Coolier - 新生・東方創想話

太公望

2008/03/12 21:16:21
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私は寺子屋の中から外へと出た。
外を見渡せば子供達が数十人ほどいる。
皆、私が歴史を教えている子供達だった。
今日はもう授業が終わったので、皆思い思いの体で帰って行っているようだ。
「せんせい」
子供達の無邪気な様を寺子屋の出入り口から眺めていた私に声がかかる。
振り向いても誰も居ない。
はて、透明人間の悪戯か何かと思ったが、急にフリルの付いた服のスカートの端を引っ張られて重心を崩される。
何とか横に転びそうになるのを踏みとどまり、私はスカートの一端に視線を落とす。
そこには数人の子供達がまだ残っていた。
「どうした。もう今日の授業は終わったぞ」
私は膝を曲げ、数人のうちの声をかけてきた子供の一人――ちょうど私のスカートの裾を握っている――と視線を合わせ、その子の頭を撫でながら問いかける。
「あれ」
その子は握っていた寺子屋の出入り口の一角を指差した。
目で指の先を追うと、寺子屋の門近くの塀にかけられた釣竿が目に入る。
「ああ、あれか」
どうやら子供達はあの釣竿があそこに有ることを疑問に思っているらしい――そう私は解釈した。
「今日の私はな、授業が終わった後に用事があるんだ」
子供達に歴史を教える授業の後に用があり、その用事の為に釣竿を持ってきたのだと私は説明する。
「それって大事なこと?」
好奇など微塵も感じられない、ただ純粋な疑問が数人の子供達の中の一人の口を吐いて出た。
「ああ、とても大事なことだよ。とても大事な友人のための、な」
私は自分に念を言って聞かせるように瞼を閉じて言い、子供達に応えた。
キョトンとした顔をして見つめ返してくる幾つものの表情は、まだ私が言った言葉の意味を理解しきれていないようだ。
「もう、どれだけ前のことになるんだろうな」
立ち上がり、沈んで行く夕日に呟いて少しだけ私は寺子屋で子供達に歴史を教えるようになるより前に有った出来事を回想する。




――彼は釣りをするのが好きだったな、と。










太公望









それは私こと上白沢慧音が半獣となり、里の人間達を里の外敵から守るようになってから数年が経ったある日のことだった。
私が里を守るようになってから数年。上白沢慧音の名は里に住む者達の間で噂となっては知れ渡り、ついには名前だけなら知らぬ者も少なくなっていた。
そんな里で名の知れた存在となった私だが、自分が有名人だという自覚は無く、暢気に里の外れで一人ひっそりと住んでいるままだった。
良く里の有力者たちが尋ねてきては、里の中心へと引っ越す気は無いかと誘ってはくれ――本当なら有り難い誘いの数々だった――たのだが、一貫して「気持ちだけで十分だ」と言って断り続けてきた私は、やはり世辞に疎かったのかもしれない。
先に言っておくが、私は里の人間達が嫌いなわけではない。過去に歴史好きの変人と呼ばれてきた私とて流石に嫌いなものをわざわざ守ったりするほど酔狂ではないからな。
ただ、里の有力者達の水面下での権力争いにはかなり私は辟易しており、その渦中に己自信もまた巻き込まれるのだけは御免こうむりたいと常々思っていた。
更に言えばこの出来事が起こるまではもう一つの理由もあったのだが……それはこの出来事を語る中で解ることだろう。
その日、朝の日差しどころか昼ですら日が差さすことのない暗い部屋で私は眠っていた。
「……」
私が寝こけていた部屋の中には洋本といい、和本といい、和洋折衷の本が立ち並び――しかもどれもが歴史書および辞書などといった知識書で――、とにかく散乱していて足の踏み場も無い有様だった。
多分、今の私が見ても目を覆ったに違いない。
四畳半の広さの部屋の中、ところ狭しと本棚がひしめいては、当の散らかした本人は連日連夜かけて異国の言語で書かれた歴史書とそれを翻訳する辞書達相手に小難しくにらめっこ。
あちこち必要な文献を引っ張り出しては、その都度に手ごろな机の一角に置いては重ね、乗り切らないものや戻すのを不精しては床に散らかし、部屋中足の踏み場どころか万里の頂上をも圧巻するバリケードが乱立することは私にとって本当に良くあることだったのだ。
私を尋ねて客が書斎に来るたびに、この部屋を支配する物理法則の神秘性と成り立ち方の意外性に首を捻るどころか、倒れてきやしないかと例外なく皆が身を竦ませていたのを覚えている。
酷いときは部屋に近づこうとすらしなかった。
これが公の場だったら「雪崩注意」とでも看板が貼られていたかもしれない。
その本が雪崩を起こしそうなぐらい、雪山に積もった雪が全て本に変わったんじゃないかと思えるぐらいに本が積み上げられた本の世界の中心で、私は長机に突っ伏したまま山の如く動かない。
両隣にそびえる二つの塔に挟まれて尚、高いびきで寝入れる私を皆が口を揃えて豪胆と形容し、畏怖したというが、その真偽は未だ定かではない。
その日の朝、日が昇るまでずっと辞書やら百科事典やら多くの本を相手に手間取っていただけあって私の眠りの深さは海の底より深かった。
昼も間近で朝と言うには遅い午前の時間帯、ただ静けさが私の家を包む中、コンコンと家の玄関をノックする音が聞こえた。
何も反応が無いのを辛抱強く待ってはノックを繰り返す来訪者。
並みの者なら留守だろうと思って帰るだろうが、この来訪者は違ったらしい。
「上白沢殿、上白沢殿ぉー!」
終いには、ノックだけでは飽き足らず声を上げる始末。
これは私にとって安眠妨害なことこの上ないのだが、私の家の書斎であり、私が作業し、今寝こけている場所は幸か不幸か玄関から最も遠い場所に位置していた。
これではしつこい来訪者も、度重なる無反応にこれは留守だと諦めるしかない。
玄関の扉に手紙を挟みこんで帰ろうとする。そして、そのまま来訪者が背中を向けようとしたまさにその時、太陽が高々と上った空に雪崩でもおきたのかと思うほどの轟音が響き渡った。
「痛ぁ……」
書斎の中で起こった変化の様を見ていたものが居たならば、今しがた起きた惨劇の有様に目を瞑っていことだろう。
惨事の現場では私が前日までにバベルの塔もかくやと積み上げた二つの本の山があろうことか本で雪崩を起こしていた。
つまり、あられもない程崩れていたのだ。
辞典や百科事典など知識書は普通の本に比べて分厚くて重く、一々床においていたのでは手が重くなるのは当たり前だ。だからといった理由で私は手間を厭い、重たい本のほとんどを長机の上に、あろうことか自身の両サイドに山ほど積み上げてしまっていた。
つまり書斎の中でも選りすぐって積み上げた重量級の本達が徒党を成して崩れたわけで、打ち所が悪ければそのまま覚めない永眠となっていたことだろう。
しかし幸いにも、無精の極みとばかりに積み上げる中に挟んでおいた幾つかの柔らかい和本が先に私の頭に被さったおかげか、眠りから覚める程度の衝撃を受けるだけに留まった。
目を醒ました私は、首から上だけを綺麗に埋もれさせるという前人未踏の偉業を成し遂げているようだ。首をあげようとするにも自分の頭部を埋め立てた本が首から上を固定してしまったらしく、首を全く動かさせてくれない。
これを歴史の重さと思えばこそ、読まば積み、読まば積んで幾星霜。
私が積み上げ、ここにぶちまけた歴史は殊の外重かった。
歴史喰いの半獣、歴史に呑まれる。
そんなフレーズが頭に浮かぶ。全く洒落になっていないこの状況。
頭を机の上に突っ伏したまま固定され、史上誰よりも格好の悪い生き埋めの状態となってしまっては歴史喰いの半獣の異名にもはや威厳は微塵もない。
「うぅ……私としたことがなんという様だ。情けない」
現実でこんな間抜けな窮地に陥る者が居るなど今の今まで私は考えもしなかった。
起き抜けに受ける自らの不遇を嘆くも結局は自業自得。
次からはどんな本も積み上げるのは机の上ではなく床の上にしようなどと考える私だが、今この状況を脱せねば次云々以前に、次が来ない。
どんなに現実的で今すぐできるはずのことでも、できなければ絵に描いた餅。取らぬ狸の皮算用。
生産性など皆無、言ってしまえば反省も後悔もへったくれもない。
こんなときほど役に立たない知識ばかりがこぞって出てくるのも知識人の悲しい性というものだ。
ハクタクになればこの窮地を脱せるのだろうが、なにぶん満月の夜は一昨日過ぎたばかりから、一ヶ月近くを飲まず食わずで過ごさなくてはならないことになり、更に不幸は積み重なるものなのか、私は今日まで作業に集中していたせいで食事を十日は既に抜いていた。
そういえば、前に食事をとったのはいつだったか、と思い出してみたが、何時間……否、何十時間……否否、何百時間前だったか、ちゃんと食事をした時の記憶がすごく昔のことのように感じた。
ああ、味噌汁。ああ、白ご飯。今すぐ食べれないと思うと急に食べたくなるから不思議でならない。
私のお腹がぐぎゅるぅうと情けなく鳴っては胃がとっくに空であることを主張する。
ああ、私のお腹よ、ここを抜け出したらご飯三杯、味噌汁二杯は軽く食ってやる。だから黙れ。とにかく黙れ。
哀しくなるから。
このお腹の哀愁漂う訴えに一ヶ月近く耐えるなどどう考えたって不可能だ。
もはやここまでと思い、「上白沢慧音ここに没する」と手近な紙に手探りで書こうと、切羽詰ったところで誰かの声が聞こえた。
「上白沢殿、この部屋に居られますか」
一人自棄を起こした私の耳に聞こえたのは心の声などではなく、れっきとした他者の声であった。
「誰か居るのか!」
書斎の扉一枚隔てた先でどうやら入室の許可でも待っているようだ。
人に家に勝手に上がられているということは、この際だからと目を瞑る。
「はい、前日は忙しいからと引き取らせてもらった者です。今日も尋ねて来て、返事が無いので留守だと思い、帰ろうとしたところで何かが崩れた音が聞こえたので床でも抜けたのかと思い玄関の扉を蹴り破らせてもらいました」
昨日といえば作業に集中して気が立っていたものだから、ほぼ怒鳴りつけるようにして帰らせてしまったあいつか……って、なんで雪崩のような音で床が抜けると思うんだ……そんなに私は重くは無いぞ、と記憶を引き出し、愚痴を内心こぼしつつも私は体よく現れた助けにひとまず感謝することにした。
「玄関の扉か……、どうせそれほど大切なものでないから気にするな。それよりも今、自分一人じゃどうしようもない状態に陥っている。早く助けてくれないか」
書斎の扉が開き、誰かが息を呑む気配を感じた私は頭の中で考えていた言葉を口に出す。
「おい」
声をかけられた者はびくっとする。
緊急事態と心勇んで扉を開ければ、そこに頭だけ埋もれて動けない私の姿。
息を呑むのも仕方はない、と自分自身が頷ける。
しかも、顔も見えない首から先を埋もれさせた逆生首から腹の据わった声だけが響いてくるなんて、どんな伝奇小説だ。とにかく、例えどんな見てくれであったとしても、それでも私は言っておかなくてはならなかった。
「絶対に笑うな、そして誰にも言うな」
この一言だけは絶対に。
人は声だけでこうも怯えるのか、私の声に脅された者の怖気づく気配が伝わってきたように思う。
なまじ表情が一切伺え無いだけにどんな表情をしているのか想像しただけで恐ろしいというもの。
だが、もしかしたら現実に存在しているもので非現実を形作った今のシュールさに肩を震わせ笑いにただ耐えているだけというのも否定できたものではない。
色々と可能性を考えたところで私は声を掛けた時の自分がどんな表情をしていたのかが気なった。
……多分に鬼気迫る形相であったのだろうな。
数分後、頭の上に被さった本が取り払われた私はほどなくして、文字通りに首を突っ込んでいた本の世界から無事に生還を果たした。
こんな九死に一生は二度と御免だと、私は首の骨を鳴らしながら吐き捨てる。



「……無事ですか、上白沢殿」
自分を心配そうに見ている四十路過ぎ男の顔が目に入る。
見れば、彼は私が人間の里周辺で人間を守るようになってから、真っ先に私のもとへと挨拶に来た里の有力者の一人だった。
最初に来て、最初に里の中心部へと引っ越さないかと誘ったのも彼だったっけな……
どちらにしろ、多くの誘いを断ってきただけに何人に誘われたかなんて物の数は覚えていられないのだが。
誘いを断ってからも彼は機会があると私の元へ尋ねてくる変わり者だった。
思えば半獣になってからの私が里の人間達に慕われるようになったのも彼が尋ねてきてからだった。
もしかしたら裏で様々な根回しがあったのかもしれない。
人の風当たりなどきっかけ一つで如何様にも変わるもの。だが、それはその渦中において波を起こすものがあればこそ。もしかして、その波を彼が起こしたのでは無いだろうか。
考えるだけ無駄な話だと私はその可能性の追求を止め、自分にとって都合のいい、最も気に入ったストーリーを描いているだけに過ぎない、と自分の仮説を打ち捨てる。
「無事に見えるか?」
食卓についた私は、牛飲馬食とばかりに飯をかき込みながら問い返した。
彼は上に立つ者特有の曖昧な愛想笑いを浮かべ、無事そうですね、とだけ私に言うと家の外へ出て行った。
恐らく、私が迎えに出てくるまで玄関で待つつもりなのだろう。
なんと律儀なことかと思いながらも目だけで彼を見送り、いくら自分の家とはいえ客人の前で大飯食らいをするのは少しばかり無礼に過ぎたか、などと反省した。
しかし、その間ずっと箸と口を動かすことは忘れなかった。
最終的に私が平らげたのは、白米三杯に味噌汁二杯だった。無論丼での換算であることは言うまでも無い。



怒涛、とも言える掻き込み振りで食事を終えて私が玄関に出ると、扉が豪快に壊れていた。
本当に蹴り飛ばしたのか木片が至る所に飛び散っている。
「この身で扉を蹴破るのは少々骨でしたが……本当にすいません。後で大工を呼んで修理させます」
確かに痩躯と形容するのが最も、な彼の体では薄っぺらな木の板一枚とて破るのに四苦八苦しそうだ。
丁寧に頭を下げる彼に「命が助かったのだから良い」と言って私は頭を上げさせる。
「そうですか。……では昨日の申し上げた件ですが、これを」
さっきまで頭を下げていたのが嘘みたいに彼は申し訳なさそうにしていた表情を真剣なものに変える。
その様たるや君子は豹変するという言葉を抱かせるものだった。
彼が取り出した――扉に挟んで置いていこうとしていた――手紙が私の手に渡される。
「読め、と言うのか……。答えは決まっているぞ」
渡されたものが手紙と分るや否や、私は表情を曇らせた。
「何も今すぐ決めて頂かなくても、……そうだ」
真剣そのものだった表情をまたも一転させ、思いついたとばかりに私の家の壁に立てかけてあった二つの棒を彼は手に取った。
そんな所に棒など置いてあったか、と考えてしまったが、いくら歴史喰いの変人な私でも自分の家の壁に棒を立てかけるという習慣は無いし、更に言うとそんな風変わりな趣味は持ち合わせていない。
導き出される結論としては、つまりその二本の棒は彼が持ってきて、たてかけていた物ということだ。
「これから釣りにでもいかれてはどうですかな」
そう言って彼は私の手に棒を二本とも握らせる。
否応無く気が付けば握らされて居る手際の良さに――もし世が世なら彼は怪盗にでもなっていたかもしれない、と――驚く。
とにかく、手渡された棒を観察する。
長さは乳切木くらいだろうか。持ってみると意外と軽い。
試しに一本を振ってみると、しゅっと音を立てて長々と伸びた。
「ほう、釣竿だったか」
そう言って十四、五尺程になった釣竿をまじまじと見つめる私に、彼は笑いながら言った。
「これは先の件とは全く関係の無い提案です。慧音殿のあの失態。私は誰にも言わず墓までもって行きましょう。その代わり口止め料として魚を釣ってきてもらいたい」
私は彼の提案になるほど、と頷き返す。
下手にただで済ませるのは忍びない。
そして、なによりも先の失態について固く口を閉ざしてくれるのなら尚更のこと受け入れるべき提案だった。
「今日の夕餉あたりの菜にでもするのか」
大方食事の彩りの一つにでもするのだろうと私が問うと彼は顔を伏せた。
「今日は妻の調子が良くて『焼き魚が食いたい』と言うものですから、私が釣りに行こうと思っていたのですよ」
そう言って彼は表情をまた笑顔に戻し、「根を煮詰めていらっしゃるのであろう慧音殿でもお誘いして」と付け足した。
「まだ良くならないのか……。しかし、それはそれでそれは気を遣わせたな」
彼の妻は一人の女子をもうけてからというもの、床に伏せることが多くなり、里の有力者として様々な行事にあたらねばならない彼を更に多忙にさせていた。
だが、それは置いておくとして、怒鳴りつけられて帰らされた次の日に釣りに誘いにくるとは。彼の豪胆さには恐れ入る。
さりげない気遣いといい、彼が里の有力者として掲げられるのも分る話だ。
「ですが、今から私は慧音殿の玄関を直すために大工を呼びに行かねばならなくなりましてね。
慧音殿には釣竿を二つとも貸しますのでどうか誰かを誘って釣りへ行って下さい」
言うだけ言うと彼は背中を向けて去っていく。
返事一つとして言い返させないまま立ち去ろうとする彼を思わず追いかけようとする私だったが、あれで里の有力者なのだから、彼には彼の予定があるのだろうと思い直し、二本の釣竿見つめてため息をついた。
「全く良いと言ったのに……、人の話を聞かない奴だ」
気が付けば彼の背中は私の視界から消えている。
こんなに彼の足は速かっただろうか、そんな疑問が私の脳裏で波紋を起こしては思考の底へと沈んでいった。






時刻は昼過ぎ、時間も時間で誘う相手も居なかった私は湖へと一人で来ていた。
「全く、一人で二本の釣竿を持ってくるなんて、私はどこの太公望だ……」
湖のへりで座り込み、毒づきながら釣竿を一つだけ構えて投げ準備を整えた自分の傍らに、使わなかったもう一本の釣竿を横にして置く。
振りかぶって私が弓なりにしならせた釣竿は思った以上に大きく針を飛ばし、予想と大きくずれてしまった落下点の修正をするため、視線を遠くに向けた。
一人の少女が膝上まで水の中に漬かっていた。
どうやら目の前の少女はどうやら手づかみで魚を取ろうとしているらしい。
威勢の掛け声と共に波やら飛沫やらを起こしている。
この湖は浅瀬が続いているので水に浸かるのを厭わなければ魚が居るところまで歩いて行ける。
だからといって大自然に身一つで挑もうとしている少女のような存在は稀だ。
その稀な少女は見ようによっては湖の中で魚と微笑ましく戯れているようにも、魚を必死で捕まえようとしているようにも見えるのだが、
「くぅ、何で捕まえられない」
水面を睨みつける表情と、本気で悔しがっている様から鑑みると、多分に後者で食事用に取ろうとしているようにしか思えなかった。
そんな「大自然の優良児」と言えば聞こえはいいワイルドさ溢れる少女へと上空から私の投げた釣り針が落ちていくのが見えた。
「あ」
危ないと思ったときには遅く……。
下降し始めた釣り針が重力によって定められた落下地点へと落ちるのを、させてなるものかと今さらに釣竿を大きく引っ張る。
「……ぐ、ぐぇ!」
いわんや少女の目の前を釣り針が丁度かすめたかと思うと少女の首の周りで小さく一回転。
更には釣り針に糸が引っかかって輪を作り、言わずもがな少女の首はその輪の内側。
後は慧音が引っ張ったことによりで首に巻きついた環が「きゅっ❤」と絞まってトドメ。
まるで人形師の糸が切れたように……そういえば里にたまに来ては人形劇を見せてくれる人形師の操り終えた後の力無く「くたっ」と事切れる様が実にソックリだ……
「……って、しまった!」
思い切り引っ張ったのを後悔する暇も無く、少女が力尽きる様を観察するのも程ほどに、少女が居る湖の浅瀬へと私は宙を飛ぶ。
少女が水面の中に沈みきる。
ただでさえ気道が確保できない状態で水中に潜ってしまうのは危ない。
肺に水が入ったショックで呼吸が止まってしまっては私にはもう手の打ちようがなくなってしまう。
急ぎ勇んでほうほうの体で私が少女を水の中から引き上げる。
服が濡れるのも構わず抱えて陸に持っていき、少女を横にしてすぐに首に巻きついた糸を解こうとする。
だが、既に手遅れだったのか少女は息を止めていた。
もしこのとき冷静に思考ができていたなら、非常時の知識を全く学んでいなかった自分に後悔していただろうが、実際はパニックを起こしている真っ最中の私はそれどころではなかった。
息をしていない少女の首に巻きついた糸を解く以外に私のできることはないと思い、絡まってしまった糸と格闘を始めるも、一体いつの間にこんなに複雑に結びついたのか、空しく時間ばかりが過ぎてくばかりであった。



数分後、為す術無く敗北した私は正座し、少女に向って手を合わせていた。
「すまない……私が無力だったばっかりに」
なぜ、もっと周りを確認してから釣り針を投げなかったのかが悔やまれた。
「あ゛ー、死んだかと思ったわ」
こうべを垂れていた私の目の前でさっきまで息をしていなかった少女がむくっと立ち上がる。
「い、生き返った?」
我ながら情けの無い声だった。
驚きによるものか腰が抜けて足に全く力が入らない。
横で座り込んだまま青くなっている私に少女は目を向けた。
「……なによ。幽霊でも見るような目をして」
私はある可能性に気付いた。
趣味で知識を集めるはまとめている人間と言うのは非常時にほどどうでもいいトリビアを発揮するという……
そして、私はその妙な法則の例外に漏れず、頭の中の至る所から知識を取り出してきては投げ捨てていく。
めくるめく思考の最果てで出た結論に私は自分の思考が信じられなかった。
だって、その結論だと……目の前の少女は……
「……まさか、人間じゃない?」
気付けば頭に浮かんだ答えを口にしている。
考えたことを口にするのは止めようと思ったが、時既におそし、どうして今日はこうも後悔と教訓が刻まれるのだ!?
内心今日の運の悪さに嘆いている私を他所に少女は横へ向いて跋が悪そうにした。
「なんだ、よりにもよってアンタの前で死んでいたのね、私」
私には目の前のピンピンしている少女の”死んでいた”という意味が分からなかった。
確かに死んでいたはずだったのに生き返ったかと思ったら……
生き返った?
またも頭を駆け抜けるトリビア。
さっき色々と穿り返していたせいで突拍子も何もあったものでは無かったが、私はまたもや知らず口にする。
「もしかして、お前は不死者(アンデッド)なのか!?」
どうしてこうゆう妙な知識ばかりつらつらと腰が抜けても言えるのか。
間抜けすぎて自分自身にあきれ返る。
なんと西洋のモンスターとして書かれていたものにアンデッドといった類があったのを私は絶妙のタイミングで思い出し、あろうことか思わず目の前少女に尋ねてしまったのだ。
これはもう間抜けと言うほか無い。
「あん……でっど?なによ、それ。悪いけど私には藤原妹紅って言う名前がちゃんとあるわ」
少女は訝しげに私を見る。
その目にはとても不信の色が強かった。
いきなりアンデッドだなんて言われたのだから無理も無いことだろう。
「アンデッドっていうのは妖怪の類のことだ」
あくまでモンスターを妖怪の範疇に含めた場合の話ではあるが、定義が面倒なので細かいところはうっておくことにした。
妖怪と聞かれたのが嫌だったのか、妹紅と名乗った少女は心底嫌そうな顔をする。
「まさか、ただの人間だよ。蓬莱の薬って知ってるかい。ほら、竹取物語で出てきた輝夜姫が帝に送った不老不死の薬。
……紆余曲折あって私はそれを飲んでしまってね、歳はとらず死にもしない人間になっただけよ」
不老はともかく、不死という部分に私は考えようによってはアンデッドの類になるではないのか、と食らいつこうとした。
しかし、わざわざ相手が嫌がっている自分の価値観を勝手に押し付けることに抵抗を感じた私は、妹紅と言う少女はただ死なない人間なのだと思うことにした。
何より、先ほど刻んだ教訓をついさっき破っている以上これ以上の失態は晒したくない。
「それはすごいな」
紆余曲折と言って妹紅はお茶を濁したが、蓬莱の薬とやらを飲むのに一体どんな経緯があったのか私としては酷く興味を引かれる話だったので素直に感想だけを述べる。
――いずれ彼女の口から聞いてみたいと思う。話してくれれば、だが……
「別に私自体はすごくなんか無いさ」
そう言って遠い目をする少女の憂いを帯びた様に私は何かを感じた。
「そうだ、今更だが、無礼を謝らねばならんな」
相手が妹紅と言う蓬莱の薬を飲んだ少女でなければ人一人殺していたのだ。
ここは素直に蓬莱の薬とやらに感謝しておいてもいいだろう。
「ふん、結局私は生きてるんだから……謝るのも、頭を下げるのも意味ないんじゃないかしら」
謙虚に私が下げた頭を見て妹紅はそっぽを向く。
「いやいや、頭を下げたところで別に失くすものなど私には無いさ」
もう一度気前良く頭を下げた私の目に自分の横で一本使われずに置かれている釣竿が目に付いた。
「妹紅、と言ったな。ここに釣竿が一本余ってるんだが、使わないか?」
どうせなら使ってやったほうが道具も嬉しいだろう。
そんな軽い気持ちで慧音は少女に釣竿を使うことを勧めた。
釣竿を私に手渡されると先ほどまでの暗鬱だった妹紅の表情が明るいものに一変した。
「これは助かる」などといって受け取った釣竿を我が物顔で一振りふるった少女は私に振り返り、「少し借りるぞ」と言ってニカっと笑った。
私はまるで幼い子供を思わせる目の前の妹紅の笑顔に目を細めていた。
「おい、目が遠いよ?」
ジト目で睨んでくる妹紅に私は苦笑いで誤魔化しながら思った。
里で子供達に慕われている身として、どうしても子供と思って笑顔が止まないのだと言ったら、彼女はなんと言うだろう、と。
「里で子供と仲が良くてな」
結局我慢出来ずに私は理由を喋ってしまう。
言わないほうがいいのは分かっていたが、どうやら見た目が子供というだけで慈愛の対象となってしまうようだ。いかん、いかん。
「言っとくけど、私はアンタより年上だよ」
苦笑がいつの間にかにこにこ顔に変わっている私に妹紅は頭を押さえながら言った。
「分かっている。それでも、な」
それでも私は顔が微笑むのを止められなかった。
「筋金入りの子供好きね」
「よく言われる」
呆れる妹紅に私は終始笑い続けた。
笑いながら釣竿を振って針を遠くに放った後、位置を妹紅の近くに移して湖に向って横に並んで立ち、釣竿を操る。
「話かなにかでもする気かい」
妹紅が横に立った私に目をくれる。
「そう言うな。釣れるまで待っている間黙っているだけと言うのも素っ気無い。
何より、……少し話を聞いてくれる相手が欲しくてな」
釣り針が水面に浮き、水面に浮く浮き場所を眺めながら私は遠い目をしていた。
「……釣りは待つことの大切さを教えてくれる。そして待っている時間は人を自分と向き合わさせてくれる」
釣り好きな友人からの受け売りだと言って言葉を切り、私は妹紅の反応を待った
「それだとアンタはまるで悩み事の答えを釣りに来たみたいに聞こえるね」
そうなのかもしれない、と私は苦笑混じりに呟いた。
「いいよ、話してみな。聞くぐらいはしてあげるからさ」
出会ったばかりの私の話を聞こうと言ってくれた妹紅に、すまないと短く言葉を返した後、ぽつりぽつりと私は話し出す。
「里の寺子屋で子供達を相手に歴史を教えてやって欲しいと言われたんだ……」
「へぇ、確か寺子屋っていうのは子供達を集めて文字の読み書きを教えたりする場所……であってるのかい?」
妹紅の口ぶりだと恐らく、聞いたことはあるのだろうが、実際に見たり体験したりしているわけではなさそうだ。
「その通りだ。妹紅殿より見た目も、中身も幼い子供達に歴史を教えてくれと……頼まれた」
私の語尾は少しずつ力が抜けていっていた。
妹紅はそれを疑問に思っているのか釣竿を操りながらもしきりに私の方に視線を向けてきた。
「それは立派なことだと私は思うけど、何か問題でもあるっていうの?」
私は大きくため息を吐いて見せる。
それを見て妹紅は露骨に面倒臭そうな顔をした。
「周りにあるのかどうかは知らない。だが、私のような人の身では無い者が人々に何かを教えるというのはどうなんだろうと思ってな。何より、里の親達が私に子供達を任せてくれるかどうか……」
「人間じゃない?」
口が滑ってしまったことを私は後悔したが、目の前に自らを死なない人間と打ち明けた妹紅に黙ったままというのも自分の中では引っかかった。
立てばかりの教訓をすぐ破る自分への罰だと思い、私は帽子を脱いで、頭の一辺を指差して少女に示す。
「ああ、実は私も人間で無くてな」
手っ取り早く、自分が純粋な人間ではない証拠を差し出す。
この角を始めて見た人間はたいてい腰を抜かすか、気丈なものでも怯えるものだ。
少女は私の頭に生える小さな角に少し驚く表情を見せたが、すぐに皮肉気に笑った。
「なんだ、似たもの同士か」
たったその一言。
目の前の少女にかかれば私などそこらへんに居るモノとあまり大差が無いらしい。
怖がらない妹紅に少し意地になってこの角が満月の夜には伸びて大きくなるのだと言って脅かしたらたら、妹紅は「へぇー」と感心そうに何かを想像していた。
何を想像していたかは検討が付いたが触れないで置く。
次の満月の夜にでも期待を裏切られた少女の顔が見られるだけの話だから。
それ以上に、どうにも口を滑らせてばかりいる自分が空回りしていると感じずにはいられず、独り勝手に気落ちした状態となっていた。
「……そうだな」
そして、少しの間、静寂が流れた。



「案ずるより生むがやすし、って言葉を知らない?」
お互いに魚を一匹ずつ釣った時だった。
――確か、私が自己紹介してすぐだったはず。
妹紅がポツリと言葉を繰り出したのだ。
「知ってはいるが、それがどうかしたのか」
諺になぞらえて人の角を立てずに諭すのは年を取った老獪な人間が良く使う手腕だ。
なるほど、やはり目の前の少女は長きを生きた蓬莱の人形であるというのは間違いない。
「どうにも話としては、まずアンタが寺子屋で歴史を教えてみなけりゃ分からないことばかりじゃないか」
大仰に両手を広げて手に平を天にかざし、首を振る妹紅。
「しかし、だな……」
言い返そうとして言葉が詰まる。
自分は人間ではない。
その一言が私の中で波紋を起こし、その波は次第に大きくなって私自身をさらおうとする。
「もしかして人里で住んでいるの?」
妹紅の少し驚きの感情がこもった問いに私は意識を戻し、肯定を返した。
何故このような中途半端な身で人里に住んでいるのか、むしろ里の外で気ままに楽隠居を決め込んだほうがいいだろうと妹紅は頷いた私に問いかけてくる。
結局私は何かを言い返そうとして、何も言い返さなかった。
いいや、何を言い返しても丸め込まれる気がして言い返せなかった。
「……そう、確かに人間達が大勢いる中で人間じゃないって言うのは色々辛いだろうね」
ふと、歳をとらないと言った妹紅も実は複雑なものを持っているんじゃないかと私は推測する。
まず歳をとることが無いだろうから、変化しない外見のせいで一所にずっと住み続けることは恐らく無理だったに違いない。
それを私にとっては気の遠くなるほどの時間の間ずっと過ごしてきたのかもしれないのだ。
生半可な気持ちでかけられた言葉で無い事は察せた。
だが、素直に飲み下せない自分が居る。
人間ではない。
それだけのことで一体なんだというのだ。
普通ならそれで笑ってねじ伏せることだろう。
だが、人間で無くなったものとして忌み嫌われた過去を私は持っていた。そして、その過去が時たま頭をもたげてきては私から正常な思考を奪っていくのをどうすることも出来なかった。
「いいからやってみなって。それでダメならそのときってもんでしょう」
妹紅の言葉がどこか遠くから、まるで川の向こう岸から声が届いてくるように遠くから聞こえる。
嫌だと言ってつっぱねるのが……まるで子供のような気がして私はただ黙った。
黙る以外に何が自分の意思を示せるのか思いつかなかった。
示して目の前の少女が私の無様な心へ向ける叱責を遮ってくれるかすらも。
「アンタに歴史を寺子屋で教えてくれるよう頼んだのは人間かい?」
内面の思考にふけっていた私に妹紅が問いを発してくる。
一体どれだけの間が空いていたのか。
悩んで正常な時間の感覚を無くしている私には測りようが無かった。
「ああ、そうだ。里の有力者にしては変わり者でな。今朝も頭を下げられたよ」
変わり者の訪問者を思い出す。
私が人間でないと言うことで全く差別をしなかった本当の変わり者。
それでも里の中では間違いなく友と言える数少ない人間だった。
「なんだ、馬鹿馬鹿しい。同じ人間じゃない私が味方をするまでもなく、アンタには味方になってくれる奴がいるじゃない」
味方か、とそう言って私は彼と友として過ごした日々を振り返った。
変わり者は本当に変わっていて色んな顔を持っていた。
そして、私は友としてその一つ一つに驚かされては感心させられたものだ。
「人間なのが信じれないぐらい豪胆な奴だった。そのくせ色んな趣味に通じていたな」
彼に良く誘われた釣りもその一つだ。
かなり上物な釣竿を自慢することなく私にいつも貸してくれた。
なんでも道具屋として顔が広いからツテで色んなものが手に入るのだとか。
本当に、それは彼の人徳が成したものだろう。
変わり者ではあった。だが、そんなの関係無しに人は彼の元に集まった。
「忙しいのも相変わらずだった」
忙中に楽ありと言っていつも彼は嬉しそうだったのを思い出す。
足しげく人が集まっては彼は集った仲間達と夜通し酒を飲み明かしていた。
少しだけ、楽しげに彼について語る私に妹紅は穏やかな視線を向けている。
だが、急にその視線は冷たいものになる。
「そいつ死ぬんじゃない?そうゆう活発に生きてる奴ほどぽっくり逝きやすいから」
その言葉に私は衝撃を受けた。
占いで、今日自分が死ぬと宣告されるような絶望感にただ打ちひしがれる。
そう、死刑囚が十三階段を前にしたときに見せる虚脱ぶりを私は見せていた。
「まさか、あいつが死ぬもんか。豪快に百歳までは生きて見せると豪語してたのに」
人間である彼と人間でなくなった私とでは流れる時間は違う。
それは重々承知していたことだ。
彼と知り合ってからの約十年、ほとんど若いままの私に対し、年代のせいもあるだろうが目に見えて彼は年老いていた。
――「上白沢殿、私は百歳まで生きて孫の顔を見てから死にたいと思っています」か……
いつかの酒屋で飲んだ時に赤ら顔で言っていた彼の言葉が慧音の記憶に蘇る。
最初に酒を飲みに行ってから数度目のことだったか。
里の外に出来た妙な八目鰻屋で酒の飲み比べをした日のことだったはず。
思い出に残る過去を懐かしみ、回想から戻った私は彼を良く知る者として、妹紅の言った言葉がどうしても気に食わなかった。
「……とにかく、さっきの言葉は取り消してくれ」
むすっとして針を引き寄せ、また遠くへと針を飛ばす。
その行為の一つから全てに至るまでそこかしこと陰鬱な感情が込められていた様を見て妹紅は頭を下げた。
「悪かったよ。そうだ慧音、どうせならどちらが多くの魚を釣るか競ってみないか」
頭を下げていたのも束の間、上げたばかりの顔をしたり顔にした自信にあふれた妹紅の表情に私は目を細めた後、
「いいだろう」
一言の返事で売られた勝負を買ったのだった。
私としてはさっきまの陰鬱とした思考に浸かって落ち込んでいた気分を少しでも紛らわしたかったのかもしれない。



――日暮れ時
「競争は私の勝ちだな、慧音」
妹紅の傍らには湖にこれだけ魚が居たのかと思うほど魚が釣ってあった。
「ああ、私の負けだ。
でも、競える相手がいたおかげで普通に釣るよりたくさん釣れたよ。礼を言う」
私の持ってきた桶には数匹だけしかいなかったが、それでも自分にしてみれは普通に「釣れている」と形容できるぐらいだった。
「そうか、私は一人で食べる分だけあればいいから、残ったのはあげるわ。
誰かの分まで釣らなきゃいけなかったんでしょ」
魚の山から数匹ほど取り出した妹紅は私の桶に無造作に投げ入れた。
「いいのか?」
それでも山を為している魚たちに私の目は丸くなったのだが、「食えない分は返さないと魚が居なくなっちゃうね」と本当に四五匹程度を残して全て湖に帰してしまった妹紅に感心までさせられた。
――目どころか心まで丸くされそう気分だった。
「いいって。でも、欲を言うなら明日もまた湖に来てよ」
明日の食べる分がそれで何とかなるし。なんとかしろ。
そう妹紅が言外に含ませているのがありありと伺えた。
「いいと言うのならなら遠慮なく貰うが、明日も来れるかどうかは釣竿を貸してくれる奴次第だ」
期待させるだけさせて、もしダメだったら申し訳ないので、明日も来れる可能性は微妙だと正直に言う。
「……そう。ま、私はお先に帰って魚を焼いて食べるわ」
そう言って去っていく妹紅を私はただ見送った。





「……という次第だ」
彼は神妙な面持ちで聞いていたかと思うと急に笑い出した。
「中々面白い話ですな。人間ではない人間に出会い、明日もまた釣りをしようと誘われるとは」
私が持って帰った魚は彼が家族の夕餉の為に十分に使ってもまだ数匹は残るほどの量だった。
自分に必要な分だけ取った後に余った魚は焼き魚にでもするか何かして月見酒を一杯やらないか、と彼は提案してきて、今は二人して焼き魚を肴に月見酒を楽しんでいる次第。
私の家の縁側で二人並んで月を見上げ、魚が焼ける前に酒を一杯と飲み始めてすぐのことだった。
彼は私が大量の魚を持って帰ったことに興味を示し、ことの顛末を話すことになったのは。
「釣竿なら好きに使ってください。もう私には必要ありませんから」
ひとしきり笑った後、普段の穏やかな表情に戻って彼は釣竿を私に託すと言った。
空に浮いている欠けた月を見上げる彼の様は中々に絵になっていると思った。
まるで、どこかの絵画から抜け出てきた幽霊か何かのように……。
「いいのか?使い心地と性能の良さから察するにあれは中々の上物だろうに」
彼は「さすがは上白沢殿だ。お目が高い」そう芝居ぶってそう言った後、
「上白沢殿、もし釣竿をタダでもらうのが嫌でしたらなら、釣竿の御代の代わりと言ってはなんですが、せめて……一つだけ私の考えを聞いてはくれませぬか」
と、言葉を切った。
御代の代わりならなおさら私から何かを出さなければならないというのに。
本当に彼は可笑しな人間だと私は呆れてしまう。
「人は……もしかしたら妖怪も。心を持ち、知性も備えた者は必ずと言っていいほど自分の世界に『拘り』を持っていると思っております」
一体どんな話を聞かされるのかと内心構えていた私はいきなり何を言い出すんだと目をしかめてしまった。
彼は私の反応を確認して、すぐさま言葉を続ける。
「一つ言って置きますが、『拘り』と言ってもそれは芸術家や職人のそれとは違うものです。
端的に言ってしまえば、いわゆる目の前にある現実の世界とそれを自分の中に映した世界の間に半ば故意で作る不整合点みたいなもの。穿って言うなればば『思い込み』というものでしょう。
そして、その『拘り』なる思い込みには肯定的なものから否定的なものまでと人によって本当に様々なものがあり、私も『拘り』を持っている……」
どうにも酒を飲みながらするには高尚な話だと私は思った。
彼の言いたい事を私なりに要約してみると、彼の言う『拘り』とはいわゆる人が良く起こす思い込み、早合点、勘違いの要因となる自分の価値観に対する固執ということなのだろう。
これが前置きだとすると、この先どんな話が出てくるのか想像が付かないな、と私は酒をあおりながら考えていた。
「ここから先は、私の考えではなく望みです」
彼は一言だけ言い置きをする。
いまだに彼の言いたいことの全容が掴めていない私には反応のしようが無いだけに、黙って聞くことにした。
「私は人に『拘り』を捨ててもらいたい。そして、捨ててもらうためには『拘り』を捨てるように促す存在が必要。だから、『先生』とはそういう存在であって欲しいと願っておりました」
何か思うところでもあったのだろうか、彼は先生という単語に並々ならぬ熱をこもらせている。
なんだかんだで彼と私が会ったのは数年前だ。
既に人が完成して出来上がっていた彼の過去に何があったかを実は自分は全くと言っていいほど知らないのを思い知らされる。
「上白沢殿……あなたは、あなたになら私が自分の子供を任せるに値する思う『先生』という存在なのです」
なるほど。そう来たか。
彼の先生という理想像に私はどうやら近いらしい。
続きがあるのかと思って黙っていたが、彼はその先を続けようとはしなかった。
「酔いが醒めましたな……私はここらでおいとましましょう。それでは太公望殿によろしくお願いしますぞ」
それだけ言って自分の皿と盃を仕舞い、帰り支度も適当に帰ってしまった。
去り際のなんとあっさりとしたことか。
「好き勝手に言ってくれるな」
私は酒の瓶を仕舞いながら空を見上げたが、空にぽつんと月が空に浮かんでいるだけだった
「私は半獣だ。人間ではない……。人間の子供の先生になる資格など……無い」
欠けた月が寂しげに夜空を渡っていくのを私は見上げて――空になった――盃に映そうとして止めた。
――これこそが、この私の固執こそが……彼の言う『拘り』だったのだ。
ただ一人、自分の“ひずみ”を直視した私は力無く床に倒れ込み、まるで底なしの泥沼に沈むように眠りへと落ちていった。





翌朝、私は彼から貰い受けたばかりの釣竿を二本とも持って湖へと来た。
私としてはかなり、否、十二分に早い時間に来たつもりだったのだが、湖の縁で待ちくたびれていた妹紅を見て、自分の感覚が人よりずれていると自覚したのだった。
釣竿を渡すや否や活き活きと釣りを始める妹紅に私はつい笑みを零した。
「なぁ、妹紅」
私は昨日の夜に気付いたことについて話そうとしていた。
恐らく今の私にとって妹紅以上の相談相手は居ないと思っていたからだ。
「なに?」
釣竿を投げた後、顔を振り向かせてきた妹紅に私はどこから話せばいいかと考える。
まずは、彼との話の経緯から言わなければ……そう思って私は昨夜の彼の話を話し出した。


「ありがたい話だね。そんな『先生』たる存在として認めてもらえるなんて」
妹紅は私の話を聞くや否や件の彼と同じように笑い出す。
昨日の魚を肴にしたささやかな宴の顛末を話し終え、いよいよ私が本題に入ろうとした時だった。
「私はアンタがそんな存在だとは思わないね」
私は次に言おうとしていた言葉を飲み込む。
「なぜ?」
気が付けば話を戻そうと考えるより問いが先に出ていた。
「そうだね。その太公望の言い方を借りるなら……アンタは自分がちゃんとした人間じゃないことに……人間ではなく半獣であることに『拘って』いるからさ」
「!」
妹紅の言葉を聞いた瞬間、私は顔がこわばっているのを自覚した。
昨日の夜、やっと気付いた私の執着を目の前の少女にいとも簡単に見抜かれてしまったことに全身の震えが止まらない。
「その反応だと分かっていたみたいね。まぁ、私に言わせれば『拘って』いるアンタが人に『拘り』を捨てさせられるはずなんて無いのよ。
酷い言い方になるけど、アンタの友人は見る目が無かったかもしれない……それとも」
自分だけでなく、自分の友人まで馬鹿にされて義憤しないほど私は薄情者ではない。
恥も外聞も捨てて食って掛かろうとしたところで妹紅は片手で私を制して続ける。
「なんだ?」
表情がかなり険しいものになっていると自分でも思った。
震える全身から出る声はやはり少しばかりか震えていて、次に言う妹紅の言葉次第ではいつ飛び掛ってもおかしくはない状態だった。
「アンタがその『拘り』を吹っ切るとでも思ったのかもね」
妹紅が言い終えてニヤリと笑いかける。
ああ、私の中の妹紅の言葉に対する怒りはその一言で消えてしまうどころか、本当に最後にほんの一言だけ付け足されただけで私には一切の否定ができなってしまった。
「……!」
先ほどとは違った感情の驚愕が私の精神を走る。
もし、もしもそうだとしたら彼は私にも成長して欲しかったとでも言うのだろうか。
昨日の言葉の中に彼が散りばめていた真意が今ならちゃんと見つけ出して汲み上げれる、そんな気がした。
でも、私の心は頑なに最後の砦を守ろうとする。
「私は……私は……人間じゃない。……でも人間だった。なのに!」
膝をつき、頭を抱える私の口から紡がれ続ける感情的で哀れな言葉。
いや、これはどこまでも情けの無い感情そのものの吐露だった。
そこには真理も論理も何一つ無い。
ただ、自分の中で不当な扱いを受けてきた経験が私自身をひずませて歪ませた感情の塊。
論理など無視した余りにも幼稚な主張。
「もし、人間のままだったら、人間のまま普通問題なくに人として過ごしていたら……アンタは迷わず先生になった?」
妹紅が静かな声で私に問いかけてくる。
それは私の主張を、感情の泥を底から掬い上げるような問いだった。
「人間のままだったら私は彼と知り合っては居ない。彼に頼まれても居なかったはずだ」
それが私の答えだった。
もし、人間のままハクタクになどならずに過ごしてきたなら私は決して彼に先生になってくれと頼まれることは無かった。もしかしたら一生彼と出合わずにいたかもしれない。
これまで、彼が私に残してくれた思い出には数々のものがあった。
まだ私が出不精だった頃は里の祭りに私を引っ張って連れて行ったこともある。
そこで様々な人間に私の顔を覚えさせていた。
妖怪に襲われていた里の子供を助けた時には彼はわざわざお礼を言いたいと言ってきた親子との面会の場を設け、半ば無理矢理に私は顔を会わさせられたりしたこともあった。
挙げていけば本当にきりが無いのだが、とにかく当時の私からすればかなり無茶無謀なことをこの十年近い間にしでかしてくれたのは間違いない。
「もう少し、その太公望と話をしてみたらどうだ?アンタの『拘り』を吹っ切ってもらえるかもしれないよ」
妹紅はそう言って釣竿を振るって魚を釣り上げる。
昨日の今日だが、相変わらず上手いものだと感心する。
それでたくさん釣ったからといって自慢もせず必要なだけを持ち帰って後はリリースしてしまう。
――思えばそうゆう妙なところで無欲なところが彼と似たり寄ったりだった。
私は彼と言う親友と出会ってからを振り返る。
もしかしたらこれまでの彼の無茶無謀がかつての私が気付いていなかったさりげない『拘り』達を吹っ切らせていたのかもしれない。
ならば、今回のこの『拘り』を私が自分で気付いたそれをどうやって吹っ切るか意見を仰ぐのも悪くは無いのかもしれない。
ああ、多分に彼は私の……私にとっての……





早々に釣りを止めて帰った私は里の中心へと足を向けた。
そう何度も彼ばかりに来てもらっていては悪いという思いがあったのと、内心里の中心へ行くことを嫌がる自分自身を吹っ切るためだった。
大通りから少し外れた裏通りに彼の道具屋はあった。
いつもは少しぐらい客が来ているはずなのに今日は閑散としている。ばかりか戸まで閉められている。
定休日か何かだったのだろうか、そう思いながら私は彼を尋ねるために家の戸を叩こうとする。
私に横から声がかかったのはその瞬間だった。
「これは、これは、上白沢殿。私の家になにか用ですかな」
振り向いて視線を向けた先に居た声の主は彼だった。
「いや、ちょうどお前の家へ尋ねに来たところだったんだ」
さっきまで留守にしていたのだろうか。
しかし、彼の手には何も持っていなかった。
着の身着のままぶらぶらと散歩にでも出ていたのだろうか。
「それは、待たせずに済んでよかった。
立ち話もなんですし、散歩がてらに少し町を見ながら歩きませんか」
普通なら自分の家があるのに何故彼は外を歩きたがるのか。客人を持てなす気はないのか。
散歩でもして帰ってきたというのに、またもや散歩に連れを誘って出かけるのか。
そう考えていぶかしんでいると、彼は私に申し訳なさそうに言った。
「家内が今“ゆっくりと眠って”いるのです。
起こしてしまう訳にもいかないので、どうかご無礼をお許しください」
頭を下げる彼に私は何を言っていいか迷った。
どうも昨日から頭を下げられてばかりいる気がする。
「分かった。分かったから頭を上げてくれ。
私としても里の中心に来るのは久々なんだ。案内が居てくれれば見て回るのも助かるさ」
そう言って彼の頭を上げさせる。
頭を上げた彼はどこか哀しそうな顔をしていたが、すぐに笑顔を作った。
「任せてください」
その一言が私の耳から離れなかった。



里の中心街では大きな屋敷が立ち並んでいた。
何とも無しにただ景観を楽しんでいる中、私は彼に自分の中で直面している悩みを打ち明けることにした。
神妙に頷いては耳を傾け、相槌を打つ彼の対応は実に話しやすいものだった。
「……そうですか。……上白沢殿にそんな『拘り』が」
そして、私が話し終えた後に見せた彼の反応は重いものった。
彼が何よりも期待していた私の存在の負の面を知らされたのだから無理はない。
「失望したか?」
それなのに私は確認しなくても分かって居る事を聞いてしまった。
返ってくる答えは分かっているというのに。
「いいえ、分かっておりましたよ」
彼の返してきた言葉は私にとって予想外のものだった。
私の顔が驚愕を形作る。
「なに?」
無意識のうちに聞き返している自分。
「前に人間でなくなったことに執着していたというお方に会ったことがありましてな。人でなくなった上白沢殿も同じ『拘り』を持っているのだと思っておりました」
彼は昔を懐かしむように喋る。
ただただ彼の後ろを過ぎては流れていく景観など私の目には見えなくなっていた。
「……話を戻しますが、私のつまらない『拘り』をその方は吹っ切ってくれたのです」
苦笑しながら彼は私に視線を向ける。
「どんな『拘り』を吹っ切ってもらったんだ?」
気になった。ただ純粋な疑問が口をついて出る。
「取るに足らない瑣末なものですよ」
彼は笑いながらお茶を濁した。
どうも喋るつもりは無いらしい。
本当に妙なところで頑固な人間だから、言わせようとするなら今日一日を消費してしまうだろう。
今はそうするわけには行かない。
私には優先すべきものがあったから。
「上白沢殿、月を指せばその指を人は認めるでしょう。近くにある指より遠くにある月を認めさせるのは本当に難しい。しかし、月は確かに有り、波紋の無い水面に水月は映るのです」
彼は淡々と続ける。
そして里の中を流れる川の上の小高い渡り橋で足を止めた。
「どういうことだ」
いつのまに時間が経ったのか、空は夕暮れの赤色に染まっていた。
私は斜陽に照らされる彼の横顔に訪ねずにはいられなかった。
「例え物事の本質は分からなくとも、そこに真実は存在し、迷いを断ち切った心がそれを映し出す、としか言いようがありませんな」
そう言って彼は斜陽に背を向けた。
私は必死に頭を使って彼の言っていた言葉をまとめる。
「その理論だと、私に月を認めることは無理だと言うことに……」
そう、水月を映すことなど私の心には出来ない。
つまり、それは月を認めることが……悟ることができないということだ。
私は彼の言葉に脱力していく自分を感じた。
「『水月』を釣られよ」
そんな私に彼は向き直って川の水面のある一点を指差した。
太陽の反対側にあるもの。それは月だ。
川の水面には月が映っている。
絶えず底に起こる波で揺らめいてこそいるが、確かにそこに月は映っていた。
「何だと?」
意味が分からない私は聞き返す。
彼の意図を見つけるために。何が何でも釣り上げるために。
「水月は波紋が有る限り月を本当に映し出してはくれませぬ。ならば水月そのものを釣れば良いのです」
訳が分からない。
水月そのものを釣るなど土台が既に可笑しい。
その言葉は全くもって論理的ではない。
「釣ろうと針を投げ込めば即ち波紋は起こり、水月は歪む。
しかし、水月を歪めるその波を認めることは出来る。波の一つ一つを知っていけばそこには確かに……少なくとも見るものの心には水月が映り、針は水月へとかかる……」
私は頭を動かし続ける。
彼の言葉を理解するために。
「波を知れ、と?
正しい水月は見えないが、水月を歪める波を知れば、歪みの無い水月を知ることになる、と?」
恐らく、これで間違いはナないと思った。
しかし、自信がない私は聞き返す。
そんな私に彼は力強く頷いて見せた――どうやら彼にとっての及第点を私は取っているらしい。
「何も、最初から完璧な者に『先生』をして欲しいとは思っておりませぬ。
やはり、誰よりも成長できる者でなければ、子供達の成長と共に自分もまた成長していけない。
成長し続けられる大人に『先生』になって欲しい。
そんな大人がなる『先生』だからこそ、子供達の『拘り』が小さい内に捨てさせられる……この場合は吹っ切らせる、と言ったほうがいいでしょうな」
そう言って彼は揺らめき続ける川の水月を見る。
「あれ、もしかして上白沢さんですか」
彼の様子を見ていた私に背中から声がかかった。
見ればそれは里の大工の一人だった。
「この前はお世話になりました」
いきなりお礼を言われたことに私は面食らう。
一体私が何をしたのだろう。
「その大工の弟子は貴方が里の外にある薬草を摘んできたお陰で今元気にしているのですよ」
彼がそっと私に囁く。
前に薬草が切れたと言っていた薬屋の為に里の外へと薬草を摘みに行ったことがあったのを思い出す。
「おいおい、それは薬屋の主人に言うべき言葉じゃないのか」
お礼を言われるべきは私ではない筈だ。
「薬屋のダンナに言われたんですよ。上白沢慧音殿に感謝しろって」
なるほど。私は薬屋の主人の粋な計らいに感謝する。
それと同時にある疑問も浮かぶ。
「しかし、良く私だと分かったな」
目の前に居る大工の弟子と私には面識は無いはずだ。
「道具屋の主人が事細かに上白沢さんの特徴を教えてくれたんですよ」
そう言って笑う大工の弟子。
もちろん道具屋の主人と言うのは、私の横で立っている彼だった。
ジト目で視線を送ると彼は申し訳なさそうに「ご、ゴホン」なんて白々しい咳払いをする。
「おーい、皆。噂の上白沢さんがいるぞぉー」
私がそんなことをしている間にいきなり大工の弟子は里の人間達に大声を上げた。
「おい……」
堪らず私が声を掛けようとするが、手遅れだった。
「なにっ、それは本当かい?」
「あの上白沢様が!」
「こうしてはいられん」
「一言でもお礼を言っておかねば」
「お願いだ、一目でいい。会わせてくれ!」
他にも色んな言葉があちこちで上がったかと思うと瞬く間に私は人垣に囲まれていた。
皆が笑顔で私に感謝の言葉を言っては笑っていた。
「ここに居る者たちは皆、直接では無いにせよ貴方が助けた人たちですよ」
人垣に埋もれて見えなくなった彼の声が聞こえてくる。
私を囲む人垣は減る気配が一向に無く、むしろ増えるばかりだった。


数時間後、思い思いに感謝の言葉を述べては捌けていった中で脱力している私が居た。
「……明日、一日だけ時間をくれないか」
私は彼に一言だけ言う。
自分の『拘り』はさっきの彼の一言でいとも簡単に瓦解していた。
ただ、それでも最後にどうしてもやっておきたいことがあったのだ。
「構いませんとも」
彼は笑ってそう言った。
恐らく私の出す答えがもう分かっていたのだろう。







私は翌朝、眠い目を擦って湖に来ていた。
睡眠不足を承知で早起きしてきたというのに妹紅は湖の縁で待っていた。
「おや、今日は早いね」
「おかげさまでな」
言っている私自身が何がおかげさまなのか考えたが、やはり昨日の言葉のことにしておくことにした。
「その顔だと悩みは吹っ切れたんだね。さ、釣れるまでの暇つぶしに話を聞かせてもらおうか」
そう言って妹紅は楽しそうに眩しい笑顔で笑って見せた。


「水月を釣る、だなんて言うことが本当に太公望だね」
妹紅はそう言ってただ笑った。
やはりというか、妹紅の釣りの腕は大したもので、今までの話をしてる間に既に数匹釣っていた。
「妹紅、頼みがある」
私は心の中で要していた言葉を言う。
「この釣竿をくれてやる。だからどうしても聞いて欲しい」
この釣竿は彼に譲ってもらったもの。
だから私がどう扱おうと自由だろう。
「何?頼む内容によっては断るかも知れないよ」
妹紅は不安げな顔をして言った
「今日は魚がたくさん必要なんだ。でも、私だけでは無理だ。だから妹紅に協力して欲しい。」
私は釣竿を置いて頭を下げた。
対して妹紅の反応は沈黙。
「何かやるつもり?」
答え次第と言うことなのだろう。
「里の人間達に魚をご馳走しようと考えてだな……」
「呆れた」
最後まで言い終えるより先に妹紅はため息混じりに私の言葉を遮る。
「もう私の出る幕が無いじゃない。それに里の人間がどれだけ居ると思ってるの。
私がいくら釣ったって足りないわよ」
最後にため息で締めくくる妹紅。
「それでも……」
私は執拗に食い下がる。
沈黙が続いた後、先に折れて口を開いたのは妹紅だった。
「はぁ……仕方が無い。アンタの為に人肌脱いで上げるわ」
ため息を吐いた後、釣竿をブンと振って構える。
「今日は大物を釣るよ。主でも何でもかかってきなさい!」
頼もしいことこの上ない妹紅の姿に私は微笑まずにはいられなかった。
彼女の太公望ぶりに期待する心が止まなかった。


夕暮れが来た。
もうこれ以上は湖の魚を釣り尽くしてしまうのではないかと言うぐらい魚の山が出来ていた。
「す、すごい……」
私は息を飲む。
湖にこれだけの魚が居たことも驚きだが、本当に妹紅は大物まで釣っていた。
これなら里の人間達全てに魚を食べさせるのもできるかもしれない。
私は妹紅の出した成果に喜色を示し、彼女に言うべき最後の言葉を言うことにした。
「実を言うと、私は明日からはそうそう私は釣りには来れなくなる。
それに一々来ては貸すぐらいなら、渡してやった方がいいというものだろうと思ってな。
それに、あいつなら妹紅のような太公望にやったと言ったら納得してくれるさ」
私は言い終えた後、妹紅が釣っている間に準備していた荷車に魚の山を乗せて引いていこうとする。
「そうか、なら太公望の願いを受けるんだね」
去っていこうと私が荷車を押し始めた背中に声がかかった。
「お前には話を聞いてもらってばかりだったな。本当に世話になった」
振り向いて笑いかけると、妹紅は満足そうに笑って応えた。
「機会があったらまた頼むぞ、太公望」
私はこの言葉を最後にして里へと向った。
「後生憎様、こんな願いを聞いてやるのはもう後にも先にもこれっきりよ」
それが私の背中に掛かった妹紅の別れの言葉だった





里に帰って私はまず、昨日会ったばかりの板前の家を訪ねた。
板前は魚の山に驚いた後、二言返事で魚を捌いてくれた。
板前の手で仕上がっていく魚の料理達を並べ、私は里の人間達を呼んで回った。
難色を示すものも居れば、勇んで参加するものも居た。
そうこうして里中の人間が集まり、皆で魚の料理に舌鼓を打つ中、私は声を張り上げた。
「私は、寺子屋を開いて里の子供達に歴史を教えたいと思っている。こんな私だが、どうか皆の子供達を任せてもらえないだろうか」
私は言い終えて皆の反応を待った。
場は沈黙し静まりかえる。
どんな反応が返ってこようと私は受け入れる。
内心さっきからずっと最悪の予想に恐怖で怯えている自分をそう言って精一杯に鼓舞した。



いつまでも続くかのように思えた静寂の中、一つの声が上がった。
その音は次第に周りに波の如く伝わっていき、最後には全ての人々が声を出す。




それは――





賛成の意がふんだんにこめられた声達だった。









いつの間にか酒まで持ち出して騒ぐ者、大声を上げて祝う者、皆が思い思いにして宴はたけなわとなった。
宴が終わり。
次第に人が去っていき、閑散とした里の中心で私は彼を待ったが、最後まで来なかった。
里の中で私に子供を任せたいと挨拶に来た親子の群れも去った後には私一人しか残っていない。
それでも、待ち続けた私の背中に声が掛かった。
「あいつは、もう来ないよ」
振り向くと、そこには釣竿を持った妹紅が居た。
「妹紅、どうしてお前がここに」
驚きの声を上げると、妹紅は人差し指を立てて静かにするようにとジェスチャーする。
「ここはなんだから場所を変えるわ。そうね、湖あたりがいいかしら。ほら、ついてきて」
返事を待つことなく歩き出した妹紅の背中を私は訳が分からないと愚痴をこぼして追いかけた。



「あんたの友人さ、実は私とも少し縁があってね。
どうしても遣り残したことがあるからといって私に頼み込んで来たの」
湖に月が映るのを眺めながら妹紅は呟いた。
「分かった。それで、なぜ彼は来ないと……」
妹紅と彼との間に何か縁があったことを私は理解した。
しかし、彼がなぜ来ないと妹紅が言うのか、それが分からなかった。
「もう死んでるのよ、あいつ。私が妖術で仮初の肉体を持たせて行動させてあげただけ
肉体を持つといっても板一枚蹴破る程度の筋力しか発揮できないけどね。
最後にお別れを言うのかと思ってたのに……まさかアンタの悩みを晴らそうとしていたとは思わなかったわ」
そう言って黙り込む妹紅。
私は全身の力が抜けてその場にへたりこんだ。
これまでの彼との数日間を思い出す。
壁一枚蹴破るのに苦労していたと言っていたのは、こうゆうことだったのか。
それに、彼の家へ行ったときに、戸が閉まっていたのは。もう店が開いていなかったから。
「私は彼の死に目にすら会えなかったというのか。しかも死んだことすら知らなかったなんて……」
こんな私の為にわざわざこの世に留まっていたというのか。
両目からこぼれていく雫が湖の水面に波紋を起こしては広げていく。
それは静かなさざなみだった。
「それを悔いるのなら尚更、あいつの願いをちゃんと聞いてやりなよ」
妹紅が私の肩に手を置いて語りかける。
「……ああ、ああ。そうだな……」
声にならない声でただそれだけを口にした。




それから、大工が数ヶ月かけて寺子屋を立てていく中、私は子供達に教えるべき幻想郷の歴史をまとめなおした。
そして寺子屋の完成と同時に私による歴史の授業が始まった。
他にも色々な問題が起こってはその度に妹紅に助けてもらったりしたんだが、この釣竿について語るべき話はここまででいいだろう。


回想を終え、周りを見渡す。
少しばかり長く回想していたのか、
「って、あれ……子供達は?」
周りには誰も居なかった。
「ガキどもなら『慧音先生が黙ったままでつまんな~い』って言いながら帰って行ったよ。もう、かなり前に」
いや、居なくなった子供達の代わりに横に妹紅が立っていた。
わざわざ真似して言わなくてもいいというのに。
「なぜ妹紅がここに?」
最もな疑問を口にした私に妹紅はこれ見よがしにため息を吐く。
「コレ、さ」
一本の釣竿を見せる
「あいつの命日なんだろ?今日って」
それは私が妹紅に渡した釣竿だった。
「ああ、そうだった。ちゃんと私も持ってきたぞ」
あの後、彼の身内に聞いて彼が死んだ日は調べておいたのだ。
「覚えてたんだね」
微笑する妹紅。
もう何回か彼の命日には二人して釣りに出かけていたお決まりの行事の一つだった。
ゆっくりと塀にたてかけられていた釣竿を私は手にする。
そして、湖へと足を向ける。
彼から授かった釣竿を手にして。
私と妹紅が会ったあの湖に。




夜の湖には欠けた月が浮いていた。
そんな湖の水面に向って釣竿を振るい、妹紅は感慨深げに呟く。
「全く、私に無理やり『人生の弟子入り』してきた奴なんてあいつぐらいだ。
……後にも先にもあいつの存在は絶対忘れることは無いね。釣りの仕方も教えてもらったし」
多分、私が知らない彼との馴れ初めを思い出しているのだろう。
「そうか、彼は妹紅に『人生の弟子入り』をしてたのか……今、やっと私の中で全ての疑問が解けたよ」
彼の『拘り』を吹っ切らせたのは、間違いなく私の目の前に居るこいつだと確信する。

一体どうやって彼が妹紅と知り合ったのか。
気にはなったが今急いで知りたいとは思わなかった。
私も妹紅に次いで釣竿を振るい、針を湖へと投げ入れる。




この釣りは続くのだろう、いつか私が水月を釣る日まで。









――そして私は誰かの“太公望”となりたい。彼が私にとってそうであったように……


蛇足


少年は湖へと釣りに来ていた。
家が道具屋をやっているせいかこうゆう娯楽の品はすぐに手に入るので、もっぱら彼の趣味は釣りだった。
彼は実の親が早々に死んだ為に養子として今の親に引き取られた。
家の中で居場所を見つけられなかった彼にとって早朝から家を出て、日が暮れるまで釣りを続けるのはもはや日課だった。
彼は慣れた手つきで湖に針を投げ入れる。
そして、いつもは誰も居ないこの湖で、針に落ちる場所に少女が一人首まで浸かっているのを見つけた時、彼の顔は蒼白となった。
「まずい!」
思い切り引っ張られた釣り針はあろうことか少女の首に巻きつき……


彼が藤原妹紅という蓬莱の少女と出会い、成長していく話はいつかきっと上白沢慧音が聞かされる話。




__________________________

妹紅「慧音よ、別にこの湖の魚を釣りつくしても構わんのだろう?」
慧音「待て妹紅!それは死亡フラグだ!」
キンカ
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コメント



0.240簡易評価
1.90名前が無い程度の能力削除
道具屋の主人が慧音にとっての『先生』であったということですか。いい話でした。
ただ、もう少し読みやすくするために改行をしたほうがいいのではないかと思います。
2.50名前が無い程度の能力削除
面白かったんですがこのど長い横スクロールは何事かね?
ちょっと読みにくかったですぜ。
内容が良かっただけに残念。

おじさんは凄くカッコよかったです。
3.50名前が無い程度の能力削除
いい話でしたが読みづらい
4.無評価キンカ削除
自分の不手際で読みづらくなってしまい、申し訳ありませんでした。
以後、気をつけさせて頂きます。

本当にスミマセン。
5.100名前が無い程度の能力削除
夢中になって一気に読み切るほど良かったです。
6.80三文字削除
いいなぁ、こういう「拘り」を捨てた太公望になりたいなぁ
主人の言い回しが粋で面白かったです。
7.無評価桶屋削除
とてもしんみりして、後書きの死亡フラグでもう何もかもが吹っ飛びましたともw
何やってるんですかこのお二方はw

以下気になったことです。
「やはり世辞に疎かったのかもしれない。」の部分ですが、世事ではないかと思いました。
あとは、「打ち所が悪ければそのまま覚めない永眠」というのは意味が被るので「覚めない眠り」か「そのまま永眠」としていいように感じました。
9.70桶屋削除
失礼、点数を付け忘れました。
10.60名前が無い程度の能力削除
太公望、普通は釣りをしていてさっぱり釣れない人のことを言いますが、そんなことは余り気にならずに読み進めることができました。拘り、イドラ、思い込み、、を捨てるというこの話、それを達成していく登場人物達に憧れます。
ただ、妹紅が妖術で死人に身体を与えるという原作にはない能力、そして慧音に別々に影響を与えた重要な登場人物である二人が実はグル…というと言い方が悪いですが、元々知り合いだったというのがご都合主義だと思いました。身体を与えるのは閻魔や死神という役どころがありますし、この話は少なくとも主題に関しては慧音と妹紅だけでも回ったと思います。

>趣味で知識を集めるはまとめている
正しくはどうなのかは解らないんですが、なんか変です。
>穿って言うなればば
「ば」が…
>否定ができなってしまった
できなくなって、では?
>間違いはナないと思った
半角「ナ」が…
>人肌脱いで上げる
一肌では?