Coolier - 新生・東方創想話

転生は誰が為に

2007/09/17 09:40:18
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               ■

 気がつくと、沈んだ緑に囲まれていた。草葉が作り出す雑多な色彩が、私の周囲で蠢(うごめ)いている。
 仄昏い闇に落ちた、森。周囲の風景は、見事に特徴と云うものを欠いている。私の求聞持(ぐもんじ)――ものを忘れない程度の能力を以ってしても、自分が居る場所がどこであるか、まったく特定することが出来なかった。
 私は、何故ここに居るのだろう。
 訝しい。しかし、考えても解らない。居るのだから居るのだ、としか云いようが無い。
 視界の端で、葉が揺れた。人の気配を感じて視線を移す。そこに居たのは、小さな女の子だった。知らない子だ。どこにでもあるような装束を着ている、どこにでも居るような女の子だった。
 彼女はにっこり笑って、私に呼びかけた。
 阿礼ちゃん、遊びましょう。
 この子は人違いをしている。私の名前は阿礼ではない。名前自体は思い出せないが。しかし不思議なことに、彼女はしっかりと私の方を向いて、そう云っている。
 阿礼ちゃん、遊びましょう。
 再び、その子は繰り返す。私が人違いだと諭しても、彼女はけたけたと笑うばかりだ。
 そうだ。阿礼(あれい)ちゃん、鬼ごっこしましょう。
 云うな否や、彼女はくるりと踵を返し、とてとてとて、と駆け出した。無邪気を絵に描いたような、軽やかな足取りだった。しかし、同時に、脳裏で何かが云った。
 アノ子ヲ、行カセテハ、イケナイ。
 自然と、待って、と言葉が零れた。しかし、女の子は私の方には目もくれず、ただ走っていく。子供の足であるはずなのに、何故か追いつけず、私は柔らかな緑の上を進みながら奥歯を噛んだ。
 視界に満ちた草木が、まるで自分を嘲笑っているような。
 阿礼ちゃん、こっちだよ。
 くすくす、と笑い声が谺(こだま)した。ぐるりと視界が廻るような感覚を覚えながら、私は必死で彼女の姿を探した。
 居た。
 その小さな後姿に慌てて近づくと、彼女はこちらを振り向いた。
 阿礼ちゃん、今度はこっちよ。
 ころころと楽しそうな声で云い、そして、彼女は再び駆け出した。
 アノ子ヲ、行カセテハ、イケナイ。
 嫌な予感がした。咄嗟に口を開く。
 だめ、食べられちゃうよ!
 当たり前のように、そう叫んだ。何故かは分からない。
 手を伸ばして彼女を引き止める。しかし、彼女は足を緩めることなく、目の前の昏がりに飛び込んだ。
 アノ子ガ、妖怪ニ。
 微塵の躊躇も無く、私は彼女に続いて地を蹴った。視界を黒で塗りつぶされる。それでも、足を緩めずに、私は彼女の後を追った。
 唐突に、ぶわり、と闇が晴れた。
 目の前に現れたのは、神社の境内だった。背後を振り返れば、朱塗りの鳥居が聳(そび)えている。脈絡が無かった。
 何をしているの、阿未(あみ)。
 唐突に声がした。私は阿未と云う名でもないが、頭上に向けた視線をゆるゆると戻す。
 目の前に、黒髪の女性が立っていた。袴の紅が、小袖の清らかな白によく映えている。この神社の巫女であることは、簡単に推察出来た。
 妖怪がうろついているのに、よくこんなところまで来られるわね、阿未。
 だから、私は阿未ではない。彼女にそう云おうとして、口を開く。しかし、紡ぎ出された言葉は私の意に逆らうものだった。
 ちょっと、訊きたいことがあるの。あの《神隠しの主犯》について、ね。
 神隠し……ああ、紫のこと? そんなの、そこらに居る妖怪に訊いて回ればいいじゃない。
 生憎、縁起の編纂が終わるまでは食べられるわけにいかないもの。
 ――一体、私は何を云っている? 
 奇妙だった。いつの間にか、自分が滞り無く会話を進める様子を、内側から眺めていたのだ。
 巫女との会話は続く。
 私が調べた限りでは、貴女が八雲紫に最も近い人間よ。
 ふうん、あいつはただ、気が向いたときに来る程度だけど?
 普通の人間だったら、見逃されるか食べられるか――博麗(はくれい)の巫女でもない限り、複数回遭遇するだけでも難しいわ。
 確かにね。
 ――今、私は博麗と云ったか。
 ならば、目の前に居る人物は博麗の巫女なのか。しかし、彼女は私が知る唯一のそれとは似ても似つかない。あれはどちらかと云うと、巫女崩れと云った方が正しい。
 何がどうなっているのか、まったく理解出来ない。現実離れにも程がある。いっそこのまま、最後まで見届けてしまおうか。
 当たり障りの無い会話が続く間、私は半ば投げやりにそう思ったが。
 凛、と鈴の音が響いた。それを認めるや否や、唐突に博麗の巫女の顔色が変わった。
 阿未、話はおしまいにしましょう。
 何か起きたの?
 神社の結界が破れた。艮(うしとら)よ。
 そう云って、彼女は鈴の音が鳴った方向に視線を遣った。その双眸は鋭利に細められ、剣呑な光を帯びている。その視線の先にあるものとは――。
 きり、と脳裏を痛みが走った。何かが私の頭の中を、無遠慮に踏み荒らしているようだ。
 視界が歪む。
 阿未、逃げて。
 第三十六季、長月ノ八、第三代博麗ノ巫女、職ニ殉ズ。
 雑音のように、誰が私の中で云う。
 身体が傾ぐ。思わず、石畳の上に膝をつく。捻れた視界の中で必死に巫女の姿を探す。悲壮な後姿がそこにあった。
 第五十一季、師走ノ十二、行方不明ノ稚児、骨トナリテ発見サル。
 だめ、死んじゃ、だめ。
 巫女の背中に向かって叫ぶ。彼女は応えない。艮の方角を見つめるだけ。
 凛、と再び鈴が鳴った。
 代二十七季、神無月ノ三十、懇意タル友人ノ樒(しきみ)、妖怪ニ喰ラワル。
 覚えの無い記憶の奔流が私の中を駆け巡る。
 しゃ、と巫女が大麻(おおぬさ)を振った。
 ずぶり、と私の身体が石畳に沈み始める。巫女の仕業だろうか。いや、違うはずだ。
 第八十一季卯月ノ十七、《神隠シノ主犯》八雲紫式神ヲ率ヰテ三人ノ人間ヲ攫フ。第十二季睦月ノ一、稗田阿一幻想郷縁起ノ執筆ニ着手ス。
 ずるり、と石畳に飲み込まれていく。どす黒い何かが巫女に近づいていくのが見える。
 そうだ、云い忘れてた。
 巫女が振り向かないまま云った。
 頭が割れる。痛い。巫女は構わずに続ける。
 こいつら片付けたら。
 第六十季神無月ノ五竹林ニ入リタル細工屋遼二行方不明トナル。第十三季葉月ノ三十幻想郷縁起一部紛失。第二十八季文月ノ二十九《四季ノフラワーマスター》風見幽香(カザミユウカ)ニ遭遇シ逃ゲ切ルモ話ヲ聴クコト能ハズ。
 記憶の断片に混じって、彼女の声が聞こえる。
 一緒に、せんべい食べながらお茶を飲みましょ。
 悲壮な決意を秘めた声。私はもう胸の辺りまで飲み込まれている。言葉が出ない。黒い群れが押し寄せてくる。鈴が鳴る。今度は乾(いぬい)の方角。
 身体が沈み切る。昏い闇の中でもがく。記憶が氾濫して私の中を暴れ狂う。このままでは頭が砕け第六十一季弥生ノ八妖怪ノ群レ山ニ向カヒ天狗ノ領域を侵ス第三十七季皐月ノ二十一騒霊三姉妹騒ギテ騒音ヲ齎ス第百一季文月ノ三呉服屋文楽天狗ニ襲ワレドモ生還ス第六十四季水無月ノ十《華胥(カシヨ)ノ亡霊》西行寺幽々子(サイギヤウジユユコ)大勢ノ人間ヲ死ニ誘フ第三十五季霜月ノ二十五幻想郷ニ住ム鬼全テ姿ヲ消ス第九十九季卯月ノ二十三

「――――ッ!」

 目が覚めた。
 薄くぼやけた視界には、見慣れた天井が広がっている。噎せ返るような藺草(いぐさ)の匂い、皮膚に浮かんだ汗の感触、緩やかに時を刻む時計の音――私はようやく、自分が布団の中で悪夢に苛まれていたのだ、と悟った。
 上体を起こし、枕の傍の盆を引き寄せた。その上に載ったデキャンタからグラスに水を移し、口に運ぶ。温い感触が身体を冷ます。
 ふう、と一息。頭痛の残滓を感じながら、私は、ことり、と盆にグラスを置いた。
 ここ最近、悪夢が酷い。それも、決まって同じ夢だ。気がつくと知らない場所に居て、知らない人物と対峙している。自分は《阿未》とか、《阿弥》などと呼ばれながら、その人物と知らない会話をしているのだ。
 解っている。それらは皆、転生する前の私の名だ。多分、あの夢は歴代の御阿礼の子(わたしたち)の記憶である可能性が高い。しかし、《阿求(わたし)》以外の記憶に関しては、一切が既に求聞持の能力でさえ及ばないところにあるはず。一体、何故このような夢を見るのか。
 そこまで思い至ったところで、私は考えるのをやめた。眠気で霞んだ頭では、満足出来る答えなど見つかるわけが無い。
 布団の温もりに多少の名残惜しさを感じながら、私は立ち上がって、部屋を出た。
 廊下は昏かった。その所為か、板張りの床の感触が宙に浮き上がるような、そんな気がした。きしり、と床が軋むたびに、足の裏から冷たさが背筋を昇る。
 まどろみと頭痛が覚めていくのを感じながら、台所へ向かう。
「おはようございます、阿求(あきゅう)さま。昨晩は遅くまで縁起を書かれていたようですが、お身体の加減はいかがですか」
「おはよう。調子は悪くないから、多分、大丈夫」
 台所では、もう女中が朝餉の支度をしているようだった。割烹着を慣れた風に着こなして、かまどや洗い場を忙しく往復している。
「今日の朝餉はなあに?」
「ほうれん草と卵の味噌汁と、岩魚(いわな)の塩焼きと、あと納豆を」
「岩魚? 誰かにもらったの?」
「ええ、化け猫の獲物を横取りしてきました」
 随分と恐れ多い話である。多分、彼女の云う化け猫とは八雲家に居る例のマスコットのことだろう。狐の祟りが心配だ。
 でも、岩魚は大好物だ。
 いつもの如く、女中に朝餉の量をもう少し抑えるように云って(聞き入れられた例は無いが)、洗い場で顔を洗う。やや生臭いが、井戸まで行くよりマシだ。
 タオルで顔を拭っていると、女中に声をかけられた。
「出来上がり次第、居間に運びますから」
 彼女の言葉に礼を云うと、私は昏い廊下を再び通り抜け、私室に戻った。寝巻きを脱ぎ、着慣れた小袖に袖を通し、袴を穿く。きゅ、と音を立てて帯を締めると、脳裏もすっきりと晴れ渡る。
 今日も一日、元気に生きましょう。
 布団はそのままにしておく。あの女中のことだ、片付ける前に昼寝をするだろうし。
 ――おや。
 ふと、何の気なしに座卓が目に留まった。その上には、書きかけの幻想郷縁起と――そして、小さな曇り鏡が置いてある。この私室と異界を繋ぐ、神聖な気を帯びたもの。
 そっと、覗き込む。向こうには、輪郭を失った影が居るだけだった。手を伸ばして淵を撫でると、硝子(ガラス)の感触が手に残る。
 不意に、昨日の彼女の言葉が蘇った。
 ――《楽園の最高裁判長》四季映姫(しきえいき)・ヤマザナドゥの名において……稗田阿求(ひえだのあきゅう)の転生請求を、棄却します。
 彼女の言は即ち――《御阿礼(みあれ)の子》の断絶を意味する。つまり、私に消えて無くなれと云っているに等しい。
 あの時に感じた動揺が、ありありと劣化することなく蘇った。
 ――私の役目をお忘れですか。私は次代に転生し、引き継いだ記憶を以て幻想郷を記述する、唯一の人間なのですよ。
 後でまた、彼女に謁見を請う必要がある。
 陰鬱に曇った鏡を忌々しく思いながら、私は部屋を出た。玄関へ足を向ける。朝餉を食べる気分は疾うに失せてしまった。
「これから出かけてきます」
「阿求さま、朝餉も召し上がらないで一体どちらへ?」
 せかせかと出てきた女中に、博麗神社へ向かう旨を伝える。すると、彼女は一旦奥へ消え、素麺の包みを片手に戻ってきた。
「あそこの巫女さま、多分飢えておられるでしょうから」
 確かに。
 私はありがたく包みを受け取ると、女中に見送られながら家を出た。

               ■

 数刻後。
 私は爽やかな初夏の薫りの中で、黙々と足を動かしていた。広大な鎮守の森を貫く石段は、今日も木漏れ日が織り成す影模様で飾られている。黒白が目に楽しいのは結構だが、その険しさが参拝者を拒んでいるのはやはり否めない。
 確か、あの巫女崩れも参拝者不足を嘆いていたか。当然の話だと思う。しかし――案外、仮に石段が短くなったとしても、現状は変わらなかったりするかも知れない。どうでもいい話だが。
 一旦立ち止まり、手の甲で汗を拭う。そうしてまた、歩き出す。石段を登り始めてから、何度も繰り返した所作である。

 ざ、ざ、ざ、

 草履の裏に硬い感触を感じながら、一歩々々、登る。鼻緒が食い込んで、足に鈍痛が滲む。胸も痛い。しかし、どうしても、私は博麗神社には訪れなければならない。少なくとも、あの閻魔嬢に謁見する前には。
 不意に、無彩色の目眩を覚える。風景や人間のようなものが過ぎったようだが、気にしない。いつものことである。
 視界の上方に、鮮やかな朱が映った。もう少しで、頂上に着く。
 三段、二段、一段。
 着いた。
「……ふう」
 携えた素麺の包みを置いて、私は膝に手をついた。石畳を見つめながらしばらく深呼吸して、暑さに喘ぐ身体を落ち着ける。
 よし。
 素麺の包みを手に取り、まずは拝殿へ。博麗神社に祀るべき神体は存在しないので、もはや巫女に餌を遣るような感覚である。
 ちんまりとした賽銭箱に向かって、小銭を投入。からころちゃりん、と私の三円玉(拾った)が箱の底に落ちていく。申し訳程度に軽く一礼して、踵を返す。
 博麗神社は拝殿と住居部分が直結している。私は普段通りに、そのまま縁側の方へ足を向けた。
「こんにちは、博麗霊夢」
「あら、阿求じゃない」
 やはり、居た。幻想郷唯一にして最強の巫女、博麗霊夢。巫女めいた装束に紅白のリボン、と云う出で立ちは相変わらずだ。
 しかし、今日はその他にもう一人。
「よう、稗田の引きこもり」
「こんにちは、白黒エセ魔法使い」
 普通の白黒、霧雨魔理沙。こちらも巫女と同様に、普通の白黒な格好をしている。傍らには薪――古びた箒。
 まったく、どいつもこいつも(ついでに私も)同じ服ばかり着て、お洒落をしようとは思わないのか。私は思わない。面倒だから。
 私の嘆きを他所に、白黒が自分の隣を叩く。
「早くこっち来いよ。今なら博麗神社提供の茶とせんべいがあるぜ」
「お金を払えば食べ放題よ」
「……いつも思っているんだが、お前はケチくさいぜ」
「茶店に比べれば安いものよ? 博麗神社はいつでも明朗会計な良心価格」
「私は払わないぜ?」
「じゃあ食わせない」
「冗談だツケにしてくれ」
「やっぱり食わせない」
 どうやら、二人で仲良く世間話(或いは口喧嘩?)に興じていたようである。
 ああ、暑い暑い。
 早いところ荷物を処分したかったので、素麺の包みを博麗霊夢に渡す。しかし、今回はわりと食べ物に不自由していないのか、反応は少し薄かった。心中で密かに憤慨しつつ、彼女の隣に腰かけてせんべいを一枚失敬。
「にしても、お前が出てくるなんて珍しいじゃないか、阿求」
「そう? 私は結構外に出ているつもりなのだけど」
「それにしては、あんたを見かけなくなって久しいわ」
「私は普通の人間だから、こんな辺鄙な所にはそうそう来れないわ」
「失礼なやつだな。私たちだって普通の人間だぜ?」
「《異常な》人間。もしくは、普通の紅白と白黒」
 そこまで云って、ぺりぺりとせんべい(しけっていた)をかじる。横からは、二人の憮然とした声が聞こえた気がした。もちろん気の所為だろう。我ながら、便利な耳を持って生まれてきたと思う。
 ――おっと、乗せられちゃった。
 そうだ、今日はこんな与太話をしに来たのではなかった。
「ねえ、博麗霊夢」
「なあに?」
 暢気に茶を啜っていた巫女が、くるりと振り返る。いつものように、透き徹るような――表も裏も無い黒瞳だ。
 つい、躊躇してしまう。
 私は何度か息を吸って、吐いて――そして、ようやく話を切り出した。
「この前、過去の幻想郷縁起に目を通してみたのだけれど……今の幻想郷ってずいぶん平和になったのね。もちろん、私が直接、昔を見知っているわけではないけれど……でも、人間が妖怪に喰らわれることも、逆に、妖怪が人間に退治されることも少なくなった……」
 そこで、お茶を飲んで一呼吸。
「……それどころか、命を失わずにスリルを味わうことさえ出来る……貴女が作り出した、弾幕ごっこ(スペルカードルール)のおかげで」
「そうねそう云うことになるわね。さすが私。それで?」
 この巫女に、謙遜と云う言葉は無いらしい。
 目を丸くして疑問符を浮かべている白黒は置き去りにすることにして、私は言葉を重ねる。
「それで、今日は貴女に訊きたいことがあるの。まあ、云っても無駄だと思うけど、なるべく深刻に答えてもらいたいのだけど」
「はいはい、わかりました」
 腑抜けた声で、そう応える。ひらひらと手を振るその仕草が、妙に腹立たしい。
 ひょっとして、私の真意を見透かしているのか――だとしたら、私は単なる道化でしかない。
 まあいい。
 私は、ふう、と息を吐いて――視線を落とし、ゆっくりと、噛んで含めるように、云った。

「では、私は貴女に聞きます。幻想郷を護り続けてきた稗田家、その当主として。そして、九代目《御阿礼の子》として」

 いったん言葉を切り、静寂を感じる。僅かに速くなった鼓動を聞きながら、私はついに本題を口にした。
 御阿礼の子(わたしたち)は、これからも必要な存在たり得るのか。
「妖怪が跋扈する幻想郷で安全に生きる方法……幻想郷縁起が執筆される目的は、本来は人々にそれを教えるため。けれど、今の幻想郷は……もはや過去の姿とは似ても似つかない」
 一旦、巫女の方を窺う。微動だにせず、湯飲みの中身を見つめていた。
 私は言葉を続ける。
「私は確かに、先日、幻想郷縁起を執筆した。でも、果たしてそれは、意味のある行為だったのかしら……いいえ、こう聞き直した方が精確かしら」
 幻想郷縁起は、幻想郷にとって必要なものなのか。そして、これからも執筆されるべきなのか。
 伏していた視線を戻して、私は博麗霊夢をひたと見据える。恐らく、私の意図は彼女に通じているはずだ。いや、通じていないとは云わせない。
 紅白はその黒瞳を動かさないまま、ず、と湯飲みを傾ける。ほう、と嘆息し、そして、沈黙する。その表情からは、彼女が何を思っているのか、全く汲み取ることが出来ない。
 静謐が夏を流れて、時が停まる。何も起こらない、膠着状態。早く答えが欲しい、しかし、出来るだけ遅い方がいい――相反する望みが胸中で混じり合い、それはどうしようも無い苛立ちとなって私を急かす。
 一方、博麗霊夢は何も云わない。思考すら放棄したような瞳で、じっと、虚空を凝視している。
 やがて、私が彼女を急かそうと口を開きかけた時――。

「私は好きだが」

 唐突に、白黒の声がした。私が視線を向けると、その黒い双眸を躍らせて云う。
「あんな面白い読み物、そう簡単になくなられちゃ困るな。……ぬるい世の中だからこそ、暇つぶしは必要だぜ」
「……貴女には、弾幕ごっこがあるでしょ?」
「わかってないな。弾幕ごっこに疲れたときにこそ、静かな娯楽が欲しくなるんだ。それに……模擬的だろうが、娯楽的だろうが……敵の情報を知ることは戦いの基本だぜ」
 多分、パチュリーもアリスも、同じことを云うと思うぜ?
 最後にそう締めくくって、にかっと笑う。その笑顔には、全くと云っていい程、影が無かった。向日葵のように、華やかで屈託がない。
「まあ、聞かれてないがな」
 せんべいをかじり、魔理沙はけらけらと笑った。
 ――そうか。

 私はまだ、必要とされているのか。

「……お邪魔しました」
「あら、もう帰るの? 私まだ答えてないのに」
「お前にとっちゃ、幻想郷縁起なんてあってもなくても変わらないだろう」
「そんなことなくもないと思わなくもなくなくないわよ」
「どっちだ」
「お好きなように」
「ふん、わけがわからないぜ」
 お決まりの口げんか。――私の這入る隙間は無い。少し妬ましいが、ちょうどいい。
 後ろ髪を少々名残惜しげに断ち切って、私は縁側を後にした。
 ――これでいいのだろうか。
 心の中に沈んだ、焼けつくような疑問。
 来た時と同じように、拝殿へ挨拶をし、そのまま鳥居をくぐろうと踵を返したところで。
 足が――竦んだ。

「こんにちは、阿礼の子」

 裂け目の淵に凭れかかりながら、彼女は口角をつり上げる。これ以上ない程に妖しく、そして、怪しい笑みだった。
 ――八雲紫。
 境界を操る大妖怪にして、幻想郷に存在する中で最も強大かつ危険な不確定要素。
 非礼を返せば、命は無い。
「……御機嫌よう、八雲紫殿」
「あら、ずいぶんと他人行儀ねえ。長い付き合いじゃない。《ゆかりん》とでも呼んでくれても構わないのよ?」
「いいえ、稗田阿求(わたし)は貴女と三度目の対面です」
「ああ、そうねそうだったわね」
 八雲紫は何が可笑しいのか、満面の笑みを浮かべた。――気色悪い笑顔だ。
「で、今日は一体、どのようなご用件で? 私は忙しいので、手早くお願いします」
「あらあら怖い怖い。人間も時々はのんびり生きなきゃ」
「生憎、時間を持て余せる身分ではないので」
「ふうん……まあ、貴女は特にそうよねえ」
 ねっとりと舐めまわすような紫(むらさき)の双眸。脳裏が、ずきん、と痛んだ。
 彼女は微かに笑い、そして詠うように、言葉を紡ぎ始めた。
「貴女……さっき、面白いことを云っていたわねえ。稗田の一族は、果たして幻想郷に必要なのか。人の子がよくする話題ねえ、自分の必要性と云うのは。外では確か、存在理由(レーゾンデートル)と云ったかしら」
 ゆらり、と両の瞳を細める八雲紫。その蜘蛛の糸のような眼力に、つい魅入らされてしまう。
 いつの間にか、蝉の声が聞こえなくなっていた。
「いいことを教えてあげるわ、阿礼の子。と云っても、貴方はわりと賢明な方だから、もう気づいているかもしれないけど」
 何のことだ。
 瞳で問うと、八雲紫は、にいい、と笑みを濃くする。
「貴女が問いを発した時、博麗霊夢は何と云ったかしら」
 そんなこと、私にとっては愚問だ。何故なら、私は全てを違うことなく記憶することが出来るから――。
 ――え?
 一瞬、思考が止まった。そして、その空白の中に八雲紫の声が、痛みを伴って染み入ってくる。
「そう、あの時、博麗霊夢は……何も、云わなかった。と云うよりも、はぐらかしたのよねえ。……何故だか、解るかしら」
 まさか。
 私の心を見透かしたのか、八雲紫は愉悦に満ちた表情を浮かべる。
「そう……あの子は敢えて貴女の問いに答えなかった。何故なら、あの子は貴女の真意に気づいていたから。貴女の問いが、幻想郷のシステム、《博麗神社の巫女》としての博麗霊夢に対するものだと、気づいていたから。では、その《博麗神社の巫女》が何故、口をつぐまなければならなかったのか……」
 歌うように紡がれる言葉。
「……もう、結構です」
 云われなくても、その先は既に解ってしまった。――代々受け継い出来た阿礼の聡明さが、彼女の云わんとすることを引きずり出してしまったのだ。
 視界にノイズが。知らない少女の姿。
 意図せずに、彼女から視線を外す。すると、ますます悦に入った声が響いてくる。あたかも、催眠術のように。
「貴女の問いに答えること、それは《博麗の巫女》としての公式見解を貴女に示すことと等号で結ばれる。たとえ、それがどれだけ残酷なものであってもね。もっとも、あの子は歴代の巫女にしては優しい方だから、あの時に限って口を閉ざしたみたいだけど。でも、その内容は……もう、解は見えてきたわ
 貴女は幻想郷のシステムにとって、居ても居なくても同じ存在なのよ。存在を許されないわけでも、存在を必要とされるわけでも無い。貴女の存在は徹頭徹尾、幻想郷と云うシステムに一切の恩恵も不具合も、混沌の介入する余地さえも与えない。
 確かに、阿礼の子はかつて、幻想郷にとって必要だった。幻想郷縁起は幻想郷と云う箱庭の中で、人間の個体数維持と云う重要なファクターに関わり続けた……でもねえ、それって、もう昔の話……人間はもう、個体数減少の危機とは無縁になってしまった。従って、阿礼の子が長年に渡って果たしてきた役割も、もう、お仕舞い……阿礼の子としての貴女は、もう幻想郷にとって必要無い」
 証明終了。
 最後にそう付け加えて、八雲紫は満足げに言葉を切った。しかし、私はどうしても――。
「……違います」
「あら……何が違うと云うのかしら、阿礼の子。貴女さっき、自分でそのことを疑っていたじゃないの」
 見ていたと云うのか。
「……そう云えば、貴女、閻魔嬢にお願いしたんですってねえ。転生をさせてくださいって。そして……見事に却下されてしまった。……まあ、当然と云えば当然だけど」
「……何が当然だと云うのですか、八雲紫」
 私の反駁に、八雲紫は指を振りながら、冷然と先を続ける。
「だって、貴女には……転生の理由が無いじゃない」
「違います、私には幻想郷縁起の執筆が」
「くどいわよ、阿礼の子」
 私の言をぴしゃりと遮り、八雲紫はその紫の双眸を細めた。その切っ先のような眼差しが、私の意識を切り刻む。
 弱みを見せるわけには、いかない。
 彼女の視線を睨みつけるようにして受け止めると、八雲紫はさも愉快そうに笑う。――蟲を見下すような、笑み。
「幻想郷縁起に、もはやかつてのような意味は無い……だから、貴女が転生を願ったところで、あの堅物にそれが通るはずも無い……それは、既に私が定理として証明したことよ?」
 違う。断じて、認めるわけにはいかない。
 ――たとえ転生を繰り返そうとも、病弱な身体に翻弄されようとも、私は、私は……。
 決然と、八雲紫を睨みつける。しかし、彼女は嘲笑(わら)ってそれを受け流す。
「まったく……人の子って、どうしてこうも話が通じないのかしらねえ。いいわ、どうせ貴女が何をしようと何を云おうと何を思おうと、あの堅物の意思は変わらない。でも、最後にこれだけは云わせてもらおうかしら」
 そこで、八雲紫は言葉を切った。私が視線でその先を問うと――にわかに彼女の顔から、笑みが、消えた。
「そう、貴女は……」
 刹那、周囲から音さえも消え失せた。

 ――貴女は勘違いをしています、稗田阿求。

 八雲紫の声が、別の声と重なった。そしてそれは強烈な閃きを伴って、脳裏に明確なヴィジョンを結ぶ。
 四季映姫・ヤマザナドゥ。
 きいん、と見えない針が突き刺さった。
「……ッ!」
「では、ごきげんよう……九番目の阿礼の子」
 痛烈な置き土産を残し、八雲紫は隙間の中へ消えていった。
「…………」
 どう云うことだ? 私が――御阿礼の子(わたしたち)が長年執筆してきた幻想郷縁起が、もはや必要が無い? いや、そんなことは無い。
「……八雲、紫」
 あの妖怪は一体、何を考えているのだろうか。と云うよりも、彼女は何を基準に行動しているのだろうか。思い返してみる限り、単に、場を騒がせる道化師にしか思えない。ふらりと現れ、或る時は意味深な忠告を残し、また或る時は人間を、妖怪すらをも嘲笑い、気紛れに去っていく。
 ――まあ、いいか。
 どれだけ星霜を重ねたとしても、相手は妖怪、つまりは異種族。解り合おうとする、その行為自体が無意味である。
 愚かな開き直り。耳を塞ぐと云う卑怯。
「……さてと」
 こうしてはいられない。これから、彼女に会わなければいけない。幻想郷で、歴史を扱うもう一人の人間――いや、半獣に。
 私は最後に、八雲紫が消えていった虚空の向こうを見つめ、そして、鳥居をくぐろうと――。

 視界が、ぐにゃり、と歪んだ。

 目の前に白い火花が散る。痛覚が炎となって身体の中を這い回る。神経が軋んで悲鳴を上げる。
 頭が万力に挟まれたようだ。本能的に頭を抱える。

 ――こ、え、が。

 声が出ない。うめくことさえ許されない。
 ぐらりと身体が傾ぐ。受身も取れずに石畳の上に崩れ落ちる。身体が云うことを聞かない。ただ石畳の上をのた打ち回る。着物が汚れる髪が乱れる。

 ――だ、れ、か、た、す、け。

 視界が狭くなり始める。世界が輪郭を失う。最後に色彩も失って。
 私は闇の底に堕ちていった。

               ■

 ふわ、と紅の香りがする。気品があり、けれどどこか妖しい香り。それは泥のような漆黒から、私を徐々に掬い上げていく。
 微かな痛みの残滓を感じながら、私はそっと目を開いた。林で閉ざされた空間に、紅い彼岸花が鮮やかだった。

「よう、覚めたかい」

 傍らから、声がした。
 ゆるりと視線を移すと、ゆったりと胡座を掻いたまま、からからと笑った。
「ずいぶんと苦しんでいたねぇ、まだ若いのに……いや、もう年寄りなんだから、かねぇ」
 赤銅のツイン・テイル、無造作に置かれた大鎌――そして、斜に構えた和服姿。
《サボタージュの泰斗》――もとい、小野塚小町。
「気分はどうだい?」
 まだ、ぼんやりとしている。
 口を開いてそう云おうとしたが、しかし――。
 ――声が出ない。
 慌てて口に手を遣る。しかし、口元に触れた感触も、触れられた感触も無い。四苦八苦していると、小野塚小町は思い出したように、苦い笑みを浮かべた。
「そうか、人魂だから話せないんだった。すまないねぇ」
 頭を掻きながら、照れ笑う。
 頭が一息に、ぴん、と冴えたような気がした。
 ――なるほど、私は人のカタチをしていないのか。いや、もしかすると……。
 私は死んだのか。
 いや、それは困る。まだ私は死ぬわけにはいかない。私はまだ転生を許されていないばかりか、当代の阿礼乙女の役目すら全うしていないのに――。
 焦燥で胸が騒ぎかける。しかし、身体を包む浮遊感に、私の心は
徐々に落ち着きを取り戻していく。
 和装の死神は手にした煙管(きせる)を、ぷか、と吹かした。
「三途を渡りたいんなら、ちょいと待っておくれ。一服するのに忙しくてね」
 死神に休日も休憩もあったものか。大体、あの堅物の上司に叱られはしないのか。――しかし、毒づく口も睨みつける双眸も無い。ああ、もどかしい。
 私の葛藤を知ってか知らずか、小野塚小町は一方的に話し続ける。
「しかしまあ、今日は客が少ないこと。何せ、あんた以外、今日は誰もあたいのところに来ない。おかげで愛しのタイタニックは閑古鳥」
 右手の煙管でもう一方の掌を打ちながら、死神は愚痴を零し続ける。
「あーあ、せっかく真面目に働こうと思ったら、すぐコレだ。ったく、馬鹿々々しいったらありゃしない。と云うわけで、今日は自主休業中なんだよ」
 確か、客が多い時でもサボタージュをしていたような気がする、この死神は。最も卑近な例が、あの花の異変の時だ。
 ぷかぷかと煙を味わう小野塚小町を尻目に、私は胸中で嘆息すると、彼女はさも愉快そうに笑う。
「おや、暗いねぇ暗いねぇ。死神を目の前にしたんじゃ仕方ないかも知れないが……ふむ、それとはちょいと違う」
 こざっぱりした口調で云うと、彼女は胡座を九十度回転させ、私に向き直った。
 赤銅の瞳が、じいっと私を覗き込む。まるで、心の底の、更なる底を覗くような眼差し。
「……なるほど、面白いねぇ」
 何が面白いのか。
 そう問う前に、しかし、彼女はその双眸を、すうっと細めた。
「見たところ、あんたの底には随分と澱(おり)が溜まっているようだ。それも、どろりとした、濃いヤツだねぇ。名をつけるんなら……そうだねぇ……」
 彼女は言葉を切り、ゆっくりと煙を味わい始める。私があの犬メイドの爪の垢でも煎じて飲ませてくれようかと考え始めた頃、ようやく、紫の煙を吐き出して、云った。
「……記憶だね。それも、人間一人には収まらない程の」
 何を云っているのか。
 愛想を尽かして立ち去ろうと思ったが、しかし、身体が無いことには始まらない。
 そもそも、魂だけが一人歩きしている今、私の身体はどこに?
 仕方なく、小野塚小町に視線を送る。すると、彼女は悠然と煙管の先を見つめながら、云うのだった。
「あんたの中には、膨大な量の記憶が澱んでる。中身までは判らないが、人一人……それも、あんたみたいな若人には、到底宿せるもんじゃない量だ。
 魂ってのは容量が決まっていてね、中身がそれを超えると溢れ出すんだよ。まぁ、水と茶碗の喩えを出すまでも無いさね」
 もっともらしいが、しかし、私は仮にも阿礼乙女の一人だ。求聞持と云う力を持つ以上、私に思い出せない記憶など存在しないはずだ。
 彼女はそんな私を様子を見て取ったのか、煙から視線を移して、私をひたと見据えた。
「今はまだ、その記憶はあんたの底に沈んでる……いや、意識の底に、かねぇ。だから、あんたは気づかない。けれど……もうそろそろ、そいつらは水面目指して昇ってくるはずさ。と云うより、その分だともう、兆候は出てるんじゃないか?」
 彼女は私に向かい、詩を諳んずるように例を挙げた。

 例えば、不意の頭痛に襲われる。
 例えば、頻繁に既視感を覚える。
 例えば、別人になった夢を見る。
 例えば、断片的な映像が見える。

「他にもあるけど、ぱっと出るのはこんくらいか。一つ二つだけなら気の所為。三つなら要注意。で、四つ以上なら……」
 先を続けることなく、彼女は煙を吸い、ゆっくりと味わってから吐き出した。輪が二つ、宙に浮かんで、ふわりと散じて消えた。
 私は沈黙して、彼女の言葉、四つの《例えば》を咀嚼する。
 ――当てはまるのは、三つ。

 要注意と云う文字が、脳裏で踊る。
「まあ、だからと云って、あたいに何が出来るってわけもないけどねぇ。あたいは死神、仕事は三途の渡し守、それだけのことさ」
 死神が煙管をひょいひょいと振ると、燻る煙が宙に文様を描く。その混沌が潜む曲線を見つめながら、私はじっと、思考を巡らせる。私の底に眠る記憶、夜な夜な現れる夢、頭が割れる程の頭痛――。
「おっと、もうそろそろ映姫様が来る頃だ」
 言葉とは裏腹な軽い口調が、私の思考を中断した。見れば、小野塚小町が煙管の中身を地面に落として(きちんと踏み消していた。まあ、咎める程でもあるまい)、婆くさい掛け声と共に立ち上がったところだった。
 すらりとした長身に、思わず圧倒される。
「あの人が来ないうちに、さっさとタイタニックを出すことにするよ。この前ついに裁判にかけられちまってさ、危うく再起不能になるところだった」
 ぶつぶつと愚痴を零す死神――しかし、私は彼女の言葉をまるで聞いていなかった。
 ――彼岸へ、連れて行かれてしまう。

 私は本当に――。
 嫌だ。
 まだ死ぬわけには――違う。
 まだ死にたくない――違う。

 まだ――幻想郷と別れたくない。

 心に閉じ込められていた想いが、堰を切って流れ出す。涙を流す双眸も無く、慟哭する口も無い。それでも、溢れるそれは止まらずに、魂(わたし)を内側から圧迫する。
 懇願しようと、小野塚小町を見る。私の意図するところが伝わったのだろうか、彼女は打って変わって、冷然と笑む。
「悪いね。あたいはサボタージュが大好きだけど……やるときゃやるんだ。死を迎えた人間を……彼岸へ送り届けるのがあたいの仕事」
 不自然に湾曲した大鎌を構え、冷然と笑う。
 ――そんな。
 駄目だ。まだ駄目だ。逝くべき時を拒むつもりはない、せめて――今だけは。
 と、その時だった。
「……なんてね」
 不意に表情を緩ませて、赤銅の死神が飄々と云った。
「残念ながらかどうかは知らないが……あんたはまだ、死んじゃいない。だから、あたいの船には乗れないねぇ」
 今、何と云った。
 安堵より先に疑問が浮かぶ。しかし、彼女は気に留めることなく先を続ける。
「あんたを連れて行っちゃ、あたいがまた閻魔様に叱られちまう……悪いが、帰ってくれ」
 説明は無い。無造作に煙管を仕舞い、彼女は大鎌で、びゅう、と空を斬った。
「無縁塚からあんたの家まで、距離を零にしよう」
 お代は要らないよ。船に乗らないんだからね。
 再び、大鎌を、びゅう、と鳴らす。その瞬間、周囲の風景が歪曲する。
 私の記憶が脳裏で囁く――小野塚小町、『距離を操る程度の能力を持つ死神』。
「ああ、それと、これは云うなって、ウチの上司に云われてたんだけどさ」
 輪郭を失いつつある周囲を背景に、彼女は私の目の前で、にや、と右の口角を吊り上げる。

「あんたを連れてくのは、だいぶ先になりそうだってさ……稗田の九代目」

 私の素性を、知っていたと云うのか。
 最後の最後まで翻弄されっぱなしだった私に、彼女は悪戯っぽく片目を瞑った。

 びゅう、

 死神の大鎌が三度振り下ろされて、私の視界は暗転した。

               ■

 右耳の近くで、幽かに、透明な不協和音が聞こえる。水音だろうか。無数の雫が落ちるような音がして、それから二秒も経たずに、額を冷たい感触が覆った。気持ちよかった。
 沈んでいた意識が、徐々に覚醒していく。
 後頭部に柔らかな感触があり、重力は私の背に向かって働いている。どうやら、私は布団に寝かされているらしかった。
 意識を失う前の頭痛を警戒して、ゆっくりと、瞼を開く。
「お目覚めですか、阿求さま」
 傍らから、女中の声。
「八雲紫さまからの使いで、あの狐さんがあなたを運んできましたよ。なんでも、博麗神社の鳥居で、あなたを見つけたそうで」
 淡々とした女中の言葉に、私は、そう、と短く相槌を打った。
 狐と云うことは、式神の八雲藍か。わざわざ使いを遣らせるなんて――八雲紫と云う妖怪は、やはり理解の範疇を超えている。
 身体を布団に預けて、深く嘆息する。まるで、身体が泥に沈むようだった。
 沈黙を紛らわそうと、話を振る。
「あなた、この家に仕えて何年になるのだっけ」
「そうですね……よく覚えていませんが、阿未さまの頃からだと思います」
「皆(わたしたち)は、どんな人間だった?」
「様々でしたよ。誰も彼も、阿求さまも例に洩れず、本当に様々です」
 ただ、一様にお身体を患うことが多かったですが。
 数瞬の空白の後に、彼女は表情を曇らせてつけ加えた。
 私は天井を眺めながら、ほう、と嘆息した。 
「妖怪なのに、よくそんなに長く仕えられるのね。阿未の時代って云ったら、もう八百年以上も前でしょう?」
「妖怪だからこそ、ですよ」
 そう云って、彼女はおっとりとした笑顔を浮かべる。それを見ながら、私は不意に、問いを一つ投げかけた。
「ねえ」
「なんですか?」
「あなたは……幻想郷が好き?」
 彼女は、私の脈絡の無さに多少戸惑ったようだったが――数瞬後、何の躊躇いも無くこう答えた。
「ええ、好きですとも。私は幻想郷に生まれて、よかったと思います」
「そう」
 再び短く相槌を打ち、そのまま私は沈黙する。疲れたのだ。
 開け放たれた縁側から、さやさやと風が流れ込む。微かな陽の匂いと、藺草の香りが爽やかだった。
「ねえ」
「何ですか、阿求さま」
 相変わらず傍らに控えている女中に――私は、吐息混じりの声音で、云った。
「転生、やめようと思うの」
「……どうしてですか」
「もう、稗田の役割は終わったわ。私はただの人間になって、幻想郷で生きて、幻想郷と別れようと思う」
 多分、私は勘違いをしていたのだ。

 転生は我が為に。

 幻想郷縁起の執筆は、単なる大義名分でしかなかった。本当は――私は自分の願い、幻想郷といつまでも一緒に居たいと云うことだけのために、転生を望んでいたのだ。四季映姫・ヤマザナドゥはそれを、あの慧眼で即座に看破したのだろう。
 後でまた、彼女に謁見を請う必要がある。
 肺が軋む。咳が一つ、零れ落ちた。少し長く話し過ぎたのだろうか。更に二つ三つ咳を零すと、女中が額の手拭いを換えてくれた。
「そう云えば、狐さんですが、あなたと一緒にお土産も持ってきてくれましたよ」
「お土産?」
「ええ、何でも、白桃を糖蜜に浸けたもので、風邪の時に食べるといいそうで。珍妙な入れ物に入ってて、ご丁寧にそれを開ける道具まで持ってきてくれました」
 狐さん、ちょっぴり愚痴を零してましたよ。橙(ちぇん)が食べたがっていたのにって。
 ころころと笑いながら、彼女は楽しそうに云う。僅かに視線をずらしてみると、なるほど、その傍らには藤色の風呂敷包みが置いてあった。
「後で、二人で食べましょう」
「いいんですか?」
「その方が美味しいわ、きっと」
 徐々に、微睡みが脳裏に忍び入ってくる。瞼が重い。
 お休みなさい。
 私は最後に大きな欠伸を零すと、柔らかな布団に身体を預けた。

               ■

 静謐に沈んだ、無味無臭の小法廷。贅を尽くし意匠を凝らしたものではなく、非常に簡素な造りである。被告人席と――そして、それを見下ろす裁判長席。そこには、一見すると不釣り合いな少女の姿が在った。
《楽園の最高裁判長》、四季映姫・ヤマザナドゥ。
 愛らしく整った顔を色濃い疲労に曇らせ、革張りの椅子に沈むようにして凭れ掛かっている。広大な執務机の上には、膨大な量の書類がきちんと角を合わせて積まれていた。
「……疲れました。疲れ疲れました」
 少女の声色で紡がれながらも、その言には円熟した雰囲気が漂っている。
 こきりくきりと肩を鳴らし、ほう、と溜息。
「幾ら閻魔だからと云って、疲労を知らないわけではないのですが……備品として栄養剤でも置いて欲しいところです」
「あらあら、珍しい。仕事の権化みたいな貴女が、そんなことを仰るなんて」
 白金(プラチナ)の鈴を振るような声が、豊かな響きを伴って背後から降る。しかし四季映姫・ヤマザナドゥは驚きもせずに、極々淡々とそれに応じた。
「ここに這入る時はノックをするように、八雲紫。尤も、被告人として扱われたいなら、それには及びませんが」
「あら、怖い怖い」
 紫が空間の切れ目に凭れ掛かりながら薄い笑みを浮かべると、
その気配を感じ取ったのか、映姫はうんざりしたように額に手を遣った。
「毎度のように云っていますが、貴女は少し、道化を気取り過ぎる。不確定要素とは、常に周囲に迷惑を及ぼすもの。何事にも真摯に取り組み、周囲を思い遣って行動することが、貴女にとって最も必要な善行だとあれ程」
「残念だけど、今日は貴女のありがたいお説教を拝聴するために来たんじゃないわ」
 淀み無く唱えられる映姫の言葉を、紫は何の躊躇いも無く遮った。そして、彼女の反論を許す間も無く言葉を継ぐ。
「貴女、稗田阿求の転生請求を棄却したらしいわね」
 りん、と映姫の瞳が残響に揺れる。しかし、しばらくの間瞑目した後、彼女はゆっくりと瞳を開き、事務的な口調で紫に告げた。
「守秘義務に基づき、貴女の情報開示請求を却下します」
「いいじゃない、どうせ、私はもう知ってるんだから……そう、あの子は勘違いしていたのよね。自分が転生を望む、本当の理由を」
 確信的な口調。それでも律儀に沈黙を守る映姫に、彼女は、やれやれ、と言葉を零す。
「……前から思っていたんだけれど、貴女って典型的な優等生ね。何て云うか、委員長タイプ?」
「失敬な」
 私を茶化すだけなら、廷吏を呼んでもいいのですよ。
 僅かに語気を荒げる映姫に、紫はくすくすと笑った。嘲笑ではない。単に、可笑しくて可笑しくて堪らないと云うような、一匙(ひとさじ)の狂気すら含んだ笑みだった。
「向きにならないでくださいな、閻魔嬢……私がここに来たのは、貴女をからかうためじゃないの。ただ、聞きたいことがあるだけ」
 彼女はそう云うと――その紫水晶(アメシスト)にも似た双眸を、すうっと細めた。
「貴女が稗田阿求の転生請求を棄却した理由……それだけではないわよね? 四季映姫・ヤマザナドゥ」
 疑問ではなく。
 断言である。
「貴女の言葉……確かに、筋が通っていないわけではないわ。ううん、むしろ、筋が通りすぎているくらい」
 さすがは閻魔様だわ。
 揶揄を込めた口調でつけ加える。しかし、紫の双眸が笑うことは無い。
「……けれどねえ、閻魔嬢。もし、稗田阿求の転生を却下した理由がそれだけだったのなら、何故、貴女はあの子にお説教をしてあげないの? 普段は有休を費やしてまで皆に説教をして廻る貴女が、何故、あの子にはそうしないの?」
「……時には、自分で悟ることも必要です」
「詭弁だわ」
 一欠片の躊躇も無く、紫は詠うように斬り捨てた。
 ふわ、と微かな風。
 次の瞬間には、既に眼前には紫の姿が在った。
「貴女、本当は稗田阿求を転生させてはいけないって、思ったんじゃない? 私には、何だかとても切迫した理由があるように思われるのだけど」
 如何かしら、閻魔嬢。
 隙間の縁にゆったりと凭れ掛かりながら、しかし、日本刀のような剣呑さを湛えた紫の双眸。一方、それを見返す映姫の瞳もまた、険しいことには変わりない。
 二人の視線が交錯し、周囲の静寂が歪み、軋み――。
「……やっぱり、貴女は聡い妖怪(ひと)ですね」
 やれやれ、と椅子に倒れ込む彼女に向かい、紫が微笑み掛ける。
「当然よ。一応、それなりに世を渡ってきたもの。……それで、実際のところはどうなの?」
 先程のように、映姫の答えを確信したものではない。純然たる疑問の言葉である。
 しばらくの間、その視線をゆらゆらと彷徨わせた後――映姫はやがて一言だけ、ぽつりと呟いた。
「魂と云うものは、がらんどうの硝子玉なのです」
「硝子玉?」
「心や記憶を通したり、通さなかったりする、不思議な硝子玉です」
 訝しげに眉を顰(ひそ)める紫に、彼女は視線を動かさず、滔々と言葉を紡いでいく。
「よく、魂を水を湛えた容器に喩える輩が居ますが……実は、その比喩は適当ではない。魂とは、開いた存在ではなく、むしろ閉じた存在なのですから」
 そう云いながら、彼女は顎に手を遣る。
「稗田阿求の場合、既に彼女の魂は精神……それも、特に記憶によって、満たされつつありました。無論、その記憶と云うのは、彼女が引き継いできた、歴代の御阿礼の子のそれに他ならない……。
 恐らく、既に何らかの自覚症状はあるはず。それが限界に達した時……彼女の魂は、内側から自壊してしまう」
「あら、貴女さっき、魂は心や記憶を通す硝子玉って」
「普通の人間はそうです。が、彼女の場合は違う」
 首を傾げ、視線で先を問う紫。映姫は眉間にしわを寄せながら、今度は額に手を遣った。
「稗田阿求の能力を忘れましたか、紫」
「……ああ、ものを忘れない程度の能力、ね。なるほど」
 合点が入ったように頷くと、彼女は物憂げに溜息を吐いた。
「あの子を包む硝子は、記憶を通さない。それが、ものを忘れないと云うこと」
「……弁解させてもらえるならば、我々とて対策を怠っていたわけでは無いのです。むしろ、二重三重に策を巡らせている程です。魂が壊れると云うことは、規模の大小に拘(かかわ)わらず、決してあってはならない惨事なのですから。
 元々、記憶を残したまま転生してしまうと云うことは、決して珍しくありません。だから、たとい前世の記憶を全て受け継いだとしても、元来、魂はそれを補って余りあるだけの容量を備えているのです」
 そこで一旦言葉を切り、彼女は、それに、と先を続ける。
「忘却と云う手段によって、記憶は常に失われていく。そのため、記憶が魂の限界量を超えることは、万が一にもあり得ない。
 加えて、御阿礼の子の魂自体にも策は施されています。幾代にもわたる転生に魂が耐えられるよう、残す記憶も、幻想郷縁起にまつわるもののみに制限した……はずだったのですが」
「上手くいかなかったのね」
 端的に云ってのける紫に、映姫は小さな声で、ええ、と呟いた。
「記憶とは、自在に操れる程都合のいいものではないのです。御阿礼の子の魂の底には、それぞれの代の記憶の断片が堆積していき、結果、九代目である稗田阿求の魂は……」
 映姫はそこで言葉を切ると、瞼を閉じて椅子に身体を預けた。
「現在は、まだ余裕があります。しかし、このまま転生を繰り返せば……あと三代で、御阿礼の子は絶えてしまうでしょうね」

 転生は誰が為にもならず。

 教訓めいた言葉で締めくくると、彼女は深く息を吐く。すると、紫はその様子をしげしげと眺めながら、わざとらしい感嘆の声を発した。
「ずいぶんと、甘いことを云うのねえ」
 刹那、太刀を鞘から解き放つように、映姫の瞳が開かれた。
「……甘い? 誰の言葉が、ですか」
「勿論、貴女のよ。甘くて甘くて、まるで蜂蜜漬けの羊羹みたい」
 透き徹った笑みを浮かべ、映姫の視線を真正面から受け止める。そして、氷点下の声音で――彼女はあっさりと、云い放った。

「貴女の云う通りなら……あと三代、余裕があるってことでしょう?」

 場の空気が張り詰めたのは、正にその瞬間だった。
「聞き捨てなりませんね。どう云うことですか、紫」
「別にいいじゃない、本人が転生したいって云っているのだから。あと三代転生させて、幻想郷縁起の更なる拡充に専念させてあげればいいわ。……その代償が魂の崩壊だとしても、何ら不都合なことも、何ら不合理なことも無いじゃない」
 だって、それが阿礼の子の望みなのだもの。
 その双眸の底には、ただ静かに論理と知識が漂うだけであり――紫は整然と、まるで数学の定理を証明するように論理を紡ぎ、そして微笑(わら)う。そこに、人間めいた感情は無い。
 一方、映姫の表情は――。
「……あら、どうしたの映姫」
 紫がさも不思議そうに、映姫に向かって小首を傾げた――その時。

「自分の云っていることの意味が、解っているのですか」

 低く押し殺したような、映姫の声。
「魂が自壊すると云うことは、記憶を残す残さないの話ではない、転生すら出来ないと云うことなのです、それがどう云うことか……貴女は解っているのですかっ」
 静寂が音を立てて軋み、辺りにゆらりと陽炎が昇る。
「輪廻転生とは壮大な苦行、しかし、その果てにはやがて極楽が在る。貴女の云っていることは、一つの魂をその輪から永遠に外し、底知れぬ無へ放り込むことなのですよ。それがどれくらい残酷なことか……知らないとは云わせませんよ、八雲紫」
 普段は穏和な眼差しに深緑の炎を宿らせ、映姫は目の前に居る妖怪をような視線で睨めつける。しかし、対する紫の表情は、冷たい愉悦を湛えている。
「そうねえ失礼なことを云ったわ撤回しましょう。でもねえ、映姫。もしかしたら貴女の判断はあの子にとって重荷になるかも知れない。だって、もう魂に澱んだ記憶の所為で、色々な苦痛を味わっているのだもの。
 貴女はこれからも、彼女をその苦しみに縛りつけるつもりなの? それは貴女に許された正義だって云うの?」
「当たり前です。私にとって正義とは、他者から教わるものでも書を紐解いて得るものでもない。何故なら閻魔こそが正義の具現なのですから」
「あら、閻魔様ってなんて傲慢なのかしらねえ。己の誤りを疑わず、ただその尺度を押しつける。たとえ閻魔様が常に正しいとしても、その姿勢は傲慢極まりないわ!」
「違いますっ!」
 悲鳴とも取れるような、そんな声音。

 いつの間にか、紫の顔に張りついていた愉悦は消え。
 いつの間にか、映姫の押し殺された感情は流れ出し。

 ただ、二人は視線を交錯させるのみ。

 やがて――。
 声を震わせ、視線を机に落としたまま、映姫は静かに言葉を紡ぎ始めた。
「……己の誤りを疑わなかったことなど、あるわけが無いじゃないですか。裁きを終えた後はいつもそう、己の下した判決を百回も千回も疑い、疑い抜き、そうしてやっと、仮初めの安寧を得るのです。閻魔だからと云って、迷わないわけでは無い。私も、他の者も、常に苦悩しているのです。
 だからこそ……私こそが正義であると、そう云い切ることが出来るのです。だって、それは何千回も疑い抜いた、私自身が知っているのですから」
「……だからと云って、稗田阿求の魂の自壊を防ぐことが、貴女に許されているわけではないわ。貴女は閻魔であり、白黒つける程度の能力しか、与えられていないのだから」
 紫の言葉が、精確に論理を射貫く。映姫はそれに対して、ただ、解っています、とだけ応えた。しかし――ゆっくりと紫を見返すその視線からは、既に弱さは消えていた。
「……弾劾される覚悟は出来ています。貴女の云う通り、私は単に裁く者であり、救う者ではないのですから。
 ですが、たとい彼女にとって苦痛だろうが、私がどのような処罰を受けようが……彼女が生きられれば、それでいい。生きると云うことは、それだけで善いことなのですから」
 強い決意を滲ませて、映姫は凜と通る声で云い放つ。その深緑の瞳に迷いは無く、ただ、強い煌めきだけが宿っていた。
 数瞬の沈黙。
 不意に表情を緩めたのは、紫の方だった。
「安心して、閻魔嬢。別に弾劾なんてしないわ。貴女に居なくなって欲しいわけではないのだし……けれど、ねえ」
「何か、云いたいことでも?」
 糸が切れたように椅子へ沈む映姫に、彼女はつまらなそうに嘆息した。
「……説教癖さえ無ければ、みんなから好かれる存在になれるでしょうに」
「構いません。そもそも、私は優しくなどないのです。……ただ、己の内に在る善悪の基準で、人を、万物を計り続ける、ただそれだけです」
「ふうん……それだけ、ねえ。だったら、どうしてかしらねえ」
「何が、ですか?」
 訝しげに首を傾げる映姫に向かって――ゆらり、と笑みを浮かべた。
「わざわざ阿求の代で転生を止めたのは、一体、何故なのかしら。阿礼の子の魂を救うだけなら、何も九番目で転生を止める必要なんて無いのに」
「黙秘します」
「あら、黙秘は裁かれる者の権利じゃない? ……あら、どうして目を逸らすの、閻魔嬢」
「黙秘します」
 うわずった声でそう繰り返す映姫。見れば、ほんのりと頬に紅が差している。
 紫はますます笑みを濃くすると、しなやかな指で空中に線を引いた。すると、映姫の背後に闇を孕んだ隙間が口を開く。
「ところで、これから我が家で酒宴の用意があるのだけど……勿論、呼ばれてくれるわよね、映姫」
「……まだ、裁判の事後処理が残っているので」
「あら残念だわそんなこと云うのね……そうそう、これはちょっとした例え話なんだけれども、幻想郷でとっても優しくて自信無さげでちょっぴり恥ずかしがり屋な閻魔嬢の噂が広まったらとっても楽しいことになると思わない?」
 ひょっとしたら明日辺りにブン屋が嗅ぎつけるかも知れないわねえ。
 淀みない口調。射貫くような深緑の視線を向けられても、紫は涼しい顔でそれを受け流す。
 長い無言の応酬の後、映姫は観念したように諸手を挙げた。
「分かりました、行きますよ」
「さすがは閻魔嬢、物わかりがよろしいことで」
 揶揄するような紫の言葉に、映姫は、よっこらしょ、と椅子を立つ。
「全く、閻魔を脅迫するとは感心しませんね」
「だから、例え話って云ってるでしょう。もしかして、私を裁きたいの?」
「……いえ、そう云うわけではありません」
 映姫は表情を緩めると、くすっと笑みを零す。ここだけの話ですが、と前置きをして、彼女はうきうきした様子でこう云った。

「こう云う形であれば……小町に云い訳出来ますからね」

〈了〉
長く、そして硬い文章で書きました。
読むだけで疲れると思います。
また、都合によりルビや傍点の表示が出来ないため、非常に読み辛いと思います。
その点で、不都合があれば申し訳ない。

まだまだ至らぬ点も多いですが、稗田阿求に関する一つの考察論として形になっていれば幸いです。

縦書きルビつきがいいと云う方は、こちらをどうぞ。
http://fantastic-glass.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/diary/pdf/tennsei.pdf (467KB)
東洞院右近
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1.100無を有に変える程度の能力削除
抱え込まなくても良いんだよ
と、言ってやりたいです
ただ普通の人間として生きて欲しいものです
あぁ、まだ点数をあげたいです。
11.100読み解く程度の能力削除
非常に素晴らしい作品でした。
幻想郷縁起の、ひいては阿求の存在理由について深く考えさせられました。たしかに、今の平和というか調和の取れている幻想郷においては、妖怪達の危険性のみを追求したものは必要ないかもしれないですねぇ。まじめな阿求が思いつめるのも無理ないかと。
そして紫と映姫のやりとりも良いですね。それぞれに決して譲れないものを感じられました。大御所だなぁ。
これからの阿求の人生が長くなる事を祈りつつ、幻想郷縁起に替わるものを見つけられると良いですね。