Coolier - 新生・東方創想話

春に渡る 早苗と阿求

2008/05/15 04:28:12
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いよいよ人生相談めいてきたな、と

自分の庵の軒先から空を見上げながら阿求は思う。

視線の先には、つい今し方までここで話をしていた東風谷早苗の姿がある。

白と青で構成された巫女服が空の中に浮かんでいると、

目をひくのに何故かその輪郭は空との境界を曖昧にして、

そのままふっと消えてもおかしくないように思われるのだったが、

早苗の鮮やかな緑の髪が、ふわりと風にたなびくたびに、

確かにそこに一人の少女のいることを、見る者に思い出させるのである。

そんな早苗の後姿を、阿求は見るともなしに、

しかし、同時に何か目を離し難いものを感じつつ見送っている。


外の世界からこちらへと、自らの意思で移って来た人物と知り合える機会など

滅多にあることではない。縁起に直接採用するかはともかく、外の世界の

知識を得ておけば、これまで確認されていた外の世界の文物の情報と

繋ぎ合わせることもできるかもしれず、別立てで一冊に纏めるなり、

とりあえずの覚書として次の代に残すなり、役立て様はあるだろうと考えて

早苗に聞き書きに協力してもらえるように依頼したのだった。


執筆のために聞き取りをしていると稀にあることだが、早苗もいつしか、

尋ねたわけでもないのに自分の心の内を話して聞かせる程に

阿求に信頼を寄せるようになっていた。


ふいに振り返った早苗が見送る阿求に気付き、はにかみながら手を

振っている。それに手を振り返して応えながら、ここしばらくのように、

こちらが聞こうとしたことよりも相手が話したいと思っていたことを

聞いている時間の方が長くなり始めたのは、外の世界での信仰のあり様について

尋ねたあたりからだっただろうかと、阿求がぼんやりと考えている内に

早苗の姿は日が完全に沈む直前の、薄藍色の空に見えなくなってしまった。


今日はいつもより長い時間話していたはずなのに、まだ僅かに

明るさの残っていることに一瞬疑問を覚えて、そろそろ冬も終わりかと呟きを

漏らしつつ、それでも長く外に出ていたために冷えた体を庇うように

阿求はそそくさと庵の中に戻っていった。




妖怪の山への帰り道、早苗の頬が少し赤いのは、未だ冬の明けきらぬ時期の

夕暮れの空を急ぎ飛ぶ寒さのせいばかりではなかった。

先ほどまでの阿求と過ごした時間を思い返して、自分のことばかり話してしまったこと、

しかも普通他人には聞かせないような内面のコンプレックスに近い話ばかり

したことが恥ずかしく、今更ながら頬を染めずにいられなかったのである。


まるで元の世界のカウンセラーか、学校の保健医のようなことを

そう歳の違わないはずである阿求にさせてしまっていると思うと

申し訳なく思う反面、今までほとんど誰にも、実の親にすら

したことがないほどの打ち明け話を聞いてくれる相手がいることが嬉しかった。


だから、阿求が自分のことをどう思っているのかという想像はいつも

早苗を不安にさせずにおかなかった。

面と向かって、自分のことをどう思っているのかなどと聞ける性格ではないだけに、

聞き取りに協力しているだけの他人と思われているのではないかと、

いじいじ悩む日々がこのところ続いている。


元の世界に居た頃には、とりあえずそこに一緒にいて仲良くしていれば

友人と見なして差し支えない“場所”があった。

改めて思い返してみなくとも、確認をとったわけでもないのに

友人同士として付き合っている関係の不思議さ、不安定さを、

早苗は意識していた。同級生達の中にも、直接聞いたわけではないが、

同じ感覚を知っているはずと思える人と全く無自覚だろう人がいた。

元々社交的なわけでもないので、自然と友人は女の子のほうが多かったが、

それでも無自覚な人というのは何故か男の子に多いような気がしていた。

早苗は男の子が苦手だった。

時々、女の子同士で互いを窺いあうような雰囲気を感じてうんざりすることもあったが、

それよりも男の子の無自覚な乱暴さのほうが早苗は怖かった。


また、自分は守矢の巫女であって他の人とはどうも違うらしいという自覚が

幼い頃から早苗にはあった。そのせいもあって、どうしても人付き合いは

一歩引いてしまっていたが、学校へ通っている間は常に数人と、級友の一人という

ポジションで付き合えていたし、それで不満もなかった。


しかし、こちらの世界へ来てからはこれまでのようにはいかなかった。

それなりに仲良くしたからといって、単純に友人と規定して事足りるような"場”が

こちらにはなかったのだ。


妖怪といっても、天狗や河童達をはじめ、

それほど恐ろしいという印象を抱かせる存在はいない。

皆自分と同じくらいの年格好の女性の姿をしているし、共に尊重すべきルールもある。

社の境内では割と頻繁に酒宴も開かれている。早苗はそれほど酒に強くはないので、

神様や妖怪達のペースにはとてもついていけなかったが、陽気な酒宴の場で

何度も顔を合わせていれば、親しく会話を交わす機会などいくらでもある。

それでも、相手がどう思っているかはともかく、

早苗にとって友人と素直に呼べるような対象は今のところいなかった。


早苗にとって、酒宴は言わば公務のひとつでもある。

彼女の仕える八坂神奈子は共に酒を酌み交わすことが信仰だ、と言っているし、

妖怪達もそれを歓迎してくれている。


しかし信仰を集めるのも仕事のひとつである巫女の立場としては、

宴会の最中であってもそのように意識が働くし、実際体験したことなどあるわけもないが、

接待とはこういうものか、などと頭に浮かんだこともないではなかった。


早苗も、何も公の付き合いがあると友人とは言わないと思っているわけではない。

そこからいくらでも友情を育むことはできると頭ではわかっている。

ただ如何せんそういう関係に早苗は慣れていなかった。


元の世界で住んでいたのが田舎だったのに加え、

巫女としての修行に時間を取られて部活もアルバイトもしたことがなかった。

守矢神社の氏子の数自体減っていたこともあったし、

その周辺からは自分の能力のことも相まって、敬われることはあっても、

誰も気軽に口をきこうとはしなかったという記憶も影響しているかもしれない。


そういった理由から、早苗にとって友人とは巫女という公の自分とは関係ない"場所"で、

半ば友人関係になることを期待された者の集まりの内でしか作ったことがなかった。


そしてそんな生活の中で早苗は理由のわからない孤独感を感じていたが、

この孤独はいくら友人を増やそうと、どれだけ親密になろうと

どうにもならないのではないか、ということがなんとなく察せられていたので、

ずっと人付き合いには消極的なままで過ごしていた。


こちらに移った選択を後悔しているわけではないのに、

つい今と比較して、以前の自分はなんて贅沢だったのかと思わずにいられない。

そんな状況での阿求の存在は、早苗にはとても貴重なものに思えるのだった。








阿求と早苗が初めて顔を合わせたのは、山の妖怪達と守矢神社が和解してから

しばらく経ち、連日の宴会で双方の気心も大分知れてきた頃のことだった。

こちらに移ってきたばかりの早苗の心を慰めてくれた美しい紅葉も粗方散り、

境内に僅かながら落ちた葉を先夜の宴会の名残と共に始末し終えて

一息ついていた早苗のところに、

天狗の射命丸文がやってきて言うには今日は宴会を開かないらしい。

自分は酒をあまり飲まないとは言え、こうも立て続けでは

体がもたないと思い始めていたところだったので、密かに胸を撫で下ろしつつ、

何か予定でもあるのかと聞くと、


「明日、麓から特別にお客さんを連れてくるんですよ。勿論宴会にも

参加してもらうけれど、その前にそちらの神様とちょっとした会見を

予定しててね。大丈夫だと思うけど、一応酒を抜く間を作っておこうと」


「はぁ…会見なんて言うからには霊夢さん達じゃないんですよね?」


「違います。まぁ後は明日のお楽しみってことで。教えても知らないと思うし」


幻想郷に来てからというもの、初対面の人と酒宴どころか戦闘行為まで

経験してきたせいで、見知らぬ客が来ると聞いても大した感慨もわかず、

一応もうちょっと念を入れてお掃除しようかな、などと考えていると

射命丸が思い出したように一言付け加えた。


「あ、お客は若い人間ですよ」


「…人間、ですか」


「ええ」


こちらでは人間といえど、外の世界の基準に当てはまるとは限らないことは

嫌というほど身にしみている。今度の人も自分より強かったらどうしようと

少し憂鬱な気分になっている早苗を、射命丸は何を考えているか

わからない表情で一瞥してから、それじゃあ又、と何処かへ飛び去って行った。




その翌日、昼をかなり過ぎて日が沈み始めるにはまだ時間があるが

そろそろ夕方と呼んでも構わない頃になって、やっと客人が到着した。


午前中に一度境内を掃き清めておいたのに、

待っている間にまたぱらぱらと落ちてしまった葉を、

早苗は掻き集めていたところだった。


鳥居をくぐって境内に現われたのは、昨日の天狗と客人、

そして何故か河童の河城にとりも一緒だった。

天狗が早苗に気付き、一足先に近寄ってくる。

その間も客人は熱心に河童と話していて、早苗には気付いていないようだ。

にとりはどうしてか少し得意げに人間の相手をしているように見える。

ふわりと横に立って早苗と同じ方を眺めやりながら、射命丸は到着を告げた。


「昨日話しておいた客人です。そちらの準備はもう?」


「ええ、八坂様達も客殿のほうでお待ちです」


「そうですか、じゃあ私達は人を集めてまた後で顔を出しますから」


「はい。あの、今日はにとりさんもご一緒なんですね」


「あの子も今回の事の関係者ですからね」


「今回の事?」


「聞いてないの?おかしいな、まぁ八坂様との話を聞けばわかるでしょう。

あ、阿求さん、こちらがこの神社の巫女で現人神の東風谷早苗さんです」


「現人神なんて…あ、や、どうも初めまして」


射命丸の紹介に慌てて頭を下げるも、早苗は顔を上げるのが辛い。

現人神という言葉は、早苗の中で置き所の定まらない言葉であり、

ましてこれ以上他人に知られたい言葉ではなかった。


必要以上に深々とお辞儀をしていることに気付いて、

また慌てて顔を上げる。

自分の顔は赤くなっていないだろうかと客の顔を遠慮がちに窺う早苗を、

阿求は静かに微笑んで見詰めていた。


「初めまして、稗田阿求と言います。よろしくお願いしますね」


軽く頭を下げて応じる阿求を見て、早苗は内心で感嘆の息を吐いていた。


小作りな顔の周りには、日の加減によって赤みがかって見える

柔らかそうな髪が揺れている。

肩のあたりで切り揃え、一輪の花をリボンで留めた様子は

年頃らしい瑞々しさを見る者に与える。


上は萌黄色の単の上に頭と同じ花柄が織り込まれた振袖風の鮮やかな黄色い上着を着て、

下は一般的な巫女の袴より少し明るさを抑えた色、紅海老茶とでも言うような色のスカートで、

自分の髪と合わせているのかもしれない。

それを真紅に白いフリルのついた帯で留めている様は

どこか大昔の女学生の袴姿を思い起こさせる。


早苗には、全体的に鮮やかな暖色で纏めた阿求の服装は、

木々の葉が色を失い始めようかというこの時期に、

そこだけ冬を飛び越えて春がやって来たように思えた。

顔の作りもパーツだけを見れば活発そうにできているというのに、

子供っぽくも嫌らしくも感じさせないのは

この人の理性的な印象の眼差しや物腰のせいだろうと直感的に当たりをつけて、

まだ同い年くらいだろうにと、感心せずにはいられなかった。


「は、はい、こちらこそ」


「よし、じゃあ阿求さんの案内はよろしく。行くよ、にとり」


「うん、阿求、早苗、また後で。今日のきゅうりは梅肉でさっぱりとだよ」


神社から遠ざかる二人にそれぞれ一言かけてから、

連れ立って神奈子達の待つ客殿へ向かう。

間を持たせようと早苗は先ほど少し気になったことを尋ねてみた。


「にとりさんと熱心にお話されていたようですね」


「ええ、河童の方とは初めてお会いしたものですから。

いろいろと 伺いたいことがあって。」


「そうですか。射命丸さんとは以前から?」


「親しいという程ではありませんけれど、

何度かお話させていただいた ことはあります。

私の誕生祝賀会や神事にも取材に来られて」


「神事、ですか?」


「はい。私の家系は代々、少し特殊な役目を負っているもので。

どなたか…射命丸さんあたりから伺っていないのですか?」


「はぁ、いえ、その」


全く知りませんでしたとも言えず、返答に窮したところで客殿に着いた。

安堵しつつも早苗は、自分の知らないところでいつの間にか

何かが決定されていたことに漠然とした不安を感じていた。




外の世界にいた頃は、時折厄除け払い等の依頼があり、

その時に使用していたのが、今三人がいる客殿である。

予定では客である阿求と、早苗と神奈子、諏訪子の計四人がいる筈だったのだが、

待つことに飽きたのか、諏訪子はどこかへ行ってしまってまだ戻って来ていなかった。

待っていても仕方がないので始めようということになり、

まずは阿求が頭を下げた。


「稗田家当主、九代目阿礼乙女の稗田阿求と申します。

本日はお招きに預かりまして、光栄に存じます」


阿求の丁寧な挨拶を聞いて、神奈子は愉快そうに片眉を上げ

少しおどけた表情を作って返答をする。


「これはどうもご丁寧に。でもそんなに畏まらなくていいわよ」


「は、ではお言葉に甘えさせていただきます」


「そうして頂戴。私はこの神社に祀られている八坂神奈子。

ほんとはもう一柱、諏訪子ってのがいる筈だったんだけど。

ごめんなさいね、勝手な子で。知ってるかもしれないけど、

そこの あなたを案内してきたのがうちの巫女で東風谷早苗。」


神奈子の紹介にあわせて早苗も改めて頭を下げる。

先ほどに比べれば、今度はどうにかスマートにできたようだ。


「ま、後に宴会も控えてることだからさっそく本題に入らせてもらうけど、

ここまで来た道中の感想は如何?」


それが今日の本題なのかと、首を傾げる早苗を他所に会話は進む。


「そうですね、普通の人間には入ることの叶わないこの山に入ることが

できたというだけで、阿礼乙女である私としては嬉しいのですが…

里の一般の人間達にとっても楽しめる道筋が選ばれていると感じましたね。

舟下りならぬ舟上りという趣向も面白いですし。

船頭もいないのに船が動き出したのには驚きましたが。」


「ああ、あれね、河童に作ってもらったモーター付きのボート。

でも、自動操縦装置まではつけてないはずだけどねぇ」


「河童なら、ボートから降りたときどこからか現われましたけど」


「ははぁ、なるほど。あなた、ボートに乗ってるとき、すごいとかなんとか

一人言いわなかった?」


「え?ええ…そういえば確かに。でも何故それを?」


「船頭は乗ってたのよ。河童は人見知りするみたいだから

なにか発明品を使って姿を隠してたんでしょう。

それであなたが褒めたものだから、気を良くして姿を見せたのよ。

ただ、隠れてたのがバレると気恥ずかしいから、

さも今そこに現れたようなフリでね」


「あぁ、どうりでいきなり、妙に親しげだったわけです」


互いに笑いあう二人を見ながら、早苗の疑問は膨らんでいく。

一体どうして、河童にボートまで用意させてまでこの人をここへ呼んだのか。

神奈子は感想を聞きたがっているようだが、

里人相手に渓流ツアーでもやるつもりなのだろうか。


「で、それから?」


「舟を降りてからは天狗の方に抱えて運んでもらったんですが、

高いところから風景を眺めるというのは、やはりいい気分ですね」


「気に入ってもらえたみたいで何よりね」


「季節によって眺めも変わっていいでしょうね。でも、河童達はともかく

天狗達がそう度々人に手を貸してくれるものでしょうか」


「ああ、それは今回だけの特別なの。次からは、私の力で山に何箇所か

柱を立てて、それを太い縄で繋いで、駕籠をぶら下げてね」


「あの!」


我慢できずに早苗が声をあげる。神奈子達が何をしようとしているのか

なんとなく察しはついたが、そんな重大なことを自分にだけ知らせずに

進めようとしていたなんて、いくらなんでも酷い話ではないか。


「さっきから話を聞いてると、麓から神社までの人間用のルートを

作ろうとしてるみたいですが…」


「あら、言ってなかったかしら」


「聞いてません!」


「ごめんなさい、ついうっかり」


「うっかりって…大体、妖怪達から信仰を集めるはずじゃなかったんですか」


「それに変わりはないわよ。でも、人間からは集めないとも言ってない」


「そんな…」


俯く早苗に追い討ちをかけるように、神奈子が口を開く。


「信仰だけ集めていれば生きていけるわけではないでしょう。

特にあなたは。

それくらいわかってくれていると思っていたわ」


早苗は言葉もでなかった。考えてみればすぐにわかることだった。

今までは外の世界にいたころに蓄えた食料でなんとなく生活してきたが、

いつまでもそうしているわけにはいかない。

こちらに移ってきてから、炊事洗濯全て早苗がやるようになった。

まだ蓄えがあったので安心していたが、

いつか困るときが来ると薄々は気付いていた。

そもそも、この世界と元いた世界とでは通貨の基準すら違うのだから。

人里とのルートができれば、賽銭に限らず物販によっても

金銭を得ることが可能になるだろうし、或いはそのルートを使って

商人達がここへ来てくれるようになれば、いちいち麓へ降りていかずとも

食料その他を手に入れることができるだろう。


だが、事を起こすならせめて、まず自分に話してくれるべきではないのか、

私はこの神社の一員、たった三人の内の一人なのだから。

そう言おうとして口を開きかけたが、

それを遮ろうとするような神奈子の視線が早苗の動きを止める。


「甘えたことを言うつもりじゃないでしょうね?」


もう早苗に反発する気力は残っていなかった。

それどころか自分が情けなくて仕方がない。

本来なら、巫女たる早苗が率先して

里‐山間のルート開設を考えなければならなかったのだ。

自分一人ではどうにもならない事ではある。

それでも誰の力をどのように借りるのか、それを考えることすらせずに、

祀られるべき神である神奈子達に気を使わせているようでは

自分が何のためにここにいるのかわからないではないか。


「……」


押し黙る早苗を見かねたのか、阿求が助け舟を出す。


「まぁまぁ、今日はそのくらいにしてあげたら如何ですか?彼女だって

全く考えていなかったわけではなかったようですから」


「そうね、みっともないところを見せてごめんなさい。続けましょうか」


下を向いたままの早苗をよそに、二人の話が再開される。

せめて話だけでもしっかり聞いて、これからは自分も役に立たなければ、

そう思いはするのだが、気持ちの切り替えの下手な早苗の意識は

ともすれば悔いる気持ちに押し流されて、自分の内へと逸れて

いきそうになるのだった。




神奈子と阿求の話が大方出尽くした感じになると、

もう日も沈み始める時刻になっていた。


今回阿求が呼ばれたのは神社までのルートを体感してもらい、

その感想を射命丸の新聞に寄稿してもらうためであったようだ。


早苗はそのときまで知らなかったが、

阿求の一族が代々編纂してきた書物というのは

人里でそれなりの権威をもって扱われるものなのだという。

阿求も物心ついたときから勉強を始め、

既に何年も前からその書物の編纂を手がけているらしい。


早苗としては感心することしきりだが、神奈子に言わせると

そういった人物が書いた文章であれば、人間にとって信頼性も高く、

阿礼乙女と同じ体験ができると思えば、

参詣したいと考える人間の数も決して少なくないだろう、ということであった。


またさらに、これから雪に閉じ込められて娯楽の減る人里に新聞を配れば、

冬の間に暇にあかせて逞しくした人々の想像がさらに集客率をアップさせる、

というのが本人曰く、"素晴らしい計画の一部”であるらしい。

そのためにはルートだけでなく、境内や社の素晴らしさも

人々に伝えなければならない。早くしないと日が暮れてしまう。


神奈子は早苗に案内を言いつけると、

自分は宴会の準備に行くと言って出て行ってしまった。

そこで早苗は阿求を連れて境内をうろうろと歩いてるのだが、

先ほど情けないところを見られたためにどうも気まずく、

話の弾まないこと夥しかった。

標高の高いこの場所では里よりも遅く日が沈むが、

早苗が気付いたときにはもうあたりはオレンジ色に染まり出している。


「ああ、夕日に染まるお社も、荘厳な感じで美しいですね」


阿求があたり見回して、目を細めながら零した一言が、

早苗にあることを思い出させた。

それはとてもいい思いつきであるように思えた。


「そうだ、阿求さん、外の世界から移ってきたのは

神社だけじゃないんですよ。これからそれを見に行きませんか」


こちらに移ってくるとき守矢神社とその岸を接していた湖も一緒に移ってきた。

神社と湖の境に林立する神奈子の御柱。夕暮れ時にその上から眺める湖は美しい。

幻想郷という名のこの世界にも、あれほど幻想的な風景は

そうはないだろうと早苗は思っている。

是非それを阿求に見せたかったし、自分の沈んだ気持ちも

あの景色を見れば少しはマシになるだろうと思えた。




守矢神社の境内は広い。

元の世界にいた頃よりも広くなっている気がするが、

どこがどれだけ広くなったのか、正確に思い出そうとしても何故かできなかった。

そのことも、違う世界に移ってきたという、俄かに信じ難い出来事を

早苗に実感させたことのひとつであった。

それはともかく、今から歩いて向かっていたのでは間に合わない。

日が完全に沈むまでにはまだ間があるが、

湖面に映る夕日を見るためには急がねばならない。

自分一人の時は飛んで行けばすぐなのだが、今は阿求も一緒だ。

彼女を抱えていくしかないのだが、いくら奇跡を起こす能力があると行っても

早苗の体は少女のものである。

自分の腕の力だけでひと一人支えるのは心許なく、

阿求にもしっかりとしがみついてもらわなければならない。


互いに向かい合い、早苗は阿求の腰に手を回す。

早苗よりも少し小柄な阿求は爪先立って相手の首にしがみつく。

なんだかまるで恋人同士がする抱擁のようだ、

ふと頭にそう浮かんでしまったせいで、早苗は頬が熱くなるのを感じた。


彼女は今自分の肩に顔を埋めている。顔を見られる心配はない。

もし見られたとしても、夕日の赤が誤魔化してくれるだろう。

そう考えて地面を蹴る。


ふわりと体が浮き、阿求を落とさないようにと腕に力を込めると、

彼女も早苗の首に回した手の力を強くする。

その瞬間、顔を見られなくとも、このように密着していては

鼓動が伝わってしまうのではないか?という疑問が頭をよぎる。


二人のどちらも、胸はさして大きくないようだ。

そんなことを意識した途端、胸だけでなく、

阿求の体全ての柔らかく繊細な感触が、

同じように早苗の体全体に染み込むように感じられて、更に恥ずかしさが込み上げる。

一瞬、早苗の集中は大きく乱れて、空中で思わずぐらりとよろめいてしまった。

阿求が小さく悲鳴を上げる。


「ご、ごめんなさい、大丈夫、落ちたりしませんから」


阿求が何か返事をしたようだったが、

耳元で鳴るごうごうという音が邪魔をして聞き取ることはできなかった。

果たしてそれは風を切って飛ぶ音なのか、

過剰な運動を続ける心臓が送り出す、

自分の血の流れが体中で反響している音なのか、

早苗には判断がつかなかった。


天狗に運んでもらったときにはこのようなことはなかったのだろう。

阿求が腕の力を強めて早苗に体を押し付ける。

すると、早苗の心臓が打つタイミングを追いかけるように、

或いは逆かもしれないが、同じように緊張を迸らせる別のリズムが感じられて、

まるで二人の胸の間で馬か何かが駆け回っているようだという想像は、

早苗の緊張を多少はほぐしてくれた。




しばらく互いに無言で飛ぶうちに、阿求の鼓動も治まっていった。


それまで早苗の肩に頭を預けて目を瞑っていた阿求だったが、

ようやく首を巡らせて辺りを見る余裕が出てくると、

視界には一面赤く染まった神社が映る。

思わず感嘆の声を漏らすと、それが聞こえたのだろうか、

もうすぐ着きますから、と早苗に告げられる。

その言葉通り、程なく早苗の足が何かの上に着地する感触があって、

阿求を支えていた手も弛められた。

先ほど聞いた神奈子の立てた御柱の上に足の裏をつけると、

冷たい少し湿り気のある風が襟足を抜けて首筋をくすぐる。


「なんとか間に合ったみたいですよ。どうです、綺麗でしょう」


という早苗の声を聞きながら、微かに強張った腕を解いて振り返る。


確かに、藍暗く、しかし鏡のように澄み渡った湖面に

茜と橙を織り交ぜて燃える、夕日の映り込みがゆらゆらと形を変える様を

普段よりもかなり高い位置から一望するのは、

正に感動的と言っていい体験だった。


「ああ、ほんとうね…」


そう応えた言葉が、余所行きのものでないことにも気付かないほど

目の前の光景に心を奪われていた阿求だったが、


「きっと、そう言ってもらえると思ったんだ」


と返した早苗の声音が気になってそっと横目で窺うと、

その夕日に照らされて輝く顔は、優しげに湖面を見詰め、

しかし疑うものなど何もないと言わんばかりの確信に満ちていた。


先ほどまでの戸惑いがちな自信のない様子と比べて、

ああ、この子はこんな顔もできるのか、

きっとこちらが彼女の本質なのだろうと素直に感じられたことが何故か嬉しく、

胸を暖められたような心地で湖に視線を戻すと、

美しさは変わらないのに、何処か柔らかな表情が加わったように思えるのだった。


また、一度目にしたことを忘れないという自分の能力が、

確実にこの光景を死ぬまで記憶に留めてくれるはずであることを思い起こし、

己が稗田阿求として生まれてきたことはとても素晴らしいことではないか

などど考えてしまった自分が、一方の冷静な自意識にとって少し恥ずかしく、

阿求は僅かに自嘲の笑みを浮かべたが、

もし誰かそれを見るものがいたとしても、その表情は

幸せな微笑みにしか見えなかったことだろう。

二人とも、それ以上口を開くこともなく湖を眺めてどれほどの時間が過ぎただろうか。

阿求はふと、このまま次第に明るさを失っていく湖面を見詰めているのが

耐えられないような気がして目を逸らそうかとも思ったが、

そうするのも何となく愚かな事であるように感じられ、

結局顔を動かすことなく再び時間は過ぎた。

しかし、湖が暗さに沈むまであと一分もかからないだろうという段階になって、

やはり辛く感じて見るのを辞める。

落ちつかない気分になって隣に目をやると、いつからそうしていたのか、

早苗ももう湖を見てはおらず、所在無さげに爪先を柱にこすりつけているのだった。




社への帰りは飛ぶのをやめ、歩いて帰ることにした。


もしかすると既に宴会の準備は整っているかもしれないが、

恐らく自分たちのことを待って酒食を我慢したりはしないだろうと思えたし、

二人とも先の光景の余韻を宴の騒がしさで掻き消してしまうのは

まだ惜しいと感じていた。

言葉少なに、今夜は泊まっていくこと、

明日帰る前に今日見れなかった分を案内すること等を確認し、

後は互いに黙々と足を動かした。


沈黙を気詰まりと感じない、むしろ手でも繋いで歩きたいような気分は、

客殿前からの陽気なざわめきが二人の耳に届いてくるまで続いた。

酒宴に加わってからは、早苗は参会者の間を世話して回るのに忙しく、

やはり酒に強くないらしい阿求も、昨日早苗が用意した客用の寝室に

いつの間にか下がったらしかった。




一夜明けて、境内の中を見て歩く二人の間によそよそしさはなかったが、

昨夜の帰り道に感じた不思議な連帯感はどこかへ失われてしまっていた。


早苗はそれを惜しいと思っているようだったが、

阿求のほうはそういった素振りを見せることもなく、

つつがなく妖怪の山経由守矢神社見学コースは終了した。

射命丸達が待っている筈の鳥居前に戻ってみると、

神奈子ら二柱も見送りのために出てきていた。


恐縮する阿求に対し、二柱は気さくな態度で声をかける。


「良かったらまた遊びにくるといいよ。」


「私たちに都合のよい事を書けとは言わないけど、できるだけ

読み応えのある記事を期待してるわ」


早苗が最後に自分も何か一声かけようとしたとき、

阿求が突然、二柱に頼みたいことがある、と切り出した。


「言ってみなさい。内容によるけど、なるべく叶えてあげるわ」


「なるべく定期的に、早苗さんをお借りすることをお許しいただけるでしょうか」


狐につままれたような顔をしている早苗を横目に見て、

おやまぁ、などと神奈子が楽しそうな声を漏らす。


「随分と仲良くなったみたいじゃない。早苗に友人ができるのは嬉しいわ。」


「それもありますが、外の世界のことをもっと伺いたいとも思いまして。

こちらは私の勤めに関する事ですので、一応お話を通しておこうかと」


「律儀ねぇ。早苗さえよければ別に構わないわよ。どうなの、早苗」


半ば呆然としていたところへ急に声をかけられて、

早苗はとっさになんと返事をしてよいかわからない。

しかしわざと意地悪く微笑んでこちらを見ている阿求に気付いたときに、

答えはまるで内から湧き出たように決定された。


「阿求さんの大事な仕事の手伝いとあれば、喜んで協力させていただきます」


早苗もわざと片頬を歪めて笑ってやると、

阿求が堪えきれないと言うように小さく吹き出して、

つられて早苗も素の笑みがこぼれてしまう。

そんな二人の様子を、

興味深そうに眺めていた神奈子が鷹揚に笑って二人の肩を叩く。


「なんだか分からないけど、早苗がいいなら許しましょう。」


ありがとうございます、という礼の言葉が重なったことがまた可笑しくて、

見交わしあって微笑む二人を見て、

今回の計画で二柱が最も望んでいた成果が早くも現われてきたらしい、と

感じた神奈子は人知れず、胸のうちを温かくするのだった。


そんな神奈子の想いも知らず、

阿求から次はあなたが尋ねて欲しいと渡された、

とても今朝即席で描いたとも思えない地図を見た早苗は、

さっきはうまくやり返せたと思ったけれど、

どうも相手のほうが一枚上手だったらしいと知って、

わくわくする気持ちを抑えきれず、

まるで今生の別れとでもいう勢いで手を振って見送ったものだから、

帰りも阿求を抱えて運んでいく天狗に首を傾げられたことにすら

気付かない有様だった。






こうして、早苗と阿求の行き来が始まったのだが、

阿求が妖怪の山に来ようとすると泊りがけになるし、

里から出ることの難しくなる雪の季節を間に挟んで、

自然と早苗が阿求の庵を訪れる事が多くなった。

最初は、文机に向かった阿求がいくつか早苗に質問をし、

それが済んだら縁側や炬燵で黒猫を構ったりしながらお茶を飲み、

たわいもない話をすることが常だったが、

いつしかその区切りも曖昧になって、

早苗の長い打ち明け話を阿求が聞きながら所々書き留めておく、

というのがここ最近の二人である。






阿求の庵の縁側に面したさして大きくもない庭で、

物干し竿を少したわませて、栗色をウォームグレーで縁取った

シンプルな炬燵布団が風に揺れている。

段々と陽射しの暖かくなっていくこの時期に、

もう炬燵は必要あるまいと考えて、

納戸に仕舞ってしまう前に日に当てているのだ。

こういった判断は、去年までは手伝いを頼んでいる近所の

農家のおばさんに任せきっていたのだが、

今年は阿求自らさっさと片付けることにした。

明日は早苗が庵を訪れる日である。

いつまでも炬燵を片付けずにいるだらしのない奴だと

思われたくなくての行動であった。

どちらかといえば小柄で、普段筆より重いものを

持つことの少ない阿求にとっては、

たかがこれだけのことがちょっとした力仕事だ。

縁側に腰掛けて一息つきながら、これまで気にもしなかったことが

早苗相手だと気にかかるのは何故だろうかとぼんやり考える。

大して歳の変わらぬ、むしろ背は相手のほうが高い少女に対して

何かと話を聞いてやる、まるで姉のようなことをしているせいで、

こんな些細なことでまで見栄を張りたくなったのだろうか。

早苗は妙に几帳面そうだからな、と彼女の顔を思い浮かべて、

阿求の意識は、そのまま早苗と交わした様々な会話の記憶を

徒然に辿り始めるのだった。






早苗に外の世界のことを尋ねるにあたって、

いきなり何でもいいから教えてくれ、

と言っても答えにくいだろうということで、阿求はまず、

早苗がこちらに移って来てから感じた違和感、

幻想郷と外界のギャップのようなことから話してくれるよう、

早苗に頼んだ。その中から阿求が気になった点、

よくわからない点などを尋ねていけば、

話が広がっていきやすいだろうと考えた。


早苗は、こちらに来る前に住んでいた場所も、

田舎で山がちなところだったので、辺りを見回しても

小さな建物ばかりなことは気にならなかったのだけれど、

と何に対してかわからないが、

本人はフォローを入れているつもりらしいことを呟いてから、

電気がないのにも驚いたし、

化石燃料の類が全く利用されていない事も意外であったという。

阿求もガソリンだの天然ガスだのメタンハイドレードだのと

言われても何のことやらわからなかったが、

石炭という言葉は、以前外の世界から流れ着いた書物に、

炭鉱節だのボタ山だのという言葉と一緒に載っているのを読んだことがあった。


そういった生活レベルの違和感、又はそこから派生して

科学技術や歴史、外の世界の文物の話といった

客観的な事実についての話題が、本来阿求が聞こうとしていることだったし、

早苗もそれを察して話題を選んでいた。


そうして二人は面会の回数を重ねていったのだが、

それがいつしか、もっと私的な体感、本人にも理由のわからない違和感、

そういう話から、早苗がこれまで抱いていた、

或いは今現在も抱いている葛藤、というところまで話は雪崩込んでいく。




早苗が最初に話したのは、自分の能力が、威力もできることも、

こちらに来る前より格段に増したことだった。


以前は、風を起こすくらいはできても、自分が空を飛ぶなんて

できなかったし考えもしなかったらしい。

風を呼ぶにしても、簡単な儀式、ある決まった体の動きと祝詞のようなもの、が

必要だったらしいのだが、今では腕の一振りで、さらには

頭で念じるだけでもかなりの風を吹かせることができるようになったという。


そこまでできなくても、自分は周囲に崇められていたのだから、

さらに凄くなった今、もう私に敵うものはないだろう、

そう短絡して、博麗神社に手を出したのだったが。


「コテンパンにされちゃいましたけどね…」


そう言って、早苗は恥ずかしそうに頬を掻く。

早苗の能力が増した、ということも気にはなったが、

阿求には、早苗が崇められていたのなら、さらに力のある神奈子が

何故信仰を失ってしまったのかがわからなかった。

そこを早苗に訊ねてみると、一瞬言葉を探して言いよどんだ後、

ぽつりぽつりと、口に出しながら整理している様子で話し出した。


「…八坂様の姿は、誰にも見えていなかったんです。

守矢の巫女である、この私にも」


それが信仰を失った結果なのか、

もともと外の世界ではそうなのかはわからないらしい。

ただ早苗には、姿はわからなくとも、

神奈子の存在ははっきりわかっていたという。


「うまく言えませんけど、こう、常に自分の背後にいらっしゃる感じがするというか」


そう言って早苗は自分の頭の後ろを手で示す。


「もちろん振り返っても、鏡に映しても見えませんけど。

誰かがそこに立っているという感じではなくて、

力の気配というか存在感というか、そういうものが常にありました」



恐らく生まれたときから早苗はそれを感じていて、

物心ついたときには、大人たちの言っている神様というのは

これのことに違いない、というふうに自然と理解していたらしい。

外の世界の信仰とはそういうものなのかと、

阿求が手元の紙に書き付けていると、

早苗はまるで、これまでためていた鬱憤を吐き出すかのように、

自分のこれまでの周囲との食い違いの感覚について話し始めた。



「誰も、少なくとも私の知る限りでは、そういう感じを持っている人は

いませんでした。どうしてそれで生きていけるのか、私にはわからなかった」


背後に感じる存在、それがこの世にあるのと、自分がこの世にあるのは

同じ事であって、もしそれがいなければ、同じように自分もいないだろう。

強いて言葉にするとしたらそういう感覚、それを感じているのは自分だけらしい。

そう気付いてからも、早苗にはしばらく信じることができなかったという。


神職である両親にしてからが、早苗の言っていることを

子供の戯言だと思っている節があった。

祖母は早苗が生まれる前に既に亡くなっていたが、

自分に巫女としての作法、奇跡を呼ぶ儀式等を教えてくれた祖父だけが、

この感覚を一番正確に理解してくれていた。あくまで"理解”であって

同じ感覚を有しているわけではないようであったが。


幼いながら、早苗は巫女として神の力に働きかける術を完璧に習得した。


儀式における一つ一つの動作に込められた、

言わば文法上の意味のようなものを感じ取ることができた早苗は、

周囲の人間達と話すための言葉を覚えるのと同時に、

姿を見ることも、会話を交わすこともできない背後の神に、

己の意思を伝え奇跡を呼ぶための別の言葉も覚えていったのだった。


そんな早苗を、守矢神社に生を受けながら、

奇跡を呼ぶ法を親から教えられなかった早苗の母親は、

愛していないわけではなかったにしろ、

どこか疎ましく思っていたようで、早苗が神のことを口にするのを

真面目に相手にしようとはしなかった。


手放しで認めてくれたのは、やはり祖父だけであった。

小学校にあがってしばらくするころ、その祖父も亡くなってしまうと、

早苗の言うことに耳を貸してくれる者は誰もいなくなった。


同年の子供達にも、早苗の言っていることが理解できず、

ときどき変なことを言い出すクラスメート、という扱いだった。


そんな時、地元で最近、少々大きく金を貯めた家から

神社に婿に来ていた早苗の父親が、

例えるならピアノの上手な愛娘を自慢するのと同じ程度の気持ちで、

氏子を含む地元の人々に、早苗の奇跡を披露させたことがあった。


娘が周囲を驚かせ、誉めそやされるのを見たかったし、

あわよくば新たに信者を増やすことで、伝統ある神社の入り婿として、

多少の権威拡大を狙っていたのであった。


夫より信仰も伝統も遥かに理解している早苗の母親が止めれば

よかったのだが、あまりに無邪気な夫に押し切られ、

或いは自分が娘の力を素直に認められないことも引け目となって、

奇跡のお披露目会は実行に移されたのであった。


結果、早苗の力は実力通りに発揮され、

何があるのかよくわからないままに集まった人々を驚かせた。


一応信者も増えたが、神社に集まる信仰が増えたというより、

早苗個人を神格化するような、カルト地味た様相を帯びて、

そういった人達の相手をしなければならなくなったことに

両親は苦労したし、古くからの氏子達は、

縁を切られるようなことこそなかったものの、

どんなタネがあるのかしらないが、余計なことをしてくれたものだと

冷ややかな目を向けたのだった。


そうなってしまった責任を娘に転嫁するような

愚かなことをする両親ではなかったことは早苗には幸いだったと言える。


他にも、早苗は周囲の大人たちに比較的恵まれたと見えて、

子供たちから妙に遠ざけられたり虐められたりということがないように守られた。

それでも子供心に自分は何か余計なことをしたらしいと感じた早苗は、

それ以降、人前で奇跡を起こすことも、

自分の感じる神について語ることもしなくなったという。


そんな風にどこか萎縮してしまった娘を見て、両親はせめて、

先のことをしっている者が誰もいないような、

地元からは少し離れた私立の学校を受験することを早苗に勧めた。

早苗もそれに異を唱えることをしなかった。




そうして、早苗は少なくとも神社の外では

自分が巫女であることとは関係のない生活を送っていたのだが、

やはり人々が自分の感じているような信仰なしで生きていられるとは

信じることができず、きっと何か別の信仰があるに違いないと考えて

クラスメートや教師達を観察してみることにした。


するとどうも、早苗が感じているのとは違うにせよ、

誰もが色んなことを無意識に信じて生きている、むしろそれによって

世界が成り立っているのだということが、おぼろげに理解されるのだった。


例えば、物事の善悪の判断をつけるときに、早苗はまず、

自分の背後の存在に対して恥ずかしくないことであるかどうかを

基準にしていたのだが、他の人々にとってはそれが、

"社会"であるとか、"人として"であるとか、そういったものを

元にしているらしかった。


早苗にしてみれば、そんなどこにあるのやらわからない

曖昧なものを基準にして何故迷わないのか不思議だったが、

大人たちを見る限り、迷っている姿を見せないようにすることが、

大人であるということのひとつらしいと知って、

さもありなんと一人頷いたのである。


そういう、人々の“信仰”の中には、早苗が以前から感じていた

友人関係についてであるとか、恋愛についてであるとかも含まれた。


恋愛についてであれば、同級の女の子達は、

男性と恋愛をしたい、又はすると決めている子がほとんどで、

同年代の身近な男子については、幼稚だなんだと

散々論評するくせに、世界のどこか、或いは画面の向こうには

素敵な愛すべき男性がいて、自分のことを愛してくれる、

もしそうならないとしたらそれは不幸なことなのだと信じて疑わなかった。


早苗も、素敵な男性を見れば憧れたが、

美しい女性を見たときの感覚とどこが違うのかよくわからなかったし、

差し当たって、今すぐ恋人が欲しいとも感じていなかったので、

幾人かの友人達とお喋りをしていて、そういう話題をふられたとき、

なんの気なしに言ってみたことがある。


「そういうのよくわからないし、私は女の子といるほうが楽しいな。

男の子と付き合えなくっても、別に困らないと思う」


それを聞いた友人達は、未知の生物を見るような、

そうでなければ小動物でも愛でるような目をして、

いつまでもそんなんじゃまずい、いやむしろそのままでいて欲しい、

などと早苗のことを散々囃し立てたが、

つまるところ、あなたはまだ幼いからわからないのだ、と言いたかったらしい。


早苗としても、別に深く考えての発言ではなかったので、

皆がそう言うのだから、そういうものなのだろうと適当に流して、

その後は、そういう話題にはなるべく口を噤んでいることにした。


家が比較的遠く、家業の手伝い、というか半ば主役、が

あったため部活にも入らず、生活態度も人一倍真面目なのに

何かの役職につかされることもなく、早苗の日々は過ぎていった。




そんなある日のことであった。


夏休みは半分をとうに過ぎて、宿題も当然のように全て済ませていたので、

何の気兼ねもなく神社の境内を掃き掃除しながら、

連日の炎天下のせいか参詣するものの一人もいない境内を

ふと見渡したときである。


こういうものを天啓というのだろうか。

早苗は突然、自分が選択を迫られていることを悟る。

ここに残るか、全く別のところへ移るか。


何かメッセージのようなものがあったわけではない。

ただそうであることがわかってしまっただけだ。


こんなことを誰かに相談できるわけがない。

両親に話しても昔の心配を思い出させるだけだし、

友人に話せば、暑さで頭をやられたと思われるのがオチだろう。

しかし、自分が選択を迫られているという“事実”を

なかったことにしてしまうことはできない。

事態は己の信仰に関わる一大事なのだ。


ここに残ればいずれ自分は神を失う。

早苗がどう決断しようが、神は信仰を求めて異界へと旅立つだろう。

神が去った後、果たして自分は生きていられるのだろうか。

誰も自分と同じように神を持っている人はいない。

神を失うということは、単に早苗が普通の人間になるというだけのことかもしれない。


不思議と、もし自分が神と共に姿を消したとしたら、

残された両親や友人が心を痛めるだろうという発想は

早苗の意識に上らなかった。


一体どれくらいの時間逡巡したのだろう。


気付くと早苗は混乱のあまり、あてもなく境内と社の周辺を歩き回り、

いつの間にか汗だくになっていた。


足元がおぼつかなくなって、普段なら絶対にしないことだが、

投げやりな気分でそのまま地面にぐったりと座り込む。


陽射しがきつい。そのまま目を閉じて寝転がりたい誘惑に耐えて、

重い頭を巡らせて周囲の風景を眺めやる。

どう決断するにしろ、きっと同じように世界を見ることはもうできないだろう。


じぃじぃと蝉の声がやかましい。

景色がゆらゆらと歪んでいるのは陽炎なのか、

真夏日に帽子も被らず歩き回って朦朧とした意識のせいか。

遠くで何かが光っている。何かに太陽光が反射しているらしいのだが、

遠すぎてそれが何かはわからない。

眩しさに目を細めつつ、それから目を離すことができない。

何故かそのときにはもう、早苗の心は決まっていた。


神と共にこの世界を去る。


そう決めてしまうとまた歩き出す気力がわいて、早苗は神社へと引き返す。

せめて両親にはこのことを伝えなければならない。


どう話せば伝わるだろうかと考えながら、

これまで何度もくぐった鳥居の下を通り抜けた直後であった。


早苗は幻想郷にいた。


それからしばらく、と言ってもどれくらいの時間だったのか

正確にはわからないのだが、早苗の意識は

夢を見ているように朦朧としていた。


ともすれば途切れがちな記憶を無理に繋ぎ合わせてみると、

一応は普段通りの生活を送っていたらしい。

考えてみればそれもおかしな話ではあるのだが、

意識が急にはっきりとした瞬間も、

母屋の居間でお茶を飲んでいるときに訪れたのだった。


そのとき、向かいに座ってお茶を飲んでいる人物がいた。


両親のどちらかではない。

深紅の衣装を着て、胸元には特徴的な鏡を細い注連縄でぶら下げている、

夜に没する直前の湖のような、深い紺青の色をした髪を

ふんわりと長めのボブカット風に揃えた女性。

早苗より幾らか年上のようではあるが、

正確な年齢のわからない美しい顔を見て、

早苗の口から八坂様、と自分の仕える神の名前が零れた。


「やっと目が覚めたようね」


そう言って笑う神奈子の顔を見ながら、何故自分はこの人が

八坂様だと感じるのだろうかと、改めて首を捻ってみる早苗だったが、

少し前まで自分の背後に感じていた力と存在感を

今は目の前に座っているこの女性から感じるのであった。

何か足りない気もしたが、この方が八坂様であることは間違いない、

そう早苗は確信してしまっていて、今更疑う気にもなれなかった。


後日、奇抜な帽子を被って境内をうろうろしている人物に出会って、

足りなかったのはこれかと得心して、微妙な違和感も解決したのである。






ここまでの話が数度の面会に渡って語られ終えると、

早苗の顔は、先ほどから喋り詰めであった疲労を漂わせながらも

まるでつかえが取れたというように、穏かだった。


阿求は、早苗の告白にも似た生い立ちについての長い話が始まってから、

その日に聞いた話を、次に早苗が訪れるまで

何度か反芻してみることが習慣のようになっていたのだが、

最近では、外の世界と幻想郷には、

本質的な違いはないのではないかという気がしている。


少なくとも、限られた命しか持たない人間にとっては、

魔法や妖怪が当たり前のように存在することが

何か決定的な差異を作り出すとは言えないのではないか、と。


こちらに移ってきた途端、神奈子や諏訪子が人型をして現われたことには

何か意味があるのだろうかと思い訊いてみると、

早苗にもそのあたりのことはよくわからないのだという。


早苗は何か思い出しているような顔をした後、そういえば、と切り出した。


「関係あるかどうかわからないけど、幻想郷に入るということは、

外の世界にあるものがそのままこちらに移ってくる、

ということとは違うって、以前八坂様が仰ってました」


詳しく話すように阿求が頼むと、

私も意味を理解しているわけではないんですよ、と断ってから

確かにただ聞いたことを丸投げしているだけとわかる、

たどたどしい口調で話し始めた。




神奈子のことを認識してから幾日か後のこと、

こちらに来ることを決めたときには思いつきもしなかったのに、

今になって残してきた両親や友人のことが気になりだした早苗が

俄かに塞ぎ出したのを見て、神奈子は安心させるように、

あちらの世界から早苗がいなくなったわけではないのだ、と

早苗に教えてくれたらしい。


てっきり事件に巻き込まれたか、もしかすると神隠しにあったと思われて、

今ごろ向こうは大騒ぎをしているだろうとばかり思っていた早苗は

拍子抜けすると同時に、やはり納得がいかなかった。


どういうことかと訊いても、どうせ分かりはしないだろうからと

神奈子はなかなか教えてくれなかったが、早苗が食い下がると

しぶしぶ話してくれたのであった。


神奈子の言うには、こちらへ移ってきたのは早苗の一部分だけらしい。


そう阿求に言ってしまってから、いやそうじゃなかった、と早苗は言い直す。


「えっと、私の一部だけが新しくこちらに出現?したとかなんとか」


訂正されても阿求には理解できなかったが、

話している本人が分かっていないのだから仕方がない。


話を先に進めると、その出現した部分というのは、

神奈子の言葉をそのまま使うなら、「忘れられていく早苗 」であるという。


「ちっちゃい頃の私ってことですかって聞いても違うって言われちゃって。

しばらく考えて今度は、本当の自分みたいなものかって訊いたんです。

あ、なんかこの答えちょっと恥ずかしいですね。」


照れくさそうにする早苗を微笑ましく思いつつも、阿求は話の続きを促す。


神奈子は違う、と答えてから、じっと早苗を見返して言った。


「本当の自分、なんてもの、どこにもありゃしないわよ。

他人にとっての自分、自分にとっての自分、

他にも本当にいろんな、何がなんだかわからない位いろんなものが

せめぎ合って、人間はできているの。

いや、“できてしまっている”のよ」


はぁ、と気の抜けた返事をする早苗を見て、

神奈子はフッと微笑むと、

まあわからないだろうけどとにかく聞けと言って話を続けた。


できてしまっている人は、また段々と形を変えて

その人が死ぬまで、できてしまい続けるのだとか。


その中に、消滅してしまうことはないが、しっかり覚えておくこともできない、

ずっと忘れられていく自分、というのがあって、

幻想郷にやってこれるのは、人にとってはその部分だけなのだといいう。


部分、という言い方も何処かおかしいんだけど、と

他に言い方の見つからないことに苛立ちをみせて、神奈子は先を続ける。

ともかく、神奈子が手助けをして、早苗の“それ”を幻想郷に出現させた。


神や妖怪というのは、存在そのものが“それ”で、

人の中の“それ”と神や妖怪の“それ”を共鳴させることが、

所謂「神遊び」であるらしい。


全く理解できず、そろそろ頭が情報を拒否し始めていた早苗は、

それで結局、することは宴会じゃないか、という

諦めの混ざった感想を抱くことしかできなかったのだが、

とりあえず、それなら自分は、

こちらに移ってきて本当に神になったのかと訊ねると、

返って来た答えもいまいちよくわからないものだった。


「人間のままでは、どんな世界であっても“それ”だけでは

存在することはできないんだとか。勝手に、細胞みたいに

分裂して増えて、その集合としてのひとつ、になっちゃうんだって」


そもそも細胞ってなんですかと訊ねる阿求に説明してから

早苗は思い出したように付け加える。


「ああ、あと、わかりやすく例えると、湖に映る夕日が私だとするなら、

湖の南から見たのが今の私で、北から見たのが

外の世界の私、なんですって。全然わかりやすくないよね」


確かに全然わからないねと、いっそ愉快な気分で応えながら、

阿求は初めて早苗と会った日に見た美しい光景を思い出していた。






あの湖で見た早苗の横顔が、本当の早苗だという思いは

これまで話を聞いてきても、いささかも変わっていない。


庵の縁側にだらしなく寝転がりながら、

阿求はずっと目を瞑って、早苗との対話を思い返していた。


そのおかげか、先ほどの何故自分はこんなにも

早苗のことが気にかかるのだろうという疑問は、

阿求に対して照れくさそうに、ときには何かにのめり込むように

話を続けるあの仕草のひとつひとつが、

とても好ましいものに感じられるからだという答えに辿り着くことができた。

どうしてそれが好ましいのか、それはまだわからなかったが。


そのとき、飼っている黒猫の肉球が阿求の頬を叩いたので、

長い思索はそこでお開きとなった。


目を開ければ既に夕暮れ近い時間となっている。

黒猫はきっと腹が空いたので餌を要求しにきたのだろう。

大分長い時間ぼんやりと過ごしてしまった自分に軽く呆れて、

そうだ、布団を取り込まなくちゃと、阿求は身を起こすのだった。






今日も早苗は阿求の庵に向かってよく晴れた空を飛んでいく。

今回はいつも阿求のもとを訪れるのとは別の日である。


前回の予定日には、里へ出かけることができなかった。

幻想郷に春一番が吹き荒れたためだ。


その中を飛んで行けば、頭も服もぐちゃぐちゃになってしまう。

風雨を司る神の巫女であるからには、風を静めることもできないではないが、

季節の変化を告げる風が相手となると、手を出すわけにもいかなかった。


だから、薄汚れた姿を阿求に見られたくなかった早苗は

しぶしぶ阿求を尋ねるのを諦めた。




外の世界にいた頃は、電話もメールも必要ないと思っていた。

一応、携帯電話もパソコンも持ってはいたが、

例えば夜中にいきなり友人に電話をかけて話し込む、

というような事をするタイプでもなかったし、

神社には参拝者が思い思いの時間に訪れるので、

その相手をするのが普通だった早苗にとって、

人と会う約束の時間が多少前後しようが特に気にするようなことでもなかった。

早苗のほうが約束に遅れるということは、性格からいってないのと同じである。

そもそも、そういった生活のせいで学校の外で友達と待ち合わせて遊んだり、

ということ自体、早苗には珍しいことではあった。


そんな訳で、電話もメールもなければないでなんとかなる程度のものだったのだが、

いざ阿求を待ちぼうけさせてしまうかもしれない事態になると

そういったものがほとんど存在しないこの状況が、途端に恨めしく思えるのだった。


その時は偶然、射命丸が人里に行く用事があるらしく、

ついでに阿求の所へ寄ってもらえないかと頼んでみると、

すんなり了承してくれたので事なきを得たのである。

風に乗って幻想郷一早く飛ぶ妖怪にとって、多少の強風など屁でもない、

紙束さえ抱えていなければ、ということらしい。


そして今日、次の予定日まで待ちきれなくなって

阿求の庵へ向かっているのである。




他にも人里に向かう理由はあったわけだし、と早苗は自分を納得させる。


本格的に守矢神社を人間に向けて公開するにあたって、

お札やお守り等の物販も始める準備をしているのだが、

それらの価格を決めるために、この世界の物価を調べてくるように言われているのだ。


明確に目的と効果を定めて作られる法具であればともかく、

ただのお守り程度のものが役に立ったと感じるかどうかは、

結局のところ気の持ちよう、ということになってしまう。

つまり、そのお守りが最大限効果を発揮するためには、

適切な値段設定をしてやることが重要になってくるのだ。


高すぎれば売れないし、無理をして買った人はそれだけ大きな利益を望む。

逆に安すぎても、有り難味が薄れてよろしくない。

お守りもある意味、嗜好品、贅沢品の類であるようだ。

神奈子曰く、買うのを一瞬だけ躊躇する位の値段でちょうどいいとか。


里での生活必需品の物価から推測して最適な価格帯を導き出すべく、

早苗にその調査が言い渡された。


そのため、午前中に掃除洗濯、夕飯の仕込み等日常業務を全て済ませて

妖怪の山から出てきたのだが、早苗はまっすぐ里の市場に向かわずに

里の中心から少し外れたところにある阿求の庵を目指している。


せっかくだから阿求を買い物に誘ってみよう、と思いついたのだ。


ウインドウショッピング、と言えるほど商品の陳列に趣向をこらすという意識は

残念ながら幻想郷には根付いていない。

しかし、近在で農家を営む里人に月々謝礼を渡して身の回りの世話を

してもらっているらしい阿求にとっては、市場もそう普段足を向けることは

ないのではないかと考えて、天気もいいことだし、

きっと楽しい散歩になるだろうと、早苗の胸は期待に弾んでいる。




だが同時に、漠然とした不安に怯えてもいる。


早苗自身、意識できていないことであったが、今回の行動には、

阿求が自分のことをどう捉えているのか試そうという、

少々姑息といえなくもない、密かな動機があった。


これまで二人は、名目としては阿求の仕事の手伝いであるから、

共に過ごした時間は庵の中に篭もってばかりであった。

名目は名目であって、特に護持する必要もないのだが、

冬ではあったし、両名とも真面目で律儀な性格だったので、

たまにはどこかへ出かけようか、等ということもなく

これまで過ごして来てしまったのであった。


それに加えて、予定外の日にいきなり尋ねて行くこと自体

初めてのことである。


相手も他に用事があるかもしれず、断られるか、

既にどこかへ出かけている可能性も充分に考えられる。


だが、阿求が申し出にどう返事するかはともかく、

顔つきや態度で早苗のことをどう思っているのかわかるかもしれない。

素直に嬉しそうな、あるいは残念そうな対応をするのであれば

親しい友人と思われていると考えられるし、

奥歯にものが挟まったような、または露骨に嫌そうな対応で

あったなら、早苗は、仕事上付き合っているだけなのに

いきなり私用で押しかけた迷惑な奴ということになる。


後者であったからといって、それで阿求を詰ろうとか

そういうことを考えているわけではない。


そもそも張本人が、自身の隠れた思惑に気付いていないのだから

何の波乱も起きようがない。

それでも、もし阿求に嫌な顔でもされたとしたら、早苗には

自分は落ち込んだ気分から当分抜け出せないだろうということが、

なんとなく察せられているのであった。




しかし、空を行く早苗の速度に乱れはない。


不安より期待が上回っているのと、出掛けに見かけた変な生き物、

所構わず春だ春だと告げて回るそれが、

山の妖怪達がそろそろだと噂していた妖精リリーであることに

思い当たって、これは吉兆に違いない、

そう根拠もなく感じたため、早苗の顔はまっすぐ前を向いていた。

阿求の庵まであと少しである。




昼までまだ少し間のある時間、

朝の仕入れに賑わう時間を大分過ぎて、

買い物客は少ないが閑散とした印象からは程遠い市場の路地を

早苗と阿求が並んで歩いている。


時折店先を覗きこんではメモを取ったりしている早苗に、

これは時期より少し早いから高いだろう、

あっちの値段のほうが参考になるはず、等と阿求が助言する。


見るだけで買おうとしない二人を胡散臭そうに見る人、

お嬢ちゃん達可愛いからおまけするよと愛想を振り撒く人、

そんな商人たちの反応に出くわすたび、二人はくすくすと笑い交わした。


新参者の早苗を知っている人は勿論いないし、

阿求が普段利用する筆や墨、紙等を扱う店は

それなりの店舗を構えているのが普通なので、

簡単な屋台や筵の上に商品を並べた店の集まるこのあたりには

二人を守矢の巫女や阿礼乙女と知って声をかけてくる人はいなかった。


威勢のいい声が飛び交う中で、二人のことを知っているのは互いだけ、

そんな状況が早苗は愉快で、隣を歩く阿求もまんざらではないようだ。


小さな店が入り組み密集して、迷うおうと思えば迷ってしまえそうな

市場の狭い道を、二人は笑いさざめきながらあてどなく歩き回った。


勇気を出して本当によかった、と早苗は思う。


急に訪ねて来た早苗を見ても、驚きはしたようだが

阿求は快く庵に上がるよう勧めてくれた。


阿求のほうでも、しどろもどろに今日の用件を伝えようとする早苗が

可愛らしく思えて、今ひとつ要領を得ない早苗の話を

最後まで聞くのももどかしく、支度をするから待っていて、と

たまのお洒落をするために庵の中に戻ったのだった。


暖かい陽射しと、市場の活気が二人の気分を高揚させて、

夕日を映す湖を眺めた帰りの、あの心地よい連帯感が

二人の間に再び訪れていた。




大方見尽くしたかな、と名残惜しく思いながら

市場の外れに差し掛かったとき、どこからか、

二人の上にすっと黒い影を落とすものがあった。


おやと思って二人が顔をあげると、パチリという音と共に、

射命丸の悪戯っ子のような顔が目に入った。


「奇遇ですね、お二人さん。仲良く逢引きですか」


そう言って笑う射命丸が再びカメラを構える。


「微笑ましいお二人の姿、もう一枚頂いときましょうかね」


二度目のシャッターを切ってから、まだ納得のいかない顔をして

できれば手を繋ぐか何かしてくれると嬉しいんですけどねぇなどと

言い出す天狗が可笑しくて、阿求は笑いながら顔を手で隠す。

もう、なんですかいきなり、という言葉ほどには嫌がってはいないらしい。


早苗も本当は少し嬉しいのだが、照れも手伝ってか

さきほどの射命丸の発言をわざわざ否定してみせる。


「逢引きなんかじゃないですって。ただの散歩です、散歩」


それを聞いても、当然天狗は意地悪そうな笑顔を崩そうとはしない。


「隠すことないでしょう?早苗さんにそういうお相手ができたと知れば、

八坂様だって喜びますよ」


やだ、なんですかそれ、とますます照れる早苗を無視して

射命丸の口上は更に回転をあげていく。


自分の欲しい写真をものにするために、言葉の物量で相手を煙に巻く、

長年新聞記者として培った技術のひとつであったろうか。


「わざわざ山に人間用の道をひこうとした甲斐があったってもんです。

そりゃあちょっとばかし結果が出るのが早かったですけどね。

終わりよければ全てよしってところですか。まあ強いて難を挙げれば、

二代目は別のところから調達しないといけなくなったことでしょうけど、

そんなのどうとでもなりますから、安心して逢引けばいいんです」


その口の勢いもさることながら、内容にぽかんとしてしまった早苗を見て、

あれ、という顔をした後、にやっと笑ってわざと困ったような表情を作りながら、

天狗はそれでも口を閉じようとしない。


「気付いてなかったんですか?親の心子知らずってやつですねぇ。

せっかく八坂様が妖怪だらけの山の中で寂しい思いをさせないようにと

気を使って下さってたというのに。あわよくば二代目の目算を、なんて

ご愛嬌の範囲ですって。私達だって、ただで協力してるわけじゃ

ないんですよ。そりゃあ、山の新たな仲間のために力を貸すに

やぶさかじゃないですけどね。それじゃ組織ってものは動かない。

それ相応の取引ってやつが必要でして。

八坂様はそのあたりのことも流石に抜かりなく…って、あら?」


射命丸さん、と阿求に窘められて、ようやく早苗の様子がおかしいことに気付く。

俯いて肩を微かに振るわせているのを見てしまうと、

いくら射命丸といえど焦らざるを得なかった。


「あやややや、どうも何か、まずいこと言っちゃったみたいですね。

ああもう早苗さん、そんなに気にしないでいいんですよ?

私が勝手に勘ぐっただけのことなんですから…」


一気に冷え切った場の空気に耐え切れなくなったのか、

いやもう、だから、ほんとにそんな、などと訳のわからないことを

もぐもぐと呟いてから、助けを求めるように阿求の顔を見る天狗。


いいからもう行ってください、後は私にまかせてと目で促され、

後ろめたいような、しかしどこか安堵したような表情で、


「それじゃ、ほんとに気にしないで下さいね。

今日はもう行きますけど、後日また伺いますから。

じゃ、そういうことで、又」


と言い残して飛び去る射命丸を見送ろうともしないで

未だ自分の足元を睨みつけて目を潤ませている早苗の肩を抱き、

阿求はとりあえず、庵に寄って行くよう勧めたのだった。




早苗は落ち込んでいた。

楽しい散歩が一転、無言で阿求の庵へとぼとぼと歩く。


阿求の手が先ほどからそっと早苗の腰のあたりに

後ろから添えられている。


阿求が自分を気遣ってくれていることは嬉しいのだが、

それよりも先刻の射命丸の言葉が頭の中を

繰り返し過ぎって早苗の心を沈ませていた。


神奈子の想いに気付いていなかった自分が歯痒いし、

本来ありがたく思うべきその心遣いを、素直に喜べない自分も情けなかった。


だが、早苗を最も苛んでいるのは別の感情である。


早苗は気づいてしまった。

無意識のうちに自分が抱いていたコンプレックスに。


神奈子の思惑を突然知らされてまず早苗の胸に湧き上がったのは、

自分のことを考えてくれている者がいることに対する感謝でも、

至らない自分に対する羞恥でもなく、理不尽に突き放されたというような、

憤りと寂しさの綯い交ぜになった暗い情念であった。


そのことを意識したとき、なぜこれまで山の妖怪たちを

単純に友人とは思えなかったのかが、早苗には分かった。


寿命を持たない彼女達と自分は違うのだという思いが、

知らず知らずに壁を作っていたのだ。


実際、これまで付き合ってきた中で、人間である自分とは

ものの捉え方が少々違うのではないかと感じる瞬間が何度かあった。

それでも、両親を残してこちらに移って来た早苗にとって、

神奈子達二柱は仕える神であると同時に新たな家族でもあった。


いや、家族になろうとしていた、が正しい。


やはり神と人間という違いがあっても、生活を共にしているうちに

その違いを乗り越えることができるかもしれない。

そうすれば、妖怪達と友人にだってなれるはずだ。

そういう淡い期待がどこかにあったのだろう。


しかし、今回のことが神奈子の親心であると

頭では理解できるのだが、どうしても、互いの間にある溝は

決して埋まることはないのだと言われているように思えてならなかった。


自分の中のコンプレックスがものの見方を歪めている、

そう意識できたからと言って、この暗い感情はどうにもならなかった。


そんな自分が情けなく、それがまた早苗の気分の沈下に拍車をかける。


今すぐにでも隣を歩く阿求に縋りついて、

泣いて懺悔して、慰められて赦されたかった。


勿論、そんなことができるはずもない。

早苗の足は、阿求に促されるまま黙々と前へ進むのだった。




庵までもう少しというあたりで、早苗も何度か顔を合わせたことのある、

日頃阿求の身の回りの世話をしている里人と行き会った。


どうやら家の仕事をするために、一足早く戻ってきたところらしく、

どこで摘んできたのやら、手には笊いっぱいの山菜を抱えている。


如何にも農家のおかみさんといった気さくさで、二人に声を掛けてくるが、

すぐに早苗の様子のおかしいことに気付いて、大丈夫かと問うてくる。


「ちょっと気分が優れないみたいで、うちで休んでもらうところなの」


何と言っていいかわからず口を噤んだままの早苗に変わって

阿求が答えると、それじゃあ体にいい汁でもつくって差し上げましょうと

言ってついてきて、季節の変わり目に風邪でもひいたのかなどと、

まるで自分の子供に対するように小言を垂れ出しそうな里人を

適当に誤魔化しつつ、三人で庵に入っていく。


台所をお借りしますよと言うおかみさんと分かれて、

とりあえず阿求は早苗を居間に座らせる。


日頃二人がお茶を飲みつつたわいない時間を過ごすときと

同じように向かい合って座りながら、しかしいつものような

寛いだ雰囲気とは程遠い。阿求もなんとかして元気付けたいと

思うのだが、うまい慰めの言葉が見つからずに、時間だけが過ぎていく。

早苗の顔色は、どことなくいつもより青く見えた。


「奥で少し横になりますか?おばさんには言っておくから」


そう訊く阿求に力なく首を振って早苗は応える。


「ううん、平気。大したことじゃないんです。

ただちょっと、悲しくなっちゃって」


しかし早苗はそこで言葉を切ることができない。

よせばいいのに、口が勝手に想いを零してしまう。


また阿求に頼ろうとしている、

こんなことはもうよそうと思っていたのに、と考える理性が、

それでも溢れる言葉を、まるで冗談に紛らわせようとするように上滑りさせていく。


「人間なんて、神様や妖怪にとっては自分の家の軒先に

いつのまにか巣を作った渡り鳥みたいなものなんでしょうね」


どこからかやってきて、あたりから木屑やらを集めて巣を作り、

子を産み、育て、そしてまたどこかへ去っていく。

もしかすると次の年も見ることができるかもしれないと、

軽い期待をすることはあっても、特に自分達から何かをしようとも思わない。


長く、いつ終わるともしれない生を送る彼女達にとって

生まれては消えていく人間はきっとそう見えているのだろうと、

さもそれが可笑しなことのように早苗は言う。


だが阿求には、早苗のその顔に張り付いた表情が

自嘲の笑みに見えて、痛々しい、と思わずにいられなかった。


「私達だって順当にいけばあと60年くらいは生きられるんでしょうけどね。

それがどうしたって気になってきませんか」


まるで吐き捨てるように早苗が言ったときだった。


よくもそんなことを言えたもんだ、という声に振り返ると、

そこには、手に湯気のたつ椀を載せたお盆を持って、

だがその顔に今正に非道な行いを目の当たりにしたとでも言うように

怒りと驚きを浮かべたおかみさんが立っていた。


この子の前でよくも言えたもんだよと、おかみさんはもう一度繰り返す。

早苗にはなぜそんなに怒っているのかがわからない。


「いいのよ、おばさん。大丈夫、気にしてないから。だから、ね?」


そう宥める阿求の声を、いいえ言わせて貰います、そう撥ね付けて

三度同じ言葉を繰り返す。ただし、新しくそこに付け加わった情報が、

早苗に大きな衝撃をもたらすとも知らずに。


早苗の半分も生きられないだろう阿求の前で、よくもそんなことが言えたものだ、と。


驚愕に目を見開いて、早苗が阿求を見る。

或いは、阿求の口から否定の言葉が聞けると思ったのかもしれない。


どこか請うような表情で見詰める早苗に対して、

阿求は寂しげな笑みを微かに浮かべただけであった。


「そんな、そんなこと、やだ、どうして…」


どうして、とは阿求が長く生きられない理由を訊ねようとしたのか、

それとも何故自分に黙っていたのだ、ということか。

言葉を発した本人にもわかっていなかった。


狼狽する早苗とは対照的に、

阿求はなんでもないことのように事実だけを告げる。


「求聞持の能力を持って生まれ、死んでも転生を繰り返す代償が、

普通よりも短い寿命だったの」


どうしてそんなに落ちついていられるのか早苗には理解できない。

真白になった頭に、いつまで、という疑問が浮かぶ。

それを察したのか、強いて明るい口調で阿求は言う。


「もって30というところかしら。ふふっ、おばさん扱いされずに済むわね」


その阿求の気丈さは、些かも早苗の心を落ち着かせはしない。


「やめてよっ!」


思わず叫んだ早苗を見ても、阿求はただ困ったように笑うだけである。

早苗もそれ以上どうしていいかわからず、沈黙がその場を支配する。

なんだか悪いことしちゃったみたいねぇ、というおかみさんの呟きだけが

ぽかんと浮いて、行き場所もないまま消えたのだった。




その後、手伝いの人の作った山菜汁を砂を噛むようにして

一応平らげると、早苗はそそくさと庵を立ち去った。


それでもこれで阿求との繋がりを失いたくはなかったので、

また次の予定日に顔を出すからというようなことを

阿求の目を見ることも出来ずに言い置いて、

早苗はまるで何かを振り切るかのように帰っていった。


それを僅かの間見送った阿求は、

疲れを滲ませる溜息を一つ吐くと、

また何事もなかったかのごとく庵の中へ戻っていった。






浮かれていたのだ、と早苗は考える。


確かに二人の関係は、阿求が質問し早苗がそれに答えるというものだった。

だが自分は、それだけの関係でいたくないと思っていたのではなかったのか、

どうして自分から相手を知ろうとしなかったのか。そうしていれば、

阿求が何か自分に黙っていることがあると気付けたのではないか。

阿求の助けになって、そしてさらに親密になれたかもしれなかったのに。


身勝手で傲慢な考えだとは分かっている。

しかし傲慢にすらなれなかった自分はただの間抜けだ。


自分を受け入れてくれる阿求の胸にだらしなく寄り掛かって、

そのとき阿求がどんな顔をしているのか

ちょっと見上げて確かめるというだけのことをしなかったのだ。


もしかしたらあれは、優しさですらなかったかもしれない。

相手に気持ちよく喋らせるための阿求の手腕に

まんまと乗せられただけだったのではないか。


ああまた捻た暗い捉え方をしている、

やっとできた友人に浮かれた自分が悪いんじゃないか。


というような堂堂巡りを、前回阿求宅を辞してからというもの、

早苗は今日に至るまで続けている。


そんな風に、自己嫌悪の度を深めるのと同時に

まるでそれと比例するかのように胸の内に湧き出したある欲望が、

ますます早苗を暗い思考の沼へ追い立てていく。


こんなにも強く他人に執着したのは初めてだ、と考える早苗の姿は、

力なく開けた目で、何処か遠いところを眺めているように見えた。


もっと阿求を惹き付けたい。

自分に縋って、どうか離れないでと懇願する阿求が見たい。

きっと自分は阿求の言葉全てに頷くだろう。

そして今度は、同じようにして自分の願い全てを阿求に

認めてもらうのだ。


そう想像するだけで、早苗の胸は

痺れるような息苦しさを伴なって、甘く高鳴るのだった。


阿求を支配したい、

阿求に支配されたい、


この二つの欲求が解きようもなく絡み合って自分の

胸に根を張っていくことが、早苗にはとても忌まわしいことに思える。


同性だからではない。そんなことはどうでもいい。

問題はこの欲望が、早苗が神奈子達や妖怪に対して感じている

コンプレックスの、拗けた形で、自分よりも更に短い寿命しか持たない

阿求に向かって吐き出された結果としか思えないことだ。


こんな醜い想いを阿求に知られたくはない。

なかったことにして、今までのように付き合い続けるしかないのだろうか。

今度からは一方的に甘えないように気をつけて?

そんなことに何の意味があると、早苗は虚空を睨みつける。


ではどうしたらいいのかと考えても、答えなど出るはずもなかった。

ともかく時間がないのだ、阿求にも自分にも。

そう焦る気持ちが早苗の内で荒れ狂っているのに、

逆に体は一切の力が抜け出てしまったように重かった。




そんなふうに日は過ぎていったのだが、

あるとき神社に射命丸がふらりと顔を出したことがあった。


どうも先日のこともあって早苗のご機嫌伺いにやってきたらしく、

手には今里で評判だとかいう菓子の折り詰めを携えていた。


市場で聞かされた話はショックではあったが、射命丸を恨んでいるわけではない。

どちらかと言えば、神奈子達の意図を察することのできなかった

自分が愚かだったのだと考えていた早苗は、立ち話もなんだからと

お茶でも飲んでいくようにと勧めた。


早苗がどこか虚ろな様子であることは射命丸にも気になったが、

敢えてつつくと薮蛇になりかねないと思ったのか、

お言葉に甘えて、と素直に従った。




公式の客というわけでもないので、客殿ではなく母屋へと案内する

道すがら、早苗があれから阿求には会ったかと訊ねると、

何か一瞬気まずそうな顔をしたようにも見えたが、会ったというので

どんな様子だったか聞いてみる。


「どんなって、あなたのことが気にかかってるようではありましたけど。

あとはまあ、これといったところもなかったですよ」


本当にそれだけかと問い詰めてしまいたくもあったが、

そうですか、とだけ応えて早苗は歩を進める。


阿求が自分のことを気にしてくれているのが嬉しくもあり、

また心苦しかった。喉に何かつかえたような心地で、

早苗はもう口を開くのをやめて母屋へ向かう。


天狗を居間に通すと、御持たせですけど今お茶を、と

断って台所へ向かう。


居間にいると思っていた神奈子はどこへ行ったのか見当たらなかった。

客を待たせるわけにもいかないので、探すことはせずに支度を始める。


最近やっと扱いになれた竈には種火が燻っていて、

自分がいる間はなるべく沸かせておくようにしているお湯がある。

急須に茶葉と一緒に入れて蒸らしつつ、射命丸の持ってきた

菓子の包みを開ける。すると早苗の目に飛び込んできたのは

赤や黄色、黄緑、薄桃といった鮮やかな色であった。


色のついた餡で普通の小豆餡を包んで、それを花の形に加工したものらしい。

そんなものから阿求の姿を連想して動きを止めてしまった

自分を嘲笑うように、余計テキパキとお茶の用意を整えた早苗は

急ぎ足で居間へ向かうのであった。


だが、もう早苗の心は阿求でいっぱいになってしまっていた。


ここ数日散々自分の頭の中で弄んだ阿求の姿を

例え他人の口から語られたものからでもいいので垣間見たい、

そう思って我慢のできなくなった早苗は、

天狗がお茶に口をつける間もあらばこそ、阿求のことを

なんでもいいから教えてくれ、と頼んだのだった。




射命丸の話によると、阿求の寿命が短いのは

これまでの例からみても、まず間違いないことらしい。


百年余りごとに、不完全ながら前世の記憶を引き継いで生まれ、

代々の務めを果たすよう宿命付けられた御阿礼の子は

形は違えど自分と似たような孤独を背負ってしまわざるを得ないことが、

卑しいとはわかっていても、早苗には嬉しく思えてしまう。


しかし射命丸の残したある言葉が、早苗の気持ちを

神奈子達から突き放されたと感じたとき以上に冷え込ませた。


「人間と妖怪達が同じ規則を守るようになって初めての

阿礼乙女ということもあって、妖怪と親交を結ぶのに

熱心なようではありますね。死に別れずに済む友人が

できるってことですから」


その後の射命丸の話は、ほとんど早苗の耳に入ってこなかった。

物思いに沈んだ早苗に気付いていながら、とりあえず

自分の知っていることを全て話しきると、

それじゃあ、と言って天狗は帰っていった。




早苗が神社の日常業務、人間用ルート開設に向けた作業を

休むことはなかったが、熱心に立ち働いているように見えて、

少し注意すれば実は心ここにあらずの状態であることがわかっただろう。


こんなことではいけない、せめて表面だけでも取り繕わなければとは

考えるのだが、自分が普段どう振舞っていたのか、

何故かよく思い出すことができず、

そのまま阿求の庵を訪ねる予定の日を迎えてしまうのだった。






いつもなら喜び勇んで出かけていく癖に

今日に限って重い腰を上げようとしない早苗を見て

きっと神奈子は二人の間に何かあったことを悟っただろう。

それでも決して詮索しようとしない彼女の態度が早苗には有難かった。


昼時、ふらふらと出歩いていた諏訪子も戻ってきて空腹を訴える。

彼女のほうも、本来の早苗の予定を知ってか知らずか何も訊こうとはしない。


昼食を作って食べ、暖かな陽射しの射しこむ居間で食後の

お茶を入れている様は、何の憂いもない家族の一幕のように見えた。


そのうちの一人が、出口の見えない葛藤と焦り、

傷つけたかもしれない相手に待ちぼうけを食わせている罪悪感とに

心を乱し、その瞳を揺らしていたのだとしても。


時間は淡々と流れ、早苗は時折決心したように腰を浮かしかけては

また座り込むことを繰り返していたが、ついに立ち上がって

居間を出たときには、阿求の元に着いていなければならない時間を

大幅に過ぎてしまっていた。




今から出掛けても、庵につく頃にはとっくに暗くなっているだろう。

そんな時間に押しかけても、今更何をしに来たと思われるのがオチかもしれない。

それでもせめて、一目会って先日のことを謝るくらいのことはしなければ、

もう二度と阿求とまともに目を合わせられないだろう。

そう考えると、ともすれば萎えてしまいそうになる足が

なんとか前に進んでくれるのだった。


鳥居の見えるところまで来ると、ともかくも阿求の顔を見ることができるのだ

という期待に早苗の足は速くなる。


守矢神社の鳥居はかなり大きい。

早苗の歩幅では鳥居の下を潜るのに二歩近くかかる。


鳥居を潜りきらぬうちから、まるで残りの一歩すら惜しいかのように

踵を浮かして、いざ飛び立とうとした早苗の視界の端に、

一瞬、何か鮮やかな花のようなものが映った気がした。


たたらを踏んで立ち止まり、振り返るとそこには

いつから待っていたのだろうか、早苗と初めて出合った日と同じ

春の色をした姿の阿求がそこにいた。




二人が母屋へ戻ってくると、引き戸の開く音に気が付いたのか

玄関まで神奈子が出てくる。


そこにいるのが早苗だけでなく

阿求も一緒だとわかると、久し振りねと言って微笑む。


「居間は諏訪子が昼寝しちゃってるから、悪いけど

早苗の部屋にでも行ってくれる?」


そう言われて早苗の自室に向かう二人が、

薄く開いた居間の襖の間から、諏訪子の四つの目が覗いていると

気付くことはなかったのである。


居間に戻った神奈子は、茶菓子を持って行くべきかと小声で訊く諏訪子に、

頬杖をついて窓の外を見ながら、残念だけど遠慮しときましょう、と答えたのだった。




早苗の部屋では、残った電池で未だに動きつづけるアナログ時計の

カチカチと時を刻む音だけが、やけに大きく響いているようだった。


早苗が自分で用意したお茶からは、

まだそれほど熱の奪われない程度の時間しか経っていないのに、

お互いに、既に手持ちの話題を使い切ったかのごとくであった。


それというのも、二人がそれぞれに核心に触れることを

躊躇しているからだと、どちらにも分かっている。




阿求はどうして鳥居のところで佇んでいたのかというと、

市場での出来事のあと、早苗は大丈夫なようだったかと

訊ねにきた射命丸に、次に早苗が来る予定の日、

気付かれないように早苗の様子を窺って、もし出かける気配がないようだったら、

こちらから出向くので迎えに来て欲しい、そう頼んでおいたからだった。


天狗にスパイまがいのことをさせることになるが、

先日の借りもあり、どうせ似たようなことを職業としているのだから

かまわないだろうと考えて気にしていなかった。


むしろその対象となる早苗を信用していないようで申し訳ない、

とは思ったのだが、以前の生において、自分の寿命の短さのせいで

死に別れた人達の中に、自分の定めを知られたせいで

相手が気後れしたためか、なんとなく疎遠になったまま二度と会えなかった

友人もいたことを阿求は薄らと覚えていて、

そうなってしまうよりはマシだろうと、

迎えにきた天狗に運んで貰ってきたのだった。


鳥居の前で降ろしてもらい、射命丸と別れたはいいが、

阿求には境内に入ることがやはり躊躇われた。


曲がりなりにも、自分に会いたがっていない人のところへ

押しかけるのは気がひけたし、万が一居留守でも使われたらと思うと

足が竦んでしまうのだった。


早苗相手だとこうも臆病になってしまうのは

それだけ相手が特別だからだということだと阿求は分かっているし、

そんな彼女を失いたくなくて神社まで来たのである。


だが、その気持ちが真実であればあるほど、尚更足は動かない。

その矛盾を前にして阿求がとった行動は、

まだ早苗が気を取り直して出かけようとする可能性もあるのだから、

もう少し待ってみても悪くはあるまいと、神社からみて

鳥居の外側の根元の台座に腰を下ろすことだった。


ただの逃避ではあったが、いくら転生を繰り返して千年近いといっても

阿求もまた早苗と同じ年頃の少女であった。

少なくとも、今回の生においてこれほど強く他人に執着したのは

阿求にとっても初めてのことだったのである。




いつまでも黙っていても埒があかない、

何か言わなければ、そう考えて口を開こうとした早苗は

咄嗟にごめんと言ってしまいそうになり言葉を飲み込む。


早苗は内心で自嘲する。

自分は何を謝ろうとしているのだろう。


先日のことであれば、この部屋に入ったときに

真っ先に謝って、阿求も気にするなと言ってくれた。

今日の約束をすっぽかそうとしたことだって同じではないか、と。


では何を、というところで、自分の罪悪感の一番の原因に突き当たる。

卑しい理由から阿求を手に入れたいと、痛切に願っている自分。


改めてそれを意識すると、今阿求が自分の部屋にいることが、

何かとても間違ったことのように早苗には思えてくる。


口の中がカラカラに渇いていた。お茶に手を伸ばして、

既に飲み干してしまったことを思い出す。


慌てて手を引っ込めて、もう一つの湯飲みに目をやる。

阿求も同じだったら、お茶を入れ直すと言って部屋を出て一息つくことができる。

この緊張から、少しの間でいいから解放されたかった。


しかし阿求の湯飲みには、まだ半分ほど茶が残っていた。

席を立つ口実が失われたことに密かに肩を落とす。


自分一人が無闇に気を張っているのではないか、

そう思ってちらりと相手の顔を窺うと、

終始俯き加減だったので気が付かなかったが、

どうやらずっと早苗のことを見ていたらしい阿求と目が合ってしまう。


すると阿求は何を思ったか柔らかく微笑んで、

うろたえている早苗にお茶の御代わりをくれと言う。


早苗の顔が真赤に染まる。


自分の小心な思考を見透かされてしまった。そう感じた早苗は、

はいともいいえとも言わずに湯飲みをお盆に載せて立ち上がる。


一緒に立ち上がった阿求の行動を訝しく思ったのもつかの間、

手がお盆でふさがった自分のために戸を開けてくれた阿求を見て、

早苗の胸に理不尽な怒りが湧き上がる。


なんでこの人はこんなに冷静なんだ、ますます自分が馬鹿みたいだ、と。


戸を潜った早苗の背に、本棚を見せてもらってもいいかと

阿求が声をかける。それに対して、

らしくもなくぶっきらぼうに頷いただけで、

早苗は台所へ向かって歩いていった。




何か怒らせるようなことをしただろうかと考えながら

阿求は部屋の中に戻る。


先程の会話、

自室に通された途端、早苗が頭を下げ謝って、

これからも阿求の庵に通わせてほしいと言ってくれたこと。


鳥居の下から動けなかった自分に、家に来るよう

勧めてくれたことも嬉しかったが、何より早苗の方から

関係の修復を申し出てくれたことが阿求には嬉しかった。


早苗と顔を会わせたらどう話そうかとあれこれ考えていたうちの、

最良から数えて三番目くらいに良い結果だったと思う。


本当はもっとスマートに、かつ爽やかに仲直りするはずだったのだが。

少し無愛想になってしまったけど、早苗は気にしただろうかと

相手の反応を持ち前の記憶力で反芻してみて、

それよりも早苗には何か思いつめたような様子があったことが気に掛かる。


相手のほうから話してくれるのを待ってみたが、

緊張しているのかやたらとお茶を飲むばかりであった。


こちらから、それとなく切り出してみるべきだろうかと思案しながら、

改めて部屋を見渡してみる。


外の世界から移って来たという割には

古風な作りの和室である。所々に見慣れない材質のものが

置いてはあるが、それほどこの世界の一般的な部屋と

変わっているようには見えない。むしろ、ちょっとした小物の

柄だとかが、とても現人神などと崇められていたとは思えない

少女らしさを漂わせているように阿求には思えた。


早苗から、一応好きに見ていいと許可を得られたらしい本棚に

目をやると、書物ではあるようだが、和綴じが普通のこの世界では

見かけない小さめなものが、それなりの密度で並べてある。



紙質もかなり滑らかで、何色も使って美しく装丁された表紙が

薄く光を反射していることに、本の編纂を生業としている阿求は

思わず見とれてしまう。


内容はといえば、阿求と違って所謂学術書の類はほとんどないようだ。

何冊か貸してもらうのもいいなと考えながら、

上から順番に眺めていくと、一番下の他より大きなスペースに、

阿求には馴染み深い和紙に似たざらりとした手触りの、

早苗の巫女服のような綺麗な青に染められた紙で

厚紙か何かを包んだらしい装丁の一冊に気付く。


銀の箔押しで“メモリアル・フォト・アルバム”と書かれたそれを

手に取ってパラパラとめくってみると、

どうやら早苗の写った写真を集めて貼り付けたものらしい。


早苗に出してもらった座布団の上に戻り、最初からじっくりと

眺めていく。10歳前後の早苗の写真から始まっているのは、

きっと家族以外の誰かが撮ったのを、

自分で貰ってくるようになってから作られたからだろう。


もっと幼い早苗も見てみたいと思いながらページをめくる。

何かの行事に参加しているところらしい写真が

屋外の場合全て快晴であることに気付いて、

さすが風雨を司る神の巫女だと、自然と笑みが零れてしまう。


さらにページを進めると、やはり快晴の下、桜の木をバックに

上下とも紺色で揃えた服を着て写っている写真以降、

何種類かの同じ服装の写真がほとんどになった。


一緒に写っている早苗と同年代らしい人物が皆同じ服なので

きっと全員これを着るという決まりなのだろう。


制服という文化の普及していない世界で暮らす阿求には

そんな些細なことも興味深く見えるのだった。


そんな写真のうちの一枚、これも何かの行事だろうか、

同じ服装をした少女ばかり早苗を含めて5人で写っている写真に

目が止まり、その写真に何か違和感を覚えて目を凝らしてみる。


違和感の原因に気付いて、慌ててページを遡り、

もう一度順に一枚ずつ確かめて、最後のページを閉じたとき、

微かな違和感は確信に変わる。


他の少女達と一緒に早苗も笑っていた。

ただし阿求の記憶に焼きついているのとは違う笑顔で。


華やかに、今この瞬間の楽しさこそが真実だとばかりに

笑う少女達の中で、早苗だけが一拍遅れているとでも言おうか。


自分と周囲の間に溝のあることを知って、

その溝に落ち込まないように少し離れたところに立って笑っている。

どの写真を見てもそんな慎重さが常に

その表情に陰を落としているように阿求には見えた。


このとき初めて、阿求は自分の能力に疑いを抱く。


自分の記憶力がいい加減なせいで、

この写真の早苗の表情と自分の知っているそれとに

変な差異を感じてしまうのではないか。


あるいは自分は早苗の中で特別な位置にいるはずだ、

そうありたいという想いが、本来完璧であるはずの記憶を

歪ませているのではないか。


そうであってもかまわない、と阿求は思う。


早苗はどちらかといえば、他人に明け透けな顔を

見せることをよしとする方ではない。


それでも幾度か何のわだかまりもない表情を、

あの夕日の湖や朝の市場で阿求に見せてくれた。

その美しく愛らしい表情が自分だけのものかもしれない

という可能性は、とても哀しいことのように阿求には感じられる。


確かに早苗本人の口から聞いてはいた。

人との間に距離を感じながら生きてきた、と。


だが実際に孤独を滲ませて笑う早苗の姿を目の当たりにして、

阿求の胸は締め付けられた。


御阿礼の子としての自覚を持つ前、わけもわからず

喪失感を感じていた幼い頃の感覚がふいに蘇った。


早苗は似たような感覚をずっと抱えて生きてきたのだろうか。

喪失は確かに辛いことだ。しかし阿求には希望があった。

失われてもまた手に入れればいい。例えまた失われることが

わかっていたとしても。


何度も失うことと、一度も手に入らないことはどちらが辛いのだろう。

そんなことを考えながら、阿求はアルバムの裏表紙に触れる。

ざらりとした感触が指に残った。




腹を立てたことが、早苗に力を与えたようだった。


入れ直したお茶を持って、幾分力強い足取りで

阿求の待つ部屋へ戻る。


どうするべきかの決心はまだつかないが、

ともかくも阿求と話をしなければ何も進まない。


部屋の入り口の手前で立ち止まり、よし、と気合を入れて

開いたままの戸を潜ると、座布団の上で俯いている

阿求が視界に入る。


その阿求の視線の先にあるものを見て、

早苗は飛び上がりそうになった。阿求が見ているのは

よりにもよってアルバムではないか。


本人のいないところで自分の過去を知られるのは

誰にとっても恥ずかしいことである。


「やだ、何見てるんですかっ」


焦ってお茶を置き、阿求の手元からアルバムを取り上げる。

恐らく赤くなっている自分の顔をそれで隠しながら、


「ああもう、恥ずかしいじゃないですかぁ」


と、軽く咎めるような視線を送る。何も言わずに見詰め返す

阿求を少し訝しく思ったが、とにかくアルバムを片してしまうことが

先決だと、本棚の前に屈みこむ。


阿求ではないのでいちいち本が仕舞われていた順番までは

記憶していないが、几帳面な早苗はちゃんと元あった場所に

戻そうとして、不自然に隙間のあいた個所にアルバムを押し込もうとする。


慌てたせいだろうか、何かに引っかかってうまく入ってくれない。

軽く苛立って、空いている方の手で隙間を押し広げようとしたときだった。


不意に後ろから両腕ごと抱きすくめられる。


今この部屋にいるのは早苗と阿求だけだ。

自分よりも小柄な体が、それでも懸命に全てを包み込もうと

しているかのように力強く早苗を抱いている。


そう感じた途端、早苗はくしゃりと顔を歪めて、

手からアルバムを取り落とす。


己の体温がどんどん上昇していくのがわかるのに、

阿求が触れている場所はそれよりさらに熱く感じた。


どちらも言葉を発することなく、互いの熱で癒着して

一塊になってしまったかのように動かないままどれだけ時間が過ぎたろうか。


鼓動が激しく打ち続けている。その一打ちの度に、

自分が生まれて死んでを繰り返しているように早苗には感じられた。


始まりと同じように、何の前触れもなく阿求の手が離れようとする。

早苗は咄嗟にその手を掴む。


「離さないで」


思わず叫んでしまったと思った声は、実際には低くかすれていた。


数瞬迷いを見せて揺れた阿求の手に再び力がこもると、

重ねて早苗も指先で強く阿求の手を抑える。


再び静かに時間が流れる。




突然ひどく小さく見えた早苗の背中が愛しく感じて、

思わず阿求は早苗を抱きしめていた。


自分はいきなり何をしているのだろうとは思ったが、

暖かく柔らかい感触が心地よくて、そのまま身を

預けるようにしがみ付き続けてしまう。


いつまで経っても何も言わない早苗に不安を感じて、

一度は手を離そうとしたが、離すなという言葉に甘えて

また体を寄せると、今度は早苗も手を握ってくれた。


いつまでもこうしていたいと思っている自分は

果たして目を覚ましているのだろうか。

あまりにも気持ちがいいから、知らぬ間に眠りこんでいても

何も不思議ではない。そう考えていたとき、

阿求さん、と呼ぶ声にはっと我を取り戻す。


どうしたのだろう、まだ手を握ったまま、早苗が腕を解こうとしている。


振り返った早苗の瞳を見たとき、ああこの目だ、と阿求は思う。

自分は何度も、こんな目をした人に惹きつけられてきた。


時間を恐れて、失うことを恐れて不安に揺れながら

それでも欲しいものを諦めることができずに、

その瞳の奥に、生まれかけの星と死にたての星の

両方の光を同時に宿したような、そんな目に。


これまで八回繰り返した生で出会い別れた

その人達の、名前も顔も覚えてはいない。

だが何度も自分を魅了したその目だけは覚えている気がした。


早苗の瞳の中にいくつもの“それ”が重なって、

阿求は自分が早苗にも魅了されてしまったことに気付く。


いつの間にか相手の腕を握ってはいなかった早苗の手が、

今度は阿求の腕の外側をまわって肩甲骨の下あたりに

遠慮がちに添えられる。


それに応えて相手の腰に手を回すと、

早苗の瞳が一瞬喜びに震えて、

しかしまだ躊躇いを感じさせつつ阿求を抱きしめる。


とても自分から逸らすことなどできないと感じさせる目が

ふいに閉じられたとき、やっと阿求は互いの顔の距離が

かなり近づいていることに気付く。


自らも目を閉じる間もなく、

阿求の唇に柔らかなものが触れる。


それは一秒にも満たない出来事だったが、

この感触の余韻は、次に生まれ変わった後の唇からも

消えてはいないだろう思わせる程の甘い興奮を阿求にもたらした。


足りない。


窺うようにこちらを見詰めている早苗に同じように視線で応えを返して、

きっと今、自分の瞳にも“それ”が宿っているのだろうなと

考えながら、阿求の方から顔を近づける。

もう早苗の手にも、迷いは感じられなかった。




口や首よりも先に、つい力を入れすぎた腕が疲れて

二人は重ねた唇を離す。


心地よい疲れが体を包んでいて、互いの呼吸が乱れている。

微笑み交わして疲れに身をまかせていると、これからの

全てがうまくいくかのように思えたのだったが、早苗の発した言葉が、

そんな阿求のどこかくすぐったい気だるさを吹き飛ばした。


「ねえ、阿求、ここは幻想郷だもの、必死に探せばきっと、

私でも妖怪や神様並に長寿になれる方法がどこかにあると思うの。

そうすれば、あなたが転生したときにまた会えるよね」


いい考えでしょう、とでも言いたげに笑っている早苗が腹立たしい。

その苛立ちをそのままぶつけるように吐き捨てる。


「何言ってるのよ!嫌だからね、そんなの。

もし本当にそんなことしたら、もう二度と…」


「ちょっと待ってよ。えぇと、何?どうして怒るの?」


あんたの顔なんか見たくない、と続けようとした阿求を遮って

早苗が本当に理解できない様子で狼狽する。


とんでもない間抜けだ、と思う一方で、

自分の怒りが理不尽であることを阿求は分かっている。


阿求が早苗の何に惹かれているかなんてまだ伝えてもいないのだし、

早苗の提案が例えそれに反しているからといって、

こんな風に怒鳴りつけていい筈がなかった。

しかし一度火がついた阿求の怒りは治まらない。


「とにかく嫌なものは嫌なの!それでもやるって言うなら

勝手にすればいいわ。ただし相応の覚悟はしてもらうからね」


「そんなぁ…」


悲しそうに黙ってしまった早苗を見て、

一転、阿求の怒りは急速に冷えていく。


一度壊れかけた関係が修復されて、

さらに新たな段階へ踏み出せたというのに、

あっさりとまた亀裂を入れてしまったことを後悔したが、

それでも早苗の言い出したことを認める気にはどうしてもなれなかった。


「ごめんなさい、言い過ぎました。でも、その…」


どう伝えたらわかってもらえるだろう。

何も浮かんでこないまま、意味もなくあたりを見回した阿求は

窓から見える外の様子が、夕方のそれになっていることに気付く。


阿求の頭に、以前二人で眺めた美しい光景が過ぎった。

またあの景色が見たい。


完璧な記憶力が、あの日の風景を色褪せることなく留めているし、

目の前の問題を何も解決してくれないかもしれないが、

無性に再びそこを訪れたくなって、阿求は提案する。


「ね、湖に、連れてってよ。またあの夕日がみたいの」


唐突な願いにぽかんとした早苗の顔は、妙に愛らしかった。




阿求が何を考えているのかわからない。


今まで一度だってわかったことなんてない気がするけれど、と

自虐の笑みを胸の内に留めて、早苗は阿求の後について外に出る。


一応、居間の前を通ったときに神奈子達には

出掛けることを伝えておいた。


そう、とだけ言ってその場で見送る二人の

視線が妙に気恥ずかしい。


夕食の支度を何もしていないことを思い出して、

どうしようかと少し迷ったが、子供ではないのだから

二人の方でどうにかするだろうと考えて母屋を後にする。


こちらの世界へ移る決断をしたときと比べて、

なんていう変化だろうと早苗は思う。

あのときのシリアスさは一体どこへ行ってしまったのか。


それでも、確かに彼女達との絆を感じることができるようになっている。

突き放されたなどと考えたことが嘘のようだった。


自分が歳をとって、おばあさんになったとき、

三人の関係はどうなっているだろう。

今はどうしても娘のような立場になってしまうが、

将来はまた別の力関係ができあがるのだろうか。


そこまで考えたとき、前を歩いていた阿求が立ち止まる。

どうかしたのかと思っていると、顔だけをこちらに向けて

何か言いたそうにしている。


「早くしないと、間に合わないと、思うんだけど」


ぼそぼそとそう告げた阿求を見て、早苗は吹き出しそうになってしまう。

飛んでいかないと湖面の夕日に間に合わない時間である。

気付かなかった早苗もどうかしていたが、

先程理不尽に怒鳴りつけた手前、自分を抱いて運んでくれと

言い出せなかったのであろう。


照れくさそうに、ふん、とまた前を向く阿求が、

自分と何も変わらないように見えて、早苗は部屋で感じた

わだかまりが水に溶けるように消えていくのがわかった。


前に回って顔を覗き込もうとすると顔を背ける。

それでも覗き込もうとすると更に背ける。


そんな阿求が可愛らしく、小さく笑ってから腰を抱えてやると、

おずおずといった感じで首に腕を巻きつけてくる。

そのままぎゅっと力を込めて抱き寄せると、

ふっと笑った相手の体から余計な力みの抜けるのが伝わった。


地面を蹴って宙に浮かぶ。体が軽い。

駆け上がるように上昇して、一気にスピードに乗る。

火照りの抜けきっていなかった体に風が心地よかった。




しかし、そろそろ立ち並ぶ御柱の隙間から湖が見えてこようかという

あたりまで来たところで、早苗の心に言いようのない不安が

頭をもたげ始める。


前回ここへ来たとき、

湖面が暗さに沈むのを見ているのがたまらなく怖い気がした。


あの美しい光景を恐ろしいと感じるなんて愚かなことだと思えて、

熱心に湖を見詰めていた阿求が声を掛けるまで

黙って俯いていたあのときの感覚が蘇ってきて

早苗の飛ぶ速度を鈍らせる。


どうかしたの、と訊く阿求になんでもないと応えて、

やはりあれは愚かなことだったのだと再び速度をあげる。


しっかり前を見据えて飛ぼうとするのだが、どうしても視線は

湖から逸れていってしまう。この距離で今更迷うことはないが、

そんな臆病な自分が早苗は情けなかった。


御柱の上に足をつけても、まだ早苗は顔をあげることが

できなかった。そんな早苗を尻目に阿求はさっさと腕を解くと

湖に向かって嘆声を漏らす。


「ああ、やっぱりすごく綺麗」


阿求の背中を見詰めることで視野を狭めていた早苗だったが、

彼女が急に位置を変えたために湖を見てしまいそうになって

慌ててさらに頭を下げる。


それで湖を視界から追い出した筈だったのに、

ここからではほとんどわからないが、常に揺れ続ける水面に

反射した光がぐにぐにと形を変えながら早苗の体に映っていた。


橙色をした細胞のようなものが自分の体の上でのたくっている。

もうだめだ、と早苗が目を閉じてしまおうとしたときであった。


「ねえ、鳥がいる。何ていう種類だろう」


反射的にそちらへ目を向けると、阿求の指差した先には

確かに水鳥らしき群れがあった。


数十羽はいるだろうか。

大きな湖であるから、水鳥くらい幾らでも生息しているだろうことは

知っていたが、果たしてあんな数で群れをなした種類がいたろうか。

目を凝らして特徴を掴もうとしても、逆光になってよくわからない。

何故かそのうちの一羽がばたばたと、水上で大きく羽ばたいている。


いつの間にかその鳥を見詰めていた自分に気付いて、

あんなものを見ている場合ではない、早くしなければ

暗くなっていく湖面まで見ることになるぞと目を瞑ろうとしたとき、

ふいにその一羽が、水面を蹴って空へ飛び上がった。


「こんな時間に、一体どこへ行くのかな」


阿求の問いに対する答えを持たない早苗がそのまま

見送っていると、湖から何十もの手が同時に水面を

叩くような音が聞こえてくる。


水鳥の群れが、先に空へ駆け上がった一羽を追って、

一斉に飛び立とうとしているのだ。


その羽ばたきはますます力強く、水飛沫を撒き散らしながら、

一羽、また一羽と飛び上がる。


湖上の水鳥の数が減っていくかわりに、空高くでは黒い豆粒程の

大きさになった鳥達が集まって段々と編隊を形作っていく。

それはまるで放たれた鏃のように早苗には思えた。


「渡り鳥……この、幻想郷に?」


阿求の疑問はもっともである。“他の場所”など存在しない

この幻想郷で、飛び立った群れはどこへ向かうというのだろう。

こちらとあちらの間を渡る鳥がいるとでもいうのか。


案外、どこへも行けないのかもしれない。

どこへも行けないままどこかへ消えて、

そしてまた冬が来る前にここへ戻り、春が来ると飛び去っていく。


そんな鳥がいても悪くない。そう、早苗が思ったときには、

不思議と暮れ果てていく湖への恐怖は薄れていた。

そっと手に触れてきた阿求を握り返して


「少なくとも、阿求さんがいなくなるまでは、私は人のままでいるよ」


そう言った早苗を見上げた阿求の目に映った彼女の横顔は

初めて会った日と同じ確信に満ちて、優しく、美しかった。











「その後、阿求が没するまで、二人の逢瀬は続いた。


妖怪の山における人間用登山道は、飽き易い妖怪達らしく

しばらくすると放置されるようになり、

何かと山の妖怪と親交のあった阿求が亡くなったあと、

かの地がどうなっているのか、詳しいことは再びわからなくなったようだ。


阿求が縁起と並行して書き上げた畢生の作、

“外の世界の精神と信仰” の執筆に

多大な貢献をした東風谷早苗氏のその後も、

人里で彼女を見かけなくなって数十年が過ぎた今では

わからない。


誰かと祝言をあげたという記録も残っていないし、

もしかすると生涯独身を通したのかもしれない。


ただひとつ、気になる噂がある。


いつの頃からか、守矢の神社の境内に

小さな人間の少女が住み着いたという。

誰の子供かはわからない。東風谷氏が巫女教育を

施して跡を継がせたという噂もあるが、真実の程は藪の中である。


まさか神社が人攫いということもあるまいが、その人物が

未だ衰えることのない姿で巫女をしているという噂もあることだし、

現御阿礼の子の初仕事として、真相を確かめてみるのも

悪くはあるまい。


   里に春一番の吹いた日に   稗田家当主 阿充記す 」





初投稿です。

やたらと長い上に文がくどいとか

なにこの俺設定、とかいろいろあると思いますが

ともかく最後まで読んでくださった方に感謝を。

特に最後のあたりは無理矢理すぎるかな、

とか思ってるんですがどうでしょうか。

感想聞かせていただけると嬉しいです。





※ こちらの都合で一旦消してしまったものの再投稿です。

内容に変化はありません。前回読んで下さった方や、

評価をつけて下さった方には申し訳ありませんでした。

問題等ありましたらご指摘ください。
おはか
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コメント



0.2000簡易評価
5.100名前が無い程度の能力削除
幻想郷に行くのは忘れられたその人の一部



素敵なイメージですね



私が見捨てたたくさんの私は

幻想郷にたどり着けたかな。
8.100名前が無い程度の能力削除
ジュブナイル…。

これはまぎれもなく、青春を描いた名作。

幻想郷に入る意味の論やにとりのかわいさにも目を惹かれました。

何が一番良かったかというと、色彩の表現や心情の表現ですね。

とりもなおさず、小説の根幹ともいえる部分が精緻に描かれていたので大絶賛。

早苗と阿求の見詰め合うシーンの表現は夢見るようにロマンティックだと思う。

きゅんきゅん☆

横35文字ぐらいを上限で改行にしていたのも読みやすかったです。

この長い量を読みつつも、終わってくれるなと思ったのは久しぶり。

奇跡が起きればもう一度次の生でめぐり合うぐらい楽勝だよね!
17.100名前が無い程度の能力削除
うーん青臭い!もっとくれ

それぞれのキャストの内面が丁寧に描かれてとても良かったです。あと、あややのつい喋りすぎなところに何故か萌えてしまった。
18.100名前が無い程度の能力削除
ありありと情景が浮かぶような筆致に心奪われました。

早苗や阿求の想いや感情を水彩で描いたような文章に見惚れてしまうほどです。

渡り鳥の件ではため息が漏れてしまいました。



コメントをしていて自分の文才と語彙力のなさに嘆いたのもこの作品が初めてです。
19.100名前が無い程度の能力削除
言葉にできない。

ただ筆者様に感謝を。
21.無評価hiro削除
上手い言葉が浮かばない。だけどこの作品が素晴らしいものだということは感じ取れたと思う。筆者に感謝です。
24.100むみょー削除
青い春の匂いが何とも芳しく…読んでて思わず悶えたり(笑



丁寧に練りこまれた文(notあやや)や設定が、とてもツボでした。

特に心理描写がしっかりしていて、阿求や早苗さん含め

登場人物が生き生きと可愛らしく描かれていて、素敵でしたね。
26.100名前が無い程度の能力削除
空間と自然の情景や、心の中の葛藤、狂おしい感情のほとばしり、
こういったものの描写がとても丁寧で感心しきりでございます。
文(あやや)・にとりのサブキャラも何だか人柄がよく出ていてステキです。
それと、意図的なものだと思いますが、中盤の頭らへんで1文が妙に長く感じるところが何箇所かあり、
そこにも文体の特徴として味を感じ、好感がもてました。
1作品の長さに関しては、早苗さん・阿求ちゃんの心の変化などなどの描写の丁寧さを重視すると
絶対に削る部分はないと思うので、個人的にはこれでよいと思います。

あと久々に阿求ちゃんが出てくる話を読んだ気が致します。
阿求ちゃんの株が急上昇しましたよ!
29.100名前が無い程度の能力削除
僕ら人間が大人になるにつれて捨てていった自分。

子供だったり、純粋だったり、うそはないと信じていたりした、今では思い出せない、幻想と化した自分たちが幻想郷にいったりしてるのかな、と思うとふと涙が出てきそうになりました。

たくさんいる自分たちがみんな幻想郷に行ったらそれはそれは恐ろしい光景ですがww
30.100名前が無い程度の能力削除

忘れた自分が幻想郷へ……自分のもう思い出せない記憶も、失くなったわけじゃない。



作者様に感謝を。

とってもいい早苗×阿求でした(オイ
32.100名前が無い程度の能力削除
あきゅー!!!

向こうじゃ「あれ、なんでまじめに信じてたんだろ?神様なんていないよね」状態になった早苗さんが

のんびり女学生で青春やってるんだろうなと思うと切ないです。

幻想の早苗さんは早苗さんの古い原質的な信仰心なんでしょうね。
34.100名前が無い程度の能力削除
とても情景が想像しやすい作品でした

非常に読みやすかったので、次にも期待させて頂きます
41.100名前が無い程度の能力削除
胸がキュンとしました。
45.90三文字削除
きめ細やかな心理描写、幻想入りのちょっとした考察。

情景が浮かび上がる描写、とてもよかったです。

御阿礼の子は渡り鳥みたいなものだなぁ、とふと思いました。

早苗さんは本当の現人神になったのかな。
47.100名前が無い程度の能力削除
なんと言えばいいか…。とにかく、素晴らしい作品だった。
55.100名前が無い程度の能力削除
すごい。
こういう言い方は余り好まれないのかもしれないけど、自分の持つ早苗…の周囲(幻想入りした理由とか信仰とか)に対するイメージにここまで合致するものを見たのは初めて。
しかもそれが、終始綺麗な情景の中に描写されていて、最高でした。
57.100名前が無い程度の能力削除
心の機微をこうも表せることが羨ましいです。
59.100名前が無い程度の能力削除
いやあ、綺麗だ…