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昔語り 巻之三~秘封の地の出会い~

2007/12/11 11:40:41
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この世には、幾億、幾兆の出会いがある。



同じ数だけの別れがある。



そして出会いの数だけ、語り手は存在する。



――――さあ今ここに、新たな語り手を招こう。










村から少し離れた場所に、一つの庵がある。
生活に必要最低限の広さしかないそれは、しかししっかりと手入れされ、粗末さなど全く感じさせない。
まるでこの庵の主人――――上白沢 慧音の性格が体現されたような場所だった。
おそらくはその中に入ったものは、その纏う空気に、思わず身を正してしまうに違いない。



だが、中にいる同居人にはそんなことは関係なかった。
その人物は、壁にだらしなく寄りかかり、飾り気の無い煙管を手に紫煙をくゆらせる。
所々に札をあしらった着物ともんぺはよれよれで、袂からはさらしが見えているし、かなりあられもない格好である。
だが村人はおいそれとここには近づかないし、誰か知人が訪ねて来たとしてもほぼ全員が女だ。
だから、彼女――――藤原 妹紅は身だしなみなんぞに気を利かせる気にはならなかった。


「…………暇だ」


慧音は朝から出かけているし、輝夜との殺し合いも昨日やったばかりなので当分無い。
かといって散歩などに出かけるような気分でもないし、ここにある書物はほとんど内容を覚えてしまっている。
今の妹紅には、全くといっていいほどやることが無い。
だから特に何をするでもなく、妹紅は煙管を手にぼんやりとしていた。
もう一つ、紫煙を吐き出し、慧音が出かけている原因となった少女について思いを巡らせる。


「そういや、村には確か……稗田家の奴が来てるんだよな」


――――稗田家の者。
それは数世代に一人しか生まれない、千年続く稗田家の、幻想郷の人間の歴史を全て受け継いで生まれてくる唯一無二の存在――
――阿礼乙女のことだ。
慧音から稗田の阿礼乙女が村に来ることを知らされた時は、自分も行ってみようと思ったが、止めた。
妹紅は生まれ変わりというものを信じている。
事実、時代を隔てて同じ顔、同じ声に出会ったことがあるのも、一度や二度ではなかった。
しかし、それは全て別人だ。
全く同じままで、生まれ変わることなど決してありはしない。



――――ありはしないのだ。



まだ暫くは慧音は返ってはこないだろう。
その間に、遠く過ぎ去った過去のことに、思いを馳せるのも悪くは無い。
それは、とうの昔に、忘れ去られるはずだった物語。


「さて、何処から思い出そうか――――」


少し楽しげに目を細め、一人呟く。
本来ならそれは楽しげに思い出せるような、生易しいものではなかった。
だが、永遠を生きてきた妹紅にとって、それは星の数ほどもある出会いと別れ、その内の一つでしかない。
そして肝心なのは、出会いと別れの間に作った思い出だ。
あの、大人ぶった目で物を見るくせに、妙に子供っぽいおかっぱ頭の少女との思い出は、掛け値なしに楽しいものであった。
数百年経った今でも、はっきりと自分を呼ぶ声が聞こえてくる。


『妹紅さん!! 妹紅さん!!』


その声をゆっくり咀嚼するように思い出しながら、ほとんど燃え尽きた煙草を、火鉢に叩き落す。



――――小気味良い音を立てて火鉢の中に落ちたそれは、一瞬だけ強く燃え上がり、やがて消えた。












――――今ではない時、ここではない場所、一組の男女が桜の花びらが舞う中を歩いていた。



桜花が幻想的に舞う中に、時折冷たく燃える霊たちが楽しげに踊る。



――――此処は冥界、その中でも中心に位置する小高い丘を、二人は目指していた。



「ねぇねぇ!! まだつかないの?」


一人は美しい上等な着物を纏った、桜色の髪をした幼い少女。


「もう少しの辛抱でございますよ、お嬢様」


一人は二振りの刀を腰に差した、壮年の侍。
そしてその身の回りに、付かず離れずに漂う一つの魂魄が、彼が人と霊との狭間に生きる者――半人半霊だということを示していた。
――彼の名は、魂魄 妖忌という。



少女は周りの桜を見ては、きゃっきゃと騒いで目を輝かせている。
妖忌はそんな彼女を見て、ある時は嗜め、ある時は一緒に楽しげに笑う。
傍目から見たならば、それはのどかな光景に見えたであろう。



――――だが、妖忌はまるで万の敵に囲まれているかのごとく周囲に隙無く気を配り、もし敵が現れたならば、いつでも最大の攻撃を叩き込めるように全身を緊張させていた。



少女はそんな妖忌には全く気が付かずに、相変わらずはしゃいでいる。
それは平和な日常と、殺伐とした戦場の空気という殆ど真逆のものが同時に存在する、奇妙な光景だった。
そんな奇妙な散歩は暫く続き、ある小高い丘の頂、そこに佇むものをみた瞬間妖忌の緊張は不意に解かれた。


(――――良かった。今日も、咲いていない)


侍は、心の中で安堵の溜息をついた。
少女はそんな侍の心中を知ってか知らずか、少し不思議そうに「それ」を指差して言った。


「この樹だけ、咲いていないわ? ほかの桜はみんなまんかいなのに」


周りを見渡すと、そこは一面の桜、桜、桜。
そのどれもが、満開となり、まるで淡雪のようにその花びらを舞わせている。
けれども数多くの桜の中で最も大きく、最も高い場所にあるこの樹だけ、まるで枯れ果てたかのように幹と枝を晒していた。


「これでいいのですよ、この樹は決して咲いてはいけないのです」


妖忌の言葉に、少女は少し残念そうに眉を寄せ、ふーん、と言ってその樹を見上げた。
まるで齢千年を優に超えそうなほどその樹は大きく、全ての物を見下ろすかのように高く、天を覆うかのように枝を広げていた。



――――だが、その樹が生まれた時からその姿であったと聞いたならば、きっと誰もが驚愕するに違いない。



そしてこの巨大な八重桜は、生まれた時の一度だけしか満開になっていないのだ。
再び、この桜が満開になることは、おそらく無い。
何故ならばこれが再び満開となった時、それはこの冥界の、幻想郷の終わりを意味するからだ。


「それにしてもとてもおおきな木ね、ようき。これはなんていう木なの?」


そんな事を知らない少女は相も変わらず無邪気に、妖忌の袖を引いて自らの好奇心を満たそうと躍起になっていた。
妖忌はそんな少女を慈しむように見下ろすと、一瞬その目に深い悲しみと、懐かしさを浮かべて答えた。



――――美しさのあまり、人を、妖を、そして魂までも狂わす、魔性の木々の中に立つ、その雄々しき大樹を。



「はい、西行妖――――この幻想郷と、西行寺……その始まりの樹でございます――――幽々子様」
「へぇ……」


見上げすぎて、後ろにころん、と転がりそうになりながら、西行寺 幽々子は樹を――西行妖を見上げた。
そしてにっこりと笑って、幹をぺたぺたと触りながら弾んだ声を上げた。


「つまりこの樹が、わたしのごせんぞ様ってことね」
「はい、その通りでございます。流石は幽々子様、賢うございますな」


妖忌の言葉に、幽々子は褒められた嬉しさに少しこそばゆいような笑顔で答え、改めて西行妖に向き直り、ぺこりと頭を下げた。


「ごきげんよう、ごせんぞ様!! 幽々子はげんきにやってます!!」


高らかに、それを言えば全てが叶うと心から信じているような純粋な目をしながら、目の前の樹に話しかける。


「これからも、幽々子や、里のみんなや、ようきをまもってね!!」



そんな微笑ましい光景を暖かく見ていた妖忌の目が、驚愕に見開かれた。



――――先ほどまで、枯れ木のような姿を晒していた枝に、花が咲いていた。



それは、すぐに散ってしまったけれど、――――確かに、幽々子の言葉に、西行妖が答えたように見えた。


(――――やはり、今でもそこにいるのだな、桜子殿……そして桜花殿…………)


妖忌は、再び懐かしそうに目を細めた。
そこに、最早悲しみの色は無い。


「幽々子様、不肖この妖忌、少し昔の話をしようかと存じます」
「え? ようきの昔話!? ききたいわ、ねぇきかせて!!」
「ははは、そうせがまれずとも、すぐにお聞かせいたしますよ」



そして妖忌は語りだす。



――――若き日の自分の生と、



――――ある少女との出会いと、



――――そして、別れを。













新たな語り手たちは語る。



――――日常と、それを変える出会いを。



「まず、日常があった」



「それはいつもと変わらぬ、空気のような日々」



「そこに現れたのは、日常を失った少女たち」



「その時から、私たちの日常は終わりを告げた」



――――日常は、壊れた。



「「さあ、新たな日常を始めよう」」













少女たちに昔語りがあるように、幻想に生きるものたちにも、それは存在する。



そして今、その始まりを記そう。



現実と幻想、二つの出会いを記そう。















昔語り 巻之三~秘封の地の出会い~















過ぎ去るように動く時は人にとってはあまりにも早く、あっという間に約束の日がやって来た。
蓮子たちの住む街全体を見下ろせる、小高い山の展望台。
そこに、秘封倶楽部の面々がいた。
皆思い思いの旅装を身に纏い、すぐにでも旅立てるように準備を整えていた。
――――しかし、そこに西行寺 桜子の姿は無い。
集合時間はとうに過ぎても、彼女はここに現れなかった。
けれど、蓮子は皆に桜子が来るのを待ってくれと懇願した。



――――蓮子は信じたかった。



彼女がほんの少しの勇気を振り絞ってくれることを。
自分を押し殺して生きてきた彼女の本音を、自分を縛るモノにさらけ出すことを。


「ねぇ蓮子……もう一時間は過ぎてるわよ? もう諦めるしか――――」
「来るわ――桜子は絶対に来る。
 ――――だから、もう少しだけ待って」


嗜めるようなメリーの声を遮るように、蓮子は少しだけ語気を強めて言った。
何故なら、メリーの言葉の端に見える諦めの感情を否定したかったから。
そして自分自身にも、そんな感情が存在することを認めたくなかったから。


「……蓮子――分かった、もう少しだけよ」


少し困ったように眉を潜めるが、メリーは蓮子を止めようとはしない。
彼女もまた、桜子がここに来てくれることを望んでいるのだ。
傍らに立つ阿礼も、何も言わないけれども心は同じである。
自分たちは友達で、仲間なのだ。
例えどんなことがあったとしても、これだけは事実だ。
今彼女を置いて境界をくぐることは、それを裏切ってしまうような気がしたから。
だから彼女たちは、桜子がここに現れるのを待ち続けた。



――――だが、時間は無常にも、十分、また十分と過ぎていく。



そして、時計の長針が再び一周し、太陽はすでに南天に昇ろうとしていた。



――――桜子……どうして来てくれないの?



蓮子たちは展望台の入り口の先を見続けていたが、桜子の姿はおろか、人一人見当たらない。
元々、あまり人が立ち入る場所ではないのだ。
それが、「今ここに桜子がいない」という事実を強調しているように感じられた。


「……桜子」


とうとう、蓮子は崩折れるように座り込み、俯いてしまった。
蓮子の肩を、メリーは慰めるように叩いた。


「蓮子……冷たいようだけど、これ以上は待っても無駄だと思うわ」
「メリー……だけど……だけど……」


――分かっている。
いくら目を背けて待ち続けても、今ここに桜子はいない。
それが現実なのだ。
蓮子の目には、知らず知らずのうちに涙が溢れ、足元にこぼれた。
彼女の表情はくしゃくしゃに歪み、手は胸中の複雑な感情を持て余して小さく震えていた。


「蓮子……泣いちゃだめですよ。これは、桜子の決めたことなんですから。
いくら分かり合えた友達でも、踏み込めない領域っていうのはあります。
―――-桜子にとってのそれは、今回のことで。自分たちが騒いでどうこうなるものじゃないんですよ。」


淡々と、そして少し早口に放たれる阿礼の言葉は、一見冷淡なように思える。
だが彼女が饒舌になるのは、怒っているときか、悲しんでいるときだけ。
そして今の阿礼の心中は、頬を伝う涙と、震える声が示していた。



…………皆、辛いのだ。



蓮子はそう自分に言い聞かせて、何とか立ち上がり、自らの決意を入り口から勢いよく背を向けて示して見せた。
その目には、もう涙は見えない。
ここでまた愚図るのは、桜子に対しても、メリーと阿礼に対しても失礼だから。
そして蓮子は顔を上げ、目の前の二人の友を見る。
メリーと阿礼は蓮子を見て微笑むと、彼女たちもまた入り口背を向けた。



――――それは、旅立ちの儀式だった。



「それじゃあ……行くわよ」


メリーはそう言って虚空に手をかざし、引き戸を開けるように動かした。
するとそこに裂け目が生まれ、見る見るうちに大人一人が通れるほどの大きさになった。
これが、今回の旅行で行く世界と、この世界の境界。
メリーにはその境界をどうにかする力は無いが、その裂け目を見つけることが出来る。
彼女はただその裂け目に手を掛け、広げただけだ。
普段境界は目には見えないし、決して触れることが出来ない。
しかし、一度それを暴いてしまえば触れることも出来るし、開けることも閉じることも出来る。


「じゃあ、私が最初に行くわ」


蓮子がそう言って、裂け目に足を掛けた時――――



「待って!!」



背中からかけられた声に、蓮子の思考は一瞬真っ白になった。
それは、今自分たちが振り切ったと思っていたもの。
有り得ないだろうと諦めていたけれど、秘封倶楽部全員が、心の中でずっと待ち望んでいた声だった。



――――使い古された、まるで大昔の映画でしか見かけないような、大きな旅行鞄。
一度見たら決して忘れない、普通なら有り得ないけれど、何物よりも美しい桜色の髪。
そして、それを際立たせるような黒を基調にした服。
それは普段の着物とは違うけれど、だからこそ彼女の新鮮な魅力を引き出してくれるような旅装だった。


「私も、連れて行って!!」


――――西行寺 桜子は普段のサークル活動と全く変わらない装いのまま、そこに立っていた。
けれど、それは蓮子たちにとってはそれがとんでもなく素晴らしいもののように映った。
普段と変わらない、彼女がここにいる。
そんな小さなことが、堪らなく嬉しかったのだ。


「――――桜子……っ!!」


蓮子たちは、三人同時に桜子の下に駆け寄り、飛びついた。
四人がもみくちゃになり、その勢いで草むらに転がった。
服は木の葉と埃で汚れに汚れたが、そんなことは関係なかった。
仲間が四人揃ったという事実の前には、そんな瑣末なことはどうでも良かったのだ。
意味も無いような歓声を上げて、しばしの間四人は喜びを分かち合った。



――――秘封倶楽部の面々は、再びここに全員集ったのだ。













「あぁもう、折角の旅支度が早速汚れちゃったじゃない」
「何よメリー。真っ先に飛びついたのは貴方じゃない?」
「私は飛びついただけよ? 飛びつかれただけで倒れる桜子が悪いわ」
「……そんなこと私に言われても」
「明らかにその理屈はおかしいし、元々旅支度なんですから汚れたって何の問題もないんじゃないですか?」
「あら? 気持ちの問題よ。旅に出てから汚れるのが私は好きなの」


落ち着いた四人は、境界から少し離れた所にある休憩所で、全身のゴミや汚れを落としながら、取りとめも無い話を交わしていた。
本来ならば全員が揃ったならばすぐに旅立つべきなのだろうが、表情に何のかげりも無い桜子の様子が嬉しくて、しばし会話に花を咲かせていた。



桜子の話によれば、元々彼女自身は蓮子たちを見送りに来るだけのつもりだったらしい。
けれど、その時出掛ける際に叔母に見つかり、引き止められたそうだ。


「それでケンカして、そのまま出てきてしまったわ」


その言葉の通り、彼女の鞄の間から服の端が飛び出していた。
おそらくはそばにある必要なものを片っ端から放り込んだのだろう。
家に戻ったら大変ね、と何処か楽しげに語る桜子だったが、その決意を考えるとその時の彼女の覚悟は相当のものだっただろう。
物心ついてから、西行寺という家の呪縛に囚われ続けてきた彼女にとっては、まさに身を縛る鎖を引きちぎるに等しい苦しい行為だったに違いない。
――しかし、今の桜子の表情には微塵の翳りは無い。
それを見て、蓮子はそれ以上深く事情を聞くのを止めた。
今まで心の奥に積もっていたものを吐き出して、桜子はここに来た。
それでいいのだ。


「――――さぁ、無駄話はこの辺にしましょ。これ以上時間を使ったら、向こうにいられる時間が少なくなるわ」
「そうね、そろそろ出発しましょう」
「もう少し私が早く来れれば良かったのだけど……」
「桜子のせいじゃないわ、気にしない気にしない」


尻についた埃を払いながら、蓮子たちは立ち上がる。
だが、阿礼は最後まで渋っていた。


「とは言っても、移動時間があるわけでもないし、もう少しのんびり行きたいところですけどねー」
「気分の問題よ。それに一分一秒でも早く行きたいって気にならない、阿礼?」
「…………」


蓮子の言葉に、阿礼はしばしの間沈黙した。
その表情は緊張か、期待か、不安か、そのいずれかは分からないが、糸を張ったように張り詰めている。


「……阿礼? どうかしたの?」
「――いえ、何でもないですよ……確かに、そんな気持ちでは、ありますね」


そして、阿礼は展望台の柵に手をかけて身を乗り出し、眼下の街をじっと眺めた。


「何やってるの?」
「……いえ、この街の景色を焼き付けておこうと思いまして」
「阿礼は大袈裟ね。まさか今生の別れに赴くわけじゃないでしょう?」
「いえいえ、桜子。こういうのをしっかり覚えておいて、そのギャップを楽しむのもまた一興でしょう?」


桜子と話す時には、先ほどの表情が嘘のように、いつも通りの阿礼に戻っていたが、



――――蓮子は、先ほどの阿礼の表情に一抹の不安を拭いきれなかった。



その時、一足先に境界の様子を見に行っていたはずメリーの声が、少し離れた所に伸びる獣道の奥から聞こえた。


「ちょっと皆!! こっちに来てくれない?」


それに答えて獣道に向かって歩き出す頃には、蓮子はそんな不安を勘違いだろうと判断し、記憶の片隅に追いやっていた。













鬱蒼と茂った深い茂みに隠れるように、それはあった。


「これは……神社?」
「そう、何だかちょっと気になったから皆を呼んだのだけれど」


とは言っても、かなり小さく、むしろ祠と言ったほうがしっくり来るような大きさだった。
鳥居はおろか本殿すらも苔と蔦に覆われ、今にも朽ち果てそうだ。


「私、ここに何度も来たことがあるけど、こんなのがあるなんて知らなかったわ」
「そりゃ気づかなくて当然よ。こんな所にわざわざ入るような酔狂な人間がいるとは思わないし」
「何よ。それじゃ、私がまるで酔狂な人間みたいじゃない?」
「……それって、本気で言ってるのメリー?」
「まぁ、どっちもどっちですしその話は置いといて――しかし、ボロボロですね」


人一人が潜るのがやっと位の小さな鳥居は、表面の朱はほとんど剥げ落ち、本来そこにあったであろうこの神社の名前も、半分は腐り落ちて既に無かった。
『博』という文字が、かろうじて読める程度だ。


「これって、二十年とか三十年とかのレベルの朽ち方じゃないですね。建物の様式も、相当古いものですし」
「ふーん……桜子、周りに幽霊とかはいる?」
「ええ、たくさん……存在が希薄で話せたりは出来ないけど、かなり雅な感じの人もいるわ」
「雅って……貴族ってこと? だとしたら、相当由緒ある神社だったんでしょうね、元は」
「それが今では、こんな寂れてしまって……正に時代を体現したような光景ね」


メリーが何処と無く寂しそうに呟く。
今この国の中で実際に神や仏を信じている人間は、そういう物を生業としている人間のほかには殆どいないだろう。
神秘の領域に足を突っ込んでいる秘封倶楽部の面々も、敬意を払いこそすれ、心からは信じていなかった。
万物あらゆる物に神が宿るという、八百万の信仰は最早この神社のように寂れ、朽ちていく運命なのだろうか?
そう考えると、何だか悲しくなってくる。


「そうだ、どうせだからお参りしていかない?」
「お参り?」


唐突な蓮子の提案に、他の三人は一様に首を傾げた。


「何でわざわざ? それにこんなうち捨てられた状態じゃ、ご神体があるのかも怪しいじゃない」
「桜子の話だと、ここにはたくさん霊がいるんでしょう? だったらここに特別な何かがあるって事じゃない?」
「確かにそうだけど、一体全体何をお願いするの?」
「……うーん、特に何をって訳でもないんだけど」


蓮子自身、特に何かを願おうと思った訳ではなかった。
この神社には何か特別な何かがある。
それが良いものであっても、悪いものであっても、何かしらの祈りを捧げたいと思った。
その感情が何処から来るのかは、蓮子も分からない。
けれど、この神社が持つ特別なものに対して縋りたくなったのだ。
すると、桜子が何かを思いついたように、両の手を打ち合わせた。


「これからの私たちの事、何てどうかしら?」
「というと、今回の旅の安全とかですか?」


阿礼の言葉に、桜子は頭を振った。
願うのは、もっと大きな事だ。



「これから先の、私たちの人生……せめて死ぬまで、自分の意思で生き続けること」



桜子の言葉が持つ重さと、その目に宿った決意の意思の大きさに、しばし言葉を忘れる。
それはこれからの自分たちの望みであり、秘封倶楽部の望みでもあったから。
だから、蓮子たちは頷き合い、神社に向き直った。
そして、目を閉じそれぞれの思いを祈りに乗せた。



蓮子は願う。
――――いつまでも、かけがえの無い友を失わないようにと。



メリーは願う。
――――今日、明日の一日、一瞬でも長く、自分が自分でいられることを。



桜子は願う。
――――自分が信じた道を、ひたすら、決して曲げずに歩くことを。



阿礼は願う。
――――必ずや、胸に秘す自分の目的を達することを。



それに答えることも、何かを返すこともしなかったけれど。
神社は少女たちの願いを、ただ受け止めてくれているようだった。


「じゃあ、行きましょ」


祈りを終えて神社に背を向けて歩き出す。
その時、蓮子の耳に微かな音が聞こえた。
それは周りの木々の葉鳴りにかき消されそうな小さなものにも関わらず、蓮子を引きとめた。
他の三人は気付かないようで、先に歩いていってしまう。
蓮子だけが、神社の参道に転がるそれに気が付いた。


「何これ……石? 神社の中から転がってきたのかしら?」


手のひら大の丸い石のようなものが、先ほどまで蓮子が立っていた場所に落ちていた。
手に取ってみると、大きさの割に重さは殆ど無く、材質も普通の石とは異なるようだ。
何の人の手も加わっていないことは、手触りと雰囲気で伝わってくる。
しかし、それは完全な球だった。
しかもまるで貼り付けたかのように、白と黒の石で半分に分かれていて、そのどちらも勾玉のような形で互いに絡み合っている、いわゆる陰陽魚のような形をしていた。
いずれも、自然に発生することも、人の手で作り出すのも不可能な代物だ。
それが持つ不思議な魅力に、蓮子は釘付けになっていた。


「これって、オーパーツって奴? にしても何でこんな所に……」
「蓮子―? 何やってるの、置いていくわよ!?」


仲間たちが呼ぶ声に、蓮子は思考を中断し、少し考え込んでから、石を鞄の中に詰め込んだ。


「ちょっと待って!! すぐ行くから!!」













秘封倶楽部の面々は、再び境界の入り口の近くに集った。
暫く時間を空けたせいか、先ほどメリーが開けた入り口は既に閉じてしまっている。
メリーがそれに再び手をかけた。
後はその手を引けば、そこにはもう異界が待っている。


「それじゃあ、改めて……行きましょうか?」


メリーの宣言に、全員が一様に頷いた。
境界の向こう側を見ると、蓮子はいつも何とも言えない楽しさを覚える。
それは、幼い頃初めて乗った電車の車窓からの風景を眺めた時のような、無邪気な感情だ。
この世界とは理の違う力、世界を知った自分たち秘封倶楽部に与えられた、ささやかな特権。
旅の後の事を今は考えないでいい。
今までの境界の向こう側への旅は、楽しいものだった。
きっと今回も楽しいものになるだろう。



――――この時まで、少なくとも彼女はそう考えていた。



『――――やっと来たの? 待ちくたびれたわ』


――――その声はそこにいるのが当たり前であるかのように、自然なもののように響いた。
そのあまりの自然さに、誰もが一瞬気づくのが遅れた。
その一瞬が、彼女たちの運命を決めた。
いや、その一瞬が無くとも決まっていたのかもしれない。


「………駄目」


その声を聴いた瞬間、メリーの顔が青ざめた。


「――――逃げてえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」


メリーが絶叫すると同時に、ぎちり、という耳障りな音と共に境界のスキマが独りでに開かれた。
そこには圧倒的な闇と、おびただしい数の……巨大な目。
それはあまりにも現実離れしすぎていて、滑稽なほどだった。
そこにいる全員が、メリーの叫びを聞かずとも分かっていた。
――――逃げなければならないと。
だが、彼女たちは動けなかった。
現実離れしたものを持ち、見て、触れてきたはずの、秘封倶楽部の彼女たちが。



――――違う。



だからこそ、だからこそ蓮子たちは動けなかった。
現実離れしたものに慣れた彼女たちだからこそ、目の前のものが、抗いようの無い、絶対的な力だと理解したのだ。
スキマから、闇で出来た腕が伸びる。
それは蓮子たちを十重二十重に包み込み、彼女たちを引きずり込もうとする。
けれど、彼女たちは動けない。
警告の叫びを上げたメリーでさえも。
そして闇の手が彼女たちを完全に包み込もうとした瞬間、


『……!!』


蓮子の鞄の中に入っていたあの石が、凄まじい光を発し――――



――――そこで、宇佐見 蓮子の意識は途切れた。















「…………まさか、陰陽玉を持っているなんてね。ちょっと油断したわ」


豪奢な衣装に身を包んだ女は、グズグズに焼け爛れた自身の手を何処か嬉しそうに眺めていた。
その容姿は、メリーに良く似ている……いや、彼女そのものだ。
――――けれど、絶対的に何かがチガウ。


「ふふ……でも、これで彼女は完全なイレギュラーになった」


彼女の立てた計画は完璧。
しかし、それは百%であってはならないのだ。
完全に固められた強固な固まりは、逆にその固さ故に砕け散る。
砕けないようにするためには、そこに若干の柔らかさを加えればよい。
だからこそ、宇佐見 蓮子の存在は、必要不可欠なのだ。


「まぁそのおかげで、ちょっと困ったことになっているのだけれど」


思わぬ邪魔が入ったおかげで、彼女たちを纏めて送り出すことが出来なかった。
しかもその内の二人は相当危険な場所に落ちてしまったようだった。
本当ならば自ら苦難を逃れて欲しいところだが、万が一死んでしまったら元も子も無い。
待機させている式に呼びかけようとしたが、一瞬考えてから止めた。


「あらあら、これは――――」


何故ならその二人の飛ばされた場所の近くに、都合の良い人物がいるのが見えたから。
ここは手が足りないし、彼らに任せてしまおうと女は考えた。
彼らはかなりの手垂れだし、何よりお人好しだ。
唯一の懸念を解決させた女は、自らに課した役目を果たすために動き出した。


「さて、それじゃあ迎えに行くとしましょうか」


手を振ると、瞬く間に火傷は消え、白磁のような美しい肌が姿を現した。
そしてその手で何事も無かったかのように日傘を差して、スキマを開いた。
その向こうには、のどかな風景が広がっている。


「――――数多の分身の中で、唯一『私』ではない私を」


女――八雲 紫は微笑んだ。
その微笑みからは、彼女の心は窺い知れない。
――――そこにあるのは悪意か、それとも慈愛か。















八雲 紫がスキマを潜った、丁度その頃、



♪人さんや 人さんや 指きりげんまん しておくれ



のどかな里の中で、二人の少女が戯れていた。
一人は見るからに腕白そうな、紫色の着物を着て、赤いリボンを髪に巻いた少女。
一人はおとなしそうな、黒と白に分けられた不思議な柄の着物を着て、紫のリボンを髪に巻いた少女。


♪指きりげんまん したならば こっちに遊びに 来ておくれ


だが、彼女たちは人間ではなかった。
彼女たちはそれぞれ、頭から角を生やしていた。
紫の少女は頭の両端から一対、黒と白の着物を着た少女は頭頂から一本の角を。
彼女たちは伝承に伝わる最強にして最古の妖怪の一族。
戯れに天を割る凄まじい力、深遠の如き深い叡智を併せ持ち、大海の如き酒を飲み干す。
人々はその力、姿を恐れ、畏れてこう呼んだ――――鬼と。


♪鬼さん こちらじゃ 手の鳴るほうへ ほらほらこちらじゃ 捕まえろ


けれども彼女たちの遊ぶ姿は、ごく普通の人間の子供となんら変わらない。
二人は里が一望できる丘の上で、色とりどりのお手玉を、童歌を歌いながら器用に宙に舞わせていた。


♪明日も 来とくれ 人さんや 来なけりゃ その舌 引き抜くぞ


少女たちが歌を歌い終わると、さぁっ、と風が吹き抜け、それに乗って桜の花びらが舞った。


「あ――――」


黒と白の着物を着た少女が、お手玉を取り落として、遠くを見つめた。
紫の着物を着た少女は、突然の彼女の行動に、不思議そうに首を傾げた。


「どしたの桜花? 何かあったの?」


桜花と呼ばれた少女の視線の先は、おびただしい数の桜の木が生えた森があった。
それらが全て満開の花を咲かせる姿はまるで、高山から見下ろす雲海を思わせる。


「霊たちが騒いでる……人間が迷い込んだみたい」
「人間って……こんな所に来れるまともな人間がいる訳ないじゃん」
「うん、そうなんだけど……」


気のせいじゃないのかと嗜める少女の言葉にも、桜花はほとんど上の空で答えた。
金と銀、左右それぞれ違う色の桜花の瞳は、この世の何物でもないものを捕らえているようだった。
そして不意に立ち上がり、桜の森に向かって走り出した。


「あ、ちょっと桜花!!」
「萃香ごめん!! やっぱりどうしても気になるから!!」
「…………あーもう!! 仕方ないなぁ」


普段はいつも借りてきた猫みたいに大人しいのに、何か気になることがあると後先考えずに行動するのが、この桜花の悪い癖だった。
だが少女――萃香は悪態をつきながらも、それに付き合うことにした。


「全く――お爺様に怒られたら、あんたのせいだからね!!」


足元に転がったお手玉を懐に放り込みながらも、萃香の顔はうきうきとした表情で一杯になっていた。
いつもいつも変わらぬ生活をして、大人たちの言いつけを守って暮らし続ける毎日。
同じ年頃の気兼ねなく遊べる相手は、同時に親の腹から生まれ落ちた姉妹である、この桜花だけ。
それを何十年も続けてきた萃香は、そんな暮らしに退屈を感じていた。
だから、これはその退屈を紛らわし、あわよくば抜け出すことの出来るきっかけになるかもしれない。
そう思ったから、萃香は桜花に付き合うことを決めたのだ。



――――今この時、図らずも歴史に名を残すことになる鬼――伊吹 萃香の歯車は、確かに動きはじめていた。
そして、鬼の双子の片割れ――伊吹 桜花の知られざる歴史も、また。














「う……う…………ん」


桜子が意識を取り戻して最初に感じた感覚は、柔らかい土の感触と匂い、そして頬に張り付く何かの感覚だった。
目を開けると、すぐ側にごつごつとした木の根が見えた。
時折風の音が木々の間を吹きぬける音が聞こえる。


(目も、耳も、鼻も、感覚も……大丈夫)


桜子は極めて冷静に、自分の状況を一つずつ確認していった。
手を付いて上半身を起こす――手と腕は何とも無い。
さらに立ち上がって、二、三回足踏み――足も問題なし。


「大丈夫……何処も怪我はしてない…………」


さらに独り言を言うことで、喉も問題ないことを確認する。
けれど、目の前の光景を理解するには、しばしの時間が必要だった。


「これは……桜?」


そこは一面の桜、桜、桜。
桜子の周りに見える木々、山の向こうに見える木々、その全てが例外なく桜の木だった。
しかもそのどれもが満開で、時折吹く風に花弁を舞わせている。
そして先ほど自分の頬に張り付いていたのが、桜の花びらだと分かった。
それは、途轍もなく幻想的で、ここが自分たちがいた場所とは違う世界なのだということが理解できた。


「――――そうだ!! 皆は!?」


――――境界から現れた黒い目と、そこから伸びて自分たちを包む手。
その禍々しい光景を思い出して、一瞬身震いする。
それを振り払うように頭を振ると、辺りを見回す。
周りにあるのは桜だけ。人の気配すら感じられない。
他の三人とは、離れ離れになってしまったのだと桜子は直感した。


「どうしよう……」


本来誰かとはぐれたのならば、そこからあまり動かないのが得策だ。
しかし、ここは異世界。
どれだけ仲間たちが遠くにはぐれてしまったか分からない以上、そのような常識は通用しない。
かと言って、このままとどまり続けることも考え物だった。


「荷物も見当たらないし……」


彼女の旅行鞄は、目の見える範囲には見当たらなかった。
水も食料も無いこの状況では、すぐに飢えてしまうことは火を見るより明らかだ。
そう考えると、急に言いようもない孤独感が桜子を襲った。


「…………おかあさん」


知らず知らずに呟くけれど、答えは無い。



――――もう、母はいないのだ。



心細さのあまり、零れそうになる涙を必死に堪え、桜子は顔を上げた。
ここでめそめそしても、何も始まらない。
家を飛び出したあの時に、もう心を決めたはずではないか。
もう誰かに甘えて、周囲に流されたままでいるのは止めると。
だから、桜子は歩き出した。
今のこの状況を変えるために。














桜花が美しく舞う中に、鮮烈な紅が飛び散った。


「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッ!!!」


大気を震わせるような咆哮が響き渡る。
そして遅れて、重い音を立てて何かがドサリと地面に落ちた。
それは腕だった。
人間の腕を二回りほど巨大にして獣の毛で覆ったような形をしていて、指の先にはねじくれた鍵爪が生えている。
それの持ち主であった者は当然、人間ではない。
まるで猿を熊のような大きさにし、更に醜悪に歪ませたような姿をしていた。
この世の理に反するような、歪んだ生のカタチ。
そして人に仇成すために存在するかの如き禍々しさ。



――――妖、その中でも妖獣と呼ばれる類のものだった。



だが、それに相対する者も尋常の者ではない。


「はぁっ!!」


うららかな春の暖かさを持つ柔らかな風を、銀光が切り裂く。
目にも留まらぬ速さで振るわれた刀が、腕を飛ばされた妖獣の身体に無数の傷を作り出す。


「ギイイイイイイイイイイイイイイイッッッ!!!」


妖獣がその傷の痛みに悶えた一瞬の隙に、飛燕の如く翻った刀が、その首を刎ね飛ばしていた。
妖獣の体は首を刎ねられてもなお暫くの間暴れまわっていたが、すぐに断末魔をあげて動かなくなった。


「……相手にならん」


刀についた血脂を振るいながら、先ほどまで苛烈な剣戟を振るったとは思えないほど呼吸を乱さずに、緑の戦装束に身を纏った侍の青年は呟いた。
その手には通常ならば振るうことなど適わないほどの長大な太刀が一振りと、小太刀ほどの長さの短い刀が一振り。
そして青年の体を守るかのように、一つの魂魄が漂っていた。
それは彼が人と霊の狭間に立つもの、半人半霊であることを示していた。


「これ以上は無駄だ、諦めて別の餌を探すがいい。貴様らもたかが食事如きのために命を散らせたくはあるまい」


無駄だとは理解しつつも、青年――魂魄 妖忌は自分を囲む、大小合わせて五匹の妖獣を諭す。
しかし彼らは全く耳を貸そうともしない。
いや、それどころか知性があるかすら怪しい。
この妖獣たちにとっては、腹を満たすことこそが行動の理念なのだ。
目の前に肉があれば、それがたとえ強かろうと、弱かろうと、胃袋に収めるために襲い掛かってくる。
その姿は伝承に聞く地獄の一つに住むという、永遠に飢え続ける存在、餓鬼のようだった。
飢えのあまり、そこらにある石や土、更には仲間の死体まで喰らうその姿は、哀れとさえ言えた。
けれども、妖忌は一片の情けもかけない。
たとえ彼らがこの輪廻の桜に咲くことが出来なかった哀れな存在であっても、人里に害を成す存在であることに変わりは無いのだ。


「やはり、言うだけ無駄か……」


妖忌は口の中で小さく舌打ちすると、刀を祈るように掲げて念を込める。
すると、自分の周りを漂っていた半霊が、見る見るうちに、妖忌と寸分違わぬ姿となった。
いつの間にかその手には、同じく二振りの刀が握られている。


「ならば、せめて楽に逝かせてやろう」


その言葉を置き去りにして、妖忌と、彼の形をした半霊の姿は一瞬にして動いた。
そして先ほどの斬戟が止まって見えるほどの一閃が、瞬時に三匹の妖獣を細切れの肉片に変える。
それを視認した妖獣たちが動き始める頃には、妖忌はさらにもう一匹に止めをさしていた。
妖忌自身とほとんど変わらぬ力を持つ半霊の分身も、一気に二匹を相手にして、その両方に深手を負わせている。



しかし、その二匹は不意に妖忌と戦うことを止め、脱兎の如く逃げ出した。
飢えた彼らが目の前の肉を諦めて立ち去ることなど、普通ならば考えらないことだったが、今の妖忌には関係ない。
眼前の敵は、ただ討ち滅ぼすのみ。


「む……!!」


逃がさんとばかりに、それを追いかける妖忌だったが、集中に限界が来たのか、半霊が元の姿に戻ってしまう。
止むを得ず、半霊を少し出遅れていた妖獣の足に纏わりつかせて、転倒させる。
その心臓を太刀で一突きにし、先に逃げた残りの一匹を追いかけようとした。
――が、太刀が刺さったまま抜けない。
息絶えた妖獣は何の執念か、死してなお太刀を万力の如き力で掴んで離さなかった。


「ちいぃっ!!」


その隙を突いて最後の生き残りは、桜の木立の中に消えようとしていた。
だが、それでも妖忌のほうが遥かに速い!!
瞬く間に追いつき、小太刀を振りかぶった。


(楼観剣無しで……いけるか!?)


一瞬の迷い。


「せええええええええぇっ!!」


しかし一切それを表に出すことなく、妖獣の背に小太刀を叩きつける。



――――軌道も、刃筋も、手の内も、全てが完璧だった。



妖獣の背を切り裂き、腹まで抜けるような見事な斬撃。
そうなるはずだった。



――――ガッ!!



「ギシャアアアアアアアアアアッ!!」


妖獣の悲鳴。
しかしそれは断末魔ではない。
――固い手応え。
小太刀は、妖獣の背に刀身の半分ほどをめり込ませた所で止まってしまっていた。
人間ならばまだしも、屈強な妖獣がどうこうなるような傷ではない。
怒りの声を上げて振り回された妖獣の腕が、動きの止まった妖忌の体に容赦なくぶつけられた。


「ぐうっ!!」


肺の中の空気を一気に吐き出しながら、妖忌は苦鳴をあげた。
そして数間先の木の幹に、叩きつけられる。
凄まじい衝撃に一瞬頭が朦朧とするが、身に着けていた帷子のおかげで大した怪我はしていないようだ。
頭を振って立ち上がると、妖獣の姿を探す。
既に木立の間に消え、見えなくなってしまっていた。


「不覚の極みだな……」


忌々しげに、妖忌は呟いた。
そこら中に当り散らしたくなる気持ちをこらえて、歩き出す。
逃げた妖獣の行き先が気になるが、それより先にやることがある。
骸に刺さったままの太刀を回収し、吹き飛ばされたときに離してしまった小太刀を探すことだ。



――――ほどなく、それは見つかった。
妖忌はそれを手にすると、忌々しげに刀身を覗き込んだ。
鏡のように光る刃紋が、妖忌の顔を映し出す。
そこに映る彼の顔は、やり場の無い怒りと、自らの未熟を呪う思いで、醜く歪んでいた。


「――――未だに俺を認めないというのか……白楼剣」


迷いを断ち切るという、魂魄家代々に伝わる宝剣。
この刀を振るうようになって幾十年、妖忌は未だに満足にこれを扱えないでいた。
地面に叩き付けたい衝動を抑えつけ、妖忌は白楼剣を鞘に収めた。


その時――――


「きゃああああああああああああああああっ!!」
「……!!」


少女の叫び声が、辺りに響いた。
妖忌は自分の懸念が現実のものとなったことに舌打ちした。


――――奴らが逃げたのは、これか!!


考えうる中で最悪の事態に、内心焦りが生じる。
何度も言うように、飢えた妖獣が目の前の獲物を置いて逃げることなど到底あり得ない。
いかに返り討ちに遭おうと、その身から湧き出す欲望と渇望が、それを許さないのだ。
にも関わらず、彼らがあの場を去った理由はただ一つ。
代わりの、狩るのに容易い獲物を見つけたからだ。
それが分かっていたはずなのに、悠長に刀を探していた自分を殴りつけたくなった。


「間に合えばいいが……」


傷は浅いとはいえ、まだ動くたびに痛みが走る。
だがそんなことを考えている余裕は無かった。
一刻も早く向かわなければ!!
全身に走る痛みを跳ね除けるかのように、妖忌は悲鳴の聞こえた方へと走り出した。















その暫く前の事――――
桜子は一人、あても無く桜の木立の間を縫うように歩き続けていた。
――――とても静かな場所だった。
聞こえるのは、風が桜を揺らす音だけ。
しかし、桜子にとってはここはまるで繁華街の雑踏のように感じられた。



桜子の周り――いや、この桜の森には数え切れないほどの霊たちがひしめき合っていた。



しかもそのどれもが、はっきりと見えるほど存在が濃く、まるで本当に人ごみの中に放り込まれたかのような錯覚を感じさせる。
普通ならばまずあり得ない光景に、桜子は目が回りそうになる。
更に桜子が困惑したのは、霊たちの浮かべる表情だった。
今まで桜子が見てきた霊たちは、そのどれもが例外無く翳りを帯びた表情、悪く言えば陰鬱な雰囲気を漂わせていた。
だから、桜子も霊はそういうものだと認識していたのだが、ここの霊たちは違っていた。


「みんな……笑ってる?」


少し不安そうにしている者もいるが、悲壮な表情を浮かべている者は誰一人いない。
誰もがその目を、希望と期待に輝かせていた。
信じられないことに、中には酒宴らしきものをしている霊たちもいた。
自分が知っている物とはまるで違う彼らの姿に圧倒されそうになるが、今はそんなものに浸っている暇は無い。
一刻も早く秘封倶楽部の仲間たちを探さなければならないのだ。


――――これだけはっきりとしているなら、まともに話せるかもしれない。


そう思った桜子は、思い切って近くで寄り集まっていた霊たちの一団の一人に声をかけた。
その姿は、髭を蓄えた老人の姿をしていた。


「あの……」


遠慮がちに声をかけると、老人は少し驚きに目を見開いて大袈裟に手を打ってみせた。


『おお、これはこれは。こんなめんこい娘さんに声をかけられるとは光栄じゃな』


その老人の言葉に、周りの霊たちがさも面白そうに囃し立てる。
桜子は少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。


『それにしても、随分とはっきりとした娘さんじゃなぁ。足が見える霊なんぞ、始めてみたわい』
「いえ……私、生きてます」
『おおっと、こりゃ失敬――――で、生きとる人間の娘さんが、とっくに死んどるワシらに何の用かの?」
「ここは、一体何処なんでしょうか?」


少し見当の外れたような桜子の言葉にも、老人は真剣に答えてくれた。
ふむ、と顎に手を当てて暫く唸る。


『教えてやりたいのは山々なんじゃが……実はワシらも良くは知らんのじゃ』
「え?」
『おっ死んで、閻魔様の捌きを受けて、輪廻転生――つまり生まれ変わりを待っとったら、いつの間にかここにいたもんでなぁ』


まぁそれで何が困るというわけでもないがな、と老人は可笑しそうに笑う。


『誰が最初に呼び始めたのかは分からんが、ワシらはここを、輪廻の桜の森と呼んでおるよ』


目を凝らしてみると、確かに言いえて妙だと桜子は思った。
ここの桜の花は全て、霊魂が形を変えたものだった。
桜の花が一つ散るたびに、魂が一つ、天へと昇っていく。
それは桜子のように霊を見ることの出来る者にしか見えない、この世のものとは思えないほど幻想的な光景だった。
この場所の桜が全て満開である理由は、天へと還っていく霊と、ここを訪れる霊、それが図ったように均等であるからだった。


『そんな訳でここが世界のどの辺りかは教えることは出来んが、ここら一帯のことなら、大概のことは教えられるぞい』
「……!! 教えてください!! 友達がこの近くにいるかもしれないんです!!」
『何と……!! 他にもここに来た者がおると……だが、ここはお前さんのような娘さんがうろつくにはあまりにも危険じゃ。
 まずは、この近くにある、鬼の里に行くのがよかろう』
「鬼の……里?」
『伊吹の里という名の、この森を管理する者達が住む集落じゃ。恐ろしい姿をしているものもいるが、彼らは人を喰ったりはせん、安心せい』


鬼、という単語に少し体をすくませた桜子を察して、老人は安心させるように優しく続けた。
そして指で、桜子の右手の方向を指し示した。


『この方向を真っ直ぐ行けば、里に着くことが出来るはずじゃ。迷いそうになったら、地面が踏み固められている場所を探せばよい。
里に仇成す者を退ける結界も張られとるが、ワシらとこうして話が出来るほどの見鬼の力を持つお前さんじゃ。すんなりと通ることが出来るだろうよ』


指し示された希望に、思わず体が震える。
思いのほか、早く仲間たちに会えるかもしれない。
この周りに霊たちがいるせいもあって、桜子は何だか心が温まったような感じがした。


「ありがとうございました。貴方たちの来世の幸せを、祈ってます」
『おお、ありがとう。誰かに祝福されるなど、何十年ぶりのことじゃろう……』


桜子の言葉に、老人は感極まったのか涙を流した。
だが、不意にその顔は緊迫とした表情に塗り替えられた。


『いかん!! 娘さん、逃げるんじゃ!!』


老人がその言葉を言い切る前に、バキバキと桜をなぎ倒す音と、獣のような咆哮が響いた。
無数の花が散り、老人も、周りにいた霊たちも次々と消えていく。
桜子がそれに衝撃を受ける間も無く――――吹き飛ばされる木々の破片と共に、巨大な一つ目の熊のような怪物が姿を現した。
手負いなのか、その身からは血が滴り落ちている。
怪物は血走った一つきりの目を爛々と光らせ、桜子を見下ろしていた。


「きゃあああああああああああああああっ!!」


その禍々しい姿の恐ろしさに、桜子は悲鳴を上げた。
怪物は桜子の悲鳴に反応するように、ゆっくりと腕を振り上げ、巨体からは信じられないほどの速さで、それを振り下ろした。
だが恐怖のためか、桜子の足は呪縛されているかのように動かない。
だから桜子は咄嗟に身を屈めるしかなかった。
吹き飛ばされるような烈風が、桜子を襲う。



――――しかしその場を動かずに蹲ったことが逆に幸運を呼んだ。
桜子はすぐ足元にいたため、その動きに怪物は付いていけず、その腕は空を切り、地面を抉った。


「あっ…………!!」


それでも、まるで爆弾が爆発したような衝撃に、桜子は成す術無く吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
体中が痛みに悲鳴を上げるが、それが逆に桜子の意識を繋ぎ止めてくれていた。


(早く、逃げないと――)


そう思って立ち上がろうとするが、その瞬間足に激痛が走る。
どうやら吹き飛ばされたときに、足をひどく挫いてしまったようだ。
動くことの出来ない彼女を、怪物は両手で掴んで高々と持ち上げた。
化け物じみた力に、全身の骨がみしみしと軋む。


「い……痛い……っ」


――――自分は、ここで死ぬのか。
桜子は、朦朧とした意識の中でそう思った。



――――嫌だ。



――――まだ、私は自分で歩き出したばかりなのに。



――――嫌だ。



――――イヤダ。



――――助けて。



――――タスケテ。



――――死ぬのは、嫌だ。



――――イヤダ。



――――死ぬのは、嫌!!



――――コロシタクナイ!!



「――――え?」


自分のモノとは違う何かの叫びに、桜子は目を見開いた。
それは確かに、目の前の怪物から聞こえた。
しかし、怪物の口からは相変わらず獰猛な唸り声だけしか聞こえない。
けれど、その声ははっきりと桜子の頭の中に響いた。


「貴方は……」


桜子は初めて、目の前の怪物をはっきりと『見た』。
そして、怪物の正体をはっきりと悟る。



――――それは、怨霊の塊だった。
この桜の木に咲くことが出来なかった、生まれ変わることすらも許されないほど、歪んだ欲望、渇望の魂を持った霊たち。
決して満たされることの無い飽くなき欲望と渇望に苦しみ、それを満たすために他を傷つける自分に苦しみ、そして永遠に満たされない事を理解して苦しんで、ソレは悲鳴をあげていた。
桜子は狂ったように見開かれた、ソレの一つきりの目から流れ出る涙を――
そして、心からの願いを『見た』。



――――コロシテクレ、と。



ソレは、魂が張り裂けそうなほど大きな声で、叫んでいた。
この怪物は、自分を襲っているのではない。
ただ、助けを求め、渇きを満たそうと、縋り付いているだけなのだ。
そう思うと、目の前の巨大なモノが、まるで泣き叫ぶ子供のように小さく感じた。


「ごめんなさい……」


桜子は、涙を流して、目の前の怨霊たちに謝った。



――――貴方を満たすことが出来なくて、ごめんなさいと。



――――貴方を救ってあげられなくて、ごめんなさいと。



――――謝ることしか出来なくて、ごめんなさいと。



先ほどまでうろたえていたのが嘘のように、桜子はこれから自分に降りかかる運命を、目を閉じて静かに受け止めようとしていた。



――――その時、一陣の風が吹きぬけた。













「せええええええええぇぇぇぇっ!!!!」


木の枝を踏み台にして天高く飛び上がった妖忌は、桜色の髪の少女を掴む妖獣の腕に、手にした太刀――楼観剣を渾身の力を込めて振り下ろした。
あまりの勢いのためか、全くといっていいほど抵抗無く、妖獣の腕は真っ二つに断ち切られた。


「グエエエエエエエエエエエエエエッ!!」


悲鳴を上げるそれを捨て置いて着地した妖忌は、すぐさま身を翻して、妖獣の手から滑り落ちた少女を、刀で傷つけぬように受け止めた。


「無事か!?」


少女の姿格好を見るに、どうやら異国――いや、異世界の人間のようだった。
それならば、生身の人間である彼女がここにいる理由も頷ける。
だが、それ以上に妖忌はそれ以上に、あることに釘付けになっていた。


――――美しい。


少女の顔を見た瞬間、妖忌はそう思った。
当の少女は、事態の展開についていけないのか、きょとんとした表情を浮かべている。


「どうなのだ!? 何処か怪我はしていないか!?」


少女の意識を引き戻そうとするかのように、妖忌は更に大きく声を張り上げる。
その声に、ようやくはっとした表情を浮かべて、少女は答えた。


「は……はい、ちょっと足を挫いてしまっていて……」
「承知した」


皆まで聞かず、妖忌は少女を抱えたまま、未だ痛みに呻いている妖獣から距離を取った。
そして、手ごろな木の陰に彼女を座らせる。


「ここにいろ。事が済むまで、動いてはならんぞ」
「はい……あの、怪物――――」
「ああ、あれは地獄にも行けず、生まれ変わることも出来ず、ただ己の欲望を満たすために暴れる怨霊どもの成れの果てだ」


妖忌は少女にあの妖獣の正体を、掻い摘んで説明する。
しかし、少女は頭を振った。
そして、苦しむ妖獣を憐れむかのような目で見つめる。


「いえ、――――あの人たちを、救ってあげてください……楽にしてあげてください。
――とても、とても苦しんでいます」
「……!!」


彼女の言葉に、妖忌は圧倒された。
この少女は本当に心の底から、あの怨霊たちが救われることを望んでいるのだ。
つい先ほどまで、自分を殺し、喰らおうとしていた化け物に対して。
一体この少女の心には、どれだけ深い慈愛があるというのか?
その気高い姿に、妖忌はただ見惚れていた。
しかし、その時間も一瞬のことだった。
何故なら妖獣が再び起き上がり、こちらに突進してくるのが見えたから。



妖忌は裂帛の気合を乗せて、刀を振るった。
それは、目の前の敵を滅ぼすためではない。
自分の後ろに控える、美しく、気高い少女を守るため。
魂魄家を出奔して、幾十年――――



この時初めて、魂魄 妖忌は己のためではなく、人のために、剣を振るった。













桜子もまた、自分を助け、更にあの怪物を救おうとしてくれている剣士を見つめていた。
青年は、まるで舞を舞うかのような華麗な動きで怪物の腕と鍵爪を掻い潜り、雷光のような速さで剣を振るう。
彼の剣舞は暴力的で、血生臭いもののはずなのに、桜子の心を強く打った。
言ってみれば、それは肉食獣が持つような、野生の美。
華麗で繊細なものには決して持てない、荒々しい美しさだった。
桜子はその美しさに、ただ見惚れていた。



そして、自分が青年をみる瞳に、熱い物が宿っていることに気が付かなかった。



一つの出会いが生まれた。



――――後の幻想郷の歴史に長く名を残すこととなる二つの血統――西行寺と魂魄が、始めて邂逅した瞬間だった。














歴史にこそ残されてはいないが、一方ではこんな出会いもあった。
















阿礼は桜子と同様に、一人途方に暮れていた。


「うう……何処なんだろう、ここ」


阿礼が目覚めたのは、桜子とは打って変わって、日の光も殆ど射さないほど深い竹林のなかだった。
おかげでかなり肌寒いし、薄暗くて余計不安になってくる。
しかも、この辺り一帯は微妙な傾斜があるのに、竹は変わらず真っ直ぐ生えているせいで、平衡感覚がおかしくなってくる。
阿礼はすでに自分がどちらの方角を向いているのか、自分がどちらから来たのかすらも分からなくなっていた。


「蓮子も、メリーも、桜子も……隠れてないで出てきてくださいよぉ……」


寂しさと不安を紛らわすために、答えるものがいないと分かっていても一人呟く。
こうやって冗談まじりに何かを言えるということは、まだ大丈夫だと自分に言い聞かせる。
少し立ち止まり、ポケットの中のコンパスを取り出す。
方角は西を示していた。


「だけど、私たちの世界の法則が通用するかどうかわからないし……」


こういう時に、蓮子がいてくれれば場所ぐらいすぐに分かるのだが、今は無いものねだりをして事が済むはずが無い。
う~んとひとしきり唸って考え込むが、何もいい方法は浮かんでこない。
阿礼は何かを記憶したりすることに関しては並外れていても、何かを新しく考えるのはあまり得意ではないのだ。
大体、そういうものはもっぱら蓮子やメリーの領分だったし。


「うう……お祖父ちゃん。貴方に会う前に、挫けそうです……」


そう言って、鞄から祖父の形見である『桃源郷絵巻』を取り出して広げる。
本当ならば、本を見なくても頭の仲で朗読することも可能なのだが、阿礼は本を持っていると安心することが出来た。
インクの匂いと、古い紙の匂いが不安な心を紛らわせてくれる。
動揺していた自分の心が、見る見るうちに落ち着くのが分かる。
髪の感触を確かめるようにぱらぱらとページを捲っていた阿礼の手が、不意に止まった。


「――――迷いの……竹林……?」


そこには、
『昼なお暗いその竹の林は、竹特有の成長の速さにより景色は常ならず、地面の傾斜とそこから生えた竹の違和感から誰もが方向感覚を失い、迷い込んだならば二度とは抜け出せない』……とあった。



阿礼の目が、鋭く周囲を観察する。
この本に書いてある、竹林の植生、描写、気候……
そして、今現在自分がいる竹林の植生、景色を照らし合わせていく。


「う……そ…………?」


そのどれもが、まるでパズルのピースのようにがっちりと当てはまった。
心臓の鼓動が、まるで早鐘のように激しく打ち鳴らされる。
興奮のあまり上手く息が出来ない。



まさか、ここがその『桃源郷』?



阿礼は歓声を上げそうになるのを必死に堪えようとした。
もしかしたら特徴が偶然合っただけで、これがごく当たり前の竹林で、祖父の描く世界とは無縁のものかもしれないからだ。
けれど、やはり期待をせざるを得ない。
ここに、十年以上追い求めた憧れの祖父がいるかもしれないのだ。
そう考えると、心臓の鼓動が早まるのを抑えることが出来なかった。


「あれ?」


しかしその浮かれた感情も、すぐにどん底まで叩き落されることになった。
その解説の下に書かれた文と、今自分が置かれた状況を思い出したから。


『上記のように、人を惑わす地形と、永年に渡って住み着いてきた妖獣の類が辺りを徘徊しているため、素人は決して足を踏み込まないほうがいいだろう』


何故、今自分がここにいるのか。
それは迷ったからだ。
しかも阿礼は正に絵を書いたような素人だった。


「まるっきり駄目じゃないですか!!」


と、大声を張り上げてからすぐに慌てて口を塞ぐ。
妖獣といえば、獣が年月を経ることで妖怪と化したもので、中には人肉を喰らうものもいるという。
それらが音を聞きつけたらまずい。
でも、そうしてから再びあることに気付く。
獣は、人間の数万倍といわれる嗅覚、聴覚を持つ。
そんな彼らならば、大声など出さなくても、足音、そして匂いで、自分という獲物がここにいることなど容易に分かってしまうのではないか?



――――そう考えると、自分の周囲に満ちる音全てが、敵のように思えてきた。



「どどどどど、どうしよう……」


阿礼はがたがたと体を震わせて、その場にうずくまる。
少しでも動けば、襲われる。
そう考えてしまうほど、阿礼は怯えてしまっていた。



そんな彼女の目の前を、ひょこっと白い何かが横切った。


「ひゃっ!!」


目にも留まらぬ速さで飛び上がり、それから距離を取る。
しかし、それは妖獣などとは似ても似つかぬ可愛らしい姿をしていた。


「う……兎?」


美しい白い毛を持った、長い耳を持った四足の獣がそこにいた。
兎は阿礼の姿にも、突然の行動にもまるで怯えもせず、ただ無機質な瞳でこちらを見つめている。
何だか馬鹿にされたみたいで、阿礼は少しムッとした。
そんな阿礼の心を知ってか知らずか、兎は再び飛び跳ねながら動き始めた。
そして、少し阿礼から距離を取ると、まるで着いて来いと言わんばかりに止まって彼女のほうを振り向いた。


「道案内……してくれるんですか?」


兎の言葉などまるっきり分からない阿礼ではあったが、他に頼るものが無いこの状況では例え意味が無くとも、何もしないよりはマシと思い、兎の後をはぐれないように追い始めた。



兎の赴くまま、阿礼は竹林の中を歩き続けた。
結構重い荷物を抱えているせいで、阿礼の額は汗でぐっしょりとなっていた。
当の兎はというと、まるで彼女のことなどお構いなしに、右に行ったり、左に行ったり、まるで統一性の感じられない動きで跳ね続けていた。
周りの風景は、全くといっていいほど変わらず、まるで同じ場所を延々と回り続けているだけなのではないかという錯覚を感じさせる。
そこで、阿礼は一つの可能性を想像した。


――――もしかして、この兎が妖獣?


自分が疲れてへとへとになるまで連れまわして、動けなくなった所で正体を現して食べるつもりなのではないか?
そう考えると、今までのものとは違う汗が噴出しそうになるが、もうここまで来てしまったら毒を喰らわばなんとやらだ。
阿礼は覚悟を決めて、兎に早く歩けと急かすかのように大股で歩き始めた。



――――この時の阿礼の想像は、ある意味当たっていたのだが、それはまた別の話である。



その後、時計の長針が二回りほど時間が経ち、阿礼の足が、限界に近くなった頃――
不意に、目の前に光が射した。
その方向を見ると、竹が途切れ、その向こうに田園の風景が見えた。


「で……出られた――――!!」


嬉しさのあまり大きな声で叫び、自分の恩人……もとい、恩獣である兎を探す。
しかし、その姿はいつの間にか消えていた。
心の中で兎に感謝と、疑ってしまったことを謝りながら、竹林の出口に向かって歩き出した。
一刻も早く、蓮子たちを探さなければならない。
そして、その前に休む場所を見つける必要があった。
田園が広がっているということは、近くに人里があるということ。
そこに行けば、よほどのことが無い限り休息できるはずだし、運がよければ仲間たちがいるかもしれない。
そう思うと、居ても立ってもいられず、小走りになって出口を出――――



――ようとした瞬間、傍らの茂みが大きく揺らされた。



風のせいなどではない。
明らかに、その奥に気配を感じる。
しかもそれは、人間と殆ど同じぐらいの大きさのものであることが分かる。
後一歩で竹林から抜け出せるというのに、阿礼の体は凍りついたかのように動くことが出来ないでいた。



そうしている間にも、音はどんどん大きくなってくる。
加えて、何だか血生臭いような匂いまでも漂ってきた。
阿礼の心臓が、まるで飛び出しそうなほど大きな音を立てる。
一瞬の間のことなのに、まるで無限の時間のように長く感じた。



そして、一際大きな音を立てて、何かが姿を現した。



「で……出たああああああああああああああっ!!!」


悲鳴をあげて、阿礼は飛び退る。
だが、荷物を抱えていたせいでバランスを崩して後ろに倒れてしまう。
運悪くその延長線上には、かなりの太さの竹があった。



――――頭からガン、と火花が散り、阿礼の意識は遠のいていった。



――――嗚呼、こんなかっこ悪いこと、日記なんかに書けやしない。



意識が途切れる寸前まで、阿礼はそんなどうでもいいことを考えていた。














粗末な着物を身に纏った一人の女が、倒れた阿礼を一人、見下ろしていた。
腰まで届こうかという長い髪はぼさぼさで、頭の後ろでいい加減に纏められていた。
しかし、身に纏う雰囲気にはどこか洗練されたものを感じさせる。


「――――何だこいつ?」


女は、目の前に倒れる不思議な格好をした少女を見ながら、呆れたように呟いた。
その手には、先ほど仕掛けた罠から取ってきた雉が一匹、絞められた首から血を滴らせている。
いつものように、罠をいくつか見回り、帰ってきてみたらこの少女が居て、勝手に騒いで勝手に転んで、勝手に気絶したのだ。


「おーい、大丈夫かー」


揺さぶってみるが、少女は完全に気を失ってしまっているのか、起き上がる様子は無かった。
女は少し困ったように、ばりばりと頭を掻き毟った。
仇を探して幾星霜――――数えるのも馬鹿らしいほど各地を放浪し続け、なるべく人とは接しないように生きてきた女にとって、こういうのはあまり慣れていなかった。


「さて、どうしたもんか……」


一番簡単なのは、このまま目の前の少女を置いて、このままねぐらに帰ることだ。
しかし、この後彼女が獣や妖怪の類に襲われて喰われてしまったりしたら、はっきり言って目覚めが悪い。
永遠を生きてきた女にとって、人の死など当たり前のものであるはずだったが、やはり目の前にそれが転がっていると放っておけない。


――――やはり自分は、変な所でお人よしだ。


女は改めて自分の性分を恨めしく思った。
しかし、この少女を介抱するとしても、自分はごく最近になって人里に住み着いたばかりだ。
まだ自分を怪しむ者がいることも事実だ。
やっとの思い出手に入れた、屋根のある生活を失うのは嫌だった。


「う――――ん」


暫く、女は難しい顔をして唸った。
そして、竹の影が少し動くほどの時間が経ってから意を決したように少女をおぶった。


「全く!! 今日は厄日だ!!」


そう毒づきながらも、女――藤原 妹紅の顔は何処か楽しそうだった。



――――退屈してた頃だし、丁度いい。



自分は、普通の生きとし生けるものから、置き去りにされる運命を背負った人間。
一人で生き続けなければならない体になったと知ったあの日から、自分は一人だけで生きてきた。
そうでなければいけないと信じて、生き続けてきた。



――――でも永遠の中で少しぐらい、



――――誰かとつるんだって、いいじゃないか。



妹紅はそんなことを考えてながら、自分の背で暢気な寝顔をしている少女を覗き込んだ。


















稗田の家の歴史を記した書物を保管する蔵の奥深くに、初代阿礼乙女・阿礼の日記がある。
その日の日付の日記には、ただ一言、こう記されていた。



『生涯の最高の出会い。



――――一つは、秘封倶楽部の皆との出会い。



――――そして二つ目は、妹紅さんとの出会い』



けれど、日記にはこう続けられている。



『――でも二つ目は、格好悪くて、あまり思い出したくない出会い』






そんなひっそりと残された出会いの歴史も、語り継がれる出会いの歴史も織り交ぜて、






――――昔語りは、まだまだ続く。










ニコニコ動画でフタエノキワミと初音ミクにはまっている、ドクでございますw


またしてもオリジナル要素が殆どを占めていますw
大分時間が空いてしまいましたが、自分は

キリのいい所まで書く→投稿する→キリのいい所まで(ry

といった感じで書いているので、どうしても時間がかかります。
なので、これからはページが切り替わるごとに一、二話みたいな感じで書いていこうと考えています。
「遅ぇ!!」というお叱りの言葉も聞こえてきそうなので先に言っておきます。


ごめんなさい(ぇ


さて冗談はさておき、続く巻之四では、この話ではお休みだった蓮子とメリーに焦点が移り、暗躍していた八雲 紫が姿を現します。
そして、一部の語り手たちは語りを終え、とうとう彼らの物語も動き始めます。

ご期待下さい。
ドク
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コメント



0.570簡易評価
6.90堰碎-鋼霧蒼削除
前の話を再び一通り読んだ暇者な私が居る。
前回では否定の感想ばかりだったみたいだ。反省しよう。それに、
『幻想郷』→『我々の居る世界』→『蓮子達の世界』でもちゃんと話が繋がることも分かったし。
『蓮子達の世界』⇒『幻想郷』にタイムスリップをしてしまえば東方の時代の流れも逆らわずにできます。別に蓮子が死んだのは今から未来とは設定されていませんからね。
そして今回の話、幾つか西行寺家と魂魄家の出会いの仮説が立てられていますが、この説(西行寺家は元々異世界の人)も面白いと思った。それから阿礼と妹紅の出会いも。まだ人里は出てきてないみたいだが・・・次回作期待してます!
7.無評価ドク削除
コメントありがとうございます。

前回、様々なコメントを頂いたにも関わらず、今回の投稿にはしばらく殆ど採点が付かなかった為、読んでくださった方々を失望させてしまったのではないか? 皆さんを失望させてしまうような作品を、このまま投稿してもいいのか?
などと様々な思いが胸を過ぎりましたが、今回コメントを頂き、例えこの作品を読んでくださる方、そして採点をしてくれる方がどんなに少なかろうと、必ず完結させ、ここに投稿しようという決意を改めて胸に抱くことが出来ました。
本当にありがとうございます。
8.80名前が無い程度の能力削除
おお、続きだ
コメントが少なくても気にしすぎて挫けちゃいけません。
まあ、続きも頑張って下さい
10.90蝦蟇口咬平削除
不覚だ・・・ゆ・・・桜子のやさしさに思わず泣きそうになった
続きが楽しみです
15.無評価名前が無い程度の能力削除
続き・・・続きがみたいww
17.100名前が無い程度の能力削除
もう投稿されないのでしょうか・・・。
3話まで読みましたが、続きが気になって夜も眠れません(大袈裟)
20.100名前が無い程度の能力削除
めっちゃくちゃ熱い!!
こんな話すごい好みです。
もう読んでるだけで妄想が進む進むw

…やっぱり続きが読みたいです。
21.80名前が無い程度の能力削除
ニコニコタグ:作者失踪シリーズ