Coolier - 新生・東方創想話

カナリア幽明録

2008/05/02 13:03:45
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 はじめて八雲紫が西行寺家の少女と言葉を交わした時、少女は草原で亡霊と談笑していた。
「楽しいお友達が多くて、いいわね」
 青空に、メスで切り裂いたようにぱっくりと切れ目が走る。そこから、紫が上半身を現す。紺色のドレスを身にまとい、日傘を差している。
 強い風が吹き、夏の草の葉が二人の間を漂う。西行寺家の少女はまどろんだ目で、ゆっくりと紫を見上げた。
「あら、あなた、そんなところにいないで。こっちに降りて来なさいよ」
 微笑んだのだ。まるで少女自身が、肉体を持たない霊魂であるかのように、儚げに笑った。
 紫は、言葉を返そうとしたが、口の中が渇いて言葉が出なかった。
 言葉に詰まることなど、初めてだった。
 今、自分が、目の前にいる少女に何を感じているのか、それがまずわからない。
 強いて一番近い感情を言葉にすれば、感謝だ。彼女がそこにいて、自分を見つけ、笑いかけてくれたということへの感謝。もっといえば、彼女が存在することそのものへの感謝だ。隙間から身を乗り出し、ひらりと着地する。
「お邪魔するわ」
 声の震えを悟られないように、少女に近づき、隣に腰を下ろす。
 二人は、雲ひとつない空を何も言わずに眺めていた。紫は何か言葉をかけたかった。話題はいくらでもあった。たとえばこの草原について。
無縁塚と呼ばれるここには、自決や野垂れ死にを選択した魂が多く集う。少女が話していた亡霊たちは、ほとんどが紫の見知った者たちで、少女よりもずっと彼らのことについては詳しい。彼らがなぜこの世に存在し続けるか、その理を一から詳細に語り尽くすことだってできる。
 だが、そういうことではないのだ。
 言葉が、足りない。
「静かね。涼しくて、気持ちいいわ」
 少女が言った。紫は、ためらいが吹き払われていくのを感じた。
「ああ、そうね。風が循環っているのよ」
「眠くなってしまうわ」
 少女はあくびをする。
「眠ってしまえばいい」
「そうする」
 少女は目を閉じ、そのまま仰向けに横たわった。ぬるい風とともに、心地よい沈黙が流れる。
「悪いこと、したかしら」
 しばらくして、紫が呟く。
「なんのこと?」
「私が来たせいで、さっきまでいた亡霊たちが、どこかへ行ってしまったみたい」
「あら、そういえば。気づかなかったわ、いつの間に。どうしてかしら、あの子たち、他人を避けることなんて滅多にないのに」
「どうしてか理由知ってる?」
「知らないわ」
「私はあなたのことを知っている。一度お目にかかりたいと思っていたの。西行寺家のお嬢さん」
「あら、私って有名」
 ころころと笑う。有名に決まっている。冥界では、亡霊と会話する少女の噂でもちきりだ。会話するだけでなく、ある程度自分の意思通りに亡霊を使役することもできる。少女本人はそんな気はさらさらないようだが、やろうと思えば亡霊を集めて徒党を組むことも不可能ではない。実現すれば今の国がひっくり返る。しかもそんなことをできるのが、神や鬼とのハーフでもなんでもなく、ただの人間なのだ。どういう処遇をすればいいか、冥界の十王たちも決めかねている。はじめは紫もちょっとした好奇心で観察していた。
ただの好奇心のはずだった。
 それがいつの間にか、少し違う意味を持ち始めた。
そのわけを、紫は自分の内に求めようとしない。理解と無理解の境界を曖昧にし、放置している。
「でも、あなたも有名よ、紫」
 名を呼ばれ、紫はちりちりと背筋に何か走るのを感じた。
「やっぱり、亡霊たちから話を聞いていたのね。どんな噂? 最強の妖獣の主人だとか、神隠しの主犯だとか」
少女は紫の二の腕にそっと手を触れる。それだけで紫の言葉は止まる。少女は首を振った。
「違うの。そういうのじゃなくて、時々、空や、壁や、地や、記憶の隙間に、綺麗な切れ目ができるでしょう。それを私は何度も見てきたの。ああ、あんな美しい境界を引けるなんて、羨ましいなあ、そう思って、おしゃべりのときに試しにみんなに聞いてみたら、知り合いのひとりがあなたの名前を挙げたわ」
 紫はうつむいた。少女は、それを追いかけるように、下から覗きこむ。
「あなたに逢えて、嬉しいわ、紫」
 また、背筋が震える。今度は歓喜ではない。
 自分の〈核〉を鷲掴みにされたような、そんな感覚だ。少女の視線はたやすく紫の中に入り込み、その眸に、〈死〉を映し出す。
 これほど死を身近に感じたのは、紫にとって、初めてのことだった。
 紫は確信する。少女の能力は、本人の意志とは別に、ますます研ぎ澄まされていくだろう。死霊に関わる程度の能力が、やがては死そのものに関わる程度の能力になる日も近い。
そう感じたが故の、震えでもあった。
「私もずっと待っていたわ、ゆゆこ」

 縁側の障子は開け放たれている。
 一陣の夜風が吹き込み、書写を続けるゆゆこの汗ばんだ肌を冷やす。ゆゆこが気付いた時には、部屋にもうひとりいた。
「……紫?」
「おはよう。こう暑いとゆっくり眠ることもできないわ」
「あなた、時間の感覚がおかしいわ。私はもう寝るんだけど……」
 彼女はどこかほっとしたように、筆を置いた。
「妖怪と人間の時間を同じものと思わないことね」
そう言いながら、紫は机の上に広げられた歌集と、それを書き写す途中にある紙に目をやる。
「夜遅くまで勉強熱心ね。お父上が、歌をされてるんでしょう」
「そう。私も歌聖の娘の名に恥じないように、歌を覚えないといけないの」
「どんな歌?」
「どんな歌って……」
 少女は机の紙にちらりと目を落としたが、すぐにそらした。それを見て紫が言う。
「あまり好きではないのね」
「好きではないわ。心を打つ出来事とか、風景を、言葉に封じ込めるのは、つまらないことだと思うから」
「そう? 私は、そういうことを言葉にするあなたと話すととてもおもしろいと思うけど」
「人と話すのと、文字にするのはなにか違う気がする……」
「同じよ。あなたは言葉を探して、私と話そうとしているのよ。あなたが亡霊と話すときだってそう」
「亡霊は私たちの使うような言葉は使わないわ」
「使うわ。同じことよ」
 紫は少女の手を取り、文字が書きつけられた紙の上に手を乗せた。二人の手が重なる。少女の手は、紙に沈みこんでいった。
「ひゃっ」
 小さく悲鳴をあげて、少女は紙から手を離した。
「冷た……今のは、湖?」
「あなたと文字の境界を少し弄ってみたの。そう、湖の清冽な冷たさを歌った歌に触れたのよ。言葉とは、そういうもの」
 少女は、押し黙ったまま、自分の手を見つめていた。じっと、自分の内側へ沈みこんでいくようだった。誰かが縁側の廊下を歩く足音がする。
「女中かしら? お邪魔したわね」
紫は空間の裂け目に入り、部屋を出た。
 そのまま二度寝するなり、他のところをぶらついてもよかったが、なんとはなしに、彼女の屋敷を上空から眺めていた。
 屋敷から、一匹の蝶が飛び立った。薄紫色に染まり、透き通っている。明らかに顕界の蝶ではない。ほどなくして、悲鳴が聞こえた。
 面倒だな。そう思い、裂け目に引っ込んだ。

 少女の能力は開花した。
 月日が流れるほどに、その力は、止めようがなく膨らんでいく。

 男は畳に倒れ伏して、ぴくりとも動かなかった。さっきまで手に持っていた盃が転がり、酒が畳を濡らしていた。机を挟んで向かい合っていた少女は、両手で顔をおおってうずくまり、震えている。
「ああ……まただ。また、私のせいで……」
 ほんの数秒前まで目の前で酒を飲んでいた男のことを、少女は憎んでもいなければ好いてもいなかった。ほんのちょっとしたはずみだった。毬を右手から左手に移し替えるように、ふとした気まぐれで男の〈死〉に触れて、ふとした気まぐれでそれを放ってしまった。
 何気なく毬を宙へ放るように。
 それだけで男は二度と動かなくなってしまった。
 少女の罪は問われない。彼らは少女を罰することができない。少女が罰を乞うても同じだ。信じることができないから。
 だが、信じはせずとも、恐れはする。
 これまでにも何人かが、少女のそばで不可解な死を遂げている。彼らの因果では少女の行為を理解はできないけれども、少女とその近辺で起こった死の回数を数えることはできる。
 少女の体から、死の匂いを嗅ぐ。あながち間違ったことではない。
 誰も罰しない以上、少女は許されることはない。彼女はみなから遠ざけられる。
「許して……許して……許して下さい……」
 死体にうずくまり、許しを請う。
「いいわ、許してあげる」
 虚空からやさしく振りかかる声に、少女は涙で濡れた顔を上げた。
「八雲……紫……」
 空間の裂け目から、顔だけを覗かせている。
「どうしたの、まるで何百年も合わなかったみたいな顔をして。たったの二年じゃないの。千度の眠りも待たずに訪れるような光陰よ」
 少女は力なく微笑んだ。憔悴した顔に、わずかに日が射す。
 紫はそれを見ただけで、姿を現してよかったと思った。あの、二度目に会話を交わした夜からこの日まで、紫は一度も少女のもとを訪れなかった。訪れれば、自分の少女に対する執着を認めてしまう。それは境界を操る自分にとって、あってはならないことのように思えたのだ。だがそんな風に自分を縛ること自体が馬鹿馬鹿しいと、考え直した。気が向いたらすぐにでも行くつもりだった。といっても紫は一日の大半を寝て過ごすし、何も考えずに数ヶ月をぼんやりと裂け目の中で過ごしたりもするので、時間の感覚が人間とはかけ離れている。再び少女の前に姿を現すまでに、二年かかった。
「少し、大きくなったかしら」
 紫は手を伸ばし、少女の肩に触れた。それだけで、少女は過剰にビクリと反応した。
「どうしたの」
「あなたまで……殺してしまったら、私……」
 紫は眉間に皺を寄せた。
「境界の妖怪も甘く見られたものね。人間の死を操る程度の能力で、私をどうかできるわけないでしょう」
「そう……かしら」
「そうよ」
 紫は表情を崩し、倒れた男を裂け目に放り込み、まだ残っている料理に手をつけ始めた。
「あ、それは、亡くなった方の……」
「私にとって生者と死者の区別はない。たとえ彼が生きていても私はこの料理を食べたでしょうけど」
「私がそうなっても?」
 紫は、昆布巻きを口に持っていく動作を、ぴたりと止めた。言葉の意味がわからなかったから……ではない。少女がその問いを口にする可能性をまったく考慮に入れていなかったわけでもない。
 問われた瞬間、自分の心が思いの外揺れたことに、自分で動揺したのだ。
「さあ、ね。それはあなたが死んでみないとわからない」
 嘘だ、と己に答える。
「嘘ね」
 見破られる。
「そう」
 紫はうなずき、昆布巻きを噛みしめる。
「私の気持ちをそこまで信頼してくれるのは嬉しいけど、それじゃあどうして、私が許してあげるって言っても、あなたは相変わらず許しを乞うの」
「それは……だって、私は紫を死なせてないから」
「死んだ人間しかあなたを許せないなら、あなたはこの世で永遠に許されないままじゃない。何考えてるのよ」
「私は生きていてはいけないのかも」
 あまりに軽い口調で放たれた言葉だった。紫は強く睨みつける。
「二度とそんなことを口にするな」
 凍てついたような声には、紫の抑えきれない怒りが込められていた。それはゆゆこの発言に対してというよりも、もっと大きな、捉えどころのないものに対してだった。彼女が陥った状況、人によっては流れだとか、運命だとか名づけてしまう、そういったものに対してだった。
「たとえ、魂の罪を定める冥界の十王全員が全員、あなたを有罪とみなしたとしても、私はあなたを許す。庇う。守る」
「うれしい」
 ゆゆこは頬を赤らめ、笑った。あまりに率直な彼女の反応に、かえって紫の方が戸惑った。だが、ゆゆこのそんな笑顔もすぐに曇る。
「死んでいった人たちも、きっと誰かからそんな風に思われていたのよね」
 知ったことじゃないわ、紫は思わず反射的にそう言おうとした。だが、ゆゆこの顔を見ていると、その言葉が出ない。知ったことでない……ことはないのだ、この少女にとっては。幼少の頃から、身のまわりのあらゆる死を感じ取っていたためか、彼女は、感知した死ならばどんな死も、自分のものとして受け止めてしまう。
「『死なないで』『なぜ死んだの?』『私があなたの死期を早めたの?』。すると、みんな次にはこう思うのよ。『どうして私はあなたと出会ったのだろう』『そもそも出会わなければ良かった』って。そこまで否定してしまうの」
「それはそいつの勝手よ」
 ようやく紫は、強い言葉を出すことができた。というより、やむにやまれず口をついて出た、と言った方が正しい。
「私は絶対にそうは思わない。出会ったことにさえ意味があれば、たとえどちらかが先に死んでも、死なれた側が覚えておけばいいだけの話よ」
 さらに言いつのろうとしたが、唇が動かなくなった。ゆゆこの目から、雨のように速く、一滴、涙が落ちた。
「ありがとう、紫。久しぶりにあなたに会えて、よかった。ありがとう」
 少女は涙を拭いて、笑おうと努めている。紫は、彼女のそういう顔は見たくなかった。のけ者にされたように感じるから。
 紫はため息をついた。空間に隙間を作る。特に何をしたというわけでもないのに、疲れていた。
「また来るわ」
「紫」
 呼びとめられ、振り返る。
「さっきの人、ここに戻して。葬儀をしないといけない」
 紫は無言で、裂け目からさっきの男を引き出して、床に横たえ、自らが入れ違いに裂け目に入った。
 少女が視界から消える。裂け目の中で、紫は睡魔に身を委ねる。ここが一番落ち着く。あの少女と話していると、心はさざ波のようにちりちりとざわめき、落ち着くことがない。境界線上を渡り歩き、すべての境界を統べるはずの自分が、線の上から落ちてしまう。それは、なんというか、らしくない。自分は境界線でまどろんでいるのがいい。白黒つけるのは、誰か他の者に任せればいい。すぐに、少女のこともどうでもよくなる。
眠る。

 桃色の花びらが吹雪となって視界を覆い尽くす。人々の波長が死へと誘われる時期だ。
 西行寺家の令嬢は、牛車に乗っていた。名のある陰陽師のもとへ向かう途中だった。花吹雪が中に舞い込んだ。めくるめく死の息吹を彼女は嗅ぎ、無意識のうちに力を放った。御者が地面に落ちた。見物人の何人かが倒れた。
それを見たゆゆこは牛車から飛び出し、通りから路地に逃げ込んだ。路地裏の倉庫の壁にもたれかかる。震える。浮浪者らしき風体の男が、ゆゆこを見つける。仲間を三人呼び、取り囲む。少女は弱々しい悲鳴を上げる。死を恐れて。死が、彼らに降りかかるのを恐れて。
 四人は折り重なって倒れ、動かなくなった。少女はその場から走り去ろうとする。角で、恰幅のいい男とぶつかった。少女は恐怖に顔をひきつらせた。男の胸の辺りに蝶がいた。少女が止める間もなく、蝶は空高く飛び、消えていった。男はうずくまったまま、動かない。
「あああああああああああ」
 力の抜けた声だった。絶望と虚空は、涙を流す力さえ少女から奪っていた。
「もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だ。私が嫌だ。消えたい、消えたい、なくなりたい」
 そうすれば望みどおりになるとでも言うように、両腕で自分の華奢な体を抱きしめる。指先が真っ白になるほど力を込める。
「あぁ……」
 死体となった男の体を見る。男は指先をわずかに動かす。そのままむくりと立ち上がる。目を見開いて絶句している少女の前で、大きく伸びをした。辺りを見回す。大通りの方へ歩いていく。その姿勢はどこかぎこちない。
「紫、どうして」
 男の後ろ姿を見据えながら、少女は語りかける。傍に、境界の妖怪がいることを信じて疑わぬ口調だ。
「生と死の境界を弄ったわ」
 紫もまた、挨拶も何もなく、さっきからずっと一緒にいる連れと話すように、言う。
「心配しないで、彼はこのまま生かしておく。だからあなたが気に病む必要はないのよ」
「……わかってない」
 ぽつりともれたその一言は、紫を傷つけた。
「そんなことやったって、あの人たちは、もうどこかへ行ってしまった。それを紫が呼び戻すことはできないし、たとえ呼び戻したとしても、一度行ってしまったものは、もう二度と元の姿に戻ることはない。こんなこと、長い時を生きた妖怪であるあなたなら、とうに知ってるんじゃないの。どうしてこんなことをするの。私をただ苦しめるだけだっていうのに!」
 ゆゆこは決して声を荒げようとはしない。いつもより少し早口になり、少し声が高くなっただけだ。それだけのはずなのに、紫は、一秒でも早くここから逃げ出したいと思い、また、這いつくばって少女に許しを請いたいとも願った。
 どちらも、八雲紫を幻想郷最大の妖怪として忌み、畏れている者たちからすれば、信じられないような欲望だった。
「わかっていないわけではなかったの……多分」
「じゃあ、どうして」
「よくわからない。あなたと話していると、自分が境界を操る妖怪であることを忘れてしまいそうになる」
 紫は目を伏せる。
「紫。どうして私にこんなにつきまとうの」
 紫ははっとして顔を上げる。真正面からこちらを見つめるゆゆこと目が合う。
「私、は……」
 何と言っていいかわからず、ゆゆこの手を取り、自分の胸に当てる。
「わかる? あなたはこのまま私の命を奪える。もちろん、命なんて境界の解釈に過ぎないし、ここであなたが私を死へ導いたとしても、世界が変わるわけじゃない。でも、私はリアルな実在として感じるわ。あなたの持つ、死の息吹を。おかしい? 私は興奮してるの」
 言いすぎた気もするし、全然言い足りない気もした。どこまでしゃべっても同じようなものだろうと思い、紫は口を閉じた。ゆゆこは無言で紫の頬に手を添えた。口を開きかけたが、また閉じた。目は、強い感情を紫に訴えかけていたが、紫はそれを直視できない。


 白紙に墨を流して作り上げたような世界が、広がっている。
 山や森や空は、ただの黒い塊だ。
 無数に折り重なった人々の山のてっぺんに、ゆゆこはいた。両足を前に投げ出して、両手を後ろにつき、斜め四十五度の上空を見上げている。
 人々の顔は潰れている。ところどころ赤が混じっているが、人というよりは、岩や苔を思わせた。だが指先や襟の形は細かい造作まで目に入った。何かちぐはぐな空間だった。
「紫、ここは夢の中なの?」
 西行寺家の少女の目線の先に隙間が開き、紫が上半身を表す。そのまま身を乗り出して、両手を少女に差し出す。
「あなたの思念と、魂の交通量が多い道路との、境界線を失くしてできた世界よ」
「うーん、紫の言うことはよくわからないわ」
「とてもシンプルにしか言っていないつもりだけど。いらっしゃい。あなたを今の現実から連れ出してあげる」
 ゆゆこは無造作に、ついと、腕を差し出す。紫は手を取り、宙を歩く。それにつられ、少女も宙を歩く。
「気晴らしに境界観光しましょう」
 水面に描いた絵が一瞬後に形を崩すように、死体の山が、水墨画を思わせる遠くの山や森が、消えていく。
 果てしなく広がる黄土色の大地が、眼下に広がった。
「ここは……」
「砂漠、という言葉が、あなたたちの世界では近いわね。もっとも、砂漠を見たことはないかしら。ここは顕界と冥界の端境。見て、魂が通っていく」
 十数人の人々が、群れをなして歩いていた。広大な砂漠の中で、彼らは、あまりにもちっぽけに見えた。
「寂しそう」
 ぽつりとゆゆこは呟く。
「そう見えるのは目が慣れていないからよ。あなたならすぐに見えてくるわ」
 紫の言葉が終わるか終らないうちに、ゆゆこの目はみるみる驚きで満たされていく。
「これは……」
 眼下の砂漠は、生き物で満たされていた。これ以上人が入る隙間などどこにも見当たらないほど、視界の彼方まで、ぎっしりと生き物で詰まっていた。人や獣や鳥や、彼女がこれまでにまったく見たことのない形状をした生き物まで、ありとあらゆる生き物がそこには存在した。
「みな、死を経てきた者たちよ」
 ちらほらと、蝶が見え隠れする。目で追っていくと、それらは、少女が過去に死へと導いた人のまわりを漂っていた。
「わかる? これが死。孤独でも何でもない。汗牛充棟。足の踏み場もない。石を投げれば死者に当たる」
「何が、言いたいの」
「あなたの力なんて、大したことないのよ」
 なげやりな、どうでもよさそうな口調だった。
「あなたが触れようと触れまいと、世界は死で満たされている」
 眼下の死者の群れはかき消え、別の群れが現れる。彼らは武者鎧を着たり、馬に乗ったり、裸足で槍を振り回したり、人を殺したり、盗んだり、殺されたり、していた。大勢で、お互いを殺し合っていた。
「あなたは茶碗を落としてしまうように、無自覚に人を殺してしまうけど、この戦を起こした人たちは、熟慮に熟慮を重ねてこの現実を選んだの。あなたよりも遥かに理性的に、人の死を選び取ったの」
「違う、違う」
 少女は小さな声で繰り返す。
「違う、違う、違う」
 紫は後悔の念が、錆びた釘のようにじわりじわりと広がっていくのを感じたが、押し殺した。自分が何とかしなければ、少女は、自責に駆られて何をするかわからない。それより、何かを考えるいとまも与えずに、情報を与え、押し切り、圧倒し、自分に服従させた方がいい。
「あなたは何も気に病む必要はないわ」
 合戦の風景が溶け、茫漠たる、赤茶けた荒野が広がる。視界の先を、左から右にかけて、巨大な断裂が走っている。断裂が大きくなる。そこへ近づいているのだ。
 間近で見降ろすと、いよいよもって断裂が与える印象は凄まじかった。遥か下方にうっすらと水色に光る川のような何かが見えるが、そこにたどりつく頃には気が遠くなり、距離の感覚がなくなる。
「こんな崖」
 また、風景が変わる。
 触れれば弾き返されそうなほど立体感のある雲の下、鏡のように空を映し出す湖が広がっている。中心に、小島があり、霧に侵され、霧の合間から、極彩色の花弁が無数に姿を覗かせている。
「こんな花」
 今度は、上も下も空だった。地面は、斜め上にあった。島が、浮かんでいる。いくつも、いくつも。それは雲を数えるように切りのない行為だった。
 島は、どういう原理でか、浮かんで、動いていた。島のひとつに近づく。そこには街があり、森があった。塔があり、社があり、店があり、人がいた。川は島の端へ流れて、そこから、樋から流れ落ちる雨水のように、下方の、無限の青空へ落ちていく。
「こんな島。これはあなたの世界ではありえない現象よね。次は……」
「もう、いいの」
 決して大きくはない声。しかし、紫の続く言葉をばっさりと切り落としてしまうほどの強度を持っていた。
「ありがとう。新しい世界を見せてくれて」
 彼女の柔らかな笑みは、こちらを拒絶する。紫は、ひかなかった。
「いい? ゆゆこ。世界は、素晴らしいもので満ちているの」
 紫は少女の手を両手で強くつかんだ。
「ゆゆこ。これは夢や幻ではないの。現実よ」
「わかっている。これも、現実」
 空飛ぶ島が、溶けていく。
「でも、私の過ごす現実じゃないわ」
 死体の山、水墨画の世界に戻る。その世界も、消えていく。
「私は、あなたのいうちっぽけな現実に縛られたままなの。世界から見て死がどうとか、それを含めて世界のありようがすばらしいとか、そこまで考えることはできないわ。私はもっと単純なことしか考えられない。死を前にした人の、どうしていいかわからない、戸惑った顔。身近な人がいなくなって、悲しみに暮れる、親しい人たち。ぽっかりと心に穴が開いてしまって、でも穴をどうしても埋めなければならなくて、忘れなくてはならなくて、辛いけど、やりきれないけど、日々の営みとしてやっていくしかない。あの人たちをもう、見たくない。これ以上私の手で増やしたくない」
「だからそれは……」
 言葉を続けようとして、紫は口を閉じた。疲れ果てていた。少女はもう、紫の言葉を断ち切るほどの気力を持っていなかった。しかし紫もまた、無力感に打ちひしがれていた。
「私はあなたと出会うべきではなかったの……」
 消え入りそうな声で紫が呟く。ゆゆこはその言葉を聞きつけると、紫に近づき、正面から顔を合わせた。そして、紫の唇を噛んだ。
「……ッ!」
 紫はまったく予期しなかった行為を受け、とっさに顔をそらす。紫の下唇から血が流れる。口元に妖しい笑みを浮かべたゆゆこの歯の間に、赤い、微少な肉片が挟まっている。
「紫、その言葉は、あなた自身が否定したでしょう。弱気になった私に、出会いが無意味でないって教えてくれたのは、あなたでしょう」
 そう言って、肉片を嚥下する。同時に、今のわずかな間、ゆゆこの顔に現れた妖しさは跡形もなく消えた。紫は血が顎を伝い、服を汚すのも構わず、呆然としていた。
ゆゆこの顔に、すべてを柔らかく抱きとめるような笑みが浮かんだ。
「ありがとう、紫。あなたみたいに、世界を心の底から慈しんでくれる人がいるなら、私は安心して、いなくなれる」
「やめて」
「あなたは、絶対、私を忘れない」
「やめて」
「私がどこかで生まれ変わったら、思い出して。これは、私の呪いよ」
 二人は和室にいた。部屋は荒れ放題だった。使用人に見捨てられた屋敷の末路は、悲惨なものだった。随分長い間人の手が入っていない。少女は縁側に出た。人の気配が全くしなかった。中庭も草が伸び放題だった。
 中庭の中心にそびえる桜の木に、近づいていく。
「ああ、見えるわ。こんなにここ、混んでたのね」
 桜の木の下にたむろしている人々は、少女の姿を見ると、散り散りに去っていった。ある者は恨めしそうに、ある者は申し訳なさそうに、ある者は微笑んで、去っていった。
 少女はひとり、根元に座り、幹にもたれかかる。両手を胸の前に持ってきて、何かを包み込むような仕草をする。そこに、蝶が現れた。紫色に透き通った、立派な羽をもっていた。羽の向こうに、こことは違う風景が見えた。
 二人、手に手を取って宙を浮いている。ひとりは多分、八雲紫だ。
 もうひとりは……
 目を凝らすより先に、蝶は、重力から解き放たれたように、浮き上がった。少女のあらゆる感覚は断ち切られた。
 紫は何もできず、それを見ていた。

 冥界の十王は、少女の処遇を決めかねていた。他の魂と同じような扱いをして、他の魂に何も影響がないか、不確かだった。少女の魂を散らしてしまう、つまり、消滅させる案も出たが、消滅させるには冥界側にも多大なコストがかかり、しかも消滅した魂は結局のところミクロな要素として再び世界に溶け込む。下手をすると、小規模かもしれないが、第二、第三の死を操る少女が生まれかねない。死を操る能力自体を封じ込めておきたい冥界にしてみれば本末転倒だ。
 間もなく、法廷に少女が連れてこられた。形は辛うじて人間の姿をとどめているが、蝋燭の炎のように大きく揺らめいたり、服装や、年齢が秒単位で変わったりしている。
 少女の背後に大きな白い幕が下がり、そこに少女の生前の映像が次々と映し出される。
「輪廻させずに、このまま抑留しておこう」
 やがて、十王のひとりが言った。ほめられた方法ではない。誰も積極的に賛同しはしなかったが、他に方法がないことは、皆、わかっていた。
 抑留すればその魂は生まれ変わることも、消えることもなく、永遠に彷徨い続ける。すべての魂を抑留させれば冥界はあっというまに許容量を超えてしまうが、しばしば現れるイレギュラーな存在にそういった処置をするのは、過去にも前例があった。
「あなたは人の身でありながら、少し力を持ちすぎた。あなたのせいではないけれど……これもまたあなたの業なのです。あなたの魂を抑留します」
 少女は、聞いているのか聞いていないのか、十王のひとりが話している間もしばしば辺りを見回している。ふと、少女の動きが止まった。背後で流れている映像に気づいたのだ。生まれたばかりの姿。歌聖と呼ばれる父親に歌の手ほどきを受けているところ。真夜中の中庭で初めて亡霊と出会ったところ。昼間の無縁塚で亡霊と談笑しているところ。そこで、彼女の口元にはうっすらと笑みが浮かんだ。
 十王もまた、声にこそ出さなかったものの、動揺し、息を呑んだ。
 映像の中で、紫紺のドレスをまとい、蝶をかたどった結び目の細いリボンのついた薄桃色のキャップをかぶり、装飾の施された洋風の傘をかざした何者かが、少女に話しかけようと、近づいていた。ところが途中で方向転換し、こちら側、つまり、この映像を見ている十王や少女に向かってきたのだ。
「境界の妖怪……」
 十王のひとりが呟く。画面から繊手が突き出たかと思うと、そのままずるりと体全体が法廷に出てきた。
「お困りのようね、十王の方々」
「八雲紫、か。この魂とは生前、親しかったようだな」
「そうでもないわ」
 平然と十王の言葉を否定する。それについてまた十王が何か言いそうになったが、紫が先手を打った。面倒そうな口調で。
「ただ私は、白玉楼の管理人が空席であることを言いに来ただけよ。最近、冥界の魂の収容キャパシティが限界に近づいてきてるから、顕界に新しい入れ物を建て増ししてるんでしょ? この子に、その手伝いをさせればいいじゃない」
「彼女に、魂の管理をさせる、のか」
「話が早くて助かるわ。この子の父親は歌聖と言われていたわ。教養の面からは問題ないでしょう。それに普通の魂と違って、文人が集まる白玉楼なら、きっと彼女と相性のいい連中ばかりだろうし、そもそも彼女に触れて簡単に散るぐらいなら、長いことはあそこにいられないわ」
 死後の魂は、住まいを定める。あらかじめ冥界の生活課の居住制定員が定めたところに住むのが通常のパターンだが、何か事情があったり、既に冥界にツテがあったり、顕界から強力な後押しがあった場合は、ある程度融通が効くようになっている。
 顕界に忘れ難い言葉を刻みこんだ人々、一般に文人と称される人々……つまり、画家、演奏家、作曲家、詩人、劇作家、そしてこの物語の時代より後に出現する小説家、映画監督、漫画家、シナリオライター、ゲームプログラマー等の場合は、白玉楼に住むことが許されている。
「むむ、確かに……」
 十王たちは、気持ちとしては、紫の要求を既に呑んでいたといってもいい。ただ、許可もなくいきなり乱入してきた者の要求を呑むというのは、いくらなんでも無理があった。彼らのプライド云々よりも、そんなことをすれば今後の冥界の運営に多大な支障が生じる。
 そこをなんとか見過ごすにしても、もうひとつ、問題があった。こちらはそう簡単に見過ごせない。というより、もしここが駄目なら、今の紫の案も何の価値もない机上の空論と化す。
十王のひとりがためらいがちに口にした。
「白玉楼の主になるには、本人の意思が不可欠だ。本人の意思があやふやなままでは、そもそも亡霊として存在を固定化することすらできない。存在への執着が必要なのだ。彼女は、しかし、それを望んでいるのか」
 紫の顔に、動揺が走った。それは、疑問を口にした十王自身が驚いたほど、あからさまな動揺の色だった。
「彼女の姿を見なさい。形が一定していないということは、もはや確たる自我を持つ意志がないということだ。記憶もほとんど消え去っているだろう。八雲紫、お前との交流の記憶も含めて。そんな魂に、白玉楼の管理を任せられるか? 無論、能力的に何の問題もないことは認めるが、魂の意志がそのようだと……」
「ゆゆこ」
 紫は、少女の名を呼んだ。少女は振り向いた。今まで曖昧だった輪郭が、フォーカスが絞られるように、くっきりと現れていく。
「ゆゆこ」
 もう一度、もっと思いを込めて名を呼ぶ。
何度でも呼ぶつもりだった。
 しかし、三度目の呼びかけがなされる前に、彼女は形を取り戻し、紫に駆け寄って、抱きついた。
「紫、紫、紫、紫」
 呪文のように名を唱え続ける。紫もまた、同様に振る舞う。
 時間が歩みを止めたような抱擁が続いた。不意に、少女は紫の耳を噛んだ。
「ひゃっ」
 紫は、自分でも思いがけないほど高い声を上げた。動物が親愛の情を示す甘噛み、というのとも違う。今のは、かなり本気で噛んでいた。距離と角度の境界を弄って自分の耳を見る。噛んだ跡が赤く残っている。
「ふふ。逃げちゃ駄目よ、紫。あなたに、教えてほしいことがあるから」
 ころころと笑いながら、少女は紫にしなだれかかる。今までの少女なら絶対にしなかったような仕種だ。いや、死の間際、紫の唇のかけらを食いちぎった時に見せた、あの一面を思い起こせば、まったくありえないわけではない。
「私は誰なの?」
 上目使いに紫を見る。目はぞっとするほど真剣だが、口元に浮かんだ微笑みが悲愴感を和らげている。捉えどころのない表情だった。
 紫は、触れれば壊れてしまう硝子細工に対するかのように、そっと少女に言葉をかける。
「私の名前は知っているのに。自分の名前は知らないの? 今、私が呼びかけたからこっちに来たんでしょう」
「私があなたに向かっていったのは、私を呼んだとわかったから。私の名前がわかったわけではないわ。わからなかったからって得をするわけでもなし、なし」
 ひとつひとつは意味の明瞭な言葉をつなげているはずなのに、ふと話し相手を煙に巻いてしまうような、少女の言葉だった。ちょうど夢の中の事実のつながりが、その最中は自然であっても全体として見た場合ひどく支離滅裂な印象を受けるのと同じように。
「私は何をしたの? 何かいけないことでもしたのかしら。知りたいわ。色々と知りたいわ」
「私はあなたのことをあまり知らないけれど……」
「本当? 何だか嘘っぽいわね」
 すぐ見破られた。
「嘘よ」
「紫以上に私を知ってるヒトなんて、いそうにないわ」
「あなたを知らないというより、知ったつもりになりたくないの。まだ全然知りたりない」
「喰い足りないのね」
「そう、喰い足りない。けれど、あなたに名前を与える責任と資格はあるはずだわ」
「あるはずだ、なんて随分曖昧ね」
 少女は顔の向きを変え、流し目をしてみせる。
「私は謙虚な性格だから、自分にそういうものが備わっているのか、いつも考えているのよ」
「へえ。あなた謙虚なの?」
「それも嘘と?」
「いいえ、言わないわ」
 少女は紫に手をさしのべ、何もかもを包み込むように、笑いかけた。
「私を名づけて、紫」
紫は、巨大な安堵に押しつぶされた。心地よかった。笑った。何百年、何千年ぶり、ひょっとすると生まれて初めての、心からの笑み。
「あなたは、西行寺幽々子」
 紫紺の光が幽々子の中から溢れ、法廷全体を満たした。光が治まった時、少女は……いや、西行寺幽々子は装いを新たにしていた。三角巾を巻いた薄紫の頭巾をかぶり、着物は以前の簡素なものと違い、裾や袖、帯に無数のフリルがついている。
「これで、晴れて白玉楼の主ね」
 紫が十王を見渡すと、彼らはみなうなずいた。十王のひとりが空中から巻物を取り出し、流麗な筆捌きで、任命書を書く。幽々子は、じっと紫を見ていた。
「お腹が空いた。あなたでお腹いっぱいになりたい」
 そう言うと、かがみこんで、紫の手をくわえた。紫の手はぐにゃりと歪曲され、幽々子の口元に吸い込まれる。幽々子が頭を上げると、紫の手首から先が消えていた。
「ちょっと幽々子、返しなさい」
「素敵。このまま消化したいぐらい」
「駄目よ」
「はい」
 幽々子は紫の手首をくわえる。そして、ゆっくりと口を離していくと、幽々子の唾液で濡れた紫の手首が現れた。
「まったくもう。この調子で、あまり文人の魂をつまみ食いしたらいけないわよ」
「おいしいものしか食べたくないの。お腹が減ったからって、あまりおいしくないものを食べたりはしないわ。ちゃんと我慢するの」
「我慢……? あなたが。無理無理」
「だから、今のは、あなただったから我慢しなかっただけなの」
 その時、咳払いが複数、重なった。
「お楽しみのところ、すまないが」
「正式に西行寺幽々子を白玉楼の主に任命する」
 重々しい仕草で巻物を渡す。幽々子はそれを両手で受け取り、胸の前にそえた。
「ありがとう」
 そして笑った。十王たちは、完全に毒気を抜かれてしまった。幽々子は紫に視線を転じる。
「あなたが私を生んでくれたわ、紫。いつでも白玉楼にいらっしゃい。お茶を飲ませてあげる」
 幽々子は何ものにも束縛されないように、ふわりと浮き上がり、法廷を後にしようとした。出口の間際で、止まり、振り向く。
「今、来ればいいのよ。どうせ暇なんだし」
「私もそう思ったところ」
 差し出された幽々子の手を、紫はつかんだ。亡霊の手は、冷たかった。だが、今までに触れたどんな指よりも、紫はその指に生命の蠢きを感じた。

 その日、二人は、ついたばかりの白玉楼で長いこと語り合った。
 生前の、西行寺の令嬢が紫と過ごした具体的な記憶は、綺麗さっぱり幽々子の頭からは消え去っているようだった。いまわの際の少女が強く念じた想いは、亡霊となった幽々子に〈紫〉の名だけは残したが、他は違った。記憶は、少女と共に死んだ。今、あの二人の交わりを覚えているのは紫だけだ。
あの少女は死んだ。その事実はどうあっても覆ることはない。西行寺幽々子と同一存在であったとしても、記憶が葬り去られた以上、やはり死んだのだ。たとえ境界の妖怪たる八雲紫が生死の境界を越え、そして記憶と忘却の境界を曖昧にしたとしても、少女が死んでしまった事実は変わらない。記憶を戻しても、それは同じ少女ではありえない。
 ゆゆこが死んだことを、生かせてやれなかったことを、紫は覚え続けていなければならない。これが彼女の呪いであり、幽々子へとつながる祝福なのだから。
 少女の境界が紫の体をがんじがらめにしている。境界を統べるはずの紫が、初めて境界に支配される。悪い気はしない。この焦がれる気持ちが、幻想郷最強最悪と畏れられる境界の能力を代償にするだけで手に入るというのならば、ためらう理由はない。
 自ら境界に墜ちて、もがいてあがいて、何の悔いもない。
幽々子と紫のなれそめの話。
野田文七
[email protected]
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コメント



0.960簡易評価
3.90名前が無い程度の能力削除
ゆゆ様がそこはかとなくエロス
4.90名前が無い程度の能力削除
ゆかゆゆの出会いの話はこれまでも漫画・小説数多くありましたが、こういったオチの話はいままでに無かったと思います。
とても秀逸でした。
ただ難を言えば、少し話の展開を焦りすぎたところでしょうか。
冒頭での出会いの時点では霊相手に普通であった幽々子と、紫によって能力が開花して以降、年を経たことで霊がいかなる存在で人を死に至らしめるということがどういうことかを理解する部分とが、若干繋がっていない気がしました。
もう少し幽々子の心情経過の描写を入れて欲しかったです。
同じことが、死ぬ間際の紫への行動の部分でも言えますね。
死への渇望と生への絶望とがありながら、紫に執着してしまうところにもう一工夫「何故か」という後押しが欲しかった。
紫側の執着は良く描けていたと思います。
紫側からのみの視点でのアプローチで進めるか、紫・幽々子両方の視点を同じ分量組み込むか、どちらかに統一出来てない分中途半端に繋がらなかったのではないかと思います。
それからこういった題材・文章で、「リアル」「イレギュラー」「小説家、映画監督、漫画家、シナリオライター、ゲームプログラマー等」といった語句はそぐわない気がしました。
せっかく作品の世界の中にひたっていても、スパッと一瞬現実に引き戻される感覚がしましたから。

できればもう一回練り直してリライト版を読ませていただきたいです。
それでもこの点数付けるくらい満足しました。
6.90名前が無い程度の能力削除
今まで見た過去話で紫と幽々子のキャラクターが一番自然かもしれない
7.無評価野田文七削除
>3

ありがとうございます。

ええもう全キャラ中ゆゆ様が最エロです。

でも「そこはかとなく」エロにしないとぶち壊しになるので

エロいゆゆ様書くの難しいです。



>4

丁寧な感想・指摘ありがとうございます。

まさかここまで書いていただけるとは……

自分の中で先に展開が決まっていたので、途中の心情描写を飛ばしてしまいました。

読み返してみると、確かに幽々子の行動の理由が唐突過ぎる。

ほのぼの→罪悪感→ほのぼの、と特に明確な分岐のシーンもなく感情が変わってますもんね。

書いてる時はぶっちゃけ「ゆゆさまかわええ~」とノッた状態だったので、その辺気づいてませんでした。

単語については……うーん、不自然ですか。ギリギリありかなとも思ってたのですが。



この話は東方の中でも代表的な書きやすい、かつ奥が深い話だと勝手に思ってます。

某バトルロワイヤルのゆかゆゆとか大好きです。(あれはむしろゆゆよむか)

>リライト版を読ませて

最高の活力です。努力します。



>6

一番自然(かも)……!

ありがとうございます。<(_ _)>

自分としては、小説ではないですが

某ハルノユメの紫、幽々子のイメージが根底にあります。(もちろん原作が第一に来ますけど)

ああいう美しさ、妖しさを、絵とは別のやり方で表現したいなと思ってます。
8.100名前が無い程度の能力削除
美しい

そんなお話ですね。

何度も読返したくなりました。

あなたの書く幻想郷がもっと見たいです
9.無評価野田文七削除
>8

東方好きの方に、ここまで言っていただけるとは……

同じ東方好きとして感激です。こちらこそありがとうございます。



東方を楽しむだけじゃなく、こちらからも東方に何かしてやりたい

歌も歌えないし絵も描けないけどなにかしたい

欲を言えば自分の中にあるなにがしかを東方の世界に混ぜ合わせたい

そう思って小説を書いた甲斐がありました。



まだまだ書き足りません。

今回の作品も、今後のため、反省すべきところが多々あります。

貪欲に書いていこうと思います。

よろしくです。
14.70名前があるかわからない程度の能力削除
面白いお話でした。
自分はクリエイターなりなんなりは、紫だからOKだという気はします。
頑張ってください。
15.無評価野田文七削除
おお、第二段投稿しようと思って
前の作品見てたらこんなところにレスが。
楽しんでいただけて幸いです。
近いうち次の作品うpしますので
よろしくお願いします。
18.90名前が無い程度の能力削除
キャラが自然な感じでよいですね。面白かったです。
が、ちょっと駆け足な感じが残念。
19.無評価野田文七削除
うお、なんと一年半ぶりのレス……!
ありがとうございます。
「お燐と妹紅」や「風花幽夢抄」はともかく、まさかこの作品にレスがつくとは。
がんばって書いた作品ですが、今見ると、色々と穴が目立ちます。
おっしゃる通り、ちょっと展開が急ですね(汗
最近、字数を少なく、テーマをしぼって書くことを課題にしてます。
20.90名前が無い程度の能力削除
某所のメリ蓮から来ました
お燐と妹紅より良い気がする
感情にあふれた話が好きなだけかもしれんけど
21.無評価野田文七削除
まさかここにコメントが来るとは。
読者の数だけ評価があるものですね……
昔の作品なので、私としてもつい反面教師としてしか見ず、
むやみに切ってしまいがちになるのですが
やはりここからも受け継ぐべきものがあるようです。

というか、まさか導入先があちらからとは(何やらデジャブが。エピクロスのときとか)
22.90名前が無い程度の能力削除
紫の幽々子への愛情が、苛立ちを覚えながらも包み込むようなものであるのが秀逸であるように思います。
自分の経験上、本当に好きなものと初めて出会ったとき、今までの自分が食いつぶされるような気がして一種の嫌悪感を持つことが多いのですが、そういった負の感情をもまるごとその一部として大きな愛情が生まれると思うからです。
考えてみれば紫の能力は生命的なものを無機質な世界に拡張してゆくような、混沌の象徴であると言えると思いますが、対照的な幽々子の能力に魅かれる冒頭がゾクリと来ます。

途中で現れる異世界も、死を一段大きな生命的なものの契機として捉える、紫とゆゆこの見事なハーモニーと言えましょう。
人妖入り混じりお互いの論理が交じり合う、幻想郷らしい感性のるつぼを感じました。

しかし、幽々子様は大人しそうな顔していちいち行動がエロティック。
ゆかりんが悶えるシーンをもっと見たいです。
23.無評価野田文七削除
ありがとうございます。
この作品の何かがあなたの琴線に触れたために
この質のコメントが生まれたのでしょう。
作品(投稿作)が作品(コメント)を生んでいる現象を目の当たりにして
ただいま胃の辺りがぞくぞくしてます。

現在執筆中の永夜もの、発表媒体が創想話か即売会かまだわかりませんが
この作品に勝るとも劣らぬ、できたらそれ以上の「ゾクリ」を提供できればと思います。
24.100名前が無い程度の能力削除
上の方々の評価コメントが凄過ぎて何も言えないw以下妄言になりますw

最後まで見ての感想は面白かったというよりは綺麗だなでした。
スキマ旅行中のアレコレと移り変わる風景だとか、ゆかりんの齧られた唇から滴る血だとか、文章にこんなに鮮明な色や景色を感じられる作品は珍しいなと。
それと自害するのを引きとめようとするゆかりんと逝ってしまった過去のゆゆ様の会話にホロリときました。
こんなゆかりんとゆゆ様があってもいい!

あと時折豹変なさったかのような掴めないゆゆ様のエロスにやられましたwこのへんもあまり上手く言葉に出来ないけどw

ゆゆ様は エロい な ゆかりんも ビックリ だ
25.無評価野田文七削除
ありがとうございます。
その素晴らしく的確なコメントでこの作品から、
原価120%ぐらいの価値を引き出しそうな勢いですw
ゆゆ様1.10になっても相変わらず強いし使いやすいしホクホクです。

ここが書きたい、と思って書いたところを
読んでもらえた、と感じるのは幸福なことです。
このために書いてるんだよなぁ、と。
35.100名前が無い程度の能力削除
ゆかゆゆは良いなあ
本当に面白かったです
36.100つつみ削除
行間を読ませると言うのはこういうことをいうのだなと教わりました。
とても面白く、心に残りました。