Coolier - 新生・東方創想話

レプリカの時間 Ⅱ

2008/06/17 01:04:36
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 闇の帳が降り始めた頃、それに抗うように再び、白い雪が舞い降りてきた。

 明かりの漏れる寺子屋にも、ちらちらとそれが辿り着く。

「そろそろ行こう」

 炬燵に突っ伏して眠っていた妹紅が突然呟き、顔を上げて立ち上がった。駿馬の尾のような白髪がさらりと流れる。今まで部屋の中でずっと眠り続けていたのだが、それでも彼女には夜が来る時間が判るらしい。

 同じように慧音の宿直室に待機していた咲夜と霊夢は、その言葉に僅かに頷いて彼女に続いた。それから三人は、咲夜が紅魔館から拝借してきた黒色のマントを着込み始めた。

 過日に倣って里の中で待機する役目の慧音が、玄関口で、三人の出掛けに釘を刺す。

「相手は妖怪か人間か判らない。無闇と妖力を使って吹き飛ばしてしまわないように」

 妹紅は何か物申したげな鋭い視線を慧音に向けたが、余計なことは喋らなかった。

「判ってるわよ」

 霊夢は、何を考えているのか判らない表情でそう答えた。咲夜も黙って頷いた。

「気をつけて行って来てくれ」

「そっちも」

 慧音と妹紅だけが短く言葉を交わして、三人は里の外へ向かった。

 通りには誰も居ない。皆一連の事件を恐れて、早めに家の中へ引き上げていた。消耗している男勢も、慧音の説得で今日は休んでいる。

「あんた、本当に今回何も気づいていなかったの?」

 道すがら咲夜が、一番気になっていることを霊夢に訊いた。面倒なことになりそうだったので、慧音の居る前ではこの話題は避けていた。

 問われた霊夢は困り顔になる。

「私にだって気づかないことくらいある。何度かあったでしょ、こういうこと……。
 それに、第一これ、妖怪がやっているのか人間がやっているのか判っていないんでしょう?」

 霊夢の役割は本来、妖魔調伏に限られる。もし力がない人間が首謀者ならば、スペルカードルールを用いて解決――という訳には行かなかった。
 言うまでもなく説得や捕縛も専門外で、慧音の指摘した通り、下手にやれば殺してしまう可能性がある。その為彼女は今、実際、今までにないほど戸惑っていた。

 まあねぇ、と二人の前を行く妹紅が、白い息を吐きながら答える。

「ああ、全く判らないわね。で、お前が気づくことが出来るのってやっぱり、短絡な妖怪絡みの事件だけなんでしょ?」

「それも、わからないわ。気づく時は気づくし、気づかない時は気づかない」

 それを聞いて咲夜は苦笑した。

「ならやっぱり、人のせいか妖怪のせいか判らないわねぇ」

 二人は別に、霊夢を責めたつもりはない。いくら彼女が博麗の巫女だからといって、自分にとってそれより役立つのは、自らの腕だと思っている。尋ねたのは、霊夢の勘で、相手が人なのか妖怪なのか、はたまた別の何かなのか、可能なら推し量っておきたいと考えたからだった。

「難儀なもんね。どれだけ燃えたらいいか判らない」

 両腕を頭の後ろに回しながら妹紅は呟いた。

 それに応え、咲夜はどこまで本気なのか判らない微笑を浮かべる。

「何回まで刺して良いのかも判りませんわ」

 霊夢は、雪の舞い落ちてくる夜空をねめつけた。

「――今回は、人妖どっちでもいいわ」

 こんな状況だが、久しぶりの顔合わせだった。もしも乾杯するのなら、その後だろう。

 ただ……その中で、気の狂った人殺しは呑み会に混ぜにくいなと、咲夜は思っていた。

 そういう人物は、元来生真面目で、アルコールを意図的に厭う者が多いためだ。












 三人の配置は、一番脚の速い妹紅が地上を護り、残りの二人が西と東へ分かれて積極的に犯人を捜す形となった。霊夢が何か発見したら光の弾、咲夜ならカンテラの点滅、妹紅の場合炎を焚いて知らせ合うと打ち合わせた。

 しんしんと雪は降り続ける。

 真っ暗闇の中を、咲夜は時刻と方位を確認しながら飛び続けた。ただ、ずっと飛んでいると髪の先やマントが凍るので、一時間ごとに休憩を兼ねて地上に降りた。

 それにしても眠い。仮眠は二時間、その前の夜も二時間しか睡眠を取っていない。それに加えこの寒さだ。寝たら死ぬかも知れないと咲夜は呑気に思う。あの強壮な妹紅が昼間休息していたことを考えると、今万全な状態で動いているのは霊夢だけだろう。

 全くの闇を表示している地上に対しては、カンテラの光量を最大にするだけでスポットライトになる。常人より比較的夜目の利く咲夜には、それだけで十分だった。

 灰色の平原、今は死んでいる田畑、歪な枯れ木の合間――。冷たく殺伐とした情景が、奇妙に薄ぼんやりとした明かりに、一部分だけ丸く照らし出されていく。

 不審なものは何も見当たらない。

 人間ならば、まず間違いなく男だろう。この寒い時期に毎夜、重い死体を背負ってこの辺りを移動するのだ。かなりの体力の持ち主に違いない。

 逆に妖怪ならば、どんな姿なのか見当はつかない。飛んでいる間に、全くの暗闇の空の中で鉢合わせする可能性さえあった。そうなったら信号を送る暇など果たしてあるだろうか。

 そうして、何の進展もないまま午前一時近くを回った。

 その時間には一度、里の入り口で暖を取って、三人で長めに休憩することに決めてあった。慧音が軽い食事を用意してくれると言っていた。

 咲夜は一旦北上をやめた。辺りの情景をアバウトに記憶し、空中で嘆息する。

(戻るか……)

 ――と。

 踵を返したその時だった。

 白色の大弾が遠く、自分より遥かに高い位置に撃ち揚げられ、宇宙船のように明るく辺り一帯を照らし出した。

 霊夢の信号だ。

 そう遠くない。

 直線で結んで四半里程度か。それだけの距離も、空の中では遠く感じない。

 光の中確認する。互いに互いをすぐ発見出来るように同じ高さを飛んでいた筈だが、霊夢の姿は見当たらない。既に追跡を始めているのだ。相手の姿を見失わないように、障害物のある所まで高度を下げているに違いなかった。

 咲夜は弾源と思われる場所まで急いだ。降り様、獣のような速度で疾駆してくる人影を緋色の明かりの中に見た。妹紅だ。右拳に小さく火炎を焚いた彼女は、咲夜のカンテラの光に向かって、真っ直ぐ自分の進行方向を指し示した。

 そちらに何かの影を一瞬見る。しかしそのすぐ後、それは枯れ木ばかりの森の中に紛れ込んで見えなくなった。

 自分が一番出遅れたと咲夜は悟り、舌打ちすると脚のホルスターからナイフを抜き放ち急降下する。

 三人と、逃亡する何者かは森の中に侵入した時点で一直線上になった。ただ、一番後方の咲夜には、追っている相手の影さえ見えていない。薄い新雪を圧密する足音が二人分聞こえたので、妹紅の分を差し引いて、相手も走って移動していることが判るだけだった。それ程近くに居るというのに、すぐに捕らえられないとはどんな走力なのか。

「そこの奴! ちょっと待てって言ってるでしょ!?」

 前方で霊夢が喚いている。呼気を無駄にするから黙れと咲夜は忠告したかったが、それでは自分の酸素を無駄にするので黙っていた。

 時間を操るのは最後手段だ……と咲夜は思う。未知の敵だ。何が起こるか判らない。味方まで無力化してしまう力をいきなり使うのは、避けるべき愚だと考えていた。

 かと言って妹紅の炎では、一撃で相手を焼き殺してしまう恐れがある。

 頼みの綱は霊夢だ。

「っもう、人間だか妖怪だか知らんがとにかく覚悟しろ! 息が出来なくなるまで囲ってやるわ!!」

 懊悩は今捨てた、とばかりに彼女は叫んだ。

 御札を連ねた鎖が幾条も放たれる。周囲の樹木を薙ぎ倒す程の力強さで侵攻したそれは、器用に目標だけを追い越して避け、その目の前の地面に突き刺さっていく。

 相手は急停車を余儀なくされ、しかし凄まじい反応速度で左に舵を切る。そのタイムラグで最前の妹紅との距離を縮めたが、それだけでは追いつくに至らない。

「逃げるなってば!」

 祓い棒をかざし、霊夢は尚も御札をコントロール、札の鎖達は再び息を吹き返し、相手の移動を阻もうと踊りかかる。

 蛇行しながら、そうした逃走劇が何分間も続いた。

 霊夢の作り出す札の壁は確実に相手の移動を阻害したが、思い通りに誘導するには相手の動きが速過ぎた。咲夜と妹紅は先回り出来ずに様子を伺っている。

 やがて、焦れた妹紅が左手に火を滾らせながら言う。

「あの脚の速さは人間なんかじゃない。もうやるわよ」

「もう少し待って」

 妹紅が追い詰め、霊夢が逃走の妨害をしてくれている間、咲夜はあれが誰なのかずっと推測していた。だが該当者が居ない。自分の顔の狭さを怨んだことは今以上にない。

 時間を止める他にないかと、懐中時計に手を伸ばした、

 その時だった。

 集中力を欠いた霊夢が、御札の鎖のコントロールを一本だけ失う。

 気づき、息を呑む三人を尻目に、明後日の方向を攻撃したそれは一本の樹木を叩き折る。

 大木はゆっくりと傾き、疾走する逃亡者の未来位置に倒れ込んでいった。










          ◆










 咲夜が時間を止めかけた、

 妹紅が傾く樹木を狙いかけた、

 その前に倒木は、天を貫くように突き出された逃亡者の拳で、粉々に打ち砕かれた。

 太い幹に小さな爆撃を受けたかのように、樹はアメーバのようにそれぞれ左右に分裂し、
 回転しながら闇に消え、その奥で激突しへし折りやがて轟音をたてて反響した。

 何秒間も、雪に混じって大量の大鋸屑が降り注ぐ。

 三人は思わず脚を止める。

 逃亡者はそれを見るや地の底から響くような哄笑を上げ、
 一対の巨大な羽根を拡げると、闇夜の凍てつく大気を抱いて宙に舞い上がった。

 息を呑む。

 あれは、妖怪だ。

 あれは、人間ではない。

 それを確認した妹紅は、
 嬉しくなって高笑いした。

 咲夜はその声を聞いて何故か凍り付き、
 それにカンテラの明かりを向けることさえ出来ない。

 緋色の炎が狂い咲く。

 ――よくも、私の居場所を脅かした。

 ――よくも、親友に影を与えた。

 ――そしてよくも、弱い人間を踏みつけにした。

 怨みと、痛みと、暖かさを束ねて憤怒が迸る。

 箍が外れたように彼女の笑い声は止まらず、

 上空の妖怪に向け凄まじい量の火の弾が一斉に撃ち放たれた。

 それはまるで地獄の釜のようだった。

 逃亡者は首から上を庇い、上昇しながら避けようとしたが、完全に隙間に入り込めず幾つも身体に掠めた。

 皮膚と肉の焦げる香り。

 だが――

 そこで何故か時が停止した。

 咲夜だった。

 悪魔のように笑う妹紅も、あまりの熱に手で顔を庇う霊夢も、動かなくなる。

 咲夜は相手を静かに視界の中に捉える。

 しかし、時を止められた筈の逃亡者は、他の物体や人と同じように停止してはいなかった。

 逃亡者は踵を返し、森の上空へ飛び去っていく。

 咲夜も速度を上げて追ったが、じょじょに距離は開いていく。

「聞こえるかしら」

 追う相手と自分を結ぶ線が地面と平行に近づいた時、咲夜は無表情に静かに言った。

 舞う雪も寒風も灰色に染まって動かない空間に、彼女の声音だけが伝播して相手に伝わる。

「一枚対一枚のスペルカードルール。それで良い?」

 咲夜は、追う相手がスペルカードを所持していることを知っていた。

 だがそれは、意味のない決闘の提示だ。

 何しろ逃げようとしている相手の方が速い。

 逃亡者はやはり、速度を落とさなかった。

 咲夜は同意を求めることが間違いかと悟る。

 ――ただもう一度、声が聞きたかっただけだというのに。

 ――無視とは寂しい。

 なら、その手の内を白日の下に晒して、

 そして地へ叩き落とす他ない。

 ――嬌声を幻聴して胸がときめく。

 ――鮮血を幻視して顔がほころぶ。

 敵は逃げていく。咲夜との相対距離を増していく。

 意に介さずスペルカードを手中で消し、咲夜は信じられない数のマイナイフを複製した。

 相手との間に存在する停止した空間へ自分で時間を定義し直し、それを更に操って圧縮する。

 その内側に歪んで見える敵を狙い、渾身の膂力で全てのナイフを投擲する。

 咲夜に定義される時間の中で二秒の準備が終了した。

 密度の高いゲルのような空間で遅滞するナイフを追い越し、時の流れを全て正常に戻す。

 咲夜の真横と背景で静止していたナイフ群が、

 圧縮から開放された時空を射出機に、

 投擲された何倍もの速度で飛翔した。

 それは雪の軌跡に直交する銀の雨。

 全てが唸りを上げて平行に飛び、

 敵の満身を滅裂せんと迸る、

 殺人ドール。

 相手との相対速度をして、それは十二分な撃墜の力。

 避ける余地が在るのか、それとも亡いのか。

 逃げる彼女の火傷だらけの身体は忌まわしい程精密に動かず、

 銀のナイフの軌跡は一続きの線分でなく、破線と見紛う程に全てが幻。



 ――ついに万策尽きた逃亡者は、

    己のスペルカードを宣言した。















                   ◆















 その少し前。

 身体を毛布でぐるぐる巻きにされたパチュリーは、自分を抱きかかえて飛ぶ司書の腕の中で、眉根を寄せてぶつぶつと抗議の声を上げた。

「……独りで行くと言っているのに」

 司書の小悪魔は苦笑しながら首を振る。

「ですから、無理ですってば」

「……むう」

 喘息の発作は気温の低下を原因として起こることも多い。

 今、彼女らは、咲夜の手で八意永琳に預けられた例のスペルカードについて、その解析結果を聞くために、永遠亭へ向かって暗闇の竹林の中を飛んでいる最中だった。

 夕方に屋敷へ戻ってきた咲夜が、唐突に、夜間に人里を警護することになったと言い出した。放っておけと助言したのに調査に出かけていたらしい。早起きさせられたレミリアは詳しい事情を聞かずにそれを承諾したので、咲夜は今紅魔館を空けている。

 彼女より先に、永遠亭を訪ねるチャンスだった。

 宇宙人にスペルカードが預けられてから半日程度経過している。永遠亭で解析するにあたり、それが十分な時間なのかは皆目判らないが、咲夜がこれほど長い間屋敷を空けるのは珍しいことだ。この時が、件のスペルカードの実物を交えて永琳と会話の出来る最初で最後の機会だった。

 もちろん、パチュリーの独断だ。門番にも口止めしておいた上で外出した。

 目的は、あの二枚のスペルカードに異様に固執している、レミリアの真意を推し量ること。

(……大抵のスペルの概要の解析なら、私でも出来る)

 パチュリーは思う。

 なら、まずは身近な自分を利用すればいい筈なのだが。

(……その二枚には何かある)

 危険性か性能か所持者の来歴か付けられた曰くか作成された経緯なのか。

 命名決闘という人妖のアイディア――暗部に焦点が当たる限り、安楽椅子探偵では務まらなかった。

 そこまで気にかかる訳は、敢えて顧みないことにした。

 やがて見えてきた平安風の木造建築のそばへ、小悪魔は翼をたたみながら軟着陸する。





「診療はもう終りなんだけどねぇ」

「司書が暖かくしてくれたお陰で喘息はいいの。通るわね?」

 説明を全て省略して永遠亭に立ち入ろうとしたパチュリーと小悪魔は、当然、とおせんぼを喰らった。

 だめよ、と両手を広げて永琳の自室の出入り口の前に立ちふさがったのは、彼女の助手の玉兎、鈴仙。かっちりとした黒のブレザーが警備兵のようだった。

 永遠亭は病院ではない。決められた診療時間はない。鈴仙がそう言ったのは単に、魔法遣いの中でもこんな所に居るのが不審過ぎる魔法遣いを、簡単に永遠亭に通してはならないと思ったからだ。

 いつも問題に対して受身だと、自分から動いた時こうも面倒に感じるのかと、パチュリーは視点の違いを新鮮に感じた。背の高い妖怪兎を見上げて、無表情に小声で言う。

「……うちから届け物があったでしょ? それを取りに来たの」

「知ってるけど。わざわざあなたが? ついにお嬢様に働けと命じられた?」

「……レミィは私の主ではない。理由は言ったわ。通るわね」

 尚もとおせんぼされる。

 小悪魔がその様子をはらはらして見ていたが、パチュリーは淡々と続ける。

「……咲夜は出かけている。私はレミィの目を盗んでここに来た。これ以上の情報はないわ。早く通して」

 魔女の目が若干据わったので、ついに鈴仙は溜息をついて折れた。ちょっと待ってなさいと言い、奥へ伺いを立てに行く。

 一分と待たずに出てきて、彼女は無言で中へと顎をしゃくった。通行可、ということらしい。

 ただその後、無遠慮に小悪魔を指差して言う。

「ただし、私とあんたは外だそうよ」

 人差し指を向けられた彼女はむっとしたが、鈴仙を無視して、パチュリーに訊く。

「だそうですが。お一人で大丈夫ですか?」

「……ええ、ごめんなさいね。暇になったらそこの兎で遊んでいていいわ」

「判りましたわ」

 小悪魔は上品に微笑んだ。

 一体遊ばれるのは誰かしら、と鈴仙が言ったが、二人はその言葉を全く相手にしなかった。





「うちの兎が失礼したわね」

 椅子に腰掛けた永琳は心にもないことを言い、微笑みながら切り出した。

 それを無視しながら、来客用の丸椅子に座るパチュリーは、目を細めて部屋の中を素早く見回した。

 木製の仕事机の上には数枚の往診簿。奥の作業台の使いこまれた擦り器。仮眠用らしいベッド。彼女の背丈より大きな薬棚の上には当然何もない。スペルカードなどどこにも置かれていない。

 視線を相手に戻して、パチュリーは言った。

「……預けていた符を取りに来たわ。もう、命名決闘との因果の解析は終っているの?」

「ええ」

 永琳は微笑む。

「わざわざ貴女が出向いてきた訳を教えてくれたら、教えてあげるわ」

 パチュリーは舌打ちをしたくなった。さっきの兎といいそんなに私が外出することが不審なのか。……いやそう思うのが普通か。

「……レミィが、私への相談なしに、貴女へスペルの解析を依頼した。それが何故なのか確かめに来たの」

「ふうん」

 つまるところやきもちやきなのねと、永琳は勝手な想像を楽しむ。

 解析はもう終っている。特にこれ以上相手から引き出したい弱みも思いつかなかったので、すぐに机の引き出しから件のスペルカードを出すと、パチュリーにそっと手渡した。

 魔女は素直にありがとうとお礼を言い、その二枚を受け取ると、小さい自分の掌をかざしながら即席の精査を試みた。七色の輝きが、和紙で作成され、押し花のしてある栞のようなスペルカードの表面を舐める。

 判る限り感応があったのは、グリーンとブルー、ブラウン、それにゴールドとホワイト。見た目で推し量れる性能と、表記してある命名決闘の名を度外視して彼女は呟く。

「……弾種は、木と土、水……それから少し、日と金に近いのね?」

 早いこと、と永琳は感心したように頷く。

「大体そんなものよ。クラシカルな魔法も、存外面白いのね?」

「……たまたま七曜に関係があっただけだわ。それにこれでは、殆どの属性に反応していて曖昧過ぎる」

 七属性で判らないことがあるのでしょ? とパチュリーは永琳を見据えて言う。

 そもそも七属性って何を指すのかしらと永琳は思うが、問うと詳細な説明が始まりそうなので黙っている。

「多分あるのでしょうね。だから貴女のお嬢様は、わざわざ私に依頼したのでしょう」

「……調べられたスペルの概要を、判り易い日本語で話して」

 同じ研究者でも、パチュリーは精霊魔法学、永琳は薬学、それだけ分野が違えば、簡易な日常会話以外の共用語は無いも同じだった。最後に頼れるのは日本語だ。

 永琳は頷き、まずは相手の持っている情報の確認から始める。

「所持者の名前は把握しているの?」

 ええ、とパチュリーは呟く。

「……冴月麟という子だそうよ」

 この際だ。全て伝えておこうと思い彼女は続けた。

「……女性で、居住地は魔法の森外縁、里と山の中間点辺り。独りで花売りをしている。何時からそこに住んでいるかは資料がない、推察も出来なかった。スペル戦の経験がないと咲夜が言っていた。知っていることはそれだけよ」

「少ないわねえ。それがあなたの書架の限界?」

 紅魔館の図書館よ、とパチュリーは訂正する。

「……妙に記述の少ない人物だった。彼女が妖怪並の寿命だとして、最近一〇〇年間は誰とも関わっていないのは確か」

「よく調べるわね。私だったら一週間目で諦めるわ」

「……さて、教えて貰おうか。わかりやすい日本語で」

 さっきと言っていることが矛盾していると思うが、パチュリーはいちいち指摘しない。

 永琳は何故か笑みを深める。そして間を置かずに言った。

「符の名称は風と花よね」

「……それは、読めば判る」

 どこぞの花妖怪と、狡い天狗の符と同じ名なのだ――とパチュリーは再確認する。

 ただ、その共通点にさして意味はない。咲夜と美鈴が、昔のスペルカードに同接頭字の“幻”を用いていたはずだ。

 永琳は続ける。

「スペルとしては何の変哲も無い、儚くて、誰にも気に止められないような、非常に脆弱な弾幕が具象化される筈よ」

「……」

「トリガーになる妖力の量を思い切り制限してある感じね。いいえ、これで全力なのかもしれない」

「……そうなの」

「はっきり言ってしまえば、」

「やめなさい」

「妖精未満という所ね」

 魔女は、若干鋭く永琳を睨み据えた。

 彼女はしかし、それを涼しげに受け流す。

「つまるところ、自然生命系……風と花は、分類上対応させるなら、先人にとり殺されそうなくらいアバウトに云って、『生物学と化学の中間』。

 それは貴女の七属性? からは遠い。貴女の扱う魔法はおそらく、化学と物理学の間のような位置なのでしょう。自然生命を扱うには、数哲学といった根源の方に近過ぎるのね。それだから、エレメントの多様性のせいで、貴女の場合では漠然とした精査結果になってしまった。

 私が主に扱うのはちょうど生物学と化学の中間。だから、私が解析を依頼されたという訳でしょう。貴女の親友が、それを論理的に把握していたかまでは判らないけれど」

 そんな――まさか、とパチュリーは思う。

 レミリアが永琳に依頼した理由は判った。

 それはいい。

 だが、能力で?

 判別した?

 ふざけないでほしい。

 魔法使いが生涯を賭しても、きっと最期まで、学問の体系付けの定義など曖昧なのに。

 ちょっと運命を覗いただけで、そのようなことまで理解出来るというのか。

 あの子は。

 パチュリーは急に笑いたくなった。

 自嘲ではない。身近な親友にまだ把握出来ない要素が隠されていると思い知り、純粋に嬉しくなったのだ。

 喉の奥で呼気を押しつぶして本当に笑う。それはまるで多幸症の患者が、必死に我を保とうとしているような異様な様子だった。

 月の研究所に居た頃、そんな人物を何人も目の当たりにしてきた永琳は、妙な懐かしさを感じる。誰も彼も打ちのめされた時に笑う者ばかりだったと思い出す。そして、笑いながらも次に何を考えるべきか考えているのだ。

 魔女の哂いのほとぼりが収まるのを待ってから、彼女は続ける。

「で――スペルが作成された理由についても、興味本位に調べてみたのだけど」

 笑ったことで少し気管が収縮したらしい。軽く、木枯らしのような呼吸に変じたパチュリーは、口の端に妖しい笑みを残したまま、ええ、と聞き返す。

「割と、面白いことが判ったわ」

「これ以上面白いことがあるのかしら? なに?」

 パチュリーはいっそ無邪気に聞き返す。

「まず、昼の間にウドンゲを冴月麟の家へ行かせて、彼女へいくつか質問させたのだけど」

「……ああ、ポリグラフにしたのね」

 だからあの兎が、紅魔館から届け物があったことを知っていたのかとパチュリーは考えた。

 あの兎の能力は彼女も知っている。物事に宿る波を操る能力。操るということは観測も出来る。心拍や、脳や筋肉から放出される赤外線を視ることも出来るだろう。ならば、嘘発見器より、遥かに沢山判断材料を与えてくれる。

 永琳は彼女の問いにこくりと頷いた。

「質問は三つさせたわ。でもまず、最初の二つから説明するわね。
 スペルを積極的に考案した理由は何か? というのと、あなたは本当にスペルを考案したのか? という二つ」

 パチュリーは……それで? と先を促す。

「前者には忘れた、と答えたそうよ。どの波にも乱れはなかった。安静状態。
 後者にはイエス、と答えたそうよ。どの波にも乱れはなかった。安静状態」

 結果を、パチュリーが代弁する。

「……その子が、嘘をついても波長に現れない体質でない限り、嘘ではないということか。言葉面だけに関しては、咲夜も同じことを言っていたわ」

 つくった理由は忘れたが、つくったことは覚えているというのだ。

 矛盾があるようにも見えるが、ないようにも見える。作成されたものがスペルカードであるという事実と、持ち主はスペル戦をした経験がないという事実が綱引きしていた。

 なんだ、そっちの御使いも同じこと訊いたのねと、永琳はつまらなさそうに言う。

「まあ、時間を止めたら脈拍も計れないけれど。ともかく、それを踏まえて三つ目」

「……いつ作ったのかを訊いたのでしょ? 何処で作ったかは、自宅の可能性が高いからどうでもいい。それで、どうだったの?」

 わかっているじゃないの、と永琳は何故か今度はやや面白そうに呟く。

「四年前の夏に作った、と言っていたらしいわ。これも、安静状態」

「……やはりおかしいわね。おかしいわ。スペルを考案した経験というのは、幾度も反復して覚えた記憶ではない、一度限りの想い出の記憶なのに。

 想い出の記憶なら、それを明確に記憶しているかどうかは感情に関わる。この場合なら『何故スペルを考案したか』、という部分に。その部分だけ抜け落ちているくせに、『つくった覚えがあるか』、『いつ作ったか』を正確に記憶しているなんて矛盾している」

 永琳はパチュリーの言葉に頷いたが、机に頬杖をつきながら冷静に聞き返した。

「でも、待ってね? 感情と記憶の関係は十割はっきりしたものではないわ。

 心情的には同意したいけれど、でもこれは、完全におかしいと断定出来ることではないし、仮に嘘を言っていても、波長に全く現れない人妖が居る可能性も残っているわよね?」

「……そうだけれど」

 虚ろになりかかった瞳を浮世へ引き戻しながら引き下がる。

 そうだ――それに、矛盾が断定出来たとして、ひとまずそれが何になるものでもない。永琳の話はまだ終っていない。

 一度深呼吸。それから静かに先を促した。永琳も目を閉じて緩慢に頷く。

「さて、そこでひとまず行き詰ったわ。

 正直を言うと、ウドンゲが持ち帰った結果だけで総て判ると思っていたの。符作成の理由を、本人が本当に忘れているという結果が出るとは思わなかったのよ」

「……十度、二十度、本当に忘れたの? と質問を繰り返したら良かったのよ」

「無論やらせたわよ。でも、結果は変わらなかった」

「……」

 本当にやったのか……と魔女は思うが、黙っている。鈴仙も冴月麟も嫌な目にあったものだ。

 永琳はそこで、少し間をとってから続けた。

「他に調べるものがなくなったわ。で……、最後に、何かないかと思って見つけたのが、あのスペルカードの装飾だった。綺麗に潰されている、その押し花ね。

 ――ああ、そうだ、ABO式血液型って、どうやって判別するのか知っている?」

 急に話が飛んだが、構わずパチュリーはついていく。ひょっとして馬鹿にされているのかと少し苛ついたが、感情を表出しにせず言う。

「……赤血球表面にある糖鎖の有無と種類。A型がついていたらA型。B型がついていたらB型。何もないものがO。両方あるものがAB」

 永琳は頷く。

「押し花の中から、おかしなことに、それら総てのパターンの赤血球が混在した『血液と似たもの』を検出したの」

「……は?」

「ああ、ABOどころではない。Rh式も何もかも、殆ど種類がばらばらの赤血球。あなたの所の吸血鬼が出すという霧、あれの成分を確かめたことってある?」

「……あるけど。というか……ちょっと待って? 今の話と、何の関係があるの?」

 永琳はパチュリーの言葉を無視する。

「それ、血液蛋白以外が本来ありえない変性をしていて、毒性を持っていたわよね? そうしたら理由が判らない? 人を半時で殺す、強力な毒よ。植物にとっては日光が遮られた。そして四年前にスペルカードは作られた。それは個人間の紛争を解決する為の道具。ほら、概ね繋がったでしょう?」

 やや戸惑うパチュリーをよそに、永琳はにっこりと微笑む。

 ――彼女が何を言わんとしているのかは判る。

 四年前の夏の、紅霧異変のことを言っている。

 確かに昔、パチュリーがレミリアの出す霧の成分を調べた時、その中に毒物は含まれていた。

 そしてあの赤血球は、レミリアの骨髄で造られたものではなく、摂取した人間の生血のそれを変性させず転用したものらしいということもその時判った。つまり、様々な人間の赤血球が霧の中に混在していることはもう明らかだった。

 無論その半数近くが、毒のためか溶血し、他の成分も大半が変性し凄まじいことになっていたが――必要なだけヘモグロビンを残して紅色に見え、生体に害をなす毒性があればそれでいい。

 だが……四年前の押し花である。仮に当時は無事な赤血球が付着していたとして、その中の蛋白質など、構造がその時と同じままである筈がない。何故その時の状態で解析出来たのかとパチュリーは訊いたが、永琳は笑って答えなかった。

 永琳が解析した霧の成分の解析結果に関して自分が口でイエスと答えられないように、おそらく向こうにも秘密にしたい何かがあるのだろう。

 問質すことを諦め、パチュリーは別のことを訊く。

「まあいい……つまり貴女は、冴月麟は紅霧異変の原因究明のために、戦闘を考慮してスペルカードを作ったと言いたいのね?」

 永琳は頬に手を添えながら頷く。

「ほぼ間違いないでしょうね。花売りなんでしょう? その子。だったら栽培していた花がみんな枯れてしまっては、死活問題だもの」

 みんな枯れてしまったら死活問題――?

 パチュリーは、それは欺瞞だと思った。

 観賞用のデリケートな草花など、日光の欠乏を待たずとも、あの妖霧の前にたちまち全滅しただろう。冴月麟はその後でスペルカードを作ったのだ。死んだ花をそこに封じて。

 彼女は、永琳の解析を信じるなら、妖精以下の力しか持たない半人半妖である。ならば、あれほど大きな異変に立ち向かうことは命がけだ。スペルカードルールとはいえ、力の差が大きい者の間で不慮の事故が起こった場合、弱者側は、撃墜ではなく死亡する可能性も決して低くない。

 公平なハンデをつけた上で、ずぶの素人が、KOを勝利条件としたプロボクシングの試合に臨むのと同じことだ。

 それは、花の為の仇討ちだったのかもしれないとパチュリーは思う。

 枯れ花の押し付けられているスペルカードが、そうだと言っている気がした。

 全く論理的な解釈ではない。自分でもどうかしていると思うが、彼女はそう断じた。

 それはそれでいい。

 それほどの覚悟が、不可解な要因で取り消された。

 ぽっかりと空洞を空けるように。

 忘却した。

 そちらのことの方が、よほど重要な項目に思えた。

 理由と覚悟が抜け落ちたなら、戦いに出る気力は、最初からないものと同じだ。

 だからスペル戦の経験がなかったのだ。

 スペルカードを作成した直後だろう。

 何故か、

 どのような方法でか、

 誰の手によるものかさえわからないが、

 冴月麟の記憶の改竄があったらしい。


 ――しがない花売りは美しい闘いについて行けないと。


 唐突に咲夜の言葉を思い出す。

 そこで、何かが閃いた。

 全速でその光を追って、彼女はそれを逃さずに掴んだ。

 ああ、とパチュリーは、普遍的な事実を再確認する。

 人が平和主義を気取るのは、見て見ぬ振りをするためだった。

 おそらく麟自身には、忘却の理由は判っていないだろう。しかし記憶を取り戻す方法などない。平静とたおやかさを装って、壊れないところで折り合いを付ける他になかったのか。

 賢明だ。

 そう思った。

 すぐさま自分のスタンスを偽装出来た麟に、パチュリーは賛辞を送りたくなった。

 何故って……その忘却と非忘却の分界を意識し過ぎたら、狂ってしまうに違いない。自分なら間違いなく、その種の状況に陥った場合、思考を停止させることが出来ず死に至る。

 酷い手術痕を発見してしまったものだ。少しも縫い目は判らないくせに、患者のはらわたがごっそり抜かれている。

「貴女も同じように考えている?」

 永琳は、影のない笑みで魔女に訊く。彼女は、概ねそうねと、そっけなく答えた。

 口にすることも頭に思い浮かべることも、下らない。

 もう何もかも判った。

 反吐が出そうな気分だったが、薬師にはお礼を言った。

「……よく判ったわ。ありがとう」

「お役に立てて良かったわ」

 永琳は微笑んだ。

 パチュリーには、今ならレミリアの心理が、半分まで理解出来た。

 迎合しないように、まつろわないように注意しながら、彼女はそれを美しくトレースしておく。そして、おそらく取り出すこともないが、頭の本棚に保管した。

 血を吐いて絶叫するような色の背表紙。半分の何かと――もう半分は、恐ろしい怒りの色。

 前者の半分は気にせずともいいことだろう。今に判ることだ。その時に書き込んでおこう。

「……今何時かしら」

 パチュリーは唐突に薬師に訊く。

「子の中刻ね。午前一時」

 彼女は体内時計で正しい時間を言う。

 竹林を彷徨ったせいで、意外に時間が過ぎていた。長い間飛んだ小悪魔を少し休ませてもらうよう頼むか、すぐに咲夜を拾ってから帰るか、パチュリーはやや悩む。

 その時、部屋の外に居た鈴仙と小悪魔が、同時に部屋に飛び込んできた。

 師匠、空が、と助手は叫ぶ。

 パチュリー様、あれは、と司書は叫ぶ。

 薬師と魔女は、それぞれ印象の違う無表情で首を傾げた。

「それは大丈夫だから放っておきなさい、ウドンゲ」

 パチュリーは何も言わず、ゆっくりと立ち上がった。

「……さて、もうそろそろおいとまするわね? やっぱり咲夜を拾っていくわ」

「ええ、楽しかったわよ。診療以外でも、またおいでなさいね」

 永琳は微笑んだが、パチュリーはあまりいい顔をしなかった。

「……今度は、喘息を治したらね」

 それは、もう来ないわの言い換えだったが、永琳はそれに気づかない振りをして小さく手を振り、あっさりと彼女を見送った。

 パチュリーはそれに応えず、混乱している鈴仙の横をすり抜けて出口の方へ歩いていく。

 そして彼女は背伸びして、司書の髪を撫でながら、

「……さあ、帰りましょう。あれは気にしなくて大丈夫よ。でも、もうちょっと頑張って、あの下まで飛んでちょうだい。咲夜を拾って行かないと」

 開け放たれている扉の向こうを指差して言った。

 西の空。

 永遠亭の建物がある箇所だけ竹林は拓けていて、空が見える。

 夜空の黒の中には、燦然と輝く、巨大な正十字形の紅が含まれていた。

 その紅色は、炎というよりは、間断なく蒸発させられていく膨大な鮮血のように見えた。









               ◆










 咲夜は、雪原の上をよろめきながら歩いている。先刻霊夢の信号が揚がった辺りを目指していた。

 犯人は取り逃した。

 彼女は、全力で放ったナイフごと、相手の放出した、紅く、得体の知れないエネルギー流に押し返されて墜落してしまっていた。

 周囲を見回しても、まだ霊夢と妹紅の姿は確認出来ない。目の前から忽然と姿を消した自分と逃亡者とを確認し、空に現れた紅の十字を見て、状況を察すか混乱している所だろう――と咲夜は考える。

 何のために歩いているのか、彼女には自分でもよく判らなかった。あるいはこれが、里の外へ死体を捜しに出た者たちの心情なのだろう。

 だとしたら、私も平和呆けしたのでしょうねと、彼女は僅かに自嘲した。

 カンテラを壊してしまったせいでやや時間がかかったが、死体は見つかった。真っ暗な雪原の真ん中に仰向けに転がっていた。

 自分と同じくらいの年齢。ハイティーンの少女に見える。

 長い黒髪の日本人。

 例によって裸のまま。

 首筋に杭が突き刺さっている。

 ここには血溜まりが出来ている。

 何の感慨も沸かなかった。

 咲夜は彼女の首の杭を握り締める。

 そして、全く残されていない筈の暖かさを感じながら、思い切りそれを引き抜いた。

 水を流すホースの先端を指で潰した時のように、勢い良く血が溢れて、擦り切れたエプロンドレスから頬にかけてを容赦なく濡らした。雪の白に血液の赤のマーブルが落ちる。

 だがそれも一度、一瞬だけだ。もうとうに少女の心拍は停止しているし、ここは寒い。たちまち赤黒い氷になって咲夜に付着する。

 雪原に女の子座りしたままの咲夜は、雪でスカートが濡れ、お腹が冷えるのにも構わず、引き抜いた真っ赤な杭をためつすがめつした。暗闇の中だというのによく見える。ああこれ、うちの暖炉に使っている薪じゃない……。

 そんなことを考えていると、誰かがゆっくりと舞い降りてきた。瞳の動きだけでそちらを向くと、降りてきた彼女は、咲夜の紅くなった瞳を観察しながら恬淡と言った。

「……まるで、赫い紅い、ロズウェル事件だわ」

 パチュリーの声だった。咲夜は諦めたような微笑を浮かべて首を振る。何故か、屋外に居る彼女を見ているというのに、驚く気分になれなかった。

「墜落死した宇宙人の死骸は、解体されてはいませんでしたわ」

「……それは面白可笑しいデマよ、咲夜」

「そうでしたか」

「……通説を信じるならね。believeが用いられた以上、一番大切なのは、自分が何を思うかだけど」

 今はもう消えてしまったが、不気味な光の下、墜落した人型のものが転がっているのを見て、パチュリーはそう言ったのだろう。スペルカードのアイディアにでもしようか……と咲夜は呑気に考える。

 やがて興味を無くしたように死体から目を離し、尚もパチュリーは続ける。

「……今、私が、宇宙人のところへ行ってきた。冴月麟のスペルカードの解析結果を聞いて、あとは、とるに足らない雑談をしてきたわ」

「あら……それは、御手数をおかけしてしまいましたわ。私がもたついていたばかりに」

「……貴女の目を盗んで来たのだけどね」

「そっちの方でしたか」

 咲夜は返り血まみれの顔で苦笑する。これでおあいこですねと呟き、それから訊いた。

「何か、楽しいことが判りましたか?」

 パチュリーはゆるくかぶりを振る。楽しいことは、興味深いことはあまりなかった。

「……それは、まぁ、帰ってからゆっくり話すわ。とにかく、こちらが用意出来る材料は総て揃った。
 ……ああ、ところで、里の警護って、あなた一人でやっていた訳ではないわよね?」

「ええ」

 訊かれ、咲夜は頷く。少しだけ憂鬱になった。

「……ならどうするの? その子達に言い訳してみる? それとも今夜のところは、貴女、私と一緒にうちまで逃げてしまう?」

 今なら誰も見当たらないものね、とパチュリーは言う。

 どちらでも良いなと咲夜は思う。今は、あれらの御機嫌を伺うことに興味がなかった。

 だが、明後日以降の仕事を考えると、里とのインフラは残されていた方が断然いい。慧音たちにはいずれ言い訳しよう、と咲夜は決めた。

 しかし、今現在事情が判らない部分は多い。例え自分が直接の加害者でない事を理解して貰えたとしても、まごついた態度で出て行くこと自体、里の人間に顰蹙を買うことは間違いないと考えた。

「逃げちゃいますか、ひとまず」

「……賢明ね。咲夜は頭がいいわ。言い訳も、まごころも、等しく、きちんと全て整理した状態でなければ、相手に伝わらないものね」

 どこか嬉しそうにパチュリーは微笑む。

 そして近づくと、咲夜と唇を重ね、飛行して帰還出来る分だけ魔力を分け与えた。

 その後、小悪魔、もう行くわと彼女が声をかけると、闇から現れた司書が、パチュリーを大事そうに抱きかかえて羽根を拡げ、

「どうか御早く」

 そう心配そうに言い残し飛び去った。

 咲夜は上の空で小さく頷いた。

 さっき時間を止めて以降、随分長い間飛行した筈だ。三人はまさか、自分が死体のある場所に戻っているとは考えないだろう。しばらく時間があると決め付けて、咲夜は、幻想郷に転がっているそれと向き合うことにした。

 頭痛がし、時を操る能力は暫く使えそうにない。

 動かない少女の頬に手を触れてみる。

 そして、あなたはどこからきたのかしらねと、溜息混じりに、そして独り言半分に訊いた。しかし無論、厳しさを増し吹きすさぶ雪風だけが答えだった。

 里の人間には知られていない顔。普通の村娘より長身で腰の位置も高い。反面筋肉は薄そうだ。

 どこから連れて来られたのかなど判っている。咲夜が言ったのは、彼女の生家の話だった。

 日本の何処か。

 何が不満だったのだろうか――何が悲しかったのだろうか――、と思う。

 重犯罪者ならば、その殆どが法で裁かれて消える。この少女は自殺志願者と考えるのが普通だった。何より少女の死に顔には、昨日の彼女と同じような安らかさがあった。

 咲夜が幻想入りしてからやや年月が過ぎている。今の世にそれが当てはまるかは判らないが、彼女の知る限り、経験上、自殺は何かに対する憎しみと、甘えに起因するものだ。逃避ではない。

 純粋にここから消え去りたいと考える人間が死ねないのはそういう訳だ。一から十まで自己を悪と決めて自害出来る者は、基本的に居ない。

 ――あいつのせいで。

 ――あの人のために。

 そう、歯の浮くような言い訳をしながら自殺する。

「ああ、反吐が出そう」

 ククと哂い、彼女はどこかメランコリックに呟く。

 そこで皆、切り捨てた。それが思い込みでも別に良かった。

 鋭く吐かれた白い呼気は瞬く間に掻き消されていく。

 立ち上がり、昨日と同じように無意味に少女の死に顔を覚えてから、咲夜は雪の夜空に舞い上がった。

 紅いマフラーを少女にかけてやれなかった辺り、自分は妖怪の味方なのだと、再確認させられた。



 パチュリーは帰宅すると普段通りに入浴をし、髪を梳かし、疲れた様子で早くに床に就いた。

 咲夜はその日紅魔館中を探したが、レミリアは一人で屋敷を空けていた。

 彼女は、美鈴にもフランドールにも、無論妖精たちにもそのことを話さなかった。








 

          ◆










 煙を吐く。

 胸がむかつくなと思いながら、咲夜は自室で、箱の半分ほどしか吸わない紙巻煙草を吸っていた。適当に巻いた包帯のせいでかなり指が動かしづらい。

 それは外の世界の銘柄の煙草で、少し前に、ひょんなことから八雲紫に箱で一ダースだけ押付けられたものだった。以来、数箱ポケットに忍ばせ、時間を止める都度延命させながら、気まぐれにほんの少しずつ本数を減らしている。

 外の世界にいる頃、十進数では七が孤独な数字だという誰かの薀蓄を聞いた覚えがあるが、その為にこの煙草が幻想になってしまったのかは定かではない。いや、咲夜は外の世界でこの銘柄を見かけたことが無かったし、これはそもそもにおいて八雲紫の持ち物だ。幻想になったというよりは、単にそのワンカートンだけ神隠しに遭ったと考えるのが妥当だろう。

 ――煙を吸っていると魔法のように考えがまとまるの。

 ――幕間に使うがいいわ。少しの時間と生命とを引き換えに。

 あの少女妖怪はそう云った。その時咲夜は、何故こいつは敢えてわかりきったことを説明しているのだろうと、不審に思ったものだ。

 だが今、じっと動かずに思索する訓練を積んでいなかった彼女は、藁より遥かに役に立たなそうなその言葉に乗せられてみることにしたのだ。背伸びする子供のように、無理にでも何か変わったことがしたい気分だった。

 この部屋だけはカーテンが開いている。緋色の強力な夕日が、同族に戦いを挑むように紅い部屋の中に差し込んできた。

 じきに夜がやって来る。

 咲夜はまた、目を細めて煙を吸いながら、起き抜けのパチュリーの言葉を怜悧に反芻し続ける。

 whereよりはwhen、howよりもwhy――と呟く声が漏れた。
Ⅲ(ラスト)へ続きます
salome
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