がした。
 蓮子は裸足のまま庭に出る。全身に月と星の光を浴びる。
 メリーの居場所がわかる。
 迷いはなかった。冥界の影響かもしれないし、メリーと同じく、能力が進化しているのかもしれなかった。単に、メリーが蓮子の帽子を持っていっており、その帽子の居場所がわかる、というだけの話かもしれない。
 まるで何度も答えをなぞった迷路のように、蓮子は白玉楼内を歩き回る。とうとうメリーの部屋の前まで来た。廊下の窓から月を見ると、ここまでに二十五分九秒かかったことがわかった。
「メリー」
 声をかける。中で、衣擦れの音がする。
「入るよ、メリー」
 襖を開ける。暗がりの中、白い単衣を着た少女が、上半身を起してこちらを見ている。蓮子は、桜の下で涙を流していた少女を思い起こす。
「どうしたの、蓮子。こんな遅くに。お腹の調子はもういいの?」
 それは、メリーだった。一瞬とはいえ、メリーと桜の少女を見間違えてしまったことに、蓮子は恐怖した。紫の言葉が、脳裏によみがえる。
  **
 このままだとメリーさん、幽々子に食われるわ。
  **
「あ、ごめん。もう寝てた?」
「寝てはないけど。よくここがわかったわね」
「まあね、私の目を甘く見ないこと」
 蓮子は部屋に入り、襖を閉じた。布団にもぐりこむ。
「ちょっと。急にどうしたの」
 蓮子は仰向けになる。上半身を起こしたままで、こちらを見下ろすメリーと視線を合わせる。
「ひとりで眠るのが、怖くなった」
「何それ。冗談にすらならないわ」
「今日は幽々子さんと何をしたの」
「またその質問? 蓮子に言ってもわからないわ。境界を見る時の細かいコツを教えてもらっただけよ」
「どんなコツ?」
「肩甲骨の力を抜くのとは、違うわね。だからやっぱり蓮子にはわからない」
「幽霊と境界なんて、ぞっとしない組み合わせだわ。程々にしておかないと、魂持っていかれるわよ」
「そんなに危なくはないわ。私たちが秘封倶楽部でいつもやっていることと一緒よ。結界暴き。今回はレクチャー役が本物の幽霊ってだけで」
「ふうん。メリーは、すぐ後先考えないで行動するから、心配だわ」
「あら、それはお互いさまよ」
 メリーは微笑み、蓮子の頭をなでる。
「それで? 蓮子。何を言いに来たの」
「帰ろう、メリー。ここは何だか、落ち着かない。閻魔さまの言う通りにしよう」
「住めば都よ」
「旅行ってのはそこにずっといないからおもしろいのよ。もう二週間も過ぎたわ。かえって、ゼミの宿題やって、またどこかおいしいもの食べに行こう」
「蓮子はそうやって、変わっていくのが好きなのね」
「だって退屈じゃない。メリーも、退屈は嫌いでしょう」
「嫌いよ。でもそれ以上に、変化は嫌い」
「また朝の話を蒸し返す?」
「やめようか、この話」
 メリーは蓮子の頭から手を離そうとする。蓮子はその手首をつかむ。
「どっちにしろ、結論は出さなきゃいけないのよ」
「蓮子は、帰りたいのね」
 噛みしめるようにメリーは言う。
「それは、私がここに残っても?」
「何言ってんの、あんたも一緒に帰るのよ」
「私が、どうしてもここに残るって言ったら?」
「そうしたら私も残る。でもその前に説得する。今、こうしているみたいに」
 その時だった。部屋に、蓮子のものでも、メリーのものでもない声がした。
「あら、珍しい。死霊たちがみんな、怖がっているわ」
 季節の変わり目に吹く春風のような、柔らかな声がする。
 蓮子とメリーは辺りを見回す。部屋の隅に、ぼんやりした、霧のようなものが浮かんでいる。声はそこから聞こえる。やがて霧が晴れていく。誰かが、いた。
 少女はゴザの上に正座して、お茶を啜っていた。傍らの皿には、きな粉をまぶした団子がある。まわりには、桜の花びらが散っている。そこは室内であって、もはや室内ではなかった。蓮子とメリーは固唾を飲んでその光景を見る。
「生き物が死霊を恐れることはあっても、死霊が生き物を恐れることなんて珍しいわ」
 少女は緊迫感のかけらもない表情で、団子に楊枝を差し、口に運ぶ。
 あの桜の下で眠っていた少女だと、二人ともすぐにわかった。
「あなたこそ、そんなに体中に死霊をまとわりつかせて。それも、こんなに和気藹々と。珍しい人間よね」
 隙間から何者かが顔を覗かせた。蝶型のリボンに、紫紺のドレス、華美な装飾に彩られた傘。八雲紫だった。
「みんな知っているもの。ご先祖様だったり、お隣さんだったり」
 紫は少女の隣に座り、団子をつまみ、口に放り込む。
「綺麗ね」
 二人はほとんど同時に見上げる。そこには桜の花が咲き誇っていた。
「ええ、綺麗だわ。満開になれば、きっと、もっと」
 霧が濃くなり、そこで二人の姿が消える。話し声も聞こえなくなる。
「何、今の……」
「蓮子、黙ってて」
 また、新たな声がする。誰かがすすり泣いている。
「許して」
 語尾に、消え入りそうな吐息が続く。
「私は、そんなつもりじゃなかったの。起きて、ねえ」
 霧が晴れる。少女は懸命に誰かを揺さぶっている。その顔はさっきよりも大人びていた。場所は室内になっている。時間も空間も、飛んでいる。
「これ、メリーの能力?」
 蓮子は小声で聞く。
「多分……だと思う。でも、こんなにはっきりと記憶の境界が開くなんて、初めてよ」
 メリーも、囁くようにして応える。
「何をそんなに悲しんでいるの」
 涙ぐんだ少女が顔をあげると、そこには隙間から現れた八雲紫がいる。蓮子とメリーは、突然現れたこの舞台を、黙って見守るしかなかった。
「紫、私はね、この人と楽しく話をしていたの。それで、用事があるからもう帰るって。遠方の人だから、次に会うのは五年後かも、十年後かも知れないわ。私は名残惜しかった。この人は、そんな悲しさなどちっとも見せないで、私と笑って食事を続けるの。もっとここにいて欲しい。私と話を続けて欲しい。ただ、そう願っただけなのに」
「願いどおりになって、よかったじゃないの。死霊と話すのは、得意でしょ」
「死霊と人は、違う」
「傍にいなくて寂しい思いをするよりも、多少強引でも手元に引きとめていた方が、結果的にいい場合だってあるわ」
「誰も殺そうなんて思ってない!」
 少女は悲憤の余り、声が裏返った。紫は悲しそうに眉をしかめる。
「乱れるあなたなんて、絵にならないわ。見てごらんなさい、その男の、安らかな顔を。きっとこれっぽっちの苦痛も味わわず、逝ったのよ。本来なら人間に必ず訪れる苦痛に満ちた死への過程を経ずに、ね。病に侵されるわけでも、人に傷つけられるわけでもなく、生を終えることができたのだから、あなたがそんなに嘆く必要はない」
「違う、紫、違う。あなたには想像できていない。この人が死ぬことで、まわりの近しい人が、どれだけ悲しむかを、想像できていない」
 紫は傘を閉じ、膝をつき、幽々子の肩を抱く。耳元に囁く。
「大丈夫、あなたは痛くない」
 震えてこわばる幽々子の指に手を伸ばし、指をからめる。
「あなたは悪くない」
 幽々子は目を閉じ、紫の言葉に聞き入る。
「あなたは、私とお話ししていればいいの。和菓子を食べながら。それだけでいいの。私は満足よ。あなたも」
「私は」
 紫の言葉を断ち切る。
「誰かが悲しんでいる声を聞きながら、笑うことなんてできない」
 紫の腕から離れる。危うい足取りで、庭の桜の木へ向かう。桜の花びらが、川のように渦巻いている。いったい何十本、何百本の桜が散ればこれだけの花びらの奔流になるのか、蓮子には想像もつかなかった。その花の洪水に少女は呑みこまれていく。
「待って!」
 紫は駆け出す。紫もまた、桜の奔流にのみ込まれた。荒れ狂う稲光のように、奔流は天を地を、駆け抜ける。紫は幽々子の姿を探し続ける。地面に激しく叩きつけられた。無力感に侵されながら、視界を桜色一色に染まる奔流に身を任せる。
 やがて、花びらの洪水は、地に呑まれた。
 庭は、静まり返った。すべての桜は散っていた。丸裸の枝には雪が乗っていた。
 また、時間が経過している。
 ひときわ大きな木の根元に、紫は跪く。そして、両手で根元を掘っていく。
「ゆゆ、こ、ゆゆ、こ、ゆゆ、こ」
 紫はうわごとをもらす。土は掘り返され、巨大な桜の根元が傾く。それでも紫は掘る。桜の太い根が何本も入り組んだ、まるで牢獄のような地中に、その手はあった。
 紫はその手を取る。引きずり出す。木は轟音を立てて倒れた。引きずり出された少女は、血の通わぬ、真っ白な肌をしていた。目は閉じられていた。紫はその目を、指でそっと開けた。
 その瞬間、風が吹いた。蝶が風に乗る。青紫に光る球体が乱れ飛ぶ。
 紫が、こちらを見る。少女も、こちらを見る。
 記憶と現実の境界が、曖昧になる。
少女の指先から、針のように細い光が生まれる。まっすぐメリーを目指す。
 蓮子がメリーの前に立つ。ごく当然のことをするように。気負わず、勇まず、メリーを庇う。
 光は蓮子を貫く。蓮子は悲鳴も上げずに倒れる。
「蓮子!」
 メリーは部屋中を見回し、境界を探した。何とかしてこれを消してしまわないといけなかった。今までにも境界を見たことはあっても、実際手に触れて干渉したことはほとんどなかった。やり方もわからない。とにかく必死でこの奇妙な扉を閉じてしまおうと思った。
 少女を抱えた、記憶の向こうの紫が、メリーを見る。
「手伝ってあげますわ」
 そう言って、紫が手を下ろすと、上下から境界線が落ち、記憶の光景を遮断した。すると、元の部屋に戻った。メリーはぐったりとなってその場にしゃがみこんだ。だが、すぐに倒れた蓮子の様子を見る。
 蓮子は気を失っていた。

   ***

 蓮子は、途切れ途切れの意識の中、いつもメリーを感じていた。
「蓮子、蓮子、起きて。ああ、私のせいで」
 揺り動かされる。だが、目が開かない。言葉が出ない。
「いったい、どうなさったんです」
 妖夢の声だ。
「私が、見てしまったの。そうしたら、そこから、来たの」
「あの、落ち着いてください、メリーさん。いったい何のことか……」
「現実と記憶の境界を曖昧にしたのね」
 メリーや妖夢の深刻な声とは対照的な、呑気な声がする。
「きっと西行妖も待っているのよ。封印を解いてくれるのを」
「幽々子さん。私、もう」
「どうしたの?」
「もう、やめます。蓮子がこんなになるんだったら」
「あら、記憶と現実を堂々巡りさせて、蓮子さんといつまでも一緒にいるんじゃなかったの」
 そんなことを考えていたのか。蓮子は思い出す。メリーが二人の写っている写真を見てため息をつき、こう呟いていたのを。
  **
 こんな風に私たちを閉じ込めたいわね。
  **
「けど、それは蓮子が目を開いて、私としゃべることができるからよ。だって、こんな、脈も動いていない、心臓も動いていない、息も」
 メリーの唇を、蓮子は自分の唇で感じる。
 不思議だった。感覚はあるのに、何も思い通りに動かない。もはや自分の体ではなくなったようだった。
「していない」
「大丈夫、生きているわ。西行妖に死に誘われたんでしょうけど、誘われ方が半端だったみたいね。魂は体に残っている。今、あなたの膝に頭を乗せていることも知っている。ただ、その意識を外に向けて出せないだけ」
「それじゃあ死んでいるのと変わらない!」
「あなたも、そうしてみる? ずっと一緒にいられる」
 幽々子の言葉に悪意は感じられない。メリーが息を呑む。唇を噛む。汗ばんだ手を握りしめる。蓮子は、メリーの動作ひとつひとつを、まるで自分がそうしたかのように感じた。
〈本当に、一緒にいられるなら。ねえ、蓮子〉
 メリーの思考までが、蓮子に流れ込んでくる。
「ふふ、冗談よ。そんな芸当、私にはできないわ。でも、このまま外に帰っても、蓮子さんがこのままなのは本当よ」
「あの子なら、できる?」
〈それはいけない〉
 蓮子は思考する。メリーに伝えようと。紫の話を伝えようと。
「私自身を境界にして、西行妖の下で眠る少女を、呼び起こすの。蓮子をこんなにしてしまったあの子なら、蓮子を元に戻せる?」
「できる、と思うわ」
〈いけない〉
 蓮子の声が届かないほど、メリーの心の動きは早かった。
「儀式をするわ」
「……ついていらっしゃい」
 幽々子は空に浮かぶ。メリーに手を差し伸べる。メリーは蓮子の黒帽子をかぶり、その手を取る。
「幽々子さま!」
「妖夢は、ついてこなくてもいいわ」
「たとえそう言われても、ついていきます」
 幽々子の冷たい手を取ると、メリーの体もごく当たり前のように浮かび上がる。
 蓮子は、自分もまた、メリーとともに浮き上がっているような気がした。
体は部屋で横になっているはずなのに。
 メリーと感覚を共有している。視覚だけでなく、触覚も。
 塀を越えると、桜の木が何本も植えられている庭に出た。どの桜も、青々と茂っていた。その中でも最も大きな桜の木の下に行く。
「見えるわね」
 メリーはうなずく。西行妖に無数に刻まれた傷……いや、境界を、見る。そこに指を差しこむ。
「すぐに起こしてあげるからね、蓮子」
〈待って、メリー!〉
「待ちなさい」
 暗闇に、響き渡る声。
 西行妖を中心として、赤と青の鱗状の弾幕が、幾重にも配置されている。職人が金細工を編むようにして、丹念に作り上げられた弾幕は、地上に妖しく輝く星のようだった。
「深弾幕結界・夢幻泡影」
 上空に裂け目が生じる。そこに紫が腰かけている。
「紫、邪魔するの」
「ええ幽々子、邪魔するわ」
「しかもこんなにムキになって。私はただ、知りたいだけなのに」
「過ぎた好奇心は身を滅ぼすわ。知らなくていいことは、知らなくていいのよ」
「本当に、ただの、ちょっとしたことなのに。あなたがこんなにムキになるから、私も、どうしても知りたくなる」
「何のことかわからないわ、幽々子。そこに、あなたが知るべきものは何もない。あなたにとって必要な記憶など、何も」
「必要かどうかは、私が決める」
「話が噛み合わないわね。私たちも、そこの人間二人のことを笑えないわ」
 そう言いながら、紫は笑っている。
 鱗弾幕が、動き出す。始めの数秒は、蛞蝓の歩みのようにじっくりと。
 何百、何千もの弾が、統一された意思のもと、にじり寄るさまは、圧巻だった。
そして第一陣が解き放たれる。
 流星のように無慈悲に襲いかかる。
「幽々子さま!」
 妖夢が腰の刀を抜き放つ。幽々子の周囲を車輪のように回り、弾幕を捌いていく。二刀流の斬撃は、びっしりと敷き詰められた弾幕を引き裂いていく。しかし次の瞬間には新たな弾幕が生成され、何事もなかったかのように押し寄せる。その間も、攻撃がやむことはない。
「うああああっっ!」
 人間には到底及ばない太刀さばきで鱗弾を弾き返していくが、量が多すぎた。一発目を食らうと、そのまま二発、三発と立て続けに食らい、倒れる。
 阻む者のなくなった鱗弾は、分厚い弾幕となって西行妖を、幽々子を呑みこもうとする。
「紫」
「なに?」
「呼んでみただけ」
 西行妖の周囲を、巨大な扇が四枚取り囲む。鱗弾幕は扇を突き破るが、そこで力尽きて消え去る。扇に破れた跡はない。扇が紫色に発光し、莫大な量の蝶弾と、大小の球体を吐き出す。鱗弾が消滅していく。
「幽々子さま……」
 妖夢は刀を杖にして、立ち上がる。
「妖夢、もういいわ、ありがとう。下がりなさい」
 いたわりと、無慈悲を、同時に与える。妖夢は、はっと目を開き、何かを言おうとしたが、言葉にならず、悲しげにうつむいた。
 弾幕結界は苛烈さを増していく。
「そんなもので、耐えきれるわけないでしょう」
 紫は苛立ちを抑えきれない。
 第二陣、第三陣、第四陣、弾幕結界は果てしがない。
 扇を突き破った鱗弾のひとつが、西行妖に突き刺さった。大きく揺らぐ。さらに枝に当たると、人間の胴体ほどもある枝が一瞬で吹き飛んだ。
 幽々子の腹に直撃する。幽々子は大きく揺らめいた。扇の色が一瞬薄くなる。だが、すぐに元に戻る。
「メリーさん、危ないから、伏せていて」
 幽々子の言葉に反して、メリーは突っ立っている。顔の横すれすれを、鱗弾がかすめていく。
「メリーさん!」
 初めて、幽々子が強い口調で叫んだのを、メリーは耳にした。
「大丈夫、幽々子さん。私、見えるから」
 メリーは左目を閉じていた。右目の色は、茶色がかった黒だった。
「その目、どうしたの」
「これは蓮子の目。場所がわかるの。絶対に当たらない場所が」
 今、蓮子は混乱した意識の中にあった。自分の思い通りに体を動かせると思ったら、また意識が遠ざかる。まるで他人の体と思っていたら、いつのまにか自分の体と何ひとつ変わらなくなっている。
 魂と体が切り離された時、傍にメリーがいたせいで、こんな風になってしまったのだろう。
 弾幕結界の勢いは激しさを増していた。もう何度目の波かわからない。幽々子の扇ではそのすべての勢いを殺しきることはできなかった。既に一枚は完全に破壊され、残り三枚も、激しい攻撃にさらされ今にも破れそうだった。幽々子自身も疲労の色が濃い。
 西行妖は見るも無残な状態になっていた。
「幽々子さん、見つけた。この境界だわ」
 メリーはそこに指を差しこみ、まるで襖を開けるように、両手で横に開いた。
「あ、見えた」
 そして、鱗弾が、メリーの体を背中から貫く。
〈メリー!〉
 蓮子は声にならない叫びをあげた。体の隅々まで悪寒が走る。そのままばらばらになってしまいそうだった。
 体から、メリーの力が抜けていく。力というよりは、もっと根源的なもの、魂とか、精神とかいったものに近い。その名づけようのないものが、ゆっくりと体から離れていくのを、蓮子は感じる。
 メリーがどこかへ行ってしまう。手を伸ばそうにも、今の蓮子の意識は肉体と連動していない。それに、伸ばした手は、おそらく何もつかめない。
 それでも、メリーをつかまえようと、蓮子は精一杯腕を伸ばす。
 呼び止めようと、叫ぶ。
〈メリイイイイイイィィィィーーーーッッッ!〉
 メリーの体は、その場に崩れ落ちた。その倒れ方は、飛ぶことを諦めた鳥が落下していくさまを思い起こさせた。絶望的に、力が抜けきっていた。
 扇の二枚目が破壊される。弾幕はますます厚くなる。海嘯のように押し寄せる。
 花びらが一枚、散る音がした。
 その音は、誰の耳にもはっきりと聞こえた。
「さあ、起きるわ」
 幽々子が悦びの声をあげる。
「ああ、起きてしまった」
 紫が嘆きの声をあげる。
 西行妖に、青い火が灯る。
「西行寺無余涅槃」
 何条ものレーザーが、弾幕の海を焼き切る。さらに放射状に蝶弾の弾幕が広がり、軌道を変え、残った鱗弾を蹂躙していく。
 扇は再び色を濃くし、西行妖の四方を囲い込む。
「蝶符・鳳蝶紋の死槍」
 扇から、巨大な槍を象った弾幕が発射される。紫が精緻に作り上げた弾幕は瞬く間に蹂躙された。もはや見る影もない。紫は四重結界を周囲に張る。槍のひとつが、そこを直撃した。一撃目は耐えた。だが、すぐに二撃目が来る。
 立て続けの死槍に、四重結界は耐えきれず、破壊された。
 破壊の余波で、紫も吹き飛ばされる。
 幽々子が二人いるようなものだ。どうしようもない。
 落下していくさなか、そう思った。
 頭から地面に落ちる。西行妖が遠目にようやく見える。どうやら外の庭にまで飛ばされたようだった。紫は自分の右耳を引きちぎり、右目をえぐり、指先で開いた小さな隙間にそれを落としこんだ。
 自分がいけば、またあの膨大な霊力の攻撃にさらされるだろう。かえってこれぐらいが目立たなくていい。
 それに、もう紫は幽々子を無傷で抑え込むことを諦めていた。
 もうなりふり構わない。多少幽々子の存在に歪みを与えてでも、そして幽々子以外の全存在を消し去ってでも、幽々子の崩壊を阻止する。
 もはや弾幕の形はとるまい。それは、幻想郷のあらゆる境界の仕組を根底から覆してしまうような行為となるだろう。
 紫の目と耳は、音もなく、西行妖に近づく。木の下に立つのは、幽々子ひとりだ。妖夢は、さっきまでの激しい弾幕の応酬で、前後不覚になって倒れていた。やはり彼女に幽々子を任せるわけにはいかない、荷が重すぎる、紫はそう思う。
 幽々子の他に、動く影があった。メリーだ。ゆらりと、立ち上がる。金髪に黒帽子、黒い右目と青い左目。その時点で、彼女は完全なメリーではなかった。
 そして今、まったく違う存在となっていた。
「あなた、ね」
 今まで狂騒にあった庭は、静まり返っていた。幽々子は、メリーでないメリーに歩み寄る。
 紫は〈次〉に備える。
 〈次〉とは、幽々子が、西行妖に眠る少女に、その正体を問うた、その次の瞬間だ。
 答えが出る前に、終わらせる。
「あなたに、聞きたいことがあるの」
 メリーでないその少女は、小首をかしげる。大人の言葉がわからない、赤子のような仕草だった。
「紫って、どんなひと?」
「ゆか……り」
 少女は、その名を口にする。
「あら、長い間地中に埋まっていたせいで、寝ぼけているのかしら」
 幽々子はくすくすと笑った。
 紫は震えていた。
 幽々子の問いは、己にではなく、紫に関するものだったのだ。
「紫ってどんな性格? どこから来た? どうやって生まれた? どんな顔して笑う? 怒る時は? 好きな食べ物は? 悲しんだ時、どうやって自分を慰める? ひとが悲しんだ時、どうやって慰める?」
「ゆ、か……り」
「もっと紫のことを知りたい。紫はあなたのことになると、態度がすぐに変わる。それだけ、紫にとってあなたが大事だってこと。うらやましいわ。妬ましいわ。だから、教えて欲しいの。紫はあなたにどんな振る舞いを見せたの? それをすべて教えて。そのためなら、私はなんでもするから」
 幽々子は少女の手を取る。
 紫の手から傘が落ちる。震えが激しい。ぶつぶつとうわごとのように呟く。
「なぜ、気づかない。あそこまで接近しているのに。なぜ、あれが、自分だと気づかない。それほどあなたは、思いに囚われているの。私を知りたい、という思いに。自分の過去など二の次にして……」
 結局、紫の過剰反応が原因だったのだ。
 幽々子はだからこそ、西行妖に興味を示した。自分に知りえない紫が、そこに眠っている気がしていた。
 紫は笑ったらいいのか、泣いたらいいのか、わからなかった。滑稽だった。幽々子は真実しか言っていなかった。
 ちょっと気になっただけ。
 ただ、もうちょっとだけ紫と仲良くなりたかった。
 それを閻魔や自分が大げさに取り上げて、勝手に騒ぎ立てた。
「教えない」
 少女はそう言った。はっきりとした口調だった。
「あなたは、もう紫を独占している。私にも、少しくらい、残させて。私はもう」
 夜空に浮かぶ紫の目と耳を、ちらりと見る。
「紫と新しい経験を、作れない」
 そして、優越と、寂しさと、嫉妬と、色々なものが混ざった微笑みを、浮かべる。
「私の紫は、私だけのもの。あなたなんかに、渡さないわ」
 境界が閉じる。
 それが紫には痛いほどわかる。今からでも遅くはない。閉じかけた境界を開いて、少女を抱きしめて、一言でも言葉を交わせたら、どんなにいいか。感謝でも、懺悔でもいい。言葉を伝え、そして彼女から言葉を聞けたら、どんなに救われるか。
 終わることのない鈍い痛みが、どれだけ和らぐか。
 だが、それはしてはならないことだと、紫は己に命じる。少女は、過去の紫を独占して、去った。少女は自らを殺し、紫は少女が死ぬ過程を止められなかった。止めなかった。
 そうして終わった関係だ。
 亡霊としてよみがえり、八雲紫という名以外、前世の記憶をすべて失った幽々子との、これまで築いてきた関係は、それとは別のものだ。
 千年続き、これから先千年も続いていく関係だ。
 死んだ幽々子、死んだあとの幽々子、双方に対する敬意と、心からの愛情だ。それを示すため、紫は、境界が閉じるのを、ただ黙って見ていた。表情は、仮面のように凍りついていた。
 メリーの体から再び力が抜ける。幽々子は抱きとめた。そのまま、白玉楼の本殿へ向かう。途中、宙で紫とすれ違う。幽々子は何か言葉を発そうとし、口を閉じた。紫は唇を動かし、そして何も言えなかった。二人が二人とも、何百、何千という言葉を呑み込んだ。視線を交わす。その目に、まだ自分が映っているかどうかを確認するため。
 相手が、まだ自分を信じてくれているか。その信に足るような自分であるか。

 蓮子は、自分の涙を感じる。メリーの体ではなく、自分の体から、涙を感じる。
「よかった」
 本当によかったのか、蓮子にはわからない。
 依然として二人の間に死んだ少女の影は差すだろう。
 それでも二人を祝福したかった。
「幸せに」

 指に、力が戻る。試しに動かしてみる。人差し指、中指と、意思と連動して動く。
「あ……」
 声を出す。ほとんど呻き声のようなものだが、それでも出た。
 蓮子は上半身を起こした。布団の上にいた。この二週間、寝泊りしてきた白玉楼の部屋に、戻っていた。
頭を押さえる。頭痛はしないが、変なしこりのようなものが、いまだに感じられる。さっきまで、メリーだけでなく、様々なひとの感情や思考が頭に流れ込んできた。どの感情がどのひとのものか、わからなくなるぐらい大量の想いが渦巻いていた。
 不快ではなかった。どのひとも、相手のことを心から想っていた。
 首を横にすると、見慣れた青いスカートが見える。蓮子は安堵のため息をついた。メリーが紫の弾幕結界に貫かれた時、何か取り返しのつかないものが、手からこぼれおちてしまった感覚がした。だが、メリーはここにいる。あの喪失感は思い過ごしだったのだと、自分に言い聞かせる。
「なんだかよくわからなかったけど、色々と大変だったね、メリー」
 メリーは蓮子の枕元で、正座して、目を閉じていた。
「眠っているの? まだ看病してくれたんだね。私が植物人間になるかどうか、怖がってた?」
 話しかける。メリーは余程疲れているのか、返事はない。かぶっている帽子は、いつもの帽子だった。蓮子の帽子はメリーの膝元にある。
「もう、あんたが横になりなさいよ。それで休んだら、帰ろう。帰って新作のケーキ食べよう」
 横にしてやろうと、肩と腕に手をかける。
 違和感に、蓮子は首をかしげる。
「なんだか、冷えてるね」
 額に手を当てる。
「冷たい、ね。陶磁器みたい」
 自分で言いながら、蓮子は背筋に悪寒が走るのを止められなかった。
 急激に、目の前の少女が返事をしないのが不安に感じられてくる。
「メリー、ちょっと起きなさい。いっぺん起きたら、そのあといくらでも寝ていいから、まず起きなさい」
 揺さぶる。メリーの首もそれにつられて揺れる。蓮子は震える人差指で、メリーの左瞼に触れた。瞼は抵抗なく開き、青い目が現れる。
「これじゃあ、まるで、人形……」
 箱庭が、完成した。
 瞬時に、蓮子の頭にそんな言葉がよぎる。
 こんな時、こんな場所で、蓮子の望む完全なメリーが姿を現してしまった。蓮子は美しさに息を呑む。たどりついてしまった。
「うあああああああ!!!」
 蓮子は叫んだ。体の奥底から、たまりにたまった何かが噴き出した。拳を握り締めて、畳を何度も叩いた。この世界すべてが壊れてしまえばいいと思って、拳を叩きつけた。だが、畳は無慈悲に蓮子の拳と、思いを、弾き返す。
「メリー、どこに行ったのよぉ」
 疲れ果てた蓮子は、涙声で呟いた。
「境界線上のどこかにいるわ」
 縁側の障子に、影が映る。そして、薄青い着物に身を包んだ、桜色の髪の少女が現れる。
「西行妖の能力をまがりなりにも宿したの、人の形のままで。そうしたらもう、境界そのものとなるより方法はない。魂は境界へ転げ落ちてしまった。砂浜に、針を落としたようなもの。山の頂から、麓へ石をひとつ投げたようなもの」
「何それ、何それ。聞いてないわ、そんなこと」
「ごめんなさい」
 蓮子は、その言葉に胸を突かれ、それ以上言い募ることができなかった。
「メリーさんは、私が見つけてあげる。恩人だもの」
「信じられない。幽霊や妖怪の言うことなんて。あんたたち、結局自分が一番かわいいんじゃないの。自分が探しているものさえ見つければ、他はどうなってもいいんでしょう。虫みたいなものでしょう」
 それは、自分もだ。
 言いながら、蓮子はそのことを痛いほど自覚していた。
 蓮子はメリーさえ戻れば何でもよかった。あの時、目の前の亡霊が、生前の亡霊と向き合って自我崩壊していようが、境界の妖怪が暴走して冥界を滅ぼしていようが、閻魔や死神がどうなっていようが、知ったことではなかった。
 ただ、メリーさえいれば。
「本当にそう思っている?」
 幽々子は言った。蓮子は心を見透かされたような気がして、狼狽する。
「もう少し私たちを信用してもいいと思う。別にあなたたちを虫のように思っているわけではないわ」
 幽々子は不満げな顔をしていた。
「虫も好きだけど。でも、私昔は人だったし」
 どうやら自分が思っていたことを見透かされたわけではないと、蓮子は安心する。しかし、幽々子の次の言葉は、そんな安心をたやすく吹き払ってしまう。
「あなたは涙を見せた。流れる音が聞こえたわ。私たちのために流した、綺麗な涙。本当に滅びてしまえばいいなんて、思いたくても思えないのよ、あなたは」
「なんの、こと」
「あなたはやさしいわ」
 幽々子は微笑んだ。それは、蓮子が幽々子に与えた祝福の涙の、返礼だった。
 肯定された幸福を噛みしめたかったが、今の蓮子にはそれより遥かに優先することがあった。
「違う、私が聞きたいのは、メリーがどこにいるかってこと」
「蓮子。メリーはそこにいるわ」
 蓮子は買い物をいくらねだっても与えられない子供のように、首を振った。
「探して、探してよ。のらりくらりと、雲をつかむようないつもの話はもういいから、メリーを探してよ」
「何十年、何百年かかるかも」
「それでもいいから。それまで私、ここにいるから」
 幽々子は首を振る。
「もう限界よ。これ以上冥界にいれば、あなたの体は冥界になじんでしまう」
「それがどうしたの。メリーがいないことに比べればそんなこと、何でもないことだわ」
「いけない。帰りなさい。そうして、あとは私たちに任せて」
「そんな、ひどい! そんな空約束、私が信じるわけないでしょう」
 蓮子の意に反して、体が浮かび上がる。メリーの抜け殻も浮かぶ。庭には、舟が用意されていた。櫂を持った小野塚小町が待っている。蓮子とメリーはそこに投げ出された。
 舟が宙に浮く。雲が川の形を作り、舟のための道となる。
「さあ、行くよ」
 小町が櫂をこぐと、たちまち白玉楼は遠ざかった。幽々子の姿などどこにも見当たらない。すべては、嘘のように、夢のように、過ぎ去っていった。
「悪いが、あまり着岸地点を把握できていないんでね、手荒なものになるよ。本当は、そっちのお嬢さんみたいな状態の人間を運んじゃいけないんだけどね。なにせマニュアルに書いてあることと全然要領が違ってしまうから、今回みたいな不安定な帰航になりやすいんだ。でもここで断ると、あの亡霊の姫君と隙間妖怪、何をするかわからないからねえ…… あ、でもあんたとまた会えて、ちょっと嬉しいよ。あんたとはまだ話し足りなかったしね。そんなに黙って、ふさぎこんでなければ、もっと嬉しかったんだけどね。死んだらあたいを指名しな。安くしとくよ。また何かあったら……」
 死神の言葉は、最後までは聞こえなかった。強烈な睡魔が襲ってきた。
 眠りに落ちる直前、メリーの右目がまだ閉じられたままなのが気になって、人差指で開けた。黒色だった。


  ***


 ひとつの名を呼び続けた。
 目覚めた時には、病院のベッドの上だった。
 口がからからに乾いている。
「大丈夫かい、だいぶ、うなされていたようだ」
 医者は言った。ごつごつとした手で、蓮子の額に手を置く。
「とても、辛そうだった」
 頭をなでられる。医者から触れられると体の痛みが消えていくのを、蓮子は経験で知っている。彼女は、黙って医者になでられるままにしておいた。
「君のお友達は、少し具合が悪いようだ」
 医者は言った。その言い方から蓮子には想像がついた。あのままだ。
「人があまりいないところで、療養する必要があるだろう。君もしばらくは顔を合わせない方がいい。だが、無事でいる。命に別条はない。安心して眠りなさい」
 蓮子はうなずいた。
「鏡を……」
 自分の声はかすれていて、まるで病人のようだった。医者が手鏡を持ってくる。そこに移る蓮子の右目は、青色だった。
 蓮子は満足して、目を閉じた。これで大丈夫だ。たとえメリーが地の果てに監禁されたとしても、夜さえ来れば必ず場所を突き止められる。


   ***


 歩くたびにねっとりとした風が腕や足にまといつく。蓮子は、帽子のつばを親指の先で軽く押し上げ、だだっ広い荒野の中、一直線に続くアスファルトの道路を眺めた。道路には陽炎が揺らめいている。真上から降りかかる日の光は容赦ない。
 汗が顎の先から滴り落ちる。蓮子は息を吐き、吸い、そして、止めていた足を動かす。腕に力を込めて、車椅子を押す。
 きぃ、とかすかに金属の軋む音がする。同時にメリーの頭が揺れ、金髪が蓮子の指をなでる。
「暑っっっっついわねえ」
 呼吸するだけで喉が焼けるようだ。病院は人里離れたところにあり、一番近くのコンビニまでも、車で一時間はかかる。ぐねぐねとした山道を三十分、畑を貫いて作った道路を三十分で、計一時間。
 病院からメリーを無許可で連れ出し、無事、山道を何の事故もなく踏破した。一時間かかった。車の二倍かかった計算だ。もちろんそれは、車で山道を上り下りするのに相当な時間がかかるために、二倍で済んだのだった。
 一直線の道路で、車で三十分かかるというのは、相当な距離だ。蓮子はその道を、炎天下、車椅子を押して、歩いていた。メリーは蓮子の呼びかけに一切反応をしない。汗もかいているようだが、蓮子に比べれば微々たるものだ。ひょっとすると、蓮子がメリーを担ぎあげたり、覆いかぶさったりしている時に蓮子の汗がついただけかもしれない。それぐらい、メリーは汗をかいていなかった。
 虫がメリーのまつ毛の先にとまった。メリーは無反応だった。蓮子は、背筋を這い上ってくる恐怖感に打ち克とうとして、道路を踏む足に力を込めた。
 気の遠くなるほど右足と左足を交互に前に踏み出し、ようやく、道路の右側にコンビニを見出した。途中、何度か車とすれ違ったり、追い抜かれたりした。車椅子の少女とそれを押す少女に興味を示したのか、スピードを緩める者はいたが、停まる者はいなかった。
 コンビニに入ると、冷房の風が心地よく全身を包み込む。
「生き返るわ。ねえ、メリー」
 蓮子はメリーの帽子に手を置く。メリーの頭は、熱くもなければ、冷たくもなかった。蓮子の頭が燃え立つように熱いのとは対照的に。
「メリー、あんた、どうしちゃったの。本当に、向こうに魂を置いてきたの? 私、あんたから、なんのお別れの言葉も聞いてないよ」
 メリーは答えない。客の品物をレジで通している店員の声がする。小さいが、ゆっくりとした落ち着きのある声だった。蓮子は眠くなってきた。このまま膝をついて、メリーの膝に頭を乗せて、眠ってしまえたらいい、と思った。ここは冷房も効いている。快適だ。そうして今の現実を忘れてしまいたかった。

 アイスとジュースを買って、コンビニを出た。
 アイスはすぐに溶け、ジュースはたちまちぬるくなった。蓮子はメリーの口にペットボトルをあてて、注ぎ込もうとしたが、注ぎ込む端からこぼしていった。
「メリー、あんたよく喉渇かないわね。私はもうカラッカラよ。さっき飲んだばかりなのに。これはあんたの分なんだから、ちゃんと飲みなさいよ。でないと、私が飲むよ」
 アイスの袋を破り、棒をつかんで、メリーの口に押し込む。
「ほら、アイスも。あんたの好きな、シンプルなバニラのアイス」
 ジュースと同じように、アイスは徒にメリーの口のまわりを汚していくばかりだった。蓮子はそれでもアイスを差し出し続けた。諦めきれなかったわけではない。とうに諦めていた。体を動かすのがあまりにも億劫だから、その体勢から動けなかった。
 メリーの舌が唇の隙間から這い出て、溶けたアイスをすくい、また戻っていく。
「メリー」
 蓮子はその戻っていく舌を、唇で捉えた。口のまわりのアイスも一緒に啜る。
 既にメリーの舌は力がなく、蓮子の舌の動きにまったく応えようとしなかった。メリーの舌が動いたのは、今の一瞬だけだった。蓮子が見た幻覚かもしれなかった。蓮子はメリーの唾液とアイスと自分の唾液をすすり続けた。
 立ちくらみがした。道路に膝をつく。
 強烈な疲労感と眠気に襲われる。夢と現の間を行き来した。立ち上がれないくらい疲れていたが、照りつける真夏の太陽の下で眠れるはずがなかった。長く、苦しい時を過ごした。
 朦朧とした意識の中、気づくと、世界は光を大量に失っていた。コンビニの灯りは煌々と輝いていたが、他は、黒に染まっていた。
 夜が降りてきた。
「ああ!」
 蓮子は、祈るような気持ちで、感謝をこめて、叫んだ。冷えたアスファルトの道路が蓮子の体から、高すぎた体温を奪ってくれた。苦しみに満ちた眠りは夜を境に安らかとなった。体内に重くよどんでいた疲労が癒えていく。
 蓮子は立ち上がる。夜は彼女に気力を充溢させてくれた。車椅子のハンドルを握る。
「行こう、メリー」
 どこへ?
「夜へ」
 どこへ?
「彼岸と此岸の隙間に、落ちてしまった、あなたのもとへ」
 どこへ?
「この道を歩き続ければ、ほら、また、いつかのバスみたいに、ここではないどこかからの使者がやってくる。私はそれに乗ればいい。乗った先に、あなたがいるから」
 どこへ?
「さあ、どこへでも。あなたがいるところへ」
「ここへ」
「ここへ」
 二人の声が、夜に重なった。





     *****





 石段が、山の中をうねりながら続いている。途中、幾つにも道は分かれていた。何千もの鳥居が石段を囲んでいる。巨大な虫が石段を覆い尽くしているようにも見えた。蓮子は、気づいた時には神社の前にいた。その神社も、入口に鳥居が三つあり、敷地内にも、矢倉のように無数の鳥居が重ねられていた。
「ああ、よく寝た」
 蓮子はひとり、呟く。
「まったく、どこもかしこも鳥居ばかりね。こんなにたくさん境界を作ったら、出ては入って、入っては出て、安住できる暇もないでしょうに。ねえ……」
 まだ少し眠い。体を動かして、眠気を覚まそうと思った。
 神社から出て、石段を上っていく。朱塗りの鳥居がどこまでも続いていくさまは、合わせ鏡が作り出す無限の回廊に似ていた。太陽は真上から下界を照らす。
 石段は、鬱蒼と緑が茂る林の中を縫っていく。太陽の光は遮られ、たちまち辺りは薄暗くなった。ぽつぽつと雫が落ち、蓮子の帽子や肩や髪の先を濡らす。外は晴れ渡っているが、幾重にも木が重なっているため、木の葉に乗った水が乾ききらず、小雨のように雫が降り続けているのだ。
「何かで、読んだ記憶があるわね。どれだけ晴れても、雨の止まない山道。お坊さんが旅をしていたわ」
 石段は途中でいくつも分岐していた。小さな社だったり、下り道だったりした。上を目指すだけで、寄り道をするつもりはなかった。だが、どうしても立ち止まらなければならないものを目にした。
 大木がそびえていた。神社だらけの山の中、突然現れた木は目立った。見覚えがあった。
 蓮子は石段を脇にそれ、木のもとへ行く。ちょうど横になるのにふさわしい窪みがあったので、そこに横になった。木の根はひやりとして、気持ち良かった。蓮子はうつらうつらとしてきた。
 足音が、耳元でする。誰かが枕元に立っている。
「蓮子。蓮子」
 蓮子はつい、知っている物語を頭に思い浮かべた。
「呼ぶ声が聞こえる。円位、円位、と」
「そうそう。それから、西行法師は崇徳院の亡霊と会うのよね」
 蓮子は、目を開けた。そして、ゆっくりと見上げる。それが幻のように消え去りはしまいかという怖れが、先に立った。
「それから、どうするんだったっけ。話して、蓮子。それから。それからを」
 メリーは蓮子に手を伸ばす。蓮子はその手を取り、強く引き寄せた。メリーは逆らわず、蓮子の胸に飛び込んでくる。
「メリー」
 蓮子は力の限り、メリーを抱きしめる。
「蓮子。ちょっと、苦しい」
「メリー。うん。メリーだ。メリーの匂いだ」
「蓮子。ねえ、息が苦しい。離してよ」
 そう言いながらも、メリーは逆らうそぶりを見せなかった。
 二人は木の根の上でしばらくそうしていた。
 空は橙色になっていた。
「あら、もう夕方? さっき昼だったのに」
 仰向けになって空を眺めながら、蓮子は言う。
「そんなものよ。時が流れるのは早いわ」
 隣で、同じように仰向けになっているメリーが答える。
「ねえメリー、ここはどこなの」
「境界線上」
「なんの」
「さあ」
「なにそれ。誰からも何も聞いてないの」
「儀式の後、私は何もないところで漂っていた。外の世界で私の体がどうなっているか、よくわからなかった。多分蓮子っぽいのが、まわりをうろうろしているのはなんとなくわかったけど」
「あんたねえ……私がどれだけ苦労して病院から運び出したか、知らないのね」
「病院から連れ出したの? 病人は病院に安静にさせてなきゃ駄目じゃない」
「いや、それはそうなんだけど。いてもたってもいられなくて。まあ、それはいいじゃない」
「そうね、どうでもいいことね」
「そう流されると、逆に苛々するなあ」
「どっちよ。でもあなたが傍にいるのはわかってた。たとえ目も見えず耳も聞こえず、触れることすらできなくても、あなたが傍にいるのだけは確信していた。そうしているとね、夜になったの。声が聞こえてきたわ」
「幽々子さん?」
「うん、それか、紫さんだったと思う。やっと見つけた。って言われた。魂の匂いはすぐには落ちないものね、って。それから、これは時間がかかるわ、とも言われた」
「ああ、本当に探しててくれたんだ。今度会ったらお礼を言わなくちゃ」
「次いつ会うかわからないけれどね。お迎えが来た時かしら。それで、長い道が一直線に連なっていてね、そこで蓮子の姿が、私と重なったの。私も長い道を歩いていたわ。そうして、山が近づいて来たの。山の石段を登り続けたわ。白玉楼と違って、狭く、歪で、曲がりくねった石段をね。神社ばかりの中に、この墨染桜があるのを見つけたの。そうしたら、あなたが石の上で寝ているじゃない」
「ここは結局、何なのかしらね」
「だから、境界線上だって」
「それじゃ何もわからないのと同じよ。まあ、あなたがいるから別にいいんだけど。問題は解決したんだけど」
「してないわ。外の世界に戻るんでしょう」
「あれ、メリー、あんた、戻りたくないって言ってたじゃない」
「蓮子は戻りたいんでしょう? だったら私も戻る」
「戻りたいっていうか、まあ、ずっとあの生活のままでも退屈かなあって、思っただけよ。外の世界にいた方が幸せだとか、楽しそうだとか、そうあるべきだとか、思っているわけじゃない」
「そうね。ま、どっちみちあのままいたら、蓮子、冥界の空気にあてられてたみたいだから」
「私は……あの妖怪からすれば、ずっと小さな存在だからかもしれないけど、信じられないの」
「何、いきなり」
「ずっとそのまま、ということが。あ、メリー、話についてこれてる?」
「ううん。でも続けて、蓮子」
「物事がそのままであり続けるって、ありえないことだと思うの。あの妖怪たちにはそういう常識が通じないかもしれないけど、私は、どこかで無理をしていると思うの。それか、うまくごまかして、実際は変化しているのに変化していないように見せかけているだけかもしれない」
「ふうん、よくわからないけど」
「永遠というのは、言葉遊びよ。だったら、変化の道筋は自分で決めたい」
「勇ましいわねえ」
「まあ、正直途方に暮れちゃってるけどね。ここがなんの境界線上だかもわからないなら、あんたの結界を見る目も機能してないってことよね」
「そうじゃないわ。見えるのよ。たくさん、たくさん。数えきれないぐらいね。そのどこが、外の世界かがわからないってだけで」
「駄目じゃない」
「よく見ればわかるわ。ついてきて」
 メリーは起き上がり、木から離れていく。蓮子もそれに続く。二人は石段を登る。長時間登っているはずだが、蓮子は餓えも疲れも感じなかった。
 ずいぶん長いこと歩いた。日が暮れ、夜が更け、朝日が昇った。二人は山の頂上に着いた。そこは頂上とは名ばかりの、小さな祠がぽつんとあるだけの、狭苦しい空間だった。祠の前に、小さな鳥居があった。山中には至るところに鳥居があったが、頂上にはこれひとつだった。
「空を見て」
 青白い空がある。
「何が見える、蓮子」
「何も」
「私の目で見て」
 言われた通りにすると、無数の長方形が空に出現した。窓や扉を連想させる形だった。
「あのすべてが境界。あのどれかが、私たちの知っている外へつながっているわ」
「どれかって、どれ」
「よく見るとわかるわ。あの向こう側にはそれぞれ別の景色が広がっているから」
 二人は背中合わせになって、ひとつひとつ、見ていく。
「あ。あった」
 蓮子は声を上げた。見慣れたカフェの看板が目に映った。
「どれ、どの境界」
「あれ」
「どれよ」
「えーっと、右から四十八番目、上から七十六番目」
「どこから数えて右でどこから数えて上よ。だいたい背中合わせなんだから、どっちから見てどうなのかちゃんと言わないとわからないわ」
「それもそうね。でも、私が見えているってことはメリーも見えているでしょう。砂漠と、赤い宝石の海があるよね。あの一帯、目立っているからわかるでしょう。その周辺に、岩石ばかりの世界があるでしょう。そのすぐ隣」
「あ……あーあー、見えた、見えた」
「あったでしょう。で、あの扉までどうやっていくの? 私たちは飛べないわ」
「降りてくるまで待つの」
「どうやって」
 蓮子の質問に、メリーは目線を空から外し、祠に移す。祠の上に、境界が積み重なっている。そのまま視線を上へ向けていくと、上空の境界の列まで続いているのがわかった。
 メリーは蓮子の手を引き、鳥居の方から祠を覗く。すると、どことも知れぬ、赤茶けた、穴ぼこだらけの大地が広がっていた。さらに鳥居を迂回して、祠の内部にある鏡を指差す。そこには、鳥居越しに見た赤い景色が映っている。
「ここ何日か見ていたんだけれど、だいたい二日か三日ぐらいで新しい境界と入れ替わっているわ」
「空にあるあの境界も、いつか降りてくるってことか。順番とかあるのかな」
「さあね。でも、相当なものよ」
「何が」
「この、量」
 祠の上に、薄いガラス板のように積み上がっている境界を見て、メリーはため息をつく。
「一年とか二年じゃ、きかないわよ、これ」
「三日で一枚として、一年で百二十枚。一枚で五ミリくらい……かな。全部で何千枚あるんだろ」
 蓮子は親指と中指をめいっぱい広げて、積み上がった境界を計ってみる。
「これじゃあ、外の世界の境界が来る前に私たちが老衰するわよ」
「そうね。どうしましょう」
「まあ、考えていても仕方ないか。そういえばメリー、さっき何か私に言おうとしてなかった?」
「何かって……ああ、蓮子が西行法師の話をしていたから、続きを聞きたくて。雨月物語でしょ? 『雨は晴れて月は朦朧の夜、窓下に編成して、以て梓氏に与う』」
「そうそう。あれの一番目の話、白峰よね。あれってどういう話だったっけ。前に読んだけど忘れちゃった」
「西行法師が崇徳院の亡霊に会うの」
「それはさっき聞いた。その前からよ」
「話を聞きたいのは私なんだけど」
「出だしでもどこでもいいから、話してよ。そうしたら私も思い出すから」
「確か、亡霊が鴉を召喚して、政敵を殺すように言うのよ。何をもたもたしているんだ、っていう感じでね」
「鴉だっけ?」
「天狗だったかも。とにかく、何かの鳥よ。どう、蓮子。思い出した?」
「ええ、おかげさまでね。最初は名所旧跡巡りから始まるのよ。それで、山道に入るの」
 蓮子は、時々原文を交えつつ、物語を追っていく。原文の引用は所々間違えた。メリーが修正を試みたが、たいていその時点でさらに原文から離れてしまう。話には創作が混じり出し、とにもかくにも白峰の話を語り終える頃には、太陽が真上に達していた。
「とまあ、こんなところよ。色々はしょったけど、朝だと思ったらもう昼ね」
「この調子で話していったら、一か月くらいすぐに経ちそう。蓮子、もっと続きを話して。次は、なんだっけ、二番目」
「菊花の契り」
「じゃあそれ」
 今度は、前よりもさらに時間をかけて話した。ひとつの場面を細かく話し、脱線を繰り返した。話し終わった頃には、日が暮れていた。
 その調子で、蓮子は雨月物語をすべて語り終えた。あとになればなるほど話は膨張していき、気がつけばひと月が経っていた。この頃には、蓮子もメリーも理解していた。
「わかったわ、メリー」
「私もよ、蓮子」
「ここでは、餓えない」
「ええ」
「ここでは、疲れない」
「肌も全然荒れていないわ。私たち、天人になっちゃったのかもね。天人は腋の下に汗をかかないらしいから」
「新陳代謝が止まっているのかしら。まあ、そんなことはどうでもいいわ。要するに、私たちはここでずっと待っていればいいわけよ。こうして話でもしながら」
「でも、ネタがすぐに尽きそう」
「ネタなんていくらでもあるわよ。メリー、あんたが好きな話があったでしょう。ほら、インディアンが全員いなくなるやつ」
「ああ、オーエン氏」
「終わったら、次は私が、時を止める吸血鬼の話をするから。そのあとはあんたが、この前レポートに出してた筒粥神事のことでも話してよ。実演してもいいわ」
「火はどうやって起こすの。そもそも、あれはひとりじゃできないわ」
「想像力で何とかするわよ。昔、野球で透明ランナーってやらなかった? それが終わったら、私が緑眼の怪物の劇をするわ。登場人物全員を私が演じるから」
「セリフ覚えてるの?」
「『尼寺へ行け!』」
「……それ同じシェイクスピアでも作品違うから。墓を掘る方じゃなくて、ハンカチ落とす方よ」
「細かいことは気にしない。ネタが尽きたらこれをもう一回始めから繰り返すのよ。きっと始めに話したことなんて忘れているから退屈しないわ。あんたの話を私が、私の話をあんたがしてもいい。そのうち、話と話が混ざりあって、まったく別の話が生まれる。十年でも百年でも、千年でもあっという間よ」
 そう言うと、蓮子は横になった。
「じゃあ、おやすみ」
「いきなりサボり?」
「まずは鋭気を養わないとね」
「ずっと眠っていられたら楽なんだけど」
「体が痛くなりそう。それに、祠の境界を見過ごしてしまうかもしれないでしょう」
「そうねえ」
 二人は眠り、真夜中に目覚め、朝までメリーが話し、日暮れまで蓮子が話し、また眠り、真夜中に目覚め、メリーが語り、蓮子が語り、また眠り、目覚めた。
 語って語って語って語って。
 眠って眠って眠って。
 時の流れは始めゆったりとしていたが、次第に早さを増し、ついには捉えきれないほどに加速し始めた。気づけばもう何年も立っていた。鳥居に刻んだ、月日の経過を示す線は、とうに数えきれなくなっていた。
 二人の少女は時に夜を徹して語り続けた。そんな時、二人は、どこまでが自分が話していて、どこまでが相手が話しているのか、わからなくなる。体だけでなく、心も、声も、同じところから発しているように感じる。
「おはよう。今日は何の話をしましょうか」
 片方が言う。
「おはよう。今日はどんな話をしてくれるの」
 片方が応える。
 硝子のように積まれた境界は絶えず入れ替わっていた。しかし、二人の間では世界は完全に動きを止めているかのようだった。繰り返し、繰り返し、同じ時を、繰り返し、繰り返し、違う話をして過ごしていった。
後編です。
やっぱりこういうのは、ズバッと通しで投稿したいものですね。
次回からはなるべく前後編はナシでいきます。
自分の中で、蓮子とメリー、幽々子と紫はこんな関係です。
野田文七
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コメント



0.1620簡易評価
3.100名前が無い程度の能力削除
後編が想像以上に大胆な構成で度肝を抜かれました。人によっては中途半端と言われそうなラストですが、
この夜に浮かぶような感覚になる締め方がなんとも堪りません。
4.80からなくらな削除
前篇の内容をすっかり忘れてしまっていたので、読み返してきました。
絡めにくい秘封倶楽部の二人を、とても良く活かせていたと思います。
次回作も期待
5.90名前が無い程度の能力削除
過去話なのに妖忌が出てこないあたり珍しい
6.90名前が無い程度の能力削除
長編なのにたるみなく、心地よい緊張感で最後まで読ませていただき感謝の極み。
キャラクターも崩れておらず、秘封の二人らしくてよかったです。
〆は、文脈から結末が見えなくとも今までの物語の中で答えが出ているので
予想できない不安に悩まされることなく静かに見守ることができます。
使い古された幽々子と紫の話が軸になっていますが、新しい視点をいただいたので新鮮な感じがしました。
7.90名前が無い程度の能力削除
結局、形は違えど最後はメリーの願った通りになりましたね。
13.100名前が無い程度の能力削除
秘封倶楽部のお互いへの一途さが切なかった。


蓮子が死ねば自分も死ぬと言い切るメリーに
境界にのまれて意識のないメリーに唇を寄せる蓮子

なので、最後に二人の世界に辿り着けて切ないながらも安心しました。
これで離れ離れにならずに済む。
14.無評価野田文七削除
コメントどうもです。

>3さん
蓮子とメリーが外に帰ってくるところまで書きはしたんですが
考えた結果、今のラストシーンでとめることにしました。
ラストシーンをもうひとつ前、
蓮子がメリーの車椅子を押すシーンでカットすることも考えたんですが
なんか悲しすぎるのでそれもやめました。
あなたが感じた感覚は、私が書いている時に感じたものと
近しいような気もします。まあ、こればっかは最終的には他人のことなんでわかりませんが……

>からなくらなさん
お手数おかけしました、二十日も間あけりゃ、そりゃ誰だって忘れますorz
文は私はあまり見なかったなあ……  髭面のマッチョな霊夢なら忘れもしませんが
ああいう祭りでは恥ずかしがったら負けですね。
もっと積極的に話しかけて、写メでばんばん撮ってくればよかったと、軽く後悔中です。

>5さん
幽々子の過去がらみで、直接には原作に出てこない妖忌を出すのは
紫=メリー説同様、私にとってかなり違和感があるのです。
妖忌が出演する話や、紫=メリー説に基づいた話に、素晴らしいものがあるのは承知の上です。
書き手(私)の好みの問題ですね。

>6さん
はじめから終りまで皆が筋書きを知っている物語を
その大枠を生かしたまま、いかに自分独自の解釈を入れ込むか、
というのもまた楽しい物語り方ですね。
先日メロンからきた宮本龍一、水たたき、桜庭友紀各氏の紫&幽々子の話を
味読しましたが、それぞれ独自の作風で紫&幽々子が描かれていて、よかったです。
彼ら、そして神主への感謝の気持ちでいっぱいです。
その感謝の連鎖を少しでもあなたに伝えることができたのなら、望外の喜びです。

>7さん
このまま二人が外に戻らず、この鳥居だらけの山で永遠に過ごし続ける……
という可能性も、考えたんですよ。それがメリーにとって最上の幸せではないだろうかと。
そうなると二人が出会った外の現実てのはどんな価値を持つんだ? と。
二人が過ごす現実というのも、それはそれで価値があるはずで
それを一概に否定するのもなんか違う気がする……と
考えていくときりがないです。

>13さん
ここだけの話、秘封倶楽部大好きなんですよ。
湿った風の吹く、深夜の道路を運転しながら
少女秘封倶楽部とか聴いてると、多幸感でマジトリップしそうになるんですよ。
二人は恋人です。
好き合ってます。
異論ないです。
15.80名前が無い程度の能力削除
本編もよかったですが、返信コメントで気になったことが
>紫=メリー説同様
紫=メリー説と違い、紫と妖忌は公式で生前の幽々子と面識があるとされてます
って、妖々夢のキャラ設定見てれば知ってるか
こりゃまた失礼しました~
16.無評価野田文七削除
>15さん
今キャラ設定読み直してきました。
あ、ほんとだ(おい
設定の類は繰り返し読んできたつもりですが
どうも読み漏れがまだまだありそうです。
知ったつもりになって慢心してると、いけませんな(自戒
教えてくださってありがとうございます。
17.90名前が無い程度の能力削除
前編で保留50入れた者です。
いやーもう、圧倒されました。一体どうなるのか、と気になってぐいぐいと先を急ぐように読みふけってました。
人によってはせつなくて、人によっては大団円で。解釈や感じた方がここまで嫌味なく純粋に突きつけられたのも個人的によかったです。
19.無評価野田文七削除
>17さん
おお、フェアですね。
あの時は途中でかなりモチベーションが落ちていたので
「よし、投稿してコメントもらって、モチベーションの再構築だ!」
というチキンな発想で前編のみ上梓しました。

その40点分が、あなたが楽しんでくれた(読みふけってくれた)証ならば、嬉しい限りです。
21.80名前が無い程度の能力削除
これは良い話
文体も読みやすく、ラストも息詰まる感じはなく
むしろ未来に期待できるようでよかったです
個人的にはあんまりメジャーでない二人に焦点を当てた話を書いてもらえてうれしかったり
23.100名前が無い程度の能力削除
秘封の2人っていい関係ですよねえ。
出方が少ないから情報があまりないキャラクターユニットですが、
だからこそこういう奥深い憶測もできるわけで。想像が広がります。
24.無評価野田文七削除
>21、23さん
読んでくれてありがとうございます。
それにしても、秘封ってそんなにマイナーなんですか?
確かに人気投票でもキャラ、曲ともに思っていたよりずっと下位だったです。
神主オリジナルCDの看板娘で、しかもCD内テキストの量自体は、他キャラの会話より多いのに……
まだまだこの二人は書き足りないですね。もっと魅力を引き出せるはず。
26.100名前が無い程度の能力削除
胸が締め付けられた  メリーも蓮子もずっといられる安心が欲しくて欲しくて仕方なくて、どうすれば手に入るか考えた道筋が違って、
最後には二人の方法、考えが溶けて混ざって行ったような…たまらなく好きだなぁ…
世の中側からみるとだめなんだろうだけど、究極の大団円だと思う

二人は帰るのか、ずっと此処にいるのか、多分どっちもやるんじゃないかなと思います
ぜったいに離れはしないけれど
29.無評価野田文七削除
ありがとうございます。
自分としては蓮メリの結論はこれです。
今のところは。
まだまだ書いていくんで、どうなるかまだわからんです。
31.100名前が無い程度の能力削除
言いたいことは殆ど他の方がコメントで語っているから多くは言わないけれど、
素晴らしかった。
あなたの作品が大好きです。
32.無評価野田文七削除
ほんとそういうこと言ってもらえると、書いててよかった、これからも書こうって思います。
まあ、感謝の言葉に毎度毎度お礼の言葉で返すのも野暮ですから、作品でお返しします。

とりあえず今はゆかりんの波と粒の境界が撮れません……あっというまに700枚。こりゃ四ケタいくな。
これを撮ればあとはギルティと金閣寺という二大鬼畜弾幕が、コンプリートの壁として立ちはだかっています。
35.100名前が無い程度の能力削除
こんなに素敵な作品を見逃していたのか……
野田文七さんの作品ではこれが(今のところ)一番好きです
38.100名前が無い程度の能力削除
野田さんの文章が大好きです。
この作品に登場するキャラ全てが自分の理想
に近い描写でした。
特に秘封組は、これが公式でも違和感がないくらいです。
掴みどころのない幽々子、底知れない不気味さを感じさせる紫、
どれも素晴らしかったです。
個人的に、こまっちゃんと映姫のやりとりがツボでした。
39.無評価野田文七削除
ありがとうございます。
こうして声を時々かけていただけると、じぃんと染み入ります。
ぼ~ちぼちエンジンが温まってきたので、久々に書こうと思います。

この半年間、緋想天と夢幻をやりまくってただけで、
別に東方から遠ざかってたわけじゃないんですよっ!
42.90名前が無い程度の能力削除
なぜかバターになったトラを二匹想起した。
43.無評価野田文七削除
>>42
おや、ひょっとして始めの作品から順番に読んでらっしゃいます?
ありがとうございます。
しかし妙な比喩ですね。
45.100名前が無い程度の能力削除
何エンドなんだろこれ
読んでいてとても寂しく感じてしまったのは、メリーと蓮子が二人だけで完結してしまったからなのか
読み手も書き手もその他の登場人物も置いていかれて、何故だか二人が遠くに行ってしまった気がする
印象強くて忘れられそうにない

ラストの異様な寂寥感はともかく、前編・後編ともスリル充分、意外性充分で読んでいて楽しかった
ゆかゆゆと秘封倶楽部の強い絆やそれ故のすれ違いは勿論の事、紫と蓮子やメリーと幽々子の会話も非常にらしいというか期待を裏切らなかった

前編と後編まで空きが3週間以上あるのは生殺し的な意味で死ねるけど、前後編で投稿するのはありだと思う
長文でもだれない展開だったし、こんな秘封・ゆかゆゆ世界ならむしろ本で読みたい
もっと長文を書くべき
46.無評価野田文七削除
ええ、普通のラノベでも、だいたい15,6万字はあります。
そうすると、なんだかんだで僕も「長編」と呼べる東方はあんまり書いてないです。
こう、中編をさくさく書いていって、そのたびに反響もらえるっていう
この誘惑になかなか勝てません……
でも、そうなんですよね、20万字くらいをオラオラァと書けるようなパワーがないと
自分としてもいかんと思います。
何にしても、
>印象強くて忘れられそうにない
こういう言葉で何杯でもイケます! ありがとうございました。

本はこれからバンバン作りますよ!
47.100名前が無い程度の能力削除
予感は当たった
考え方の違いはあれどお互いが好きな秘封をしっかり味わえた
秘封知らなかったからタグ避けしてたけど勿体無いね
48.無評価野田文七削除
ありがとうございます。
二年と二日も前に書かれた作品を読もうとしたあなたの予感に感謝です。
また投稿したいなー
うぬ、でも次は向こうの方が先かもしれませぬ。
60.無評価名前が無い程度の能力削除
どんなに賞賛の言葉を並べても陳腐なものに思えてしまうけど、それでも一言言わずにはいられない、
素晴らしい。
他にも思うところはありますが今更感満載だったので、すみませんがこれだけで。


ひょんな事から作者様の作品群の存在を知りましたが、やっぱり過去作品って巡ってみるもんですね…
61.80非現実世界に棲む者削除
悠久の時を生きる、か。
大切な人と共に過ごす時間は何よりも有意義に感じますね。
この後のゆゆさまと紫がどうなったのかが描写されていないのが残念です。単純に二人の関係という意味で。
妖夢も労ってほしいなあ…

それなりに良い作品でした。
62.100つつみ削除
終盤の展開が大胆でかつ緻密な構成で素晴らしかったです。
 ラストも一気にせり上がってくる感覚に襲われました。