Coolier - 新生・東方創想話

天気雨

2007/09/02 18:36:28
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 私、博麗霊夢の優雅な朝は、空っぽの賽銭箱を眺めるところから始まる――ではなくて、境内の掃除をすることから始まる。
 ええ、泣いてません、泣いてませんよ、泣いてませんったら。この前、お賽銭の代わりに落ち葉がつもっていて、一枚ずつ泣きながら掃除したりとかありませんから!
 ……オーケー、朝から気分を鬱にしてどうする。
 私はハッピーよ! 人生は常に降伏よ! いや違う! 字が違う! 幸福よ、幸福!
 神社の巫女――その単語は、常に神秘性を持っているのよ。その、神秘の塊みたいな私が、金銭みたいな俗物的なものに縛られることはあってはならないわ。そう、私はある意味、仙人にも近いところにいるのよ。俗世を超越してるのよ。うん。そう。
 ……まぁ、金の切れ目が縁の切れ目って言うけどね。
 ……はぁ~。
 ともあれ、掃除しよう。掃除。さっさかさっさか。おでかけれすかー、と。
 ――そんな、私の日々が、いつも通りにつつがなく始まろうかという頃。
「ん?」
 我が神社への入り口兼出口――まぁ、これがまともに出口として利用されたことは愚か、普通に入り口として使ってくるような輩が、この神社を訪れることの方が珍しいけど、それはともあれ――の鳥居の影に、見慣れないものがあるのが見えた。
「またかー?」
 以前は、酔っぱらった魔理沙が爆睡こいてたのでほうきでゴミと一緒に掃き出してやった。その前はレミリアが「咲夜がお勉強お勉強ってうるさいのよ」ってぼやきながら、何かに怯えるような顔をしていたので、探しに来た従者に突き出してやった。またその前は、漫画の〆切から逃げてきた小悪魔がいたのでパチュリーに通達してやったら『何この編集者に追われる恐怖を久方ぶりに味わうこぁちゃんフィーバー!?』とかわけわからんこと叫びながら連れて行かれた。そいでもって、さらにさらにその前は、『お前、この男を知らないか?』というやたら不作法なマント男がいたので『知りませんお帰りください』と丁重に追い返してやった。今考えてみると、あいつだけ妙にキャラが違うような気がしたんだけど、まぁ、気のせいね。
 とまぁ、そんな感じで、この鳥居前にはよくわからない輩が集うことが多い。普通の用途に使って欲しいものだけど、そういうまともな思考を持っている連中は、そもそもこんなことしないから関係ない。
「今度は何よ?」
 どうせだから、福の神一年分とか明日を生きるためのお米とか種籾持ったじーさんとか……は、私の方がひゃっはーの役だからいらないからいいや。
「……?」
 鳥居の影に、ちょうど、人目を避けるようにして置かれているそれへと近づいてみて、私は目をこらしてみた。
 彼我の距離は、大体三十センチくらい。
 自慢じゃないけど、私は目がいい。メガネっ娘属性はパチュリーとか永琳だけで充分だ。それに、目がよくないと飛んでくる弾幕の軌道を見ることが出来なくて撃墜される確率が上がるのだ。紫が持ってくるブルーベリーを使った料理のレシピが、この頃、とみに増えているのだけど、この前作ったブルーベリーのてんぷらはまずかったなぁ……。
 いや、まぁ、それはさておきだ。
「えーっと……」
 ……いかん、私は混乱しているのかもしれない。
 とりあえず、深呼吸。それから素数を数えて、ほうきを地面に立てて、それを中心にぐーるぐーる。ちょうどいい感じに目が回ったところで、もう一度。
「……現実と虚実が融合する瞬間って、こういうのをいうのかしら?」
 私には、その時、そんな哲学的な命題を口にすることしか出来なかった。

 さて。
 思わず、持って帰ってきてしまったが――、
「……どうしよう、これ……」
 いや、『これ』扱いするのはあまりにもあれだ。とはいえ、『これ』と表現する以外に何もないのが事実であって。
 私の視線が見据えるものは、ただ一つ。
 赤ちゃん用のゆりかご。加えて、その中で、何か幸せそうにすやすや寝ている……年齢は、一~二歳前後の女の子。このくらいの年頃の子供って、本当に見た目の年齢がよくわからないから、もしかしたら、もっと幼いかもしれないし、もう少し上の年頃なのかもしれない。
 まぁ、それはいい。それはいいのだ。
 最大の命題は、これ。
「何でうちに赤ちゃんが捨てられてるのよ……」
 うちはうばすて山じゃないんだぞ。ついでに言えば、保育園もやってない。もちろん、児童相談所もだ。
 何で、この博麗神社に赤ん坊が捨てられてなきゃならないんだ。全く、ひどい親もいたものである。
 ……と、文句を言うのは簡単だ。
「困ったなぁ……」
 もちろん、私はこの子の名前なんて知らない。子供の、ちょうどお腹の上に『この子をよろしくお願いします』という、無責任きわまりない単語が書かれた紙がぺんと置かれていて、名前なんて書かれてないのだから。この子を包んでいる服やゆりかごなどからも、この子の身の上を証明するようなものは何一つ存在してない。
「……とりあえず……」
 何とかしよう。
 しかし、その『何とか』の単語の内容が思い浮かばず、うーん、と頭を悩ませる。その答えが出てきているのなら、とっくに、私は行動を起こしている。伊達に、この子を前に一時間以上悩んでいる訳じゃないのだ。
 ……まぁ、威張れないけど。
 とりあえず、こうしていても仕方ない。私は、そう結論づけて、お茶でも飲もうかと腰を上げた。ちょうど、その時である。
「れーいっむさーん。またネタが切れたので協力してもらいに来ましたあやちゃんですよー」
「帰れ。」
「ひどっ! 顔も見せないうちから追い返すなんてひどすぎですよ、霊夢さん! あやちゃん悲しいっ」
「泣いてろ。」
「……ツッコミも切なくなりましたねぇ」
 障子の向こうから響いていた声が、何か妙にかわいそうになったところで、なぜか勝手に障子が開く。私の視線の先には、勝手に神社の境内に降り立っていたらしい、厚顔無恥を地でいくような奴が板張りの廊下を隔てた縁側に佇んでいると言うこと。ついでに言えば、その頭の上をばさばさ飛び回るからすが『かー』と、『ごめんなさい』と言わんばかりに頭を下げたと言うくらいか。
「いやいや、ほんとに最近、ネタがないんですよ。なーんにもなくて」
「何にもないくらいがちょうどいいじゃない。世の中は全て晴天日本晴れ、常にこともなしが一番よ」
「まぁ、それはそうですけどね。でも、そうなると、報道に命をかけている、我ら天狗が立ちゆかなくなると言うか」
「ゴシップ記事ばっかりの新聞なんて焼き芋を包む紙程度で十分よ」
「うわ、ひどっ! 私はゴシップなんて書きませんよー!」
『……まぁ、自分のことは、自分が一番よく見えないって言いますしね』
「というわけで!」
 今、何かからすくんの言葉がわかったような気がするのだけど、まぁ、気のせいよね。多分。
「何かネタありませんか?」
「ない」
「そんなこと言わずに」
「んなこと言われても知らん」
「今なら、このお徳用洗剤をおつけして」
「結構」
「ビール券もあげちゃいますよ」
「ぐっ……」
「お米を五キロ進呈」
「……と言われてもねぇ」
 文が差し出してきたものは、常に丁重にいただいて、こっそりと後ろの方へ。
 な、何よ! べ、別にものにつられたわけじゃないんだからね! た、ただ、文の、この素晴らしい、情熱あふれる新聞記者魂に心を打たれただけなんだから!
「正直、今の幻想郷は平和よ。もう、平和、って文字が服着て街宣車で街を巡りながら『へいわーへいわーへいわっていいなーじぇのさいどー』って歌うくらいに平和よ」
「平和とジェノサイドって矛盾してませんか?」
「そう? 言っても聞かない奴には言葉という名の暴力が牙をむくのよ」
「なるほど。何か霊夢さんっぽいですね」
 ……ひょっとしなくても、今、私、あきれられた? かーくん……。
 あ、こいつ、うなずきやがりましたよ。意外に賢いわね。
「まぁ……そうですか。何にもないんですかー」
「ないのよねぇ」
「それじゃ、今日のトップ記事はこれですね。
『博麗霊夢、ついに未婚の母に!』」
「……へ?」
「さっき、赤ちゃんを抱えて歩いてたの、見ましたから」
「ち、ちょっと!?」
「いやー、霊夢さん、おめでとうございます。子供は、まさに子宝ですからね。望まぬ妊娠だからとて、一個の命を絶ってしまうことなく、立派に育てていこうと決意したのですね。まさに女性の鑑、全幻想郷女性の憧れですよ」
「ち、ちょい待ち! あんた、何勘違いして……!」
「じゃ、私、そーいうことでー。ごーがいだごーがいだー!」
「あ、こら待てからすこらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
『おっかけても追いつけませんよ、絶対。あーなった文さまの加速度は光を超えますから……』
 その、かーくんのつぶやきの意味を悟ったのは、幻想郷を十周して、文に振り切られた時でした。

「霊夢! 子供が出来たってマジか!?」
「死ねっ!」
「ほうあちゃぁっ!」
「な、何ぃっ!? よけただとぉっ!?」
「ふっ、甘いな! 霊夢! お前とは何作前から付き合っていると思っているんだ!? お前が出会い頭に眉間めがけて針を投げつけてくると言うことは先刻承知の上だぜ!」
「くっ……やるわね……。
 ……というか、何作前からのつきあい、って?」
「……あ、いや、私もよくわからん……。何か口をついて出たというか……」
「……」
「……まぁ……気にしないのが一番だな」
「……そだね」
 何だか、それ以上、奥に踏み込むと決して戻ってこられない深淵の罠が待ちかまえているような気がして、私たちは共に口をつぐんだ。
 まぁ、それはさておき。
「おー、かわいいじゃないか。名前は何て言うんだ?」
「あのさ、魔理沙。あのバカ烏の新聞を見たんだろうけど、この子、私の子じゃないからね?」
「嘘つけ。髪とか目の色がそっくりじゃないか」
「黒髪黒目はデフォだろ」
「そうか?」
「……いやまぁ、私たちの知り合いって、妙に色合いがカラフルな奴らが多いけどさ」
 目の前にいるこやつもそうだし。
「んで?」
 どうやら、私に対して『お前の子』云々というのは、ある程度、パフォーマンスのようなものを含むらしかった。
 ゆりかごの中で、先ほどの騒ぎにプラスして、今の私と魔理沙のやりとりを聞いても、すやすや眠っている赤ん坊のほっぺたぷにぷにしながら、魔理沙が私に視線を向けてくる。
 かくかくしかじか、と今朝の馴れ初めを彼女に話すと、「ふーん」と魔理沙はうなずき、
「ほんとか?」
「嘘ついてどーすんのよ」
「いや、いまいち、まだ信じられなくてな。自分の子供を捨てるような奴なんて、正直、見たくもないし」
「あー、わかるわかる」
 共に、私ら女の子。将来は子供を産む可能性が、十二分にあり得る。そんな、ひょっとしたら自分がその立場になりうる可能性がある状況が目の前にあって、最も取りたくない選択肢の典型が、手を伸ばせば触れてしまえるほどに近くにあったとしたら。
 そうしたら、それを認めたくないと思ってしまうのは、悪いことではないのだろう。
「この子供、どうするんだよ?」
「どうする……って……」
「育てるしかないな」
「なぜそうなる」
「お前の子だろ?」
「蹴るわよ」
「いてっ! 蹴ってから言うな!」
「うっさい!」
 華麗なる巫女旋風脚の威力を見よ! と言わんばかりの、私の一撃に横っ面を直撃され、ずがしゃしゃしゃしゃ! という壮絶な音と共に吹っ飛んでいった魔理沙が、案外、ダメージのなかった様子で起きあがった。ちっ、しぶとい奴め。
「お前が育てるしかないだろ! 母親として!」
「誰が母親だ! 私は被害者よ! 赤ん坊なんて育てたことないし!」
「私もないぜ!」
「ない胸張るな!」
「い、言ったな、このぐーたら温泉巫女!」
「ああ、言ったわよ! このだぜだぜ魔女!」
「面白い! ならば勝負だ!」
「いいわよ! コンティニュー無制限、時間制限なしでどうよ!」
「ああ、やってやるぜ!」
「かかって……!」
 その時。
「ひっ!?」
「うわっ!?」
 さっきまですやすや寝ていたはずの赤ん坊が、まさに火のついたように大声を上げて泣き出し始めたのだ。その騒音値の高さと言ったら。周囲で……そう言えば、この騒ぎの中で、今、飛び立っていった鳥ども、よく寝てたよなぁ……まぁ、いいや……寝ていたと思われる鳥が、ざっと飛び立つほど。
「ち、ちょっと!? 泣き出したわよ!? あんたが騒ぐからじゃない!」
「あ、そ、そうやって人のせいにするのか!?」
「ご、ごめんね~。ちょっとうるさかったね、静かにするから、お願い泣きやんで~」
「あああごめんなさいごめんなさい私たちが悪うございました!」
 私は赤ん坊を抱えて猫なで声を上げ、魔理沙はなぜか土下座する。しかし、それでも一度、目を覚ました赤ん坊が泣きやむことはなく、ますます泣き方が激しくなるばかり。
「あああああああああああ! ま、魔理沙っ! 誰か子育ての経験ありそうな奴連れてきて! 音速を超えて!」
「お、おう! 任せておけ!
 私は今、音速を超えるぜ!」
 ふと頭の中によぎる刹那の瞬間を口に出そうとした瞬間、魔理沙の姿がそこから消えた。
「……逃げたら、あとで夢想封印キャンセル夢想封印だかんね」
 私のつぶやきが聞こえたのかどうかはわからないが、魔理沙が、『子育ての経験がありそうな奴』を連れて戻ってきたのは、それから十分もしないうちのことだった。

「ああ、これはおしめだな。えっと……霊夢どの、替えのおしめはないか?」
「あるわけないわよ!」
「そうか。なら、なるべく清潔なタオルでいい。貸してくれ」
 連れてこられたのは、まぁ、予想通りというか何というか、慧音である。
 しかし、さすがは色々詳しい知識人。子育て経験も豊富なのか、私が渡したタオルを、汚れたおしめと取り替える手際も見事。そして、これまた不思議なことに、おしめを取り替えた瞬間、赤ん坊はぴたりと泣きやんだ。ただ、目を覚ましてしまったのはどうにもならないのか、慧音の腕の中できゃっきゃと笑っている。
「あー……死ぬかと思ったぜ」
「あんた、ほんとに早かったわね」
「たまたま、そこにいたから連れてきたんだ」
「よくやった」
 道中、事情も説明しておいたぜ、と魔理沙。
 そのためか、慧音がなんだかんだとこっちに聞いてくることもなく、「赤ん坊は、泣くことでしか、自分の気持ちを伝えられないからな」と、何やら、聞く人が聞けば感慨深いことを私にレクチャーしてくれる。
「ねぇ、慧音。あんた、この子の父親と母親が誰なのか、知らない?」
「いきなりそんなことを言われてもな」
 赤ん坊は慧音の腕の中からするりと抜け出すと、はいはいしながら辺りをちょこまか。とりあえず、と私はお茶の用意。
 そうして戻ってきてみれば、赤ん坊の姿が見えなくなっていた。
「あれ? あの子は?」
「ああ、赤ん坊なら……」
 慧音の視線は魔理沙の背中へ。
 そちらに視線をやると、どうやら、赤ん坊は魔理沙の金髪が気に入ったのか、ぐいぐいと引っ張って遊んでいる。もちろん当人は迷惑そうな顔をしているのだが、振り払うことも出来ず、無視することを決め込んでいるらしかった。
「さっきの霊夢殿の問いに対してだが。
 探そうと思えば探すことは出来るよ。少々、時間はかかってしまうのだが」
「それならありがたいわ。お願いしていい?」
「ああ。
 ただ、その間、この子の面倒は霊夢殿に見てもらう形になるが」
「あー、やっぱりね……」
 まぁ、私も、赤ん坊を表にぽいと放り出すつもりはないし。先ほど、魔理沙と、『子供を捨てる親なんて最低だ』ということを話していた通りに。
 ちらりと魔理沙を見る。
 赤ん坊は、彼女の体を使ってふらふらしながら立ち上がると、ひょいと、魔理沙の帽子を取り上げた。彼女の頭の上に、なぜか本が一冊。
「こんな小さい子を捨てるなんて。何考えているのかしら」
「普通に考えればけしからんことだな。赤ん坊だって生きているんだ。それに、幻想郷は、あっちこっちに妖怪が住んでいる。こんな小さな子供を、家の外に放り出せば、一日も過ぎないうちに神隠しの類にあってしまうだろう」
「……そうよね」
 そこで、また、ちらり。
 今度は魔理沙の頭の上に水晶玉。
「ただ、わからないこともないんだ」
「え?」
 なぜか、慧音が神妙な口調で口を開く。彼女は、手元の湯飲みを傾けてから、
「霊夢殿にならわかる……と言ってしまうと失礼だが、やはり、人間には二つの種類が存在する。富めるものと貧しいものと。それこそ、貧しいものの中には、明日を生きるのにも難しいもの達がいるのは否定しない。そうしたもの達にとっては、食い扶持を減らそうと考えてしまうものもいるだろう」
「だからって、一度作った子供を捨てるっての?」
「倫理的には許されるべきことではないが……。ただ、わからないことではない、ということだよ」
「だけど……」
 私には理解したくない。
 あんな小さな子を……何の罪もない、お父さんとお母さんを信頼しきっている小さな命を裏切るなんてこと。あの子は、何にもわからないうちにこの世に生まれてきて、そして、そんな親の身勝手で捨てられた。それを、どう理解しろと言うのだ。そんな辛くて残酷なこと、私は、絶対にわかりたくない。これも偽善であり、自己中心的な考えだと、言いたくば言えばいい。私を偽善者だと、罵るなら罵ればいい。
 ただ、私はそれでも……。
「……ねぇ、魔理沙」
「ん?」
「……あんたの帽子の中身、どうなってるの?」
 ああ……思考がかき乱される……。
 このシリアスな雰囲気をぶった切りまくって魔理沙で遊んでいる赤ん坊の無邪気さと言ったら。ついでに、彼女が魔理沙の帽子を取り上げるたびに、魔理沙の頭の上にあるものが変わる不思議は一体……。
「ああ、こら。もうやめないか」
「いや……その……魔理沙殿……。私からも聞いておきたいのだが……」
「ああ、こいつか。この帽子はだな。ある高名な、魔法道具を操る未来の……」
『それ以上は言わなくていい』
 色々と、それ以上はやばい。主に権利的なものとか。
 私と慧音がそろって、魔理沙の口を塞ぎ、むがむぐ暴れる彼女に蹴り一発。ふぅ、と、私は腰を下ろす。
「……ん?」
 と、視界の隅で、魔理沙で遊んでいた赤ん坊が、私の隣にいた。彼女は、よじよじと私の膝の上に上がってきて、そこが自分の定位置とばかりに腰を下ろしてしまう。
「気に入られてるじゃないか、霊夢殿」
「ちょっと勘弁してよね……」
「ははは、まぁ、そう言わずにだ。
 まぁ、ともあれ、その子供の親を捜すのは任されよう。もちろん、その間、その子はここで預かってもらいたいが」
「わかったって。それくらいは……何とかするわよ」
 目の前の、熱い湯飲みに手を伸ばそうとする彼女の手をぺしん。そうして、「ちょっと、魔理沙。この子、預かって」と魔理沙に彼女を預けてから立ち上がる。
「ねぇ、慧音。赤ん坊って、ジュース、飲めるの?」
「大丈夫だよ。そのくらいの年頃なら」
「おっけ」
 ……つい三日前、幽香にもらった花の蜜ジュースを出すしかないようだった。あれ、美味しくて、しかも高いっていうから、一日コップ一杯までと決めているのだが……仕方ないだろう。これもまた、断腸の思い、というやつなのかもしれなかった。
 コップに、特製ジュースを片手に戻ってくれば、また赤ん坊が魔理沙の髪の毛で遊んでいた。彼女にとっては、魔理沙の金色の髪の毛は、きらきらきれいなおもちゃと同じものらしい。
「ほら、おいで」
 そう声をかけると、不思議なものだ。赤ん坊が、くりっとこっちを向いて、笑顔で近寄ってきたのだから。
 私は彼女を膝の上に乗せて、『はい』とジュースを手渡す。
「そう言えば、霊夢殿。赤ん坊を育てるために……というか、育児グッズは持っているのか?」
「あるわけないでしょ」
「それもそうだな。
 じゃあ、あとで買いに行こう。魔理沙殿、香霖堂には、その手のものはあるだろうか?」
「あると思うぜ」
「よし。ツケね」
「……相変わらずだな」
 苦笑を浮かべつつも、慧音に、止めるつもりはないようだった。人生というものを、相変わらず、よく理解している。感心なことである、うんうん。

 さて。
 やってきました、香霖堂。
「それから、そっちのと……」
 お代は全部、慧音が出してくれると言うことで、霖之助さんも、ずいぶん表情が安心しきっている。慧音に言われるまま、がらくたまみれの店内から、あれやこれやと取り出していく様は、『あんた、このカオスの空間で、どこに何があるか、全部把握してるの?』と、思わず聞きたくなるくらいの手際の良さだ。
「あ、こら、ダメよ」
 私にだっこされる形でついてきた……というか、連れてこざるを得なかった赤ん坊が、店に並ぶ珍品に目が引かれたのか、手を伸ばす。その手を引っ込めさせて『めっ』と叱りつけると、彼女はちょっぴりしょんぼりしたような顔を見せるのだが、すぐにまた興味が向くものを見つけたのか、そちらへと手を伸ばしていたりする。
「霊夢、母親役が板についてきたなぁ~」
「うっさいな。なら、あんたがやってみる?」
「いや結構。髪の毛と帽子をおもちゃにされるのは勘弁だぜ」
 散々いじくられたためか、いいだけ乱れた髪の毛を、香霖堂に置かれている鏡の前で直している彼女のお尻にキック一発。
 そうこうしていると、慧音の買い物も終わったのか、「それじゃ、お会計だけど――」と、霖之助さんが、私の食費十日分に匹敵するような金額を慧音に伝えている。
「あんた、金持ちねー」
「……いや、何というか……まぁ……ああ……そうかもしれないな……」
「何よその顔」
「……いや、別に」
 何かすっげぇ同情されているような気がするのは、私の気のせいでしょうか。気のせいですよね、神様。『気のせいじゃねぇよ』って声が聞こえたような気がしたけど、とりあえず、聞き流しておきます。
「だが、しかし、今朝方、天狗の新聞が投げ込まれていった時は何事かと思ったよ。霊夢が子供を作った、って」
「ちょっと、やめてよね。私がそんな軽薄で尻軽な女に見える?」
「いや、その辺りは、魔理沙も含め、なかなか身持ちが堅そうには見えるよ」
 さすがは霖之助さん。見るところは見ているらしい。
 慧音が買ったものを、丁寧に包み紙に入れながら、私の質問に彼は答えてくれ、さらに、
「それに、事情を聞いて、正直、ほっとしたよ」
 なーんてことを言ってくれるじゃありませんか。
 うん、好青年。お姉さんは感激しちゃいましたよ。
「だが、そうであったとしても、正直、少しは残念だけどね」
「え?」
「いや、霊夢が結婚したとしたら、君の夫になるような人間は、果たしてどんな男なのかなと。少し気になっただけさ」
 結婚、ねぇ……。さーっぱり考えたことがないけど……。
 私の視線は、なぜか慧音へと。彼女はその背中で、『まぁ、将来、いやでも考えるようになるさ』と語っているように見えた。
「まぁ、霊夢は男縁がないからなー。どうだ、いっそのこと、こーりんとなんて」
「ちょっと、バカなこと言わないでよ。何で霖之助さんなんかと結婚しなきゃいけないのよ」
 私は、笑いながらそう言った。
 ……のだが。
「……なんか……か」
「……いや、気にしないのが一番だ。霊夢殿には悪気はないんだから」
「ああ……わかってる……わかってるよ……。ただ……本人がいる前で、こう……ずばっと言われると……さすがに来るね……」
「……頑張ってくれ」
「……なぁ、霊夢……もう少し言葉を選ぶって言うか……空気を読むというか……」
「え? 私、何か変なこと言った?
 あ、い、いや、その、霖之助さん、そんな意味じゃないのよ? ただね、私にとって身近すぎて、そう言う対象として見られないというか……」
「……やめとけ、霊夢……。香霖が……香霖が、あまりにも哀れすぎるぜ……」
「ええっ!?」
 ずぅ~ん、という効果音と共に黒い縦線背負う霖之助さんの、そのすすけた背中は、確かに色々哀れすぎて見ていられなかった。っていうか、私、何か悪いこと言ったの? え? あれ? 私、何かしたの?
「……さあ、帰ろうか、霊夢殿、魔理沙殿……」
「え? 何? 慧音まで何その顔? あ、あれ? り、霖之助さん? 何で泣いてるの? 何で男の哀愁漂わせてるの!?」
「さあ、帰ろう、霊夢! ここにいちゃいけない……お前は、ここにいちゃいけないんだ!」
「いやだからあのちょっと、あれー!?」
 ……事態が読めなかった。さっぱりわからなかった。
 なのに、なぜか、私が腕に抱いている赤ん坊が、私の頭をなでてくれたのが、何か無性に切なかった。

 とりあえず、しばらく、霊夢殿は香霖堂に行かない方がいいだろうな、と言って去っていった慧音を見送ってから、ここ、博麗神社。
「……ったく。あかんぼは気楽なもんよね」
「ああ、全くだぜ。だから人の髪の毛引っ張るな、こら」
 卓について、お茶を片手にしている魔理沙の髪の毛を、また、赤ん坊が引っ張って遊んでいる。そんな彼女を、何とか振り払おうとするのだが、相変わらず、魔理沙の抵抗など何の意味もなさず、赤ん坊に好き放題されていた。
「ところで、霊夢。こいつの名前、どうするんだ?」
「は? 名前?」
「ああ。しばらくの間、預かるんだろ? その間、『この子』とか『あの赤ん坊』っていうのは不便じゃないか」
 ……ふむ、まぁ、言われてみれば確かに。
 こそあど言葉で呼ばれるのは、その意味をわからないと言っても、赤ん坊側もいい気分はしないだろう。とはいえ、この子の名前をどうするかと言われたら、全くネタが出てこないのも事実なわけで。
「そうだな……。じゃ、私が名付け親になってやるぜ」
 魔理沙は、自分のネーミングセンスには自信があるとばかりに、平坦な胸を叩くと、赤ん坊をひょいと抱え上げた。そして、彼女の目をじーっと見つめ、うむ、とうなずく。
「お前の名前は、ちび霊夢だ!」
「待てこら!」
「ん? 何だ?」
「何よ、その『ちび霊夢』って! 私とその子、全然似てない上に、私はその子の母親じゃないっ!」
「いやだってよ。せっかくの黒髪だぜ?」
「……何で黒髪なら私になるのよ」
「それにだな、これをこう……ちょちょいっと」
 彼女の髪の毛を、小さなリボンでひょいひょいと結わえて、「完成だ!」と魔理沙。
 ……確かに、後ろ髪と左右の髪の毛を、ちょっとまとめれば、特徴的には私に似てくるのかもしれないけど。
「どうだ、ちび霊夢。嬉しいか?」
 きゃっきゃとはしゃぐ赤ん坊を見て「嬉しいってよ」と、勝手に彼女の気持ちを代弁してくれる。
 ……こっちとしてはいい迷惑なのだけど、しかし、いい考えが思い浮かばないのは事実だった。だけど、私がこの子のことを『ちび霊夢』って呼ぶわけにもいかないのは事実なわけで。
 ……これって、結局、魔理沙達が楽になっただけなんじゃ?
「お? 誰か来たみたいだぜ」
 玄関口の方から響く、『誰かいないのー?』という声。はて、どちら様がいらしたのだろうか。
 私は、魔理沙に『その子、よろしくね』と赤ん坊を預けて、玄関へと踵を返した。
 どんどんと、戸口がノックされている。そのノックの仕方は、とてもじゃないけど上品とは言えないものだ。変な相手が出てきたらバケツの水でもぶっかけてやろうと心に誓いながら、『どちら様?』とドアを開ける。
「ごきげんよう、霊夢」
「あら……レミリアに……紅魔館メンツ?」
 そこに立っているのは、門番とちっこい妹さんなどを除いた、紅魔館の主力メンツ。彼女たちは、館主のレミリアを筆頭に、なぜだか、こちらに暖かい眼差しを注いできている。
「霊夢、話は聞いたわ」
「一応聞いておくけど……何?」
「結婚したんですってね。あ、いや、未婚の母? 大変だったでしょうね……愛した男に捨てられるなんて。
 でも、気にしなくていいわ、霊夢。あなたの子供と一緒に、わたしがあなたを紅魔館に迎え入れてあげる。わたしの愛は永遠よ。というわけで、霊夢。今日は……」
「ふーまじん」
「いやぁぁぁぁぁぁ! 直は! 直は痛いわぁぁぁぁぁぁぁ!」
「ああっ、お嬢様! そちらは日なたですっ!」
「きゃー! 溶ける、霧になるー!」
「まぁ、レミィはさておいて」
 じたばた暴れるレミリアを何とかしようと従者が奮闘する中、その友人は、実に涼しい顔で、私の腕にどっさりと本を押しつけてくれた。
 それらの本の、いずれにも同じ単語がタイトルに抱えられている。
『育児』。
「あなたの場合、責任感は、まぁ、地味に強い方だと思っているから育児放棄はしないでしょうね。でも、初めて子供を育てるのだから、何かと大変でしょう? うちの図書館にはこんな本もあるから、使えそうなのを適当に見繕ってきたわ」
「……」
「私も、ずいぶん殊勝な真似をするようになったものね。知り合いに、命よりも大切な本をあげてしまうなんて。これも、子供という小さな命が持つ絶対の倫理のせいなのかしら」
「……」
「さあ、レミィ、それから咲夜。帰るわよ」
「あ、は、はい。パチュリー様。
 ああ、霊夢。子育てに困ったら、いつでもうちに手紙をよこしなさい。育児が得意というメイドがいたから。その子を回してあげるわ」
「ほら、レミィ。半分くらい溶けたところで大丈夫でしょ」
「だいじょうぶじゃないようなきがする……」
「まあ、セリフが全部平仮名だわ」
「それじゃあね、霊夢」
 がらがらぴしゃん。
 佇む私を無視して、好き勝手によくわからない漫才を繰り広げてくれた相手を適当に見送ってから、私は手にした本を、どさっ、と床の上に置いた。
「……焼き払う労力もめんどいわ……」
 何だろう、この限りない疲労感。どうして私、今、こんなに疲れてるんだろう……。
 何かもう全てを投げ出して、青い空にふらいはいしたくなってきたわ……。
 そして、またもや、とんとん、とドアがノックされる音。
「はーい……どなたー……」
「やあ、霊夢さん。おじゃまするよ」
「赤ん坊が生まれたと聞いて、早速、祝福のメロディーを奏でに来ましたー!」
「さあ、行くわよ、姉さん達!」
 がらがらぴしゃん。
「霊夢さん、気持ちはわかるが、こちらの話を聞きもせずにドアを閉めるというのは無礼だよ」
「やかまし帰れ!」
 抗議の声を上げてくれる、やかましい演騒家(誤字ではない)長女に一発、キレのいいツッコミを。しかし、その長女――ルナサは「ははは。そんなに気にしないでいいよ。お代は取らないから」と、こっちのセリフを華麗にするー。
「いいじゃんいいじゃん、霊夢さんや。あたしらの演奏の一つや二つ」
「うっさいっての!」
「ああ、もしかして、赤ん坊はお昼寝中なのかな? それなら、迷惑か」
「えー? せっかく、『ちゃいるどプレイ』って曲を作ったのにー」
「あんたら、あの子に何させるつもりだっ!」
「ふむ……。
 仕方ない。お母さんにここまで怒られたのでは仕方ないね。メルラン、リリカ、一旦出直すよ」
「はーい」
「仕方ないねー」
「それでは、霊夢さん。子育て、頑張って」
「……あーもーはいはい……」
 ああ、体力が……体力が失われていく……。
 がらがらぴしゃん、の音が異様に切なく感じられる中、何とかよろふら立ち上がる中、またもや『とんとん』の音。
「あーもー! 一体、誰よ!?」
 かなり、自分自身、殺気だった声だったと思う。しかし、この状況を考慮してもらいたい、皆の衆。私だって、聖人君子じゃないのだ。
「ちょっと! 霊夢、怒ってるじゃない!」
「育児って疲れるから仕方ないわよ」
 現れたのは、アリスと幽香という、実に珍しい組み合わせだった。彼女たちは、『だから、私は別にいいって言ったのに』『赤ん坊の好きそうなお菓子、持って行ってあげるつもりだから、ってうちに来たのは誰よ』というよくわからないやりとりをしている。
「何なのよ……あんた達……」
「幽香がね、霊夢にこれを、って」
 そう言って渡されるのは、小さな入れ物。紙で出来たそれを開けてみれば、中には、実に美味しそうなプリンがあった。
「これ?」
「そ、その……赤ん坊って、硬いものは食べられないでしょ? で、でも、それなら大丈夫かなって……。そ、それに、大きさも小さめに作ったし……。
 か、勘違いしないでよね! べ、別に私、あんたが、これから色々大変だろうなって思って、それで、励ますとかそういうつもりじゃ、全然ないんだから!」
「はいはい。
 まぁ、そういうわけみたいだから。あとね、霊夢。これ」
 アリスから手渡されるのは、普段、彼女が操っている人形達によく似たデザインの、可愛らしい女の子の人形。ここを押すとしゃべるのよ、とやってくれるアリスの顔を見て、幽香の顔を見て、私は軽く首をかしげる。
「まぁ、赤ん坊のおもちゃにしてあげて」
「……あのさ、二人とも。ありがたいことはありがたいんだけど、私、別に結婚とかしてないからね……?」
「ふん、そんなのわかってるわよ。さすがの霊夢と言えども、他人には、とにかく話しづらい特別な事情があるんだ、って」
「うん、わかってるから安心していいわよ、霊夢」
「わかってないっ! あんたら、全然わかってないわよっ!」
「さ、幽香。私たちは、さっさと退散しましょ。そろそろ、この時間帯だもの。赤ん坊が『お腹減った』って言い出す頃だろうし」
「そうね。
 ま、霊夢、何かあったら連絡よこしなさいよ。……その……私でよければ手伝いに来るから」
 がらがらぴしゃん。
 ……私は……どうしたらいいんだろうか……。っていうか、これ、何の拷問!? 痛い! 人の善意が痛い! っていうか、人の話聞けよお前ら!
「……はぁ」
 ため息つきつつ、もらったものを抱えて居間へと戻ると、相変わらず、魔理沙の髪の毛で遊んでいる赤ん坊の姿が、一番最初に目に入った。
「おい、ちび霊夢。お母さんのお帰りだぞ」
「……おい」
「あーもー。私の髪の毛、ぐしゃぐしゃだぜ」
 意外と、そういうおしゃれには気を遣うタイプだったのか、乱れた髪の毛を、どこかから出した手鏡を頼りに整え直す魔理沙。そして、魔理沙の『お母さん』の言葉に反応したのか、私の方へよちよち歩きで歩いてくる赤ん坊。彼女は、私の服の裾を掴んで、何が嬉しいのか、きゃっきゃと笑っている。
「……もう。
 魔理沙、あんたも晩ご飯、食べていく? 一食三百くらいでおごるわよ」
「そんならお世話になる……と言いたいところだが、また、そいつにおもちゃにされたらかなわないからな。魔理沙さんは、そろそろ退散させてもらうぜ」
「あ、そ。んじゃ、またね」
「ああ。
 またな、霊夢、それにちび霊夢」
「はいはい」
 彼女は、ひょいと、またもやどこかから取り出したほうきに横座りで座ると、開け放たれたままの障子の向こうへと飛びだしていった。彼女の姿を見送ってから、『ご飯が出来るまで、この子の相手をさせておけばよかった』と私は気づいたのだが……まぁ、後の祭りだわな。

「あー……疲れた……。くったくただわ……」
 時刻、現在、夜の八時。
 ようやく世間は宵の口。これから、酒場だの盛り場だのは盛況になり、我が博麗神社の境内で開かれる宴会もたけなわになってくる頃合い――なのだが。
「……ほんと、赤ん坊は幸せだわ」
 つい先ほど、ようやく寝付いてくれた彼女の顔を見ながら、ぽつりとつぶやく。
 ご飯食べさせて、お風呂に入れてやって、そして寝るまで横に添い寝しながら子守歌。つくづく、世間一般のお母さん達って、子育てに苦労してるんだなぁ、と思える瞬間だ。私の母親も、私を育てるときは、これくらい苦労したのだろうか。
「さて、それじゃ……」
 今日の疲れをいやすために、軽く一杯やりましょうか。
 そう思って起き上がろうとした瞬間、軽く、肌襦袢が下に引っ張られる。視線をやれば、赤ん坊の小さな手が、私の襦袢の胸元をしっかりと掴んでいた。
「……どうしろと」
 この子の手をほどくのは簡単なのだけど、なぜか、それをするのはためらわれる。ついでに言えば、彼女が、あんまりにも幸せそうな寝顔をしているのを見ると、何とも言えない気持ちになるのも事実だった。
 しばし、悩む。
 ――悩んでいた時間は、五分にも満たない短い時間だっただろう。そんな中で、私の出した結論はと言うと。
「……ま、たまには早く寝るのもいいか」
 赤ん坊に屈することだったりするのです、はい。
 幸いなことに、この子を寝かせている布団は、普段、私が使っているもの。赤ん坊用の小さな布団なんて、我が家にあるはずがない。いや、あるのかもしれないけど、探すのめんどい。
 というわけで、この布団には、赤ん坊くらいなら一緒に寝てもスペースは余裕であるというわけだ。
「感謝しろよー。私が、こんなに早くに寝ることなんて滅多にないんだから」
 うりうり、と柔らかいほっぺたをつついて、枕に頭を載せる。
 軽く、体を動かして天井を見れば、不規則な形に変形している、和風建築独特の模様がそこにあった。何の意味もなく、それを目で追っていくと、段々とまぶたが重くなる。そろそろ眠気に耐えられなくなった頃に赤ん坊の方へと視線を移して。本当に、何の気なしに、私は彼女の頭をなでて、ゆっくりと目を閉じたのだった。

 それから数日間、博麗神社の日々は充実していた――と、言っていいだろう。
 朝起きる。赤ん坊がわんわん泣きわめくのでご飯を作る。彼女がお昼寝を始めた矢先にやかましい奴らがやってくる、赤ん坊起きる、泣く、「出てけお前ら!」と夢想封印する、赤ん坊を背負って買い出しに行けば『あらまぁ、博麗さんの! ようやく身を固める決心をしたんだね!』と近所のおばちゃんに勘違いされるなぜか大根一本おまけしてもらっておみそ汁を作ろうとしたら赤ん坊に髪の毛引っ張られて鍋こぼしてやけどかまして怒る相手がいるのに怒れなくてやってきた魔理沙に夢想封印ぶちかまし、そして赤ん坊をお風呂に入れて寝かしつけて、と。
 とにかく、そんな感じの日々がすぎている。ダイジェストにしすぎのような感じもするが、間違っていないので問題はないはずだ。
 そう、私――博麗霊夢は思う。
「あ~……」
「お、どうした。霊夢ママ」
「誰がママだ」
「お前のことに決まってるだろ。な~、ちび霊夢~」
 なぜか知らないが、魔理沙は、初日はあんなに毛嫌いしていたのに、妙にこの赤ん坊を気に入っている。彼女も、魔理沙のことを――というか、彼女の金髪や帽子や服など――気に入っているのか、こいつが来るときゃっきゃと喜んでいる。
「こら、魔理沙。あんまり、この子をいじめないでよね」
 彼女のほっぺたをぷにぷにとつついている魔理沙の側から、赤ん坊をひょいと隠す。すると魔理沙は、「おー、こえー。ママが怒った」などと言ってふざけるものだから、軽く弾幕を零距離でぶち込んで黙らせておくことにする。
「ったく……。
 いーい? こいつはね、言ってみれば、ダメ人間の典型よ。あなたは、大きくなってもこんなのになっちゃダメよ」
「……くっ……。ひ、人に宣言なしで攻撃しといて……言うか……そういうこと……」
 ちっ、まだ生きてたか。
 さりげに舌打ちして、とりあえず、縁側に倒れた魔理沙の頭をふみふみ。
「さて。
 それじゃ、今日はいい天気だし、あんたの気に入ってる幽香の店にでも行く?」
 腕の中に抱いている赤ん坊に問いかけると、彼女は、にこにこと笑顔を返してくる。
 ちょうど、本当に最近なのだが、赤ん坊の笑顔にも、いくつかの種類があることを、私は理解していた。この笑い方は、『行く!』という意思表示だ。それじゃ早速、と彼女を背中に背負って、ふわりと空へと舞い上がる。
「霊夢~……置いてくな~……。私は動けないぜ~……マジで死ぬぜ~……」
「そんだけ余裕があれば、あと一発くらいは大丈夫よ。罰として、私が帰ってくるまでに境内全部掃除しておくこと! いいわね!」
 そんな私の言葉を理解しているかのように、その縁側に置かれていた竹箒が『私を使って』と言わんばかりに、魔理沙の頭の上へと倒れ込んでいく。頭頂部直撃、クリーンヒット、ってところね。
「けど、あんた、何で幽香の店がそんなに好きなわけ?」
 背中の赤ん坊に問いかけるのだが、もちろん、明確な答えが返ってくるわけもなし。ただ、きゃっきゃとはしゃいでいるだけである。
 ……まぁ、確かに、あいつの作る食べ物は、何でもうまいわな。それに、何か妙に客も入ってるみたいだし。あいつの店。最近だと、協力要請を受けて……というか、アリスがどこかからそれを聞きつけてきたという感じではあるが、彼女とのタッグで経営にも当たっているらしい。レミリアが『紅魔館レストランも、ついに対抗馬が現れたわね……』と戦々恐々としていたのを微妙に思い出しつつ、軽く、速度を上げる。
「今日は何が食べたい? ジュースと……あと、ケーキ? それともプリン? ゼリーってのもあるわよ」
 背中の赤ん坊にあれこれと話しかけて反応を探る。こやつは食いしん坊なのか、こと、食べ物の好みに関してはうるさいのだ。私が、いつも『どんな料理であろうとも、日々の糧。決して好き嫌いせず、作ってくれた人に手を合わせて感謝して、たとえ米粒一粒であろうと残さないこと』と教育しているのだが、気に入らないものが出てきたら、まぁ泣くわ泣くわ。いつか、誰かが食事の大変さというやつを教え込まないとダメだろう。
 それが誰か、って? 私が知るかっ。
「……で、お好みはプリンか」
 ぐいぐいと、私のリボンを引っ張る赤ん坊。れっつごー、早く行け、という意思表示である。
 普段なら、たとえば魔理沙がこんなことをしようものなら、このまま奴を抱えて地表に向かってきりもみ急降下、奥義スクリュー巫女ドライバーを決めるところだけど、相手が赤ん坊ならそんなことはできはしない。仕方なく、言われたままに飛行速度を上げるだけだ。
「……もしかして、私って育て方が甘いのか?」
 ふと、そんな疑問が頭の中に。
 これが慧音なら、『そう言うことをしてはいけないぞ』とか何とか言ってるのかもしれない……が。
「……ダメだ、怒れぬ」
 振り向いた先に、赤ん坊の、あの笑顔があると、拳を振り上げることが出来ない。なぜだ!?
「霊夢さんだからさ……」
「帰れからす!」
「あ~れ~。」
 いつの間にか併走していた文に、接近すると同時の裏拳ぶちこみ、撃墜。ひるるるるる~……どごーん、とかいう音がしたが、まぁ、生きてるだろう。文だし。
 赤ん坊を連れて、いざゆくは太陽の丘。ひまわり一杯、鮮やかな黄色が視界に広がってきて、ますますはしゃぐ赤ん坊を抱えて、降り立つは、そこの丘にぽつんと佇む白亜の城――と言うには、規模が小さいけれど、立派な、それでいて慎ましやかな喫茶店。
「おーい、ゆーかー。来てやったわよー……って、あんた何やってんのレミリア」
「はっ!? 霊夢!?
 ……な、何を言っているのかしら、この巫女は。わ、わたしは別にレミリア・スカーレットなどという高貴な吸血鬼ではなくてよ」
「……」
「……何も聞かないで」
 自分で自分のことを『高貴』とかほざくようなあほうを、私は一人くらいしか知らないのだが……まぁ、何も言うまい。
 店の中の一角、テーブルについている、グラサンとマスクの怪しい幼女は、やっぱり同じように怪しい変身をした従者を引き連れてケーキを大量に頬張っている。と言うか、敵情視察に来たはいいものの、その味に我を忘れていた、ということだろうか。あいつも、やっぱり子供の味覚だし。
「あら、霊夢……と、ちび霊夢、来たのね」
「ちび霊夢、ってのはやめろ」
「いいじゃない、別に。見た目似てるんだし。
 すぐに持って行くから、適当なところに座っていてよ」
 店の店主が現れて、なぜか私が背負っている赤ん坊を見て笑顔を浮かべてから、店の奥へと引っ込んでいく。……そう言えば、あいつ、やけにこの赤ん坊を気に入ってるのよねぇ……。
「……咲夜、このケーキ、美味しいわ。まずいわね……いっそのこと、あいつをうちに引き抜く?」
「まぁ……私はそれでも構いませんが……。
 あの、それよりもお嬢様……」
「咲夜! わたしのことは『お嬢様』じゃなくて……えーっと……えー……んー……そ、そう! 『深紅』って呼ぶように、って言ったでしょ!?」
「……でしたら、お……深紅さまも、私のことを『従者その一』と呼ぶって仰ってましたわ……」
「……はっ!」
 ダメだあいつら。
 こっちまで聞こえるような声でひそひそ話してる二人を見て、私は思う。あの紅の館、案外、先は長くねぇな、と。
 そうしてしばらく待っていると、幽香が、私の分と思われる紅茶と、赤ん坊の分の、子供サイズプリンとジュースを運んできた。そして、なぜか、私の前に腰掛ける。
「……何?」
「べ、別にいいじゃない」
「あんた、ここの店主でしょ? カウンターに客が来てるわよ」
「ちょっとくらいいいでしょ!」
 そう言って、『美味しい? あ、よかった~』などと、スプーン片手に、口元べたべたにしている赤ん坊の頭をなでながら猫なで声を出す幽香。もう、完全に顔がとろけている。よっぽど、この子がかわいくて仕方がないようなのだが……。
「……ねぇ、幽香」
「何?」
「あんた……子供好きだったの……?」
「ばっ……! べ、別にそんなことないわよ! そ、そんな、わ、私もいつかこんなかわいい子供が欲しいなぁ、とか、そんなこと、全然思ってないわよっ!」
「……あ、そ」
 ちらりと、視線をお隣さんへ。
 怪しい幼女は目の前のケーキと格闘し、怪しい従者は、『その気持ち、よくわかるわ』と言わんばかりにうんうんうなずいていた。……そう言えば、彼女も、この赤ん坊がうちに来てから、妙に神社を訪れることが多くなってるような。
 ……幻想郷って、意外に子供好きが多いのだろうか。ちょっと意外な事実である。
「ちょっと、幽香。あんた、店の客ほったらかして何やってるのよ!」
「あ、ご、ごめんなさい。それじゃ、私、店に戻るから。美味しかったら、おみやげにあげるからね」
 と、私に言わずに赤ん坊に言う辺り、もう何というか、色々アレである。
 しかし……、
「……アリスの奴、何やってんだ?」
 本当に、最近、周りの人がよくわからない。私の知らないところで、どんどん、人の交流が変わっていくような……。
 ……まさか、私、最近流行してる『ひきこもり』ってやつか!?
「いかん……それはいかん……! そう、私だって……!」
 と、声を上げたところで。
「むぐっ」
 私の口に、プリンの乗ったスプーンの先端が押し込まれた。
 視線をやれば、赤ん坊が『美味しい?』と言わんばかりに笑っている。口の中にとろける、ほんのり甘い蜜の味。これは恐らく、幽香お得意の花の蜜を使ったお菓子だろう。うむ……実に美味。っつか、私もこんなに美味しいお菓子を作って、この子に食べさせてあげたい……って……。
「……あれ?」
 今、私、何か変なことを考えたような……。
 ……。
「ま、いっか」
 うりうり、と赤ん坊の頭をなでながら、手に持ったティーカップを傾けて。
 そうして、ふぅ、と息をつけば、こんな声が聞こえてくる。
「咲夜、おかわり」
「……お嬢さま……」
「……やっぱもうダメだな……紅魔館……」
 思わず、つぶやかずにはいられない私だった。……頑張れ、十六夜咲夜。

 一杯のお茶とケーキだけだったはずが、幽香が『これ、サービスだから』と、私ではなく、赤ん坊にプリンを追加で持ってきたりするものだから、一時間程度の滞在が三倍近くになってしまい、帰ろうかと思った時には周囲の気配が変わってしまっていた。
「雨、か……」
 ぽつぽつと、空の雲から落ちてくる水滴。それほど勢いは強くないものの、飛んで帰るのなら間違いなくぬれる。私ならいいんだけど、背中にいる赤ん坊には、ちょっと不安な天候だ。店の中で、「どうしよう、咲夜!?」って騒いでるお嬢様はさておいて、赤ん坊って、やっぱり病気とかへの耐性は私たちに劣るだろうし、雨が降って風が吹けば気温も下がり、風邪だって引いてしまうかもしれない。
「困ったなぁ」
 全く、私の悩みなど気にすることもなく、ぐいぐい私のリボンを引っ張る赤ん坊にちらりと視線をやって。
「ねぇ、幽香。ああ、アリスでもいいけど、何か雨具貸してくれない?」
「いいわよ。傘がそこにあるから、好きなの持って行って」
「ちょっと、アリス! あれ、私のよ!」
「あの二人が、ぬれて風邪を引いたら大変でしょ」
「……くっ……。霊夢はさておき、ちび霊夢は……確かに……」
 をい待てこら。
 さりげない幽香のセリフに、片手に針を取り出して投げつけそうになったが、この子の前では乱暴ごとは控えなくてはと言う、よくわからない自制心が働き、私は手にした針をしまうと、店の入り口の傍らにいくつも並んでいる、ど派手なピンク色の傘を一本取り上げた。
「んじゃ、これ、借りるわよ」
「ええ。次に来た時、返してあげてね」
「はいはい。
 っつか、あんたら、仲いいなー」
「色々とね」
 アリスの曖昧な返事は聞き流して、傘を片手に、私は空へと舞い上がる。
 気をつけてねー、という下からの声は幽香のもの。もちろん、声をかける対象は私ではあるまい。……あやつめ、どうしてくれよう。
「しっかし、雨なんてついてないわね」
 頭の中で、幽香抹殺計画を練りながら、一人……いや、二人、空を行く。
 背中の赤ん坊は、どうやら、空を飛ぶことが好きらしく、こうして空中に浮かんでいるだけで騒がしさは120%増し。暴れると危ないと言っても聞く様子もなく、リボン引っ張るわ髪の毛いじくるわ、もう好き放題やらかしてくれるのだ。これが魔理沙なら、問答無用で地面めがけて放り投げてやるところだが、相手が相手のため、なーんにも出来ないのである、これが。
「子育てのジレンマ、ってやつ?」
 何か違うか、と自分で結論づけて。
 ただひたすら飛び続けた先に、我が住まいが見えてきたのは、それからしばらく後のこと。当然、雨の中を飛んできたため、普段よりも飛行速度が落ちているから、かかった時間は普段以上。ただ、そんなことを感じることもなく、私は境内に降り立つ。その理由はと言うと、赤ん坊が、相変わらず騒いでいるから。
「おーい、魔理沙ー。境内の掃除、終わったー?」
 雨は小雨から、いよいよ本降りになり、石畳を叩く音がやかましいほど。もちろん、こんな中で、私は、いかにあやつといえども境内の掃除をやれとは言わない。ちゃんと傘を差してからやれと言うつもりである。
 境内に響く、私の声に返ってくるものはなし。見れば、あいつの頭を直撃していた竹箒は、神社の縁側に立てかけられており、ぽつんと、何だか寂しさを漂わせていた。
 雨が降ってきたから、サボって帰った、というところだろうか。
 まぁ、それならそれで、あとであいつの家に押しかけて、心ゆくまで夢想封印ぶち込むだけである。
「……ま、急いで中に入りましょうか」
 立っているだけで足下はぬれる。当然ながら、私だって、体が濡れるのは好きではない。足早に母屋へと向かい、入り口をくぐって、ふぅ、と一息つけば、玄関口には見慣れた靴。
 ははーん、と、ぴんときた。
 なるべく足音を立てないように、ついでに言えば、赤ん坊にも静かにしているように言ってから、家の中を歩きつつ。向かう先は、当然、お風呂場。
「……やはりな」
 がらっと開けた脱衣場への入り口の向こうには、見慣れた服が洗濯物入れの中に突っ込まれていた。そして、引き戸を一枚、隔てた向こうからは水音が。
 私は、赤ん坊の服を脱がしてから、一気に引き戸を開け放つ。
「ほい! 任せた!」
「おいちょっと待て!?」
 がらっ、ぴしゃん!
「外を飛んでぬれたから。しっかりあっためてあげてねー」
『おいこら霊夢! それはママの仕事であって、私の仕事じゃ……あーもー髪の毛引っ張るなー!』
 これでよし。
 勝手に人の家のお風呂を使っていた罰である。たっぷりと、魔理沙には赤ん坊の世話をしてもらうことにしよう。
「さて、お茶でも淹れましょうか」
 私も、大きめのタオルを片手に家の中に舞い戻り、自室のタンスの中から着替えを取りだし、濡れた衣服を着替えて一息。そうしてから、それを洗濯場へと戻して、お茶の用意。これを終えて、居間へとやってくれば、魔理沙が卓についてふてくされている。その彼女の後ろでは、相変わらず、彼女の髪の毛をいじって遊んでいる赤ん坊。
「いいわねー、魔理沙。好かれてるじゃない」
「育児放棄だぜ」
「ま、そう言うな。ほれ、お茶を淹れてやったぞ」
「まんじゅうは?」
「あってもださん」
 しみったれてるぜ、とぶつくさ文句をつぶやきながらも、出されたものは片づけるらしい。
 赤ん坊をちょいちょいと手招きで呼んで、彼女には、あったかいミルクを。充分に乳離れしているから、もちろん、中身は牛乳である。
「そういや、慧音から何か連絡は?」
「あると思うか?」
「何よ、ふてくされて。いいじゃない、子供は子宝なのよ」
「ものは言い様ってのは、本当に便利な言葉だぜ……」
 ま、そう腐るな腐るな。
 彼女に笑いかけて、赤ん坊を抱きながら、お茶を一口。出がらしだけど、まだまだしっかり味と香りは残っている。我が博麗神社の家訓、『何でもしっかり、残さず使う』。これ鉄則ね。
「んで? ちび霊夢は、今日も一日、ご満足か?」
「この顔見たらわかるでしょ」
「……そりゃそうか」
 世の中、百聞は一見にしかず、と言う言葉があるのだ。実に、昔の偉い人は便利な言葉を開発してくれたものだと思う。
 ちらりと、壁の時計に目をやれば、時刻はそろそろ夕方へとさしかかる。晩ご飯の用意をしなければならない頃合いだ。赤ん坊が来てから、私の調理時間は格段に増えているのである。
「魔理沙。今日、あんたどうする?」
「あー、泊まってくぜ。この雨の中、帰る気が起きない」
「宿代」
「だが断る」
「ちっ」
 それじゃ、とばかりに魔理沙に赤ん坊の世話を押しつけて、私は立ち上がる。魔理沙が、「こらー! 育児放棄するなー!」とわめくのだが、知ったことではない。赤ん坊を背中に背負ったままでは、包丁を握るのも怖いのだ。よろしくねー、と彼女に手を振ってから、私は、実に意地悪な笑顔を浮かべてそこを後にする。
「さーて、今日は何を作りましょうか」
 うちにある食材なんて限られているのだが、そこは私、博麗の巫女の力を持ってすれば、たった一つの食材からありとあらゆる料理ができあがる!
 ……誰だ今、『それ単に貧乏くさいだけだろ』って言った奴。
 ……違うとは言わないけどさ……。

 魔理沙を対面に置いて、間に赤ん坊挟んで寝ること、およそ八時間。ちなみに就寝したのは夜十時。相変わらず、普段の私たちなら飲んだくれて、挨拶代わりにスペルカードが飛び交っている頃である。
 朝、目を覚ましてみれば、外からは日差しが入り込んできていた。障子を開けて、外の光と空気を取り込めば、実にすがすがしい朝の匂いが胸一杯に広がっていく。雨はやみ、地面は、少しぬかるんでいるものの、いつもの色を取り戻している。
「おいこら魔理沙、それに、あんたも。起きた起きた」
「うお~……ね、ねむてぇ~……」
「何、夜行性動物みたいなこと言ってんの。起きないと、口の中に陰陽玉突っ込むわよ」
 枕に突っ伏して呻く魔理沙を蹴り起こし、彼女の頭をひっぱたいてから、赤ん坊を軽く揺さぶる。
 ――ところが、反応なし。
 おかしいな、普段なら、これで目を開けて、いきなり騒ぎ出すはずなんだけど。
「おーい、魔理沙。ちょいとこの子、起こしておいて。朝の目覚めの道具になる、特別濃いお茶を淹れてくるから」
「……あいよ」
 私、博麗霊夢の朝は、一杯のお茶から始まる……。
 というか、我が神社の飲み物の基本は水かお茶かお酒なのだ。よく考えたら、結構、これって健康的なラインナップじゃなかろうか。少なくとも、どこぞの紅の館みたいに、人間の血をカップに入れて出されるよりはマシなはずだ。
 お茶を用意し、寝室に舞い戻り、「持ってきてやったわよ」と、私は魔理沙に声をかけた。しかし、彼女から返ってくるのは、少々、私の予想したのとは違う答えだった。
「おい、霊夢ママ。お前の子供、熱があるみたいだぜ」
「だから、その子は私の子供じゃないっつーのに」
 言われて、赤ん坊のそばに膝を降ろして、そっと、その額に手をやれば、確かにちょっとだけ熱かった。昨日、雨に打たれたのが、やっぱりこたえたのだろうか。
「どうする?」
「ん~……風邪を引いたのかも。確か、永琳からもらった風邪薬があるから。それを飲ませておくわ」
「あれ、大人用だろ? 赤ん坊にはいいのか?」
「量を減らせばいいんじゃない?」
 一応、分量とかを記したメモ書きももらっているのだ。なぜだか、あの医者は、そういうところには律儀なのである。
 部屋の片隅にある薬棚からそれを取り出して、改めて用意した水と一緒に、赤ん坊に。
「飲める?」
 粉薬は、赤ん坊にはきついだろうと思ったが、彼女はきちんとそれを飲み干してくれた。うむ、いい子。
 あとはまぁ、ほったらかしておいても大丈夫だろう。一応、あの医者は、まぁ、色々全幅の信頼を置くには危険かもしれないけど、医学の腕や知識に関しては確かだ。
「魔理沙。その子、布団に入れてあげて。私、ご飯を作ってくるから」
「ああ」
「熱を出してる赤ん坊にいい食事って何だっけ?」
「パチュリーからもらった育児本に書いてあるんじゃないか?」
「そうね。まぁ、書いてなかったら慧音を呼びましょ。
 ……心配する必要もないと思うけど」
 薬が効いてきたのか、一度開けた目を閉じて、赤ん坊がすやすやと寝ているのが目に入る。あの分なら、昼頃には熱も下がって、また、魔理沙の髪の毛引っ張って遊んでいることだろう。そんなに心配する必要はないかもしれない。
 とはいえ、基本的に、病気というやつは食べなきゃ治らないものである。ご飯だけは、いつでも、あの子が食べられるように整えておかなくては。
「……うーむ。子育ての大変さってのが、身にしみてわかるなぁ」
「そうだなぁ」
「殴るわよ?」
 けっけっけ、と笑う彼女に向かって、必殺、ロケット巫女クラッシュを決めてから、私は寝室を後にしたのだった。

 ところが、である。
 昼を迎え、目を覚ました赤ん坊の目は、相変わらずうつろだった。とりあえず、彼女にご飯を食べさせるのだが、スプーン一口を口にしただけで終わりとなり、普段の元気はどこにもない。
「薬、きかなかったのか?」
「私に聞かれても……」
 この様子を見る限りじゃ、そうとしか見ることは出来ないのだが。
 とりあえず、本を片手に、赤ん坊が病気になった時、どうするべきかを調べて。結局、病院に連れて行くのが一番だと判断したのは、それから十分も経たないうちのこと。しかしながら、病気の赤ん坊を背負って空を飛ぶのは彼女にも負担が大きいと言うことで、どうしたものかとひたすら悩む。そんな折、母屋の玄関が叩かれた。
「あ、はーい」
 声を上げたというのに、どんどん、と叩く音は止まらない。
 またレミリアか誰かだろうか、と思いながら、札を片手に引き戸を開ければ、そこに立っていたのは慧音だった。
「あ、け……」
「霊夢殿、赤ん坊は?」
「あ、えっと……ごめん、ちょっと体調を悪くしていて……」
「……そうか。
 先の、あの子の両親の話だが――」
 なぜか、彼女は血相を変えていた。普段の彼女らしい、頼りがいのある姿はどこにもなく、焦りの色だけを顔に浮かべている。
 一体、何があったのか。あの慧音が、ここまで取り乱すのは、久しく見てなかったような気がする。
「二人を知る人間に話を聞くことが出来たよ。それに、彼らも……あまり、いい結果ではないが、見つけることが出来た」
「いい結果じゃない、ってのは?」
「あっちで、死体を見つけたということだ」
 あっちで、で彼女が示したのは、我が神社の左手の山奥。ここから歩いて一日ほど行ったところで、首をつった夫婦の死体が見つかったとのことだった。
「……無責任な話ね」
「まぁ……そうだろうな。
 ただ、彼らを知る人間の話では……以前も言ったが、世の中には、富めるものと貧しいものがいる。彼らはその後者に属していた」
「で?」
 知らず知らず、自分が不機嫌になっていることを自覚する。
 それが、何で自殺なんかしたんだ、と彼らをとがめるような意識からではなく、子供がいるのにどうして死んだんだ、という、理不尽なものに対する怒りだと気づいたのは、冷静な自分が、私に注意を促したから。何で、『私』はそんなことをしたのか。
「それこそ、明日を生きるのにも難しいほどの貧困ぶりだったそうだが、近所づきあいはよくて、周りのもの達との仲もよく、生活には……確かに困ってはいたものの、充実した毎日を送っていたそうだ」
「……ふぅん」
「子供も出来て、これから、きっと幸せになれる――そう思っていた矢先のことだったそうだ」
 慧音の唇が、小さく動く。
 ――あの赤ん坊が、生まれつき、病気を抱えていることを知ったのは。
 彼女は、そう言った。
「……え?」
「長くもっても二年か三年と言われたらしい。
 夫婦は絶望した。それまで、どんな苦しいことや悲しいことがあっても、一生懸命乗り越えてきたのに、言うなれば、自分たちの『未来』を象徴するような、自分たちの子供に未来がないことを知ってしまったからな」
「……それで……?」
「ああ、恐らくは……だが。
 ただ、子供の命を奪うのは忍びない――そう思って、後先長くない命をどうにかして生きてもらおうと思って、霊夢殿のところに赤ん坊を捨てたのだろう。当人達の気持ちなど、今の私には知るよしもないが……その思いがあったとしたら、それはよくわかるよ」
「ち、ちょっと待ってよ。えっと……永琳とかには、相談は……」
「彼女のことを知る人間など、そう多くはない。確かに、昨今は人との関わりが、あの屋敷は活発になっているようだが、それもまだ微々たるものだ。私がその話を聞いていれば、彼女を紹介したのだが、時すでに遅し……といったところか」
 ちょっと待て。
 それじゃ、これって、一体どういうことだ? 私は今、何をしているんだ? ちょっと待て、考えろ、考えるんだ、私。私は……、
「とにかく、赤ん坊の様子を見せてくれ。早く!」
「あ、う、うん」
 堂々巡りに陥りそうだった思考が、慧音によって引き戻される。私は彼女を連れて母家の中に舞い戻り、赤ん坊を寝かせている寝室の戸を開けた。そこで、赤ん坊を見ていた魔理沙が「な、何だ? 騒がしいな」と声を上げる中、慧音は赤ん坊のそばに膝を折り、彼女の様子を子細に観察した後、小さく舌打ちをする。
「しかし、世の中には不思議な病気もあるものだ……。昨日まで元気だったのに、というやつか……」
「は?」
「霊夢殿、永遠亭に」
「り、了解。ほら、魔理沙、急ぐわよ!」
「あ、ああ。永琳に見せに行くのか? まぁ、それは妥当……」
「いいから、ほら!」
「うあだだだだだだ! み、耳引っ張るなー!」
 何で、自分はこんなに焦っているんだろう、と自分に尋ねる。
 確かに、あの赤ん坊とは何日も一緒に過ごした間柄だ。しかし、しょせんはその程度なのである。別に何年も一緒に暮らしていたというわけではないし、もちろん、私がお腹を痛めて産んだ子というわけでもない。言うなれば他人だ。
 しかし、なぜだか、真っ当な思考が出来なかった。
 とにかく、一刻も早く、この子を医者に診せなければ。そう思っていた。つくづく、自分はおかしいなと、どこかで冷静に私を観察している自分がいた。そんなことを認識できる自分が、たまらなくいやだった。
 ――全速力で空を飛び、永遠亭に「急患です!」と駆けつけたのは、それから二時間も後のこと。
 にわかに慌ただしくなるうさぎ達。そして、案内されたのは、全幅の信頼は置けないけれど、医学に関しては、技術も知識も超一流の医者の元。
「――というわけだ。永琳殿、何かわかるか?」
「ちょっと待っていただける?
 鈴仙、そっちの棚にナンバー十九の本があったでしょ? それを持ってきて」
「は、はい」
「あとそれから、栄養剤とかが必要になるから。点滴の準備を」
「わかりました」
「ちょっと、永琳」
「お静かに」
 永琳は今、ウドンゲのことを『ウドンゲ』ではなく、『鈴仙』と呼んだ。彼女が、自分のかわいがっている弟子をこう呼ぶ時は、何某かの『事態』がある。彼女の顔は、いつものようにおっとりとした顔つきではなく、厳しく引き締まっている。
「お、おい。何がどうなってるんだ? ただの風邪じゃないのか?」
 一人、事態を理解できないでいる魔理沙が、まさしく目を白黒させている中、永琳の指示の元、赤ん坊への処置が行われていく。
 正直、私の目から見て、何が何やらさっぱりわからない。やれ、何々を持ってこい、だの、これこれをしておけ、だの。飛び交う専門用語の数々を、理解しようとする意識が停止する頃、永琳の視線がこちらを向く。
「こう言っては何ですけど、興味深いサンプルですね。一種の遺伝子病といったところでしょうか」
「いでんしびょう……って、何?」
「簡単に言えば、生き物を形作る情報が、一部、欠損していると言うことだ。つまりは、並の医者には手の施しようがないと言うことになる」
「はぁ!? ちょっと待ちなさいよ、慧音! あんた……!」
「霊夢さん。ここは病院です。お静かに」
 お静かに、と言われるのはわかりきっていた。そもそも、何で自分がこんな大声を上げてしまったのかを理解することが出来ない。
 なぜだか、冷静でいられない自分がいる。そんな自分を見つめて、理解の範疇を飛び越えてしまった現実を認識する自分がいる。
「それで、永琳殿」
「以前、何度か同じ病気の患者を診たことがあります。もっとも、ここに来る前ですが。そう、大事になることもないでしょう。
 とはいえ、これまで診てきた患者は、みんな大人でしたので、子供の患者は初めてですが」
「そうか。なら、この子は助かるのか?」
「私を誰だとお思いで?」
「――だそうだ。霊夢殿」
「あ、そ、そう……」
 これも、大山鳴動してネズミ一匹?
 永琳の、『私なら治せます』の言葉に、なぜか、足から力が抜ける。だが、同時に思う。そりゃそうだ、永琳は、不老不死の薬まで作ってしまうような人間なんだ、って。
 私たちにはどうしようもない、この子の両親が未来に絶望するような事態だって、簡単にどうにか出来てしまうような人間なんだ、って。
 知っていたはずなのだ。
 なのに、何でこんなに不安なのだろう。何で、こんなに赤ん坊のことが心配なんだろう。
「鈴仙。いつものところから、二十七番の薬を」
「あれですか? 確か、あれは……」
「いいから持ってきなさい。早く」
「は、はい! ごめんなさい!」
「しばらくの間、病状の経過観察をさせてもらいます。その間、この子はうちで預かりますが、よろしいですか?」
「ああ、私は……」
「わ、私も一緒にいるわ」
 その言葉を発したのは、私、博麗霊夢だった。
 は? と、自分で自分の言葉に首をかしげる。
「……あれ? 今、私、何て言ったの?」
「お前、何言ってんだよ。自分もここにいる、って……」
「え? ……あれ? 私が? 何で?」
「私が知るかい」
 変なことを言う奴だな、と魔理沙が言った。
 ……そうか。そうだよな。変な奴だよな。自分で自分の言ったことの意味がわからずに、関係のない人間に、『私は今、何をしゃべったのでしょう?』なんて。頭のおかしい人間と思われるような言動だ。
「……あれ?」
 何で、私は今、そんなことを言ったのだろう?
「鈴仙。それから、そっちの棚から二のラベルが書かれた瓶を持ってきて」
「はい」
「あと、注射針を。一番細い奴で」
「師匠、あれは先日、全部使って……」
「なら、すぐに洗って持ってきなさい。わかった?」
「は、はいぃ!」
「霊夢殿」
 肩を、慧音に叩かれた。
 振り向いた先に、彼女の顔がある。彼女は、小さく、首を左右に振った。そんな彼女に引っ張られる形で、私は、魔理沙と一緒にその部屋を後にする。障子が後ろ手に閉じられて、途端に、なぜか肩から力が抜ける。
「霊夢殿」
「な、何よ?」
「任せるよ」
「何……を?」
「やれやれだぜ……。何だよ、この茶番は」
「魔理沙殿、そう言うな。人には、それぞれに理由がある。霊夢殿にだって、それがあった――ただそれだけさ」
「根無し草の浮き雲のくせにな」
「じゃあ、霊夢殿。私は、彼女の両親の葬儀に参加してくる。正直、こんなにあっさりと、肩の荷が下りるとは思わなかったよ」
 さすがは永琳殿だ。
 慧音は、魔理沙を伴って踵を返す。去り際に、魔理沙は、私の肩を叩く。「まぁ、ママだもんな」。彼女のその一言で、私の中の疑問がピークに達したのは、言うまでもないこと。

 赤ん坊の病気は、一般的な医者の見地や私たちから見れば、それこそ大騒ぎした上に絶望するにふさわしいものであっても、月の頭脳と呼ばれた天才の前には、それこそ赤子の手をひねるくらいにちょちょいと片づけることが出来るものだった。本当に、それだけの事実。認識しちゃえばそんなもの。あっさりと、事態は解決の方に向かっていって、私たちが騒いだのは、一体何だったのだろうと思えるくらいに。
「……私もここにいる、か」
 赤ん坊は、現在、二十四時間、うさぎ達の管理下に置かれた状態で、すやすやと、気持ちよさそうに寝ている。彼女の手には点滴の針が刺さっていて、ぽたぽたと落ちる雫が、まるで時を刻むかのよう。
「……あんた、ぜーんぜん、大丈夫なんだってさ」
 ベッドに寝かせられている赤ん坊の頬をぷにっとつつく。彼女は、むにゅむにゅと口を動かして、右手を軽く私の方へと寄せてきた。それを取って、軽く、握る。
「なーんだって、私、あんたなんかのためにこんなに騒いだんだろ」
 この子が、私の手に預けられると聞いた時、まず最初に思い浮かんだのは『何で私が』だった。
 何で、私が、あんたなんかの面倒を見なきゃいけないのよ、と。そう思ったのが、本当に一番最初。正直に言えば迷惑だったし、魔理沙達から『ママ』扱いされるのがうっとうしかった。
 私にだって結婚相手を選ぶ権利はある。恋愛をする権利もある。それこそ、子供を産む権利だってだ。
 それら全てをないがしろにされて、全く見ず知らずの赤ん坊を相手に、『母親』扱いされるのが、正直、いやだった。本気で迷惑したのだ。
 ……なのに、この子は私になつくしさ。
「ちびれいむー、か」
 未だに彼女の髪の毛をまとめるリボンをいじる。
 確かに、こうやって見ると、この子、私に似てるかもしれない。単に、黒髪黒目ってだけなんだけど。それなのに、何となく、髪を結んだだけで印象が私に似てきてしまうのは不思議なものだ。
 ちび霊夢、ね。
 ま、悪くはないと思うわ。ほんと。この子の名前もわからないんだし、どんな名前をつけようとも、この子にとっては『それだけのこと』なんだし。それに、この年頃の赤ん坊の記憶なんて曖昧なものだ。きっと、この子は、大きくなったら全部忘れてしまうのだろう。こんな風に、私たちのところで大騒動したことや、私たちにかわいがられたことなんて、きっと、きれいさっぱり。
「そんな曖昧な記憶なんだから、名前も曖昧で問題ない、か」
 まぁ……そんなもんなのよね。結局は。
 そんなに心配することでもなければ、気にすることでもない。この子が、別にどうなろうとも。覚えてない記憶に、一体、何の価値があるというのだ。
 ……バカらしい。
「あー、何かバカらしい」
 私は肩をすくめると、踵を返す。
 ここ、永遠亭の医療設備は完璧である。何せ、この子の、ある意味では不治の病も治せる医者がいるのだから。私がいなくたって関係ない。
 ――そう結論づけて、帰ろうとして。
「……」
 私は、帰れなかった。
 先ほど握った、彼女の手が、私の手をしっかりと握り返している。その小さな手が握るのは、私の指を何本か、なのだけど。
 それなのに、軽く引っ張ったくらいでは彼女の手は離れなかった。それどころか、ますます強く、私の手を握りしめてくるのだから。この手の持ち主が誰かなんて知らないくせに。わかるはずもないのに。
 この手の持ち主は、別に、私でなくてもいいはずなのに。
「あんた、将来、ずるがしこい女の子になりそうね」
 それでこそ、ちび霊夢なのかもしれないけど。
 世渡り上手というか、要領がいいというか。……どっちも、意味は同じか。少なくとも、この子は、将来、生きて行くに当たって、特に何か問題を起こすこともないだろう。それこそ、軽く、ひょいひょいと、まるで根無し草か浮き雲のようにこなして行くに違いない。
 それこそ、まるで私のように。
「霊夢さん。私たちが見てますから、お疲れならお布団を用意しますよ」
「いいよ。少しここにいる」
「はい」
 後ろからかけられる声に、その声の主に振り向かないまま。
 私の、もう片方の手は、実に気持ちよさそうに、幸せそうに眠っている赤ん坊の頭をなでていたのだった。


「いやー、しかし、よかったな。霊夢」
「何がよ?」
「引取先が見つかってよ」
 後日。
 無事に、永遠亭を退院した赤ん坊を神社に連れて帰り、さらに数日。その間に、慧音が、赤ん坊の引取先を見つけてきてくれていた。彼女を引き取ると名乗りを上げたのは、この子の両親が住んでいた村で、その両親と、一番、懇意にしていた家族。不幸なことに、なかなか子宝に恵まれず、悩んでいたと言うことだった。
「ま、そうね」
 今、その家の奥さんがうちに来て、慧音にあれこれとお言葉を賜っている。すでに赤ん坊は、彼女の手の中に。ちなみに、旦那さんはお仕事で忙しいそうな。
「散々、迷惑してたもんなぁ」
「全くよ。勝手に親扱いされるわ、毎日毎日、あれこれ忙しいわ」
 これで、のんびり出来るというものだ。うむ。博麗神社の怠惰な日々よ、私は帰ってきた!
「それじゃ、霊夢殿。赤ん坊は――」
「あー、いいわよいいわよ。その子、元気に育ててあげてね」
 はい、とうなずいた、『彼女の母親』が、私を見てぺこりと頭を下げた。その子の腕に抱かれた赤ん坊は、今の自分の状況がわかっているのだろうか。
 ……ま、何にもわかってないだろうなぁ。あんなに楽しそうににこにこ笑ってるんだし。
「大事にしてあげなさいよ。子供は子宝なんだからさ」
「おー、よく言うぜ」
「はっ!」
「はぅあっ!?」
 よけいなことをつぶやく魔理沙の土手っ腹に巫女キック。ずざーっ、と吹っ飛んでいった彼女は、そのまま、ごつん、と神社の石段に頭ぶつけて沈黙する。
「では、私は彼女たちを村まで送り届けてくるよ」
「はいよー。
 それじゃ、気をつけてね。道中、……まぁ、慧音がいるから大丈夫だと思うけどさ。その後も、色々とね」
 私は彼女たちに手を振って、片手にしていた竹箒を構えた。思えば、赤ん坊が来てから、まともに境内を掃除していなかったような気がする。何せ、彼女の世話で忙しいことこの上なかったからだ。
 まぁ、指で折って数えるのは難しいけれど、それでも長くはない子育ての日々……楽しいと言えば楽しかったかもしれない。色々と新鮮で。
 たまには、まったりゆったりした私の生活にも刺激がなくてはいけないだろう。何せ、怠惰な日常は脳をボケさせると言うからだ。しかし、怠惰な日々は私の理想でもあるわけで……悩むわね。
「それでは、この子は、私たちがしっかり、責任を持って育てます」
 後ろからかけられる声。私は振り向かず、「しっかりねー」と声を上げて。
 それから、のんびりと、掃き掃除を始めた。今日は、この後はお茶を飲んで縁側でゆっくりして、久方ぶりの昼寝もしよう。それで、起きたらいつも通りに夕食にして、そして、お久しぶりの宴会でも。このところ、毎日早寝だったから、たっぷりと夜更かしをして。今日くらいは、後かたづけをしなくても……多少は大目に見るけど、度を過ぎたら夢想封印間違いなし。
 ま、そんなこんなで、いつもの私の日常に戻るのである。うむ、よきかなよきかな。
「ままー」
 ――そんな声が聞こえたのは、きっと気のせい。
「またねー」
 気のせいだ。空耳。ただの。
 遠ざかっていく声は、元から、そこにはなかったもの。気にしちゃいけないもの。そう……気にしちゃいけない、絶対に、気にしちゃいけないんだ。
「……くっそー」
 じわりとにじんだ世界。ぽたぽたと、雫が落ちる。
 私の周りだけ、今日は雨が降っている。ぬぐってもぬぐっても、絶対にぬぐいきれない雫が、ぽたぽたと、ぽたぽたと、服の上に落ちて染みを作っていく。
 何だって、こんな厄介な雨が降るんだ。今日の青空は、私を油断させるための布石ってやつか。
「私はママじゃないっての」
 遠くから、もう一度だけ響く、『ママ』の声に。
 私は思いっきり、空を仰ぎ見てやった。
 憎らしいくらいに澄み渡った青空が、いつまでもにじんでいる。浮かんだ白い雲は、私にとって、今日一日、雨雲であり続けるのだろう。たまにはこんな天気雨の日もある――そう結論づけて、私は、掃き掃除を再開したのだった。


「雨なんてものは、すぐにやんでしまうのにね」
「天気雨は、本当に一瞬だけ、ざっと降って。あとに残るのは、きらきらの水滴と鮮やかな虹だものね」
「そういうこと」
「ところで、今回は、どうして何もしなかったの?」
「見ている方が楽しいもの。それに、うちの子は、あれくらいじゃへこたれないわ」
「あら。あの子はあなたが産んだわけじゃないでしょうに」
「私が産んだのよ。お腹を痛めて」
「うふふ、そうなの?
 よーむー、お茶のお代わりー」
「妖夢、私にもね」
「はーい!」

 遠くで響く、そんな声が彼女に届いたかは定かではないものの。
 雨の次には虹が出る。それは絶対に、間違いのない事実――。
ネタが出ないネタが出ないと苦しんでいる間に前作品集が終わってしまいました……。
一作品集に最低一つは! と目標立てていたのですが、ついにとぎれた我が誓い……OTL
ならば逆に考えるんだ、これから全ての作品集に一つは投稿していけばいいんだ、とJ卿に励まされ、頑張ろうと誓いました、以上、終わり。

紅魔館が、もういい加減ダメな方向に傾きつつある中、ゆうかりんが頑張って勢力を盛り返している昨今です。
つまり何が言いたいかというと、こーりん頑張れってことだ!
ところで、霊夢がママならパパは誰になるのかしら。
haruka
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コメント



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1.60設楽秋削除
話的に面白かったです
オチはセオリーっていうか、まぁ、予想通りでしたが。
霊夢が赤ちゃんを。というのが面白い発想で。
紫とか、幽香が拾ったら意外な反応しそうで…とか、連想してしまいました。
後、文章の改行をするかどうかで、読みやすさも格段と違ってきます。
まぁ、自分は上手くないから言えないですが、読みにくかったけど、物語に読ませるチカラがあって、すんなり文章が入ってきました。
それと、
……くそー、幽香カワイイな。
3.90名前が無い程度の能力削除
上手い表現が浮かびませんが、良い作品でした。
4.70名前が無い程度の能力削除
良いお話でした。
5.80名前が無い程度の能力削除
良いお話でした。ラストはちょっと泣きそうになった。
さりげに空気読めるちび霊夢に乾杯!幸せになってほしいものだと。

二次設定だと友達いないとされることが多いアリスが、同様の扱いの多い幽香の喫茶店に協力してるってのが個人的に嬉しかった。
7.100名前が無い程度の能力削除
感動した。以上
8.90韶賀齏削除
序盤ユニークな展開でしたが終盤になるにつれ感動してきました。
普段は絶対に見られない霊夢達の行動が上手に書かれていて面白かったです。
11.80名前が無い程度の能力削除
魔女っ子の道を歩み出してからレミリア様のカリスマが急下降中だ(つД`)

あとセオリー通りながら泣かせに来る、その文才は相変わらずですな。
ライトな読み口に読みやすさも抜群。

あと投稿間隔、自分なんか一回目以降投稿してませんぜ(汗)
12.90三文字削除
最近、可愛い幽香が多いなぁ
とにかく良いお話でした。
ちび霊夢が、将来博霊の巫女になる姿を幻視したのは俺だけ?
14.90名前が無い程度の能力削除
良いお話でした
結構不思議な気分になれましたね

次作品以降も期待してますw
18.100名前が無い程度の能力削除
「くっそー」の一言で涙がホロリの大変すばらしい作品でした^^確かにベターだけど感動しました^^これからも期待してます^^
25.100n削除
いやはや、いい話でした。
霊夢の少しずつ変わっていく想いが見て取れて、おもしろかったです。


このゆうかりんは間違いなく俺の嫁。
27.100時空や空間を翔る程度の能力削除
久々に心捕られた作品でした。
霊夢はきっと素敵な母親に成れますね。
間違いなし!!
28.60床間たろひ削除
うん、面白かった。
スレている霊夢の一人称だからこそ、ラストが活きてくるというか。ラストの下りには少し涙腺が緩みました。
個人的な幻想郷観の違いから受け入れ難い部分はありますが、全体的なトーンが統一されていて、harukaさんの中の世界観できっちりと構成されているが故に素直に楽しめました。
また一人称とはいえ、台詞と独白に頼りすぎな面も見受けられますが、この話ならそれもありかと。
ただ逆に無駄というか、書きすぎてテンポを崩している言い回し等も多数見受けられましたので、削るべき部分を削ればもっと読みやすくなったかもしれません。所詮個人の感想なので、正解なんてありませんけどw
期待しています。これからも頑張ってください。
39.90名前が無い程度の能力削除
あっはっは、何を言っているのだねharuka君
どこからどうみてもパパは魔理沙ではないかね
43.100名前が無い程度の能力削除
前回のに出てた幽香の喫茶店か……
経営者幽香なのにアリスの方が立場上そうなのに笑た。
いいなぁ行ってみたいなぁ……


それはそれとして、ちび霊夢が次期博霊の巫女になるのかと思った。
47.90名前が無い程度の能力削除
霊夢が、うたわ○のウル○リィみたいになり、魔理沙がカ○ラ役をやる所を幻視した俺は腐ってるな…
48.90蝦蟇口咬平削除
霊夢がいい味でした
そして魔理沙の帽子・・・ククク
49.100名前が無い程度の能力削除
最高でした
ゆうかりんのプリン食べたいのですぁぅぁぅ!
51.90名前が無い程度の能力削除
幽香のツンデレ具合が程よくてすばらしい。
しかし、あれだけなつかれてた魔理沙がラストで気絶したままって…。
52.80固形分削除
みんなツンデレで可愛いなあw
微笑ましい良い話、御馳走さまでした。
58.100名前が無い程度の能力削除
貴方の幻想郷世界が大好きだ!
ツンデレ率高いよw中でも幽香最強!!
ちび霊夢が将来博麗の巫女になるのかな~なんて妄想したw
62.100読み解く程度の能力削除
素晴らしい!!大変素晴らしかったです。
読後、思わず拍手してしまう程でした。
自分の中での、何事からも中庸だけど内には熱いものを秘めている霊夢のイメージにぴったりで感動さえ覚えました。
仕舞いには母性本能さえ疼き出す霊夢に涙。
これからの作品にも期待しています。
66.100名前が無い程度の能力削除
やばいよこれは。涙腺にくる。ちび霊夢可愛いなぁ。こやつが14代目になったら面白いなぁw
永琳薬師がかっこよすぎですよ!惚れた。
81.100名前が無い程度の能力削除
お約束なオチはそこに至る過程のよしあしが大事だと思います。
よしよしすぎるぜ。
100.100名前が無い程度の能力削除
これはいいね
111.100名前が無い程度の能力削除
良い
115.100名前が無い程度の能力削除
最高です!それ以外賛辞の言葉は無い